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受賞者発表! 2024年度(第5回) SDGs「誰ひとり取り残さない」小論文・イラスト コンテスト

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2024年度 第5回 SDGs「誰ひとり取り残さない」小論文・イラストコンテストの結果を発表します。本コンテストは、若者がSDGsの理念に基づき、自らの視点で社会課題を考え、その声を社会に発信することを目的としており、今回は過去最高の合計729作品(イラスト部門50作品、小論文部門679作品)の応募をいただきました。

応募作品の多くは素晴らしく、審査は非常に僅差での評価となりました。わずかの点数差で受賞には至らなかったものの、独自の視点や深い洞察に富んだ作品が多数あり、どれも「誰ひとり取り残さない」社会を考える上で価値のあるものばかりでした。

小論文部門では、「不登校」「場面緘黙」「医療的ケア児」「ジェンダーアイデンティティ」「帰国子女のバイアス」など、多様な視点から社会の現状を見つめ、取り残されがちな人々の声を伝える作品が受賞しました。
関口桃子さんの『不登校は悪ですか?』は、不登校に対する社会の固定観念を問い直し、学校以外の選択肢の必要性を訴えました。また、若山優希さんの『わたしの「声」』は、場面緘黙症という自身の経験を通じて、声なき声を拾う大切さを伝えました。

イラスト部門では、視覚的に強いメッセージを持つ作品が多く、宮本薫子さんの『思い続ける美しい記憶』は、奪われていく大切なものに焦点を当て、私たちが見過ごしている現実に目を向けるきっかけを与えました。また、安藤凜緒さんの『ささえあったらいいんじゃない?』は、年齢や立場を超えて支え合うことの大切さを温かいタッチで描き、多くの共感を呼びました。

本コンテストの特徴として、作品を公開し、広く社会に発信する点が挙げられます。これにより、作品を通じて多くの人が社会の現実を知り、「誰ひとり取り残さない」未来を考えるきっかけとなることが期待されます。

受賞作品はいずれも個人的な経験に基づきながらも、社会全体の問題として共有されるべきテーマを扱っています。コンテストを通じて、若者たちが自身の言葉や表現を通じて社会に働きかけることができる場となることを期待しています。


参考:募集要項はこちら:

https://nogezaka-glocal.com/dh5/

コンテストの特徴:
・SDGsの基本理念「誰ひとり取り残さない」視点での若者(26歳以下)の声
・小学生から高校生、大学生を中心とした実行委員会により運営
・入賞作品のみならず全作品を公開して広く社会に発信する
・LGBTQ+、障害、病気、家族との関係などと自分がどう向き合うか真剣に考えている作品が多い
・小論文部門に加え、2023年度からはイラスト部門も実施

 

<受賞者>  

大賞 作品は下部に

大賞 <小論文部門>
・関口 桃子 船橋市立葛飾中学校3年
     不登校は悪ですか?

・若山 優希 大阪大学1年
     わたしの「声」

・大崎 彩華 ヒューマンキャンパスのぞみ高等学校3年
     見えない痛みとともに

・田上 陽菜 横浜清風高等学校
     隣にいるよ

大賞 <イラスト部門>
・宮本 薫子 順天堂大学3年生
     「思い続ける美しい記憶」簡単に奪われていったもの

特別賞 作品は下部に

エイビス特別賞 <小論文部門>
・手嶋 晴郁 第四あゆみ通所施設放課後等デイサービス
     今の子ども達を取り残さないために

フランスベッド特別賞 <小論文部門>
・稲田 蓮 滋賀医科大学4年
     歳をとる。だれもが通る孤独さへ 〜大変な人いない?〜

エーザイ特別賞 <小論文部門>
・酒井 結菜 シリウス神戸
     病気とたたかうすべての人へ

パーソネルコンサルタント特別賞 <小論文部門>
・加藤 里桜 Clear Lake High School 2年
     隠れキコク問題 ー誰ひとり取り残さない世界のために私ができること

共和メディカル特別賞 <小論文部門>
・尾崎 心優 大阪公立大学2年
     「動ける医療的ケア児・者」として伝えたいこと

入賞 作品は下部に

入賞 <小論文部門>
・ Yoon Phyu Aung Dagon University
     誰一人取り残さない、質の高い教育を皆へ
・韓 欽屹 三田学園高校1年
     個々の意識が世界を変える『第一歩』
・宮川 凜胡 筑波大学医学類2年
     あなたのこんにちはが命を救う
・五十嵐 蓮 春日部共栄高校2年
     親である前に人であれ
・今井 颯太 青山学院大学3年
     静寂の中の希望
・松本 悠生 神戸市看護大学1年
     あの冬桜のように
・匿名   慶應義塾大学大学院 修士1年
     グレーゾーンとして生きていくということ
・西釜 千尋 日本福祉大学大学院 修士1年
     誰も守ってくれない~性被害者支援の欠如と改善に向けて~
・浅沼 和 横浜市立老松中学校3年
     α世代を生きる
・尾﨑 礼菜 英数学館高等学校1年
     「孤児」として生き、「日本人」として闘う―忘れてはならない歴史

 

入賞 <イラスト部門>
・安藤 凜緒 米子高等学校3年 ささえあったらいいんじゃない?

 

・谷田部 倭 國學院大學2年 生まれた場所が違うだけ。

 

・藤岡 ミク わせがく高等学校 2年 私の色。


優秀作品賞(作品は追って掲載)

<小論文部門>
・Nguyen Phuong Nhi  名古屋大学3年 孤独の中で見つけた絆

・安藤 桃  GreenBay Highschool 高校2年 偏見を超えて
・安部 悠花  山形大学1年 自分らしく生きること
・伊藤 雅紀         本当に綺麗な人っているんですか?
・逸見 梨緒 不二聖心女子学院高等学校2年  教育 ―画一的教育に価値はあるのか―
・稲田明日香  白梅学園高等学校清修中高一貫部(高校2年)  摂食障害から考える自分の理想像
・永井 理愛 大宮国際中等教育学校5年(高校2年)  1人1人を見て!
・河原 真瑚 東京都立桜修館中等教育学校(高校3年)  普通とは何かを考えること。
・笠島 和歩 北海道教育大学附属函館中学校2年  期待、それは重い鎖
・梶西 琉生琉生 大分県立佐伯鶴城高等学校3年  ラベル化と多様性
・間部 賢杜 大阪大学1年 「健康で文化的な最低限度の生活」
・関谷 啓人 栄光学園高校1年  寝室をプラネタリウムに。
・岩井 海音 東洋大学大学院 博士前期課程1年   生存権が欲しいだけ
・亀井 理沙 大分県立佐伯鶴城高等学校3年  暗黒の3年間
・吉田 光 西大和学園中学校3年  取り残された「こころ」
・宮内 正枝 創価大学1年  見えない人からの贈り物、地球からの贈り物
・玉岡 穂ノ佳 甲南大学1年  外国人の子ども達への日本語教育の挑戦
・荒川 彩香 伊豆伊東高校 定時制一年 ユーカリに揺られて
・匿名   東京科学大学3年 健常者へ
・佐藤 萌 熊本学園大学4年 「健康に産んであげられなくて、ごめんね」~病気の子どもと共に歩む母親の姿~
・小川 安童禮 大宮国際中等教育学校 高校2年 「誰にでも優しく!」
・小平 暖己 慶應義塾大学2年 インドの多文化共生に学ぶ、包摂的社会の築き方
・水村 美緑 愛知淑徳大学1年  認めよう、それぞれのはなまるライフ
・水田 朱音 筑波大学修士1年  バリアフリートイレ
・星野 佳奈代 早稲田大学3年  みんなと同じでなくても、誰も一人じゃない。
・石本 るみ 合同会社らいと  共に歩む未来へ
・石﨑 誠 アルバイト  この言葉に救われた。
・仙波 心 北九州市立大学 地域創生学群 地域創生学類 5㎝の段差
・浅野 美祐      こちとらずっと、取り残されてるんだよ
・竹原 優 徳島大学 5年 「留年が教えてくれた『取り残される』痛み――高齢者の孤独に何ができるのか」
・田中 ゆら 神戸山手女子高等学校2年  まずはちゃんと知ること
・梅村 聖太 慶応義塾大学 2年  社会の片隅で見捨てられた人は、あなたの未来を映す鏡かもしれない
・畑岡 美代 お茶の水女子大学 修士1年 公衆トイレから考える「誰ひとり残さない」社会

優秀作品賞

<イラスト部門>

・田中 彩也香 公務員 共に考えよう、私たちにできること。

 

・藤本 信義 九州大学大学院修士1年 選択肢

 

・野崎 風璃 女子美術大学 1年 好き嫌いのない、あたたかいどんぶり

 

・友田 莉音 武蔵野美術大学通信 3年 見えにくくても、取りこぼしてはいけない。

奨励作品賞(作品は追って掲載)

<小論文部門>

・阿部知明 北海道教育大学附属函館中学校2年  望まない孤独
・井手南 創価女子短期大学 2年 あの日々があったから
・井上義将 中央大学附属中学校3年 猛暑に備える
・井上功大 大分県立佐伯鶴城高等学校3年 今更だって僕は言うかな
・磯野未侑 中村中学校・高等学校 高校1年 叫びたいんだ
・羽阪彩音 京都橘高校 高校2年生 「あなた色」を大切に
・益田寛大 早稲田大学3年 汝、隣人を愛せよ。それ以上に汝を愛せよ。
・円尾幸太郎 さいたま市立大宮国際中等教育学校5年 先生が教えてくれたこと
・奥柚叶 中村中学校・高等学校 高校1年 外国人と話す・遊ぶ
・岡田菜花 岡山大学グローバル・ディスカバリー・プログラム2回生 誰一人取り残さない労働環境実現のために今できること
・下郡優惟乃 大分県立佐伯鶴城高等学校3年 いじめとの向き合い方
・河田真桜 中村中学・高等学校 高校1年 世界からも、自分からも取り残されないために
・河野凪紗 大分県立佐伯鶴城高等学校 3年 何のために働くのか
・釜田林華 北海道教育大学附属函館中学校2年  個を縛る
・岸明日翔 国立音楽大学2年 「地球に生きる者たちよ」
・宮寺彩衣 中村中学校・高等学校 高校1年 SDGsとコーヒーの関係
・金子幸生 春日部共栄高校二年 取り残されてるのは人間だけなのか?
・金田真依 大分県立佐伯鶴城高校3年 今、将来のことを考えて
・櫛引桃歌 北海道教育大学附属函館中学校2年 違いを理解することの大切さ
・黒澤柚月 京都市立美術工芸高校 2年 配慮する人と責任を取る人、どちらも加害者
・原直実 専修学校クラーク高等学院名古屋校2年 自分で壁を作らないで
・原優野華 大分県立佐伯鶴城高等学校3年 全ての人が幸せな世界へ
・戸川愛子 中村中学校・高等学校 高校1年 日本在住外国人をとり残さないために
・後藤日向子 クラーク記念国際高等学校名古屋校2年 学校という社会から取り残されて得られるチャンス
・後藤翔太 東海学園高校3年生 未来を失いそうな子供達への社会の責任
・高塩桜季 大妻多摩高等学校2年 誰もが使えるトイレは夢か現実か?歌舞伎町ジェンダーレストイレが突きつけた課題
・高崎未央 富山大学4年 思いがつなぐ生理用ナプキンのギフト
・黒田恋子 鷗友学園女子高等学校1年 拝啓、「好き」に袖を通せない貴方へ
・黒柳俊之介 武蔵野大学附属千代田高等学院2年 障害=個性?
・佐桑恵子 創価高等学校3年 翼を折られた子どもたち、傍観している大人たち
・佐野陽花里 滋賀県立石山高等学校3年生 ひとりでも欠けるとピラミッドは崩れる
・斎藤輝昌 春日部共栄高等学校2年 生まれた順番
・三村咲綾 新潟医療福祉大学2年 合理的配慮は誰のもの?
・三地きらら 兵庫教育大学大学院3年 救いの手を差し伸べて~悪いのは誰?~
・山室優結 駒澤大学3年 孤独は人を選ばない。
・山田桜來 中央国際高等学校 中央高等学院2年 生きていて良かったと思える日まで
・山本沙織 専修学校クラーク高等学院名古屋校 取り残された経験から伝えたいこと
・山野麻椰 中村中学校・高等学校 高校1年 マイノリティを重く捉えすぎないことの大切さ
・山嵜茉白 都留文科大学1年 「しょうがない」で終わらせない
・山邊雛乃 東京農業大学4年 聴く力
・出岡仁奈 かえつ有明高等学校 2年生 消えゆく孤独、灯る未来
・小口真悠子 晃華学園高等学校 高校1年 「嫌悪感」の境界線と私たち
・小坂桃香 慶應義塾大学4年 「憎む」ことは命綱
・小松崎陽菜 春日部共栄高等学校2学年 なにも変わらないよ
・小川こすも 札幌第一高等学校3年 カラフルな世界を楽しく生きるための私の言葉。
・小田島杏樹 宮城大学2年 私の中にあなたの価値があり、あなたの中に私の価値がある
・小野美侑里      社会不適合者
・松岡芽歩 郁文館中学校 2年 1とはなにか。
・森本翔大 岡山大学3回生 「この世の中は興味を持たれない人が取り残される」
・須藤えみ クラーク記念国際高等学校3年 セーフティをぜんいんに
・西森志帆 関西大学高等部 3年 「孤独」に響く「聞こえないうた」
・西村心優 都立深川高校2年 人は見た目が0割
・西尾 真央 大阪女学院高校2年 取り残される前に、声をあげよう
・匿名  神奈川県立保健福祉大学 ヘルスイノベーション研究科 博士前期課程1年 「誰ひとり取り残さない」ために私が考えること
・石毛久瑠美 北海道教育大学附属函館中学校2年 私達の行動で「取り残している」のではないですか?
・川口小夏 大分県立佐伯鶴城高等学校3年 これまでとこれからの私
・前田結愛 神奈川大学2年 誰だって可能性にあふれている
・太良優花 クラーク記念国際高等学校 高校二年生 孤独を受け入れる勇気
・大阪美夏子 長岡造形大学 学部3年 ひとり、わたし。
・大川琉聖 慶應義塾大学法学部法律学科卒業 APパートナーズ  どっちかを強めに踏んでごらん
・大内陸豊 大分県立佐伯鶴城高等学校3年 地元の水を綺麗に
・大北隼矢 中央大学附属中学校 2年 合言葉は「だいふく」
・但馬芽吹 私立日本航空高等学校3年 無知の知により築く包摂的社会
・竹本彩紗 埼玉大学 教育学部1年 伝わらないことへの取り組み
・中村華 同志社大学 2年 取り残された子どもたちとの願い。
・中村美空 法政大学国際高等学校3年 誰かを支える、誰にも支えられない私
・丁子奏花 東大谷高等学校3年 誰のための「取り残さない」か
・長野怜香 大阪大学 / Toulouse Capitole University修士課程1年 日本が生きづらかった、日本人の私
・田中葵 岡山大学1回生 自分にとって。クラスメイトにとって。
・渡邊彬 千葉大学教育学部附属中学校1年 不登校を防ぐために、そして支えるために
・渡邊美紀 創価高校3年 アイデンティティクライシス
・渡邉那音 早稲田大学1年 マジョリティーは本当にマジョリティーか?
・嶋原陽太 大分県立佐伯鶴城高等学校3年 人間関係の盲目
・藤崎詩央 中央大学附属横浜高等学校1年 SNSで踏み出す一歩 他人の靴を履いてみる 
・藤堂瑠海 都立砂川高校 2年 相対的貧困の現実
・難波来未 大分県立佐伯鶴城高等学校3年 父を救う
・日下綾乃 立教大学1年 お金を動かすのはポジティブであれ
・梅谷一稀 立命館高等学校2年 「かわいいが好きなだけ」
・白鳥珠羽 北海道教育大学附属函館中学校 2学年 我慢と尊重
・品川宇志 日本航空高等学校2年生 世界に嫌われないための代価、馴染めやすい社会へ
・堀川菜々子 大分県立佐伯鶴城高校3年 夢の誕生日
・堀篭瑠奈 国際医療福祉大学1年 誰ひとり取り残されない社会に近づく方法
・木下佑月 北海道教育大学附属函館中学校2年 みんな違う。それが当たり前。ー自分の個性と生きていくー
・木許一花 大分県立佐伯鶴城高等学校3年 「みんな違ってみんないい」を思い出して。
・木村留奈 京都薬科大学3年 カラフルになった世界をもっと
・野本翔生 大宮国際中等教育学校 高校2年 未来をつなぐ4K子ども食堂 ~誰一人取り残さない社会を目指して~
・S.N.  札幌市立みどり小学校 4年生 やさしい発表の場をつくる みんなのぶたい
・矢野由菜 松戸市立河原塚中学校3年 A smile for you
・有村日和 鹿児島県霧島市国分高校 1年 多数派が正解か。
・有馬大貴 横浜国立大学1年 今の社会には解決しようとする「ふり」が多すぎる
・鈴木葵依 日本赤十字看護大学1年 いいところ探しを始めてみませんか
・國枝芽奈 中村中学校・高等学校 高校1年 1人だと感じることがない社会
・齋藤奏 愛知県立春日井南高等学校1年 目指すは理想郷ではない
・籠田芙佳 浪人 私の普通は理解されにくいけど、それだけじゃない
・髙橋ゆき奈 中村中学校・高等学校 高校1年 いろんないろ
・髙木結徠 大阪大学1学年 辛い時に素直に「辛い」ということの大切さ

奨励作品賞

<イラスト部門>

藤田藍衣 白老町立白翔中学校1年 DON’T BULLY〜仲良くしたいだけだった〜

 
  
 

富田茜梨 天竜中学校2年 優しさのシャワー

 
 

平尾萌寧          こっちをみて

 
 

本間結奈 埼玉県立芸術総合高等学校2年 ひとつの風船、ひとつの命。

 
 

木村恵麻 フリーター いじめの被害者が一人でも多く守られる未来へ

 
 

野木安那 愛知県立芸術大学卒業 未来の世界はきっと

 
 

山田健太 日本航空高校1年 水素と人々のつながり

 
 

小柴 唯愛 関西学院大学年 みんなの手で。

 
 

松戸秀人 創価大学2年 みんなの力で未来を耕す ~自然との共生と食の循環~

 
 

進藤愛     女子美術大学付属高等学校1年 こえよ、とどいて。あなたまで。

 
 

瀬戸陽名 広島信用金庫 その通りだが、そうではない

 
 

大庭咲良 日本大学1年 -皆が同じもので楽しめると思わないで-

 
 

大野華月 北星学園女子高等学校2年生 誰一人取り残さない

 
 

中條友夏子 第一学院高等学校2年 一人ではなくみんなの力で

 
 

笛木杏     新潟第一中学校 3年生 観たのことによって

 
 

田崎文華 秋田南高等学校中等部1年 声を届けよう!

 
 

渡會愛香 山形県立米沢興譲館高校1年 男の子なんだから

 
 

実施の背景:

「誰ひとり取り残さない」はSDGsの基本理念であり、誰かを犠牲にしたり、取り残したうえでのSDGs達成はありえません。SDGsの宣言文でも「最も貧しく最も脆弱な人々の必要に特別の焦点をあて」「最も遅れているところに第一に」「最も貧しく最も脆弱なところから」などと繰り返し強調されています。

しかし、言葉として、あるいは総論としては理解していても、「誰ひとり取り残さない」を実際に意識して、SDGs活動を行っている人は案外多くはないかもしれません。

今目の前のできることから行うべきであり、「誰ひとり取り残さない」をあまり意識することは「非現実的」という声を聞くこともあります。

本コンテストは、今一度基本に立ち返り、SDGsの基本理念「誰ひとり取り残さない」視点をすべてのSDGs活動や社会活動に反映すべきとの観点から、若者の自由な発想や提案、計画についての小論文や作文を求め、またその声を広く社会に発信することを目的として実施するものです。

コロナ禍の2020年に第一回が開催され今回は第5回になります。
若者中心の実行委員会により運営されています。

 
 

コンテスト概要

募集内容:

【作文・小論文部門】
SDGsの基本理念、「誰ひとり取り残さない」の視点で、考えること、自分が行いたいこと、社会への提言など自由な発想で、作文・小論文を作成のうえご提出ください。文字数は問いませんが上限は2000文字とします。

【イラスト部門】
SDGsの基本理念、「誰ひとり取り残さない」について、自由な発想で、A4サイズ1枚に写真、イラスト、絵、グラフィクなど自由な表現で提出ください。(提出はJPEG形式) 
文字が含まれる場合は40文字以内とします。

※応募作品は応募者個人による著作に限ります
※応募者が著作権を保有し内容に責任を持つものであれば生成AIの利用は否定しません

審査基準:
社会への訴求力や審査員の共感を引き出す作品を高く評価します。作文・小論文部門では、日本語としての表現や小論文の構成は重視しませんので、文章を書くのが苦手な方や、日本語が得意でない方もぜひご応募ください。 

また、イラスト部門でも、芸術的な要素よりも審査員に訴える力を重視します。

【参考:「誰一人取り残さない」とは】

SDGsの基本理念は「誰ひとり取り残さない」です。
では、何から取り残さないのでしょうか? 

一つは、誰もが社会活動や経済活動に参加する権利を持ち、それから排除されないことです。社会活動や経済活動には、「学校で学ぶ」「十分な食事をとる」といった基本的なものだけでなく、「スポーツをする」「遊ぶ」といった人間として必要な活動も含まれます。

人によって必要とするものは異なりますが、そのような活動から取り残されている人々が多く存在します。

たとえば、障害者、LGBTQ+コミュニティ、貧困層、外国人などがその代表的な例です。しかし、取り残されているのは、これらのわかりやすい事例だけではありません。

身近なところにも、社会の不公平や矛盾、生きずらさを感じることがあると思います。

そのような小さなことにこそ、物事の本質があるのかもしれません。

野毛坂グローカルの活動の基本方針は、「最も取り残されがちな人」に着目することです。

「誰ひとり取り残さない」を「単なるスローガン」「理想論」と諦めるのではなく、一歩ずつ前に進みたいと思います。

一緒に「誰ひとり取り残さない」社会を考えませんか?

応募資格:応募時点で26歳以下の方

募集期間:2024年9月28日から2025年1月1日

著作権: 応募者に属します。
ただし、ウェブサイト、冊子、書籍などに無償での掲載に同意いただきます。

表彰

【両部門共通】
大賞(3万円)         3作品
特別賞(2万円)   5作品
入賞(1万円)   10作品
優秀賞(3000円)  40作品
奨励賞(1000円)100作品
※副賞はAMAZON券でお支払いします
※表彰式は2025年3月に実施予定

応募フォーム(インターネットから):
https://forms.gle/PbGmN5ckN2WRsyDR8

主催:野毛坂グローカル

運営:
 SDGs「誰ひとり取り残さない」小論文/イラスト コンテスト2024実行委員会

【共同実行委員長】
・梅木千夏:東京未来大学3年

・遠藤優介:奈良先端科学技術大学院大学2年
・小野日向汰:慶應義塾大学1年

【事務局長】
・下平心那:国際教養大学1年

【協力】
・本間孝男 中学3年(学生映像制作団体MYSTORY) 

【実行委員】
・赤地そよか 岐阜東高校1年

・秋吉美祐   栄東高等学校1年
・磯田美季 座間市立栗原中学校3年
・井関花 田園調布雙葉高等学校2年
・今津心那 北筑高校3年
・大場星々加 青森県立田名部高等学校2年
・小笠原 彩 南山大学法学部法律学科4年
・刈屋彩乃 東京都立北園高等学校 高校2年
・桑波田来未  鹿島朝日高校3年
・久保めぐみ  山口県立徳山高等学校1年
・小林聡真 聖徳学園高校2年(日本) Abbotsford senior secondary school grade 11(カナダ)
・小松真子 立命館大学1年
・坂本彩夏 明石工業高等専門学校1年
・座間耀永 青山学院高等部3年 非営利型一般社団法人AZ Bande代表理事
・柴山 心花 鹿島朝日高校3年
・鈴木亜優美 NTT労働組合
・野中茂壮 聖学院高等学校1年
・服部翠 広島県立広島叡智学園中学校2年
・林美裕 名城大学3年
・藤田咲桜里 國學院大學1年
・唄野陽芽   立命館大学4年
・松本彩那 West Vancouver Secondary Highschool, Grade 11
・吉浦文音 米子西高1年
・吉田佳菜恵 兵庫県立神戸高等学校2年
・李雅真 広島叡智学園高等学校 2年生
・佐久間未桜 東洋英和女学院高等部3年
・八木岡空 早稲田実業学校高等部2年
・髙山璃乃 三重大学 3年生

【アドバイザー】
・金澤伶   元実行委員長(東京大学4年)

・神谷優大  野毛坂グローカル 理事
・鈴木ゆりり 野毛坂グローカル 理事
・武井啓子  野毛坂グローカル 理事

【審査員】
・野津隆志   兵庫県立大学名誉教授 / 野毛坂グローカル監事
・秋山愛子   国連・アジア太平洋経済社会委員会 社会課題担当官
・荒木田百合 横浜市社会福祉協議会顧問/元横浜市副市長
・杉浦裕樹   横浜コミュニティデザイン・ラボ代表理事
・中西由起子  アジア ディスアビリティ インスティチュート(ADI)代表
・藤谷健    国際基督教大学(ICU)客員教授/元朝日新聞記者
・迫田朋子  ジャーナリスト/元NHK解説委員
・和田恵   SDGs-SWY共同代表

【後援】
 国際協力機構(JICA)

【協賛】
 エーザイ株式会社

 株式会社エイビス
 共和メディカル株式会社
 奈良東病院グループ
 フランスベッド株式会社
 パーソネルコンサルタントマンパワータイランド株式会社

参考 過去の受賞作品:
第一回2020年度 結果:

第二回2021年度 結果:

第三回2022年度 結果:

第四回2023年度 結果:

大賞・特別賞・入賞作品

大賞 <小論文部門>
関口 桃子  船橋市立葛飾中学校3年
不登校は悪ですか
 私が学校に行けなくなったのは小学三年生の冬でした。どうして学校に行けないのかは分からなくても、学校に行くのは当たり前で普通のことで、学校は行かなければならないものだということは、幼い私にだって分かっていました。ですが私は学校に行けませんでした。中学三年生になった今でも、私は学校に行っていません。
 不登校は悪だと思っていました。「学校に行く」という普通のことができない私は普通ではない、ということにショックを受けました。「普通」が分からなくて、「普通」に悩みました。布団の中にいる平日の昼間、時間だけが過ぎていく感覚、自分の時間だけが止まっているような感覚を覚えています。私のまわりの方々は優しい言葉を掛けてくれましたが、インターネットはそうではありません。「不登校は甘えだ」「サボっていてずるい」「社会不適合者だ」「立派な大人になれない」「楽そうで羨ましい」インターネットの言葉はリアルです。「不登校」というものは社会的に受け入れられないのだと痛感しました。私は甘えていて、サボっていて、社会不適合で立派な大人になれない人間のようです。私は自分が不登校であるということに劣等感を抱き、自分を認めることはできていませんでした。
 小論文を書くにあたって、テーマである「誰ひとり取り残さない」について私なりに考えてみました。まず、「誰ひとり取り残されていない社会」とはどんな社会なのでしょうか。すべての人が社会活動、経済活動に参加でき、差別や格差、排除されることがなく、すべての国が協力して問題を解決し、環境問題さえも乗り越えた社会。そんな社会はあまりにも壮大で、想像すら簡単にできません。
 次に「誰ひとり取り残されていない社会」をつくるために私は何ができるのかを考えました。これらを考えるのは困難でした。「最も取り残されがちな人」について考えれば考えるほど、自分の世界の小ささが浮き彫りになります。私の見ている世界、知っていることは本当に僅かであり、私にできることは私の今までの経験から生まれるもののみです。
 「不登校」に対する世間のイメージは徐々に変化しています。以前は「不登校=悪」というイメージが明確でしたが最近は、不登校はしょうがない、かわいそうだから責めてはいけない、という風潮が大きくなっているように感じます。以前と比べれば、少しはイメージが進歩したように見えますが、「学校に行かないことは悪いことだ」「学校に行くことは当たり前だ」という前提は変化していません。
 「学校に行く」という当たり前ができない、やりたくないことで悩んでいる人は沢山いるはずです。学校とは絶対に全員が行かなければいけない場所でしょうか。一人一人、見た目や性格、考え方が違うのであれば、学校にも合う人、合わない人がいるのはおかしくないはずです。問題は今現状、社会的な選択肢が「学校に行く」ことしかないことです。学校に行かない場合、社会から取り残されてしまう、孤立してしまうことも多いです。義務教育の制度が整っていて、誰もが学校に行くことができるのは日本の強みですが、既存の「学校」だけではない多様な教育の形があってもいいのではないでしょうか。
 私は不登校が悪だと思いません。SDGsを勉強し、そう思えるようになりました。持続可能な社会を目指すためには互いの違うところも認め合い、支え合う、そして誰ひとり取り残されていない必要があります。「学校に行かないのは悪」という考えは学校に行かない(行けない)人を排除し、「学校に行くのが正解」という社会がつくった正解の押し付けであり間違っています。
 上のように正解・不正解、良い・悪いの基準が単純化されつつあります。お金を持っていれば良い、持っていなければ悪い、高学歴だと良い、低学歴だと悪い、このような目に見えやすい結果で人間の価値や物事の優劣が判断されれば、自分と他人との比較が更に大きくなり、差別や格差、取り残される人が増えていきます。
 私はそんな価値観を変えたいです。人間の価値はお金や学歴、容姿などでは判断されないはずです。目に見えやすい結果から幸せは生まれません。私が望み、つくりたい世界は一人一人の個性が大切にされる、自分らしく生きやすい世界です。そんな世界であれば取り残される人はいないはずです。
 自分らしく生きやすい、誰ひとり取り残されない世界をつくるために私たちには何ができるでしょうか。
 当たり前を疑ってみる。それこそが私たちにできるはじめの一歩です。今まで自分で気に留めなかった当たり前を考え直してみる、私の当たり前が他の人の当たり前ではないことを考えてみる、社会に対しての違和感を追求してみる、だんだん世界が広くなり、見える世界が変わっていきます。私たちは少しずつ、世界を変えることができるはずです。

 

 
・若山 優希 大阪大学1年
わたしの「声」

今でも鮮明に覚えている。給食準備の時間。騒がしい教室とは裏腹にしんと冷たい廊下。壁に飾られたみんなの図工の作品を横目に、私と親友、先生の三人が、二等辺三角形のように立っていた。今でも鮮明に覚えている。小さな付箋――わたしの「声」を、わたし自身の右手でくしゃくしゃにしていく感覚を。
私は小学校で一度も声を出したことがなかった。学校のみんなに声を聞かれるのが怖かった。「場面緘黙症」と名のつく症状だ。しかし、だからといって誰とも交流したくないわけではなかった。みんなの楽しそうな声を耳にしながら本のページをめくり続けるのは、実に孤独であった。だが、いざみんなと交流しようとしても、緊張で体が固まって、できなかった。
その私に変化を与えてくれたのは、親友の存在であった。一つ後ろの席だった彼女は、学校で喋れない私のことを想って、いつも付箋を使った筆談で話しかけてくれた。もちろん初めは多少の戸惑いこそあったものの、次第に付箋の上でなら、うなずきや首を振る以外の自己表現もできるようになった。彼女にだけは、自分から言葉を伝えることができた。それは紛れもなく、私がわたしの「声」に出会った瞬間であった。みんなが何気なく交わすような会話が、これほどまでに楽しいのだと初めて知った。私はうれしくて、うれしくて、水色、黄色、オレンジ色、ピンク色、大小様々な私たちの「会話」で私の筆箱を埋めていった。家に帰ってからも、それらを取り出しては読み返していた。
ところがある日、四時間目の理科の授業の後で、私と親友は先生に呼び出された。先生の声はいつもに増して低かった。
「理科の授業中、回し手紙をしたのか。」
窓の外の木の葉っぱが風になびく音だけが響く廊下で、先生は言った。どうやらクラスメイトの誰かが、私たちの「会話」を回し手紙と見なしたようであった。クラスメイトも先生も、私が学校で声を出せないことは知っていた。だからこそ、目がじわじわと熱くなって、視界がぼやけていった。
「黒板に何と書いてあるの。」
「どの道具を使うの。」
「消しゴム貸して。」
わたしの「声」は、わたしたちの「会話」は、みんなと何が違うのだろう。ただ、みんなの声は時間とともに消えてゆくけれど、わたしの「声」は筆箱のなかに残るだけ。ただ、みんなの会話は何気なくできるけれど、わたしたちの「会話」はペンと紙が必要なだけ。
そのやるせない気持ちも、ペンと紙をもたないその瞬間には伝えることができず、ただひたすらに、右手でわたしたちの「会話」を丸め込んでいた。小さな紙であったが、丸めてできた角が少し痛かった。
 「何か意見はありますか。」
意見があれば、挙手をして、声を上げる。それができないのならば「意見がない」と見なされる。みんなの意見を聞く機会に、取り残される人、それは声ではない「声」を上げる人々である。学校の授業も同様である。授業中に挙手をして、積極的に発言する生徒には意欲があり、発言しない生徒はそうではないのだろうか。コミュニケーションの手段をいつの間にか声だけに限定してしまってはいないだろうか。
私は今でこそ学校でも声を出すことができるが、やはりどこか声を出すことに苦手意識があることを否定できない。だが、わたしの「声」を通じて自己表現をし、出会うことのできた仲間がいる。わたしの「声」を大切にしてくれる人がいる。私はわたしの「声」が好きだと、今なら心から思える。
コミュニケーションがますます容易に、手短に行えるようになった現代。必要な情報だけが切り取られ、それ以外は流されていく現代。どうか、その陰で聞き逃された「声」の存在に気付いてほしい。「発言」を急かさずに、気長に待ってほしい。そして直接その「声」に耳を傾けてみてほしい。ひととは違う形でも、何とか「声」を上げようとする人に寄り添える存在でありたいと、私は強く願う。

 


・大崎 彩華 ヒューマンキャンパスのぞみ高等学校3年
見えない痛みとともに

毎朝、鏡を見るたびに、ため息が漏れる。顔や腕、指先の小さな傷。それらが、まるで私の心の中に巣くう苦しさを映し出しているかのように見えるからだ。私は皮いじり症という強迫性障害を抱えている。これは自分の意思とは関係なく皮膚をいじったり傷つけたりしてしまう症状だ。初めは「癖かな?」と思っていた。でも、それが日常生活に支障をきたすようになり、さらに自分自身を責めるようになってから、ただの癖ではないと気づいた。気づけば指先や顔には傷跡が増えていき、周りの人たちから「どうしたの?」「大丈夫?」と聞かれるたびに苦しくなった。私にとって、この症状は「見えない痛み」の象徴だ。強迫性障害という名前がついているにもかかわらず、この障害を理解する人は多くない。周囲に打ち明けると、時には「気にしすぎじゃない?」「やめようと思えばやめられるでしょう」といった言葉をかけられることもある。そうした無理解が私の孤独感をさらに深めた。私はいつしか、自分の傷跡を隠しながら生きることに慣れていった。でも、その分だけ心が重くなり、「普通に生きられない自分は、この世界から取り残されているのではないか」と感じるようになった。
 そんな私が少しずつ変わり始めたのは、自分と同じ症状に悩む人々と出会ったことがきっかけだ。SNSで見つけたコミュニティに参加してみると、「私も同じ症状で悩んでいます」という声が次々と届いた。それまで孤独だと思っていた私の痛みが、実は他の誰かにとっても身近なものだったと知ったとき、私は初めて「一人じゃない」と思えたのだ。その経験を通じて私は気づいた。目に見えない痛みは、私だけでなく、誰もが何かしら抱えているものなのだと。障害や病気だけでなく、経済的な不安や家庭環境、あるいは社会の期待に応えられない自分への葛藤。それらはすべて「取り残される」感覚を生み出す。周りの人には気づかれない「見えない痛み」を抱えたまま生きている人たちが、この世界にはたくさんいる。SDGsの理念である「誰ひとり取り残さない」という言葉は、私にとって、この「見えない痛み」に向き合うことの重要性を示しているように思える。人間の困難には、表面化しやすいものもあれば、そうでないものもある。表面には現れない苦しみを知り、それを尊重しようとする姿勢こそが、真に支え合える社会を作るために必要なのではないだろうか。
 私は、まず自分の経験を発信することから始めることにした。同じ症状に悩む人々に向けてSNSで投稿をしたり、友人や家族と少しずつ話をしたりした。その中で、思いがけない言葉をもらうこともあった。「そんなに悩んでいたなんて気づかなかったけれど、話してくれてありがとう」と言われたとき、私は初めて「話してよかった」と思えた。また、学校で仲の良い友人に勇気を出して話したときも、「全然知らなかったけど、あなたが抱えていることを知れてよかった。一緒に何かできることがあれば教えてね」と言ってもらえた。その言葉に、私は救われた。そして、「辛い時に辛いと言えること」や、「分かり合えた」という実感が、人間にとってどれほど大切なのかを身をもって知った。
 私が学んだのは、誰かが寄り添ってくれるだけで、「取り残されている」という感覚が薄らぐということだ。だからこそ、私は将来、同じように誰かの「見えない痛み」に寄り添える人でありたいと願っている。たとえ小さな一歩でも、その歩みが「誰ひとり取り残さない」社会の実現につながると信じている。また、私はこの経験を活かして、広い視野を持つことの大切さも伝えていきたい。私がこの障害を抱えていたからこそ、他者の痛みに気づけるようになった。もしかすると、誰かが笑顔を見せていても、その心の中には大きな悲しみや孤独があるのかもしれない。そうしたことに思いを馳せるだけでも、私たちはより優しい社会を作るきっかけを生み出せるのではないだろうか。
 私にとって、目に見える傷跡は確かに消えないかもしれない。それでも、これまでの苦しみと向き合いながら得た学びや、他者と共有した思いは、私の人生の中で大切な財産だ。この経験を無駄にせず、一つひとつ丁寧に行動を積み重ねることで、私自身の心も少しずつ癒されていくと信じている。そして、私が未来に願うのは、自分自身の痛みだけでなく、誰かの「見えない痛み」にも寄り添い、尊重し合える社会の実現だ。
 目に見える困難も、見えない困難も、どちらも尊重される社会へ。そんな未来を目指して、私は今日も生きていく。私の傷跡が完全に消える日は来ないかもしれない。それでも、この経験を通じて学んだことを忘れずに、私ができることを一つずつ行動に移していきたい。

 


・田上 陽菜  横浜清風高等学校
隣にいるよ

自分は、女の子として生まれました。恋愛対象は異性と同性のバイセクシャルです。でも一人称は俺です。
最初は同性が好きなことが理解できず、自分は男になりたいのかと勘違いして俺と呼び始めました。
でも過ごしていくうちに、自分は異性も同性も好きになることに気づきました。今は俺という一人称は同性も好きになることに何も問題はないと思えるように使っています
家族にも友達にも先生にもこれは秘密にしています。でも過去に失敗して知っている人もいます。
自分のことを俺と呼ぶと、年齢が高い人ほど驚いたり嫌そうな顔をします。
そして、年齢が近い人ほどずけずけと聞いてきます。
それで、少しでも自分が黙ってしまったらほとんどの人は何事もないかの如く。
でも、それでも影では嫌な反応をする人もいます。
自分には優しくて社会性のある母がいます。厳格で不器用な優しさを持つ父がいます。嫌なことをいっぱいしてくるけど、真面目で努力家な姉がいます。
自分は優しくて甘やかしてくれる叔父や叔母、素敵で賢い従姉妹もいます。自分の一族は裕福な方だと思います。自分から見ても他人から見てもとっても幸せな家庭です。
でも、よく息が苦しくなります。
初めて自分のことを俺と呼び始めた時、制服をズボンにしたいと言った時、初めて同性を好きになった時、周りに秘密がバレた時。
自分は、どうしたら良かったのでしょうか。
何気ない雑談で、自分と似たような人たちに対して気色悪いと笑うクラスメイトの話を聞いて、泣きそうになります。
恋を自覚した途端に失恋をします。
だからバレないようにと隠して溜めた愛が、気づいた時には泥のようにドロドロと溢れそうになります。とても胸が苦しいです。
なんで俺と呼んでるのか聞かれた時、息が詰まってなんて言っていいかわからなくなります。
恋愛対象のことを勘違いだと言われた時、殴りたくなって叫びたくなって逃げたくなります。
なんでもない時にふと泣きそうになります。
自分は、どうしたら良かったのでしょうか。なぜ、こんなんで生まれてしまったのでしょうか。
どうしたらいいか、何をしたらいいか分かりません。
こんなことになっている人は自分だけなのでしょうか。
国内の十三人に一人はLGBTQ +といわれてますが、実際はどうなのでしょう。
本当はもっと少ないかもしれない。
そう思って過ごしていました。でも最近は違います。案外周りに人はいるということに気づきました。
過去の失敗や偏見のせいで自分を守るために色んなことを隠して生きていたけれど、自分だけじゃなくて他の人もそうやって生きていました。
みんな結構似たようなことをして生きていました。
だから、もし自分と似た悩みを持っている人がいたら力を抜いてみてほしいんです。
世界は残酷だけど思ったよりは優しいです。
勇気を出すのではなく、力を抜いて周りを見てみてほしいんです。
周りの人は想像してたよりも酷いかもしれないけれど、優しい人もいます。
共感は難しいかもしれないけれど、隣に立ってくれることはしてくれると思うんです。
自分たちが少しでも幸せで生きれるように。

フランスベッド特別賞

稲田蓮 滋賀医科大学4年
 歳をとる。だれもが通る孤独さへ 〜大変な人いない?〜

2025年に傘寿を迎える祖母は元気だ。足を痛めつつも畑仕事をしている。いつも会うたびに私に言ってくれる。
「忙しくて大変やのにようきてな。うれしいわ。」
「うん…?」
いつものセリフに私はどこか、違和感を覚えた。
祖母と先日、ショートゴルフに行った。大学4年生の私が小学生の頃から、夏休みなど長期休みによく連れて行ってもらっている。大学生になるとそんな余裕もあまりなくなって、ゴルフは数年ぶりになる。でも、前と動きはさほど変わっていないようにも思えた。
いつもはショートコースを2周する。そのゴルフ場のショートコースは一周で9ホールあり、一周回るだけでも2、3時間はかかる。1周で満足できるほど疲れるが、いつもそこに行くときは私や二つ上の兄の体力が有り余っており、2周頑張っていた。
しかし、今回は一周を終えたところでその後の体力を鑑みてやめることにした。祖母と兄と私の三人で行ったが、皆の体力は落ちているようだった。それでもゴルフが前よりも楽しかったから、満足だった。
歳を重ねてきた経験なのか、80を迎えるとは思えない技術の高さに、いつも驚かされている。それを見るのも楽しいし、教えてもらうのも嬉しい。とりあえず、三人でゴルフをするということが、好きだった。
しかし、祖母が元気かと言われれば、健康ではない。高血圧をはじめ、虫歯や筋肉の衰えなど、一般的な老化に伴う症状が見え始めている。誰もが通る道だろうが、身近な人に現れると、「やっぱり私のおばあちゃんも高齢なのか」と気付かされる。
取り残されている気がする。私の祖母は特に、早くに夫を亡くしている。だからというのもあるが、普段は私の実家からは少し離れたところに一人暮らしで、母が1週間に1回様子を見に行っている。
娘に様子を見にきてもらえるのは嬉しい。と思っているのは私の偏見の目線なのかもしれない。心配されることは嬉しい反面、面倒を見られるというのは何か自分が幼稚であったり、信頼されていなかったりするということなのかもしれない。
「見にきてもらう」=「信用されていない」と言い換えられないか。
本人がどう思っているのか、わからなくなってきた。
それでも、祖母が日々ボロボロになっていく自分の体と戦っているのは事実で、若い頃の元気さが徐々に失われつつあるのは確かだ。そんな中、特に私の祖母は基本的に一人で生活をしていかなければならないとなると、生きているだけでも大変そうだ。
生活の中で楽しみは見つかっているのだろうか。これは私の過剰な心配なのだろうか。でも、私の推測が正しければ、大変なのは私よりも圧倒的に祖母の方だ。
私は大学の授業があるから、日々は充実しているし、暇な日は少ない。だからこそ、何もしないでいい日が来ると暇すぎて耐え切れなくなる。でも、退職したらずっとこうなのかと思うと、ゾッとする。今の若者目線で言えば、まさに「虚無」が訪れそうだ。
そんな祖母に私は何ができるか考えたが、あまり思いつかなかった。心配はするけど、心配が全ての人にとって嬉しいものでもない。その人がどう感じるかを知らなければならない。だから、私は祖母と、改めて会話しようと思う。大学生に成長した私と、また話してほしい。
そうやって触れ合う機会を絶やさずに、いつか終わりを迎えられるなら、私なら、幸せだ。
祖母がどんな終わりを望んでいるかはまだわからないし、私はそれを喜んで考えたいとは微塵も思わないが、ただ、祖母の最期から逃げるのも癪だ。
生きているうちに祖母の寂しさ、大変さに共感していくこと。それを積み重ねて、取り残された状態から解放されること。それが理想か。
年末の今日、畑仕事をしている祖母と会った。
「忙しくて大変やのにようきてな。うれしいわ。」
確かに、祖母は忙しくはないかもしれない。でも、大変でしょ?
「大変やのによう会ってくれてな。ありがとう。」
今日も私たちのために畑の野菜に水をやる祖母に、私はこう返してみた。
怪訝な顔で見つめ返す祖母が、どこか愛おしい。

パーソネルコンサルタント特別賞

加藤里桜 Clear Lake High School 2年
 隠れキコク問題 ー誰ひとり取り残さない世界のために私ができること

 「あの子よ、あの子。キコクさんは。」
 中学校の参観日の際、授業を受けている私に向けられた保護者たちの視線に気づいた。ふと後ろを振り返ると、数人が私を指差しながらそうささやいていた。私には加藤里桜という名前があるのに、キコクさん、と。
 私は小学校の最初の五年間をアメリカで過ごし、現地の学校に通いながら多くの挑戦と楽しさを経験した。しかし、日本に帰国した後、同じ行動をしていても友人たちから「アメリカ人みたい」と言われたり、参観日の際のよう特別な注目を浴びることがしばしばあった。こうした言動や扱いを受けるたびに、胸が締め付けられるような思いをしたのを覚えている。自分のことを理解してもらう前に、「帰国子女」や「アメリカ人風」と見られることに違和感があったのだと思う。私は自分のアイデンティティに悩むようになり、やがてアメリカでのことを話すのをやめた。自身を受け入れてもらえないことを恐れ、理解してもらうことを諦めたのだ。
 しかし、私はその決断をすることで、自分の根本的な部分を否定していた。加えて、帰国子女であることを隠し続けるうちに、周囲からどんどん切り離されてしまっていた。海外での生活を隠すことに必死で、他人との会話にまともに参加することも、自分の意見を共有することもできなくなっていたのだ。自分の心の葛藤を隠していくにつれ、周囲から取り残されていることに気が付いた。
 外務省によると、日本には約六万千人の帰国子女がいる。その中でも隠れキコクといい、自身が帰国子女である事実を隠し生活する人は多くいるそうだ。確かに、現代社会の中では留学も身近になり、帰国子女入試などの制度も整い始めている。しかし、帰国子女に対する先入観やバイアスが根強く残っているため、多くの人が声を上げることをためらい、自分を周囲に隠して生きざるを得ない状況に置かれている。
 帰国子女として海外で培った経験は、本来個人や社会にとっても大きなメリットのあるものなのではないだろうか。例えば、さまざまな国籍の人と日々生活することにより、それぞれの文化・歴史について学べ、視野が広がる。帰国子女に対するバイアスのない世界は「隠れキコク」問題を解決し、帰国子女と日本に住む人々が互いから学び合えるような環境を作る手助けになると考える。
 私はこの課題を乗り越える第一歩として、多くの人に隠れキコク問題、そして帰国子女に対するバイアスについて知ってもらうことが必要だと感じた。自分の海外での経験を隠すのではなく、理解してもらえるように伝えること。周囲の人に自身の海外経験について話すことから始めた。アメリカでの楽しかったことや英語を学ぶ中で苦しかったこと、それに加え帰国子女へのバイアスとは異なる点について意識的に話した。また、これまでは拒絶されることを恐れうまく答えられなかった相手からの質問にも、丁寧に答えるようにした。すると、帰国子女に対する周囲の見方が少しずつ変わっていった。例えば、英語の習得について、「帰国子女が英語を話すのは当たり前」から、「話せるようになるために努力したのだね」と。すっと心が軽くなったように感じた。
 確かに、私のみで隠れキコク問題を解決することは不可能だ。他者の偏見を完全に無くすことには時間、そして多くの対話を要するからだ。しかし、できるだけ多くの帰国子女の人に「自分らしくいられる幸せ」を感じてほしい。取り組みを広げるため、非営利団体と協力して、私はソウルスパーク・プロジェクトを立ち上げた。中高生や大人が交流できるオンライン・スペースだ。このスペースで、参加者は月に一度集まり、自分の情熱や人生について話し合う。また、毎月さまざまな国に住むゲストスピーカーを招待し、10分程度のプレゼンを行ってもらっている。このプロジェクトが始まってまだ数カ月だが、参加者に記入してもらっているアンケートによると、70%以上の人が特定の年齢層、人種、国籍について新しい視点を得たと答えている。
 ソウルスパークという名前には二つの意味が込められている。ひとつは人々が交流し、新たな考えを得、心に「火花」を散らせるようにという願い。もうひとつは、人々が集い、内なる葛藤にともに立ち向かう「魂の広場」であるということだ。このプロジェクトは帰国子女、そしてゆくゆくは他のバイアスに苦しむ人が取り残されないようになる第一歩なのだと信じている。私はこのプロジェクトが両方の意味を果たすよう、仲間とともに懸命に努力したい。それが「誰ひとり取り残さない」世界への私なりの貢献なのだ。

エイビス特別賞

手嶋晴郁 第四あゆみ通所施設放課後等デイサービス
今の子ども達を取り残さないために

これはアラサーの私が、ずっと心残りだった気持ちにケジメをつけたいと思って綴っている。以下の作文は、中学二年生だった私が、大人たちに話したかった主張だ。題名は「私の幸せ」。

私はこの春、4月で14歳の誕生日を迎えた。
幼稚園へ通っていた頃は、誕生日が来ると欲しいものが買ってもらえる、そんな喜びだけだった。
私は産まれてすぐ手術を受けた。
人の体には副腎という内臓が二つある。私は生まれた時、その1つが悪くて、副腎を一つ摘出するため手術でお腹を切った。それから14年間、1年に数回病院へ通って検査を受けるようになった。それが当たり前、私だけでは無いと思っていた。
病院に通っているのは自分だけだと知ったのは、小学生の頃だった。
私だけなんでお腹に傷があるのか母に聞くと、母は私が生まれたときに手術したことを話してくれた。そして最後に「お母さんのせいでごめんね」と言った。
その時、私はとても悲しい気持ちになった。
それから母は、今はあんな兄でも、私が産まれた時はどんな感じだったか、祖母や祖父がどんな気持ちだったかを聞く度に「ごめんね」を繰り返していた。
私は母に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
病院へ行った時、私は必ず点滴を打つことになっていた。私はわめくこともなく、半泣き状態だったそうだが、小学六年生になった頃、私は点滴がトラウマになっていた。
1ヶ月で4回病院へ行くこともあった。その時、私は母に「また行くの?」と言ってしまい、また母は私に「ごめんね」と言った。
私はその日の夜、寝る時に泣いた。なんで私なんだろう、なんで私が手術を受けなければならなかったんだろう、なんで私だけなんだろうと思った。そして私は、産まれてこない方が良かったのかもしれないと思った。
しかし、私が病院で学校を休んだ次の日、友達が私に「はーちゃんがおらんかったき寂しかった」と言ってくれた。
その言葉は私にとって、とても嬉しい言葉だった。
幼稚園へ通っていた頃は、誕生日が来ると欲しいものが買ってもらえる、それが一番の喜びだった。今は、家族、友達、先輩から「誕生日おめでとう」と言ってもらえる事が私にとって1番の喜びで、1番の幸せだ。

以上が中学二年生の頃に書いた作文だ。
当時の国語の教師は私の作文を褒めてくれた。正直大人の目線から見て、これをどう思うのか不安だった。しかし、1人でも大人が認めてくれたことがとても嬉しかった。そして、コンクールに出すことも勧めてくれた。
これを母は嫌がった。
母は、私の病状内容だけを省くなら良いと言った。しかし、それでは作文が成り立たなくなってしまうということで、コンクールに出すという話は無くなった。
「死んでもいいよ」と言って欲しいわけじゃないが、「産まれて来なければよかったんじゃないか」と思う気持ちを、「辛かったんだね」と言って受け止めて欲しかった。
自己満足で書いた小説を母に読んでもらった際は、母は優しい感想をくれた。しかし、あるトラブルで言い合いになった際には、私には自殺願望があるのだと、母は認識していることを言ってきた。理由は小説の内容がそういったものだったからだ。
私は文章で残すことで、気持ちを切り替えていた。しかし、母に見せることで傷つき、私の気持ちは文章の中に取り残されたままだった。その中でも最初の代表作が「私の幸せ」だ。
14歳の頃引き出しにしまった作文を、26歳の今でも誰かに見て欲しかったという気持ちが消えず、今回私はコンクールを通して社会に出すことを決めた。
私は今、障害を持った子ども達と関わる仕事をしている。
自分と似た子どもを探そうとするだろうと言う理由から、もともと療育に関わる仕事に就くつもりはなかったのだが、大学教授の勧めで今の職場にいる。そこには、自分の気持ちを言葉に出来ない子がいる。私はその子たちと向き合って、色んな方法で自分の気持ちを発信していけるよう、一緒に努力している。そして子ども達自身で発信出来るようになることを祈っている。私はそれを、私なりに受け止めていきたいと思う。

共和メディカル特別賞

尾崎心優 大阪公立大学2年
「動ける医療的ケア児・者」として伝えたいこと

 寒さと戦いながらも起きて朝食を食べて身支度をする。片道1時間半電車に揺られて大学に行き、授業を受ける。課題や最近のエピソードについて友人とおしゃべりする。所属する団体の活動に参加する。帰宅後には温かい夕ご飯を食べる。その後は課題と向き合い、お風呂に入り、のんびり過ごす。明日はどんな服装にしようか悩むこと数分、布団に入って眠りにつく。時には友人や家族と出かけるし、週末にはアルバイトに行く。これが私の日常。しかし1つだけ多くの人と違うことがある。それは、日常的に医療的ケアが必要なことだ。

 私は生後すぐ「先天性中枢性低換気症候群」と診断された。これは、呼吸中枢の障害により主に睡眠時に無呼吸や低換気となる疾患で、睡眠時に人工呼吸器の装着、場合によれば気管切開が必要となる。私も睡眠時には人工呼吸器で呼吸管理を行っているが、日中はほとんど制限なく生活できている。それにもかかわらず人一倍苦労したのは、地域の小学校に入学することだ。私は教育委員会から片道1時間以上かかる支援学校への進学を勧められた。理由は、医療的ケアが必要だから。しかし、「友達と一緒に小学校に行きたい」という私の意思を尊重して両親が小学校や教育委員会と何度も話し合ってくれた結果、私は地域の小学校に入学、その後も地域の学校で過ごし様々な経験をすることができた。大きな声援を送った運動会、友人と宿泊できた修学旅行、1つの音楽をつくりあげる楽しさと部長として大人数をまとめる大変さを知った部活動、甲子園のアルプススタンドから勝利を願った野球応援、エレクトーンアンサンブルを披露できた文化祭、学校帰りのおしゃべり、勉強漬けのテスト期間に受験生活。辛いこともあったが、今振り返るととても幸せな日々で私の青春だった。もし地域の小学校へ入学できていなければ、私はこのような経験をすることはできなかっただろう。

 全国に医療的ケアが必要な子どもは約2万人いるとされており、このうち歩いたり走ったりできる子どもは「動ける医療的ケア児」と言われている。その子らは動けるが故に制度の狭間に陥りやすく、周囲の理解を得るのも難しいことがある。普通学校への入学が困難なこともその1つだ。入学前に何度も話し合いが必要で、希望に反して支援学校や通信校への進学を余儀なくされることも多い。普通学校へ進学できたとしても、看護師が常駐していない学校ではケアをするために保護者の付き添いを求められることもある。遠方の学校へ進学となれば、その送迎も保護者の役割となるのがほとんどだ。どちらにせよ保護者の負担は大きく、働くことも自分の時間を持つことも困難となる。これでは子どもも保護者から離れて過ごす経験をできないため、自立を妨げ子どもの可能性を狭めていると考える。私自身も動ける医療的ケア児・者として過ごす中で、受けたい支援を受けられないこともたくさんある。何をするにも自宅から行ける・通える範囲で考えるし、友人と旅行に行く夢もまだ叶っていない。それでも、私は取り残されていると感じたことはない。それは、地域の学校で様々な経験と学びを得ることが出来たから。見守りながらも私のしたいことをサポートしてくれる先生がいるから。分け隔てなく接してくれて学校生活を彩ってくれた友人がいるから。何事も私の意思を尊重して働きかけたり協力したりしてくれる両親がいるから。命を救ってくれた医師はじめ医療スタッフの方々がいるから。そして、「社会福祉士として医療的ケア児とその家族の生活を支援したい」という目標に向かって進むことができたから。本当に感謝しています。

 そんな私が願うこと。その1つ目は、動ける医療的ケア児が進学する際の選択肢を充実させること。「動ける医療的ケア児」と一言で言っても、必要なケアや置かれた状況は様々だ。中には普通学校ではなく支援学校で学ぶことを希望する家庭もあるだろう。どちらにせよ、本人や家族の意思を尊重して選択できる環境を地域差なく整備して欲しい。2つ目は、そばで見守る家族の負担を減らすこと。子どものケアをするのは家族が圧倒的に多く、常に緊張状態を強いられ寝る間も落ち着いていられない。また、学校など関係機関へ働きかけることも家族が主体的に行わなければならないのが現状だ。だから、家族に息抜きできる時間や相談出来る人・場所があることで、不安が和らぎ自分を大切に出来るようになるのではないか。そして3つ目は、動ける医療的ケア児の存在を知ってもらうこと。医療の進歩に伴い医療的ケア児は年々増加しており、法整備などもされてきたことで認知度は上がっている。しかし、動ける子もいることを知らない人は多いように思う。私は当事者として、そして社会福祉士を目指す者として認知を広めていきたい。すべての医療的ケア児とその家族が誰1人取り残されることなく過ごせる社会になるように。

エーザイ特別賞

酒井結菜              シリウス神戸
病気とたたかうすべての人へ

今でも鮮明に覚えている景色がある。
変わらない病室の天井を見上げて、家族や友達を想っていたあの頃の自分は
ちっぽけで、これからに不安を抱えていた。しかし主治医の先生から頂いた言葉
「晴れの日もあれば、雨の日もある。今君にとって台風ならば必ず過ぎ去る日が来る。」
この言葉をきっかけに私は病気とたたかう人の力になりたいと思い、病棟保育士を目指すことになった。
社会人1年目、重症心身障害病棟で出会った患者さん
幼い頃から何十年もここにいると知ったときは、開いた口が塞がらなかった。
そんな中で果たして自分に何ができるのか、無力さを痛感するばかりであった。
重症心身障がいの患者さんは、言葉による訴えや感情の表出が難しいため、
アイコンタクトやスキンシップ、口の動きや目線、表情を汲み取ってコミュニケーションを
とる必要性がある。しかし知識も技術、経験もなにもない私は課題の山積み。
やさしい笑顔で患者さんと関わることを目標に、先輩から指導いただいたりして少しずつ知ることが増えていったある日、療育活動で患者さんと一緒にドライブに行く行事があった。当時コロナ禍ということもあり、制限は多くあったが私はそこでみた患者さん一人ひとりの表情が今でも忘れられない。窓から感じる冷たい空気、いつも同じ景色ばかりだったからこそ、すべてが新鮮に感じるかもしれない。声をあげて嬉しそうな笑顔をみせる方も、少し緊張した様子もみせながらも、しっかり目に焼き付けようと外を眺める方もいた。
私たちは好きな時に出かけたり、ご飯を食べたり、辛くなった時は誰かに話しを聞いてもらったり何気もない日常で、当たり前と言われる生活を送っている。重症心身障がいの患者さんはどうだろうか。悲しくなったときに悲しいって言えない。見てみたい景色、行きたい場所があったとしても簡単には行けない。病室で命と向き合っている人がいるということを一人でも多くの人に知ってほしい。想いを伝えたくても、言葉にして表現できない気持ちとはどんな感情が生まれるのだろうか、思い浮かべてみてほしい。
その現状と向き合って病気や障がいがあったとしても、諦めてしまうのではなく道標を共に探し、示していくことができたら、少しの光や生きる希望に繋がるのではないかと信じている。
月日が経ち小児病棟で出会った患者さん
一人の患者さんとボードゲームをしているときのこと、学校の話になり「私ね、将来イラストレーターになりたいと思っている」と夢を教えてくれた。「素敵な夢だね」と言うと
「うん。でも入院しているから全然学校に行けてないし、勉強も遅れているから不安やわ」と心の中にある不安を伝えてくれた。病院は病気を治すところである。だが彼女のように一人ひとり生活があってライフステージがあることを忘れてはならない。子どもにもあそび、教育を受ける権利があるのだから。病気になったから夢を諦める社会なのではなくて、病気があっても、様々な角度からあなたを支えて夢を目指していくことができるような支援があったらと願う。
病気と闘う子どもたちは、様々な不安を抱えて生きている。よく見る光景の中に子どもが泣いている場面と遭遇したことはないだろうか。
泣いてしまうのは悪い事ではなく、子どもなりのメッセージである。泣く要因は幅広くあるが、痛いだけとは限らないからだ。何をするのかわからず不安で泣いてしまう子ども、病院が怖いというイメージを創り上げてしまい、泣いてしまう子どももいる。
はじめて受ける検査や処置は私たち大人もちょっぴり不安で緊張したりすることだってあるはず。だからこそ子どもの目線になって説明やプレイ・プレパレーションは大切なのである。
私たちが思っている当たり前って本当はとても幸せなことなのだと、患者さんが教えてくれた。普段の日常が、彼女たちが思い描いている目標や夢だったりするのである。
入院している患者さんだけではなく、隣で支えているその家族も兄弟も
在宅でケアしている家族も。私たちはその人たちがいることを知る必要性があるから。
心も生活も取り残されている現状に目を逸らさず、スポットライトを灯したい。
本当の声に寄り添えられるように。
そして本当の声を出せるような社会であるように。
私はこれまでの日々を胸に、ホスピタルプレイスペシャリストという
「遊びの支援職」を目指し、スタートラインを立ったばかりだ。
いつか病気と闘うすべての人が、病室から一歩その先へ進められるように。
一人ぼっちじゃないよと手を差し伸べる私で在り続けたい。
誰一人残さないようにするにはどうするべきなのか、まだ答えが見つからないが、この意義を考える、思い浮かべることに意味があるのではないだろうか。
一人でも多くの人が想うこと、それが誰かの心を救うことに繋がると私は願っている。

入賞<小論文部門>

・ユン ピュー アウン(Yoon Phyu Aung) Dagon University(ミャンマー)
 誰一人取り残さない、質の高い教育を皆へ

想像してみたことがありますか。あなたは電気も交通手段もない田舎で生まれ、小学校しかない村に住んでいる子供としましょう。質の高い教育を受けることはおろか、基本的な教育を受けることさえ難しい状況です。これは、私が子供の時に住んでいた村の現実でした。
私はミャンマー南部の小さな村で生まれ育ちました。村のほとんどの人々は農業を営んでおり、大学卒業生は一人もいませんでした。知識が不足していたため、子供の教育に積極的ではありませんでした。多くの親は、読むことや書くことができればそれで十分だと考え、小学校を卒業するとすぐに子供を学校から退学させました。教育を続けたいと思っても、経済的な余裕がなく、退学させざるを得ない親もいました。さまざまな理由で学校に通えなかった子供たちは、農作業を手伝うことになりました。私は進学できましたが、仲間たちはできませんでした。彼らは取り残されてしまったのです。そのため、私は誰もが教育を受けられる世界をずっと望んでいました。
私は進学するために、家族とともに都会に引っ越しました。進歩的な都会の明るい光を見たとき、私が住んでいた村はどれほど取り残されているかを初めて実感しました。高校を卒業した後ある日、英語のクラスで先生からSDGsのことを教えてもらいました。SDGsの中で「質の高い教育をみんなに 」という目標を聞いたとき、故郷の村のことを思い出しました。私の故郷の子供たちにも質の高い教育を届けたい、彼らを取り残してほしくないと強く思いました。しかし、どこから始めればよいのか分かりませんでした。2021年の夏、私は自分の故郷を訪れる機会がありました。村に着くと、昔の記憶が蘇り、子供たちの遊ぶ姿や、農作業を手伝う姿が目に浮かびました。しかし、同時に彼らが教育を受ける機会が限られている現実を痛感しました。村の子供たちは、私が都会で受けているような教育を受けられず、未来への希望を失っているように見えました。
私は何か行動を起こさなければならないと強く感じました。まずは、村の人々と話をし、彼らの考えや希望を聞くことにしました。どのような教育が必要なのか、どのように支援出来るのかを理解したかったのです。多くの親たちは、子供が学校に通うことの重要性を理解しているものの、経済的な事情や日々の忙しさから、教育を優先することが難しいと感じていました。そこで、私は小さな教育プログラムを立ち上げることを決意しました。村の子供たちに放課後の学習支援を行うことにし、私はボランティアとして、8ヶ月間、小学校・中学校レベルの読み書きや算数を教えました。初めは少人数でしたが、次第に子供たちが集まるようになり、彼らの目が好奇心で輝いているのを見て、私は成果を実感しました。プログラムが進むにつれて、村の人々の意識も変わり始め、村全体の教育に対する関心が高まっていくのを感じました。短期間でしたが、私の活動が村の子供たちに未来への希望を与えていることを実感しました。
我が国では内戦が起こり、貧困が広がっています。私は教育の力を信じています。貧困と戦争を減らすためには、教育が非常に重要だと信じています。教育は人々に希望を与え、未来を変える力を持っています。SDGsの「質の高い教育をみんなに」という目標を胸に、私はこれからもさまざまな活動を続けていきたいと思っています。私たちは、どこから来たとしても、肌の色がどうであろうと、体に障がいがあっても、平和な環境で教育を受けるチャンスを得るべきではないでしょうか。
親や地域の人々が支え合い、子供たちを見守ることで、より豊かな学びの場を提供できます。すべての子供たちが持つ夢や希望に耳を傾け、努力と成長を促す環境を作ることが、私たち大人の使命ではないでしょうか。“未来を担う子供たちを、誰一人として取り残さないために”、それが私の誓いであり、行動の指針です。誰もが教育を受けられる世界を作りましょう。教育の力で、すべての命が輝く未来を共に築いていきましょう。

・韓 欽屹 三田学園高校1年
個々の意識が世界を変える『第一歩』
皆さんは自分の価値観だけで生活をしていないだろうか。相手のことをもっと知ろうと思ったことはあるだろうか。理解しようとする姿勢も示さず勘違いしていないだろうか。
「中国人なのにすごいね」僕は長い間この言葉に悩んだ。
僕は出身も国籍も中国の純粋な中国人である。二歳まで中国にいる祖父母に育てられ、それから母に連れられて日本にわたってきた。幼稚園時代は周りのみんなと同じように生活していた、いわば普通の子供だった。しかし、小学二年生のころに担任が放った何気ない一言が僕の頭をかき乱した。
「中国人なのに先生の言う言葉がわかるなんてすごいね」
彼女は笑顔で言った。きっと僕を傷つけるつもりなんてなかったのだろう。
しかしこの言葉はずっと僕の心の中に残ることとなった。
「中国人って僕たちと顔が似てるね」
「中国人って身長が高いんだ」
「中国人って虫食べるんでしょ」
「トリリンガルなんてすごいじゃない」
「中国人は漢文できて当たり前だよね」
「母国へ帰れくそ野郎」
「中国語しゃべってよ」
「中国人てあまり風呂に入らないんでしょ」
これらは僕が実際に言われた言葉である。僕は虫を食べないかもしれないし、中国語が話せないかもしれないし、漢文が苦手かもしれないし、毎日お風呂に入ってるかもしれない。みんなが思っている中国人みたいなマナーが悪い人じゃないかもしれない。
それなのになぜみんな僕個人じゃなくて『中国』ばかりに目が行くのだろう。自分が中国人と明かさなければ日本人と同じように接してくれる。レストランや病院で名前を僕が明かすだけでやたらと気を使われる。身振り手振りで話してくれる。「外国人だから優しくしよう」と思われているような気がした。
中国人はいわばステータスの一つにしか過ぎない。それなのにみんな一度異分子がいると判断すればやたら特別扱いをしてくる。彼ら自身の枠に当てこんで物事を判断する。それが一番楽だからだと思う。僕はこう思った。
「僕は『中国人』ではない。『韓 欽屹』である。僕にはしっかりとした名前がある。『中国人だからきっとこうなんだろう』と思ってほしくない」
彼らの自覚のない先入観や偏見は僕を苦しめた。たとえそれが差別だとしてもやさしさだとしてもレッテルを張られてしまうとがんじがらめになる。「僕はこれからも、ただの中国人として生きていかなければならないのか」頭が真っ白になった。個性が何者かに奪われたような気がして自分はいったい何者なんだと考えるようになった。みんなと対等にいたいがために将来帰化することも考えた。
またある日父は僕にこういった「父さんは日本人じゃないから昇進ができないんだ」
個々の能力をみられず、みんなと違うから、外国人だからという理由でひとくくりにされることは不公平であって許されないものだと思った。またそれを許している環境はもっといけないと思った。中学卒業するまで僕はひどく落ち込んだ。人生を心の底から楽しめているとは言えなかった。
しかし高校に入学してから僕に転機が訪れた。学校にオーストラリア人の留学生K君がやってきた。彼が唯一僕を個人として尊重してくれた。一緒にバスケをして、ご飯を食べて、テレビゲームもした。僕ははじめて救われたような気がした。彼が住むオーストラリアはアジア系、アフリカ系。ヨーロッパ系など様々な人種がまじりあう移民国家である。外国人が対して特別でなかった彼の環境は僕にとってうらやましかった。明るい彼と触れていくうちに僕はこう決心した。世界はこのままではいけない。僕が世界を変えないと。僕みたいに「~だから」という理由で可能性を封じ込められて挑戦するチャンスをなくし見限られる、個性が消えていく人々は数えきれないほどいるのだろう。だからオーストラリアが外国人の偏見がないといったように特別な特徴がある人が偏見や先入観がない状態がみんなが暮らしやすい環境になると思った。僕が世界をかえる。悩みから吹っ切れることができた。胸のつかえがとれたような気がした。
「男だから~」「女だから~」「幼いから~」「若いから~」「老いているから~」「障がい者だから」「外国人だから」「ゲイだから」「金髪だから~」「タトゥーを入れてるから~」といったまちがった 常識が人々をひとくくりにして何の個性もないロボットに作り上げる。彼らのよさを殺す。本当の自分が出せず生き辛くしててしまう。法律や条例を作ったとしても本当の解決にはならない。だから僕はまずみんなの独断や偏見をなくし、意識を変えることが「誰も取り残さない」ことへの第一歩となると思う。そのために「知りたい」「シェアしたい」といった、どんな特徴を持っていたとしても互いを理解しあう姿勢を示すことでみんなが個人として接することができて個人として尊重されるような社会にしようと思った。

・宮川 凜胡 筑波大学医学類2年
 あなたのこんにちはが命を救う
 自分の言葉が無視される、伝わらない、街のルールが分からない、福祉サービスが分からない、だから受けられないー
 他の人にとって当たり前の権利が自分には当てはまらない、そんな生活をあなたは不公平だと思うだろうか。これが日本語が話せない在日外国人の現状なのだ。
 言語の壁があると、外の世界との繋がりは一気に弱くなってしまう。何が起こっているのか状況の把握が難しくなり、社会に溶け込みにくくなってしまう。日々の生活や緊急事態においても「取り残されてしまう」可能性が高くなるのだ。
 例えば、私が住む地域の池には、「水質保護のため鯉や鳩に餌を与えないでください」と書かれた看板が出されている。ほとんどの人はそのルールを守っているが、それでも外国語で話す人たちがパンをちぎってあげているのはよく見る光景だった。5歳ぐらいの女の子と英語で会話をしている家族が餌をあげていた時、私は勇気を出して彼らに話しかけてみた。世間話から始まり分かったのは、彼らに悪気はなく、単にルールを知らなかっただけということだった。日本語でしか注意書きがないことを考えれば、誰かが教えない限り仕方がなかったのだ。ほんの少し話をしただけで、これからパンは自分で食べるねと女の子もすぐに分かってくれた。
 外国人たちが孤立してしまうのは日常生活だけではなく、災害など緊急事態においては命に関わる危機的状況に繋がってしまうかもしれない。先月、私もボランティアとして参加しているNPOで、地域に住む外国人と中学生の共同防災イベントを開催した。さまざまな災害が起きたときのことを想定して、随時どんな行動を取るべきなのかということを一緒に考えてもらうという企画だった。その中で最も印象的だったのは、地震が起きたときの対応の違いだ。私は日本で生まれ育ってきたため、地震が起きたら机の下など安全な場所に隠れるものだと思っていた。しかし、ペルー人のメラニーさんは、地震が起きたらすぐに建物の外に走って逃げろと教わっていたそうだ。ペルーには耐震性に乏しい建物も多いため、巨大地震が発生したときに建物の下敷きになるのを防ぐためらしい。ペルーでは模範とされる行動だが、日本で地震が発生したときには逆に混乱や事故を招いてしまうかもしれない。
 このように、常識や育ってきた環境が異なる人々と生活をしていくためには、コミュニケーションをとりお互いの考え方の違いを知る必要がある。一方が正しいのではなく、状況に合わせて、より良いルールを選択してくことが大切なのだ。国際化は止まらない。技術の進歩に合わせて、世界中の人と人との距離はどんどん近くなる。これからの日本の将来を考える上で、在日外国人の存在は一層かけがえのないものになっていくだろう。
 互いの弱みを補い合って強みを生かすことのできる社会、これが真の「誰一人取り残さない」社会だと私は考える。もちろん自治体や政府が動くことで変えられる社会の仕組みもあるだろう。ただ私たちひとりひとりの意識を変えることが誰一人取り残さない社会の実現には欠かせないのだ。まずは挨拶からでいい、完璧な外国語で話す必要なんてない。自動翻訳アプリを使っても良いかもしれない。お互いに、ほんの少し興味を持つことが大切なのだ。少しずつの会話を通じて、考え方の違いや、日常の思いがけない問題点に気がつくこともあるだろう。私は国籍や出身によって当たり前の権利を損なう人が一人もいなくなってほしい。本稿を読んでくれているあなたも、私と一緒に小さな行動を積み重ねてはくれないだろうか?

・五十嵐 蓮 春日部共栄高校第2学年
 親である前に人であれ
 私は現在私立の高校に通っており、日本人の母、祖父と双子の弟と5人で暮らしている。血のつながったスリランカ人である父親は生まれてからあったことがない。新しい義父は9歳のときにいなくなった。義父からは私が小さかったことをいいことに虐待とも言える嫌がらせを受けてきた。その影響か、私はほんとに嫌なことがあると心の奥底にそれらをしまってしまう。母には仕事や持病があったので私を助けることができなかった。母とけんかして怒鳴り声を上げる義父が私はものすごく嫌いだった。母を養護できない自分にとても腹がたった。しかし小学2年のある日転機が訪れた。私はお風呂場で義父の嫌がらせを受け、それを感じた祖母が私を助けてくれた。私はほんとに嬉しかった。あの場所から救ってくれたことに。そこから私は埼玉県に引っ越し義父とは関係のない日々を送った。小学校3年生からは新しい学校に転校した。以前の小学校ではハーフが理由でからかわれたのでみんなに受け入れてもらえるか心配だった。だが、周りの友達はみんな優しくて、こんな自分でも””楽しくていいんだ””と思った。中学校に入るとサッカー部に入り初めて何かを頑張れる、そして自分を必要とされた。公立高校を受験したが落ちてしまったので県内の私立高校に入ると似たような境遇にあっている人たちに会った。何かのご縁で彼らに会えたのが嬉しかった。そこで、今までの苦痛を共有することができた。両親がいる友だちには「かわいそう」と言われるが、今は自分の家庭に満足している。この経験からは私は、何か強い立場を利用して、弱い立場にある人たちを理不尽に怒り、いじめる人たちを許せない。そして弱い立場にある人たちを助けたい。
日本には私以外にも何らかの理由で母親がいない、父親がいない人たちがおり、すべての世帯数に占めるひとり親世帯の割合は、母子世帯が4.38%、父子世帯が0.54%となっている。これは前年度の二倍である。さらに、子ども虐待に関する統計調査において,父母がそろっている世帯と比較し,母子世帯などひとり親世帯は虐待の発生率が高いことが指摘されている。令和4年度の児童相談所による児童虐待相談対応件数は21万9,170件あり、令和3年度より約1万件も増えている。このことからひとり親世帯の虐待が増えつつあることがわかる。虐待を受けないために親の顔を伺って「今日は機嫌がいいから大丈夫」などと思って他の大人に頼らないことも少なくない。
このような経験をした私が伝えたいのは、周りの大人、例えば近隣の人や学校の先生などに「他の人に迷惑をかけてしまうかも」「恥ずかしい」などの考えを一旦忘れてしっかりと伝える””勇気””を持つこと。そして何よりも重要なのは、その””声””に周りが気づくこと。ただ見て見ぬふりをする傍観者となってはダメだ。確かに一人ひとりが気づくのは難しい。だからせめて自分の家の近くには気を配ってみよう。誰ひとり残さないために、私たちは心の耳を澄ませ、子どもたちの小さな声を見逃さないようにしなければない。彼らの未来は、私たちの手の中にあります。温かい目で見守ることで、虐待の影を一掃したい。私たちの一歩が、彼らの笑顔につながると信じて。

・今井 颯太 青山学院大学3年
 静寂の中の希望
 私は、幼い頃から「音」が苦手だった。一見、何気ない環境音が私の耳には容赦なく響き、頭の中を掻き乱す。教室のざわめき、時計の針が刻む音、教師が黒板にチョークを擦る音。その全てが耐えがたく感じられ、授業に集中することも友達と楽しく過ごすこともできなかった。
 周囲に相談する勇気もなく、私はただ「できない自分」を責めた。「普通にできるはずなのに」と自分に言い聞かせ、無理に環境に馴染もうとするうち、心はどんどん閉じこもり、孤立していった。ある日、担任教師に「もっと頑張れば友達もできるよ」と言われ、私はそれ以上の説明を諦めた。その言葉が、私の悩みを無いものとして扱ったように感じたからだ。
 そんな私が「聴覚過敏」という特性を知ったのは、大学に入学してからだった。ある授業で、自閉スペクトラム症に関する資料を読んでいた時、「特定の音が強調され、苦痛を感じる場合がある」との記述を目にした。そこに書かれていたのは、まさに私の経験そのものだった。「これが私だ」と初めて理解した瞬間、涙が止まらなかった。
 しかし、私をもっと驚かせたのは、同じような体験をしている人々が少なくないという事実だった。社会の中で「音」に苦しむ人々が、私だけでなく、さまざまな背景や状況の中で「取り残されている」。それに気づいた時、私の視点は「私の苦しみ」から「私たちの課題」へと変わった。
 私はまず、自分の周囲に声を上げることから始めた。授業中に音楽が流れる環境が負担であることを教授に伝えたところ、驚くほど簡単に「静かな環境」が実現した。教授は、「早く言ってくれればよかったのに」と言ったが、私はそれまで声を上げることができなかった。声を届けることの重要性を改めて痛感した瞬間だった。
 だが、この経験を通じて気づいたのは、私たちが直面している課題の根本は、問題を抱える側が声を上げられない環境にあるということだ。特性や障害を持つ人々の苦しみは、往々にして「見えない」ものであり、それが社会の中で無視されやすい要因になっている。「誰ひとり取り残さない」社会を実現するには、「見えない」声を拾い上げる仕組みを作らなければならない。
 具体的には、まず学校教育の中で、多様な特性を持つ人々の視点を学ぶ機会を増やすことが必要だと考える。これにより、子どもたちが将来、他者の苦しみを想像しやすくなり、感受性が育まれる。また、職場や学校には、匿名で意見を伝えられる仕組みを整え、誰もが安心して声を上げられる環境を作ることが求められる。さらに、VR技術を用いたプログラムを開発し、聴覚過敏や自閉スペクトラム症の感覚を健常者が疑似体験できるようにすれば、当事者の視点を理解する助けになるだろう。
 これらの施策は、単に特性や障害を持つ人々を支援するだけでなく、社会全体の感受性を高め、多様な人々が活躍できる土壌を育てるものだと信じている。
 私のように「音」に取り残される人がいる一方で、「色」に苦しむ人や、「匂い」に敏感な人もいるだろう。私たちの社会は、多くの「見えない取り残し」に満ちている。しかし、その一つ一つに耳を傾け、解決に向けた一歩を踏み出すことは決して不可能ではない。
 私たちは、自分の身近な問題に気づき、声を上げ、行動することで、社会を少しずつ変える力を持っている。「誰ひとり取り残さない」社会は、私たち一人ひとりの行動から始まる。私が声を上げられたように、これからも小さな声に寄り添い、広げていきたい。それが、私にできる「取り残されない未来」への第一歩だと思う。

・松本 悠生 神戸市看護大学1年
 あの冬桜のように
私の家の近くには冬桜が生えている。冬桜とは1年のうちに2回花を咲かせる桜だ。春は大輪の花、秋から冬にかけては少し小ぶりな花を咲かせる。私はその冬桜をみると思い出す。辛かった日々を、そして人も冬桜のようにもう一度咲くことができるということを。
私は賢い子だった、らしい。
「すごいね、さすがだね」
幼稚園でも、小学校でも、中学校でもそう言われてきた。高校受験も家の近くで偏差値が高い高校を探した。そして高校に合格し、入学式の日を迎えた。その日は桜が咲き誇る晴れた日だった。家の近くの冬桜も綺麗に咲き、私を祝ってくれているようだった。みんなが私に期待していた。私はそれに応えてきたし、これからも応えていくつもりだった。私はできる子だ、そう思っていた。
しかしその日は突然訪れた。うつ病だった。
朝布団から起き上がれなくなった。朝に目が覚めると頭が痛くなり、お腹が痛くなるようになった。たとえ起き上がっても玄関で立ち止まってしまい、外に出れなくなった。
私を祝うように咲いていた冬桜もいつの間にか散り、どう咲いていたかも思い出せなくなった。世界が私1人を残して進んでいくような、世界から私だけ取り残されたような、そんな気がした。
原因は学業面での挫折だった。高校には天才や私よりもずっと努力している人が沢山いた。私はできる子じゃなかった。今まで苦に感じたことがない試験がどうしようもなく怖くなった。まるで自分が凡人以下であることを証明するための処刑台のようだった。
周りからの励ましや慰めの言葉も私にとってはただ見放されているようにしか感じなかった。
「あなたはもう着いてこなくていいよ」
「頑張れないならもう要らないよ」
そう言われているみたいで。今まで少し重いとすら感じていた期待が、恋しくてたまらなくなった。期待されないことがどれだけ辛いか知った。それからは家に引きこもり、曜日や季節の感覚もなくなるような日々を過ごした。それは終わりのないトンネルを1人で進んでいるようだった。途方もなく長く感じる時間で私は考えた。でも、私がダメになってしまったということ以外は何も分からなかった。これが夢であればいいと何度思ったことか。私がこうしている間にも周りの友達や世界はどんどん進んでいく。気が付いたときには友達とも連絡を断ち、両親とも会話をせず塞ぎ込むようになっていた。いくら手を伸ばしても、目を凝らしても、もう何も見えなかった。
時は流れ高校3年の夏、私は担任と二者面談をしていた。そろそろ大学受験について考えなければならない時期だった。私は半分諦めていた。1度ダメになった人間が何をしても意味が無いと思っていた。ただ担任が「推薦入試で面接と小論文だけに絞ってチャレンジしてみないか」と何度も言うので少し足掻いてみることにした。まだ、自分の全てを諦めることはしたくなかった。その日の夜、両親に受験に挑戦することを話した。両親はとても喜んでくれて、「あなたならできるよ。応援してる。」と言ってくれた。見放されたと思っていたのは私だけだった。誰も私のことを見捨ててなんかいなかった。
また学校に通うということを勇気を出して友達にも伝えてみた。友達も私が学校に帰ってくるのを待ってくれていて、遅れている分の勉強を教えてくれることになった。その友達の助けもあり、それからは少しずつ学校に通えるようになり、授業も周りと一緒に受けることができるようになった。
世界が周回遅れの私を拾い上げてくれた。そう感じた。それは冬桜がひっそりと咲く10月のことだった。
今私は大学生をしている。担任の勧めで受けた推薦入試に合格したのでその後の高校生活は療養に努め、今は元気に大学生活を送っている。周りもみんな同い年で、私がうつ病だった事実なんてまるで存在していないような毎日を過ごしている。それでもあの闇に飲まれた日々を忘れることはない。私が1度世界から取り残された事実は二度と変わらない。
私の花は既に1度散ってしまったのだろう。
それでも周回遅れのこの世界で再び花を咲かせてみたい。
あの冬桜のように。

・匿名 慶應義塾大学大学院 修士1年
 グレーゾーンとして生きていくということ
 小学校3年生のある日、私は人生の旅路を踏み外したような感覚に襲われた。ある日突然、喉で高い音を鳴らしたいという衝動に駆られるようになり、四六時中、高い声を突発的に発するようになってしまったのだ。周りの人たちからは「やめなさい」と何度も注意されたが、自分の意思ではどうにもならなかった。埒が明かず、小児科の病院に行ったところ、チック症と診断された。チック症とは、脳内のドーパミン受容体が過敏なために発症する神経系疾患である。具体的には運動チックと音声チックに大別され、運動チックは、意思に反して体を動かしてしまう症状で、音声チックは、意思に反して声を出してしまう症状である。私の場合、当初は喉を鳴らす音声チックのみだったが、小学校4年生に上がると首振りといった運動チックも併発し、さらに5年生ではお腹や手を動かす症状や、意味もなく笑い声をあげてしまう症状も加わり、日常生活が困難になっていった。小学校6年生になると物事を何度も確認してしまう強迫性の症状も併発し、そして、高校生になると、音声チックの一環で汚言も言うようになってしまった。
 こういった中で、私は自分なりに症状を抑えるための方法を模索してきた。例えば、思考を意図的に低下させてドーパミンの分泌を抑えたり、症状を目立たない小さな動きや音に変換する工夫をしたり、チックと多動性がトレードオフの関係にあることを利用し、立ち歩く回数を増やすことで症状を軽減させたりなどである。こういった取り組みの末、今では症状を劇的に改善させることができた。しかし、症状が改善しても、常時こういったことを実践しながら生活していると、日常におけるハンディキャップは依然として大きい。加えて、症状の改善を理由に障害者手帳の申請を医師から勧められず、支援を受けられないという状況に直面した。そのため、いわゆる「障がい者のグレーゾーン」という立ち位置になってしまったのだ。ハンディキャップはあるのにもかかわらず、それに対する適切な処置がない。つまり、社会から取り残されてしまったような存在となってしまったのだ。
 この経験を経て、私が感じたことは、きっと世の中には私のように健常者でも障がい者でもない「グレーゾーン」にいる人が数え切れないほどいて、各々がいろんな悩みを抱えているのではないかということだ。そして、社会はその存在に目を向けず、支援の手を差し伸べることはないのだ。この現状を変えるために、私は「みんなの手帳(仮称)」という新たな支援策を提案したい。この手帳は、準障害者手帳として、障がい者のグレーゾーンの人たちが適切な支援を受けられる仕組みを整えるものである。また、名称に「障害」という言葉を含めないことで、申請に対する心理的抵抗を軽減することも目指す方針だ。さらに、専門医による相談窓口を設け、自分自身の状況を共有し、必要な支援を受けられる環境を作ることも重要だと考える。そうした取り組みの末、より生きやすい世の中となるのではないかと思う。
 この世界には実に多くの「グレーゾーン」が存在する。障がいの有無だけでなく、パワハラやモラハラ、いじめ、虐待、ジェンダー差別、人種差別といったさまざまな境遇や状況が、私たちの日常の中に多く溶け込んでいる。これらの問題に共通するのは、当事者たちが声を上げにくい環境に置かれ、適切な支援や理解を得られないまま、孤立を感じてしまう点だ。この現状を踏まえると、グレーゾーンにいる人々が生きやすい環境を築くためには、福祉政策や支援策の改善はもちろんのこと、それに加えて私たち1人ひとりの意識改革が求められているのではないだろうか。他者への共感を育み、それを行動に移すことで、初めて新たな一歩を踏み出すことができる。例えば、誰かの小さな悩みや苦しみに耳を傾ける、偏見にとらわれずに相手を受け入れる、あるいは必要な場面で手を差し伸べるなど、日常的な行動における小さな積み重ねが、社会全体を変える大きな力となるだろう。
 グレーゾーンとして生きていくということ、それは、見えない領域で懸命に足掻きながらも、自分らしさを探し求め、受け入れ、磨き上げていく行為そのものである。このような未来を目指し、私はまず自分自身が変化の起点となる覚悟を持ち続けたい。そして、私と同じように見えない壁に立ち向かう多くの人々とともに、希望を共有し、より良い社会を作るために行動していくことを誓いたい。誰ひとり取り残されず、そして誰もが自分らしく生きられる世の中を目指して。

・西釜 千尋 日本福祉大学大学院 修士1年
 誰も守ってくれない~性被害者支援の欠如と改善に向けて~
 大学1年から、長い間性被害を受けていた。当時付き合っていた彼氏の兄から、最初は彼氏とのセックスを盗撮されて、脅しに使われた。
「お前これ、インターネットでばらされたくなかったら、部室に来いよ」
 一人で行ったことを悔やんでいる。誰かに相談すればよかった。
 でも彼氏を守りたくて、怖くて、黙って行った。追い詰められていた。
動画を消してくれるかな、なんて甘い妄想は打ち砕かれ、地獄のような日々が待っていた。
 相手は力が強かった。抵抗して首を絞められた時、自分に無性に腹が立った。
 脅されて犯されてバカみたい。私ってこんなに価値のない人間だったんだ。
 脅しも日に日にエスカレートした。動画もたくさん撮られた。逃げ出そうとしたら包丁で脅された。裸で部室に縛られたことも、複数人が来たこともあった。でも誰にも相談しなかった。すべてが壊れると思った。家族にたくさん迷惑をかけると思って、誰かに話したら殺されると思って、言えない理由だけはいくらでも出てきた。
 死ねたらいいのに、このまま死ねたらいいのに。そしたら明日の朝刊に載って、晴れて私は自由の身。バカげた妄想が頭をかすめて、逃げ出した駅のトイレで何回も吐いた。
 それから、LINEに知らない人から友達追加されるようになった。
 「動画見たよ~ 俺とも遊んでくれる?」
 彼氏の兄が紹介したらしい。怖かった。きっとこの人たちは私が遊んでいる女だと、本気で信じている。大学に行けば、誰が動画を見たか分からない。人に会うのが怖くなり、休学した。誰からの連絡も怖くて開けなかった。
 私は自分のことを全く大切にできなくなっていた。家族が、様子の変わった私を心配することすら申し訳なかった。こんなバカな娘でごめんなさい。そんなことばかり考えていた。
 でもある日、気づいてしまった。私以外にも被害者がいるかもしれない。もしかしたら、私がいない間、誰かが代わりになっているのかもしれない。そう思ったら居ても立ってもいられなくなった。あの人たちを止めなきゃ。警察に行かなきゃ、全部話さなきゃ、自傷行為だった。罪滅ぼしのつもりだった。
 被害からかなり時間が経っていたが、大学の一番信頼している先生に、LINEの文面と送られてきた動画を見せて、精一杯のSOSを出した。自分の生活は壊れたってよかった。私が我慢すれば耐えられるけど、他の人が同じ苦しみを負うのだけは許せなかった。
 先生は、すぐに警察に相談できる手はずを整えてくださった。女性警察官に話を聞いてもらえた。でも、女性警察官の言葉に、希望は打ち砕かれた。
 「被害届を出したいのなら、体に精液を付けた状態で病院を受診してくれないと」
 耳を疑った。もう一度被害に遭えと言われているみたいだった。たしかに部室は密室で、相手と私以外目撃者はいない。でもこの文面は、動画は証拠にならないの?混乱して、また吐き気が襲ってきた。抵抗した様子の再現もさせられた。何これ、こんなごっこ遊びで何が分かるの?不信感でいっぱいで、もう何も話せなくなった。
「また困ったことがあれば言ってください」と連絡先の登録だけして帰らされた。
 後日、警察から電話がかかってきた。警察は相手を呼び、スマホの確認をしたそうだ。
「スマホには動画がたくさんあり、厳重注意の上消させました」
 え?それだけ?他の人に送っている可能性があるので見てほしいです。
「あなたかどうか確定できませんでした。それにスマホの提出は強制できないです」
確定できないってことは、他にも被害者がいたのかもしれないですよね?
「それは、分かりません」
それだけだった。電話は、それだけ。私の頼みの綱は切れてしまった。
 相手はこれからも普通に生きることができて、それだけ。
 大人になった今、私は警察の言うことも分かる。公正な判断のため、私の意見を丸呑みすることはできない。病院で精液が採取されれば何よりの証拠になる。間違ってない。間違ってないけど、ただ、その時、私は…。
誰も守ってくれない。自分自身が自分のことを一番許せない。性被害に遭った人を、トラウマの記憶が責め立てる。社会に取り残される。今でも吐きそうになる。
私の「やめて」は届かなかった。社会に声は届かなかった。
刑事司法には福祉の視点が必要だ。被害者が声を上げるまでに、多くのハードルがある。女性警察官が話を聞くだけでは十分ではない。被害者を絶対に泣き寝入りさせてはいけない。何のための正義か。
 社会には届かない声を救い上げる仕組みが必要だ。地方公共団体には被害者の総合支援窓口が設置されている。しかし相談業務にあたる約90%は兼務であり、さらに対人援助職の資格を持つ人は約1割にとどまる。私は、被害者の心理を理解し、その回復のプロセスを専門的に学んだ専門職による、いつでも相談できる窓口が必要だと考える。
最後に、「あなたは悪くない、あなたは悪くない」あなたは一人じゃない。
当時の私に届け。届け。

・浅沼 和 横浜市立老松中学校3年
 α世代を生きる
私は、中学校で女子でただー人サッカー部に入った。私は、小さいころからサッカーが好きで地元の女子サッカースクールに入っていた。しかし、中学校になると、どのサッカースクールも家から遠く、女子のチームに入る、というのは諦めざるをえなかった。
そこで私は、自身の中学校のサッカー部に入ることにした。特に男子のみなどの縛りはなかったものの、他の人は全員男子であった。周りの人はとても優しく、私がサッカー部にいることも早めに受け入れてくれた。
でも、受け入れてもらえなかった人もいた。それは、同学年の女子である。
「女がサッカー部とか男好きすぎだろ。」「サッカー好きなふりして男狙ってんでしょ」と、心ない言葉を言われることが最初は多かった。
だが、あいにく私は、メンタルの強い方だったので、あまり気にしたことはなかった。
そんな状況が一変したのは、2024年の冬である。
サッカー部の一人と仲良くなり、付き合うことになった。そのことが広まると、周りの女子の目はより怖くなった。
「やっぱり、男狙いで部活やってんのかよ。」
「あんなに男好きなら、すぐ浮気しそう。」
とまた、言われるようになった。
その時大好きだったサッカーを辞めたいと初めて思った。私は、サッカーも弱く、ベンチにすら入れない。学校では、陰で文句を言われ、なぜサッカーをやっているんだろう、と何度も思い悩んだ。
私は、誰にも相談できなかった。
家族にも、友達にも、
数ヶ月たつと陰口も落ちつき、気にすることがないような生活になった。でもこの時の私はサッカーが原因じゃないと気づかなかった。
私は、自分で言うのも何だか、運動ができる方である。体力テストは今まで全て最高評価とっている。
なので、体育の授業では周りの人をサポートしたり、たくさん動いたりと「目立つ」人であるのは客観視してもそう思う。
でも、目立ってしまうと「体育の授業なんだから自分のチームだけじゃなくて相手のチームのことも考えてほしい。」
「なんか、ただ運動できるだけで調子乗ってるよねー」
と、野次をとばされることもある。
私は、普段の体育の授業で私は、チームで勝つためにボールをまわしたりパスをしたりするなどしているが、毎度文句をいわれてしまうことが多い。
これらは私の体験ですが、学校は私たちにとって2番目の家であるといっていいほど身近です。しかし、家とは比べ物にならないくらいたくさんの人が集まっています。
たくさんの人がいればもちろん意見も対立するし、全員に好かれるというのも難しいと思います。
つまり、虐めゼロ、陰口ゼロというのは現実的に無理なのではないでしょうか。
実際、スローガンをかがけて無くなった地域はあるでしょうか。
だから、私は身近にいる大人が子供に寄り添ってあげることが大事だと思います。
私はあまり気にしていませんでしたが、周りの反応や陰口によって辛い思いをする人の方が多いと思います。
今、子どもの自殺率は右肩上がりになっています。でも、私は子どもの問題ではなく国の問題、そして家庭の問題にもつながっていると思います。
今のα世代を生きる私が、年上の皆さんに知ってほしいことは、学校で生きるのはとても難しいということです。そんなん知ってるよ、という人や、そんなわけないでしょ、と思っている人に知ってほしいのです。
私はまだ小学校と中学校しか体験していませんが、私が思うに中学校の生活は一番難しいです。
なぜなら、心が成長している人、成長していない人、すでに成長しきった人が混交するからです。
私の文を読んでいただいている皆さんのまわりに子どもはいますか?
皆さんが子どもに声をかけてあげたり、そして悩みをきいてあげれば、子どもの自殺率は少しでも減っていくのではないでしょうか。
私は、いろんな人と寄り添いあうことで誰ひとり取り残すことのない世界を作れると思います。

・尾﨑 礼菜 英数学館高等学校1年生
 「孤児」として生き、「日本人」として闘う―忘れてはならない歴史
「日本人であることを証明せよ。」
 1972年、日中の国交が回復した当時、祖国である日本に帰りたいと願った「中国残留孤児」と呼ばれた子どもたちは、祖国に帰るために、中国当局と日本政府とに、自分が日本人であるということを証明しなければならなかった。
日本で生まれ、中国で育った孤児たちは、日本語を話すことができず、生みの親であるはずの日本人がどこにいるかさえもわからない状況であった。そのなかで、自分が日本人であることを証明せよと要求されたのである。それは何よりも難しい証明であったにちがいない。
 そもそも、中国残留孤児が生まれた背景には、戦時下の日本の領土拡大があった。日本が植民地とした満洲、内蒙古、華北に人々を入植させ、満洲国を建国した。そうして日本の勢力を拡大を図った。その中には戦時下ということもあり、軍の命令に逆らえず、仕方なく満州に渡ったという人々も多かったという。戦局が変わり、1945年、日本が戦争に負けてしまう。日本国内はもとより、外地にいる日本人にも動乱が起こった。その動乱のなか、中国にいる日本人たちは生き伸びるために、中国人に幼子を託すようにして日本に帰国したという。それから27年、日中の国交は途絶えたままになっていた。1972年に日本と中国の国交が回復したものの、中国にいた孤児たちは成人し、日本にいる肉親を探し求めようとした。
 戦争の語り部として福山で生活する川添瑞江さん(84歳)も、孤児の一人である。川添さんは、1938年に旧満州で、日本人として生まれた。戦時中、両親と離れ離れになってしまった。国交は回復したものの祖国日本の土を踏むまでに20年かかった。決死の思いで日本に帰ってきたが、言葉の壁や差別的な扱いにより、大いに辛い思いをしたという。
 厚生労働省によると、現在中国残留孤児と呼ばれる人たちの総数は2818人。うち身元判明者1248人とである。祖国の地に戻ってきても、両親や肉親とも会えずにいる人や、すでに両親は他界していて、新たな家庭を築き、家族としての名乗りを挙げられずにいる人たちなど、さまざまな苦難に逢いながら生き抜いてきた。そして今でも残留邦人たちの苦しみは、続いているのである。
 現在、世界に目を向けると、武力による進行が起こり、多くの犠牲者を生んでいる。戦争の犠牲により親子が引き裂かれる状況が生まれているのである。中でも2022年2月に始まった、ロシアとウクライナの戦争は、いまだ終戦の見通しが立たない。死者数は少なくとも6万人以上と目されており、第二次世界大戦後以降の大きな戦争だと言われている。そこにきてウクライナの子どもが、ロシア側に連れ去られるという問題まで引き起こっている。報道によると、拉致された子どもは、約2万人にも及ぶとの推計である。その行為の背景には、ウクライナの子どもたちを連れ去ることで、ウクライナの人口を減少させるだけでなく、ウクライナのアイデンィティー、そのものを破壊していくという狙いがあるという。その卑劣な行為は戦争犯罪であると同時に、またしても中国残留孤児の身に起こった戦争被害と同じ過ちが繰り返されている状態なのである。
 私は、中国帰国者の会に毎週参加している。そこでは、中国の残留邦人であったり、残留孤児二世であったりする人が在籍し、少しでも生活を取り戻すように日本語や日本の文化を学んでいる。私は得意な中国語を生かし、そこで日本語ボランティアをしている。さらに最近始めたこととして、「語りべ」を始めた。残留邦人の多くは80代の高齢者である。語りべとしての活動にも限界があり、語りべの数も年々減少している。私がこれからできることして、その実体験を聞いて、語りを受け継ぐことではないかと考えた。そこで、語り継ぐ練習も始めた。戦争の悲惨さだけではなく、それにより、家族が引き裂かれたこと。日本人でありながら、中国では日本人と悟られないように生活していたこと。祖国に帰ったものの、家族を見つけることもできず、差別を受け社会的に孤立してきたこと。語りべとして、語ることで、それらの苦労の一旦だけでも感じることができるように思う。
本当の孤立とは、誰からも支援の手が差し伸べられず、支援の声すらあげられなくなった状態に陥ることだと思う。自分の語りべ活動は、ほんの細やかな活動だが、続けていこうと思う。戦争に翻弄された中国残留邦人の思いを語り継ぎながら、これから孤立を生む社会自体をなくしていきたい。

 

 

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