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受賞者発表! 2025年度(第6回) SDGs「誰ひとり取り残さない」小論文・イラスト・AI コンテスト

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2025年度 第6回 SDGs「誰ひとり取り残さない」小論文・イラストコンテストの結果を発表します。

本コンテストは、若者がSDGsの理念に基づき、自らの視点で社会課題を考え、その声を社会に発信することを目的として実施しています。
運営は、主に学生からなる実行委員会によって行われています。

従来の小論文部門、イラスト部門に加え、今回はAI部門を新設しました。
小論文部門およびイラスト部門では、一定の条件のもとでAIの活用を認めるとともに、AI部門では全面的にAIの使用を認めています。これは、表現が苦手な人や、障害などの理由により小論文やイラストでの表現が難しい人でも、AIを活用することで表現できる可能性があること、そしてそれが「誰ひとり取り残されない」ことにつながる可能性があると考えたためです。

今回も、さまざまな若者の率直な声が届きました。家族、学校、地域、災害、障害、偏見など、身近な出来事から出発しながら、社会構造や制度、沈黙の中で見えにくくなる人々へと視線を伸ばし、「なぜそうなるのか」「どうすれば声が届くのか」という問いを投げかけています。

表現面でも、文章・イラスト・AIそれぞれがその特徴を活かし、感情と論理の両方を伝える作品となっています。

ぜひ、これらの作品を通じて、若者たちの率直な視点や問いに触れていただければと思います。そこに込められた声が、「誰ひとり取り残さない社会」とは何かを、私たち自身に問いかけるものとなることを願っています。


参考:募集要項はこちら:

https://nogezaka-glocal.com/sdg6/

コンテストの特徴:
・SDGsの基本理念「誰ひとり取り残さない」視点での若者(26歳以下)の声
・小学生から高校生、大学生を中心とした実行委員会により運営
・入賞作品のみならず全作品を公開して広く社会に発信する
・LGBTQ+、障害、病気、家族との関係などと自分がどう向き合うか真剣に考えている作品が多い
・ルールを明確化しAIを一部利用化し、文章などで発信するのが苦手な人に配慮
・小論文部門、イラスト部門に加え今回は無制限な使用を許可するAI部門を追加

 

<受賞者>  

大賞 

大賞 <小論文部門> 作品は下部に掲載
・岩﨑幸太郎 岩手県立大船渡高等学校 2年
    復興の「その後」で、静かに取り残された人たち

・匿名 高校卒業(ミャンマー)/日本の大学に進学予定
    取り残された弟の静かな願い

大賞 <イラスト部門>
・船木万帆 秋田県立新屋高等学校 3年
    気づき。あなたが背負うもの。

特別賞 作品は下部に掲載

エイビス特別賞 <小論文部門>
・吉田光 西大和学園高校 1年
    
孤立する恐怖よりも背負う責任

フランスベッド特別賞 <小論文部門>
・一倉舞 順天堂大学医学部 3年
     「理解したつもり」を超えて

エーザイ特別賞 <小論文部門>
・但馬芽吹 白百合女子大学 人間総合学部 1年
     闘病とわたし ー傷みにより抱けた夢ー

奈良東病院特別賞 <小論文部門>
・岡彩矢音 三重大教育学部附属小学校2年
     「どうして、ちゃんとできないのかな」

AZ=Bande特別賞 <小論文部門>
・アミヌ美杏果 文京学院大学附属女子高等学校2年
     13歳の召使い

入賞 <AI部門:イラスト>

・齊藤悠斗 上智大学 3年
    あなたの隣にある、静かな孤島

入賞 <イラスト部門>

・Sajal  Jain AGRA COLLEGE(インド) 2年
    INVEST IN PLANET (COVERS CONSERVATION OF ENVIRONMENT ASPECT OF SDG) 

入賞 <小論文部門>(作品は下部に掲載)

・匿名  University of Yangon 3年
    無力ではない未来へ
・王炳曦 OHDESIGN
    「やさしさ」の先にある平等
・匿名 会社員
    その「多様性」に我々は入っているか
・松永香蓮  フェリス女学院大学 3年
    沈黙のそばに立つということ
・匿名
    とある「ヤングケアラー」の現実ーー物語のあとさき
・辻本萌愛  大阪府立鳳高等学校3年
    「普通」に縛られる息苦しさを超えて
・藤崎詩央  中央大学附属横浜高等学校 2年
    見えない線は、気づかぬうちに
    ~インドネシア人だったら、だめですか?~
・匿名 トキワ松学園高等学校 3年
    トー横界隈
・匿名  静岡大学 3年
    合理的配慮で取り残されないために
・野上瑛太郎 法政大学経済学部 3年
    どっちでもない、という居場所

優秀作品賞 <AI部門:文章>

・浅沼和 神奈川県立光陵高校1年
    イラストレーターや小説家などはほんとに必要なのか?

優秀作品賞 <イラスト部門>

・高橋真緒 クラーク記念国際高等学校 横浜キャンパス 2年
    期待

 

・高頭いずみ 小学1年生
    たすけるくるま

・紺田朋花 琉球大学3年
    視線の葛藤

 

・上田小蒔 池田市立石橋中学校3年
    自分のこと

 

・藤原琴子 向陽台高等学校 2年
    一緒に

 

・藤田藍衣 白老町立白翔中学校2年
    瞳の奥に送ったメッセージ〜画面の向こう側の世界〜

 

・匿名 主婦
    みんなで拾うから幸せ。

 

・由田百花 横浜国際高校 1年
    自分だけ良いは無し!!

 

・鈴木詩奈 東浦町立北部中学校3年
     大人びていくみんな

 

・礒部結唯 奈良教育大学 2年
    この手は、あなたのために

優秀作品賞 <小論文部門>(作品は追って公開)

・CaytapJennee Katano 岐阜市立女子短期大学2年
    言葉の色彩とその力

・MondacaEdgar バイセンテニアル高校「アンタマプ」10年
    消さない

・WaiShin Hbone University of Information Technology4年
    伝えたいのに、届かない世界

・伊藤綾音 高校2年
    「人と違うこと」は自分の「武器」である

・一柳和樹 創価大学 1年
    僕は、休むことができた

・越坂文音 株式会社エスアイイー
    マラウイ生活を経験した今の私が考えること

・奥望帆子 富山大学附属中学校 1年
    心の「あと一歩」を越えるために

・奥灘萌 明治大学文学部 3年
    違いの向こう側へ

・岡田若子 立命館大学産業社会学部
    カンボジアの少女がくれた青い世界

・ihsoy
    実話と警鐘:5年後の2030年を展望して

・加藤留果 沖縄県立久米島高等学校 1年
    私たちは「被害者ごっこ」をやめられるか

・匿名 大阪大学外国語学部2年
    「取り残さない」と「乗り越える」

・丸山璃奈 中村高等学校1年
    普通じゃないって可哀想 “

・金岡新  立命館大学 2年
    失敗を「切り捨ての理由」にしない社会へ

・原田鵬有希 新渡戸文化高等学校
    その「山」は、ただの山ではなかった。

・工藤 若奈 中村高等学校1年
    みんなは1人のために

・弘田 莉子 中村高等学校1年
    人の手に助けられた命

・高江洲星也 就労移行 Work Style Koza
    自分の記憶と、「誰一人取り残さない」ということ

・坂東愛悠美 湘南白百合学園高等学校3年
    ノンフィクションの私の僕

・匿名 SOCIALSQUARE上荒川
    ぼくの就活『該当者なし』から

・山口茜 厚木中央高等学校 1年
    人を花を見るように見ることで

・山本貴仁 東京外国語大学 3年
    SDGsの表裏-ガーナの金の違法採掘の現場から-

・若山優希 大阪大学2年
    「私」も、その一人

・匿名 関西創価高等学校 3年
    せめて木綿豆腐メンタルを目指したくて

・匿名 麗澤高等学校2年
    「おしゃれ事件」を克服して

・小島 那菜 中村高等学校1年
    孤独の真ん中で見つけた光

・新井翔大 株式会社プランテック(Plantec, Inc.)
    ユーモアのマント

・新田和奏 福島県立磐城高等学校2年
    その交流は、誰のためのものだったのか

・匿名 筑波大学修士 2年
    きょうだい児という存在

・匿名 京都芸術大学通信教育部2年
    通信制という学びのかたち

・青木琴美 千代田高等学校 2年
    孤独がない世界を

・石本るみ
    「なんで?」は学びの始まり
    〜吃音から広げる、彩り豊かな社会への種まき〜

・前沢有咲 創価大学 3年
    「取り残さない」って誰が決めたの?

・前濱快斗 大宮国際中等教育学校 5年
    「能登半島地震」から考える孤立

・大川祐葵 中京大学 1年 僕
    の新しい色

・塚田啓子 創価高校 1年
    自分で自分を取り残そうとした私が、勇者になるまで

・藤縄星花 別府大学国際言語・文化学科3年
    当たり前ができない先生だって

・八巻天希 福島県立福島西高等学校 3年
    言葉のない“言葉”

・蛭田愛海 千葉大学 3年
    貧困家庭の足枷と研究の現実

・匿名 早稲田大学 2年
    中途半端に「恵まれている」人が支援に繋がるために

・片岸知音 市立札幌清田高等学校 2年
    『今の空の色を教えて』

・李秀蓮 千葉大学1年
    「初心者マークの男の子」

・鈴木彩莉 名古屋大学大学院 博士後期課程1年
    「不登校」は人生の終わりじゃない

・齋藤奏 愛知県立春日井南高校2年
    透明な檻の中で、今日も私は呼吸をする

・髙橋陽和 東京学芸大学附属高校1年
    難病の子どもたちが未来を抱ける社会にするために

奨励作品賞<AI部門:画像>

・丸山礼人 日本大学 3年
ここは、誰の公園ですか。-排除がうむ「安心」の風景-


・若山優希 大阪大学2年
交わり合ったほうが、味わい深い。

 

・斉藤望 SCSK株式会社
「助けたい」と打つ勇気

奨励作品賞<AI部門:動画>

・新田和奏 福島県立磐城高等学校 2年
    AIと共に

 

 
・峯岸泰希 成城学園高等学校 1年
My view

 

奨励作品賞<イラスト部門>

・吉本柚花 相模女子大学 2年生
    私たちが目指す場所

 

・金子ゆま パート
    私の世界

 

・森岡匠 並木学園福山高等学校 2年
    だったら一緒に行こう。

 

・菅原剛 日本大学 2年
    言葉にいれものがない心でうける

 

・前田凜香 浦添工業高校 2年 (休学中)
    生まれつき

 

・野田怜弥 松下政経塾
    目が向けられない方にも心はある

 

・匿名 クラーク記念国際高等学校横浜キャンパス 1年生
    階段

 
 

奨励作品賞<小論文部門>

・匿名 敬愛大学1年
    日本への留学生の幻想と実際

・Mo Mo KaMo Mo Ka 大学3年生
    外国へ行かないとダメなの?
・Myat Thiri Linn Hiroshima University IGS Program(2026年4月入学予定)
    違いを超え、誰も取り残されない優しさが咲く社会へ

・マートランド エラ チン 中村高等学校1年
    待ってるだけじゃあダメ

・匿名 高校 2年
    重機の届かぬ影の下に

・伊藤澄玲 大宮国際中等教育学校 5年
    Well-beingと献血

・井出真央 静岡県富士見高校3年
    誰1人取り残されない教育と学校とは

・園下小絢 中村高等学校1年
    誰ひとり取り残さない

・横山晴香 東北大学 2年
    当たり前の恋をした

・黄瀬 柚葉 中村高等学校1年
    自分の救いが、他者への第一歩

・岡菜都子 三重大教育学部附属小学校 6年
    「誰ひとり取り残さない」社会につながる学校生活

・岡田そら 土佐女子高校 2年
    正義が暴力になるとき

・荻原 美和 中村高等学校1年
    簡単に手を取れる社会を目指して。

・河合 美咲 中村高等学校1年
    誰1人取り残さない

・匿名 広島大学附属高等学校 1年
    SDGsを知っているつもりだった私へ

・柿木優衣 山口大学大学院修士課程1年
    女らしさとか、男らしさとかより、自分らしさを大切に

・角田朝美 日本航空高等学校 1年生
    不登校は終わりではない 1人にさせない社会を目指して

・丸岡 心春 中村高等学校1年
    当たり前じゃない当たり前を過ごすために

・丸橋ありあ テンプル大学ジャパンキャンパス 1年
    ただそこに人がいるだけ

・岩田 美結 広島大学附属高等学校 1年生
    選択の手、研究の手、コンポストを混ぜる手を繋げて

・岩本結 四條畷学園高等学校 2年
    忘れられない同級生

・吉池ほのか 長野医療衛生専門学校 言語聴覚士学科 4年
    足りない私と不完全な言葉

・宮下 華穂 中村高等学校1年 “
    誰もが安心できる社会へ “””

・沓間ゆり渚 不二聖心女子学院高等学校 高校1年
    ハンセン病から学んだこと

・原美咲 福岡県立輝翔館中等教育学校 高校2年
    知らぬまま今に立つ

・原田香織 鹿沼商工高等学校 2年
    大丈夫?

・後藤 真菜 中村高等学校1年
    誰1人取り残されないための周囲の理解

・高木ほのか 愛知教育大学附属高等学校2年
    「子どもの命を守る社会の醸成を目指して」

・佐藤綾 青山学院大学 3年
    おにぎりを残さず食べ続けたら

・佐藤大輝 株式会社プランテック
    声にならなかった思いを、なかったことにしない

・坂東 栞菜 中村高等学校1年
    誰ひとり取り残さないってなんだろう

・阪部 心優 中村高等学校1年
    自分のペースで。

・三上直太郎 松江工業高等専門学校 2年
    「もっちもっちぷー」でいいじゃないか

・山下真澄 メリーランド大学グローバルキャンパスアジア(ブリッジプログラム)
    「恋って何」から考えた私の理想の未来

・山崎 麻夏 中村高等学校1年
    見えないもの

・山瀬心遥 立命館守山高等学校3年
    問いから始まる「誰ひとり取り残さない社会」

・山地真帆里 大田区立石川台中学校 2年
     「Iくんと私」

・山本皓大 近江兄弟社高等学校3年
    野球という名の絆、ダイヤモンドという僕らの居場所

・山本 愛佳 中村高等学校 1年
    無意識の偏見に気づくということ

・手島愉来 東林館高等学校 2年
    誰ひとり取り残さないためにコップを分ける

・宗形 真桜 中村高等学校1年
    その人について知る “

・小笠原快 麻布中学校 2年
    当コンテストの賞金、あるいは後援主催審査員の皆々様について

・小山紘輝 龍谷大学 1年
    声を上げられない場所で
   
・小西ひより フリーター
    包摂という名の排除―日本型インクルーシブ教育の逆説

・小川生輝 岡山大学 3年
    沈黙という名の凶器 —— 『空気を読む』社会で窒息する人々

・沼田唯花 郁文館グローバル高校 3年
    みえない障がい みえない障壁

・森美唯菜 立命館大学 3年
    体重計では測れない私の価値

・森朔太郎 暁中等高等学校 2年
    ここにも、私がいる

・秦幸生 九州大学共創学部 3年
    英語が「壁」になった日 -やさしい日本語の可能性

・仁豊野彩花 国際基督教大学 1年
   安心できる食事を

・清水安治 郁文館グローバル高校 3年
    辛いなら助けを求めてみてほしい

・川口奈々 長崎県立長崎北陽台高等学校3年
    心の病気も乗り越えられる社会へ

・川端玲奈 福井県立大学 2年
    当たり前を疑うことは誰かの居場所になる

・浅見朱華 明治大学 1年
    世間からの植え付けられたイメージ

・染谷優芽 神田外語大学 2年
    「私の言葉」の大切さ

・倉本夏帆 大手前大学 3年
    声にならない声

・多田有沙 神戸大学文学部 3年
   教室の中、ひとりで前に立つ仕事

・大江美香 兵庫県立芦屋国際中等教育学校
    置いてけぼりリーダー

・大島裕翔 羽田国際高等学校 2年
    Oのような人間の「強さ」が評価される社会を作りたい

・瀧本沙羅 熊本高等専門学校 4年
    私が私でいられる服

・竹内詩織 N高等学校2年
    違いは欠けではない。彩りである。

・中嶋 乃菜 中村高等学校1年
    違いを分けない社会を目指して

・中野萌黄 近江兄弟社高等学校 3年
    つながるほど、孤立していく—誰かの孤独に気づく力を

・塚田愛子 大学1年
    私たちが創造する社会

・的場 由奈 中村高等学校1年
    意地悪

・田中広美 関西創価高等学校 3年
    「愛される」を諦めない社会へ

・田中 蘭 中村高等学校1年
   ネイティブアメリカン保留地に住む人々・匿名 学習院女子高等科2年
    全ての若者が生きやすい社会を形成するために

・藤田れいら 広島市立五日市観音中学校 1年
    BREAK THE NORMAL-儚きとも不滅の抗い-

・藤本結衣 埼玉県立豊岡高等学校2年
    あの日、マニラに降り立ってから

・日垣朋果 中央大学附属横浜高等学校2年
    レッテルを剥がす支援の再構築

・日吉 彩乃 中村高等学校1年
    見えない「取り残し」は、努力する側にもある

・白鳥 來愛 中村高等学校1年
    不確かな未来

・尾﨑友哉 京都市立堀川高等学校 2年
    皆を繋ぐ架け橋に

・尾﨑礼菜 英数学館高等学校2年
   「自立の循環」で誰ひとり取り残さない社会へ

・布施 彩名 中村高等学校1年
    『取り残される不安』

・武田 凛々華 中村高等学校1年
    恋愛に「正解」を求めない社会へ

・平山瑚々奈 学校法人船橋学園 東葉高等学校 1年
   「だったらいいや」で消えた声

・保田雄亮 中央大学1年
    子どもたちの笑顔で描かれる未来地図

・峯岸泰希 成城学園高等学校 1年
    「まだ帰れないの?」から始まった労働の話

・堀井爽夏 郁文館グローバル高等学校 3年
    全ての若者を社会の主人公にー地元・足立区を変えるー

・名渕悠翔 国際基督教大学高等学校 2年
    困ったときはお互い様

・木本 美桜 中村高等学校1年
    取り残されている気がしても

・野中郁未 東京都立工芸高等学校 デザイン科 2年
    「生きる」ということ。

・野町まりな 千代田高等学校 1年生
    『誰一人取り残さない』という言葉の外側に立っていた私

・柳 杏菜 中村高等学校1年
    不登校のレッテル

・有村日和 鹿児島県立国分高等学校 2年
    普通なんて存在しない。

・鈴木 琉加 中村高等学校1年
    冷たくなったお味噌汁

・圖師 花音 中村高等学校1年
    お金の格差

・當銘宥 北山高校2年 立ち止まる時間は、
    遅れではない

・髙松夏帆 東京学芸大学附属国際中等教育学校 高校1年
    死に鈍感な社会から抜け出すには

・髙津原 凛 中村高等学校1年
    「取り残される」という痛みを、私は忘れない

・髙野紗月 S高等学校3年
    私が見た景色―教育の現実と理想

実施の背景:

「誰ひとり取り残さない」はSDGsの基本理念であり、誰かを犠牲にしたり、取り残したうえでのSDGs達成はありえません。SDGsの宣言文でも「最も貧しく最も脆弱な人々の必要に特別の焦点をあて」「最も遅れているところに第一に」「最も貧しく最も脆弱なところから」などと繰り返し強調されています。

しかし、言葉として、あるいは総論としては理解していても、「誰ひとり取り残さない」を実際に意識して、SDGs活動を行っている人は案外多くはないかもしれません。

今目の前のできることから行うべきであり、「誰ひとり取り残さない」をあまり意識することは「非現実的」という声を聞くこともあります。

本コンテストは、今一度基本に立ち返り、SDGsの基本理念「誰ひとり取り残さない」視点をすべてのSDGs活動や社会活動に反映すべきとの観点から、若者の自由な発想や提案、計画についての小論文や作文を求め、またその声を広く社会に発信することを目的として実施するものです。

コロナ禍の2020年に第一回が開催され今回は第6回になります。
若者中心の実行委員会により運営されています。

 
 

コンテスト概要

募集内容:

【イラスト部門】
SDGsの基本理念である「誰ひとり取り残さない」について、自由な発想で、A4サイズ1枚に写真、イラスト、絵、グラフィクなど自由な表現で提出ください。

【作文・小論文部門】
SDGsの基本理念である「誰ひとり取り残さない」の視点で、「自分が経験した、あるいは直接読んだ、見聞きした具体的事項」を記述のうえで、考えること、自分が行いたいこと、社会への提言など自由な発想で、作文・小論文を日本語で作成のうえご提出ください。
(具体的事項について問い合わせを行うことがあります。また表彰後も具体的事項が事実に反するであることが判明した場合は、入賞を取り消すことがあります)
 
【AI部門】
「誰ひとり取り残さない」というテーマについて、AIを主たるツールとして用いた作品(イラスト、動画、アニメーション、文章など)を作成のうえでご提出ください。
形式は問いませんがWindowパソコンや一般的なスマホで特別なアプリを使わずに表示/再生できる形式でお願いします。文章や音声がはいる場合は基本的には日本語で作成ください。

審査基準:

社会への訴求力や審査員の共感を引き出す作品を高く評価します。作文・小論文部門では、日本語としての表現や小論文の構成は重視しませんので、文章を書くのが苦手な方や、日本語が得意でない方もぜひご応募ください。 

また、イラスト部門でも、芸術的な要素よりも審査員に訴える力を重視します。

AI部門では、技術的完成度よりも「AIをどのように使って社会課題に向き合ったか」「AIと人との協働の創造性」が重視されます。

【参考:「誰一人取り残さない」とは】

SDGsの基本理念は「誰ひとり取り残さない」です。
では、何から取り残さないのでしょうか? 

一つは、誰もが社会活動や経済活動に参加する権利を持ち、それから排除されないことです。社会活動や経済活動には、「学校で学ぶ」「十分な食事をとる」といった基本的なものだけでなく、「スポーツをする」「遊ぶ」といった人間として必要な活動も含まれます。

人によって必要とするものは異なりますが、そのような活動から取り残されている人々が多く存在します。

たとえば、障害者、LGBTQ+コミュニティ、貧困層、外国人などがその代表的な例です。しかし、取り残されているのは、これらのわかりやすい事例だけではありません。

身近なところにも、社会の不公平や矛盾、生きずらさを感じることがあると思います。

そのような小さなことにこそ、物事の本質があるのかもしれません。

野毛坂グローカルの活動の基本方針は、「最も取り残されがちな人」に着目することです。

「誰ひとり取り残さない」を「単なるスローガン」「理想論」と諦めるのではなく、一歩ずつ前に進みたいと思います。

一緒に「誰ひとり取り残さない」社会を考えませんか?

応募資格:応募時点で26歳以下の方

締切:2026年1月1日23:59

著作権: 応募者に属します。
ただし、ウェブサイト、冊子、書籍などに無償での掲載に同意いただきます。

表彰

【全部門共通】
大賞(3万円)       3作品
特別賞(2万円)   5作品
入賞(1万円)   10作品
優秀作品賞(3000円)  40作品
奨励作品賞(1000円)100作品
※副賞はAMAZON券でお支払いします

主催:野毛坂グローカル

後援:
 国際協力機構(JICA)

協賛:
 株式会社エイビス
 エーザイ株式会社
 奈良東病院グループ
 フランスベッド株式会社

特別協力:
 非営利型一般社団法人 AZ=Bande

審査員:
野津 隆志

 兵庫県立大学名誉教授/野毛坂グローカル監事
秋山愛子
ソーシャルでゆるいカタリバ「スナックあいこ」ママ/元国連職員
荒木田 百合
 元横浜市副市長
迫田 朋子
 ジャーナリスト/元NHK解説委員
杉浦 裕樹
 横浜コミュニティデザイン・ラボ代表理事
鈴木 奈穂子
 こども食堂「ハレの日ケの日」代表
中西 由起子
 Asian Disability Institute(ADI)代表
藤谷 健
 国際基督教大学(ICU)客員教授/元朝日新聞記者
和田 恵
 SDGs-SWY共同代表

 

 

運営:
 SDGs「誰ひとり取り残さない」小論文・イラスト コンテスト2025実行委員会

共同実行委員長
小野日向汰 慶應義塾大学2年
下平心那 国際教養大学2年
石丸友那 筑波大学修士課程1年 

事務局長:
宮内正枝  創価大学2年

実行委員:
鈴木葵依  日本赤十字看護大学さいたま看護学部2年
中條友夏子 第一学院高等学校 3年
玉岡穂ノ佳 甲南大学2年
堀絢人   東洋大附属牛久高校
笛杏杏   トライ式高等学院新潟キャンパス1年
磯田美季  多摩高等学校1学年
Yoon Phyu Aung 岡山大学1年
守屋颯     東京農業大学2年
加藤里桜  lear Lake High School 高校3年生
小島嵩史  東海大学3年
岡田佳憐  上智大学2年
小川安童禮 さいたま市立大宮国際中等教育学校 高校3年
松本悠生  神戸市看護大学2年生
関口桃子  創志学園高等学校ベネッセ高等学院1年
小林奈々美 大学進学予定
石塚雫   国際基督教大学1年
座間耀永  慶應義塾大学環境情報学部1年
豊島大史  東京学芸大学修士課程1年
岩城亜優  法政大学国際高等学校3年
川田千楓  大学進学予定
三本眞子  東京学芸大学附属国際中等教育学校高校2年
服部翠   広島県立広島叡智学園中学校3年
安積柊      横浜国際高校1年
高須結子  聖心女子学院高等科 1年
遠藤優介  奈良先端科学技術大学院博士課程
梅木千夏  東京未来大学こども心理学部4年
金澤伶   東京大学4年
武井啓子  野毛坂グローカル 理事
神谷優大  野毛坂グローカル 理事

大賞作品

大賞 <小論文部門>
・岩﨑幸太郎 岩手県立大船渡高等学校 2年
復興の「その後」で、静かに取り残された人たち
「復興したね」。岩手県陸前高田市に住む私は、この言葉を聞くたびに胸の奥が小さくざわつく。東日本大震災で被災した町は、年月とともに景色を変えた。高い場所へ移転した住宅、整った道路、建て替わった商店。外から来た人が「もう大丈夫」と感じるのも分かる。けれど、復興が進んだという評価と、そこに暮らす人の実感はいつも一致しない。私はそのずれの中に、「誰ひとり取り残さない」というSDGsの言葉が最も試される場面があると思うようになった。
 震災直後、私たちは確かに「支援の対象」だった。物資やボランティアが届き、見慣れない人が町を歩いていた。テレビに町の名前が映るたび、「見られている場所なのだ」と感じていた。しかし、時間が経つにつれて支援には期限がつき、制度は終わり、ニュースは別の話題へ移っていく。町が整っていくほど「被災地」というラベルは外れ、同時に「まだ困っている」と言いにくくなる空気が濃くなる。復興の進捗を示す数字は増えていくのに、取り残される人は見えにくくなる。私が強く感じたのは、まさにこの「復興の先」で起きる静かな置き去りだ。
 復興が進むと、弱音は「遅れ」に見えてしまう。周囲の善意の「頑張ってるね」「もう落ち着いた?」は、言葉通り励ましである一方、受け取る側には「ここで立ち止まるな」という圧にもなる。震災の話題を避けるようになった人、思い出を語る場を失った人、心の痛みを抱えたまま日常の役割に戻った人がいた。被災という経験は、建物が建て直されても簡単には終わらない。それでも、語られなくなることで、痛みは個人の中へ押し込められていく。私は、復興とは本来「生活と尊厳を取り戻すこと」なのに、いつの間にか「外から見て整っていること」にすり替わってはいないかと疑った。
 高校二年生になった私は、昨年TOMODACHI Toshizo Watanabe Leadership Programに参加し、米国ロサンゼルスで十一日間学んだ。地元の高校や大学、博物館、研究所、そしてオレンジ郡のフードバンクなどを訪れ、議論や体験を重ねた。そこで印象に残ったのは、支援が「特別な出来事」ではなく、必要な人が必要なときにアクセスできるよう設計された「仕組み」になっていることだった。フードバンクは、助けを受ける側を恥や弱さで縛らない。支援が継続することで、人は声を失わずに済む。私はその場で、支援とは物を渡して終わる行為ではなく、関係を切らずに声を拾い続ける姿勢なのだと気づいた。
 帰国後、陸前高田の景色を見たとき、私は別の角度から町を見ていた。震災直後、私たちは「助けられる人」ではあっても、「語る人」ではなかったのではないか。子どもだった私は、どんな不安を抱えているか、何が一番怖いかを言葉にする機会も少なかった。復興が進んだ今も、痛みを語り続ける人ほど「いつまで言っているのか」と見られる怖さがある。ここに、取り残されの根がある。支援が終わること以上に、語る場が消えることが人を孤立させるのだ。
 だから私は、「誰ひとり取り残さない」を、完成した目標ではなく、終わらない問いとして扱いたい。被災地では、時間が最大の加害者になり得る。社会の関心が薄れた瞬間に、支援から外れ、声を上げる機会も失う人が出る。取り残される人は、たいてい目立つ場所にはいない。声を出せないからこそ取り残される。この矛盾を前に、私たちができるのは、見えなくなったものを見ようとする意志を手放さないことだ。
 具体的に私は二つ行いたい。第一に、復興の「その後」を語る場を学校や地域につくる。震災を知らない世代が増える今、出来事を年表に閉じ込めず、心の揺れや日常の変化として共有する時間が必要だ。聞く側が評価や結論を急がず、ただ受け止める場があれば、語る人は孤立しにくい。第二に、支援や制度を「期限のある特別扱い」にしない視点を広げる。困難は一律の時期で終わらない。必要に応じてアクセスできる仕組みを、地域の備えとして当たり前にする。そのために私は、海外で見た支援のあり方を学び続け、地域の活動や提案につなげたい。
 復興を測る指標に、心の回復や孤立の度合いは入りにくい。だからこそ、数字で語られない部分を言葉で残すことが、私たち市民の役割になる。誰かが沈黙しているとき、その沈黙を「問題がない証拠」にしない態度を、私は身につけたい。
 「復興したね」という言葉に、私はいつか素直にうなずけるようになりたい。そのためには、街の見た目だけでなく、見えなくなった人の声が戻ることが条件だ。復興の先でこぼれ落ちるものに目を向け続ける社会こそが、SDGsの約束を現実にする。私は被災地で育った一人として、そして学ぶ機会を得た一人として、見えない取り残されを見える言葉に変え、問いをつなぎ続けたい。


・匿名 高校卒業(ミャンマー)/日本の大学に進学予定
取り残された弟の静かな願い
2021年、ミャンマーで軍事クーデターが起きた。あの日、私の弟は十三歳、中学一年生だった。私は高校を卒業したばかりで、家族は普通の暮らしを続けていた。しかし、両親は公務員として働きながらも軍に従うことを拒み、市民不服従運動(CDM)に参加したことで職を失った。私たちの生活は一瞬で崩れ、家族は村で農業をして生きていくしかなかった。
両親と弟は朝から夜まで畑で働き、私は家で料理を作り、昼前になると家族のために食事を届けに畑へ向かった。私はその台所で、日本語の参考書を開いて勉強を続けていた。
火の近くで汗を流しながら身につけた単語や文法は、今の私の歩む道の出発点となった。しかし、私が日本に向かう道を歩き始めたその時、弟は学ぶチャンスすら奪われていた。
やがて村の近くでも内戦が激しくなり、地域防衛団は若者たちに兵士になるよう圧力をかけ始めた。まだ十代だった弟には、とても耐えられない状況だった。学校どころか、家にいることさえ危険になり、弟は村を離れてマンダレーの大きなホテルで警備員として働くことになった。まだ子どもであるはずの弟は、早く大人の世界に入らざるを得なかった。
弟は軍が支配する学校に通うことを拒んでいた。「行きたくない」としか言わなかったが、彼の本当の気持ちは誰よりも深いところに隠されていた。ある日、弟が使っている英語の授業用ノートを見つけた。彼は夜になるとオンラインで英語を学び、静かに課題をノートに書き続けていた。ページをめくると、そこに弟の心の叫びがあった。
“My goal is to pursue further studies and seek opportunities in Japan. Although I haven’t completed my high school education, I am committed to working hard and saving my salaries to earn my GED exam fee. I am motivated to build a new life abroad. Of course, my sister will support this journey.”
その英文を読んだ瞬間、言葉で表せない苦しみを感じた。普段は自分の気持ちを全然言わないほどの弟が、こんな想いを抱えながら必死に生きていたことを私は知らなかった。静かだからこそ、深く傷ついていたのだと気づいた。戦争や政治の混乱の中で、声の小さい人ほど先に取り残されていく。その事実を、私は弟の姿を通して痛感した。
SDGsの「誰ひとり取り残さない」という言葉は、遠い国の理想ではない。私にとって、それは家族の痛みであり、未来を奪われた弟のための願いだ。教育は誰にとっても平等であるべきなので国が混乱しているから諦めろと言われるものではない。戦争が起きたから夢を捨てろと言われるものでもない。
弟は今日も静かに働きながら、自分の未来を少しずつ取り戻そうとしている。夜にオンライン英語授業を受け、給料を貯め、いつか GED を取って日本に行きたいと信じている。その姿は、取り残された子どもではなく、取り残された場所から必死に前へ進もうとしている一人の若者の強さだ。
私は、日本で学ぶ機会を得た者として、弟の夢を支えながら、同じように自分の気持ちを言えずに生きている子どもたちの代わりに、声を上げたい。
静かに生きる人の声ほど、社会が耳を澄ませるべきだと私は思う。
弟のように、「取り残された」と感じる子がもうこれ以上増えてほしくない。どんな国に生まれても、どんな状況にあっても、すべての子どもが教育を受け、夢を語り、未来を選べる社会であってほしい。私はその願いを胸に、これからも学び続け、誰かの道を照らせる存在になりたい。

特別賞 

エイビス特別賞 <小論文部門>
・吉田光 西大和学園高校 1年
孤立する恐怖よりも背負う責任
「君は、自分の後ろに国民がいるのだと、本気で考えて今回の会議に出れていたのか?」
顧問の言葉に、私は自分が恥ずかしくなった。
 12月21日のこと。私は部活の交流戦に参加していた。
 模擬国連部。国連を模擬して、外交官になりきって会議をシュミレーションし、国際問題について本気で考えるための教育活動をする。それが私の部活だ。
 その日の議題は「インターネットやAIを代表するサイバー空間の運用方法について」で、私の担当国はアフガニスタン。事前の準備期間で1週間のリサーチをした後、当日8時間かけて条文案を作る。入部してから8か月。もう慣れた流れだった。
 ところで、アフガニスタンは脆弱な国で、いわゆる発展途上国に分類される。それはサイバー面においても同様だ。だから、少しの攻撃や国の乱れが国家の崩壊につながりかねない。よって、国の主権による統治を主張する必要があった。
 しかし、他の国は違う。安全確保のための規制を表現の自由の規制だと捉える立場である彼らは、私たちの条文を通すわけにはいかない。
 結局当日は、私たちアフガニスタン大使の提示した条文が表現の自由の規制にあたり、他の国にとって受け入れ難いものだとして吊るし上げにあった。
 1対1の議論は得意でも、大勢の前で、そのうえ周りと異なる意見を話すのは、私にとってとても恐ろしいことだった。
「この条文は、あなたの国以外みんな必要なく、あっては困るものだと言っています」
そう他の大使に主張された。周りには、他に8人ほどの大使が。みんな私を責めるように見つめていた。
「抜かなければ、全体の合意が取れません」
続けて、まくし立てられた。
 アフガニスタンにとって、その条文は国の存続のために必要不可欠な内容だった。サイバー空間がもしも攻撃されたら、行政が止まり、行政が止まれば脆弱なこの国は崩壊してしまうから。
 しかし、私は言ってしまった。
「……分かりました、それで大丈夫です。その条文はなしにして」
会議終了後、顧問の先生が全体にスピーチをした。そのときに言ったのが、最初の言葉だ。
 ……あのとき、私は何をした? 周りにまくし立てられたのが怖くなって、逃げてしまった。それがアフガニスタンにとって受け入れてはダメなことだと分かっていたのに。
 困るのは会議室の私じゃない。医療の連絡、支援の調整、暮らしの手続き——それが止まれば、生活が崩れて最初に困るのは国民だ。そんなことにもちゃんと気づけていなかった。
 そう。私は模擬国連というものを、議論のゲームとして軽く捉えてしまっていたのだ。
 無意識だったけれど、大使として失格なことをしていたのに気づいてみじめで恥ずかしくて仕方なかった。
 全体に話していた顧問の目が、私をじっと見つめていた気がした。
 そうして落ち込んで、下を向いていたときだった。
「もう一つ、言っておきたいことがある」
顧問は最後のあいさつの前に、こう言った。
「この模擬国連という活動は、誰かの不幸があるからできるものだ。もしも、誰もが幸せな世界なら国連なんてとっくになくなってるさ。それを覚えておきなさい」
はっとした。いわゆる「先進国」である日本にいる自分だからこそできている活動なのだと、他の国で苦しんでいる人がいるから議題が生まれるのだと、どうして今まで気づかなかったのだろうか。
 私たちがしている模擬国連は、「取り残されている人」がいるからできるという皮肉さを知った今、私は決めたことがある。
 次の会議からは、自分はただの一高校生ではなく、自国の国民を背負って、みなの幸せを実現するために議論する大使なのだと自覚して参加しよう。
 ただ、自分の学びの場や議論の練習の場だなんてばかなことを二度とはもう考えない。
 そうすれば、きっと少しは自分を、そして世界を変えられる。一人の助け合いの気持ちが、百人、いや、千人――さらにもっと集まれば、どんなに大きな力になるだろうか。私はそのひとりになりたい。
 だから、他の人の不幸から学ばせてもらうことを、二度と無駄にはしない。
 周りから責め立てられて、会議から孤立する恐怖を消せるわけではない。しかし、多数派に呑まれることが果たして本当に正しいだろうか? いや、違う。大切なのは、合意を無理やり作って会議を終わらせる流れに乗ることじゃない。孤立する恐怖から逃れるために同調することじゃない。
 取り残されたすべての人の幸せを実現するために、どうすればそれを実現できるのかを考えて未来に生かすために、私はこの部活をするのだ。次の会議からは何があっても、世界と自国のために妥協せずに真摯に取り組もうと、心に誓った。

フランスベッド特別賞 <小論文部門>
・一倉舞 順天堂大学医学部 3年
     「理解したつもり」を超えて
百聞は一見にしかず。多くの人が小さい頃から目にしてきたことわざだろうか。文字の通り、何かを学ぶには何度も調べるよりも、自分で一度経験する方が勝るという意味である。私は大学生になって、この言葉の意味を実感する機会が増えた。その経験を忘れぬよう、ここに文章として残しておきたい。
今年の秋、私は聴覚障がいを持つアスリートが出場するデフリンピックに、ボランティアとして参加する機会をいただいた。それまで恥ずかしながら、パラリンピックの存在しか知らず、手話に少し興味があった程度の軽い気持ちで応募した。英語でコミュニケーションが取れるし、外国からの観客の案内など、自分が役に立てるだろうとどこか驕っていた部分もあったと言わざるを得ない。
しかし当日会場に赴くと、観客のほとんどは外国の方を含め、耳が聞こえない、あるいは聞こえにくい方々であった。その頃はインフルエンザの流行り始めで、私はマスクを着用して会場にいた。観客の方々は、自分が見たい試合の場所から近い席はどこか、座れる場所はどこか、と多くの質問をしてきた。私は手話がほとんどできなかったため、身振り手振りや大きな声で伝えようと努力したが、内容を正確に伝えることは難しく、手話もできないのに応募したことを少し後悔していた。
しばらくしてから、はっとした。周りを見ると誰もマスクを着けておらず、ろうの方々は唇の動きからも内容を読み取っていることに気がついたのである。よく考えてみれば、本などでそういった知識を得たことはあった。それにもかかわらず、私はそれを実際の行動に結びつけられていなかった。この経験を通して、自分がろうの方々のことを理解できていたとは言えないことを、身をもって実感した。もちろん、当事者でもない私が障がいのある方のことを本当の意味で理解することはできない。それでも、どうすれば彼らに少しでも寄り添えるのか、その一端を学ぶことはできたと感じている。
誰ひとり取り残さない社会を実現するためには、理解したつもりになることをやめることが第一歩だと私は考える。今回のボランティア経験を通して、自分は相手の立場に立って物事を見ることができていなかったと痛感した。とはいえ、「相手の立場になって考えなさい」と言われても、当事者でなければそれが難しい場面もあるだろう。だからこそ私は、できるだけ多くの経験を重ねることの重要性を伝えたい。さまざまな立場や状況にある人と接し、自分の想像の幅を広げるのである。取り残されそうな人を見かけたときには、一歩立ち止まり、「相手はどう感じているのか」を改めて考えてみたい。
医学部に通う私は、将来医師として医療現場で働くことになる。医療現場では、患者さんとの対話によって診断の多くが可能になると言われるほど、コミュニケーションが重要である。聴覚に障がいのある方にとって、マスク越しの会話が大きな障壁になることもある。今回の経験がなければ、患者さんやその家族への説明の場面で、誰かを無意識のうちに置き去りにしてしまっていたかもしれない。そう考えると、この経験は医師を目指す私にとって非常に大きな学びであった。
百聞は一見にしかずということわざの通り、現場に身を置き、自ら経験して初めて見えてくる課題がある。知識を持って理解したつもりになるのではなく、その場で立ち止まり、相手の立場を想像し直すこと。それこそが、いずれ誰ひとり取り残すことのない社会を実現することにつながると、私は信じている。

エーザイ特別賞 <小論文部門>
・但馬芽吹 白百合女子大学 人間総合学部 1年
     闘病とわたし ー傷みにより抱けた夢ー
私は、病気と闘う子どもたちが、自分自身を誇りに思うことができる社会を実現したい。
 私自身、25週0日760g、具体的には500mlのペットボトル未満の身長で産まれた。そのため、全身の血液を入れ替える治療や、眼に強い光を当て続け失明を防ぐ治療、肺にチューブを入れ強制的に呼吸を促す治療を受けた。また、退院後も、自宅で酸素吸入を24時間続けていた。これらの治療は高い効果をもたらす半面、新たな病気や後遺症を産むきっかけになり得る。私自身、早産との因果関係は不明であるものの、脳や呼吸器、内耳に慢性疾患及び難治性疾患を抱え、複数の大学病院やクリニックに通院している。
 この境遇から、最初に記した社会の実現を目指すようになった。そのために、2023年には早産児サークルを立ち上げ、東京新聞に記事を2度掲載していただいた。また、早産児の成長過程における課題を題材に執筆した論文は、全国大会で金賞を受賞した。2025年8月には、病児を対象とした学習支援団体を立ち上げ、闘病と大学生活を両立させている講師14名と共に活動している。第一志望の大学への合格率の高さ、病気であっても成功体験を積めることが、生徒たち及びご家族から高い評価を得ている。そして11月には、早産児に関する活動がNHK首都圏ネットワークにて特集され、12月にはおはよう日本にて2度再放送された。また、朝日新聞社のウェブサイトには記事が4つ掲載され、Yahoo!ニュースにも2つの記事が掲載された。運営するサークルや個人のSNSには、月に100万回以上ものアクセスがある。
 私は大学入学後、入退院や救急搬送を繰り返しながらも、懸命に勉学に励んできた。直近の入院中に最も苦しかったことは、1度の手術で完治する病気の治療を終えて、元気に退院していく同世代の姿を見送る時だった。勿論その子が頑張ったことは事実だ。今後は入院することなく、元気に楽しく過ごしてほしいという思いもある。しかし、この出来事がきっかけで、根治しない自分の疾患や、強い痛みを伴う治療と向き合うことに疲弊してしまった。そんな私に対し、看護師さんは、慎重に言葉を選びながら「あなたの疾患は一生付き合っていくものなんだ」と伝えて下さった。存在しない希望を見せず、真剣に向き合ってくれたことへの感謝と共に、医療と縁が切れる未来が閉ざされた絶望感が混じり合い、夜の病棟で涙をこぼしたことを鮮明に覚えている。
 また、この小論文を執筆するにあたり、患者の声及びご家族の声を聞くアンケート調査を行った。患者の声としては、「病気は自分の弱さだと言われた」、「常に無理をして、健常者に合わせ続けないといけない」、「普通になりたい」、「病気が進行していくことが怖い」といった意見が聞かれた。また、ご家族の声としては、「病院は闘いの場でしかなかった」、「院内と院外の常識の狭間で苦しんだ」、「健康な人を見ることが辛かった」、「泣きながら医師の話を聞いた」という意見が非常に多かった。この結果を分析すると、両者に共通するのは、強い自責感や抑うつなど、心理的な問題を抱えることが多い点だと言える。一方で、「医療者への感謝」や「日常生活への感謝」を口にされる方の割合も高かった。
 私は将来、患児とご家族のレジリエンス=回復力を支えることができる心理職及び研究者になりたい。特に、周産期医療領域と小児医療領域にて、治療中・治療を乗り越えたお子さんの心理的支援を行うこと、闘病を支えるご家族の苦悩に寄り添うことが私の夢だ。
 最後に、私と同じ疾患と闘う方からのメッセージを紹介したいと思う。
「病気は私たちの一部に過ぎない。治せるものでも、無視できるものでもない。それはただ、私という人間の一部なの。」あなたを大事に想っている看護師より。

奈良東病院特別賞 <小論文部門>
・岡彩矢音 三重大教育学部附属小学校2年
     「どうして、ちゃんとできないのかな」
じゅぎょうちゅうに、さわいでしまう男の子がいます。
先生に、なんども「しずかにしようね」と言われています。
 わたしは、前は「どうして、ちゃんとできないのかな」と思っていました。
 でも、その男の子は、休み時間にとてもやさしくて、
こまっている子がいると、すぐに「だいじょうぶ?」と声をかけます。
 ある日、そのことに気づいて、「みんな、ちがうだけなんだな」と思いました。
 このことが、「だれひとり取り残さない」という言葉を考えるきっかけになりました。
 その男の子は、じっとすわっているのがにがてです。
でも、そうじの時間には、だまって一生けんめいはたらきます。
重いものも、「もつよ」と言って、はこんでくれます。
 わたしは、「できないところ」ばかり見ていたことに気づきました。
でも、その子には「できること」「やさしいところ」が、たくさんありました。
 学校には、いろいろな子がいます。しずかにべんきょうする子もいれば、
からだをうごかすのがすきな子もいます。
 「だれひとり取り残さない」というのは、みんなを同じにすることではないと思います。
その子のよさを見つけて、「ここにいていいんだよ」と思えることだと思います。
 これからわたしは、ちょっとちがう子を見たとき、
いやな目で見ないで、「この子のいいところはどこかな」
と考えたいです。
 やさしい気もちが、クラスにふえると、学校は、もっとたのしくなると思います。
 わたしは、だれもひとりにしない学校を、みんなといっしょにつくりたいです。
このことを、おうちでお母さんに話しました。
「じゅぎょうちゅうに、さわぐ男の子がいるんだけど、やさしいところもあるんだよ」と言うと、
お母さんは、にこにこしながらこう言いました。
「それに気づけたのは、とてもすてきなことだね」
 そして、お母さんは、「人はみんな、ちがうところがあるんだよ。できないことより、できることを見てあげると、やさしい気もちになれるよ」
と教えてくれました。
 その話を聞いて、わたしは、学校でも、もっとやさしい目で友だちを見てみよう
と思いました。
 つぎの日、さわいでしまう男の子が先生に注意されていました。
でも、わたしは、
そうじのときにがんばっていたことや、こまっている子に声をかけていたことを思い出しました。
 わたしは、心の中で、「この子も、だいじな友だちだ」と思いました。
 「だれひとり取り残さない」というのは、
えらい人だけが考えることではなく、わたしたちが、毎日学校でできることだと思います。
友だちのいいところに気づいて、やさしくすることが、だれひとり取り残さない学校への、だいじな一歩だと、わたしは思います。

AZ=Bande特別賞 <小論文部門>
・アミヌ美杏果 文京学院大学附属女子高等学校2年
13歳の召使い
このことを知ったのは私が家族と初めて父の母国ナイジェリアに行った時です。人生で初めて行くアフリカの国、私の想像だと広々と自然がたくさんで木が生い茂っているようなイメージでしたが、実際現地は都心の道路はアスファルトで整備されて、日本でよく見るような大型のショッピングセンターなどもあり、海沿いには人工島で出来たリゾート地まであってネットでの情報とのギャップに驚いたことを覚えています。そこから実家の方まで車で数時間かけて田舎の方にある実家まで行きました。初めて会った時私たちを見て皆少し物珍しそうでしたが、いとこ達は皆素直で興味津々にいろんなことを聞いてきてくれて私がわからない言葉は噛み砕いて私が理解できるように伝えてくれたりと心優しく私たちを迎えてくれました。
ですが何日かそこで生活していると一人だけ元気でエネルギッシュな、いとこ達と比べてやけに大人しく寡黙な女の子がいるなと思いどんな子か気になって彼女について父に聞いてみました。すると「彼女は両親が亡くなって学校に通えなくなっていたからと知り合いが連れてきて、うちで家事の手伝いをしてもらう代わりにうちに去年からいとこ達と一緒に学校に通わせて一緒に住んでいるんだ」それを聞いて衝撃を受けました。ニュースや記事になる子がこんなにもにも身近にいて、共に罪悪感が生まれました、あんなにも暖かく私に接してくれた親戚がこんなに小さな子供を家で働かせているなんてと勝手な思い込みで悪いことをしているのではと思っていました。ですがそれは全くの間違いでした。ナイジェリアは日本のように行政が整ってるわけではなく全員が全員に手を差し伸べられるわけではありませんし小さな子供が悪に染められる酷い事件も珍しいことではありません。改めて自分がどれだけ安全で生活について考え悩み苦しむことなく生きてこれたのかを思い知りました。どんな境遇でどんな判断でこの家に来ることになったのかをこんな小さな子から直接聞くことはこの子を苦しませるのではと思いできませんでした。
さらに父に聞いてみると彼女は少数民族のハウサ族出身で、出会った時はナイジェリアでは公用的に使われている英語を全く話せずハウサ語を話せる人を呼び翻訳しないと会話ができませんでした。いまだに完璧に話せるわけではないのでそれは彼女の人と会話することの足枷になっているのではないかと思います。
帰国する日お土産で持ってきたお菓子を内緒で彼女にあげるととても嬉しそうにしてました。その後もたまにビデオコールをするとニコニコと後ろから手を振ってくれます。考えるとこの人たちの助け合いのコミュニティの広さにも感銘を受けました。利益が出るわけでもクラウドファンディングをしてるわけでもないのに見知らぬ子に衣食住を分け与えてることに。
私はこのことをたくさんの人が知り、考えることが大切なのではないかと思います。あの子は家で取り残されているのではないかと感じます、いまだに周りが話していることが理解できず、自分の伝えたい事が相手に理解されないそんな状況を頑張って勉強して懸命に生きています。国連に出て議論をする、そういうのも大事かも知れませんが私が最も重要だと思うのはこの事実を知ることができる人が知り、感じて、それを知識として頭のどこかに入れておくだけで、誰かが新しいことを行動し始めたりした時に助けられるまた行動を起こす第一人者になりうることができるのだと、そう思います。

入賞 <小論文部門>

・匿名 University of Yangon 3年
    無力ではない未来へ
この世界で「誰一人取り残されない社会」は本当に実現するのでしょうか。
そう考えるようになったのは、自分の国の状況が大きく影響しています。コロナが発生した後、多くの国の経済が落ち込みましたが、現在ではほとんどの国が回復しています。しかし、私の国ではコロナの翌年にクーデターが起こり、国の状況はさらに悪化しました。汚職はますますひどくなり、社会は二つの階級に分かれました。お金と権力があれば何でもできる階級と、お金がないため普通の人が当然できることさえできない階級です。この格差を私は毎日のニュースや街の中で感じています。
国の経済が悪化するにつれて、外国で働こうと考える若者がたくさんいます。しかし、外国へ行くために必要なパスポートを作るだけでも多額のお金が必要であることを想像したことがあるでしょうか。私の国ではそれが現実です。それだけではなく、パスポートの発行にはさまざまな制限があり、決められた額より多くのお金を渡せば早く受け取れますが、それができない人は何か月も予約が取れずに苦労しています。発行日にも本来はお金がかからないはずなのに、追加のお金を払わない人たちは朝早くから長い列に並ばないといけません。私もその列に並んだ一人です。並びながら、私たちのようなお金のない人々は、国の権力者から取り残されていると感じました。パスポートや必要な書類をそろえても、空港で理由もきちんと説明されないまま「行けない。帰れ」と警察官に言われ、今までの努力もお金もすべて無駄になった若者が何人もいます。理由を聞こうとすれば捕まり、お金を渡した人だけが通されるのです。どう考えても、これは強者が弱者を抑圧しているとしか思えません。
不平等はそれだけではありません。多くの国では災害時を除き24時間電気が使えると思います。私の国は違います。24時間の中、決まった8時間しか電気が使えません。ほとんど停電しています。しかし、レジデンスや権力者の住む地域、お金持ちの区域では24時間電気がもらえます。治安がよくない地方にはさらにひどく、全く電気がない場所も多くあります。電気がないためインターネットも使えず、情報が一切入ってきません。その人たちのことを考えると、どれだけ国によって目と耳をクローズされているのかと、暗い家の中で薄暗い電柱の明かりだけで勉強しながら私は痛感しました。このような差別に、私は怒りと悔しさでいっぱいです。
ある地域では今でも戦争が続いており、そこに住む人々は普通の人が当たり前にしている「家族とご飯を食べること」や「安心して眠ること」すらできません。学校に通うどころか、今日を生きること自体が彼らの願いです。逃げたり隠れたりしながら、生きるだけで人生が終わってしまいます。逃げられた人でさえ、普通の生活を送るのはとても難しいです。
インターネットが使える私は、発展している国の人たちの投稿を見るたびに、自分の国の人々がどれほど取り残されているかを強く感じています。戦争地域から逃げてきた人、制服を着て学校に通う学生を憧れの目で見ている乞食の子ども、お金がないために権力者に怒鳴られても我慢するしかない人たち。彼らのために私ができることは何だろうと考えましたが、すぐには答えが見つかりませんでした。大学生の私には、お金で助けることはできません。
しかし最終的に、私は国内のボランティア活動と国際コミュニケーションこそ、自分にできることだと気づきました。国内で差別や取り残されている人たちを少しでも助け、インターネットを使ってこの現状をみんなの代わりに世界に声を出して伝えること。それが私にできる行動です。これが私がこの作文を書いた理由です。私の文章を通して、ほんの少しでも彼らに救助人が増えたら、それで十分です。
今の世界は虚しく、醜く見えることがあります。一方で、そんな世界の中にも親切で思いやりのある人はたくさんいると信じています。「力を合わせて押せば、動かせる」ということわざのように、一人一人の小さな力が集まれば、いつになるかは分かりませんが、「誰一人取り残されない世界」はきっと私たちを待っていると信じています。待って信じているだけでは何も変わらないので、私自身も行動しながら、そんな世界をつくろうと決めました。

・王炳曦 OHDESIGN
    「やさしさ」の先にある平等
建築を学んできた私は、卒業制作で産婦を対象とした空間づくりに取り組んだ。そこで初めて、統計の数字の裏側にいる「少数者」の具体的な顔を意識するようになった。SDGs のスローガンとして語られる〈誰一人取り残さない〉という言葉も、それまではどこか抽象的な標語にすぎなかったが、産婦の声を聞くうちに、「社会の平均値からこぼれ落ちた人たち」をどう想像し、どう迎え入れるかという問いとして、自分の中に残るようになった。
 その問いが、視覚障害のある人たちに向くきっかけになったのは、ある日の帰り道での出来事だった。夕方の駅前、点字ブロックの上を白杖を持った男性が驚くほど速い歩調で進んでいく。ぱっと見ただけでは障害の有無など分からず、「普通」に急いで帰路を急ぐ一人の社会人にしか見えなかった。その瞬間、その人の白杖が前を歩くサラリーマンのかかとに触れ、靴が脱げてしまった。二人は同時に「すみません」と頭を下げ合い、ほとんど漫才のようなテンポでお互いを気遣っていた。
 その光景は、私の中に強く残っている。片方は視覚障害があり、もう片方は健常者である。しかし、その場で起きていたのは「障害者」と「健常者」ではなく、単に「仕事帰りに少し急いでいる二人の大人」が、ちょっとしたトラブルについて対等に謝り合う姿だったからだ。そこには、同情でも過剰な遠慮でもなく、失礼をした側とされた側が、同じ目線でやり取りする関係性があった。私が「平等に扱われる」という言葉の意味を、具体的な情景として捉え直した瞬間だった。
 もう一つ、私の考え方に影響を与えたのが、盲目のカードマジシャンとして知られるリチャード・ターナーの生き方である。幼い頃に視力を失いながら、彼は一日に十四時間もカードの手さばきを練習し続け、触覚と記憶だけを頼りに世界的な名声を得た。しかし、彼は長いあいだ自分が「盲人」として扱われることを嫌い、その事実を隠そうとさえしていたという。「隠そうとすればするほど、かえって浮かび上がる」という師の言葉に苦しみながら、彼は成功とコンプレックスのあいだで揺れ続けた。
 やがて彼は、舞台の上で自らの失敗談や不安を笑いに変えて語るようになる。失明を「克服すべき欠陥」としてではなく、自分の一部として引き受け、観客の前でさらけ出すようになったからだ。その姿は、決して完全に吹っ切れた悟りの境地ではない。むしろ、まだ葛藤を抱えたまま、それでも少しずつ前に進もうとする「強さ」の形として、私には映る。障害とは何か、強さとは何かという問いが、彼の物語を通して、自分自身の中でもう一度組み立て直されていった。
 こうした経験から、私は「障害者支援」を、単に弱者を守るための福祉ではなく、「互いの自尊心を損なわずに関わるためのデザイン」だと捉えるようになった。配慮が足りなければ危険や排除につながるが、過剰な保護や特別扱いもまた、その人を「普通の一員」から引き離してしまうことがある。先述の駅前での出来事が印象的だったのは、視覚障害のある男性が「助けられる側」ではなく、「うっかり靴を踏んでしまった一人の大人」として、その場に存在していたからだ。
 こうした視点を確かめたいと考え、私は自宅近くの視覚障害者協会に所属し、アンケート調査や聞き取り調査に参加するようになった。実際に白杖や支援機器を体験し、当事者の方々から日常の不便さだけでなく、「本当はどこまで手助けしてほしいのか」「どこから先は自分の力でやりたいのか」といった微妙な感情の揺れも聞かせてもらった。そこには、周囲の善意に感謝しながらも、「かわいそうな人」として扱われることへの強い抵抗感が確かに存在していた。
 建築やプロダクト、情報技術は、ともすると「便利さ」や「効率性」の数値だけで評価されがちである。しかし、視覚障害者の方々と向き合う過程で、私はそれだけでは測れない指標があることを痛感した。例えば、誘導ブロックの配置一つをとっても、「安全に歩けるかどうか」という機能に加えて、「誰かの視線を過度に集めてしまわないか」「使っている自分自身が誇りを持てるか」といった、目に見えない価値が存在している。
 私がこれからも考え続けたいのは、「障害をなくす」ことではない。障害の有無にかかわらず、誰もが失敗したり、謝ったり、頼ったりしながら生きていける社会のあり方である。駅前のほんのささいな出来事と、一人の盲目のマジシャンの生き方、そして視覚障害者協会で出会った人々の言葉は、その問いを私の中に静かに置き続けている。デザインや技術に関わる一人の人間として、「同じように謝れる関係」を守るための環境づくりを、これからも模索していきたい。

・匿名 会社員
    その「多様性」に我々は入っているか
2025年、私は双極性障害と診断された。
「私も障害者になったか」と思った。
私も、と書いたのは、弟が先天的な障害者だからだ。つまり私はきょうだい児だ。
弟は重度の発達障害と知的障害を持っている。言葉による意思疎通はできない。
弟は物心ついた頃には問題行動を起こすようになった。叫び、暴れ、物を投げて壊し、家の壁を蹴って穴を開け、暴力を振るった。車の走行中に暴れ、運転手に掴みかかったこともあった。
口でダメと言っても通じない。やり返せば悪化する。だから両親は、弟が暴れると私をなるべく別の部屋に逃した。
私が高校生の頃、弟が第二次性徴を迎えた。弟は家中で自慰をするようになった。私の服を着て自慰をすることや、私の風呂を覗くこともあった。誰も止められなかった。
このように問題行動が続く状態を、強度行動障害という。当然、全ての障害者に当てはまるわけではない。文科省によると、特別支援学校在籍者のうち2.8%ほどが該当するという。
強度行動障害への対応は非常に難しく、専門的なノウハウも必要になる。些細な対応や環境の差が問題行動の引き金になるためだ。
本来福祉の支えが必要だが、現場は限界を迎えている。ABCテレビによると、こういった障害者を受け入れる大阪の入所施設は、定員40人に対し123人もの待機者がいるという。弟も、病院を10ヶ所以上も断られたことがある。
それでも両親は弟を必死に育て、あらゆる病院や方法を試した。研究職だった母は、仕事の道を諦めた。
進学で実家を出るまで15年近く、私はそういった環境で暮らした。だからか、小学生の頃には自傷を覚え、自殺願望を抱いた。
実家を出ても自殺願望は消えなかったが、調子がいい時も増えた。だが“調子がいい時”に無計画に大金を使ったり、外交官や芸能人などあらゆるものを目指そうとしたり、深夜に歌ったり、殺人願望を抱いたりした。
ようやく真っ当な人生を歩めると思っていたのに、私の精神は蝕まれていた。
家庭環境だけでなく、社会からの扱いも辛かった。特に嫌だったのが、差別反対や人権を謳う人達の言動だ。
苦境を打ち明けても「障害者がそんなことするわけない」「差別を助長するから黙るべき」「弟さんの方が辛いんだよ」「健常者の方が酷いことをしてる」など、現実でもネット上でも言われ、他のきょうだい児が言われているところも見た。
自分の人権だけは守られない、人への配慮を求められても自分が配慮してもらえることはない、そう感じた。
最近「多様性」「誰一人取り残さない」といった言葉がよく使われ、マイノリティの権利を守る機運が高まっている。それ自体は良いことだ。
だが「多様性」の中に、弟や私のような人間は入っているのだろうかと思ってしまう。
各媒体で取り上げられる障害者は、圧倒的に身体が多い。発達や知的は少なめで、精神はほぼない。
そして、何かしらの一芸に秀でている人や、特性が穏やかな人が好まれ、弟のような例はほぼ取り上げられない。
エンタメなら妥当だろう。だが、時に福祉や人権や多様性を語る文脈でも、そのような偏りがある。
我々は無意識に「見栄えの良い弱者」「救いたい形をしている弱者」ばかりを選り好みしていないだろうか。
身体障害者や一芸に秀でたマイノリティを悪く言いたいわけではないし、彼らの計り知れない思いを踏み躙りたいわけでもない。
でも本当は、弟のような「救いたい形をしていない弱者」にも手を差し伸べる方法を考えることが、誰一人取り残さない世の中には必要なのではないか。
介護士の給料を増やす、障害に関する研究や人材育成を進める、それでも暴れる人には介護ロボットが対応する…机上の空論は浮かぶが、どうすればいいかはわからない。
だが、まず知ってもらわないと始まらないのだ。
強度行動障害の人とその家族にとって最後の砦であり、既に限界を迎えている入所施設を、“共生”の名の下にさらに減らそうとしている人たちがいる。そして繰り返すが、私に酷い言葉をかけた人々の中には、反差別を自認する人も多くいた。
彼らはそもそも、現状を知らなかったのかもしれない。
ただ、私が子供の時に比べて、報道も世論も良い意味で変わってきていると思う。「優しく、純粋で、健常者に希望を与える障害者像」一辺倒ではなくなっている。
ずっと死にたい私が死ねなかった理由の一つは、きょうだい児の問題を世に訴えなくてはいけないと思ったからだ。
これから生まれてくる子達に同じ思いをさせたくない。ただの躁転かもしれないが、その思いが私をこの世に留めさせていた。たまたま広告で取り組みを見かけ、こうして書き殴っている。薬でぼんやりした頭でフラッシュバックを起こしながら書いているから、めちゃくちゃかもしれない。それでもこの駄文が何かを変えるきっかけになれば幸いだ。

・松永香蓮 フェリス女学院大学 3年
    沈黙のそばに立つということ
この文章は、「誰ひとり取り残さない」ために、
やさしい日本語で書きます。
難しい言葉は使いません。
日本語が得意でない人にも、
まっすぐ伝わるように書きます。
「誰ひとり取り残さない」とは、
社会の中で、
ひとりぼっちでいる人を、
見ないふりしないことだと、
私は考えています。
私の大学に、
耳が聞こえない友人がいます。
その友人は、
いつも明るくて、素敵な人です。
でも、耳が聞こえないというだけで、
みんなの輪に入るのが、
少し難しくなっていました。
授業が終わって、
みんなが賑やかに話しているとき、
その友人は、
いつも少し離れた場所にいました。
私は、その姿を、
何度も見かけていました。
本当のことを言うと、
私はすぐに声をかけられませんでした。
「なんて話せばいいんだろう」
「失敗したら嫌だな」
そんな理由をつけて、
私は「沈黙」することを選んでいました。
今振り返れば、
それは優しさなんかじゃなく、
ただの「逃げ」でした。
自分は安全な場所にいて、
困っている人を眺めているだけの、
ただの観客でした。
声をかけない理由を、
「そっとしておくのが優しさだ」と、
自分に言い訳をしていました。
でも本当は、
私が恥をかきたくなかっただけ、
傷つきたくなかっただけなのだと、
今は分かります。
ある日、
その友人がぽつりと、
「みんな、悪い人じゃないけれど、
 私はここにいないみたい」
と言いました。
その言葉が、
私の心に深く刺さりました。
「取り残される」というのは、
こういうことなんだ。
はじめて、
その痛みを自分のこととして感じました。
私はその日から、
ゆっくり話したり、
紙に書いたり、
身振りを使ったりしてみました。
どれも難しいことではありません。
「伝えたい」という気持ちと一緒に、
自分のやり方を変えただけです。
すると、その友人は、
心を開いてたくさん話してくれるようになりました。
前よりもずっと、
笑顔がキラキラ輝いています。
それは、
友人が変わったのではなく、
私たちがつくる「空気」が、
少しずつ変わったからだと思います。
SDGsの「誰ひとり取り残さない」とは、
特別なヒーローになって、
誰かを助けることではありません。
「ちがい」を壁にしないで、
自分から一歩近づくことです。
正直に言うと、
私も前は、
「外国人だから」「障害があるから」
だから、やさしい日本語を使えばいい、
とマニュアルのように考えていました。
でも、それは、
相手をちゃんと見ているようで、
実は「ラベル」しか見ていなかった。
そのことに気づいたとき、
すごく恥ずかしくなりました。
やさしい日本語は、
ただの「道具」ではありません。
使い方を間違えると、
自分が安心するための、
自己満足になってしまいます。
大切なのは、
テクニックとしての言葉ではなく、
目の前の相手を、
「一人の友人」として見ようとすること。
それが、私が大学生活で学んだ、
いちばん大きなことです。
大学には、
いろんな国籍、いろんな背景、
いろんな考え方を持つ人がいます。
だからこそ、
「見えない壁」ができやすい場所でもあります。
沈黙は、
「助けて」と叫んだりはしません。
でも、
すぐそばに、確かにあります。
目の前の沈黙を見過ごしながら、
「誰ひとり取り残さない」と叫んでも、
それはただの綺麗事になってしまいます。
この文章を読んだ人には、
まず、
身近にいる「話せていない誰か」に、
足を止めて、
気づいてほしいと思います。
私は大学生として、
今ここから、
沈黙のそばに立ち続ける存在でありたい。
それが、
誰もが笑える社会をつくる、
いちばん小さくて、
いちばん確かな一歩だと、
信じているからです。
もしかしたら、
この文章を読んでいるあなたのそばにも、
声にならない沈黙が、
もう置き去りにされそうになっているかもしれません。
やさしい日本語は、
世界を変える魔法の言葉ではありません。
でも、私が「沈黙」をやめて、
彼女の隣に立つための、
「最初の手がかり」になってくれました。
私はこれからも、学んだ知識を自慢するのではなく、
目の前の一人と向き合うために、
心をこめて言葉を尽くします。
それが、国際交流を学ぶ私が、
この大学から一歩ずつ始めていく、
未来への道だと信じています。

・匿名
    とある「ヤングケアラー」の現実ーー物語のあとさき
放課後、教室で課題図書を読み合っていた時、友人が言った。
「父親が精神疾患ってやばいじゃん」
あははと曖昧に笑った。本の内容に対してだったが、自分に対して言われたようにも感じた。超のつく進学校にいながら、精神の不安定な両親と弟2人の世話に腐心している自分。しかしそれを打ち明けることはしなかった。よき友人と対等でありたかった。そんな思いもあって、隠しきれない気性の激しさがあった。
自分も大学に行くのだという空虚な希望に縋ってやり過ごしていた。
それでも、親が帰る前にと台所の床に這いつくばって雑巾がけをしながら、ああ同期は今頃支え合いながら勉強に励んでいるのだと思うと、「自分は頑張っていない」ことに恥と罪悪感を感じた。

本命の大学の奨学金に落ちたときは流石に打ちのめされて、樹海に行くか、と軽い調子で、信頼していた先生にこぼしてしまった。
止められた。
当時は、ただ注がれた水が心の器に空いた穴から流れでるように、そのあたたかい言葉を受け止められなかった。
自分の知能を盲信していて、ここからでも自分が頑張れば抜け出せる、それまで自分は家族をうまくコントロールできるという根拠のない自信にしがみついた。
心の底では、もう少し人に頼ってもいいかもしれないという気持ちが芽吹いたが、育つのはもう少し後の話になる。

大学進学を諦め、安定した生活を諦め、家族から逃げることを決断するまで、それから長い期間がかかった。心と身体を壊し、家族の世話以外の時間は寝込むようになってようやく、自分が傷ついてるのかもしれないと疑うことを許せた。

今更、無数の人から受けた優しさを思い出しては泣いている。今まで自分以外のために泣いたことはなかったのに。
そこで回復してきてようやく、優しくしてくれた人の前でも、自分は自分のことしか気にしてなかったことに気づいた。
こうはなりたくないと思った家族のような振る舞いを、していた。

最近、似たような境遇だった人と話す機会があった。
みな今も引き裂かれているのだと知った。偶然受けた教育や社会で知ったすこやかな気遣いと、余裕のない家庭環境で身につけた行動様式の狭間で。
どちらの世界にも取り残されたわたしたちは、傷ついた過去と傷つけそうになる今の間でただ必死に信じる方へ舵取りをしている。

つらい時期が終わって、別の大変な毎日が始まる。
一つの物語が終わって、自分をぼろぼろにする以外に生きていく道を見つけないといけなくなって、
喜びも苦しみも感じられないままで、
それでももう少し耐えて生きてほしい。
希望がないと生きていけないけど、潰えても潰えても、それでも人生は続く。

社会での「ヤングケアラー」といった話題の需要のされ方を見ると複雑な気持ちになる。
概念そのものが多くの人に膾炙しているのは間違いなく良いことだ。
しかし、世に出る物語は往々にして「生き延びた」「加害者にならずに済んだ」側のものである。
想像を絶する底から抜け出せない者は、語る言葉を持たないのだ。

「自分はケアラーだったが死にものぐるいで努力して成功した」「こんなひどい状況の子どもたちがいます」みたいなモデルケースが過度にもてはやされるのはあまり好きではない。テレビでそのような場面を見て、「ああ、この人と比べれば自分なんて大したことないな」と思っている人がヤングケアラーだったりする。
そしてヤングケアラーのその後の葛藤に焦点を当てたものが少ないと感じる。
ケアから解放されて終わりではなくて、複雑な思いや社会的な不安定さを抱え続けてなんとかやっている人が多数派だろう。

「逆境を乗り越えたサクセスストーリー」でも「救われるべき可哀想な子どものおはなし」でもなく、悪夢に目覚めても仕事に出かけなければいけない朝だったり、自分の過去の傷つきを親しい人に向けて後悔する夜だったり、そういった希望でも絶望でもない取り残された人間の現実に私はひどく共感する。

私は決して可哀想なだけではないし、善良なだけではない。自分の傷つきに支配されるだけでもない。
プライドがあり、単純な物語では割り切れない1人の人生がある。

最後に「打ち明けられたらどうすればいいのだろうか」と悩む人に私から言えること。
簡単な結論はない。
しかし、線引きを明確にして距離感を保つことは重要だと思う。
聞く側にも生活があり、人生があるのだから無理に解決を目指さなくていいし、負い目を持たなくていい。
私が打ち明けようと思った人は皆優しい人で、だからこそ重荷になりたくなかった。

そもそも、ヤングケアラーというのは、「家族の問題は家族が抱え込むべきだ」という思想に縛られてきたのではないのか?

「誰も取り残さない」は個人でやるべきでなく、社会全体で負うものだ。

・辻本萌愛 大阪府立鳳高等学校3年
    「普通」に縛られる息苦しさを超えて
高校生になってから、私の世界には「当たり前」の顔をした違和感がいくつも潜んでいることに気づいた。
そのひとつがメイクだった。最初は完全に自己満足で、メイクで少しずつ変わる自分を見るのがただ楽しかった。
けれどある日、友達が私に「ずっと可愛いと思ってて仲良くなりたいと思ってた」と言った瞬間、胸の奥がぎゅっと掴まれたような気がした。
私の可愛いかどうかが、人間性より先に評価されているような現実を突きつけられた気がした。
そこからだ。
私は気づかないうちに可愛くあり続けなきゃというプレッシャーに縛られていった。
メイクがめんどくさい日は、マスクで顔を隠した。誰にも責められていないはずなのに、まるで素顔の自分ではそこに居場所がないように感じてしまった。
ルッキズムなんて大げさだと思っていた。でも実際は、心の奥深くまで入り込んで、私の息を少しずつ奪っていた。
その窮屈さは学校にもあった。
文化祭では男装は許されるのに、女装は禁止。劇で必要だと抗議しに行ってようやく許可された。
男子がスカートを履くと笑われたり、冷たい目で見られたりする。
まるで“男はこう、女はこう”という目に見えないルールが校内の空気を支配しているようで、息苦しかった。
自由に楽しむための文化祭のはずなのに、本当に自由なのは誰なのだろうと疑問を抱いた。
私の身の回りには、他にもさりげなく存在する偏見があった。
料理をしただけで「女子力高いね」と驚かれる。
看護師の話題になると、「女子ばっかだからトラブル多そう」と笑われる。
ほんの一言。だけど、その一言が小さな針のように胸に刺さる。
性別で期待され、性別で判断され、性別で決めつけられる。
それが、私自身を他人の価値観で勝手に描かれていくようで、すごく嫌だった。
そして何より苦しかったのは、私自身が偏見を口にしてしまった瞬間だった。
理系に進んだ友達に「男子多いけど大丈夫?」と言ってしまった。
その言葉を発した自分に、数秒遅れて深い後悔が押し寄せた。
私は誰かに偏見を向けられるとすぐに傷つくくせに、気づかないうちに同じ痛みを友達にも押し付けていた。
胸が締めつけられて、しばらく自己嫌悪から抜け出せなかった。
「当たり前」や「普通」という見えないルールが、知らないうちに私自身を汚していたことが怖かった。
こうした痛みは、誰にも見えない。
病気のように診断されるわけでもないし、事件になるわけでもない。
でも、この静かで小さな痛みこそが、人をゆっくり追い詰めていく。
自分では気づかないうちに、息がしづらくなっていく。
誰かが決めた“普通”に合わせようとして、本当の自分がどんどん薄くなっていく。
「誰一人取り残さない」というSDGsの言葉は、遠い世界の話じゃない。
見えない偏見や固定観念のせいで、今この瞬間、誰かが静かに取り残されている。
私もその一人だったし、誰かをその側に押してしまっていた一人でもある。
だからこそ、私はまず自分の中の偏見と向き合いたい。
私がようやく自分の息苦しさに気づいたように、誰かも自分の息苦しさに気づける社会であってほしい。
私はもう、マスクの下で縮こまっていた自分を取り残したくない。
そして、もし周りで声を上げられずにいる誰かがいたら、その存在を見逃さない人でいたい。
そうやって誰かの小さな痛みを拾える社会に近づけるなら、私は何度でも立ち止まり、自分の「当たり前」を疑っていきたい。

・藤崎詩央 中央大学附属横浜高等学校 2年
    見えない線は、気づかぬうちに
    ~インドネシア人だったら、だめですか?~
 「インドネシア人にはお菓子あげなーい」、「インドネシア人だから遊ばなーい」。これは小学二年生の頃、日本の小学校に体験入学した際に同級生に言われた言葉だ。私は父の仕事の都合で四歳からインドネシアに住んでいて、小学二年生の夏に日本へ一時帰国した。インドネシアから来たというだけで、私はインドネシア人として扱われた。今振り返れば、いかにも小学生らしい単純な決めつけだったのだと思う。当時の私が感じたのは悲しさではなく、純粋な疑問だった。自分は日本人なのに、というよりも、インドネシア人ならだめなの?と不思議に思ったのである。
 私は泣かなかったし、言い返そうとも思わなかった。「インドネシア人」という言葉がなにか良くないもののように扱われているのが理解できなかった。私の知るインドネシア人は、お菓子をあげない理由になるような人達でも、遊ばない理由になる人達でもなかった。だからこそ、言われた言葉の意味を考えずにはいられなかった。
 私の中に残った疑問は、その場で答えが出るものではなかった。そして、異なる環境を行き来する中で、その問いは私の中で変化していった。私はインドネシアの小学校、日本での一時帰国時の小学校、そして本帰国後の日本の小学校と、三回転校をした。その経験は、元の疑問を、「なぜ同じ人間が、場所によってまったく違う扱いを受けるのか」という問いにつなげるきっかけになった。
 インドネシアの小学校で過ごした日々を思い返すと、○○人だから、○○教の人だから、といった属性を理由に、誰かを遠ざけていた場面を思い出すことができない。私の家には、家事を手伝ってくれるメイドさんがいた。彼女は決して裕福ではなく、私のお下がりの物を喜んで受け取ってくれるような生活をしていた。それでも、買い物を頼めばお釣りは必ずきっちり返ってきたし、余裕があるとは言えない中で、私の名前入りのコップやぬいぐるみを買い、プレゼントしてくれたこともある。また、ショッピングモールで小さな子どもが騒いでいても、周囲の人は迷惑そうな視線を向けるのではなく、笑顔で優しく見守っていた。大らかなインドネシア人の温かみをよく知っているからこそ、「インドネシア人だから遊ばない」という言葉がどうしても現実と結びつかなかった。
 一時帰国時に通った日本の小学校では、インドネシアについて詳しく知っている子はほとんどおらず、海外に住んだ経験のある子も少なかった。「ふつうじゃない子はよくない」という考え方が、その場の空気として共有されていたのだと思う。「インドネシア人だから遊ばない」という言葉は、強い悪意から生まれたというよりも、そうした空気の中で、なんとなく当然のように使われてしまった言葉だったのではないだろうか。その後、本帰国して通った日本の小学校では、インドネシアから来たという事実が、すごい、話を聞いてみたい、という好意的な興味の対象として受け取られた。中学受験をする家庭が多かったのもあって、海外経験やグローバルであることに価値を見いだす意識が高かったのだと思う。私は何も変わっていない。それでも、置かれた環境によって、周りからの評価や距離感は簡単に変わった。この違いを通して、偏見とは誰かの強い悪意から生まれるものではなく、その場で共有されている価値観や、無意識の前提によって、知らないうちに形づくられていくものなのだと考えた。
 そうであるならば、社会から取り残される人は、特別な理由を持つ人ではない。そこにいる人の多くが疑問を持たずに受け入れている空気から、少し外れただけで、人は簡単に輪の外に置かれてしまう。社会でも同じことが起きている。国籍や宗教、家庭環境といった属性が、個人の中身とは関係なく意味づけされ、知らないうちに評価や扱いの差につながってしまう。「誰ひとり取り残さない」とは、困っている人を助けることだけを意味するのではないと私は思う。気づかぬうちに偏見を持って他者を判断していないか、自分の中に浮かんだ小さな疑問を見過ごしていないかを問い続けること。その積み重ねこそが、取り残される人を生まない社会につながるはずだ。あのとき感じた、どうして?という問いを、これからも手放さずにいたい。複数の環境を行き来した経験を通して、私は無意識の偏見に気づける立場にいる。
 当事者として、自治体や地域と連携し、背景の異なる人が経験を共有できる交流の場を設けたい。お互いについて語り合う中で、「〇〇だから」という偏見が必ずしも当てはまらないことに気づいてほしい。高校生の今は、地域や学校での対話の機会に関わり、それぞれが持つ偏見に目を向けるきっかけを作る。表に出にくい違和感や、声を上げにくい立場にある人の存在を見落とさず、空気に流されずに立ち止まれる人間でありたい。そして、私が考える「誰ひとり取り残さない」社会を実現したい。

・匿名 トキワ松学園高等学校 3年
    トー横界隈
「誰ひとり取り残さない」これは、ひとりの力や行政の力でだけでは達成できないからこそ、一人ひとりが協力しなくては行けないと考えます。
私は、親にご飯を作ってもらえなくて、挙句の果てにはテストでいい点数を取れなかったら殴られる。そして家を追い出されたり、父親にはしつけという名の性的虐待を受けて育ってきました。
夜にお気に入りのブランデーのロックを片手に持った父親に、部屋に呼ばれてディープキスを迫られ、下半身をまさぐられ育ってきました。
母親は気づいているのかいないのか、両親の関係も冷め切っていたのでわかりませんが、毛頭恥ずかしくて言える気がしなかったです。笑
そこから実家から逃げてきました。
歌舞伎町一番街の門をくぐり、無数のネオンに囲まれた大通りを抜け、TOHOシネマズ横の広場通称「トー横」に出ました。いわゆる「地雷系」の服装に身を包み、トー横キッズとして1年ほど過ごしました。
両親は気にかけていなかったので、捜索願いやLINEがあるはずなく、友人や先生の助けがなければずっとトー横にいたと思います。
これを読んでいる皆様は、児童相談所に通報した方がいいと考えると思います。しかし、児童相談所で一時保護の対象になると、スマートフォンは没収され、多くの場合、学校に通えなくなります。それが受験期と重なったとき、行き場を失う子どもは少なくありません。
私がトー横に来た頃、同い年の子と交わした会話が、今も心に残っています。
「どこから来たの?」
「わからなーい」
「なんでここに来たの?」
「家庭環境が悪くて。親に殴られるから逃げてきた」
「私もーwだから案件してホテルを転々としてるー」
その友人は笑いながらそう話していました。その軽さの裏に、簡単には言葉にできない痛みがあることは、すぐに分かりました。
生きるために仕事をする必要があります。
家がない界隈民もいるので、ホテルに泊まるために日雇いやあるバイトをしたりせざるを得ません。もしそれが15歳未満だった場合、非合法な仕事であったり、案件と呼ばれる児童買春をせざるを得なくなります。
私は、そのなかでも学校に通っていて受験生だったので、どうすることもできず、人の家を転々としながら学校に通い、出願費用を稼いで、勉強をしていました。
トー横には私みたいな人たちが全員ではないですが、います。
そして、なにかの事件が起きても親元には戻れず、長く一緒にいた友達が突然児童相談所に連れて行かれる。そうした経験を重ねるうちに、大人や制度を信用できなくなり、本来頼れるはずの支援から距離を取ってしまう人もいます。実際、「#○○を返して」といったハッシュタグをつけて、X(旧Twitter)で抗議の投稿がされることもあります。それは制度への反発というより、「また居場所を奪われた」という切実な叫びなのだと思います。
私は、学友や先生、そして界隈の中で手を差し伸べてくれた人たちに支えられ、なんとか大学進学という進路を得ることができました。
振り返れば、それは決して当たり前のことではなく、偶然にも助けてくれる人や仲間に恵まれていた結果だったと思います。
しかし今も、誰にも救いの手を差し伸べてもらえない人、そもそも「助けを求める」という手段すら思い浮かばない人が、制度のはざまで確かに存在しています。
行政機関につなぐことが難しく、扱うテーマもセンシティブである以上、私一人が手を差し伸べられる範囲には限界があります。
だからこそ、当事者だった私ができる恩返しは、これまでの経験や、友人たちから受け取ってきたやさしさ、居場所を、次はまだ持てていない人たちへつないでいくことだと考えています。
そして、今これを読んでいるあなたが、気づき、知り、誰かにつないでいく。その小さな連鎖こそが、私にとっての「恩返し」なのだと思いました

・匿名 静岡大学 3年
    合理的配慮で取り残されないために
「多様性を尊重すること」。私は最近どこに行ってもこの言葉を聞くようになったなと思う。
私は現在、大学から合理的配慮を受けている。合理的配慮は、障害を持つ学生らにとって困難を取り除くための措置であり、それによってある意味での優遇を受けている。私の場合は、精神疾患や発達障害を主としたものであり、大学に入学後、学友から勧められて受診した結果だった。学友・先輩・後輩・教員から揃って勧められたもので、だから私のダメさ加減を憂いていたのが去年の夏頃だ。しかしながら、大変諸々の事情を鑑みるに、私の状態をよく知っているのは私以上に、そうした他人たちであったわけで、白い紙に朱色のインクを垂らせば際立つように私の持つ異常特性もまた集団生活の中で際立っていたのだろう。
兎も角として、私は大学から配慮されながら生きている。私は多様性として尊重されているらしい。しかし、その尊重は対等さと同義ではない。
この構造は、たぶん「多様性を尊重する」と言われるときの、見えにくい落とし穴に通じている。多様性を尊重する、という言葉は、強い倫理感を帯びていて、反対しづらい。けれど、その言葉が手元まで降りてきたとき、「多様性」はしばしば差異として処理される。「あなたは多数派ではない」「だから特別なルートを用意する」。その特別さが救いになる一方で、特別さが私を孤立させることもある。
ただ、ここで誤解されたくないのは、配慮そのものを否定したいわけではない、ということだ。むしろ私は、配慮によって助けられている。
けれども、その「尊重されているらしい」という言い方には、どこか冷めた響きがある。合理的配慮を受けることで、私は確かに助けられている。締切の調整、提出方法の柔軟化、忘れ物がないかと大学の先生から毎週電話がかかってくる。どれも有効でありがたいものだ。しかし同時に、私は「配慮される側」というラベルを貼られ、周囲は「配慮する側」という役割を背負う。そこに生まれるのは、優しさだけではない。私と彼らの間は差異化されている。
配慮する/される、というのは、社会の中での関係をひとつの軸で善意によって切り分ける。それは関係の非対称性を生む。する/される、という切り分けは、それぞれの立場を異にする。支援とは本来、障壁を取り除くための道具のはずなのに、使い道によっては「あなたは普通には生きれない」という審判を突きつける。
ここで厄介なのは、配慮が必要だと認めてもらうためには、私はある程度、困難を説明し続けなければならないということだ。私は困難を抱えていて、支援を受ける。これは合理的だ。しかし、合理的であることと、気持ちが納得することは違う。私は支援を得るために、自分の不調を言語化し、証明し、共有する。すると今度は、その言語化が私の社会的な輪郭になる。私は配慮する/される、という二元論的な役割が固定されていく。
では、その固定は日常の中でどう現れるのか。ひとつの場面を思い出す。
あるとき私は、友人にこんな言葉をかけられた。「無理しないでね」。本当にありがたい言葉なのに、私はなぜか返事に詰まった。無理をしているかどうかを決める権利が、いつの間にか自分から離れていく感じがしたからだ。「無理してないよ」と言えば、配慮が不要だと誤解されるかもしれない。「無理してる」と言えば、相手に負担をかけるかもしれない。結局、私は曖昧に笑って流した。私は尊重されているはずなのに、会話の中では取り残されている。
支援は苦しさを生み出しているようにも思える。配慮そのものが苦しいからではなく、むしろ逆で、配慮が有効であればあるほど、私の生活はうまく回り始めるからだ。つまり、支援は私の振る舞いを改善するが、同時に私の異常さを露呈させるのだ。
私は、配慮を受けている自分を否定したいわけではない。私は助けられているし、それは事実として良いことだ。ただ、その良さと同時に、関係が差異化される痛みも確かにある。多様性を尊重するという言葉が本当に意味を持つのは、差異を見つけたときではなく、その差異が固定されて人を枠に閉じ込めそうになったときに、関係を再構築できるかどうかだと思う。
私は配慮される側に慣れてしまい、周囲が配慮する側に慣れてしまうのが怖い。慣れは仕組みを安定させるが、同時に想像力を鈍らせる。だから私は、配慮を受け取りつつ、同時にそれを問い続けたい。そして最後に、改めて、私はマイナーな側にいる。たぶんそうだ。でも、マイナーであることが私の全てではない。私は学生で、研究者で、エンジニアで、友人で、たぶん誰かの支えにもなっている。配慮はその一部を支える手段に過ぎない。私を説明するラベルではなく、私が生きるための道具であり続けてほしい。尊重とは、道具が人を定義しないように注意深く扱うことなのだと思う。

・野上瑛太郎 法政大学経済学部 3年
    どっちでもない、という居場所
「結局、俺はどっちなんだと思われてるんだろうな。」
年末、久しぶりに再会した友人が、笑うでもなく、怒るでもなく、そう呟いた。その声は驚くほど静かで、私は返す言葉を失った。彼は日本とアメリカのハーフである。見た目は日本人と大きく変わらず、日本で育ったため、考え方や価値観も日本的だ。高校時代の彼は、いつも場を和ませる存在だった。鋭いユーモアで空気を変え、誰かが居心地悪そうにしていれば、自然と話題を振る。彼がいるだけで救われる瞬間が、確かにあった。
高校卒業後、彼は父親の母国であるアメリカの大学へ進学した。幼い頃に暮らした記憶の残る場所でもあり、「帰ってきた」という感覚があったという。しかし、帰省した彼の姿からは、その言葉とは裏腹な疲労がにじんでいた。冗談は減り、笑顔はどこか借り物のようだった。
「最初は楽しかったよ。」
そう前置きした彼の声は、次第に曇っていった。アメリカでは日本人として見られ、アメリカ人としては受け入れられない。文化的な背景は日本にあるため、会話の端々でズレを感じる。理解されないわけではない。ただ、完全に同じ場所には立てない。その微妙な距離が、彼を静かに追い詰めていた。それでも彼は努力した。服装を変え、話し方を変え、生活を「アメリカらしく」整えた。しかし今度は日本に戻ったとき、こう言われたという。
「なんか、日本人っぽくなくなったな。」
どちらでもあるはずの自分が、どちらからも半歩ずつ外される。その瞬間、彼は自分の輪郭が溶けていく感覚を覚えたと言った。自分は何者なのか。どこに帰ればいいのか。同じだと思える人間は、どこにいるのか。
私はその問いに、すぐ答えられなかった。ただ一つ確かなのは、場所や国籍が変わっても、彼は私の知っている彼だということだった。私が彼を好きなのは、日本人だからでも、アメリカ人だからでもない。人を笑わせ、人を気遣い、誰かの緊張をそっとほどく、その在り方そのものだ。その気持ちを伝えると、彼は少しだけ目を伏せ、「それが聞けてよかった」と言った。社会が決めるラベルに押しつぶされそうになっていた心に、ようやく呼吸できる隙間ができたのだと。
SDGsの掲げる「誰ひとり取り残さない」という言葉は、しばしば制度や支援の文脈で語られる。しかし私は、この友人の姿を通して思う。取り残されるとは、声を上げられない違和感を抱えたまま、どこにも完全には属せない状態のことではないかと。
多様性が尊重されるべき時代だと言われる一方で、私たちは今も無意識に人を分類し、「分かりやすさ」を求めてしまう。だが、その分かりやすさの外側にこぼれ落ちる人がいる。そのとき社会は、静かに誰かを取り残している。アイデンティティは、社会から与えられるものではない。人と人との関係の中で、「あなたはあなたでいい」と言われ続けることで、ようやく形を持つものだ。だからこそ私は、誰かの背景や属性を見る前に、その人自身を見る人でありたい。居場所を探している人に、ここにいていいと伝えられる存在でありたい。「誰ひとり取り残さない」とは、壮大な理想ではない。隣にいる誰かの迷いに気づき、その曖昧さを否定しないこと。その積み重ねの先にしか、本当の包摂はないのだと、私は信じている。

 

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