超ローカルからはじまるグローバル! エンパワメントが社会を変える!

MENU

SDGs誰ひとり取り残さない小論文んコンテスト優秀作品、奨励作品

  • HOME »
  • SDGs誰ひとり取り残さない小論文んコンテスト優秀作品、奨励作品

 

【 優秀作品 / 奨励作品 全作品 】

 

 

 

匿名 青山学院大学

 

私は人と話すことが好きですが、人と話すことが苦手です。そのことに気づいたのは高校生になってからでした。私は生まれつき難聴であり、未就学児の時から補聴器を持っていましたが補聴器を着用している人は周りにおらず、周りと違うのが恥ずかしくて着用していませんでした。しかし、高校生になると環境が大きく変わり、多くの人と交流を持つ機会が増えました。人と話す機会が増えるにつれ自分の聞こえなさを痛感したため、高校1年生の後半から補聴器を毎日着用することにしました。補聴器を着用してから世の中には音が溢れていることに気付きました。足音、自動車の走行音、風の音など、私が生きてきた16年間の生活の中にはこんなにも音が存在していたことにその時初めて気付きました。

 しかし、生活の音はある程度聞こえても人との会話を聞き取れないことが問題として出てきました。そのことに気付かされたのは友人と会話している時でした。友人と高校から駅に向かって歩いている時、友人が私に何か話しかけてきました。けれども私は全く聞き取れず、何度も友人に聞き返してしまいました。友人が再度伝えてくれている間、私の耳には「ブゥーン」という自動車やバイクの走行音、電車の「ガタンゴトン」という音がしきりに入ってきていました。そのため、何度も伝えてもらうのが申し訳ないという思いと、もう聞き取れないのではという半ば諦めの思いから愛想笑いで「うん、そうだね」と適当な返事で誤魔化してしまいました。

 ある時は大学のグループディスカッションです。コロナ禍でのグループディスカッションは間隔を空けてメンバーが座るため、必然的に周りの声は聞き取りづらくなります。さらに、感染予防のためのマスク着用により、発言者の口元が見えないため、誰が何を話しているのかも分からない時がほとんどです。また、自分の補聴器の音量を大きく調節したとしても、周りにいる他の班の会話がガヤガヤと雑音として入ってくるだけで、本当に聞き取りたいグループの会話はそれらの音に掻き消されてしまいます。そのような状況が続くため、聞きたいのに聞き取れない、グループで何の話をしているのかさえ見失ってしまうというジレンマに陥ります。

 私は、初めてお会いする方などに積極的に自分が難聴者であり、大きい声の方が聞き取りやすく、会話で無反応だった時は聞こえていないだけで、よく誤解されるけれどもけして無視しているわけではないため理解して頂けると有難いと伝えるようにしています。

 こうして自分の聴力を自分自身が理解して他者に伝えることができるようになったことは大きな前進でした。思い返してみると、まだ自分の聴力に関心や理解がなかった小学生、中学生の頃は周りの大人から叱られることが多かったように思います。「あれほど言ったのに」、「なんで聞いてないの」と言われる度に、何について叱られているのも分からず居た堪れない気持ちになりました。補聴器を着用していなかった時は自分の声の大きさも調節ができず、周りから「うるさい」と言われることがありました。今は補聴器を着用していますが声の大きさについては「小さい」と言われることが増えました。補聴器の有無によって自分の声の聞こえ方も変わるため、難聴と生きていく上でそこは非常に難しい課題だと思っています。

 最後になりましたが、ひとつだけ皆さんに知って頂きたいのは、補聴器を着用していても完璧に聞き取れるわけではないということです。本当は人と話すのが好きだけれども聞き取れないから話すことが苦手で会話から取り残される人がいることを理解して頂けたら嬉しいです。

 

 

川嶋健太 静岡福祉大学 2年生

情報に取り残される人たち

インターネットが普及して何年になるでしょうか。
それからというもの人間が受け取る情報量は格段に増えました。それ以前はテレビやラジオ、雑誌といった情報源が主流でした。それだけではありません。味や匂いといったものも立派な情報源です。いつの時代も人間は五感をつかって多くの情報を得てきたのです。
しかし本当にすべての人がそうでしょうか。私はそうは思いません。外国人や障害者といったいわゆる「情報弱者」と言われる人たちがいるからです。今回はそれぞれの立場に立って考えてみたいと思います。
 まずは障害者と情報についてです。
 突然ですが私は視覚障害者です。未熟児で生まれその影響で網膜薄利となり1歳前に視力をほぼ失いました。手術のおかげでそれ以降わずかですが光を感じることができています。小さいころは両親や周りの先生などから、また多くの物に触れたりして、年齢が上がってからは点字の本やラジオなどで。視覚以外のかんかくをつかい情報をえてきました。人との会話にも困りませんし日常生活もそれなりにおくっていますので情報はあまり不足していないと思っていました。
しかし大学に入ってみると目が見えている周りの友達は私より情報量が格段に違ったのです。見えている分知識が豊富で、そのジャンルも周りの景色、アニメのこと、ファッションのことなど実に様々です。  視覚からの情報は全体の9割以言われています。
友達と会話しているとその幅の広さから私も含め多くの視覚障害者がいかに情報から取り残されているかがわかります。
 では視覚障害者はどの程度の情報量になるのでしょうか。視覚障害と言っても見え方は人によって違いますが今回は全盲の場合です。今作文をお読みのみなさん、周囲をぐるりと見渡してみてください。静かな部屋であれば壁紙や机、床の色、時計……。外であれば行き交う人の流れ、お店の看板、空を飛ぶ飛行機も見えるかも
しれません。では、目を閉じて同じように周りを見渡してみてください。

どうでしょうか。上に記したような情報は得られないのではないでしょうか。逆にエアコンの音や人の話し声、車の音、飲食店からの匂いなど嗅覚や聴覚から情報が入ってくるのではないでしょうか。目が見えないと本当にわずかな情報しか得られないことをご理解いただけると思います。
 次は外国人と情報について考えてみます。近年日本に住み働く外国人は多くなってきました。 日本語に不自由がなければいいですが、そうでなければ言語が壁となって情報が届きにくくなります。
ではどのようなときに情報から取り残されるのでしょうか。 例えば、災害時です。どんな災害が起きているのか、どこに逃げたらよいのかなど伝わるべき情報はたくさんあります。しかし慌ただしく復興に向けて動いているとき外国人には状況がわかりにくいのです。炊きだしの情報が入らず苦労したと聞いたこともあります。
 また、電車に乗っていても外国人と日本人の情報格差を感じます。日本語ではコロナウイルスへの予防を呼び掛ける放送がされているのに英語では、どこまで行く電車なのか、次はどこに停車するかという情報しか伝わっていません。私が知る限り緊急停車した際もそのことは伝わっ いないと思います。
このようにいざと言うときの情報保証があまりされていないように感じています。
 コロナウイルスが流行しだしてから日々様々なメディアでその情報が伝えられています。しかし外国人に各地の感染状況などが伝わっているでしょうか。翻訳されたサイトなどを活用することもできますが、テレビをつけてすぐに情報が入ってくる日本人よりは苦労するのです。
 視覚障害者はどうでしょうか。外出先ではアルコール消毒が必須となっています。そのことはわかっていてもアルコールボトルの位置が店によってまちまちです。自分でアルコールを持ち歩いて対処している人も多いですが、これはとても困ることです。また、送られてきたワクチン接種券に期がつかずワクチン接種に時間がかかったという事例も聞きました。

 ここまでいかに取り残されている課などを書いてきましたが、それを主張してもなにも変わりません。我々情報弱者たちが自ら情報を得ようとする子ともとても大切です。視覚障害者であればスマートフォンが音声読み上げや文字拡大によって活用できます。外国人も翻訳されたサイトなど活用できると思います。しかしそれらから得られる情報は限りがあります。私たちももっとたくさんのことを知りたいのです。そんな時皆さんのほんの少しの声かけが本当にありがたいです。
 時間はかかるかもしれませんが互いに協力し合って情報弱者だけでなく誰もが情報から取り残されない社会を作っていくことが大切だと思います。そして暮らしやすい社会となることを願っています。

 

Y・H 高校3年生

 

「僕の頭は、ざる以下だ!」そう思って、自分の頭を何度も何度も両手の握りこぶしで
たたいた。
中学3年生の美術のテスト前夜のことだった。
仏像の名前を何度確認しても、次の瞬間には、紙に書けなくなっている。
たった漢字4.5文字の言葉を、数個覚えるのに1時間以上もかけた。
絶対忘れないようにと思ってベットに入ってからも何度も何度も繰り返した。
そのことで頭が一杯になったのに、次の日のテスト用紙には、言葉が思い浮かばず
書くことができなかった。
他のテスト科目も同様だった。覚えたはずの、数式、特に漢字の語句、テストの時間
になると思い出すことができなくなった。
また、今でも、忘れられない出来事がある。
眼科の病院の待合室で、返却されたテスト用紙をみて、母に叱られたことを。
覚えたはずの漢字の語句が、テストになって書けなかった。
どうして勉強してもできないの?やり方に問題があるんじゃないの?と言われて、
自分でもわからなくて苦しかった。
学校の検診で視力低下といわれ、眼科に検査しに来ている時のことだった。
そこからのことは、あまり覚えていない。いろいろな検査をして
書字障害、心因性視神経症という診断を受けた。高校一年生の初夏の出来事だ。
当時、私は、目の奥が痛くなって、目がチカチカして、見えなくなるという症状と、
激しい頭痛に襲われた。
教科書の字が、ゆがんで見えたりするようになり、それはストレスによる視力低下、
心因性視神経症のせいだったようだ。
高校一年生になるまで、自分に、障害があることは、わからなかった。
私の書字障害の症状は、(原因や症状は人によって異なると考えられているが、)
視覚情報処理の不全が原因で、字が汚い、書けない、漢字を覚えるのにとても苦労する。
というものだ。字は、書けるけれども汚くて
小さいますに文字を納められなかった。「字が汚くて読めない。ていねいに!」
という先生からのコメントは、いくつになっても変わらなかった。
漢字は、覚えてもすぐに忘れてしまうことが多かった。合格点をとるまで漢字テストを
受け続けなければならない、という小学生時代のチャレンジテストには、苦労した。
また、テスト前に、口頭でテストを友達と行うと、答えられるのに、用紙に書くとなると
言葉を思い出せなくなることもあった。
美術では、形を、上手にとらえられず、筆圧が弱く、もっと丁寧に描きなさいと言われることも多かった。高校になって
部活をやめることにした。速く走ることには、自信があり、陸上部に所属していたけれど
もノートを書き写す授業を何時間もうけたら、それだけで疲労が蓄積して、部活まで体力がもたなかった。
こんな風にひどい頭痛で視力低下になるまで、書字障害がわからなかったのは、認知度が低いことが原因の一つだ。小学校一年生の時に、
担任の先生に、「学習障害ではないか?」と疑われ、今回診断を受けた病院
で診てもらったことがあるのだが、その時は、許容範囲だといわれ診断名がつかなかった。
病院の先生にも、「8年前は、そこまで、この障害のことが、知られていなかったので、
診断名がつかなかったが、当時を振り返ってみると確かに書字障害の症状があります。」
と言われた。
通っている高校には、母が事情を話し、テストの際には、別室で受けさせてもらい、文字も大きく印刷してもらえるようになった。また、時間延長もしてもらえることとなった。
学校の先生は、今までに、そのような診断を受けた生徒は、聞いたことがなく、どのような配慮が必要なのかわからない。と戸惑っているようだった。
認知度が低いことで、問題となるのは、書字障害がある生徒さんの自己肯定感が
下がることだ。
私自身そうだったのだが、自分は、努力が足りないせいだと 自分をいつも攻め続けていた。どれほど努力したら
先生に指摘されなくなるのか?漢字を覚えられるのかと悩み、自分を追い詰めていた。
きっと、私のように自己肯定感を下げながら、勉強する意味を見失ってしまっている生徒さんも、大勢いるのではないかと思う。
そんな生徒さんがいたら、自分の努力不足と決めつける前に、この障害を疑ってほしい。
自分の障害を受け入れることにも時間がかかるかもしれない。私自身、突然、障害があるといわれ、特別な配慮を受けることに抵抗があった。
目に見えて視覚や聴覚に困難があるわけでもないので、クラスの友人
からもどのように思われるだろうと心配した。でも、声を上げれば、きっと周囲の人は、理解してくれる。
そして助けてくれる。その勇気が、今度は、同じように困っている誰かを助けることにつながり、誰一人取り残さない社会の現実に近づいていけると私は信じている。

 

松尾香奈 京都大学修士課程1回生

 

 医療技術の進歩が、マイノリティの「生」を脅かす時代となった。聴覚障害を人工内耳という科学技術によって「治す」ことが最良な治療手段とされようとしているのだ。
人工内耳とは、補聴器を装用してもまだ聞き取りが不十分なほどに重度な難聴者の補聴をサポートする人工臓器だ。なるべく低年齢な段階で埋め込み手術をおこなうことが推奨されている。人工内耳は、重度難聴者に音やことばの入力をもたらす画期的な医療技術として迎えられた。しかし、人工内耳は本当に聞こえない人々にとって画期的な医療技術なのだろうか。
 ところで、聴者の身近なところには、日本手話で考え、日本手話で話す「ろう者」が暮らしている。日本手話とは、日本語とは異なる文法を持つ自然言語だ。ジェスチャーとは異なり、言語としての体系が存在する。そして、この言語を第一言語として話す人々や後天的に習得した人々、習得しようとしている人々、CODAと呼ばれる「ろう者」の親を持つ子どもなど、多様な背景を持つ人々の集うコミュニティは、「ろう者コミュニティ」と呼ばれている。「ろう者コミュニティ」に足を踏み入れると、あちらこちらで手話が飛び交う賑やかな空間に誘われる。そこには、音のない世界で「生」が紡がれる、聴世界とは別の世界が広がっているのだ。
 人工内耳を推奨する人々にみえている世界は、おそらく聴世界だけだ。「ろう者」の世界を知らない。存在は知っていても、聴覚障害者が集まっているコミュニティ程度の認識で止まっており、実態は知らないままだ。それにもかかわらず、聞こえないなんて不幸だ、聞こえた方が幸せだというのは、一面的な価値観の押しつけ以外の何ものでもない。あたかもマジョリティの価値観が普遍的なものであるかのように振る舞っているだけなのだ。
 人工内耳の推奨は、優生思想だと私は思う。「ろう者」をマジョリティである聴者と同化させる、科学技術を介したろう者に対する差別だ。第一、どんなに科学技術が進歩しようと、「ろう者」が100%理解できる言語は手話であって、音声日本語ではない。そもそも、人工内耳を装用しても、聴者と同じように聞き取れるようになるわけではないといわれているからだ。同化させたに見えて、実はまったく同化していない。人工内耳は、聴者の世界から置いてけぼりにされるリスクを消失させるものではなく、会話をすべて聞き取れないジレンマを抱えるリスクを増大させるものである。
 たしかに、聴の親にとっては、子どもが自分と同じ言語を話す未来を描きやすくなる意味において、人工内耳は希望なのかもしれない。親には、子どもに人工内耳手術を受けさせる権利がある。それを奪う権利は誰にもないし、私もその権利を奪いたいとは思っていない。私が問題としているのは、手話で子育てをする選択肢があまり浸透していないこと、そしてその選択肢がきちんと親に提示されていないことだ。
 生まれたこどもが聞こえないとわかったとき、はじめて「ろう」の人間を目の当たりにする親もいる。「ろう者」を知らなかった親は、当然「ろう者」の世界のことも知らない。手話で生きる選択をした大人のろう者やその家族を知らないままに、人工内耳の手術を決断する親もいるくらいだ。
 聴者にとって最善の医療技術の提供を目指すのではなく、ろう児を取り巻く環境まで考え、ろう児にとって最善のケアとは何かについて考えて欲しい。人工内耳という選択肢しか提示しない偏りは、ろう児やその親から子育てする上での選択権を暗に剥奪していると考えられる。聴者にとっての最善は、必ずしも「ろう者」にとって最善ではない可能性がある。
 「誰ひとり取り残さない」——この誓いは、<マイノリティをあたかもマジョリティであるかのように扱いながら社会に包摂すること>として解釈されてしまう危うさも抱えている。マイノリティが社会参入するとき、マジョリティと異なる部分をわざわざ同化させなければならないのは、なぜだろう。ろう児が音声日本語の獲得を強要されなければならないのは、なぜだろう。聴者は、「ろう者」に対してなんの権限があるのだろう。
 どうか、ろう児から「ろう者」として生きる可能性、手話で育ち、手話で考え手話で話す「ろう者」になる未来を奪わないでほしい。
 NOTHING ABOUT US WITHOUT US!(私たちのことを私たち抜きにして決めないで!)
 これは、「障害者の権利に関する条約」が掲げている合言葉だ。ろう当事者たち抜きにして、ろう者の未来を決められる社会から脱却しなければいけない。人工内耳の普及が目指される現在において、心に留めておかないといけない大切な合言葉だ。

 

 

山口稔由 長崎大学多文化社会学部多文化社会学科国際公共政策コース 3年生

気づいたらみんないなかった。そんな学生生活だった。

 私は小中学校を通して、何度も転校を経験した。入学した学校で卒業できたのは、高校が初めてだった。繰り返す転校の中で、私は人付き合いが苦手になり、友達との関わり方がわからなくなった。中学生のある日、理科の実験で教室の移動があった。ふと周りを見渡すと、クラスメイトはすでに移動を終えた後だった。私だけが取り残された自教室。疎外感だけが強く残った。当時の私には、自分から話しかけられる人もいなかったし、そもそも話しかける勇気もなかった。
 また、その時の私は、転校先の教科書の違いから、未履修の分野も多くあった。テストでもこれまでにないほど低い点数を取ってしまい、置いていかれる、取り残されてしまう、という焦りがあった。私が人生で初めて塾に通い出したのは、まさにこの時期だった。その時の私は、焦りや不安でいっぱいだった。ちゃんと高校に行けるだろうか。友達はできるだろうか。そうした負の感情ばかりが募っていた。
 こうした経験は、私に限ったことではないだろう。転校していなくても、移動教室で取り残されている人はいるかもしれないし、一緒に過ごしていても、取り残されていると感じている人もいるかもしれない。
高校生になった私は、1年生の時、同じクラスに中国人の生徒がいた。彼女は親の仕事の都合で1年前に日本に来たばかりであり、日本語をほとんど話せず、また、聞き取ることも難しいようだった。私には中国語は全く分からず、意思疎通も英語や身振り手振りを使ってしか行うことができなかった。日本語話者の学校で、周りに日本人であふれているそのクラスにとって、こうしたコミュニケーションは、もちろん苦労することであっただろう。実際に何度も、難しさを感じることがあった。時間割の変更がうまく伝わっておらず、彼女だけ教科書を忘れてきてしまう、そんな日もあった。しかし、ここでだれも、彼女を取り残さず、一緒に頑張ったからこそ、私達は一緒に卒業の日を迎えることができたのではないかと思っている。「言葉が通じなくて大変だから」「自分には関係ないから」そうした考えではなく、皆が彼女のために、親身になって行動したからこその結果であると思う。
 「誰ひとり取り残さない」、これを実現するには、まずは「取り残されている人がいないかどうか」ということに気付くことが必要だと私は考える。そもそも取り残されている人に気付かなければ、誰も取り残されないように、と状況を改善する必要性を感じることもできない。取り残されている人に気付くこと、そして、手を差し伸べ、一緒に歩むことの必要性を認識してはじめて、「取り残さない」ことに繋がるのではないかと思う。「誰ひとり取り残さない」と聞くと、とても大きな話で、実現するのは難しいことのように聞こえるかもしれない。たしかに、自分一人が、世界中の誰しもを取り残さないことは難しいかもしれない。しかし、自分のクラスではどうだろうか。少し、周りを見渡してみてほしい。取り残されている人はいないだろうか。自分はその人と、手を取り合うことはできないだろうか。あなたの周りの、10人でも、5人でも、1人でもいい。あなたがあなたの周りを取り残さない、その積み重ねこそが、「誰ひとり取り残さない」社会に繋がるのだ。
 私は、中学生時代に「取り残された」記憶が、今でも鮮明に残っている。そして、誰にもあんな思いをしてほしくない、と思っている。私は、自分が得た経験を、これから取り残される人を少しずつでも減らしていけるように役立てていきたい。
中学生のあの時、取り残されていた過去の私には、今の私が取り残さずに、一緒に前を向いている。

 

 

前田幸汰 東京都市大学付属高等学校 3年生

 

 「てんかん」という病気のことをどのくらいの人が知っているのだろか。世界人口の0.5~1.0%にあたる約5000万人が罹患している病気で、日本においても約100万人の患者がいると予想されている。誰でもなりうる病気ではあるが、周囲からの正しい理解がないと偏見や差別を助長してしまう可能性がある。たとえば、アフリカのケニアではこの病気を「悪霊の仕業」と信じている人もおり、てんかん患者は社会や家族から差別や偏見を受けることが多く、なかにはうつ病になるほど追い込まれてしまう人もいる。偏った印象を抱かれやすい病気とされているぶん、「誰一人取り残さない」社会の実現に向けた市民社会の実践として、誤った情報による差別や偏見をなくさなくてはいけない。そのためにも、私を含め大多数の人が使用しているSNS等の媒体を通じて、情報を受け手側に正しく伝達すること、反対に受け手側は自身の思い込みによって情報を落とし込み、誤情報として他者に伝えてしまうと、社会全体で見たときに差別や偏見に晒される「取り残される人」が出てきてしまうことを認識すべきだ。まず、この情報化社会の現実に向き合うことが解決への一歩だと言え、法律制定などの具体的解決策以前に、私たちの社会を取り巻く誤情報により「取り残される人」が存在する現実を真摯に受け止めなくてはならない。
 2018年2月5日早朝、私は小児てんかんに罹患した。その日から日常は一変することになる。一ヶ月おきにある脳波検査と血液検査、毎食後の薬服用、薬の常時携帯など、こんな煩雑な日々をおくることになった自分の運命を憎んだ。別に誰が悪いわけでもない。なのに、その怒りを誰かにぶつけようとし、またその自分の情けない姿に怒りを覚える感情をなかば諦めている自分がいた。負のスパイラルが続き、私はすっかり笑うことが無くなってしまったほどだ。そんな時、周囲は他人が患う病気にどのくらいの関心を持ち、積極的に正しい知識を身につけようとする人がはたして何人いるのだろう、と疑問に思うことがあった。最も恐れるべきは、自分の内側に客観的な情報が乏しくなると、人々は自己判断で物事を簡潔に理解しようとするため、その口から「主観的な情報」が流布されやすくなることだ。これは私のように病気や障害を持つ者からすると辛いと同時に恐ろしい側面である。思い込みによって作り上げられた巨大な壁がいつの間にか健常者と障害者の間に出来ている、といったことも想定される。以下は、障害者が法的に区別されていた事例である。
 法律上、資格や免許の適性がないことを「欠格」というが、かつてのてんかん患者はこれに該当するため取得できない資格や免許が多くあったそうだ。現在では差別や偏見をなくすという観点から、航空機関連の免許や狩猟免許などに絞られ、かなり少なくなっているようだが、今から二十年ほど前までは美容師や理容師の免許取得も認められていなかった。てんかんという病気は一般的に薬を服用すれば、8割ぐらいの人が抑制できる。また決められた期間服用を続ければ、7~8割のひとが治癒する。こうした医学的事実があるにも関わらず、これまで挙げたような差別があったとされているのだ。
 自分とは何かが異なる他者を見たとき、罪悪感なく無意識的に「区別」する傾向は誰にでもある。もともと人は自分と他者は異なる存在だと認識しているので、このような「区別」は自然なことだと言える。しかし、この「区別」が徐々に「差別」に変化していくと、それが結果として偏見を生みだす。差別や偏見によって「取り残される人」が出てきてしまう。自分と違っていてもいい、という感覚を根付かせようとするにはかなりの時間を要するであろうし、寛大になるという点からすれば人生観を変える必要も出てくるだろう。実際、私が学校でてんかんを発症し、クラスメイトはその姿を目の当たりにして、この病気に対するイメージが一人歩きしていたこともあった。しかし、クラスメイトはその区別を自然と受け流し、私が何事も無い日常に戻ることができたのは、心の底から嬉しいことだった。
 情報自体は泣きも笑いもしない。ただ、それが人間によって扱われるときにさまざまな表情に変化する。情報の交信がしやすい現代だからこそ、悪意無く誤った情報とは知らずに発信と受信を繰り返すことがある。それが「取り残される人」を生んでしまっているという現実を頭の片隅に置いてもらいたい。スマホ画面の送信ボタンをタップする前に「本当にこの情報は正しいのか。これによって誤った認識が広まり、社会に新たな壁を作りはしまいか」と少しだけ考えてみてほしい。その情報の受け手側も安易に理解した気にならず、それを一度でも疑ってほしい。「取り残される人」をこれ以上生まないために、情報の向き合い方を再考することが問題解決の一歩になると私は考える。

 

 

若尾瑠美 都立新宿山吹高校 3年生

 

私はいつも疎外感を感じていた。普通に生きているということはどういうことなのかも、はっきり理解していなかった。周りの人から疎まれているというわけではないのに、なぜだか、自分は周りとちがうのではないかと思い続けていたのだ。
私は昔から言われたことをやるだけの子だったが、すべてはスムーズに進まなかった。すべてをこなすには、心も体も脆かった。でも、自主性がない自覚があったから、そんな意識でいたらダメだと言われるのが怖くて、助けを求めることができなくて、中学生のころには疲れ切って、もうどうでもよくなって、学校に行かなくなった。いろいろ教えてくれる人たちから離れた結果、こころが楽になり、はじめて「やれ」と言われたことをはっきりと拒否したくなった。拒否を覚えた私は、ずいぶんと生きやすくなったものの、自分のことを認めることが難しくなっていた。みんなが当たり前のように扱っていた「否定」を、どうしてか、自分は使ってはいけないような気がして悩むことになっていた。
だけど、私は日常生活が辛かったのだ。普通の人が当たり前にすることが辛く思えて、具体的になにが辛いのかを言葉にしても、誰にも伝わらない。人からしたら、そんなことは辛くもなんともないし、私は甘えているだけのものだとずっと頭の中で自分に言われ続けた。声に怯えて、ずっと家で横になり続けていた。私はなにも病名がない。ただの怠け者だと自分を責めながら。
結果的に、私は良い子であることをやめ、怠け者という汚名を背負っていく覚悟をすることで、進学直前に立ち直ることができた。普通にできなくても、他のことで努力できるならいいということにした。これで本当に良かったのかと思うところもあるけれど、人生はとっても楽しくなった。
普通の生活にどうにか適応しようとしているうちに、私は、昔の私のような、「あたりまえ」なことを辛く感じてしまうような人をすべて救いたいと思った。それは、どんな場面においても、普通から外れてしまう人が楽しく生きてほしいということだ。人間関係では、変わった言動、珍しい趣味、進んだ考え方、常識知らずといった理由で、人が嫌われたり遠巻きにされたりすることがよくある。それを人に言っても今は認めてもらえないということにすら気づけていないかもしれない。そんな人が悲しい目に会うのを見るのは、仕方ないことかもしれないけど、私にとっては辛いことだった。
SDGsをはじめて知ったのは、高校での授業だった。世界をよりよくするための目標を、どんな弱い者も例外なく実現しようという理念をうけて、私は驚いた。社会にとって迷惑であろう私のような人すらも輪に入れて改善していこうというのだ。こういう目標は、普通の人のためにあるものだとばかり思っていた。私だけでは普通ではないところがあるみんなを救うなんて到底無理だけど、国連のようなグローバルで大きな組織がこうして目標を掲げてくれていたことは、とても心強いことだった。
だれかにひとつ取り柄があるというわけではない。天が一物も与えないことだって、いくらでもあるだろう。「あたりまえ」ができることすら、幸せなことだと思う。私は私のできる範囲で、苦しんでいる人の力になりたい。「あたりまえ」という言葉で人を殴りたくない。一度、これはできて当然という考えを捨てて、人に対する期待値を下げてみてはどうか。できる人がすごい、そう考えていてくれるだけで、認められる人がいる。できない人を、できる人がサポートすればいいだろう。完璧な人などいないという言葉を信じるならば、どんな人同士であっても、片方ができて片方ができないことは絶対にあるはずだ。誰かだけが犠牲になることはない。
「誰ひとり取り残さない」ためには、「あたりまえ」からできない、わからないような、もっとも困難を覚えている人に焦点をあてていくことが必要だろう。私はそう考えてから、人により優しく接するようにしている。自分ができて相手ができないことがあれば自分から進んで、代わりにやったり、相手が望むなら教えたり、生活面や勉強問わず、仲の良さも立場も問わず、できるだけたくさんの人の役に立とうとしている。空回りだってするし、ありがた迷惑になってしまったこともある。でも、もし少しでも誰かの役に立てているならばそれでいいと思う。どんな些細なことも積もっていけば、人の生きやすさに繋がると信じているから。

 

 

塚田優也 埼玉大学大学院

 

個人的な話をする。

今、俺はiQOSと紙巻きの併用をしている。
iQOSはレギュラーのやつ、紙巻きはセブンスターかラークのクラシックマイルド、ごく偶にハイライト。
かつてはiQOS特有の豆を焼いたような匂い——この表現は思いのほか共感を得にくいのだが——が苦手だったが、今はもう慣れてしまった。
他の人の話では聞いたことがないのだが、俺の場合、夏場にiQOSを吸うと原因不明の眩暈がするので、その時期は紙巻きオンリーにしている。
一日に吸う本数に多少の波はあるが、ざっと均して、三日に二箱くらいのペース。

ふと思えば、大学に入ってからできた友達は、ほとんど全員喫煙者だ。それもみんな大抵俺と違う学部で、喫煙所でしゃべることがきっかけで仲が深まったりすることが多かった。彼らとの出会いも、喫煙(所?)がもたらす身体的密度、あるいはそれとは別の、ある種の「非-身体的なもの」とでも呼ぶべきもののおかげなのかもしれない。

俺は、小学生の頃からゲームセンターに通い詰めていた。
そこには大きく分けて二つのゾーンがあった。一方には子供向けのカードゲーム、そしてUFOキャッチャーとメダルゲームが置かれた区画、もう一方には、格ゲーやレーシングのゲーム、あとはなんか麻雀のアーケード筐体とかが並んでいる区画があった。つまり、それぞれ利用者の年齢層が異なっていた。なので、前者のゾーンは基本的に禁煙だったが、後者の方はいつもタバコの匂いが充満していた。
子供向けカードゲームに熱狂していたのは低〜中学年の途中くらい?までだったと思う。それに飽きてから、俺は煙たい方の区画にあるゲームにハマっていった。高学年くらいの時はロボットアニメのゲーム、中学に上がってからはサッカーのゲーム。これらもやはりカードゲームの部類なのだが、どちらも1プレイのクレジットが300円とかだった。そんな金のかかるゲームを手放しでやりこませてくれるほど、うちの保護者——そのゲームセンターは小学生が家から自転車で行くにはやや遠く、日中働きに出ていた母の代わりに、主に祖母が連れて行ってくれていた——の財布の紐はゆるくなかった。なので、テストの成績などで稼いだなけなしの小遣いをなんとかかき集め、友達と一緒に週末に注ぎ込みに行ったりした。

あのゲーセンで嗅いだ副流煙は、特別に憧れるような「オトナの匂い」ではなかったし、そこで喫煙していた人たちも、特段カッコよかったわけでもなかった。単純に、そういう環境があって、そこは楽しいところだったのだ。加えて、母も喫煙者だ。助手席に座って嗅いだ、ハンドルを握っていない方の母の手から漂う匂いは、至極当たり前のものだった。俺が喫煙を始めてから、数えてまだ2、3年くらいしか経っていないが、あの初めて吸った時を節目に、何かがガラッと変わった、みたいな感じは、あまりしていない。だから、タバコやめなよ、臭いよ、健康に悪いよ、と言われることが最近になって増えてきたのだが、そんなことをいわれても、なんというか、仕方がないんだよなぁ、と、力なく思うのだ。

最近ちょっとショックだったのは、そのようなことを教授に言われた時だった。俺が「2年か3年くらいです」と言ったら、先生は「まだ間に合うわね」と言われた。一瞬「何が?」と思ったが、すぐに「今ならまだ、タバコで健康を損ねることなく生きる道に戻れるね」という意味だと理解した。

当然、先生には先生の事情があって、そして俺への真心から、「間に合うわね」と仰ったのだ。というのも、俺に語ってくれた話では、先生もかつてはヘビースモーカーだったそうだ。——若いころ、憧れのようなものから喫煙を始めた、子供を産んでからも、しばらくはベランダで隠れて吸っていた、と。そして今、おそらくそれが原因で、先生は呼吸器系に不調をかかえていらっしゃる。将来ながく健康に生きていく、ということを考えるなら、先生のこのお気遣いは決して安易に無碍にすべきではない。

——しかし、俺がタバコをやめたら、あの煙たいゲーセンや、運転席の母の手から現在までずっと続いている、俺が大好きな、あの当たり前の何かが、ひょっとするとあっさり死んでしまうのではないか?俺にはそんな気がしてならない。もしそうなったら、と考えると、俺はどうしようもなく、そっちの方が怖い。今の俺は、いや、おそらくこれからもずっと、俺はそう思わずにはいられないだろう。

 

 

土肥美桜 KTCおおぞら高等学院 2年生

 

私は、摂食障害と醜形恐怖症を患っている。これを聞いて、皆さんはどう思っただろうか。生活が大変そうだな、可哀想、と思った方も多いかもしれない。確かに、日常生活の中で病気の症状そのものに悩まされることはとても多い。しかしながら、私としては、周囲からの理解が得られないことや助けてもらえる手段が少ないこと、差別されることなどに苦しむほうが圧倒的に多いと感じている。
ある日、摂食障害についてインターネットで検索をしていた時のことだ。とあるサイトで「摂食障害」という題名のついている掲示板を見つけ、きっと当事者が症状について語り合っている自助グループのような場所だ、と推測した私は、そのページをクリックしてみた。するとそこには、あろうことか摂食障害患者についての罵倒や悪口が書き連ねられていた。「摂食障害は単なる甘え」「自己管理のできない馬鹿がなる病気」「発達障害患者の温床」など、酷い文言が所狭しと並んでいる有様だった。これらの悪口は、大多数が摂食障害の当事者ではない人間によって書かれたものだと推測できた。なぜ病に苦しんでいる人が全く関係のない人に罵られたり、傷つけられたりしなければいけないのだろう、と非常に虚しい気持ちになったのを覚えている。
また、醜形恐怖症についても、やはりなかなか理解を得られない。鏡を見て泣いてしまうことや、化粧の出来映えによって気持ちの浮き沈みが激しいことに関して、「頭がおかしいのでは」「気持ち悪い」「容姿に固執して中身を磨こうとしない、短絡的思考だ」など、心無い言葉を浴びせられることもある。
このように、精神疾患に対して偏見を持たれてしまうことは往々にしてある。そのため人々は、周囲への相談や精神科・心療内科の受診を避ける傾向にある。世間から「異常者」のレッテルを張られるのが怖いのだ。例えば、子ども自身が精神疾患にかかっているかもしれないことに気づいたとき、病院に行きたいと親に頼んでも、世間体を気にして連れて行ってもらえない場合がある。事実私の友人はそんな状況に長い間苦しめられていた。また、自分が精神疾患を持っていることが友達にばれたら虐められるかもしれないという恐怖心から、誰かに相談するという選択肢を自ら消してしまう場合もある。大人でも、仕事への影響や組織からの評価を懸念し、自分をだましだまし生きている場合が少なくない。そして、周りの人に助けを求めることができないまま日々追い詰められていき、自傷行為がエスカレートしたり、最悪の場合自死を選んでしまったりする。
これこそが、精神疾患の闇である。私は、社会福祉の体制より、世の中の人々がかけている色眼鏡にこそ大きな問題があると考えている。きちんと周囲からサポートを受けられる・病院と繋がれる人ばかりではない。身体の病気とは違い、外からはわからないことがほとんどであるため、自ら声を上げなければ支援を受けることができない。けれども偏見の目が怖いがゆえに相談できないまま、独りで抱え込んで孤独に苦しんでいる人は予想以上に多い。それは日本人の自殺率が他の先進国に比べて高いことからもうかがえるだろう。そういった社会から取り残された人々がいなくなるためには、一番に偏見や差別をなくす必要がある。精神病だから、という理由で差別するのは絶対に間違っていると思う。最近では新型コロナウイルス感染者に対する差別や誹謗中傷が問題になっているが、それと同じことだ。患者が悪いわけではないのに、理由もなく差別する人、区別と排斥を混同している人があまりに多すぎる。そんなことがまかり通る世の中では病気を隠したくなるのも当然であり、助けを求められない人の置かれる状況は深刻化していくと思う。
現代人の五大疾病に鬱病が入っているように、今や誰もがメンタルを病んでしまう可能性のある時代だ。決して奇異な話ではないのである。もし、自分が患者の立場で理不尽な差別を受けたら。肩身の狭い思いをして生きることを想像し、怖くなって誰にも相談できずに独りで苦しむことになったら。どうだろうか。当事者の立場になって考えてみれば、飛び交う言葉がどれほど鋭く痛いものか、おのずとわかってくるのではないか。
病気のあるなしにかかわらず、皆同じ人間なのだ。誰に対しても、フェアな態度で対応するべきである。そうして世の中の意識を変化させることが、精神疾患を打ち明けられずに苦しむ、いわば取り残された人々を救うと思う。まずは私自身が、人に先入観を持つのをやめて、公平に思いやりを持って生きていきたい。近い将来、差別や偏見がなく誰一人として取り残されない社会になることを信じて。

 

 

佐藤 力 ウェンデル 加古川マリンガ外国語センター・マリンガ日本語学校

 

 「誰一人取り残さない」。貴方は人を愛してますか?
 僕は日系ブラジル人四世である。日本人でもブラジル人でもない、二つの国の文化や言語と一緒に育って来た。ブラジルで生まれたのに鏡を見るとどこからどう見ても日本人。同然な事である。なぜなら自分の曽祖父母達は皆日本から移民して来た日本人だから。だが自分が日本人だと言うとピンとこない、「ブラジルで生まれた日本人」と言えば正しいのだろうか。ブラジル人の目から見ると日本人、日本人から見ると外国人。僕はどちらでもない日系ブラジル人だ。
 母国ではない国で育つと言うのは差別を知ることだろうか。母が心込めて作った梅干入りのり巻きおにぎりと甘い卵焼きの日本式弁当を学校に持っていくと生徒達から変な目で見られる。あの気持悪目線、まるで見たこともない物を見る目。自分だけが違うと感じるとは孤独だと知った。世界のどこかでも僕が体験した似たような差別は有るだろう、人種、文化、障害など。「何かが違う」の前に、皆人間である。人と言うのは「どこか似ててどこか違う」。残念ながらこの広い世の中では人間としての基本ができていない人が沢山いる。「他人と自分の違いを受け入れる」と言った単純なことを知らずに差別を行ってしまう人がそこら中にいる。だが大事なのは他人が何を行動する事では無く自分がどう行動することである。
 この世界で全員が差別しなくなると言うのは難しいだろう。だが不可能ではない。もっと良い未来を望んでいる人々が必ずいる。少しずつ一人一人が新しい考えと思いを乗せた運動が世界を変えるだろう。それは人間性を取り戻す革命だ。どこかの西方の人が言う「神を愛し、自分を愛し、人に愛を持ち」を実現実行に移すことだ。人を人間として愛し、違い問わず愛すること。世界が愛で包まれる革命だ。「唯の理想を語る少年」と思われるかもしれないが誰しも願うことではないだろうか。今まで散々と争い、貶し、互いに憎みあった歴史の上で平和な未来を願ってはいけないだろうか。世界で様々な運動が起こっている中でこれもその一つである。だが勘違いしてはいけないことが一つある。それは皆同じではない事、一人一人は違う性格、考え、思い、道徳や倫理を持っていると云う事だ。「違いを受け入れる」は「全員が同じ」ではない。
 きっと遠い未来の世界は明るいだろう。基本精神「誰一人取り残さない」は昔も今も変わらず未来でも変わらない。だがどの時代でも社会の中に反対を訴える思想を持つ者が現れて声を上げるだろう。そこで世界は罪人に罰を与えて終るだろうか。それとも思想自体を消すだろうか。選択肢を選ぶのは世界だろうか自分だろうか。未来を作るのは貴方ではないだろうか?

 

邢(しん)依嫻( いーしゃん) 都立国際高校(卒業)→進学準備中

 

 電車のドア側に、制服を着ている少女は、誰にも理解されていない悩みを抱えている。私は、中2の時に来日し、日本語が全くわからない状態で公立中学校に入学した。入学してから中学校を卒業するまで学校での疎外感で生まれた心の傷は今でも癒えていない。私と同様に外国人であったクラスメイト二人は中学校を中退し、一層孤独な日々を送ることになった。夜は悩みを聞いてくれる家族がいたが、朝になると憂鬱な学校が始まる。「在日外国人」という埋められない溝を感じる毎日だった。明るい性格だった私は、高校に入り、当時の新鮮感が消えてしまい、残ったのは日本人への恐怖心だけだった。一見して外国人差別防止や日本語支援の取り組みが充実している。しかし残念なことに、「誰ひとりも取り残さない社会」という理想を掲げる中で、学校で無意識に外国人の子どもを「よそ者」として捉えられがちのことが私たちの生活空間に至るところにあふれている。
 データから見ると、全国の小・中学生における不登校生徒割合は1.7%であるのに対して、不就学と推定される外国人子どもの割合は11.3%、約日本人の6.7倍である。原因はマイノリティの彼らが学校で生じる疎外感や日本語の不自由で生じた日本語への抵抗感、進学意欲の低下につながる。そこで昨年、私が参加している外国人子ども支援ボランティアの現場では、コロナ感染拡大防止のために授業形態を対面とオンラインを選択できるようにしたところ、全ての児童がオンラインを選択した上に、参加率も上がった。子どもたちの立場で考えるという一貫して続けてきた私のこだわりに基づいてこの現象を捉えたとき、コロナへの不安とは別の要因が隠れているような気がした。日本語を第二言語として学習者である外国人子どもの不安は外国語学習環境と相関関係にあるため、対面からオンラインへ変化させることで、環境から受ける影響は大きく軽減されるだろう。したがって、つらい経験をしていて、一度「不登校」になりそうな私は、外国人子ども向けの日本語支援をオンライン化することを提案する。
 別の教室で指導を行う「取り出し授業」と授業中に支援者が入って、日本語支援を行う「入り込み授業」は、現在学校で行われている外国人子どもを対象とする日本語支援である。しかし、実際にこの「特別扱い」は、外国人子どもの学校での疎外感を感じさせる要因の一つとなるのだ。そのため、まず第一歩として、この日本語支援を廃除し、その分を土日や放課後の時間を利用して、オンラインで行うべきだと考える。なぜかというと、日本人生徒と同じ空間や時間を授業を受けることを確保することによって、外国人子どもの学校での特別扱いで生じた疎外感の取除きに有効だからだ。それ以外にも、現状として日本語教室の通いにくさによる日本語教室の出席率の悪さや、外国人散在地域の充分な日本語指導されていないことも、時間や場所の制約がないという特徴をもつオンラインツールで経験のある支援員による、支援の行き届いていない外国人散在地域の子どもにまで届くことができるだろう。
 また、日本語支援に関しては、日本語指導者から間違えを指摘されるかという不安による、日本語への抵抗感が生じてしまうことのみならず、反対に幼児に対して話すように過度に優しく接されたりすることも外国人子どもが日本語への抵抗感につながる。このように、相手や周囲の反応に敏感になり、うまく話せていないのではないかと不安が増大し、その負担による日本語学習にも集中できなくなるのだ。そのため、外国人子ども向けのオンライン学習システムでは、生徒と教師対等的な授業仕組みを重視すべきだ。具体的には、教師による授業を行うオンライン「教室」という既成概念を打破する必要がある。従来のインプットを中心にする日本語指導法のではなく、教師と生徒の相互関係から脱却し、互いに楽しく会話をする「トークルーム」という形の日本語指導法を提案したい。加えて、会話によるつながりを促すような設計で、居場所感も生み出すことができる。このように、すべての外国人子どもに最適の日本語教育を届き、彼らを誰ひとり取り残さない社会に進めたい。
 私は、世の中、理不尽な事がたくさんあると思う。しかし、それだからこそ、本当の意味のSDGsの基本精神の「誰ひとり取り残さない」社会に一歩でも近づくために、私たちがそれを変えていく使命感が生まれて、行動をするのだ。

 

 

煙山実穂 横浜国立大学1年生

 

 今日の朝食は、1/5合の米とベーコンエッグ。昼食はもやしと卵の炒め物とトマト半分。夕食はトマト半分。この食生活は、関東に住む大学生の「普通」なのだろうか。
 私は奨学金を受給し、その範囲内で食品や日用品を購入している。私の通っていた高校では奨学金を借りて大学に進学する人は多くいたため、最初こそ借金への不安はあったもののそれも薄れていった。一人暮らしを始め、私は節約をすることに楽しみすら感じていた。特に食費は抑えられるように努力している。しかししばらくして、周囲との少しのずれに違和感をおぼえるようになった。学生食堂でご飯を食べる人たちは、トレーいっぱいに料理を並べている。私はなるべく安い品を2,3品。サークルの仲間は、毎回自動販売機から飲み物を買っている。私にはそんなことはできない。必ず水筒を持参し、忘れた場合は我慢する。他人の生活レベルの詳細はわからない。私は、大学生は節約して生活をするのが当たり前だと思っていたし、今の生活に不満はない。しかし、私の生活は周りと比べてずれているのかもしれないという不安が生まれた。周りは豊かな生活を享受しているなか、取り残されているのかもしれないと思った。他人の生活レベルがわからないからこそ生まれた不安かもしれない。この不安は私一人では解消し難いものである。友達であっても、毎日の食生活について詳細に尋ねるのは気がひける。相対的貧困は、本人が自覚しづらいということの意味がよくわかった。周りの生活のことは本当に不透明であり、わざわざ知ろうともしないのだ。もし多少周りとのずれに勘づいていたとしても、それを確認する勇気はない。
 「誰ひとり取り残さない」という言葉は、どこからの視点の言葉なのだろうか。周囲に奨学金を受給する人が大勢いた私は、「取り残されて」いなかったと思う。環境の変化、土地の変化によって、どのような生活レベルや幸福度の人が取り残されることになるのかの基準も変化する。例えば、戸建ての物件を購入することの重大さは、都心地域と田舎では大きく異なる。先進国の基準で考えれば、途上国の人々は取り残されているのかもしれない。一方で、我々が当事者と想定する人々は、その対象になるとは思いもしないかもしれない。しかし、本人が不自由を感じていなければよいという問題でもない。はじめは感じていた不自由が、日常の中でかき消された可能性もある。そこで私は、世界で望まれる環境を広く提示し、当事者との話し合いを十分に設けて、どう生活していきたいのかの見通しを立てる必要があると考える。これは金銭面に限った話ではない。宗教、性別、思想などにおいて、当事者になり得る人に現状について周知することから始める必要がある。自分が周りから取り残されている事実を知ってショックを受ける人もいることだろう。私もその可能性に気付いてショックを受けた。ショックを受けた人へのケアも含めて、責任ある活動が求められる。
 ひとりでは「格差」も「取り残される」こともあり得ない。人との関係があって初めて生じるものである。多くの人との関係から成り立つ社会で生きていくためには、みんなが社会を、生活を「知っている」ことから始めよう。周囲の人々に取り残されているかもしれない私の不安は、彼らの生活をもっと知れば、解消される部分が大きいだろう。今後どのように行動すればよいかの検討ができるからである。さらにショックを受けることもあるかもしれないが、もしそのケアをしてもらえるのであれば、知ることへの勇気も生まれる。みんなが互いの世界を知ったら、みんなで未来について考えていけるはずだ。その勇気を与えあえる世界を私は望む。

 

 

渡邉光砂 常葉大学 4年生

 

「そんな性格じゃこの先、生きていけないよ。」これは私が21年間の人生で1番苦しかった言葉です。HSPという言葉を聞いて、何人の人が知っていると答えるでしょうか。私の周りでは片手で足りる人数しかいませんでした。ここではHSPの日常生活や抱える問題を、自分の体験も踏まえてお話します。
私は幼い頃から、自分の性格を好きになれませんでした。何故なら、周りの大人に「性格を変えていかなきゃ」と言われて育ってきたからです。そしてその期待に応えようとしても変わらない自分が嫌いで、同時に変わってしまう自分も嫌いでした。どうやって生きていけばいいのか分からないまま20歳になり、偶然本屋さんで武田友紀先生の『「繊細さん」の本』に出会いました。私はそこで初めて自分のHSP気質を知り、それは変えることのできない、変える必要のないものだと知りました。その時スッと気持ちは晴れやかになり、自分の性格を受け入れようと思えました。しかし、周りの人々には説明が必須であり、実際には届かないことが多いのです。
私たちが直面する問題の1つに、「認知度の低さ」があります。HSPとは「感受性が強くて敏感な気質を持った人」という意味で、全人口の15~20%がHSPと考えられています。日本では芸能人がSNSで告白したことで広く知られるきっかけとなりましたが、用語としての定着率はかなり低いと言えます。私は以前アルバイト先で店長にHSPだと告白したことがあります。その時返ってきた返事は「それは病気なの?病気じゃないならただの思い込みだよね。」「気持ちの持ちようでどうにでもなるでしょ。」です。自分達はまだ分かってもらえないんだ、と深く傷つきました。そしてHSPの説明もできず、「そうですよね、頑張ります。」と、その場を苦笑いで終わらせました。このような体験はHSPの人達では珍しくないと思います。時にはHSPのことを知らなくても、詳しく話を聞いてくれる人もいます。しかし、大半の場合はHSPの気質を「思い込み」だと言われてしまい、私たちは「思い込み」だと信じてしまいます。その結果、理解されない苦しみを背負い、自分を責め続ける生活を送ります。自分が間違っているんだと認識せざるを得ない環境で生きる私たちは、正しく「社会に取り残されている人」であると言えます。
更に、私たちは社会から自信を奪われています。それは、一般的に気にしないことが社会の普通になっているからです。世の中にはHSPと非HSPが存在し、それぞれの感覚を完全に理解することは困難です。例えば、HSPの「気にしてしまう感覚」と非HSPの「気にしない感覚」は互いに理解できないのです。しかし、社会の中で良しとされる感覚は非HSPの「気にしない感覚」です。それは単純に非HSP人口の割合もありますが、より楽観的な思考が求められやすい社会であり、私たちが自分を押し出せない性格であるからだと私は思います。仕事の仕方や技術面において求められることは様々ですが、考え方を半強制的に非HSPよりに教育されているように感じます。お互いに理解できないからこそ、尊重し合う言葉かけが重要であり、自分や社会の普通を押し付けることはしてはいけません。私たちが「社会に取り残されている人」から脱出するための一歩として、社会の共通概念を取り払うべきではないでしょうか。個人の個性や気質といった変える必要のないものを変えてまで、私は社会の求める人材になりたくないです。
HSPは障がいでも病気でもありません。だからと言って軽い考えで見捨てないでください。HSPは生まれ持った気質であり、変える必要のない個性です。まず私たち自身がHSPであると自覚すること、そしてそれを受け入れる環境があることが理想です。しかし、私たちが安心できる環境があるとはまだ言えません。非HSP の人達の何気ない一言が、HSP の普通を欠点に変えてしまうこともあるのです。私たちは人に気づかれにくい場所で取り残されていています。この文章を読んで、非HSPの人達が自分の周りにいるHSPの人達を意識して、「社会の普通」を考え直す機会になったら嬉しいです。

 

 

福水実歩 日本たばこ産業株式会社

 

あなたが今、見えている範囲は、どこからどこまでの間ですか。いったい何の質問だろう、そう思う方もいるかもしれません。しかし、SDGsにおける「誰ひとり取り残さない」ということを考える上で、自分の視野や視座について正しく知ることはとても大切なことであると考えます。「取り残される人」の視点でものごとを考えるためには、まず自分の視点について、私たちみんなで知っていく努力をしなければなりません。
私も、マイノリティとしてたくさん「取り残されている」と感じてきた身です。障害者手帳を持っていて、中学校・高校にはまともに通えず、無意識の偏見に日々晒され続け、今も苦しい思いをしています。また、家父長制によるジェンダーロールの押し付けに苦しむ女性であり、最近では自分がセクシュアリティにおいてもマイノリティであるということに自覚的になりました。しかしその一方で、「取り残してしまった」と感じる瞬間もたくさんあります。自分自身についてよくよく考えてみると、大卒で、首都圏に在住し、正規雇用者であり、文化的・経済的なマジョリティです。また、日本に住む日本人という意味において、この国における民族的マジョリティです。もちろん、今挙げたものの他にももっとたくさんあるでしょう。
私は言ってしまえば、マイノリティとして社会全体の視野から外れている存在です。世間一般のあらゆるものは健常者向けにできていますし、意志決定層にいるのは今もほとんどが男性です。また、結婚して子供を持てることは当たり前だとされていますし、他にも社会のあらゆるものが私に息苦しさを与えています。その一方で、私自身が視野から外してしまっている存在もたくさんいるはずです。食べ物に困らなくて当たり前、住む家があって当たり前、大学に行けて当たり前、就活できて当たり前、電車に乗って移動できて当たり前……何より、私は今このような場で文章を書けるだけの様々な「当たり前」を持っています。このような長い文章を書くために必要な最低限の文章力を学校で身につけることができていて、それをパソコンで打ち込み、応募することができます。そもそもこのコンテストを知ることができたのはインターネットにアクセスできる環境があったからです。また、生活にある程度の余裕がないと条件がそろっていても応募する気になれないでしょう。これらは、本来は全く当たり前のことではありません。よく「隣の芝生は青く見える」と言いますが、自分の家の芝生はどれくらい青いのかということについては誰も意識しません。自分の家の芝生の青さを正しく認識した上で、他人の家の芝生を眼差す必要があります。
話を冒頭の視野の話に戻します。同じ範囲を見るのでも、視点が違えば見え方も変わります。例えば、同じ町を見るのでも、丘の上から見た景色とふもとから見る景色では違うでしょう。また、視点だけでなく自分がどのような存在として周りと関わっているのかということも重要です。鳥になって空から街を眺めるのと、地べたを這うアリになって雑草の隙間から街を見上げるのでは意味が全く異なってくると思います。自分は、どこの場所から、どのように見ているのでしょうか。その視野に入れていない人は誰でしょうか。
自分ばかり見ていても、自分のことはわかりません。そして、一人の人間の見える範囲は限られている、というのは動かしようのない事実だと思います。そこで視野を無理やり広げようとするのではなく、まずは今自分がどこの視点に立ち、どのような景色を見ているのか。逆に、どこが見えていないのか。そこを正確に把握する必要があります。無理やりわかり合おうとして、わかった気になるのではなく、むしろ「分かり合えなさ」を共有する。そして、自分の見えない部分である「死角」を認めた上で、そこについては想像力を働かせ、補う必要があります。
では、その「想像力」はどのようにして働かせればよいのでしょうか。以前、英語が得意な友人が教えてくれた言葉にempathyという単語があります。empathyは単なる共感であるsympathyと違い、相手を想い、相手に自分を重ねあわせ、相手のシチュエーションを理解することで「気持ちを分かちあう」ことだそうです。今、私たちに求められているのはまさにempathyをする力だと思います。取り残された人に対し他人事として「かわいそう」と共感して終わるのではなく、これが自分だったら、と相手の置かれたシチュエーションを自分事として捉え、一緒に解決の方法を探る。
現在は、マイノリティ側が助けを求め、マジョリティ側が共感の度合いに応じてそれに応えるという図式になってしまっていると思います。しかし、もう従来のやり方では通用しません。自分の視点をきちんと把握した上で、他者の視点に「なり込む」。これは、取り残された側が頑張ることではなく、取り残してしまっている側の責任なのではないでしょうか。

 

 

廣瀬日乃 東京高等学校 2年生

 

「毎日つまらない」「生きるのだるい」

 私は日本で16年間生きてきて、こういった言葉を何回聞いたのだろう。その中には、過去に自分が発した言葉もある。しかし最近、このような言葉を耳にするとなんとも表現し難い気持ちになる。自分が特段に恵まれていることに気が付いたからだ。といっても私は大富豪でも、頭脳明晰でも、容姿端麗でもない。しかし、自分の「生存」に不安なく日々を過ごすことができることは本当に、本当に幸せなことだと分かったのだ。今この瞬間も何人の人が貧困に苦しみ、銃撃に怯え、自分の「生存」を強く願っていることか。理不尽に国際社会から取り残されて亡くなった人々は、何を思いながら死んでいったのか。こんなことを考えていると、毎日が退屈だとか、生きるのが面倒だとか、口が裂けても言えない。心に浮かびもしなくなった。ただ彼らの心のうちを想像して肩を落とし、自分は幸せだとぼんやりと思うことしかできなかった。

 では、人々を苦しめている原因は何か。苦しんでいる人を「取り残している」原因は何か。私はいくつかの国際問題とその原因を見ていく中で、自分自身も加害者になりうる、既になっているかもしれないということに気が付いた。この気付きを説明する上で、「無知」というキーワードを挙げたい。私は、無知は人々を無意識的に加害者に変貌させてしまうと考える。無知は恐ろしい凶器だ。時に、ナイフよりも鋭利な刃となって人々に襲いかかる。もちろん直接ではない。自分の無知、またはそれに伴う行動によって、地球の裏側の誰かを苦しめているかもしれないということだ。

 貧困問題における支援を例にする。豊かな人々はしばしば貧しい人々に対して衣類などの物資を寄付する。それらが届けられる先が難民キャンプなどの臨時の住居地であったなら、この寄付は有用なものだろう。しかし物資が届けられる先が現地の人々が各々の生活を営む地域だったらどうだろうか。もしも衣類の支援物資が届く地域に衣類を手で編み売ることで生活している人々がいたならば、間違いなく彼らのビジネスは衰退するだろう。無料の支援物資、または安価に再販される商品に対抗することは難しいからだ。すると、今まで生活ができていた人々までを貧困に追いやることになる。もちろん寄付した側(個人)は自分の寄付が現地の生産者を苦しめるなど夢にも思わないだろう。むしろ「貧しい人たちの助けになれば」と思って寄付をしたはずだ。この”善意”が人々を苦しめる”凶器”に変貌した理由は「無知」であると言える。豊かな人々の「無知の支援」は、時に貧しい人々の問題を悪化させるのだ。善意が凶器になるというのは、あまりにも悲しい。私は自分もそれに加担し得るということに気が付き、ゾッとした。こういった例は、実際にはもう少し複雑な過程があるのかもしれない。だが、問題は寄付をする人々の中にここまで考え、知ろうとする人はどのくらいいるのかということだ。他にも無知が招く問題はたくさんある。こういった事態を避けるためには、「知ろうとする姿勢」が重要だと思う。「無関心」が無知につながる一番の原因だ。「遠い国の問題や紛争は自分には関係ない」と何も知ろうとしないことは大問題だ。また、何も知らず、知ろうとせず、寄付だけするのも無責任だと私は主張したい。自分が寄付をするときは、その寄付が具体的にどういった形で届けられるのか調べてみて欲しい。

 日本は、たくさんの国との繋がり、国際社会の上で成り立っている。遠い国の石油や天然資源、農産物を使わず、食べずに生きている人はほとんどいないだろう。国際社会からの恩恵を受け、授け生きている私たちには、国際社会の問題を知り、どうしたら解決できるか考え続ける責任がある。問題の根源は何か社会に問いかける権利がある。自分たちの豊かさと国際問題は表裏一体だということを理解する必要がある。

 私は、人間という括りに国家も宗教も民族もなんら関係し得ないと信じている。肌の色が違っても、住んでいる国が違っても、考え方が違っても、たとえ一生出会うことがなくても、私とあなた、私と彼らの間に違いなんてないと強く信じたい。私たちは私たちだ。これは言語や文化、価値観の話ではない。誰もが必死に今日を生きようとしているという事実、自分の「生存」を強く願っているということに違いはないということだ。平和ボケした考えだと思われるかもしれない。そう思ったならば、試しに地球儀を眺めてみてほしい。そこには「世界はひとつだ」という紛れもない事実があるはずだ。

 冒頭で、「ただ彼らの心のうちを想像して肩を落とし、自分は幸せだとぼんやりと思うことしかできなかった。」と言った。でもそんなことはなかった。私たちが「知ろうとすること」そして「世界はひとつだということ」を意識すれば、必ずより良い未来がやってくる。これをもって、「誰一人取り残さない」ための日本社会への提言とする。

 

 

菊地智代 横浜国立大学1年生

 

取り残される人、この言葉を聞いて私は小学生の頃のことを思い出した。私はよく取り残される子だった。体育の授業の時や理科の実験の時、先生に二人組やグループを作ってと言われた時によく取り残されていた。だから先生の「好きな人と組んでいいよ」の言葉が怖かった。私は何かわかりやすくハンデを持っているわけではない。ただ人よりも少しコミュニケーションが下手で少し引っ込み思案な子だったのだ。学校という小さな社会の中で取り残されるということは苦痛に値する。周りからの視線、場の空気、気まずさ、なんだかそこにいてはいけないような気分になる。いわゆる思春期を迎えつつあるころで何よりも周りを気にしがちな時期だろう。それに耐えきれずに学校に来なくなってしまう子もいるのではないだろうか。私も何度も学校に行きたくないと思い、悩み、口に出したこともある。しかし、これは何かわかりやすく人と違うのではなくて、ただ自分の気持ちや性格の問題だと考えてしまいがちである。私もそうだった。人に言えずに抱え込んで一人になって取り残される。この状態は果たしてSDGsの目標を達成しているといえるのだろうか。もしこの思いを抱えて学校に来られなくなってしまったら教育をみんなにという目標は達成されなくなる。さらにこの状態は心の健康という面でもよくはないだろう。SDGsの目標は貧困や障がいなどの人と違うところがあったり、それによって満足な生活が送れない人のために作られていると思いがちだが、みんなが何かしら他人と違うところを持っていてそれを補っていくことも達成には必要不可欠なのではないだろうか。
 では私のような性格などの気持ちの問題によって取り残されてしまう人にはどのような支援が必要なのだろうか。私は友達など周りの人のやさしさと気づきだと思う。私が小学生の時は自分から声をかけることができなくても人から声をかけてもらえるのはすごくうれしかった。物理的な問題ではなく感情的な問題だからこそ周りの人のやさしさという気持ちの支えがこの問題の解決につながって、取り残される人を一人でも減らすことができるようになると思う。さらに、声掛けという支援はだれにでもできることだ。きっと私と同じように取り残されていると感じている人は見えないだけでたくさんいるのではないかと思う。もしそう感じていなくても人からやさしさのこもった声をかけてもらって嫌な思いになる人は少ないだろう。かつて自分から声をかけることができず友達に声をかけてもらうのを待つことしかできなかった私も、このことに気づいてからは初めて会った人だとしても積極的にコミュニケーションをとろうと心がけるようになった。
 取り残される人は意外と身近にいる。その事実に気づいてほしい。目に見える違いがあるわけではなく心の中にひっそりと取り残されることの寂しさや不安を抱えて生きづらいと感じているかもしれない。それが心の健康を害したり、教育に機会を奪ってしまう前に、気づいてやさしさの声掛けができたのなら取り残される人を減らすことができるのではないだろうか。

 

ナガノヒナコ 上智大学1年生

本当の意味での「誰一人取り残されない」ってなんだろう。

 SDGsの理念に含まれている「誰一人取り残されない」という概念。この言葉を耳にするたびに私は疑問を覚える。誰の目線から、どの角度からこの言葉を発しているのか、私にはわからないからだ。SDGsには17個の目標があって、全て達成出来ればどれほど生きやすく、理想的な世界ができるのだろうか。考えるだけでわくわくするのはわたしだけではないだろう。しかし、現在のSDGsにはカバーできていないものがあると私は考える。名前をつけるとすれば、「すべての人に心のよりどころを」である。私は「だれひとり取り残されない」社会には貧困の連鎖を断ち切ることや、ジェンダー平等の実現だけではなく、心の居場所を提供することも必要だと思う。

 2021年、ジェンダー論が問題視され始めているし、オリンピックによって国同士のパートナーシップ制が高まりつつある。しかし、今現在も孤独を感じている人は少なくない。いじめ、ハラスメント、虐待、民族問題など、理由は様々だが頼れる人がおらず、居場所を探し続けている人は数えきれないほどいる。実際私の友人にも親から虐待を受けたり、バイト先でいじめを受け、退職に追い込まれたりした人がいる。そんな話を耳にするたびに心がとても痛くなる。

 では今私の文章を読んでくださっているあなたは、孤独を感じ、心のよりどころを探し求めた経験がありますか?
きっと多くの人はこの質問に首を縦に振るだろう。いじめの被害にあったことがなかったとしても理由もなく寂しくなったり、マイノリティー集団に所属する自分にひけめを感じてしまったりした経験はあるのではないか。しかし、誰もが人生のなかで経験する孤独のほとんどが解決可能なものである。例えば、家庭内暴力をうけているため、家庭に居場所がない女性は専門機関に相談することが出来れば解決の兆しは見えるし、学校に居場所がない学生は先生やカウンセラーの手を借りれば、少しは気持ちが楽になるのではないか。また、最近よくニュースで取り上げられているジェンダー問題に対して、私が学んでいる上智大学では、現在建設中の新校舎にジェンダーレスなトイレができる予定だ。このように、解決策のある問題を放っておくことは許されない。そして、この「心の孤独問題」はもっと問題視されるべきなのではないだろうか。

 では、どうすればこの課題が解決できるのであろうか。もちろん、行政機関がより活発に動き、国民がSOSを出すことができる場所を提供することも、大切であろう。だが、それよりも大切なことは、私たち国民1人1人の意識を変えていくことであると思う。

 「やさしい気持ちで手を差し伸べる」
簡単そうに聞こえて、本当に難しいことだ。実際、ヘルプマークをつけて、助けを必要としている人同士が電車で席を譲り合っていたり、会社で信頼している上司にハラスメントの相談をしても、まともに掛け合ってもらえなかったりと、空い事実は溢れかえっている。世界で生きる人々が優しい気持ちを持ち、助けを求めている人に手を差し伸べるだけで、どんなに素敵な世界が見えるだろう。

 私は高校生のための教育系学生団体を運営している。私の団体には家庭の事情で通塾が不可能だったり、家庭環境が悪く相談できる人が少なかったり、文字通り「居場所がない」学生が集う。現場に立ち初めて気がついたことは、彼らが必要としているのはお金でも制度でもないということだ。私が差し伸べる手が、彼らの原動力になっているのだと痛感する。そして、「あなたの言葉が私を救ってくれました」「居場所を作ってくれてありがとう」そう言われると、私まで居場所ができたような気になる。

 
 誰一人残されない世界の実現にはこころの孤独を感じる人を1人でも減らすことが必要だ。言ってしまえば理想は、ゼロにすることだ。そして、そのために「優しい気持ちで手を差し伸べる」ことが必要不可欠である。居場所作りは17の目標に入っていないものの、SDGs達成のために欠かせない項目であるに違いない。

 さて、皆様も「すべての人に心の拠り所を」に値する行動をとってみてはいかがだろうか。お年寄りや障がいを持つ方に公共交通機関で席を譲るだけでも、悩みを相談してきた部下や親友に優しく手を差し伸べるだけでもいい。きっとあなたも助けた相手に救われる。居場所を見出すことができる。

 今のあなたの行動が、世界を変えるのだ。誰一人取り残さない、そして、取り残されない社会を目指して。

 

加藤大智 横浜国立大学 2年生

 

 取り残される人の視点でSDGsを考えることにどのような意味があるだろう。SDGsの重要な理念が「誰一人とりのこさない」ことであるとよく説明される。「2030アジェンダ」では様々な場面で「誰一人取り残されない」で持続可能な社会を実現することが大切だとしていて、受身形で書かれている。そのため、SDGsを考える上で、自分が取り残される立場になりうることを踏まえて、「誰一人取り残されない」社会をどうやって作るかを考えることが重要であるということがわかるため、取り残される人の視点で考えることこそがSDGsを考えることである。今回は私の視点から社会からどのように取り残されるか考える。
 私は今大学2年生で、学童でバイトをしている。大学では部活動に励み、同年代の友達に囲まれ、学童では小学校低学年の子供たちやそこで働いている20代から50代の方々と時間を共にしている。このように私の生活を振り返ると年配の方々と接する機会が他の年代の人々と比べて極端に少ないと感じる。
 私が理想とする誰一人取り残されていない社会は個人個人の属性(年齢、出身、性別など)で断絶されることなく、皆が交流し共に協力しあって生活する社会である。この理想と比べたとき、今の社会は年齢、世代によって隔絶が起きている社会ではないだろうか。医療が発達し、さらに寿命が延びることが予想されている今日、年代による隔絶は、誰一人取り残されない社会の実現にとってより大きな障害になることが予想される。これから、取り残される人を全員(年配の人々とそれ以外の人々がそれぞれから取り残されている)と考えて書き進めようと思う。
 私がまだ小学生だった頃、年配の方と交流する機会は、銭湯に行った時や商店街で買い物をしているとき、祖母の家に行った時だった。小学4年生の時、家のお風呂が壊れて毎日銭湯に通っていた。そのとき常連のお爺さんと仲良くなり、その人から入り終わった後に将棋を教わったり、銭湯のテレビで一緒に野球を見たり、たまにニュースで過去を振り返るコーナーが流れるとその頃の体験を私に話してくれた。商店街の豆腐屋にお使いにいっているときはいつも声をかけてくれて、時にはおまけをしてくれたり、通りかかっただけでも「学校どうだった?」とか声をかけてくれた。祖母の家に行ったときも、家の通りの人は皆顔馴染みで挨拶したり、ときには遊びにいったりした。しかし、中学、高校、大学と歳を重ねるにつれて、銭湯にいかなくなったり、豆腐屋が無くなったり、祖母の家にいく頻度が減ったりして、年配の人が近くにいなくなった。家の回りを歩いていても、世代毎に隔絶されていると感じることが多くある。お昼には、幼稚園から子供の声が聞こえたり、近所の雀荘を覗いてみると年配の方々が集まって麻雀を打っている。
社会は全世代の人で作られている。近年、シルバー民主主義と表現され、若者が不満をもっているのも、若者の「我々」の中に年配の方々が含まれていないからだ。若者の「我々」から年配の人が排除されてしまうのは、身近にいないからだと思う。
 また、年配の方々が「最近の若者は」と言いがちなのは、最近の若者を肌感として知らず、切り取られた形でしか知らないからだろう。
 私は、年配の方々と若者が一緒になにかをするという機会を増やしたい。そして、年配の方々の考え、経験談をもっと聞きたいし、それを「老害」などと切り捨てず尊重できる社会にしたい。機会を増やすため、今の両者が場所で隔絶されていれ交流できない状態を変えたい。まずは個人レベルでの日常的な交流が活発になることが第一歩だ。そのきっかけを作りたいと思う。私は、年配の方にスマートフォンを学んでもらい、SNSを活用して、今年配の方だけで行われているサークル活動をオープンなものにしたい。ゲートボールやボーリングなどのサークル活動を一緒にして、その後一緒にご飯を食べたり、お酒を飲んだりすれば、両者にとってこれまでにない新しい学びがあるだろうし、それによってお互いが理解し合えば、若者と年配の方の両方が含まれた「我々」の意識が形成され、隔絶がなくなって行くだろう。もしかしたら、年配の方がオンラインゲームを始めてそこで新しい交流が生まれる…何てこともあるかもしれない。そのために、まずは近所の公園でやっているゲートボールサークルなどの年配の方々のサークルの出向き、実際に交流し、上記の活動を行って、自分自身もSNSを用いて情報発信することで同士を増やして交流の輪を広げていきたい。ボランティア等という形ではなくフラットな形で交流したいと望む若者は潜在的にいるはずである(身近でもおばあちゃん子、おじいちゃん子は多い)。そうやって、隔絶をなくすなどという余計な意思を持たずに、自然に交流の機会が増えていく、そのきっかけを作りたいと私は思っている。

 

稲田優美 早稲田大学

 

去年の3月、大学の入学式の中止が決まり、初めてコロナの影響力を実感した。そして、自分が思い描いていたキャンパスライフとは無縁の大学生活が始まり、パソコンに植え付けの日々が続いた。そんな中、小学校や中学校、高校、そして専門学校に通う人はみんな学校に行くことができているのに、どうして私たち大学生だけが制限されなければならないのかと思うことが多かった。私たちだけが取り残され、排除されている気がした。

去年のコロナ過で誰もが孤独を感じたと思う。一人になった時に感じる無力感、寂しさ、そして自分だけが取り残されることに対する焦燥感。しかし、私はそこで気づいた。コロナ以前も、自分が当たり前に感じていたことは、当たり前でなかった人々がいたことを。そして私は海外にいた頃ある授業で見た映像を思い出した。それは、武器を平然と持つ少年兵の映像だった。今でも世界では紛争が続いている地域が多数存在し、そこでは子どもに関わらず、人々は自分の意志を無視され、戦いを強制されている。少年兵の子どもも、多くが拉致され、武器を持たされ、戦うことに何も感じなくなるほど洗脳され、子どもとして与えられる基本的な権利を奪われている。小学生だった私は当時、衝撃を受けた。何の罪もない自分と同じ子どもたちがどうして、このような目に合わなければならないのかと。自分と同じ学校にいれば日々一緒に遊び、学ぶ仲間であった子どもたちが、環境が違うだけでどうしてこのような目に遭わなければならないのかと。まだ幼かった私、ただ友達と遊ぶことが楽しいと思っていた私は当時、そう感じた。そして今の私は思う。少年兵以外でも、多くの子供たちが学ぶ機会を与えられず、日々必死に暮らしているのだということを。小さな体では抱えきれないほどの恐怖、そして困難に立ち向かいながら生きている。目の前のことだけ考え、生きることに精一杯である。このことを考えると、孤独が寂しいと感じられるほど余裕があった自分がどれだけ恵まれているか、痛感する。

人生は選択の連続だ。何を食べるか、誰と過ごすか、そして何をするか。私たちが日々立ち向かう選択は言ってしまえば、決める権利は私たちにある。そして私たちがとった選択で人生が変わってゆく。しかし、この選択をする力は生まれるまではない。誕生する瞬間までこの選択する力は私たちには与えられていない。だから、私たちがどこの家庭に生まれるかは選択することができないのだ。紛争地域で生まれるか、豊かな街で生まれるか。これだけは私たちに決めることはできない。ニュースで見る遠く離れた国の出来事、無関係に感じてしまう出来事も私たちが経験していたかもしれない。

今までの私は紛争地域の報道を見ても、ひどいことが起きているな。かわいそうだな。そう思うことしかなかった。そして、きっと誰かが助けてあげるのだろうと、思うばかりであった。しかし、大学のある授業で講演をしてくださった方の言葉、『誰かが平和を創っているから、今平和を享受している』というのを聞いて、自分がその誰かになれること、そして、なることで少しでも多くの人が心に余裕をもち、生きていることを幸せに思ってもらえるきっかけづくりができるのだと感じた。

この広い世界の中で、不平等をなくすことは難しいかもしれない。でも、難しいからといって何もしない人にはなりたくない。自分ができることから、始めていきたいと思う。誰でも苦しんでいる人々を身近に感じることができれば、手を差し伸べたいと思う気持ちが自然と生まれるのではないだろうか。『誰一人取り残さない』世界を目指そうと思えるのではないだろうか。

 

 

鵜飼桂子 早稲田大学2年生 9月から留学

 

大学に一歩も踏み入れることなく終わった学部一年目とは異なり、友だち作りに苦戦している学部一年生の姿がメディアで取り上げられることはなくなった。しかし、学部二年生になってもなお、友だち作りに苦戦している友人の話を聞いた。「気づいたときにはもう取り残されていた。」彼女はそう教えてくれた。SNSで知り合った人と会ってはいけないという教えを守りSNSでの新歓を行っていたサークル活動に参加しなかったが、対面授業が再会されたころには既に周りで友だちの輪はできあがっていた。オンライン授業のときよりも周りに人がいるはずなのに、孤独を感じる。「けれど他の(取り残されている)人に比べたら自分はまだ良いほうだから…」と彼女は恥ずかしそうに言った。自分のコミュニケーションの能力が低かったから、自分がSNSを活用しなかったから、と責めているようだった。彼女は、友だちができないこと・できにくいことに対して声をあげても、被害者づらをしていると冷やかされる可能性を感じている。
友だち作りに苦戦している学部二年生は、彼女だけではない。私が所属している登山サークルでは、今年度の入会者の約半分が2年生という例年とは大きく異なる新歓になった。また、私自身が新歓を担当した自転車サークルでも2年生入会の問い合わせを多くいただき、新入生のように、新しいコミュニティを求めている学部二年生が多くいることを感じた。私自身、大学でできた友人のほとんどがSNSや、SNSを通じて参加したサークルで知り合った人たちであり、彼女のように「SNSで知り合った人と会ってはいけない」という教えを忠実に守っていたら、現在のような大学生活は送っていなかっただろう。大学では対面授業が徐々に再開されたことにより友だち作りへの影響も薄れてきたかと思えたが、だからこそ「取り残されている」人の存在が見えにくくなっている。彼らは世の中で「最も取り残されている人」ではないが、取り残されることを望んでいる人は誰もいない。
こうした状況のなかで、誰も取り残さないために私にできる行動は何か。今年度、二年生入会が極端に多かった登山サークルでは、「誰もがいやすい場所にする」というのがモットーである。久しぶりにサークル活動に参加した人でも違和感なく馴染める雰囲気にしたい、という想いをサークル員全員が共有している。自分自身、親しみやすい雰囲気作りをするようになり、学部二年生の入会者には積極的に「敬語で話さなくていいからね」と伝えたうえで、遊びに誘うようになった。「友だち」を提供することはできなくても、彼らが新しいコミュニティに参加したいと思ったときに、馴染める雰囲気を作っておくことは一助になると思う。
通っている大学では、2020年度入学者向けに入学式が行われた。学部長は「入学おめでとう」の代わりに「大学にようこそ」と仰っていた。小さいけれど、そのような発言や行動から、私の友人は心に余裕が生まれるのかもしれない。コロナ禍で取り残された学生とのギャップがどんどん開くことがないように、来るもの拒まずの精神でいたい。

 

熊木秀佑 東京学館浦安高校

 

黒人やアジア人に対する人種差別問題が日本で表面化し始めた。その要因として政府や社会団体による取り組みももちろんだが、実際に体験した者の生々しい声が大きく影響していると考えていいだろう。例えば、大阪なおみさんの行動に代表されるブラック・ライブズ・マター運動である。その運動の活発化とアジア人がコロナウイルスによる影響で差別され始めた結果、多くの日本人は”取り残される者”に対して浅薄な理解を示し始めた。理解しようとするだけ良いと考えるかもしれないが、差別には直接関係を持たない”第三者”のその浅い意識は、差別を他人事として捉えるため、彼らを取り残すことを助長する脅威であるのだ。もちろん、”取り残される者”の理解でさえしようとしないため差別に関心が全く無い者も脅威である。こうして、”取り残される者”は、差別に関して薄っぺらい知識を持つ”第三者”と、無知である”第三者”との二つの脅威の板ばさみに遭う。そこでの差別の理解者は少数過ぎてほぼ無力に等しい。では、どうすれば”取り残される者”を脅威から救出し、”第三者”全員が彼らを理解できるようになるだろうか。もちろん、第一の段階としてブラック・ライブズ・マター運動などの言論による訴えも必要であるが、言葉で伝えられることに限界があるため、先述の通り、不十分な理解になってしまう。大阪なおみさんに関する差別問題は、彼女の日本人ファンが多いから日本に広まったのであろう。しかし、他の人種差別問題はどうだろうか。ヘイトスピーチを受けた人の被害を彼ら自身の言葉で、翻訳なしに直接聞いたことはあるだろうか。 それはどんな差別問題も同様で、差別被害者から、「私は差別されている!」と直接の訴えをされたことはあるだろうか。このように、言葉で差別を表現することはそもそも表現がしづらい上に、表現できたとしても理解するには翻訳や時間を要することがある。そのことから直接性や緊急性に欠けてしまって、”第三者”は内容を完全に理解できず、自分には関係ないと思ってしまう。そこに、言論の限界が見えてくる。
少し話は変わるが、先日、国語の授業で長倉洋海さんの『写真の持つ力』 という文章を読んだ。「写真は事実を私たちに伝えてくれるというより、私たちが写真をみて何を感じ、何に目を向けるべきかが問われているのではないか」この一文は私にとって衝撃的だった。写真は受動的理解でなく能動的理解を必要とする。そのことは、他の芸術でも言えるのではないか。芸術作品を見る時には、そこにある事実から伝えたいことを感じ取り、それを世界に応用すべきである。そこで、差別と芸術とを結びつけてみてはどうだろう。芸術は、言論とは違い享受するものの有している言語や住んでいる国に関わらないため、”第三者”へ直接的に短時間で伝わる。”取り残される者”が被害を受けている現状やその悲惨さを、ありのままに芸術に示すことで、”第三者”が差別を理解し、それを解決しようと行動する契機になるのではないか。
芸術の意義は多岐にわたる。写真や絵、音楽などであるがどの芸術表現でも差別の被害を表すには構わない。しかし、芸術に被害を表せたとしてもどのように広めたら良いかわからないかもしれない。そこで、SNSが活躍する。SNSは、芸術と同様に言語や国籍に捉われない拡散能力を持っている。ブラック・ライブズ・マター運動の活発化の引き金となったジョージ・フロイドさんの死も、自身も黒人でマイノリティーであるというダルネラ・フレイザーさんの撮影によってSNSで広まった。要するに、取り残されている状況を言論で伝えるだけでなく、それを可視化し”第三者”に訴える行動を取ることで、彼らの理解につなげることが重要だ。
“第三者”は、意外と近くにあるが、他人の身に起こる差別を完全に把握することは難しいと思うかもしれない。だが、”取り残される者”の芸術やSNSに反応した上で、自分に何ができるのか、何に目を向けるべきなのかを考える必要がある。もちろん、差別をする者の更生も大切であるが、”取り残される者”を脅威から救出するには、その両者だけでなく、大多数の”第三者”の理解と行動が何よりも大切である。その意味で、もう”第三者”とは呼べない。全員が、”当事者”だ。私自身は、まだ高校生ということもあり、なかなか行動に移せていないが、大学に入学したら差別被害者のためのコミュニティを開いている団体に所属したい。その中で今回のような、文章で”取り残される者”に対する考えを書くコンテストだけでなく、上述の理由から、絵を主としたものも開催したい。『誰一人取り残さない社会』の実現を可能にするために。

 

屋嘉部遥菜 昭和薬科大学付属高校2年生

 

SDG’sの目標の一つである「誰ひとり取り残さない」。この目標が指す”取り残される人”とはどのような人々のことを指すのでしょうか。一般的にはLGBTQ+の人々、障害者、貧困層の人々…。これらの人々がすぐに思い浮かぶのではないかと思います。これらを見ると多くの人が「自分は該当していないから取り残されない」と考えるでしょう。しかし、実は自分でも気づかないうちに取り残されている人もいるのではないかと思います。
私には生まれつきPeters奇形という病気があります。この病気になると目の角膜という部分自体が濁ってしまうので、眼鏡やコンタクトで視力を矯正することができません。この病気のために私は弱視という障害も持っています。しかし私の症状は比較的軽い方なので、周囲の人に助けてもらいながらですが健常者と同じような日常生活を送ることができています。
例えば学校生活。黒板が見えづらいため一番前の席に固定してもらったり、字の小さいプリントを拡大コピーしてもらうなどの様々な手助けをしてもらえるので、あまり不自由さを感じることなく過ごすことが出来ています。そのため、私には自分が障害者であり、周囲と違うのだという自覚はあまりありませんでした。
ですがコロナが蔓延して以降、私も実は取り残される側なのではないかと考えさせられるような出来事がありました。
それはコロナが世間で注目を浴び始めた頃の体験です。あの日、私はいつものようにスーパーで買い物をしていました。惣菜を物色しながら歩いているとふと自分に向けられる冷たい視線に気が付きました。周りの人々が怪訝な顔で私を盗み見みしていたのです。その場にいる事が気まずくなり、買い物もそこそこに私は店から出てしまいました。
なぜ私は人々から非難の目を向けられてしまったのでしょうか。それは私が商品名や商品の値段を確認するために商品棚に顔を近づけたり商品を手にとってラベルの記載を確認していたからです。その当時は感染拡大を防ぐためになるべく商品を手に取らないようにする旨が連日のニュースで伝えられていました。近くで買い物をしていた人達には、私の行動はまるでウイルスを撒き散らしているかのように見えて不快に感じられたのでしょう。
この出来事から私は初めて社会から理解されないという疎外感と強い悲しみを感じました。眼鏡をかけているのに目が悪いという人がいる事を認知している人はほとんどいないでしょう。私の行動が受け入れられなかったのもそのことから考えると当然のことです。
このコロナによって、社会や周囲の状況次第ではいつでも取り残される側になる恐れがあるということを実感しました。そして、私は誰しもがこのような状況になる事があると考えています。「誰ひとり取り残さない」、この目標は誰にとっても他人事ではありません。一人ひとりが当事者であるという認識のもと目標達成の為に取り組まなければいけないのではと思いました。
そのために大切なことは最初からこうだと決めつけずに相手の状況を想像することだと思います。例えばマスクをつけていない人を見つけた時に、すぐに嫌な顔をしてその人をわざとらしく避けるのではなく「何かつけられない事情があるのではないか」と想像してみるなどです。そうするだけでその人はずっと過ごしやすくなると思います。
まずは相手の状況を想像する、あの日私が感じた嫌な思いをする人を一人でも減らすために私はこのことを実行していきたいと思います。

 

 

春日明日希 無所属

 

「そんなことみんなが経験することだよ。」
何度、そう言われてきただろうか。
オンライン授業で始まった大学生最後の春。早めに始めた方が良いという就職活動も始めて早4ヶ月、嫌気がさしていた。繰り返されるオンライン面接。内定が決まっていく友人。内定が決まらず、音信不通になる友人。孤立していく世の中の流れに自分も流されているのが分かっていた。
6月に内定の出た会社に就職を決めたのは、もう抜け出したかったからだ。毎日、悪夢にうなされ、目覚め、未来の自分を想像して怖くなることから単に逃げたかったのだ。しかし、内定を承諾した私には、さらに、オンライン研修が待っていた。私の心の闇はどんどん大きくなっていった。自分が何者なのかもわからなかったからだ。大学に一歩も行けていないのに、大学生なのか。アルバイトで正社員並みに働いているから、社会人なのか。私はどこに向かっているのか。永遠に負のループの中にいた。春になったら、私は、会社に捕まってしまう。そんな風に考えた頃には、自分の心はボロボロになっていた。いわゆる「就活鬱」である。「そんなことみんなが経験することだよ。」慰めるために放たれた言葉に、返って私は傷ついた。「そんなこと」のためにこんなにも胸が苦しいのか。「そんなこと」のために死にたくなるのか。「みんなが経験していること」に私はなぜ耐えられないのか。精神科に行っても、同じようなことしか言われなかった。少しでも自分が傷つかないように、多くの時間を睡眠に当てた。眠っている間は、誰にも傷つけられなくて済む。自分に嫌気が差すこともないから。そんな私の変化に気づいた姉に言われた一言が今でも心に残っている。「逃げてもいいんだよ。」その時、ずっと喉の奥に溜まっていた涙が止まらなかった。
内定を辞退した私は、今、カウンセラーの勉強をしている。まだ、身近の人の悩みを聴くくらいしかできないが、自分を苦しめないで生きていられる。洋画を見ると、ほとんどの人がジムにいく感覚でカウンセリングに通っている。「今日、昨日よりも気分が落ち込んでいる。」小さなことでも良い。自分の気持ちを自分が認めてあげられるように、カウンセリングの力を借りられる日本になってほしい。心を病むことが異常なことではなく、心が病んだ人が心を癒す環境が得られないことが異常なことだと気づく日本であってほしい。私は、気持ちが落ち込んだ人を取り残したくない。みんなに「大丈夫。」と温かい笑顔を与えられる人になると決めた。

 

 

加藤宗一郎 横浜国立大学 3年生

 

 Leave No One Behind. 「誰ひとり取り残さない」というSDGsの基本理念はSDGsの取り組みとともに知られているだろうか。両方知っていたという方はどれ程いるのだろうか。以前から当然理解していたと言いたいのだが残念ながら無理だ。最近までこの基本理念の存在を私は知らなかった。というより、目にしていたとしても気に留めなかったのかもしれない。
 SDGsといえば以前の私は、フードロスの削減や、再生可能エネルギーの推進を思い浮かべていた。大学に入りSDGsに関する講義も多く受けるようになったため、今では「飢餓をゼロに」や「ジェンダー平等を実現しよう」、「気候変動に具体的な対策を」といった17のゴールも脳裏に浮かんでいる。また丁度この頃から、日常には17のゴールが商品やサービスのアピールポイントとして出回るようになった。SDGsに配慮している商品やSDGsに貢献する企業のホームページには大抵このマークがある。就職活動を視野に入れ、企業のホームページを閲覧するようになってその実感は増していった。国内の関心は、SDGsの具体的な取り組みだ。それは社会を見る限り断言できる。そしてその具体的な取り組みが、「基本理念」とは真逆にはたらいていると感じることがある。
 世界の流れを受けて国内でも昨年の7月からレジ袋が有料化された。これは海洋プラスチック問題やごみ問題、さらには利用者のマナーを社会へ問いかけている。そういう意味でSDGsとも関わりの大きな取り組みだ。「レジ袋を断り、マイバックを持参する」この行動がSDGsに貢献すると誰もがそのように思っているだろう。その頃から多くのモノの素材がプラスチックから他の素材へと変化していった。人々はプラスチック製品を極力控えるようになったのだ。実際それらの行動には意味があるのだが、私はそこにある種の不安を覚えた。———あなたの回りでは「プラスチック=悪」とみなす動きが現れていやしないか。———考えすぎかもしれないが、私の身の回りでプラスチック製品を購入する人への冷たい視線を何度か見たことがある。断っておくが別にプラスチックを大量生産・大量消費して良いと私が思っているわけではない。ただ何らかの事情でプラスチック製品を購入せざるをえない状況に立たされているのかもしれないと考えてあげて欲しいと思う。プラスチック製品を購入する人へある種の差別的な目を向けるのは、「誰ひとり取り残されない」社会の実現にはならないはずだ。
 プラスチックは安価で丈夫で軽い。そのような性質から世界中で利用されてきた。しかし一度、海洋ゴミの影響を受けた海の生物が注目されると、身の回りのプラスチック製品が消えていった。移り行く時代の中でも、お金に余裕のある人ならば十分に対応できるだろう。しかしお金に余裕がない人はどうすれば良いのだ。冷たい視線を受けながらプラスチックを購入しなければならないのか。世間体を考え、家計を切り詰めて環境に配慮された製品を購入しなければならないのか。「プラスチック=悪」という世間のイメージが彼らを苦しめているのは間違いないだろう。つまり何が問題かといえば、環境志向がお金に余裕のない人々を苦しめているという現状だ。環境志向の世界から彼らは取り残されていく。それでもなおSDGsの目標達成のための行動と胸を張って断言できるだろうか。
 SDGsは大きく分けて2種類の目標からなる。MDGsを引き継ぐ開発アジェンダと、新たに加わった持続可能アジェンダだ。上記の例では持続可能アジェンダに関わる人々の行動が、SDGs全体の基本理念や開発アジェンダの足を引っ張る形となっている。プラスチック製品を購入する際の冷たい視線が私の思い過ごしであれば問題ないのだが、可能性として上記のような問題が起こりうる原因を考えてみたい。なぜSDGsのためを思った行動が、他の目標や基本理念と相反する結果を招くのだろうか。
 その返答として私が思うのは、SDGsの目標達成のために「個別の活動」へ注目が集まり過ぎていたのではないかという点だ。強く言うなら、SDGsの具体的な活動にばかり目が向いているから、お金に余裕のない人々を苦しめる結果を招くのだ。一つひとつの活動に酔いしれて、全体の基本理念を理解していないからこのようなことになってしまうのだ。SDGsは個別の対策で何とかなるようなものではない。互いが複雑に絡み合っているからこそ1つの共通した指標なのだ。その反省を踏まえれば、私たちがしなければならないことは自ずと見えてくる。そうSDGsの基本理念を広めることだ。まずは「誰ひとり取り残さない」という基本理念を、あなたの隣にいる人が知っているかどうか聞いてみよう。今日も1人へ、明日は2人と。そしてその輪が広がれば、SDGsの具体的な活動に注目してしまっている社会の風潮を変えることができるはずだ。決して難しいことではない。ただ聞いてみるだけだ。———あなたはSDGsの基本理念を知っていますか。具体的な取り組みだけで満足していませんか。———

 

杉山恵里奈 名古屋大学大学院 博士前期課程

 

喩えるならば,カメレオン。10代の頃の私は,自分のことを「必死で周りの人間の真似をしている“なにか”」であるような気がしていました。私は,小学校に上がる前から,自分と周りとの間に,漠然とした「違い」を感じていました。周りの友達が興味を持っているものや楽しんでいることが,自分にとってはそれほど面白いものに思えず,常にぼんやりとした違和感を覚えていたからです。
小学校に入ると,その「違い」は顕著に現れました。授業中,周りのみんなが簡単に理解できる理論や概念に対して,自分だけが首をひねることが多々あったのです。特に「向き」や「空間」の概念は理解が難しく,東西南北はおろか,上下左右や裏表すら怪しい始末でした。しかし,クラスのほとんどができていることを自分だけができないと言い出すことなど,当時の私には恥ずかしくて到底できませんでした。
また,反対に,得意なことでかえって恥ずかしい思いをすることもありました。授業中,得意な科目の問題を解くスピードが速すぎて,クラスメイトから気味悪がられたり中傷されたりしたこと。先生からも,もう演習問題のストックがないので残った時間は自習でもしていてくれと,いつも苦笑いされていたこと。こうした経験から,私は,周りと極端に違っていることは恥ずべきことだと思い込むようになっていきました。そして,中高時代は,周りと「同じ」ように振る舞うことにこだわり,全力を注いでいました。授業中にはクラスメイトのペースから極端に遅れたり早まったりしないように自分の授業態度を調整し,休み時間には周りの友達の好きなものやことを頻繁にチェックし,家でこっそり予習していました。みんなが好きなのは「カメレオン」の私であって,本当の私ではないのだと,時々やりきれないほどの疎外感に包まれていました。その苦しみは,時に登校することを拒絶するほどのものでした。

専門機関で検査を受け,自分の知能発達が「普通」と違う,いわゆる「非定型発達」だとわかったのは,20代になってからでした。端的に言うと,得意な能力と苦手な能力の差が極端に大きく,それが原因で「周りと同じようにできない」という生きにくさを抱えていたようなのです。例えるのであれば,前輪と後輪の大きさが極端に違っている自転車に乗って走っているような感覚です。大きい方の車輪に合わせて走ろうとすると,小さい車輪が「障害」となって転んでしまいます。一方で,小さい方の車輪に合わせようとすると,せっかくの大きい車輪を持て余してしまいます。つまり,非定型発達者が自身の能力を最大限に発揮するには,いわば「補助輪」のようなものが必要なのです。 しかしながら,非定型発達者を適切にサポートするような社会の土壌は,まだ十分ではないように思います。これは,「誰ひとり取り残さない」社会を目指す上で,大きな課題です。

人間が一人ひとり違う顔をしているように,脳の発達にも個性があります。そうした個性を考慮しないことは,教育現場や仕事現場などの様々な場面における「取り残し」につながる危険性があるように思います。もちろん,口で言うことは簡単ですが,実際に社会を変えるのは難しいことです。一体私には何ができるだろうかと自問を続け,出した答えは,発達に関する研究の世界へと身を投じることでした。今年の春,私は大学院に進学し,発達の個性に着目した研究を始めたばかりです。今の私はまだ,明らかに未熟者で,先生や先輩の助けをお借りしてようやく研究を進めています。しかし,いつか一人前になった時,「ニューロ・ダイバーシティ(脳の多様性)」の考え方が社会に広がるような発見ができたら,この上ない幸いだと考えています。人と違うことを恥ずかしいと感じるのではなく,むしろポジティブに捉えることができるような社会になることを,かつての私が心から望んだような社会になることを,私は願って動き続けます。

 

 

相川健太(仮名) 三田国際学園高等学校3年生

 

私は他人に比べ裕福な生活を送ってきた。私は特別障害を持っているわけでもなく、小中高と学校に楽しく通えている。アレルギーなどは無く好きなものが食べたければコンビニで買い、欲を満たす。手足に何らかの不自由さはなく、幼い頃から大好きだったサッカーを10年続けることもできた。高校生になると留学にも行かせてもらった。とりわけ人種差別をされることもなく、人並み以上の幸せな日々を送ってきた。そんな中、インターネットで小論文コンテストを探していると「誰ひとり取り残さない」をテーマにした小論文コンテストに出会った。そして、取り残されている人の視点で考えるこのコンテストは、他人と比べ裕福な生活を送る私には関係ないものだと思いそっとタブを閉じた。しかしその数秒後、自分にも他人と比べ取り残されていることを見つけ、このコンテストに参加を決めた。私にはなく周りにはあるもの、それは「行動力」だ。
この世では、金銭的に生活が苦しい人、何らかの障害を持つ人、人種差別など精神的ダメージを受けてる人に対し、「誰一人取り残さない」という強い思いを持ちながら行動する人たちが沢山いる。私はその強い意志を持ち行動する人たちから取り残されている気がした。何も不便がないからこそ、何かしらの不便を持つ人に対し、自分のできる最大限のアプローチをすること。一人じゃ何もできないし、何も変わらないという思いを捨て、自ら行動することの大切さを身を持って感じた。そんな中、私が過去にボランティアをしたことがあった。それは私がカナダに留学中の出来事であり、外国人の学生に日本語を教えている授業のアシスタントとして参加したことだった。世界中には数多くの言語が存在している中、日本のアニメ、伝統、着物などの文化に憧れ日本語を第二言語として学ぶ姿に、私の気持ちが大きく揺らいだ。私は日本語の授業にアシスタントとして入ったが、もちろん日本人なので沢山の質問がくる。ほとんどの質問には答えれたものの、「それ」と「あれ」の違いが何か?と問われた時、正確な答えが出せなかった。私たちが常日頃、感覚的に使っている日本語を説明できなかった時とても悔しかったのだ。その後不幸なことに新型コロナウイルスが世界中で蔓延し、カナダでも緊急事態宣言が発令された。結局、日本語の授業には3回ほどしかアシスタントとして参加できず、日本語を楽しそうに学ぶ学生の笑顔を見ることはなくそのまま帰国した。この留学経験から。このSDGs「誰一人取り残さない」コンテストから。私はいつの日か、日本語を他国在籍の学生に無償で教えるプロジェクトを始動、または支えていきたい。日本は他国に比べSDGゴール4の「質の高い教育をみんなに」が進んでおり、教育を受けれない状況下にある学生はほとんど存在しない。しかし、海外ではそうだろうか?まず留学に行くことも金銭面的に困難であろう。学校の制服を買ったり、地域によればノートや鉛筆を買うこともできない子も沢山いる。そんな子供たちに対し、私ができるアプローチ。それこそが、過去に苦い思いを味わった日本語を教えることであると考えた。もちろん資金面、活動期間、準備期間など様々な障壁が存在するだろうが、このSDGs「誰一人取り残さない」を通し、行動していくことの大切さを改めて実感できる機会になった。過去の私と同じような考えを持っている人に対し、行動することの大切さを理解してほしいと感じ、このコンテストの参加を決意した。
考えを発信すること。「誰一人取り残さない」世界へとつながる、大きな第一歩だ。自らが主体的に活動し、考えや行動をしていくことが何よりもSDGsのゴールにつながっていくと私は思う。

 

 

加藤あおい 広島大学大学院 博士課程前期1年生

 

 「誰ひとり取り残さない」社会を考えたとき、取り残してはいけない人としてどんな人をイメージするだろうか。私たちがいつも考えるのはいわゆる「普通」の人とすごく困っている人なのではないかと思う。例えば障害がある人を取り残さないと考えたとき、イメージされるのはろう者や全盲者、車いすユーザーや難病者、知的障害者など想像しやすい障害のある人々なのではないだろうか。
 私が今まで出会ってきた人のなかにはいわゆる「健常者」といわゆる「障害者」のどちらに所属していいのかわからないという人がいる。発達障害や弱視、喘息などそれぞれ状況は様々であるが、私が出会った中で印象的な友人たちの話をしたいと思う。
私の友人のなかの2人に片目が義眼の人がいる。どちらも障害者手帳を持たずいわゆる「普通」の女子大生だ。幼少期に眼球を摘出し、片目には義眼が入っている。パット見た感じでは他の学生と何ら変わらない女の子たちである。普段は大学生として「普通」に生活している彼女たちではあるが、片目が見えないが故の困難さはもちろんある。例えば、彼女たちは視野が狭いし、距離の把握は難しい。体育でも球技なんかは難しいそうだ。さらに、義眼というものは定期的にこうかんがからメンテナンス費用だってかかってしまう。
 そんな彼女たちが義眼であることに気付いている人はどれくらいいるのだろうか。彼女たちのような人が存在することをどれくらいの人が知っているのだろうか。たまたま私は義眼であることを教えてもらえたし、「その辺見えなくてちょっと分かんない。」とか「球技は距離感わかんなくてちょっと怖いんだよね。」なんて伝えてくれたから私は彼女たちのような存在を知って、困難さに気付くことも出来た。
 もし彼女たちに出会えていなかったら私はそんな「あいまいな人」の存在に気付けていただろうか。
 「誰ひとり取り残さない」社会、健常者も障害者も取り残さない社会。いろんな人がたくさんのことを考え実践している中で、果たして彼女たちのような「あいまいな人」たちは検討の段階ですでに忘れられ、気づかれず、取り残されてはいないだろうか。そもそも健常者や障害者などと分類などなく、みな等しく人間であると考えている。しかし、そのどこかで障害者のイメージがあって、そこにあてはまらない「あいまいな人」に気づけていないのではないだろうか。
 「誰ひとり取り残さない」社会をつくるために、「あいまいな人」にこそいまスポットが当たるべきなのかもしれない。

 

鈴木知世 国際教養大学 2年生

私達人類は、本当に実現できるのだろうか。

“No One Left Behind / 誰ひとり取り残さない” そんな社会を。

 

私は大学生だ。

経済的に発展を遂げた日本に生まれ、看護師として働く両親のもと、田畑に囲まれる家で育った。生まれつきの障がいなどはなく、日々の衣食住に困ることもなく、「女だから」という性のレッテルを貼られて挑戦の機会が奪われることもなかった。そんな環境にたまたま生まれ、たまたま出会った人々との関わり合いの中で、大学に進学することを決断し、今も勉強を続けられている。一方、私が偶然出会ったウガンダ人の友達は、両親を亡くした後、大学での教育を続けることを諦めた。勉強したい気持ちとは裏腹に、教育を受ける機会が一時を境に奪われてしまった。

沢山の偶然が重なって今の自分があるわけだが、やはり自分にとってはこの暮らしがノーマルだ。大学で多様性に触れながら勉強していたとしても、やはり自分が実際に目で見ることができる世界・関わることができる社会コミュニティが、自分にとっての全てとなる。教職の授業で障がいを持つ生徒との接し方を学ぶとき、国際協力の団体でフィリピンのスラム街の人々と向き合うとき、LGBTQ+やボディポジティブなどを通してセクシュアリティや身体性の多様さを考え直すとき、環境問題について話し合ったり実際に保全活動を行ったりするとき。どんなに多くの多様性に触れ、社会的に自分よりも「弱い」立場の人を理解し手を差し伸べようと試みたとしても、いつも考え方や行動を行う主体は「自分」であり、たまたま得た環境や暮らしを基にした「自分」の軸から完全に逃れることはできない。私が常に一緒にいるのは、特に大きな不自由なく生活してきた者としての視点。意思決定の自由があり、行動に移せる機会があり、後押しをしてくれる周りの環境があった者としての視点である。

同じような境遇で育った他の人の目にも、私の育ってきた環境が「平凡」として映るかもしれない。私より経済的に裕福な暮らしを送ってきた人にとっては、田舎での私の暮らしがかわいそうに思えるかもしれない。そして、私よりも経済的に貧しい暮らしをしてきた人や、自由な意思決定・行動をすることが困難な環境に育った人には、私にとっての「普通」である暮らしが、羨望の対象で会ったり、掴みたくても掴めない生活であったりするかもしれない。

こうやって、収入額や識字率、人間開発指数やジェンダーギャップ指数など、様々な指標を用いれば、いくらでも生活の豊かさや機会の均等性を測ることはできる。データを分析・分類し、SDGsをはじめとする国際機関・政府・民間事業・個々人の政策や行動を実行していくことで、「かわいそう」「恵まれない」と思われるような環境や人を「取り残さない」ための、エンパワメントができる。

しかし、よくよく考えてみると、全く同じ環境で生まれ育ち、同じ価値観や伝統・文化のもと、同じ将来への希望や想いを抱いて生きている人は、私のほかに誰ひとりとしていないのではないか。そう、この地球上に生きているすべての人は、みんな違うのである。当たり前のことかもしれないが、私は声を大にして言いたい。誰もがたまたま生まれ育った環境の中で、それぞれの人生を歩んでいる。それぞれの価値観がある。それぞれに長所や短所をもっている。もちろん私にも、あなたにも、この世界中の誰かと比べて恵まれない部分や弱さが必ずあるのだ。恵まれている部分や強さがあるのだ。

だからこそ私は、「誰ひとり取り残さない」という社会を、世界中の誰もが均一化された「みんな同じ」社会だとは思わない。私にとってのNo One Left Behindとは、地球上の全ての人がお互いの価値観や文化を尊重し、かつ、自分の強みや可能性を最大限に発揮する機会を持っている社会である。そして、社会構造の中で人それぞれの「弱い」とされる部分を、他の人とフラットな関係性から補い活力を与え合える社会である。

 

ここで、冒頭の問いに戻る。そんな「誰ひとり取り残さない」社会は、これから本当に実現できるのだろうか。

 

そもそも、SDGsの理念であるこの「誰ひとり取り残さない」は、強い立場の者の視点に立って、弱い立場の者をみた考え方である。「先進国」「途上国」という言葉を使って国際協力・開発の文脈にあてはめれば、先進国の視点に立った価値観だ。このような上下関係は、資本主義社会のあらゆるところに存在している。看護師の両親のもとに育った私にとって、「誰かを助けたい」というのが昔からの将来の夢だった。しかし、助けるとはどういうことか。自分が上の立場になって弱い立場の人を引っ張り上げるということなのか。

 

私は、そのような上下関係を「誰ひとり取り残さない」社会に取り込みたくない。経済的に、文化的に、裕福さの違いはあるとしても、上下関係を基にした支援ではなく、人と人とがフラットに向き合い背中を押し合う・活気付け会える関係性を構築したいと思う。

そのために必要なこと、それは、自分が見ることのできる、関わることのできる範囲の世界を越えて、世界の様々な文化や伝統の中で生きる人と友達になることだ。友達になって、お互いを観察・理解し合えれば、自然と助け合いが生まれるのではないだろうか。

グローバル化が進み、強い勢力や文化・価値観が台頭している現代においても、グローバリゼーションを味方に、世界の様々な人、これまでの生活様式では出会うことなどなかったような人とも、友達になることで、フラットな関係性の上での助け合いができるだろう。それは、自然との関係でも同じだ。人間が決して優位に立つのではなく、地球上の様々な生き物と同じ立場として関わることができれば、自分事として、自然と環境に優しい選択ができるのではないか。

 

「誰ひとり取り残さない」ために、地球上に共に生きる多様な生物と、友達になってみませんか。

 

 

蛭間蘭   県立多摩高校3年生

 

ベトナム戦争。1955年に起きた、アメリカが初めて負けた戦争。学校で習ったとき、それしか言われなかったことに私は衝撃を受けた。
 小学2年生の夏から5年間、私は父の仕事の都合でベトナムのホーチミンに住んでいた。空港から降りると、夜なのにとにかく暑くて、知らない言語しか聞こえず、当時の私は驚きしかなかったことを覚えている。父が運転する車に揺られて夜の街を眺めていると、周りにはバイクしか見えなかったが、それが「車は高くて買えないから」と気付くには幼かった。次の日、街を見ると衝撃の嵐だった。歩道らしき場所はガタガタで歩きづらく、道端にたくさん店が並んでおり、移動式の店を持つ人のほうが多かった。映画館なんてものは存在せず、日本の番組はNHKしか流れないテレビで初めてディズニーの新作が出ていたことを知るような生活。当時外国に憧れを抱いていた私は、「こんなはずじゃ……」と思った。私の知っていた外国なんてアメリカとフランスくらいで、外国は日本よりももっと発展していておしゃれな場所なんだとイメージしていたからだ。
 しかし「発展途上国」と呼ばれるだけあって町並みはあっという間に変わっていった。「建物」のお店が増え、ショッピングモールや高層ビルが並び建ち、念願の映画館ができ、マクドナルドなど他国の会社のチェーン店ができた。街の中心部だけではあったが道や道路が舗装され、瓦礫で転ぶことも減った。その目覚ましい発展ぶりは小学生の私の目にも明らかだった。
 そんな中で、唯一変わらない風景があった。観光地のベンタイン市場の近くの道路で、物を売る親子。母親には、足がなかった。当時の私はただ、「かわいそうだなあ」としか思わなかった。無知だったのだ。私の母は、憶測でしかないが、年齢的にベトナム戦争の後遺症なのではないかと言った。ベトナム戦争。そんな戦争があったのか、とまた私は呑気に思っていた。 私が通っていた日本人学校の行事の一つで、毎年ベトナム戦争時にまかれた枯葉剤の後遺症に苦しむ子どもたちが入院している病院に行くことがある。低学年にはあまりにも衝撃が強い内容らしく、私が行けることはなかったが、当時小学6年生だった姉が行った。姉の話によると、幼稚園から小学生ぐらいの子供までおり、手や足が1本だけの子供、中にはベッドに縛り付けられている子もいたらしい。姉はショックで体調を崩してしまっていた。
 一体どれだけの人が、ベトナム戦争のことを知っているだろうか。学校で習う、「南北で分裂して戦って、北側が勝った」。それだけで理解を止めていないだろうか。戦況に焦った南側であるアメリカが、熱帯雨林に民間人もいるのを知っておきながらも人体に害を及ぼす枯葉剤をまいたことを知っている人はいるのだろうか。その後遺症で、奇形で生まれた赤ん坊がどれだけいるか知っているのだろうか。その子達が生まれてすぐ病院に閉じ込められ、今も苦しんでいるのだ。第二次世界大戦終戦から70年ほど経ち、当時の記憶を持つものがいなくなってきていると言われているが、私は違うと思う。発展していくベトナムの中で、まだ国内には戦争の後遺症に苦しまされ、社会に取り残されている人たちが確かにいるのだ。昨年、授業で冷戦に関する映像を見た時、ベトナム戦争がワンシーンしか流れず、私は驚いた。なぜ、あの枯葉剤が撒かれたという悲惨な状況を見せないのか。なぜ、忘れてはいけない歴史をほとんど映さないのか。彼らが今も感じている痛みや苦しみが、なぜ流れないのか。そんな疑問が数々頭に浮かんだ。
この間、テレビでベトナムの観光地についてホーチミンが紹介されていた。バイクだらけの道路、大きな教会、個性的な商品が並ぶ市場。レポーターが数々の観光地を紹介する中、私は道端で物を売っていた親子や、姉から聞いた子どもたちのことを思い出した。今、彼らがどうなっているか私には知る由もないが、ただひとつ、世界中にまだ戦争で苦しんでいる人がいることを絶対に忘れない、そう強く決意した。

 

 

古澤百花 渋谷教育学園幕張高等学校 高校3年生

 

札を払う瞬間、パッと振り上げられた彼女の腕に線状の傷がついているのを確認する。
勢いよく飛ばした札を拾いに行く彼女を見ながら、この子もか、と思った。
これで何度目だろう、歳が近い女の子の腕に、線状の傷を見つけたのは。
百人一首の読み上げ機から抑揚のある声が流れ、札が読み上げられる。
札を取りに行く瞬間、彼女の手が自分の手にぶつかり、激痛が走る。
競技かるたではよくあることだ。
「大丈夫?」
と聞き、彼女のぶつかった手を見ながら、彼女が自身で傷つけたと思われる腕を再び見る。
彼女の腕の線状の傷と、ぶつかった時に感じた痛みが重なって、ハッとした。
あの線状の傷は、彼女自身が加えた傷なのだ。こんなに痛い思いを、彼女が自らしようと思ったのだ。
既に知っていた事実の重大さを改めて認識する。雷に打たれた気分だった。
新しい傷なのだろうか。だとしたら、試合の後に何か言った方がいいのか。
だがそう考えている瞬間、札が読まれ、我にかえる。
今は試合だ、集中。

これは、今年、高3になったばかりのときの出来事だった。

初めて「リストカット」を知ったのは、中学生になってすぐのことだった。
傷を見せてくれたのは、同い年の女の子。女子がおしゃべりをして盛り上がっていたので、自分も輪に入ろうとすると、その子が腕の傷を見せていた。見せびらかしていはいなかったが、見せることに抵抗はないようだった。
「痛くないの?」
「うん。」
「なにを使うの?」
「カッター。」
周りの子の質問にその子は素直に答えていた。
高3になった今では、とてもそんな無神経な会話はできない。中1特有の幼さや、配慮のなさが、そんな会話を可能にしたのだろう。その子は今、元気にしているようだ。当時も、特に悩んでいるような様子はなかった。

高3になるまで、私はリストカットをしている女の子に3人ほど出会った。傷を隠している子もいれば、隠す素振りのない子もいた。隠す子には見えないふりをしたし、隠さない子には、気にせずに接した。
リストカットをする子に出会う度、リストカットが自分の中で「普通」になっていった。
ああ、この子もか。そんな感覚だった。

この間、競技かるたをしている途中、相手の腕の傷を確認した時、リストカットが身近な社会問題であると、やっと認識することができた。
確かに、リストカットを初めて知った時も、よくないことだとは思ったが、あまり気に止めることはなかった。それが自分自身に痛みを加える行為であることに改めて気付いた瞬間、私は事の重大さを知った。そして自分が今まであまりにも無知であったことを恥ずかしく思った。
1回のリストカットが命取りになることはあまりないと言う。一方で、それがリストカットの本当の怖さだと思う。簡単にできてしまうこと。中毒性があること。傷を隠しやすいこと。
10代の女の子の割合が最も高いと言われている。
ニュースでたくさん聞く問題ではない。しかし、確実に若者の間で広がっている、静かな病。リストカットを「普通」だと思っている人はどれくらいいるのだろうか。
そんな危機感を持って、私はこれを書いている。

私は今まで社会問題は、メディアが取り上げるものに限ると思っていた。ニュースで世界の半分ものサンゴがすでに失われたと知った時、高校生の仲間を集めて、自分たちがどのように環境問題に取り組んでいるのかをウェブサイトにあげた。Black Lives Matter を知った時、黒人アーティストのスピーチを和訳した動画をインスタグラムにあげた。

しかしリストカットという、メディアでは比較的タブーにされている問題に直面したとき、それは日常の中の「普通」にしか見えなかった。メディアが問題だと指摘することにしか行動を起こせない自分を恥ずかしく思った。

私たちはあまりにも自分にとっての「普通」にとらわれてしまうのと同じように、私たちはどうしても、「明らかに取り残されている人」ばかりに目を向けてしまう。カリフォルニアで山火事が広がり、多数の人が避難を余儀なくされた。イスラエルとパレスチナの間で再び戦闘が始まり、避難できなかった子供が何人も亡くなった。このような、まるで異世界から来たストーリーは、ニュースや新聞によって私たちに伝えられ、私たちに衝撃を与える。こうしてメディアによって、世界で起きている社会問題を知ることができるのは素晴らしいことだ。一方でメディアは情報過多と揶揄されるように、私たちは様々な情報を消化しようとするあまり、かえって身近な問題に目を向けなくなってしまう。

「秘かに取り残されている人」は身近にいる。
一般的に理解されている障害者の見た目ではなため、持病を抱えていても優先席に座れない人。
消毒液を使うと手が荒れてしまうのに、世の中の情勢上、消毒を断れない人。
打ち明けることができない悩みを抱え、自分の体に傷を負ってしまう人。

私たちは大きく取り上げられる社会問題には取り組もうとするように、どうして「秘かに取り残されている人」に真摯に向き合うことができないだろうか。
身近に「取り残されている人」の存在に気づくことこそが、誰一人取り残さない社会への第一歩ではないだろうか。

Think Globally, Act Locally.
今では、続々と生まれるスローガンに埋もれてしまっているこの言葉だが、改めてその意味を考えたい。

 

 

王麗莎   高崎経済大学 3年生 地域政策学部

 

今もなお猛威を奮い続けている新型コロナウイルスは私たちの生活に大きな影響を与えました。私を含めた外国人留学生は、コロナウイルスが原因で周りの環境が大きく変化しています。私は日本に留学をしてから、過去にない強い孤独感を感じました。知り合いが誰もいない、日本語がわからない、日本人の友だち一人もいないことを経験したので、私自身は孤独感を大きく実感しました。私は、まさに取り残されている人間だと一度思いました。
そこで、SDGsの「誰にも取り残さない」社会を実現するには、外国人留学生という視点から、どのように社会で取り残されるのかを考えました。そして、私は、誰一人取り残さないように、3つのことを考えました。これらの3つは「主体的に動く」、「周囲の環境への対応」、「コミュニティ活動への参加」という環境変化に関わらず、孤独感を解消し、日本社会に溶け込むために欠かせないものだと思いました。
新型コロナウイルス感染症の蔓延により、私は「学習環境」「学生生活」「経済状況」の困難な渦に巻き込まれ、今までの生活が一変しました。これまでにない孤独感や無力感を味わってきました。まず、「学習環境」で大きく変化したものは授業が完全に遠隔化したことです。ZOOMなどを使ってリアルタイム配信の授業をするライブ配信型授業、映像や資料を掲示するオンデマンド型授業が多くなりました。画面を見ながら一言も言わずに済む一日に苦しみました。一人暮らしの寂しさを加え、教授や友達とコミュニケーションを取る機会がほとんどありませんでした。続いて、「学生生活」については、サークルが中止になったことでヒトとの交流の場所がなくなりました。更に、コロナ禍前ではアルバイトをしていましたが、新型コロナウイルスの感染拡大により働いていた店は閉店となり、「経済面」の不安にも追い込ました。私以外の方々にもコロナの影響で様々な問題を抱えているでしょう。
こうした環境で、私は3つの行動をしました。1つ目は、誰にも助けられない日々には、私は主体的に動きました。私はGHKGグローバル・ハタラクぐんまプロジェクトに参加し、グループ共同作業を通じて、「持続可能な目標(SDGs)」の理念を深く理解するができました。また、異なる文化的背景を持つ学生同士と協働し、お互い理解しながら交流していくことができました。私は世の中、孤独感を感じるヒトは少なくないと思い、これを離脱するには、自分で行動を起こすしかないと思いました。なにもしないままでは、社会に取り残されるのではないか。
2つ目は、周囲の環境への対応をすることです。私が置かれている状況も困難だと意識しながら、変わった環境に直面し、こういった困難を乗り越える姿勢は大切です。そのため、コロナ時代の変化を敏感に感じ取り、変わりゆく対応を取りました。新型コロナウイルスで命を失ったヒト、仕事がなくなったヒト、自由を制限したヒトなどもう取り戻れません。それを防ぐために、社会に取り残さないように、自分の健康を保ち、自分の知識やノウハウを高めることに力を入れています。誰でも置き去りにならないため、状況に応じて、柔軟的に行動を変えていくことが大切だと考えました。
3つ目は、積極的にコミュニティ活動への参加し、社会と繋がっていくことです。日本社会へ溶け込むには人々とのつながりを大切にしたいです。私は孤独感を解消するには、学校以外の居場所を作ることが大事だと考え、小学生の学習をサポートできるボランティアを積極的に参加しました。子供の笑顔から私の心を癒やし、更に、地域の一員としての自覚が生まれ、子供たちと向き合う時間を充実することで生きがいを感じました。こういった活動によって、新しいコミュニティが形成され、幸福感を感じ、自己価値や社会とのつながりが深くになりました。
孤独感を解消することは、身体的にも、心理的にも社会的にも良い循環であり、「誰一人も取り残さない」社会と結びつける架け橋となります。たしかに、誰一人も取り残さないことは難しいです。しかしながら、困難なことだからこそ、私たち一人ひとりの社会的責任感を持ち、この社会において、自分のできることを先に考え、一歩を踏み出して行動し、貢献することは「誰も取り残さない」という社会像の実現に少しずつ近づくことができるでしょう。それが、外国人留学生は日本社会の一員として認識することは「誰一人も取り残さない」社会に繋がるだろうと考えました。

 

 

吉本萌恵 クラーク記念国際高等学校3年生

 

 お金がなければ、生きたいように生きられない。自由に選択ができない。そして、取り残されてしまう。それが最近わかってきた。私、大人になったんだろうか。
 サスティナブルな生活がしたいと強く思う。しかし、環境負荷の少ない製造方法で作られた製品、生産者が公正な利益を受け取ることが約束された海外製品、使用中・使用後にゴミがあまり出ない商品、ブラックな労働を避けた輸入品を見れば、いずれも高価である。
 たくさんお金が稼げる仕事を求める大人たちは、必要以上の娯楽と贅沢な暮らしに憧れるゆえ、そのような振る舞いをするのだと思っていた。なんて欲張りなんだ、私はお金に幸せを求める生き方はしない!と両親の面前で決意表明をしたこともあった。
  しかしそうではなかった、と最近になってわかった。
 先日、家庭科の授業の意見交換にて、収入は大事だと言い張っていた友人らが、ずいぶんと社会がわかっていて、未来が見えていたんだなと、驚いて、恥ずかしくなった。ここである種の「置いてけぼり」を食らっていた私であった。
 ともかく、世間では、最近SDGsを取り上げて、サスティナブルな取り組みをする企業を持ち上げたり、サスティナブルな生活を心がける人を褒めたりする風潮が生まれている。それ自体は、SDGsを推し進める上で素晴らしい進歩、有利な方向だ。なぜなら、誰でも「好まれること」をしたいし、大勢が認知すれば、同じ方へ、サスティナブルな世界へ進んでいくのが容易になるからだ。
 ただ、私はその波に乗れない人がいるのじゃないかと危惧する。それどころか、波に溺れる人々がいるのじゃないかと。前述した通り、サスティナブルな商品は高価なので、SDGsに貢献しようと消費者の立場で奮闘するなら、どうしたってお金に余裕がないといけないのだ。ある程度の余裕がある人は、当然の如くサスティナブルな製品を買うようになる。世の中がどんどん、サスティナブルな製品を買わない人に対し、冷たくなっていく。本当はしたくともできないのに。そんな近い将来が見えた。お金に不自由を覚える側としては、黙って見ていられない有様だ。取り残されたくない。
 でも、それは気に留めるまでもない小さな摩擦で、より良い世界へ変えるためには致し方ないことなのだろう。
 悶々としつつある日、いらない布地が勿体無くて、ポシェットに作り替えた。とても、楽しかった。完成して、あっと声が出た。ゴミは減って、リサイクルに出すよりも環境負荷は少ないはず。そして生地を買わずに済んだのでお金はむしろ浮いた。なんだ、そうだった。
 SDGsとは言ってしまえば、みんながながく幸せに暮らすための目標だ。圧力を感じて嫌な思いをするのは本末転倒と言うべきで、私は全く間違った思い込みをしていた。自由に生きることは幸せにつながっている。私が本当にSDGs達成を目指すつもりなら、周囲に流されて、お金は人生の喜びと無関係だという信念を放棄して、自由を諦めてはいけなかった。
 ここで、一つのアイディアを示したい。この作文を書いている過程でふと思いついたものだ。以前から、特にファストファッションの店舗には、もう着なくなった衣服を回収するボックスが置いてある。覗いてみたところ、可愛い服がちらと見えた。やっぱり贅沢してるな、と考えた。とったら怒られるだろうか。
 回収した服は発展途上国へ寄付したり、リサイクルしたりするそうだが、事実、現地の住民の力で生産することを妨げ、寄付先の経済成長を邪魔していることもあるし、リサイクルにもその過程で多大な環境負荷がかかるという。
 ならば、着なくなった服を、訪れた人が気に入れば貰って帰っていいというシステムを作れないだろうか。何もCO2をたくさん排出して外国に運ばずとも、日本にもその服が欲しい人はいる。サスティナビリティを考える暇がない人たちが利用して、私が先日味わった嬉しさ・達成感味わって欲しい。それに、堂々とSDGsに協力したという実感を持って欲しい。
 確かに、お金がないとできないこともあるだろう。しかしそれはお金に余裕がある人に任せるべきところだ。
 決して取り残されてはいない。それぞれに役割はある。

 

春木大空(もとたか) 都立深沢高校3年生

 

私はこのSDGsの存在を高校の授業で知った。知った当初は[綺麗事ばかりを並べ、解決する気はない無いものばかりだろう]と思っていた。しかし、日本だけではなく海外の貧困問題、差別問題を知ってゆくうちに何か自分自身が行動に移さなければならないと思いこの文を今書いている。

 私は現代社会の大きな問題として[差別問題]を取り上げたい。身近な差別の対象の一つとして[LGBT+Q]がある。私は自分自身が異性しか愛せないのかはハッキリとは分からない。まだ惹かれる同性に出会っていないだけなのかもしれない。私の母は私が幼い頃[人は性別関係なく、愛した人を愛する権利があるんだよ]と教えてくれた。今でもその言葉を信じ続けている。差別が起こる原因として様々な理由があるだろう。しかし唯一確かなのは[差別は無知からくるもの] と言うことだ。もしあなたが未知の生物に出会ったらあなたはどうするであろうか?恐らく多くの人々が逃げ回り、恐れ、理解しようとしないだろう。だから差別が生まれる。これは極端な例かもしれない。しかし差別が始まる多くの場合はこの流れだろう。[知ることを拒否する]ということは差別を生む大きな原因だ。だが一番身近な未知の生物として挙げられる異性はどうだろうか。[男と女は違う惑星から生まれた]と言われるほどに、男女の違いは明確に示されている。しかしそのような違いがあっても多くの男女は愛し合い、子供を育て幸せな家庭を気付きあげている。なぜ異性間であるなら理解ができて、尊重しあえるのだろうか。同性だと何が問題なのだろうか。

 私はあるアプリケーションをつかって恋愛のありかたについて調査をした。ここでは二つの国を例に挙げる。一つは同性婚が認められているスウェーデン。もう一つは同性婚が認められていない日本。スウェーデンの学生たちに[男性は女性を、女性は男性を愛すべきだとおもう?]という質問を30人の男女にした。すると30人中27人が[No]という答えだった。[恋愛は自由、だれがだれを愛しても良い]という考え方が国自体に染み込んでいのだろう。続いて日本の学生に同じ質問をした。30人中26人が[yes]と答えた。理由を聞くと [それな普通だから]という答えが一番多かった。普通という概念 これは誰が定めたものなのだろうか。その自分自身が持つ普通という概念に背く人間がいれば、理解しようともせず、差別をする。日本よ差別問題が解消されない背景には多くの日本人が持っている[普通と言った概念]が影響しているのだと分かった。

 正直私は差別をこの世界から無くすことは不可能だと考えている。しかし差別この世界から無くそうと考える人を増やすことはできる。もしそれができたならこの日本、いやこの世界は誰ひとり取り残されずに幸せに溢れた世界になると信じている。

愛した人を愛せる世界。男女が共に尊敬し合う世界。肌の色や外見を見るのではなく心で会話をしあう世界。そのような素晴らしい世界に住む人たちは、他の環境問題にも目を向けて解決しようとするはずだ。私は差別をこの世から無くすと共に環境問題にも目を向け私にできることこれからもし続けていく。

 

 

古井翔子 東京女子大学 3年生

「普通」は自分が作るもの

「カッコ良い女子が居てもいいんじゃない?」これはとある女性が母から言われた言葉だ。

貴方は自分の性別についてどのように考えていますか?男性、女性、その他、戸籍上の自分の性別と気持ちが異なる人も居る。では、貴方は周りから「女の子らしく」や「男の子なんだから!」などと言われたことはあるだろうか。私にはある。私は髪型や服装、話し方や振る舞いで自分を表現します。私の性別は女性であり、幼少期にはShirley Templeを着たり、ピアノやバレエという女の子らしいと言われる習い事をさせて貰った。中学生となりソフトボール部に所属した私は髪をショートにした。その際、祖母に「女の子なのに…」と言われた。当時の私はショートに憧れがあり、自分もショートにしてみたいという気持ちがあった。それだけなのに、髪の長さ一つも性別によって決められなければならないのかと当時の私は落ち込んだ。そんな時私が出会った言葉が上記の言葉「カッコイイ女性が居てもいいんじゃない?」である。髪型や服装において、男の子や女の子という生まれながらに持った性別ではなく「自分らしく!」で良いのではないか。着たい服を着て、似合う服を着て、似合う髪型をする。世間の「普通」は関係無い。「普通」は私が作るものだと思う。私は生まれ変わっても女性でありたい。男性のかっこいいではなく、女性のかっこいいでありたいし、来世でも可愛いとかっこいいも両方経験したい。

そして今の私は「彼氏は居ないの?」と言われたり、何か質問をすれば「彼氏さんがそうなんですか?」と聞かれる。私の性別は女性であり、今の世間一般における「普通」では、女性は男性と付き合うつまり異性愛が認知されている。これらの発言には、私が女性が好きという同性愛者やバイセクシュアルであるという認識が無い発言である。私は昔も現在も同性の方を応援させて頂く事が多い。それは好きという好意よりも憧れや自分の目指す目標だったりする。だが、なぜ同性を追いかけるのか?恋愛対象は女性なの?などと聞かれるが、それは応援する、追っかけをする=恋愛対象という固定概念やその人自身が普通だと思っている事の現れではないだろうか。

私は今、役者を目指している。私が歌を習う際、女性が男性ボーカルの曲を選ぶこともあったり、自由に自分の歌う曲を選んで良い。また、舞台上では男性が女性を演じたり、女性が武将になったりする。近年流行している2.5次元ミュージカルでは、女性が殺陣を行う舞台も存在している。殺陣という一見男性が行うとされている表現を女性が行う姿がとてもかっこよく私自身も殺陣やアクションを行う舞台役者になりたい。舞台上で行われる性別に捉われない表現を私はとても美しいと感じ、カッコイイな!と心惹かれる。日常生活で表現を制限される人が舞台を見て感動したり、自分自身を認めてあげられるようになって欲しい。私は、舞台上での表現を日常生活でも自由に表現出来るようになれば良いと思う。LGBTQ +やジェンダーレスという言葉がよく聞かれるこの世界の中で性別に捉われず、世間の「普通」に苦しまず、「自分らしく」生きられる世界が訪れると良いなと私は思う。

 

佐藤彩音 高知県立高知国際中学校3年生

 

私はSDGsの基本理念「誰ひとり取り残さない」の視点で様々なことを考えた結果、新聞などの メディアを使っている高齢者がSDGsについて考える事が出来ない現状を変えるためにSDGsを 知るきっかけとしてクロスワードを作成したいと考えています。
私は今、高知県に住んでいます。高知県では総人口における65歳以上の割合がすでに3割を超えていて、全国平均より6.2%も高いです。今後も高齢化率は増えていき、2045年には4割を超えると言われています。私は高齢者が増えている高知県で、SDGsの取り組みに付いて行くことが出来ていない高齢者の方が沢山いることを昨年知りました。
昨年私は、廃校再生プロジェクトに参加しました。その廃校は私の家から一番近いにもかかわらず、私が小学一年生になる春に廃校になってしまいました。なので私は統合された少し離れた小学校に通っていました。このプロジェクトはそんな小学校の校舎の活用計画を市民が考えて、 市に提案するプロジェクトです。私たちの地域は市内でも高齢者率、また人口減少率が高い地域 で地元の方で参加されたのは高齢者の方々が多かったです。地域内外から来た方々との話し合いを重ねて行くうち、私たちのグループでは、その校舎をSDGsの取り組み展示や体験、イベント などが行える地域のSDGsステーションとして活用しようという案を出しました。その案について説明をしている時、高齢者の方々にSDGsが浸透していない事に気付きました。高齢者の方々が 使っている新聞やテレビなどでもSDGsに関しての情報が流れているのですが、それらのメディアでの発信の仕方は高齢者に影響をあまり与えてないと思います。なぜなら高齢者の方は自分の 行動範囲を地域の中にする場合が多く、地域外で起きている現状や取り組みなどに対して興味を示す事がない場合が多いからです。今回の案について説明されているときも、「横文字はわからない」と言われ理解しようと頑張っている聞いてくれた人と、理解して欲しくて説明した私の両方の思いが届かなくてお互いが傷付きました。
そこでどうすれば興味を持ってくれるのだろうと考えました。そして私は高齢者が使っている新聞やテレビでの発信の仕方を工夫する事ができると思いました。新しい情報に対しての価値観をなくし、誰にでもわかりやすいような言葉と地域で起きている現状や取り組みを使って発信することが良いと思います。まずは行動よりも興味をもって情報を理解する事が大切だと考えています。それでも興味を持ってくれない方もいると思うので私はクロスワードをSDGsに関して知るきっかけとして使いたいと考えています。私と同居している祖父母は週に1度新聞に掲載されるクロスワードが大好きです。時間をかけて沢山考え楽しんで解き、時にはわからないものを友人に電話 をかけて聞いているほどです。このようにクロスワードを楽しんでいるのは私の祖父母だけではありません。沢山の人、幅広い年代の人がクロスワードを楽しんでいます。クロスワードとして高齢者の方に配布することでSDGsについて興味を持って情報を理解するきっかけができ、更にわからないところを家族に話を聞いたりなどして家族団らんの場所を作る事ができるのではないか と考えました。
私の通う中学校では国際バカロレアのカリキュラムを取り入れており、このカリキュラムの中に はSA(Service as Action)と言われる活動があります。これは行動を伴う奉仕活動で、学校内外 で個人やグループで活動をしています。私はこのアイデアを実践するために、SDGsに興味のある友人や他学年の人などを集め、SAの活動としてSDGs全ての目標に関連した17のクロスワー ドを作り新聞や市報にはさみこんで配布したいと思っています。クロスワードだけでなく、地域で行っているテーマとなっているSDGsのゴールの取り組みなども紹介することができれば良いなと思います。
これらのことから私は、「お年寄りの方々をSDGsに関する知識から取り残さない」を目指してこれから活動していきたいと思います。そして高齢者に限らず、世界中の人全員が一丸となってお互いの持続的な幸せを願えるようになりたいと思います。

 

黒松俊吾 大阪市立大学医学部医学科3年生

 

近年、発達障害、という言葉はかなりメジャーになってきた。同時に社会制度も整えられていき、より多様性が認められる世の中になってきたと感じている。しかしながら、そんな中で「取り残されている」人たちがいる。その人たちを私は「過」発達障害と呼ぶ。文字通り、年齢に比べて精神的に発達している人たちを私はそう呼んでいる。この言葉を聞いて、多くの人は贅沢な悩みだと思うのではないだろうか、きっと、さぞかし周りよりも大人で、勉強が出来て、大人とも上手く渡り合える、そんな人をイメージするのではないだろうか。しかし、現実は大きく異なっている。特にこの日本では、長年画一的な教育が推進されてきた。みんなが同じものを作り、絶対的な基準で審査してきた。その中で、出る杭は打たれるような社会が形成されてきてしまったのだ。
かく言う私も、その一人ではないかと思っている。学校という狭い空間の中では、学校が子どもたちにとっての全てであることもある。その中で周りと価値観が合わない、というのは大変苦しいものである。私が周りより成熟しているのではないか、と気づいたのは中学校に入学した時だった。確かに、今思い返してみれば、幼い頃からおとなしい子どもではあったのだと思う。しかしながら、おとなしい、とおとなっぽい、は違う、と私は思っていた。私は中学受験をして、中高一貫の男子校に入学した。最初の数ヶ月、なかなか友達ができなかった、今までこんなことはなかったのに、そう思っていたが、それは単に周りの子が私に話しかけてくれる環境が今までは続いたから、でも今回はそうじゃなかったから、だと思うようにした。そうして友達ができない中で、ふと周りにいる子たちを観察していると、どうも彼らの面白い、としていることが理解できない。とても苦しい日々だった。それでも、友達はできた、月日が経つにつれて、増えていった。そして私は自分を内に秘めるようになった。彼らの面白い、と思うことが、自分という人格を上書いていった。幸い、勉強はそれなりにできた。特に懸命に勉強をしているわけではなかったが、それなりの成績を取っていたことも、周りと上手く折り合えた一つの要因だったのだろう。それから数年が経って、高校2年生になった頃だろうか、ようやく周りの言っていることと、自分の考えていることが合うようになってきた。そのおかげか、高校最後の一年間はほとんど勉強詰めではあったものの、その合間合間で友人と話した時間は本当に楽しいものだった。そしてその頃、同じ目線だと感じた友人とは今でも本当に仲良くできている。しかし大学に入学して、また同じ壁に当たった。周りとの価値観が全く合わない。今までは自分が周りより偏差値が高いからだと半ば言い訳してきたが、同じ入試を、しかも高い倍率で突破している以上、もはや他の同級生と価値観が合わないのは偏差値の問題ではないと気づいた。そしてまた、自分を内に秘めて、みんなのイメージする「大学生」で自分を上書いた。気づいたら留年していた。それからの人生は本当に楽なものになった。もちろん今の学年にも同級生、というものは存在する。でもそれはそんなに深い関係性ではないだろう。ようやくこの学校、という社会から抜け出せたのだと、そして自分を再び外に出すことができた。小学生以来の自分との邂逅である。
こうして振り返ると、中学校に入学した当時の自分にアドバイスするなら、もっと大人と関わりなさい、ということになる。自分と近しい価値観の人と出会って初めて、自分は一人じゃないと思える、自分は周りより少しだけ、大人なだけなんだと、思える。
私はここで提案したい。もっと日本は留年及び飛び級制度を整備すべきである。確かに、おとなっぽい子、の全てが勉強が得意な訳でも、好きな訳でもない。ただ、この学年、この同級生とずっと一緒なのだと、いうことは学校という社会をより狭苦しいものにしていると私は思う。さらに、勉強ができる子がより高い学年に上がるのが優しさなら、その逆もまた優しさなのである。これは過発達障害の人に新たな目標を与え、より良い環境を与えるだけではなく、定型発達の人にもいい効果があると私は考えている。私は学習塾でアルバイトをしているが、勉強をする理由を見失っている学生が多く感じる。もちろん、なぜ勉強するのか、を伝えている学校もあるだろう、しかしそれ以上に、自分の頭でそれを考えることはもっと大事なことであると私は思う。そんな中で、留年や飛び級、という制度が整備され、より進級が困難になると同時に、自分と同い年で先を行く友人を見れば、なぜ自分はこの厳しい競走の中で、勝ち抜かなければいけないのか、はたまた、本当に勉強しないといけないのか、ということを考えるきっかけになると私は思う。
先進国の中でも、留年及び飛び級制度の有無は分かれている。日本で本格的に導入するにしても慎重な議論が必要なのは間違いないだろう。それでも、その議論が発達の遅れている子どもだけでなく、進み過ぎている子どもに注目するきっかけになればいいと思う。

 

 

樋口あおい(仮名) 高校3年生

 

私は、いつだって取り残される側の人間だ。「バレたらどうしよう」「どこにも居場所なんてない」そう感じていた。今もそう思っている。いくら「多様性」が謳われる社会になってきているとはいえ、自分は他人と違うのだと宣言することはとても怖い。友人を失ってしまうかもしれない、勘当される可能性だってある。しかし、私はこの文章を書くと決めた。たった一人だけでも、私の文章を読んで変われる人がいるなら、他人の目を気にする必要なんてない。
私が初めて「SDGs」という言葉を知ったのは、高校一年生の頃だ。私の通っている学校は、SDGs教育に力を入れていて、総合や情報の授業で、SDGsに関する動画を作成したり、プレゼンテーションなどをしている。授業内で先生が、あのカラフルなSDGsの表を見せてくれた。貧困、飢餓、教育。遠い異国の出来事で、自分には関係ないと思った。そして先生はその後、とある動画を流した。ニュージーランドの国会議員が、同性婚を認める法律が採択されたときにしたスピーチだ。その内容は素晴らしいもので、私に勇気を与えてくれた。しかし、同時に恐怖を感じた。今このスピーチを見ているクラスメイトは、どう思っているのだろう。私のような類の人間に対して、どのような感情を抱いているのだろう。そのとき、SDGsという言葉が、自分のすぐ近くにあることに気付いた。遠い異国の出来事ではなく、自分が今直面している問題なのだ。
私は女性だ。そして女性が好きだ。最近流行りのLBGTQ+というやつである。SNSの普及や芸能人の影響などにより、以前よりはその存在が一般化してきたが、「気持ち悪い」「理解できない」と偏見を抱いている人は今も大勢いる。それも当然であろう。人間は、自分が絶対に正しいと思いがちだ。そしてその固定観念を、他人にも押し付けてしまう。自分にとっての正義という領域の中で判断をしてしまう。そうやって誰でも知らず知らずのうちに、何かに対して偏見を抱いている。性的少数者、犯罪者、外国人。大事なのは、自分が偏見を抱いていると自覚することだ。偏見は無意識の中で生じるが、偏見をなくすことは意識的にできるのではないだろうか。そのためにまずは、固定観念を捨てることだ。自分が信じていることは、本当に正しいのかと自問自答するのだ。どうしてそれを正しいと思うのか、その客観的な理由を探してみると「なんとなく」「そうだと思うから」という主観的で曖昧な回答が浮かんでくることがあるだろう。それが偏見を生んでいるということに気付くことが大切である。次に、偏見の対象と真正面から向き合うことだ。当事者と直接話してみたり、SNSやブログを見るなど、その手段は自由だ。そして、その人の肩書きに囚われず、対話をする。一方的に言葉をぶつけるのではなく、その人の話を聞いてじっくりと考えてみる。疑問が湧いてきたら、質問してみたり、調べたりする。これが対話である。それでも偏見が残っているなら、それは偏見ではなくその人自身の考えだ。尊重すべきものである。肯定するだけが多様性ではない。肯定も、否定も、無関心も全て含めて多様性だ。そこで初めて、「誰ひとり取り残さない」社会が生まれるのだ。
「多様性」という言葉は、自己の中で完結するものではない。家族、友人、知り合い、遠い異国の人。自分の知らない存在も、「多様性」の中に含まれているのだ。「誰ひとり取り残さない」社会を築くために大事なのは、知らないことを知ることだ。偏見を抱いていることに気付くことだ。そして、知ろうとすることだ。異質なものをただ排除するのではなく、真正面から向き合うことが重要なのだ。一人一人がお互いを尊重する、それが「誰ひとり取り残さない」社会だと私は考える。

 

 

牧山桃与 神奈川県立多摩高等学校

 

 あなたは認知症の人をどう思いますか?こう聞かれたらきっと肯定的な返事をする人が多いだろう。例えば、根気よく向き合うべきだ、とか面倒くさがらずに対応するべきだ、など。しかしそう答えた人の中で、実際に身近に認知症の人がいる割合は案外低いのではないだろうか。そう思うのは、実際私には認知症になったおばあちゃんがいるからである。
 私の体験から述べると、最初祖母が認知症になったと聞いたときはそうなんだ、くらいにしか思わなかった。今の時代それほど珍しいことではないのかなと。しかしながら祖母と直接会って話していると、以前との違いに驚き、悲しくなった。度々私と姉の名前を間違え、同じ質問を何度もしてくる。それも本当に一分も経たないうちに。認知症の症状はテレビやネットで知っていたし、それが仕方のないことだとも分かっているつもりだったが、どうしてついさっき話したことが覚えていられないんだろうと思ってしまった。 
 しかし祖母との向き合い方について初めてしっかりと正面から考えた時、認知症になったという事実に対して本人が一番悩んでいるのではないかと気づいた。そのため私は認知症について「軽く」受け止めるようにした。これは軽視する、という意味ではなくて深く考え過ぎないようにする、ということだ。この考え方が正解かどうかは分からなかった。それでも、考えすぎて暗くなった気持ちが本人にまで伝わってしまってはいけないと思った。だから私は以前と変わらない態度で祖母に接し、祖母自身をみるようにしている。そうすることで「認知症の祖母」と接している、という考え方から「ちょっと天然なおばあちゃん」と接しているかのように感じるようになった。これは私にとってはとても大きな変化で、祖母の気持ちだけではなく私の気持ちも楽にしてくれた。
 このように私は身近に認知症になった人がいたため、認知症について深く考える機会があった。だが認知症以外にも、生まれながらに心身に障害を持っている人や、深い精神的問題・トラウマを抱えている人などこの社会には様々な人がいる。またその中にはコロナウイルスの影響を受け、普段の生活が送れなくなり社会から取り残されてしまっている人もいるだろう。そんな人たちとめぐりあったときあなたはどうだろうか?どのような行動をとるべきだろうか?きっとそれはすぐに答えられるほど簡単なことではないだろう。それでも私達がすべきことは、取り残されている人たちについて考え続けることだと思う。きっと考えた先に出る答えは人それぞれで、その答えが正解かどうかもわからなくとも、考え続けることに意味があるはずだと信じたい。考え続けていつか誰かの気持ちを少しでも楽にすることができたら、それがその人にとっての正解になるはずだ。

 

古堀伸乃輔 青山学院大学3年生

 

「誰一人残さない」というワードを聞いた時、私は最初にダウン症の子供たちの顔が浮かんだ。
今回、私が伝えたいメッセージは「人は人によって救われる」と言うことだ。
人類は、時代とともに医療技術を日々進化させ続けており、不治の病とも言われた結核は薬が開発され、近年では猛威を振るっている新型コロナウイルスに対してもワクチン接種が行われ始めた。ただ、現在も医療現場は逼迫した状態で、新型コロナウィルスに関しては多くの人が関心を向けていることだろう。
その一方、難病に戦い、小児がんで余命宣告をされている子供やダウン症の子供たちもたくさんいる。日本だけでも難病の子供患者は14万人もおり、彼らは少なからず、誰かの家族の一員であり、その家族を失う孤独を私も知っている。
私は17歳のときに病気で父親を亡くした。さらには、私も大怪我をして入院生活と2回の移植手術を余儀なくされた。当時の私は、この先の人生・将来を考える事もできず、この世界に取り残された様な絶望的な日々を過ごしたことを鮮明に覚えている。そんな時に、救ってくれたのは「人」の存在だった。学校の先生や友人が常に私を支えてくれた。毎日、10人以上の友人が見舞いに来てくれたり、車椅子を必要としていた時期も、誰かがそばにいて、同じ時間・空間を過ごしてくれた。そのおかげで、辛い時でも私は一人ではないことを実感することができ、私にとって「人」の存在が力となり、支えとなり、立ち直ることができた。
残された人生をどのように歩むのかを決めるのは「自分自身」と「取り巻く環境」だと私は思う。そして、この経験から「人は人で元気になるのだ」と心の底から感じている。
今現在、世界中で猛威を振るう、新型コロナウィルスの感染拡大により、障がい者への関心が世間的に薄まっていないだろうか。実際に政府もコロナ禍で障がい者に目を向けて欲しいと述べているが、自分自身の健康面を意識し始めている反面、他人への気配りは減ってはいないだろうか。雇用問題においても多くの障がい者が解雇されているのが現状である。
そこで、私はコロナ禍でもダウン症の患者に目を向け、共生社会に向かおうとしているNY発のバディーウォークを行ったNPO法人のアクセプションズの活動に目を向けた。そこでは、障がいがあるなし関係なく、自由に夢を思い描ける未来をひとつひとつ実現していきたい、という思いがあり、アートや作曲、工作、ダンスなどをして、生きているということや楽しさを表現し、様々な個性が共に尊重し合えることで共生社会を促進する活動を行なっている。
ダウン症の子が生まれる時、合併症を持って生まれることが多い。しかし、医療進歩により、合併症を幼児時点で手術することが可能になった。そのことで、外出することができるダウン症の方も多くなり、健常者と共に時間を過ごすことが増えてきている。しかし、世間的にはダウン症の方々がいることを知りながらも、彼らがどのように生き、過ごしているのかという認知は少ない。今でも彼らは、生活している上で差別されることが多々あるようだ。彼らは自分自身のことを認め、個性として受け取り、接して欲しいと話していた。
SNSが世間の中心になっている現在。私はSNSを用いて彼らの作品や生活を世間に発信する。そこで私は、ダウン症患者が社会、生活で苦しんでいる人々が少なからずいることと、ダウン症と言うものを個性として接してほしいという訴えを広めていきたい。少しずつでも広まることにより、障がいをもつ人々と手を取り合い共生する社会へと近づくのではないだろうか。そして、共生社会に向かう動きを、他人事の知識として終わらせるのではなく、そのことを一人一人が意識して行動することにより、一人の人生を救うことに繋がる。
だからこそ、目を背けるのではなく少しの意識と少しの勇気を持って障がい者に接して欲しい。その一つの行動が彼らにとって生きる希望に繋がるかもしれない。それが、共生社会の第一歩となる。だから皆にもう一度伝えたい。「人は人によって救われる」と言うことを。

 

能村 天喜 大阪府立園芸高等学校 2年生

 

 チョウの成虫は花の蜜を、幼虫は葉っぱを食べて大きくなります。トンボの幼虫はヤゴといい、池や川などの水の中で、小さな昆虫や魚をつかまえ、食べて大きく育ちます。これは、昆虫観察会で発表した一言です。昆虫は汚い、気持ち悪い、人に害があると考えている人が多いと思います。そんな昆虫たちでも数が減ることは地球に悪い事だと私は知っています。SDGsの「誰も置き去りにしない世界を目指して」という言葉の対象は人だけではありません。昆虫は多くの動物の主要な餌となり、水質や土壌の浄化を行います。それゆえ、昆虫も置き去りにしてはいけない!と私は強く思います。私が園芸高校に入学し、廊下に飾ってある標本をふと見てみると、標本箱の中にあるヤマトタマムシの標本があり感動しました。日本にもこのような綺麗な昆虫が生息しているという衝撃は今も忘れることができません。日本の多種多様な生物守りたいと思いました。
 私の活動は園芸高校に生息する昆虫の調査、ビオトープの保全、観察会の実施です。これらの活動はSDGsの17の目標のうち4「質の高い教育をみんなに」15「陸の豊かさを守ろう」の達成をめざしたものです。園芸高校には実習庭園という巨大ビオトープがあり、そこには100種類を超える樹木と推定300種類を超える昆虫、そのほか多くの鳥や爬虫類が生息しています。まさに、都会のオアシスです。しかし、現在生息している昆虫は数を減らし、それを食べる動物たちも次々といなくなっています。早急に環境教育を行うべきだと思い、私の挑戦が始まりました。昆虫観察会では8月と9月の計2回実施し、参加者は保護者も合わせてなんと100名以上の人が来てくれました。当日はビオトープ部が作成した観察を行う昆虫の生息場所や食性についてのポスターを使い、子供たちに説明をしました。観察会で紹介した昆虫はバッタ、チョウ、そしてカマキリです。子供たちが捕まえられるほど沢山の昆虫がいて、虫取り網を一生懸命に振り、観察会を楽しんでくれました。観察会の初めは昆虫が苦手で触ることもできなかった参加者の少年が観察会終了前には少しだけ昆虫を触ることが出来ていて驚きました。これは観察会を実施し、SDGsの4の目標「質の良い教育をみんなに」を提供した大きな成果です。
 しかし、全てが上手くいく訳ではありませんでした。新型コロナウイルスの影響で緊急事態宣言が発令されてしまい、学校内に子供たちを呼ぶということが出来なくなりました。しかし、部員達と話を進める中でタブレットやスマートフォンなどを使える次世代の若者をターゲットにしたYouTubeチャンネルを立ち上げれば活動を続けられるのではないか、と意見がまとまりました。昆虫観察会では参加者にしか教えることの出来なかったことがYouTube活動を始めたことによって全世界の少年、少女に昆虫の魅力を伝えることができます。コロナ禍でも環境教育がしたいと諦めずに活動に取り組んだことは16「平和と公正をすべての人に」17「パートナーシップで目標を達成しよう」を達成する大きなチャンスをもたらしてくれました。YouTubeではかんきつ類の樹木に糞や食痕があるところにアゲハチョウの幼虫がいるということを、畑に住む、夜こっそりと作物の葉を食害するヨトウムシは日中、ハクサイの下の土に潜んでいることなどを配信しました。YouTube活動を初めて、友達が家族にYouTubeの存在を広めてくれました。少しずつチャンネル登録者数が増え、多くの人に広まり、いつか全世界の人が見てくれたら、昆虫を含めた多くの生き物が地球にとって人と共に生きていく存在だと理解してもらえると私は思いました。今後は英語で話して、昆虫の紹介をしている動画も作成し、より多くの人に配信を行いたいと思っています。2021年5月から動画を投稿し、現在までの視聴回数は187回です。決して多いとは言えない視聴回数ですが、見てくれている人がいるということを前向きに考えます。昆虫が減少していると理解している人はまだまだ少ないです。私一人では破壊された生物の生息地を作り直すのは困難ですが、昆虫観察会やYouTubeを通して、命を大切にする仲間を増やしていきます。
 私は園芸高校内で、部活を通し、樹木やビオトープ管理をし、13「気候変動に具体的な対策を」15「陸の豊かさを守ろう」の達成をしています。さらに、昆虫観察会では4「質の良い教育をみんなに」の達成だけでなく、多くの部員と協力し、活動をつづけたことは16「平和と公正をすべての人に」17「パートナーシップで目標を達成しよう」の達成に繋がりました。昆虫観察会、YouTube、一見遠回りに思うかもしれませんが、学校での環境教育こそが高校生の私に出来るSDGs活動です。人も鳥も魚も昆虫も植物も誰も置き去りにしない世界を私はめざします。

 

 

東江萌花 神奈川県立多摩高校

 

ある企業が「美白」という表現をやめる、というニュースを見た。それを見てとてもはっとし、どうして私は気が付かなかったのだろう、と思った。私はなんの違和感もなく美白という言葉を使い、なんとなく色白になりたいと思っていたうちの一人だ。でも、このニュースによって初めてこの言葉に違和感を持てるようになった。世界には、もちろん日本の中にも色々な人がいる。性別、人種、国籍など、皆が同じであるはずがないしみんなの肌が白いわけではない。それなのに美白という白だけを美しいとするような表現を使ってもいいのだろうか。私は避けるべきだと気づいた。なぜならこの言葉によって疎外された、取り残された気持ちになる人がいるはずだからだ。色が白くないから自分は美しくないと思ってしまうことがあるかもしれない。私自身も日に焼けやすいことを若干気にしている。これはきっと肌は白いほうがきれいだと私も、世間も思っているからだ。でもこのニュースを見てそうだ、肌の色は白が美しいなんて誰が決めたんだろう?もちろん色白になりたいと思うことが悪いわけではないけれど、別に何色だっていいんだ、そう思った。
 実際に日本では以前にもこれと同じような動きがあった。2000年ごろから始まった、子どもが使うクレヨンや色鉛筆における肌色という表記をうすだいだいやペールオレンジに変える、というものだ。今ではほとんどの商品で肌色表記が廃止され、私が幼い頃に使ったものにも肌色はなかったように思う。きっと「美白」表記廃止も同じように進んでいくのではないだろうか。時間はかかるかもしれない、しかし着実に進めていくべきだ。
 最近はありのままの自分を愛そう、多様性のある社会を目指そう、といったフレーズを聞くことが増えたように思う。しかしながら実際それを実現するために何が行われたのだろうか。言うだけタダという言葉があるがそれではいけないと思う。なんとなくいい言葉、で終わらせてはいけない。ひとりひとりが自分らしく生きていけて、誰もが取り残されない世界をつくるにはまずは個人が少し周りに目を向けてみるべきだ。自分の中の「普通」のものさしで物事を測っていないだろうか。今自分が発した言葉は無意識のうちに誰かを排除していないだろうか。長いこと使っていた言葉を使うなと言われても困る、と言う人もいるだろうが肌色という名称が使用されなくなったという例にあげたように言葉は移り変わっていく生き物だ。時代や社会に合わせて変えていくべきであり、私達も意識を変えていくべきだ。若い世代の私達が誰かを取り残してしまうような言葉を無くしていくことで、これからの社会で少しでも何気なく発した言葉で傷つく人が減るのではないだろうか。誰かを傷付けよう、排除しようと意図して行動することが悪であることは明らかだが、無意識のうちに傷付けてしまうことのほうが怖いと思う。この言葉は誰かを取り残していないだろうか、話す前に、使う前に、少しだけ立ち止まって考えたい。

 

代谷優奈 兵庫県立大学 環境人間学部 宇高ゼミ 3年生

見えない人、見ようとしない人

私は何も見ようとしていないとセミナーを視聴して感じた。「SDGsの精神『誰一人取り残さない』セミナー動画」を視聴するまでは、タイトルにある「取り残される人」とはネットが苦手な人しか思いつかなかったし、盲ろう者がどのような人かもはっきりと分かっていなかった。セミナーを視聴して私は自分の無知さに気づき、今まで見てこなかった人たちや自分に初めて目を向けた。
コロナウイルスが感染拡大し、テレワークやオンライン授業がニューノーマルになり、今では多くの人がこの変化に適応している。私はこの生活の変化は新しい社会に寄り添った良い変化だと思っていた。しかしセミナーの発表者であり、全盲ろうで上肢障害・下肢障害のある福田さんの話を聞き、社会の変化はマイノリティを完全に無視したものなのだと気づかされた。「三密」は2020年の流行語大賞に選ばれたほど世間に知れ渡り、避けなければいけないものとして認識された。しかし福田さんは盲ろう者は周りの助けが必要であるため、「盲ろう者とは三密民族なのである」と表現していた。盲ろう者に世間の認識・新しい日常をそのまま強要することは、「取り残すこと」に直結するのだと知った。他にもセミナー内で、話すスピードや要約筆記、トラブルなど普段友達などと関わるときとは違う非日常さを感じた。また参加者もその非日常さにうまく適応できていないと感じた。これはコロナ前の盲ろう者の日常を知らなかったことが影響しているだろう。
私は盲ろう者の方とは実際に関わったことはないが、アルバイト先で下肢障害を持った方と関わっていたことがある。その時も、私は初めの頃その障害についてよく知らなかった。だから関わり方が分からず、初めの頃は上手く対応ができなかった。だが関わっていく中で徐々にその方について知り、上手く対応できるようになった。コロナ禍前でも、このようにハンデを持っている人について知ることは重要であった。コロナ禍になった今では、よりハンデのある人や障害について知り、自分の適応力を変えていくことが必要になるだろう。私たちにはその努力が足りていないと感じた。
次に、盲ろう者は接すると「取り残されている」と分かるが、接しても取り残されていると分かりにくい健常者について考えた。コロナの時代になってから自殺者が11年ぶりに増加していると知った。この原因の上位は「うつなどの健康問題」「経済・生活問題」「家庭問題」である。これらの原因は、虐待・DVの増加にも関係している。2020年には児童虐待の疑いの子どもは初めて10万人を超え、DVの相談件数も過去最多の約13.2万人になった。これは外出自粛によるストレスや、自宅飲酒の増加などが原因に考えられる。それに加え家族以外との関わりが減り、被害者になってしまっても相談相手がいない。さらに虐待・DV被害は家の中で起こり、外と関わるときは隠すこともできるので周りからは見えにくく、問題解決が難しい。このような人も「取り残される人」ではないだろうか。
またひょっとすると気づいていないだけで、私も取り残されているのではないかと考えた。コロナ禍になりインターンシップや説明会はオンライン化が進んだ。そうなれば当然地方の学生も様々な企業の話を聞くことができる。これはメリットのように感じる。しかし、オンライン化で参加希望人数が増加すると企業側は選考に苦労する。そこで学歴フィルターが適用され「説明会に応募できない」「エントリーシートですぐ落ちる」という事例が生じる。その他にもコロナ禍で活動が制限され自己PRの材料が無い、など就活生もコロナによる影響を受けている。
このように盲ろう者に比べれば問題の大きさは異なるかもしれないが、コロナの影響によって取り残されている人は身近にも増えているはずだ。しかし新しい生活についていくのに必死で、それに気づいていない人が大半だろう。私のように自分のことでさえ見えていないのが事実だ。それに気づき支え合えることができれば、たとえ社会制度が「取り残される人」を守り切れずとも、社会は少しずつ変化していくはずだ。
最後に、「誰一人取り残されない社会」を完璧に成し遂げることはほぼ不可能だ。だができることは確実にあるはずだ。例えばオールニッポンレノベーションの代表理事である富樫さんは、まだ大学生であるのに12歳の頃から活動を始め知識が豊富で、同じ学生として感銘を受けた。そこで私も知識を貯えたいと感じた。だから私はSDGsについての知識を増やすこと、「取り残される人」を見つけるために他者、特にマイノリティと呼ばれる人の日常を考え、自分の日常に違和感を持つことから始めようと思った。

 

春日希   フリーランス

 

話を聞いて欲しい時、いつもそばに誰かがいてくれた。その事実が、自分自身を愛することのできる私を作ったのだと思う。でも、誰も聞いてくれる人がいなかったら?
昨年秋からポッドキャストというラジオの配信を始めた。小さい頃から話すことが大好きな私にぴったりの発信方法だと思ったからだ。大きなテーマは「ありのまま生きる」。当初は一人で思いを語る形式を基本にし、時折ゲストを迎えて対話をしようと思っていたのだが、何人かのゲストを迎えていくうちに、多くの発見や学びがあった。会ったことも話したこともある相手の知らなかった過去について聞いた。相手の中に自分を見つける瞬間があったり、リモート収録ではあるものの、お互いに深いところで繋がるような感覚があった。
さらに気が付いたのは、一人一人の人生が、想像するよりも遥かにドラマチックだということである。一般的、普通、平凡といった言葉が存在する意味を本気で疑ってしまうほど、皆様々な経験をし、感情を抱き、毎日を生きている。きっと私は今まで、自分の人生を生きるのに必死で、本当の意味で他者の話を聴く機会が少なかったのだろう。
例えば私の大切な幼馴染。彼女はハーフとして生きる上での葛藤を抱えていた。これについては直接話したことはあったが、私たちの会話が不特定多数の人々に届くという状況になり、彼女はより丁寧で親切な言葉を選び、自身の心の内を語ってくれた。また、私の妹は自分がHSP(ハイリーセンシティブパーソン)であることをラジオで初めて公表し、それとどう向き合っているかを教えてくれた。
6月はプライド月間ということもあり、「もっと知りたいLGBTQ+」というテーマで4人のゲストと対談をし配信をした。ゲストたちは今の日本、世界、社会に対して思うこと、周りの人たちに伝えたいことを語ってくれた。そのうちの一人Nさんと私は一度も会ったことがなく、友人の紹介でゲストとして来てもらった。Nさんの容姿はもちろん、どんな人物であるか全く知らない状態で声だけで挨拶を交わし、Nさんの幼少期から今に至る人生について聞かせてもらった。約2時間の収録を終えた後、私はすごく不思議な気持ちになった。知らない人の人生を知って、私はその人にすごく近づいた気がしたのだ。その人を心から尊敬したし、守りたいとすら思った。そしてNさんが世界に向けて声を上げてくれたことが嬉しかった。
私が考える「誰一人取り残さない」の意味は、「誰一人ありのままの自分を愛することから取り残さない」であり、そうであってほしいと願う。コロナ禍でこれまで抱いたことのない怒りや悲しみに出会った。はじめはそれに驚き、自分の脆さや弱さを恥じたり、見えないふりをしたくなったが、そんな自分の話を聞いてくれる家族、友人、パートナーがいてくれたおかげで、嫌いだった自分の中にある部分も受け入れることができるようになった。脆さや弱さも含めて今の自分であり、自分はこの世界に一人しかいない特別な存在であると。
次は私が「取り残されている」と感じている人の声に耳を傾ける番であり、それはポッドキャストを通して着実に実行できている。そのカラフルな声たちを多くの人に届け、それを聴いてくれた人たちが他者と自分を受け入れ、愛することができるようにしたい。近くの人に話を聞いてもらえなくても、安心できる場所、心の拠り所が一つでもあればそれは実現可能であると思う。明日はどんな声を聴くことができるだろう。私はそこから何を感じとるだろう。そう考える今、私の心は希望と期待に満ちてきた。

 

 

山崎咲歌 病院勤務管理栄養士(25歳)

 

 私が、「このままだと、この人を取り残してしまう」と感じた経験について述べようと思う。私は病院で働く管理栄養士で、主な業務の一つに栄養相談がある。患者の疾患は然り、生活環境や習慣、経済的な制限に至るまで、患者の背景は十人十色だ。一人一人に適した実現性のある食生活改善について、評価や提案を行うのが栄養相談である。
 その患者は82歳の男性だった。嚥下機能の低下があり、誤嚥性肺炎を起こさないために退院後は食形態に配慮した食事の準備が必要であった。多くの高齢患者は、退院後の食事サポートを得るため栄養相談に妻または夫、子供などを同席させる。しかしその患者は一人だった。妻の認知機能が低下し、施設に入っていると。高血圧に対する減塩の工夫や、糖尿病対する甘いものを控えるなどの指導は、比較的シンプルかつ分かりやすい。一方で、嚥下機能に配慮した食事の準備というのは、普段料理をしない、ましてや高齢の男性が一人で実践するには大変困難なことが予測された。昨今では宅配食の種類が豊富になり、その中に嚥下食を扱っているような会社もある。ただそれらは一般的な宅配食と比べ費用が高い。「年金暮らしだから…」と躊躇する様子が伺えたその患者には、積極的にそれを勧めることは出来なかった。宅配食に頼らず市販で購入できる商品や食品選択の工夫について話したが、その患者だけに数時間割けるわけもなく、相談終了後は、この患者は自宅に帰ったらどうなるのだろう、と患者の孤独を痛感した。
 日本にはそのような高齢者が利用できる社会資源が比較的充実していると思うが、実際の利用者の精神面など、表面的には見えない部分まで考慮すると「取り残されている人」は想像以上に多くいるかもしれない。国、文化、年齢といった境界を越えて、個人として見たときに79億の多様性がある中で、「誰ひとり取り残さない」というのは極めてハードルの高い目標であると思う。そもそも「誰ひとり取り残さない」の言葉が持つ意味がどういったものか、自身なりの考えを展開しようと思う。
私が考える「誰ひとり取り残さない」の意味は、単に物事を平等に、標準化していくこととは少し異なる。もちろんそこに不平等があって良いと言っているわけではない。具体的な例を挙げてみるとする。
先日、日本人カメラマンが監督したドキュメンタリーを鑑賞した。中国の貧困層の実態について捉えたものだ。印象に残っているのは、貧困脱却のためにいくら政府が貧困層に向けた都市部での雇用を生み出したとしても、彼らが都市生活に慣れないために貧困地域に出戻ってしまうという実態だった。都市でも生活していける教養(言語や習慣など)を身につけるための教育こそが、貧困脱却の根本にあるとのことだった。
ワクチンの供給については近頃最も耳にするニュースである。ただ、インターネットや公共交通機関にアクセスできない高齢者が取り残されているといった点や、政府の定めた基準により中小企業のワクチン接種がなかなか進まないといった点が懸念されている。
この2つの例に対する解決策を打ち出したのは、政府や大企業などの大きな組織ではなく、個人であった。貧困脱却のためには教育が必要不可欠であると考えた若者が、教師のボランティアに行ったという。また、ワクチン接種から取り残された高齢者へは町の医者が、中小企業に対しては、同じ境遇の企業を取りまとめて集団接種を実現しようとする団体があるとのこと。「誰ひとり取り残さない」という目標を達成するには、政府を代表とする大きな組織などが、表面上の公平さを追求するだけでは十分でないことが示唆される。実際に誰かが取り残され得る課題を見つけてその解決のために寄り添えるのは、政府ではなく個人、すなわち私たちなのだ。
結局その82歳の患者に対しては、栄養相談の内容をソーシャルワーカーに引き継ぎ、より適切な社会資源が利用できるように調整してもらう運びとなった。その患者の目の奥に見えた孤独や不安のように、取り残され得る要因や存在に気づくことが「誰ひとり取り残されない」に対する第一歩である。そのために個人レベルでできることとして、周囲の人に目を向けてみるというのが挙げられる。家族や友人などの身近な存在から、職場の人、隣人、世界の見ず知らずの人まで、知ることや気づくことを広げていくのだ。自分たった一人の気づきなど、ちっぽけであると思ってしまうのはごく自然なことである。一方で例に挙げたように、気づくことが、取り残されずに済む人が増えるきっかけにつながるのは確かだから、私はこれからも自分なりの視点で取り残され得る存在に対して、アンテナを張ろうと思う。それをより多くの人ができたら、最終的には79億人誰ひとり取り残されない社会が実現されると信じて。

 

杉田怜英 学校法人ドワンゴ学園N高等学校横浜キャンパス

 

社会から取り残されるとはどういうことだろうか。それは主に教育を受ける、健康で文化的な生活を送るといった皆が平等に与えられた権利を貧困や障がいなどの理由から充分に享受することができない状態にあることを指す。
さて、sdgsの五番目の目標にあたるジェンダー平等は性的マイノリティに関する意味を含んでいないと聞く。どうやらこれはあくまで男女の生物学的な違いからくる社会的・経済的差をなくすためのもののようだ。記載出来なかったのは各国の宗教や法律の関係上らしいが、性的マイノリティについて「取り残される」要因が他の目標とは少々異なっているように感じる部分がある。先述した「取り残されてしまう」要因というのは貧困・男女間の物理的差・障がい等に阻まれるため、与えられた権利を享受することができないということだった。しかし性的マイノリティというのは性への考え方が少数派だというだけで障がいとは言い難い。社会の在り方と自身の性自認にギャップが生じてしまうことが「取り残される」要因と考えられ、性的マイノリティの人々は物理的要因に阻まれることがなく権利を「享受すること」はできるのである。だが与えられたものが自分にとって嬉しいものか求めてもいないものか、それは人によって違う。世間では性的マイノリティに対して「面倒だ」「我が儘だ」といった意見を耳にするが、それは「何かに阻まれるわけでなく社会的な権利を充分享受することができるのに、それを個人の事情で拒絶するのは自分勝手だ、我慢しろ」という考えから来ているのかもしれない。しかしこの問題を我慢の一言で済ませていい筈がない。では今後性的マイノリティの人々が「取り残されない」ためにはどうすれば良いのか。それに対して私は性的多数派も少数派も関係なく、私達の根底に根付いた「性」と人の関係について改めてよく考える必要性を感じている。
近年SNSの発達により表現の多様化が進んでいる。それにより性的マイノリティに対する関心は高まっているようだ。私自身SNSを通して性的マイノリティのことを知れたお陰で、どうしようも無い心の曇りに光が差し込んだ。そうして性的マイノリティの人々と関わる機会が生まれたが、その中で「性自認が定まらない、自分が結局何者なのか分からない」そんな話を耳にした。やっと自分の性が見つかった、苦しみから解放されたと思っていた私はそれを聞いて知らんぷりしていた心の小さな違和感に向き合わざるを得なくなった。私は「女らしい」という言葉で自分を表現されるのが嫌だった。しかしいわゆる「女らしい」と言われるファッション等が嫌いではなく、むしろ好きな方だった。では何処に「女らしい」を嫌う理由があったのか、そして男でも女でもないlgbtqにも当てはまらない自分は何者なのだろうか。なんというデジャヴ、この感覚は「女らしさ」に苦しめられていた頃と同じものだった。私は「女らしさ」の呪縛から抜け出したと思っていたら今度はlgbtqの中に「らしさ」を探しだし、自ら首を絞めていたようだった。そして同時に性別が何かは関係なく、「らしさ」という言葉が呪いとなり人々を苦しめているということに気づいた。
結局「らしさの呪縛」に気づいたものの自分が何者か、答えを出せず私は悩んでいた。そんな中最高で、しかし至極当前ともいえる、素晴らしい答えをくれた存在があった。
その存在はとある漫画に登場するキャラクターで私の推しだった。中性的な容姿で男とも女ともとれない推しにファンがネット上で性別論争を繰り広げるなんてことがあり、それを見兼ねた作者の方ははっきりと推しの性別を明言せずにいる。ふと気がついたのはそんな時だった。私は推しが男でも女でも私がその推しを好きなことに変わりはない、ネットの性別論争なんてどうでもよいと感じていた。なぜなら推しには性別程度で変わることのない確固とした個性があり、自分はそこに惹かれたのだから。よく男性の方が合理的、女性の方が感情的といわれるが全員そうではないし、「異性が好き」と言う人も異性なら全員好きなわけがなく苦手な異性もいるだろう。男か女か、生物学的な性別は同じものを持つ人が何億人もいる。しかし個性は一人一人異なるものを持ち、ある個性を持つ人は世界に一人しか存在しない。私達は唯一無二の個性をもつ一人に対して「同じ性別」という括り、「らしさ」を押し付けてしまうことがある。これは性的マイノリティにおいてのみに言えることではなく、例えば家庭における「夫は労働妻は家事」という概念もそうだ。誰かの配偶者という立場の人は数多存在する、だがある個性を持つ自分の配偶者はこの世に一人しかいない。唯一人、それもよく知る人なのに何故世の「らしさ」で相手のことを考える必要があるのだろうか。
違う個性を持つ人々に性別が同じという理由で皆同じように接すれば必ず違和感を感じる人がいる。しかし性別とは大勢の生きる「社会」を営む上ではなくならない基準の一つであり、現状社会の在り方を大きく変えることは難しい。私達は理不尽を社会のせいにして、自分が身近な大切を置き去りにしていないだろうか。せめて自分だけでも誰かを「取り残さない」ために「男・女だから〜」ではなく「貴方・あの人だから〜」そんな考えで家族や友達、身近な人を見ることで、必ず今より救われる人がいるはずだ。

 

宮口真緒 セントヨゼフ女子学園中学校

 

「最もひどい貧困とは孤独であり、愛されていないと思うことです」
 皆さんはこの言葉を知っていますか。これはマザーテレサの言葉です。皆さんは自分は愛されてない、自分は必要とされていない、いわゆる「取り残されてしまった」と感じたことはありますか。きっと誰もがそのように思ったことが一度はあるでしょう。私も何度かそう思ったことがあります。
 特に中学校に入ってから、常にだれかと比べられる環境にいるからか、自分に自信が持てなくなり、劣等感を感じるようになってしまいました。
 例えば、テストで悪い点を取ってしまった時や忘れ物をして他人に迷惑をかけてしまった時に、「みんなはできているのに何で自分だけできないのだろう」と自己嫌悪に陥ってしまい、自分自身に腹が立ち、心の中で「自分はなんて愚かな人間なんだ」と自分を責めてしまうことがたくさんあり、悩みを抱えるようになりました。
 思い切ってその悩みを周りの大人に相談したことがあります。
 すると、「甘えるんじゃない」とか、「誰にでもそういうことはあるのだからもっとしっかりしなさい」などという言葉が返ってきました。
 その言葉を聞いて、「自分は本当に愛されているのだろうか」、「だれも私のことを分かってくれない」と感じてしまい、自分の殻に閉じこもるようになってしまいました。
 なるべく前向きなことを言い、明るく振る舞うふりをし、毎日心とは裏腹な作り笑顔をするようになり、悩みがあっても、傷つけられるのを恐れて相談することもできなくなってしまいました。そして、自分は何のために生きているのだろう、と思う日々が続くようになりました。
 そんな私を変えてくれたのは、私の通う学校で年に一度行われる「修養会」でした。修養会とは、神父様やシスターの講演を聞きながら、自分自身を振り返るために設けられた時間のことです。
 去年の修養会で、一人のシスターが優しい声でこう話して下さいました。
「自分は愛されていない、必要とされていないと感じている人はたくさんいると思います。私もそうでしたから」
彼女も私と同じくらいの年齢の頃、私と同じように悩んでいたそうです。彼女の父親は気難しく、隣にいるだけで緊張するような人で、母親はあまり家にいなかったので、家族に悩みを打ち明けることができなかったそうです。そして、あまり勉強も得意ではなく、自分と友達を比べて、自分自身の価値をいつも低く感じていたそうです。
しかし、彼女は聖書を通して「私たちに命を下さった神様は私たちを愛しておられる」ということを知り、愛されている自分を見つけることができるようなった、とおっしゃっていました。そして、「あなたを愛しているお母さんがいて、お父さんがいて、家族がいたから、愛しい、かけがえのない命があなたにはあるのですよ」と素敵な言葉を下さいました。
 私はこの言葉を聞いて、自分はだれかにとってかけがえのない存在なのだということに気付かされました。
 生きていれば、「私だけが取り残されてしまった」と感じて焦ったり、落ち込んでしまうことがあるでしょう。けれども、私たちが生まれ、生きてこられたのは家族の存在や心を育んで下さった先生や友達がいたからです。決して一人ではなかったのです。
 私がそうだったように、一見明るく振る舞っているように見える人でも、心の中は孤独で、周りから取り残されているように感じている人はたくさんいるでしょう。私は、そのような人たちに救いの手を差し伸べることができるような人間になりたいです。

 

ルドラ摩耶 関西大学

 

「新型コロナウイルスの始まりは中国だから、中国の製品を買うのをやめよう。」私は、このような類似の言葉を聞くと悲しくなります。
私は神戸の国際色豊かな場所で生まれ、生活してきました。実際に私の父はインド出身で、小学生の時は周りにハーフの子や他国籍の子も多く、通っていた小学校では独自の“ふれあいフェスティバル”という企画がありました。この企画は他国籍またはハーフの子たちのお母さん、お父さんが先生として楽しく母国の国を紹介するというものでした。そのため、宗教上の規則や文化の違いによる偏見の目はなく、小学生のうちから世界の違いに”ふれる”ことが出来たのは大きかったと思います。
小学生の時からのある友人は両親ともに中国出身で2年生の時に中国から転校してきました。彼女は日本語を徐々に勉強しながら周りと仲良くなり、5年生の時には日本語を上手に喋れるようになっていました。高校からは彼女は中国に行くことになりましたが、今でも交友関係は続いています。
しかし2019年末ごろ、新型コロナウイルスの感染が始まりました。メディアの報道で中国の武漢から発生し、感染が拡大したことが大きな話題となりました。2022年現時点での世界の感染による死者数は370万人近くにのぼり、至る所でコロナウイルスの脅威を目にしたと思います。そんな中、やはり浮上してきたのは中国に対する悪いイメージです。アメリカの前大統領のトランプ氏がコロナウイルスを「Chinese virus」と表現したことが促進剤となり、アジア人への差別が世界的にも問題視されています。そんな毎日のように流れる新型コロナウイルスの関連ニュースを目にするたびに中国に住む友人のことを思い出しました。中国人もカナダ人も日本人も、みんな同じ人間なのにウイルスの発見が武漢というだけで中国に対する世間の目は冷たい、これだけ日本の社会でもグローバル化という言葉が根付いているのになぜ中国を敵対視するのか。日本は先進国である以上、グローバル化の本当の意味を考えなければいけない時にあると思います。日本に住んでいる外国人のうち中国の方の割合が最も多く、日本の経済を一緒に支えています。そんな彼らに非難の言葉を放っていいのでしょうか。言葉は時として刃物になります。相手が自分の身近にいなくても、発言・報道の仕方には注意を払うべきです。実際、大学1年生の私は授業の一環で中国からの留学生と話す機会がありました。彼女は、日本に来たばかりで友達もできないまま“大学”で学べないことに不安を抱いていました。もう2年近く本国に帰れていないということもあり、最初の方はかなり孤独を感じていたそうです。アルバイトをすることもできない、実際に大学に行って学ぶこともできない、こうした大学生の現状も彼女の話から生で知ることが出来ました。こうした留学生や若い人たちのサポートをもっと充実させるべきだと思います。日本の社会でも失業者の割合は1975年のオイルショック以来の大幅低下と大きな影響が出ています。その中には大学生も含まれています。子どもと大人の間にいる〝私たち″にも目を向ける必要がある、その声を聞き逃さないでください。

 

齋藤杏月 鎌倉市立小坂小学校 6年生

 

私は、なぜ取り残される人がいるのだろうと疑問に思いました。そのように考えたきっかけは、私の学校は、障がい者の方々に適していないからです。

 その原因は、障がいを持つ人が暮らしやすい環境ではないからではないかと考えています。なぜそのように考えたかと言うと、私の通う学校のスロープは、急すぎてブレーキがきかず、校内には、階段しかないからです。車椅子だと、校庭に入れたとしても、段差になっているので、校庭から校内に出ることが出来ません。また、校庭だけではありません。階段を登る事ができたとしても、教室へ入る時には、少しの段差があるので教室に入るのも一苦労です。特別支援学級が、二階にあるので、車椅子の方がきた時は、二階に上がる事ができず、一階にいるしかできません。しかも、視覚障がい者の方々にも適していないのです。つまり、障がい者の方には適していない学校なのです。そこで、その問題を解決するための改善点を考えました。

階段しかない場合には、広いエレベーターを設置するべきだと思います。そうすれば、大きい車椅子の方でも、一階から上の階まで行く事ができます。車椅子で校庭に行くには、少し広めでゆるやかな坂を作るべきだと思います。広めの坂なら幅の広い車椅子でも出入りできるからです。教室の出入り口の少しの段差は、ゆるやかにすればいいと思います。車椅子でも、ゆるやかにすれば、教室に入れると考えました。特別支援学級が、一階になれば、車椅子の方でも友達と遊べ

学校生活が過ごせると思います。しかも、視覚障がいを持つ子供のために学校のスロープのところに点字ブロックを設置するといいと思います。視覚障がいを持つ子供も、安心することができると思います。

 うまく発表ができない人もいます。この間、算数の授業中に分数のかけ算の勉強をしました。その時、問題が解けた人は、黒板に書いてと先生に言われて私は黒板に書きました。でも、発表が苦手な子は、問題を理解して解けているのに発表があまり得意ではないので、書くことができないと言っていました。その原因は、答えがあっているか不安だからだと思います。なので、答えがあっている自信がある問題であれば、平気だと言うことです。つまり、人それぞれ発表が得意な人、発表があまり得意ではない人、好きな科目発表などができても、嫌いな科目発表ができないなど、それぞれ個人差があっていいと思います。

 私にも苦手な事があるので不安な気持ちが分かります。私は、理科の授業が得意ではありません。実験は好きだけど、知識がないので理科の授業中発言したくないです。でも、体育、算数、図工、総合、音楽などはとても好きです。なので、教えたり、説明したりしたくなります。このことをきっかけにたくさんの知識を社会に生かしたいです。

 

 

古泉修行 

 

 理性を失うほどの口渇に耐えられず、水たまりに顔を突っ込んで泥水を飲む少年に出会ったのは、小学4年生の春だった。日本とあまりにもかけ離れた途上国の生活を知るきっかけとなったその写真に、僕は強い衝撃を受けた。
 以来、自分にできる活動を行っている。SDGs初年の2016年にニューヨーク国連本部で研修を受けてからは、SDGsの啓発活動に力を入れてきた。そして2018年、当事者の視点からしか見えない途上国の現状を自分の目でも見たいという強い思いで訪れたカンボジアでの体験が、僕に大きな影響を与えた。
 カンボジア・プレアビヒア州は、最貧地域に分類される。村には水道設備がない。生活用水は雨水を溜めるか、子どもが遠く離れた川に水汲みに行くことで得る。汚染された水は住民の健康を脅かし、水汲みの時間は子どもたちから学校に行く時間を奪っていた。
 僕が同行したのは、半永久的で衛生的な水源となる井戸を建設する取り組みの事後視察。SDGs目標6の達成を目指すものだ。井戸は、プレアビヒアの1300世帯中295世帯に日本の寄付金により建設された。
 初めて水源を与えられたとき、日本人であれば一丸となって活用法を考える。農業の普及を図り村の発展につなげるなど、支援を最大限生かす努力を行う。しかし現地では、住民間に期待された能動性は生まれなかった。水は井戸を手に入れた住民のみが使用し、その他の住民が水汲みに行く現状は変わらなかった。助け合う発想、生活向上への意欲や知恵を、現地住民は有していなかった。それらの原因は水問題以外に存在する。例えば教育の欠如が、問題を深刻にしていると感じられた。
 この様に多くの問題は単独で存在するのではなく、複雑に絡み合い、更に新たな問題をも生み出していることを実感した。一つの問題に固執しない、多方面からの支援が必要となる。
 命の危機に面し、人間らしい生活を送ることができない「取り残された人々」は、プレアビヒアにとどまらず、世界に多く存在する。しかし、地球に生まれたからには皆平等。すべての人が幸せに生きられたらいい、と僕は強く思う。当時13歳の僕は、自分にできることは何か、考えた。そして、日本で仲間を増やすこと、多方面の問題解決方法を網羅するSDGsを普及し、浸透させることを決意した。
 2020年、僕は「SDGsタグ」を開発した。SDGsに取り組んでいることを表明するSDGsバッチを、幅広い年代に合致する形に変えた。ラゲージタグの要領でリュックやバックにぶら下げる。このタグの特徴は、透明ケース内のカードに自らの手で自身の特技や取り組みを描き、その活動がSDGsのどの目標に当てはまるかを考え、目標番号も記入するというところ。つまり、新たにSDGsに対しての取り組みを考えるのではなく、今まで生活の中で行ってきた活動自体を実践項目とするのだ。節電や節水はもちろん、売り上げの一部が生産国に寄付されるチョコレートや、森林保全につながる飲料水などの商品を購入するなど、直接アクションを起こさずとも途上国支援につながる行為も日常にはたくさんある。
 また、SDGs初心者でもわかり易い説明と日常生活で取り組める事例などを載せたマニュアルも作成し、タグ裏面のQRコードから読み込めるようにした。タグ作成により、日常生活がSDGsに実は密着していることを学ぶことができ、同時にその実践項目は持続的に無理なく続けることができるのである。バックにつけて表明することで、自身の行動に責任をもつことにつながり、コミュニティも生まれるだろう。一人の力は小さくても集団の力は偉大だ。一人一人が、SDGs達成につながる価値ある行動を意識し、それを互いに共有することで協力体制もでき、多種多様の支援が生まれる。まずは、地元新潟で。その継続が、地域社会から国へ、そして世界におけるSDGs達成へと導かれる。
 SDGsタグは地元新聞に取り上げられた他、ホームページを作成したことで関心のある人が手にしてくれるようになった。そして今年度、僕は、このタグの真の意義を発揮すべく、小中学生への普及を行うことにした。子どもたちが持続可能な社会作りの担い手として自ら成長していくために、タグがきっかけとなると考えた。また、生活スタイルが確立された大人と違い、子どもは身近な暮らしの中にSDGsを柔軟に取り入れて行動することができるからだ。
 僕は、お世話になった先生方が勤務する学校を訪ね、自らの熱意をアピールした。僕に賛同し、応援するよと言ってくださる先生が増え、県内の小中学校から出前授業の依頼も来るようになった。多くの子どもたちがSDGsを理解し、積極的に取り組もうと思える授業を志し頑張っている。
 僕の活動は小さな一歩だ。今後も、持続可能な地球の未来を考えて行動する多くの仲間を作ることを目指して活動し続ける。継続が必ず世界を変えると確信するから。

 

川田千楓 中道中学校 3年生

 

「誰一人取り残されない」とは「取り残される人がいない」ということであり、子どもやお年寄りといった社会的弱者といわれる人が取り残されえる対象で、私たちはそういった人達を助ける役割をもっていると思っていました。しかし、コロナ渦で社会全体が大きく変わり、人と交流することが難しくなり、中には仕事を失う人もいます。誰もが「取り残される人」になる可能性があるのではないかと思います。「誰一人取り残されない社会」それを実現する方法の一つとして、そこで私は現在私が参加している「じ・ば・このおうち」のような活動を提案します。人間には自分の「居場所」を見つけることが大切だと考えるからです。なぜなら「居場所」は他の人たちと交流する場でもあり、自分がありのままの自分でいられるからです。

 その理由の一つは「じ・ば・このおうち」には高齢者から子供まで色々な年代な人がいることです。そして、何か意見を言ったらそれをちゃんと受け止めてくれます。そのため、私はこの「じ・ば・このおうち」のような活動に参加することでありのままの自分でいることができ、自分というものが何か分かることでいいと感じることができます。「じ・ば・このおうち」とは「じいちゃん」「ばあちゃん」「こども」のおうちをモットーとしている世代間交流を目的とした場です。「じ・ば・このおうち」は平成27年11月に活動を始めました。また、学生がより地域に密着し、福祉やまちづくりの学習ができる交流拠点施設として機能してきました。この活動に初めて私が参加したのは小学二年生のときでしたが、「じ・ば・このおうち」の活動は小学生とお年寄りの2世代にだけに向けた活動が多かったので、私も当時できたばかりの「じ・ば・このおうち」の活動に参加しました。「じ・ば・このおうち」は場所を借りることもありますが、基本的にはおうちの中で行うことになっています。そして、初めて参加して私はとても驚きました。何もかもが新鮮でした。普段見慣れない大人や大学生や、会ったことのない小学校の子供たちがとてもわくわくしていて、私にとっての「初めて」がいっぱいでした。学校とも児童館とも違うこの場所を私が好きになるのは時間がかかりませんでした。そして、「じ・ば・このおうち」が私の居場所になりました。親とうまくいかない時や友達とのずれを感じているとき、勉強が息詰まったとき「次のじばこを楽しみにしよう」と思ってがんばってきました。しかし、「じ・ば・このおうの活動が年数がたつにつれて減少していきました。理由は少子高齢化が進んだことや活動のちマンネリ化があります。また、それに加えて子どもの数も減少していきます。そして、コロナで感染者が増えていくことも追い打ちをかけて2020年度のおうちでの活動は約3~4回になっていました。そんな時にネットで野毛坂グローカルを見つけました。そして、色々な人の話を聞いていくうちにその時ふと思ったのが「自分たちの居場所を奪われたり、追われかけたりしている人がたくさんいるのではないか」ということでした。そして、私は一人一人に自分でいられる居場所があることが大事だという考えを自分の中に持ち始めました。
 また、この居場所は自分の意志で行き続けることが大切だと考えます。なぜなら、誰かに強要されていくことはありのままの自分ではいられないと考えるからです。例えば、私は親に勧められて「じ・ば・このおうち」へ一回参加してみることを決めましたが、その次の活動からは自分の意志で参加することを決めました。ありのままの自分でいることでその自分を受け入れてくれる一生の友達ができるかもしれません。そして、自分で居場所や物事を決めることができるということは後悔もないし、もし失敗したとしてもそこから学ぶことができます。このように物事を自分で決められるようになれば責任感もつくのでやりたいことをするにはどうするかよく考えられるようになります。
 私には今も社会の中には同調圧力のような空気を読むことを重要視しているような問題があるうよに見えます。この社会の中でありのままの自分をさらけ出すことはとても難しいことのように感じます。一人一人の個性を認められる居場所を作ることでようやく「だれ一人取り残されない社会」の基盤ができると考えてます。私がかつて救われた場所が次はだれかの救いの居場所になることを信じています。

 

 

淺野智博 羽島市立竹はな小学校2年生

よいところみつけて、はなをさかせよう

ぼくは、しょうがっこう一年のとき、がっこうがいやで、よくやすみました。でもいいなとおもったところをしょうかいします。ぼくのしょうがっこうでは、おともだちのよいところをみつけるようにしています。よいところがみつかったら、そのおともだちにかみに、「ありがとう」のてがみをかきます。ぼくもことしは、いっぱい、このかみをもらいました。「いつもげんきにあいさつしてくれてありがとう」「はなしかけてくれてありがとう」「もくもくそうじをしてくれてありがとう」こんなポカポカことばのてがみをもらうとぼくはとてもうれしいです。いえにかえって、おかあさんにみせると、「すごいね、いっぱいもらったね」とほめてくれます。ぼくは、このてがみに、ひとつぶのはなのたねをくっつけたいとおもいます。
ぼくは、1ねんせいのなつやすみに、おねえちゃんといっしょに、がっこうしんぶんをつくりました。テーマは、「ちきゅうのねつをさげよう!」です。まちのひとなど190にんに、ちきゅうのためにやっていることを、アンケートでとりまとめました。そのときに、おてんきキャスターのおねえさんは、「グリーンカーテンをつくっているよ」とおしえてくれました。しょくぶつや木をうえることは、ちきゅうさんのねつをさげることがわかりました。だから、ぼくはおともだちのよいところをみつけて、おはなもいっしょにさかせたいとかんがえました。よいことをしたごほうびに、たねがもらえて、いえのにわが、きれいなはなで、いっぱいにきれいなるといいなあとおもいました。そうしたら、いえのちかくにいっぱい、おはながさいていたら、さんぽするのが、たのしくなっていいなあとおもいました。

 

矢野詩   鎌倉市立小坂小学校 6年生

 

 私は物事がうまくできなくて 、取り残されることがよくあります。取り残されていると思う時は、計算の答えが他のみんなと違かったり、自分のやっていることが周りと違かったり、遅かったりすることがあります。周りと違うと心配になったり、なんで遅いのだろうか、自分が間違っているのかなと思うことがあります。また、なぜこういった事が起きるのはどうしてだろうと考えたこともあります。このように、周りと違い取り残されてしまうのは、自分だけに起こることではないと考えます。もしかしたら周りが取り残されてるかも知れません。そこで、私が考えるのは自分が取り残されてしまう理由や、自分や周りが取り残されていた時どういった行動をとるのが良いのか、どういった考え方をしたら良いのかについて考えてみました。
 では、最初にどうして自分が取り残されてしまうのかです。考えられる理由としては、自分が思い込んでいたり、決めつけているからかもしれません。「前はこれで良かったから」や違った解釈したまま、考えずに進めてしまうと取り残されてしまうと思います。そうすると、周りはちゃんと理解したその上で考えて行動しているけれど、自分は違う意味で受け取り「もしかして違うかな」と疑うことなく物事を進めてしまうことで取り残されてしまいます。なので、物事や言動に対し一度考えずに疑うことなく、思い込みで進めてしまうことが自分が取り残されてしまう理由の一つだと考えます。では、この時自分はどうしたら良いのかを考えました。取り残されないためには、思い込んだり決めつけたりしないことが必要だと考えました。なぜなら、思い込んだり決めつけてしまうことで違った解釈が生まれてしまうことがあります。また、決めつけることで新たな考えをすることができなくなってしまうかも知れません。なので、思い込んだり決めつけないことが必要と考えます。
 次に、思い込んだり決めつけていて取り残されているとは別の、スポーツや持っている物など個人差のあることをする時に、取り残されている時の自分の行動や理由について考えました。最初に、スポーツをしている時や絵を描いているなどをしている時に、取り残されている理由考えました。まず一つ考えたのは、個人差があるからではないかと考えました。なぜかと言うと、スポーツや絵を描いたりするのは得意、不得意があるので「自分はこれが得意だけど、あれは得意ではない」ということで個人差が出ているからではないかと考えたからです。では、個人差が取り残されている理由なら個人差をなくすことで取り残されないのではないかとも思いました。ですが、個人差は人によるものなので、完全になくすことはできません。そこで考えたのは、練習をすることが良いのではないかと考えました。練習をすれば、少しでも上手く物事に取り組むことができるので練習することは一つの方法だと思いました。けれど、得意不得意があり取り組むことが苦手かも知れません。なので、その時の行動を考えました。取り組もうとしていることが苦手だったら、自分は努力せずそのまま行動しないと思います。そうした時、必要なのは努力することだと考えます。前の文章にもあるように「努力せずそのまま行動しない」のなら努力して行動すれば良いと思い必要だと考えました。
 最後に、自分や周りが取り残されていたらどうするかです。自分が取り残されてたら前の事例にもある通り、物事や言動を一度考えてから取り組んだり、スポーツや個人差で取り残されていたら練習したり努力すれば良いと思いました。他に考えたのは、周りに聞いて一緒にやってもらうことも一つの解決策だと思います。ですが、自分とは違う周りが取り残されていたらどういったことをしてあげたら良いのか、相手がどうして欲しいのかは分かりません。そうした時、相手の立場だったらどうして欲しいかを考えたその上で自分の周りに取り残されている人がいたらどのような行動を取るか考えました。考えた結果、周りが取り残されていたら自分から相手に声をかけてあげることで助けてあげることができると考えました。
 これまで、三つの事例を挙げました。その内の、一つ目の事例と二つ目の事例は自分の実体験で、そこから思ったのは自分から取り残される理由をつくっていることです。これらのことから、大事なのは自らが行動することだと考えます。それは、周りが取り残されている時も同じです。周りに取り残されている人がいたら、自分から声をかけて助けてあげるのも大切です。もし、自分が取り残されていると感じたら一度考えてたり周りに聞くなどをするのが良いと考えました。なので、自分がその場面に出くわしたら前の文章にある通り一度考えたり周りに聞いたり、努力することや周りに取り残されている人がいたら声をかけて助けてあげてみたら良いと思うのでやってみてください。

 

品川七海 横浜国立大学 3年生

 

 「自身が取り残されていることに気が付いていない人」は、「取り残されている人」なのでしょうか。私はそういった人々は、「取り残されている人」であると考えています。私が関心を抱いている「取り残されている人」とは、教育の地域間格差に直面している中学生・高校生です。
 私は昨年から、教育の地域間格差に取り組む、学生団体タルトタタンのメンバーとして活動しています。学生団体タルトタタンは、「どんな環境に生まれても、自分がしたいと思う将来選択をしてほしい」という想いを込め、「自分らしく生きるための環境づくり」をミッションに活動しています。解決したい課題は、大学進学に際して地域によって生じる、大学受験の課題と将来選択の課題です。私たちは、大学に行くことが誰にとっても良い選択であるとは考えていません。大学進学に対し感じる価値は、当然個人によって異なると考えています。私たちが問題視することは、「目指そうとしても十分な環境がないこと」「進学が選択肢として十分に提示されていないこと」です。これの是正のために活動をしています。
 昨年度私たちは、たった9人で活動を開始しました。今年はメンバーが総勢23人となり、2つの企画と4つの運営を設け、各自1つ以上の企画と運営に所属し、それぞれ活動をしています。1点目の企画は地方学習塾でのオンライン学習支援、2点目の企画は地方の高校での具体的な活動案の作成です。これらの他にも、各種SNSを通じて地方の高校生や中学生の日々の学習や受験に役立つ情報の発信、教育に関心を持つ大学生やそのコミュニティとの交流などを行っています。
 私が教育格差に関心を抱いたのは、自身の大学受験に際して経済的な不利を感じたためです。私は都立の中高一貫校の出身のため、周囲の友人はほとんどみな大学受験のために通塾をすることができ、私立か国立か、都内か地方かに関わらず好きな大学を受けることができました。一方私の家庭は経済的に余裕がなかったため、通塾をすることはできず、国立大学のみしか受験することができませんでした。更に遠方の大学を志望していたため、現地までの旅費や宿泊費を、アルバイトをして稼ぐ必要がありました。当時の私は、「どうして私ばっかりこんなに苦労しないといけないんだろう……」と思い、大きな不安や悲しみと同時に、憤りすら感じていました。そして、「中高一貫校に入ったから周囲との差異を感じて、こんなに不利な想いをするんだ。地元の公立中学に入学していればこんな思いをすることはなかったかもしれない」と思うようになりました。
 しかし大学生になってから気が付いたのは、自身と同様に、あるいは自身よりも大きな格差を感じながらも大学進学をした人々の存在でした。
「そもそも中学や高校を選ぶことができない」
「予備校がない、参考書を買う本屋もない……」
「受験を意識する時期が遅くなってしまう」
 そうした困難を乗り越え、大学進学を果たしたメンバー達によると、「自身が不利だったことを大学生になってからより強く実感する」といいます。自身と異なる環境で高校以前の学生生活を送り、自身と同じ大学に通学する他者。その存在に触れることでより明確に、自身の置かれていた環境を相対化することができたといいます。
 最近では、地方の出身で国内外の有名大学に進学したり、何かの分野で卓越した成果を残したりした高校生がよく話題になるようになりました。そして彼らの口から「地域間の教育格差」について語られることも増え、「出身地域が原因で取り残されてしまう人」の存在はある程度顕在化したと言えるのではないでしょうか。そして、それ以前までは自身の置かれている環境を不利だと感じることのなかった人々の目にその情報が触れることで、新しく「自身は取り残されているのではないか」と気づく人は増加するのではないでしょうか。
 自身が「取り残されている」と気が付いた人は、声を上げたり行動を起こしたりすることができます。それの手伝いをすることも、もちろん重要です。それでは、「自身が取り残されていることに気が付いていない人」……「相対的に不利な環境にいるにも関わらず、そのことに気が付かないまま自身の可能性や選択肢を狭めてしまっている人」は「取り残された」ままで良いのでしょうか。私は良くないと考えています。そのため、「自身が取り残されていることに気が付いていない人」の存在を発見し、掬い上げることで社会に、格差の是正に貢献することができるような大人になりたいと考えています。そしてゆくゆくは社会のシステムが、「自身が取り残されていることに気が付いていない人」を無くせるような完成度の高いものにしたいと考えています。

 

 

徳久竜馬 ブラジル‐サンパウロ州 コロニアピニャール日本語モデル校

他の国から来る「仲間外れ」

 「仲間外れ」って、何なのでしょう。
 もし、自分の仲間ではない人を全員「仲間外れ」と呼ぶのであれば、それは自分の仲間でない世界の数十億人が「仲間外れ」ということになります。
 「仲間」、と一概に言っても、様々な仲間が存在します。友達仲間、親戚仲間、地域仲間や同職仲間など、様々あります。
  そして、「国民」という国の民族も、ある一つの「仲間」だと考えることができます。すなわち、アメリカ人、ブラジル人や、日本人でも、国民という民族は、大きな「仲間」ということになり、また、その「民族仲間」というのは、世界に存在する最も大きい「仲間」ということになるでしょう。
 国民や民族という「仲間」は、同じような考え、同じ常識を持ち、同じ法律に守られています。そういった「仲間」の中に、別の国からやってきた人がいるならば、その人は、その民族の「仲間外れ」となります。
 それこそが、「他の国からくる仲間外れ」です。
 日本だけにとどまらず、どの国でも、民族という仲間が、別の国からやってきた「仲間外れ」を取り残すのは、起こり得ることです。自分も、父も、そして祖父母も、その仲間はずれと呼べる境遇にいました。
 外国では「日本人だから」として見られた自分、日本では「外国人だから」として違う視点から見られた父、そしてブラジルでは「移民者だから」として国民とは別の概念で祖母は見られてきました。それでも、自分も、父も祖父母も、社会に取り残されないように尽力してきました。
 しかし、どれだけ取り残されないように頑張ってきたとしても、自分たちがブラジル国民の仲間外れであることに変わりはないと感じています。
 なぜある国に「別の国の村」ができてしまうのか。
 自分が未だにブラジル民族の仲間ではないと感じたのは、そういう外国人村の存在意義を考えた時でした。なぜ日本に「外国村」があるのか。なぜ外国に「日系村」があるのか。
 それに対する自分の考えは、「仲間外れ」同士が自分たちの「仲間」を作りたいから出来てしまった村、それが「外国人村」なのだと結論付けました。
 そして、自分がブラジル民族の仲間外れだと感じるのも、このような「仲間はずれの仲間」にいるからなのだと考えました。
 そう考えると、「誰一人取り残さない」というのは不可能に近いことなのだな、と、感じます。誰かを取り残し仲間外れができてしまうのも、起こるべくして起こってしまい、人間が作る社会に仲間というものが存在する以上、どうしても「仲間外れ」というものは出来てしまうのではないでしょうか。
 しかし、解決の糸口が無いとは思っていません。自分たちが仲間外れでなくなるというのは難しくとも、互いに「違う仲間」である概念の「壁」を壊すことは出来ると信じています。要するに、差別概念を「壊す」ことはできる、ということです。
 ある人は、ブラジルに来た時、そういった民族間の疎外感を感じることが多々あったそうです。しかしその人の子供は、そういった疎外感を感じることなく大人になったと、話していました。これは、友達の親の話で、日本人同士の子供がブラジル民族の「仲間」となれたとも言える話です。
 その親は、自分がその国の民族の「仲間外れ」であり、いわゆる日系村の「仲間」だったにも関わらず、子どもに対しては、仲間同士の壁を壊し、自分の子供をその国の民族の「仲間」にさせる事が出来たすごい人だと感じています。
 更に、この題に関してとても感銘を受けた作品があります。それは誰もが知る作品、尾田 栄一郎の「ワンピース」という作品での描写、人間と魚人の種族問題です。そこでは、何百年という歴史をかけて魚人と人間という種族は争っていました。
 作品内では、魚人が人間を恨み、人間が魚人を蔑む中で、 魚人と人間の共存を願っていた人は「(この恨みを)子供たちだけには伝えないで…」というシーンが描かれていました。ここは、「自分たちはその種族を恨んでもいいけど、自分達は種族間で争っていてもいいけど、次の世代の子供には、各々の考えを持たせて欲しい」という想いを、作者が伝えたかったシーンだと、自分は直観しました。
 そういった考えの中で、今、仲間外れというものを減らすために我々ができることは、次の世代、自分たちの子供に「自分達はあの人達と違う仲間だ」ということを、伝えないことではないかと思います。
 黒人、白人、金持ち、貧乏。性格や宗教。そういった様々な違う仲間がいる世界で、自分たちの次の世代、子どもや学生などに、
「あの人たちは仲間外れでもないし、仲間でもない。誰が仲間かは、自分たちで考えてくれ」
と、伝えるのが、未来に最も希望が持てる正しい伝え方なのではないか、と信じています。
 冒頭で「仲間外れとは何なのでしょう」と問いかけました。これについて自分の考えを述べるならば、「仲間外れ」とは、自分と他人の間に壁を作るだけの、本当はいらない概念なのではないでしょうか。

 

藤平一寿 桐蔭学園高等学校

 

家に帰ると父がいなかった。当時、社会を何も知らない私にとってなぜ居ないのか全く理解ができず、サプライズか、どこかへ出かけているのか、様々な憶測が私の頭の中を飛び交った。しかし何日経っても父が家に帰ってくることは無かった。
私は小学4年生の時に手術を有するほどの骨折を負った。それまでの私の家庭は、【父が働き母が主婦】という一般的とされているものだった。しかし私が入院してから、母も父も妹も「私の為の生活」を余儀なくされた。母は2ヶ月という長い入院に伴う高い入院費と手術費を賄うために働き始め、父は毎朝料理を作って私の病室へやってきて私があまり好きではない病院食の代わりを提供してくれた。そして妹は学校終わり疲れている中毎日病室に通いつめ、寂しい気持ちを少しでも紛らわせようと努力してくれた。これらのこともあり、自身の時間を持つことが少なくなった家族は、【自由な時間】という選択肢を制限され心に余裕を持てない日々が続いているのが見て取れた。そしてついに退院したが2ヶ月もベットに寝たきりだったためリハビリがその後半年ほど続いた。そしてリハビリ期間中に母に尋ねた。「なんでパパは居ないの?」その言葉に母の表情は一変し、一言告られた。「もうパパは帰ってこないよ。お別れしたの」当時14歳ながら全く理解が出来なかった。周りに父親がいない家庭なんて当時は聞いたことがなかったし、父と体を動かす日々が私にとってかけがえのない時間であったのは当時からずっと実感していることだ。その後私立小学校に通っていた私は、受験シーズンに差しかかるも心のーどこかで何かが欠けている感じがして勉強に身が入らず中学受験に失敗した。周りの生徒たちは次々に合格の報告を先生に伝える中、私は1人、卒業まで合格報告をすることが出来なかった。周りと環境が異なり過ぎる私は自分自身を表現することを避け、なるべく目立たないように、でも周りから遅れを取らないようにと人の目を常に気にして生きてきた。しかし高校に入学しサッカー部に入部した私は、ピッチ上で自分自身を表現しなければ試合に出ることが出来ない、自ら選択肢を経つことに繋がるということを実感した。

そのような中親の仕事の関係でカンボジア人の女性の友人ができた。彼女と様々な話を重ねる中でカンボジア人貧困者には親の経済的理由や家柄によって【選択肢】が制限されている現状を知った。私たちの当たり前が当たり前にできないことを知り、ある意味『世界から取り残された』彼女たちが私のバックグラウンドと多少なり重なる部分がありそのような【選択肢を制限された人々】を1人でも多く救いたいと思うようになった。

そして私は東南アジアへの物的支援を寄付という形で何度か行ったが、様々な文献を見るとひとつの疑問が私の中で生じた。それは何年も寄付を受けているのにもかかわらず一向に成長を感じられなかったことだ。自分たちで国を治める、国を作っていく力が明らかに足りていないカンボジアで、物的支援より教育や知識など学問や哲学的力が足りていないのではないかと考えるようになった。しかし、現在日本から学校等設立されているが経済格差が顕著に現れている現状がある。地理的問題もあり、通学に歩いて1時間以上かかる子もいれば学校に通うためのお金すらない子だって沢山存在する。ひとつの例として、学校給食が無料で食べれるから無理をしてでも子供を学校に通わせる家庭すらあるという。

このようなSDGsの①、②、④、⑥が密接に絡み合い複雑な問題を生み出している中で、私は1人でも多くの【世界から取り残された】貧困者を救うべく、現地で哲学的教育や自治ができるような力を養う知識を与える人間になりたい。

 

komaki haruna 京都大学 修士1年

 

たったこの数年で、巷の商品はSDGsを意識したものが本当に増えたと感じる。オーガニックを謳う化粧品や食材も目立つようになった。ファッション誌でも「エシカル」の文字が踊り、そうした製造過程や素材がトレンドとして取り上げられている。良いことだと思う。
それでも、掲げられ、目指す目的としてのSDGsは、少なくとも日本では、流行りの一つに思えてしまう。どんどん広まって、一般的になってほしいが、どうも上滑りしている気がする。
 余裕がある限りは、有機栽培の野菜や果物を買うようにしている、と言うと、まだまだ「意識高い系」のように見られる。偉いねだとか、考えてるねと(実際考えているのは事実だが)言われる。ひとつの選択肢として「当たり前」と反応されることはまずない。決して、金銭的にめちゃヨユウ、というわけではないのだ。袋菓子を買ったり、月に数回の外食をしたりしなければ、良い食材が買える。すべて作れば、料理は買うよりずっと安い。
 SDGsというワードが世間に流布するよりはるか昔の20年前でも、我が家に合成洗剤はなかった。香料も何も入っていない固形石鹸があるだけ。慣れてしまった人にはわからないのだろうが、今の市販の洗剤や柔軟剤の匂いは尋常ではない濃さだ。香りだけでむせてしまい、頭痛がするような私にとって、それはもはやイイ香りではなくて、苦痛なニオイになっている。あまりにきつすぎて、香料の元の化学物質が環境ホルモンや脳に影響するのではと思う。
 ワンプッシュで漂白ができるようなボトルも家の中にない。汚れ落としによく使われるアレは、塩素が主成分で、下水に流れていった塩素は有害物質のもとになると、どれくらいの人が意識しているだろうか。
 ある意味、超最先端だったのに、いつも浮いていたというか、周りとの齟齬があった。そして今も、SDGs的な生活に一般よりは近いはずなのに、いつか気付けば取り残されているのではないかと思うことがある。世界の流れからではなくて、自然とのつながりから。人間の作ったものに囲まれた、自分の口に入るものひとつ、直に自然界から得られない生活から脱出できるのだろうかと不安になる。
 自然が人間を取り残すことはないのだが。いつでも、私たち人間に水と食べ物、そして空気を与えてくれている。たとえそれらが人類の作り出した毒に汚れて、人間の体に合わなくなったとしても与えつづけるだろう。
 取り残されている、というと、自らのことや社会的弱者―例えば子供や女性、低所得者―を考えやすいのではないだろうか。しかしその根底には、上からくる流れ(に取り残される)という上意下達の意識があると思う。そして私は、その流れの源流こそ、流れの先端から取り残されているのではないかと考える。源流、即ち、「SDGsに向けて・・・・・・」と大っぴらに話す人たち。政府の人間や国際機関、会社の上層部の人々。彼ら自身は、持続可能な開発目標に適う、環境負荷の少ない生き方をしているのだろうか。高価なスーツには、石油製品を使うドライクリーニング。接待に使われる食材は、遠い国から、莫大な二酸化炭素排出を伴う航空機で輸送されてきたものもあるのではないだろうか。コンクリートの建物のなかには、不必要なまでに明るい照明。それらのぜいたくこそ、SDGsからはるか遠く、地球の恵みから「取り残された」ものだ。彼らはそのことに気づいているだろうか。そして、彼らが生み出した流れの下流にいる私たちは、上流の岩は下流の景色を見たことがないと分かっているだろうか。
 天然資源には限りがあり、自然の持つ浄化機能には限度があると、子ども時代に教育されなかった人たち。SDGsをワールド(ソサエティ)スタンダードだと声高らかに唱える人たちこそ、最も取り残された人々かもしれないということを忘れてはならない。上下のある人間社会の中で、下を救い上げるのであれば、上も巻き込んでいく必要がある。わたしもあなたも、いつでも、取り残される人にも置いてきぼりにする人にもなり得る。
 地球環境は人と切り離されたものではなく、繋がったものとして思いをはせ、人間個々人の中身への想像力を働かせ、慮ることができてこそ、人類の未来はあるのではないだろうか。

 

古賀大海 神奈川県立多摩高校3年生

 

 SDGsの「誰ひとり取り残さない」という基本理念は、社会や経済、その他様々なことにおいて排除されている人々を無くすことを目標にしている。果たして、そのことは本当に良いことなのだろうか。私は学校での教育の体験からそのことについて考えてみたい。  私の高校では、グループワークを利用した授業、例えば、英語の授業で英訳をペアで行うことや、国語の授業で物語の登場人物の心情をグループで共に考えるということが数多く行われている。もちろん、こういったグループワークをすることで良い面もある。それは、友人と話をすることで自分とは違った考え方に触れることができたり、問題を出し合ったりすることで知識の定着を図ることができるということだ。このことは、教育面において、取り残される人々を減らすことに繋がるのも確かだろう。しかし、私は全ての人にグループワークを強制させ、取り残される人数を減らすような教育をすることに反対である。  そこには2つの理由がある。まず第一に、私は知らない人と関わることが苦手である。知らない人と話したり、何かを行うことで得体のしれない圧迫感、つまりストレスを感じるのだ。また逆に、一人でいるときにはそのようなストレスを感じることはなく、思いのままに自分の学習ができる。私のように、知らない人と関わることにストレスを感じ、自分から取り残されたいと思っている人は少なからずいるはずだ。そのような人々は、「誰ひとり取り残さない」という基本理念によって苦しんでいるのである。第二に、大人数で何かを行うことが逆に一人一人の能力を阻害するということだ。私はこのことを先程述べた学校での国語のグループワークで体験したことがある。そこでは、ある一人の意見にその他の人が賛成し、その他の人は何も考えようとしなかった。一人一人が考えられる力を持っているにも関わらず、自ら考えることを放棄してしまっているのである。この事例から、グループを作り何かを行うということが集団心理を働かせてしまうということがわかる。集団心理は個々の能力を阻害してしまい、個人の成長を妨げてしまう。「誰一人取り残さない」という基本理念はこのような面でも悪い影響を及ぼしているのである。  以上述べたように、私はグループワークを強制させ、取り残されている人を救おうとする教育には反対である。また、私はSDGsの「誰一人取り残さない」という考えが必ずしも良いことだとは思わない。私は学校の教育において話を進めたが、他の様々な場面でもその理念に苦しんだり、悪影響を及ぼされたりしている人々がいるはずだ。そういった人々一人一人に配慮しながら社会を作っていくことが大事なのだと私は考える。

 

 

柴田菫 大田区立新宿小学校

 

 私は、「誰もが取り残されない社会をつくる」ということはとてもむずかしいことだと思います。
 実際に経験したこととして、四年生の時に行った社会科見学があります。その時の社会科見学では、役所の設備を見せてもらいました。一番心に残っていることは、役所の中にある点字ブロックの話です。役所の人の話によると、ふだん外にある点字ブロックは、車イスにのっている人やベビーカーを押している人にとっては、段差があるためじゃまになってしまうということでした。これまで私は考えたことがなかったけれど、たしかに言われてみると「小さな段差になっているから、通りづらいだろうな」と、思いました。でも、視覚障害者の方にとって、点字ブロックはなくてはならない存在です。「どうしたらみんなが使いやすいものになるのだろうか」と思いました。
 役所の方々の話を聞いていると、すでに役所の中には工夫がされていました。その工夫は二つあり、一つ目は点字ブロックの段差の厚みを薄くして、少しでも車イスなどが通りやすいようにする工夫でした。二つ目は、こうなるともやは「点字」ではなくなるのですが、その点字ブロックの点の部分だけをなくし、平らにした上で、素材をシリコンに変えるという工夫です。その素材の違いで、点字の代わりをはたします。とてもいいアイデアだと思ったのですが、まわりが大理石でできている役所の床にかたいシリコンだと、白杖でさわった時には、変化がわからないのではないかと思いました。そうなると、一つ目の工夫の方が視覚障害者にとっては、安心できるのではないかと私は考えました。
 このような工夫を見た私は、最近のすばらしい技術を使ってできるだけ多くの人に住みやすい社会を作るように努力し、工夫を重ねることが大切だと思いました。最初は全員でなくてもいいと思います。
 この経験をふまえて、今、私ができることは何か考えました。それは、自分の考えが正しいと思いこまずに、色々な人の目線で考えるということです。点字ブロックが、車イスに乗っている人やベビーカーをおしている人などのじゃまになっているということを、私は最初、思いもしなかったからです。
 ちょうどこれから、国語の時間に「みんなが過ごしやすい町へ」という学習をします。その学習では、「グーグルマップ」を使って私のすんでいる町のくらしの工夫を見つけます。その時には、日常で気づくこと以外にも細かい工夫などにも注意して取り組みたいです。
 また、SDGsという言葉について、私はまだあまりよく知っていません。この作文を機に、十七の目標一つ一つに目を向けていきたいです。

 

 

山崎佑奈 高校3年生

 

「私は臨床検査技師になりたい。そして自分の人生を通して誰かの力になりたい。」
私はこの言葉を見て、自分の浅はかさを思い知った。これを書いたのは、約4年間難病と闘い続けている同級生だ。中学2年生の時、私は彼女と同じクラスで、何気ない日常が流れていた。それがいきなり途切れたのは、春休み直前、先生が発した言葉だった。
「○○さんは入院することになりました。長期的なもので本人も不安だろうから、来年度同じクラスになった人は、支えてあげてください。」
私はすぐには理解できなかった。少し前まで同じクラスで過ごしていた同級生が、復帰時期が定まらない程の難病を発症するなんて、想像したこともなかったのだ。
彼女が本格的に学校に戻ってきたは、高校1年生の時だった。しかし完治したわけではなく、足には装具をはめ、両手に杖を持った状態だった。学校の行事にも参加できず、体育の授業も見学ばかり。体調を崩して学校に来られない日も多々あった。
「かわいそう。」
私はただ、そう思うしかなかった。「私たちと違ってかわいそう。」というのが、本心だったのかもしれない。みんなと彼女の間には、「普通の人」と「そうでない人」という、目に見えない壁が存在しているようだった。
そして会話もほとんど交わさないまま、同級生として過ごす最後の1年を迎え、4年ぶりに彼女と同じクラスになった。
「日直日誌に今自分が思っていることを書いて、みんなでシェアしましょう。」
先生からそう言われた私たちは、各々自分が今思っていることを書き込んでいった。私の番になり、みんなが書いたページをめくっていると、あの子のページが目に止まった。
「私は臨床検査技師になりたい。そして自分の人生を通して誰かの力になりたい。」
冒頭にも書いたこの言葉は、ずっと私の心に残っている。彼女は自分が何度も大きな手術を受けて、学校にも行けず、当たり前の生活ができなくなったと、赤裸々に書き綴っていた。しかし彼女は決して悲観的ではなかった。こんな私だからこそできることがある、自分の生き様を通して誰かに生きる希望を伝えたい。彼女の強い意志が、1文字1文字から伝わってくる文章だった。私は心のどこかで「障害を持つ人は夢や希望を持つのが難しい」と思ってしまっていた。きっとこのような偏見はまだまだ社会に存在するだろう。しかしそれは大きな間違いだと彼女は教えてくれた。障害の有無に関わらず、自分の人生に希望を持ち、全うすることはできる。生まれた瞬間から、誰にでもその権利はあるのだ。「あの人は私たちとは違うから差別されても仕方がない、取り残されても仕方がない」という考えはなくしていかなくてはならない。このような世間の考えに、夢や希望を閉ざされる人がいてはいけないのだ。
私は彼女の言葉に勇気をもらった。自分自身に誇りを持って生きようと思った。障害の有無や生活環境に関わらず、全ての人が夢や希望を持ち、人生を全うできる社会。そんな社会づくりのために、自分ができることを精一杯していきたいと思っている。

 

久須美凜 大正大学 3年生

 

 「私の勝ち」と一瞬でも頭に浮かぶことがよくあるのではないだろうか。幼い頃から、集団行動を経験し、勉強やスポーツなどで同じことを一緒にすることが当たり前になっていた。出来る子は褒められて人気者として扱われる一方で、一生懸命取り組んでも出来ない子がいる。クラス、学校、近所の地域などの限られたコミュニティしか知らない子供たちにとって、周囲からの評判が最も人間形成に影響していくのだ。集団の中で、出来る子が特別に必要とされているわけではなく、出来ない子が輪の外側に弾き出されるわけでも無い。その子を見る視点を少し変えることが大切になってくる。
中学生までの私は、成績が良く、リーダー役を務めることも多かった。先生や親からも期待され、信頼も厚く、典型的な優等生だった。だから、上の世界にいる気でいたのだ。クラスの中でも、不器用で勉強が苦手な子や不登校気味の子を気にかける優しさは持っておらず、傍観者のように周りに興味がなかった。しかし、高校生になると状況が激変した。地元の進学校の授業に追いつけなくなったのだ。1度できないと分かると、勉強に励むモチベーションが見つからず、目標を見失った。中学生の時に見下していた不器用で勉強が苦手な子になったのである。自分で自分に戸惑った。去年までの私とは正反対で、自分が嫌いになる一方だった。そんな時に、希望をくれたのはダンスだった。唯一の特技で、他の生徒ともダンスであれば自信を持って関わることができた。ダンス部に所属したことで、振り付けを任されたり、全体を確認して修正の指示を出したりと頼られる場面も多かった。私が役に立っていると分かると、安心感ややる気を持って学校生活を送ることが出来たのである。このように、中学生と高校生の6年間で、クラスの上位と底辺を経験し、人には得意不得意があって支え合い、協力し合うことが大切であると実感した。
さらに、大学生になってから上京、一人暮らし、初めてのアルバイト、サークルなど地元にはなかったもので溢れていた。そこで、人間は面白いと思った。なぜなら、なんとなく大学生になってみたり、やりたいことがあったり、とにかく親元から離れてみたかったりなど、理由は様々でも全国各地から同じ大学の同じ専攻を選んだ同世代の人間が集まった。この状況がとても新鮮だった。地元に比べて、それぞれの得意不得意の差がはるかに大きかったが、逆にそれが良いことだと気付いた。例えば、プレゼンテーションは苦手だがグループワークでは統率力を発揮する人、資料作成は苦手だが情報収集が正確で早い人、あまり頭は良くないが指示された仕事はしっかり実行できる人など1人では欠陥があっても、皆がいるからお互いを補い合って目標まで進むことが出来た。
つまり、誰かに必要とされることで自分の存在価値を見出し、自信を持って生活する力に変わるのだ。集団の中で成長すると、無意識のうちに自分の地位を決め、この地位であればこれくらいの存在感で過ごそうという思考になる。それは、ネガティブな人も同じで、ポジティブな人に対して苦手意識を持つ傾向がある。相手に対する「尊敬」と「嫉妬」の感情は紙一重で、どちらも「羨ましい」から生まれるのではないだろうか。もし、この瞬間にもネガティブで孤独だと思っている人がいるならば、安心してもらいたい。人間は、誰かの得意分野に憧れて、自分の苦手分野を無くしたくなるように、他人を「羨ましい」と思う生き物なのだ。皆が皆に「嫉妬」していて、魅力を見て「尊敬」する。誰もがその対象となり、集団は成り立つ。上にいると思っている人は一旦振り返り、下にいると思っている人は周囲に目を向け、自分が今いる状況を見直して欲しい。いつの間にか、ずれが生じ、実際にはそれほど周りとの差が無いかもしれない。皆が足並みを揃えて歩いて行けるようにお互いに「尊敬」してみるのはどうだろうか。

 

甘道音羽 鎌倉市立小坂小学校 6年生

 

 私は、「何故取り残されてしまっている人がいるのだろう」と疑問に思いました。取り残されてしまっている人は、きっとみんなついていけていない人や、いじめられている人、人とのコミュニケーションが苦手な人、障がいがある人、などが取り残されてしまっているのでは無いのだろうかと思いました。このような理由で取り残されてしまっている人は沢山居るでしょう。だから、障がいのある人はどうしても一人になってしまう。なので取り残されてしまう人がいなくなるということは出来ないと思いました。
 いじめというのはやってはいけないと言われてもやっている人は沢山います。あの人が嫌いだから虐めてしまおう。私達の話についてこれないから省いてしまおう。そういう考えをしてしまうとどんどんその人との距離がでてしまうと思いました。みんなと仲良くするのはとても難しい事だけど、いじめというのはどんどん人を追いつめて自殺にまで発展してしまったというケースもあります。私はそのような内容の記事をニュースで見たことがあり、見てて凄く悲しい気持ちになった事がありました。いじめは絶対にしてはいけない。いじめをしてしまったことがある、もしくは虐めているという方は少し考えてみてほしいです。
 障がいのある方、は朝起きるだけで苦労してしまいます。それは私達にも、わからないほどの苦労が沢山あります。障がいのある方を馬鹿にしたり、からかったりする人は少なからずいると思いました。障がいのある方とどういう接し方をすればいいか分からないという人も沢山いると思います。なので、私は、障がいのある方達にどういう接し方をすればいいのか少し考えてみました。そこで私は思いつきました。みんなに接しているように普通に接するということが大切です。みんなみたいに遊びに誘ったり、話に参加してほしいと声を掛けたりなど少しでも「一緒に話さない?」や「一緒に遊ばない?」と声をかけることは、とても大切なことです。なので、皆さんの周りに知り合いじゃなかったとしても障害者じゃなかったとしても「困っている人がいれば助け親切にする」。という行動はとても大切な事なのではないかなと思いました。
 コミュニケーションが苦手な人は皆さんの周りに沢山いるでしょう。私の周りにも「人が怖い」と言って学校に来れていない子がいます。私は、それを聞いた時に思ったことがありました。それは「何故人が怖いんだろう?」「自分も人間なのに」と思ってしまいました。ですが、人が怖くない人もいれば人が怖い人もいる。なので私は人それぞれの感じ方なんだなと考えました。その子が何故人が怖いのかはわからないけれど、どうやったらその子も楽しく学校に来れるようになるのだろう、と少し考えてみました。私が考えたことはもし、その子が久しぶりに学校に来たからと言って話しかけたりするとその子は「びっくりしちゃうのではないかな。」と考えました。なので、沢山話しかけたりしないで「普通に接する事が大切なのかな。」思いました。
 人が怖い子には過剰に声をかけず普通に接することも大切です。
やはり取り残されてしまっている人はあなたの周りにも沢山いるのではないでしょうか。皆さんは人とのコミュニケーションが苦手な人、障がいがある人にどの様な接し方をしていますか?もし周りに皆さんも仲の良い子に接しているように優しく声をかけてあげませんか。

 

齋藤いほり フリーランス

 

 昨今よく耳にするようになったSDGs。関心がない人でも、その言葉を聞いたことがない人はいないだろう。わたしがSDGsについて知るきっかけとなったのは、ラジオやテレビの特集だ。「最も脆弱な人々の…」「最も貧困な人々の…」というように、多くの発展途上国が目に浮かぶ。では、わたしたちには関係がないことなのかというと、それもまた違う。若者たちは日本についてどう感じ、どう考えているのだろうか。わたしは不安と絶望が大きい。それは、わたしが女性性を持っているということもあるが、25歳という若者だからでもある。わたしたちは、日本の政治を動かす男性や大人たちに、そして国際社会に、取り残されてしまう存在ではないだろうか。
 現在、日本のトップの年齢は70歳を超えている。国会議員の平均年齢は50歳以上、8割以上が男性だ。男女比は世界で166位と、とても先進国とは思えない数字である。
 あの頃は当たり前だった高校入試の男女の点数差、何もおかしいこととは思えなかった。あまりにも普通な顔をしてそこに存在していたから。今は露骨で不当な性差別だと分かるし、その差別を前に夢を諦めた女性を思って、怒りが沸々と湧き上がってくる。「差別ではなく、女性の能力が劣っているからだ」と言う人がいるが、同じスタートラインにすら立たせてもらえないことを知っているだろうか。
 結婚するとき、なぜほとんどの女性が自分の姓を失うのか。女性が結婚して子供を産んだら、個人としての色が少しずつ褪せていくように感じるのはわたしだけだろうか。妊娠を機に仕事を辞めさせられ、ひとりで家事育児をしていた母親を見て、わたしはそう感じた。母の、1人の人間としての人生はどこにあったのだろう。女性は自分で選択することすらできないのか、と悔しくてやるせなくなる。わたしは、わたしの頭で考えて、わたしの言葉で伝えて、わたしのこの手で選び取りたい。だから人生を共にしたい人と暮らしていても、制度的な結婚を避け続けている。好きな職業を選べる社会を目指すならば、まずは自分の姓を自分で選ばせてほしい。同様に、大切な人にも自分で選んでもらいたい。
 また、最近では、性的マイノリティや女性に対する差別発言が頻繁に話題になる。染み付いて消えることのない差別意識に、怒りを通り越して呆れすらある。このような発言が多くの人に批判されると「不適切な発言だったので撤回する」などと言って、発言自体をなかったことにしようとする。わたしは繰り返されるこの流れに違和感を覚える。ただその場を取り繕っただけではないか。問題なのは発言ではなく、その人の根本にある差別意識なのだ。発言の非を認めるのであれば、自己の意識を改めるべきだと思う。
 わたしたちが生きる世界には様々な人が存在する。まさに多様性だ。それは最近になって増えてきたのではなく、ようやく声をあげて存在を示すことができるようになっただけだ。その存在を断固として認めない人たちがいるが、その人が存在することに誰かの承認は必要ない。すでに存在しているのだから。わたしは女性であり、男性に恋愛感情を抱くので性的指向ではマジョリティにあたる。なぜこんなにも性的マイノリティに対する差別発言に怒りが湧いてくるのか。それは「自分だけ良ければいい」とは到底思えないからだ。ある統計では10人に1人、という割合が算出されているように、わたしの周りにもこの差別に苦しんでいる人が多くいるはずだ。苦しんで傷ついている当事者だけに闘わせるのではなく、当事者以外の人が率先して声をあげて、共に闘うべきだと思う。わたしが「女性だから」という理由で傷つけられたとき「あなたの問題だから、自分でなんとかして」なんて言われたり、そんな空気を感じたりしたら「こんな逆境でボロボロの心を抱えては闘えない」と思うだろう。諦めてしまうかもしれない。
 マイノリティが生きやすい社会は、誰しもが生きやすい社会だ。自分のことをマジョリティに属すると思っている人も、それすら意識したことがない人も、いつ、何が起きるか分からない。事故に遭って障害を背負うかもしれないし、突然難病を発症するかもしれないし、職を失って路上生活や車上生活を余儀無くされるかもしれない。民主主義は多数の意見が尊重されるが、少数の意見を蔑ろにせず、丁寧に汲み取っていくべきだと思う。
 誰ひとり取り残さない。なんてやさしい言葉だろう、と嬉しくなる。そんなやさしい世界になったら、ここに暮らす今のみんなやこれからのあの子が、遥かに生きやすくなるはずだ。そして将来や国に対する絶望は、希望へと変えていけるはずだ。そのために、小さくても、まずできることを。知って、発信して、参加すること。わたしはここから始める。

 

高砂優羽 福井県立高志高等学校 2年生

 

 「誰ひとり取り残さない社会」という言葉を聞いて、真っ先に思い付いたのは、性的マイノリティについてのことである。私の知人にも当事者は何人もいるし、私自身も中学の時に女性に恋をしてから自分は両性愛者であると自認した当事者の1人だ。近年、日本では「LGBT」という言葉をはじめとして、性的マイノリティへの理解が進んでいるように感じる。さらに、私は現在高校生なので、性的マイノリティについてテレビやインターネットで知ることができるような時代しか知らない。それでも「社会から取り残された」と感じることがある。一番それを強く感じたのは学校での授業でのことだ。
 高校2年生のとき、保健の授業で、思春期の心・体についてや結婚・妊娠・出産についての話があった。そこでは毎回のように先生からの「高校生にでもなれば一度くらい異性を好きになったことがあるだろう」「将来は結婚して子どもを産み育てるだろう」といったイメージに基づいた発言がなされていた。さらに、保健体育の教科書にも「思春期になると異性への関心が高まる」と書いてある。私は性的マイノリティに属することを自認してから周りにある程度カミングアウトしてきたのだが、批判的なことを言われたことはほとんどなかった。しかし、この授業のなかで初めて「自分は社会の中では普通ではない」と宣告されたような気がした。学校の授業を通して初めて社会からの疎外感を感じたのである。これにはかなり悩んでしまった。
 だが、よく思い返してみると、小学校や中学校でも同じような教科書で同じような授業を受けている。それなのに、高校での授業で初めて違和感を覚えたのは、自分が当事者であると気づいたことが深く関係しているだろう。当事者であると自覚する前は、私も前述の先生と同じような考え方をしていた。おそらく、マイノリティに見えている小さな違和感は、マジョリティにはなかなか見えないのだと思う。マジョリティにはそのことについて意識する必要性も機会もないからだ。
 そのことに気づいてから、どのように私の気づきを表現し、性的マイノリティも含めたより多くの人が生きやすい社会にしていけるのか考えるようになった。そこで、その1つとして、性的マイノリティがより過ごしやすい社会にする方法を、私が違和感を覚えるきっかけとなった学校教育を中心として、学校の課題探究活動の一環として研究している。
 現在考えている方法は、「性の多様性に関して学校で教える」ということだ。これには2つの狙いがある。1つは、性的マイノリティの生徒が私のように授業がきっかけで悩まないようにしたいというものだ。実際、社会では異性愛者がマジョリティなので、現在の授業の内容を大きく変えることはできない。しかし、「当てはまらない人もいる」といったように、性的マイノリティについても伝えることで、当事者の生徒の悩みや不安を今より減らすことができると考えている。もう1つは、当事者以外の理解をより深められるというものだ。学校教育のなかで性的マイノリティについて知る機会を作ることで、今までそういった情報に触れる機会がなかった人も含め、多くの人が正しい知識を得ることができる。また、マジョリティゆえに意識して来なかったことについて考えるきっかけにもなる。そうすることで、社会全体として理解が深まり、より性的マイノリティが生きやすい社会になるだろう。
 この案には不完全なところも多くあり、改善も必要であるが、このように自分の気づきを少しでも伝えていくのは続けていきたいと思う。そして、自分事として考えることができた問題に関してだけでも行動を起こすことで、同じような人が少しでも社会から取り残されたように感じることなく生きられるようにしていきたいと思っている。

 

 

山﨑春菜 長野日本大学高等学校 2年生

 

人間が生きていく上で大切なことと聞いて何を思い描くだろうか。確かに住むところ、着る物、人、お金、知恵知識など思い思いの大切なことがあると思う。しかし、やはり人間の生活に深くなじみ、必要不可欠なものは食ではないだろうか。人間は植物のように土に根を張って栄養を得たり、太陽からエネルギーを得ることができず、一食一食から自分に必要なエネルギーを摂取して生活している。しかし、満足するまで食事を取れることは果たして当たり前のことなのだろうか。私が17年間生きてきた中で学んだことは、自分の当たり前であることは決して周りの人の当たり前ではないこと。当たり前であることに疑問を持たなくてはならないことだ。私は食べること、料理することが好きだ。もっと知識を深めたいと食に関して調べていたところ、食に関する社会問題という記事を見つけた。その中から私が気になった社会問題は、フードロス、6つのこ食、健康格差の3つだ。
まずはフードロスに関して。日本は食品自給率が低いにも関わらず、フードロスがかなり多い。また世界的に見てもフードロスは国際的な問題である。ある記事では世界的に見たフードロスは世界の生産量の1/3であるという記事を見つけた。どうしてフードロスは生まれてしまうのだろうか。私は捨てることが当たり前と考えている人が多いのでは無いかと考える。その当たり前という考えが根付いていることはかなり恐ろしいことだと思う。
次は6つのこ食に関して。私は6つのこ食の内容を見て、今の日本、世界の家庭の食卓に対して的確な表し方だと感じた。その中でも健康問題、生活習慣病に対しても深く関わっていると感じたのは「孤食」だ。孤食の意味は寂しい食事である。孤食は他のこ食にも深く影響を与えている。
最後に健康格差に関して。健康格差と深く関わっているものが所得である。お金に余裕がある時、人々は贅沢をしたいと思う。お金に余裕がない時、人々は切り詰めることを惜しまないのでは無いだろうか。そんな時切り詰めやすいのは食事である。栄養を十分に取ることを考えずに節約を考えるため所得が多い者、少ない者の格差が生まれるのである。そのため健康習慣にもそれらはかなりの影響を与えるのである。
これらの問題に対して社会が行なうべき対策を私は考えてみた。
まずはフードロス削減に向けて行うべきこと。それは外見を気にしないこと。主に野菜が多いと思うが、大きさ、形を神経質に揃えるあまり、除外されたものは加工されるケースも多いが捨てられるケースも少なからずある。私は野菜が綺麗なものであるという考えを払拭したい。それらを安く売るという考えではなく、全て同じ商品として扱って欲しいのだ。同じ味であるにも関わらず優劣をつけることがロスを生む。まずはその当たり前を変えていきたい。
次に6つのこ食に関して。1番問題とされている孤食をなくしていくために、朝食だけでもみんなで一緒に食べることが大切だと思う。たとえ1日のうち1食分だけでも一緒に食べようという意識を作ること。朝お父さんお母さんがどうしようもなくみんなより早く出てしまう時は、置き手紙を残していくなど、毎日家族とコミュニケーションをとることをゆっくりと頑張りすぎないペースで十分なので、続けていこう。
最後に健康格差に関して。健康格差の主な原因の所得格差、仕事の職場やストレスへの対策はなんだろうか。それは社会が健康を守るための社会環境を整備する必要があるということだ。社会環境整備とは、健康へのアクセスの改善と公平社会を作ること、そして社会活動への参加の機会を増加させることが環境の質を向上させることになる。食をはじめとした環境を整備することで人々の生活のしやすさは大きく変わると考える。
私は学校で私たちの代からSDGsを広めていくグループを発足させ、定期的に活動報告を行なっている。また文化祭でさらに全校の関心を集めるために、目標を達成している国の郷土料理を長野県の郷土料理であるおやきの中に入れての販売を予定している。誰かに任せるだけでなく、まずは自分たちが動くこと。周りのみんなに広めたい、一緒に頑張っていきたいという気持ちが芽生えた時こそ、本気で取り組むべき時だと考える。
私は将来、人と社会との関わりを常に持ち、そして社会、人々のために働きたいと思ってる。見捨てない、自分たちが良ければいいわけではない、手を差し伸べること、共に作っていくこと、補い合うこと、助け合うことを当たり前にしていくこと。近所の方々とですら会話がない、そんな状態を当たり前だと思わないで欲しい。自ら人との関係を絶った瞬間、社会と人を繋ぐ糸は解けていく。
一緒に動こう。考えよう。誰ひとり取り残さない。私たちが動くことは未来の子供達の社会を守ることに繋がっていくのだから。

 

 

松本侑里花 兵庫県立大学1年生

コウノトリが気づかせてくれた私の存在

私は地域から取り残されていた。今までずっと兵庫県で暮らしてきたが、私は地域のことを
知らなかった。このことを強く感じたのは、兵庫県の豊岡市にある兵庫県立コウノトリの郷
公園を訪問し、講義を聞いたときである。
兵庫県豊岡市では、日本の空から姿を消したと言われていたコウノトリが今では 200 羽も空を飛んでいる。コウノトリは兵庫県の県鳥に指定されていて、絶滅が危惧されている動物でもある。コウノトリは 1971 年に日本内で一度絶滅しており、ロシアからコウノトリの幼鳥を譲り受け、ここまで個体数を伸ばしてきた。コウノトリの活動が始まったのは、1955 年であり今年で 65 年ほど経つ。この 65 年間は地域の人が一体となって活動を続けてきたということが私は素晴らしいと感じた。私は講義を受けるまでコウノトリが絶滅したことも、コウノトリが県鳥であることも知らなかった。
このことは私以外にも言えると考える。自分の住んでいる地域の一員だと言える人は少な
いのではないか、地域間の交流がなく、地域から取り残されている人が多いのではないかと
考えた。今の現代社会では、地域間のつながりが希薄化していると感じる。少し古いデータ
だが、厚生労働省によると、内閣府行った世論調査では近所付き合いの度合いは、年々低下
しており、2004 年調査において「よく付き合っている」と回答している者の数は、1997 年
調査において「親しく付き合っている」と回答した者の半数近くとなっている。しかし、移
住する地域をよくする活動ができる時間・機会が重要だと回答する者は、1978 年と 2002 年で 2%ほどの減少しか見られず、値は大幅に変化していない。そのため、地域間で親しくする必要がないと考えている者は少なくなっていないのに、地域間での交流は減少しているということだ。
ここで SDGs の「誰一人残さない」という目標を私は、「地域から取り残されている人」に焦点を当てたいと思う。地域から「誰一人残さない」ということを考えた時、やはり重要になってくるのは地域間の交流や、行事であると私は考える。私はコウノトリについての講義を受けたあと、JA たじまが主催した稲刈り体験に参加した。稲刈り体験の中では、お米を通じて地域の次世代の教育をしていること、コウノトリが生息しやすい環境を地域一体となって活動していることを学んだ。このような行事から地域の繋がりを作り、次の世代へと交流をつなげていくことはこれからの社会で必要だと考える。
私はまだ大学一年生で、経済のことも、環境のことも、貧困のことも、持続可能な社会の仕組みのことも詳しくわからない。「誰一人残さない」という目標も過去の受賞作品を読み、様々な視点から課題があるということが分かり、私には大きくて難しいと感じた。それでも、私は問題を解決することはできないが、問題を発見することはできる。問題を解決するには、問題を発見することが一番大きな一歩だと考える。今回、私のように地域のことをよく知らない、「地域から取り残されている」と感じる人は多いことが分かった。SDGs の「誰一人残さない」という目標を達成するためには、地域という大きなコミュニティの中で、誰が取り残されているのかという問題を見つけるために、地域での交流が増えていくことが重要だ。私は地域の行事を増やすことはできないが、地域の行事に参加することはできる。まず、私ができることである地域の行事に参加し地域の輪を広げようと考える。その輪が広がり、日本に住んでいる人すべてが、自信をもって地域の一員だと言える社会を私は楽しみにしている。

 

 

渡邊彩花 県立多摩高等学校

 

私には将来、助産師になりたいという夢がある。なぜなら、命の誕生に立ち会えるだけでなく、女性の生涯に寄り添うことが出来る職業でもあるからだ。最近では男性が育児休暇を取得しやすくなる取り組みや、産後に女性が職場に戻りやすくなる取り組みも行われるようになってきた。しかし、それらはいまだ不十分で、出産や子育ての中心となることの多い女性は取り残されやすい社会になってしまっているのではないかと思う。
例えば、女性の社会進出の面から見てみるとどうだろうか。2018年、世界の女性の管理職率は平均約27%だったのに対し、日本は約12%という結果だった。主要7カ国の中でも最下位の成績である。また、出産後の女性の職場復帰率も世界と比べると、日本はとても低い水準となっている。私はこの原因が職場の子育てへの理解が足りないことにあると思う。働きたいという意志はあっても、仕事と家事や育児との両立が困難なために、女性が重要な役職に就かせてもらうことができなかったり、諦めてしまったりするという現状があるようだ。また、女性だけでなく、男性が育児休暇を取ることが認められているのにも関わらず、周囲の目は厳しく、制度が改善されても、それらを十分に利用できない。そこで私は、職場に「子育てに優しい環境」を作るといいと考えている。具体的には、職場に子どもを連れてきていいように、託児所や授乳室を設けることを義務付けたり、男性社員も子育てに参加しやすいように、子育てに関するセミナーを開くなどといったことだ。そうすることで、女性が出産や子育てを心配することなく働くことができる環境になる。
しかし、職場の環境を整えるだけでは女性の社会進出を完全にサポートすることはできない。加えて、女性の心のケアも重視するべきだと思う。男女共同参画社会を目指しているのにも関わらず、まだ女性に対する支援がままならない状況で、将来のことを不安に思う人は多いだろう。また、妊娠中や産後の女性はマタニティーブルーズやうつ病になることがあり、心身のバランスを保つのが難しいと言われている。職場に理解があっても、女性自身の心に問題があっては、根本的な解決にはならない。そこで、社会に相談できる場や女性の声を発信できる場をもっと増やす必要があると思う。例えば、会社で様々な立場で働く女性同士の交流会を開催したり、これまで子育てをしてきた先輩に話を聞いてもらう場を設けること、そういった場で出た意見をSNSなどをうまく利用して発信できるようにすることなどができると思う。
これからの私にできることは、助産師になって女性に寄り添い、誰もが取り残されず充実した人生を送れるようにサポートすることだ。子育てに優しい環境を作るためには、社会全体としてさらなる努力が必要になるだろう。

 

駒井佑作 横浜国立大学

流行に置いてきぼりの子供達
 
 SDGsが重要視されている現在において、地球温暖を防ぐことや男女平等の促進など比較的規模の大きな話が多くされているなかで、自分なりに身近な内容で誰一人取り残されない社会を目指すとはどういうことかを考えた。
 自分の考える現代における若者同士の「置いてきぼり」という問題が起きる原因の一つは周りの人が持つ情報を持たない人がその情報を持つ大多数の人々となじめないことが多いという点がある。また、ここでいう情報は新聞やテレビの情報というよりは、スマートフォンに日々大量に流れている消費的な流行りの映像や、音楽などのコンテンツである。
 このような流行りコンテンツを知らない子は、周りの話題についていけないことが多く、もしかしたらそれが原因で友達ができにくくなったり、最悪いじめにつながってしまうこともある。逆に流行の話題を知っていると新たな交流関係を築くことに有利に働く。自分の例でいうと自分はDSというゲーム機を持っていなかったために、大学生になった今でも周りが話す当時流行っていたゲームの話についていけず、何とも言えない気持ちになることは多い。また今ではDSやその他のゲーム機と同じくらい携帯電話を通したコンテンツというものが、子供たちの間の話題の中心になっていることは間違いない。
 ここで自分が特に注目したいのは、親が厳しくゲーム機や携帯電話を持たせてもらえない子供である。今の自分がいくらDSを持てたとしても今更話についていくために流行っていたゲームをやろうとは思はないように、流行を知ることができる機材は持っているがシンプルに興味がないのでやらないという場合は、その人の好みの話なので特に問題はない。しかし、親が子供にゲーム機や携帯を持つことを許可しておらず、学校ではうまく流行についていけず、友達にはなんで携帯を買わないのかと聞かれてしまうというような板挟みになっている状態の子が一番どうしようもなくつらいと考える。
 もちろん親側の意見として、携帯に時間を取られて勉強の時間が減る可能性や犯罪に巻きこまれる可能性、視力低下の恐れなど様々なマイナスなことを避けたいという理由で子供にスマホやゲーム機を与えないというのももっともである。実際に自分の周りでもこのようなマイナスな影響を受けた友達も多い。
 だが、その携帯を持った時の悪い点だけに強く注目することはよくない。たいてい親は携帯を持った時の悪い点と持った時の良い点とを天秤にかけて考えがちであるが、ここに加えて携帯を持たない際の悪影響、つまり子供が友達に取り残される可能性があるということを知っておく必要がある。学校というコミュニティで生活する子供にとって取り残されることほどつらいことはない。仲間外れはもちろん、仲の良いグループで話しているときに自分でだけ知らない流行りの情報で盛り上がっていて自分は黙っているしかないという状況も子供にとっては大きなストレスとなる。特にそれが自分の意志ではなく親などの他人の影響である場合は非常にストレスを感じてしまうだろう。
 解決策としては親御さんたちに向けて、先生などの大人の口からしっかりと携帯の有無によって子供たちに起きうる良い影響、悪い影響を伝える機会が必要である。そこでの子供への影響というのは一般的に言われているものに加え、その学校でアンケートなどをして実際に生徒の携帯関連の苦労などを元にした話もするとなお良い。
 また、子供たちのほうがインターネットに慣れ親しんで、使いこなしているのに親があまりインターネットについて詳しくないゆえに、頭ごなしにネットは危険だ、携帯は持つなということもおかしい。近年ではネットの使い方からネットとの付き合い方、ネットリテラシーなどを習う授業を行う小学校も増えている。子供がこのように学んでいるのだから親世代にもインターネット関連のレクチャーを行い、ネットの便利さや怖さ、オンラインでの流行というものを親も知り、そのうえで親は子供とどのようにゲームや携帯と付き合っていくべきかを一緒に考えるべきである。
 このように現代の学生特有の置いてきぼりに悩んでいる人は多いと思う。特に今後、携帯等の電子機器をより幼い子供が持つことは当たり前になっていくと思うので、今後はさらにそのような機を持たず、流行に疎い子供たちの肩身は狭くなるだろう。そんな中での親の役目はただ子供を制限するのではなく、自分も子供のために学ぶことを辞めずに、子供と一緒に様々なことを予想して話し合って決めていくことが必要である。
 

池田優   横浜国立大学都市科学部都市社会共生学科

 

「誰ひとり取り残さない」ためにできることを考えるにはまず、「誰ひとり取り残さない」状態がどのような状態であるかを考える必要があります。全員が貧困から抜け出せればいいのか、全員が教育を受けられる状態を指すのか、それとも全員が適切な医療を受けられる状態を指すのか。様々な指標があると思います。しかし、SDGsがゴールとしている指標はこれ全部です。貧困をなくし、教育も医療も受けられるようにした上で、経済を発展させ、自然環境を守っていく。取捨選択をしないで願いを全て詰め込んだものがSDGsです。なので、ここでは「誰ひとり取り残さない」状態を「誰もがSDGsの到達目標を達成する」ことと定義したいと思います。
「取り残された側」の人たちを SDGs では見放さないことを謳っていて、もちろん世界中の人たちがそれを願ってこの目標を作りました。ですが、私たちには身近にSDGsを感じるようで、歴史の授業のように、どこか遠い世界の話をただ聞いているだけという印象をどうしても抱いてしまうこともあるかもしれません。私は少なくともそう感じてしまうことがあります。それは、「取り残された側」の生活が想像の域を超えないからです。私は今大学生で、私も周りも当たり前のように大学に通っている人がほとんどで、医療保険だってしっかりしているし、不自由を感じることはあまりありません。そのような環境からいくら頭の良い人が知恵を絞っても「SDGsって必要だよね」という考えが字面以上の意味を持つことはありません。SDGsの目標達成に最も難しいところはこの「認識の違い」だと思います。なので、まず世界中でやるべきなのは各目標を達成するために必要なデータや作戦ではなく、「取り残された側」の価値観を世界中で共有することだと思います。いくら頭でわかっているつもりでいても、それらは結局言葉上の理解でしかなく、そこに留まっていては世界中で協力することは難しいです。例えば、友達や恋人、家族と話をしていたとして、私たちはその会話の内容や視線、会話の間などから相手が何を考えているのか予測しようとしますが、確実に全て読み取れることなんてあり得ません。同じような価値観を共有しているはずの自分の近しい人間にだってそのように全てを知ることは無理なのだから、世界のどこかで今日も誰かの助けを求めているような人がいたとして、こちらが想像を膨らませて「この人はこういう助けを求めているだろう」で援助してもそれはただのお節介で終わってしまう可能性もあるのです。
そうならないためにできることは二つあると思います。まずは、しっかりと対話すること。同じ地球に生きている以上助け合っていくことは当然のことですが、何を必要としているのかは必要なものがある側にしか分からないことです。国家間レベルであれば話し合いの場が設けられており、ある程度意見を交わし合うことが可能かもしれませんが、個人レベルではどうでしょうか。そもそも通信手段がないなど、考えられる要因はたくさんありますが、そういった場はあまりないような気もします。せっかくSNSが発達し、世界中の人と繋がれるようになった現代なのですから、誰が、どこで、どのように困っているのかについてわかりやすくまとめてくれるSNSがあっても良いような気もします。
二つ目は「取り残された側」の現状を理解することです。これは資料などを読み込んで得る知識形態のものではなく、自らが経験することで得ることができる理解というものが重要になってくると思います。例えば、教育の場面で実際に日常生活を営むことさえ困難な状況というものを体験する授業を作ってみる。そうしたら実際にどのようなことが辛くて、何が不足していたのか、資料やデータから学ぶより遥かに自身の記憶に残るだろうし、より効率的な援助の方法の確立につながると思います。また、教育の場面で取り入れる事によって30年、40年と長期的な目で見た時に、その効果はとてつもなく大きなものとなっているはずです。そのような教育を受けた世代が大人になり、世界を引っ張っていく中心となる。そのような時代がくれば、この問題は解決に大きく近づくことだと思います。「誰ひとり取り残さない」ためにできることは「取り残された側」の気持ちにどれだけ世界中が寄り添うことができるか、他人事ではなく自身の問題でもあると認識できるか、にかかっていると思います。

 

服部翠   高知県香美市立大宮小学校5年生

「皆同じだけど同じじゃない」

 理想の地球。それは、誰もが幸せで悲しむことのない平和な地球。しかし、現在の地球はその理想からは程遠い。その理由は何なのだろう。例として挙げられるのは、いじめや人種差別、独裁主義などがあたる。なぜ人類はこんなにも他人と自分を比べたがるのだろう。皆、同じ地球に暮らしているのに。地位や身分をつくり、苦しむ人をつくる。それは人類の本能としてはおかしいはずだ。「皆、仲良く平和に」。このような想いはないのだろうか。結局、人を苦しませておいて、いったい何が楽しいのだろうか。自分と違うからと言っても、人には個性や外見の違いはいくらでもある。もしも、自分と全く同じ人ばかりになったらどうだろうか。個性があるからこそ、自分として自分を認められるのに、ほかの人に自分とは違うから、と言われたら、その人は、自分のことに自信を持てなくなってしまう。
しかし、一方でわたしはこのようにも思う。他人と自分を比べる人ほど、自分に自信がないのではないか、と。自分に自信がないから、自分や自分の周りを基準にして自分自身を安心させているのではないだろうか。結局は自分に返ってくることも知らずに。ただ、ひたすら自分を守り通すために、他人を傷つける。それがその人達のやり方なのだ。
自分の事しか考えない。そういう人によっ苦しんでいる人がたくさんいるのに。
 では、私たちには何ができるのだろうか。
それは、「どこにすんでいても、みんなみんな、おなじ『ひと』なんだ」という事を忘れないこと。そして、自分の周りの人、家族や友達、知人などにもそう思ってもらえるようにすること。そうすることによって、少しずつ、自分の身の周りから誰もが安心できるような社会をつくっていくことできる。皆の安心への一歩が、自分自身を支える一歩にもなる。自分がする行動に自信をもって、やり通す。それが自己評価にもつながってゆく。
みんなで助け合い、守り合う。あたりまえのことだけど、とても大切なこと。みんなでしあわせな社会への一歩をふみだそう
ちいさなこどもからご老人まで幸せで安心な社会を求めているのは一緒。一人でも、たくさんの人でもいい。なにかしら自分にできることを見つけ、それを次の人へつなげてゆこう。そうしたら、その人がまた、次の人へとつなげていってくれるはず。少しずつ、少しずつ幸せな社会をつくろう。

「幸せな未来に向けて、がんばろう!」

 

佐藤さくら 横浜国立大学 1年生

 

 SDGsの達成目標年の2030年まで残り約10年となり、東京オリンピックの開催が決定している現在、私は特に都市と地方の「格差」がさらに開いているのではないかと感じている。ここでいう「格差」というのは、経済活動などの社会に関係するものだけにいえることではない。インターネットやSNSの普及に伴い、それ以外の娯楽や食事、衣服などの何気ない日常生活の面でも大きく差が開いてきている。私は、SDGsの基本理念である「誰ひとり取り残さない」の視点から都市と地方の生活について見ていきたいと思った。
ではなぜ、このような格差について考え始めたのかというと、今年の春に横浜国立大学へ入学し、地元の宮崎から横浜に引っ越して以来「周囲の人と違う」と感じることや「このままだと取り残されそうだ」と感じることが増えたからである。

横浜に来て最初に驚いたのは、公共交通機関の充実度だ。電車は分刻みで時刻表のとおりに到着し、バス停が至る所にあり、駅には人が溢れている。一方で、私の地元は典型的な車社会であり、高校を卒業するのと同時に車の免許を取ることが当たり前のようになっている。そのため、電車やバスを利用する機会はほとんどない。この大きなギャップは、買い物等の生活以外に同級生との会話などにも支障をきたしている。例えば、「一駅分の距離」というお互いの認識の違いから話がかみ合わなかったり、駅の規模や改札の形式が全く違うために電車の乗り換えの方法がよく理解できておらず、待ち合わせが上手くいかないという事態が発生してしまう。確かに、これらのようなことは慣れてしまえばいいと思うかもしれない。しかし、慣れるまでは、取り残されてしまうかもしれないという孤独を味わい続けることに変わりはなく、慣れた後も、地元に帰省した際に劣等感を感じてしまうこともまた事実である。実際に上京した私の友人の多くが交通の面で地元との常識の差異に悩み、孤立感を味わっていると私に相談してきたこともあり、その地域の需要の関係もあるがインフラ整備の差は改善すべき大きな課題だと感じた。それに加えて、その孤独感から抜け出せずに家に引きこもってしまうことも想定される。

また、都心ではアパレル店や美容院、レストランなど様々な店舗が充実しており、地元では見たことも食べたこともないようなものが沢山あることにも衝撃を受けた。流行の発信源は都心であることが多いため、田舎へのトレンド情報は遅れて届く場合がほとんどだ。同じサークルのほとんどの友人が持っているものを持っていない、もしくは地元にまだ情報があまり届いていないために知らないということも何度かあった。そして、その話をすると大抵の場合返ってくる反応は「えっ、信じられない!」である。特に、初めてこの会話をしたときは、大げさかもしれないが、周りのみんなにとっては当たり前の生活が、自分だけ享受できないという状態にあったのだと痛感した。地元から出ることによって、今まで感じたことのない格差に気づくというは、幸福度の低下や豊かに生活できるようになる中で見過ごされてきた相対的貧困にも関係してくる問題になるのではないかと考えた。

現在、上京してきた人の就職をサポートする紹介サイトや地方出身者限定で住まいを紹介する不動産屋などは数多く存在する。しかし、日常の些細なことを相談することのできるサポートシステムというのはほとんどないに等しい。そこで私は、地方から都市に引っ越してきた人をサポートする新たなコミュニティをつくれたらよいと思った。同じ状況に立ち、同じような悩みを抱えている人とならば気軽に相談しあうこともでき、「取り残されている」と感じる人もいなくなるだろうと考えられる。さらに、面と向かって話すのが苦手な人にはLINEやZoom、SNSのチャット機能を活用して相談を受けられるようにすれば「誰ひとり取り残さない」ことも可能になるといえる。
そして、このコミュニティの重要な部分は、その地域に住む高齢者の方にも参加してもらうという点だ。その土地の特徴や生活に役立つ知識などを話してもらえる機会を設けることができれば、より充実した地域づくりになると思う。これは一見すると、今のコミュニティとほとんど変化がないように思えるかもしれないが、以前とは大きく違う点がある。それは、すでに高齢者の方々が作り上げたものに若者が参加するのではなく、若者が作り上げたものに高齢者の方々が参加する点である。自主的に若い世代が動かす、この支援体制を整えることによって、若者の地域コミュニティへの不参加が地域活性化における課題となっているなかで新しい繋がりを生み出すだけではなく、急激な高齢化の抑制や引きこもってしまう若者の減少にも貢献できるのではないかと思った。

 

 

喜元陽   横浜国立大学 1年生

 

突然だが、皆さんはSDGsと聞いて何を思い浮かべるだろうか。恥ずかしながら私は、なんとなく「持続可能な社会を目指す目標」のことだと認識していた。これも間違いではない。重要なことは、環境保護に関するものだけだと勘違いしていたことだ。実は、SDGsの基本理念は「誰ひとり取り残さない」である。ただ環境破壊を止めよう、地球温暖化防止に向けて取り組もうという目標ではないのだ。理念を念頭に置いて考えると、環境保護に関する目標は「未来の人々の存在」を考慮して現在を生きようというもののようだ。大学の講義で、横浜市の政策を4つの世界観―近代化論、従属論、持続可能な開発論、開発とアイデンティティ論―に照らし合わせて考える時間があった。さらに、SDGsもこれらの世界観で考えた。世界では見えにくい生きづらさを抱えている人が様々なところで生きている。そういった人々が長い間戦い続けたおかげで、今日の人々の生きづらさに少しずつ目が向けられているのではないだろうか。
 私の生きづらさはLGBTQ+に関するものだ。日本はLGBTQ+に対する理解が他の先進国と比べてもまだ浸透していないように思う。多様な生き方がだんだんと認められてきている今、「+」という表記は欠かせないのではないだろうか。私自身、LGBTまでは理解していたものの、きちんと調べるまでは他の分類について知ることがなかった。ここで説明するにはあまりにも広い範囲であるし、私がまだ知らないこと、世界的にも知られていないことがたくさんある。その一部の人が声をあげ、存在を主張し、生きているからこそ当事者ではない私も知ることができたのだ。私には家族を除き、大切な人が二人いる。一人は女性だ。悩みを共有したり、嬉しいことは自分に関係なくても喜んだり、祝福したりした。他の友達ももちろん大切だが、私にとってその人の存在は、この短い人生の中でとても大きいものなのだ。もう一人の大切な人とは違って、その女性に愛欲を抱くことはない。しかし、もう一人と同じくらい、もしくはそれ以上に私に必要な人だ。生涯を通じて付き合っていきたい。こういった感情はなかなか理解されないかもしれない。こういう人間が明確な名称で分類されていることもない。少し調べてみると、性的対象と恋愛対象が別である人が存在しているようだ。私は性別の違いで、この二つの対象が分かれていることはない。あくまでも、その人個人が”そう”であるのだ。もちろん性別だけで人を判断する人はいないと思う。あくまでも、相手の人間性などに惹かれ、その人の性別がどうだったのかという話なのだ。そして、この話は自分の生き方・心の持ち方としてはとても共感できるものだった。私はこの自分の思いを大切にしていきたい。SNSの発信力が強くなっている今だからこそ、一人ではないという心強さにもつながっている。
当事者にならないと苦しみはわからない、と言う人もいるだろう。別に当事者になって苦しみを味わい、分かち合わなくても良いのではないかと私は考える。ただ、それこそSNS等を活用して、そういった人たちの存在を理解し、ほんの少しだけでもその感情を知って欲しい。許してほしいなどとは言わない。それは異質さを認め、線引きすることにつながると思うからだ。みんな、自分の人生を生きているだけの話である。分類して配慮するのではなく、相手をその人自身として受け入れることが普通になった世界の訪れを心から願っている。その世界のために、私も自分で調べ、考え、声をあげていきたい。

 

 

横尾優和 鎌倉女子大学高等部2年生

 

「誰ひとり取り残さない」。これはSDGsの基本理念であるが、「取り残されている人」とはどのような人々のことを指すのだろうか。よく考えられるのは、障害者、LGBTQ+、貧困の人々などである。私も数ヶ月前までは、そうだと考えていた。しかし、ある時「本当にそうだろうか」と疑問に思った。それは、今年の二月頃に野毛坂グローカルのオンラインイベントに参加し、そこで「誰ひとり取り残さない」ということが話題になった時だ。色々な意見を聞いたり、自分のことも少し話した。私たちも、何かにおいて取り残されているのではないか。全員が何かにおいて取り残されていると言っても過言ではないのではないか、と考えた。
 その例を一つ挙げてみる。例えば私は、運動が人一倍苦手である。小学生の頃からずっと、50メートル走ではクラスで最もタイムが遅く、球技も器械運動も水泳も、どれも苦手だ。小学生の頃は、リレーで同じチームになった仲間に冷たい視線を向けられることもあった。おそらく、この時私は「仲間から取り残されている」ということを痛感しただろう。
 このように、私たちはそれぞれ苦手なことがあり、それにおいて取り残されていると考える。では、「取り残されないようにする」にはどうしたら良いか。私は正直、「完全に」取り残されない、つまり、苦手なことが一つもないという状態になるのは不可能だと考える。だが、自分が取り残されているという意識、つまり「取り残されている感」を減らすことは可能ではないか。世の中には何か苦手なことで取り残されていると感じ、それにより自分に自信を持てなくなるという人も、私を含め多くいるだろう。しかし、何らかの方法で自分に自信を持つことはできると考える。方法は人により様々であり、例えば、苦手なことを克服できるように努力する、逆に得意なことで自信を補う、もしくは苦手だということを自分で受け入れる、などが考えられる。私はどれも正解だと考える。私の場合は、運動が苦手だと先述したが、中学生になってから、苦手ということを自分で受け入れたり、自分なりに少しでもできることを増やそうと努力することで、以前より自分に自信を持てるようになった。
 さて、ここで話をSDGsに戻す。最近はこれがよく話題になり、一人一人が自分のできることから行動するということが重要視されている。そこで自分にできることを考える時、もし自分に自信がなかったら「こんな私に何ができるのか」「どうせ私には何もできない」と考え、行動できないだろう。しかし、自分に自信があれば、「これなら私にもできるかも」「私はこれをやってSDGsに貢献したい」と前向きに考えることができるのではないか。このような意味でも、自分に自信を持つことは大事だと私は考える。
 話が少しそれるが、私は現在二つの地域活動をしている。一つ目は、私の地元である横浜市栄区で行われている、中高生など若者世代の文化祭のようなイベント「ティーンズクリエイション」のメンバーとしての活動、二つ目は、栄区の小菅ヶ谷春日神社の清掃「オミヤクリーン」への参加である。ティーンズクリエイションではイベントに参加したり、仲間やサポートしてくださる大人の方々と共にイベントを企画したりすることで、オミヤクリーンでは自分にできることから取り組んでやりがいを感じることで、私は自分にさらに自信を持つことができるようになった。これをきっかけに、将来やりたいことが一つ増えた。それは、私がしてもらったように、中高生が自分に自信を持つきっかけを作り、少しでも「自分は取り残されているから何もできない」という気持ちを減らし、「自分にもできることがある」という気持ちを持たせることだ。私の将来就きたい職業は、現時点では高校教師か塾講師であり、そこで生徒が自信を持つ機会を作りたいと考えている。また、地域活動も続けたい。そこで何か中高生対象のイベントを企画し、一人一人の「取り残されている感」を減らすきっかけを作りたいと考えている。
「誰ひとり取り残さない」。これを達成できるのが理想ではあるが、私はまず「誰もが自分に自信を持ち、行動できる社会を作る」ことに自分のできることから取り組むことを始めようと思う。

 

 

奥井ひらり 神戸大学一回生

 

 高校3年生の秋、私のSDGs、誰一人残さないための取り組みは始まった。それも知らないうちに。
 ある日の休み時間、友達が献血に行った話をしてくれた。人の命を救う協力ができることは大前提として、献血ルームではジュースが飲めたり、雑誌を読めたりすることを紹介してくれて、私は一度行ってみたいと思った。その子を中心にクラス数人で「受験が終わったらみんなで献血に行こう!」という約束をした。私は、約束したものの、貧血持ちで、心の中で「自分だけできないな」と少し悲しくなった。しかし、献血に行った友達は、私が貧血持ちであることを知っていて、「春休みまで時間はあるし、成分献血や200mlの献血もあるよ」と代替案を教えてくれた。その日から私は、みんなと献血に行きたい一心で鉄分の多い食事を意識したり、貧血の薬を飲んだりした。正直、その時は誰かのためにというより、自分のための努力だった。
 それから数ヶ月が過ぎ、受験を終えたものの日本は緊急事態宣言下にあった。私は何もできない自分の無力さとみんなと会えない孤独感の中家に引きこもっていた。そんな時、私を動かしたのは、「献血は不要不急でない」というニュースの記事だった。私は約束通り、みんなと初めての献血に行くことにした。私は無事、200mlの献血ができた。その瞬間、この私の少ない血でも誰かを救えるのだという充実感でいっぱいになり、家族や他の友達に献血の自慢をした。
 ここに私のSDGsがある。私のスタートはSDGsに貢献しようという意思ではなく、友達と献血に行ってみたいという好奇心だった。しかし、結果的に、私はSDGs目標3「すべての人に健康と福祉を」の取り組みに協力する喜びを知れた。その時から、今度は、献血を、自分のためではなく他人のために、すなわち「私がひとり残らないため」ではなく「誰一人残さないため」に利用したいと思うようになった。そこで今回、私は以下のような献血を利用したSDGsへの取り組み案を提唱したい。
 その名も「献血マルチ商法」である。この方法は、加入者が他の者を次々と組織に加入させることで販売組織を拡大させていくマルチ商法を利用した、献血者が献血の良さを伝え、他のものを次々と献血に誘い、献血のシェアを拡大させていく、というものだ。
 私が献血マルチ商法を提唱する理由は2つである。1つ目は、あえて善事である「献血」に、悪事である「マルチ商法」という言葉を持ってくることで、みんなの意表をつくキャッチーなスローガンにすることだ。まずはこの言葉が一人歩きしてでも、献血を広める大切さを多くの人に知ってもらうきっかけを作っていかなければならないのだ。2つ目は、マルチ商法という具体的方法を取り入れたことだ。大学の授業でSDGsについて意見が求められた時、抽象的で何をしたら良いのかわからない、という意見が圧倒的多数だった。だから、私は人々をSDGsの実践に仕向けるには具体的でわかりやすい案が必要だと考えたのだ。マルチ商法というと、悪く聞こえるかもしれないが、私は逆にマルチ商法の拡散力は、献血にはプラスに働くと考えている。私は、貧血だから無縁だと自ら献血と距離を置く者と、献血で人を救う達成感を初めて得て誰かに共感したいハングリー精神を抑えられない者、両者を経験した。そんな私が、両者の凹凸の感情をうまく利用することはできないかと考えて思いついたのが、この献血マルチ商法であった。輸血を求める人は1日あたり3000人いて、そのためには輸血協力者が13000人必要と言われている。個々の健康事情もあるため、押し付けてはいけないが、これだけ多くの献血が求められる事実がある限り、献血を広める取り組みは欠かせない。より多くの人が献血マルチ商法に協力した時、それは、すべての人に健康や福祉を守る「献血マルチ勝法」と化す。
 さあ、私たちのSDGs、誰一人残さないための取り組みを始めよう。それも自分の意志で。

 

丹野ちさき 早稲田大学大学院アジア太平洋研究科 1年生

 

「私を忘れていませんか?」
 あなたには、誰からそんな声が聞こえるだろうか。それとも、聞こえないふりをしているだろうか。私には、はっきりとそんな声が聞こえた経験がある。児童労働を強いられている子どもからの声だった。
 スタディツアーでインドに訪れた際、児童労働に従事している女の子と出会った。女の子は学校に行かずに、畑仕事をしていた。訪問した村では、児童労働を解決するプロジェクトが実施されていた。プロジェクトのスタッフとともに、女の子や両親から事情を聞くと、女の子は「学校に行きたい」と言った。そして私は、「一緒に学校に行こう」と手を繋いだ。女の子は学校に着くと、すぐに他の子どもたちと仲良くなり、笑顔でみんなと遊んでいた。児童労働から解放されるきっかけを掴んだのだ。
 私は、心の底から喜びたかった。しかし、何かが引っかかってモヤモヤした。「私を忘れていませんか?」はっきりと聞こえた。児童労働を強いられているにも関わらず、何の対策も行われずに取り残されている子どもたちからの声だった。
 世界では、1億6,000万人もの子どもが児童労働に従事しており、さらに増加すると推測されている。女の子との出会いを通して、児童労働に従事しているか否かという格差だけではなく、対策が行われているか否かという格差の存在を思い知った。対策が行われている地域では、子どもたちは児童労働から解放されるきっかけを掴んでいる。しかし、何も行われていない地域では、多くの子どもが取り残されている。置き去りにされた子どもたちの人生に対して、誰が責任を取るのだろう。
 「世界はすぐには変わらない。優先順位があるから今は何もできない」と、取り残されている子どもたちの目を見て言えるだろうか。対策を行う地域を選ぶということは、対策を行わない地域を選ぶという残酷さを伴うのだと痛感した。多くの人が解決に貢献すればするほど、残酷な選択は不要となる。そして、取り残されている多くの子どもたちがきっかけを掴み、児童労働は早急に解決される。児童労働の解決方法はある。やればできるのに、やらないだけだ。
 私たちは、生まれた場所が違うだけで、大きな格差が生じる不公平な世界に存在している。そして、この世界は、解決できるのに解決しようとしない問題ばかりだ。問題の解決は早い方がいい。そんな当たり前のことを、なぜ忘れたのか。私は、世界への違和感を持ち続ける。
 「私を忘れていませんか?」
 聞こえないふりをしている多くの人に伝えたい。
 無視しないで。世界を良くする活動から、どうか取り残されないで。

 

石川さと 一般社団法人 ありがとうの種(日本社会事業大学卒業)

 

「誰ひとり取り残さない社会」に必要不可欠なものは何であろうか?日本国憲法25条には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定められている。すなわち、人間が生きていく上で必要となる生存権が保障されるべきであり、そのために福祉の法律や制度、サービスがある。しかし、その狭間で苦しむ人々、つまり、社会に取り残されている方々がいるということも忘れてはならない。
近年、「ダイバーシティ」や「インクルーシブ」、そして、「共生社会」という言葉をよく目にするようになった。互いの違いを認め、尊重し、ともに生きていくーその概念は素晴らしく、広めていくことには賛成である。しかし、それらの言葉のみが独り歩きしてしまい、かえってそれが人々の無関心を生み出してしまう可能性も否めない。
そこで、ろう難聴当事者の立場から一般社会に訴えかけたい。まず、「ろう者」とは、日本手話という日本語とは異なる文法をもち、ろうコミュニティのなかで生きている少数民族、いわゆる、マイノリティだ。そして、補聴器や人工内耳を用いてコミュニケーションをとる難聴者も一般社会のなかでは数少なく、日常生活のなかで多くのバリアに遭遇している。
例えば、「外見では気づかれにくい」、「情報入手が困難である」、そして、その結果、「聴者のコミュニティに参入しにくい」というバリアだ。特に、「情報入手が困難である」という壁に関しては、多くの当事者が経験している。私たちは、耳から入る情報よりも目から入る情報に頼って生活している。そのため、手話通訳やパソコンテイクなどを活用している。このような情報保障は、まだ十分ではなかった時代に比べれば、多くの先人たちのおかげで私たち若者の当事者が得られるようになった制度やサービスもある。
また、電話ができないことで多くの不便を抱えていた私たち当事者も電話リレーサービスによって聴者と同じように手話や文字によって電話ができる世の中になっている。しかも電話リレーサービスは、7月から総務省による公的運用が始まり、今後ますます欠かせない重要なインフラとなりつつある。
だが一方で、先程述べた憲法25条が保障された上で、私たち当事者を取り巻く生活は、情報保障が100%整った環境で生活できているとはいえない。例えば、勉強会やセミナー、イベント、映画や舞台、講演会などいわゆる、「自己啓発」や「余暇活動」には情報保障がないのが現状である。
また、障害者差別解消法が施行されている現在でも多くの差別や偏見が残されている。それは、当事者が働く場においても例外ではない。障害を理由に断られたり、必要な配慮をしてもらえなかったりという話はよく聞く。
それに加え、このコロナ禍でマスク社会となり、人々の顔の表情や口元が見えにくくなっている。例えば、コンビニでは「袋はいりますか?」、「あたためますか?」という会話が交わされるが、それが聞き取れず、あるいは、口元が読み取れず、困るということがある。
このように情報入手が困難というバリアから聴者と対等に生きていけないというのが現状となっている。では、どのようにしたらそういった状況が改善されるのだろうか?そして、誰ひとり取り残さない社会を築いていけるのだろうか?
私としては、そこに人々の意識をマイノリティやダイバーシティに向け、社会改革していくことが良い影響を与え、そして、インクルーシブ教育の可能性を広げてくれると考える。要するに、障害者、女性、LGBT、外国籍の子どもたちなど社会的弱者(マイノリティ)が「珍しい」というレッテルが貼られることなく、ひとりの人間として接し、そして、お互いが生きやすくなるための環境を整備していくこと、それがインクルーシブ教育であり、共生社会を築いていく第一歩となるだろう。
最後に、誰ひとり取り残されない社会を目指すには、私たちにとって最低限度の生活を保障したうえで、必要な情報保障の配置と環境整備がなされ、そして、私たち当事者が平等に選べる選択肢の幅広さが欠かせない。現在のわが国における政府、教育機関、企業、団体など私たちにとって身近なところからマイノリティの存在に目を向け、真の共生社会への第一歩を踏み始めることを願ってやまない。

 

F.T 横浜市立大学国際教養学部2年生

 

 今の形のSDGsは、果たして本当に誰ひとり取り残さないのだろうか。巷でSDGsの話題に触れるとき、私は常にこのようなことを考えてしまう。
 SDGsが始まった2015年、当時中2の私はSDGsの存在さえ知らなかったが、高校に進学し学年が上がるにつれて、総合の時間で扱われる機会が多くなっていき、認知するようになった。そして2021年の今、インターネットを利用していると自然とSDGsという言葉を見かけるようになった。様々な企業が「SDGsを意識しています!」と自らが取り組んでいるターゲットの番号とアイコンを掲げ、社会への貢献をアピールしているのをよく見かける。すれ違うスーツ姿の人の中には、SDGsのバッジをつけている人もちらほらと見かける。広報面でも盛り上がっており、テレビ局においてもSDGsキャンペーンを展開し、各ターゲットの解説を行っているのを見かけた。身近なところで言えば、私の大学でもほとんどの授業のシラバスに、それぞれの授業に関連しているSDGsのターゲットが番号で示されている。
 このように、世間におけるSDGsの認知度や関心は高まっており、名前や17のターゲットなど、なんとなくこのようなものと知っている人はとても多いと考える。しかし、それは誰ひとり取り残さないことに本当に繋がっているのだろうか。
 今のSDGs関連のアピールを見ていると、私は正直「SDGsと書いていれば印象が上がる」といったり、「SDGsに関連付けて様々なことを行なえば良い」といったりする印象を持ってしまう。例えば、先述した大学のシラバスに関連した番号を載せることは、授業の内容や社会貢献のレベルに影響を与えているとあまり考えられない。意識づけはできるかもしれないが、そこで止まってしまうのではないかと考えてしまう。
 またSDGsに掲げられたターゲットは関連しあうようなものだが、それぞれのターゲットに関連したり解決したりすることに重点を置きすぎたために、最終的なゴールである「誰一人取り残さない」から離れて行ってしまうこともあるのではないかと考える。例えば、住み続けられるまちづくりのために、様々な人や会社が努力して取り組んでいます、とアピールしている中、実際の現場では重労働や残業などの負担が強いられており、それはそれで働く人々が取り残されていると考えることができるのではないか。SNS上においてこのように指摘している人を少し前に見かけた。
 さらに、SDGsの語が用いられた活動は、果たして本当に困っている、実際に取り残されている当事者にとって良い活動なのかと疑問に思ってしまう。「活動しました!」というような取り組む側からの報告はよく見かけるが、当事者からの直接的なコメントは、単に私のアンテナが足りていないだけかもしれないが、あまり見かけないように感じる。もしかしたら本当に困っている人は、我々のように問題解決をしようと意識している人々の目に留まっていないからこそ、困っているのかもしれないと考えることもある。
 このようなことから、私はSDGsについて、取り組むべき目標は明確になり、社会貢献の風潮を作るという良い効果があると同時に、現在起きている社会課題の本質や、その原因というような、本来の改善したい目的を見失ってしまうリスクを孕んでいると考える。さらに、今やSDGsは社会貢献をしているアピールのための道具の一つとして、良くも悪くも成立していると考える。それでは今後、本質的な目標である「誰ひとり取り残さない」を達成するには、社会に何が求められるのだろうか。
 私は、「誰ひとり取り残さない」の「誰」とは何かを、何を目指すかのSDGs以上に議論したり、考えるきっかけが少しでも生まれたりする風潮を形成することが重要と考える。まさにこの小論文・作文コンテストは「誰」を考えるきっかけに位置するが、敷居の高いものだけでなく、今のSDGs並みに広くきっかけを仕組むことが求められると考える。また、誰ひとり取り残さない活動をしようとする人は、自分が認知していない社会問題があることや、一見良い取り組みでも弊害が生まれるかもしれないといった、活動のマイナスの側面を考えることも必要と考える。私も様々な社会課題の解決手法に興味を持っているが、本当に困っている「誰」を知ったり、その人は実際には何を求めているのかを知ったりする能力を有していないと考える。災害時に千羽鶴を送られて迷惑になった、という話も聞くことがあり、送っている側は満足でも困る側はより困るのではないかと思うことも多々ある。
 このように、シンボル的な立ち位置と考えられるSDGsの本来の目標である「誰ひとり取り残さない」の実現を目指すのであれば、「まずSDGs」ではなく、その一歩前、根本的な問題から、もう一度考え直すべきではないだろうか。社会全体がゴールへ走る中、スタートや走る足元を、本当に誰ひとり取り残されない社会へ近づくために見直す、つまりSDGsの功罪を改めて社会全体で考えるべきであると、私は考える。

 

 

青木望愛 東京都市大学等々力高等学校 3年生

 

コロナ禍により学校生活は大きく変化した。部活動は中止され、対面授業も本来の半分程度しか行われず、様々な問題が生じた。「教育の不平等」コロナ以前から存在していた問題だが、このような状況下ではさらに可視化され、より緊急度が増してくると思う。
私は都内の私立中高一貫校に通っている高校3年生だ。私の学校は高1の時点で生徒には1人1台のiPadが支給され、各教室には電子黒板が設置されており、それなりにICT化が進んでいる。だが、そのような学校でもコロナ禍での授業は普段の授業に比べると劣り、オンライン授業を開始するのにもかなりの時間がかかった。ニュース番組で、同じ私立高校なのに自分の所よりも高品質なオンライン授業が行われているのを見ると羨ましいと感じたし、逆に公立高校では授業のオンライン化がうまくいかず分散登校が行われているのを見ると大変そうだなと感じた。
教育というものはそもそも平等ではない。私立と公立が存在している時点で金銭的な裕福さである程度進路を絞られてしまうし、安定した収入を得るためには高校・大学を卒業する事が好ましい。そうなってくると金銭的余裕がない人とそうではない人には大きな「教育の差」が生じてしまう。学ぶ意欲があるのに学ぶ事ができない、多額の借金を背負って大学に行かねばならない。「教育」から取り残されるという事は、私はあってはならないと思う。
もちろん全員に同じ教育をすべきだとは考えていないし、専門的な教育を受けるよりも社会人として活動したいという人もいる。私が言いたいのは「教育の平等化」ではなく、「教育の公平化」である。
例えば都市部と地方の学校教育を比較してみよう。三大都市圏とそれ以外の地域での男性の大学卒業割合は、前者は約60%であるのに対し後者は約45%である。このように大学進学率に差が生じてしまう背景には大きく分けて2つの要因がある。第一に家庭のSES(社会的経済地位)の差。第二に地域の教育機関の数の差だ。前者は先ほども述べた通り金銭面による問題、また家庭状況はその子供の進路と密接な関係にあるという事だ。高SESの家庭は都市部に住む傾向が強く、また子供に高水準な教育を受けさせようとする。都市部には数多くの学校が存在し、様々な選択肢の中から自分の能力・希望に適した学校を選ぶ事が可能である。だが、地方は相対的に低SES家庭が多く都市部とは反対のプロセスを踏みやすい。また学校の数も少なく、教育の選択肢が狭くなり子供の可能性を潰してしまうリスクもある。高SESの家庭で育った子供は将来高SESの家庭を持ち、低SESの家庭は逆に…というループができつつある。生まれなどの自力ではどうしようも無い要素で、人の学びが制限されていいのだろうか?いや、そんな事はあってはならない。教育のせいで取り残される人が出ないように、私達は声を上げなければならないのだ。
 義務教育の拡張、および学歴重視社会の改革。私が提案したいのはこの2つである。現在は中学までが義務教育であり最終学歴が中卒の割合は約2割だ。だが中卒だと安定した収入は望めず、多くの人がそれ以降の学歴を望む。日々進化していく現代社会において中学レベルの知識では対応しきれない事柄が多い。そのため大学までの教育を義務化し、社会全体の教養レベルを引き上げる事が必要だと思う。そうすれば進学を家庭の事情で諦めざるを得ない人もある程度の専門的な知識を得る事が可能になる。また、今の社会は学歴を過度に重要視する風潮が存在している。「学歴フィルター」と呼ばれる、企業が採用する学生を学歴によって選別する用語が存在する程に、学歴は多大な影響力をもつ。だが本当に重要視されるべきなのは個々の能力なのではないだろうか。確かに学歴はその人の能力を表す一種の指標ではあるが、それだけで測れない能力は数多く存在する。コミュニケーション能力や行動力、柔軟な発想力などもこの社会には必要なのではないだろうか。学歴ばかりで判断していては金銭的な問題により進学を諦めた有能な人間が、社会で活躍できない。真に重要なのは学歴ではなく、その人自身の能力なのだ。
取り残される人の出ない教育、それを達成していくのは簡単な事ではない。だがコロナ禍で教育の問題点が明確になった今だからこそ、私たちにできる事はあるのではないだろうか。

 

 

徳冨雅人 明治学院大学大学院国際学研究科博士前期課程2年生

 

 僕は、SDGsの活動には興味がない。社会貢献活動にも興味がない。だから、「誰一人取り残さない」という理念を聞いても、前向きな感情はわかない。むしろ、後ろ向きの感情が湧いているように思う。2015年、SDGsを知った時からそうだった。それは何故なのだろうか。
 いずれの活動も体験しているが、どうしても身が入らない。その活動を通して、野毛坂グローカルがいう「取り残される人」や「最も取り残されがちな人」にも出会った。彼らと話した。とても気の毒に思うことばかりだった。
 僕の周りの人には、「取り残される人」や「最も取り残されがちな人」への支援活動に励む仲間が少なくない。その活動に参加することを決意する瞬間を見たこともある。それでも、彼らのように活動に精力的になれない自分に対しては、嫌悪感を抱くばかりである。恐らく、僕の中では、それらの活動は人間としてとても素晴らしいことであるという意識があるのだろう。だから、それができない自分が嫌になる。
 話は変わるが、日本人の人生目的は変わり続けているらしい。農耕社会の頃のように、まだ今のように人々が生まれた土地を簡単に移動しなかった時代には、人々は自身の血筋を守るために生きたという。その目的は、やがて「国家のため」となり、次に「会社のため」となり、今では「自分のため」になっているらしい。血筋を気にしては厄介だし、国家や会社は、最後は自分を守ってくれない、そう思った帰結だろう。
 自分のために生きていれば、一度きりの人生を過ごす間は、なるべく楽しい時間にしたい、と強く思う。楽しみ方は人によって異なる。たくさんお金を稼ぐ。恋に落ちた人が少しでも笑っていてくれれば、それで満足。自分の心のアンテナが感知した面白そうなことを可能な限りやってみる、など。
 「取り残される人」が取り残されないようにするにはどうすればいいか、活動に励むことで、自分が素敵だなと思う世界に一歩でも近づけようとすること。語弊があるかもしれないが、SDGsの活動もその楽しみ方の一つなのだと思う。
 それから、楽しい時間を過ごそうとすると、なるべく相手を傷つけないように工夫する癖がつくらしい。それは、傷つけてしまうことが致命的で、取り返しのつかない、謝ってもどうにもならないことであるとも思い込んでしまう。
 「取り残される人」の立場は、弱い立場だ。なぜ彼らが弱い立場にあるのか。それは、強い立場がそこへ追いやったからだろう。その事実は、少し勉強すれば溢れ出てくる。しかも、一見強い立場がその窮地を救っているように見えて、実は負担を他の地域や技術、あるいは未来に転嫁している例が多い。それにもかかわらず、強い立場が「誰一人取り残さない」と意気込んで弱い立場の人たちを支援しようとしている。
 僕はその様子をみて、一度傷つけてしまった相手に対してどんな償いをしても無駄だと思っているのだろう。あるいは、「傷つけておいて何様のつもりだ」とも思っているかもしれない。もしくは、「誰一人」とは強引だと思っているのかもしれない。または、素晴らしい活動をしているようで、実際は他の問題を引き起こしているではないかと批判している。そして、自分自身もまたその強い立場にいるのではないかと自認しているから、SDGsのことを考えると苦しい。
 なるほど、僕は、自分の人生を楽しむための方法をSDGsや社会貢献活動以外に見出しているのかもしれない。また、それらの活動を、償う術のない行為、またはむしろやってはいけないことと思っている。「償っても仕方がないのに、彼らを西洋的価値観に引きずりこもうとして、しかもどこかでまた見捨てるのかい?」と。または、辛いから考えることをやめている。こういう考え方は、よくないのだろうか。
 時々、「君たちはかわいそうな世代だ」と言われる。西洋的豊かさが一応は「善し」とされているのに「失われた20年(30年)」の中を生きている。原発が希望のエネルギー、人のグローバルな移動がより豊かな生活をつくりだす、そう思っていたが、今ではどちらにも疑問を抱く。何についても、何がいいのか、はじめからわからない。加えて「多様性を尊重しよう」と言われ、とんでもない数の選択肢や価値観に囲まれて、どこにも拠り所がない。
 ならば、頼るとすれば、本心なのだと思う。その本心を聞くというのも、ノイズがかかっていて、意外と難しい。それに、本心で「なんとなくそう思う」とわかっても、「「なんとなく」は理由にならない」と否定されがちだ。
 でも、言語の限界が人間の表現力の限界と言ってもいい。つまり、本心をうまいこと言語化できていなくて「理由にならない」としても、本心がそう囁いているように聞こえるのなら、それは立派な理由のはずだ。そして「本心」は、誰一人として欠けていない価値判断方法だ。
 僕の今の本心は、冒頭一文目の通り。この僕の本心が「国際問題」、あるいはその原因なのだろうか。そう思うと、僕はたいへん生きづらい。

 

佐々木ゆうた ピラール・ド・スール日本語学校

変えたい事 

        
 ぼくは自分を変えたいところが二つあります。
一つ目にはたいだなところです。いつも午前6時におきるのに「もうちょっとねたいな」と思ってもう一回ねます。以前はそれは時々起こったけれど、最近はいつも起こります。それは一つのれいです。他にも、勉強をするのを最後の日にすることが何回もあります。
 もう一つ変えたいところは、集中力がないからもっと集中できるようになりたいです。ある日、ぼくはブラジル学校でテスト中に、全然関係ない事を考え出して、気がついたらもう時間が過ぎて、テストを終える事ができませんでした。
 ブラジルで変えたい事はたくさんあります。
最初は犯罪とまやくです。ブラジルの法律はとても軽いです。特に未成年者にはもっと軽いです。犯罪を起こして少年院に行っても二ヶ月や三ヶ月で出られます。それでまたすぐもう一回犯罪を起こしたりまやくを売りに行ったりします。だから法律を変えてもっときびしくしたいです。
 ブラジルではあまり仕事がないからそれも一つの原因です。仕事をもっと増やして、新しい会社などをたくさんブラジルに持って来て、皆に仕事があると犯罪も少なくなると思います。ブラジルではお金がない、または少ない人達が大勢います。その人達は住む所がなくて食べる物もないです。子供たちは学校にも通えないです。それで大人になっても仕事がなくて貧ぼうから出られません。そんな子供達は学校に行かず、信号がある所でおやつやあめなどを売っています。いなかの町ではあまりないけれど大きい町ではそんな子供達がたくさん見られます。それを変えたいと思うけどどうしたらいいか分かりません。
 ブラジルで変えたい事がもう一つあります。それは差別の事です。それも前の話と関係があります。差別される人達はほとんど黒人です。黒人達ははだの色だけで差別されます。仕事もあまり見つかりません。それでお金もありません。
 人も世界もかんぺきではありません。まだまだ変えないといけないことがたくさんあります。

 

横田陸   横浜国立大学

 

1)はじめに・SDGsと「格差」の概念
私がSDGsについて始めて知ったのは中学生の頃である。当時SDGsとは「持続可能な目標」であり、これからの発展のために必要な指標であるという説明を聞いてそれなりに納得した記憶がある。それ以降、高校のさまざまな教科で、そして大学でも国際開発学や社会学、まちづくりなどさまざまな文脈でこの指標は登場し続けている。
 今回のエッセイのテーマは「誰ひとり取り残さない」ために「私たちに何ができるのか」である。ここからそれについて書いていこうと思ったのだが、私の中で1つ疑問に思っていることがある。それは、「Sustainable Development Goals=持続可能な開発」という概念と、「誰ひとり取り残さない」という基本理念の間に、一見しても関連性があまり感じられないところである。「持続可能な開発」に対して、基本理念が「環境に優しい資源」とかならわかるのだが、実際のSDGsにおいては「開発」という概念に対する基本理念が「包摂」の話になっている。私はこの疑問に対し、少しでもわかりやすい方法はないかと自分なりに考えてみて、「開発」と「包摂」をつなぐ指標を設定すると良いことに気づいた。それは、相対的貧困の概念に基づいた「格差」という指標である。
 持続可能な開発を進めるとき、開発を一斉にすることはできないという関係上必ず「開発された場所」と「まだ開発されていない場所」という二極化が進み、2つの間の格差が広がる。これは国際開発学における従属論的アプローチであるが、SDGsの指標は「誰ひとり取り残さない」である。従って格差によって社会的弱者が生まれてしまうことはなんとしてでも阻止すべきことであり、私たちは格差を極力是正する方向に動かなければならないと思われる。ここからの文章は、SDGsにおいて「誰ひとり取り残さない」ために、つまり「相対的貧困の文脈における格差を減らすためにどのようにしたら良いか」ということを焦点に置く。

2)相対的貧困と格差―自らの経験をもとにして―
 阿部(2012) によると、相対的貧困とは「人がある社会の中で生活する際に、その社会の殆どの人々が享受している「普通」の習慣や行為を行うことができないことを指す」という。従ってSDGsにおける「格差」とは、「大多数の人々が享受している習慣や行為をできる人とできない人の間に存在するギャップ」ということができるだろう。そう考えると、私たちにできることは、この格差、ギャップを埋める努力をすることではないか?
 ここで私の経験を記し、それを題材にして私が考える「誰ひとり取り残さない」ためにできることを述べていく。私は以前家庭教師の体験授業スタッフをしていたことがあるのだが、その中で中国からつい最近引っ越してきた家族のご家庭を訪ねる機会があった。彼らは日本語がそれほど上手ではなく、漢字などの難しい言葉は書くことができないという状況(自分の名前が精一杯であった)。結局家庭教師の契約も「契約書が書けないのでお断り」という対応を取らざるを得なかったのだが、これはまさしく「相対的貧困」による「格差」の文脈で論じるべきことではないか?つまり、「日本語がそこまで堪能ではない」という理由だけで、「多くの人=日本に住んでいる人々」が享受しているサービスを受けられず、社会から取り残されているのである。
 このような問題は無数に存在する。今述べたような外国につながる人々の問題もそうだが、男女による格差、性的マイノリティ、障碍を持つ人々、見えない貧困の問題など…。正直私は政府がこれらの問題に全て対応することは不可能に近いと思う。だからこそ、周りにそのような「困っている」人々がいた場合、私たちが率先してフォローして「普通」の人々との間の格差をなんとかして縮めることが必要なのではないか。また、先ほど不可能と言ったものの、政府にはそのような「相対的貧困」を抱えた人々へのケアを求めたい。ケアと言ってもそれは事例ごとに違う。例えば外国につながる人々には日本語教育を、性的マイノリティの人々には法による支援を…という具合で、問題ごと(もしくは事例ごと)の検討を求めたい。

3)終わりに―包摂とSDGsとの関連―
 今回は、「誰ひとり取り残さない」ために私たちが何をできるか、というテーマで私の意見を書いてきた。最後の方は完全に社会的な包摂について論じていて、SDGsとの関連が見えにくくなってしまったので最後に補足する。SDGsの指標には、「絶対的貧困」「相対的貧困」「人間開発指標」「幸福度」など様々な指標が関連するが、
その最大の目的は「世界の環境・政治・経済に取り組むこと」である。世界全体の課題を解決するという意味で、世界の格差を解消することは重要なのだと思う。

 

 

宮本穂菜実 大阪大学4年生

 

私は就職活動を経験する中で、自身の考えが、世間や企業が作り出す一般常識から取り残されていると感じることがありました。それは大きく分けて3つあります。
一つ目は、学業ややりたいこととの両立について。就職活動には様々なやり方があると思いますが、当初何もわからなかった私はとにかく就活サイトに登録し、そこで案内されるセミナーに参加し続けました。そうすると、3年生の夏段階ですでに、「今から動き始めないと遅い」や「夏のインターンシップは絶対に参加するべき」など、不安を煽られるような情報を多く耳にしました。そして私は、片端からインターンシップに応募し、空いた時間があれば不安を払拭するかのように就活セミナーに何度も顔を出しました。そしてそれを約一年繰り返し、最終的には納得のいく企業から内定を得ることができました。結果としては良かったと思っていますし、後悔は何一つありません。しかし、就職活動が終わった今、大事な学生生活のうちほぼ丸一年を“就活”に費やしていたことに気が付きました。果たして、1年間もやる必要があったのでしょうか。就活中、プログラミングやデザインの勉強、それから様々な職種のアルバイトなど、やりたいことが多く出てきました。しかし常に何かに追いかけられているかのような不安があり、就活が疎かになるのが怖くてほとんどチャレンジできませんでした。それがたった1年の期間ならまだましです。私の周りでは、1・2年生の頃からすでに就活に不安を感じ動き出そうとしている人もいます。学生の間にしかできないこと、挑戦したいこと。それらを差し置いて、就活をしなければという気持ちになるのです。もちろんそれでも就活を優先する選択をしたのは本人であり、私自身です。ですが、不安を煽るような情報を多く目にしなければ、もう少し違った考え方もできたかもしれません。皆がそれぞれのペースで就活を進められるような社会になれば、と強く思います。ポテンシャル採用の日本では新卒一括採用が主流ですが、海外のように卒業後にゆっくり自分の将来やキャリアについて考える、という方法も取り入れた柔軟な社会になってほしいです。
二つ目は、黒髪リクルートスーツの統一。もちろん見た目や第一印象、相手への敬意はとても大事なことです。ですが、皆同じ髪色・髪型・リクルートスーツにする必要があるのでしょうか。疑問には思いつつも、実際に就活生になると、焦りや不安からとりあえず髪を黒に染めよう、外見はせめて決められたとおりに従おう、と徐々に集団に馴染むように変わってしまいました。選考では個性が求められ、“あなたらしさ”を何度も聞かれるのに、見た目は全員統一。少し違和感がありました。
三つ目は、面接での建前・テクニックについて。「弊社は第何志望ですか?」そう聞かれると、「御社が第一志望です」と言わなければならない。言わざるを得ない。そんな場面が面接で何度かありました。そして、そんな時にはこう言うべき、といったテクニックがYouTubeを開けば溢れていました。面接に限らずエントリーシートも、皆が同じテクニックを使えば、個性も何もなくなってしまう気がします。しかしそれに従わなければ受からないのではないか、という不安と葛藤が私にはありました。
以上3点が、私が就職活動をする上で、“当たり前”とされている常識と自身の考えとの乖離に苦しみ、世間から取り残されていると感じた点です。本当に意義のある本質的な部分だけが残り、なんのため?と疑問を抱いてしまうような規則や風習がない社会をこれから作っていきたいです。

 

 

笹森遥   横浜国立大学 1年生

 

「大人の発達障害」という言葉が近年よく口にされるようになった。発達障害とは先天的な障害であり、大人になってから後天的に発症することはない。発達障害の多くは幼少期に気づかれる。しかし、症状に幅があるため程度が軽い人は大人になるまで障害に気づかず、就職や結婚などの過程で他人と比べた自分に対する違和感を感じ、発達障害と診断される人が増えている。また、発達障害の傾向は見られるものの、診断が下りない「グレーゾーン」と呼ばれる人も多い。彼らの多くは困りごとを感じながらも周りからの支援を受けられず、生きづらさを感じている。生活上で何かミスをすると自分を責めるようになり、うつ病などを発症することもある。このような人たちの特性を理解するとともに適切に対処し、「取り残さない」ことがもっと必要なのではないか。
斯く言う私も小さいころから大人の発達障害の一つ、ADHDの症状に悩まされてきた。忘れ物が多く、宿題は期日に間に合わない。常にきょろきょろソワソワし、警察によく声を掛けられる。財布や定期券、スマホなど大切なものも何回も落とし警察にお世話になった。バイトではケアレスミスを繰り返し店長に毎日怒られている。しかし本当につらいのはそういったミスなどに対して「お前の努力が足りないせいだ」「やる気がないからだ」「そんなことは心の問題で、気持ち次第でどうにかなる」と言われることだ。本人の性格・個性と受け止められ、自己肯定感が失われていく。本人を激励する言葉のつもりなのだろう。
また、心療内科で診察を受けたいこと、発達障害であると診断を受けたことを伝えると「それは逃げでは?」「免罪符を手にしたつもりか」と言われた人もいるという。
本人の能力に限界があり、苦労をしている人間がいるのにもかかわらず、このような言葉を投げかける人が多くいるのはなぜだろうか。私はシンプルに多くの人が「大人の発達障害」そのものに関して、また障害を持つ人にどのように対処すればいいか知らないためだと考える。当人は診断されたならそれを足掛かり、きっかけとして自分を知り、何ができて何ができないのか、自分にはどんな潜在能力があるのかを知る。そして周囲の人は症状の特性を知り、その人の特徴をできるだけそのまま受け入れていけるようにすることが大事なのではないか。
「大人の発達障害」を持つ多くの人は学校や会社など、自分が所属する組織などで「取り残されている」ことが少なくない。そのような人たちにも平等に、誰一人取り残さないように多くの機会が与えられればいいなと思う。

 

 

木下瑛羽 横浜市立戸塚中学校1年生

 

 SDGs。今では、誰もが知っていること。学校でも、SDGsのポスターが掲示板に貼ってあるし、たびたびSDGsの話も取り上げられる。17の目標とか、環境問題、貧困問題など、よく耳にする話。でも、実際に何かしよう、と動こうとする人は、ほとんどいない。どうせ、自分が何かやったところで何も変わらない、自分の力では何もできない、専門家やお偉いさんに任せておけば何とかなると思っている人が大半だと思う。これを読んで、「あ、自分だ」と心当たりがある人も少なくないはずだ。しかし、そう上手くはいかない。現実は、甘くない。これは一人ひとりが、「だれ一人取り残さない」社会にするという目標に向かって努力する必要がある。一人ひとりが努力する必要があるくらい、大きな問題なのだ。皆が何かをしてから、やっと解決するのだ。いや、100%解決するかと言われたらそれは無理かもしれない。世界全員の人が平等に生活できるようにするのは、不可能だ。ただ、今の現状が少しでも改善するのは確かだ。
 これは別に、自分が考えたというよりかは、みんなが言ってきたことだ。「少しでも、努力しよう」、と。では、先程「実際に動こうとする人は、ほとんどいない。」と言ったが、それはなぜなのか。僕が思うのは、皆がそもそも何をすればいいのか分からないからだと思う。僕は、SDGsの「だれ一人取り残さない」という考え方には賛成だ。でも、発信の仕方が間違っていると思う。学校などでもそうだが、「SDGsについて、自分たちにできることを考えよう」などと問われる。確かに、何をしたらいいのか考えることは重要だと思う。でも、何をしたらいいのかと考えるよりも先に、今の現状のことを知ることの方を優先するべきだと思う。「SDGs] と言われると、「環境問題」という言葉が頭に浮かぶという人が多い。でも、それ以外にも、「貧困問題」「差別問題」などといった分かりやすい例だけでなく、世界中に沢山の困っている人がいる。それに、困っている人がいると知っていても、本人以外にはその苦しみが分からない。だからこそ、今の現状を知る必要がある。今はコロナでそういった人がより一層増える中、コロナの騒ぎで忘れられている人たちがたくさんいる。休校やらテレワークやらオリンピックやらと騒いでいる中で、世界には、コロナ以前に、学校に行けない、働けない人や、ご飯も食べられずに布団に向かう人、コロナやそれ以外の病気にかかっても治療できない、してもらえない人がいる。僕たちは、そういった問題を抱えないで生きていけるだけ、幸せなのだ。
 そして、世界だけではない。皆が忘れている人は、まだまだ沢山いる。例えば、震災で被害を受けた人々だ。特に、コロナもあり、気にしなくなってしまった人が多い。「え、もう復興したんじゃないの?」と思うかもしれない。もう10年も経って、復興したと思われがちだが、実際そうではない。まだ仮設住宅に住んでいる人も多いし、壊れたままの建物などもまだ残っている。そして、物理的な問題だけではない。津波に遭って、トラウマになったり、家族を失って悲しんでいる人たちも沢山いる。それでも、一日一日頑張って乗り越えて生きている。しかし、時が経つにつれて皆忘れていく。もちろん、日本にも、世界にも、このように忘れられている人達が他にもいる。沢山いる。困っていることをそもそも知ってもらえない、気づいてもらえない人もいる。だから、取り残されていく。「だれ一人取り残さない」社会にするには、まだまだ努力が必要だということが分かる。
 僕が言いたかったことは、つまりは「自分に何ができるか」よりも、先に「今の現状を知る」ことが大切だ、ということ。「だれ一人取り残さない」社会にするには、まず「取り残されている人」を知らなければならない。例えば、みんなでポケモンを集めようとしていて、ある強いポケモンが捕まえられないとする。強すぎて自分には捕まえられないと思って諦めるより、まず「ポケモンの種類」を知る。それから、何か捕まえられないか考える。それと同じ話で、「だれ一人取り残さない」社会にするために、自分に何もできないなら、まず「取り残されている人」を知る。それから、何かできないか考える。そうしたら、何か、自分にできることが見つかるかもしれない。
 「だれ一人取り残さない」社会に一歩近づこう。その道が、どれだけ難しくても。どれだけ、遠くても。

 

 

中村ゆかり ピラール・ド・スール日本語学校

世界をかえる

この世界にはたくさん悪いことがあります。みんなは地球の未来を本当に心配していると思います。みんなはこのままでもいいですか?この世界でみんなは何を変えたいですか?私はたくさん変えたいことがあります。 
例えば、森のかじとか木を切ることとかです。それによって大変なことになるのは人間だけではありません。動物もです。たくさんの動物が死んだり生き残った動物は町に来たりします。
他に私が変えたいところは、人がごみをすてることについてです。道に捨てられたごみは川に行ってそれから海に流れていきます。そして、そのごみを食べた魚とかイルカとかかめとかを殺してしまいす。このごみは他にも悪いことをしています。
他に私が変えたいことはお金のことです。例えば、この世界には大金持ちがいます。
でもお金がない人もいます。家がない人や食べる物がない人もいます。うまくバランスがとれたらいいけど、それはすごく難しいことです。ただ私はそう願います。
そして、他に変えたいことはみんなが仲良くできるようにすることです。例えば、皮膚の色とかどこの国から来たとか肥満の人とか、そんなことは関係なくみんな仲良くできるようになってほしいです。また、戦争のない世界。どこの国とも仲良くできる世界になれば、軍隊もいないし、死ぬかずも少なくなります。それは私が考える理想の世界です。
でもこんな世界が実現する日が来るのでしょうか。それは簡単なことではありません。星を見て願うだけではかないません。この世界を残すために、またもっといい世界にするためには、みんなの考えが変わることが必要だと思います。でもそれはすごくむずかしいことです。それに、人間がかいけつしなければならない問題はこれらだけではありません。他にもたくさんあります。これを書いている今そう思いました。 
でも、もし、「貧富の差」と「差別のない平和な世界」の問題を少しでも変えることができたら、他の色々な問題を変えていくいい始まりになると思います。

 

甲斐陽菜 岩田高等学校2年生

 

線引きをすることは、必ずしも不必要ではない。たとえば、国が取り残されがちな人を取り残されないようにするために支援を行うとき、適切な額が届くようにしなければ、軽度の障がいを持った人は国の援助によって助けられ、重度の障がいを持った人はより取り残されるということが発生しうる。しかし、私たちが関わる生活において、線引きは不必要である。
孟子の「梁恵王上」で、『王が高殿から牽かれていく牛を見てどこへ連れていくのか聞いたところ、儀式の生贄になると言われ、王は「それは中止しろ。目の前で罪なく殺される生き物を見てしまった以上、見過ごすのは忍びない。」と答えた。』という話がある。
この話を今から私がする話に当てはめて、さらに要約すると、「私たちが人を助けるのは、苦しんでいる、または困っている人が目の前にいるからだ。」ということになる。つまり、その人の持っている障がいが軽度だろうが、重度だろうが、あるいは障がいを持っていない人だろうが、関係ないのである。
このことから、私は、私たちが線引きをするべきときを見誤っているから、取り残される人が発生するのではないかと考えた。要は、金銭的・物質的援助を行う場合、その生活への影響は大きいものであり、客観的に適切な基準で届けなければ、より孤独な取り残しが発生しかねない。だが、私たちのような対人的援助を行う場合、主観的に困っている人を助けるという方法で良く、仮にその主観が誤っていて相手は援助が不必要であったとしても、相手から断られるだけで、それ以上の問題は発生しないのである。
しかし、そういった対人的援助を行うためには、ある程度の基本的な知識や、根本的な理解が必要なのだ。たとえば目の不自由な人に道案内をするとき、どうするべきかすぐに言えるだろうか。私は小学校の授業の一環で、目隠しをして友だちに誘導してもらいながら校内を歩いたことを覚えているが、それ以降、そういった授業を受けた覚えがない。あったのかもしれないが、記憶に残らない程度だったのは確かだろう。正直、主人公が目の不自由な人に試行錯誤しながら道案内をするという漫画を読んで学んだことの方が、実践的で鮮明に覚えている。
よって私は、特に高校などの学校で、そういった授業をもっと行うべきだと感じた。高校生になった今、小学生の頃に比べて、困っている人へ声をかけることに勇気が要るようになった。私に限らずそういった人は多いと思う。そこで、授業によって手の差し伸べ方をしっかり身につけることができると、手を差し伸べるための自信にもつながり、大きなきっかけになると考えたのだ。
何から何まで線引きを取り除こうと言う人、客観的なことを言って困っている人に手を差し伸べない人、気持ちはあっても手を差し伸べる勇気が出ない人は、まだたくさんいる。まず基本的な知識と根本的な理解による土台を確立させたうえで、今、なぜ線引きを必要だと思ったのか、またはなぜ不必要と思ったのかを考えたとき、私たちは誰一人取り残さない世界に近づくと思う。

 

 

横濱祐雅 横浜国立大学4年生

 

私は体育会サッカー部副主将として、絶対に曲げない信念が一つある。それは「誰ひとり取り残さない」ということだ。まず、私が副主将を務めるサッカー部について少し触れておきたい。部員は80名ほど、そのうち主将1人、副主将3人が幹部陣という組織体制の中、スポーツ推薦の無い国立大学ではあるが強豪私立大学に勝利し上位リーグへ昇格することを目標に邁進している。至って普通の体育会サッカー部である。しかし、最大かつ難題な特徴が一つある。それは「大人の監督がいない」ということ、つまり運営を全て学生主体で行っているということだ。公式戦への申し込み、他大学・OBへの連絡、スポンサー契約、会計管理やメンバー選考など多岐に渡る活動を部員のみで行っている。こういった環境だからこそ部員の主体性を育むことができ、試合に出るだけではない組織への関わり方を模索することができる。私はこの組織の副主将として、監督のような立ち位置を取りながらも選手として活動をしている。一見すると、一人一人が生き生きと活動できているように見える。しかし、試合に出られない60名ほどの部員がモチベーションを落とすことなく組織に貢献し続けることは非常に難しい。私自身、1年生の時に試合に関わることができなかったからこそ、モチベーション維持の難しさを知っている。そのため、副主将になり誰ひとりとして取り残さずにチーム作りをしようと決意した。前述の通り、監督のような立場であることで、トップダウンで部員に接することがこれまでの幹部の在り方だった。私はその接し方に疑問を抱き、「対話」を通してよりボトムアップの風土を醸成しようと考えた。まず全員と個別面談を実施し一人一人と対話をした。個別面談では、入部に至った経緯や、理想の将来像など、一人一人の想いと向き合った上で、中長期的な目標、具体的なアクションを一緒に言語化することで、主に試合に出られない部員の主体的な行動を促した。その中でモチベーションが下がってしまう原因が、短期的な目標を立てにくいことだとわかった。その原因に対して、短期的な目標を立てる機会を設ける必要があると考えた。そこで、月に1度上級生と下級生の1on1ミーティング制度を導入した。経験豊富な上級生と「対話」を通して、目標を言語化し具体的なアクションを考える機会を定期的に設けることで、試合に出られない部員のモチベーションが飛躍的に上がるとわかった。サッカー以外の活動にも積極的に取り組む部員が増え、組織体制の変革やスポンサーの獲得など、大学生の域を超えた活動が増えた。これらは無論、私の成果ではなく部員一人一人の成果である。しかし、「誰ひとり取り残さない」ということを心がけてチーム作りをしたことで圧倒的に部員のモチベーションが向上したことは確かだ。私は無事に大学を卒業することができれば、来年から社会に出る。取引先、上司、同僚、部下、家族や友人など、まずは身近で大切な人を取り残すことなく幸せにできる人になりたい。その幸せにできる範囲を広げていけるように成長していくことができれば、SDGsを体現できるようになると確信している。小さい頃からの生きがいであったサッカーを通して、「誰ひとり取り残さない」ということの大切さを学んだ。私はそんなサッカーというスポーツが大好きだ。

 

 

安野エナ(仮名) 横浜隼人高校

 

「誰一人取り残さない」この一見当たり前のように見えて解決することが難しい課題を達成するために私たちに求められることは、「おかしいと思ったことに対してNo!」を言えるようになることだと思います。
今この瞬間も、世の中にある様々な問題によって「取り残されている人」たちが多くいるのです。そんな人たちの存在に気付き、関心を持ち、おかしいと思ったことに対して皆で声をあげることが、私は一番大切であると私は思います。
私も中学生になるまでは問題に気がつかない無関心なうちの一人でしたが
中学校の平和学習を通して目を背けないで関心を持つことの大切さを知りました。
その平和学習では、1945年の広島長崎への原爆投下について学習しました。原爆や核兵器の恐ろしさ、残された家族の悲しみ、これらは今まで原爆投下の存在を知らなかった私には、思わず目を瞑りたくなるようなものばかりで、とても衝撃的でした。また実際に、広島に行き被爆者の方にお話を聞く機会もありました。その方は原爆が投下された後も後遺症に苦しんだといいます。しかし何よりも辛かったのは、火傷やケロイドによって差別を受けたことだと話していました。私は今まで人種差別、性別による差別などについては知っていましたが、まさか何十年も前に起こった原爆投下による差別で、苦しんでいる人がいる。という事実を全く知りませんでした。ですが、この問題に関心を持ったことで「誰も取り残さない」という課題に向けて小さな小さな一歩を踏み出せたような気がします。
どんなに小さくてもこの一歩が大切なのです。「私が関心を持ったところで何になるの。」そう思う人も多くいると思います。ですが皆がまず様々な問題について知り、苦しんでいる人や声をあげたい人に寄り添っていくことで、確実にそれは「誰も取り残さない」という目標に向かって大きく進んでいっているのです。そして被爆者の方々が少なくなっている今、二度と同じ過ちを繰り返さないために、私たちは原爆の体験をした方々の思いを受け継ぎ、後世に伝える役目と責任があると思います。
私はこの問題を、伝えてくれた先生にとっても感謝しています。SDGSについて学んでいく上で私の今後の課題は、もっと深く知ることそして、平和学習をしてくれた先生のようにそれを広めていく、シェアすることだと考えています。

 

谷本リリアン 兵庫県立大学 1回生

 

食肉を食べると喉がかゆくなり、その代わりに野菜が美味しいと感じるようになった私が、週に1日以上、意識的に動物性食品を減らす食生活を送るフレキシタリアンという菜食主義者の仲間に入ることは簡単でした。日本のベジタリアン率はベジウェルよると2019年の時点で5.7パーセントとなっています。環境保護を目的として菜食主義者になる人がこの数年で増加傾向にありますが、日本ではやはり少数派です。食事スタイルがひとつに定まらない今の世の中で、食事スタイルの多数派と少数派に関係なく「誰一人取り残さない」社会をつくるためにはどうすればいいのでしょうか。
 自分に合った倫理で消費活動をするという前提で、2つ案があります。1つ目は多様性を受け入れることです。私がまだ実家暮らしをしていた頃、フレキシタリアンは肉好きな家族の中で一人だけでした。急に始めたこともあって、最初のうちは「お肉を食べないのは体に良くないよ」「野菜ばっかり食べていて楽しいの?」などと言われていました。私はフレキシタリアンの食事スタイルが一番体に合っていると実感していたのであまり気にせずに、肉類の代わりに豆腐を食べたり、季節ごとに変わる近くの畑の野菜を買って料理をしたりしていました。家族というものは長い時間を共に過ごすので、この光景に慣れたのか、なにも口出しをしなくなり、さらにKALDIなどの店に寄ったときにヴィーガン用の食べ物を買ってきてくれるようにもなりました。この時に私は、親に自分の考え方をちゃんと受け入れてもらえたことを感じました。「多様性を受け入れることが大事」だと過去にたくさん言われてきましたが、実際に自分が少数派になったときの認められた瞬間というのはとても嬉しいものです。自分の考えを持ったうえで、他人の考え方も肯定的に受け入れることが大事だと考えています。2つ目は、共通の目的を持ってエシカル消費をすることです。「菜食主義者は環境にやさしい」ということをよく耳にしますが、だからといって嫌々菜食主義者になってもSDGsが目指している、すべての人が「幸せ」を感じることができる世界にはなりません。自分の体質や生活に合わせた食事スタイルをとる中でエシカル消費をすることが必要です。菜食主義者であっても、そうでなくても「排気ガスを削減する」や「貧困と飢餓をなくす」という共通の目標は持っているはずです。エシカル消費の例として、私はロッカー型自動販売機や近所の八百屋で野菜や果物を買うことを意識しています。自分が住んでいる地域の食物を買うことで地産地消の推進や、納品をするまでに発生する排気ガスの削減につながります。菜食主義者でなくても、最近はオーガニックの食べ物を買う人が増加していたり、自粛のこともあり家庭栽培を始めた方もいたりします。環境問題の解決のためにしている行動ではないかもしれませんが、このように食事スタイルが違っても最終的に世界中の人々が持っている共通の目標の達成に進むことはできます。もちろん消費する側も倫理的に考える必要がありますが、商品を提供する側も私たちに多くの選択肢を与えることが重要です。スーパーやレストラン、食堂に行ってもヴィーガンやベジタリアンの方も食べることができる商品やメニューがなかなか無く、日本は海外ほど菜食主義者の食事が浸透していないことに気付かされます。消費する側は自分に合った消費活動を通して問題解決に向かい、提供する側は消費者の消費活動を可能にするために選択肢を多く設けることが必要だと考えています。世界中の食事スタイルの多様性を肯定的に受け入れ、そのうえでエシカル消費を通して共通の目標を達成するように行動することで「誰一人取り残さない」社会につながると思っています。私たちにはできるはずです。多様性を活かすことが重要とされている時代に生きているのですから。

 

mumu 介護職員(20歳)

 

私はFSGS(巣状分節性糸球体硬化症)という腎臓病を持っている20才です。
病気が判明してからは4年目です。
私の病気は一般的に指定難病であるネフローゼ症候群という病状を来す疾患です。
しかし私は、指定難病であるネフローゼ症候群を来していない&低形成腎による生まれつき腎臓の働きが良く無い為に起こる2次性FSGSという状態で今の難病法では”難病”とはなっていません。
私の様に国としては難病に入る疾患でも、基準の厳しさで難病と認定されずに治療費の自己負担や、同じ疾患でも症状の違いで治療、対処方法に違いがある為に同じ疾患の人とのコミュニケーションが取れないという方と何人か出会いました。
〜そんな「制度の格差」について〜
【私の願い】
①指定難病とされる方は軽い、重い等の症状、現存の難病とされる基準関係なく、「難病です!」と診断された全ての人が「指定難病受給者証」を受け取れ医療格差を生じさせない。
②今の難病法では”原因不明”の方で尚且つ基準に当てはまる方しか認められていないのは”格差”だと思う。
①の制度が難しい場合には最低限この様になって欲しいです。
【難病法に含まれて欲しい!今は難病とされない2次性疾患】
原因不明、先天性の体の失われた機能がある、遺伝子疾患等は、そもそも治療法も確定されていない状態で現在の医学では治りません!
そんな中、
「先天性の体の失われた機能」、「遺伝子疾患」は今は原因が分かっているから”難病”ではないとされていますが、その人も難病法として”難病”と認定されて欲しい。
生まれつきの体の機能が、服薬とかで普通の人と同じ働きに戻りますか?って言われてもそんな事は現在の技術では出来なく悪いなりの機能を悪化しない様にするしかありません。
〜例えば、1例〜
私は、20才。
同年代の人は腎機能90〜100%だそうです。
しかし、自分の腎臓は慢性腎臓病に当たる6割という同年代の人から見ても腎臓が働いていません。
◎その原因は?
「低形成腎」という生まれつき腎臓の体の要らない物を処理する事が上手く出来ず…腎機能低下へとなっていく疾患の疑いがとても高いです。
検尿にて異常が始まったのは中学3年。
病名が分かったのは高校3年の時。
低形成腎とハッキリ診断されたのは社会人だった為に私はありませんでしたが、「低形成腎」自体も”小児慢性特定疾患”は、あるそうですが、”指定難病”としては大人になると無く、一気に社会から健康ですねという扱いなります。

また、他に私には先天性の感音性難聴で手帳4級があり両耳に補聴器付けて生活してます。
ここ数年には片耳難聴という方の事を知る様になりました。私は手帳がある聴覚障がいですが、片耳難聴の方はコロナ禍の今、現在は特にもマスク社会の為に片耳が聞こえにくいだけでも日常生活に困難があります。しかし、手帳が取れない片耳難聴や軽・中度難聴の方は高額な補聴器の購入に躊躇われる状態だそうです。
そんな「制度の狭間」に残されているその様な人を1人でも減らして公平な制度を受けられる環境が受けられる世の中になって欲しいです。

 

 

岸田真幸 長岡技術科学大学大学院5年一貫性3年

 

誰ひとり取り残されないために、今何が必要なのであろうか。私は、自由なき孤独をなくすことが必要である。皆さんは、マッチ売りの少女の話をどこかで聞いたことがあるだろう。本によっては内容が少し違うかもしれないが、マッチ売りの少女は、少女がマッチを売りに出たが、誰一人として買わず売り物のマッチを燃やして明るい夢を見て、最後に少女が天国へ昇っていく悲しい話である。ここの話から2つ論点として挙げる。1つ目に、なぜ少女がマッチを売らないといけなくなったのか。2つ目に、マッチを売っている時の描写である。1つ目の理由は、妻と親を亡くした父親が辛さゆえにお酒に逃げ、幼い少女を毎日こき使っていたからである。人類にとって家族は一番信頼できる集まりであり、身近に話ができる中である。しかし、幼い少女は唯一の家族である父親にも見放され辛く苦しい中でも父のためにと思い、堪えてきたのであろう。一方、父親は少女の自由を無くし孤独にさせてしまった。もし、父親が少女に目を向けていたらと考えると話が変わっていたかもしれない。2つ目の売っている時の描写についてであるが、悪い点と良い点が描かれている。悪い点は、勢いよく走って来る馬車に引かれそうになり、怒号を浴びせられる点と、履いていた靴を男の子に盗まれる点である。これらの点から、少女が住んでいた街はかなり貧しいことが想像できる。一方、良い点は一人の紳士が心配して声をかけた描写が描かれていることである。その紳士は、靴を盗まれ困って座り込んでいる少女に対して声をかけ心配してくれた。作中に少女を心配してくれたのが、この紳士のみである。私は、作中では注目されないこの紳士の対応こそ、人として当たり前ではないかと感じる。
 ここで、現代社会に置き換えて考えてみる。2020年初めからコロナウイルスの影響により、多くの自治体が外出自粛や学校閉鎖等を促していた。しかし今現在2021年には第4波や変異種といったコロナウイルスのニュースが飛び交い、未だ猛威を振るっている。ここで注目したいのが、新生活で別の地域に住む学生や社会人である。在宅授業や在宅ワークにより平日過ごすと、1Kのアパートが自分の生活環境であり、それ以上外に出ないことが大半となるだろう。たまに買い物のために外出したとしても、感染防止のためや新生活で友達ができず、一人で行動することが多いだろう。以上の生活を考えると、他者とコミュニケーションする場がないことが分かる。また、生活の大半が液晶と睨めっこをする人が多いかもしれない。もしくは、液晶とお話をする人もいるかもしれない。現代社会では、皆が障がい者であり、取り残されていると感じる。この問題点は誰一人として、その人のことを気にかけていない点にある。もしその人がいなくなっても、気にする人はいないかもしれない。それが冒頭で述べた自由なき孤独に位置するものである。コロナウイルスの影響により自由が失われるのは仕方がないことかもしれないが、孤独はいくらでも回避することはできると考える。例えば、ごみ捨ての際に地域の人に挨拶や、スーパーやコンビニで買い物した後にお礼の一言を言うだけでも違うだろう。これは、孤独にならないための自己防衛でもあり、他者を孤独にさせないための措置でもある。ある意味では、昔の生活では普通のことが、栄えた都市では普通でなくなったのかもしれない。
 今後、コロナウイルスにより生活の自由が奪われるかもしれないが、『自由なき孤独』の孤独を無くすためにも身の回りの人たちに声をかけてみるのもいいかもしれない。物語は物語の中だけにしなけらばならない。そして、私たち学生が老若男女・障がい者問わず協力し新しい自由を創造していく必要がある。

 

 

岡田彩花 名城大学薬学部4年生

 

私は、社会から取り残されたくないと思う。
そして、誰一人取り残してはならないとも思う。
けれども、私は「誰も取り残さない」為に平等や公平性の大切さを述べるわけではない。

意味が分からないと思われるかもしれないが、それは”取り残さない”という言葉をどう解釈し捉えるかが鍵になると考えている。
当たり前だが、地球人がみな同じ生活水準になって、子供からお年寄りまでが全て同じ扱いを受けたとしても、SDGsの真の目的は達成されないだろう。
私は、みんなと同じでいる必要なんてないと考えている。
これまで生きてきた中で何度も”ふつうが良いよね。”とか”みんなそうだからあなたもそうしなさい。”ということを言われたり、学力に関しても平均点を目指す人が多くいたりすることに違和感を持ってきた。

均一や同一を理想とする世の中であれば、取り残されない為に本人が無理をしたり必死になったりしなければならない。
取り残されないことよりも、取り残されないために自分を偽ったり他人と競い合うほうが問題だと私は感じる。
取り残さないことは、大多数の意見や先進国の普通、今の当たり前を押し付けることではないと思う。
私が必要だと考えるのは、取り残されそうなその存在を「忘れないこと」及び「気づくこと」であり、つまりは”切り離さないこと”だ。
全てを一律にすれば良いわけではない。
文化だって、国によって違うから面白いし、
男女・年齢の違いによって考え方が違うからこそ社会が多様化する。
不登校のように一見取り残されているように見えるようなこともあっても、行かないのも選択肢として勇気あることとして認めることも必要だと思う。

そもそも、なぜ長く続いてきた人類史の中でSDGsが推進されるようになったのだろうか。
それは人間が他の種とはかけ離れた知恵と技術を授けられた故の責任であり、同時に他の種と同じように地球という星に存在していることに対する必然であるからだろう。
弱い人々だけでなく、人間が気が付かないうちにふちへ追いやってしまった動植物こそ取り残してはならないと私は思う。
進化や発展は便利や効率を求めることではなく止まることのない変化であり、私達は地球が永久に発展し未来を迎えられるようにしなければならない。

その前提でSDGsの17項目を私なりに見てみると、項目3の健康と福祉や項目4の教育、項目14の海の豊かさや項目15の陸の豊かさ、そして項目16の平和などについては、絶対的で普遍的に達成されるべき目標であると思える。

人間も動物も植物も、お互いが助け合うことで世界は回り続けている。
何も特別なことをする必要はない。
環境に優しいことは人間にとっても優しいことであり、例えば農薬の使われていないオーガニックの食材を買ったり、早寝早起きをして少し節電したりといった簡単なことでも実践できるだろう。
私は更に、健康と福祉、教育においては子ども向けに食育のイベントを企画運営したり、
自然の豊かさにおいては、植物園のボランティアに登録したり、
平和においては戦争の語り継ぎのボランティア活動や戦争をテーマとした朗読会に参加したり、などの形でも実践している。
自主的にこれらの活動をして、私は自分で感じて・考えて・動くことの重要性を学んだ。

きっかけはそこら中に散らばっている。
隠れて見えないことや雑音に紛れて聞こえないものに気がつき、自らの頭で判断し、何か行動に移すことで、今までとは違う世界を知ることができるのだ。
問題があると分かっていても、自分には関係ないとか自分ではどうしようもないと決めつけず、
一歩踏み出してみることは必ず意味があると思う。
私の行っていることも、すぐに社会を変えることはできないけれど、私の目の前の人の笑顔が、巡っていったら世界の人々を笑顔にできるかもしれないと信じている。
私がした親切が、繋がっていったら地球が平和になったら良いなと願っている。
私は私にできることを探し、続けることで輪を広げていきたい。

このグローバル化が進み様々な情報が溢れている世の中で、取り残しとは何なのか、あるいは進化や発展とはどういうことなのかを改めて議論する必要があると思う。
特に今日を生きる我々は、コロナ禍という状況を活かして当たり前を見直し、本当の自分自身、本当の自分の生活を身つめ直し、自分らしさを取り戻す機会だと捉えるべきだろう。

世界は一つになって一人一人の幸せを守らなければならない。

 

 

喜田和希 横浜国立大学3年生 都市科学部

 

私はあまり人と関わることやコミュニケーションが上手ではないということから、しばしば社会から取り残されているという感覚に陥ることがあります。この感覚に陥る理由として、人と関わるということを考えるときはいつも心が締め付けられるため外に出て買い物をする際に人と関わることを考えてしまい楽しいという感覚が得られなかったり、ほとんどの大学生が行っているアルバイトを始める勇気がなかったりということが考えられます。社会から取り残されるという感覚に陥る例としてあげたものは、恐怖に打ち勝って行うことができている人も多く存在していることから、他人から私を見るとただただ自分に甘えていると感じられても仕方が無いと思います。また、私は人とコミュニケーションを取る前に他人が自分のことをどう思ってしまうのかということを強く考えてしまい、特に社会から取り残されていると感じている私は自分のことをネガティブに考えてしまうため他人からの評価は常に低いものなのだと考えていまいより人と関わることができなくなってしまっているということが現状です。社会から取り残されている原因の大部分が自分の行動によって変えていくことができるということは承知の上なのですが、このような気持ちを押し殺して生活をしていて社会からだけではなく自分自身から心が取り残されているという人々もいると思うので、少しでも社会に近づくことができる間接的な手助けがあればいいなと考えています。  間接的な手助けとして私のようにコミュニケーションが苦手な人たちが少しでも自信を持つことができるような情報をその人たちだけではなく多くの人たちに届くように発信していくことが大切だと考えます。ここで最も大切なのは多くの人たちに届けるということだと考えています。その理由としてはこのような人たちがいるということが大きく取りあげられることで今まで閉じ込めていた自分たちの気持ちを意見しやすい世界となり、その意見を見て自分だけが人と違うのではないことやこのような人がいることが認知されたことで自分への嫌悪感を少し和らげ社会へと溶け込む大きな一歩へとなるのではないかと考えているからです。  ここまでで私が人との関わりやコミュニケーションが苦手な自分を含む人たちについての意見を述べてきました。このような人たちの中には社会から取り残されていることに疑問を感じていない人もいると思いますが、やはり社会へと溶け込みたいまたは自分らしさを出したいがこれらのせいで諦めてしまうというような人が大多数だと思います。このような人たちが少しでも不安を減らして社会で生活していくことのできる世界になっていければいいなと感じます。

 

 

呉紀鴻   京都外国語大学

 

私は2017年の夏休みに、中国にいる家族と共に世界遺産である広西省桂林市を再度訪ねた。幼少時、一度訪問したが、その頃は透明度が高く川の水が澄んでいたが、もうその透明度はなくなり衝撃を受けたことを覚えている。中途半端な整備計画、利益を優先する旅行社などによる環境問題、教育の遅れなど問題がある街となってしまっていた。このような問題は、中国にとって氷山の一角に過ぎない。社会主義国家にあって経済発展を何よりも優先する中国は、多くの国内問題を置き去りにしてきたといえる。なかでも、発展著しい臨海部とまだまだ経済発展の恩恵が行き渡ってなく、教育が遅れている農村部との格差は、非常に大きな国内問題である。中国国内だけでなく、アジアそして世界に目を移せばさらに問題は大きい。
私は、日本留学を決意し高校1年時より留学した。日本に留学すると母国・中国やアジアについて冷静に考える良い機会となった。日本に来て驚いたことは、小学校から環境問題や貧困問題を考える授業があり、SDGsを実現するための取組みが小学生から大学の講義まであること、学校のみならず地域社会やボランティア団体まで官民あげて協働で行っていることに驚いた。
「持続可能な開発目標」は今のための今でなく、未来のための今と捉えて単なるスローガンではなく、1人ひとりが、どのように実践していくかが大きな課題であろう。2030年の世界はどうなるのか、なかなか予測できない。しかし、「Leave no one behind」を達成するために、教育を誰にも平等に受けられるのは不可欠だ。この数年間、あらゆるレベルで教育を受けられる機会が改善されている。しかし、正解中で学校に通ってない子どもは約2~3億ともいうデータがある。また子どもの権利条約を批准している国でも、児童労働・人身売買など目を覆いたくなるような厳しい現実も直視しなければならない。このようなことを考えるとSDGsの目標の中でも4の「質の高い教育をみんなに」というテーマは、最も重要な課題であろう。「教育」を受けなければ、職業を選択することができず「貧困の再生産」に繋がり、貧困から脱却できなくなる可能性が高くなる。人間は、生まれてくる国や境遇を選ぶことができない。新型コロナウイルスの蔓延も、文明や文化が発達した現代において人類に大きな課題を呈した。このようなパンデミックが起こるとワクチンを含めて、途上国に大きな影響が出ることになる。先に豊かになった先進国が、途上国を含め世界の中の課題を人類の共通の課題として検討すべきであろう。
2021年5月12日に、アメリカのバイデン大統領は「アメリカ・ファミリー・プラン」提案を再度推進し、米国での無料の公的教育を12年から16年に延長することを発表した。これには、2年間の公立就学前教育と卒業後の職業教育がこれに含まれる。教育を受けることにより、人は知識だけではなく、しっかりとした倫理観を持つようになるのである。学ぶことは大切なことである。そのため、教育をどの国にも浸透させることは、地球の未来のためにも不可欠なことであろう。人間は教育を受け知識を得られれば、自由や多くの権利を手に入れることが可能になると考える。人権問題にも解決の第一歩ではあり、そして貧困削減や紛争、自然災害などから人々を守ることにつながるのではないだろうか。
日本も大きく近代化させた明治維新以降、教育改革があった。教育力で格差が縮まり、急速な近代化、経済成長を遂げたのである。つまり、教育は人間を成長させるだけはなく、経済成長にも重要な役割を果たすのである。逆に、アジアやアフリカの諸国の中には、教育が行き渡っておらず、生活に困窮しているところも多い。
 私は高校から日本に留学生するという好機に恵まれ、高校時代も多くボランティアを経験した。インドネシアへの支援活動にも微力ながら参加した。日本の高校で、アジアを中心にした多くの留学生とも出逢うことができた。生まれた国や文化の違いを乗り越えて3年間を過ごした。今春、京都の大学に進学し、教育の力を信じ日本語教育を学んでいる。ここでもまた世界各国から集まった留学生とも国際交流を通して国際理解を深めたいと考えている。4年間の中で、環境問題も貧困削減などの国際協力もできることから挑戦したい。その中でもSDGsの中で最も重要と自らが考えている教育による支援活動をしていきたい。コロナ終息後は、大学院に進学し、留学生として学んだ経験を活かし、国際協力を実践すべくまだ教育が行き届かないアジアやアフリカの国を訪ねて活動していきたいと決意している。

 

小笠原寛太 民間企業

 

2021年東京にてオリンピック・パラリンピック2020がまもなくはじまる。

とくにパラリンピックだと障がいをもった方が参加することができる。
パラリンピックとは、国際パラリンピック委員会が主催するもので、身体障がい者(肢体不自由など)、脳性麻痺、視覚障がい、知的障がい)を対象とした世界最高峰の障がい者スポーツの総合競技大会とされている。
起源としては、1948年、ロンドンオリンピック開会式と同日に、イギリスのストーク・マンデビル病院で行われたストーク・マンデビル競技大会より、戦争で負傷した兵士たちのリハビリテーションとして「手術よりスポーツ」の理念で始められたとされている。

パラリンピックの目的として、そのゴールとして「パラリンピックムーブメントの推進を通じてインクルーシブな社会を創出すること」と示し、すべての人が共生する社会の構築を目指す、としている。

また、パラリンピックの価値として、勇気(マイナスな感情に向き合い、乗り越えようと思う精神力)、強い意志(困難があっても、諦めず限界を突破しようとする力)、インスピレーション(人の心を揺さぶり、駆り立てる力)、公平(多様性を認め、創意工夫をすれば、誰もが同じスタートラインに立てることを気づかせる力)があると言われる。

しかしながら、オリンピックとパラリンピックと区別した表現により、「障がい」と「非障がい」と区別していることが目に見えてくることもあるといえるのかもしれない。

障がいは損失を伴い、障がい者が非障がい者に依存している。さらには「障がい」というワードが恐怖心、偏見、誤解を招くとも言われている。障がい者への偏見や差別は研究でも明らかであり、また障がい者への虐待も世界各国で存在しており問題視されている。

私たちも実際に街中で障がいをもった方を目にすると無意識に避けてしまうところもある。
「偏見やステレオタイプをもたないようにしようとしても解消することができない」と言っている方もいた。

他方、ある番組にて私は障がいをもっている方が、最近はテクノロジーや技術の発展から「障がい」と「非障がい」の差が縮まってきていると話していることを目にした。
例えば、例を挙げると目の悪い人がメガネをかけることにより日常生活の支障を軽減させるなど、技術により障壁を減らすことができるようになったともいえる。

「障がい」と聞くと私たちは偏見やステレオタイプをもち、ネガティブな感情や劣っているとも捉えてしまう傾向にある。
それもオリンピックと比較してパラリンピックが人気がない一因なのかもしれないし、オリンピック、パラリンピックに限らず選手はプロ意識をもってチャレンジしているのだから精一杯応援したいものであると私は思う。

せっかくコロナ禍ではあるが、オリンピック・パラリンピック2020が東京で行われるのであるからにはオリンピック・パラリンピックへの考え方、とくにパラリンピックへの考え方、「障がい」とは何かについてせっかくの機会なので、みんなで考え直すきっかけになったらいいと思う。

そして、パラリンピックの目的とされている、「インクルーシブな社会を創出すること」が推進されたらいいと考えている。
さらには人種や障がいの有無にかかわらず、あらゆる面での違いを肯定し、受け入れてお互いに認め合える社会であることを願うばかりである。

謝辞:今回の論文を執筆するにあたり友人である名古屋大学大学院の近藤裕基にアイデアをいただいたことで書き上げることができ、改めて感謝申し上げます

 

淺野智恵 羽島市立竹鼻小学校3年生

だれ一人とりのこさないは、羽島から

 

私は小1から、エコを考え、SDGsの17の目標のために、自分は何ができるかを考えてきました。小1では、「青いほしをまもろう」というタイトルで、40人にインタビューして、地球のためにできることを考えて、答えてもらい新聞にまとめました。小2では、未来の夢として、「世界中の子供達で地球エコサミット」を描き、子供でも何かチャレンジしたいと考えました。JICA中部に学びのために訪れた時、世界には、水道から水が出ない国があることを知り、世界の水はどうなっているのか話し合ってみたいと考えたからです。また、小2の時、1年間子供食堂に通い、40人の利用者にアンケートをとり、利用者の思いや子供食堂の将来を探り、統計新聞にまとめました。小3になり、7月に熊本や下呂の水害の写真を新聞で見て、衝撃を受け、弟と一緒に何かできないかと話し合い、夏休みには、「防げ水害!ごう雨による水害とダムの関係」のタイトルで、木曽三川おける水害ハザードマップとダムマップをまとめることにチャレンジしました。その作品で、徳山ダムの取材をしている中、最近の水害は地球温暖化によるものだと教えてもらい、地球温暖化をくい止めるめるために何かしたいと思い、「地球の熱を下げよう」をテーマに、弟と同級生の仲間や、地元の高校生や町の人、200人ほどの意見をアンケートにまとめ、統計新聞を作りました。お母さんからは、「ハチドリのひとしずく」の話を教えてもらい、自分たちも自然と生きていくために、できることをやって、全国の皆さんにも発信することにチャレンジしました。全国の皆さんにも、一緒に考えて行動できる仲間ができたらいいなと考えたからです。  今はコロナ禍で、外出することも、友達と思いっきり笑ったり、歌ったりすることが十分にできません。でも、マスクをしていても笑顔だと分かります。私は、2045年の未来を想像したとき、みんなが笑顔だとうれしいです。 私の両親は共働きで、父の帰宅は深夜のために、家族全員で晩御飯を食べることができません。そんなとき、子供食堂を知り、地域のおばさんやおばあさんたちと一緒にご飯を食べる楽しさを知りました。 そこで、一つ目の夢です。将来は、統計の調べで分かったように、学校などに、地域の人が集まり、交流できる場所としたいです。  二つ目の夢は、水害などで命を落とすことがないような安全で安心な羽島になることです。羽島の竹鼻で生まれた円空のお母さんも長良川の洪水で亡くなっています。木や森をもっと多くして、自然災害の少ない羽島になっていてほしいです。自然のことをもっと勉強し、自然いっぱいの羽島であってほしいです。私の暮らしている羽島はダムがあるおかげで、水害の少ない地域となっています。しかし、徳山ダムを取材している中、自然を壊しているのではないかという疑問も生まれました。もっと緑を増やして、私の子供達と緑の中、笑顔でご飯が食べたいです。  3つ目の夢は、羽島市で、楽しく生活ができることです。私の父は、通勤で90分かけて愛知県に通っています。働ける場所、学校、病院、スーパー、図書館、映画館など歩いて1時間以内で行くことができる羽島になっていてほしいです。時間をもっと大事に使って、家族の時間を大切にしたいからです。  4つ目の夢は、羽島のレンコンと円空仏を未来の子供達にも残したいです。小二では手作り絵本「円空・やさしいひまわり」を作り、羽島を元気にしようと考えました。今年は、手作り絵本で「ハスヒメとレンコンたろう」。を作り羽島産で私の大好きなレンコンチップスをアピールしました。円空ロードとレンコンのある笑顔の羽島にしたいです。

白水秀   早稲田大学人間科学部 4年生

「誰ひとり取り残さない」と云う基本精神を目にして正直、ホッとした。何故なら私は常日頃(自分は社会や世間から取り残されている)と感じているから。大学受験の際の受験勉強が原因で精神を病んでしまった。高校の時も難関大学進学コースを選び勉強第1の生活だったのでストレスを抱えていた。高校の時も過呼吸気味で高校を辞めたいと思った事も一度や二度とでは無い。実際、不登校になった時期も有った。初めは自転車で通っていたが段々、登校出来なくなり母の車で毎日、送迎してもらって、ようやく通学出来た。心が辛くなる時が有るので高校の時から心療内科に通っている。大学生になって初めて病名が明らかになった。統合失調症で障害者手帳も持つ様になった。前々から音や光に敏感で音を聞こえにくくするイヤーマフや耳栓をして高校に通っていた。しかし高校の時の担任の先生は、あまり理解を深めてくれず「授業中に耳栓をするとは、どういう事だ!僕の授業を聞きたくないのか?」と注意された事も有る。「耳栓をすると生徒のザワザワとした話し声が殆ど聞こえなくて先生の声だけを集中して聞ける」と答えたが、なかなか解ってもらえず数人に相談して、やっと解決した。世間から取り残されている感じは日常的に感じる。悲しくて死のうと思った事も何度も有る。カッターナイフでリストカットもした。騒ぎを起こして警察の世話にもなった。でも死んでしまったら家事で忙しいのに送迎してくれた母に申し訳ない。そして婆ちゃんにも申し訳ない。一人暮らしの婆ちゃんの家に高3の時に居候させてもらった。80歳の婆ちゃんは肩が痛いのに僕の下着や高校の制服を洗濯してくれたり弁当や、ご飯を作ってくれた。荒んで夜遊びして夜中に帰っても黙って見守ってくれた。ただ余っ程、酷い事をした時は叱ってくれた。婆ちゃんの家に転がり込んだのは父と派手な喧嘩をした事が主な原因だ。不器用な僕は上手く生きられない。しかし世話になった婆ちゃんや母の為に前を向いて生きたい。もうすぐ大学を卒業する。世間から取り残されていると云う考えを少しずつ棄てて、これからは人に優しく接したい。何故、自分は生きているのか?生かされているのか?人に優しくすれば生き甲斐になり生きている意味が見つかる様な気がする!

匿名車の「ガタンゴトン」という音がしきりに入ってきていました。そのため、何度も伝えてもらうのが申し訳ないという思いと、もう聞き取れないのではという半ば諦めの思いから愛想笑いで「うん、そうだね」と適当な返事で誤魔化してしまいました。

 

 ある時は大学のグループディスカッションです。コロナ禍でのグループディスカッションは間隔を空けてメンバーが座るため、必然的に周りの声は聞き取りづらくなります。さらに、感染予防のためのマスク着用により、発言者の口元が見えないため、誰が何を話しているのかも分からない時がほとんどです。また、自分の補聴器の音量を大きく調節したとしても、周りにいる他の班の会話がガヤガヤと雑音として入ってくるだけで、本当に聞き取りたいグループの会話はそれらの音に掻き消されてしまいます。そのような状況が続くため、聞きたいのに聞き取れない、グループで何の話をしているのかさえ見失ってしまうというジレンマに陥ります。

 

 私は、初めてお会いする方などに積極的に自分が難聴者であり、大きい声の方が聞き取りやすく、会話で無反応だった時は聞こえていないだけで、よく誤解されるけれどもけして無視しているわけではないため理解して頂けると有難いと伝えるようにしています。

 

 こうして自分の聴力を自分自身が理解して他者に伝えることができるようになったことは大きな前進でした。思い返してみると、まだ自分の聴力に関心や理解がなかった小学生、中学生の頃は周りの大人から叱られることが多かったように思います。「あれほど言ったのに」、「なんで聞いてないの」と言われる度に、何について叱られているのも分からず居た堪れない気持ちになりました。補聴器を着用していなかった時は自分の声の大きさも調節ができず、周りから「うるさい」と言われることがありました。今は補聴器を着用していますが声の大きさについては「小さい」と言われることが増えました。補聴器の有無によって自分の声の聞こえ方も変わるため、難聴と生きていく上でそこは非常に難しい課題だと思っています。

 

 最後になりましたが、ひとつだけ皆さんに知って頂きたいのは、補聴器を着用していても完璧に聞き取れるわけではないということです。本当は人と話すのが好きだけれども聞き取れないから話すことが苦手で会話から取り残される人がいることを理解して頂けたら嬉しいです。

 

 

 

 

 

川嶋健太 静岡福祉大学 2年生

 

情報に取り残される人たち

 

インターネットが普及して何年になるでしょうか。

それからというもの人間が受け取る情報量は格段に増えました。それ以前はテレビやラジオ、雑誌といった情報源が主流でした。それだけではありません。味や匂いといったものも立派な情報源です。いつの時代も人間は五感をつかって多くの情報を得てきたのです。

しかし本当にすべての人がそうでしょうか。私はそうは思いません。外国人や障害者といったいわゆる「情報弱者」と言われる人たちがいるからです。今回はそれぞれの立場に立って考えてみたいと思います。

 まずは障害者と情報についてです。

 突然ですが私は視覚障害者です。未熟児で生まれその影響で網膜薄利となり1歳前に視力をほぼ失いました。手術のおかげでそれ以降わずかですが光を感じることができています。小さいころは両親や周りの先生などから、また多くの物に触れたりして、年齢が上がってからは点字の本やラジオなどで。視覚以外のかんかくをつかい情報をえてきました。人との会話にも困りませんし日常生活もそれなりにおくっていますので情報はあまり不足していないと思っていました。

しかし大学に入ってみると目が見えている周りの友達は私より情報量が格段に違ったのです。見えている分知識が豊富で、そのジャンルも周りの景色、アニメのこと、ファッションのことなど実に様々です。  視覚からの情報は全体の9割以言われています。

友達と会話しているとその幅の広さから私も含め多くの視覚障害者がいかに情報から取り残されているかがわかります。

 では視覚障害者はどの程度の情報量になるのでしょうか。視覚障害と言っても見え方は人によって違いますが今回は全盲の場合です。今作文をお読みのみなさん、周囲をぐるりと見渡してみてください。静かな部屋であれば壁紙や机、床の色、時計……。外であれば行き交う人の流れ、お店の看板、空を飛ぶ飛行機も見えるかも

しれません。では、目を閉じて同じように周りを見渡してみてください。

 

どうでしょうか。上に記したような情報は得られないのではないでしょうか。逆にエアコンの音や人の話し声、車の音、飲食店からの匂いなど嗅覚や聴覚から情報が入ってくるのではないでしょうか。目が見えないと本当にわずかな情報しか得られないことをご理解いただけると思います。

 次は外国人と情報について考えてみます。近年日本に住み働く外国人は多くなってきました。 日本語に不自由がなければいいですが、そうでなければ言語が壁となって情報が届きにくくなります。

ではどのようなときに情報から取り残されるのでしょうか。 例えば、災害時です。どんな災害が起きているのか、どこに逃げたらよいのかなど伝わるべき情報はたくさんあります。しかし慌ただしく復興に向けて動いているとき外国人には状況がわかりにくいのです。炊きだしの情報が入らず苦労したと聞いたこともあります。

 また、電車に乗っていても外国人と日本人の情報格差を感じます。日本語ではコロナウイルスへの予防を呼び掛ける放送がされているのに英語では、どこまで行く電車なのか、次はどこに停車するかという情報しか伝わっていません。私が知る限り緊急停車した際もそのことは伝わっ いないと思います。

このようにいざと言うときの情報保証があまりされていないように感じています。

 コロナウイルスが流行しだしてから日々様々なメディアでその情報が伝えられています。しかし外国人に各地の感染状況などが伝わっているでしょうか。翻訳されたサイトなどを活用することもできますが、テレビをつけてすぐに情報が入ってくる日本人よりは苦労するのです。

 視覚障害者はどうでしょうか。外出先ではアルコール消毒が必須となっています。そのことはわかっていてもアルコールボトルの位置が店によってまちまちです。自分でアルコールを持ち歩いて対処している人も多いですが、これはとても困ることです。また、送られてきたワクチン接種券に期がつかずワクチン接種に時間がかかったという事例も聞きました。

 

 ここまでいかに取り残されている課などを書いてきましたが、それを主張してもなにも変わりません。我々情報弱者たちが自ら情報を得ようとする子ともとても大切です。視覚障害者であればスマートフォンが音声読み上げや文字拡大によって活用できます。外国人も翻訳されたサイトなど活用できると思います。しかしそれらから得られる情報は限りがあります。私たちももっとたくさんのことを知りたいのです。そんな時皆さんのほんの少しの声かけが本当にありがたいです。

 時間はかかるかもしれませんが互いに協力し合って情報弱者だけでなく誰もが情報から取り残されない社会を作っていくことが大切だと思います。そして暮らしやすい社会となることを願っています。

 

 

 

Y・H 高校3年生

 

 

 

「僕の頭は、ざる以下だ!」そう思って、自分の頭を何度も何度も両手の握りこぶしで

たたいた。

中学3年生の美術のテスト前夜のことだった。

仏像の名前を何度確認しても、次の瞬間には、紙に書けなくなっている。

たった漢字4.5文字の言葉を、数個覚えるのに1時間以上もかけた。

絶対忘れないようにと思ってベットに入ってからも何度も何度も繰り返した。

そのことで頭が一杯になったのに、次の日のテスト用紙には、言葉が思い浮かばず

書くことができなかった。

他のテスト科目も同様だった。覚えたはずの、数式、特に漢字の語句、テストの時間

になると思い出すことができなくなった。

また、今でも、忘れられない出来事がある。

眼科の病院の待合室で、返却されたテスト用紙をみて、母に叱られたことを。

覚えたはずの漢字の語句が、テストになって書けなかった。

どうして勉強してもできないの?やり方に問題があるんじゃないの?と言われて、

自分でもわからなくて苦しかった。

学校の検診で視力低下といわれ、眼科に検査しに来ている時のことだった。

そこからのことは、あまり覚えていない。いろいろな検査をして

書字障害、心因性視神経症という診断を受けた。高校一年生の初夏の出来事だ。

当時、私は、目の奥が痛くなって、目がチカチカして、見えなくなるという症状と、

激しい頭痛に襲われた。

教科書の字が、ゆがんで見えたりするようになり、それはストレスによる視力低下、

心因性視神経症のせいだったようだ。

高校一年生になるまで、自分に、障害があることは、わからなかった。

私の書字障害の症状は、(原因や症状は人によって異なると考えられているが、)

視覚情報処理の不全が原因で、字が汚い、書けない、漢字を覚えるのにとても苦労する。

というものだ。字は、書けるけれども汚くて

小さいますに文字を納められなかった。「字が汚くて読めない。ていねいに!」

という先生からのコメントは、いくつになっても変わらなかった。

漢字は、覚えてもすぐに忘れてしまうことが多かった。合格点をとるまで漢字テストを

受け続けなければならない、という小学生時代のチャレンジテストには、苦労した。

また、テスト前に、口頭でテストを友達と行うと、答えられるのに、用紙に書くとなると

言葉を思い出せなくなることもあった。

美術では、形を、上手にとらえられず、筆圧が弱く、もっと丁寧に描きなさいと言われることも多かった。高校になって

部活をやめることにした。速く走ることには、自信があり、陸上部に所属していたけれど

もノートを書き写す授業を何時間もうけたら、それだけで疲労が蓄積して、部活まで体力がもたなかった。

こんな風にひどい頭痛で視力低下になるまで、書字障害がわからなかったのは、認知度が低いことが原因の一つだ。小学校一年生の時に、

担任の先生に、「学習障害ではないか?」と疑われ、今回診断を受けた病院

で診てもらったことがあるのだが、その時は、許容範囲だといわれ診断名がつかなかった。

病院の先生にも、「8年前は、そこまで、この障害のことが、知られていなかったので、

診断名がつかなかったが、当時を振り返ってみると確かに書字障害の症状があります。」

と言われた。

通っている高校には、母が事情を話し、テストの際には、別室で受けさせてもらい、文字も大きく印刷してもらえるようになった。また、時間延長もしてもらえることとなった。

学校の先生は、今までに、そのような診断を受けた生徒は、聞いたことがなく、どのような配慮が必要なのかわからない。と戸惑っているようだった。

認知度が低いことで、問題となるのは、書字障害がある生徒さんの自己肯定感が

下がることだ。

私自身そうだったのだが、自分は、努力が足りないせいだと 自分をいつも攻め続けていた。どれほど努力したら

先生に指摘されなくなるのか?漢字を覚えられるのかと悩み、自分を追い詰めていた。

きっと、私のように自己肯定感を下げながら、勉強する意味を見失ってしまっている生徒さんも、大勢いるのではないかと思う。

そんな生徒さんがいたら、自分の努力不足と決めつける前に、この障害を疑ってほしい。

自分の障害を受け入れることにも時間がかかるかもしれない。私自身、突然、障害があるといわれ、特別な配慮を受けることに抵抗があった。

目に見えて視覚や聴覚に困難があるわけでもないので、クラスの友人

からもどのように思われるだろうと心配した。でも、声を上げれば、きっと周囲の人は、理解してくれる。

そして助けてくれる。その勇気が、今度は、同じように困っている誰かを助けることにつながり、誰一人取り残さない社会の現実に近づいていけると私は信じている。

 

 

 

松尾香奈 京都大学修士課程1回生

 

 

 

 医療技術の進歩が、マイノリティの「生」を脅かす時代となった。聴覚障害を人工内耳という科学技術によって「治す」ことが最良な治療手段とされようとしているのだ。

人工内耳とは、補聴器を装用してもまだ聞き取りが不十分なほどに重度な難聴者の補聴をサポートする人工臓器だ。なるべく低年齢な段階で埋め込み手術をおこなうことが推奨されている。人工内耳は、重度難聴者に音やことばの入力をもたらす画期的な医療技術として迎えられた。しかし、人工内耳は本当に聞こえない人々にとって画期的な医療技術なのだろうか。

 ところで、聴者の身近なところには、日本手話で考え、日本手話で話す「ろう者」が暮らしている。日本手話とは、日本語とは異なる文法を持つ自然言語だ。ジェスチャーとは異なり、言語としての体系が存在する。そして、この言語を第一言語として話す人々や後天的に習得した人々、習得しようとしている人々、CODAと呼ばれる「ろう者」の親を持つ子どもなど、多様な背景を持つ人々の集うコミュニティは、「ろう者コミュニティ」と呼ばれている。「ろう者コミュニティ」に足を踏み入れると、あちらこちらで手話が飛び交う賑やかな空間に誘われる。そこには、音のない世界で「生」が紡がれる、聴世界とは別の世界が広がっているのだ。

 人工内耳を推奨する人々にみえている世界は、おそらく聴世界だけだ。「ろう者」の世界を知らない。存在は知っていても、聴覚障害者が集まっているコミュニティ程度の認識で止まっており、実態は知らないままだ。それにもかかわらず、聞こえないなんて不幸だ、聞こえた方が幸せだというのは、一面的な価値観の押しつけ以外の何ものでもない。あたかもマジョリティの価値観が普遍的なものであるかのように振る舞っているだけなのだ。

 人工内耳の推奨は、優生思想だと私は思う。「ろう者」をマジョリティである聴者と同化させる、科学技術を介したろう者に対する差別だ。第一、どんなに科学技術が進歩しようと、「ろう者」が100%理解できる言語は手話であって、音声日本語ではない。そもそも、人工内耳を装用しても、聴者と同じように聞き取れるようになるわけではないといわれているからだ。同化させたに見えて、実はまったく同化していない。人工内耳は、聴者の世界から置いてけぼりにされるリスクを消失させるものではなく、会話をすべて聞き取れないジレンマを抱えるリスクを増大させるものである。

 たしかに、聴の親にとっては、子どもが自分と同じ言語を話す未来を描きやすくなる意味において、人工内耳は希望なのかもしれない。親には、子どもに人工内耳手術を受けさせる権利がある。それを奪う権利は誰にもないし、私もその権利を奪いたいとは思っていない。私が問題としているのは、手話で子育てをする選択肢があまり浸透していないこと、そしてその選択肢がきちんと親に提示されていないことだ。

 生まれたこどもが聞こえないとわかったとき、はじめて「ろう」の人間を目の当たりにする親もいる。「ろう者」を知らなかった親は、当然「ろう者」の世界のことも知らない。手話で生きる選択をした大人のろう者やその家族を知らないままに、人工内耳の手術を決断する親もいるくらいだ。

 聴者にとって最善の医療技術の提供を目指すのではなく、ろう児を取り巻く環境まで考え、ろう児にとって最善のケアとは何かについて考えて欲しい。人工内耳という選択肢しか提示しない偏りは、ろう児やその親から子育てする上での選択権を暗に剥奪していると考えられる。聴者にとっての最善は、必ずしも「ろう者」にとって最善ではない可能性がある。

 「誰ひとり取り残さない」——この誓いは、<マイノリティをあたかもマジョリティであるかのように扱いながら社会に包摂すること>として解釈されてしまう危うさも抱えている。マイノリティが社会参入するとき、マジョリティと異なる部分をわざわざ同化させなければならないのは、なぜだろう。ろう児が音声日本語の獲得を強要されなければならないのは、なぜだろう。聴者は、「ろう者」に対してなんの権限があるのだろう。

 どうか、ろう児から「ろう者」として生きる可能性、手話で育ち、手話で考え手話で話す「ろう者」になる未来を奪わないでほしい。

 NOTHING ABOUT US WITHOUT US!(私たちのことを私たち抜きにして決めないで!)

 これは、「障害者の権利に関する条約」が掲げている合言葉だ。ろう当事者たち抜きにして、ろう者の未来を決められる社会から脱却しなければいけない。人工内耳の普及が目指される現在において、心に留めておかないといけない大切な合言葉だ。

 

 

 

 

 

山口稔由 長崎大学多文化社会学部多文化社会学科国際公共政策コース 3年生

 

気づいたらみんないなかった。そんな学生生活だった。

 

 私は小中学校を通して、何度も転校を経験した。入学した学校で卒業できたのは、高校が初めてだった。繰り返す転校の中で、私は人付き合いが苦手になり、友達との関わり方がわからなくなった。中学生のある日、理科の実験で教室の移動があった。ふと周りを見渡すと、クラスメイトはすでに移動を終えた後だった。私だけが取り残された自教室。疎外感だけが強く残った。当時の私には、自分から話しかけられる人もいなかったし、そもそも話しかける勇気もなかった。

 また、その時の私は、転校先の教科書の違いから、未履修の分野も多くあった。テストでもこれまでにないほど低い点数を取ってしまい、置いていかれる、取り残されてしまう、という焦りがあった。私が人生で初めて塾に通い出したのは、まさにこの時期だった。その時の私は、焦りや不安でいっぱいだった。ちゃんと高校に行けるだろうか。友達はできるだろうか。そうした負の感情ばかりが募っていた。

 こうした経験は、私に限ったことではないだろう。転校していなくても、移動教室で取り残されている人はいるかもしれないし、一緒に過ごしていても、取り残されていると感じている人もいるかもしれない。

高校生になった私は、1年生の時、同じクラスに中国人の生徒がいた。彼女は親の仕事の都合で1年前に日本に来たばかりであり、日本語をほとんど話せず、また、聞き取ることも難しいようだった。私には中国語は全く分からず、意思疎通も英語や身振り手振りを使ってしか行うことができなかった。日本語話者の学校で、周りに日本人であふれているそのクラスにとって、こうしたコミュニケーションは、もちろん苦労することであっただろう。実際に何度も、難しさを感じることがあった。時間割の変更がうまく伝わっておらず、彼女だけ教科書を忘れてきてしまう、そんな日もあった。しかし、ここでだれも、彼女を取り残さず、一緒に頑張ったからこそ、私達は一緒に卒業の日を迎えることができたのではないかと思っている。「言葉が通じなくて大変だから」「自分には関係ないから」そうした考えではなく、皆が彼女のために、親身になって行動したからこその結果であると思う。

 「誰ひとり取り残さない」、これを実現するには、まずは「取り残されている人がいないかどうか」ということに気付くことが必要だと私は考える。そもそも取り残されている人に気付かなければ、誰も取り残されないように、と状況を改善する必要性を感じることもできない。取り残されている人に気付くこと、そして、手を差し伸べ、一緒に歩むことの必要性を認識してはじめて、「取り残さない」ことに繋がるのではないかと思う。「誰ひとり取り残さない」と聞くと、とても大きな話で、実現するのは難しいことのように聞こえるかもしれない。たしかに、自分一人が、世界中の誰しもを取り残さないことは難しいかもしれない。しかし、自分のクラスではどうだろうか。少し、周りを見渡してみてほしい。取り残されている人はいないだろうか。自分はその人と、手を取り合うことはできないだろうか。あなたの周りの、10人でも、5人でも、1人でもいい。あなたがあなたの周りを取り残さない、その積み重ねこそが、「誰ひとり取り残さない」社会に繋がるのだ。

 私は、中学生時代に「取り残された」記憶が、今でも鮮明に残っている。そして、誰にもあんな思いをしてほしくない、と思っている。私は、自分が得た経験を、これから取り残される人を少しずつでも減らしていけるように役立てていきたい。

中学生のあの時、取り残されていた過去の私には、今の私が取り残さずに、一緒に前を向いている。

 

 

 

 

 

前田幸汰 東京都市大学付属高等学校 3年生

 

 

 

 「てんかん」という病気のことをどのくらいの人が知っているのだろか。世界人口の0.5~1.0%にあたる約5000万人が罹患している病気で、日本においても約100万人の患者がいると予想されている。誰でもなりうる病気ではあるが、周囲からの正しい理解がないと偏見や差別を助長してしまう可能性がある。たとえば、アフリカのケニアではこの病気を「悪霊の仕業」と信じている人もおり、てんかん患者は社会や家族から差別や偏見を受けることが多く、なかにはうつ病になるほど追い込まれてしまう人もいる。偏った印象を抱かれやすい病気とされているぶん、「誰一人取り残さない」社会の実現に向けた市民社会の実践として、誤った情報による差別や偏見をなくさなくてはいけない。そのためにも、私を含め大多数の人が使用しているSNS等の媒体を通じて、情報を受け手側に正しく伝達すること、反対に受け手側は自身の思い込みによって情報を落とし込み、誤情報として他者に伝えてしまうと、社会全体で見たときに差別や偏見に晒される「取り残される人」が出てきてしまうことを認識すべきだ。まず、この情報化社会の現実に向き合うことが解決への一歩だと言え、法律制定などの具体的解決策以前に、私たちの社会を取り巻く誤情報により「取り残される人」が存在する現実を真摯に受け止めなくてはならない。

 2018年2月5日早朝、私は小児てんかんに罹患した。その日から日常は一変することになる。一ヶ月おきにある脳波検査と血液検査、毎食後の薬服用、薬の常時携帯など、こんな煩雑な日々をおくることになった自分の運命を憎んだ。別に誰が悪いわけでもない。なのに、その怒りを誰かにぶつけようとし、またその自分の情けない姿に怒りを覚える感情をなかば諦めている自分がいた。負のスパイラルが続き、私はすっかり笑うことが無くなってしまったほどだ。そんな時、周囲は他人が患う病気にどのくらいの関心を持ち、積極的に正しい知識を身につけようとする人がはたして何人いるのだろう、と疑問に思うことがあった。最も恐れるべきは、自分の内側に客観的な情報が乏しくなると、人々は自己判断で物事を簡潔に理解しようとするため、その口から「主観的な情報」が流布されやすくなることだ。これは私のように病気や障害を持つ者からすると辛いと同時に恐ろしい側面である。思い込みによって作り上げられた巨大な壁がいつの間にか健常者と障害者の間に出来ている、といったことも想定される。以下は、障害者が法的に区別されていた事例である。

 法律上、資格や免許の適性がないことを「欠格」というが、かつてのてんかん患者はこれに該当するため取得できない資格や免許が多くあったそうだ。現在では差別や偏見をなくすという観点から、航空機関連の免許や狩猟免許などに絞られ、かなり少なくなっているようだが、今から二十年ほど前までは美容師や理容師の免許取得も認められていなかった。てんかんという病気は一般的に薬を服用すれば、8割ぐらいの人が抑制できる。また決められた期間服用を続ければ、7~8割のひとが治癒する。こうした医学的事実があるにも関わらず、これまで挙げたような差別があったとされているのだ。

 自分とは何かが異なる他者を見たとき、罪悪感なく無意識的に「区別」する傾向は誰にでもある。もともと人は自分と他者は異なる存在だと認識しているので、このような「区別」は自然なことだと言える。しかし、この「区別」が徐々に「差別」に変化していくと、それが結果として偏見を生みだす。差別や偏見によって「取り残される人」が出てきてしまう。自分と違っていてもいい、という感覚を根付かせようとするにはかなりの時間を要するであろうし、寛大になるという点からすれば人生観を変える必要も出てくるだろう。実際、私が学校でてんかんを発症し、クラスメイトはその姿を目の当たりにして、この病気に対するイメージが一人歩きしていたこともあった。しかし、クラスメイトはその区別を自然と受け流し、私が何事も無い日常に戻ることができたのは、心の底から嬉しいことだった。

 情報自体は泣きも笑いもしない。ただ、それが人間によって扱われるときにさまざまな表情に変化する。情報の交信がしやすい現代だからこそ、悪意無く誤った情報とは知らずに発信と受信を繰り返すことがある。それが「取り残される人」を生んでしまっているという現実を頭の片隅に置いてもらいたい。スマホ画面の送信ボタンをタップする前に「本当にこの情報は正しいのか。これによって誤った認識が広まり、社会に新たな壁を作りはしまいか」と少しだけ考えてみてほしい。その情報の受け手側も安易に理解した気にならず、それを一度でも疑ってほしい。「取り残される人」をこれ以上生まないために、情報の向き合い方を再考することが問題解決の一歩になると私は考える。

 

 

 

 

 

若尾瑠美 都立新宿山吹高校 3年生

 

 

 

私はいつも疎外感を感じていた。普通に生きているということはどういうことなのかも、はっきり理解していなかった。周りの人から疎まれているというわけではないのに、なぜだか、自分は周りとちがうのではないかと思い続けていたのだ。

私は昔から言われたことをやるだけの子だったが、すべてはスムーズに進まなかった。すべてをこなすには、心も体も脆かった。でも、自主性がない自覚があったから、そんな意識でいたらダメだと言われるのが怖くて、助けを求めることができなくて、中学生のころには疲れ切って、もうどうでもよくなって、学校に行かなくなった。いろいろ教えてくれる人たちから離れた結果、こころが楽になり、はじめて「やれ」と言われたことをはっきりと拒否したくなった。拒否を覚えた私は、ずいぶんと生きやすくなったものの、自分のことを認めることが難しくなっていた。みんなが当たり前のように扱っていた「否定」を、どうしてか、自分は使ってはいけないような気がして悩むことになっていた。

だけど、私は日常生活が辛かったのだ。普通の人が当たり前にすることが辛く思えて、具体的になにが辛いのかを言葉にしても、誰にも伝わらない。人からしたら、そんなことは辛くもなんともないし、私は甘えているだけのものだとずっと頭の中で自分に言われ続けた。声に怯えて、ずっと家で横になり続けていた。私はなにも病名がない。ただの怠け者だと自分を責めながら。

結果的に、私は良い子であることをやめ、怠け者という汚名を背負っていく覚悟をすることで、進学直前に立ち直ることができた。普通にできなくても、他のことで努力できるならいいということにした。これで本当に良かったのかと思うところもあるけれど、人生はとっても楽しくなった。

普通の生活にどうにか適応しようとしているうちに、私は、昔の私のような、「あたりまえ」なことを辛く感じてしまうような人をすべて救いたいと思った。それは、どんな場面においても、普通から外れてしまう人が楽しく生きてほしいということだ。人間関係では、変わった言動、珍しい趣味、進んだ考え方、常識知らずといった理由で、人が嫌われたり遠巻きにされたりすることがよくある。それを人に言っても今は認めてもらえないということにすら気づけていないかもしれない。そんな人が悲しい目に会うのを見るのは、仕方ないことかもしれないけど、私にとっては辛いことだった。

SDGsをはじめて知ったのは、高校での授業だった。世界をよりよくするための目標を、どんな弱い者も例外なく実現しようという理念をうけて、私は驚いた。社会にとって迷惑であろう私のような人すらも輪に入れて改善していこうというのだ。こういう目標は、普通の人のためにあるものだとばかり思っていた。私だけでは普通ではないところがあるみんなを救うなんて到底無理だけど、国連のようなグローバルで大きな組織がこうして目標を掲げてくれていたことは、とても心強いことだった。

だれかにひとつ取り柄があるというわけではない。天が一物も与えないことだって、いくらでもあるだろう。「あたりまえ」ができることすら、幸せなことだと思う。私は私のできる範囲で、苦しんでいる人の力になりたい。「あたりまえ」という言葉で人を殴りたくない。一度、これはできて当然という考えを捨てて、人に対する期待値を下げてみてはどうか。できる人がすごい、そう考えていてくれるだけで、認められる人がいる。できない人を、できる人がサポートすればいいだろう。完璧な人などいないという言葉を信じるならば、どんな人同士であっても、片方ができて片方ができないことは絶対にあるはずだ。誰かだけが犠牲になることはない。

「誰ひとり取り残さない」ためには、「あたりまえ」からできない、わからないような、もっとも困難を覚えている人に焦点をあてていくことが必要だろう。私はそう考えてから、人により優しく接するようにしている。自分ができて相手ができないことがあれば自分から進んで、代わりにやったり、相手が望むなら教えたり、生活面や勉強問わず、仲の良さも立場も問わず、できるだけたくさんの人の役に立とうとしている。空回りだってするし、ありがた迷惑になってしまったこともある。でも、もし少しでも誰かの役に立てているならばそれでいいと思う。どんな些細なことも積もっていけば、人の生きやすさに繋がると信じているから。

 

 

 

 

 

塚田優也 埼玉大学大学院

 

 

 

個人的な話をする。

 

今、俺はiQOSと紙巻きの併用をしている。

iQOSはレギュラーのやつ、紙巻きはセブンスターかラークのクラシックマイルド、ごく偶にハイライト。

かつてはiQOS特有の豆を焼いたような匂い——この表現は思いのほか共感を得にくいのだが——が苦手だったが、今はもう慣れてしまった。

他の人の話では聞いたことがないのだが、俺の場合、夏場にiQOSを吸うと原因不明の眩暈がするので、その時期は紙巻きオンリーにしている。

一日に吸う本数に多少の波はあるが、ざっと均して、三日に二箱くらいのペース。

 

ふと思えば、大学に入ってからできた友達は、ほとんど全員喫煙者だ。それもみんな大抵俺と違う学部で、喫煙所でしゃべることがきっかけで仲が深まったりすることが多かった。彼らとの出会いも、喫煙(所?)がもたらす身体的密度、あるいはそれとは別の、ある種の「非-身体的なもの」とでも呼ぶべきもののおかげなのかもしれない。

 

俺は、小学生の頃からゲームセンターに通い詰めていた。

そこには大きく分けて二つのゾーンがあった。一方には子供向けのカードゲーム、そしてUFOキャッチャーとメダルゲームが置かれた区画、もう一方には、格ゲーやレーシングのゲーム、あとはなんか麻雀のアーケード筐体とかが並んでいる区画があった。つまり、それぞれ利用者の年齢層が異なっていた。なので、前者のゾーンは基本的に禁煙だったが、後者の方はいつもタバコの匂いが充満していた。

子供向けカードゲームに熱狂していたのは低〜中学年の途中くらい?までだったと思う。それに飽きてから、俺は煙たい方の区画にあるゲームにハマっていった。高学年くらいの時はロボットアニメのゲーム、中学に上がってからはサッカーのゲーム。これらもやはりカードゲームの部類なのだが、どちらも1プレイのクレジットが300円とかだった。そんな金のかかるゲームを手放しでやりこませてくれるほど、うちの保護者——そのゲームセンターは小学生が家から自転車で行くにはやや遠く、日中働きに出ていた母の代わりに、主に祖母が連れて行ってくれていた——の財布の紐はゆるくなかった。なので、テストの成績などで稼いだなけなしの小遣いをなんとかかき集め、友達と一緒に週末に注ぎ込みに行ったりした。

 

あのゲーセンで嗅いだ副流煙は、特別に憧れるような「オトナの匂い」ではなかったし、そこで喫煙していた人たちも、特段カッコよかったわけでもなかった。単純に、そういう環境があって、そこは楽しいところだったのだ。加えて、母も喫煙者だ。助手席に座って嗅いだ、ハンドルを握っていない方の母の手から漂う匂いは、至極当たり前のものだった。俺が喫煙を始めてから、数えてまだ2、3年くらいしか経っていないが、あの初めて吸った時を節目に、何かがガラッと変わった、みたいな感じは、あまりしていない。だから、タバコやめなよ、臭いよ、健康に悪いよ、と言われることが最近になって増えてきたのだが、そんなことをいわれても、なんというか、仕方がないんだよなぁ、と、力なく思うのだ。

 

最近ちょっとショックだったのは、そのようなことを教授に言われた時だった。俺が「2年か3年くらいです」と言ったら、先生は「まだ間に合うわね」と言われた。一瞬「何が?」と思ったが、すぐに「今ならまだ、タバコで健康を損ねることなく生きる道に戻れるね」という意味だと理解した。

 

当然、先生には先生の事情があって、そして俺への真心から、「間に合うわね」と仰ったのだ。というのも、俺に語ってくれた話では、先生もかつてはヘビースモーカーだったそうだ。——若いころ、憧れのようなものから喫煙を始めた、子供を産んでからも、しばらくはベランダで隠れて吸っていた、と。そして今、おそらくそれが原因で、先生は呼吸器系に不調をかかえていらっしゃる。将来ながく健康に生きていく、ということを考えるなら、先生のこのお気遣いは決して安易に無碍にすべきではない。

 

——しかし、俺がタバコをやめたら、あの煙たいゲーセンや、運転席の母の手から現在までずっと続いている、俺が大好きな、あの当たり前の何かが、ひょっとするとあっさり死んでしまうのではないか?俺にはそんな気がしてならない。もしそうなったら、と考えると、俺はどうしようもなく、そっちの方が怖い。今の俺は、いや、おそらくこれからもずっと、俺はそう思わずにはいられないだろう。

 

 

 

 

 

土肥美桜 KTCおおぞら高等学院 2年生

 

 

 

私は、摂食障害と醜形恐怖症を患っている。これを聞いて、皆さんはどう思っただろうか。生活が大変そうだな、可哀想、と思った方も多いかもしれない。確かに、日常生活の中で病気の症状そのものに悩まされることはとても多い。しかしながら、私としては、周囲からの理解が得られないことや助けてもらえる手段が少ないこと、差別されることなどに苦しむほうが圧倒的に多いと感じている。

ある日、摂食障害についてインターネットで検索をしていた時のことだ。とあるサイトで「摂食障害」という題名のついている掲示板を見つけ、きっと当事者が症状について語り合っている自助グループのような場所だ、と推測した私は、そのページをクリックしてみた。するとそこには、あろうことか摂食障害患者についての罵倒や悪口が書き連ねられていた。「摂食障害は単なる甘え」「自己管理のできない馬鹿がなる病気」「発達障害患者の温床」など、酷い文言が所狭しと並んでいる有様だった。これらの悪口は、大多数が摂食障害の当事者ではない人間によって書かれたものだと推測できた。なぜ病に苦しんでいる人が全く関係のない人に罵られたり、傷つけられたりしなければいけないのだろう、と非常に虚しい気持ちになったのを覚えている。

また、醜形恐怖症についても、やはりなかなか理解を得られない。鏡を見て泣いてしまうことや、化粧の出来映えによって気持ちの浮き沈みが激しいことに関して、「頭がおかしいのでは」「気持ち悪い」「容姿に固執して中身を磨こうとしない、短絡的思考だ」など、心無い言葉を浴びせられることもある。

このように、精神疾患に対して偏見を持たれてしまうことは往々にしてある。そのため人々は、周囲への相談や精神科・心療内科の受診を避ける傾向にある。世間から「異常者」のレッテルを張られるのが怖いのだ。例えば、子ども自身が精神疾患にかかっているかもしれないことに気づいたとき、病院に行きたいと親に頼んでも、世間体を気にして連れて行ってもらえない場合がある。事実私の友人はそんな状況に長い間苦しめられていた。また、自分が精神疾患を持っていることが友達にばれたら虐められるかもしれないという恐怖心から、誰かに相談するという選択肢を自ら消してしまう場合もある。大人でも、仕事への影響や組織からの評価を懸念し、自分をだましだまし生きている場合が少なくない。そして、周りの人に助けを求めることができないまま日々追い詰められていき、自傷行為がエスカレートしたり、最悪の場合自死を選んでしまったりする。

これこそが、精神疾患の闇である。私は、社会福祉の体制より、世の中の人々がかけている色眼鏡にこそ大きな問題があると考えている。きちんと周囲からサポートを受けられる・病院と繋がれる人ばかりではない。身体の病気とは違い、外からはわからないことがほとんどであるため、自ら声を上げなければ支援を受けることができない。けれども偏見の目が怖いがゆえに相談できないまま、独りで抱え込んで孤独に苦しんでいる人は予想以上に多い。それは日本人の自殺率が他の先進国に比べて高いことからもうかがえるだろう。そういった社会から取り残された人々がいなくなるためには、一番に偏見や差別をなくす必要がある。精神病だから、という理由で差別するのは絶対に間違っていると思う。最近では新型コロナウイルス感染者に対する差別や誹謗中傷が問題になっているが、それと同じことだ。患者が悪いわけではないのに、理由もなく差別する人、区別と排斥を混同している人があまりに多すぎる。そんなことがまかり通る世の中では病気を隠したくなるのも当然であり、助けを求められない人の置かれる状況は深刻化していくと思う。

現代人の五大疾病に鬱病が入っているように、今や誰もがメンタルを病んでしまう可能性のある時代だ。決して奇異な話ではないのである。もし、自分が患者の立場で理不尽な差別を受けたら。肩身の狭い思いをして生きることを想像し、怖くなって誰にも相談できずに独りで苦しむことになったら。どうだろうか。当事者の立場になって考えてみれば、飛び交う言葉がどれほど鋭く痛いものか、おのずとわかってくるのではないか。

病気のあるなしにかかわらず、皆同じ人間なのだ。誰に対しても、フェアな態度で対応するべきである。そうして世の中の意識を変化させることが、精神疾患を打ち明けられずに苦しむ、いわば取り残された人々を救うと思う。まずは私自身が、人に先入観を持つのをやめて、公平に思いやりを持って生きていきたい。近い将来、差別や偏見がなく誰一人として取り残されない社会になることを信じて。

 

 

 

 

 

佐藤 力 ウェンデル 加古川マリンガ外国語センター・マリンガ日本語学校

 

 

 

 「誰一人取り残さない」。貴方は人を愛してますか?

 僕は日系ブラジル人四世である。日本人でもブラジル人でもない、二つの国の文化や言語と一緒に育って来た。ブラジルで生まれたのに鏡を見るとどこからどう見ても日本人。同然な事である。なぜなら自分の曽祖父母達は皆日本から移民して来た日本人だから。だが自分が日本人だと言うとピンとこない、「ブラジルで生まれた日本人」と言えば正しいのだろうか。ブラジル人の目から見ると日本人、日本人から見ると外国人。僕はどちらでもない日系ブラジル人だ。

 母国ではない国で育つと言うのは差別を知ることだろうか。母が心込めて作った梅干入りのり巻きおにぎりと甘い卵焼きの日本式弁当を学校に持っていくと生徒達から変な目で見られる。あの気持悪目線、まるで見たこともない物を見る目。自分だけが違うと感じるとは孤独だと知った。世界のどこかでも僕が体験した似たような差別は有るだろう、人種、文化、障害など。「何かが違う」の前に、皆人間である。人と言うのは「どこか似ててどこか違う」。残念ながらこの広い世の中では人間としての基本ができていない人が沢山いる。「他人と自分の違いを受け入れる」と言った単純なことを知らずに差別を行ってしまう人がそこら中にいる。だが大事なのは他人が何を行動する事では無く自分がどう行動することである。

 この世界で全員が差別しなくなると言うのは難しいだろう。だが不可能ではない。もっと良い未来を望んでいる人々が必ずいる。少しずつ一人一人が新しい考えと思いを乗せた運動が世界を変えるだろう。それは人間性を取り戻す革命だ。どこかの西方の人が言う「神を愛し、自分を愛し、人に愛を持ち」を実現実行に移すことだ。人を人間として愛し、違い問わず愛すること。世界が愛で包まれる革命だ。「唯の理想を語る少年」と思われるかもしれないが誰しも願うことではないだろうか。今まで散々と争い、貶し、互いに憎みあった歴史の上で平和な未来を願ってはいけないだろうか。世界で様々な運動が起こっている中でこれもその一つである。だが勘違いしてはいけないことが一つある。それは皆同じではない事、一人一人は違う性格、考え、思い、道徳や倫理を持っていると云う事だ。「違いを受け入れる」は「全員が同じ」ではない。

 きっと遠い未来の世界は明るいだろう。基本精神「誰一人取り残さない」は昔も今も変わらず未来でも変わらない。だがどの時代でも社会の中に反対を訴える思想を持つ者が現れて声を上げるだろう。そこで世界は罪人に罰を与えて終るだろうか。それとも思想自体を消すだろうか。選択肢を選ぶのは世界だろうか自分だろうか。未来を作るのは貴方ではないだろうか?

 

 

 

邢(しん)依嫻( いーしゃん) 都立国際高校(卒業)→進学準備中

 

 

 

 電車のドア側に、制服を着ている少女は、誰にも理解されていない悩みを抱えている。私は、中2の時に来日し、日本語が全くわからない状態で公立中学校に入学した。入学してから中学校を卒業するまで学校での疎外感で生まれた心の傷は今でも癒えていない。私と同様に外国人であったクラスメイト二人は中学校を中退し、一層孤独な日々を送ることになった。夜は悩みを聞いてくれる家族がいたが、朝になると憂鬱な学校が始まる。「在日外国人」という埋められない溝を感じる毎日だった。明るい性格だった私は、高校に入り、当時の新鮮感が消えてしまい、残ったのは日本人への恐怖心だけだった。一見して外国人差別防止や日本語支援の取り組みが充実している。しかし残念なことに、「誰ひとりも取り残さない社会」という理想を掲げる中で、学校で無意識に外国人の子どもを「よそ者」として捉えられがちのことが私たちの生活空間に至るところにあふれている。

 データから見ると、全国の小・中学生における不登校生徒割合は1.7%であるのに対して、不就学と推定される外国人子どもの割合は11.3%、約日本人の6.7倍である。原因はマイノリティの彼らが学校で生じる疎外感や日本語の不自由で生じた日本語への抵抗感、進学意欲の低下につながる。そこで昨年、私が参加している外国人子ども支援ボランティアの現場では、コロナ感染拡大防止のために授業形態を対面とオンラインを選択できるようにしたところ、全ての児童がオンラインを選択した上に、参加率も上がった。子どもたちの立場で考えるという一貫して続けてきた私のこだわりに基づいてこの現象を捉えたとき、コロナへの不安とは別の要因が隠れているような気がした。日本語を第二言語として学習者である外国人子どもの不安は外国語学習環境と相関関係にあるため、対面からオンラインへ変化させることで、環境から受ける影響は大きく軽減されるだろう。したがって、つらい経験をしていて、一度「不登校」になりそうな私は、外国人子ども向けの日本語支援をオンライン化することを提案する。

 別の教室で指導を行う「取り出し授業」と授業中に支援者が入って、日本語支援を行う「入り込み授業」は、現在学校で行われている外国人子どもを対象とする日本語支援である。しかし、実際にこの「特別扱い」は、外国人子どもの学校での疎外感を感じさせる要因の一つとなるのだ。そのため、まず第一歩として、この日本語支援を廃除し、その分を土日や放課後の時間を利用して、オンラインで行うべきだと考える。なぜかというと、日本人生徒と同じ空間や時間を授業を受けることを確保することによって、外国人子どもの学校での特別扱いで生じた疎外感の取除きに有効だからだ。それ以外にも、現状として日本語教室の通いにくさによる日本語教室の出席率の悪さや、外国人散在地域の充分な日本語指導されていないことも、時間や場所の制約がないという特徴をもつオンラインツールで経験のある支援員による、支援の行き届いていない外国人散在地域の子どもにまで届くことができるだろう。

 また、日本語支援に関しては、日本語指導者から間違えを指摘されるかという不安による、日本語への抵抗感が生じてしまうことのみならず、反対に幼児に対して話すように過度に優しく接されたりすることも外国人子どもが日本語への抵抗感につながる。このように、相手や周囲の反応に敏感になり、うまく話せていないのではないかと不安が増大し、その負担による日本語学習にも集中できなくなるのだ。そのため、外国人子ども向けのオンライン学習システムでは、生徒と教師対等的な授業仕組みを重視すべきだ。具体的には、教師による授業を行うオンライン「教室」という既成概念を打破する必要がある。従来のインプットを中心にする日本語指導法のではなく、教師と生徒の相互関係から脱却し、互いに楽しく会話をする「トークルーム」という形の日本語指導法を提案したい。加えて、会話によるつながりを促すような設計で、居場所感も生み出すことができる。このように、すべての外国人子どもに最適の日本語教育を届き、彼らを誰ひとり取り残さない社会に進めたい。

 私は、世の中、理不尽な事がたくさんあると思う。しかし、それだからこそ、本当の意味のSDGsの基本精神の「誰ひとり取り残さない」社会に一歩でも近づくために、私たちがそれを変えていく使命感が生まれて、行動をするのだ。

 

 

 

 

 

煙山実穂 横浜国立大学1年生

 

 

 

 今日の朝食は、1/5合の米とベーコンエッグ。昼食はもやしと卵の炒め物とトマト半分。夕食はトマト半分。この食生活は、関東に住む大学生の「普通」なのだろうか。

 私は奨学金を受給し、その範囲内で食品や日用品を購入している。私の通っていた高校では奨学金を借りて大学に進学する人は多くいたため、最初こそ借金への不安はあったもののそれも薄れていった。一人暮らしを始め、私は節約をすることに楽しみすら感じていた。特に食費は抑えられるように努力している。しかししばらくして、周囲との少しのずれに違和感をおぼえるようになった。学生食堂でご飯を食べる人たちは、トレーいっぱいに料理を並べている。私はなるべく安い品を2,3品。サークルの仲間は、毎回自動販売機から飲み物を買っている。私にはそんなことはできない。必ず水筒を持参し、忘れた場合は我慢する。他人の生活レベルの詳細はわからない。私は、大学生は節約して生活をするのが当たり前だと思っていたし、今の生活に不満はない。しかし、私の生活は周りと比べてずれているのかもしれないという不安が生まれた。周りは豊かな生活を享受しているなか、取り残されているのかもしれないと思った。他人の生活レベルがわからないからこそ生まれた不安かもしれない。この不安は私一人では解消し難いものである。友達であっても、毎日の食生活について詳細に尋ねるのは気がひける。相対的貧困は、本人が自覚しづらいということの意味がよくわかった。周りの生活のことは本当に不透明であり、わざわざ知ろうともしないのだ。もし多少周りとのずれに勘づいていたとしても、それを確認する勇気はない。

 「誰ひとり取り残さない」という言葉は、どこからの視点の言葉なのだろうか。周囲に奨学金を受給する人が大勢いた私は、「取り残されて」いなかったと思う。環境の変化、土地の変化によって、どのような生活レベルや幸福度の人が取り残されることになるのかの基準も変化する。例えば、戸建ての物件を購入することの重大さは、都心地域と田舎では大きく異なる。先進国の基準で考えれば、途上国の人々は取り残されているのかもしれない。一方で、我々が当事者と想定する人々は、その対象になるとは思いもしないかもしれない。しかし、本人が不自由を感じていなければよいという問題でもない。はじめは感じていた不自由が、日常の中でかき消された可能性もある。そこで私は、世界で望まれる環境を広く提示し、当事者との話し合いを十分に設けて、どう生活していきたいのかの見通しを立てる必要があると考える。これは金銭面に限った話ではない。宗教、性別、思想などにおいて、当事者になり得る人に現状について周知することから始める必要がある。自分が周りから取り残されている事実を知ってショックを受ける人もいることだろう。私もその可能性に気付いてショックを受けた。ショックを受けた人へのケアも含めて、責任ある活動が求められる。

 ひとりでは「格差」も「取り残される」こともあり得ない。人との関係があって初めて生じるものである。多くの人との関係から成り立つ社会で生きていくためには、みんなが社会を、生活を「知っている」ことから始めよう。周囲の人々に取り残されているかもしれない私の不安は、彼らの生活をもっと知れば、解消される部分が大きいだろう。今後どのように行動すればよいかの検討ができるからである。さらにショックを受けることもあるかもしれないが、もしそのケアをしてもらえるのであれば、知ることへの勇気も生まれる。みんなが互いの世界を知ったら、みんなで未来について考えていけるはずだ。その勇気を与えあえる世界を私は望む。

 

 

 

 

 

渡邉光砂 常葉大学 4年生

 

 

 

「そんな性格じゃこの先、生きていけないよ。」これは私が21年間の人生で1番苦しかった言葉です。HSPという言葉を聞いて、何人の人が知っていると答えるでしょうか。私の周りでは片手で足りる人数しかいませんでした。ここではHSPの日常生活や抱える問題を、自分の体験も踏まえてお話します。

私は幼い頃から、自分の性格を好きになれませんでした。何故なら、周りの大人に「性格を変えていかなきゃ」と言われて育ってきたからです。そしてその期待に応えようとしても変わらない自分が嫌いで、同時に変わってしまう自分も嫌いでした。どうやって生きていけばいいのか分からないまま20歳になり、偶然本屋さんで武田友紀先生の『「繊細さん」の本』に出会いました。私はそこで初めて自分のHSP気質を知り、それは変えることのできない、変える必要のないものだと知りました。その時スッと気持ちは晴れやかになり、自分の性格を受け入れようと思えました。しかし、周りの人々には説明が必須であり、実際には届かないことが多いのです。

私たちが直面する問題の1つに、「認知度の低さ」があります。HSPとは「感受性が強くて敏感な気質を持った人」という意味で、全人口の15~20%がHSPと考えられています。日本では芸能人がSNSで告白したことで広く知られるきっかけとなりましたが、用語としての定着率はかなり低いと言えます。私は以前アルバイト先で店長にHSPだと告白したことがあります。その時返ってきた返事は「それは病気なの?病気じゃないならただの思い込みだよね。」「気持ちの持ちようでどうにでもなるでしょ。」です。自分達はまだ分かってもらえないんだ、と深く傷つきました。そしてHSPの説明もできず、「そうですよね、頑張ります。」と、その場を苦笑いで終わらせました。このような体験はHSPの人達では珍しくないと思います。時にはHSPのことを知らなくても、詳しく話を聞いてくれる人もいます。しかし、大半の場合はHSPの気質を「思い込み」だと言われてしまい、私たちは「思い込み」だと信じてしまいます。その結果、理解されない苦しみを背負い、自分を責め続ける生活を送ります。自分が間違っているんだと認識せざるを得ない環境で生きる私たちは、正しく「社会に取り残されている人」であると言えます。

更に、私たちは社会から自信を奪われています。それは、一般的に気にしないことが社会の普通になっているからです。世の中にはHSPと非HSPが存在し、それぞれの感覚を完全に理解することは困難です。例えば、HSPの「気にしてしまう感覚」と非HSPの「気にしない感覚」は互いに理解できないのです。しかし、社会の中で良しとされる感覚は非HSPの「気にしない感覚」です。それは単純に非HSP人口の割合もありますが、より楽観的な思考が求められやすい社会であり、私たちが自分を押し出せない性格であるからだと私は思います。仕事の仕方や技術面において求められることは様々ですが、考え方を半強制的に非HSPよりに教育されているように感じます。お互いに理解できないからこそ、尊重し合う言葉かけが重要であり、自分や社会の普通を押し付けることはしてはいけません。私たちが「社会に取り残されている人」から脱出するための一歩として、社会の共通概念を取り払うべきではないでしょうか。個人の個性や気質といった変える必要のないものを変えてまで、私は社会の求める人材になりたくないです。

HSPは障がいでも病気でもありません。だからと言って軽い考えで見捨てないでください。HSPは生まれ持った気質であり、変える必要のない個性です。まず私たち自身がHSPであると自覚すること、そしてそれを受け入れる環境があることが理想です。しかし、私たちが安心できる環境があるとはまだ言えません。非HSP の人達の何気ない一言が、HSP の普通を欠点に変えてしまうこともあるのです。私たちは人に気づかれにくい場所で取り残されていています。この文章を読んで、非HSPの人達が自分の周りにいるHSPの人達を意識して、「社会の普通」を考え直す機会になったら嬉しいです。

 

 

 

 

 

福水実歩 日本たばこ産業株式会社

 

 

 

あなたが今、見えている範囲は、どこからどこまでの間ですか。いったい何の質問だろう、そう思う方もいるかもしれません。しかし、SDGsにおける「誰ひとり取り残さない」ということを考える上で、自分の視野や視座について正しく知ることはとても大切なことであると考えます。「取り残される人」の視点でものごとを考えるためには、まず自分の視点について、私たちみんなで知っていく努力をしなければなりません。

私も、マイノリティとしてたくさん「取り残されている」と感じてきた身です。障害者手帳を持っていて、中学校・高校にはまともに通えず、無意識の偏見に日々晒され続け、今も苦しい思いをしています。また、家父長制によるジェンダーロールの押し付けに苦しむ女性であり、最近では自分がセクシュアリティにおいてもマイノリティであるということに自覚的になりました。しかしその一方で、「取り残してしまった」と感じる瞬間もたくさんあります。自分自身についてよくよく考えてみると、大卒で、首都圏に在住し、正規雇用者であり、文化的・経済的なマジョリティです。また、日本に住む日本人という意味において、この国における民族的マジョリティです。もちろん、今挙げたものの他にももっとたくさんあるでしょう。

私は言ってしまえば、マイノリティとして社会全体の視野から外れている存在です。世間一般のあらゆるものは健常者向けにできていますし、意志決定層にいるのは今もほとんどが男性です。また、結婚して子供を持てることは当たり前だとされていますし、他にも社会のあらゆるものが私に息苦しさを与えています。その一方で、私自身が視野から外してしまっている存在もたくさんいるはずです。食べ物に困らなくて当たり前、住む家があって当たり前、大学に行けて当たり前、就活できて当たり前、電車に乗って移動できて当たり前……何より、私は今このような場で文章を書けるだけの様々な「当たり前」を持っています。このような長い文章を書くために必要な最低限の文章力を学校で身につけることができていて、それをパソコンで打ち込み、応募することができます。そもそもこのコンテストを知ることができたのはインターネットにアクセスできる環境があったからです。また、生活にある程度の余裕がないと条件がそろっていても応募する気になれないでしょう。これらは、本来は全く当たり前のことではありません。よく「隣の芝生は青く見える」と言いますが、自分の家の芝生はどれくらい青いのかということについては誰も意識しません。自分の家の芝生の青さを正しく認識した上で、他人の家の芝生を眼差す必要があります。

話を冒頭の視野の話に戻します。同じ範囲を見るのでも、視点が違えば見え方も変わります。例えば、同じ町を見るのでも、丘の上から見た景色とふもとから見る景色では違うでしょう。また、視点だけでなく自分がどのような存在として周りと関わっているのかということも重要です。鳥になって空から街を眺めるのと、地べたを這うアリになって雑草の隙間から街を見上げるのでは意味が全く異なってくると思います。自分は、どこの場所から、どのように見ているのでしょうか。その視野に入れていない人は誰でしょうか。

自分ばかり見ていても、自分のことはわかりません。そして、一人の人間の見える範囲は限られている、というのは動かしようのない事実だと思います。そこで視野を無理やり広げようとするのではなく、まずは今自分がどこの視点に立ち、どのような景色を見ているのか。逆に、どこが見えていないのか。そこを正確に把握する必要があります。無理やりわかり合おうとして、わかった気になるのではなく、むしろ「分かり合えなさ」を共有する。そして、自分の見えない部分である「死角」を認めた上で、そこについては想像力を働かせ、補う必要があります。

では、その「想像力」はどのようにして働かせればよいのでしょうか。以前、英語が得意な友人が教えてくれた言葉にempathyという単語があります。empathyは単なる共感であるsympathyと違い、相手を想い、相手に自分を重ねあわせ、相手のシチュエーションを理解することで「気持ちを分かちあう」ことだそうです。今、私たちに求められているのはまさにempathyをする力だと思います。取り残された人に対し他人事として「かわいそう」と共感して終わるのではなく、これが自分だったら、と相手の置かれたシチュエーションを自分事として捉え、一緒に解決の方法を探る。

現在は、マイノリティ側が助けを求め、マジョリティ側が共感の度合いに応じてそれに応えるという図式になってしまっていると思います。しかし、もう従来のやり方では通用しません。自分の視点をきちんと把握した上で、他者の視点に「なり込む」。これは、取り残された側が頑張ることではなく、取り残してしまっている側の責任なのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

廣瀬日乃 東京高等学校 2年生

 

 

 

「毎日つまらない」「生きるのだるい」

 

 私は日本で16年間生きてきて、こういった言葉を何回聞いたのだろう。その中には、過去に自分が発した言葉もある。しかし最近、このような言葉を耳にするとなんとも表現し難い気持ちになる。自分が特段に恵まれていることに気が付いたからだ。といっても私は大富豪でも、頭脳明晰でも、容姿端麗でもない。しかし、自分の「生存」に不安なく日々を過ごすことができることは本当に、本当に幸せなことだと分かったのだ。今この瞬間も何人の人が貧困に苦しみ、銃撃に怯え、自分の「生存」を強く願っていることか。理不尽に国際社会から取り残されて亡くなった人々は、何を思いながら死んでいったのか。こんなことを考えていると、毎日が退屈だとか、生きるのが面倒だとか、口が裂けても言えない。心に浮かびもしなくなった。ただ彼らの心のうちを想像して肩を落とし、自分は幸せだとぼんやりと思うことしかできなかった。

 

 では、人々を苦しめている原因は何か。苦しんでいる人を「取り残している」原因は何か。私はいくつかの国際問題とその原因を見ていく中で、自分自身も加害者になりうる、既になっているかもしれないということに気が付いた。この気付きを説明する上で、「無知」というキーワードを挙げたい。私は、無知は人々を無意識的に加害者に変貌させてしまうと考える。無知は恐ろしい凶器だ。時に、ナイフよりも鋭利な刃となって人々に襲いかかる。もちろん直接ではない。自分の無知、またはそれに伴う行動によって、地球の裏側の誰かを苦しめているかもしれないということだ。

 

 貧困問題における支援を例にする。豊かな人々はしばしば貧しい人々に対して衣類などの物資を寄付する。それらが届けられる先が難民キャンプなどの臨時の住居地であったなら、この寄付は有用なものだろう。しかし物資が届けられる先が現地の人々が各々の生活を営む地域だったらどうだろうか。もしも衣類の支援物資が届く地域に衣類を手で編み売ることで生活している人々がいたならば、間違いなく彼らのビジネスは衰退するだろう。無料の支援物資、または安価に再販される商品に対抗することは難しいからだ。すると、今まで生活ができていた人々までを貧困に追いやることになる。もちろん寄付した側(個人)は自分の寄付が現地の生産者を苦しめるなど夢にも思わないだろう。むしろ「貧しい人たちの助けになれば」と思って寄付をしたはずだ。この”善意”が人々を苦しめる”凶器”に変貌した理由は「無知」であると言える。豊かな人々の「無知の支援」は、時に貧しい人々の問題を悪化させるのだ。善意が凶器になるというのは、あまりにも悲しい。私は自分もそれに加担し得るということに気が付き、ゾッとした。こういった例は、実際にはもう少し複雑な過程があるのかもしれない。だが、問題は寄付をする人々の中にここまで考え、知ろうとする人はどのくらいいるのかということだ。他にも無知が招く問題はたくさんある。こういった事態を避けるためには、「知ろうとする姿勢」が重要だと思う。「無関心」が無知につながる一番の原因だ。「遠い国の問題や紛争は自分には関係ない」と何も知ろうとしないことは大問題だ。また、何も知らず、知ろうとせず、寄付だけするのも無責任だと私は主張したい。自分が寄付をするときは、その寄付が具体的にどういった形で届けられるのか調べてみて欲しい。

 

 日本は、たくさんの国との繋がり、国際社会の上で成り立っている。遠い国の石油や天然資源、農産物を使わず、食べずに生きている人はほとんどいないだろう。国際社会からの恩恵を受け、授け生きている私たちには、国際社会の問題を知り、どうしたら解決できるか考え続ける責任がある。問題の根源は何か社会に問いかける権利がある。自分たちの豊かさと国際問題は表裏一体だということを理解する必要がある。

 

 私は、人間という括りに国家も宗教も民族もなんら関係し得ないと信じている。肌の色が違っても、住んでいる国が違っても、考え方が違っても、たとえ一生出会うことがなくても、私とあなた、私と彼らの間に違いなんてないと強く信じたい。私たちは私たちだ。これは言語や文化、価値観の話ではない。誰もが必死に今日を生きようとしているという事実、自分の「生存」を強く願っているということに違いはないということだ。平和ボケした考えだと思われるかもしれない。そう思ったならば、試しに地球儀を眺めてみてほしい。そこには「世界はひとつだ」という紛れもない事実があるはずだ。

 

 冒頭で、「ただ彼らの心のうちを想像して肩を落とし、自分は幸せだとぼんやりと思うことしかできなかった。」と言った。でもそんなことはなかった。私たちが「知ろうとすること」そして「世界はひとつだということ」を意識すれば、必ずより良い未来がやってくる。これをもって、「誰一人取り残さない」ための日本社会への提言とする。

 

 

 

 

 

菊地智代 横浜国立大学1年生

 

 

 

取り残される人、この言葉を聞いて私は小学生の頃のことを思い出した。私はよく取り残される子だった。体育の授業の時や理科の実験の時、先生に二人組やグループを作ってと言われた時によく取り残されていた。だから先生の「好きな人と組んでいいよ」の言葉が怖かった。私は何かわかりやすくハンデを持っているわけではない。ただ人よりも少しコミュニケーションが下手で少し引っ込み思案な子だったのだ。学校という小さな社会の中で取り残されるということは苦痛に値する。周りからの視線、場の空気、気まずさ、なんだかそこにいてはいけないような気分になる。いわゆる思春期を迎えつつあるころで何よりも周りを気にしがちな時期だろう。それに耐えきれずに学校に来なくなってしまう子もいるのではないだろうか。私も何度も学校に行きたくないと思い、悩み、口に出したこともある。しかし、これは何かわかりやすく人と違うのではなくて、ただ自分の気持ちや性格の問題だと考えてしまいがちである。私もそうだった。人に言えずに抱え込んで一人になって取り残される。この状態は果たしてSDGsの目標を達成しているといえるのだろうか。もしこの思いを抱えて学校に来られなくなってしまったら教育をみんなにという目標は達成されなくなる。さらにこの状態は心の健康という面でもよくはないだろう。SDGsの目標は貧困や障がいなどの人と違うところがあったり、それによって満足な生活が送れない人のために作られていると思いがちだが、みんなが何かしら他人と違うところを持っていてそれを補っていくことも達成には必要不可欠なのではないだろうか。

 では私のような性格などの気持ちの問題によって取り残されてしまう人にはどのような支援が必要なのだろうか。私は友達など周りの人のやさしさと気づきだと思う。私が小学生の時は自分から声をかけることができなくても人から声をかけてもらえるのはすごくうれしかった。物理的な問題ではなく感情的な問題だからこそ周りの人のやさしさという気持ちの支えがこの問題の解決につながって、取り残される人を一人でも減らすことができるようになると思う。さらに、声掛けという支援はだれにでもできることだ。きっと私と同じように取り残されていると感じている人は見えないだけでたくさんいるのではないかと思う。もしそう感じていなくても人からやさしさのこもった声をかけてもらって嫌な思いになる人は少ないだろう。かつて自分から声をかけることができず友達に声をかけてもらうのを待つことしかできなかった私も、このことに気づいてからは初めて会った人だとしても積極的にコミュニケーションをとろうと心がけるようになった。

 取り残される人は意外と身近にいる。その事実に気づいてほしい。目に見える違いがあるわけではなく心の中にひっそりと取り残されることの寂しさや不安を抱えて生きづらいと感じているかもしれない。それが心の健康を害したり、教育に機会を奪ってしまう前に、気づいてやさしさの声掛けができたのなら取り残される人を減らすことができるのではないだろうか。

 

 

 

ナガノヒナコ 上智大学1年生

 

本当の意味での「誰一人取り残されない」ってなんだろう。

 

 SDGsの理念に含まれている「誰一人取り残されない」という概念。この言葉を耳にするたびに私は疑問を覚える。誰の目線から、どの角度からこの言葉を発しているのか、私にはわからないからだ。SDGsには17個の目標があって、全て達成出来ればどれほど生きやすく、理想的な世界ができるのだろうか。考えるだけでわくわくするのはわたしだけではないだろう。しかし、現在のSDGsにはカバーできていないものがあると私は考える。名前をつけるとすれば、「すべての人に心のよりどころを」である。私は「だれひとり取り残されない」社会には貧困の連鎖を断ち切ることや、ジェンダー平等の実現だけではなく、心の居場所を提供することも必要だと思う。

 

 2021年、ジェンダー論が問題視され始めているし、オリンピックによって国同士のパートナーシップ制が高まりつつある。しかし、今現在も孤独を感じている人は少なくない。いじめ、ハラスメント、虐待、民族問題など、理由は様々だが頼れる人がおらず、居場所を探し続けている人は数えきれないほどいる。実際私の友人にも親から虐待を受けたり、バイト先でいじめを受け、退職に追い込まれたりした人がいる。そんな話を耳にするたびに心がとても痛くなる。

 

 では今私の文章を読んでくださっているあなたは、孤独を感じ、心のよりどころを探し求めた経験がありますか?

きっと多くの人はこの質問に首を縦に振るだろう。いじめの被害にあったことがなかったとしても理由もなく寂しくなったり、マイノリティー集団に所属する自分にひけめを感じてしまったりした経験はあるのではないか。しかし、誰もが人生のなかで経験する孤独のほとんどが解決可能なものである。例えば、家庭内暴力をうけているため、家庭に居場所がない女性は専門機関に相談することが出来れば解決の兆しは見えるし、学校に居場所がない学生は先生やカウンセラーの手を借りれば、少しは気持ちが楽になるのではないか。また、最近よくニュースで取り上げられているジェンダー問題に対して、私が学んでいる上智大学では、現在建設中の新校舎にジェンダーレスなトイレができる予定だ。このように、解決策のある問題を放っておくことは許されない。そして、この「心の孤独問題」はもっと問題視されるべきなのではないだろうか。

 

 では、どうすればこの課題が解決できるのであろうか。もちろん、行政機関がより活発に動き、国民がSOSを出すことができる場所を提供することも、大切であろう。だが、それよりも大切なことは、私たち国民1人1人の意識を変えていくことであると思う。

 

 「やさしい気持ちで手を差し伸べる」

簡単そうに聞こえて、本当に難しいことだ。実際、ヘルプマークをつけて、助けを必要としている人同士が電車で席を譲り合っていたり、会社で信頼している上司にハラスメントの相談をしても、まともに掛け合ってもらえなかったりと、空い事実は溢れかえっている。世界で生きる人々が優しい気持ちを持ち、助けを求めている人に手を差し伸べるだけで、どんなに素敵な世界が見えるだろう。

 

 私は高校生のための教育系学生団体を運営している。私の団体には家庭の事情で通塾が不可能だったり、家庭環境が悪く相談できる人が少なかったり、文字通り「居場所がない」学生が集う。現場に立ち初めて気がついたことは、彼らが必要としているのはお金でも制度でもないということだ。私が差し伸べる手が、彼らの原動力になっているのだと痛感する。そして、「あなたの言葉が私を救ってくれました」「居場所を作ってくれてありがとう」そう言われると、私まで居場所ができたような気になる。

 

 

 誰一人残されない世界の実現にはこころの孤独を感じる人を1人でも減らすことが必要だ。言ってしまえば理想は、ゼロにすることだ。そして、そのために「優しい気持ちで手を差し伸べる」ことが必要不可欠である。居場所作りは17の目標に入っていないものの、SDGs達成のために欠かせない項目であるに違いない。

 

 さて、皆様も「すべての人に心の拠り所を」に値する行動をとってみてはいかがだろうか。お年寄りや障がいを持つ方に公共交通機関で席を譲るだけでも、悩みを相談してきた部下や親友に優しく手を差し伸べるだけでもいい。きっとあなたも助けた相手に救われる。居場所を見出すことができる。

 

 今のあなたの行動が、世界を変えるのだ。誰一人取り残さない、そして、取り残されない社会を目指して。

 

 

 

加藤大智 横浜国立大学 2年生

 

 

 

 取り残される人の視点でSDGsを考えることにどのような意味があるだろう。SDGsの重要な理念が「誰一人とりのこさない」ことであるとよく説明される。「2030アジェンダ」では様々な場面で「誰一人取り残されない」で持続可能な社会を実現することが大切だとしていて、受身形で書かれている。そのため、SDGsを考える上で、自分が取り残される立場になりうることを踏まえて、「誰一人取り残されない」社会をどうやって作るかを考えることが重要であるということがわかるため、取り残される人の視点で考えることこそがSDGsを考えることである。今回は私の視点から社会からどのように取り残されるか考える。

 私は今大学2年生で、学童でバイトをしている。大学では部活動に励み、同年代の友達に囲まれ、学童では小学校低学年の子供たちやそこで働いている20代から50代の方々と時間を共にしている。このように私の生活を振り返ると年配の方々と接する機会が他の年代の人々と比べて極端に少ないと感じる。

 私が理想とする誰一人取り残されていない社会は個人個人の属性(年齢、出身、性別など)で断絶されることなく、皆が交流し共に協力しあって生活する社会である。この理想と比べたとき、今の社会は年齢、世代によって隔絶が起きている社会ではないだろうか。医療が発達し、さらに寿命が延びることが予想されている今日、年代による隔絶は、誰一人取り残されない社会の実現にとってより大きな障害になることが予想される。これから、取り残される人を全員(年配の人々とそれ以外の人々がそれぞれから取り残されている)と考えて書き進めようと思う。

 私がまだ小学生だった頃、年配の方と交流する機会は、銭湯に行った時や商店街で買い物をしているとき、祖母の家に行った時だった。小学4年生の時、家のお風呂が壊れて毎日銭湯に通っていた。そのとき常連のお爺さんと仲良くなり、その人から入り終わった後に将棋を教わったり、銭湯のテレビで一緒に野球を見たり、たまにニュースで過去を振り返るコーナーが流れるとその頃の体験を私に話してくれた。商店街の豆腐屋にお使いにいっているときはいつも声をかけてくれて、時にはおまけをしてくれたり、通りかかっただけでも「学校どうだった?」とか声をかけてくれた。祖母の家に行ったときも、家の通りの人は皆顔馴染みで挨拶したり、ときには遊びにいったりした。しかし、中学、高校、大学と歳を重ねるにつれて、銭湯にいかなくなったり、豆腐屋が無くなったり、祖母の家にいく頻度が減ったりして、年配の人が近くにいなくなった。家の回りを歩いていても、世代毎に隔絶されていると感じることが多くある。お昼には、幼稚園から子供の声が聞こえたり、近所の雀荘を覗いてみると年配の方々が集まって麻雀を打っている。

社会は全世代の人で作られている。近年、シルバー民主主義と表現され、若者が不満をもっているのも、若者の「我々」の中に年配の方々が含まれていないからだ。若者の「我々」から年配の人が排除されてしまうのは、身近にいないからだと思う。

 また、年配の方々が「最近の若者は」と言いがちなのは、最近の若者を肌感として知らず、切り取られた形でしか知らないからだろう。

 私は、年配の方々と若者が一緒になにかをするという機会を増やしたい。そして、年配の方々の考え、経験談をもっと聞きたいし、それを「老害」などと切り捨てず尊重できる社会にしたい。機会を増やすため、今の両者が場所で隔絶されていれ交流できない状態を変えたい。まずは個人レベルでの日常的な交流が活発になることが第一歩だ。そのきっかけを作りたいと思う。私は、年配の方にスマートフォンを学んでもらい、SNSを活用して、今年配の方だけで行われているサークル活動をオープンなものにしたい。ゲートボールやボーリングなどのサークル活動を一緒にして、その後一緒にご飯を食べたり、お酒を飲んだりすれば、両者にとってこれまでにない新しい学びがあるだろうし、それによってお互いが理解し合えば、若者と年配の方の両方が含まれた「我々」の意識が形成され、隔絶がなくなって行くだろう。もしかしたら、年配の方がオンラインゲームを始めてそこで新しい交流が生まれる…何てこともあるかもしれない。そのために、まずは近所の公園でやっているゲートボールサークルなどの年配の方々のサークルの出向き、実際に交流し、上記の活動を行って、自分自身もSNSを用いて情報発信することで同士を増やして交流の輪を広げていきたい。ボランティア等という形ではなくフラットな形で交流したいと望む若者は潜在的にいるはずである(身近でもおばあちゃん子、おじいちゃん子は多い)。そうやって、隔絶をなくすなどという余計な意思を持たずに、自然に交流の機会が増えていく、そのきっかけを作りたいと私は思っている。

 

 

 

稲田優美 早稲田大学

 

 

 

去年の3月、大学の入学式の中止が決まり、初めてコロナの影響力を実感した。そして、自分が思い描いていたキャンパスライフとは無縁の大学生活が始まり、パソコンに植え付けの日々が続いた。そんな中、小学校や中学校、高校、そして専門学校に通う人はみんな学校に行くことができているのに、どうして私たち大学生だけが制限されなければならないのかと思うことが多かった。私たちだけが取り残され、排除されている気がした。

 

去年のコロナ過で誰もが孤独を感じたと思う。一人になった時に感じる無力感、寂しさ、そして自分だけが取り残されることに対する焦燥感。しかし、私はそこで気づいた。コロナ以前も、自分が当たり前に感じていたことは、当たり前でなかった人々がいたことを。そして私は海外にいた頃ある授業で見た映像を思い出した。それは、武器を平然と持つ少年兵の映像だった。今でも世界では紛争が続いている地域が多数存在し、そこでは子どもに関わらず、人々は自分の意志を無視され、戦いを強制されている。少年兵の子どもも、多くが拉致され、武器を持たされ、戦うことに何も感じなくなるほど洗脳され、子どもとして与えられる基本的な権利を奪われている。小学生だった私は当時、衝撃を受けた。何の罪もない自分と同じ子どもたちがどうして、このような目に合わなければならないのかと。自分と同じ学校にいれば日々一緒に遊び、学ぶ仲間であった子どもたちが、環境が違うだけでどうしてこのような目に遭わなければならないのかと。まだ幼かった私、ただ友達と遊ぶことが楽しいと思っていた私は当時、そう感じた。そして今の私は思う。少年兵以外でも、多くの子供たちが学ぶ機会を与えられず、日々必死に暮らしているのだということを。小さな体では抱えきれないほどの恐怖、そして困難に立ち向かいながら生きている。目の前のことだけ考え、生きることに精一杯である。このことを考えると、孤独が寂しいと感じられるほど余裕があった自分がどれだけ恵まれているか、痛感する。

 

人生は選択の連続だ。何を食べるか、誰と過ごすか、そして何をするか。私たちが日々立ち向かう選択は言ってしまえば、決める権利は私たちにある。そして私たちがとった選択で人生が変わってゆく。しかし、この選択をする力は生まれるまではない。誕生する瞬間までこの選択する力は私たちには与えられていない。だから、私たちがどこの家庭に生まれるかは選択することができないのだ。紛争地域で生まれるか、豊かな街で生まれるか。これだけは私たちに決めることはできない。ニュースで見る遠く離れた国の出来事、無関係に感じてしまう出来事も私たちが経験していたかもしれない。

 

今までの私は紛争地域の報道を見ても、ひどいことが起きているな。かわいそうだな。そう思うことしかなかった。そして、きっと誰かが助けてあげるのだろうと、思うばかりであった。しかし、大学のある授業で講演をしてくださった方の言葉、『誰かが平和を創っているから、今平和を享受している』というのを聞いて、自分がその誰かになれること、そして、なることで少しでも多くの人が心に余裕をもち、生きていることを幸せに思ってもらえるきっかけづくりができるのだと感じた。

 

この広い世界の中で、不平等をなくすことは難しいかもしれない。でも、難しいからといって何もしない人にはなりたくない。自分ができることから、始めていきたいと思う。誰でも苦しんでいる人々を身近に感じることができれば、手を差し伸べたいと思う気持ちが自然と生まれるのではないだろうか。『誰一人取り残さない』世界を目指そうと思えるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

鵜飼桂子 早稲田大学2年生 9月から留学

 

 

 

大学に一歩も踏み入れることなく終わった学部一年目とは異なり、友だち作りに苦戦している学部一年生の姿がメディアで取り上げられることはなくなった。しかし、学部二年生になってもなお、友だち作りに苦戦している友人の話を聞いた。「気づいたときにはもう取り残されていた。」彼女はそう教えてくれた。SNSで知り合った人と会ってはいけないという教えを守りSNSでの新歓を行っていたサークル活動に参加しなかったが、対面授業が再会されたころには既に周りで友だちの輪はできあがっていた。オンライン授業のときよりも周りに人がいるはずなのに、孤独を感じる。「けれど他の(取り残されている)人に比べたら自分はまだ良いほうだから…」と彼女は恥ずかしそうに言った。自分のコミュニケーションの能力が低かったから、自分がSNSを活用しなかったから、と責めているようだった。彼女は、友だちができないこと・できにくいことに対して声をあげても、被害者づらをしていると冷やかされる可能性を感じている。

友だち作りに苦戦している学部二年生は、彼女だけではない。私が所属している登山サークルでは、今年度の入会者の約半分が2年生という例年とは大きく異なる新歓になった。また、私自身が新歓を担当した自転車サークルでも2年生入会の問い合わせを多くいただき、新入生のように、新しいコミュニティを求めている学部二年生が多くいることを感じた。私自身、大学でできた友人のほとんどがSNSや、SNSを通じて参加したサークルで知り合った人たちであり、彼女のように「SNSで知り合った人と会ってはいけない」という教えを忠実に守っていたら、現在のような大学生活は送っていなかっただろう。大学では対面授業が徐々に再開されたことにより友だち作りへの影響も薄れてきたかと思えたが、だからこそ「取り残されている」人の存在が見えにくくなっている。彼らは世の中で「最も取り残されている人」ではないが、取り残されることを望んでいる人は誰もいない。

こうした状況のなかで、誰も取り残さないために私にできる行動は何か。今年度、二年生入会が極端に多かった登山サークルでは、「誰もがいやすい場所にする」というのがモットーである。久しぶりにサークル活動に参加した人でも違和感なく馴染める雰囲気にしたい、という想いをサークル員全員が共有している。自分自身、親しみやすい雰囲気作りをするようになり、学部二年生の入会者には積極的に「敬語で話さなくていいからね」と伝えたうえで、遊びに誘うようになった。「友だち」を提供することはできなくても、彼らが新しいコミュニティに参加したいと思ったときに、馴染める雰囲気を作っておくことは一助になると思う。

通っている大学では、2020年度入学者向けに入学式が行われた。学部長は「入学おめでとう」の代わりに「大学にようこそ」と仰っていた。小さいけれど、そのような発言や行動から、私の友人は心に余裕が生まれるのかもしれない。コロナ禍で取り残された学生とのギャップがどんどん開くことがないように、来るもの拒まずの精神でいたい。

 

 

 

熊木秀佑 東京学館浦安高校

 

 

 

黒人やアジア人に対する人種差別問題が日本で表面化し始めた。その要因として政府や社会団体による取り組みももちろんだが、実際に体験した者の生々しい声が大きく影響していると考えていいだろう。例えば、大阪なおみさんの行動に代表されるブラック・ライブズ・マター運動である。その運動の活発化とアジア人がコロナウイルスによる影響で差別され始めた結果、多くの日本人は”取り残される者”に対して浅薄な理解を示し始めた。理解しようとするだけ良いと考えるかもしれないが、差別には直接関係を持たない”第三者”のその浅い意識は、差別を他人事として捉えるため、彼らを取り残すことを助長する脅威であるのだ。もちろん、”取り残される者”の理解でさえしようとしないため差別に関心が全く無い者も脅威である。こうして、”取り残される者”は、差別に関して薄っぺらい知識を持つ”第三者”と、無知である”第三者”との二つの脅威の板ばさみに遭う。そこでの差別の理解者は少数過ぎてほぼ無力に等しい。では、どうすれば”取り残される者”を脅威から救出し、”第三者”全員が彼らを理解できるようになるだろうか。もちろん、第一の段階としてブラック・ライブズ・マター運動などの言論による訴えも必要であるが、言葉で伝えられることに限界があるため、先述の通り、不十分な理解になってしまう。大阪なおみさんに関する差別問題は、彼女の日本人ファンが多いから日本に広まったのであろう。しかし、他の人種差別問題はどうだろうか。ヘイトスピーチを受けた人の被害を彼ら自身の言葉で、翻訳なしに直接聞いたことはあるだろうか。 それはどんな差別問題も同様で、差別被害者から、「私は差別されている!」と直接の訴えをされたことはあるだろうか。このように、言葉で差別を表現することはそもそも表現がしづらい上に、表現できたとしても理解するには翻訳や時間を要することがある。そのことから直接性や緊急性に欠けてしまって、”第三者”は内容を完全に理解できず、自分には関係ないと思ってしまう。そこに、言論の限界が見えてくる。

少し話は変わるが、先日、国語の授業で長倉洋海さんの『写真の持つ力』 という文章を読んだ。「写真は事実を私たちに伝えてくれるというより、私たちが写真をみて何を感じ、何に目を向けるべきかが問われているのではないか」この一文は私にとって衝撃的だった。写真は受動的理解でなく能動的理解を必要とする。そのことは、他の芸術でも言えるのではないか。芸術作品を見る時には、そこにある事実から伝えたいことを感じ取り、それを世界に応用すべきである。そこで、差別と芸術とを結びつけてみてはどうだろう。芸術は、言論とは違い享受するものの有している言語や住んでいる国に関わらないため、”第三者”へ直接的に短時間で伝わる。”取り残される者”が被害を受けている現状やその悲惨さを、ありのままに芸術に示すことで、”第三者”が差別を理解し、それを解決しようと行動する契機になるのではないか。

芸術の意義は多岐にわたる。写真や絵、音楽などであるがどの芸術表現でも差別の被害を表すには構わない。しかし、芸術に被害を表せたとしてもどのように広めたら良いかわからないかもしれない。そこで、SNSが活躍する。SNSは、芸術と同様に言語や国籍に捉われない拡散能力を持っている。ブラック・ライブズ・マター運動の活発化の引き金となったジョージ・フロイドさんの死も、自身も黒人でマイノリティーであるというダルネラ・フレイザーさんの撮影によってSNSで広まった。要するに、取り残されている状況を言論で伝えるだけでなく、それを可視化し”第三者”に訴える行動を取ることで、彼らの理解につなげることが重要だ。

“第三者”は、意外と近くにあるが、他人の身に起こる差別を完全に把握することは難しいと思うかもしれない。だが、”取り残される者”の芸術やSNSに反応した上で、自分に何ができるのか、何に目を向けるべきなのかを考える必要がある。もちろん、差別をする者の更生も大切であるが、”取り残される者”を脅威から救出するには、その両者だけでなく、大多数の”第三者”の理解と行動が何よりも大切である。その意味で、もう”第三者”とは呼べない。全員が、”当事者”だ。私自身は、まだ高校生ということもあり、なかなか行動に移せていないが、大学に入学したら差別被害者のためのコミュニティを開いている団体に所属したい。その中で今回のような、文章で”取り残される者”に対する考えを書くコンテストだけでなく、上述の理由から、絵を主としたものも開催したい。『誰一人取り残さない社会』の実現を可能にするために。

 

 

 

屋嘉部遥菜 昭和薬科大学付属高校2年生

 

 

 

SDG’sの目標の一つである「誰ひとり取り残さない」。この目標が指す”取り残される人”とはどのような人々のことを指すのでしょうか。一般的にはLGBTQ+の人々、障害者、貧困層の人々…。これらの人々がすぐに思い浮かぶのではないかと思います。これらを見ると多くの人が「自分は該当していないから取り残されない」と考えるでしょう。しかし、実は自分でも気づかないうちに取り残されている人もいるのではないかと思います。

私には生まれつきPeters奇形という病気があります。この病気になると目の角膜という部分自体が濁ってしまうので、眼鏡やコンタクトで視力を矯正することができません。この病気のために私は弱視という障害も持っています。しかし私の症状は比較的軽い方なので、周囲の人に助けてもらいながらですが健常者と同じような日常生活を送ることができています。

例えば学校生活。黒板が見えづらいため一番前の席に固定してもらったり、字の小さいプリントを拡大コピーしてもらうなどの様々な手助けをしてもらえるので、あまり不自由さを感じることなく過ごすことが出来ています。そのため、私には自分が障害者であり、周囲と違うのだという自覚はあまりありませんでした。

ですがコロナが蔓延して以降、私も実は取り残される側なのではないかと考えさせられるような出来事がありました。

それはコロナが世間で注目を浴び始めた頃の体験です。あの日、私はいつものようにスーパーで買い物をしていました。惣菜を物色しながら歩いているとふと自分に向けられる冷たい視線に気が付きました。周りの人々が怪訝な顔で私を盗み見みしていたのです。その場にいる事が気まずくなり、買い物もそこそこに私は店から出てしまいました。

なぜ私は人々から非難の目を向けられてしまったのでしょうか。それは私が商品名や商品の値段を確認するために商品棚に顔を近づけたり商品を手にとってラベルの記載を確認していたからです。その当時は感染拡大を防ぐためになるべく商品を手に取らないようにする旨が連日のニュースで伝えられていました。近くで買い物をしていた人達には、私の行動はまるでウイルスを撒き散らしているかのように見えて不快に感じられたのでしょう。

この出来事から私は初めて社会から理解されないという疎外感と強い悲しみを感じました。眼鏡をかけているのに目が悪いという人がいる事を認知している人はほとんどいないでしょう。私の行動が受け入れられなかったのもそのことから考えると当然のことです。

このコロナによって、社会や周囲の状況次第ではいつでも取り残される側になる恐れがあるということを実感しました。そして、私は誰しもがこのような状況になる事があると考えています。「誰ひとり取り残さない」、この目標は誰にとっても他人事ではありません。一人ひとりが当事者であるという認識のもと目標達成の為に取り組まなければいけないのではと思いました。

そのために大切なことは最初からこうだと決めつけずに相手の状況を想像することだと思います。例えばマスクをつけていない人を見つけた時に、すぐに嫌な顔をしてその人をわざとらしく避けるのではなく「何かつけられない事情があるのではないか」と想像してみるなどです。そうするだけでその人はずっと過ごしやすくなると思います。

まずは相手の状況を想像する、あの日私が感じた嫌な思いをする人を一人でも減らすために私はこのことを実行していきたいと思います。

 

 

 

 

 

春日明日希 無所属

 

 

 

「そんなことみんなが経験することだよ。」

何度、そう言われてきただろうか。

オンライン授業で始まった大学生最後の春。早めに始めた方が良いという就職活動も始めて早4ヶ月、嫌気がさしていた。繰り返されるオンライン面接。内定が決まっていく友人。内定が決まらず、音信不通になる友人。孤立していく世の中の流れに自分も流されているのが分かっていた。

6月に内定の出た会社に就職を決めたのは、もう抜け出したかったからだ。毎日、悪夢にうなされ、目覚め、未来の自分を想像して怖くなることから単に逃げたかったのだ。しかし、内定を承諾した私には、さらに、オンライン研修が待っていた。私の心の闇はどんどん大きくなっていった。自分が何者なのかもわからなかったからだ。大学に一歩も行けていないのに、大学生なのか。アルバイトで正社員並みに働いているから、社会人なのか。私はどこに向かっているのか。永遠に負のループの中にいた。春になったら、私は、会社に捕まってしまう。そんな風に考えた頃には、自分の心はボロボロになっていた。いわゆる「就活鬱」である。「そんなことみんなが経験することだよ。」慰めるために放たれた言葉に、返って私は傷ついた。「そんなこと」のためにこんなにも胸が苦しいのか。「そんなこと」のために死にたくなるのか。「みんなが経験していること」に私はなぜ耐えられないのか。精神科に行っても、同じようなことしか言われなかった。少しでも自分が傷つかないように、多くの時間を睡眠に当てた。眠っている間は、誰にも傷つけられなくて済む。自分に嫌気が差すこともないから。そんな私の変化に気づいた姉に言われた一言が今でも心に残っている。「逃げてもいいんだよ。」その時、ずっと喉の奥に溜まっていた涙が止まらなかった。

内定を辞退した私は、今、カウンセラーの勉強をしている。まだ、身近の人の悩みを聴くくらいしかできないが、自分を苦しめないで生きていられる。洋画を見ると、ほとんどの人がジムにいく感覚でカウンセリングに通っている。「今日、昨日よりも気分が落ち込んでいる。」小さなことでも良い。自分の気持ちを自分が認めてあげられるように、カウンセリングの力を借りられる日本になってほしい。心を病むことが異常なことではなく、心が病んだ人が心を癒す環境が得られないことが異常なことだと気づく日本であってほしい。私は、気持ちが落ち込んだ人を取り残したくない。みんなに「大丈夫。」と温かい笑顔を与えられる人になると決めた。

 

 

 

 

 

加藤宗一郎 横浜国立大学 3年生

 

 

 

 Leave No One Behind. 「誰ひとり取り残さない」というSDGsの基本理念はSDGsの取り組みとともに知られているだろうか。両方知っていたという方はどれ程いるのだろうか。以前から当然理解していたと言いたいのだが残念ながら無理だ。最近までこの基本理念の存在を私は知らなかった。というより、目にしていたとしても気に留めなかったのかもしれない。

 SDGsといえば以前の私は、フードロスの削減や、再生可能エネルギーの推進を思い浮かべていた。大学に入りSDGsに関する講義も多く受けるようになったため、今では「飢餓をゼロに」や「ジェンダー平等を実現しよう」、「気候変動に具体的な対策を」といった17のゴールも脳裏に浮かんでいる。また丁度この頃から、日常には17のゴールが商品やサービスのアピールポイントとして出回るようになった。SDGsに配慮している商品やSDGsに貢献する企業のホームページには大抵このマークがある。就職活動を視野に入れ、企業のホームページを閲覧するようになってその実感は増していった。国内の関心は、SDGsの具体的な取り組みだ。それは社会を見る限り断言できる。そしてその具体的な取り組みが、「基本理念」とは真逆にはたらいていると感じることがある。

 世界の流れを受けて国内でも昨年の7月からレジ袋が有料化された。これは海洋プラスチック問題やごみ問題、さらには利用者のマナーを社会へ問いかけている。そういう意味でSDGsとも関わりの大きな取り組みだ。「レジ袋を断り、マイバックを持参する」この行動がSDGsに貢献すると誰もがそのように思っているだろう。その頃から多くのモノの素材がプラスチックから他の素材へと変化していった。人々はプラスチック製品を極力控えるようになったのだ。実際それらの行動には意味があるのだが、私はそこにある種の不安を覚えた。———あなたの回りでは「プラスチック=悪」とみなす動きが現れていやしないか。———考えすぎかもしれないが、私の身の回りでプラスチック製品を購入する人への冷たい視線を何度か見たことがある。断っておくが別にプラスチックを大量生産・大量消費して良いと私が思っているわけではない。ただ何らかの事情でプラスチック製品を購入せざるをえない状況に立たされているのかもしれないと考えてあげて欲しいと思う。プラスチック製品を購入する人へある種の差別的な目を向けるのは、「誰ひとり取り残されない」社会の実現にはならないはずだ。

 プラスチックは安価で丈夫で軽い。そのような性質から世界中で利用されてきた。しかし一度、海洋ゴミの影響を受けた海の生物が注目されると、身の回りのプラスチック製品が消えていった。移り行く時代の中でも、お金に余裕のある人ならば十分に対応できるだろう。しかしお金に余裕がない人はどうすれば良いのだ。冷たい視線を受けながらプラスチックを購入しなければならないのか。世間体を考え、家計を切り詰めて環境に配慮された製品を購入しなければならないのか。「プラスチック=悪」という世間のイメージが彼らを苦しめているのは間違いないだろう。つまり何が問題かといえば、環境志向がお金に余裕のない人々を苦しめているという現状だ。環境志向の世界から彼らは取り残されていく。それでもなおSDGsの目標達成のための行動と胸を張って断言できるだろうか。

 SDGsは大きく分けて2種類の目標からなる。MDGsを引き継ぐ開発アジェンダと、新たに加わった持続可能アジェンダだ。上記の例では持続可能アジェンダに関わる人々の行動が、SDGs全体の基本理念や開発アジェンダの足を引っ張る形となっている。プラスチック製品を購入する際の冷たい視線が私の思い過ごしであれば問題ないのだが、可能性として上記のような問題が起こりうる原因を考えてみたい。なぜSDGsのためを思った行動が、他の目標や基本理念と相反する結果を招くのだろうか。

 その返答として私が思うのは、SDGsの目標達成のために「個別の活動」へ注目が集まり過ぎていたのではないかという点だ。強く言うなら、SDGsの具体的な活動にばかり目が向いているから、お金に余裕のない人々を苦しめる結果を招くのだ。一つひとつの活動に酔いしれて、全体の基本理念を理解していないからこのようなことになってしまうのだ。SDGsは個別の対策で何とかなるようなものではない。互いが複雑に絡み合っているからこそ1つの共通した指標なのだ。その反省を踏まえれば、私たちがしなければならないことは自ずと見えてくる。そうSDGsの基本理念を広めることだ。まずは「誰ひとり取り残さない」という基本理念を、あなたの隣にいる人が知っているかどうか聞いてみよう。今日も1人へ、明日は2人と。そしてその輪が広がれば、SDGsの具体的な活動に注目してしまっている社会の風潮を変えることができるはずだ。決して難しいことではない。ただ聞いてみるだけだ。———あなたはSDGsの基本理念を知っていますか。具体的な取り組みだけで満足していませんか。———

 

 

 

杉山恵里奈 名古屋大学大学院 博士前期課程

 

 

 

喩えるならば,カメレオン。10代の頃の私は,自分のことを「必死で周りの人間の真似をしている“なにか”」であるような気がしていました。私は,小学校に上がる前から,自分と周りとの間に,漠然とした「違い」を感じていました。周りの友達が興味を持っているものや楽しんでいることが,自分にとってはそれほど面白いものに思えず,常にぼんやりとした違和感を覚えていたからです。

小学校に入ると,その「違い」は顕著に現れました。授業中,周りのみんなが簡単に理解できる理論や概念に対して,自分だけが首をひねることが多々あったのです。特に「向き」や「空間」の概念は理解が難しく,東西南北はおろか,上下左右や裏表すら怪しい始末でした。しかし,クラスのほとんどができていることを自分だけができないと言い出すことなど,当時の私には恥ずかしくて到底できませんでした。

また,反対に,得意なことでかえって恥ずかしい思いをすることもありました。授業中,得意な科目の問題を解くスピードが速すぎて,クラスメイトから気味悪がられたり中傷されたりしたこと。先生からも,もう演習問題のストックがないので残った時間は自習でもしていてくれと,いつも苦笑いされていたこと。こうした経験から,私は,周りと極端に違っていることは恥ずべきことだと思い込むようになっていきました。そして,中高時代は,周りと「同じ」ように振る舞うことにこだわり,全力を注いでいました。授業中にはクラスメイトのペースから極端に遅れたり早まったりしないように自分の授業態度を調整し,休み時間には周りの友達の好きなものやことを頻繁にチェックし,家でこっそり予習していました。みんなが好きなのは「カメレオン」の私であって,本当の私ではないのだと,時々やりきれないほどの疎外感に包まれていました。その苦しみは,時に登校することを拒絶するほどのものでした。

 

専門機関で検査を受け,自分の知能発達が「普通」と違う,いわゆる「非定型発達」だとわかったのは,20代になってからでした。端的に言うと,得意な能力と苦手な能力の差が極端に大きく,それが原因で「周りと同じようにできない」という生きにくさを抱えていたようなのです。例えるのであれば,前輪と後輪の大きさが極端に違っている自転車に乗って走っているような感覚です。大きい方の車輪に合わせて走ろうとすると,小さい車輪が「障害」となって転んでしまいます。一方で,小さい方の車輪に合わせようとすると,せっかくの大きい車輪を持て余してしまいます。つまり,非定型発達者が自身の能力を最大限に発揮するには,いわば「補助輪」のようなものが必要なのです。 しかしながら,非定型発達者を適切にサポートするような社会の土壌は,まだ十分ではないように思います。これは,「誰ひとり取り残さない」社会を目指す上で,大きな課題です。

 

人間が一人ひとり違う顔をしているように,脳の発達にも個性があります。そうした個性を考慮しないことは,教育現場や仕事現場などの様々な場面における「取り残し」につながる危険性があるように思います。もちろん,口で言うことは簡単ですが,実際に社会を変えるのは難しいことです。一体私には何ができるだろうかと自問を続け,出した答えは,発達に関する研究の世界へと身を投じることでした。今年の春,私は大学院に進学し,発達の個性に着目した研究を始めたばかりです。今の私はまだ,明らかに未熟者で,先生や先輩の助けをお借りしてようやく研究を進めています。しかし,いつか一人前になった時,「ニューロ・ダイバーシティ(脳の多様性)」の考え方が社会に広がるような発見ができたら,この上ない幸いだと考えています。人と違うことを恥ずかしいと感じるのではなく,むしろポジティブに捉えることができるような社会になることを,かつての私が心から望んだような社会になることを,私は願って動き続けます。

 

 

 

 

 

相川健太(仮名) 三田国際学園高等学校3年生

 

 

 

私は他人に比べ裕福な生活を送ってきた。私は特別障害を持っているわけでもなく、小中高と学校に楽しく通えている。アレルギーなどは無く好きなものが食べたければコンビニで買い、欲を満たす。手足に何らかの不自由さはなく、幼い頃から大好きだったサッカーを10年続けることもできた。高校生になると留学にも行かせてもらった。とりわけ人種差別をされることもなく、人並み以上の幸せな日々を送ってきた。そんな中、インターネットで小論文コンテストを探していると「誰ひとり取り残さない」をテーマにした小論文コンテストに出会った。そして、取り残されている人の視点で考えるこのコンテストは、他人と比べ裕福な生活を送る私には関係ないものだと思いそっとタブを閉じた。しかしその数秒後、自分にも他人と比べ取り残されていることを見つけ、このコンテストに参加を決めた。私にはなく周りにはあるもの、それは「行動力」だ。

この世では、金銭的に生活が苦しい人、何らかの障害を持つ人、人種差別など精神的ダメージを受けてる人に対し、「誰一人取り残さない」という強い思いを持ちながら行動する人たちが沢山いる。私はその強い意志を持ち行動する人たちから取り残されている気がした。何も不便がないからこそ、何かしらの不便を持つ人に対し、自分のできる最大限のアプローチをすること。一人じゃ何もできないし、何も変わらないという思いを捨て、自ら行動することの大切さを身を持って感じた。そんな中、私が過去にボランティアをしたことがあった。それは私がカナダに留学中の出来事であり、外国人の学生に日本語を教えている授業のアシスタントとして参加したことだった。世界中には数多くの言語が存在している中、日本のアニメ、伝統、着物などの文化に憧れ日本語を第二言語として学ぶ姿に、私の気持ちが大きく揺らいだ。私は日本語の授業にアシスタントとして入ったが、もちろん日本人なので沢山の質問がくる。ほとんどの質問には答えれたものの、「それ」と「あれ」の違いが何か?と問われた時、正確な答えが出せなかった。私たちが常日頃、感覚的に使っている日本語を説明できなかった時とても悔しかったのだ。その後不幸なことに新型コロナウイルスが世界中で蔓延し、カナダでも緊急事態宣言が発令された。結局、日本語の授業には3回ほどしかアシスタントとして参加できず、日本語を楽しそうに学ぶ学生の笑顔を見ることはなくそのまま帰国した。この留学経験から。このSDGs「誰一人取り残さない」コンテストから。私はいつの日か、日本語を他国在籍の学生に無償で教えるプロジェクトを始動、または支えていきたい。日本は他国に比べSDGゴール4の「質の高い教育をみんなに」が進んでおり、教育を受けれない状況下にある学生はほとんど存在しない。しかし、海外ではそうだろうか?まず留学に行くことも金銭面的に困難であろう。学校の制服を買ったり、地域によればノートや鉛筆を買うこともできない子も沢山いる。そんな子供たちに対し、私ができるアプローチ。それこそが、過去に苦い思いを味わった日本語を教えることであると考えた。もちろん資金面、活動期間、準備期間など様々な障壁が存在するだろうが、このSDGs「誰一人取り残さない」を通し、行動していくことの大切さを改めて実感できる機会になった。過去の私と同じような考えを持っている人に対し、行動することの大切さを理解してほしいと感じ、このコンテストの参加を決意した。

考えを発信すること。「誰一人取り残さない」世界へとつながる、大きな第一歩だ。自らが主体的に活動し、考えや行動をしていくことが何よりもSDGsのゴールにつながっていくと私は思う。

 

 

 

 

 

加藤あおい 広島大学大学院 博士課程前期1年生

 

 

 

 「誰ひとり取り残さない」社会を考えたとき、取り残してはいけない人としてどんな人をイメージするだろうか。私たちがいつも考えるのはいわゆる「普通」の人とすごく困っている人なのではないかと思う。例えば障害がある人を取り残さないと考えたとき、イメージされるのはろう者や全盲者、車いすユーザーや難病者、知的障害者など想像しやすい障害のある人々なのではないだろうか。

 私が今まで出会ってきた人のなかにはいわゆる「健常者」といわゆる「障害者」のどちらに所属していいのかわからないという人がいる。発達障害や弱視、喘息などそれぞれ状況は様々であるが、私が出会った中で印象的な友人たちの話をしたいと思う。

私の友人のなかの2人に片目が義眼の人がいる。どちらも障害者手帳を持たずいわゆる「普通」の女子大生だ。幼少期に眼球を摘出し、片目には義眼が入っている。パット見た感じでは他の学生と何ら変わらない女の子たちである。普段は大学生として「普通」に生活している彼女たちではあるが、片目が見えないが故の困難さはもちろんある。例えば、彼女たちは視野が狭いし、距離の把握は難しい。体育でも球技なんかは難しいそうだ。さらに、義眼というものは定期的にこうかんがからメンテナンス費用だってかかってしまう。

 そんな彼女たちが義眼であることに気付いている人はどれくらいいるのだろうか。彼女たちのような人が存在することをどれくらいの人が知っているのだろうか。たまたま私は義眼であることを教えてもらえたし、「その辺見えなくてちょっと分かんない。」とか「球技は距離感わかんなくてちょっと怖いんだよね。」なんて伝えてくれたから私は彼女たちのような存在を知って、困難さに気付くことも出来た。

 もし彼女たちに出会えていなかったら私はそんな「あいまいな人」の存在に気付けていただろうか。

 「誰ひとり取り残さない」社会、健常者も障害者も取り残さない社会。いろんな人がたくさんのことを考え実践している中で、果たして彼女たちのような「あいまいな人」たちは検討の段階ですでに忘れられ、気づかれず、取り残されてはいないだろうか。そもそも健常者や障害者などと分類などなく、みな等しく人間であると考えている。しかし、そのどこかで障害者のイメージがあって、そこにあてはまらない「あいまいな人」に気づけていないのではないだろうか。

 「誰ひとり取り残さない」社会をつくるために、「あいまいな人」にこそいまスポットが当たるべきなのかもしれない。

 

 

 

鈴木知世 国際教養大学 2年生

 

私達人類は、本当に実現できるのだろうか。

 

“No One Left Behind / 誰ひとり取り残さない” そんな社会を。

 

 

 

私は大学生だ。

 

経済的に発展を遂げた日本に生まれ、看護師として働く両親のもと、田畑に囲まれる家で育った。生まれつきの障がいなどはなく、日々の衣食住に困ることもなく、「女だから」という性のレッテルを貼られて挑戦の機会が奪われることもなかった。そんな環境にたまたま生まれ、たまたま出会った人々との関わり合いの中で、大学に進学することを決断し、今も勉強を続けられている。一方、私が偶然出会ったウガンダ人の友達は、両親を亡くした後、大学での教育を続けることを諦めた。勉強したい気持ちとは裏腹に、教育を受ける機会が一時を境に奪われてしまった。

 

沢山の偶然が重なって今の自分があるわけだが、やはり自分にとってはこの暮らしがノーマルだ。大学で多様性に触れながら勉強していたとしても、やはり自分が実際に目で見ることができる世界・関わることができる社会コミュニティが、自分にとっての全てとなる。教職の授業で障がいを持つ生徒との接し方を学ぶとき、国際協力の団体でフィリピンのスラム街の人々と向き合うとき、LGBTQ+やボディポジティブなどを通してセクシュアリティや身体性の多様さを考え直すとき、環境問題について話し合ったり実際に保全活動を行ったりするとき。どんなに多くの多様性に触れ、社会的に自分よりも「弱い」立場の人を理解し手を差し伸べようと試みたとしても、いつも考え方や行動を行う主体は「自分」であり、たまたま得た環境や暮らしを基にした「自分」の軸から完全に逃れることはできない。私が常に一緒にいるのは、特に大きな不自由なく生活してきた者としての視点。意思決定の自由があり、行動に移せる機会があり、後押しをしてくれる周りの環境があった者としての視点である。

 

同じような境遇で育った他の人の目にも、私の育ってきた環境が「平凡」として映るかもしれない。私より経済的に裕福な暮らしを送ってきた人にとっては、田舎での私の暮らしがかわいそうに思えるかもしれない。そして、私よりも経済的に貧しい暮らしをしてきた人や、自由な意思決定・行動をすることが困難な環境に育った人には、私にとっての「普通」である暮らしが、羨望の対象で会ったり、掴みたくても掴めない生活であったりするかもしれない。

 

こうやって、収入額や識字率、人間開発指数やジェンダーギャップ指数など、様々な指標を用いれば、いくらでも生活の豊かさや機会の均等性を測ることはできる。データを分析・分類し、SDGsをはじめとする国際機関・政府・民間事業・個々人の政策や行動を実行していくことで、「かわいそう」「恵まれない」と思われるような環境や人を「取り残さない」ための、エンパワメントができる。

 

しかし、よくよく考えてみると、全く同じ環境で生まれ育ち、同じ価値観や伝統・文化のもと、同じ将来への希望や想いを抱いて生きている人は、私のほかに誰ひとりとしていないのではないか。そう、この地球上に生きているすべての人は、みんな違うのである。当たり前のことかもしれないが、私は声を大にして言いたい。誰もがたまたま生まれ育った環境の中で、それぞれの人生を歩んでいる。それぞれの価値観がある。それぞれに長所や短所をもっている。もちろん私にも、あなたにも、この世界中の誰かと比べて恵まれない部分や弱さが必ずあるのだ。恵まれている部分や強さがあるのだ。

 

だからこそ私は、「誰ひとり取り残さない」という社会を、世界中の誰もが均一化された「みんな同じ」社会だとは思わない。私にとってのNo One Left Behindとは、地球上の全ての人がお互いの価値観や文化を尊重し、かつ、自分の強みや可能性を最大限に発揮する機会を持っている社会である。そして、社会構造の中で人それぞれの「弱い」とされる部分を、他の人とフラットな関係性から補い活力を与え合える社会である。

 

 

 

ここで、冒頭の問いに戻る。そんな「誰ひとり取り残さない」社会は、これから本当に実現できるのだろうか。

 

 

 

そもそも、SDGsの理念であるこの「誰ひとり取り残さない」は、強い立場の者の視点に立って、弱い立場の者をみた考え方である。「先進国」「途上国」という言葉を使って国際協力・開発の文脈にあてはめれば、先進国の視点に立った価値観だ。このような上下関係は、資本主義社会のあらゆるところに存在している。看護師の両親のもとに育った私にとって、「誰かを助けたい」というのが昔からの将来の夢だった。しかし、助けるとはどういうことか。自分が上の立場になって弱い立場の人を引っ張り上げるということなのか。

 

 

 

私は、そのような上下関係を「誰ひとり取り残さない」社会に取り込みたくない。経済的に、文化的に、裕福さの違いはあるとしても、上下関係を基にした支援ではなく、人と人とがフラットに向き合い背中を押し合う・活気付け会える関係性を構築したいと思う。

 

そのために必要なこと、それは、自分が見ることのできる、関わることのできる範囲の世界を越えて、世界の様々な文化や伝統の中で生きる人と友達になることだ。友達になって、お互いを観察・理解し合えれば、自然と助け合いが生まれるのではないだろうか。

 

グローバル化が進み、強い勢力や文化・価値観が台頭している現代においても、グローバリゼーションを味方に、世界の様々な人、これまでの生活様式では出会うことなどなかったような人とも、友達になることで、フラットな関係性の上での助け合いができるだろう。それは、自然との関係でも同じだ。人間が決して優位に立つのではなく、地球上の様々な生き物と同じ立場として関わることができれば、自分事として、自然と環境に優しい選択ができるのではないか。

 

 

 

「誰ひとり取り残さない」ために、地球上に共に生きる多様な生物と、友達になってみませんか。

 

 

 

 

 

蛭間蘭 県立多摩高校3年生

 

 

 

ベトナム戦争。1955年に起きた、アメリカが初めて負けた戦争。学校で習ったとき、それしか言われなかったことに私は衝撃を受けた。

 小学2年生の夏から5年間、私は父の仕事の都合でベトナムのホーチミンに住んでいた。空港から降りると、夜なのにとにかく暑くて、知らない言語しか聞こえず、当時の私は驚きしかなかったことを覚えている。父が運転する車に揺られて夜の街を眺めていると、周りにはバイクしか見えなかったが、それが「車は高くて買えないから」と気付くには幼かった。次の日、街を見ると衝撃の嵐だった。歩道らしき場所はガタガタで歩きづらく、道端にたくさん店が並んでおり、移動式の店を持つ人のほうが多かった。映画館なんてものは存在せず、日本の番組はNHKしか流れないテレビで初めてディズニーの新作が出ていたことを知るような生活。当時外国に憧れを抱いていた私は、「こんなはずじゃ……」と思った。私の知っていた外国なんてアメリカとフランスくらいで、外国は日本よりももっと発展していておしゃれな場所なんだとイメージしていたからだ。

 しかし「発展途上国」と呼ばれるだけあって町並みはあっという間に変わっていった。「建物」のお店が増え、ショッピングモールや高層ビルが並び建ち、念願の映画館ができ、マクドナルドなど他国の会社のチェーン店ができた。街の中心部だけではあったが道や道路が舗装され、瓦礫で転ぶことも減った。その目覚ましい発展ぶりは小学生の私の目にも明らかだった。

 そんな中で、唯一変わらない風景があった。観光地のベンタイン市場の近くの道路で、物を売る親子。母親には、足がなかった。当時の私はただ、「かわいそうだなあ」としか思わなかった。無知だったのだ。私の母は、憶測でしかないが、年齢的にベトナム戦争の後遺症なのではないかと言った。ベトナム戦争。そんな戦争があったのか、とまた私は呑気に思っていた。 私が通っていた日本人学校の行事の一つで、毎年ベトナム戦争時にまかれた枯葉剤の後遺症に苦しむ子どもたちが入院している病院に行くことがある。低学年にはあまりにも衝撃が強い内容らしく、私が行けることはなかったが、当時小学6年生だった姉が行った。姉の話によると、幼稚園から小学生ぐらいの子供までおり、手や足が1本だけの子供、中にはベッドに縛り付けられている子もいたらしい。姉はショックで体調を崩してしまっていた。

 一体どれだけの人が、ベトナム戦争のことを知っているだろうか。学校で習う、「南北で分裂して戦って、北側が勝った」。それだけで理解を止めていないだろうか。戦況に焦った南側であるアメリカが、熱帯雨林に民間人もいるのを知っておきながらも人体に害を及ぼす枯葉剤をまいたことを知っている人はいるのだろうか。その後遺症で、奇形で生まれた赤ん坊がどれだけいるか知っているのだろうか。その子達が生まれてすぐ病院に閉じ込められ、今も苦しんでいるのだ。第二次世界大戦終戦から70年ほど経ち、当時の記憶を持つものがいなくなってきていると言われているが、私は違うと思う。発展していくベトナムの中で、まだ国内には戦争の後遺症に苦しまされ、社会に取り残されている人たちが確かにいるのだ。昨年、授業で冷戦に関する映像を見た時、ベトナム戦争がワンシーンしか流れず、私は驚いた。なぜ、あの枯葉剤が撒かれたという悲惨な状況を見せないのか。なぜ、忘れてはいけない歴史をほとんど映さないのか。彼らが今も感じている痛みや苦しみが、なぜ流れないのか。そんな疑問が数々頭に浮かんだ。

この間、テレビでベトナムの観光地についてホーチミンが紹介されていた。バイクだらけの道路、大きな教会、個性的な商品が並ぶ市場。レポーターが数々の観光地を紹介する中、私は道端で物を売っていた親子や、姉から聞いた子どもたちのことを思い出した。今、彼らがどうなっているか私には知る由もないが、ただひとつ、世界中にまだ戦争で苦しんでいる人がいることを絶対に忘れない、そう強く決意した。

 

 

 

 

 

古澤百花 渋谷教育学園幕張高等学校 高校3年生

 

 

 

札を払う瞬間、パッと振り上げられた彼女の腕に線状の傷がついているのを確認する。

勢いよく飛ばした札を拾いに行く彼女を見ながら、この子もか、と思った。

これで何度目だろう、歳が近い女の子の腕に、線状の傷を見つけたのは。

百人一首の読み上げ機から抑揚のある声が流れ、札が読み上げられる。

札を取りに行く瞬間、彼女の手が自分の手にぶつかり、激痛が走る。

競技かるたではよくあることだ。

「大丈夫?」

と聞き、彼女のぶつかった手を見ながら、彼女が自身で傷つけたと思われる腕を再び見る。

彼女の腕の線状の傷と、ぶつかった時に感じた痛みが重なって、ハッとした。

あの線状の傷は、彼女自身が加えた傷なのだ。こんなに痛い思いを、彼女が自らしようと思ったのだ。

既に知っていた事実の重大さを改めて認識する。雷に打たれた気分だった。

新しい傷なのだろうか。だとしたら、試合の後に何か言った方がいいのか。

だがそう考えている瞬間、札が読まれ、我にかえる。

今は試合だ、集中。

 

これは、今年、高3になったばかりのときの出来事だった。

 

初めて「リストカット」を知ったのは、中学生になってすぐのことだった。

傷を見せてくれたのは、同い年の女の子。女子がおしゃべりをして盛り上がっていたので、自分も輪に入ろうとすると、その子が腕の傷を見せていた。見せびらかしていはいなかったが、見せることに抵抗はないようだった。

「痛くないの?」

「うん。」

「なにを使うの?」

「カッター。」

周りの子の質問にその子は素直に答えていた。

高3になった今では、とてもそんな無神経な会話はできない。中1特有の幼さや、配慮のなさが、そんな会話を可能にしたのだろう。その子は今、元気にしているようだ。当時も、特に悩んでいるような様子はなかった。

 

高3になるまで、私はリストカットをしている女の子に3人ほど出会った。傷を隠している子もいれば、隠す素振りのない子もいた。隠す子には見えないふりをしたし、隠さない子には、気にせずに接した。

リストカットをする子に出会う度、リストカットが自分の中で「普通」になっていった。

ああ、この子もか。そんな感覚だった。

 

この間、競技かるたをしている途中、相手の腕の傷を確認した時、リストカットが身近な社会問題であると、やっと認識することができた。

確かに、リストカットを初めて知った時も、よくないことだとは思ったが、あまり気に止めることはなかった。それが自分自身に痛みを加える行為であることに改めて気付いた瞬間、私は事の重大さを知った。そして自分が今まであまりにも無知であったことを恥ずかしく思った。

1回のリストカットが命取りになることはあまりないと言う。一方で、それがリストカットの本当の怖さだと思う。簡単にできてしまうこと。中毒性があること。傷を隠しやすいこと。

10代の女の子の割合が最も高いと言われている。

ニュースでたくさん聞く問題ではない。しかし、確実に若者の間で広がっている、静かな病。リストカットを「普通」だと思っている人はどれくらいいるのだろうか。

そんな危機感を持って、私はこれを書いている。

 

私は今まで社会問題は、メディアが取り上げるものに限ると思っていた。ニュースで世界の半分ものサンゴがすでに失われたと知った時、高校生の仲間を集めて、自分たちがどのように環境問題に取り組んでいるのかをウェブサイトにあげた。Black Lives Matter を知った時、黒人アーティストのスピーチを和訳した動画をインスタグラムにあげた。

 

しかしリストカットという、メディアでは比較的タブーにされている問題に直面したとき、それは日常の中の「普通」にしか見えなかった。メディアが問題だと指摘することにしか行動を起こせない自分を恥ずかしく思った。

 

私たちはあまりにも自分にとっての「普通」にとらわれてしまうのと同じように、私たちはどうしても、「明らかに取り残されている人」ばかりに目を向けてしまう。カリフォルニアで山火事が広がり、多数の人が避難を余儀なくされた。イスラエルとパレスチナの間で再び戦闘が始まり、避難できなかった子供が何人も亡くなった。このような、まるで異世界から来たストーリーは、ニュースや新聞によって私たちに伝えられ、私たちに衝撃を与える。こうしてメディアによって、世界で起きている社会問題を知ることができるのは素晴らしいことだ。一方でメディアは情報過多と揶揄されるように、私たちは様々な情報を消化しようとするあまり、かえって身近な問題に目を向けなくなってしまう。

 

「秘かに取り残されている人」は身近にいる。

一般的に理解されている障害者の見た目ではなため、持病を抱えていても優先席に座れない人。

消毒液を使うと手が荒れてしまうのに、世の中の情勢上、消毒を断れない人。

打ち明けることができない悩みを抱え、自分の体に傷を負ってしまう人。

 

私たちは大きく取り上げられる社会問題には取り組もうとするように、どうして「秘かに取り残されている人」に真摯に向き合うことができないだろうか。

身近に「取り残されている人」の存在に気づくことこそが、誰一人取り残さない社会への第一歩ではないだろうか。

 

Think Globally, Act Locally.

今では、続々と生まれるスローガンに埋もれてしまっているこの言葉だが、改めてその意味を考えたい。

 

 

 

 

 

王麗莎 高崎経済大学 3年生 地域政策学部

 

 

 

今もなお猛威を奮い続けている新型コロナウイルスは私たちの生活に大きな影響を与えました。私を含めた外国人留学生は、コロナウイルスが原因で周りの環境が大きく変化しています。私は日本に留学をしてから、過去にない強い孤独感を感じました。知り合いが誰もいない、日本語がわからない、日本人の友だち一人もいないことを経験したので、私自身は孤独感を大きく実感しました。私は、まさに取り残されている人間だと一度思いました。

そこで、SDGsの「誰にも取り残さない」社会を実現するには、外国人留学生という視点から、どのように社会で取り残されるのかを考えました。そして、私は、誰一人取り残さないように、3つのことを考えました。これらの3つは「主体的に動く」、「周囲の環境への対応」、「コミュニティ活動への参加」という環境変化に関わらず、孤独感を解消し、日本社会に溶け込むために欠かせないものだと思いました。

新型コロナウイルス感染症の蔓延により、私は「学習環境」「学生生活」「経済状況」の困難な渦に巻き込まれ、今までの生活が一変しました。これまでにない孤独感や無力感を味わってきました。まず、「学習環境」で大きく変化したものは授業が完全に遠隔化したことです。ZOOMなどを使ってリアルタイム配信の授業をするライブ配信型授業、映像や資料を掲示するオンデマンド型授業が多くなりました。画面を見ながら一言も言わずに済む一日に苦しみました。一人暮らしの寂しさを加え、教授や友達とコミュニケーションを取る機会がほとんどありませんでした。続いて、「学生生活」については、サークルが中止になったことでヒトとの交流の場所がなくなりました。更に、コロナ禍前ではアルバイトをしていましたが、新型コロナウイルスの感染拡大により働いていた店は閉店となり、「経済面」の不安にも追い込ました。私以外の方々にもコロナの影響で様々な問題を抱えているでしょう。

こうした環境で、私は3つの行動をしました。1つ目は、誰にも助けられない日々には、私は主体的に動きました。私はGHKGグローバル・ハタラクぐんまプロジェクトに参加し、グループ共同作業を通じて、「持続可能な目標(SDGs)」の理念を深く理解するができました。また、異なる文化的背景を持つ学生同士と協働し、お互い理解しながら交流していくことができました。私は世の中、孤独感を感じるヒトは少なくないと思い、これを離脱するには、自分で行動を起こすしかないと思いました。なにもしないままでは、社会に取り残されるのではないか。

2つ目は、周囲の環境への対応をすることです。私が置かれている状況も困難だと意識しながら、変わった環境に直面し、こういった困難を乗り越える姿勢は大切です。そのため、コロナ時代の変化を敏感に感じ取り、変わりゆく対応を取りました。新型コロナウイルスで命を失ったヒト、仕事がなくなったヒト、自由を制限したヒトなどもう取り戻れません。それを防ぐために、社会に取り残さないように、自分の健康を保ち、自分の知識やノウハウを高めることに力を入れています。誰でも置き去りにならないため、状況に応じて、柔軟的に行動を変えていくことが大切だと考えました。

3つ目は、積極的にコミュニティ活動への参加し、社会と繋がっていくことです。日本社会へ溶け込むには人々とのつながりを大切にしたいです。私は孤独感を解消するには、学校以外の居場所を作ることが大事だと考え、小学生の学習をサポートできるボランティアを積極的に参加しました。子供の笑顔から私の心を癒やし、更に、地域の一員としての自覚が生まれ、子供たちと向き合う時間を充実することで生きがいを感じました。こういった活動によって、新しいコミュニティが形成され、幸福感を感じ、自己価値や社会とのつながりが深くになりました。

孤独感を解消することは、身体的にも、心理的にも社会的にも良い循環であり、「誰一人も取り残さない」社会と結びつける架け橋となります。たしかに、誰一人も取り残さないことは難しいです。しかしながら、困難なことだからこそ、私たち一人ひとりの社会的責任感を持ち、この社会において、自分のできることを先に考え、一歩を踏み出して行動し、貢献することは「誰も取り残さない」という社会像の実現に少しずつ近づくことができるでしょう。それが、外国人留学生は日本社会の一員として認識することは「誰一人も取り残さない」社会に繋がるだろうと考えました。

 

 

 

 

 

吉本萌恵 クラーク記念国際高等学校3年生

 

 

 

 お金がなければ、生きたいように生きられない。自由に選択ができない。そして、取り残されてしまう。それが最近わかってきた。私、大人になったんだろうか。

 サスティナブルな生活がしたいと強く思う。しかし、環境負荷の少ない製造方法で作られた製品、生産者が公正な利益を受け取ることが約束された海外製品、使用中・使用後にゴミがあまり出ない商品、ブラックな労働を避けた輸入品を見れば、いずれも高価である。

 たくさんお金が稼げる仕事を求める大人たちは、必要以上の娯楽と贅沢な暮らしに憧れるゆえ、そのような振る舞いをするのだと思っていた。なんて欲張りなんだ、私はお金に幸せを求める生き方はしない!と両親の面前で決意表明をしたこともあった。

  しかしそうではなかった、と最近になってわかった。

 先日、家庭科の授業の意見交換にて、収入は大事だと言い張っていた友人らが、ずいぶんと社会がわかっていて、未来が見えていたんだなと、驚いて、恥ずかしくなった。ここである種の「置いてけぼり」を食らっていた私であった。

 ともかく、世間では、最近SDGsを取り上げて、サスティナブルな取り組みをする企業を持ち上げたり、サスティナブルな生活を心がける人を褒めたりする風潮が生まれている。それ自体は、SDGsを推し進める上で素晴らしい進歩、有利な方向だ。なぜなら、誰でも「好まれること」をしたいし、大勢が認知すれば、同じ方へ、サスティナブルな世界へ進んでいくのが容易になるからだ。

 ただ、私はその波に乗れない人がいるのじゃないかと危惧する。それどころか、波に溺れる人々がいるのじゃないかと。前述した通り、サスティナブルな商品は高価なので、SDGsに貢献しようと消費者の立場で奮闘するなら、どうしたってお金に余裕がないといけないのだ。ある程度の余裕がある人は、当然の如くサスティナブルな製品を買うようになる。世の中がどんどん、サスティナブルな製品を買わない人に対し、冷たくなっていく。本当はしたくともできないのに。そんな近い将来が見えた。お金に不自由を覚える側としては、黙って見ていられない有様だ。取り残されたくない。

 でも、それは気に留めるまでもない小さな摩擦で、より良い世界へ変えるためには致し方ないことなのだろう。

 悶々としつつある日、いらない布地が勿体無くて、ポシェットに作り替えた。とても、楽しかった。完成して、あっと声が出た。ゴミは減って、リサイクルに出すよりも環境負荷は少ないはず。そして生地を買わずに済んだのでお金はむしろ浮いた。なんだ、そうだった。

 SDGsとは言ってしまえば、みんながながく幸せに暮らすための目標だ。圧力を感じて嫌な思いをするのは本末転倒と言うべきで、私は全く間違った思い込みをしていた。自由に生きることは幸せにつながっている。私が本当にSDGs達成を目指すつもりなら、周囲に流されて、お金は人生の喜びと無関係だという信念を放棄して、自由を諦めてはいけなかった。

 ここで、一つのアイディアを示したい。この作文を書いている過程でふと思いついたものだ。以前から、特にファストファッションの店舗には、もう着なくなった衣服を回収するボックスが置いてある。覗いてみたところ、可愛い服がちらと見えた。やっぱり贅沢してるな、と考えた。とったら怒られるだろうか。

 回収した服は発展途上国へ寄付したり、リサイクルしたりするそうだが、事実、現地の住民の力で生産することを妨げ、寄付先の経済成長を邪魔していることもあるし、リサイクルにもその過程で多大な環境負荷がかかるという。

 ならば、着なくなった服を、訪れた人が気に入れば貰って帰っていいというシステムを作れないだろうか。何もCO2をたくさん排出して外国に運ばずとも、日本にもその服が欲しい人はいる。サスティナビリティを考える暇がない人たちが利用して、私が先日味わった嬉しさ・達成感味わって欲しい。それに、堂々とSDGsに協力したという実感を持って欲しい。

 確かに、お金がないとできないこともあるだろう。しかしそれはお金に余裕がある人に任せるべきところだ。

 決して取り残されてはいない。それぞれに役割はある。

 

 

 

春木大空(もとたか) 都立深沢高校3年生

 

 

 

私はこのSDGsの存在を高校の授業で知った。知った当初は[綺麗事ばかりを並べ、解決する気はない無いものばかりだろう]と思っていた。しかし、日本だけではなく海外の貧困問題、差別問題を知ってゆくうちに何か自分自身が行動に移さなければならないと思いこの文を今書いている。

 

 私は現代社会の大きな問題として[差別問題]を取り上げたい。身近な差別の対象の一つとして[LGBT+Q]がある。私は自分自身が異性しか愛せないのかはハッキリとは分からない。まだ惹かれる同性に出会っていないだけなのかもしれない。私の母は私が幼い頃[人は性別関係なく、愛した人を愛する権利があるんだよ]と教えてくれた。今でもその言葉を信じ続けている。差別が起こる原因として様々な理由があるだろう。しかし唯一確かなのは[差別は無知からくるもの] と言うことだ。もしあなたが未知の生物に出会ったらあなたはどうするであろうか?恐らく多くの人々が逃げ回り、恐れ、理解しようとしないだろう。だから差別が生まれる。これは極端な例かもしれない。しかし差別が始まる多くの場合はこの流れだろう。[知ることを拒否する]ということは差別を生む大きな原因だ。だが一番身近な未知の生物として挙げられる異性はどうだろうか。[男と女は違う惑星から生まれた]と言われるほどに、男女の違いは明確に示されている。しかしそのような違いがあっても多くの男女は愛し合い、子供を育て幸せな家庭を気付きあげている。なぜ異性間であるなら理解ができて、尊重しあえるのだろうか。同性だと何が問題なのだろうか。

 

 私はあるアプリケーションをつかって恋愛のありかたについて調査をした。ここでは二つの国を例に挙げる。一つは同性婚が認められているスウェーデン。もう一つは同性婚が認められていない日本。スウェーデンの学生たちに[男性は女性を、女性は男性を愛すべきだとおもう?]という質問を30人の男女にした。すると30人中27人が[No]という答えだった。[恋愛は自由、だれがだれを愛しても良い]という考え方が国自体に染み込んでいのだろう。続いて日本の学生に同じ質問をした。30人中26人が[yes]と答えた。理由を聞くと [それな普通だから]という答えが一番多かった。普通という概念 これは誰が定めたものなのだろうか。その自分自身が持つ普通という概念に背く人間がいれば、理解しようともせず、差別をする。日本よ差別問題が解消されない背景には多くの日本人が持っている[普通と言った概念]が影響しているのだと分かった。

 

 正直私は差別をこの世界から無くすことは不可能だと考えている。しかし差別この世界から無くそうと考える人を増やすことはできる。もしそれができたならこの日本、いやこの世界は誰ひとり取り残されずに幸せに溢れた世界になると信じている。

 

愛した人を愛せる世界。男女が共に尊敬し合う世界。肌の色や外見を見るのではなく心で会話をしあう世界。そのような素晴らしい世界に住む人たちは、他の環境問題にも目を向けて解決しようとするはずだ。私は差別をこの世から無くすと共に環境問題にも目を向け私にできることこれからもし続けていく。

 

 

 

 

 

古井翔子 東京女子大学 3年生

 

「普通」は自分が作るもの

 

「カッコ良い女子が居てもいいんじゃない?」これはとある女性が母から言われた言葉だ。

 

貴方は自分の性別についてどのように考えていますか?男性、女性、その他、戸籍上の自分の性別と気持ちが異なる人も居る。では、貴方は周りから「女の子らしく」や「男の子なんだから!」などと言われたことはあるだろうか。私にはある。私は髪型や服装、話し方や振る舞いで自分を表現します。私の性別は女性であり、幼少期にはShirley Templeを着たり、ピアノやバレエという女の子らしいと言われる習い事をさせて貰った。中学生となりソフトボール部に所属した私は髪をショートにした。その際、祖母に「女の子なのに…」と言われた。当時の私はショートに憧れがあり、自分もショートにしてみたいという気持ちがあった。それだけなのに、髪の長さ一つも性別によって決められなければならないのかと当時の私は落ち込んだ。そんな時私が出会った言葉が上記の言葉「カッコイイ女性が居てもいいんじゃない?」である。髪型や服装において、男の子や女の子という生まれながらに持った性別ではなく「自分らしく!」で良いのではないか。着たい服を着て、似合う服を着て、似合う髪型をする。世間の「普通」は関係無い。「普通」は私が作るものだと思う。私は生まれ変わっても女性でありたい。男性のかっこいいではなく、女性のかっこいいでありたいし、来世でも可愛いとかっこいいも両方経験したい。

 

そして今の私は「彼氏は居ないの?」と言われたり、何か質問をすれば「彼氏さんがそうなんですか?」と聞かれる。私の性別は女性であり、今の世間一般における「普通」では、女性は男性と付き合うつまり異性愛が認知されている。これらの発言には、私が女性が好きという同性愛者やバイセクシュアルであるという認識が無い発言である。私は昔も現在も同性の方を応援させて頂く事が多い。それは好きという好意よりも憧れや自分の目指す目標だったりする。だが、なぜ同性を追いかけるのか?恋愛対象は女性なの?などと聞かれるが、それは応援する、追っかけをする=恋愛対象という固定概念やその人自身が普通だと思っている事の現れではないだろうか。

 

私は今、役者を目指している。私が歌を習う際、女性が男性ボーカルの曲を選ぶこともあったり、自由に自分の歌う曲を選んで良い。また、舞台上では男性が女性を演じたり、女性が武将になったりする。近年流行している2.5次元ミュージカルでは、女性が殺陣を行う舞台も存在している。殺陣という一見男性が行うとされている表現を女性が行う姿がとてもかっこよく私自身も殺陣やアクションを行う舞台役者になりたい。舞台上で行われる性別に捉われない表現を私はとても美しいと感じ、カッコイイな!と心惹かれる。日常生活で表現を制限される人が舞台を見て感動したり、自分自身を認めてあげられるようになって欲しい。私は、舞台上での表現を日常生活でも自由に表現出来るようになれば良いと思う。LGBTQ +やジェンダーレスという言葉がよく聞かれるこの世界の中で性別に捉われず、世間の「普通」に苦しまず、「自分らしく」生きられる世界が訪れると良いなと私は思う。

 

 

 

佐藤彩音 高知県立高知国際中学校3年生

 

 

 

私はSDGsの基本理念「誰ひとり取り残さない」の視点で様々なことを考えた結果、新聞などの メディアを使っている高齢者がSDGsについて考える事が出来ない現状を変えるためにSDGsを 知るきっかけとしてクロスワードを作成したいと考えています。

私は今、高知県に住んでいます。高知県では総人口における65歳以上の割合がすでに3割を超えていて、全国平均より6.2%も高いです。今後も高齢化率は増えていき、2045年には4割を超えると言われています。私は高齢者が増えている高知県で、SDGsの取り組みに付いて行くことが出来ていない高齢者の方が沢山いることを昨年知りました。

昨年私は、廃校再生プロジェクトに参加しました。その廃校は私の家から一番近いにもかかわらず、私が小学一年生になる春に廃校になってしまいました。なので私は統合された少し離れた小学校に通っていました。このプロジェクトはそんな小学校の校舎の活用計画を市民が考えて、 市に提案するプロジェクトです。私たちの地域は市内でも高齢者率、また人口減少率が高い地域 で地元の方で参加されたのは高齢者の方々が多かったです。地域内外から来た方々との話し合いを重ねて行くうち、私たちのグループでは、その校舎をSDGsの取り組み展示や体験、イベント などが行える地域のSDGsステーションとして活用しようという案を出しました。その案について説明をしている時、高齢者の方々にSDGsが浸透していない事に気付きました。高齢者の方々が 使っている新聞やテレビなどでもSDGsに関しての情報が流れているのですが、それらのメディアでの発信の仕方は高齢者に影響をあまり与えてないと思います。なぜなら高齢者の方は自分の 行動範囲を地域の中にする場合が多く、地域外で起きている現状や取り組みなどに対して興味を示す事がない場合が多いからです。今回の案について説明されているときも、「横文字はわからない」と言われ理解しようと頑張っている聞いてくれた人と、理解して欲しくて説明した私の両方の思いが届かなくてお互いが傷付きました。

そこでどうすれば興味を持ってくれるのだろうと考えました。そして私は高齢者が使っている新聞やテレビでの発信の仕方を工夫する事ができると思いました。新しい情報に対しての価値観をなくし、誰にでもわかりやすいような言葉と地域で起きている現状や取り組みを使って発信することが良いと思います。まずは行動よりも興味をもって情報を理解する事が大切だと考えています。それでも興味を持ってくれない方もいると思うので私はクロスワードをSDGsに関して知るきっかけとして使いたいと考えています。私と同居している祖父母は週に1度新聞に掲載されるクロスワードが大好きです。時間をかけて沢山考え楽しんで解き、時にはわからないものを友人に電話 をかけて聞いているほどです。このようにクロスワードを楽しんでいるのは私の祖父母だけではありません。沢山の人、幅広い年代の人がクロスワードを楽しんでいます。クロスワードとして高齢者の方に配布することでSDGsについて興味を持って情報を理解するきっかけができ、更にわからないところを家族に話を聞いたりなどして家族団らんの場所を作る事ができるのではないか と考えました。

私の通う中学校では国際バカロレアのカリキュラムを取り入れており、このカリキュラムの中に はSA(Service as Action)と言われる活動があります。これは行動を伴う奉仕活動で、学校内外 で個人やグループで活動をしています。私はこのアイデアを実践するために、SDGsに興味のある友人や他学年の人などを集め、SAの活動としてSDGs全ての目標に関連した17のクロスワー ドを作り新聞や市報にはさみこんで配布したいと思っています。クロスワードだけでなく、地域で行っているテーマとなっているSDGsのゴールの取り組みなども紹介することができれば良いなと思います。

これらのことから私は、「お年寄りの方々をSDGsに関する知識から取り残さない」を目指してこれから活動していきたいと思います。そして高齢者に限らず、世界中の人全員が一丸となってお互いの持続的な幸せを願えるようになりたいと思います。

 

 

 

黒松俊吾 大阪市立大学医学部医学科3年生

 

 

 

近年、発達障害、という言葉はかなりメジャーになってきた。同時に社会制度も整えられていき、より多様性が認められる世の中になってきたと感じている。しかしながら、そんな中で「取り残されている」人たちがいる。その人たちを私は「過」発達障害と呼ぶ。文字通り、年齢に比べて精神的に発達している人たちを私はそう呼んでいる。この言葉を聞いて、多くの人は贅沢な悩みだと思うのではないだろうか、きっと、さぞかし周りよりも大人で、勉強が出来て、大人とも上手く渡り合える、そんな人をイメージするのではないだろうか。しかし、現実は大きく異なっている。特にこの日本では、長年画一的な教育が推進されてきた。みんなが同じものを作り、絶対的な基準で審査してきた。その中で、出る杭は打たれるような社会が形成されてきてしまったのだ。

かく言う私も、その一人ではないかと思っている。学校という狭い空間の中では、学校が子どもたちにとっての全てであることもある。その中で周りと価値観が合わない、というのは大変苦しいものである。私が周りより成熟しているのではないか、と気づいたのは中学校に入学した時だった。確かに、今思い返してみれば、幼い頃からおとなしい子どもではあったのだと思う。しかしながら、おとなしい、とおとなっぽい、は違う、と私は思っていた。私は中学受験をして、中高一貫の男子校に入学した。最初の数ヶ月、なかなか友達ができなかった、今までこんなことはなかったのに、そう思っていたが、それは単に周りの子が私に話しかけてくれる環境が今までは続いたから、でも今回はそうじゃなかったから、だと思うようにした。そうして友達ができない中で、ふと周りにいる子たちを観察していると、どうも彼らの面白い、としていることが理解できない。とても苦しい日々だった。それでも、友達はできた、月日が経つにつれて、増えていった。そして私は自分を内に秘めるようになった。彼らの面白い、と思うことが、自分という人格を上書いていった。幸い、勉強はそれなりにできた。特に懸命に勉強をしているわけではなかったが、それなりの成績を取っていたことも、周りと上手く折り合えた一つの要因だったのだろう。それから数年が経って、高校2年生になった頃だろうか、ようやく周りの言っていることと、自分の考えていることが合うようになってきた。そのおかげか、高校最後の一年間はほとんど勉強詰めではあったものの、その合間合間で友人と話した時間は本当に楽しいものだった。そしてその頃、同じ目線だと感じた友人とは今でも本当に仲良くできている。しかし大学に入学して、また同じ壁に当たった。周りとの価値観が全く合わない。今までは自分が周りより偏差値が高いからだと半ば言い訳してきたが、同じ入試を、しかも高い倍率で突破している以上、もはや他の同級生と価値観が合わないのは偏差値の問題ではないと気づいた。そしてまた、自分を内に秘めて、みんなのイメージする「大学生」で自分を上書いた。気づいたら留年していた。それからの人生は本当に楽なものになった。もちろん今の学年にも同級生、というものは存在する。でもそれはそんなに深い関係性ではないだろう。ようやくこの学校、という社会から抜け出せたのだと、そして自分を再び外に出すことができた。小学生以来の自分との邂逅である。

こうして振り返ると、中学校に入学した当時の自分にアドバイスするなら、もっと大人と関わりなさい、ということになる。自分と近しい価値観の人と出会って初めて、自分は一人じゃないと思える、自分は周りより少しだけ、大人なだけなんだと、思える。

私はここで提案したい。もっと日本は留年及び飛び級制度を整備すべきである。確かに、おとなっぽい子、の全てが勉強が得意な訳でも、好きな訳でもない。ただ、この学年、この同級生とずっと一緒なのだと、いうことは学校という社会をより狭苦しいものにしていると私は思う。さらに、勉強ができる子がより高い学年に上がるのが優しさなら、その逆もまた優しさなのである。これは過発達障害の人に新たな目標を与え、より良い環境を与えるだけではなく、定型発達の人にもいい効果があると私は考えている。私は学習塾でアルバイトをしているが、勉強をする理由を見失っている学生が多く感じる。もちろん、なぜ勉強するのか、を伝えている学校もあるだろう、しかしそれ以上に、自分の頭でそれを考えることはもっと大事なことであると私は思う。そんな中で、留年や飛び級、という制度が整備され、より進級が困難になると同時に、自分と同い年で先を行く友人を見れば、なぜ自分はこの厳しい競走の中で、勝ち抜かなければいけないのか、はたまた、本当に勉強しないといけないのか、ということを考えるきっかけになると私は思う。

先進国の中でも、留年及び飛び級制度の有無は分かれている。日本で本格的に導入するにしても慎重な議論が必要なのは間違いないだろう。それでも、その議論が発達の遅れている子どもだけでなく、進み過ぎている子どもに注目するきっかけになればいいと思う。

 

 

 

 

 

樋口あおい(仮名) 高校3年生

 

 

 

私は、いつだって取り残される側の人間だ。「バレたらどうしよう」「どこにも居場所なんてない」そう感じていた。今もそう思っている。いくら「多様性」が謳われる社会になってきているとはいえ、自分は他人と違うのだと宣言することはとても怖い。友人を失ってしまうかもしれない、勘当される可能性だってある。しかし、私はこの文章を書くと決めた。たった一人だけでも、私の文章を読んで変われる人がいるなら、他人の目を気にする必要なんてない。

私が初めて「SDGs」という言葉を知ったのは、高校一年生の頃だ。私の通っている学校は、SDGs教育に力を入れていて、総合や情報の授業で、SDGsに関する動画を作成したり、プレゼンテーションなどをしている。授業内で先生が、あのカラフルなSDGsの表を見せてくれた。貧困、飢餓、教育。遠い異国の出来事で、自分には関係ないと思った。そして先生はその後、とある動画を流した。ニュージーランドの国会議員が、同性婚を認める法律が採択されたときにしたスピーチだ。その内容は素晴らしいもので、私に勇気を与えてくれた。しかし、同時に恐怖を感じた。今このスピーチを見ているクラスメイトは、どう思っているのだろう。私のような類の人間に対して、どのような感情を抱いているのだろう。そのとき、SDGsという言葉が、自分のすぐ近くにあることに気付いた。遠い異国の出来事ではなく、自分が今直面している問題なのだ。

私は女性だ。そして女性が好きだ。最近流行りのLBGTQ+というやつである。SNSの普及や芸能人の影響などにより、以前よりはその存在が一般化してきたが、「気持ち悪い」「理解できない」と偏見を抱いている人は今も大勢いる。それも当然であろう。人間は、自分が絶対に正しいと思いがちだ。そしてその固定観念を、他人にも押し付けてしまう。自分にとっての正義という領域の中で判断をしてしまう。そうやって誰でも知らず知らずのうちに、何かに対して偏見を抱いている。性的少数者、犯罪者、外国人。大事なのは、自分が偏見を抱いていると自覚することだ。偏見は無意識の中で生じるが、偏見をなくすことは意識的にできるのではないだろうか。そのためにまずは、固定観念を捨てることだ。自分が信じていることは、本当に正しいのかと自問自答するのだ。どうしてそれを正しいと思うのか、その客観的な理由を探してみると「なんとなく」「そうだと思うから」という主観的で曖昧な回答が浮かんでくることがあるだろう。それが偏見を生んでいるということに気付くことが大切である。次に、偏見の対象と真正面から向き合うことだ。当事者と直接話してみたり、SNSやブログを見るなど、その手段は自由だ。そして、その人の肩書きに囚われず、対話をする。一方的に言葉をぶつけるのではなく、その人の話を聞いてじっくりと考えてみる。疑問が湧いてきたら、質問してみたり、調べたりする。これが対話である。それでも偏見が残っているなら、それは偏見ではなくその人自身の考えだ。尊重すべきものである。肯定するだけが多様性ではない。肯定も、否定も、無関心も全て含めて多様性だ。そこで初めて、「誰ひとり取り残さない」社会が生まれるのだ。

「多様性」という言葉は、自己の中で完結するものではない。家族、友人、知り合い、遠い異国の人。自分の知らない存在も、「多様性」の中に含まれているのだ。「誰ひとり取り残さない」社会を築くために大事なのは、知らないことを知ることだ。偏見を抱いていることに気付くことだ。そして、知ろうとすることだ。異質なものをただ排除するのではなく、真正面から向き合うことが重要なのだ。一人一人がお互いを尊重する、それが「誰ひとり取り残さない」社会だと私は考える。

 

 

 

 

 

牧山桃与 神奈川県立多摩高等学校

 

 

 

 あなたは認知症の人をどう思いますか?こう聞かれたらきっと肯定的な返事をする人が多いだろう。例えば、根気よく向き合うべきだ、とか面倒くさがらずに対応するべきだ、など。しかしそう答えた人の中で、実際に身近に認知症の人がいる割合は案外低いのではないだろうか。そう思うのは、実際私には認知症になったおばあちゃんがいるからである。

 私の体験から述べると、最初祖母が認知症になったと聞いたときはそうなんだ、くらいにしか思わなかった。今の時代それほど珍しいことではないのかなと。しかしながら祖母と直接会って話していると、以前との違いに驚き、悲しくなった。度々私と姉の名前を間違え、同じ質問を何度もしてくる。それも本当に一分も経たないうちに。認知症の症状はテレビやネットで知っていたし、それが仕方のないことだとも分かっているつもりだったが、どうしてついさっき話したことが覚えていられないんだろうと思ってしまった。 

 しかし祖母との向き合い方について初めてしっかりと正面から考えた時、認知症になったという事実に対して本人が一番悩んでいるのではないかと気づいた。そのため私は認知症について「軽く」受け止めるようにした。これは軽視する、という意味ではなくて深く考え過ぎないようにする、ということだ。この考え方が正解かどうかは分からなかった。それでも、考えすぎて暗くなった気持ちが本人にまで伝わってしまってはいけないと思った。だから私は以前と変わらない態度で祖母に接し、祖母自身をみるようにしている。そうすることで「認知症の祖母」と接している、という考え方から「ちょっと天然なおばあちゃん」と接しているかのように感じるようになった。これは私にとってはとても大きな変化で、祖母の気持ちだけではなく私の気持ちも楽にしてくれた。

 このように私は身近に認知症になった人がいたため、認知症について深く考える機会があった。だが認知症以外にも、生まれながらに心身に障害を持っている人や、深い精神的問題・トラウマを抱えている人などこの社会には様々な人がいる。またその中にはコロナウイルスの影響を受け、普段の生活が送れなくなり社会から取り残されてしまっている人もいるだろう。そんな人たちとめぐりあったときあなたはどうだろうか?どのような行動をとるべきだろうか?きっとそれはすぐに答えられるほど簡単なことではないだろう。それでも私達がすべきことは、取り残されている人たちについて考え続けることだと思う。きっと考えた先に出る答えは人それぞれで、その答えが正解かどうかもわからなくとも、考え続けることに意味があるはずだと信じたい。考え続けていつか誰かの気持ちを少しでも楽にすることができたら、それがその人にとっての正解になるはずだ。

 

 

 

古堀伸乃輔 青山学院大学3年生

 

 

 

「誰一人残さない」というワードを聞いた時、私は最初にダウン症の子供たちの顔が浮かんだ。

今回、私が伝えたいメッセージは「人は人によって救われる」と言うことだ。

人類は、時代とともに医療技術を日々進化させ続けており、不治の病とも言われた結核は薬が開発され、近年では猛威を振るっている新型コロナウイルスに対してもワクチン接種が行われ始めた。ただ、現在も医療現場は逼迫した状態で、新型コロナウィルスに関しては多くの人が関心を向けていることだろう。

その一方、難病に戦い、小児がんで余命宣告をされている子供やダウン症の子供たちもたくさんいる。日本だけでも難病の子供患者は14万人もおり、彼らは少なからず、誰かの家族の一員であり、その家族を失う孤独を私も知っている。

私は17歳のときに病気で父親を亡くした。さらには、私も大怪我をして入院生活と2回の移植手術を余儀なくされた。当時の私は、この先の人生・将来を考える事もできず、この世界に取り残された様な絶望的な日々を過ごしたことを鮮明に覚えている。そんな時に、救ってくれたのは「人」の存在だった。学校の先生や友人が常に私を支えてくれた。毎日、10人以上の友人が見舞いに来てくれたり、車椅子を必要としていた時期も、誰かがそばにいて、同じ時間・空間を過ごしてくれた。そのおかげで、辛い時でも私は一人ではないことを実感することができ、私にとって「人」の存在が力となり、支えとなり、立ち直ることができた。

残された人生をどのように歩むのかを決めるのは「自分自身」と「取り巻く環境」だと私は思う。そして、この経験から「人は人で元気になるのだ」と心の底から感じている。

今現在、世界中で猛威を振るう、新型コロナウィルスの感染拡大により、障がい者への関心が世間的に薄まっていないだろうか。実際に政府もコロナ禍で障がい者に目を向けて欲しいと述べているが、自分自身の健康面を意識し始めている反面、他人への気配りは減ってはいないだろうか。雇用問題においても多くの障がい者が解雇されているのが現状である。

そこで、私はコロナ禍でもダウン症の患者に目を向け、共生社会に向かおうとしているNY発のバディーウォークを行ったNPO法人のアクセプションズの活動に目を向けた。そこでは、障がいがあるなし関係なく、自由に夢を思い描ける未来をひとつひとつ実現していきたい、という思いがあり、アートや作曲、工作、ダンスなどをして、生きているということや楽しさを表現し、様々な個性が共に尊重し合えることで共生社会を促進する活動を行なっている。

ダウン症の子が生まれる時、合併症を持って生まれることが多い。しかし、医療進歩により、合併症を幼児時点で手術することが可能になった。そのことで、外出することができるダウン症の方も多くなり、健常者と共に時間を過ごすことが増えてきている。しかし、世間的にはダウン症の方々がいることを知りながらも、彼らがどのように生き、過ごしているのかという認知は少ない。今でも彼らは、生活している上で差別されることが多々あるようだ。彼らは自分自身のことを認め、個性として受け取り、接して欲しいと話していた。

SNSが世間の中心になっている現在。私はSNSを用いて彼らの作品や生活を世間に発信する。そこで私は、ダウン症患者が社会、生活で苦しんでいる人々が少なからずいることと、ダウン症と言うものを個性として接してほしいという訴えを広めていきたい。少しずつでも広まることにより、障がいをもつ人々と手を取り合い共生する社会へと近づくのではないだろうか。そして、共生社会に向かう動きを、他人事の知識として終わらせるのではなく、そのことを一人一人が意識して行動することにより、一人の人生を救うことに繋がる。

だからこそ、目を背けるのではなく少しの意識と少しの勇気を持って障がい者に接して欲しい。その一つの行動が彼らにとって生きる希望に繋がるかもしれない。それが、共生社会の第一歩となる。だから皆にもう一度伝えたい。「人は人によって救われる」と言うことを。

 

 

 

能村 天喜 大阪府立園芸高等学校 2年生

 

 

 

 チョウの成虫は花の蜜を、幼虫は葉っぱを食べて大きくなります。トンボの幼虫はヤゴといい、池や川などの水の中で、小さな昆虫や魚をつかまえ、食べて大きく育ちます。これは、昆虫観察会で発表した一言です。昆虫は汚い、気持ち悪い、人に害があると考えている人が多いと思います。そんな昆虫たちでも数が減ることは地球に悪い事だと私は知っています。SDGsの「誰も置き去りにしない世界を目指して」という言葉の対象は人だけではありません。昆虫は多くの動物の主要な餌となり、水質や土壌の浄化を行います。それゆえ、昆虫も置き去りにしてはいけない!と私は強く思います。私が園芸高校に入学し、廊下に飾ってある標本をふと見てみると、標本箱の中にあるヤマトタマムシの標本があり感動しました。日本にもこのような綺麗な昆虫が生息しているという衝撃は今も忘れることができません。日本の多種多様な生物守りたいと思いました。

 私の活動は園芸高校に生息する昆虫の調査、ビオトープの保全、観察会の実施です。これらの活動はSDGsの17の目標のうち4「質の高い教育をみんなに」15「陸の豊かさを守ろう」の達成をめざしたものです。園芸高校には実習庭園という巨大ビオトープがあり、そこには100種類を超える樹木と推定300種類を超える昆虫、そのほか多くの鳥や爬虫類が生息しています。まさに、都会のオアシスです。しかし、現在生息している昆虫は数を減らし、それを食べる動物たちも次々といなくなっています。早急に環境教育を行うべきだと思い、私の挑戦が始まりました。昆虫観察会では8月と9月の計2回実施し、参加者は保護者も合わせてなんと100名以上の人が来てくれました。当日はビオトープ部が作成した観察を行う昆虫の生息場所や食性についてのポスターを使い、子供たちに説明をしました。観察会で紹介した昆虫はバッタ、チョウ、そしてカマキリです。子供たちが捕まえられるほど沢山の昆虫がいて、虫取り網を一生懸命に振り、観察会を楽しんでくれました。観察会の初めは昆虫が苦手で触ることもできなかった参加者の少年が観察会終了前には少しだけ昆虫を触ることが出来ていて驚きました。これは観察会を実施し、SDGsの4の目標「質の良い教育をみんなに」を提供した大きな成果です。

 しかし、全てが上手くいく訳ではありませんでした。新型コロナウイルスの影響で緊急事態宣言が発令されてしまい、学校内に子供たちを呼ぶということが出来なくなりました。しかし、部員達と話を進める中でタブレットやスマートフォンなどを使える次世代の若者をターゲットにしたYouTubeチャンネルを立ち上げれば活動を続けられるのではないか、と意見がまとまりました。昆虫観察会では参加者にしか教えることの出来なかったことがYouTube活動を始めたことによって全世界の少年、少女に昆虫の魅力を伝えることができます。コロナ禍でも環境教育がしたいと諦めずに活動に取り組んだことは16「平和と公正をすべての人に」17「パートナーシップで目標を達成しよう」を達成する大きなチャンスをもたらしてくれました。YouTubeではかんきつ類の樹木に糞や食痕があるところにアゲハチョウの幼虫がいるということを、畑に住む、夜こっそりと作物の葉を食害するヨトウムシは日中、ハクサイの下の土に潜んでいることなどを配信しました。YouTube活動を初めて、友達が家族にYouTubeの存在を広めてくれました。少しずつチャンネル登録者数が増え、多くの人に広まり、いつか全世界の人が見てくれたら、昆虫を含めた多くの生き物が地球にとって人と共に生きていく存在だと理解してもらえると私は思いました。今後は英語で話して、昆虫の紹介をしている動画も作成し、より多くの人に配信を行いたいと思っています。2021年5月から動画を投稿し、現在までの視聴回数は187回です。決して多いとは言えない視聴回数ですが、見てくれている人がいるということを前向きに考えます。昆虫が減少していると理解している人はまだまだ少ないです。私一人では破壊された生物の生息地を作り直すのは困難ですが、昆虫観察会やYouTubeを通して、命を大切にする仲間を増やしていきます。

 私は園芸高校内で、部活を通し、樹木やビオトープ管理をし、13「気候変動に具体的な対策を」15「陸の豊かさを守ろう」の達成をしています。さらに、昆虫観察会では4「質の良い教育をみんなに」の達成だけでなく、多くの部員と協力し、活動をつづけたことは16「平和と公正をすべての人に」17「パートナーシップで目標を達成しよう」の達成に繋がりました。昆虫観察会、YouTube、一見遠回りに思うかもしれませんが、学校での環境教育こそが高校生の私に出来るSDGs活動です。人も鳥も魚も昆虫も植物も誰も置き去りにしない世界を私はめざします。

 

 

 

 

 

東江萌花 神奈川県立多摩高校

 

 

 

ある企業が「美白」という表現をやめる、というニュースを見た。それを見てとてもはっとし、どうして私は気が付かなかったのだろう、と思った。私はなんの違和感もなく美白という言葉を使い、なんとなく色白になりたいと思っていたうちの一人だ。でも、このニュースによって初めてこの言葉に違和感を持てるようになった。世界には、もちろん日本の中にも色々な人がいる。性別、人種、国籍など、皆が同じであるはずがないしみんなの肌が白いわけではない。それなのに美白という白だけを美しいとするような表現を使ってもいいのだろうか。私は避けるべきだと気づいた。なぜならこの言葉によって疎外された、取り残された気持ちになる人がいるはずだからだ。色が白くないから自分は美しくないと思ってしまうことがあるかもしれない。私自身も日に焼けやすいことを若干気にしている。これはきっと肌は白いほうがきれいだと私も、世間も思っているからだ。でもこのニュースを見てそうだ、肌の色は白が美しいなんて誰が決めたんだろう?もちろん色白になりたいと思うことが悪いわけではないけれど、別に何色だっていいんだ、そう思った。

 実際に日本では以前にもこれと同じような動きがあった。2000年ごろから始まった、子どもが使うクレヨンや色鉛筆における肌色という表記をうすだいだいやペールオレンジに変える、というものだ。今ではほとんどの商品で肌色表記が廃止され、私が幼い頃に使ったものにも肌色はなかったように思う。きっと「美白」表記廃止も同じように進んでいくのではないだろうか。時間はかかるかもしれない、しかし着実に進めていくべきだ。

 最近はありのままの自分を愛そう、多様性のある社会を目指そう、といったフレーズを聞くことが増えたように思う。しかしながら実際それを実現するために何が行われたのだろうか。言うだけタダという言葉があるがそれではいけないと思う。なんとなくいい言葉、で終わらせてはいけない。ひとりひとりが自分らしく生きていけて、誰もが取り残されない世界をつくるにはまずは個人が少し周りに目を向けてみるべきだ。自分の中の「普通」のものさしで物事を測っていないだろうか。今自分が発した言葉は無意識のうちに誰かを排除していないだろうか。長いこと使っていた言葉を使うなと言われても困る、と言う人もいるだろうが肌色という名称が使用されなくなったという例にあげたように言葉は移り変わっていく生き物だ。時代や社会に合わせて変えていくべきであり、私達も意識を変えていくべきだ。若い世代の私達が誰かを取り残してしまうような言葉を無くしていくことで、これからの社会で少しでも何気なく発した言葉で傷つく人が減るのではないだろうか。誰かを傷付けよう、排除しようと意図して行動することが悪であることは明らかだが、無意識のうちに傷付けてしまうことのほうが怖いと思う。この言葉は誰かを取り残していないだろうか、話す前に、使う前に、少しだけ立ち止まって考えたい。

 

 

 

代谷優奈 兵庫県立大学 環境人間学部 宇高ゼミ 3年生

 

見えない人、見ようとしない人

 

私は何も見ようとしていないとセミナーを視聴して感じた。「SDGsの精神『誰一人取り残さない』セミナー動画」を視聴するまでは、タイトルにある「取り残される人」とはネットが苦手な人しか思いつかなかったし、盲ろう者がどのような人かもはっきりと分かっていなかった。セミナーを視聴して私は自分の無知さに気づき、今まで見てこなかった人たちや自分に初めて目を向けた。

コロナウイルスが感染拡大し、テレワークやオンライン授業がニューノーマルになり、今では多くの人がこの変化に適応している。私はこの生活の変化は新しい社会に寄り添った良い変化だと思っていた。しかしセミナーの発表者であり、全盲ろうで上肢障害・下肢障害のある福田さんの話を聞き、社会の変化はマイノリティを完全に無視したものなのだと気づかされた。「三密」は2020年の流行語大賞に選ばれたほど世間に知れ渡り、避けなければいけないものとして認識された。しかし福田さんは盲ろう者は周りの助けが必要であるため、「盲ろう者とは三密民族なのである」と表現していた。盲ろう者に世間の認識・新しい日常をそのまま強要することは、「取り残すこと」に直結するのだと知った。他にもセミナー内で、話すスピードや要約筆記、トラブルなど普段友達などと関わるときとは違う非日常さを感じた。また参加者もその非日常さにうまく適応できていないと感じた。これはコロナ前の盲ろう者の日常を知らなかったことが影響しているだろう。

私は盲ろう者の方とは実際に関わったことはないが、アルバイト先で下肢障害を持った方と関わっていたことがある。その時も、私は初めの頃その障害についてよく知らなかった。だから関わり方が分からず、初めの頃は上手く対応ができなかった。だが関わっていく中で徐々にその方について知り、上手く対応できるようになった。コロナ禍前でも、このようにハンデを持っている人について知ることは重要であった。コロナ禍になった今では、よりハンデのある人や障害について知り、自分の適応力を変えていくことが必要になるだろう。私たちにはその努力が足りていないと感じた。

次に、盲ろう者は接すると「取り残されている」と分かるが、接しても取り残されていると分かりにくい健常者について考えた。コロナの時代になってから自殺者が11年ぶりに増加していると知った。この原因の上位は「うつなどの健康問題」「経済・生活問題」「家庭問題」である。これらの原因は、虐待・DVの増加にも関係している。2020年には児童虐待の疑いの子どもは初めて10万人を超え、DVの相談件数も過去最多の約13.2万人になった。これは外出自粛によるストレスや、自宅飲酒の増加などが原因に考えられる。それに加え家族以外との関わりが減り、被害者になってしまっても相談相手がいない。さらに虐待・DV被害は家の中で起こり、外と関わるときは隠すこともできるので周りからは見えにくく、問題解決が難しい。このような人も「取り残される人」ではないだろうか。

またひょっとすると気づいていないだけで、私も取り残されているのではないかと考えた。コロナ禍になりインターンシップや説明会はオンライン化が進んだ。そうなれば当然地方の学生も様々な企業の話を聞くことができる。これはメリットのように感じる。しかし、オンライン化で参加希望人数が増加すると企業側は選考に苦労する。そこで学歴フィルターが適用され「説明会に応募できない」「エントリーシートですぐ落ちる」という事例が生じる。その他にもコロナ禍で活動が制限され自己PRの材料が無い、など就活生もコロナによる影響を受けている。

このように盲ろう者に比べれば問題の大きさは異なるかもしれないが、コロナの影響によって取り残されている人は身近にも増えているはずだ。しかし新しい生活についていくのに必死で、それに気づいていない人が大半だろう。私のように自分のことでさえ見えていないのが事実だ。それに気づき支え合えることができれば、たとえ社会制度が「取り残される人」を守り切れずとも、社会は少しずつ変化していくはずだ。

最後に、「誰一人取り残されない社会」を完璧に成し遂げることはほぼ不可能だ。だができることは確実にあるはずだ。例えばオールニッポンレノベーションの代表理事である富樫さんは、まだ大学生であるのに12歳の頃から活動を始め知識が豊富で、同じ学生として感銘を受けた。そこで私も知識を貯えたいと感じた。だから私はSDGsについての知識を増やすこと、「取り残される人」を見つけるために他者、特にマイノリティと呼ばれる人の日常を考え、自分の日常に違和感を持つことから始めようと思った。

 

 

 

春日希 フリーランス

 

 

 

話を聞いて欲しい時、いつもそばに誰かがいてくれた。その事実が、自分自身を愛することのできる私を作ったのだと思う。でも、誰も聞いてくれる人がいなかったら?

昨年秋からポッドキャストというラジオの配信を始めた。小さい頃から話すことが大好きな私にぴったりの発信方法だと思ったからだ。大きなテーマは「ありのまま生きる」。当初は一人で思いを語る形式を基本にし、時折ゲストを迎えて対話をしようと思っていたのだが、何人かのゲストを迎えていくうちに、多くの発見や学びがあった。会ったことも話したこともある相手の知らなかった過去について聞いた。相手の中に自分を見つける瞬間があったり、リモート収録ではあるものの、お互いに深いところで繋がるような感覚があった。

さらに気が付いたのは、一人一人の人生が、想像するよりも遥かにドラマチックだということである。一般的、普通、平凡といった言葉が存在する意味を本気で疑ってしまうほど、皆様々な経験をし、感情を抱き、毎日を生きている。きっと私は今まで、自分の人生を生きるのに必死で、本当の意味で他者の話を聴く機会が少なかったのだろう。

例えば私の大切な幼馴染。彼女はハーフとして生きる上での葛藤を抱えていた。これについては直接話したことはあったが、私たちの会話が不特定多数の人々に届くという状況になり、彼女はより丁寧で親切な言葉を選び、自身の心の内を語ってくれた。また、私の妹は自分がHSP(ハイリーセンシティブパーソン)であることをラジオで初めて公表し、それとどう向き合っているかを教えてくれた。

6月はプライド月間ということもあり、「もっと知りたいLGBTQ+」というテーマで4人のゲストと対談をし配信をした。ゲストたちは今の日本、世界、社会に対して思うこと、周りの人たちに伝えたいことを語ってくれた。そのうちの一人Nさんと私は一度も会ったことがなく、友人の紹介でゲストとして来てもらった。Nさんの容姿はもちろん、どんな人物であるか全く知らない状態で声だけで挨拶を交わし、Nさんの幼少期から今に至る人生について聞かせてもらった。約2時間の収録を終えた後、私はすごく不思議な気持ちになった。知らない人の人生を知って、私はその人にすごく近づいた気がしたのだ。その人を心から尊敬したし、守りたいとすら思った。そしてNさんが世界に向けて声を上げてくれたことが嬉しかった。

私が考える「誰一人取り残さない」の意味は、「誰一人ありのままの自分を愛することから取り残さない」であり、そうであってほしいと願う。コロナ禍でこれまで抱いたことのない怒りや悲しみに出会った。はじめはそれに驚き、自分の脆さや弱さを恥じたり、見えないふりをしたくなったが、そんな自分の話を聞いてくれる家族、友人、パートナーがいてくれたおかげで、嫌いだった自分の中にある部分も受け入れることができるようになった。脆さや弱さも含めて今の自分であり、自分はこの世界に一人しかいない特別な存在であると。

次は私が「取り残されている」と感じている人の声に耳を傾ける番であり、それはポッドキャストを通して着実に実行できている。そのカラフルな声たちを多くの人に届け、それを聴いてくれた人たちが他者と自分を受け入れ、愛することができるようにしたい。近くの人に話を聞いてもらえなくても、安心できる場所、心の拠り所が一つでもあればそれは実現可能であると思う。明日はどんな声を聴くことができるだろう。私はそこから何を感じとるだろう。そう考える今、私の心は希望と期待に満ちてきた。

 

 

 

 

 

山崎咲歌 病院勤務管理栄養士(25歳)

 

 

 

 私が、「このままだと、この人を取り残してしまう」と感じた経験について述べようと思う。私は病院で働く管理栄養士で、主な業務の一つに栄養相談がある。患者の疾患は然り、生活環境や習慣、経済的な制限に至るまで、患者の背景は十人十色だ。一人一人に適した実現性のある食生活改善について、評価や提案を行うのが栄養相談である。

 その患者は82歳の男性だった。嚥下機能の低下があり、誤嚥性肺炎を起こさないために退院後は食形態に配慮した食事の準備が必要であった。多くの高齢患者は、退院後の食事サポートを得るため栄養相談に妻または夫、子供などを同席させる。しかしその患者は一人だった。妻の認知機能が低下し、施設に入っていると。高血圧に対する減塩の工夫や、糖尿病対する甘いものを控えるなどの指導は、比較的シンプルかつ分かりやすい。一方で、嚥下機能に配慮した食事の準備というのは、普段料理をしない、ましてや高齢の男性が一人で実践するには大変困難なことが予測された。昨今では宅配食の種類が豊富になり、その中に嚥下食を扱っているような会社もある。ただそれらは一般的な宅配食と比べ費用が高い。「年金暮らしだから…」と躊躇する様子が伺えたその患者には、積極的にそれを勧めることは出来なかった。宅配食に頼らず市販で購入できる商品や食品選択の工夫について話したが、その患者だけに数時間割けるわけもなく、相談終了後は、この患者は自宅に帰ったらどうなるのだろう、と患者の孤独を痛感した。

 日本にはそのような高齢者が利用できる社会資源が比較的充実していると思うが、実際の利用者の精神面など、表面的には見えない部分まで考慮すると「取り残されている人」は想像以上に多くいるかもしれない。国、文化、年齢といった境界を越えて、個人として見たときに79億の多様性がある中で、「誰ひとり取り残さない」というのは極めてハードルの高い目標であると思う。そもそも「誰ひとり取り残さない」の言葉が持つ意味がどういったものか、自身なりの考えを展開しようと思う。

私が考える「誰ひとり取り残さない」の意味は、単に物事を平等に、標準化していくこととは少し異なる。もちろんそこに不平等があって良いと言っているわけではない。具体的な例を挙げてみるとする。

先日、日本人カメラマンが監督したドキュメンタリーを鑑賞した。中国の貧困層の実態について捉えたものだ。印象に残っているのは、貧困脱却のためにいくら政府が貧困層に向けた都市部での雇用を生み出したとしても、彼らが都市生活に慣れないために貧困地域に出戻ってしまうという実態だった。都市でも生活していける教養(言語や習慣など)を身につけるための教育こそが、貧困脱却の根本にあるとのことだった。

ワクチンの供給については近頃最も耳にするニュースである。ただ、インターネットや公共交通機関にアクセスできない高齢者が取り残されているといった点や、政府の定めた基準により中小企業のワクチン接種がなかなか進まないといった点が懸念されている。

この2つの例に対する解決策を打ち出したのは、政府や大企業などの大きな組織ではなく、個人であった。貧困脱却のためには教育が必要不可欠であると考えた若者が、教師のボランティアに行ったという。また、ワクチン接種から取り残された高齢者へは町の医者が、中小企業に対しては、同じ境遇の企業を取りまとめて集団接種を実現しようとする団体があるとのこと。「誰ひとり取り残さない」という目標を達成するには、政府を代表とする大きな組織などが、表面上の公平さを追求するだけでは十分でないことが示唆される。実際に誰かが取り残され得る課題を見つけてその解決のために寄り添えるのは、政府ではなく個人、すなわち私たちなのだ。

結局その82歳の患者に対しては、栄養相談の内容をソーシャルワーカーに引き継ぎ、より適切な社会資源が利用できるように調整してもらう運びとなった。その患者の目の奥に見えた孤独や不安のように、取り残され得る要因や存在に気づくことが「誰ひとり取り残されない」に対する第一歩である。そのために個人レベルでできることとして、周囲の人に目を向けてみるというのが挙げられる。家族や友人などの身近な存在から、職場の人、隣人、世界の見ず知らずの人まで、知ることや気づくことを広げていくのだ。自分たった一人の気づきなど、ちっぽけであると思ってしまうのはごく自然なことである。一方で例に挙げたように、気づくことが、取り残されずに済む人が増えるきっかけにつながるのは確かだから、私はこれからも自分なりの視点で取り残され得る存在に対して、アンテナを張ろうと思う。それをより多くの人ができたら、最終的には79億人誰ひとり取り残されない社会が実現されると信じて。

 

 

 

杉田怜英 学校法人ドワンゴ学園N高等学校横浜キャンパス

 

 

 

社会から取り残されるとはどういうことだろうか。それは主に教育を受ける、健康で文化的な生活を送るといった皆が平等に与えられた権利を貧困や障がいなどの理由から充分に享受することができない状態にあることを指す。

さて、sdgsの五番目の目標にあたるジェンダー平等は性的マイノリティに関する意味を含んでいないと聞く。どうやらこれはあくまで男女の生物学的な違いからくる社会的・経済的差をなくすためのもののようだ。記載出来なかったのは各国の宗教や法律の関係上らしいが、性的マイノリティについて「取り残される」要因が他の目標とは少々異なっているように感じる部分がある。先述した「取り残されてしまう」要因というのは貧困・男女間の物理的差・障がい等に阻まれるため、与えられた権利を享受することができないということだった。しかし性的マイノリティというのは性への考え方が少数派だというだけで障がいとは言い難い。社会の在り方と自身の性自認にギャップが生じてしまうことが「取り残される」要因と考えられ、性的マイノリティの人々は物理的要因に阻まれることがなく権利を「享受すること」はできるのである。だが与えられたものが自分にとって嬉しいものか求めてもいないものか、それは人によって違う。世間では性的マイノリティに対して「面倒だ」「我が儘だ」といった意見を耳にするが、それは「何かに阻まれるわけでなく社会的な権利を充分享受することができるのに、それを個人の事情で拒絶するのは自分勝手だ、我慢しろ」という考えから来ているのかもしれない。しかしこの問題を我慢の一言で済ませていい筈がない。では今後性的マイノリティの人々が「取り残されない」ためにはどうすれば良いのか。それに対して私は性的多数派も少数派も関係なく、私達の根底に根付いた「性」と人の関係について改めてよく考える必要性を感じている。

近年SNSの発達により表現の多様化が進んでいる。それにより性的マイノリティに対する関心は高まっているようだ。私自身SNSを通して性的マイノリティのことを知れたお陰で、どうしようも無い心の曇りに光が差し込んだ。そうして性的マイノリティの人々と関わる機会が生まれたが、その中で「性自認が定まらない、自分が結局何者なのか分からない」そんな話を耳にした。やっと自分の性が見つかった、苦しみから解放されたと思っていた私はそれを聞いて知らんぷりしていた心の小さな違和感に向き合わざるを得なくなった。私は「女らしい」という言葉で自分を表現されるのが嫌だった。しかしいわゆる「女らしい」と言われるファッション等が嫌いではなく、むしろ好きな方だった。では何処に「女らしい」を嫌う理由があったのか、そして男でも女でもないlgbtqにも当てはまらない自分は何者なのだろうか。なんというデジャヴ、この感覚は「女らしさ」に苦しめられていた頃と同じものだった。私は「女らしさ」の呪縛から抜け出したと思っていたら今度はlgbtqの中に「らしさ」を探しだし、自ら首を絞めていたようだった。そして同時に性別が何かは関係なく、「らしさ」という言葉が呪いとなり人々を苦しめているということに気づいた。

結局「らしさの呪縛」に気づいたものの自分が何者か、答えを出せず私は悩んでいた。そんな中最高で、しかし至極当前ともいえる、素晴らしい答えをくれた存在があった。

その存在はとある漫画に登場するキャラクターで私の推しだった。中性的な容姿で男とも女ともとれない推しにファンがネット上で性別論争を繰り広げるなんてことがあり、それを見兼ねた作者の方ははっきりと推しの性別を明言せずにいる。ふと気がついたのはそんな時だった。私は推しが男でも女でも私がその推しを好きなことに変わりはない、ネットの性別論争なんてどうでもよいと感じていた。なぜなら推しには性別程度で変わることのない確固とした個性があり、自分はそこに惹かれたのだから。よく男性の方が合理的、女性の方が感情的といわれるが全員そうではないし、「異性が好き」と言う人も異性なら全員好きなわけがなく苦手な異性もいるだろう。男か女か、生物学的な性別は同じものを持つ人が何億人もいる。しかし個性は一人一人異なるものを持ち、ある個性を持つ人は世界に一人しか存在しない。私達は唯一無二の個性をもつ一人に対して「同じ性別」という括り、「らしさ」を押し付けてしまうことがある。これは性的マイノリティにおいてのみに言えることではなく、例えば家庭における「夫は労働妻は家事」という概念もそうだ。誰かの配偶者という立場の人は数多存在する、だがある個性を持つ自分の配偶者はこの世に一人しかいない。唯一人、それもよく知る人なのに何故世の「らしさ」で相手のことを考える必要があるのだろうか。

違う個性を持つ人々に性別が同じという理由で皆同じように接すれば必ず違和感を感じる人がいる。しかし性別とは大勢の生きる「社会」を営む上ではなくならない基準の一つであり、現状社会の在り方を大きく変えることは難しい。私達は理不尽を社会のせいにして、自分が身近な大切を置き去りにしていないだろうか。せめて自分だけでも誰かを「取り残さない」ために「男・女だから〜」ではなく「貴方・あの人だから〜」そんな考えで家族や友達、身近な人を見ることで、必ず今より救われる人がいるはずだ。

 

 

 

宮口真緒 セントヨゼフ女子学園中学校

 

 

 

「最もひどい貧困とは孤独であり、愛されていないと思うことです」

 皆さんはこの言葉を知っていますか。これはマザーテレサの言葉です。皆さんは自分は愛されてない、自分は必要とされていない、いわゆる「取り残されてしまった」と感じたことはありますか。きっと誰もがそのように思ったことが一度はあるでしょう。私も何度かそう思ったことがあります。

 特に中学校に入ってから、常にだれかと比べられる環境にいるからか、自分に自信が持てなくなり、劣等感を感じるようになってしまいました。

 例えば、テストで悪い点を取ってしまった時や忘れ物をして他人に迷惑をかけてしまった時に、「みんなはできているのに何で自分だけできないのだろう」と自己嫌悪に陥ってしまい、自分自身に腹が立ち、心の中で「自分はなんて愚かな人間なんだ」と自分を責めてしまうことがたくさんあり、悩みを抱えるようになりました。

 思い切ってその悩みを周りの大人に相談したことがあります。

 すると、「甘えるんじゃない」とか、「誰にでもそういうことはあるのだからもっとしっかりしなさい」などという言葉が返ってきました。

 その言葉を聞いて、「自分は本当に愛されているのだろうか」、「だれも私のことを分かってくれない」と感じてしまい、自分の殻に閉じこもるようになってしまいました。

 なるべく前向きなことを言い、明るく振る舞うふりをし、毎日心とは裏腹な作り笑顔をするようになり、悩みがあっても、傷つけられるのを恐れて相談することもできなくなってしまいました。そして、自分は何のために生きているのだろう、と思う日々が続くようになりました。

 そんな私を変えてくれたのは、私の通う学校で年に一度行われる「修養会」でした。修養会とは、神父様やシスターの講演を聞きながら、自分自身を振り返るために設けられた時間のことです。

 去年の修養会で、一人のシスターが優しい声でこう話して下さいました。

「自分は愛されていない、必要とされていないと感じている人はたくさんいると思います。私もそうでしたから」

彼女も私と同じくらいの年齢の頃、私と同じように悩んでいたそうです。彼女の父親は気難しく、隣にいるだけで緊張するような人で、母親はあまり家にいなかったので、家族に悩みを打ち明けることができなかったそうです。そして、あまり勉強も得意ではなく、自分と友達を比べて、自分自身の価値をいつも低く感じていたそうです。

しかし、彼女は聖書を通して「私たちに命を下さった神様は私たちを愛しておられる」ということを知り、愛されている自分を見つけることができるようなった、とおっしゃっていました。そして、「あなたを愛しているお母さんがいて、お父さんがいて、家族がいたから、愛しい、かけがえのない命があなたにはあるのですよ」と素敵な言葉を下さいました。

 私はこの言葉を聞いて、自分はだれかにとってかけがえのない存在なのだということに気付かされました。

 生きていれば、「私だけが取り残されてしまった」と感じて焦ったり、落ち込んでしまうことがあるでしょう。けれども、私たちが生まれ、生きてこられたのは家族の存在や心を育んで下さった先生や友達がいたからです。決して一人ではなかったのです。

 私がそうだったように、一見明るく振る舞っているように見える人でも、心の中は孤独で、周りから取り残されているように感じている人はたくさんいるでしょう。私は、そのような人たちに救いの手を差し伸べることができるような人間になりたいです。

 

 

 

ルドラ摩耶 関西大学

 

 

 

「新型コロナウイルスの始まりは中国だから、中国の製品を買うのをやめよう。」私は、このような類似の言葉を聞くと悲しくなります。

私は神戸の国際色豊かな場所で生まれ、生活してきました。実際に私の父はインド出身で、小学生の時は周りにハーフの子や他国籍の子も多く、通っていた小学校では独自の“ふれあいフェスティバル”という企画がありました。この企画は他国籍またはハーフの子たちのお母さん、お父さんが先生として楽しく母国の国を紹介するというものでした。そのため、宗教上の規則や文化の違いによる偏見の目はなく、小学生のうちから世界の違いに”ふれる”ことが出来たのは大きかったと思います。

小学生の時からのある友人は両親ともに中国出身で2年生の時に中国から転校してきました。彼女は日本語を徐々に勉強しながら周りと仲良くなり、5年生の時には日本語を上手に喋れるようになっていました。高校からは彼女は中国に行くことになりましたが、今でも交友関係は続いています。

しかし2019年末ごろ、新型コロナウイルスの感染が始まりました。メディアの報道で中国の武漢から発生し、感染が拡大したことが大きな話題となりました。2022年現時点での世界の感染による死者数は370万人近くにのぼり、至る所でコロナウイルスの脅威を目にしたと思います。そんな中、やはり浮上してきたのは中国に対する悪いイメージです。アメリカの前大統領のトランプ氏がコロナウイルスを「Chinese virus」と表現したことが促進剤となり、アジア人への差別が世界的にも問題視されています。そんな毎日のように流れる新型コロナウイルスの関連ニュースを目にするたびに中国に住む友人のことを思い出しました。中国人もカナダ人も日本人も、みんな同じ人間なのにウイルスの発見が武漢というだけで中国に対する世間の目は冷たい、これだけ日本の社会でもグローバル化という言葉が根付いているのになぜ中国を敵対視するのか。日本は先進国である以上、グローバル化の本当の意味を考えなければいけない時にあると思います。日本に住んでいる外国人のうち中国の方の割合が最も多く、日本の経済を一緒に支えています。そんな彼らに非難の言葉を放っていいのでしょうか。言葉は時として刃物になります。相手が自分の身近にいなくても、発言・報道の仕方には注意を払うべきです。実際、大学1年生の私は授業の一環で中国からの留学生と話す機会がありました。彼女は、日本に来たばかりで友達もできないまま“大学”で学べないことに不安を抱いていました。もう2年近く本国に帰れていないということもあり、最初の方はかなり孤独を感じていたそうです。アルバイトをすることもできない、実際に大学に行って学ぶこともできない、こうした大学生の現状も彼女の話から生で知ることが出来ました。こうした留学生や若い人たちのサポートをもっと充実させるべきだと思います。日本の社会でも失業者の割合は1975年のオイルショック以来の大幅低下と大きな影響が出ています。その中には大学生も含まれています。子どもと大人の間にいる〝私たち″にも目を向ける必要がある、その声を聞き逃さないでください。

 

 

 

齋藤杏月 鎌倉市立小坂小学校 6年生

 

 

 

私は、なぜ取り残される人がいるのだろうと疑問に思いました。そのように考えたきっかけは、私の学校は、障がい者の方々に適していないからです。

 

 その原因は、障がいを持つ人が暮らしやすい環境ではないからではないかと考えています。なぜそのように考えたかと言うと、私の通う学校のスロープは、急すぎてブレーキがきかず、校内には、階段しかないからです。車椅子だと、校庭に入れたとしても、段差になっているので、校庭から校内に出ることが出来ません。また、校庭だけではありません。階段を登る事ができたとしても、教室へ入る時には、少しの段差があるので教室に入るのも一苦労です。特別支援学級が、二階にあるので、車椅子の方がきた時は、二階に上がる事ができず、一階にいるしかできません。しかも、視覚障がい者の方々にも適していないのです。つまり、障がい者の方には適していない学校なのです。そこで、その問題を解決するための改善点を考えました。

 

階段しかない場合には、広いエレベーターを設置するべきだと思います。そうすれば、大きい車椅子の方でも、一階から上の階まで行く事ができます。車椅子で校庭に行くには、少し広めでゆるやかな坂を作るべきだと思います。広めの坂なら幅の広い車椅子でも出入りできるからです。教室の出入り口の少しの段差は、ゆるやかにすればいいと思います。車椅子でも、ゆるやかにすれば、教室に入れると考えました。特別支援学級が、一階になれば、車椅子の方でも友達と遊べ

 

学校生活が過ごせると思います。しかも、視覚障がいを持つ子供のために学校のスロープのところに点字ブロックを設置するといいと思います。視覚障がいを持つ子供も、安心することができると思います。

 

 うまく発表ができない人もいます。この間、算数の授業中に分数のかけ算の勉強をしました。その時、問題が解けた人は、黒板に書いてと先生に言われて私は黒板に書きました。でも、発表が苦手な子は、問題を理解して解けているのに発表があまり得意ではないので、書くことができないと言っていました。その原因は、答えがあっているか不安だからだと思います。なので、答えがあっている自信がある問題であれば、平気だと言うことです。つまり、人それぞれ発表が得意な人、発表があまり得意ではない人、好きな科目発表などができても、嫌いな科目発表ができないなど、それぞれ個人差があっていいと思います。

 

 私にも苦手な事があるので不安な気持ちが分かります。私は、理科の授業が得意ではありません。実験は好きだけど、知識がないので理科の授業中発言したくないです。でも、体育、算数、図工、総合、音楽などはとても好きです。なので、教えたり、説明したりしたくなります。このことをきっかけにたくさんの知識を社会に生かしたいです。

 

 

 

 

 

古泉修行 

 

 

 

 理性を失うほどの口渇に耐えられず、水たまりに顔を突っ込んで泥水を飲む少年に出会ったのは、小学4年生の春だった。日本とあまりにもかけ離れた途上国の生活を知るきっかけとなったその写真に、僕は強い衝撃を受けた。

 以来、自分にできる活動を行っている。SDGs初年の2016年にニューヨーク国連本部で研修を受けてからは、SDGsの啓発活動に力を入れてきた。そして2018年、当事者の視点からしか見えない途上国の現状を自分の目でも見たいという強い思いで訪れたカンボジアでの体験が、僕に大きな影響を与えた。

 カンボジア・プレアビヒア州は、最貧地域に分類される。村には水道設備がない。生活用水は雨水を溜めるか、子どもが遠く離れた川に水汲みに行くことで得る。汚染された水は住民の健康を脅かし、水汲みの時間は子どもたちから学校に行く時間を奪っていた。

 僕が同行したのは、半永久的で衛生的な水源となる井戸を建設する取り組みの事後視察。SDGs目標6の達成を目指すものだ。井戸は、プレアビヒアの1300世帯中295世帯に日本の寄付金により建設された。

 初めて水源を与えられたとき、日本人であれば一丸となって活用法を考える。農業の普及を図り村の発展につなげるなど、支援を最大限生かす努力を行う。しかし現地では、住民間に期待された能動性は生まれなかった。水は井戸を手に入れた住民のみが使用し、その他の住民が水汲みに行く現状は変わらなかった。助け合う発想、生活向上への意欲や知恵を、現地住民は有していなかった。それらの原因は水問題以外に存在する。例えば教育の欠如が、問題を深刻にしていると感じられた。

 この様に多くの問題は単独で存在するのではなく、複雑に絡み合い、更に新たな問題をも生み出していることを実感した。一つの問題に固執しない、多方面からの支援が必要となる。

 命の危機に面し、人間らしい生活を送ることができない「取り残された人々」は、プレアビヒアにとどまらず、世界に多く存在する。しかし、地球に生まれたからには皆平等。すべての人が幸せに生きられたらいい、と僕は強く思う。当時13歳の僕は、自分にできることは何か、考えた。そして、日本で仲間を増やすこと、多方面の問題解決方法を網羅するSDGsを普及し、浸透させることを決意した。

 2020年、僕は「SDGsタグ」を開発した。SDGsに取り組んでいることを表明するSDGsバッチを、幅広い年代に合致する形に変えた。ラゲージタグの要領でリュックやバックにぶら下げる。このタグの特徴は、透明ケース内のカードに自らの手で自身の特技や取り組みを描き、その活動がSDGsのどの目標に当てはまるかを考え、目標番号も記入するというところ。つまり、新たにSDGsに対しての取り組みを考えるのではなく、今まで生活の中で行ってきた活動自体を実践項目とするのだ。節電や節水はもちろん、売り上げの一部が生産国に寄付されるチョコレートや、森林保全につながる飲料水などの商品を購入するなど、直接アクションを起こさずとも途上国支援につながる行為も日常にはたくさんある。

 また、SDGs初心者でもわかり易い説明と日常生活で取り組める事例などを載せたマニュアルも作成し、タグ裏面のQRコードから読み込めるようにした。タグ作成により、日常生活がSDGsに実は密着していることを学ぶことができ、同時にその実践項目は持続的に無理なく続けることができるのである。バックにつけて表明することで、自身の行動に責任をもつことにつながり、コミュニティも生まれるだろう。一人の力は小さくても集団の力は偉大だ。一人一人が、SDGs達成につながる価値ある行動を意識し、それを互いに共有することで協力体制もでき、多種多様の支援が生まれる。まずは、地元新潟で。その継続が、地域社会から国へ、そして世界におけるSDGs達成へと導かれる。

 SDGsタグは地元新聞に取り上げられた他、ホームページを作成したことで関心のある人が手にしてくれるようになった。そして今年度、僕は、このタグの真の意義を発揮すべく、小中学生への普及を行うことにした。子どもたちが持続可能な社会作りの担い手として自ら成長していくために、タグがきっかけとなると考えた。また、生活スタイルが確立された大人と違い、子どもは身近な暮らしの中にSDGsを柔軟に取り入れて行動することができるからだ。

 僕は、お世話になった先生方が勤務する学校を訪ね、自らの熱意をアピールした。僕に賛同し、応援するよと言ってくださる先生が増え、県内の小中学校から出前授業の依頼も来るようになった。多くの子どもたちがSDGsを理解し、積極的に取り組もうと思える授業を志し頑張っている。

 僕の活動は小さな一歩だ。今後も、持続可能な地球の未来を考えて行動する多くの仲間を作ることを目指して活動し続ける。継続が必ず世界を変えると確信するから。

 

 

 

川田千楓 中道中学校 3年生

 

 

 

「誰一人取り残されない」とは「取り残される人がいない」ということであり、子どもやお年寄りといった社会的弱者といわれる人が取り残されえる対象で、私たちはそういった人達を助ける役割をもっていると思っていました。しかし、コロナ渦で社会全体が大きく変わり、人と交流することが難しくなり、中には仕事を失う人もいます。誰もが「取り残される人」になる可能性があるのではないかと思います。「誰一人取り残されない社会」それを実現する方法の一つとして、そこで私は現在私が参加している「じ・ば・このおうち」のような活動を提案します。人間には自分の「居場所」を見つけることが大切だと考えるからです。なぜなら「居場所」は他の人たちと交流する場でもあり、自分がありのままの自分でいられるからです。

 

 その理由の一つは「じ・ば・このおうち」には高齢者から子供まで色々な年代な人がいることです。そして、何か意見を言ったらそれをちゃんと受け止めてくれます。そのため、私はこの「じ・ば・このおうち」のような活動に参加することでありのままの自分でいることができ、自分というものが何か分かることでいいと感じることができます。「じ・ば・このおうち」とは「じいちゃん」「ばあちゃん」「こども」のおうちをモットーとしている世代間交流を目的とした場です。「じ・ば・このおうち」は平成27年11月に活動を始めました。また、学生がより地域に密着し、福祉やまちづくりの学習ができる交流拠点施設として機能してきました。この活動に初めて私が参加したのは小学二年生のときでしたが、「じ・ば・このおうち」の活動は小学生とお年寄りの2世代にだけに向けた活動が多かったので、私も当時できたばかりの「じ・ば・このおうち」の活動に参加しました。「じ・ば・このおうち」は場所を借りることもありますが、基本的にはおうちの中で行うことになっています。そして、初めて参加して私はとても驚きました。何もかもが新鮮でした。普段見慣れない大人や大学生や、会ったことのない小学校の子供たちがとてもわくわくしていて、私にとっての「初めて」がいっぱいでした。学校とも児童館とも違うこの場所を私が好きになるのは時間がかかりませんでした。そして、「じ・ば・このおうち」が私の居場所になりました。親とうまくいかない時や友達とのずれを感じているとき、勉強が息詰まったとき「次のじばこを楽しみにしよう」と思ってがんばってきました。しかし、「じ・ば・このおうの活動が年数がたつにつれて減少していきました。理由は少子高齢化が進んだことや活動のちマンネリ化があります。また、それに加えて子どもの数も減少していきます。そして、コロナで感染者が増えていくことも追い打ちをかけて2020年度のおうちでの活動は約3~4回になっていました。そんな時にネットで野毛坂グローカルを見つけました。そして、色々な人の話を聞いていくうちにその時ふと思ったのが「自分たちの居場所を奪われたり、追われかけたりしている人がたくさんいるのではないか」ということでした。そして、私は一人一人に自分でいられる居場所があることが大事だという考えを自分の中に持ち始めました。

 また、この居場所は自分の意志で行き続けることが大切だと考えます。なぜなら、誰かに強要されていくことはありのままの自分ではいられないと考えるからです。例えば、私は親に勧められて「じ・ば・このおうち」へ一回参加してみることを決めましたが、その次の活動からは自分の意志で参加することを決めました。ありのままの自分でいることでその自分を受け入れてくれる一生の友達ができるかもしれません。そして、自分で居場所や物事を決めることができるということは後悔もないし、もし失敗したとしてもそこから学ぶことができます。このように物事を自分で決められるようになれば責任感もつくのでやりたいことをするにはどうするかよく考えられるようになります。

 私には今も社会の中には同調圧力のような空気を読むことを重要視しているような問題があるうよに見えます。この社会の中でありのままの自分をさらけ出すことはとても難しいことのように感じます。一人一人の個性を認められる居場所を作ることでようやく「だれ一人取り残されない社会」の基盤ができると考えてます。私がかつて救われた場所が次はだれかの救いの居場所になることを信じています。

 

 

 

 

 

淺野智博 羽島市立竹はな小学校2年生

 

よいところみつけて、はなをさかせよう

 

ぼくは、しょうがっこう一年のとき、がっこうがいやで、よくやすみました。でもいいなとおもったところをしょうかいします。ぼくのしょうがっこうでは、おともだちのよいところをみつけるようにしています。よいところがみつかったら、そのおともだちにかみに、「ありがとう」のてがみをかきます。ぼくもことしは、いっぱい、このかみをもらいました。「いつもげんきにあいさつしてくれてありがとう」「はなしかけてくれてありがとう」「もくもくそうじをしてくれてありがとう」こんなポカポカことばのてがみをもらうとぼくはとてもうれしいです。いえにかえって、おかあさんにみせると、「すごいね、いっぱいもらったね」とほめてくれます。ぼくは、このてがみに、ひとつぶのはなのたねをくっつけたいとおもいます。

ぼくは、1ねんせいのなつやすみに、おねえちゃんといっしょに、がっこうしんぶんをつくりました。テーマは、「ちきゅうのねつをさげよう!」です。まちのひとなど190にんに、ちきゅうのためにやっていることを、アンケートでとりまとめました。そのときに、おてんきキャスターのおねえさんは、「グリーンカーテンをつくっているよ」とおしえてくれました。しょくぶつや木をうえることは、ちきゅうさんのねつをさげることがわかりました。だから、ぼくはおともだちのよいところをみつけて、おはなもいっしょにさかせたいとかんがえました。よいことをしたごほうびに、たねがもらえて、いえのにわが、きれいなはなで、いっぱいにきれいなるといいなあとおもいました。そうしたら、いえのちかくにいっぱい、おはながさいていたら、さんぽするのが、たのしくなっていいなあとおもいました。

 

 

 

矢野詩 鎌倉市立小坂小学校 6年生

 

 

 

 私は物事がうまくできなくて 、取り残されることがよくあります。取り残されていると思う時は、計算の答えが他のみんなと違かったり、自分のやっていることが周りと違かったり、遅かったりすることがあります。周りと違うと心配になったり、なんで遅いのだろうか、自分が間違っているのかなと思うことがあります。また、なぜこういった事が起きるのはどうしてだろうと考えたこともあります。このように、周りと違い取り残されてしまうのは、自分だけに起こることではないと考えます。もしかしたら周りが取り残されてるかも知れません。そこで、私が考えるのは自分が取り残されてしまう理由や、自分や周りが取り残されていた時どういった行動をとるのが良いのか、どういった考え方をしたら良いのかについて考えてみました。

 では、最初にどうして自分が取り残されてしまうのかです。考えられる理由としては、自分が思い込んでいたり、決めつけているからかもしれません。「前はこれで良かったから」や違った解釈したまま、考えずに進めてしまうと取り残されてしまうと思います。そうすると、周りはちゃんと理解したその上で考えて行動しているけれど、自分は違う意味で受け取り「もしかして違うかな」と疑うことなく物事を進めてしまうことで取り残されてしまいます。なので、物事や言動に対し一度考えずに疑うことなく、思い込みで進めてしまうことが自分が取り残されてしまう理由の一つだと考えます。では、この時自分はどうしたら良いのかを考えました。取り残されないためには、思い込んだり決めつけたりしないことが必要だと考えました。なぜなら、思い込んだり決めつけてしまうことで違った解釈が生まれてしまうことがあります。また、決めつけることで新たな考えをすることができなくなってしまうかも知れません。なので、思い込んだり決めつけないことが必要と考えます。

 次に、思い込んだり決めつけていて取り残されているとは別の、スポーツや持っている物など個人差のあることをする時に、取り残されている時の自分の行動や理由について考えました。最初に、スポーツをしている時や絵を描いているなどをしている時に、取り残されている理由考えました。まず一つ考えたのは、個人差があるからではないかと考えました。なぜかと言うと、スポーツや絵を描いたりするのは得意、不得意があるので「自分はこれが得意だけど、あれは得意ではない」ということで個人差が出ているからではないかと考えたからです。では、個人差が取り残されている理由なら個人差をなくすことで取り残されないのではないかとも思いました。ですが、個人差は人によるものなので、完全になくすことはできません。そこで考えたのは、練習をすることが良いのではないかと考えました。練習をすれば、少しでも上手く物事に取り組むことができるので練習することは一つの方法だと思いました。けれど、得意不得意があり取り組むことが苦手かも知れません。なので、その時の行動を考えました。取り組もうとしていることが苦手だったら、自分は努力せずそのまま行動しないと思います。そうした時、必要なのは努力することだと考えます。前の文章にもあるように「努力せずそのまま行動しない」のなら努力して行動すれば良いと思い必要だと考えました。

 最後に、自分や周りが取り残されていたらどうするかです。自分が取り残されてたら前の事例にもある通り、物事や言動を一度考えてから取り組んだり、スポーツや個人差で取り残されていたら練習したり努力すれば良いと思いました。他に考えたのは、周りに聞いて一緒にやってもらうことも一つの解決策だと思います。ですが、自分とは違う周りが取り残されていたらどういったことをしてあげたら良いのか、相手がどうして欲しいのかは分かりません。そうした時、相手の立場だったらどうして欲しいかを考えたその上で自分の周りに取り残されている人がいたらどのような行動を取るか考えました。考えた結果、周りが取り残されていたら自分から相手に声をかけてあげることで助けてあげることができると考えました。

 これまで、三つの事例を挙げました。その内の、一つ目の事例と二つ目の事例は自分の実体験で、そこから思ったのは自分から取り残される理由をつくっていることです。これらのことから、大事なのは自らが行動することだと考えます。それは、周りが取り残されている時も同じです。周りに取り残されている人がいたら、自分から声をかけて助けてあげるのも大切です。もし、自分が取り残されていると感じたら一度考えてたり周りに聞くなどをするのが良いと考えました。なので、自分がその場面に出くわしたら前の文章にある通り一度考えたり周りに聞いたり、努力することや周りに取り残されている人がいたら声をかけて助けてあげてみたら良いと思うのでやってみてください。

 

 

 

品川七海 横浜国立大学 3年生

 

 

 

 「自身が取り残されていることに気が付いていない人」は、「取り残されている人」なのでしょうか。私はそういった人々は、「取り残されている人」であると考えています。私が関心を抱いている「取り残されている人」とは、教育の地域間格差に直面している中学生・高校生です。

 私は昨年から、教育の地域間格差に取り組む、学生団体タルトタタンのメンバーとして活動しています。学生団体タルトタタンは、「どんな環境に生まれても、自分がしたいと思う将来選択をしてほしい」という想いを込め、「自分らしく生きるための環境づくり」をミッションに活動しています。解決したい課題は、大学進学に際して地域によって生じる、大学受験の課題と将来選択の課題です。私たちは、大学に行くことが誰にとっても良い選択であるとは考えていません。大学進学に対し感じる価値は、当然個人によって異なると考えています。私たちが問題視することは、「目指そうとしても十分な環境がないこと」「進学が選択肢として十分に提示されていないこと」です。これの是正のために活動をしています。

 昨年度私たちは、たった9人で活動を開始しました。今年はメンバーが総勢23人となり、2つの企画と4つの運営を設け、各自1つ以上の企画と運営に所属し、それぞれ活動をしています。1点目の企画は地方学習塾でのオンライン学習支援、2点目の企画は地方の高校での具体的な活動案の作成です。これらの他にも、各種SNSを通じて地方の高校生や中学生の日々の学習や受験に役立つ情報の発信、教育に関心を持つ大学生やそのコミュニティとの交流などを行っています。

 私が教育格差に関心を抱いたのは、自身の大学受験に際して経済的な不利を感じたためです。私は都立の中高一貫校の出身のため、周囲の友人はほとんどみな大学受験のために通塾をすることができ、私立か国立か、都内か地方かに関わらず好きな大学を受けることができました。一方私の家庭は経済的に余裕がなかったため、通塾をすることはできず、国立大学のみしか受験することができませんでした。更に遠方の大学を志望していたため、現地までの旅費や宿泊費を、アルバイトをして稼ぐ必要がありました。当時の私は、「どうして私ばっかりこんなに苦労しないといけないんだろう……」と思い、大きな不安や悲しみと同時に、憤りすら感じていました。そして、「中高一貫校に入ったから周囲との差異を感じて、こんなに不利な想いをするんだ。地元の公立中学に入学していればこんな思いをすることはなかったかもしれない」と思うようになりました。

 しかし大学生になってから気が付いたのは、自身と同様に、あるいは自身よりも大きな格差を感じながらも大学進学をした人々の存在でした。

「そもそも中学や高校を選ぶことができない」

「予備校がない、参考書を買う本屋もない……」

「受験を意識する時期が遅くなってしまう」

 そうした困難を乗り越え、大学進学を果たしたメンバー達によると、「自身が不利だったことを大学生になってからより強く実感する」といいます。自身と異なる環境で高校以前の学生生活を送り、自身と同じ大学に通学する他者。その存在に触れることでより明確に、自身の置かれていた環境を相対化することができたといいます。

 最近では、地方の出身で国内外の有名大学に進学したり、何かの分野で卓越した成果を残したりした高校生がよく話題になるようになりました。そして彼らの口から「地域間の教育格差」について語られることも増え、「出身地域が原因で取り残されてしまう人」の存在はある程度顕在化したと言えるのではないでしょうか。そして、それ以前までは自身の置かれている環境を不利だと感じることのなかった人々の目にその情報が触れることで、新しく「自身は取り残されているのではないか」と気づく人は増加するのではないでしょうか。

 自身が「取り残されている」と気が付いた人は、声を上げたり行動を起こしたりすることができます。それの手伝いをすることも、もちろん重要です。それでは、「自身が取り残されていることに気が付いていない人」……「相対的に不利な環境にいるにも関わらず、そのことに気が付かないまま自身の可能性や選択肢を狭めてしまっている人」は「取り残された」ままで良いのでしょうか。私は良くないと考えています。そのため、「自身が取り残されていることに気が付いていない人」の存在を発見し、掬い上げることで社会に、格差の是正に貢献することができるような大人になりたいと考えています。そしてゆくゆくは社会のシステムが、「自身が取り残されていることに気が付いていない人」を無くせるような完成度の高いものにしたいと考えています。

 

 

 

 

 

徳久竜馬 ブラジル‐サンパウロ州 コロニアピニャール日本語モデル校

 

他の国から来る「仲間外れ」

 

 「仲間外れ」って、何なのでしょう。

 もし、自分の仲間ではない人を全員「仲間外れ」と呼ぶのであれば、それは自分の仲間でない世界の数十億人が「仲間外れ」ということになります。

 「仲間」、と一概に言っても、様々な仲間が存在します。友達仲間、親戚仲間、地域仲間や同職仲間など、様々あります。

  そして、「国民」という国の民族も、ある一つの「仲間」だと考えることができます。すなわち、アメリカ人、ブラジル人や、日本人でも、国民という民族は、大きな「仲間」ということになり、また、その「民族仲間」というのは、世界に存在する最も大きい「仲間」ということになるでしょう。

 国民や民族という「仲間」は、同じような考え、同じ常識を持ち、同じ法律に守られています。そういった「仲間」の中に、別の国からやってきた人がいるならば、その人は、その民族の「仲間外れ」となります。

 それこそが、「他の国からくる仲間外れ」です。

 日本だけにとどまらず、どの国でも、民族という仲間が、別の国からやってきた「仲間外れ」を取り残すのは、起こり得ることです。自分も、父も、そして祖父母も、その仲間はずれと呼べる境遇にいました。

 外国では「日本人だから」として見られた自分、日本では「外国人だから」として違う視点から見られた父、そしてブラジルでは「移民者だから」として国民とは別の概念で祖母は見られてきました。それでも、自分も、父も祖父母も、社会に取り残されないように尽力してきました。

 しかし、どれだけ取り残されないように頑張ってきたとしても、自分たちがブラジル国民の仲間外れであることに変わりはないと感じています。

 なぜある国に「別の国の村」ができてしまうのか。

 自分が未だにブラジル民族の仲間ではないと感じたのは、そういう外国人村の存在意義を考えた時でした。なぜ日本に「外国村」があるのか。なぜ外国に「日系村」があるのか。

 それに対する自分の考えは、「仲間外れ」同士が自分たちの「仲間」を作りたいから出来てしまった村、それが「外国人村」なのだと結論付けました。

 そして、自分がブラジル民族の仲間外れだと感じるのも、このような「仲間はずれの仲間」にいるからなのだと考えました。

 そう考えると、「誰一人取り残さない」というのは不可能に近いことなのだな、と、感じます。誰かを取り残し仲間外れができてしまうのも、起こるべくして起こってしまい、人間が作る社会に仲間というものが存在する以上、どうしても「仲間外れ」というものは出来てしまうのではないでしょうか。

 しかし、解決の糸口が無いとは思っていません。自分たちが仲間外れでなくなるというのは難しくとも、互いに「違う仲間」である概念の「壁」を壊すことは出来ると信じています。要するに、差別概念を「壊す」ことはできる、ということです。

 ある人は、ブラジルに来た時、そういった民族間の疎外感を感じることが多々あったそうです。しかしその人の子供は、そういった疎外感を感じることなく大人になったと、話していました。これは、友達の親の話で、日本人同士の子供がブラジル民族の「仲間」となれたとも言える話です。

 その親は、自分がその国の民族の「仲間外れ」であり、いわゆる日系村の「仲間」だったにも関わらず、子どもに対しては、仲間同士の壁を壊し、自分の子供をその国の民族の「仲間」にさせる事が出来たすごい人だと感じています。

 更に、この題に関してとても感銘を受けた作品があります。それは誰もが知る作品、尾田 栄一郎の「ワンピース」という作品での描写、人間と魚人の種族問題です。そこでは、何百年という歴史をかけて魚人と人間という種族は争っていました。

 作品内では、魚人が人間を恨み、人間が魚人を蔑む中で、 魚人と人間の共存を願っていた人は「(この恨みを)子供たちだけには伝えないで…」というシーンが描かれていました。ここは、「自分たちはその種族を恨んでもいいけど、自分達は種族間で争っていてもいいけど、次の世代の子供には、各々の考えを持たせて欲しい」という想いを、作者が伝えたかったシーンだと、自分は直観しました。

 そういった考えの中で、今、仲間外れというものを減らすために我々ができることは、次の世代、自分たちの子供に「自分達はあの人達と違う仲間だ」ということを、伝えないことではないかと思います。

 黒人、白人、金持ち、貧乏。性格や宗教。そういった様々な違う仲間がいる世界で、自分たちの次の世代、子どもや学生などに、

「あの人たちは仲間外れでもないし、仲間でもない。誰が仲間かは、自分たちで考えてくれ」

と、伝えるのが、未来に最も希望が持てる正しい伝え方なのではないか、と信じています。

 冒頭で「仲間外れとは何なのでしょう」と問いかけました。これについて自分の考えを述べるならば、「仲間外れ」とは、自分と他人の間に壁を作るだけの、本当はいらない概念なのではないでしょうか。

 

 

 

藤平一寿 桐蔭学園高等学校

 

 

 

家に帰ると父がいなかった。当時、社会を何も知らない私にとってなぜ居ないのか全く理解ができず、サプライズか、どこかへ出かけているのか、様々な憶測が私の頭の中を飛び交った。しかし何日経っても父が家に帰ってくることは無かった。

私は小学4年生の時に手術を有するほどの骨折を負った。それまでの私の家庭は、【父が働き母が主婦】という一般的とされているものだった。しかし私が入院してから、母も父も妹も「私の為の生活」を余儀なくされた。母は2ヶ月という長い入院に伴う高い入院費と手術費を賄うために働き始め、父は毎朝料理を作って私の病室へやってきて私があまり好きではない病院食の代わりを提供してくれた。そして妹は学校終わり疲れている中毎日病室に通いつめ、寂しい気持ちを少しでも紛らわせようと努力してくれた。これらのこともあり、自身の時間を持つことが少なくなった家族は、【自由な時間】という選択肢を制限され心に余裕を持てない日々が続いているのが見て取れた。そしてついに退院したが2ヶ月もベットに寝たきりだったためリハビリがその後半年ほど続いた。そしてリハビリ期間中に母に尋ねた。「なんでパパは居ないの?」その言葉に母の表情は一変し、一言告られた。「もうパパは帰ってこないよ。お別れしたの」当時14歳ながら全く理解が出来なかった。周りに父親がいない家庭なんて当時は聞いたことがなかったし、父と体を動かす日々が私にとってかけがえのない時間であったのは当時からずっと実感していることだ。その後私立小学校に通っていた私は、受験シーズンに差しかかるも心のーどこかで何かが欠けている感じがして勉強に身が入らず中学受験に失敗した。周りの生徒たちは次々に合格の報告を先生に伝える中、私は1人、卒業まで合格報告をすることが出来なかった。周りと環境が異なり過ぎる私は自分自身を表現することを避け、なるべく目立たないように、でも周りから遅れを取らないようにと人の目を常に気にして生きてきた。しかし高校に入学しサッカー部に入部した私は、ピッチ上で自分自身を表現しなければ試合に出ることが出来ない、自ら選択肢を経つことに繋がるということを実感した。

 

そのような中親の仕事の関係でカンボジア人の女性の友人ができた。彼女と様々な話を重ねる中でカンボジア人貧困者には親の経済的理由や家柄によって【選択肢】が制限されている現状を知った。私たちの当たり前が当たり前にできないことを知り、ある意味『世界から取り残された』彼女たちが私のバックグラウンドと多少なり重なる部分がありそのような【選択肢を制限された人々】を1人でも多く救いたいと思うようになった。

 

そして私は東南アジアへの物的支援を寄付という形で何度か行ったが、様々な文献を見るとひとつの疑問が私の中で生じた。それは何年も寄付を受けているのにもかかわらず一向に成長を感じられなかったことだ。自分たちで国を治める、国を作っていく力が明らかに足りていないカンボジアで、物的支援より教育や知識など学問や哲学的力が足りていないのではないかと考えるようになった。しかし、現在日本から学校等設立されているが経済格差が顕著に現れている現状がある。地理的問題もあり、通学に歩いて1時間以上かかる子もいれば学校に通うためのお金すらない子だって沢山存在する。ひとつの例として、学校給食が無料で食べれるから無理をしてでも子供を学校に通わせる家庭すらあるという。

 

このようなSDGsの①、②、④、⑥が密接に絡み合い複雑な問題を生み出している中で、私は1人でも多くの【世界から取り残された】貧困者を救うべく、現地で哲学的教育や自治ができるような力を養う知識を与える人間になりたい。

 

 

 

komaki haruna 京都大学 修士1年

 

 

 

たったこの数年で、巷の商品はSDGsを意識したものが本当に増えたと感じる。オーガニックを謳う化粧品や食材も目立つようになった。ファッション誌でも「エシカル」の文字が踊り、そうした製造過程や素材がトレンドとして取り上げられている。良いことだと思う。

それでも、掲げられ、目指す目的としてのSDGsは、少なくとも日本では、流行りの一つに思えてしまう。どんどん広まって、一般的になってほしいが、どうも上滑りしている気がする。

 余裕がある限りは、有機栽培の野菜や果物を買うようにしている、と言うと、まだまだ「意識高い系」のように見られる。偉いねだとか、考えてるねと(実際考えているのは事実だが)言われる。ひとつの選択肢として「当たり前」と反応されることはまずない。決して、金銭的にめちゃヨユウ、というわけではないのだ。袋菓子を買ったり、月に数回の外食をしたりしなければ、良い食材が買える。すべて作れば、料理は買うよりずっと安い。

 SDGsというワードが世間に流布するよりはるか昔の20年前でも、我が家に合成洗剤はなかった。香料も何も入っていない固形石鹸があるだけ。慣れてしまった人にはわからないのだろうが、今の市販の洗剤や柔軟剤の匂いは尋常ではない濃さだ。香りだけでむせてしまい、頭痛がするような私にとって、それはもはやイイ香りではなくて、苦痛なニオイになっている。あまりにきつすぎて、香料の元の化学物質が環境ホルモンや脳に影響するのではと思う。

 ワンプッシュで漂白ができるようなボトルも家の中にない。汚れ落としによく使われるアレは、塩素が主成分で、下水に流れていった塩素は有害物質のもとになると、どれくらいの人が意識しているだろうか。

 ある意味、超最先端だったのに、いつも浮いていたというか、周りとの齟齬があった。そして今も、SDGs的な生活に一般よりは近いはずなのに、いつか気付けば取り残されているのではないかと思うことがある。世界の流れからではなくて、自然とのつながりから。人間の作ったものに囲まれた、自分の口に入るものひとつ、直に自然界から得られない生活から脱出できるのだろうかと不安になる。

 自然が人間を取り残すことはないのだが。いつでも、私たち人間に水と食べ物、そして空気を与えてくれている。たとえそれらが人類の作り出した毒に汚れて、人間の体に合わなくなったとしても与えつづけるだろう。

 取り残されている、というと、自らのことや社会的弱者―例えば子供や女性、低所得者―を考えやすいのではないだろうか。しかしその根底には、上からくる流れ(に取り残される)という上意下達の意識があると思う。そして私は、その流れの源流こそ、流れの先端から取り残されているのではないかと考える。源流、即ち、「SDGsに向けて・・・・・・」と大っぴらに話す人たち。政府の人間や国際機関、会社の上層部の人々。彼ら自身は、持続可能な開発目標に適う、環境負荷の少ない生き方をしているのだろうか。高価なスーツには、石油製品を使うドライクリーニング。接待に使われる食材は、遠い国から、莫大な二酸化炭素排出を伴う航空機で輸送されてきたものもあるのではないだろうか。コンクリートの建物のなかには、不必要なまでに明るい照明。それらのぜいたくこそ、SDGsからはるか遠く、地球の恵みから「取り残された」ものだ。彼らはそのことに気づいているだろうか。そして、彼らが生み出した流れの下流にいる私たちは、上流の岩は下流の景色を見たことがないと分かっているだろうか。

 天然資源には限りがあり、自然の持つ浄化機能には限度があると、子ども時代に教育されなかった人たち。SDGsをワールド(ソサエティ)スタンダードだと声高らかに唱える人たちこそ、最も取り残された人々かもしれないということを忘れてはならない。上下のある人間社会の中で、下を救い上げるのであれば、上も巻き込んでいく必要がある。わたしもあなたも、いつでも、取り残される人にも置いてきぼりにする人にもなり得る。

 地球環境は人と切り離されたものではなく、繋がったものとして思いをはせ、人間個々人の中身への想像力を働かせ、慮ることができてこそ、人類の未来はあるのではないだろうか。

 

 

 

古賀大海 神奈川県立多摩高校3年生

 

 

 

 SDGsの「誰ひとり取り残さない」という基本理念は、社会や経済、その他様々なことにおいて排除されている人々を無くすことを目標にしている。果たして、そのことは本当に良いことなのだろうか。私は学校での教育の体験からそのことについて考えてみたい。  私の高校では、グループワークを利用した授業、例えば、英語の授業で英訳をペアで行うことや、国語の授業で物語の登場人物の心情をグループで共に考えるということが数多く行われている。もちろん、こういったグループワークをすることで良い面もある。それは、友人と話をすることで自分とは違った考え方に触れることができたり、問題を出し合ったりすることで知識の定着を図ることができるということだ。このことは、教育面において、取り残される人々を減らすことに繋がるのも確かだろう。しかし、私は全ての人にグループワークを強制させ、取り残される人数を減らすような教育をすることに反対である。  そこには2つの理由がある。まず第一に、私は知らない人と関わることが苦手である。知らない人と話したり、何かを行うことで得体のしれない圧迫感、つまりストレスを感じるのだ。また逆に、一人でいるときにはそのようなストレスを感じることはなく、思いのままに自分の学習ができる。私のように、知らない人と関わることにストレスを感じ、自分から取り残されたいと思っている人は少なからずいるはずだ。そのような人々は、「誰ひとり取り残さない」という基本理念によって苦しんでいるのである。第二に、大人数で何かを行うことが逆に一人一人の能力を阻害するということだ。私はこのことを先程述べた学校での国語のグループワークで体験したことがある。そこでは、ある一人の意見にその他の人が賛成し、その他の人は何も考えようとしなかった。一人一人が考えられる力を持っているにも関わらず、自ら考えることを放棄してしまっているのである。この事例から、グループを作り何かを行うということが集団心理を働かせてしまうということがわかる。集団心理は個々の能力を阻害してしまい、個人の成長を妨げてしまう。「誰一人取り残さない」という基本理念はこのような面でも悪い影響を及ぼしているのである。  以上述べたように、私はグループワークを強制させ、取り残されている人を救おうとする教育には反対である。また、私はSDGsの「誰一人取り残さない」という考えが必ずしも良いことだとは思わない。私は学校の教育において話を進めたが、他の様々な場面でもその理念に苦しんだり、悪影響を及ぼされたりしている人々がいるはずだ。そういった人々一人一人に配慮しながら社会を作っていくことが大事なのだと私は考える。

 

 

 

 

 

柴田菫 大田区立新宿小学校

 

 

 

 私は、「誰もが取り残されない社会をつくる」ということはとてもむずかしいことだと思います。

 実際に経験したこととして、四年生の時に行った社会科見学があります。その時の社会科見学では、役所の設備を見せてもらいました。一番心に残っていることは、役所の中にある点字ブロックの話です。役所の人の話によると、ふだん外にある点字ブロックは、車イスにのっている人やベビーカーを押している人にとっては、段差があるためじゃまになってしまうということでした。これまで私は考えたことがなかったけれど、たしかに言われてみると「小さな段差になっているから、通りづらいだろうな」と、思いました。でも、視覚障害者の方にとって、点字ブロックはなくてはならない存在です。「どうしたらみんなが使いやすいものになるのだろうか」と思いました。

 役所の方々の話を聞いていると、すでに役所の中には工夫がされていました。その工夫は二つあり、一つ目は点字ブロックの段差の厚みを薄くして、少しでも車イスなどが通りやすいようにする工夫でした。二つ目は、こうなるともやは「点字」ではなくなるのですが、その点字ブロックの点の部分だけをなくし、平らにした上で、素材をシリコンに変えるという工夫です。その素材の違いで、点字の代わりをはたします。とてもいいアイデアだと思ったのですが、まわりが大理石でできている役所の床にかたいシリコンだと、白杖でさわった時には、変化がわからないのではないかと思いました。そうなると、一つ目の工夫の方が視覚障害者にとっては、安心できるのではないかと私は考えました。

 このような工夫を見た私は、最近のすばらしい技術を使ってできるだけ多くの人に住みやすい社会を作るように努力し、工夫を重ねることが大切だと思いました。最初は全員でなくてもいいと思います。

 この経験をふまえて、今、私ができることは何か考えました。それは、自分の考えが正しいと思いこまずに、色々な人の目線で考えるということです。点字ブロックが、車イスに乗っている人やベビーカーをおしている人などのじゃまになっているということを、私は最初、思いもしなかったからです。

 ちょうどこれから、国語の時間に「みんなが過ごしやすい町へ」という学習をします。その学習では、「グーグルマップ」を使って私のすんでいる町のくらしの工夫を見つけます。その時には、日常で気づくこと以外にも細かい工夫などにも注意して取り組みたいです。

 また、SDGsという言葉について、私はまだあまりよく知っていません。この作文を機に、十七の目標一つ一つに目を向けていきたいです。

 

 

 

 

 

山崎佑奈 高校3年生

 

 

 

「私は臨床検査技師になりたい。そして自分の人生を通して誰かの力になりたい。」

私はこの言葉を見て、自分の浅はかさを思い知った。これを書いたのは、約4年間難病と闘い続けている同級生だ。中学2年生の時、私は彼女と同じクラスで、何気ない日常が流れていた。それがいきなり途切れたのは、春休み直前、先生が発した言葉だった。

「○○さんは入院することになりました。長期的なもので本人も不安だろうから、来年度同じクラスになった人は、支えてあげてください。」

私はすぐには理解できなかった。少し前まで同じクラスで過ごしていた同級生が、復帰時期が定まらない程の難病を発症するなんて、想像したこともなかったのだ。

彼女が本格的に学校に戻ってきたは、高校1年生の時だった。しかし完治したわけではなく、足には装具をはめ、両手に杖を持った状態だった。学校の行事にも参加できず、体育の授業も見学ばかり。体調を崩して学校に来られない日も多々あった。

「かわいそう。」

私はただ、そう思うしかなかった。「私たちと違ってかわいそう。」というのが、本心だったのかもしれない。みんなと彼女の間には、「普通の人」と「そうでない人」という、目に見えない壁が存在しているようだった。

そして会話もほとんど交わさないまま、同級生として過ごす最後の1年を迎え、4年ぶりに彼女と同じクラスになった。

「日直日誌に今自分が思っていることを書いて、みんなでシェアしましょう。」

先生からそう言われた私たちは、各々自分が今思っていることを書き込んでいった。私の番になり、みんなが書いたページをめくっていると、あの子のページが目に止まった。

「私は臨床検査技師になりたい。そして自分の人生を通して誰かの力になりたい。」

冒頭にも書いたこの言葉は、ずっと私の心に残っている。彼女は自分が何度も大きな手術を受けて、学校にも行けず、当たり前の生活ができなくなったと、赤裸々に書き綴っていた。しかし彼女は決して悲観的ではなかった。こんな私だからこそできることがある、自分の生き様を通して誰かに生きる希望を伝えたい。彼女の強い意志が、1文字1文字から伝わってくる文章だった。私は心のどこかで「障害を持つ人は夢や希望を持つのが難しい」と思ってしまっていた。きっとこのような偏見はまだまだ社会に存在するだろう。しかしそれは大きな間違いだと彼女は教えてくれた。障害の有無に関わらず、自分の人生に希望を持ち、全うすることはできる。生まれた瞬間から、誰にでもその権利はあるのだ。「あの人は私たちとは違うから差別されても仕方がない、取り残されても仕方がない」という考えはなくしていかなくてはならない。このような世間の考えに、夢や希望を閉ざされる人がいてはいけないのだ。

私は彼女の言葉に勇気をもらった。自分自身に誇りを持って生きようと思った。障害の有無や生活環境に関わらず、全ての人が夢や希望を持ち、人生を全うできる社会。そんな社会づくりのために、自分ができることを精一杯していきたいと思っている。

 

 

 

久須美凜 大正大学 3年生

 

 

 

 「私の勝ち」と一瞬でも頭に浮かぶことがよくあるのではないだろうか。幼い頃から、集団行動を経験し、勉強やスポーツなどで同じことを一緒にすることが当たり前になっていた。出来る子は褒められて人気者として扱われる一方で、一生懸命取り組んでも出来ない子がいる。クラス、学校、近所の地域などの限られたコミュニティしか知らない子供たちにとって、周囲からの評判が最も人間形成に影響していくのだ。集団の中で、出来る子が特別に必要とされているわけではなく、出来ない子が輪の外側に弾き出されるわけでも無い。その子を見る視点を少し変えることが大切になってくる。

中学生までの私は、成績が良く、リーダー役を務めることも多かった。先生や親からも期待され、信頼も厚く、典型的な優等生だった。だから、上の世界にいる気でいたのだ。クラスの中でも、不器用で勉強が苦手な子や不登校気味の子を気にかける優しさは持っておらず、傍観者のように周りに興味がなかった。しかし、高校生になると状況が激変した。地元の進学校の授業に追いつけなくなったのだ。1度できないと分かると、勉強に励むモチベーションが見つからず、目標を見失った。中学生の時に見下していた不器用で勉強が苦手な子になったのである。自分で自分に戸惑った。去年までの私とは正反対で、自分が嫌いになる一方だった。そんな時に、希望をくれたのはダンスだった。唯一の特技で、他の生徒ともダンスであれば自信を持って関わることができた。ダンス部に所属したことで、振り付けを任されたり、全体を確認して修正の指示を出したりと頼られる場面も多かった。私が役に立っていると分かると、安心感ややる気を持って学校生活を送ることが出来たのである。このように、中学生と高校生の6年間で、クラスの上位と底辺を経験し、人には得意不得意があって支え合い、協力し合うことが大切であると実感した。

さらに、大学生になってから上京、一人暮らし、初めてのアルバイト、サークルなど地元にはなかったもので溢れていた。そこで、人間は面白いと思った。なぜなら、なんとなく大学生になってみたり、やりたいことがあったり、とにかく親元から離れてみたかったりなど、理由は様々でも全国各地から同じ大学の同じ専攻を選んだ同世代の人間が集まった。この状況がとても新鮮だった。地元に比べて、それぞれの得意不得意の差がはるかに大きかったが、逆にそれが良いことだと気付いた。例えば、プレゼンテーションは苦手だがグループワークでは統率力を発揮する人、資料作成は苦手だが情報収集が正確で早い人、あまり頭は良くないが指示された仕事はしっかり実行できる人など1人では欠陥があっても、皆がいるからお互いを補い合って目標まで進むことが出来た。

つまり、誰かに必要とされることで自分の存在価値を見出し、自信を持って生活する力に変わるのだ。集団の中で成長すると、無意識のうちに自分の地位を決め、この地位であればこれくらいの存在感で過ごそうという思考になる。それは、ネガティブな人も同じで、ポジティブな人に対して苦手意識を持つ傾向がある。相手に対する「尊敬」と「嫉妬」の感情は紙一重で、どちらも「羨ましい」から生まれるのではないだろうか。もし、この瞬間にもネガティブで孤独だと思っている人がいるならば、安心してもらいたい。人間は、誰かの得意分野に憧れて、自分の苦手分野を無くしたくなるように、他人を「羨ましい」と思う生き物なのだ。皆が皆に「嫉妬」していて、魅力を見て「尊敬」する。誰もがその対象となり、集団は成り立つ。上にいると思っている人は一旦振り返り、下にいると思っている人は周囲に目を向け、自分が今いる状況を見直して欲しい。いつの間にか、ずれが生じ、実際にはそれほど周りとの差が無いかもしれない。皆が足並みを揃えて歩いて行けるようにお互いに「尊敬」してみるのはどうだろうか。

 

 

 

甘道音羽 鎌倉市立小坂小学校 6年生

 

 

 

 私は、「何故取り残されてしまっている人がいるのだろう」と疑問に思いました。取り残されてしまっている人は、きっとみんなついていけていない人や、いじめられている人、人とのコミュニケーションが苦手な人、障がいがある人、などが取り残されてしまっているのでは無いのだろうかと思いました。このような理由で取り残されてしまっている人は沢山居るでしょう。だから、障がいのある人はどうしても一人になってしまう。なので取り残されてしまう人がいなくなるということは出来ないと思いました。

 いじめというのはやってはいけないと言われてもやっている人は沢山います。あの人が嫌いだから虐めてしまおう。私達の話についてこれないから省いてしまおう。そういう考えをしてしまうとどんどんその人との距離がでてしまうと思いました。みんなと仲良くするのはとても難しい事だけど、いじめというのはどんどん人を追いつめて自殺にまで発展してしまったというケースもあります。私はそのような内容の記事をニュースで見たことがあり、見てて凄く悲しい気持ちになった事がありました。いじめは絶対にしてはいけない。いじめをしてしまったことがある、もしくは虐めているという方は少し考えてみてほしいです。

 障がいのある方、は朝起きるだけで苦労してしまいます。それは私達にも、わからないほどの苦労が沢山あります。障がいのある方を馬鹿にしたり、からかったりする人は少なからずいると思いました。障がいのある方とどういう接し方をすればいいか分からないという人も沢山いると思います。なので、私は、障がいのある方達にどういう接し方をすればいいのか少し考えてみました。そこで私は思いつきました。みんなに接しているように普通に接するということが大切です。みんなみたいに遊びに誘ったり、話に参加してほしいと声を掛けたりなど少しでも「一緒に話さない?」や「一緒に遊ばない?」と声をかけることは、とても大切なことです。なので、皆さんの周りに知り合いじゃなかったとしても障害者じゃなかったとしても「困っている人がいれば助け親切にする」。という行動はとても大切な事なのではないかなと思いました。

 コミュニケーションが苦手な人は皆さんの周りに沢山いるでしょう。私の周りにも「人が怖い」と言って学校に来れていない子がいます。私は、それを聞いた時に思ったことがありました。それは「何故人が怖いんだろう?」「自分も人間なのに」と思ってしまいました。ですが、人が怖くない人もいれば人が怖い人もいる。なので私は人それぞれの感じ方なんだなと考えました。その子が何故人が怖いのかはわからないけれど、どうやったらその子も楽しく学校に来れるようになるのだろう、と少し考えてみました。私が考えたことはもし、その子が久しぶりに学校に来たからと言って話しかけたりするとその子は「びっくりしちゃうのではないかな。」と考えました。なので、沢山話しかけたりしないで「普通に接する事が大切なのかな。」思いました。

 人が怖い子には過剰に声をかけず普通に接することも大切です。

やはり取り残されてしまっている人はあなたの周りにも沢山いるのではないでしょうか。皆さんは人とのコミュニケーションが苦手な人、障がいがある人にどの様な接し方をしていますか?もし周りに皆さんも仲の良い子に接しているように優しく声をかけてあげませんか。

 

 

 

齋藤いほり フリーランス

 

 

 

 昨今よく耳にするようになったSDGs。関心がない人でも、その言葉を聞いたことがない人はいないだろう。わたしがSDGsについて知るきっかけとなったのは、ラジオやテレビの特集だ。「最も脆弱な人々の…」「最も貧困な人々の…」というように、多くの発展途上国が目に浮かぶ。では、わたしたちには関係がないことなのかというと、それもまた違う。若者たちは日本についてどう感じ、どう考えているのだろうか。わたしは不安と絶望が大きい。それは、わたしが女性性を持っているということもあるが、25歳という若者だからでもある。わたしたちは、日本の政治を動かす男性や大人たちに、そして国際社会に、取り残されてしまう存在ではないだろうか。

 現在、日本のトップの年齢は70歳を超えている。国会議員の平均年齢は50歳以上、8割以上が男性だ。男女比は世界で166位と、とても先進国とは思えない数字である。

 あの頃は当たり前だった高校入試の男女の点数差、何もおかしいこととは思えなかった。あまりにも普通な顔をしてそこに存在していたから。今は露骨で不当な性差別だと分かるし、その差別を前に夢を諦めた女性を思って、怒りが沸々と湧き上がってくる。「差別ではなく、女性の能力が劣っているからだ」と言う人がいるが、同じスタートラインにすら立たせてもらえないことを知っているだろうか。

 結婚するとき、なぜほとんどの女性が自分の姓を失うのか。女性が結婚して子供を産んだら、個人としての色が少しずつ褪せていくように感じるのはわたしだけだろうか。妊娠を機に仕事を辞めさせられ、ひとりで家事育児をしていた母親を見て、わたしはそう感じた。母の、1人の人間としての人生はどこにあったのだろう。女性は自分で選択することすらできないのか、と悔しくてやるせなくなる。わたしは、わたしの頭で考えて、わたしの言葉で伝えて、わたしのこの手で選び取りたい。だから人生を共にしたい人と暮らしていても、制度的な結婚を避け続けている。好きな職業を選べる社会を目指すならば、まずは自分の姓を自分で選ばせてほしい。同様に、大切な人にも自分で選んでもらいたい。

 また、最近では、性的マイノリティや女性に対する差別発言が頻繁に話題になる。染み付いて消えることのない差別意識に、怒りを通り越して呆れすらある。このような発言が多くの人に批判されると「不適切な発言だったので撤回する」などと言って、発言自体をなかったことにしようとする。わたしは繰り返されるこの流れに違和感を覚える。ただその場を取り繕っただけではないか。問題なのは発言ではなく、その人の根本にある差別意識なのだ。発言の非を認めるのであれば、自己の意識を改めるべきだと思う。

 わたしたちが生きる世界には様々な人が存在する。まさに多様性だ。それは最近になって増えてきたのではなく、ようやく声をあげて存在を示すことができるようになっただけだ。その存在を断固として認めない人たちがいるが、その人が存在することに誰かの承認は必要ない。すでに存在しているのだから。わたしは女性であり、男性に恋愛感情を抱くので性的指向ではマジョリティにあたる。なぜこんなにも性的マイノリティに対する差別発言に怒りが湧いてくるのか。それは「自分だけ良ければいい」とは到底思えないからだ。ある統計では10人に1人、という割合が算出されているように、わたしの周りにもこの差別に苦しんでいる人が多くいるはずだ。苦しんで傷ついている当事者だけに闘わせるのではなく、当事者以外の人が率先して声をあげて、共に闘うべきだと思う。わたしが「女性だから」という理由で傷つけられたとき「あなたの問題だから、自分でなんとかして」なんて言われたり、そんな空気を感じたりしたら「こんな逆境でボロボロの心を抱えては闘えない」と思うだろう。諦めてしまうかもしれない。

 マイノリティが生きやすい社会は、誰しもが生きやすい社会だ。自分のことをマジョリティに属すると思っている人も、それすら意識したことがない人も、いつ、何が起きるか分からない。事故に遭って障害を背負うかもしれないし、突然難病を発症するかもしれないし、職を失って路上生活や車上生活を余儀無くされるかもしれない。民主主義は多数の意見が尊重されるが、少数の意見を蔑ろにせず、丁寧に汲み取っていくべきだと思う。

 誰ひとり取り残さない。なんてやさしい言葉だろう、と嬉しくなる。そんなやさしい世界になったら、ここに暮らす今のみんなやこれからのあの子が、遥かに生きやすくなるはずだ。そして将来や国に対する絶望は、希望へと変えていけるはずだ。そのために、小さくても、まずできることを。知って、発信して、参加すること。わたしはここから始める。

 

 

 

高砂優羽 福井県立高志高等学校 2年生

 

 

 

 「誰ひとり取り残さない社会」という言葉を聞いて、真っ先に思い付いたのは、性的マイノリティについてのことである。私の知人にも当事者は何人もいるし、私自身も中学の時に女性に恋をしてから自分は両性愛者であると自認した当事者の1人だ。近年、日本では「LGBT」という言葉をはじめとして、性的マイノリティへの理解が進んでいるように感じる。さらに、私は現在高校生なので、性的マイノリティについてテレビやインターネットで知ることができるような時代しか知らない。それでも「社会から取り残された」と感じることがある。一番それを強く感じたのは学校での授業でのことだ。

 高校2年生のとき、保健の授業で、思春期の心・体についてや結婚・妊娠・出産についての話があった。そこでは毎回のように先生からの「高校生にでもなれば一度くらい異性を好きになったことがあるだろう」「将来は結婚して子どもを産み育てるだろう」といったイメージに基づいた発言がなされていた。さらに、保健体育の教科書にも「思春期になると異性への関心が高まる」と書いてある。私は性的マイノリティに属することを自認してから周りにある程度カミングアウトしてきたのだが、批判的なことを言われたことはほとんどなかった。しかし、この授業のなかで初めて「自分は社会の中では普通ではない」と宣告されたような気がした。学校の授業を通して初めて社会からの疎外感を感じたのである。これにはかなり悩んでしまった。

 だが、よく思い返してみると、小学校や中学校でも同じような教科書で同じような授業を受けている。それなのに、高校での授業で初めて違和感を覚えたのは、自分が当事者であると気づいたことが深く関係しているだろう。当事者であると自覚する前は、私も前述の先生と同じような考え方をしていた。おそらく、マイノリティに見えている小さな違和感は、マジョリティにはなかなか見えないのだと思う。マジョリティにはそのことについて意識する必要性も機会もないからだ。

 そのことに気づいてから、どのように私の気づきを表現し、性的マイノリティも含めたより多くの人が生きやすい社会にしていけるのか考えるようになった。そこで、その1つとして、性的マイノリティがより過ごしやすい社会にする方法を、私が違和感を覚えるきっかけとなった学校教育を中心として、学校の課題探究活動の一環として研究している。

 現在考えている方法は、「性の多様性に関して学校で教える」ということだ。これには2つの狙いがある。1つは、性的マイノリティの生徒が私のように授業がきっかけで悩まないようにしたいというものだ。実際、社会では異性愛者がマジョリティなので、現在の授業の内容を大きく変えることはできない。しかし、「当てはまらない人もいる」といったように、性的マイノリティについても伝えることで、当事者の生徒の悩みや不安を今より減らすことができると考えている。もう1つは、当事者以外の理解をより深められるというものだ。学校教育のなかで性的マイノリティについて知る機会を作ることで、今までそういった情報に触れる機会がなかった人も含め、多くの人が正しい知識を得ることができる。また、マジョリティゆえに意識して来なかったことについて考えるきっかけにもなる。そうすることで、社会全体として理解が深まり、より性的マイノリティが生きやすい社会になるだろう。

 この案には不完全なところも多くあり、改善も必要であるが、このように自分の気づきを少しでも伝えていくのは続けていきたいと思う。そして、自分事として考えることができた問題に関してだけでも行動を起こすことで、同じような人が少しでも社会から取り残されたように感じることなく生きられるようにしていきたいと思っている。

 

 

 

 

 

山﨑春菜 長野日本大学高等学校 2年生

 

 

 

人間が生きていく上で大切なことと聞いて何を思い描くだろうか。確かに住むところ、着る物、人、お金、知恵知識など思い思いの大切なことがあると思う。しかし、やはり人間の生活に深くなじみ、必要不可欠なものは食ではないだろうか。人間は植物のように土に根を張って栄養を得たり、太陽からエネルギーを得ることができず、一食一食から自分に必要なエネルギーを摂取して生活している。しかし、満足するまで食事を取れることは果たして当たり前のことなのだろうか。私が17年間生きてきた中で学んだことは、自分の当たり前であることは決して周りの人の当たり前ではないこと。当たり前であることに疑問を持たなくてはならないことだ。私は食べること、料理することが好きだ。もっと知識を深めたいと食に関して調べていたところ、食に関する社会問題という記事を見つけた。その中から私が気になった社会問題は、フードロス、6つのこ食、健康格差の3つだ。

まずはフードロスに関して。日本は食品自給率が低いにも関わらず、フードロスがかなり多い。また世界的に見てもフードロスは国際的な問題である。ある記事では世界的に見たフードロスは世界の生産量の1/3であるという記事を見つけた。どうしてフードロスは生まれてしまうのだろうか。私は捨てることが当たり前と考えている人が多いのでは無いかと考える。その当たり前という考えが根付いていることはかなり恐ろしいことだと思う。

次は6つのこ食に関して。私は6つのこ食の内容を見て、今の日本、世界の家庭の食卓に対して的確な表し方だと感じた。その中でも健康問題、生活習慣病に対しても深く関わっていると感じたのは「孤食」だ。孤食の意味は寂しい食事である。孤食は他のこ食にも深く影響を与えている。

最後に健康格差に関して。健康格差と深く関わっているものが所得である。お金に余裕がある時、人々は贅沢をしたいと思う。お金に余裕がない時、人々は切り詰めることを惜しまないのでは無いだろうか。そんな時切り詰めやすいのは食事である。栄養を十分に取ることを考えずに節約を考えるため所得が多い者、少ない者の格差が生まれるのである。そのため健康習慣にもそれらはかなりの影響を与えるのである。

これらの問題に対して社会が行なうべき対策を私は考えてみた。

まずはフードロス削減に向けて行うべきこと。それは外見を気にしないこと。主に野菜が多いと思うが、大きさ、形を神経質に揃えるあまり、除外されたものは加工されるケースも多いが捨てられるケースも少なからずある。私は野菜が綺麗なものであるという考えを払拭したい。それらを安く売るという考えではなく、全て同じ商品として扱って欲しいのだ。同じ味であるにも関わらず優劣をつけることがロスを生む。まずはその当たり前を変えていきたい。

次に6つのこ食に関して。1番問題とされている孤食をなくしていくために、朝食だけでもみんなで一緒に食べることが大切だと思う。たとえ1日のうち1食分だけでも一緒に食べようという意識を作ること。朝お父さんお母さんがどうしようもなくみんなより早く出てしまう時は、置き手紙を残していくなど、毎日家族とコミュニケーションをとることをゆっくりと頑張りすぎないペースで十分なので、続けていこう。

最後に健康格差に関して。健康格差の主な原因の所得格差、仕事の職場やストレスへの対策はなんだろうか。それは社会が健康を守るための社会環境を整備する必要があるということだ。社会環境整備とは、健康へのアクセスの改善と公平社会を作ること、そして社会活動への参加の機会を増加させることが環境の質を向上させることになる。食をはじめとした環境を整備することで人々の生活のしやすさは大きく変わると考える。

私は学校で私たちの代からSDGsを広めていくグループを発足させ、定期的に活動報告を行なっている。また文化祭でさらに全校の関心を集めるために、目標を達成している国の郷土料理を長野県の郷土料理であるおやきの中に入れての販売を予定している。誰かに任せるだけでなく、まずは自分たちが動くこと。周りのみんなに広めたい、一緒に頑張っていきたいという気持ちが芽生えた時こそ、本気で取り組むべき時だと考える。

私は将来、人と社会との関わりを常に持ち、そして社会、人々のために働きたいと思ってる。見捨てない、自分たちが良ければいいわけではない、手を差し伸べること、共に作っていくこと、補い合うこと、助け合うことを当たり前にしていくこと。近所の方々とですら会話がない、そんな状態を当たり前だと思わないで欲しい。自ら人との関係を絶った瞬間、社会と人を繋ぐ糸は解けていく。

一緒に動こう。考えよう。誰ひとり取り残さない。私たちが動くことは未来の子供達の社会を守ることに繋がっていくのだから。

 

 

 

 

 

松本侑里花 兵庫県立大学1年生

 

コウノトリが気づかせてくれた私の存在

 

私は地域から取り残されていた。今までずっと兵庫県で暮らしてきたが、私は地域のことを

知らなかった。このことを強く感じたのは、兵庫県の豊岡市にある兵庫県立コウノトリの郷

公園を訪問し、講義を聞いたときである。

兵庫県豊岡市では、日本の空から姿を消したと言われていたコウノトリが今では 200 羽も空を飛んでいる。コウノトリは兵庫県の県鳥に指定されていて、絶滅が危惧されている動物でもある。コウノトリは 1971 年に日本内で一度絶滅しており、ロシアからコウノトリの幼鳥を譲り受け、ここまで個体数を伸ばしてきた。コウノトリの活動が始まったのは、1955 年であり今年で 65 年ほど経つ。この 65 年間は地域の人が一体となって活動を続けてきたということが私は素晴らしいと感じた。私は講義を受けるまでコウノトリが絶滅したことも、コウノトリが県鳥であることも知らなかった。

このことは私以外にも言えると考える。自分の住んでいる地域の一員だと言える人は少な

いのではないか、地域間の交流がなく、地域から取り残されている人が多いのではないかと

考えた。今の現代社会では、地域間のつながりが希薄化していると感じる。少し古いデータ

だが、厚生労働省によると、内閣府行った世論調査では近所付き合いの度合いは、年々低下

しており、2004 年調査において「よく付き合っている」と回答している者の数は、1997 年

調査において「親しく付き合っている」と回答した者の半数近くとなっている。しかし、移

住する地域をよくする活動ができる時間・機会が重要だと回答する者は、1978 年と 2002 年で 2%ほどの減少しか見られず、値は大幅に変化していない。そのため、地域間で親しくする必要がないと考えている者は少なくなっていないのに、地域間での交流は減少しているということだ。

ここで SDGs の「誰一人残さない」という目標を私は、「地域から取り残されている人」に焦点を当てたいと思う。地域から「誰一人残さない」ということを考えた時、やはり重要になってくるのは地域間の交流や、行事であると私は考える。私はコウノトリについての講義を受けたあと、JA たじまが主催した稲刈り体験に参加した。稲刈り体験の中では、お米を通じて地域の次世代の教育をしていること、コウノトリが生息しやすい環境を地域一体となって活動していることを学んだ。このような行事から地域の繋がりを作り、次の世代へと交流をつなげていくことはこれからの社会で必要だと考える。

私はまだ大学一年生で、経済のことも、環境のことも、貧困のことも、持続可能な社会の仕組みのことも詳しくわからない。「誰一人残さない」という目標も過去の受賞作品を読み、様々な視点から課題があるということが分かり、私には大きくて難しいと感じた。それでも、私は問題を解決することはできないが、問題を発見することはできる。問題を解決するには、問題を発見することが一番大きな一歩だと考える。今回、私のように地域のことをよく知らない、「地域から取り残されている」と感じる人は多いことが分かった。SDGs の「誰一人残さない」という目標を達成するためには、地域という大きなコミュニティの中で、誰が取り残されているのかという問題を見つけるために、地域での交流が増えていくことが重要だ。私は地域の行事を増やすことはできないが、地域の行事に参加することはできる。まず、私ができることである地域の行事に参加し地域の輪を広げようと考える。その輪が広がり、日本に住んでいる人すべてが、自信をもって地域の一員だと言える社会を私は楽しみにしている。

 

 

 

 

 

渡邊彩花 県立多摩高等学校

 

 

 

私には将来、助産師になりたいという夢がある。なぜなら、命の誕生に立ち会えるだけでなく、女性の生涯に寄り添うことが出来る職業でもあるからだ。最近では男性が育児休暇を取得しやすくなる取り組みや、産後に女性が職場に戻りやすくなる取り組みも行われるようになってきた。しかし、それらはいまだ不十分で、出産や子育ての中心となることの多い女性は取り残されやすい社会になってしまっているのではないかと思う。

例えば、女性の社会進出の面から見てみるとどうだろうか。2018年、世界の女性の管理職率は平均約27%だったのに対し、日本は約12%という結果だった。主要7カ国の中でも最下位の成績である。また、出産後の女性の職場復帰率も世界と比べると、日本はとても低い水準となっている。私はこの原因が職場の子育てへの理解が足りないことにあると思う。働きたいという意志はあっても、仕事と家事や育児との両立が困難なために、女性が重要な役職に就かせてもらうことができなかったり、諦めてしまったりするという現状があるようだ。また、女性だけでなく、男性が育児休暇を取ることが認められているのにも関わらず、周囲の目は厳しく、制度が改善されても、それらを十分に利用できない。そこで私は、職場に「子育てに優しい環境」を作るといいと考えている。具体的には、職場に子どもを連れてきていいように、託児所や授乳室を設けることを義務付けたり、男性社員も子育てに参加しやすいように、子育てに関するセミナーを開くなどといったことだ。そうすることで、女性が出産や子育てを心配することなく働くことができる環境になる。

しかし、職場の環境を整えるだけでは女性の社会進出を完全にサポートすることはできない。加えて、女性の心のケアも重視するべきだと思う。男女共同参画社会を目指しているのにも関わらず、まだ女性に対する支援がままならない状況で、将来のことを不安に思う人は多いだろう。また、妊娠中や産後の女性はマタニティーブルーズやうつ病になることがあり、心身のバランスを保つのが難しいと言われている。職場に理解があっても、女性自身の心に問題があっては、根本的な解決にはならない。そこで、社会に相談できる場や女性の声を発信できる場をもっと増やす必要があると思う。例えば、会社で様々な立場で働く女性同士の交流会を開催したり、これまで子育てをしてきた先輩に話を聞いてもらう場を設けること、そういった場で出た意見をSNSなどをうまく利用して発信できるようにすることなどができると思う。

これからの私にできることは、助産師になって女性に寄り添い、誰もが取り残されず充実した人生を送れるようにサポートすることだ。子育てに優しい環境を作るためには、社会全体としてさらなる努力が必要になるだろう。

 

 

 

駒井佑作 横浜国立大学

 

流行に置いてきぼりの子供達

 

 SDGsが重要視されている現在において、地球温暖を防ぐことや男女平等の促進など比較的規模の大きな話が多くされているなかで、自分なりに身近な内容で誰一人取り残されない社会を目指すとはどういうことかを考えた。

 自分の考える現代における若者同士の「置いてきぼり」という問題が起きる原因の一つは周りの人が持つ情報を持たない人がその情報を持つ大多数の人々となじめないことが多いという点がある。また、ここでいう情報は新聞やテレビの情報というよりは、スマートフォンに日々大量に流れている消費的な流行りの映像や、音楽などのコンテンツである。

 このような流行りコンテンツを知らない子は、周りの話題についていけないことが多く、もしかしたらそれが原因で友達ができにくくなったり、最悪いじめにつながってしまうこともある。逆に流行の話題を知っていると新たな交流関係を築くことに有利に働く。自分の例でいうと自分はDSというゲーム機を持っていなかったために、大学生になった今でも周りが話す当時流行っていたゲームの話についていけず、何とも言えない気持ちになることは多い。また今ではDSやその他のゲーム機と同じくらい携帯電話を通したコンテンツというものが、子供たちの間の話題の中心になっていることは間違いない。

 ここで自分が特に注目したいのは、親が厳しくゲーム機や携帯電話を持たせてもらえない子供である。今の自分がいくらDSを持てたとしても今更話についていくために流行っていたゲームをやろうとは思はないように、流行を知ることができる機材は持っているがシンプルに興味がないのでやらないという場合は、その人の好みの話なので特に問題はない。しかし、親が子供にゲーム機や携帯を持つことを許可しておらず、学校ではうまく流行についていけず、友達にはなんで携帯を買わないのかと聞かれてしまうというような板挟みになっている状態の子が一番どうしようもなくつらいと考える。

 もちろん親側の意見として、携帯に時間を取られて勉強の時間が減る可能性や犯罪に巻きこまれる可能性、視力低下の恐れなど様々なマイナスなことを避けたいという理由で子供にスマホやゲーム機を与えないというのももっともである。実際に自分の周りでもこのようなマイナスな影響を受けた友達も多い。

 だが、その携帯を持った時の悪い点だけに強く注目することはよくない。たいてい親は携帯を持った時の悪い点と持った時の良い点とを天秤にかけて考えがちであるが、ここに加えて携帯を持たない際の悪影響、つまり子供が友達に取り残される可能性があるということを知っておく必要がある。学校というコミュニティで生活する子供にとって取り残されることほどつらいことはない。仲間外れはもちろん、仲の良いグループで話しているときに自分でだけ知らない流行りの情報で盛り上がっていて自分は黙っているしかないという状況も子供にとっては大きなストレスとなる。特にそれが自分の意志ではなく親などの他人の影響である場合は非常にストレスを感じてしまうだろう。

 解決策としては親御さんたちに向けて、先生などの大人の口からしっかりと携帯の有無によって子供たちに起きうる良い影響、悪い影響を伝える機会が必要である。そこでの子供への影響というのは一般的に言われているものに加え、その学校でアンケートなどをして実際に生徒の携帯関連の苦労などを元にした話もするとなお良い。

 また、子供たちのほうがインターネットに慣れ親しんで、使いこなしているのに親があまりインターネットについて詳しくないゆえに、頭ごなしにネットは危険だ、携帯は持つなということもおかしい。近年ではネットの使い方からネットとの付き合い方、ネットリテラシーなどを習う授業を行う小学校も増えている。子供がこのように学んでいるのだから親世代にもインターネット関連のレクチャーを行い、ネットの便利さや怖さ、オンラインでの流行というものを親も知り、そのうえで親は子供とどのようにゲームや携帯と付き合っていくべきかを一緒に考えるべきである。

 このように現代の学生特有の置いてきぼりに悩んでいる人は多いと思う。特に今後、携帯等の電子機器をより幼い子供が持つことは当たり前になっていくと思うので、今後はさらにそのような機を持たず、流行に疎い子供たちの肩身は狭くなるだろう。そんな中での親の役目はただ子供を制限するのではなく、自分も子供のために学ぶことを辞めずに、子供と一緒に様々なことを予想して話し合って決めていくことが必要である。

 

 

池田優 横浜国立大学都市科学部都市社会共生学科

 

 

 

「誰ひとり取り残さない」ためにできることを考えるにはまず、「誰ひとり取り残さない」状態がどのような状態であるかを考える必要があります。全員が貧困から抜け出せればいいのか、全員が教育を受けられる状態を指すのか、それとも全員が適切な医療を受けられる状態を指すのか。様々な指標があると思います。しかし、SDGsがゴールとしている指標はこれ全部です。貧困をなくし、教育も医療も受けられるようにした上で、経済を発展させ、自然環境を守っていく。取捨選択をしないで願いを全て詰め込んだものがSDGsです。なので、ここでは「誰ひとり取り残さない」状態を「誰もがSDGsの到達目標を達成する」ことと定義したいと思います。

「取り残された側」の人たちを SDGs では見放さないことを謳っていて、もちろん世界中の人たちがそれを願ってこの目標を作りました。ですが、私たちには身近にSDGsを感じるようで、歴史の授業のように、どこか遠い世界の話をただ聞いているだけという印象をどうしても抱いてしまうこともあるかもしれません。私は少なくともそう感じてしまうことがあります。それは、「取り残された側」の生活が想像の域を超えないからです。私は今大学生で、私も周りも当たり前のように大学に通っている人がほとんどで、医療保険だってしっかりしているし、不自由を感じることはあまりありません。そのような環境からいくら頭の良い人が知恵を絞っても「SDGsって必要だよね」という考えが字面以上の意味を持つことはありません。SDGsの目標達成に最も難しいところはこの「認識の違い」だと思います。なので、まず世界中でやるべきなのは各目標を達成するために必要なデータや作戦ではなく、「取り残された側」の価値観を世界中で共有することだと思います。いくら頭でわかっているつもりでいても、それらは結局言葉上の理解でしかなく、そこに留まっていては世界中で協力することは難しいです。例えば、友達や恋人、家族と話をしていたとして、私たちはその会話の内容や視線、会話の間などから相手が何を考えているのか予測しようとしますが、確実に全て読み取れることなんてあり得ません。同じような価値観を共有しているはずの自分の近しい人間にだってそのように全てを知ることは無理なのだから、世界のどこかで今日も誰かの助けを求めているような人がいたとして、こちらが想像を膨らませて「この人はこういう助けを求めているだろう」で援助してもそれはただのお節介で終わってしまう可能性もあるのです。

そうならないためにできることは二つあると思います。まずは、しっかりと対話すること。同じ地球に生きている以上助け合っていくことは当然のことですが、何を必要としているのかは必要なものがある側にしか分からないことです。国家間レベルであれば話し合いの場が設けられており、ある程度意見を交わし合うことが可能かもしれませんが、個人レベルではどうでしょうか。そもそも通信手段がないなど、考えられる要因はたくさんありますが、そういった場はあまりないような気もします。せっかくSNSが発達し、世界中の人と繋がれるようになった現代なのですから、誰が、どこで、どのように困っているのかについてわかりやすくまとめてくれるSNSがあっても良いような気もします。

二つ目は「取り残された側」の現状を理解することです。これは資料などを読み込んで得る知識形態のものではなく、自らが経験することで得ることができる理解というものが重要になってくると思います。例えば、教育の場面で実際に日常生活を営むことさえ困難な状況というものを体験する授業を作ってみる。そうしたら実際にどのようなことが辛くて、何が不足していたのか、資料やデータから学ぶより遥かに自身の記憶に残るだろうし、より効率的な援助の方法の確立につながると思います。また、教育の場面で取り入れる事によって30年、40年と長期的な目で見た時に、その効果はとてつもなく大きなものとなっているはずです。そのような教育を受けた世代が大人になり、世界を引っ張っていく中心となる。そのような時代がくれば、この問題は解決に大きく近づくことだと思います。「誰ひとり取り残さない」ためにできることは「取り残された側」の気持ちにどれだけ世界中が寄り添うことができるか、他人事ではなく自身の問題でもあると認識できるか、にかかっていると思います。

 

 

 

服部翠 高知県香美市立大宮小学校5年生

 

「皆同じだけど同じじゃない」

 

 理想の地球。それは、誰もが幸せで悲しむことのない平和な地球。しかし、現在の地球はその理想からは程遠い。その理由は何なのだろう。例として挙げられるのは、いじめや人種差別、独裁主義などがあたる。なぜ人類はこんなにも他人と自分を比べたがるのだろう。皆、同じ地球に暮らしているのに。地位や身分をつくり、苦しむ人をつくる。それは人類の本能としてはおかしいはずだ。「皆、仲良く平和に」。このような想いはないのだろうか。結局、人を苦しませておいて、いったい何が楽しいのだろうか。自分と違うからと言っても、人には個性や外見の違いはいくらでもある。もしも、自分と全く同じ人ばかりになったらどうだろうか。個性があるからこそ、自分として自分を認められるのに、ほかの人に自分とは違うから、と言われたら、その人は、自分のことに自信を持てなくなってしまう。

しかし、一方でわたしはこのようにも思う。他人と自分を比べる人ほど、自分に自信がないのではないか、と。自分に自信がないから、自分や自分の周りを基準にして自分自身を安心させているのではないだろうか。結局は自分に返ってくることも知らずに。ただ、ひたすら自分を守り通すために、他人を傷つける。それがその人達のやり方なのだ。

自分の事しか考えない。そういう人によっ苦しんでいる人がたくさんいるのに。

 では、私たちには何ができるのだろうか。

それは、「どこにすんでいても、みんなみんな、おなじ『ひと』なんだ」という事を忘れないこと。そして、自分の周りの人、家族や友達、知人などにもそう思ってもらえるようにすること。そうすることによって、少しずつ、自分の身の周りから誰もが安心できるような社会をつくっていくことできる。皆の安心への一歩が、自分自身を支える一歩にもなる。自分がする行動に自信をもって、やり通す。それが自己評価にもつながってゆく。

みんなで助け合い、守り合う。あたりまえのことだけど、とても大切なこと。みんなでしあわせな社会への一歩をふみだそう

ちいさなこどもからご老人まで幸せで安心な社会を求めているのは一緒。一人でも、たくさんの人でもいい。なにかしら自分にできることを見つけ、それを次の人へつなげてゆこう。そうしたら、その人がまた、次の人へとつなげていってくれるはず。少しずつ、少しずつ幸せな社会をつくろう。

 

「幸せな未来に向けて、がんばろう!」

 

 

 

佐藤さくら 横浜国立大学 1年生

 

 

 

 SDGsの達成目標年の2030年まで残り約10年となり、東京オリンピックの開催が決定している現在、私は特に都市と地方の「格差」がさらに開いているのではないかと感じている。ここでいう「格差」というのは、経済活動などの社会に関係するものだけにいえることではない。インターネットやSNSの普及に伴い、それ以外の娯楽や食事、衣服などの何気ない日常生活の面でも大きく差が開いてきている。私は、SDGsの基本理念である「誰ひとり取り残さない」の視点から都市と地方の生活について見ていきたいと思った。

ではなぜ、このような格差について考え始めたのかというと、今年の春に横浜国立大学へ入学し、地元の宮崎から横浜に引っ越して以来「周囲の人と違う」と感じることや「このままだと取り残されそうだ」と感じることが増えたからである。

 

横浜に来て最初に驚いたのは、公共交通機関の充実度だ。電車は分刻みで時刻表のとおりに到着し、バス停が至る所にあり、駅には人が溢れている。一方で、私の地元は典型的な車社会であり、高校を卒業するのと同時に車の免許を取ることが当たり前のようになっている。そのため、電車やバスを利用する機会はほとんどない。この大きなギャップは、買い物等の生活以外に同級生との会話などにも支障をきたしている。例えば、「一駅分の距離」というお互いの認識の違いから話がかみ合わなかったり、駅の規模や改札の形式が全く違うために電車の乗り換えの方法がよく理解できておらず、待ち合わせが上手くいかないという事態が発生してしまう。確かに、これらのようなことは慣れてしまえばいいと思うかもしれない。しかし、慣れるまでは、取り残されてしまうかもしれないという孤独を味わい続けることに変わりはなく、慣れた後も、地元に帰省した際に劣等感を感じてしまうこともまた事実である。実際に上京した私の友人の多くが交通の面で地元との常識の差異に悩み、孤立感を味わっていると私に相談してきたこともあり、その地域の需要の関係もあるがインフラ整備の差は改善すべき大きな課題だと感じた。それに加えて、その孤独感から抜け出せずに家に引きこもってしまうことも想定される。

 

また、都心ではアパレル店や美容院、レストランなど様々な店舗が充実しており、地元では見たことも食べたこともないようなものが沢山あることにも衝撃を受けた。流行の発信源は都心であることが多いため、田舎へのトレンド情報は遅れて届く場合がほとんどだ。同じサークルのほとんどの友人が持っているものを持っていない、もしくは地元にまだ情報があまり届いていないために知らないということも何度かあった。そして、その話をすると大抵の場合返ってくる反応は「えっ、信じられない!」である。特に、初めてこの会話をしたときは、大げさかもしれないが、周りのみんなにとっては当たり前の生活が、自分だけ享受できないという状態にあったのだと痛感した。地元から出ることによって、今まで感じたことのない格差に気づくというは、幸福度の低下や豊かに生活できるようになる中で見過ごされてきた相対的貧困にも関係してくる問題になるのではないかと考えた。

 

現在、上京してきた人の就職をサポートする紹介サイトや地方出身者限定で住まいを紹介する不動産屋などは数多く存在する。しかし、日常の些細なことを相談することのできるサポートシステムというのはほとんどないに等しい。そこで私は、地方から都市に引っ越してきた人をサポートする新たなコミュニティをつくれたらよいと思った。同じ状況に立ち、同じような悩みを抱えている人とならば気軽に相談しあうこともでき、「取り残されている」と感じる人もいなくなるだろうと考えられる。さらに、面と向かって話すのが苦手な人にはLINEやZoom、SNSのチャット機能を活用して相談を受けられるようにすれば「誰ひとり取り残さない」ことも可能になるといえる。

そして、このコミュニティの重要な部分は、その地域に住む高齢者の方にも参加してもらうという点だ。その土地の特徴や生活に役立つ知識などを話してもらえる機会を設けることができれば、より充実した地域づくりになると思う。これは一見すると、今のコミュニティとほとんど変化がないように思えるかもしれないが、以前とは大きく違う点がある。それは、すでに高齢者の方々が作り上げたものに若者が参加するのではなく、若者が作り上げたものに高齢者の方々が参加する点である。自主的に若い世代が動かす、この支援体制を整えることによって、若者の地域コミュニティへの不参加が地域活性化における課題となっているなかで新しい繋がりを生み出すだけではなく、急激な高齢化の抑制や引きこもってしまう若者の減少にも貢献できるのではないかと思った。

 

 

 

 

 

喜元陽 横浜国立大学 1年生

 

 

 

突然だが、皆さんはSDGsと聞いて何を思い浮かべるだろうか。恥ずかしながら私は、なんとなく「持続可能な社会を目指す目標」のことだと認識していた。これも間違いではない。重要なことは、環境保護に関するものだけだと勘違いしていたことだ。実は、SDGsの基本理念は「誰ひとり取り残さない」である。ただ環境破壊を止めよう、地球温暖化防止に向けて取り組もうという目標ではないのだ。理念を念頭に置いて考えると、環境保護に関する目標は「未来の人々の存在」を考慮して現在を生きようというもののようだ。大学の講義で、横浜市の政策を4つの世界観―近代化論、従属論、持続可能な開発論、開発とアイデンティティ論―に照らし合わせて考える時間があった。さらに、SDGsもこれらの世界観で考えた。世界では見えにくい生きづらさを抱えている人が様々なところで生きている。そういった人々が長い間戦い続けたおかげで、今日の人々の生きづらさに少しずつ目が向けられているのではないだろうか。

 私の生きづらさはLGBTQ+に関するものだ。日本はLGBTQ+に対する理解が他の先進国と比べてもまだ浸透していないように思う。多様な生き方がだんだんと認められてきている今、「+」という表記は欠かせないのではないだろうか。私自身、LGBTまでは理解していたものの、きちんと調べるまでは他の分類について知ることがなかった。ここで説明するにはあまりにも広い範囲であるし、私がまだ知らないこと、世界的にも知られていないことがたくさんある。その一部の人が声をあげ、存在を主張し、生きているからこそ当事者ではない私も知ることができたのだ。私には家族を除き、大切な人が二人いる。一人は女性だ。悩みを共有したり、嬉しいことは自分に関係なくても喜んだり、祝福したりした。他の友達ももちろん大切だが、私にとってその人の存在は、この短い人生の中でとても大きいものなのだ。もう一人の大切な人とは違って、その女性に愛欲を抱くことはない。しかし、もう一人と同じくらい、もしくはそれ以上に私に必要な人だ。生涯を通じて付き合っていきたい。こういった感情はなかなか理解されないかもしれない。こういう人間が明確な名称で分類されていることもない。少し調べてみると、性的対象と恋愛対象が別である人が存在しているようだ。私は性別の違いで、この二つの対象が分かれていることはない。あくまでも、その人個人が”そう”であるのだ。もちろん性別だけで人を判断する人はいないと思う。あくまでも、相手の人間性などに惹かれ、その人の性別がどうだったのかという話なのだ。そして、この話は自分の生き方・心の持ち方としてはとても共感できるものだった。私はこの自分の思いを大切にしていきたい。SNSの発信力が強くなっている今だからこそ、一人ではないという心強さにもつながっている。

当事者にならないと苦しみはわからない、と言う人もいるだろう。別に当事者になって苦しみを味わい、分かち合わなくても良いのではないかと私は考える。ただ、それこそSNS等を活用して、そういった人たちの存在を理解し、ほんの少しだけでもその感情を知って欲しい。許してほしいなどとは言わない。それは異質さを認め、線引きすることにつながると思うからだ。みんな、自分の人生を生きているだけの話である。分類して配慮するのではなく、相手をその人自身として受け入れることが普通になった世界の訪れを心から願っている。その世界のために、私も自分で調べ、考え、声をあげていきたい。

 

 

 

 

 

横尾優和 鎌倉女子大学高等部2年生

 

 

 

「誰ひとり取り残さない」。これはSDGsの基本理念であるが、「取り残されている人」とはどのような人々のことを指すのだろうか。よく考えられるのは、障害者、LGBTQ+、貧困の人々などである。私も数ヶ月前までは、そうだと考えていた。しかし、ある時「本当にそうだろうか」と疑問に思った。それは、今年の二月頃に野毛坂グローカルのオンラインイベントに参加し、そこで「誰ひとり取り残さない」ということが話題になった時だ。色々な意見を聞いたり、自分のことも少し話した。私たちも、何かにおいて取り残されているのではないか。全員が何かにおいて取り残されていると言っても過言ではないのではないか、と考えた。

 その例を一つ挙げてみる。例えば私は、運動が人一倍苦手である。小学生の頃からずっと、50メートル走ではクラスで最もタイムが遅く、球技も器械運動も水泳も、どれも苦手だ。小学生の頃は、リレーで同じチームになった仲間に冷たい視線を向けられることもあった。おそらく、この時私は「仲間から取り残されている」ということを痛感しただろう。

 このように、私たちはそれぞれ苦手なことがあり、それにおいて取り残されていると考える。では、「取り残されないようにする」にはどうしたら良いか。私は正直、「完全に」取り残されない、つまり、苦手なことが一つもないという状態になるのは不可能だと考える。だが、自分が取り残されているという意識、つまり「取り残されている感」を減らすことは可能ではないか。世の中には何か苦手なことで取り残されていると感じ、それにより自分に自信を持てなくなるという人も、私を含め多くいるだろう。しかし、何らかの方法で自分に自信を持つことはできると考える。方法は人により様々であり、例えば、苦手なことを克服できるように努力する、逆に得意なことで自信を補う、もしくは苦手だということを自分で受け入れる、などが考えられる。私はどれも正解だと考える。私の場合は、運動が苦手だと先述したが、中学生になってから、苦手ということを自分で受け入れたり、自分なりに少しでもできることを増やそうと努力することで、以前より自分に自信を持てるようになった。

 さて、ここで話をSDGsに戻す。最近はこれがよく話題になり、一人一人が自分のできることから行動するということが重要視されている。そこで自分にできることを考える時、もし自分に自信がなかったら「こんな私に何ができるのか」「どうせ私には何もできない」と考え、行動できないだろう。しかし、自分に自信があれば、「これなら私にもできるかも」「私はこれをやってSDGsに貢献したい」と前向きに考えることができるのではないか。このような意味でも、自分に自信を持つことは大事だと私は考える。

 話が少しそれるが、私は現在二つの地域活動をしている。一つ目は、私の地元である横浜市栄区で行われている、中高生など若者世代の文化祭のようなイベント「ティーンズクリエイション」のメンバーとしての活動、二つ目は、栄区の小菅ヶ谷春日神社の清掃「オミヤクリーン」への参加である。ティーンズクリエイションではイベントに参加したり、仲間やサポートしてくださる大人の方々と共にイベントを企画したりすることで、オミヤクリーンでは自分にできることから取り組んでやりがいを感じることで、私は自分にさらに自信を持つことができるようになった。これをきっかけに、将来やりたいことが一つ増えた。それは、私がしてもらったように、中高生が自分に自信を持つきっかけを作り、少しでも「自分は取り残されているから何もできない」という気持ちを減らし、「自分にもできることがある」という気持ちを持たせることだ。私の将来就きたい職業は、現時点では高校教師か塾講師であり、そこで生徒が自信を持つ機会を作りたいと考えている。また、地域活動も続けたい。そこで何か中高生対象のイベントを企画し、一人一人の「取り残されている感」を減らすきっかけを作りたいと考えている。

「誰ひとり取り残さない」。これを達成できるのが理想ではあるが、私はまず「誰もが自分に自信を持ち、行動できる社会を作る」ことに自分のできることから取り組むことを始めようと思う。

 

 

 

 

 

奥井ひらり 神戸大学一回生

 

 

 

 高校3年生の秋、私のSDGs、誰一人残さないための取り組みは始まった。それも知らないうちに。

 ある日の休み時間、友達が献血に行った話をしてくれた。人の命を救う協力ができることは大前提として、献血ルームではジュースが飲めたり、雑誌を読めたりすることを紹介してくれて、私は一度行ってみたいと思った。その子を中心にクラス数人で「受験が終わったらみんなで献血に行こう!」という約束をした。私は、約束したものの、貧血持ちで、心の中で「自分だけできないな」と少し悲しくなった。しかし、献血に行った友達は、私が貧血持ちであることを知っていて、「春休みまで時間はあるし、成分献血や200mlの献血もあるよ」と代替案を教えてくれた。その日から私は、みんなと献血に行きたい一心で鉄分の多い食事を意識したり、貧血の薬を飲んだりした。正直、その時は誰かのためにというより、自分のための努力だった。

 それから数ヶ月が過ぎ、受験を終えたものの日本は緊急事態宣言下にあった。私は何もできない自分の無力さとみんなと会えない孤独感の中家に引きこもっていた。そんな時、私を動かしたのは、「献血は不要不急でない」というニュースの記事だった。私は約束通り、みんなと初めての献血に行くことにした。私は無事、200mlの献血ができた。その瞬間、この私の少ない血でも誰かを救えるのだという充実感でいっぱいになり、家族や他の友達に献血の自慢をした。

 ここに私のSDGsがある。私のスタートはSDGsに貢献しようという意思ではなく、友達と献血に行ってみたいという好奇心だった。しかし、結果的に、私はSDGs目標3「すべての人に健康と福祉を」の取り組みに協力する喜びを知れた。その時から、今度は、献血を、自分のためではなく他人のために、すなわち「私がひとり残らないため」ではなく「誰一人残さないため」に利用したいと思うようになった。そこで今回、私は以下のような献血を利用したSDGsへの取り組み案を提唱したい。

 その名も「献血マルチ商法」である。この方法は、加入者が他の者を次々と組織に加入させることで販売組織を拡大させていくマルチ商法を利用した、献血者が献血の良さを伝え、他のものを次々と献血に誘い、献血のシェアを拡大させていく、というものだ。

 私が献血マルチ商法を提唱する理由は2つである。1つ目は、あえて善事である「献血」に、悪事である「マルチ商法」という言葉を持ってくることで、みんなの意表をつくキャッチーなスローガンにすることだ。まずはこの言葉が一人歩きしてでも、献血を広める大切さを多くの人に知ってもらうきっかけを作っていかなければならないのだ。2つ目は、マルチ商法という具体的方法を取り入れたことだ。大学の授業でSDGsについて意見が求められた時、抽象的で何をしたら良いのかわからない、という意見が圧倒的多数だった。だから、私は人々をSDGsの実践に仕向けるには具体的でわかりやすい案が必要だと考えたのだ。マルチ商法というと、悪く聞こえるかもしれないが、私は逆にマルチ商法の拡散力は、献血にはプラスに働くと考えている。私は、貧血だから無縁だと自ら献血と距離を置く者と、献血で人を救う達成感を初めて得て誰かに共感したいハングリー精神を抑えられない者、両者を経験した。そんな私が、両者の凹凸の感情をうまく利用することはできないかと考えて思いついたのが、この献血マルチ商法であった。輸血を求める人は1日あたり3000人いて、そのためには輸血協力者が13000人必要と言われている。個々の健康事情もあるため、押し付けてはいけないが、これだけ多くの献血が求められる事実がある限り、献血を広める取り組みは欠かせない。より多くの人が献血マルチ商法に協力した時、それは、すべての人に健康や福祉を守る「献血マルチ勝法」と化す。

 さあ、私たちのSDGs、誰一人残さないための取り組みを始めよう。それも自分の意志で。

 

 

 

丹野ちさき 早稲田大学大学院アジア太平洋研究科 1年生

 

 

 

「私を忘れていませんか?」

 あなたには、誰からそんな声が聞こえるだろうか。それとも、聞こえないふりをしているだろうか。私には、はっきりとそんな声が聞こえた経験がある。児童労働を強いられている子どもからの声だった。

 スタディツアーでインドに訪れた際、児童労働に従事している女の子と出会った。女の子は学校に行かずに、畑仕事をしていた。訪問した村では、児童労働を解決するプロジェクトが実施されていた。プロジェクトのスタッフとともに、女の子や両親から事情を聞くと、女の子は「学校に行きたい」と言った。そして私は、「一緒に学校に行こう」と手を繋いだ。女の子は学校に着くと、すぐに他の子どもたちと仲良くなり、笑顔でみんなと遊んでいた。児童労働から解放されるきっかけを掴んだのだ。

 私は、心の底から喜びたかった。しかし、何かが引っかかってモヤモヤした。「私を忘れていませんか?」はっきりと聞こえた。児童労働を強いられているにも関わらず、何の対策も行われずに取り残されている子どもたちからの声だった。

 世界では、1億6,000万人もの子どもが児童労働に従事しており、さらに増加すると推測されている。女の子との出会いを通して、児童労働に従事しているか否かという格差だけではなく、対策が行われているか否かという格差の存在を思い知った。対策が行われている地域では、子どもたちは児童労働から解放されるきっかけを掴んでいる。しかし、何も行われていない地域では、多くの子どもが取り残されている。置き去りにされた子どもたちの人生に対して、誰が責任を取るのだろう。

 「世界はすぐには変わらない。優先順位があるから今は何もできない」と、取り残されている子どもたちの目を見て言えるだろうか。対策を行う地域を選ぶということは、対策を行わない地域を選ぶという残酷さを伴うのだと痛感した。多くの人が解決に貢献すればするほど、残酷な選択は不要となる。そして、取り残されている多くの子どもたちがきっかけを掴み、児童労働は早急に解決される。児童労働の解決方法はある。やればできるのに、やらないだけだ。

 私たちは、生まれた場所が違うだけで、大きな格差が生じる不公平な世界に存在している。そして、この世界は、解決できるのに解決しようとしない問題ばかりだ。問題の解決は早い方がいい。そんな当たり前のことを、なぜ忘れたのか。私は、世界への違和感を持ち続ける。

 「私を忘れていませんか?」

 聞こえないふりをしている多くの人に伝えたい。

 無視しないで。世界を良くする活動から、どうか取り残されないで。

 

 

 

石川さと 一般社団法人 ありがとうの種(日本社会事業大学卒業)

 

 

 

「誰ひとり取り残さない社会」に必要不可欠なものは何であろうか?日本国憲法25条には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定められている。すなわち、人間が生きていく上で必要となる生存権が保障されるべきであり、そのために福祉の法律や制度、サービスがある。しかし、その狭間で苦しむ人々、つまり、社会に取り残されている方々がいるということも忘れてはならない。

近年、「ダイバーシティ」や「インクルーシブ」、そして、「共生社会」という言葉をよく目にするようになった。互いの違いを認め、尊重し、ともに生きていくーその概念は素晴らしく、広めていくことには賛成である。しかし、それらの言葉のみが独り歩きしてしまい、かえってそれが人々の無関心を生み出してしまう可能性も否めない。

そこで、ろう難聴当事者の立場から一般社会に訴えかけたい。まず、「ろう者」とは、日本手話という日本語とは異なる文法をもち、ろうコミュニティのなかで生きている少数民族、いわゆる、マイノリティだ。そして、補聴器や人工内耳を用いてコミュニケーションをとる難聴者も一般社会のなかでは数少なく、日常生活のなかで多くのバリアに遭遇している。

例えば、「外見では気づかれにくい」、「情報入手が困難である」、そして、その結果、「聴者のコミュニティに参入しにくい」というバリアだ。特に、「情報入手が困難である」という壁に関しては、多くの当事者が経験している。私たちは、耳から入る情報よりも目から入る情報に頼って生活している。そのため、手話通訳やパソコンテイクなどを活用している。このような情報保障は、まだ十分ではなかった時代に比べれば、多くの先人たちのおかげで私たち若者の当事者が得られるようになった制度やサービスもある。

また、電話ができないことで多くの不便を抱えていた私たち当事者も電話リレーサービスによって聴者と同じように手話や文字によって電話ができる世の中になっている。しかも電話リレーサービスは、7月から総務省による公的運用が始まり、今後ますます欠かせない重要なインフラとなりつつある。

だが一方で、先程述べた憲法25条が保障された上で、私たち当事者を取り巻く生活は、情報保障が100%整った環境で生活できているとはいえない。例えば、勉強会やセミナー、イベント、映画や舞台、講演会などいわゆる、「自己啓発」や「余暇活動」には情報保障がないのが現状である。

また、障害者差別解消法が施行されている現在でも多くの差別や偏見が残されている。それは、当事者が働く場においても例外ではない。障害を理由に断られたり、必要な配慮をしてもらえなかったりという話はよく聞く。

それに加え、このコロナ禍でマスク社会となり、人々の顔の表情や口元が見えにくくなっている。例えば、コンビニでは「袋はいりますか?」、「あたためますか?」という会話が交わされるが、それが聞き取れず、あるいは、口元が読み取れず、困るということがある。

このように情報入手が困難というバリアから聴者と対等に生きていけないというのが現状となっている。では、どのようにしたらそういった状況が改善されるのだろうか?そして、誰ひとり取り残さない社会を築いていけるのだろうか?

私としては、そこに人々の意識をマイノリティやダイバーシティに向け、社会改革していくことが良い影響を与え、そして、インクルーシブ教育の可能性を広げてくれると考える。要するに、障害者、女性、LGBT、外国籍の子どもたちなど社会的弱者(マイノリティ)が「珍しい」というレッテルが貼られることなく、ひとりの人間として接し、そして、お互いが生きやすくなるための環境を整備していくこと、それがインクルーシブ教育であり、共生社会を築いていく第一歩となるだろう。

最後に、誰ひとり取り残されない社会を目指すには、私たちにとって最低限度の生活を保障したうえで、必要な情報保障の配置と環境整備がなされ、そして、私たち当事者が平等に選べる選択肢の幅広さが欠かせない。現在のわが国における政府、教育機関、企業、団体など私たちにとって身近なところからマイノリティの存在に目を向け、真の共生社会への第一歩を踏み始めることを願ってやまない。

 

 

 

F.T 横浜市立大学国際教養学部2年生

 

 

 

 今の形のSDGsは、果たして本当に誰ひとり取り残さないのだろうか。巷でSDGsの話題に触れるとき、私は常にこのようなことを考えてしまう。

 SDGsが始まった2015年、当時中2の私はSDGsの存在さえ知らなかったが、高校に進学し学年が上がるにつれて、総合の時間で扱われる機会が多くなっていき、認知するようになった。そして2021年の今、インターネットを利用していると自然とSDGsという言葉を見かけるようになった。様々な企業が「SDGsを意識しています!」と自らが取り組んでいるターゲットの番号とアイコンを掲げ、社会への貢献をアピールしているのをよく見かける。すれ違うスーツ姿の人の中には、SDGsのバッジをつけている人もちらほらと見かける。広報面でも盛り上がっており、テレビ局においてもSDGsキャンペーンを展開し、各ターゲットの解説を行っているのを見かけた。身近なところで言えば、私の大学でもほとんどの授業のシラバスに、それぞれの授業に関連しているSDGsのターゲットが番号で示されている。

 このように、世間におけるSDGsの認知度や関心は高まっており、名前や17のターゲットなど、なんとなくこのようなものと知っている人はとても多いと考える。しかし、それは誰ひとり取り残さないことに本当に繋がっているのだろうか。

 今のSDGs関連のアピールを見ていると、私は正直「SDGsと書いていれば印象が上がる」といったり、「SDGsに関連付けて様々なことを行なえば良い」といったりする印象を持ってしまう。例えば、先述した大学のシラバスに関連した番号を載せることは、授業の内容や社会貢献のレベルに影響を与えているとあまり考えられない。意識づけはできるかもしれないが、そこで止まってしまうのではないかと考えてしまう。

 またSDGsに掲げられたターゲットは関連しあうようなものだが、それぞれのターゲットに関連したり解決したりすることに重点を置きすぎたために、最終的なゴールである「誰一人取り残さない」から離れて行ってしまうこともあるのではないかと考える。例えば、住み続けられるまちづくりのために、様々な人や会社が努力して取り組んでいます、とアピールしている中、実際の現場では重労働や残業などの負担が強いられており、それはそれで働く人々が取り残されていると考えることができるのではないか。SNS上においてこのように指摘している人を少し前に見かけた。

 さらに、SDGsの語が用いられた活動は、果たして本当に困っている、実際に取り残されている当事者にとって良い活動なのかと疑問に思ってしまう。「活動しました!」というような取り組む側からの報告はよく見かけるが、当事者からの直接的なコメントは、単に私のアンテナが足りていないだけかもしれないが、あまり見かけないように感じる。もしかしたら本当に困っている人は、我々のように問題解決をしようと意識している人々の目に留まっていないからこそ、困っているのかもしれないと考えることもある。

 このようなことから、私はSDGsについて、取り組むべき目標は明確になり、社会貢献の風潮を作るという良い効果があると同時に、現在起きている社会課題の本質や、その原因というような、本来の改善したい目的を見失ってしまうリスクを孕んでいると考える。さらに、今やSDGsは社会貢献をしているアピールのための道具の一つとして、良くも悪くも成立していると考える。それでは今後、本質的な目標である「誰ひとり取り残さない」を達成するには、社会に何が求められるのだろうか。

 私は、「誰ひとり取り残さない」の「誰」とは何かを、何を目指すかのSDGs以上に議論したり、考えるきっかけが少しでも生まれたりする風潮を形成することが重要と考える。まさにこの小論文・作文コンテストは「誰」を考えるきっかけに位置するが、敷居の高いものだけでなく、今のSDGs並みに広くきっかけを仕組むことが求められると考える。また、誰ひとり取り残さない活動をしようとする人は、自分が認知していない社会問題があることや、一見良い取り組みでも弊害が生まれるかもしれないといった、活動のマイナスの側面を考えることも必要と考える。私も様々な社会課題の解決手法に興味を持っているが、本当に困っている「誰」を知ったり、その人は実際には何を求めているのかを知ったりする能力を有していないと考える。災害時に千羽鶴を送られて迷惑になった、という話も聞くことがあり、送っている側は満足でも困る側はより困るのではないかと思うことも多々ある。

 このように、シンボル的な立ち位置と考えられるSDGsの本来の目標である「誰ひとり取り残さない」の実現を目指すのであれば、「まずSDGs」ではなく、その一歩前、根本的な問題から、もう一度考え直すべきではないだろうか。社会全体がゴールへ走る中、スタートや走る足元を、本当に誰ひとり取り残されない社会へ近づくために見直す、つまりSDGsの功罪を改めて社会全体で考えるべきであると、私は考える。

 

 

 

 

 

青木望愛 東京都市大学等々力高等学校 3年生

 

 

 

コロナ禍により学校生活は大きく変化した。部活動は中止され、対面授業も本来の半分程度しか行われず、様々な問題が生じた。「教育の不平等」コロナ以前から存在していた問題だが、このような状況下ではさらに可視化され、より緊急度が増してくると思う。

私は都内の私立中高一貫校に通っている高校3年生だ。私の学校は高1の時点で生徒には1人1台のiPadが支給され、各教室には電子黒板が設置されており、それなりにICT化が進んでいる。だが、そのような学校でもコロナ禍での授業は普段の授業に比べると劣り、オンライン授業を開始するのにもかなりの時間がかかった。ニュース番組で、同じ私立高校なのに自分の所よりも高品質なオンライン授業が行われているのを見ると羨ましいと感じたし、逆に公立高校では授業のオンライン化がうまくいかず分散登校が行われているのを見ると大変そうだなと感じた。

教育というものはそもそも平等ではない。私立と公立が存在している時点で金銭的な裕福さである程度進路を絞られてしまうし、安定した収入を得るためには高校・大学を卒業する事が好ましい。そうなってくると金銭的余裕がない人とそうではない人には大きな「教育の差」が生じてしまう。学ぶ意欲があるのに学ぶ事ができない、多額の借金を背負って大学に行かねばならない。「教育」から取り残されるという事は、私はあってはならないと思う。

もちろん全員に同じ教育をすべきだとは考えていないし、専門的な教育を受けるよりも社会人として活動したいという人もいる。私が言いたいのは「教育の平等化」ではなく、「教育の公平化」である。

例えば都市部と地方の学校教育を比較してみよう。三大都市圏とそれ以外の地域での男性の大学卒業割合は、前者は約60%であるのに対し後者は約45%である。このように大学進学率に差が生じてしまう背景には大きく分けて2つの要因がある。第一に家庭のSES(社会的経済地位)の差。第二に地域の教育機関の数の差だ。前者は先ほども述べた通り金銭面による問題、また家庭状況はその子供の進路と密接な関係にあるという事だ。高SESの家庭は都市部に住む傾向が強く、また子供に高水準な教育を受けさせようとする。都市部には数多くの学校が存在し、様々な選択肢の中から自分の能力・希望に適した学校を選ぶ事が可能である。だが、地方は相対的に低SES家庭が多く都市部とは反対のプロセスを踏みやすい。また学校の数も少なく、教育の選択肢が狭くなり子供の可能性を潰してしまうリスクもある。高SESの家庭で育った子供は将来高SESの家庭を持ち、低SESの家庭は逆に…というループができつつある。生まれなどの自力ではどうしようも無い要素で、人の学びが制限されていいのだろうか?いや、そんな事はあってはならない。教育のせいで取り残される人が出ないように、私達は声を上げなければならないのだ。

 義務教育の拡張、および学歴重視社会の改革。私が提案したいのはこの2つである。現在は中学までが義務教育であり最終学歴が中卒の割合は約2割だ。だが中卒だと安定した収入は望めず、多くの人がそれ以降の学歴を望む。日々進化していく現代社会において中学レベルの知識では対応しきれない事柄が多い。そのため大学までの教育を義務化し、社会全体の教養レベルを引き上げる事が必要だと思う。そうすれば進学を家庭の事情で諦めざるを得ない人もある程度の専門的な知識を得る事が可能になる。また、今の社会は学歴を過度に重要視する風潮が存在している。「学歴フィルター」と呼ばれる、企業が採用する学生を学歴によって選別する用語が存在する程に、学歴は多大な影響力をもつ。だが本当に重要視されるべきなのは個々の能力なのではないだろうか。確かに学歴はその人の能力を表す一種の指標ではあるが、それだけで測れない能力は数多く存在する。コミュニケーション能力や行動力、柔軟な発想力などもこの社会には必要なのではないだろうか。学歴ばかりで判断していては金銭的な問題により進学を諦めた有能な人間が、社会で活躍できない。真に重要なのは学歴ではなく、その人自身の能力なのだ。

取り残される人の出ない教育、それを達成していくのは簡単な事ではない。だがコロナ禍で教育の問題点が明確になった今だからこそ、私たちにできる事はあるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

徳冨雅人 明治学院大学大学院国際学研究科博士前期課程2年生

 

 

 

 僕は、SDGsの活動には興味がない。社会貢献活動にも興味がない。だから、「誰一人取り残さない」という理念を聞いても、前向きな感情はわかない。むしろ、後ろ向きの感情が湧いているように思う。2015年、SDGsを知った時からそうだった。それは何故なのだろうか。

 いずれの活動も体験しているが、どうしても身が入らない。その活動を通して、野毛坂グローカルがいう「取り残される人」や「最も取り残されがちな人」にも出会った。彼らと話した。とても気の毒に思うことばかりだった。

 僕の周りの人には、「取り残される人」や「最も取り残されがちな人」への支援活動に励む仲間が少なくない。その活動に参加することを決意する瞬間を見たこともある。それでも、彼らのように活動に精力的になれない自分に対しては、嫌悪感を抱くばかりである。恐らく、僕の中では、それらの活動は人間としてとても素晴らしいことであるという意識があるのだろう。だから、それができない自分が嫌になる。

 話は変わるが、日本人の人生目的は変わり続けているらしい。農耕社会の頃のように、まだ今のように人々が生まれた土地を簡単に移動しなかった時代には、人々は自身の血筋を守るために生きたという。その目的は、やがて「国家のため」となり、次に「会社のため」となり、今では「自分のため」になっているらしい。血筋を気にしては厄介だし、国家や会社は、最後は自分を守ってくれない、そう思った帰結だろう。

 自分のために生きていれば、一度きりの人生を過ごす間は、なるべく楽しい時間にしたい、と強く思う。楽しみ方は人によって異なる。たくさんお金を稼ぐ。恋に落ちた人が少しでも笑っていてくれれば、それで満足。自分の心のアンテナが感知した面白そうなことを可能な限りやってみる、など。

 「取り残される人」が取り残されないようにするにはどうすればいいか、活動に励むことで、自分が素敵だなと思う世界に一歩でも近づけようとすること。語弊があるかもしれないが、SDGsの活動もその楽しみ方の一つなのだと思う。

 それから、楽しい時間を過ごそうとすると、なるべく相手を傷つけないように工夫する癖がつくらしい。それは、傷つけてしまうことが致命的で、取り返しのつかない、謝ってもどうにもならないことであるとも思い込んでしまう。

 「取り残される人」の立場は、弱い立場だ。なぜ彼らが弱い立場にあるのか。それは、強い立場がそこへ追いやったからだろう。その事実は、少し勉強すれば溢れ出てくる。しかも、一見強い立場がその窮地を救っているように見えて、実は負担を他の地域や技術、あるいは未来に転嫁している例が多い。それにもかかわらず、強い立場が「誰一人取り残さない」と意気込んで弱い立場の人たちを支援しようとしている。

 僕はその様子をみて、一度傷つけてしまった相手に対してどんな償いをしても無駄だと思っているのだろう。あるいは、「傷つけておいて何様のつもりだ」とも思っているかもしれない。もしくは、「誰一人」とは強引だと思っているのかもしれない。または、素晴らしい活動をしているようで、実際は他の問題を引き起こしているではないかと批判している。そして、自分自身もまたその強い立場にいるのではないかと自認しているから、SDGsのことを考えると苦しい。

 なるほど、僕は、自分の人生を楽しむための方法をSDGsや社会貢献活動以外に見出しているのかもしれない。また、それらの活動を、償う術のない行為、またはむしろやってはいけないことと思っている。「償っても仕方がないのに、彼らを西洋的価値観に引きずりこもうとして、しかもどこかでまた見捨てるのかい?」と。または、辛いから考えることをやめている。こういう考え方は、よくないのだろうか。

 時々、「君たちはかわいそうな世代だ」と言われる。西洋的豊かさが一応は「善し」とされているのに「失われた20年(30年)」の中を生きている。原発が希望のエネルギー、人のグローバルな移動がより豊かな生活をつくりだす、そう思っていたが、今ではどちらにも疑問を抱く。何についても、何がいいのか、はじめからわからない。加えて「多様性を尊重しよう」と言われ、とんでもない数の選択肢や価値観に囲まれて、どこにも拠り所がない。

 ならば、頼るとすれば、本心なのだと思う。その本心を聞くというのも、ノイズがかかっていて、意外と難しい。それに、本心で「なんとなくそう思う」とわかっても、「「なんとなく」は理由にならない」と否定されがちだ。

 でも、言語の限界が人間の表現力の限界と言ってもいい。つまり、本心をうまいこと言語化できていなくて「理由にならない」としても、本心がそう囁いているように聞こえるのなら、それは立派な理由のはずだ。そして「本心」は、誰一人として欠けていない価値判断方法だ。

 僕の今の本心は、冒頭一文目の通り。この僕の本心が「国際問題」、あるいはその原因なのだろうか。そう思うと、僕はたいへん生きづらい。

 

 

 

佐々木ゆうた ピラール・ド・スール日本語学校

 

変えたい事 

 

        

 ぼくは自分を変えたいところが二つあります。

一つ目にはたいだなところです。いつも午前6時におきるのに「もうちょっとねたいな」と思ってもう一回ねます。以前はそれは時々起こったけれど、最近はいつも起こります。それは一つのれいです。他にも、勉強をするのを最後の日にすることが何回もあります。

 もう一つ変えたいところは、集中力がないからもっと集中できるようになりたいです。ある日、ぼくはブラジル学校でテスト中に、全然関係ない事を考え出して、気がついたらもう時間が過ぎて、テストを終える事ができませんでした。

 ブラジルで変えたい事はたくさんあります。

最初は犯罪とまやくです。ブラジルの法律はとても軽いです。特に未成年者にはもっと軽いです。犯罪を起こして少年院に行っても二ヶ月や三ヶ月で出られます。それでまたすぐもう一回犯罪を起こしたりまやくを売りに行ったりします。だから法律を変えてもっときびしくしたいです。

 ブラジルではあまり仕事がないからそれも一つの原因です。仕事をもっと増やして、新しい会社などをたくさんブラジルに持って来て、皆に仕事があると犯罪も少なくなると思います。ブラジルではお金がない、または少ない人達が大勢います。その人達は住む所がなくて食べる物もないです。子供たちは学校にも通えないです。それで大人になっても仕事がなくて貧ぼうから出られません。そんな子供達は学校に行かず、信号がある所でおやつやあめなどを売っています。いなかの町ではあまりないけれど大きい町ではそんな子供達がたくさん見られます。それを変えたいと思うけどどうしたらいいか分かりません。

 ブラジルで変えたい事がもう一つあります。それは差別の事です。それも前の話と関係があります。差別される人達はほとんど黒人です。黒人達ははだの色だけで差別されます。仕事もあまり見つかりません。それでお金もありません。

 人も世界もかんぺきではありません。まだまだ変えないといけないことがたくさんあります。

 

 

 

横田陸 横浜国立大学

 

 

 

1)はじめに・SDGsと「格差」の概念

私がSDGsについて始めて知ったのは中学生の頃である。当時SDGsとは「持続可能な目標」であり、これからの発展のために必要な指標であるという説明を聞いてそれなりに納得した記憶がある。それ以降、高校のさまざまな教科で、そして大学でも国際開発学や社会学、まちづくりなどさまざまな文脈でこの指標は登場し続けている。

 今回のエッセイのテーマは「誰ひとり取り残さない」ために「私たちに何ができるのか」である。ここからそれについて書いていこうと思ったのだが、私の中で1つ疑問に思っていることがある。それは、「Sustainable Development Goals=持続可能な開発」という概念と、「誰ひとり取り残さない」という基本理念の間に、一見しても関連性があまり感じられないところである。「持続可能な開発」に対して、基本理念が「環境に優しい資源」とかならわかるのだが、実際のSDGsにおいては「開発」という概念に対する基本理念が「包摂」の話になっている。私はこの疑問に対し、少しでもわかりやすい方法はないかと自分なりに考えてみて、「開発」と「包摂」をつなぐ指標を設定すると良いことに気づいた。それは、相対的貧困の概念に基づいた「格差」という指標である。

 持続可能な開発を進めるとき、開発を一斉にすることはできないという関係上必ず「開発された場所」と「まだ開発されていない場所」という二極化が進み、2つの間の格差が広がる。これは国際開発学における従属論的アプローチであるが、SDGsの指標は「誰ひとり取り残さない」である。従って格差によって社会的弱者が生まれてしまうことはなんとしてでも阻止すべきことであり、私たちは格差を極力是正する方向に動かなければならないと思われる。ここからの文章は、SDGsにおいて「誰ひとり取り残さない」ために、つまり「相対的貧困の文脈における格差を減らすためにどのようにしたら良いか」ということを焦点に置く。

 

2)相対的貧困と格差―自らの経験をもとにして―

 阿部(2012) によると、相対的貧困とは「人がある社会の中で生活する際に、その社会の殆どの人々が享受している「普通」の習慣や行為を行うことができないことを指す」という。従ってSDGsにおける「格差」とは、「大多数の人々が享受している習慣や行為をできる人とできない人の間に存在するギャップ」ということができるだろう。そう考えると、私たちにできることは、この格差、ギャップを埋める努力をすることではないか?

 ここで私の経験を記し、それを題材にして私が考える「誰ひとり取り残さない」ためにできることを述べていく。私は以前家庭教師の体験授業スタッフをしていたことがあるのだが、その中で中国からつい最近引っ越してきた家族のご家庭を訪ねる機会があった。彼らは日本語がそれほど上手ではなく、漢字などの難しい言葉は書くことができないという状況(自分の名前が精一杯であった)。結局家庭教師の契約も「契約書が書けないのでお断り」という対応を取らざるを得なかったのだが、これはまさしく「相対的貧困」による「格差」の文脈で論じるべきことではないか?つまり、「日本語がそこまで堪能ではない」という理由だけで、「多くの人=日本に住んでいる人々」が享受しているサービスを受けられず、社会から取り残されているのである。

 このような問題は無数に存在する。今述べたような外国につながる人々の問題もそうだが、男女による格差、性的マイノリティ、障碍を持つ人々、見えない貧困の問題など…。正直私は政府がこれらの問題に全て対応することは不可能に近いと思う。だからこそ、周りにそのような「困っている」人々がいた場合、私たちが率先してフォローして「普通」の人々との間の格差をなんとかして縮めることが必要なのではないか。また、先ほど不可能と言ったものの、政府にはそのような「相対的貧困」を抱えた人々へのケアを求めたい。ケアと言ってもそれは事例ごとに違う。例えば外国につながる人々には日本語教育を、性的マイノリティの人々には法による支援を…という具合で、問題ごと(もしくは事例ごと)の検討を求めたい。

 

3)終わりに―包摂とSDGsとの関連―

 今回は、「誰ひとり取り残さない」ために私たちが何をできるか、というテーマで私の意見を書いてきた。最後の方は完全に社会的な包摂について論じていて、SDGsとの関連が見えにくくなってしまったので最後に補足する。SDGsの指標には、「絶対的貧困」「相対的貧困」「人間開発指標」「幸福度」など様々な指標が関連するが、

その最大の目的は「世界の環境・政治・経済に取り組むこと」である。世界全体の課題を解決するという意味で、世界の格差を解消することは重要なのだと思う。

 

 

 

 

 

宮本穂菜実 大阪大学4年生

 

 

 

私は就職活動を経験する中で、自身の考えが、世間や企業が作り出す一般常識から取り残されていると感じることがありました。それは大きく分けて3つあります。

一つ目は、学業ややりたいこととの両立について。就職活動には様々なやり方があると思いますが、当初何もわからなかった私はとにかく就活サイトに登録し、そこで案内されるセミナーに参加し続けました。そうすると、3年生の夏段階ですでに、「今から動き始めないと遅い」や「夏のインターンシップは絶対に参加するべき」など、不安を煽られるような情報を多く耳にしました。そして私は、片端からインターンシップに応募し、空いた時間があれば不安を払拭するかのように就活セミナーに何度も顔を出しました。そしてそれを約一年繰り返し、最終的には納得のいく企業から内定を得ることができました。結果としては良かったと思っていますし、後悔は何一つありません。しかし、就職活動が終わった今、大事な学生生活のうちほぼ丸一年を“就活”に費やしていたことに気が付きました。果たして、1年間もやる必要があったのでしょうか。就活中、プログラミングやデザインの勉強、それから様々な職種のアルバイトなど、やりたいことが多く出てきました。しかし常に何かに追いかけられているかのような不安があり、就活が疎かになるのが怖くてほとんどチャレンジできませんでした。それがたった1年の期間ならまだましです。私の周りでは、1・2年生の頃からすでに就活に不安を感じ動き出そうとしている人もいます。学生の間にしかできないこと、挑戦したいこと。それらを差し置いて、就活をしなければという気持ちになるのです。もちろんそれでも就活を優先する選択をしたのは本人であり、私自身です。ですが、不安を煽るような情報を多く目にしなければ、もう少し違った考え方もできたかもしれません。皆がそれぞれのペースで就活を進められるような社会になれば、と強く思います。ポテンシャル採用の日本では新卒一括採用が主流ですが、海外のように卒業後にゆっくり自分の将来やキャリアについて考える、という方法も取り入れた柔軟な社会になってほしいです。

二つ目は、黒髪リクルートスーツの統一。もちろん見た目や第一印象、相手への敬意はとても大事なことです。ですが、皆同じ髪色・髪型・リクルートスーツにする必要があるのでしょうか。疑問には思いつつも、実際に就活生になると、焦りや不安からとりあえず髪を黒に染めよう、外見はせめて決められたとおりに従おう、と徐々に集団に馴染むように変わってしまいました。選考では個性が求められ、“あなたらしさ”を何度も聞かれるのに、見た目は全員統一。少し違和感がありました。

三つ目は、面接での建前・テクニックについて。「弊社は第何志望ですか?」そう聞かれると、「御社が第一志望です」と言わなければならない。言わざるを得ない。そんな場面が面接で何度かありました。そして、そんな時にはこう言うべき、といったテクニックがYouTubeを開けば溢れていました。面接に限らずエントリーシートも、皆が同じテクニックを使えば、個性も何もなくなってしまう気がします。しかしそれに従わなければ受からないのではないか、という不安と葛藤が私にはありました。

以上3点が、私が就職活動をする上で、“当たり前”とされている常識と自身の考えとの乖離に苦しみ、世間から取り残されていると感じた点です。本当に意義のある本質的な部分だけが残り、なんのため?と疑問を抱いてしまうような規則や風習がない社会をこれから作っていきたいです。

 

 

 

 

 

笹森遥 横浜国立大学 1年生

 

 

 

「大人の発達障害」という言葉が近年よく口にされるようになった。発達障害とは先天的な障害であり、大人になってから後天的に発症することはない。発達障害の多くは幼少期に気づかれる。しかし、症状に幅があるため程度が軽い人は大人になるまで障害に気づかず、就職や結婚などの過程で他人と比べた自分に対する違和感を感じ、発達障害と診断される人が増えている。また、発達障害の傾向は見られるものの、診断が下りない「グレーゾーン」と呼ばれる人も多い。彼らの多くは困りごとを感じながらも周りからの支援を受けられず、生きづらさを感じている。生活上で何かミスをすると自分を責めるようになり、うつ病などを発症することもある。このような人たちの特性を理解するとともに適切に対処し、「取り残さない」ことがもっと必要なのではないか。

斯く言う私も小さいころから大人の発達障害の一つ、ADHDの症状に悩まされてきた。忘れ物が多く、宿題は期日に間に合わない。常にきょろきょろソワソワし、警察によく声を掛けられる。財布や定期券、スマホなど大切なものも何回も落とし警察にお世話になった。バイトではケアレスミスを繰り返し店長に毎日怒られている。しかし本当につらいのはそういったミスなどに対して「お前の努力が足りないせいだ」「やる気がないからだ」「そんなことは心の問題で、気持ち次第でどうにかなる」と言われることだ。本人の性格・個性と受け止められ、自己肯定感が失われていく。本人を激励する言葉のつもりなのだろう。

また、心療内科で診察を受けたいこと、発達障害であると診断を受けたことを伝えると「それは逃げでは?」「免罪符を手にしたつもりか」と言われた人もいるという。

本人の能力に限界があり、苦労をしている人間がいるのにもかかわらず、このような言葉を投げかける人が多くいるのはなぜだろうか。私はシンプルに多くの人が「大人の発達障害」そのものに関して、また障害を持つ人にどのように対処すればいいか知らないためだと考える。当人は診断されたならそれを足掛かり、きっかけとして自分を知り、何ができて何ができないのか、自分にはどんな潜在能力があるのかを知る。そして周囲の人は症状の特性を知り、その人の特徴をできるだけそのまま受け入れていけるようにすることが大事なのではないか。

「大人の発達障害」を持つ多くの人は学校や会社など、自分が所属する組織などで「取り残されている」ことが少なくない。そのような人たちにも平等に、誰一人取り残さないように多くの機会が与えられればいいなと思う。

 

 

 

 

 

木下瑛羽 横浜市立戸塚中学校1年生

 

 

 

 SDGs。今では、誰もが知っていること。学校でも、SDGsのポスターが掲示板に貼ってあるし、たびたびSDGsの話も取り上げられる。17の目標とか、環境問題、貧困問題など、よく耳にする話。でも、実際に何かしよう、と動こうとする人は、ほとんどいない。どうせ、自分が何かやったところで何も変わらない、自分の力では何もできない、専門家やお偉いさんに任せておけば何とかなると思っている人が大半だと思う。これを読んで、「あ、自分だ」と心当たりがある人も少なくないはずだ。しかし、そう上手くはいかない。現実は、甘くない。これは一人ひとりが、「だれ一人取り残さない」社会にするという目標に向かって努力する必要がある。一人ひとりが努力する必要があるくらい、大きな問題なのだ。皆が何かをしてから、やっと解決するのだ。いや、100%解決するかと言われたらそれは無理かもしれない。世界全員の人が平等に生活できるようにするのは、不可能だ。ただ、今の現状が少しでも改善するのは確かだ。

 これは別に、自分が考えたというよりかは、みんなが言ってきたことだ。「少しでも、努力しよう」、と。では、先程「実際に動こうとする人は、ほとんどいない。」と言ったが、それはなぜなのか。僕が思うのは、皆がそもそも何をすればいいのか分からないからだと思う。僕は、SDGsの「だれ一人取り残さない」という考え方には賛成だ。でも、発信の仕方が間違っていると思う。学校などでもそうだが、「SDGsについて、自分たちにできることを考えよう」などと問われる。確かに、何をしたらいいのか考えることは重要だと思う。でも、何をしたらいいのかと考えるよりも先に、今の現状のことを知ることの方を優先するべきだと思う。「SDGs] と言われると、「環境問題」という言葉が頭に浮かぶという人が多い。でも、それ以外にも、「貧困問題」「差別問題」などといった分かりやすい例だけでなく、世界中に沢山の困っている人がいる。それに、困っている人がいると知っていても、本人以外にはその苦しみが分からない。だからこそ、今の現状を知る必要がある。今はコロナでそういった人がより一層増える中、コロナの騒ぎで忘れられている人たちがたくさんいる。休校やらテレワークやらオリンピックやらと騒いでいる中で、世界には、コロナ以前に、学校に行けない、働けない人や、ご飯も食べられずに布団に向かう人、コロナやそれ以外の病気にかかっても治療できない、してもらえない人がいる。僕たちは、そういった問題を抱えないで生きていけるだけ、幸せなのだ。

 そして、世界だけではない。皆が忘れている人は、まだまだ沢山いる。例えば、震災で被害を受けた人々だ。特に、コロナもあり、気にしなくなってしまった人が多い。「え、もう復興したんじゃないの?」と思うかもしれない。もう10年も経って、復興したと思われがちだが、実際そうではない。まだ仮設住宅に住んでいる人も多いし、壊れたままの建物などもまだ残っている。そして、物理的な問題だけではない。津波に遭って、トラウマになったり、家族を失って悲しんでいる人たちも沢山いる。それでも、一日一日頑張って乗り越えて生きている。しかし、時が経つにつれて皆忘れていく。もちろん、日本にも、世界にも、このように忘れられている人達が他にもいる。沢山いる。困っていることをそもそも知ってもらえない、気づいてもらえない人もいる。だから、取り残されていく。「だれ一人取り残さない」社会にするには、まだまだ努力が必要だということが分かる。

 僕が言いたかったことは、つまりは「自分に何ができるか」よりも、先に「今の現状を知る」ことが大切だ、ということ。「だれ一人取り残さない」社会にするには、まず「取り残されている人」を知らなければならない。例えば、みんなでポケモンを集めようとしていて、ある強いポケモンが捕まえられないとする。強すぎて自分には捕まえられないと思って諦めるより、まず「ポケモンの種類」を知る。それから、何か捕まえられないか考える。それと同じ話で、「だれ一人取り残さない」社会にするために、自分に何もできないなら、まず「取り残されている人」を知る。それから、何かできないか考える。そうしたら、何か、自分にできることが見つかるかもしれない。

 「だれ一人取り残さない」社会に一歩近づこう。その道が、どれだけ難しくても。どれだけ、遠くても。

 

 

 

 

 

中村ゆかり ピラール・ド・スール日本語学校

 

世界をかえる

 

この世界にはたくさん悪いことがあります。みんなは地球の未来を本当に心配していると思います。みんなはこのままでもいいですか?この世界でみんなは何を変えたいですか?私はたくさん変えたいことがあります。 

例えば、森のかじとか木を切ることとかです。それによって大変なことになるのは人間だけではありません。動物もです。たくさんの動物が死んだり生き残った動物は町に来たりします。

他に私が変えたいところは、人がごみをすてることについてです。道に捨てられたごみは川に行ってそれから海に流れていきます。そして、そのごみを食べた魚とかイルカとかかめとかを殺してしまいす。このごみは他にも悪いことをしています。

他に私が変えたいことはお金のことです。例えば、この世界には大金持ちがいます。

でもお金がない人もいます。家がない人や食べる物がない人もいます。うまくバランスがとれたらいいけど、それはすごく難しいことです。ただ私はそう願います。

そして、他に変えたいことはみんなが仲良くできるようにすることです。例えば、皮膚の色とかどこの国から来たとか肥満の人とか、そんなことは関係なくみんな仲良くできるようになってほしいです。また、戦争のない世界。どこの国とも仲良くできる世界になれば、軍隊もいないし、死ぬかずも少なくなります。それは私が考える理想の世界です。

でもこんな世界が実現する日が来るのでしょうか。それは簡単なことではありません。星を見て願うだけではかないません。この世界を残すために、またもっといい世界にするためには、みんなの考えが変わることが必要だと思います。でもそれはすごくむずかしいことです。それに、人間がかいけつしなければならない問題はこれらだけではありません。他にもたくさんあります。これを書いている今そう思いました。 

でも、もし、「貧富の差」と「差別のない平和な世界」の問題を少しでも変えることができたら、他の色々な問題を変えていくいい始まりになると思います。

 

 

 

甲斐陽菜 岩田高等学校2年生

 

 

 

線引きをすることは、必ずしも不必要ではない。たとえば、国が取り残されがちな人を取り残されないようにするために支援を行うとき、適切な額が届くようにしなければ、軽度の障がいを持った人は国の援助によって助けられ、重度の障がいを持った人はより取り残されるということが発生しうる。しかし、私たちが関わる生活において、線引きは不必要である。

孟子の「梁恵王上」で、『王が高殿から牽かれていく牛を見てどこへ連れていくのか聞いたところ、儀式の生贄になると言われ、王は「それは中止しろ。目の前で罪なく殺される生き物を見てしまった以上、見過ごすのは忍びない。」と答えた。』という話がある。

この話を今から私がする話に当てはめて、さらに要約すると、「私たちが人を助けるのは、苦しんでいる、または困っている人が目の前にいるからだ。」ということになる。つまり、その人の持っている障がいが軽度だろうが、重度だろうが、あるいは障がいを持っていない人だろうが、関係ないのである。

このことから、私は、私たちが線引きをするべきときを見誤っているから、取り残される人が発生するのではないかと考えた。要は、金銭的・物質的援助を行う場合、その生活への影響は大きいものであり、客観的に適切な基準で届けなければ、より孤独な取り残しが発生しかねない。だが、私たちのような対人的援助を行う場合、主観的に困っている人を助けるという方法で良く、仮にその主観が誤っていて相手は援助が不必要であったとしても、相手から断られるだけで、それ以上の問題は発生しないのである。

しかし、そういった対人的援助を行うためには、ある程度の基本的な知識や、根本的な理解が必要なのだ。たとえば目の不自由な人に道案内をするとき、どうするべきかすぐに言えるだろうか。私は小学校の授業の一環で、目隠しをして友だちに誘導してもらいながら校内を歩いたことを覚えているが、それ以降、そういった授業を受けた覚えがない。あったのかもしれないが、記憶に残らない程度だったのは確かだろう。正直、主人公が目の不自由な人に試行錯誤しながら道案内をするという漫画を読んで学んだことの方が、実践的で鮮明に覚えている。

よって私は、特に高校などの学校で、そういった授業をもっと行うべきだと感じた。高校生になった今、小学生の頃に比べて、困っている人へ声をかけることに勇気が要るようになった。私に限らずそういった人は多いと思う。そこで、授業によって手の差し伸べ方をしっかり身につけることができると、手を差し伸べるための自信にもつながり、大きなきっかけになると考えたのだ。

何から何まで線引きを取り除こうと言う人、客観的なことを言って困っている人に手を差し伸べない人、気持ちはあっても手を差し伸べる勇気が出ない人は、まだたくさんいる。まず基本的な知識と根本的な理解による土台を確立させたうえで、今、なぜ線引きを必要だと思ったのか、またはなぜ不必要と思ったのかを考えたとき、私たちは誰一人取り残さない世界に近づくと思う。

 

 

 

 

 

横濱祐雅 横浜国立大学4年生

 

 

 

私は体育会サッカー部副主将として、絶対に曲げない信念が一つある。それは「誰ひとり取り残さない」ということだ。まず、私が副主将を務めるサッカー部について少し触れておきたい。部員は80名ほど、そのうち主将1人、副主将3人が幹部陣という組織体制の中、スポーツ推薦の無い国立大学ではあるが強豪私立大学に勝利し上位リーグへ昇格することを目標に邁進している。至って普通の体育会サッカー部である。しかし、最大かつ難題な特徴が一つある。それは「大人の監督がいない」ということ、つまり運営を全て学生主体で行っているということだ。公式戦への申し込み、他大学・OBへの連絡、スポンサー契約、会計管理やメンバー選考など多岐に渡る活動を部員のみで行っている。こういった環境だからこそ部員の主体性を育むことができ、試合に出るだけではない組織への関わり方を模索することができる。私はこの組織の副主将として、監督のような立ち位置を取りながらも選手として活動をしている。一見すると、一人一人が生き生きと活動できているように見える。しかし、試合に出られない60名ほどの部員がモチベーションを落とすことなく組織に貢献し続けることは非常に難しい。私自身、1年生の時に試合に関わることができなかったからこそ、モチベーション維持の難しさを知っている。そのため、副主将になり誰ひとりとして取り残さずにチーム作りをしようと決意した。前述の通り、監督のような立場であることで、トップダウンで部員に接することがこれまでの幹部の在り方だった。私はその接し方に疑問を抱き、「対話」を通してよりボトムアップの風土を醸成しようと考えた。まず全員と個別面談を実施し一人一人と対話をした。個別面談では、入部に至った経緯や、理想の将来像など、一人一人の想いと向き合った上で、中長期的な目標、具体的なアクションを一緒に言語化することで、主に試合に出られない部員の主体的な行動を促した。その中でモチベーションが下がってしまう原因が、短期的な目標を立てにくいことだとわかった。その原因に対して、短期的な目標を立てる機会を設ける必要があると考えた。そこで、月に1度上級生と下級生の1on1ミーティング制度を導入した。経験豊富な上級生と「対話」を通して、目標を言語化し具体的なアクションを考える機会を定期的に設けることで、試合に出られない部員のモチベーションが飛躍的に上がるとわかった。サッカー以外の活動にも積極的に取り組む部員が増え、組織体制の変革やスポンサーの獲得など、大学生の域を超えた活動が増えた。これらは無論、私の成果ではなく部員一人一人の成果である。しかし、「誰ひとり取り残さない」ということを心がけてチーム作りをしたことで圧倒的に部員のモチベーションが向上したことは確かだ。私は無事に大学を卒業することができれば、来年から社会に出る。取引先、上司、同僚、部下、家族や友人など、まずは身近で大切な人を取り残すことなく幸せにできる人になりたい。その幸せにできる範囲を広げていけるように成長していくことができれば、SDGsを体現できるようになると確信している。小さい頃からの生きがいであったサッカーを通して、「誰ひとり取り残さない」ということの大切さを学んだ。私はそんなサッカーというスポーツが大好きだ。

 

 

 

 

 

安野エナ(仮名) 横浜隼人高校

 

 

 

「誰一人取り残さない」この一見当たり前のように見えて解決することが難しい課題を達成するために私たちに求められることは、「おかしいと思ったことに対してNo!」を言えるようになることだと思います。

今この瞬間も、世の中にある様々な問題によって「取り残されている人」たちが多くいるのです。そんな人たちの存在に気付き、関心を持ち、おかしいと思ったことに対して皆で声をあげることが、私は一番大切であると私は思います。

私も中学生になるまでは問題に気がつかない無関心なうちの一人でしたが

中学校の平和学習を通して目を背けないで関心を持つことの大切さを知りました。

その平和学習では、1945年の広島長崎への原爆投下について学習しました。原爆や核兵器の恐ろしさ、残された家族の悲しみ、これらは今まで原爆投下の存在を知らなかった私には、思わず目を瞑りたくなるようなものばかりで、とても衝撃的でした。また実際に、広島に行き被爆者の方にお話を聞く機会もありました。その方は原爆が投下された後も後遺症に苦しんだといいます。しかし何よりも辛かったのは、火傷やケロイドによって差別を受けたことだと話していました。私は今まで人種差別、性別による差別などについては知っていましたが、まさか何十年も前に起こった原爆投下による差別で、苦しんでいる人がいる。という事実を全く知りませんでした。ですが、この問題に関心を持ったことで「誰も取り残さない」という課題に向けて小さな小さな一歩を踏み出せたような気がします。

どんなに小さくてもこの一歩が大切なのです。「私が関心を持ったところで何になるの。」そう思う人も多くいると思います。ですが皆がまず様々な問題について知り、苦しんでいる人や声をあげたい人に寄り添っていくことで、確実にそれは「誰も取り残さない」という目標に向かって大きく進んでいっているのです。そして被爆者の方々が少なくなっている今、二度と同じ過ちを繰り返さないために、私たちは原爆の体験をした方々の思いを受け継ぎ、後世に伝える役目と責任があると思います。

私はこの問題を、伝えてくれた先生にとっても感謝しています。SDGSについて学んでいく上で私の今後の課題は、もっと深く知ることそして、平和学習をしてくれた先生のようにそれを広めていく、シェアすることだと考えています。

 

 

 

谷本リリアン 兵庫県立大学 1回生

 

 

 

食肉を食べると喉がかゆくなり、その代わりに野菜が美味しいと感じるようになった私が、週に1日以上、意識的に動物性食品を減らす食生活を送るフレキシタリアンという菜食主義者の仲間に入ることは簡単でした。日本のベジタリアン率はベジウェルよると2019年の時点で5.7パーセントとなっています。環境保護を目的として菜食主義者になる人がこの数年で増加傾向にありますが、日本ではやはり少数派です。食事スタイルがひとつに定まらない今の世の中で、食事スタイルの多数派と少数派に関係なく「誰一人取り残さない」社会をつくるためにはどうすればいいのでしょうか。

 自分に合った倫理で消費活動をするという前提で、2つ案があります。1つ目は多様性を受け入れることです。私がまだ実家暮らしをしていた頃、フレキシタリアンは肉好きな家族の中で一人だけでした。急に始めたこともあって、最初のうちは「お肉を食べないのは体に良くないよ」「野菜ばっかり食べていて楽しいの?」などと言われていました。私はフレキシタリアンの食事スタイルが一番体に合っていると実感していたのであまり気にせずに、肉類の代わりに豆腐を食べたり、季節ごとに変わる近くの畑の野菜を買って料理をしたりしていました。家族というものは長い時間を共に過ごすので、この光景に慣れたのか、なにも口出しをしなくなり、さらにKALDIなどの店に寄ったときにヴィーガン用の食べ物を買ってきてくれるようにもなりました。この時に私は、親に自分の考え方をちゃんと受け入れてもらえたことを感じました。「多様性を受け入れることが大事」だと過去にたくさん言われてきましたが、実際に自分が少数派になったときの認められた瞬間というのはとても嬉しいものです。自分の考えを持ったうえで、他人の考え方も肯定的に受け入れることが大事だと考えています。2つ目は、共通の目的を持ってエシカル消費をすることです。「菜食主義者は環境にやさしい」ということをよく耳にしますが、だからといって嫌々菜食主義者になってもSDGsが目指している、すべての人が「幸せ」を感じることができる世界にはなりません。自分の体質や生活に合わせた食事スタイルをとる中でエシカル消費をすることが必要です。菜食主義者であっても、そうでなくても「排気ガスを削減する」や「貧困と飢餓をなくす」という共通の目標は持っているはずです。エシカル消費の例として、私はロッカー型自動販売機や近所の八百屋で野菜や果物を買うことを意識しています。自分が住んでいる地域の食物を買うことで地産地消の推進や、納品をするまでに発生する排気ガスの削減につながります。菜食主義者でなくても、最近はオーガニックの食べ物を買う人が増加していたり、自粛のこともあり家庭栽培を始めた方もいたりします。環境問題の解決のためにしている行動ではないかもしれませんが、このように食事スタイルが違っても最終的に世界中の人々が持っている共通の目標の達成に進むことはできます。もちろん消費する側も倫理的に考える必要がありますが、商品を提供する側も私たちに多くの選択肢を与えることが重要です。スーパーやレストラン、食堂に行ってもヴィーガンやベジタリアンの方も食べることができる商品やメニューがなかなか無く、日本は海外ほど菜食主義者の食事が浸透していないことに気付かされます。消費する側は自分に合った消費活動を通して問題解決に向かい、提供する側は消費者の消費活動を可能にするために選択肢を多く設けることが必要だと考えています。世界中の食事スタイルの多様性を肯定的に受け入れ、そのうえでエシカル消費を通して共通の目標を達成するように行動することで「誰一人取り残さない」社会につながると思っています。私たちにはできるはずです。多様性を活かすことが重要とされている時代に生きているのですから。

 

 

 

mumu 介護職員(20歳)

 

 

 

私はFSGS(巣状分節性糸球体硬化症)という腎臓病を持っている20才です。

病気が判明してからは4年目です。

私の病気は一般的に指定難病であるネフローゼ症候群という病状を来す疾患です。

しかし私は、指定難病であるネフローゼ症候群を来していない&低形成腎による生まれつき腎臓の働きが良く無い為に起こる2次性FSGSという状態で今の難病法では”難病”とはなっていません。

私の様に国としては難病に入る疾患でも、基準の厳しさで難病と認定されずに治療費の自己負担や、同じ疾患でも症状の違いで治療、対処方法に違いがある為に同じ疾患の人とのコミュニケーションが取れないという方と何人か出会いました。

〜そんな「制度の格差」について〜

【私の願い】

①指定難病とされる方は軽い、重い等の症状、現存の難病とされる基準関係なく、「難病です!」と診断された全ての人が「指定難病受給者証」を受け取れ医療格差を生じさせない。

②今の難病法では”原因不明”の方で尚且つ基準に当てはまる方しか認められていないのは”格差”だと思う。

①の制度が難しい場合には最低限この様になって欲しいです。

【難病法に含まれて欲しい!今は難病とされない2次性疾患】

原因不明、先天性の体の失われた機能がある、遺伝子疾患等は、そもそも治療法も確定されていない状態で現在の医学では治りません!

そんな中、

「先天性の体の失われた機能」、「遺伝子疾患」は今は原因が分かっているから”難病”ではないとされていますが、その人も難病法として”難病”と認定されて欲しい。

生まれつきの体の機能が、服薬とかで普通の人と同じ働きに戻りますか?って言われてもそんな事は現在の技術では出来なく悪いなりの機能を悪化しない様にするしかありません。

〜例えば、1例〜

私は、20才。

同年代の人は腎機能90〜100%だそうです。

しかし、自分の腎臓は慢性腎臓病に当たる6割という同年代の人から見ても腎臓が働いていません。

◎その原因は?

「低形成腎」という生まれつき腎臓の体の要らない物を処理する事が上手く出来ず…腎機能低下へとなっていく疾患の疑いがとても高いです。

検尿にて異常が始まったのは中学3年。

病名が分かったのは高校3年の時。

低形成腎とハッキリ診断されたのは社会人だった為に私はありませんでしたが、「低形成腎」自体も”小児慢性特定疾患”は、あるそうですが、”指定難病”としては大人になると無く、一気に社会から健康ですねという扱いなります。

 

また、他に私には先天性の感音性難聴で手帳4級があり両耳に補聴器付けて生活してます。

ここ数年には片耳難聴という方の事を知る様になりました。私は手帳がある聴覚障がいですが、片耳難聴の方はコロナ禍の今、現在は特にもマスク社会の為に片耳が聞こえにくいだけでも日常生活に困難があります。しかし、手帳が取れない片耳難聴や軽・中度難聴の方は高額な補聴器の購入に躊躇われる状態だそうです。

そんな「制度の狭間」に残されているその様な人を1人でも減らして公平な制度を受けられる環境が受けられる世の中になって欲しいです。

 

 

 

 

 

岸田真幸 長岡技術科学大学大学院5年一貫性3年

 

 

 

誰ひとり取り残されないために、今何が必要なのであろうか。私は、自由なき孤独をなくすことが必要である。皆さんは、マッチ売りの少女の話をどこかで聞いたことがあるだろう。本によっては内容が少し違うかもしれないが、マッチ売りの少女は、少女がマッチを売りに出たが、誰一人として買わず売り物のマッチを燃やして明るい夢を見て、最後に少女が天国へ昇っていく悲しい話である。ここの話から2つ論点として挙げる。1つ目に、なぜ少女がマッチを売らないといけなくなったのか。2つ目に、マッチを売っている時の描写である。1つ目の理由は、妻と親を亡くした父親が辛さゆえにお酒に逃げ、幼い少女を毎日こき使っていたからである。人類にとって家族は一番信頼できる集まりであり、身近に話ができる中である。しかし、幼い少女は唯一の家族である父親にも見放され辛く苦しい中でも父のためにと思い、堪えてきたのであろう。一方、父親は少女の自由を無くし孤独にさせてしまった。もし、父親が少女に目を向けていたらと考えると話が変わっていたかもしれない。2つ目の売っている時の描写についてであるが、悪い点と良い点が描かれている。悪い点は、勢いよく走って来る馬車に引かれそうになり、怒号を浴びせられる点と、履いていた靴を男の子に盗まれる点である。これらの点から、少女が住んでいた街はかなり貧しいことが想像できる。一方、良い点は一人の紳士が心配して声をかけた描写が描かれていることである。その紳士は、靴を盗まれ困って座り込んでいる少女に対して声をかけ心配してくれた。作中に少女を心配してくれたのが、この紳士のみである。私は、作中では注目されないこの紳士の対応こそ、人として当たり前ではないかと感じる。

 ここで、現代社会に置き換えて考えてみる。2020年初めからコロナウイルスの影響により、多くの自治体が外出自粛や学校閉鎖等を促していた。しかし今現在2021年には第4波や変異種といったコロナウイルスのニュースが飛び交い、未だ猛威を振るっている。ここで注目したいのが、新生活で別の地域に住む学生や社会人である。在宅授業や在宅ワークにより平日過ごすと、1Kのアパートが自分の生活環境であり、それ以上外に出ないことが大半となるだろう。たまに買い物のために外出したとしても、感染防止のためや新生活で友達ができず、一人で行動することが多いだろう。以上の生活を考えると、他者とコミュニケーションする場がないことが分かる。また、生活の大半が液晶と睨めっこをする人が多いかもしれない。もしくは、液晶とお話をする人もいるかもしれない。現代社会では、皆が障がい者であり、取り残されていると感じる。この問題点は誰一人として、その人のことを気にかけていない点にある。もしその人がいなくなっても、気にする人はいないかもしれない。それが冒頭で述べた自由なき孤独に位置するものである。コロナウイルスの影響により自由が失われるのは仕方がないことかもしれないが、孤独はいくらでも回避することはできると考える。例えば、ごみ捨ての際に地域の人に挨拶や、スーパーやコンビニで買い物した後にお礼の一言を言うだけでも違うだろう。これは、孤独にならないための自己防衛でもあり、他者を孤独にさせないための措置でもある。ある意味では、昔の生活では普通のことが、栄えた都市では普通でなくなったのかもしれない。

 今後、コロナウイルスにより生活の自由が奪われるかもしれないが、『自由なき孤独』の孤独を無くすためにも身の回りの人たちに声をかけてみるのもいいかもしれない。物語は物語の中だけにしなけらばならない。そして、私たち学生が老若男女・障がい者問わず協力し新しい自由を創造していく必要がある。

 

 

 

 

 

岡田彩花 名城大学薬学部4年生

 

 

 

私は、社会から取り残されたくないと思う。

そして、誰一人取り残してはならないとも思う。

けれども、私は「誰も取り残さない」為に平等や公平性の大切さを述べるわけではない。

 

意味が分からないと思われるかもしれないが、それは”取り残さない”という言葉をどう解釈し捉えるかが鍵になると考えている。

当たり前だが、地球人がみな同じ生活水準になって、子供からお年寄りまでが全て同じ扱いを受けたとしても、SDGsの真の目的は達成されないだろう。

私は、みんなと同じでいる必要なんてないと考えている。

これまで生きてきた中で何度も”ふつうが良いよね。”とか”みんなそうだからあなたもそうしなさい。”ということを言われたり、学力に関しても平均点を目指す人が多くいたりすることに違和感を持ってきた。

 

均一や同一を理想とする世の中であれば、取り残されない為に本人が無理をしたり必死になったりしなければならない。

取り残されないことよりも、取り残されないために自分を偽ったり他人と競い合うほうが問題だと私は感じる。

取り残さないことは、大多数の意見や先進国の普通、今の当たり前を押し付けることではないと思う。

私が必要だと考えるのは、取り残されそうなその存在を「忘れないこと」及び「気づくこと」であり、つまりは”切り離さないこと”だ。

全てを一律にすれば良いわけではない。

文化だって、国によって違うから面白いし、

男女・年齢の違いによって考え方が違うからこそ社会が多様化する。

不登校のように一見取り残されているように見えるようなこともあっても、行かないのも選択肢として勇気あることとして認めることも必要だと思う。

 

そもそも、なぜ長く続いてきた人類史の中でSDGsが推進されるようになったのだろうか。

それは人間が他の種とはかけ離れた知恵と技術を授けられた故の責任であり、同時に他の種と同じように地球という星に存在していることに対する必然であるからだろう。

弱い人々だけでなく、人間が気が付かないうちにふちへ追いやってしまった動植物こそ取り残してはならないと私は思う。

進化や発展は便利や効率を求めることではなく止まることのない変化であり、私達は地球が永久に発展し未来を迎えられるようにしなければならない。

 

その前提でSDGsの17項目を私なりに見てみると、項目3の健康と福祉や項目4の教育、項目14の海の豊かさや項目15の陸の豊かさ、そして項目16の平和などについては、絶対的で普遍的に達成されるべき目標であると思える。

 

人間も動物も植物も、お互いが助け合うことで世界は回り続けている。

何も特別なことをする必要はない。

環境に優しいことは人間にとっても優しいことであり、例えば農薬の使われていないオーガニックの食材を買ったり、早寝早起きをして少し節電したりといった簡単なことでも実践できるだろう。

私は更に、健康と福祉、教育においては子ども向けに食育のイベントを企画運営したり、

自然の豊かさにおいては、植物園のボランティアに登録したり、

平和においては戦争の語り継ぎのボランティア活動や戦争をテーマとした朗読会に参加したり、などの形でも実践している。

自主的にこれらの活動をして、私は自分で感じて・考えて・動くことの重要性を学んだ。

 

きっかけはそこら中に散らばっている。

隠れて見えないことや雑音に紛れて聞こえないものに気がつき、自らの頭で判断し、何か行動に移すことで、今までとは違う世界を知ることができるのだ。

問題があると分かっていても、自分には関係ないとか自分ではどうしようもないと決めつけず、

一歩踏み出してみることは必ず意味があると思う。

私の行っていることも、すぐに社会を変えることはできないけれど、私の目の前の人の笑顔が、巡っていったら世界の人々を笑顔にできるかもしれないと信じている。

私がした親切が、繋がっていったら地球が平和になったら良いなと願っている。

私は私にできることを探し、続けることで輪を広げていきたい。

 

このグローバル化が進み様々な情報が溢れている世の中で、取り残しとは何なのか、あるいは進化や発展とはどういうことなのかを改めて議論する必要があると思う。

特に今日を生きる我々は、コロナ禍という状況を活かして当たり前を見直し、本当の自分自身、本当の自分の生活を身つめ直し、自分らしさを取り戻す機会だと捉えるべきだろう。

 

世界は一つになって一人一人の幸せを守らなければならない。

 

 

 

 

 

喜田和希 横浜国立大学3年生 都市科学部

 

 

 

私はあまり人と関わることやコミュニケーションが上手ではないということから、しばしば社会から取り残されているという感覚に陥ることがあります。この感覚に陥る理由として、人と関わるということを考えるときはいつも心が締め付けられるため外に出て買い物をする際に人と関わることを考えてしまい楽しいという感覚が得られなかったり、ほとんどの大学生が行っているアルバイトを始める勇気がなかったりということが考えられます。社会から取り残されるという感覚に陥る例としてあげたものは、恐怖に打ち勝って行うことができている人も多く存在していることから、他人から私を見るとただただ自分に甘えていると感じられても仕方が無いと思います。また、私は人とコミュニケーションを取る前に他人が自分のことをどう思ってしまうのかということを強く考えてしまい、特に社会から取り残されていると感じている私は自分のことをネガティブに考えてしまうため他人からの評価は常に低いものなのだと考えていまいより人と関わることができなくなってしまっているということが現状です。社会から取り残されている原因の大部分が自分の行動によって変えていくことができるということは承知の上なのですが、このような気持ちを押し殺して生活をしていて社会からだけではなく自分自身から心が取り残されているという人々もいると思うので、少しでも社会に近づくことができる間接的な手助けがあればいいなと考えています。  間接的な手助けとして私のようにコミュニケーションが苦手な人たちが少しでも自信を持つことができるような情報をその人たちだけではなく多くの人たちに届くように発信していくことが大切だと考えます。ここで最も大切なのは多くの人たちに届けるということだと考えています。その理由としてはこのような人たちがいるということが大きく取りあげられることで今まで閉じ込めていた自分たちの気持ちを意見しやすい世界となり、その意見を見て自分だけが人と違うのではないことやこのような人がいることが認知されたことで自分への嫌悪感を少し和らげ社会へと溶け込む大きな一歩へとなるのではないかと考えているからです。  ここまでで私が人との関わりやコミュニケーションが苦手な自分を含む人たちについての意見を述べてきました。このような人たちの中には社会から取り残されていることに疑問を感じていない人もいると思いますが、やはり社会へと溶け込みたいまたは自分らしさを出したいがこれらのせいで諦めてしまうというような人が大多数だと思います。このような人たちが少しでも不安を減らして社会で生活していくことのできる世界になっていければいいなと感じます。

 

 

 

 

 

呉紀鴻 京都外国語大学

 

 

 

私は2017年の夏休みに、中国にいる家族と共に世界遺産である広西省桂林市を再度訪ねた。幼少時、一度訪問したが、その頃は透明度が高く川の水が澄んでいたが、もうその透明度はなくなり衝撃を受けたことを覚えている。中途半端な整備計画、利益を優先する旅行社などによる環境問題、教育の遅れなど問題がある街となってしまっていた。このような問題は、中国にとって氷山の一角に過ぎない。社会主義国家にあって経済発展を何よりも優先する中国は、多くの国内問題を置き去りにしてきたといえる。なかでも、発展著しい臨海部とまだまだ経済発展の恩恵が行き渡ってなく、教育が遅れている農村部との格差は、非常に大きな国内問題である。中国国内だけでなく、アジアそして世界に目を移せばさらに問題は大きい。

私は、日本留学を決意し高校1年時より留学した。日本に留学すると母国・中国やアジアについて冷静に考える良い機会となった。日本に来て驚いたことは、小学校から環境問題や貧困問題を考える授業があり、SDGsを実現するための取組みが小学生から大学の講義まであること、学校のみならず地域社会やボランティア団体まで官民あげて協働で行っていることに驚いた。

「持続可能な開発目標」は今のための今でなく、未来のための今と捉えて単なるスローガンではなく、1人ひとりが、どのように実践していくかが大きな課題であろう。2030年の世界はどうなるのか、なかなか予測できない。しかし、「Leave no one behind」を達成するために、教育を誰にも平等に受けられるのは不可欠だ。この数年間、あらゆるレベルで教育を受けられる機会が改善されている。しかし、正解中で学校に通ってない子どもは約2~3億ともいうデータがある。また子どもの権利条約を批准している国でも、児童労働・人身売買など目を覆いたくなるような厳しい現実も直視しなければならない。このようなことを考えるとSDGsの目標の中でも4の「質の高い教育をみんなに」というテーマは、最も重要な課題であろう。「教育」を受けなければ、職業を選択することができず「貧困の再生産」に繋がり、貧困から脱却できなくなる可能性が高くなる。人間は、生まれてくる国や境遇を選ぶことができない。新型コロナウイルスの蔓延も、文明や文化が発達した現代において人類に大きな課題を呈した。このようなパンデミックが起こるとワクチンを含めて、途上国に大きな影響が出ることになる。先に豊かになった先進国が、途上国を含め世界の中の課題を人類の共通の課題として検討すべきであろう。

2021年5月12日に、アメリカのバイデン大統領は「アメリカ・ファミリー・プラン」提案を再度推進し、米国での無料の公的教育を12年から16年に延長することを発表した。これには、2年間の公立就学前教育と卒業後の職業教育がこれに含まれる。教育を受けることにより、人は知識だけではなく、しっかりとした倫理観を持つようになるのである。学ぶことは大切なことである。そのため、教育をどの国にも浸透させることは、地球の未来のためにも不可欠なことであろう。人間は教育を受け知識を得られれば、自由や多くの権利を手に入れることが可能になると考える。人権問題にも解決の第一歩ではあり、そして貧困削減や紛争、自然災害などから人々を守ることにつながるのではないだろうか。

日本も大きく近代化させた明治維新以降、教育改革があった。教育力で格差が縮まり、急速な近代化、経済成長を遂げたのである。つまり、教育は人間を成長させるだけはなく、経済成長にも重要な役割を果たすのである。逆に、アジアやアフリカの諸国の中には、教育が行き渡っておらず、生活に困窮しているところも多い。

 私は高校から日本に留学生するという好機に恵まれ、高校時代も多くボランティアを経験した。インドネシアへの支援活動にも微力ながら参加した。日本の高校で、アジアを中心にした多くの留学生とも出逢うことができた。生まれた国や文化の違いを乗り越えて3年間を過ごした。今春、京都の大学に進学し、教育の力を信じ日本語教育を学んでいる。ここでもまた世界各国から集まった留学生とも国際交流を通して国際理解を深めたいと考えている。4年間の中で、環境問題も貧困削減などの国際協力もできることから挑戦したい。その中でもSDGsの中で最も重要と自らが考えている教育による支援活動をしていきたい。コロナ終息後は、大学院に進学し、留学生として学んだ経験を活かし、国際協力を実践すべくまだ教育が行き届かないアジアやアフリカの国を訪ねて活動していきたいと決意している。

 

 

 

小笠原寛太 民間企業

 

 

 

2021年東京にてオリンピック・パラリンピック2020がまもなくはじまる。

 

とくにパラリンピックだと障がいをもった方が参加することができる。

パラリンピックとは、国際パラリンピック委員会が主催するもので、身体障がい者(肢体不自由など)、脳性麻痺、視覚障がい、知的障がい)を対象とした世界最高峰の障がい者スポーツの総合競技大会とされている。

起源としては、1948年、ロンドンオリンピック開会式と同日に、イギリスのストーク・マンデビル病院で行われたストーク・マンデビル競技大会より、戦争で負傷した兵士たちのリハビリテーションとして「手術よりスポーツ」の理念で始められたとされている。

 

パラリンピックの目的として、そのゴールとして「パラリンピックムーブメントの推進を通じてインクルーシブな社会を創出すること」と示し、すべての人が共生する社会の構築を目指す、としている。

 

また、パラリンピックの価値として、勇気(マイナスな感情に向き合い、乗り越えようと思う精神力)、強い意志(困難があっても、諦めず限界を突破しようとする力)、インスピレーション(人の心を揺さぶり、駆り立てる力)、公平(多様性を認め、創意工夫をすれば、誰もが同じスタートラインに立てることを気づかせる力)があると言われる。

 

しかしながら、オリンピックとパラリンピックと区別した表現により、「障がい」と「非障がい」と区別していることが目に見えてくることもあるといえるのかもしれない。

 

障がいは損失を伴い、障がい者が非障がい者に依存している。さらには「障がい」というワードが恐怖心、偏見、誤解を招くとも言われている。障がい者への偏見や差別は研究でも明らかであり、また障がい者への虐待も世界各国で存在しており問題視されている。

 

私たちも実際に街中で障がいをもった方を目にすると無意識に避けてしまうところもある。

「偏見やステレオタイプをもたないようにしようとしても解消することができない」と言っている方もいた。

 

他方、ある番組にて私は障がいをもっている方が、最近はテクノロジーや技術の発展から「障がい」と「非障がい」の差が縮まってきていると話していることを目にした。

例えば、例を挙げると目の悪い人がメガネをかけることにより日常生活の支障を軽減させるなど、技術により障壁を減らすことができるようになったともいえる。

 

「障がい」と聞くと私たちは偏見やステレオタイプをもち、ネガティブな感情や劣っているとも捉えてしまう傾向にある。

それもオリンピックと比較してパラリンピックが人気がない一因なのかもしれないし、オリンピック、パラリンピックに限らず選手はプロ意識をもってチャレンジしているのだから精一杯応援したいものであると私は思う。

 

せっかくコロナ禍ではあるが、オリンピック・パラリンピック2020が東京で行われるのであるからにはオリンピック・パラリンピックへの考え方、とくにパラリンピックへの考え方、「障がい」とは何かについてせっかくの機会なので、みんなで考え直すきっかけになったらいいと思う。

 

そして、パラリンピックの目的とされている、「インクルーシブな社会を創出すること」が推進されたらいいと考えている。

さらには人種や障がいの有無にかかわらず、あらゆる面での違いを肯定し、受け入れてお互いに認め合える社会であることを願うばかりである。

 

謝辞:今回の論文を執筆するにあたり友人である名古屋大学大学院の近藤裕基にアイデアをいただいたことで書き上げることができ、改めて感謝申し上げます

 

 

 

淺野智恵 羽島市立竹鼻小学校3年生

 

だれ一人とりのこさないは、羽島から

 

 

 

私は小1から、エコを考え、SDGsの17の目標のために、自分は何ができるかを考えてきました。小1では、「青いほしをまもろう」というタイトルで、40人にインタビューして、地球のためにできることを考えて、答えてもらい新聞にまとめました。小2では、未来の夢として、「世界中の子供達で地球エコサミット」を描き、子供でも何かチャレンジしたいと考えました。JICA中部に学びのために訪れた時、世界には、水道から水が出ない国があることを知り、世界の水はどうなっているのか話し合ってみたいと考えたからです。また、小2の時、1年間子供食堂に通い、40人の利用者にアンケートをとり、利用者の思いや子供食堂の将来を探り、統計新聞にまとめました。小3になり、7月に熊本や下呂の水害の写真を新聞で見て、衝撃を受け、弟と一緒に何かできないかと話し合い、夏休みには、「防げ水害!ごう雨による水害とダムの関係」のタイトルで、木曽三川おける水害ハザードマップとダムマップをまとめることにチャレンジしました。その作品で、徳山ダムの取材をしている中、最近の水害は地球温暖化によるものだと教えてもらい、地球温暖化をくい止めるめるために何かしたいと思い、「地球の熱を下げよう」をテーマに、弟と同級生の仲間や、地元の高校生や町の人、200人ほどの意見をアンケートにまとめ、統計新聞を作りました。お母さんからは、「ハチドリのひとしずく」の話を教えてもらい、自分たちも自然と生きていくために、できることをやって、全国の皆さんにも発信することにチャレンジしました。全国の皆さんにも、一緒に考えて行動できる仲間ができたらいいなと考えたからです。  今はコロナ禍で、外出することも、友達と思いっきり笑ったり、歌ったりすることが十分にできません。でも、マスクをしていても笑顔だと分かります。私は、2045年の未来を想像したとき、みんなが笑顔だとうれしいです。 私の両親は共働きで、父の帰宅は深夜のために、家族全員で晩御飯を食べることができません。そんなとき、子供食堂を知り、地域のおばさんやおばあさんたちと一緒にご飯を食べる楽しさを知りました。 そこで、一つ目の夢です。将来は、統計の調べで分かったように、学校などに、地域の人が集まり、交流できる場所としたいです。  二つ目の夢は、水害などで命を落とすことがないような安全で安心な羽島になることです。羽島の竹鼻で生まれた円空のお母さんも長良川の洪水で亡くなっています。木や森をもっと多くして、自然災害の少ない羽島になっていてほしいです。自然のことをもっと勉強し、自然いっぱいの羽島であってほしいです。私の暮らしている羽島はダムがあるおかげで、水害の少ない地域となっています。しかし、徳山ダムを取材している中、自然を壊しているのではないかという疑問も生まれました。もっと緑を増やして、私の子供達と緑の中、笑顔でご飯が食べたいです。  3つ目の夢は、羽島市で、楽しく生活ができることです。私の父は、通勤で90分かけて愛知県に通っています。働ける場所、学校、病院、スーパー、図書館、映画館など歩いて1時間以内で行くことができる羽島になっていてほしいです。時間をもっと大事に使って、家族の時間を大切にしたいからです。  4つ目の夢は、羽島のレンコンと円空仏を未来の子供達にも残したいです。小二では手作り絵本「円空・やさしいひまわり」を作り、羽島を元気にしようと考えました。今年は、手作り絵本で「ハスヒメとレンコンたろう」。を作り羽島産で私の大好きなレンコンチップスをアピールしました。円空ロードとレンコンのある笑顔の羽島にしたいです。

 

白水秀 早稲田大学人間科学部 4年生

 

「誰ひとり取り残さない」と云う基本精神を目にして正直、ホッとした。何故なら私は常日頃(自分は社会や世間から取り残されている)と感じているから。大学受験の際の受験勉強が原因で精神を病んでしまった。高校の時も難関大学進学コースを選び勉強第1の生活だったのでストレスを抱えていた。高校の時も過呼吸気味で高校を辞めたいと思った事も一度や二度とでは無い。実際、不登校になった時期も有った。初めは自転車で通っていたが段々、登校出来なくなり母の車で毎日、送迎してもらって、ようやく通学出来た。心が辛くなる時が有るので高校の時から心療内科に通っている。大学生になって初めて病名が明らかになった。統合失調症で障害者手帳も持つ様になった。前々から音や光に敏感で音を聞こえにくくするイヤーマフや耳栓をして高校に通っていた。しかし高校の時の担任の先生は、あまり理解を深めてくれず「授業中に耳栓をするとは、どういう事だ!僕の授業を聞きたくないのか?」と注意された事も有る。「耳栓をすると生徒のザワザワとした話し声が殆ど聞こえなくて先生の声だけを集中して聞ける」と答えたが、なかなか解ってもらえず数人に相談して、やっと解決した。世間から取り残されている感じは日常的に感じる。悲しくて死のうと思った事も何度も有る。カッターナイフでリストカットもした。騒ぎを起こして警察の世話にもなった。でも死んでしまったら家事で忙しいのに送迎してくれた母に申し訳ない。そして婆ちゃんにも申し訳ない。一人暮らしの婆ちゃんの家に高3の時に居候させてもらった。80歳の婆ちゃんは肩が痛いのに僕の下着や高校の制服を洗濯してくれたり弁当や、ご飯を作ってくれた。荒んで夜遊びして夜中に帰っても黙って見守ってくれた。ただ余っ程、酷い事をした時は叱ってくれた。婆ちゃんの家に転がり込んだのは父と派手な喧嘩をした事が主な原因だ。不器用な僕は上手く生きられない。しかし世話になった婆ちゃんや母の為に前を向いて生きたい。もうすぐ大学を卒業する。世間から取り残されていると云う考えを少しずつ棄てて、これからは人に優しく接したい。何故、自分は生きているのか?生かされているのか?人に優しくすれば生き甲斐になり生きている意味が見つかる様な気がする!

 

匿名 神奈川県立横浜国際高等学校 2年生

「誰ひとり取り残さない」はSDGsの基本理念だ。SDGsのターゲットは、気候変動(地球環境)、紛争(国際情勢)、貧困(国家社会)、ジェンダー(人権)など多岐にわたる。国連機関・政府・企業からは、SDGsに関する発信のなかでしばしば「未来社会を担う若者たちに頑張ってほしい」という声が聴かれる。私はそのメッセージに違和感や戸惑いを覚えることがある。負の遺産となりかねない未来が私たちに突きつけられ、追い立てられているかのような気持ちにさせられるからだ。「なぜこのような地球環境や社会になったのか」という本質に向き合い、深く問う発信は少なく、私たち若者の視点や気持ちに果たして目が向けられているのだろうかと懐疑的になることさえある。環境活動家のグレタ・トゥーンベリ氏はとかく発言の過激さばかりに注目されがちだが、地球環境が危機にさらされた背景や経緯を問題視する姿勢には納得がいく。緊急性をともなう、前例のない地球規模のリスクだからこそ、SDGsの問題の根本を掘り下げ、世代間で問題認識をより共有したうえで、未来社会の設計図をともに描く。それこそがSDGs活動の立脚点ではないだろうか。
SDGsにおける諸問題は、グローバル、国家、民族、個人という枠組みとつながりのなかで解決の糸口が模索されている。諸問題において、気候変動には資本・商業主義の発展が、紛争には歴史・文化的背景が、貧困には社会保障制度が、ジェンダーには宗教的ドグマなどの要因が色濃く影響している。またイデオロギーや覇権主義という視座における対立構造、人種やジェンダーという視座におけるマジョリティ・マイノリティや多面性が内在する。それら要因による交互作用が絡まる様相は複雑極まりないがゆえに、今後のSDGs活動への影響懸念は想像に難くない。たとえば、地球環境に負荷を及ぼす経済活動が途絶えたとき、その仕事に従事している人はどう生計を立てていけばよいのか。トランスジェンダーの競技選手はどのような競技カテゴリーであれば参加が認められるのか。SDGs実現の先にある多様性を重んじた社会における平等性の在りかたを議論するとき、どのような制度やルールを確立すれば公正性が保たれると言えるのだろう。私たちはSDGs活動後の新たな課題も予見しなければならない。その課題解決に継続的に取り組んだ証こそが、今から数十年後の若者たちへ託されるメッセージであり、それが未来社会の設計図を成してくるのだ。
グローバルにおける均質性とローカルにおける多様性が連動し同時進行するなかで、新たな対立や格差を引き起こさない社会は果たして実現可能なのだろうか。私の母の母国であるロシアにはかつて、社会主義国家時代に「誰ひとり取り残さない」社会があった。祖父母からは、生活は質素だが雇用、住居、食料、医療、教育で国民は皆、平等な機会が与えられていたと聞く。その一方、国際社会のなかで冷戦と呼ばれるイデオロギーの対立があるなか、社会主義であるがゆえに、国家は民主主義に約束された自由な多様性に抵抗し続けた。社会主義により市民は誰も取り残されることはなかったものの、それは国家統制によるものだっただけに、市民社会が自由を獲得したとき、社会主義は求心力を失った。その社会的変容を振り返ったときに、私は「誰ひとり取り残さない」という理念を具現化するには、国家統制や政府主導による力ではなく、市民の自発的なコミュニティ形成の実現をその拠り所にすべきと考える。市民がコミュニティの一員であることを自覚し、他者の人権を尊重し守りたいと願う気持ちを育み、共通の価値観に合意したときに、共生化社会は機能する。市民の主体的・協調的な経験によるボトムアップこそが、誰もが安心できる共生化社会、つまり「誰ひとり取り残さない」社会を実現するための道筋ではないだろうか。
私が生まれ育った横浜には、多文化共生を推進する活動がある。私には将来、その活動に参画するという目標があり、現在は外国籍の小学生の学習支援ボランティア活動に参加している。多様性をもつ市民が互いの人権を尊重し合い、幸福でいられる共生化社会を実現するために、横浜の独自性を活かしたコミュニティ事業や経済支援に関わっていきたい。そして、持続可能なコミュニティのモデルケースとして、横浜を他地域あるいは海外のコミュニティとも共生し合える社会へと導く市民活動を展開したい。今後の学業においては、海外にあるさまざまな共生化社会、またコミュニティへの帰属意識が醸成されにくい民族、文化、社会構造について学び、短絡的な解決に走るソリューショニズムのような考えかたによることなく、「誰ひとり取り残さない」社会の実現にチャレンジしていきたい。そのような活動で得た知見と意義を次世代にも受け継いでもらえるよう、私たちの世代がもつ責任を果たしていきたい。

入江ひなた 横浜国立大学 1年生

私は途上国支援に関心があり、そのことについて学びたいという思いで大学も選びました。しかし、「支援」という言葉を使うことに抵抗があり、たいてい口に出すことをためらってしまいます。なぜなら、「支援」や「援助」といった言葉の裏には、「支援する/される」という二項対立的な上下関係が暗に示されていると感じるからです。一般に先進国と呼ばれる日本に住む私の「助けたい」という気持ちは、無意識のうちに自分が理想とする生活を相手も享受できるように調整する、自己本位で高圧的な行動になってしまうのではないかという不安があります。そんなことをしたら、私的偏見にまみれた枠に相手をはめ込み、相手の個性を殺すことになってしまいます。たとえこの方法で相手国が発展できたとしても、他国や埋め込まれた枠組みを目標に据えることで永遠とそれ追い続ける形になり、上下関係を解消することは難しくなるでしょう。それを改善するには、支援する側が方針を決めて提供するのではなく、課題を抱える側が自発的に、必要なことを訴えることができる環境が必要です。すべての国が対等な立場にあって、問題が起きた国は遠慮なく「助けてほしい」と声をあげることができること。その課題に対して世界全体で知恵を出し合い議論しながら取り組み、時がきたら助けの手を引くことができること。そんな相手を思いやる良き隣人としての関係を築くことが重要だと思います。
 現在、全世界が新型コロナウイルスという脅威にさらされています。世界中が共通の問題を抱えているのです。それなのに「ワクチン先進国/後進国」、「あの国の政策は失敗だ」「我が国の政策は他国より効果を発揮した」などと、自然と他国との差別化を図って序列を作り、新たに「取り残された国/人々」を作り出しているよう見えます。国内を見てみても、途端に始まったニューノーマルな生活に息苦しさを覚えつつも、なかなか声をあげられずに気付かれなかった方々がたくさんいます。SDGsの注目度も高まってきている今こそ、世界の視点を変えるべき時ではないでしょうか。
しかし、それを国民一人一人が自分事として意識することは難しいのが事実です。私自身もそれを実感し、思い悩むことがあります。例えば、肉食文化が人々から穀物や大量の水を奪っていることを知識として持っていても、自身の食生活は結局変わらず、肉のおいしさから離れることができません。世界の食糧問題に関心があると言いつつも、飽食の象徴ともいえる食べ放題に行きたいと思ってしまいます。世界には勉強したくてもできない人がいると分かっていても、小、中、高校の勉強は嫌いでした。この原因は、持っている知識が知識のままで終わり、実感を伴っていないことにあると考えています。一国内でも、人と人の関係でも、同じことが言えます。だからこそ、この大学4年間であらゆる世界に飛び込み、「体験する」ことを大切にしていこうと思います。
「取り残される」という言葉はあるものを基準とするから生まれるものです。「取り残されない」が必ず存在します。ヒトとして生存するために必要な食べ物と水、そして人間として生きるための人権・個人の尊厳の容認は、世界中の人々に対して等しく与えられるべきものです。これを享受できない人々を救うのは全世界の義務だと言えます。しかし、それ以外の教育や文化といったことに世界共通の基準を設けることは困難です。誰も取り残されないように基準を設けたつもりでも、逆に基準を満たさないことで、自分は不正解だと思い劣等感や疎外感を感じる人が生まれてしまう可能性もあります。もしすべての国や人そして生き物が同じ目線で語りあえるなら、そこからこぼれ落ちることはないはずです。一人一人がみんな違う、という認識をもち、それを認め合うことが共生の第一歩につながります。違いを認めることは、違いの存在を知ることなしには始まりません。その知識を体験に変えることはもっと重要です。その一歩として、現在私は、フェアトレード団体や留学生との言語交流、多文化共生を目指す団地のプロジェクトなど、できる限りの活動に挑戦しています。私の知らない世界はまだまだあるはずです。たくさんの人、モノ、コトに出会って、違いを体験し、実感を伴った行動をとれる人になりたいです。

猪俣悠介 横浜国立大学 学部3年生

SDGsについてのウェブサイトを調べていると、SDGsの基本理念である“No one will be left behind”を「誰ひとり取り残さない」と訳しているサイトをよく見かけるが、そもそもこの和訳によって取り残されてしまう存在があるのではないだろうか。「ひとり」という言葉には「人間」が一人という意味が内包されているが、果たして地球上には人間以外の生命は存在しないのだろうか。人間以外の生物も取り残さないことが必要であるが、この訳によってそのニュアンスが薄れてしまっていることは看過できない。「誰も取り残さない」のように訳すことで、人間以外の生物も取り残さない姿勢を示すことが必要ではないだろうか。
 前述した内容はある種言葉遊びのようなものであるが、実際人間至上主義的な価値観の中でSDGs活動が行われている側面はあるのではないだろうか。SDGsの中には14番目と15番目のゴールとして、「海の豊かさを守ろう」「陸の豊かさも守ろう」という生態系保護の項目が示されているが、そもそもSDGsのゴールの一つとして生態系保護を置くこと自体人間による傲慢と言えるのではないか。“No one will be left behind”を謳っているのであれば、ゴールの一つとして生態系保護を置くのではなく、全てのゴールに通底する理念として生態系保護を行っていく必要があるだろう。
 また、生態系保護を行っている事例についても、人間にとって好都合であるからといった動機で行われているものが多いだろう。一例を示せば、ターゲット14.6に示されている「開発途上国及び後発開発途上国に対する適切かつ効果的な、特別かつ異なる待遇が、世界貿易機関(WTO)漁業補助金交渉の不可分の要素であるべきことを認識した上で、2020年までに、過剰漁獲能力や過剰漁獲につながる漁業補助金を禁止し、違法・無報告・無規制(IUU)漁業につながる補助金を撤廃し、同様の新たな補助金の導入を抑制する。」も実際には過剰漁獲による将来の漁獲量減少に備えているにすぎず、海洋生態系それ自体の保護を目指しているものとは感じられない。人間へのリターンがない施策については採算が取れないため、行動をとるのが難しいといった側面もあるのかもしれないが、「海の豊かさを守ろう」「陸の豊かさも守ろう」というゴールが、真に生態系の保護を目指したものではなく、「人間にとって都合のいい生態系を作ろう」といったものになってしまっている現状については、改善する必要が大いにあるだろう。
 “No one will be left behind”の理念に反して、生態系保護が軽視されている現状を憂いているわけだが、実際生態系保護は他の環境行動に比べ人間に対する見返りが少なく、ビジネスとして継続的に施策を行っていくことが難しいことは認めざるを得ない事実である。だからこそ、市民が生態系保護のための行動を積み重ね、生態系に対して「無償の愛」を届けていくことが必要である。ビジネスとしての成立が難しいからこそ、人間「一人一人」の行動が重要となるのだ。

大里和 茨城県立鉾田第一高等学校

私には密かに尊敬している先輩がいる。だが、私は彼女の名前もクラスも分からない。最近分かったことと言えば、彼女は文芸部だということぐらいだ。私が彼女を尊敬している理由はとにかく格好良いからである。彼女は、短髪でスラックスを着こなしている。私の学校でスラックスを着ている人はほとんど居らず、私の学年に至っては誰もいない。その中で胸を張って颯爽と歩く先輩の姿に惹かれたのかもしれない。私は入学前、スカートではなくスラックスを着てみようかなと考えたことがある。しかし、結局それは無かったことになった。理由として、周りに着ている人が少ない、いや、ほぼ居なかったことが挙げられる。現に、制服の採寸しに行った時、なにも言わずとも試着用のスカートを渡された。これが普通で当たり前なのだろう。だが、私はそんなに人の目を気にするタイプでもないので目立つのが怖かった訳ではない。それ以上に、私がLGBTQ+だと勘違いされて周りに気を遣わせてしまうことが怖かったのだ。話は変わるが、今、私の学校ではSDGsについて個人で研究するという活動を行っている。その題材を決めるのに、様々な世界の問題点を調べる機会があった。そこで私が目についたのは″ジェンダー平等″だった。その内容にも色々あるのだが、私が特に気になったのは、LGBTQ+問題である。正直、私はLGBTQ+の方々を差別なんて絶対にしないと言いきれる…はずだった。けど、思い返してみれば…私は、自分がLGBTQ+と勘違いされるのが怖くてスラックスを着ることを辞めた。これって一種の差別なのでは無いのだろうか。勘違い…つまり、私は無意識に、スラックスの制服=LGBTQ+の人と考えていたのである。何だか自分が恥ずかしくなった。皆さんはどうだろうか。LGBTQ+の方々を差別しますか?と聞かれたらどう答えるだろうか。大半の人は差別はしないと答えるだろう。ただ、私の様に無意識の内に差別してしまっている人が居るかもしれない。LGBTQ+以外にも、″ジェンダー平等″という観点から見れば、例えば、仕事は男性がするものであり、女性が家事をするという考えや政治は男性がメインで行うものという意識も差別に含まれるだろう。昔と比べれば時代の流れと共にそういう考え方も変わってきてはいるが、世界的に見ても日本、特に政治分野からみるとまだ、女性の進出は遅れている。また、貧しい国ではまだまだ男尊女卑の考えが根強く残っている。この問題を解決するには、根本的にLGBTQ+、ジェンダー平等についての考え方を覆す必要がある。しかし、それが難しい。一人一人の意識を変えるのは難問である。新しい常識を創造しなければならない。そのためにまずは今の問題点を多くの人に知ってもらうべきだと思う。そこで私は、「レインボープライドin the world」計画を提案する。レインボープライドとは渋谷で毎年行われている主にLGBTQ+について呼び掛けた世界でも注目を浴びている大型のイベントである。レインボーカラーはLGBTQ+のイメージカラーであり、海外でも、レインボーカラーの服を身に付け、世界にLGBTQ+を訴える活動が多くの場所で開催されている。これをもっと大々的に行うことが出来れば、一人一人の関心が高まると思うのだ。オリンピックが日本で行われると決まった年、日本はオリンピック一色になった。TVや雑誌でも連日報道され、オリンピックのキャンペーン商品もたくさん見かけるようになった。そうすれば、自然と情報が入ってくる。これを応用するのである。例えば、期間を定め、その間はLGBTQ+期間としてオリンピック開催決定の時のように、企業・国も巻き込んで盛り上げることで、関心を高めるのである。これを世界中で出来たならより関心は世界に広がるだろう。また、LGBTQ+としてではなく、SDGsのイベントととして出来たら更に良いだろう。募金も並行して行えればSDGsにかけられる資金も増える。もちろん、これらは容易にできることじゃない。これだけ大規模に行おうと思えば、どれだけの準備が必要か計り知れない。それに、私、高校生1人が声を挙げたところで何も変わらないだろう。けれど、もし、声を挙げる人が増えれば何か変わるかもしれない。スラックスがいい!と胸を張って言える人が増えるかも知れない。だから、私は声を挙げ続けたいと思う。取り残される人が居なくなるまで…

相川凜太朗 横浜国立大学都市科学部環境リスク共生学科 3年生

「誰ひとり取り残さない」という言葉について、そもそも取り残す側と取り残される側が存在することが前提になっており、この文言は前者の立ち位置から発信されていることになる。しかもこれだけでは、文章として不完全である。おそらく、教育、貧困、ジェンダー、人種、医療などといった「平等」や「機会」から「誰ひとり取り残さない」ということが言いたいのだろうと思う。今回はそういった広い観点ではなく、私個人の単位での視点から考えてみたい。また、弱者やマイノリティといった言葉はこれらを語るうえで欠かせないカギになってくるだろう。
最初にも書いたように、取り残す側と取り残される側の2つの立場が存在する。私自身の過去で、「誰かを取り残した」こと、あるいは反対に「誰かに取り残された」ことについて振り返ってみた。
私は何か選ぶ立場に立つことがあまり多くはないが、それでも取り残してしまったと思うことは当然ある。イベントを主催する立場にあったとき、自分の予想をはるかに超える応募があった。ギリギリまで全員が参加できるように試行錯誤したが、結果的に仕方なく抽選で参加者を絞ることになってしまったときは、心が痛かった。人以外でも似た経験はある。例えば、飲食店。ずっと行こうと気になっていたお店がコロナによる影響で潰れた。私がたった一度足を運ぶことで閉店の危機を救えたとは決して思わないが、閉店の張り紙を見た時は残念だった。たぶん、思い当たること以外にも私の発言や行動が知らず知らずに「誰かを取り残した」ことがあるかもしれない。
では、今度は「誰かに取り残された」ことについて。思い当たることがないこともない。例えば、友人のSNSに上がった写真を見て、私も呼んで欲しかったと思うことはよくある。そもそも私が取り残されたと感じているだけで、相手は取り残したなんて思っていないかもしれない。他には、やってみたかったアルバイトの募集要項になぜか学生不可と書いてあり、取り残されたと感じたこともある。ただ取り残されるということについて、あからさまな行為はほとんどないし、だいたいは事情があってのことだと思っている。また私はテッパンや王道よりも少しずれたコアやマニアックなほうが好きなので、「取り残された」というより「取り残されに行っている」気がする。これについては「あえて」という前提があるので、自分の意志であることを理解していただきたい。
こんな風にスケールの小さな話ではあるが、私にも「取り残す」「取り残される」は繰り広げられている。
私個人のスケールの小さなエピソードであるが、以上から「誰ひとり取り残さない」よりも「誰ひとり取り残されない」という言葉の方がふさわしいように思える。理由は簡単で、「取り残す」「取り残される」の判定は「される側」にゆだねられており、後者の立場に寄り添うべきだからである。病気を抱えている人が、他人に不幸だと思われることこそが辛いというのと同様に「誰ひとり取り残さない」という言葉にもそういった過剰なニュアンスを感じてしまう。SDGsにも「取り残す側」からのアプローチばかりで「取り残される側」からの目線からのものが少なく一体感がない。そのためどこか助けてあげているという風に私には見えてしまう。取り残さないように手を差し伸べることも大切だが、取り残されないように必死に闘うことも必要である。自立を促すことも立派な「取り残さない」ことであると思う。

前田夏輝 報徳学園高等学校

 私は宣言する。たとえどれだけ時間がかかっても、全ての人々が特定のステータスで偏った判断をされない、その人個人という名のマイノリティとして扱われる、「すべての人がマイノリティな世界」を実現すると。
 私はいつでも、取り残される側の人間だった。私は身体的には健康なものの、心に5つの障害を持っている。見えない障害というものは、見た目はいわゆる「ふつう」の人間と変わらないぶん、心まで「ふつう」だと思われ、苦労が多かった。
「なんでこんなこともわからないの?」「これくらいのこと、察してよ」と詰られつづけ、次第に家族や友達との間に溝ができるようになっていった。
このように見えない障害によって苦しんでいる人は、私だけではない。
私は現在、障害者や障害者支援を行っている人たちの話を聞き、企業へ障害者雇用に関する提言を行う活動を行っている。すると、同じ障害と診断されている人でも抱えている悩みは全く違ったり、障害と診断されていない人でも一般的な精神障害者と同じくらい思い詰めている人も多くいることを知った。
 私の考える『すべての人がマイノリティな』世界とは、誰しも特定のステータスで偏った判断をされず、その人個人というマイノリティとして扱われる世界だ。
ある一定の基準を設けて多数派と少数派を区分けしようとするから軋轢や差別に繋がるのであって、本来マジョリティなどというものは存在しない。
あるのは、この世界にふたりといない『個人』という名のマイノリティだけだ。
 差別とは、相手のことをよく「識らない」ために起こるものだと思う。識らないから怖い、気持ち悪いと感じ、疎外するようになってしまう。
けれども、一歩踏み出して相手のことを『識る』ことができれば、見える世界はきっと変わる。
これは障害者に限った話ではない。
年齢、ジェンダー、職業……人を取り巻く要素はたくさんある。例えば「あの先生はおじいちゃんだから、きっと頭が固くて話をしてもわかってもらえないだろう」というのは、年齢というステータスのみで判断してしまっている。
だがその『おじいちゃんの先生』を構成するステータスは、年齢だけではないだろう。もしかすると、「積極的に生徒の意見を聞く」という特徴も持っているかもしれないが、これは積極的に相手を『識る』ことをしないとわからないだろう。
私は障害者支援の活動でも、やはり「識ってもらう」ことを大切にしている。
何も識らない場合、「精神障害者は使えなさそうだから」と雇用に関して消極的な経営者の方は少なくないが、実際に彼らの素直さや仕事の丁寧さを見ると、一変して積極的に就労支援にまわってもらえるケースだって多くある。
 先述の通り、人を構成する要素はたくさんあって、その中のひとつやふたつをあげつらって偏見的な対応を取ってしまうこともあるかもしれない。
それでも、勇気を出して相手と誠実に付き合ううちに、多くのステータスの先にある『その人個人』というマイノリティとして向き合えるようになるだろう。
 人は、当たり前に生きているだけでは、当たり前のことにも気づけない。
しかし、実直に一歩踏みだして『識る』ということができれば、人は誰とだって共存でき、『すべての人がマイノリティな世界』の創出だって可能なはずだ。
これこそ、『誰ひとり取り残さない』ということではないかと思うから、私は今日も活動し続ける。
特別なことは必要ない。人と関わる時、何か基準を設けて線引きをせず、掛け値なしに接することが、今、求められている。

神田流空 横浜国立大学 1年生

私は将来外国人と共生できる都市空間を作るために、現在大学で勉強しています。私がこのような都市を作りたいと考えたのにはきっかけがあります。それは、高校2年生の時にクラスメイトになったチリからの留学生ダビデです。ダビデに日本はどうかと尋ねた時、住みづらいと呟くので、理由を聞くと自分がマイノリティであると感じるからだと言っていました。ここで初めて「取り残されている人」の存在を知りました。しかし、マイノリティを感じることに深い理解を示すことができませんでした。なぜなら、自分自身は日本にいてマイノリティだと感じたことは今まで一度もなかったからです。しかし、体育祭で髪を金髪にしたとき初めて感じることができました。金髪は一般社会ではマイナスに見られることが多いからです。実際に、電車に乗った時もいつもより人の視線が集まり、隣の席を座る人も普段より少なかったです。その時、私は電車に乗ることや外出することを躊躇するようになりました。ここでようやく少数派の気持ちを少しながら理解することができました。しかしダビデと私との違いは、私には自分が黒髪だったことや性格を知っている人がいる高校のような安心できる環境があったことです。ここで今の日本には、自分にとっての高校のように外国人にとって共生しやすい都市を作る必要があると強く思いました。現時点で外国人が取り残されていると感じる要素として外国人の参政権が挙げられます。現在の日本では憲法第15条「国民固有の権利」を基にして、外国人参政権を認めていません。このことは外国人が日本社会で疎外感を感じる要因の一つになっていると思います。国政選挙はまだしも、地方選挙への参政権は多くの国が認めています。例えば、フランスではEU市民に対して地方選挙への参加を認め、隣国の韓国でも居住または永住権取得を条件として地方選挙への参政権を付与しています。今、世界はグローバル化し国境の壁が低くなっています。日本は島国だからといって関係ないとは言えません。たしかに、外国人へ参政権を認めることは混乱を生じさせる恐れがあります。しかし、永住権所有などの条件をつけ、日本全体と言わなくとも一部地域で付与することが必要だと考えます。マイノリティの意見を聞いてこそ、SDGsの基本理念「誰ひとり取り残さない」のような多様性を受け入れる社会となるからです。私は外国人との共生を進めていくことは日本人にとってもメリットがあると考えます。現在、外国人は比較的弱い立場に置かれることが多く支援からこぼれがちになっています。ここで環境整備をすることで、誰しもが社会的に排除されない環境へと変わります。また、多様性を受け入れる社会にすることは、日本人にとっても活力ある社会につながります。しかし、このような社会を作るためには既存の法律を知らなければなりません。また、既に多様な民族が集まって構成されている国の法を知らなければなりません。これらの法を知ることで日本の現状を把握し、日本の前例となるような法を学ぶことで自分の夢へと一歩近づくと考えます。

上村真子 早稲田大学先進理工学部 1年生

理想の社会の実現にむけて

     
 私は都会で生まれ都会で育ちました。戸籍も住む家も十分な食も最低限のお金も保護者もあります。教育も十分に受けさせてもらい、お蔭で良い大学にも進学しました。こういう環境にいると周りの人も同じような人ばかりでこれがあたりまえ、と自分がいかに恵まれているのか頭ではわかっているつもりでも実感することができないものです。そして、マリーアントワネットのように、社会の陰に埋もれて可視化されないところで、貧困に苦しみ差別され苦しみながら必死に努力して生きている人がいることに、自分に課せられた使命に気が付かないでもしくは気が付かないふりをして生きてしまいそうになります。これは単なる無知で済まされるものではないでしょう。本当はみなが平等に教育の機会を与えられスタートラインが同じである世の中が理想ですが、この世界は残念ながらまだそうではありません。だから、今他の人よりも恵まれた環境に生まれた人は、自分の利益ばかりを追い求めるなど言語道断、今の社会を直視し考え誰も苦しまない理想の社会を作っていく使命があるのだと感じています。それが恵まれた環境の対価だと思います。
もし、みんながそうして社会の為に動いたならばすべての人が物質的だけではなく内面的にも豊かな理想の社会になるのでしょう。物質的豊かさの総量は限られていますが、内面の心の豊かさの総量に上限はありません。全ての人がこの世界を自分が良くするのだという意識を持って他のために行動すれば、皆がずっと豊かな心を得られ、いいこと尽くしです。 
そして、この主体的な行動を助ける大きな役割を担っているのがSDGsだと思います。SDGsによって世界共通の17の目標を、そしてそれぞれ細分化したゴールを定めて周知したことで世界中の人が同じ目標に向かって取り組むことができるようになり、自分が何をやればいいのかをより具体的に考えられるようになり、自主的な行動の一歩が踏み出しやすくなったのです。そして最も難しいのが誰一人取り残さないということです。政策から取り残されやすいのは、普通に生活していたら気が付かない、声を上げられずに陰で苦しんでいる社会的弱者だからです。教育を受けた私たちは一番にまずそこの実態について学ぶべきです。そして今現在、その方々の援助の大部分を担っているのが、ボランティアの人だということ、これは問題ではないかと考えます。例えば子ども食堂、数少ない公立の夜間中学校の代わりにある完全にボランティアの教師による民間の夜間中学校、図書館の本の点字の翻訳など、枚挙にいとまがありません。どれも、取り残されがちな境遇の方々にとって境遇から脱するために本質的に必要な大切なものです。私は社会について学ぶため夜間中学の教師を志願しましたが、そこでは主に定年を過ぎたような方が自腹で交通費をだし部屋も借りて資金のない中完全に好意で運営しています。こういう重要な活動をボランティアの好意に頼り切っている現状を改善すること、そして学校で社会の陰の部分について教えて考えさせることが、誰も取り残さないということへの近道なのではないかと思いました。
私はこれから沢山学んでそれを責任をもってSDGsに向かって社会に還元して、私の使命を果したいと思います。一人ひとりが自主的に行動すればきっとSDGsは達成できると信じています。

柴田夕奈 横浜国立大学都市科学部都市社会共生学科 1年生

 社会に取り残されないように自分で努力して生きなければならない。そんな雰囲気を感じたり、そう駆り立てられたりする今日、「誰ひとり取り残さない」という言葉はとてもやさしい言葉に感じる。とは言え、「誰ひとり取り残さない」ために焦点をあてられているのは、もっとも脆弱な立場の人々だ。私はその対象には入らないのだろう。私の家庭は裕福ではない。進学してからは、経済的な面で劣等感を感じることが多くなった。それでも、もっと苦しい人、もっと辛い人はたくさんいる。では、私は社会でどんな立ち位置なのだろうか。そんなことを考えていると、社会の不平等や格差への不満がこみあがる。しかし、皆が平等な社会が実現するという希望的観測はない。支援の手を待っていたって仕方がない。そもそも、自分が支援を受ける立場にあるのか分からなくなる。このように私は、自分自身のことを考え出すと、負のスパイラルに陥ってしまう。そこで私は考え方を改め、「誰ひとり取り残さない」ことは個人目標だと捉えることにした。この目標のもとに、身近な人や手が届く範囲のことに対し、自分が何をできるかを考えた方が、自分にも社会にも良い影響を与えられると信じている。
 ここで、私の家族の話を取り上げたい。私は、父と母と私の三人家族である。私の母は、私が幼稚園の頃から病を患っているが、通院と薬を飲むことによって、ほぼ不自由なく生活していた。しかし、昨年から治療薬を変えたことによって、母の生活は大きく変わった。薬の副作用で、手足のしびれや脱毛が始まったのだ。しびれによって、体を思うように動かせないもどかしさに、母は辛さを感じている。地方では自動車が主な移動手段であるが、足のしびれが始まってから母は自動車を運転できていない。また、その前まではパートの仕事もしていたが、今はできずにいる。そのうえ、母にとって歩くことも負担が大きく、ふらつくこともある。祖母の方が、母よりも身軽に動けるのが現実だ。母は現在、社会的弱者にあたる存在であろう。それでも、母は周りに心配をかけまいと、家族の中でしか治療のことや体の事情については話さなかった。つまり、「母というひとりの人間を取り残さない」ことをできるのは、私と父だけだ。もちろん、親戚も気にかけてくれているが、近くに住んでいるわけではないので、家族間で協力していくしかない。この状況に、「もっと周りに助けを求めたらよいのではないか」という意見もあるだろう。確かにそうかもしれない。しかし、本人が望んでいないことを無理強いするのは良くない。家族だからこそ、相手の考えを理解できることだってある。その中で、一般的な正論が必ずしも力を持つわけではないのだ。当事者でもすぐ結論が出ないことに対し、他者が思う最善策を安易に提示することは、人の心を傷つける可能性があるということを心に留めておくべきだろう。おそらく、私の家族のような状況の人は、目立たないだけで多く存在するのではないかと思う。「もっとも脆弱な立場」とは言えなくても、「脆弱な立場」な人は多くいて、「社会から取り残されている」という感覚を持っているかもしれない。この見えない「脆弱な立場」の層の人々を支えることができる人というのは限られているだろう。私は、母に「取り残されてしまった」と感じてほしくない。しかし、私は下宿中であるため、生活の中で母を支えることができない。いま私ができることは、母に孤独を感じさせないこと、母の気持ちが折れないようにすることだと考えている。それくらいのことしかできない私ではあるが、私は母を取り残さない。そして、母だけではなく、自分の身近にいる助けを必要としている人に気づき、その人の力になりたい。目立ちにくく、支援の届きにくい人々にとって、やさしい社会とはどうあるべきなのか、これから考えを深めたいと思う。

寺西遥夏(仮名) 大学院生

『窮屈な社会から抜け出すために「あたりまえ」の呪いを解く』

社会には「あたりまえ」の呪いで溢れている。それが「普通」でそれが「正解」であるかのように法律や生き方が決められている。
その「あたりまえ」から少しでも外れると「仲間はずれ」にされたり「間違い」だとされたりして、まるで「透明人間」になってしまったかのような気がしてしまう。人と違うことが不安や生きづらさの要因になっている。

「あたりまえ」から外れている疎外感を、私がはじめて感じたのは小学生のときだった。
私の両親は離婚していて、家族は祖父と母と姉と私。それが私の当たり前だった。
だけど、そのことを他者に話すと謝られたり、同情されたり、励まされたりした。両親の離婚は不幸なことではないのに、勝手に私の気持ちを決めつけられた。それが私にとっては不快で、それ以降、両親の離婚の事実を隠し、嘘をつくようになった。

「あたりまえ」が存在しなければ、隠し事や嘘をつく必要はなかったはず。

人と違うことに引け目を感じて、その事実を隠すという状況は「誰ひとり取り残さない」社会を実現するために1番避けなければならないことだと思う。それは、必要な助けを求められないという意味でもあるから。

そんな窮屈な社会をつくってしまっているのはやっぱり「あたりまえ」の存在だと思う。「あたりまえ」の呪いを解いて、ひとりひとりが異なる状況や意思を持っていることを前提に「個人を尊重できる社会」を目指したい。
それが「誰ひとり取り残さない」社会と言えるのではないだろうか。

どうすれば「あたりまえ」の呪いを解けるのか
自分自身にも、身の回りの人にも「あたりまえ」を押し付けて呪いをかけないように普段から気をつけていることが2つある。
 その積み重ねと連鎖で社会は少しずつ変わると信じたい。

方法1:カテゴライズしないこと。無意識の偏見に気づくこと。

「あたりまえ」は正体不明の黒くて大きな影のような存在だ。その影をよく見ると、小さな点が集合しているのが見えるだろう。それはマジョリティーと呼ばれる人たちの集合だったことに気づく。
「あたりまえ」が存在する社会で生きてきた私たちには、《人間をカテゴライズしてしまう癖》がある。マジョリティーやマイノリティー、マイノリティーの中には〇〇というように。その癖によって個人やひとりひとりの意思の存在をうっかりと忘れてしまっていないだろうか。カテゴライズすることで勝手にその人の状況や気持ちを決めつけて、理解や配慮をしたつもりになっていないだろうか。それは《無意識の偏見》である。

偏見をしない、と安易に宣言してしまうこと。それこそが偏見になってしまうのではないだろうか。カテゴライズをしないで、無意識の偏見に気づくことの方が遥かに大変なことだと思う。だけど、私たちは学ぶことができる。学ぶことで、カテゴライズをしないことや、無意識の偏見に気づくことができれば、個人と向き合い、互いのことを理解できるはずだと信じている。

方法2:考えに正しいも間違いもないということ。

個人個人が持つ意思や考え方には正しいも間違いもないということ。それはその人が育ってきた環境や、出会った人との対話によって徐々に作り上げられていくものであるから安易に否定することはできないはずだ。

もし、相手の考え方に納得がいかない場合は、その考え方の背景を聞くことで納得できるかもしれないし、逆に自分の意見を伝えることで相手が考えを改める可能性もある。

考え方は変化するもので、その変化も学びの繰り返しによって起きる。学ぶことによって無意識の偏見に気づくのと同じように、他者との対話や経験という学びによって、考え方も育っていく。

そう考えると、自分の考えが間違えていたと感じたときに「間違いではなく学んだ」と考えられるようになるし、それは他者の考え方を受け入れる姿勢にもつながっていくはずだ。相手に何を話しても大丈夫と思ってもらえる姿勢でいようと心掛けている。

山本あやか(仮名) 大学3年生

 

 取り残された気持ちになった。2020年3月のことだ。うるさく鳴る電話が今も耳に残っている。

 まだ新型コロナが大流行したとは言えず、それでも多くの人々が恐怖に感じていた頃、医療従事者である母の病院でクラスターが発生した。テレビに母の職場が映っていた。帰宅した母によれば濃厚接触者とは判断されていないという。ならば大丈夫だ。そう思えたのは束の間だった。
 まずはアルバイトを二週間休むことになった。母の職場のクラスターにヨーロッパから同居する家族が帰宅したことも重なって、店長と電話で相談した。強制的に休まされたわけではない。納得して休んだ。店長は電話の向こうで泣いていた。噂なんてすぐに広まる田舎の小売業だ。学生の身分で二週間仕事を休んでも生活に困るわけではない。店長は「店を守らなくてはいけない。」と苦しそうな声で言っていた。実際に近隣のドラックストアで感染者が出た時、地元の大人たちは口を揃えて「あの店には行くな。」と囁き合っていた。店長の判断は正しかったと思う。大好きな店長だ。私が癌かもしれないと診断された時、唯一毅然とした口調で激励してくれた人だ。
 家にいると普段見聞きしないことに気がつくようになった。二週間のうち二日目の午後のことだ。誰とも会えない私はリビングでまどろんでいた。すると電話の音がして、出ると母の兄からだった。何の用か尋ねると、母は大丈夫かという。その時の感情はよく覚えている。本当に嬉しかった。母の兄家族とは家が近くよく遊びにきた。つい電話の4日ほど前にも一緒にゲームをした。大変な時だからこそこうして心配してくれる存在に感謝しようと思った。だから、「ありがとう、濃厚接触者違うから大丈夫。仕事帰ってきたら心配してくれていたって伝えるね。お母さんも喜ぶと思う。」そう返した。返すと一瞬居心地の悪い間があった。なんだ今の間は、と不思議に思っていた。
 三時間ほど経った頃、また電話が鳴った。母の兄が、母が大丈夫か尋ねるものだった。三時間じゃ何も新しい情報がないな、と思いながら「大丈夫、報道されている以上に感染者いないって聞いた。」と伝えた。
 3回目に鳴った電話に出て、決まり悪そうに母が大丈夫かと繰り返す声にようやく気がついた。電話の4日前に母の兄家族は遊びにきていた。心配なのは母じゃなかったのだと思い当たると同時に胃がぐらりと傾いたような気がした。その後はいくら電話が鳴ろうと出なかった。一年以上が経った今もコロナ前のような関係には戻れていない。
 母にはこの事を黙っていようと思っていた。また二日ほど経った夕食の後、母が数十分かけてテーブルを除菌していることに気がついた。除菌ティッシュとアルコールで拭き続ける母を見ていると怒りが湧いた。どうしてばい菌扱いされなければならないのか。気がつけば母にぶちまけていた。母は黙って聞いて、その後に「そうしてしまう気持ちがわかるから」と言った。それでも私には、その時の母の気持ちはわからないままだ。
 過去の話となって、現在はバイトにも行けるし、対面授業の数は少ないもののキャンパスに行けば学友に会える。それでもあの被差別者として自分を意識した二週間のことは忘れられない。取り残されたような、誰にも尊重されていないような思いになった。
 私が思うSDGsとは、自分の隣にいるような身近な人を受け入れることだ。否定せず、遠下げないことだ。それができなければまず、持続可能性が消え去り、分断だけが続くだろう。

山内亜珠 クラーク横浜キャンパス 1年生

近年アフリカ地域では、5歳未満の幼い子供たち約530万人の命が失われています。その約半数が生後一ヶ月以内に亡くなっています。

原因の一つ目は、栄養不良による免疫力低下それから起こる風邪や肺炎・下痢などです。アフリカでは、農業で生計を立てている世帯が多くここ数年の異常気象で地球温暖化をもたらし環境が変化し不作を招いています。しかし、地球温暖化の要因と考えられている二酸化炭素の排出は、先進国が大きな割合を占めているため私たちがアフリカの飢餓を増やすきっかけとなっているのです。また、アフリカでは内戦や紛争が多いため食糧生産が妨げられ市場は混乱した状態になり経済悪化と重なって食料価格の極端な高騰を招いているからです。

 もう一つの原因は、不衛生な環境や汚染水です。日本は、当たり前のように安全な水が手に入るとても恵まれた環境ですが、発展途上国が多いアフリカでは衛生的な水やトイレがあまり確保できず劣悪な環境に置かれています。内戦や紛争などが原因で直接または間接的に害を受けることがあります。例えば、紛争の時水質資源の価値は高く、井戸・浄水場・貯水槽等が敵の給水を断つために狙われる場合がありました。水資源を狙っていなくても大規模な爆発などで水関連施設が破壊されたりしていました。それにより、国内でコレラなどの水系感染症が膨大に増加しています。2000年以降新たに21億人が基本的な衛生施設を使用できるようになったとされています。しかし、2017時点でもなお20億人が基本的な衛生施設を使えず2019年時点では6億7300万人は屋外で排泄をしているので、人糞に含まれる細菌が体内に侵入してしまいます。

 また、私たちは、世界中で生産されている食べ物に頼りながら沢山廃棄しています。日本の年間の食料廃棄量は約2759万トンと食料消費量8088万トンの2割以上この中には食べ残しや賞味期限切れなどの「食品ロス」が643万トンも含まれています。日本人一人当たりに換算すると、毎日おにぎり1個分〜2個分を捨てている計算になります。大量に捨てているのはスーパーや飲食店だけではなく約半分は家庭から出ています。事業者の食品ロスも私たちが、見た目の良さや安さを求めるため容器にへこみのある商品や運搬に無駄が出る不揃いなサイズの農作物などを生産者が処分しているためです。また、私たちの24時間いつでも食べたいというニーズに応えるために初めから廃棄を想定した上で、大量の仕入れや生産がされている場合もあります。このように、ほとんどの人にとって食べることが当たり前の日本では沢山の食べ物が無駄になっているのです。

 解決するために1つ目は、病院・医者・医薬品を増やし感染症の予防や治療をできるようにすることです。例えば、日本政府は2015年9月に「平和と健康のための基本方針」が決定されました。方針は人間の安産保証を掲げています。政策目標として、公衆衛生危機・災害などにも強い社会の実現、生涯を通じた基本的保険サービス切れ目のない利用の確立(誰一人取り残さないユニバーサル・ヘルス・カバレッジの実現)、そして、日本の知見・技術・医療機器・サービスなどの活用を挙げています。

2つ目は、清潔な水を使えるように水道施設や衛生施設を建設することです。例えばロチャ川流域は、ボリビアで 3 番目に人口が多いコチャバンバ大都市圏を含む重要な流域です。 ここでは、水不足が常態化し、生活用水と灌漑用水の間での競合や、上流と下流の住民の間での 水の利用を巡る争いが発生しています。また、水質の悪化は極めて深刻であり、洪水リスクへの対応も迫られています。これらの課題に対して、コチャバンバ県庁を中心とする行政機関が、住民やその他の利害関係者と協力し流域の水をめぐる様々な問題や利害を調整しながら、水資源管理を行う必要があります。 このプロジェクトでは、コチャバンバ県庁 が統合水資源管理を推進し関連事業を企画・調整するための能力を強化します。そのために現地法制度のレビュー、モニタリングシステムや水資源アセスメ ント能力の改善、パイロット活動を通じた 統合水資源管理に関わる実施プロセス の教訓の抽出、関係者間の協力体制の強化等を行います。

そして私たちにできることは、全ての人がこのsdgsの目標を共有し少しでも環境に良くなるようまずは自分の生活の中で意識していくことだと思います。

三河美吹 日本大学習志野高等学校1学年

全員で目指す世界

 世の中の人々は私たちが驚くほど様々な名称で分類する事ができる。例えば,男性,女性,子供,大人,学生,勤労者、白人,黒人,既婚者,未婚者,障害者,健全者,はたまた職種でも分類できるだろう。

 SDGsの基本理念である『誰ひとり取り残さない』という目標。私には,特に取り残したくないと思う人がいる。それは,障害者の方と不登校の方。この世界には、私が目にしたことがある以上にそのような人がたくさんいるのだろう。それでも,誰一人として置いていきたくないと思う。

 まず,障害者の方について。私は,学校の通学において、主に,電車と自転車を利用する。電車を利用する際、ある男性の障害者の方と乗り合わせることが多い。その際,周りの人はその方が車両を移した途端,家族、友達、恋人同士で話し始めるのだ。『うるさい』『あの人普通じゃない』『頭おかしいのか?』と。頭がおかしいのはどちらだろうか。その人の立場になって考えて欲しい。そうしたくてしているわけではないのに、少し周りと違うだけで奇異の目に晒される。どうして,そんなに心ない言葉を平気で浴びせられるのか。私には理解できなかった。だからこそ,先天的にせよ,後天的にせよ,身体的精神的問わず障害のある方たちに寄り添い、そんな方たちが少しでも周りの目を気にせずに自分らしく過ごしていける。そんな優しさ溢れる世界にしたいと思ったからである。

 次に,不登校の方について。今,世界にはいじめや嫌がらせによって本来楽しいはずの学校生活が脅かされ不登校になっている人がたくさんいる。不登校でなくとも,学校という場所がかになっている人はたくさんいると思う。それは,小学校,中学校,高校,大学に関わらずだろう。学生にとって学校というコミュニティは生活のほとんどを占めている。そのために、周りと同じようにできていない不登校の自分を責め無理にでも学校に行く子もいる。耐えられず自死という方法を選ぶ子もいる。こんな世界は当然なのだろうか。必然なのだろうか。私は,そうとは思わないし、そう思う人間にはなりたくない。こんな世界が当たり前になっていいはずがない。私は,将来医師になりたいと思っている。しかし同時に『学生の自殺者をゼロにしたい』という夢も持っている。現在、学生の自殺者は年間約四八〇人にものぼる。つまり,単純計算で一日に一人か二人の学生が自ら死という道を選んでいるということになる。私は,いじめが原因ではないが一時期自殺願望が強い時期があった。その時期は毎日のように『死にたい』『消えたい』と思っていた。周りの人は『生きていればいいことあるよ』とか『死なないで、生きてて欲しい』とたくさん言ってくれたけど当時の私には全く響かなかった。ある人が言った。『傷つけられたことがない人は簡単に人を傷つけられる人になる。』と。

私は,この経験があったからこそそう思う人の気持ちが多少なりとも理解できると思っている。だからこそ,自分の経験を他人のために生かしたい。そう思う学生を助けたい。と思ったのである。

 この世界にはSDGsの基本理念を達成していく上で私が挙げた人の他にも取り残される可能性のある人がたくさんいるのだと思う。そんな方達も含め『誰ひとり取り残さない』という理念が達成された時、世界は人々の喜びと笑顔で溢れ、この世界に存在する全ての人々が笑って幸せに自分らしく暮らしていけるようになるのだと思う。そんな世界が一日も早く訪れるようにどんなに小さなことでも私にできることを一つずつやっていきたいと思う。

斎藤ほのか 横浜市立橘中学校 3年生

今世界では学校に行きたくても行けない子がたくさんいる。

 

ガーナに住んでる男の子の兄弟は幼ない頃に母親が病気になり田舎に帰されてしまったので=二人は小さい時から働いていた。

二人は毎朝五時に起きてカカオ農園での仕事を頑張っていた。

弟は同い年の子が学校に行っているのをみて少し悲しい表情になることがあった。

「学校に行きたい」、「お勉強をしたい」そのような気持ちが芽ばえていても事情を抱えていて行けないそのような子は大勢いる。

学校に行けない理由はその他にもいろいろな事たくさんある。

病気や教員の減少などさまざまな事があるが、その中で一番多い原因は貧因で経済的な理由や教材不足で通えない孑供が世界各国でたくさんいる。

そして2021年現在およそ1億2400万人の子供達が学びを受けられなくて将来が不安な中で生活しています。

南アジアでは35%の子が通えていない。

さらに女子も教育を受けづらくなっている。学校に通えない女子達の中で一番多い国はサフサハラ以南の5200万人が最高だったようのだろうか。それではなぜ女子は学校に通いづらいんだろうか。

その理由の中で一番多いのは教育環境の間題である。女性教員の不足や学校内での差別などが原因と言われている。

こうしたいろんな問題があって学校に通えない子供がいるのが現実だと考えるととっても複雑な気持ちになるしとても悲しい事だと思った。

しかし世界各国ではそんな子供を無そうと動いている。

日本では子供を貧因にさせないように生活支援などを行っているようだ。

ガーナでは子供が健康で丈夫に過ごせるように食事などの支援などをしているのである。

改めて学校があることの良さが感じられたのでとっても良かった。

もし世界中のチ供達が笑顔で学べたらうれしいのでそのためにもっと世界中が団結できらいいなと思った。

自分も募金活動などがあったら積極的にやりたいと思った。。

今角友哉 横浜国立大学 1年生

「誰一人取り残さない」というテーマを見て、いろいろ考えてはみたのだが、完全に誰一人として取り残さない世界の実現、そんなことは不可能なのではないか、というのが出た結論だ。というのも、すぐには実現不可能であるということで、これから何百年も後での実現の可否を言っているわけではない。何故私がこのような結論に至ったのか述べようと思う。

障害者や、外国人、L G B T Qのような、差別問題として取り扱われているこの問題の根底の原因は、私を含め、大多数の人間の無意識のうちの排他的な思考にあると思う。これは特に日本という社会では、同じ集団に入れないことは恥ずかしく苦しいことだという認識が小さい頃からの生活で自然と身についてしまっていると思う。制服を着て周りと服装を統一したり、髪型の自由を制限してみんな同じような髪型にしたり、そのような環境が「出る杭は打たれる」という日本的な風潮を作り出しているのだ。私は小さい頃それが当たり前だと思っていたし、特に違和感は感じなかったのだが、おしゃれに興味があったり、みんなと違うことに興味がある子供や、先程述べたような、障害者、外国人、L G B T Qのような個性を持つ子供は、このような風潮に対して違和感を覚えていたのではないだろうか。私自身出身がだいぶ田舎の方で、地域間のコミュニティでの繋がりが大きかったのだが、周りで、少し人と違ったことをしたり、目立ったことをするとすぐに後ろ指を刺され、あの人はおかしいと笑い物にされたりしていた。最近でいえば、学校の中で、コロナウイルスに感染した子供が完治した後も仲間外れにされ、いじめられているという事例も少なくないという。

 ここまでで今のままでは完全に誰一人として取り残さない世界の実現なんてものは不可能であり、それには人々のもつ、新しい文化や周りと違う個性に対する排他的な潜在意識が関わってきていると言ってきたが、ならばどうすればこの現状を変えられるのか。正直なところ、このような潜在意識を人々から取り除くのは、とても難しいことだと思うし、とてつもなく長い戦いになると思う。1900年台から始まった「男女平等」の実現に向けた活動も、いまだに続いているし、最近でも男女格差に対する様々なニュースをよく目にする。それは、古くから人々に植え付けられてきた男尊女卑という潜在意識を取り除くのがいかに難しいものなのかを表している。それでも、誰一人取り残さない社会を諦めてはいけないと思うし、そのために私たちができることを、自分なりの意見で述べていこうと思う。

 私が思うに誰一人取り残さない社会の実現のために一番大切なことは、教育だ。人間の性格や考え方は、小さい頃にほとんど決まると思う。ならばその性格や考え方の形成に大きく関係する教育を変えていけばよいのではないだろうか。教育といっても、学校や幼稚園のことのみを言っているのではなく、家庭での親の行動も重要となってくる。個性を認め、尊重し、人と違うことが恥ずかしいと思わない人に育つように、今を生きる人全員で取り組めば、いつの日か誰一人取り残さない社会は実現されると思う。そのためにも、まずは一人一人の大人が積極的にS D Gsの活動に取り組み、世界全体で誰一人取り残さない社会への実現を目指し、未来の子供達がその背中を追えるようにするべきである。私自身も、そういう大人になれるように努力していきたい。

伊藤紀奈 横浜国立大学 1年生

中学校二年生の時、学校でLGBTについての講演会が開かれた。当時はまだ、Q+が加えられた名称は普及していなかったのだろう。講演会は、確か、道徳の授業の一環だったように思う。全校生徒が集められた体育館で開かれたことを覚えている。

 正直、内容には全く期待していなかった。きっと、LGBTについての説明を聞くだけの退屈な時間だろう。そう思っていた。その場にいた生徒たちのほとんどが、似たような思いを抱えていたと言っても過言ではないだろう。

 講演会が始まる前、司会の先生が開口一番にこう言った。

 「今日は、LGBT、セクシャルマイノリティについて、当事者の方からお話ししていただきます」

 ザワリ。体育館の空気が変わるのが分かった。当事者。今から話す人は、普通とは違うんだ。もしかして、「ヤバイ」やつなんじゃないか。どんな顔をして話を聞いていればいいんだろう。恐れ半分、好奇心半分。誰かが口に出したわけではないけれど、これもまたみんなに共有された思いだった。LGBTについて深く知らない、知る機会もなかった中学生たちにとって、彼らはテレビの中のタレントでしかなかった。

 講演会が始まった。ステージ上に登場した講演者はお二人とも、ごく一般的な服を着た、どんな街にもいるような「普通」の方々だった。立ち居振る舞いも何の変哲もなく、見た目や少し話した感じだけでは彼らがLGBTであることなど全く分からない。それだけで、私たちにとってはちょっとした衝撃だった。

 最初にお話をされた方は、バイセクシャルの男性だった。体の性と心の性は男性に一致しているが、全ての性が性愛対象になり得るというタイプである。二人目の講演者は、トランスジェンダーで、もともとは男性だったが現在は女性の方だった。生まれた時の体の性は男性だったが、心の性は女性であり、性愛対象は男性だという。性転換手術を受け、現在は体も心も女性になったと話していただいた。

 お二人とも、自分の経験してきたことを赤裸々に、分かりやすく、詳細に語ってくれた。幼い頃から感じていた違和感、自分がLGBTに当たると分かるまでの苦しみ、また分かったあとでも尽きない悩み。自分を救ってくれた家族や友達の言葉、そして行動。ただLGBTについての知識だけを押し付ける講演ではなかったことが、中学生の興味を引き、その心に響いた。講演会が終わった時、始まる前に感じた当事者の方への偏見の気持ちはなくなっていた。

 私がこの講演で学んだ、大事な言葉がある。「性はグラデーション」。心の性や性愛対象が男性であるか女性であるかは、必ずしも一つに決まらなくていいし、決められるものでもない。このグラデーションの度合いは十人十色であり、何が「普通」であるかを決めることは不可能である。だから、LGBTの方々が特異なのだという認識は間違っている。私たちも、多様な中の一人に過ぎないのだ。

 この考え方は私にとって、目から鱗だった。決して、LGBTの方々を差別しようと思っていたわけではなかったが、「普通と違う人々」としていつの間にか心の壁を作ってしまっていた自分に気が付いた。そして、自分や身の回りの人がLGBTに当てはまるかもしれないとは、想像したことすらなかった。しかし、この講演をきっかけに、もし自分や周囲の人が性的マイノリティを抱えていることが分かっても、素直に受け入れられるだろうと感じるようになった。

 このように私の考えが変化した理由は、やはり当事者の方から直接お話を聞けたことが大きいだろう。等身大の体験談から、本当にLGBTが特別なものでないことが伝わってきた。また、その体験談を中学生という時期に聞けたことも良く影響したと感じる。しかし、もっと早い時期にLGBTについて知ることができていたら、自分の性に対する違和感を抱える子供たちにとって良いのではないだろうか。

 できるだけ幼い頃から、LGBTQ+のことや、性はグラデーション」という考え方について知ること。これらが、SDGsの基本理念の一つである、誰もが享受できる社会活動から「誰ひとり取り残さない」ことにつながると考える。LGBTQ+の人々は、この「取り残される」代表格の一つであろう。その実情を早くから知っておくことが、差別のない世界につながる第一歩であると考える。

これは、なにもLGBTQ+に限定したことではない。障がい者、外国人、貧困家庭など、現代の日本には数々の「取り残される」人々が存在している。それらのリアルな事実を、学校教育などを通して子供たちに伝えることが重要だと考える。そうすることで、自然と偏見は消えていき、「誰ひとり取り残さない」社会のための制度がきちんと整備されていくのではないだろうか。

「取り残されている」人々のありのままの様子を知ること。学校でこれを学ぶ機会を設けること。そして、偏見をなくしていくこと。私は、これらが、「誰ひとり取り残さない」世界を実現するために必要不可欠であると考える。

ダノ ジャエル JTBトラベル&ホテルカレッジ

私はどんな人なのだろうか。

就活では企業研究ももちろん大切だが自己分析は避けては通れない。

私は専門学校2年生、1ヶ月前まで就活をしていた。父はフィリピン人、母はフィリピンと日本のハーフで私はクォーターになる。外国での生活が厳しく、教育環境が保障されている日本に移住して11年経とうとしてる。

私は誰よりも就活を早くにはじめた。業界関連の本を読み、夜遅くまで学校に残り努力をしたつもりだが結果はついてこなかった。私は一時期自信を無くし、自分の環境を責めた。自分が落ちたのは国籍が原因なのではないかとさえ疑ってしまった。人の第一印象は外見で9割で決まると言われている。もし私が周りの子と同じように、日本で生まれて日本の国籍を持ち、日本の名前を持っていたら付き合ってきた友達や周りからの対応も変わったのだろうか。面接官からの印象も違っただろう。このように周りを羨ましく感じた機会は数えきれない。

私のように自分自身のルーツを肯定できない子は少なくはないと思う。両親よりも子供の方が学校や友達といった日本の文化・慣習に触れる時間が多いため、自分のアイデンティティーとの葛藤に絡まれるのも無理はない。私は小学2年生の時に初めて日本語に触れた。父も母も日本語を話せない。両親だけでなく叔母の病院の付き添い、学校の書類作成や提出、幼稚園に通う息子がいる従姉妹の手伝いなど幼い頃から家族と支え合う必要があった。いまだに言葉や文化の壁があり、社会の中でも立場の弱い人々、その集団の一つである外国人が日本に多く住んでいる。最近は多言語パンフレットが増え、教育現場でも文部科学省が「外国人児童生徒の受入れの手引」を作成している。けれど観光立国を目指しているだけあって英語や中国語が中心で労働者の来日が多い他言語は手薄なままだと感じている。そのため学校の外国人生徒へのサポートだけではく、親同士の助けも必要だと思う。けれど否定的な感情を持ったままでは問題は解決しない。そのためまずは個人の意識から変えることが第一歩だと思う。当事者の立場に立ち、通訳はできなくとも困っていたら相談にのるといった積み重ねは周りへの波及効果があるはずだからだ。

新型コロナの感染拡大によりあまり可視化されなかった事実も浮び上がった。多くの外国人労働者や技能実習生の雇止めや就業時間の大幅な短縮が行われた。人間として共に生きて形成している社会。グローバル化が進むなか人々の交流はもっと加速する。それに伴い移民の増加は避けられないだろう。

自分は当事者であり手を差し伸べない理由はない。そこで私は就活を辞める覚悟をした。大学に編入し「移民」の分野を研究しようと決めた。「移民社会」である現実から目を背けるような大人にはなりたくないと強く思ったからだ。私は自分を惨めに思っていない。いや、実際は思いたくない。「衣・食・住。この3点が揃っているだけで幸せだと思いなさい。」これは母の口癖だ。人と違うということ。日本は外国と比べ圧倒的に閉鎖的に感じる。それは、移民大国であるアメリカのように英語が公用語ではないからという理由も否めないと思った。自分の置かれている環境が厳しくも、夢見ている子供たちの目標が実現される社会であってほしい。小中学生への学習ボランティアは社会に浸透しつつある。だが大学受験を控える高校生への支援はまだ足りないと感じる。特に外国人世帯の収入は低いため、進学を諦めて中卒で仕事を始め家族を支える子供が現実にいるのだ。

SDGsがなぜ「誰一人取り残さない社会」を求めているのか。それは「貧困や格差を放置することで社会にさまざまな問題を生み出し、社会そのものが持続していけなくなるという危機感に基づいている」と以前目にした。個人の努力とは関係なく立ちはだかる壁がない社会になってほしい。一人一人の権利の保証は国籍を問わないからだ。人権を保証する社会。民族、性別、宗教関係なく一人の人間として自分の居場所がある社会の確立は簡単ではない。まだ19歳である自分に政治や法律をすぐに変える大きな力はない。社会を変えることは長いプロセスを伴うだろう。けれど小さなことでもいいから、「自分にできることは何か」常に問うことを大切にしたい。ボランティア団体や国際交流会に関わることは誰でも挑戦できる。自分自身の視野を広げ、周りと共有する。助けるのではない、つまり手を差し伸べるのではなく共に歩むこと。同じ世界で生まれ同じ尊厳を持つ人間として一人一人が考え直さなければならない概念ではないか。

立之奈々穂 帝京科学大学 4年生

 

「誰ひとり取り残さないSDGs」とは、何を意味するのか。私は、「誰もが当事者である」と言うことに気づく事だと考える。さらに、SDGs「誰ひとり取り残さない」を考えた時、はじめに何を思うか。私は初めてSDGsという言葉に出会った時、小学生の時に図書館で読んだ本や、実際に経験したことの答えが「ここにある」と感じた。今回は「本」と「実体験」より、私が思うSDGsについて話そうと思う。
 一つ目は「本」に関してだが、読むことはあまり得意ではなかったので、写真がメインのものを中心に見ていた。写真にはアフリカでの干魃や飢餓、紛争による貧困問題や子供兵関して掲載されており、幼いながらに「なぜ同じ地球上に生まれているのに、こんなにも自分と状況が違う厳しい環境で暮らさなければならないのか」、「どうやったら解決出来るのだろうか」とよく考えていたのが思い出される。この部分をSDGsに当てはめると、環境・人権問題が最も妥当であるが、これらの引き金になっているのは、実は私たちの様な先進国だったりもする。環境問題で有名な話といえば、「地球温暖化」だ。衣服や機械の製造、畜産業から起こる二酸化炭素の排出量を制限してこなかった事が原因とされている。また、紛争では、スマートフォンに使われるレアメタルの採掘を巡って貧富の差が出ていることが報告されている。これらの事実は、高校生のときに知ることとなるが、あまりにも衝撃すぎて、本当に私たちが地球規模の問題に影響しているのかと理解が出来なかった。さらに問題だったのが、今まで勝手に「アフリカは貧しい国だ」と思い込んでいたことだ。目に見える範囲で何も起こっていなければ、裏側は無視しても良いのか。そうではないはずだと考えさせられた。干魃や紛争は、規模が大きすぎて今すぐに変えられるわけではない。しかし、今自分が出来ることとして、一つの物を長く使用したり、マイボトルを常に持ち歩く、さらに食品に関してもきちんと生産過程が透明になっている物を選ぶなど、少し意識するだけで変えられることは積極的に取り組むようにしている。
 二つ目はジェンダーギャップ、「偏見」について。ここでは2つの体験談を挙げる。
 私は幼い頃からよく外で男の子たちと遊び、洋服もスカートよりパンツ派であった。習い事のバレエでも、男の子役を好んで演じた。当時は何も気にせず、好きな事を好きなようにやっていた。しかし、成長するにつれ、次第に「女の子らしさ」を世の中では求められるのだと感じる様になった。SNSでも「このコーデを組めばモテること間違えなし」「シンデレラ体重・おブス体重」など、特に自分を形成するのに大事な思春期にこれらの記事を目にする様になり、ありのままの自分を受け入れることが難しいのは、気がつけば大学生まで続いていた。
 次は、メイクについて。昨年末、私はとあるカフェに入った。お会計を待っていると、2才ぐらいの女の子とその父親が話しているのが耳に入った。女の子はテーブルで子供向けの口紅や、アイシャドウで遊んでいたが、その最中に「どうしてパパはママに化粧して欲しいって言わないの」と尋ねた。すると父は、「ママは普段からしないし、化粧しなくても可愛いじゃん。でもこれはママだけじゃなくて、女の子みんなに言える事だよ」と続けた。そのあと、「じゃあ私が化粧しなくてもいいの」「うん!もちろん!」と言って会話は終了した。短い時間で、私は「たった2才の子にも、女の子はいつでも完璧にしないといけないと思わせていたのか」と悲しくなると同時に、「こんな素敵な意見をもつ人もいるのだな」と嬉しくも感じた。
 これら二つの事柄は、まさに社会が作り上げた「偏見」に、個々の考えが埋もれてしまっているのだと身をもって経験した瞬間であった。
 これまでいくつか例を挙げてきたが、私が本当に伝えたいことは、環境問題やジェンダー問題そのものではない。大切なのは、問題の本質そものもを見抜く事である。なぜその様になってしまったのか、解決策は何通りあるのかという様に、常に自分に問いかけてみてはどうだろう。問題の表面だけを知ったとしても、本当の意味を考えなければ、また繰り返すことになるのは目に見えている。現状に満足していれば、問題提起する事は難しいが、皆一度は「こうなって欲しい」と社会に対して思った事があるのではないか。私はこの一年自分とよく対話し、色んな人や団体とも話し、様々な社会問題に取り組んできたが、共通して言えることは、それぞれが異なる意見を持っていること。そして無知は恥ずべき事ではないと言うこと。初めは知らなくて当たり前。でも「知」の部分を知る事ができたのなら、少しでも行動し、物事をプラスに捉える習慣をつける。そうすればSDGsの課題は克服できると考える。運よく私達は同じ時代、同じ地球に生きているのだから、あとちょっとだけ、自分に優しくなってみませんか。

 

木屋篤彦 青山学院大学

 

 私の祖母は現在一人で暮らしている。家族は祖母を気にかけ数か月に何度か家を尋ねて
いたが、昨今の新型コロナウイルスの感染拡大によってそれが難しくなり、私も祖母と1年以上会えていない。密になることを避けるように求められ、近所の人々とも会話をすることも減ったという。人とのつながりが希薄になり、孤独を感じている。私たちの世代はコロナ禍でも職場や学校にコミュニティがあり、インターネットを通じて人と関わることができる。今後、求められるであろう「withコロナ」の生活の中ではインターネットの重要性が増してくる。しかし祖母のような高齢者はインターネットの使い方を知らなかったり、そもそも多くがデバイスを所有していない。その結果、孤独を感じる高齢者は多いだろう。そういった高齢者が今の社会で“取り残されている”のではないか。
 2019年の総務省の統計によると、インターネットの年齢階層別の利用状況は全体で89.8%にものぼるが、70~79歳で74.2%、80歳以上で57.5%と年齢が上昇していくにつれてインターネットの利用率が減少している。
 そもそもなぜ高齢者はインターネットの使用を敬遠するのだろうか。その理由の一つに
操作の難しさがあると考えられる。現在のスマートフォンやパソコンには様々な機能が備え付けられているが、かえってそれが高齢者にとって使いにくさを招いている。家族や友人とテレビ通話を楽しむこと、困ったときに相談員にすぐにつながることなどが求められ、これだけでも人とのつながりを感じ、孤独感の解消につながるだろう。ほかの機能は各々が必要なアプリを選択し取り込めばよいのである。
 雑誌を読んでいたところイギリスのジャージー島でのある取り組みについて書かれてあった。現地のスタートアップ企業が作ったアプリをインストールしたiPadを郵便局員に持たせ、郵便物を配達する合間に月額約1000円で契約した高齢者のもとを訪ね、「昨日は眠れましたか」「3食ごはんを食べましたか」「痛いところはありませんか」などのYes/Noの簡単な5つの質問をして健康状態を確認するというものだ。時間にして約30秒である。回答にNoが続いた場合は現地の総合病院にアラートが届き、ケアワーカーがやってくる仕組みだ。その結果として、郵便局員との会話機会が増え、孤独やうつ病に陥る高齢者の数は減り、重症で搬送される高齢者も減ったという。ここでの行政の役割はアプリ作成企業へのお墨付き、病院や郵便局等の関連公共機関の調整、そして実施への後押しである(財務省広報誌『ファイナンス』662、2021年1月)。
 こうした取り組みは日本でも工夫次第で可能だろう。郵便局は民営化されたが、このような取り組みをすることは大きな効果が得られるに違いない。一気に全国とはいかないだろうが、離島などの高齢者の多い地域で始めると良いのではないか。わずかなつながりでも、高齢者の孤独感は解消されるだろう。それが“誰一人取り残さない社会”への第一歩となるに違いない。

 

服部奈帆 県立多摩高校 3年生

 

「誰一人取り残される人がいないように、多様性を受け入れ、理解を深めるべきだ。」最近、このようなニュアンスの記事やニュースを目にすることが増えた。世界中の人達が心の底から理解し合える日がくることほど、素敵なことは無いと思う。しかしそれと同時に「理解される」ことほど難しいこともないと思う。そもそも、他人を「理解」することは可能なのだろうか。また、どうしたら「誰一人取り残されない」を実現できるのか、私なりに高校生活という小さな世界の中から考えることにする。
部活もあり、行事もある。そんな青春真っ盛りの私たちにも悩みはある。勉強、家庭の問題、人それぞれたくさんの悩みを抱えていると思う。また、誰もが1度は人間関係で悩んだことがあるのではないだろうか。学校問題でいじめはよく取り上げられるが、別にいじめだけが人間関係の問題ではない。喧嘩や些細なすれ違いまで、数えだしたらきりがない。私は些細なすれ違いからちょっとした喧嘩に発展することがよくある。第三者から見たらどうでもいい事で揉めていると思われるかもしれない。第三者からどうでもいいと思われているということは、私はその人から理解されていないことになるが、喧嘩している私達も相手のことを互いに理解出来ていないから、喧嘩になるのである。理解の深化が可能で、完全に理解し合うことが出来たら、いじめや喧嘩が無くなるはずだ。それが出来ていないから学校問題が生じるのだ。
また、相人を理解するには「相手の気持ちになって考えてみよう。」、「相手の立場に立って1度考えてみよう。」とよく言われて育ったが、相手の気持ちや立場をそのまま自分に再現することは不可能ではないだろうか。話を聞き、それに基づいて過去の自分の経験を想起することは出来るかもしれないが、「相手の気持ちになって」「相手の立場に立って」となると、話は別だ。そもそも、理解して貰いたい自分の気持ちを相手に100パーセント伝えることは出来ないと思う。あのときどう思った、何が嫌だったなど、昔の話なら尚更である。話している自分でさえ、その時の気持ちを今正確に理解することは出来ない。私は不満を溜め込む性格で喧嘩をした時に一気に昔の不満を爆発させることがよくあった。親と喧嘩した時に「あの時これが嫌だった」「もっとこうして欲しかった」など、爆発するように伝えていたが、それは昔の感情であり、その当時の気持ちを今再現しているわけではない。今相手に伝えている感情はその時感じた新鮮なものでは無い。さらに、話していたら興奮してしまい、話を盛ったり、ちょっとした嘘をついたり、想像で話してしまうことは誰にでもある。自分の気持ちや立場を人に理解してもらう元になる話が再構成されて事実と異なる可能性があるのだから、正しく相手に理解してもらうなんてできるはずがない。これらの理由から私は私は他人に理解されることは難しく、ほぼ不可能であると考える。
ここで私が主張しているのは「理解」の難しさであり、「誰一人取り残されない」を否定している訳では無い。多様性を理解されることができなくても、多様性を認めてもらうことができたら「誰一人取り残されない」を実現出来ると思う。認めるには「価値判断をしない」とか「決め付けない」ことが大切だ。そこにあるものを、否定も肯定もせず、ただ受け止める。理解することは出来なくても、「そんな人もいるな」と、軽く考えることが出来れば、人間関係のゴタゴタも無くなるのではないだろうか。したがって私は「取り残される人」を「理解されない人」ではなく「認められない人」だと考える。だから、私はこれから馬の合わない人にあっても、そういう人もいるんだと、その人のことを認め、人からの理解を強制するのをやめようと思う。

 

中田柚葉 神戸大学 4年生

 

 「取り残された」という言葉を聞くと、膝を抱えてうずくまり、涙を浮かべて歯を食いしばる人の姿が思い浮かぶ。誰かに見られることも、日が当たることもなく、取り残されていることさえ気づかれない。それは、翌日命を落とすテロリストの姿。ヘイトスピーチを叫ぶ者の前夜の姿。死をゆっくりと迎い入れる自殺者の姿。明日食べるものがない貧困者の姿。そして、希望がみつからない私の姿だ。
 取り残された人々は、黙って取り残され続けるわけではない。どれほど取り残されても、他者や社会とのつながりは、完全には切り離せない。ある日顔をあげ、目に映る何かにすがるだろう。それが希望や支援であるならば幸いだ。しかし、時にはテロリズムや権威主義的政権、さらなる弱者が、彼らの目に唯一映るものかもしれない。自分が失われるような恐怖や不安に耐えるより、恐怖や不安を与えて自分の存在を人々の目に晒す方がよっぽど容易だ。そうして、取り残された者が人々の目に映るとき、彼らはもはやかわいそうな弱者ではない。乱暴に皆を取り残して猛進する、脅威の対象として映るだろう。ただ幸福に生きたい。愛されたい。自分の尊厳を誰かに認めてほしい。希望のない社会に追い詰められてとった行動は、取り残された者の切なる願いを儚く消してしまう。
 そして、彼らの願いが消えると同時に、私たちの願いも消えることとなる。取り残された人々がすがった先には、いつだって取り残した私たちがいる。脅威は安全を奪い、不安はさらなる悲劇を生む。取り残された人々は、いつまでも取り残されたままで泣いていてはくれない。そう、私も、気弱で周りを気にする少女のままではいられない。
 この社会はおかしい。誰ひとり取り残さないと言いながら、農薬で人々を苦しめて安い食品をつくり、半分以上が着られずに捨てられる洋服を脆いビルの中でつくらせ、ごみで人の健康と家を奪う。経済成長は続くと嘘をつき、いらない商品を騙して売り込み、エッセンシャルワーカーを低賃金で働かせる。この社会はおかしい。理想を語れば冷笑され、口を開けば「現実を見ろ」「しょうがない」、自己責任論を振りかざして責任逃れをする。そのくせ、私たちはいつまでも幸せになれない。いつまでもお金はなく、孤立は深まり、未来は暗い。
 本当に取り残されているのは誰だろう。理想論を必死に叫んで、もがいている私だろうか。それとも、「しょうがない」とつぶやいて、明日も仕事に出かけるあなただろうか。いや、私もあなたも取り残されている。正義から。幸福から。本当は道具であったはずの経済や政治のシステムから。取り残されている。
 気候変動なんて、起こすつもりじゃなかった。誰かが搾取されているなんて、知らなかった。私たちの未来がないなんて、想像していなかった。ただ、自分と大切な人が幸福であってほしい、それだけだったのに。暗い未来が迫ってきても、取り残された私たちは、未だ膝に顔をうずめて歯を食いしばったままだ。
 だから、その目に希望を映したい。私自身の目にも、あなたの目にも。社会は変えることができるのだと、人間は正義と幸福を取り戻せるのだと、信じたい。皆が絶望に追いやられてしまう前に。皆が危機を呼び合う事態になる前に。私たちは、全ての人が危機にさらされる社会をつくるか、誰ひとり取り残さない社会をつくるかの、分岐点に立っている。生き残りゲームはもうやめよう。いつ自分が置いていかれるのかと怯えながら、必死にみんなについていく毎日には、もううんざりだ。襲い来る気候変動に格差拡大。ゲームを続けても、取り残され続ける私たちは、結局幸せにはなれない。それならば、誰ひとり取り残されない社会を、本気で目指してみよう。私たちの幸福を取り残して動き続けようとする、経済成長も権力抗争も、おしまいだ。システムを私たちの手に握りなおして、私たちの幸福のために使う道具に戻そう。
 私たちは取り残されない。正義や幸福から。道具であるはずのシステムから。もう取り残されない。誰ひとり、取り残させない。今こそ誓おう。今こそ、顔をあげる時なのだ。そうして、隣でうずくまっている誰かの目にも、希望を映すのだ。

 

m 大学3年生

 

「誰ひとり取り残さない」とは、どういうことなのか。この言葉だけを聞くと、とても大きな問題に感じる。日本でのことなのか、世界でのことなのか、そんな風に考えると自分が小さすぎて無力に思う。いきなり大規模で考えるとイメージが湧かないのであるから、まずは身近な生活の中で考えたい。
私は今、「日本語教育」という分野を大学で学んでいる。文化庁によると日本に在留する外国人の数は、令和元年末には約293万人だという。この中で、日常生活に困らない程度の日本語を話せる人数は一体どれくらいいるのだろう。さらに細かく見ていくと、同じく『文化庁国語課の国内の日本語教育の概要』 より、令和元年11月1日現在、国内における日本語教育実施機関・施設等数は2,542、日本語教師等の数は46,411人、日本語学習者数は277,857人とある。これらの数字を見れば、日本語教育の需要に供給が追いついていないことは明らかだ。それならば、さっさと大きい数から小さい数を引き算して、足りていない分の数を増やせば良いなんてそんな単純なものであるはずがなく、この結果に至るには様々な原因があるはずだ。しかし、今回はあえてそこには触れないでおく。前述した通り、私は身近な日常生活から考えていきたい。
高校生の時、私のクラスには一人の中国人の女の子がいた。彼女は、一見とても静かでおとなしく、人と話している様子を見ることはあまりなかったように思う。彼女はいつも一人でいたし、常にイヤホンをしてスマホとにらめっこ状態だった。高校に入ってすぐに、大学見学が行われた。名の知れた有名大学を見て回っている中、お昼の時間となり学食でご飯を食べることになった。私はクラスの友達4~5人程で机を囲みお昼を食べようとしたその時、ふと机に一人で座りご飯を食べようとする女の子に気が付いた。中国人の彼女だ。私は反射的に、「一緒に食べようよ!」そう声をかけたのだが、何と言ったか聞き取れないくらいの小さい声で断られてしまったのだ。「そうか…」と思い、一緒にご飯を食べることを諦めた。それから何事もなく一年半が過ぎ、修学旅行の時期となった。私はよく一緒にいた5人の友達と宿の班分けをすることとなり、3人と2人に分かれた。私は2人の方だったのだが、そこに「中国人の彼女が入る」と先生に言われた。勿論受け入れたが、修学旅行当日、中国人の彼女は居なかった。先生に話を聞くと、修学旅行はいかないと言ったそうで学校に残って課題をしているということだった。また、月日は流れ高校三年生になった時、中国人の彼女と席が隣になった。私は、特に何の迷いもなく授業でわからなかったことや、何でもない世間話するなどして声をかけた。彼女と二人で面と向かって話したのは初めてだったかもしれない。彼女は、私の何でもない話に付き合ってくれた。話してみると、変な冗談を言ったり、抜けている部分も沢山あって、話すたびに彼女を知り同時に仲良くなった。入試が近づいてきたころには、一緒に図書館へ行って勉強するようにもなった。高校生活の最後の最後で非常に距離が縮まったのだ。ある日、「大山I(中国人の彼女)を変えたよ。」そう担任の先生に言われた。気づいたら、私の周りにいた友達は、男女共に関係なく中国人の彼女と楽しそうに会話をしている。そしてまた、中国人の彼女も笑っていた。
当時の私は、何も考えずただ隣の席になったからという理由だけで、中国人の彼女にしゃべりかけ、距離を縮めていった。しかし、その何気ない行動が、結果としてクラス全体を巻き込むこととなり、一人の女の子の日常生活を変えることとなった。卒業するころにはすっかり仲良くなった私達であるが、彼女に「あの時声をかけてくれなかったら、私の高校生活は最悪なもので終わってたと思う。このことは絶対忘れない。ありがとう。」と言われた。この瞬間に、自分のしたことに関することの大きさに気づかされた。
ここで学んだことは、自分の行動で周りの人の行動に変化を与えることが出来るということ。この経験は、非常に大きなものだと思う。日本語を話せるのにも関わらず、中国人というだけで、距離を取られてしまうことがあるのに、話せなかったどうだろう。私たちに出来ることは、手を差し伸べる一歩を踏み出すこと。これが結果的に、周りを変えることになる。

 

村瀬悠 横浜国立大学 2年生

 

私が初めてSDGsという言葉を知ったのは、2017年の夏、高校の校外学習プログラムで神戸大学とWHO神戸センターを訪問した時である。SDGsが国連で採択されてから2年がたっていたものの、SDGsという言葉も概念も、決して今のように社会に浸透してはいなかった。当時、わずかながら開発協力に関心を持っていた私にとって、先進国においても途上国においても「誰一人取り残さない」包括的な開発を謳うSDGsは、非常に新鮮なコンセプトであった。以来、SDGsに関心を持った私は、学校での探究学習や他校との交流学習などに熱心に取り組んできた。
 しかし、大学進学を機に首都圏へ移り住んだことで、私の認識は大きく変わった。周りにいるのは、高校生のころからSDGsの啓発活動に取り組んできた人、様々なイベントに登壇して持続可能な社会をつくるための考えを発信してきた人、環境保全のために政策提言に取り組んできた人……。彼らの多くは、学校の枠を飛びだして、民間のNPOやNGOなどが提供する学びの機会を積極的に得てきた人たちだったのである。果たして、私の地元にそんな機会があったであろうか。「誰一人取り残さない」ための学びを重ねてきたと思っていた私が、実は持続可能な社会をつくるための学びから「取り残されていた」のではないか、そう感じたのである。
 教育格差と聞いて思い浮かぶのは、経済的な事情や地域の違いによって受けられる教育が異なることだろう。私が感じたのは後者、とりわけ地方と中央の間における市民社会組織による教育リソースの格差であった。様々な実践学習のプログラムも、活発に意見を交換できるフォーラムやイベントも、東京ではありとあらゆることが行われる。高校生にとって、往復2万円近くをかけて東京と地元を行き来するのは容易いことではない。どれも「誰一人取り残さない」ための素晴らしい活動なのに、その活動に「取り残される」人がいてよいはずがない。そこで私は、大学で出会った友人とともに新たなプロジェクトを開始した。
 プロジェクトでは、主に2つの活動を展開している。一つは、動画やスライドなど、SDGsを扱う授業で使えるコンテンツの開発・製作である。制作したコンテンツはクリエイティブ・コモンズ・ライセンスのもとで公開し、全国津々浦々の教育現場で利用いただけるようにしている。もう一つは、オンラインでのワークショップである。ワークショップは、日本の中心・東京から全国へ学びの機会を届けていきたいという願いを込めて「TY2」(Tokyo to の意)と名付けた。昨年度は、広島県のある中学校の総合的な学習の時間で時間をいただいて、画面越しにワークショップを行ったり、首都圏の大学生を招いたオンライン学習成果発表会を行ったりした。これらのワークショップではSDGsを根底に据えつつも、地域の背景や課題に応じたコンテンツを展開している。広島県では、被爆地としての歴史的背景や平成30年の西日本豪雨などを踏まえ、平和や防災をテーマとした。参加した生徒たちが、地域での防災啓発活動に取り組んでメディアにも掲載されるなど、主体的な活動を繰り広げてくれているのは嬉しい限りである。
 今後は、授業用映像やTY2のコンテンツをさらに拡充し、より多くの地域のより多くの生徒たちに「学びとつながりの場」を届けていく予定である。プロジェクト開始からもうすぐ1年となるが、まだまだ取り組めることは多いと感じている。「誰一人取り残さない」社会を実現するための活動を、「誰一人取り残すことなく」着実に実行していきたい。

 

川内公介 東大和市立第二中学校

THE WORLD WITHOUT DISCRIMINATION  

一人の歌手が私の差別に対する思いを変えた。言葉もリズムも違う海を越えたアメリカのDABABY氏が作ったROCKSTARという曲だ。この曲は、アメリカの黒人男性が白人警察に首を圧迫されて死亡した事件がもとになっており、ミュージックビデオではDABABY氏が警官に首を圧迫されながらも力強く差別について歌で語る様子が流されている。曲の冒頭には「Even if I told you, still wouldn’t understand what happened」(俺が言ってもどうせ分かろうとしないんだろ)というフレーズがあり、何度も起きる黒人差別に対して、人々が悲痛な叫びを訴えても変わらない状況の深刻さを、曲を通して表現している。

私がDABABY氏の曲に心を動かされたきっかけは新型コロナウイルスによるアジア人差別だ。

今世界中で起きてしまっているアジア人差別は、新型コロナウイルスの発生源がアジアだからという理由で僕らアジア人は差別を受けている。実際に海外ではアジア人に対しての暴行事件などが多発しているそうだ。

実際に僕の身の回りにはコロナで差別を受けた人がいる。それは僕らの社会科の先生だ。僕らの社会科の先生は以前青年海外協力隊としてベナンで活動していた経験がある。その時に先生はコロナによる差別を受けたそうだ。ベナンの大人だけでなく子供にも道を歩いているだけで
アジア人ということを馬鹿にされたそうだ。僕はその話を聞いて恐怖を感じた。ただ道を歩いているだけで馬鹿にされてしまうだなんて、僕ならとても怖くて外を歩けないと思った。

ただ道を歩いているだけで罵声を浴びせられ、殴られ、酷いときには殺されてしまう。これに恐怖を感じない人などいるのだろうか。

今回はアジア人、黒人差別を題材として話をしたが、僕らも日常の中で気付かない内に差別をしてしまっているケースがある。例えば、自分のクラスに新しく海外からの転入生が来たとしよう。

転入生は日本語が分からず、困っている。それをみた僕が彼のために身の回りの世話をしたとしよう。これは一見親切な行動に見えるが、これは捉え方によっては差別になる。外国人だからという理由で他人とは違う対応をとっているのだからそういう捉え方もできるのだ。このように僕らも気付かない内に差別をしてしまっているかも知れないのだ。悪意のない差別というのはかなり起きてしまっているので、日々の自分の行動、発言に気を付ける必要がある。

どうすれば、このような悪意のない差別をなくせるのか、それは平等な視点を持って発言をすることだと思う。難しいことかもしれないが、意識をするだけで差別は少なくなるのではないかと思う。

そして僕には差別を無くすために何ができるのか、僕が差別をしないようにするのはもちろん、このような作文を作り、呼びかけをするなど色々なことができるのだと分かった。

皆さんは差別についてどう思いますか?

 

川中似衣菜 大阪府立緑風冠高等学校

 

皆さんは”3万”という数字を聞いて何を思い浮かべますか? この数字は、日本の平均寿命80年を日にちに表したものです。私は今日6月30日で生まれてから6643日経ちました。その間ほとんどの日本の子どもたちは義務教育を受け、温かくておいしい給食を食べられる環境がありました。現在では多くの子どもが義務教育を終えた先に高校大学と進むことが増えています。さらに、安全に登下校できるように地域の方々が見守ってくださっています。しかしこのような環境で生きていることは当たり前なのでしょうか。私が生きてきた6643日を3万日から引くと、残された時間は2万3357日。しかしすべての人がこのように快適に続く日々を過ごしているのでしょうか。私は国境を越えて、ある少女の暮らしに着目しました。
 今日、バングラデッシュではある少女が朝早くから人でごったがえす場所に出勤しました。彼女はそこで落ちている食べ物を拾い、更に物乞いします。怒鳴られたり無視されたりしても彼女は「何かください」と繰り返します。彼女は学校に行ったことも、十分な教育を受けたこともありません。何故そこまでしてこのような生活を続けるのか。それは、彼女や家族が今日、生きるため。彼女は今日食べることのできるものを得なければなりません。彼女の生き方が変わる日は来るのでしょうか。私はふと思いました、日本で彼女のような子どもはいるだろうかと。地球上には食べられない人と食べ過ぎている人、さらに十分に教育を受けることができない人がいるのです。これらの問題を解決するために私は学生でも取り組むことができる2つの活動を考えました。
 1つ目は学校の購買部でノートや文房具を買うと、そのうち10円が寄付金になるという活動です。この活動で集まった寄付金はノートや鉛筆など物資として、必要としている地域へ届けたいと思います。
 2つ目は「学生でもできるテーブル・フォー・ツー」です。皆さんは「テーブル・フォー・ツー」という活動を聞いたことがありますか?その活動に参加している飲食店や企業の食堂などで食事を1食とるだけで自動的に途上国の子どもに給食を1食ごちそうできてしまうという活動です。私はこの活動を知り、学生でもできるテーブル・フォー・ツーを実現したいと思いました。具体的には学校の食堂のメニューを20円上乗せした価格で設定し、その20円で途上国の子どもに給食を一食ごちそうしようという取り組みです。これを大阪府の多くの学校で行えば、途上国のより多くの子どもたちのもとに栄養がありおいしい給食を届けることができるでしょう。
 この2つの活動は世界中で取り組まれているSDGsの活動にも繋がります。SDGsとは、持続可能な開発目標の略で、2030年までに先進国も新興国も途上国も、企業もNPOも個人も、あらゆる垣根を越えて協力し、よりよい未来をつくろうと国連で決まった17個の目標のことです。
 私が大学生になったときにはさらに多くの人々がSDGsという言葉を知っているでしょう。私はもっともっと多くの人にいま起きているこの現状を知ってもらうために新たに私自身がこの「学生でもできるテーブル・フォー・ツー」のプロジェクトを立ち上げ、更には途上国へ足を運び、自分の肌で感じたいと思っています。いま私ができること。それは言葉の壁を無くすためにもっと外国語の勉強をすること。そして世界が、子どもたちが安心して暮らせる場所になるために世界中で起きていることに注視していきたいです。”誰ひとり取り残さない世界”それは、国や境遇を超えて世界中の誰ひとりが「今世界で起きていることから目を背けないこと」だと思います。私は変えます、みんなが温かくておいしい食卓を安心して囲むことができる世界に。

 

杉江つくし 横浜国立大学 1年生

 

 SDGsとは持続可能な開発目標の略称であり、2015年に国連によって掲げられた17の目標を指す。近年、様々な場所でSDGsという言葉を聞くようになった。それは、国会のような政治家の口からだけでなく、テレビ番組を仕切る芸能人や、テレビのコマーシャルなどでもこの「SDGs」や「持続可能な社会」という言葉が使われている。貧しい人や性的マイノリティを持つ人など、様々な立場にいる人々を誰一人取り残さずに、ともに発展をしていく。私たちは今、このような日常の中にいるが、SDGsのために行われている取り組みは、本当に誰一人取り残さずに発展をするという目標を果たすことができるのだろうか。
 SDGsの内容は、主に貧困層やジェンダーに対する取り組み、エネルギーや経済成長、そして環境保全など、幅広い状況にある国々及び世界全体に対する目標を掲げている。日本ではは貧困層、ジェンダー、環境保全、街づくりに関する取り組みが多い。実際に横浜市の政策では、街づくりに環境保全を結び付けたものかいくつか挙げられている。他にも性的マイノリティを持つ人々に対するパートナーシップ制度がいくつかの都市で認められるようになっているなど、ここ数年で日本は確実にこのSDGsという目標に向かって歩み続けている。
 しかし、私は一つ疑問をもった。それは「政府や企業等は本当に当事者の人々の声を聴いているのか」という点だ。このように思ったきっかけはとあるニュースを目にした時のことだ。そのニュース番組では、女性の避妊薬を薬局で販売可能にするのか、という内容について議論をしている場面を放送していた。その映像ではおよそ30人ほどの大人たちが話し合っていたが、その中に女性は3人ほどしかいなかったというのがとても印象に残っている。この議論における当事者というのはいうまでもなく「女性」である。しかし、なぜその当事者たちはこの議論に参加していないのか、参加者のほとんどが男性であるあの場で女性の立場や考えというのはどれほど尊重されるのだろうか。
 確かに、ここ数年で様々な人々が社会で生活をしている、それぞれが互いを理解しあい、尊重をしあう必要がある、という考えが広まり、以前と比べると性的差別が減少し、女性だからと卑下されることも減った。しかし、いくら互いを理解しあおうと努力しても、私は当事者にしか理解できないこともあると思う。その最たる例がこの避妊薬への考えだと思う。
 男性には性交渉の際にコンドームをつけることで自衛することができるが、女性には自衛の術が一切ないのだ。コンドームでも完全に避妊をすることはできず、一度妊娠をしてしまうと、女性側は精神および身体的にも大きな負担となる。産むにしても、堕胎するにしても女性への負担は計り知れない。その苦しみ、恐怖は口では説明できても、それを理解し得るのは同じ女性だけだと私は考える。
 このように、日本や世界には様々な問題を抱える人々がおり、様々な国の政府や企業、NGO団体等がその人々とともに発展していくために様々な取り組みを行っている。しかし、私はまず、その問題を抱える当事者達の意見を聞き、彼らの生活を知り、そして物事を決める様々な議論に彼らを積極的に参加させることが、誰一人取り残さない持続可能な開発目標を実現させるために重要だと考える。

 

新開怜奈(しんがいれいな) 聖心女子学院高等科 3年生

 

 「誰一人どころじゃない、瀬戸ヶ谷町のお年寄りみんなが困っている。」
新型コロナウイルスワクチン接種の予約が、高齢者には難しいとテレビなどで知っていたけれど、こんな大変なことになっているなんて。ニュースが急に降ってきたような衝撃でした。

 私は中学生の頃から学校でSDGsを学び、沢山の方々の講演を聞く機会に恵まれてきました。学校のSDGsのサークルでも毎週活動をし、この夏体みには主催校として姉妹校間をオンラインで繋ぐSDGsのイベントを企画していています。そこでは、各校でのSDGsの活動発表、セミナーそして講演会等を予定しています。SDGs検定に合格したこともあり、SDGsも、またSDGsが掲げる「誰一人取り残さない社会」についても分かっているつもりでいました。

 しかし、こんな身近に取り残される人が、困っている人が沢山いるなんて全然気が付きませんでした。私は母の犬の散歩仲間の方々を通して、取り残しの現実を知りました。
きっかけは、母が一人暮らしをしている高齢のお仲間に、「良かったら変わりに予約を取りましょうか」と声をかけ、ワクチン接種の予約を取れたことでした。それが地元の高齢者の中であっという間に広まり、散歩の時に他の方々からもお願いされるようになりました。さらに元々の散歩仲間だけでなく、知り合いの知り合いまで母を頼って自宅にまで来るようにもなりました。なぜこんな大変なことになっているのだろうか。私は不思議でした。コールセンターが繋がらないことに対してではありません。お年寄りの方は忍耐強く、朝から夕方迄何度もかけていました。困っていたのはスマートフォンでの申請でした。メールアドレスを登録する。登録したメールアドレス宛にくるURLをタップする。そのどちらもが難しく、そもそもご自分のメールアドレスが分からないという方も複数いました。その方々の分は、母が自分のメールアドレスを登録して申請をしていました。

 日頃からスマートフォンを頻繁に使っている高校生の私には、自分のメールアドレスが分からないということは想像できませんでした。でも現実に困っている方がいらっしゃいます。では、どうしてこの様なことが起こってしまったのでしょうか。それは想像力だと思います。出来る人が、出来ないかもしれないと想像することは難しいと思います。だからと言って、当たり前という言葉で済ませて良いのでしょうか。そんな事ではとても「誰一人取り残さない社会」の実現は出来ません。

 どうしたら「誰一人取り残さない社会」の実現が可能になるのでしょうか。想像することが難しいならまず、全ての事は出来る人もいれば出来ない人もいて「当たり前」とするのはどうでしょうか。「当たり前」なのだから、出来ない事はダメではなく当たり前のこととなるのです。私はこの「当たり前」を世の中の意識として広めたいです。私は健常者ですが、出来ない事は沢山あります。同級生に出来て私に出来ない事も沢山あります。ひとくくりにしたところで、一人ひとり違うのです。障がい者、女性、子供、高齢者だから出来ないのではなく、誰かにとって便利になる事であっても、それによって困る人は必ずいると皆が思える事。そして出来ない人がいるのなら、困っている事がないのかを想像する。思いを巡らし考える。困っている事が分からないなら、困っている人に問題点を教えて貰う。違う人間を認め大切にし合う、至極当然な事。これが誰一人取り残さない社会の実現の為の、はじめの一歩だと思います。

 他人との関係が希薄になっている現代ですが、人が暮らすこの世界で、人と人との関わりはこれからも必ず大切になると信じています。私は今、人間関係学という学問がある事を知り、より深く学びたく思い進学の為に日々頑張っています。大学では沢山の事を知り、色々な心を見渡せる人として社会へと出ていきたいです。そして将来の職業として、仮に公務員、メーカー、銀行どの様な職業に就こうとも、人を思い、自分に何が出来るかを常に考え行動出来る人の一人になりたいと思います。その様な人が増え支え合う事で「誰一人取り残さない社会」の実現に近づくと信じているからです。

 

 

松本心々音 立命館宇治高校 2年生

「不得意が取り残されるは当たり前なのか」

 私たちが生きる社会には、何でもできる人が存在するだろうか。いや、そんな人はないだろう。私は誰にでも得意、不得意が存在すると考える。そして、その得意、不得意によってほとんどの人が取り残されそうに、あるいは取り残される状況を経験し、それが身近で起きていることに気付いていない人が多くいる。私も、実際にその立場になっていたことを今回改めて気付いた。
 なぜ自分が取り残されている、取り残されている人がいることを知らない人が多いのか。それは、取り残された人のために逃げ道が用意され、それが当たり前になっているからだ。つまり、取り残されなかった人にとっては知らないうちに何事もなかったかのように問題が解決され、取り残された人にとっては救われたように感じる。しかし、それは本当に正しい対処なのだろうか。ひとりも取り残していないと言えるのだろうか。
 私はこれまで中学、高校と部活を続けていて、勉強はもちろん、部活にも一生懸命取り組んでいる。しかし、物事は順調には進まず、どこかで自分の壁にぶつかってしまう。中学の部活では、病気が原因で最後の大会の団体メンバーに入れず、精神的に追い詰められていた時期があった。最後まで諦めず部活に参加し、周りには笑顔を振る舞っていたものの、正直周りとの疎遠を感じていた。それでも最後までやりきれたのは、私に個人大会という別の道があったからだ。私はそれに向かう気持ちのほうが大きかった。大会メンバーから離されたような気持ちは変わらないまま、それを紛らわすかのような形で私を救った。高校に入ってからは違う部活をしているが、ここでも困難が待ち構える。今度は団体競技の部活に入ったため、得意、不得意の差や競争がより激しく感じられた。団体競技では当たり前のことだが、周りとの優劣が目に見えたことや、それによって仲間が部活を辞めたことは私の中でかなり衝撃的だった。人数が多いほど個人の得意、不得意がみられるが、初めはそれぞれの不得意を得意で補えていた。一方その子は周りよりも不得意が多く、月日が経つと明らかに周りとの差がついていた。その時は辞めると考えもせず、自分の不得意と戦っていた。しかし周りから離されたその子は、辞めるという別の道に救われ、取り残すという状況は私たちの中で消えた。
 これまでの経験上、私は取り残された人は救われたと解釈していたが、今では絶対にそうとは思わない。取り残す人を出し、取り残しているのは周りにいる私たちだからだ。特に部活の仲間が辞めたことは重大な問題で、そこから学んだことは忘れてはいけない。では、どうすれば取り残された人を本当に救えたのか。私が考えるに、まず一番大切なことは周りが協力し合うことだ。どの場合でも人は自分を優先してしまい、取り残されている人を見過ごしてしまう。大人数の社会で生きていく私たちにとって、互いに高め合い、共により良い形を作り上げていくべきではないのか。一生に一度しか出会えない人、ひとりひとりの価値を大切にしなければならない。そして協力し合えたら、自分でも他の人でも問題を抱えた時に、本来の筋道からも、周りの人からも離れていくような解決法を作り出さないことだ。また、既に存在する別の道が良いものだと信じてはいけない。不得意を得意に変えるのは無理で、最終的に諦めてしまう方向に進むと、結局その人が取り残されている状態や事実は何も変わらない。周りと離れた分を埋められる何かをみんなで考えるべきだ。
 このように、誰もが経験するようなことが、取り残されていたり取り残していたりするきっかけとなっている。ただの小さな出来事だと感じるかもしれないが、自分や大切な人の人生に関わる場合や、社会を変えるきっかけになる場合もある。日々の習慣から自分と周りを大切にし、誰もが平等でありながら生きられる社会になってほしい。

 

柴田杏子 鎌倉市立小坂小学校 6年生

 

 私は生活をする上で「取り残されている障がい者がいることをなぜだろう」と考えました。また、その原因は障がい者が暮らしやすい環境を作ろうとしていても、「その改善がまだまだ遅れているからではないか」と考えました。そのように考えたきっかけは、白杖などを使いながら生活している障がい者が健常者が便利に使えているものを便利に使えないものがある、と授業で知ったからです。なので私は見落とされているような、障がい者が不便に思っている事も改善して行くべきだと考えます。
 例えば、クレジットカードやポイントカードは、すぐにお会計が終わるなどの理由から健常者なら、多くの人が便利だと思い利用しているのではないでしょうか。けれど視覚障がいがある人にとって、点字がないカードだと、どれがどのカードか全くわかりません。なので、視覚障がいのある人には、「便利」とは感じないのではないのでしょうか。私はこの事から、ポイントカードでもクレジットカードでも、同じようなことから判断しにくい缶や手紙にも、みんなが利用しやすいように点字をつけるべきだと思います。
 次に電車やバスなどに乗る時に電車の席に座りたい時にその席が空いているかが分からないので、座ろうと思っても「人がいるかもしれない」と思い座ろうと思っても座れません。では、どうすればいいのでしょうか。私は、障がい者には席を譲ることが大切だと考えます。その理由は、視覚障がいだと、大きな揺れなどが起きたときに、視覚障がい者自身が動いてしまい、人にぶつからないようにしようとしてもどこに人がいるのかが分からないので、避けることは出来ません。そして、周りの人に迷惑になってしまうかもしれません。なので、そのようなことを防ぐためにも、視覚障がいのある人に席を譲るべきだと考えました。また、席を譲るときは肩を叩いたり、声をかけてあげたりした方が、視覚障がいの人には、わかりやすいと思います。
 最後にテーマパークや観光地によくある案内看板ですが、案内看板自体に点字があっても、案内看板の場所がわからなかったら、案内看板にある点字は全く意味がありません。また、案内看板自体に点字が書いていても、今のコロナ禍の中で、ウイルスがついているかもしれないので、触るのが嫌かもしれません。なので私は、横断歩道や駅のホームの点字ブロックも必要ですが、そこに付け足して、案内看板までの点字ブロックも作るべきだと思います。また、視覚障がい者用のパンフレットを作り、文字ではなく点字だけのパンフレットを作るべきだと思います。
  私はこのように健常者でも障がい者でも公平にくらしていくためにまだあまり改善されていない小さなことも改善していけば、視覚障がい者の負担もへり、より暮らしやすい環境になるのではないのでしょうか。私は、不公平を無くし、すべての人が公平に暮らすことができるように障がい者にも便利な街づくりが進められたらいいと思います。そのためにはすべての人が協力し、まちづくりを進めていかなければいけないのです。

 

篠崎彩乃 兵庫県立北須磨高等学校

 

私は、一人一人の個性が生かされ、人と違うということが良いことなのだと考えられる社会になれば、誰かが取り残されることが無くなるのではないかと思う。そのためには、全ての人が特別で、十人十色、様々な人がいることを理解し、互いのことを知ろうと歩み寄る努力をする必要があると思う。
私は、日本人は「人と違う」ということにとても敏感だと思う。それは、障害を持つことや病気であることだけではなく、能力や性格、容姿、意見など全てに関して、周りと同じでないことに悩み苦しむ人が多いと感じる。「人と違う」ということは逆に言えば、それは他の人が出来ないことや持っていないものであり、その人だけの「特別なもの」であり「個性」であると言えるはずだ。しかし、人と違う行動をすれば白い目で見られ、容姿が違えば噂され、人と違う考え方をすれば変だと言われる等の悲しい現状が日本にはあるのだ。
ではなぜ日本人は「人と違う」ということに嫌悪感を抱くのか。私は、これには日本の教育方針が関係していると考える。日本の学校教育は集団主義であり、そのため他人に合わせるという同調圧力を強いられることが多いと感じる。それは同調圧力などではなく、協調性を学んでいるのだ、と言う人もいるかもしれない。しかし、まだ幼い考えの小学生が自分の意見を持ち、互いに譲り合って協力するのは難しい。しかし協調性がなければ集団行動は出来ないため、「みんな一緒であること」が過度に求められ、周りの空気を読み、人に合わせることを覚えさせられる。そして、「人に合わせること=人と同じであることが良い」という風に学び、その考えのまま大人に成長していくため、「人と違う」ということは異質なのだと考える人が多いのだと思う。そして、それが学校の中で起こるいじめに繋がり、社会では悪目立ちするようになるのだと考える。
しかし、私は冒頭でも述べたように「人と違う」ということは特別な事で、それはあなたの個性なのだと強く主張したい。私はHSS型HSPである。HSPは性質であり病気でも障害でもない。人口の約2割は持って生まれるとされており、最近ではHSPについてテレビ等で取りあげられることが増えてきている。しかしまだ認知度は低く、この性質を持つ人はHSPでない人たちとの差に自己嫌悪を感じることも多い。私もこのことを受け入れるまで、なぜ人とこんなにも感じることが違うのかと悩んだことがある。学校の友達にも「変わってるよね」とよく言われ、その場では軽く笑って受け流すものの、心のもやもやが晴れず、人と同じでないということに不安を感じていた。しかし自分を見つめ直し、HSPの知識を深めることで、HSPの長所に気づき、人の気持ちに寄り添うことや、人との付き合いが得意なのは、この性質のおかげであり、個性の一つであると知れた。「人と違う」ということは、悪いことではなく、その人が持つ個性であると共に、大切にするべきことだと思う。「人と違う」ということが素敵なことだと気づけた時、前よりも自分自信を愛せるようになり、それにより心の余裕ができるため、他人にも優しくなれるのではないだろうか。
日本には様々な人がいる。特にグローバル化が進むこの社会では、国際結婚も稀ではない。国籍が違う違わない、障害や病気を持つ持たないなどに関係なく、教育や宗教、容姿、育ってきた環境、性格、得意なこと、苦手なことなど、人によって違うのは当たり前で、同じ人はこの世に一人もいない。だからこそ私は、お互いを理解し合う努力が必要不可欠であり、短所も長所も含めた個性を互いに認め合い、全てを含めたそれが「私」であり、「あなた」なのだと理解することが大切であると思う。誰もが持っている「他の人と違う所」は特別で素敵なことなのだという考えが広がることで、全ての人が生きやすく過ごしやすい社会になるはずだ。

 

山田 高校1年生

 

「誰ひとり取り残さない」そんなことができるのだろうか。私はこの言葉を聞いた時、そう思った。そして同時に、何をやれば私はこの言葉を「できる!」という確信にかえることができるのだろうと考えた。
約1年前。新型コロナウイルの影響で緊急事態宣言が発令され、経済は不況となった。そのため、生活が困難になった人も多く出た。
私も、中学3年生という大切な時期での休校や行動制限などにより窮屈な思いだったのを思い出す。授業は通常通り行えず、行事は規模縮小や人数制限。正直、「なんで私たちだけ。」そんな気持ちだった。
そんな時、総合学習の授業でSDGsのついて初めて学んだ。それと同時に、世界には自分たちとは比べ物にならないくらい貧しい生活を強いられている人がたくさんいることを知った。より深く学習していくと、今の私には想像もつかないくらい厳しい環境で生活をしている国が数多くあった。
軍事政権により、自由を束縛されているミャンマー。世界のチョコレートのために安い賃金で働き、カカオを育てる児童労働者が多いガーナ。他にもこのような国が数え切れないほど存在する。
私はこのような国があると知った時、日本に生まれてら日本で生活出来ていることがどれだけ幸せで凄いことなのかを実感した。そして、「コロナで不便な生活だな」とか、「なんで私たちだけ?」という思いはなくなった。なぜなら、私たちより不便で大変で辛い思いをして生きている人たちがいるから。生きていくのが精一杯の人がいるから。
私は考えた。どうやったら、このような人たちを救うことが出来るのだろうか。でも、この問いの答えはそう簡単に見つからなかった。だけど、今の世界にはSDGsという世界共通の目標がある。これは、ただ今の世界がこういう状況だから行う。というものではなく、本気で、それぞれの問題を解決したいという想いから創られたものだと私は信じている。だからこそ、SDGsを活用して、この世界を救いたい。確かに、今の世界は決して平和な状況だとは言えない。だけど、全世界の約75億人が手を組み、協力すれば、達成できない問題ではないと思う。その世界をもっとより良く、生活しやすく、安全に暮らすことの出来る場所にしたい。私たちなら出来ると思う。いや、できるはずだ。
では、私にできることはなんだろう。まずは、もっともっと世界の諸問題を知り、理解する。そして、その知識を活用して、募金活動などの支援をしていくことだと私は考える。だけど、一番は今できている当たり前の生活に感謝することではないだろうか。その「ありがとう」の気持ちが、これからの世界の未来をより良いものにする架け橋となるだろう。そして、みんなが平等に生活出来れば、「誰ひとり取り残さない」は実現できるのではないだろうか。
最後に、私の夢は教師になることだ。「勉強を教えたい」、「子供が好き」という理由があるが、もうひとつ理由がある。それは、世界の諸問題について話し、今のこの世界の状況を知ってもらう。知った上で、これからどうして行くかを自ら考え、行動できる生徒を育成したいという理由だ。その、育成した生徒がこれからの世界の未来を担って行く。このような世界の諸問題について知っている人がこれからの世界の未来をより良いものにしていくのではないだろうか。私はそう思う。

 

山手健矢 九州工業大学院 生体機能応用工学専攻 1年生

 

飲食店で働いたことのある若者であれば一度は経験したことがある業務に店内の排水溝の清掃がある。飲食店の排水溝には店内で発生した残飯や生ごみ、油が下水管に流れて行くのを防ぐためにグリーストラップと呼ばれる阻集器が設置されている。阻集器は3層構造になっており、一層目のバスケットで生ごみや残飯を分離、2層目で水と油を分離、3層目で水だけを下水管に流すことで油脂分や生ごみが下水道に流れていく事を防ぐために活用されている。グリーストラップは自治体の条例などで設置の義務化がされていることが多く一般的な飲食店には広く普及している。このグリーストラップは構造上、機能を維持するためには清掃をする必要があり、大抵の飲食店では従業員やパートが手作業で清掃していることが多い。筆者が働いていた飲食店では排水溝の清掃を専門業者に委託しているが、業者も人手によって作業をしている。グリーストラップの清掃は人手で行っているが、これは3K(きつい、きたない、きけん)に当てはまる。飲食店の従業員が清掃する場合は、毎日のバスケット部分の清掃、週一回の第2層に溜まった油の回収などがあり、同級生や友人で、飲食店で働いていた経験のある学生に聞くとグリーストラップの清掃は嫌な業務として話題になる。また、業者に清掃の場合は、日々の排水溝の清掃を飲食店側で実施しない代わりに2カ月~半年に一回の頻度で実施する事が多く、数カ月間溜まった生ごみや油脂を手作業で清掃するのは衛星的にも良くないと考えられる。誰一人も残さないというテーマで、飲食店排水溝の清掃問題を考えると、キーポイントは、排水溝(グリーストラップ)の機能を維持するために飲食店の従業員、排水溝の清掃業者が人手でかけずに清掃できる仕組みを実装することだと考えられる。
 具体的な提案の前に飲食店排水溝とSDGsの関連について述べる。排水に関して排水基準値という値が設定されている。排水基準値にはノルマルヘキサン濃度、BOD濃度などがあるが実際の飲食店の排水溝で排水基準の項目について調査すると基準を超えた値になっている。多量の排水を行う事業所では定期的検査を実施する義務があるため基準値内に抑えるための装置の導入や処理を行っているが、従業員が手清掃する規模の事業所には定期的な検査はなく、事業所の判断に任せられているため、基準値に関して意識していない場合がある。また、グリーストラップ内で発生した残渣物や油は産業廃棄物扱いとなるため、二次利用されずに焼却処分されている。残渣物や油を分離して二次利用する方法として堆肥、メタン生成、バイオマス発電などが実施されているが残渣物何が混入しているか特定することが難しい、二次利用するための量が集まらずコストが合わないなど課題があり焼却処分されているが、二次利用できる可能性がある残渣物や油を燃やし二酸化炭素に変えることは、環境問題を考える上で勿体ないと考えている。
 残渣物や油を回収して二次利用するだけでは、取り組みとして維持できないと考えており、グリーストラップの清掃から回収した残渣物と油の二次利用まで含めた循環を作ることで無駄をなくせるのではないかと考えいる。具体的には油水分離装置を使った油脂の自動回収による従業員や清掃業者が排水溝の手清掃を行う業務の自動化と労働コストの低減、油水分離装置によって回収した残渣物と油をバイオマス発電に活用、発電した電気を用いた仮想通貨のマイニング。マイニングによって得た仮想通貨の排水溝を持つ事業所への還元。残った残渣物や灰、電気を使った堆肥の生産。残渣物や油を焼却処分しなかったことによる二酸化炭素排出の削減枠を売買することによる収益化によって排水溝の残渣物や油を無駄にしない循環を提案します。
私は大学生協食堂で皿洗いのアルバイトをしていた際に、パートの方から排水溝が臭い何とかならないかと相談を受けたことをきっかけにして排水溝の悪臭改善プロジェクトチームを立ち上げ、プレゼンテーション発表で研究費を獲得したり、特許出願をしたりと、排水溝の問題に取り組み始めて3年が経過しました。今後の取り組みとして既製品の油水分離装置が高いため、安価な油水分離装置を開発して、飲食店で実証試験をすることや回収した残渣物や油の最適な二次利用法の検討、清掃から回収、二次利用まで無駄なく関係者のみんなに利益が出て、かつ環境にやさしい仕組みを作るために活動を続けていきます。

 

今井柊花 兵庫県立大学 1年生

まちづくりにおいて高齢者を取り残さないために

 私の祖父は高齢単身世帯である。そうではあるが、私やいとこの家族が近所に住んでいるため、少なくとも孤独ではないと思っていた。しかし、このコロナ禍で重症化リスクが高い祖父との接触を控えており、祖父はコロナ前よりも家に独りで過ごす時間が増えている。祖父は、以前よりも孤独といえる状況になったことで、不安を抱えるようになったそうだ。その不安とは、急病などの場合に手遅れにならないかということ。今まで毎日のように誰かと顔を合わせていたため、何かあればすぐに気づいてもらえたが、今は頻繁に会うことがないためである。また、独りでいることで他者との会話も減ったため、自分が認知症になってしまうのではないかということだ。
 このような不安は、多くの高齢単身世帯の高齢者が抱えていることなのではないかと思う。私は、コロナ禍という状況になって初めて高齢者の孤独の問題の大きさに気づくことができた。そこで、SDGsの目標11「住み続けられるまちづくりを」に関して、取り残される人の中には高齢者が含まれているのではないかと感じた。特に都市部では高齢単身世帯が地方都市よりも多いため、都市部のまちづくりでは高齢者の孤独死や防災における課題などが山積している。内閣府によると[1]孤独死とみられる東京23区内における一人暮らしで65歳以上の人の自宅での死亡者数は2016年に3,179人に上っている。都市部においては孤独死が身近な問題であるといえるだろう。実際、内閣府によると[1]「一人暮らしの高齢者の4割超が孤立死(孤独死)を身近な問題と感じている」とのことだ。ここで、なぜ孤独死のような問題が起こってしまうのか考えてみた。私は、このような問題が起こってしまう背景には地域社会でのつながりが希薄化していることが関係しているのではないかと思う。そのため、孤独死などの問題を解決し高齢者にとっても住み続けられるまちづくりを行っていくためには、高齢者を取り巻く地域社会でのつながりを強固なものにしていく必要があるだろう。
 そこで、私は高齢者が孤独に陥らず安心して住み続けられるまちづくりの実現に向けて取り組みたいと思うことは主に3つある。1つ目に、身近なところに高齢単身世帯の高齢者が住んでいるのか把握することだ。その際に、その高齢者は近くに親戚や頼れる人はいるのか、それともいないのかということも確かめるべきである。特に、近くに親戚や頼れる人がいない場合、地域社会とのつながりがなければその高齢者は孤独に陥っている可能性が高い。そのような高齢単身世帯の高齢者の家には定期的に訪問し、最近困ったことはないか、健康状態などに関して不安なことはないかなどの質問をする。そして、高齢者の困りごとや不安を知り、それを解決・解消していく。このような取り組みを通じて、単身高齢世帯の高齢者が孤独を感じる機会を減らしていく必要があると考える。2つ目に、高齢単身世帯の高齢者同士のつながりを生み出すことである。高齢単身世帯の高齢者同士が交流することで、お互いが抱えている不安を共有し「不安を抱えているのは自分だけではないのだ」と知ることができる。それにより、不安を少し軽減し、さらにつながりを増やしていけたら良いのではないかと思う。3つ目に、高齢単身世帯の高齢者とその近隣住民とのつながりを生み出すことである。高齢者は災害時、逃げ遅れてしまう可能性が高いとされている。実際に、内閣府によると[2]東日本大震災において被害が大きかった岩手県、宮城県、福島県の3県で収容された死亡者は2013年3月11日までに15,821人にのぼり、そのうち60歳以上の高齢者は10,360人と66.1%を占めているそうだ。このように災害時には高齢者が被害を受けることが多い。そのため、高齢単身世帯の高齢者は普段から近隣住民の人とのつながりをつくっておくことで、災害時には互いに声掛けをして避難をすることが可能になるだろう。
 SDGsの目標11「住み続けられるまちづくりを」を達成するためには、高齢者を取り残さないことが重要であると思う。そのために、身近な高齢者の声を聞き、彼らが抱える不安を知り、高齢者の視点に立ってまちづくりについて考える必要があるのではないだろうか。また地域全体で高齢単身世帯の高齢者を見守り、支えなければならないだろう。地域などでのつながりが希薄化していると言われる今だからこそ、私も高齢者のことを気にかけ、彼らとのつながりをつくっていこうと思う。

【参考文献】
[1]4 生活環境|平成30年度版高齢社会白書(全体版)-内閣府
https://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2018/html/zenbun/s1_2_4.html
(参照2021.06.19)

[2]内閣府 第1章 第2節 6 (7)東日本大震災における高齢者の被害状況
https://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2013/zenbun/s1_2_6_07.html
(参照2021.06.20)

 

牛之濱莉沙 南山大学

 

「見た目より中身が大事」と聞いて、皆さんはどう思いますか。大抵の人が「そうだよね」と頷いてくださると思います。しかし、そうとも限らないのではないかと疑ってしまうようなことが会社や学校、家庭では起こっているようです。私は今回、「誰ひとり取り残さない」というテーマがあるなかで」「誰もがなりたい自分を思う存分追い求めることができ、自分らしく生きられる社会」について論じていこうと思います。
 皆さんが自分が好きですか。自分の好きなところと嫌いなところだと、どちらが多いですか。昔、私は自分の嫌いな部分のほうが多く、自信がありませんでした。というのも、容姿に自信がなく、容姿が整っている人にどうしても人が集まったり、そのような人たちが尊敬される、という場面や、自分と容姿が整っている人とで比較され蔑まれることを経験してきたからです。何かを頑張っても、結局人が集まって人気者になるのは容姿が整っている人ばかり。テレビに映っているのは綺麗な人ばかり。一方で「容姿いじりが許される社会ではなくなってきた」と言われる一方でテレビ・一般社会で起こっている容姿いじりやSNSに書き込まれる容姿に関する陰口や批判、誹謗中傷は後を経ちません。
容姿の良し悪しで人を判断し、よくない人に差別的な姿勢をとる「ルッキズム(外見至上主義)」という言葉が知られるようになったのは最近で、「美人すぎる〇〇」や「超イケメン俳優」といった容姿の整った人を褒めちぎり持ち上げるような傾向、逆に容姿に関する差別、また、メディアや広告などで、脱毛をはじめとした「こうでなければいけない」という固定概念が蔓延る現在の状態はまさに「ルッキズム」のなかにあると言えるでしょう。言った側は正直、1日も経てば忘れてしまうかもしれませんが、言われた側にとっては一生忘れられない傷になったり、それがトラウマになってしまうこともあります。最悪の場合、その人を死に追い込むこともあるのです。しかし、このような状況が改善される兆しは今でもあまり見えていません。

では、私たちはどうすればよいのでしょうか。
 そもそも、容姿が「整っている」「理想」とは誰を指すのか、どのような状態をさすのか、明確な答えが思い浮かびますか。おそらく、一人ひとりの答えは出ても、それが社会全体で見ても、共通認識の正解だと言い切れる人はいないはずです。自分だけや多数派のモノサシだけを使って人を判断し、比較し、蔑むような行為は、非常に自分勝手だと私は感じます。
 ですので、もう「容姿」に関してネガティブなことをいうのはやめにしませんか。「容姿」で誰かを比較するのはやめにしませんか。こういうときに「意見を発信する自由を私は持っている」と主張しながら人を傷つけるのはやめにしませんか。誰もがなりたい自分を目指し、自分らしく生き、自分の能力を存分に発揮できる社会を作っていきませんか。私はこの問題に対して、もちろん一人ひとりの言動の改善なども必要不可欠だと思いますが、まずは社会全体から「容姿で人を判断しない」ための行動をしていく必要があると思います。先ほども例に出したように広告とはいえど「こうしないと嫌われる」「こうでなければいけない」という発信の方法をやめたり、「容姿いじり」が通る世の中を助長するのをやめるべきだと私は考えます。
 誰にだって悩みはつきものです。しかし、それを抉るような他人の発言や言動は許されたものではありません。また、容姿が整っているのは、確かに生まれ持ったものでもあるかもしれませんが、努力して手にいれられたものもあります。誰ひとり取り残さず、なりたい自分になるために、誰もが自由に行動でき、自分らしく生きられる世の中を作り上げていくサポートを私はこれからしていきたいです。

 

臼井健太 神奈川県立多摩高等学校 3年生

 「頑張れ」という言葉をきいてあなたはどんな気持ちになりますか。きっとうれしくなったり、前向きな気持になったり、勇気をもらったりするでしょう。「頑張れ」という言葉は人々にとってプラスな言葉として一般的に捉えられています。しかし、それは全員ではありません。私達は無意識にこの言葉を使っていますが、私達の「頑張れ」という言葉の使い方は本当に正しいのでしょうか。
 私の友人に心因性嘔吐という精神的な障害をもった子がいます。心因性嘔吐とは原因となる疾患がなく、自身のトラウマやストレスによって気持ちが悪くなり、最悪の場合には嘔吐してしまうという障害です。彼の場合、主に学校や食事の際に起こり、それ以外の際は元気なことがほとんどです。そのため彼の症状は親や友達、学校の先生に軽視されやすく、学校を休みたくても休めないことがありました。ある日、彼は学校に行く前に気持ちが悪くなり、母親にそのことを伝えました。しかし、母親は学校を休むという選択肢を与えず、彼は無理に学校の準備をして学校に行きました。彼が家を出る際に母親は彼に「頑張れ」と言い、彼を見送りました。結局、彼は学校に行ってもずっと体調が悪く、最終的に嘔吐してしまいました。
 母親はおそらく彼を応援する意味で「頑張れ」という言葉を使ったのでしょう。しかし、彼を応援する際に掛けるべき言葉は本当に「頑張れ」だったのでしょうか。私はもっと彼の助けになる言葉があったのではないかと思います。もちろんスポーツなどにおいて「頑張れ」という言葉は人を勇気づける力があります。私は「頑張れ」という言葉自体を否定しているわけではありません。ただ、この状況においての「頑張れ」という言葉は彼を苦しめてしまう言葉になるでしょう。なぜなら、彼はもうすでに頑張っているかもしれないからです。彼は彼なりに自分と向き合い、この原因不明の症状と戦っています。そんなときに「頑張れ」という言葉がかけられたら、彼はどうすればいいかわからなくなってしまい、余計なプレッシャーを感じてしまいます。
 それでは、私達はどのように彼と接するべきなのか。その答えは至ってシンプルです。私達は彼に「逃げ道」を作ってあげればいいのです。「逃げ道」という言葉は一見するとあまり良い言葉ではないように見えますが、彼は今、四方八方をトラウマやプレッシャーでうめつくされています。その閉ざされた世界から私達は彼に「逃げ道」という救いの道を作ってあげるべきなのです。私は、母親は彼に対して「頑張れ」ではなく、「無理しなくていいよ」という言葉をかけてあげるべきだったのではないかと思います。そんなふうに言葉をかけていたら彼の心はとても楽になっていたでしょう。彼の背中を無責任に押すのではなく、彼の心がどうやったら楽になるか考えてから言葉をかけることが重要なのです。そのようにすれば、彼は頼れる存在がいることに安心し、自分のペースでこの症状と向き合いながら生きていくことができるでしょう。また、これは心因性障害を持っている人だけに関わらず、全員に共通していることです。あなたの周りの人はどんなことに悩み、どんなことを考えているでしょうか。「誰ひとり残さない」ためにあなたはその人にどんな言葉をかけますか。

 

賴政麟 鎌倉市小坂小学校 6年生

 

 ぼくは、誰一人取り残さない世界にするには、まず、飢餓と水不足をなくした方が良いと、考えました。理由は、世界には、約8億人が飢餓に苦しんでいて、約21億人が、すぐに安全な水を得られません。今日(こんにち)から、飢餓や水不足が深刻になるペースは、どんどん増していきます。なので、このままでは、世界の人々を取り残してしまうので、まずいと考えたからです。そこで、ぼくは、飢餓を防ぐには、まず、食べ残しをしないようにすることや、飢餓について、もっと知識を広めて、地域の方々などへ伝えたり、活動をすること、そして、水不足を防ぐには、まず、節水を心がけること、そして、飢餓と同じく、知識を広め、地域の方々などに伝え、活動をすることが大切だと思いました。
 ぼくが、これまでに行ってきた活動は、五年のときに、クラスで、「地球の未来を守り隊」を結成し、ぼくは、飢餓・水不足チームへ入り、まず、ポスターをつくって、市役所や町内会の掲示板にはったりしました。そのポスターには、「みんなの常識が変わるように」という願いを込めて、つくりました。その他にも、会社へ手紙を出したり、新聞社に投書をしたり、もっと、知識をふくらませて、模造紙に書いて、クラス内で発表したり、いろいろな活動をしました。コロナ中であったため、テレビに出たり、駅などで、チラシを配ったりすることは、できませんでしたが、これらの活動は、ぼくの中では、満足のいく活動でした。現在は、六年になって、最初は過疎をなくして、限界集落を減らし、経済がおとろえないようにするのを防ぐ活動をしていましたが、やっぱり、後から、「誰一人取り残さない世界にするには、飢餓と水不足をなくした方がいい」と考えたので、現在は、五年と同じく、ポスターを書いて、市役所や町内会の掲示板などにはろうとしています。また、小学生のアイパットが導入されたので、SDGsの活動をしているときに、インターネットを使って調べられるようになったので、より一層、知識を深めることができました。残りの小学校生活も短くなってきましたが、ぼくは、これから、卒業して、SDGsの活動で、悔いのないようにするために積極的に、いろいろな会社や大学の教授などの、専門的な人へ、手紙を出したり、ポスターを書いて、市役所や町内会の掲示板にもっと、はり、世の中の常識を変えたいです。
 ここまで書いてきたように、ぼくは、誰一人取り残さない世界にするためには、まず、節水を心がけることや、食べ残しはしないこと、そして、飢餓や水不足だけではなく、気候変動や海洋汚染などのことも、地球の人々に伝えて、活動をすることが大事だと、考えました。

誰ひとり取り残さない世界に
するために
世界の常識を変えよう!!

 

廣瀬はる 学習院女子高等科

 

この3月11日、東日本大震災から10年を迎えた。その前後一週間では、津波の様子や原発事故による放射能被害、かさ上げや高台移転による地域共同体の喪失、復興活動に力を注ぐ地元の中高生などを描いた番組やエピソードが、テレビや新聞などで数多く報道された。被災各地の歩みを撮り続けた各局のカメラの記録が、10年という時を経た「福島の今」を伝えた。この日、日本中の人々が震災について改めて考え、この震災の体験を風化させてはならない、再び福島に活気が戻って欲しいと思っただろう。しかし、3ヶ月経った今、現状はどうだろうか。

父の故郷である福島は幼いころに何度か訪れたことがあり、私にとって大変馴染みのある地域だ。震災後初めて福島を訪れたのは中学1年生の時だ。震災前に訪れた時に見た景色とは一変した風景がそこには広がっていた。積み上げられた汚染土や崩れかかった建物、そして町中に配置されている放射能を測定する装置に私は大きな衝撃を受けた。私は、この日になるまでこの現状を全く知ろうともしていなかった。今は誰でもインターネットなどを活用すれば福島の現状は知ることが出来る時代だ。しかし、以前の私と同じように、知ろうとする人は少ないのではないだろうか。

今年の2月に岩手・宮城・福島の3県を対象に実施された毎日新聞と社会調査研究センターの世論調査では、国民の被災地に対する関心について「薄れたと感じる」と答えた人が79%に上った。また全国世論調査でも、被災地に対する関心が薄れたと「感じる」は84%で、「感じない」の15%を大幅に上回った。調査方法が異なるため単純に比較できないが、5年前の調査では、関心が薄れたと「よく感じる」が28%だった。ここ5年で大幅に国民の福島への関心が薄れたことが窺える。

福島の復興はまだ道半ばである。実際に避難指示解除地域に住民登録がある人のうち実際に住む人は未だに32%だ。それにも関わらず、国の復興予算は今までの10年間で約32兆円だったのに対し、延長された復興期間の今後5年では1.6兆円となる。私の知り合いで福島県のアンテナショップを経営されている方は、国からの助成金が今年からなくなり福島の商品を扱うお店が少なくなってきていると話していた。10年間続けてきた被災地見学ツアーも今年で終わりにすると聞いた。これから様々な復興活動が大幅に縮小されていくのだろう。

東日本大震災から10年という節目を超えた今、このまま私たちの福島への関心が薄れていけば、東日本大震災で被害にあった方々は次第に社会から取り残されてしまうだろう。福島のことをもう忘れたいと思う日本人が増えていく気がしてならない。10年を区切りにしてはならない。多くの命、そして多くの故郷が奪われたことを忘れず、被災地の今に目を向けようと改めて思う10年目にしたい。私たちが関心を持ち続けることこそが復興を進める大きな力になると考える。

より多くの人々の福島への関心を取り戻すために「首都圏に住む私たちだからこそできること」は、福島の食の安全や被災地の人々の努力をより多くの方に発信することだと考えている。横浜に住む私たち3姉妹は、震災後に設立された復興のシンボル校・福島県立ふたば未来学園の中高生と繫がり、彼らが双葉郡の特産品を使って開発した商品を東京でチャリティ販売したり、常時置いてくださるお店を探して回るなどの活動をしてきた。さらに震災後10年を迎えた今年3月には、全国から福島の写真を1480枚集め、フォトモザイクアートを作成するという形で双葉郡広野町の追悼イベントに参加するとともに、首都圏でも展示させていただいた。今後の目標は、再び立ち上がりつつある福島の現状や魅力を世界に発信していくことである。具体的には、英語と日本語併記のエピソードを写真に添えたフォト・メッセージアルバムを作成し、図書館や国際交流センターなどの公共施設に置いてもらえるよう準備を進めている。応募して頂いた写真に添えられて「震災で多くのものを失ったけれど、絆という宝を手に入れました」というメッセージがあった。被災者誰一人取り残さず、福島に活気をとり戻す一助となれるよう、これからも活動を続けていきたい。

 

鈴木千花 立命館アジア太平洋大学 2年生

 

新型コロナウイルス感染症(以下、COVID-19)の拡大、日々増えるウィルス感染者数と死者数、景気の悪化などといったニュースで溢れた毎日。しかし私はこのコロナ禍が人類の危機時代であると同時に、変革の機会であったと語り継がれる未来であってほしいし、そうした変革を今、全人類で共に実現したいと切に思う。
 
 COVID-19の感染を防ぐため、手洗いや消毒はもちろん、「3密」を避けることや、「STAY HOME」といった自粛生活が促され、多くの人が恐怖、ストレスを抱え、疲弊する日々を送った。そんな中私は、複数の国際NGOや、NPOにコロナ禍での活動や、現地が抱えている課題について取材する機会を得た。そこで私は、STAY HOMEだけでは救えない、STAY HOMEすらもかなわない人々がいることを知った。COVID-19は全人類が直面した危機で、その被害は様々であったが、いま世界が抱えている課題は、このパンデミック以前から存在していた課題が浮き彫りになったにすぎないということであった。このことを理解し、そうしたパンデミック以前から存在している課題解決に取り組まないことには、この危機からの復興、そして持続可能な社会の実現は不可能である。その課題とは即ちこの世界全体の「社会構造」にある。

 例えば、私たちが使用しているスマホやパソコンに使用されている鉱物の多くは、遠い海の向こうにあるアフリカ、コンゴ民主共和国(以下、コンゴ)で採掘されている。コンゴは、そうした電子機器に使用されるレアメタルなどの天然資源が豊富で、本来であれば豊かな国であるはずだが、現地では20年以上も前から、第二次世界大戦以降、世界最大の犠牲者数を出している紛争が続いており、豊かどころか、とても平和な状態であるとは言えない。コンゴ紛争では、こども兵が多く存在し、また女性への性暴力が蔓延している。コンゴ紛争の原因は、19世紀頃の植民地時代から続く土地と市民権をめぐる部族対立という内生的要因がよく知られているが、ここではコンゴの鉱物資源を巡った資源搾取という外的要因に注目する。コンゴで採掘される鉱物は紛争鉱物とよばれる4種類の鉱物が存在しており、紛争における資金源として先進国の企業などと取引に使用されることが多い。そのため、コンゴの武装組織は鉱物が採れる鉱山近くを占拠するために、鉱山近くの住民を襲ったり、女性に性暴力をふるうケースも少なくない。更に今、COVID-19の蔓延を経てコンゴの現状は悪化している。国境閉鎖や経済活動の停止によって、人々は更に困窮した生活を送り、人々の不安はたまり、情勢は悪化し、武装勢力の勢いが増したという。その結果女性への性暴力の件数も増した。また、コンゴや近隣の国では既存の感染症の影響も残っており、医療の脆弱性も浮き彫りになった。もし、コンゴで採掘される鉱物が紛争鉱物としてでなく、正当に取引されたり、この搾取的な社会構造の被害にあっていなければ、コンゴは豊かな国として繁栄し、性暴力被害の件数は減り、多くの人々が医療にアクセスできていたのではないのだろうか。今でこそ「消費責任」や「フェアトレード」などといった言葉が徐々に浸透しているが、コンゴの紛争、紛争の要因、私たちとの繋がりについて知る人は、とても多いとは言えない。紛争鉱物によるコンゴの情勢悪化、紛争はここ20年のことであるが、コンゴに住む人々が受ける搾取は19世紀の植民地時代から始まっていた。「人類はこの2世紀もの間、何をやっていたのだろうか。」コンゴ紛争について知った私はそうした憤りを感じた。では、未来の地球に住む人類は、今日の社会を振り返った時になんと言うのだろうか。「100年に1度と言われる全人類共通の危機をも経験したにも関わらず、この社会構造を変えることはできなかったのか。」と言われるような未来があって良いのだろうか。いや、そのような未来は、築くべきではない。

 COVID-19が日本で確認されてから1年以上たった今、「ニューノーマル」や「日常を取り戻す」といった言葉をよく耳にする。しかし、ここで今一度私たちが過ごしていた「日常」について疑問を抱いてほしい。その「日常」は今、近くにいる人々の日常や、国境を越えた先の人々の日常を脅かすものではないのだろうか。グローバル化が進んだ世界で起きた課題は国境関係なく、地球上の誰一人取り残さない、グローバルな解決が必要であり、そのためには今までの日常を取り戻すのではなく、今までの日常を見直し、この搾取的な社会構造を変えるような生活様式、「誰一人取り残さないニューノーマル」の構築を目指すべきである。自分の日常が誰かの犠牲の上に成り立っていること、誰かの平和を脅かしているという事実と向き合うのは辛いことであるし、時間のかかることである。しかしコンゴ民主共和国での資源搾取、環境問題、貧困や格差、そして今回のような感染症といった課題は、すべて私たちが抱える社会構造に帰結し、その社会構造を変えるためには、ひとり一人が1地球市民として身の回りの人、そして国境を越えた先にいる人々に思いをはせ、共に持続化可能な社会を描いていく必要があると私は考える。

 

林貫太郎 JICA海外協力隊候補生

 

「日本の農業は数十年前から破綻している。」
そう言いながらもせっせと里芋植えやキュウリの収穫を行うのは愛媛県宇和島市三間町で野菜栽培を行う一人の農家である。筆者は、2021年2月よりJICA海外協力隊の「特別派遣前訓練」での活動の一環として彼の農作業のお手伝いを行った。筆者はそれまで農業に携わることがなかったが、日々、今日の農家の現状や彼自身の考え方を伺った。
同町は、粘土質の土地を生かした稲作が盛んであり、田んぼが一面に広がる「のんびりとした町」に見えるが、その印象とは裏腹に、農家の日々は苦悩の連続である。
具体的には主に「多大なコスト」、「様々な不確定要素」、「市場のシビアさ」の3つである。自営農業従事者は、農作物の生産、物流、販売のすべてに関わり、モノが売れて初めて収入が発生するが、その中で、効率的に作業を行うためにはまず数百万をかけて農機を購入する必要がある。先の収入が見通せない中での大きな出費はかなり勇気がいるだろう。また農業は人間の都合通りにいかず「自然との対話」により成立する。つまり天気や害虫の影響が大きく、近年世界各地で猛威を振るう異常気象や自然災害は、一度発生すると収入がゼロになるだけでなく、農地の修復のために時間と労力を要する。そして、それらを乗り越えて作物の収穫ができたとしても「市場の基準」にふるいをかけられ、値段が決められる。そのため、見た目が悪かったり、過剰な収穫で物流コストが高くなると、せっかく手塩にかけて育てた作物を廃棄しなければならない結果となる。現地の農業従事者の方がよく口にしていた、「農業はバカにはできないが、農業をする者はバカである。」という言葉が胸に刺さった。

 そんな大変な環境であるからこそ、農家は「自立性」、「協調性」、「柔軟性」が非常に高いと感じる。自然を相手にする自営業であるがゆえ、天候や自分の体力を鑑みながら仕事と生活の計画を決める。地域内で共有する水路は農家同士で管理するし、同じ作物を育てる者が協力的に情報共有をしたりと、相互依存関係が形成されている。2018年7月に同地域を襲った豪雨災害の際にも、行政の支援に頼るだけでなく「自助」「共助」の精神で支え合い、数十日にわたる断水も乗り切り急速な復旧に向かった。現在、新型コロナウイルスの感染拡大や異常気象により大きな打撃を受けているはずだが、他の業種と兼業をしてでもなんとかその時々の状況に対応しながら生活を維持しようというたくましい姿勢がみられる。このように、農家やその周りの地域においては個々のタフさと強靭な社会的つながりがみられるが、それ以外、特に都市との関係が希薄であり、今後若者の都市への人口流出や少子高齢化が深刻化していくとそれらが存続の危機を迎えることになる。

 今回訓練でお世話になった宇和島市では進学や就職の際に若者が離れていく傾向があるようで、2021年6月現在、5年前の同月と比べて20代-30代の人口は83%ほどに減少している。※1
また農林水産省によると、日本全国における農業経営体数は減少の一途をたどっており、個人経営体数の急激な減少を団体経営体数がわずかに補っているが、その差はあまりにも大きい。全国の個人経営体の基幹的農業従事者全体のうち65歳以上の割合は69.6%であり(2020年)、農業衰退の背景としてはやはり高齢によるリタイアがあるように考えられるが、意外にも65歳以上の減少率より50-64歳の方が顕著である。※2
さらにこれらの国内問題に加え、今後、自由貿易が推進される国際的潮流の中で、海外の農産物がこれまでより安く手に入るようになると一層価格競争が先鋭化し、国内の農家の負担がまた大きくなると考えられる。

このような国内外の動きの中で、日本の農業従事者にとってより生きやすい社会をつくりだし、これまで長い歴史を通じて日本を支えてきた農家を社会から「取り残さない」ためには、適正な値段を再考するという「販売、消費者側の意識改革」、補助金だけでなくより現場に寄り添う形での「新規就農者支援の拡充」に加え、農家の考え方や生き方を学ぶ「日本独自のESD(持続可能な開発のための教育)」によって、今まで知っているようで知らなかった農業、農家のすばらしさを新たな視点とともに伝えることが重要であると考える。日本はこれまでESD普及に向けて積極的に取り組んできた国の一つであり、また農業にはESDにとって必要とされる姿勢や様々な「つながり」が含まれているという点で教材としてこの上なく合致していると考える。
筆者自身今回の経験がなければ気づかなかった、縁の下の力持ちたる日本の農家を、今後も社会から取り残されないようこれらの取り組みが行われるよう発信していきたい。

※1 愛媛県宇和島市「指定区別年齢別男女別人口調」2016年6月。
同上、2021年6月。
   
※2 農林水産省「2020年農林業センサス結果の概要(確定値)(令和2年2月1日現在) 2021年4月。

 

木村心 武庫川女子大学 1年生

 

「誰ひとり取り残さない」といった理念には、強く惹かれるものがあった。朝、親に叩き起こされ、リビングへと行けば並べられた朝食、「学校へ行くのが面倒くさい」という口癖が当たり前の私にとって、社会に取り残される、切り離されるといったことは無縁であったからだ。また、友達同士で家のことについて話すとき、「うち貧乏だから」という言葉を互いに口にするが、実際は謙遜でしかない。毎日、三食のご飯を食べて、好きな服を着て、ゲームして、不自由なことなんて何もない。「貧困」といった言葉とは、ほど遠い世界にいるからだ。しかし、この小論文を書くにあたり、私は日本の貧困について調べてみた。そこで分かったのは、日本の貧困率は先進国の中では、トップクラスである現状だった。その中で特に、母子家庭や父子家庭といった「ひとり親」の貧困率はトップであった時期も存在したということに、私は驚き、同時に「誰ひとり取り残さない」といった理念は難しく、険しい道で、ほぼ不可能に近いように思えた。日本は、3人に1人は離婚をしていると言われており、これは先進国内では低いランキングに入るとされている。しかし、この結果には、事実婚のみで出されたものであり、同棲は抜かれているために、正確とは言い切れないのである。3人に1人といった今、離婚は珍しことではなく、そんな中で貧困な家庭が増えていることはおかしなことではなく感じる。また、今最も世間を騒がしているコロナウイルス感染者増加による「緊急事態宣言」で貧困率は右肩上がりである。いつかの情報番組で「コロナによる母子家庭の貧困が増えている」といった話題を取り上げているのをみた。営業短縮や自粛による人足の減少、リモートを行うにあたってのパソコンやWi-Fiなどの機器をそろえるための費用。家計は苦しくなるばかりで、生活費のために働きに出ようにも預ける施設がなく、コロナウイルスによって祖父母にも頼れない。社会は何をすべきか、私が考えるのは3つ。1つは、給付金を出すことだ。ひとり親の全員に出すわけではない。高校生や大学生には奨学金として受け取れる給付金がある。また、バイトすることができる年齢であり親子で収入を得ることができる。そのため、給付金を出すのは、中学生までの子供がいる家庭と制限をかけ行ってみる。2つは、子ども食堂といった、子どもにご飯を提供できる施設の設立。「緊急事態宣言」が発令している中でも、小学校や中学校は通常通りにやっている。しかし、休日や夕食などといった育ち盛りで栄養が最も必要とされる子どもに空腹は毒でしかない。そのために、国や市が子ども食堂などといったご飯を提供できる施設を設立し、支えていく必要がある。3つは、子どもを行えるような場所の提供。これは、学校の放課後などにたった30分でも、教師が勉強に関する質問を行える時間を生徒のために作るということだ。文部科学省が行った「子供の学習費調査H28」によれば、公立の中学校で約7割、私立の中学で約5割の生徒が塾へ通っているという結果になっている。このような、今では学校に通いながら、塾に通うといった状態で学業に取り組む姿勢が主流になっている。そんな中、貧困により塾へ通えない子どもだけが学校の授業に取り残されてしまう。これこそまさに、「誰ひとり取り残さない」の理念に反していると言える。これら3つが今の社会に必要だと考える。しかし、「口に出すのは簡単」まさに今の私のことを言うのだろう。給付金や施設を建てるには、莫大な費用がいる。それに、コロナ化の今、仕事量も増えており、手が回せない教員も多い。だとしても、コロナで今は難しいかもしれないが、残ったご飯をお隣さんへおすそわけ。着なくなった服を知り合いへあげる。ちょっとした思いやりや優しさで一つの命が今日から明日へと繋がっていくのだと思う。大きなことをしようとは言わない、ただ、少し広い視野で世間を見てみる。そういったことの積み重ねでSDGsの「誰ひとり取り残さない」の理念は達成できるのかもしれない。今一度、自分を見つめなおし、不可能を可能へと変えていきたいと思う。

 

本宮圭汰 早稲田大学文化構想学部 4年生

 

 私は自分で言うのもなんだがとても恵まれていると思う。小学校から高校まで通わせてもらい、部活と勉強に打ち込んできた。大学生になっても毎日美味しいご飯を食べ、大学に行って友達と会い、バイトをして稼いだお金で遊んだ。東京に近い川崎という地で育ち、ここまで育ててくれた親には本当に感謝しかない。

 だが一方で私は大学生になってから何か違和感を感じるようになっていた。高校までは部活と勉強としてこなかったからだろうか、いろんなことを考えるようになった。自分はこのままでいいのだろうか。漠然とした不安があった。

 そんな私がSDGsやサステナビリティの考えに出会ったのは大学2年時に受けた授業だった。サステナビリティ論という授業で、なんとなく面白そうだなと思って本当に気軽にとった授業だった。だがこの授業が自分を大きく変えてくれた。その授業で学んだことは人間起こした課題によって、地球環境・動物・人間までもが苦しんでいること。また一方でその課題に取り組もうと必死に取り組む人たちがいること。

 そして私は違和感の正体に気づいた。私は都会が好きではない。もので溢れかえっていて欲しいものはお金さえあれば手に入る。考えることを放棄したかのように満員電車に人が流れる。建物は上に伸びて街を覆い、高さを競うようにたくさんの建物が連なる。そんな環境にいるから都会の人は自分が恵まれていることに気づかないのではないか。

 そう思った私は積極的に地方に行くようになった。それも観光として行くのではなく、その地域の人の生活や考え方を知りたいと思い、1週間などの少し観光よりは長い期間で地域の人ともに暮らす形を選んで幾つかの地域に行った。一番衝撃を受けたのはサイトで見つけた人口が14人しかない屋形島という島でのことだった。そこでの景色は今まで見たどんな景色よりも綺麗で「地球に生きているのだ」と感じた。また島では貝の養殖が生計の軸になっているのだが、ただ作って売るのではなくこだわりを持って作り、売り方までもこだわる生産者としての姿に感銘を受けた。

 「誰ひとり取り残さない」とは誰かが誰かを支えることで成り立つことだと思う。世界に大きな影響を与えられる人もいれば、ある特定の地域や分野で支える人もいるだろう。都会と地方に優劣はない。生産者は誰かの食を支え続けている。その誰かがいることに気づき、自分も何かしてあげるという心が「誰ひとり取り残さない」社会を作り上げるのだ。

 私の大切にしている言葉は「正解の道を選ぶことを頑張るのではなく、自分が選んだ道を正解にするために頑張る」だ。この言葉はサステナビリティ論の授業の教授で今は毎週のように会うゼミの教授に言っていただいた言葉。自分の人生を肯定的に過去も未来も考えさせてくれる。

 自分は来年就職して社会人となる。食を通じて社会に影響を与えたいとたくさんの商品を扱う食品の専門商社に就職する。食にした理由は誰もが毎日触れるものだからこそ、当たり前を作りかつ影響を与えて行きやすいのではないかと考えたからだ。一人でできることは限られているが、それでもできることはたくさんある。自分は食という分野から少しでも多くの人の支えになれるような存在になりたい。

 

平泉樹里 聖徳学園中学・高等学校

 

「LGBT」という言葉を聞いたことはあるだろうか。おそらく多くの人が知っていて、現在国際的に問題にもなっている言葉である。LGBTとは性的少数者を表す言葉の一つとして使われている。しかし世界からLGBT差別が消えないのはこのLGBTという言葉があるからこそだと私は思う。「性的少数者」と表している時点ですでに差別的表現が見られるのではないか。
 私はバイセクシュアルの友人がいる。彼と私は仲が良くなんでも話し合える関係であった。ある日彼は私に「自分はバイセクシュアルみたいなんだ」と言った。いわゆるカミングアウトというものだ。このことを私に言うのはとても勇気が必要であったらしい。理由は仲が良くてなんでも話し合える関係性だからこそ「嫌われたらどうしよう」「このことを伝えることでどう思われるのか」など深く考え悩んでいたようだ。だが信頼しているからこそ、私にありのままの自分を開示したかったと彼は言ってくてた。
 当時私は”バイセクシュアル”と言う言葉を初めて聞き、なんのことなのかさっぱりわからなかった。おそらく多くの人が”バイセクシュアル”の意味を知らないのではないか。バイセクシュアルとは簡単に言ってしまえば、同性も異性もどちらのことも好きになる人のことを指す。そのときに好きになった人を好きになる。これだけを聞けば普通のことに聞こえる。しかしながらこれが異性ではなく同性を好きだと発言したとき、このことが「普通でない」本能的に感じてしまうことが現代社会の問題である。
 これらは言ってしまえば小学生の頃から”植え付けられた能力”であると私は考える。みなさんが小学生の時の記憶を掘り起こしてほしい。先生からの「さん、くん」呼び。男女に分かれての活動。「男の子なんだから男の子らしく」「女の子なんだから女の子らしく」まだ他にも沢山あるがこのように言われたことがある人、聞いたことがある人は多いのではないか。実際に私はこれらの発言を小学生時代から聞いているし今も尚聞いている。
 このように「男性は女性を、女性は男性を好きになる」と言う異性愛を前提とした考え方を押しつけることで、そこに当てはまらない人たちの中で「自分は他の人と違う」と言う思いが生まれやすい。LGBTの人たちにとっては自己嫌悪・疎外感を感じる原因になる。他の人と違うことは当たり前だ。十人十色という言葉があるぐらいだ。それでも未だにLGBTについての正しい情報の不足によりネットやメディアによる誤った情報が出回る。そしてさらに差別が深刻化する。まさに負の連鎖である。
 私の友人は私に勇気を出してカミングアウトをしてくれた。しかしながらカミングアウトすることが「いいこと」と言う訳でもない。あくまでLGBTの人たちにとって一つの「選択肢」でしかない。私は彼がバイセクシュアルであると言うことを打ち明けてくれた日からバイセクシュアルについて調べたり、さらに理解を深めるためにLGBTについても本を読んで少しでも彼に寄り添えるように、私なりに考えた。LGBTフレンドリーの印である六色のレインボーグッズを身につけたり、身近に置いたりするようにしている。これらの私の行動は他人から見ればただの偽善者と思われても仕方がないと思う。事実、私自身今自分がしていることが正しいのか。彼らにとってこの行動は助けになっているのかもわからない。しかし、知識が全くない上にああだこうだ言う人にはなりたくない。それなりの知識をつけて正しい情報を発信したい。これが現段階で私ができることである。
 一度決めてしまった文化は長く長く根強く残る。例を挙げるならば男女間の差別。いわゆるSDG’sの課題にもなっているジェンダー差別や人種差別問題など様々な事柄が挙げられる。表面上は無くしていこうとは言っているものの、その背景にはまだまだ差別的な目がある。現在の社会状況が変わらない限り、LGBT の差別は残り続け、最悪の場合悪化するであろう。
 現在新型コロナウイルスの影響により、「withコロナ」の時代を生きている私たちは互いに支え合い励まし合っていく必要がある。今互いを差別している暇はない。こんなご時世だからこそ、これを機にもっと深く差別について考えていくべきだと考える。
 先程から私も使ってしまっているが、LGBTと言う言葉があるからこそ差別はまだ尚消えない。LGBTと表現するのではなく当然のこととして考えることが大前提だ。正直私は言葉にして発信すると言う方法ぐらいしか思いつかないし、まだ学生という身分のため法律を変えるなどという大々的なことはできない。しかしやらないよりマシだ。誰かが動かなければ誰も動かない。そんな世の中を根本的に変えていく必要がある。私は今日も世の中を変革させる方法を考え続ける。誰ひとり残さない未来のために。

 

勅使河原光来 中央大学 2年生

 

 学生時代に孤独を感じる場面はどのような時だろうか。それは、学校生活で取り残されることであると思う。近年では、いじめによって学校生活から取り残されてしまう人も多くいるだろう。いじめで自分自身の良さを見失う人もいるなかで、学校ではいじめをしてはいけないことを教える授業を行っている。しかし、いじめをなくすための授業だけではなく、生徒一人一人が個性を発揮し、様々な個性があることを認める授業に力を入れるべきであると私は思う。そして、それぞれの個性があることを認めることができれば、いじめを減らすことにつながっていくと感じる。
 学校教育で個性を発揮し、自分にはない感性を感じることのできる授業は美術である。美術の授業では、正解がない。生徒は先生からテーマを言われ、自分自身でテーマに沿った作品を制作する。その中には、様々なアイディアがあり、全く同じ作品が出来上がることはない。私は、中学生の時の美術の授業で友達の作品に驚いたことがあった。「環境を汚さない」のテーマで、多くの生徒が排出物を減らすやゴミを放棄しないなど人間目線で絵を描いているのに対して、友達は人間目線ではなく、動物目線で人間によって環境を汚されている状況を描いたのである。私は、先生からお題を言われたときに、自分自身のことと捉えて絵を描いていたが、友達が動物目線で描いたことに対して、そのような目線でこのテーマを捉えることができるのかと驚いた。このように、美術の授業では、生徒一人一人テーマの捉え方は違い、作品に個性が出るものであると思う。そして、自分にはない視点に触れることができる。したがって、美術の授業は、自分自身の個性を発揮する場であり、独自の視点で物を作ることが許される授業である。学校生活のなかで、なかなか自分を表現することの出来ない生徒も作品を通してなら表現できることもあると思うので、教育の中で美術の授業はかなり重要なものになっていると感じる。
 もう一ついじめを減らすために必要なことは、多数派だけが正解ではなく、少数派の意見も重要であることを教えることである。いじめの原因の一つには、周りの皆と何かが少し違うという理由もある。そのようなことを減らすためにも、周りの皆と同じであることが全てではないということを教えるのも重要であると感じる。よって、学校教育の中でこのことを教えることができるのは、道徳であると思う。道徳の授業では、生徒一人一人が感じたことを発表することができる。発表を聞いていく中で、自分と同じように考える意見や自分とは全く別の考えも知ることができる。時には自分自身の意見が少数派になったりすることもあるだろう。そして、今まで生きてきた中で感じることの出来なかった意見に触れることができる。また、道徳の授業では、主人公の気持ちを考える場面もあり、他人の心情を考える力をつけることもできると感じる。このように、道徳の授業では、自分にはない意見を実感し、他の人の考えを聞くことの出来る授業である。普段の生活の中で、他人の意見を聞くことはあまりないので、学校生活の中では貴重な時間であると思う。
 最近の学校では美術や道徳にあまり重きを置かず、勉強の方に力を入れているところもある。しかし、教育は勉強だけでは足りないと感じる。今の学校で問題になっているのはいじめの深刻化であり、いじめの背景には様々な事情があるということである。学校でいじめはいけないことだと教えても、いじめを全てなくすことは難しいので、美術や道徳の時間を使って個性を認めさせることが重要であると感じる。幼いころから、他人の意見も尊重し、人それぞれ個性が違うということを教えることによって、彼らが社会に出た時には様々な個性を持つ人々が共存できる社会になっていくと思う。今の社会はまだ、多数派が正しいという風な考えもあるので、これからの時代には少数派の意見も重要視される時代になっていってほしいと感じる。そのためには、美術や道徳のような授業の中で個性を認める考えを定着させることが重要であり、そのような教育によっていじめで孤独を感じる人がいなくなるようにしていきたいと私は思う。

 

mayumi nakamura 中学3年生

 

新型コロナウイルスに脅かされて1年以上が経とうとしてますが、今もなお、世界中で形を変え猛威を奮っています。マスクをしている人々の光景や、お店の出入り口での手指消毒、飲食店でのマナーなどは、私達の生活に定着しつつあります。学校のランチ時の黙食も、先生方のご配慮によるDVD上映は、楽しみにもなってきています。
 そんな中、後を立たないのが感染者や医療従事者への差別です。感染者がウイルスそのもののような扱いを受け、心無い言葉を浴びせられる。又、治療にあたる医療従事者にも信じられない誹謗中傷が寄せられるということです。新型コロナウイルスが流行してから一年半、人々の心は急激に変化しつつあると実感しました。私自身も、咳をすればコロナと疑われるのではないかと不安になったり、マスクをしていない人を見れば「なんで?」と、日常目にする光景に反する人に、複雑な気持ちが駆け巡ります。しかし、ウイルスの正しい知識を知っていれば、そんなに怖がる必要はないのです。ならなぜ、人はこのような行動になってしまうのでしょうか?。毎日発表される、感染者数や死亡者数に不安を抱く日々はもう1年以上も続いています。今までに経験した事のない事態に、人々は正しい判断を失うのかもしれません。そんな時に、ある人達はそのストレスを人に攻撃する方法で、自分の不安を取り除こうとするのかもしれないと気付いたのです。しかし、感染者や医療従事者を誹謗中傷することで得られる物は何もありません。自分のストレスが発散されて気分が晴れる事もありません。なら、「いなくなればいい」と思っているのでしょうか?、それもないと思います。皆と同じくらい、未知の病に恐れ怯えているのです。「大丈夫、大丈夫」皆で寄り添い励まし合う気持ちの方が、ずっと楽な事に気がついていないのだと思います。子供の世界だけではなく、大人の世界にもあり得るコロナ差別をなんとしてでも辞めさせるべきです。憎むべきは医療従事者や感染者ではなく、ウイルスです。この未曾有な事態に正しい知識を持ち、立ち向かわなくてはならないのです。コロナに感染したくない、皆同じ気持ちです。誰にでも大切な人がいるように、守らなければいけない命があります。お互いに思いやりを持つ優しさが必要です。
 弟の学校では、ある病院のスタッフの方々に、感謝の手紙を送ったそうです。しばらくして院長先生よりお礼の手紙が届き、クラス全員に配られました。その内容は、小学生へのお礼や手紙を黙って読み、涙を流す人達の様子や、スタッフの方々の思いつめたやり場のない気持ちが読み取れる内容もありました。そして最後に次のような言葉で締め括られていました。「スタッフ一同、又笑顔で暮らせる日が来るように、このウイルスに精一杯立ち向かう」と書かれていました。家族を犠牲にしてウイルスに挑もうとする、強い決意が感じられました。お医者さんからの「大丈夫!」は魔法の言葉です。その一言でどれだけ安心できるかわかりません。看護師さんの温かい笑顔には愛を感じます。私は医療従事者の方々に感謝し、感染者の気持ちに寄り添い、そしてもし、弱者を傷つけるような人達がいれば、「大丈夫、怖くないよ」と正しい知識を伝えていきたいと思います。新型コロナウイルスの不安と恐怖、それによる偏見や差別という事を理解して、不安な時だからこそ、冷静にそして助け合い、自分にできる事を行うことが、感染症に負けない社会に繋がると思います。一刻も早い終息の為に、感染対策を徹底して生活しようと思います。
 私の貴重な中学校の3年間が、あと9ヶ月で終わろうとしています。ほとんどの行事が中止になる中、友達と過ごした時間はかけがえのない思い出です。「あの時は大変だったね」そう言い合える日がいつか必ずやってきます。差別で過ごした時間ではなく、不自由で不安な時をお互いを思いやりながら、一緒に過ごした記憶にしたいと思うのです。
 医療に従事されている方々や、清掃業務の方々など、日々、命掛けで働いていらっしゃる方々に感謝をしながらコロナ禍を乗り越えたいと思います。

 

谷田恵瑠 本庄東高等学校三年

 

あたりまえだった日常が、あっという間にあたりまえではなくなってしまった今、私たちが目を向けるべきものは何だろうか。コロナ禍という状況下、また、いわゆる”おうち時間”という時間が増えたこともあり、私は今までよりもニュースを見る機会や、YouTubeなどといったコンテンツを利用する機会が増えた。特にスマートホンやインターネット技術が急速に発展している今だからこそ知ることができたことは数え切れないほどあるだろう。その中でも一つもしくは一ジャンルとも言えるのだが、気軽に見れるYouTubeの動画でオススメにでてきて目に止まったのは、「障がいや病気を持った人たちが自分の障がいや病気のことについて」を語る姿だった。私は小学生一年生の時に特別支援が必要な同級生と同じクラスになったことがあったが、自分の身内に日常生活が困難な障がいを持った人がいなかったことからあまりその世界には触れられずに生きてきた。だから、実際障がいなどを持った方々がどのような生活をしているのか、あまりイメージができなかった。身近にそのような人がいない人は私と同じようにわからないことだらけなのだと思う。それが、インターネットというツールを利用することによって、自分の知らない世界を追体験できるかのように目の前には広がっていた。 近年、LGBTをはじめとするマイノリティーへの理解が広がっているように、自分の障がいや病気をマイナスに捉えるのではなくプラスに考えて、こう情報発信をしたり受け取ったりできる空間を、うまく利用して少しでも理解を広めるために活動なさっている方々が増えているのは確かだ。そしてそれを受け取る人も多くいる。私は、インターネットなどが与える人間へのデメリット、例えば誰もが簡単にコメントをしたりできることで誹謗中傷や差別につながってしまう可能性の増加なども大きいとは思うが、このように、誰かに共有することで自分の知らない世界を知ることができるのは情報化社会ならではのメリットであると思う。そしてそれは自分の知らないことを知る、つまり自分が体験していないこと、例えば障がいや病気などで苦しんでいる方々への理解への第一歩となるではないか。なかなか自分が体験していないこと、身近ではないものへの理解は難しい。実際、当事者になってみないとわからないことばかりだ。もしその障がいや病気を知らなければ、人は無意識にその人のことを敬遠したり、傷をつけてしまうかもしれない。知らないうちに差別をしているのかもしれない。それはその人を取り残してしまうことであり、いづれか自分も取り残されてしまうかもしれない。無知は怖い。だからまずは知ろうとする努力が、誰1人取り残さないたまに必要なことではないのか。また視点を変えてみると、学校というものはさまざまな人間が同じ時間に同じようなことをする場所であるかのようにみえる。そう、さまざま人間がいるのだから、集団行動が苦手な人や、コミュニケーションを取るのが難しい人、些細なことでも気疲れしてしまう人もいる。これはどこの学校、クラスでも起こりうることであり、それを理解して接している人や、勝手に偏見で決めつけて距離を置く人もいる。自分の特性をわかっている上で自分なりに生活できればそれでいいのだが、難しいひとは学校に来たくても来れないということが発生してしまう。自分が当事者ならどう行動するのか、友達が苦しんでいたらどう声をかけてあげるべきなのか…。このように、その人のことを知っていてもたった一つの言葉、行動でその人のことを取り残してしまう可能性がないとはいえない。その度に、私は悩むだろう。どのようにしたら不安を取り除いてあげられるか、どんな言葉をかけてもらいたいか、などと。人の気持ちほど理解しようとしても完全に理解できないものはないだろう。だが、理解できないかもしれなくても、私は決して諦めたくない。知ろうとする努力はやめたくない。その気持ちが相手にいいように伝わらなくても、常にその場その場の最善の選択をし続けたい。知ろうとすること、考えることが少しでも苦しんでいる人、取り残されている人の助けや理解につながるのならば。コロナ禍という世の中、まだ終わりは見えない。人との距離感も掴みづらくなった。ネガティブなこともたくさん生まれてしまった。でもその中で、知らなかった世界を知るようにプラスに働くこともたくさんある。そのことを多くの人が考えるようになれば、明るい未来が広がるのではないか。

 

増田ゆずり葉 長崎大学 3年生 多文化社会学部

 

SDGsが掲げる理念のうちの一つである「誰ひとり取り残さない」に関して、私が特に注目しているのは、LGBTQ+の人々の存在だ。私が21年間生きてきた中で、私に、自身がLGBTQ+であると打ち明けてくれた人はたった1人だけだった。とても口にしにくかったと思うが、勇気を出して自身の性的指向を打ち明けてくれたことに対し、私は嬉しいという感情と同時に、彼らのおかれている社会的立場の辛さも感じた。彼らは他の人と同じように、人を好きになっただけなのに「性」というカテゴリーのせいで辛い思いをしている。男性は女性を好きになり、女性は男性を好きにならなければいけない、見た目や体格が男性的ならば、心も男性でいなければいけないという考えはLGBTQ+の人々を社会から精神的に排除してしまう恐れがあるのだ。
先日、ニュージーランドでトランスジェンダーの人が五輪出場権を獲得したことでニュースになっていたのを目にした。その方は、「男性」として生まれ、性自認は「女性」のトランスジェンダーである。しかし、社会からは批判や多くの物議を醸した。見た目が男性的で身体能力面において優位性があるという理由だけで五輪に出場する権利がなくなってしまうのだろうか。この問題に対してはLGBTQ+の枠を作ればいいという意見もあるが、枠をつくることがLGBTQ+の人々が求める答えなのだろうか。LGBTQ+の人々の権利を本当の意味で守るというのは、LGBTQ+でない人々と同等の待遇を当たり前のように受けることができるということだ。自分自身の性自認や性的指向は簡単に気づけるものではない。もしかすると、私も男性的な内面を持っているかもしれないし、自分の性的指向と思っている人とは異なる人に好意を抱くかもしれない。自身がLGBTQ+だと気づくことができた時に、誰かにカミングアウトしなければいけない、または好意を抱くことに罪悪感を持ってしまうような世の中は変えられるべきだ。誰が誰を好きになってもいいという自由であるべきなのだ。
この考えを浸透させるためには、まずLGBTQ+について知る必要がある。教育を通して知ることも可能だろう。保健の授業のなかでも、特に性教育の分野では、男性の体と女性の体について学ぶ。互いの体の違いを知ったうえで、トランスジェンダーやSOGIについて考える機会を設けるべきだ。LGBTQ+の権利啓発イベントに参加するのもLGBTQ+について知るためにはいい機会になるが、多くの人が学ぶためにはやはり教育の場が最適だろう。インターネットが発達した現在、知る手段はたくさんあるが、重要なのは知ろうとするきっかけと意思である。LGBTQ+について知り、自分の考えを持つことができたら、次はそれを広めていくことが大事になる。人に伝えることで自分の考えを再確認するとともに、相手の意見を聞くこともできる。
LGBTQ+に関する法律や運動にただ賛同するだけでなく、ひとりひとりがこの問題について考え、自分の意見と異なる人がいてもその人に考えを押し付けるのではなく、両方の意見が共存できる多様な社会こそが持続可能で、自由だと考える。LGBTQ+は言いにくい、気づきにくい問題だからこそみんなで考えることが大切だ。LGBTQ+の人もそうでない人も当たり前のように等しく様々な機会を与えられる社会を作っていくことこそが、LGBTQ+の人権において持続可能な平和な社会を実現させる術となるだろう。

 

赤堀愛海 二松学舎大学付属柏高等学校

 

 「日本の医療ドラマに出てくる病気の子どもたちはみな治療費を親が準備でき、ある程度の治療と回復が望める設定ではある。」
 医療現場を題材にしたドラマを見ていて私はこの点にとても違和感を覚えました。お金がなくて治療がまともにできない、そもそも検査すらできない設定がないことに大きな溝を感じたのです。
 このことは、私たちが目にすること、耳にすることだけが、「普通」や「あたりまえ」ではないのではないか、と疑問感を感じるきっかけでした。「誰ひとり取り残さない」に反して、多くの取り残されている人たちが、私たちの身近には多く存在する、また自分自身も取り残されている、取り残される将来があるのではないか、と感じるようになりました。
 私は母がお手伝いをしている「こども食堂」にお邪魔したことがあります。そこには小学生から自分と同じ年齢くらいの中高生もいて、さまざまな子どもたちが食事を楽しんでいました。私の両親は共働きで、食事は兄、弟、私でとることが多かったのですが、両親2人とも夜が遅くても一緒に食べる人がいます。なによりも、母が早くに起きて私たちにご飯を作っていってくれました。私にとってご飯は家族が作ってくれるし、家族と食べるのが『普通』でした。だから、この場所がどういう場所で、母が何を手伝っているのかも理解することができませんでした。
 そこで日本の子どもが抱える問題を調べてみました。見つけたのは、日本の子ども6〜7人のうち1人が貧困だと言われていることでした。その数字を見て思ってた以上に、子どもの貧困は身近にあるものだと理解しました。私は、このような経験を通して私たちの「普通」は誰かにとって「普通」ではないと知ることができました。つまり、経験をしたり、色んな人に出会ったり、知ったりすることで、社会の常識や幸福のかたちが様々であることに気づいたのです。以前の私なら、こども食堂に通う子たちを「かわいそう」と思うだけだったと思います。しかし、貧困=お金がないことだけではないと考えるようになりました。お金があるから幸福を感じられるわけでもないし、お金がないから幸福を感じられないわけでもないと思うのです。教育水準の差やジェンダーによる不平等など、貧困は何か生きていくうえで自由に手にできる平等が欠如したときだと思うのです。お金だけで幸福のものさし、普通の状態をはかるのではなく、教育・ジェンダー・職業などの均衡や不均衡をものさしに加えること。また、いろんなものさしにおいて、マイナス・不均衡な状態にある人たちがいること、不公平・不平等、生きにくさを感じている人がいることを、私たちみんなが知らなくてはいけないし、身近に感じなくてはいけないのではないでしょうか。
 私は母に「多くの人に会えば自分の考えたことのない考えにも出会うことができるし、それを吸収できたときなによりも自分の力になるんだよ。」とよく言われます。母は社会福祉に関わる仕事をしているため、多様な人々に出会う機会が多いからこそ、強くそう思うのではないでしょうか。「誰ひとり取り残さない」社会を実現するためには、多くの人に出会い、よく知ること。そしてそれを身近に感じることから始めることが大切なのではないか、と考えました。私が「医療から取り残されている子」「家族で食事を取れない子」に気づき、自分の「普通」という概念が壊され、そう言った人たちとともに生きやすい社会を築きたいと考えたように。人にはそれぞれの『幸せ』があって、感じ方も違えば求めるものも違います。しかし、「幸せ」は、「平等」と「自由」の両方が揃ってはじめて保証されるものだと感じています。残念なことに、経済的に豊かとされる国とそうでない国とに差があると同時に豊かとされる国の中にあっても、「自由・平等」を付与されていない、付与されることを許されない人がいることを考えないといけません。私たちがその立場に立たない限りその状況下に置かれている人々のことを100%理解することが難しいからこそ。だから、私はたくさんの人と『幸せ』を共有するために多くの人の『幸せ』を知りたいと思いました。それがいつしか私を助ける原動力に、自分の力になり、いつか1人の人にとっての原動力になるかもしれないから。そして、世界中のみんながお互いを理解し合う力を持つことが、2030年に「誰ひとり取り残さない世界」をつくるのに繋がるのだと私は思います。
 普通の中に不平等も貧困もある。しかし、普通の中にこそ幸せと未来があると私は思います。だからこそ見逃さないように、忘れないように、いつの日かではなく確実に訪れる未来にするために。『すべての人があたたかな幸せを抱くことのできる世界』を。

 

青木海優 湘南白百合学園高等学校

 

 「私には夢がある。それは、いつの日か私の幼い子どもたちが、肌の色ではなく、人格そのものによって評価される国に住むという夢である。」
 これは約60年前にマーティン・ルーサー・キングが演説した有名な言葉である。そして今日の世界はこの言葉を現実にするために前進しているのだ。
 去年は新型コロナウイルスと共に人種差別の問題が世界中で注目を浴びた。アメリカで起こったジョージ・フロイド氏の死により,火がついた黒人差別に対するデモ。Black Lives Matterのスローガンは世界中に広まり,人種差別を打破する運動が今も行われている。ハーバード大学教授の政治哲学者マイケル・サンデル氏が述べるように「本当に久しぶりに出現した,有望な市民運動」である。
 しかし私は日本では人種差別の問題が前進していないように感じる。去年11月,Nikeの「動かしつづける。自分を。未来を。The Future Isn’t Waiting.」という広告動画が大きな反響を呼んだ。動画は三人の日本に住む外国にルーツのあるアスリートがスポーツを通して,人種差別やいじめを乗り越えるストーリーを描く。しかしSNSでは動画内の差別を否定する意見が挙げられた。「日本人を差別主義者の悪者にしている」や「日本には人種差別は存在しない」と主張するコメントなど。つまり日本には未だに人種差別を否定し,「存在しない」とする人が少なからずいるのだ。
 確かに日本では人種差別が問題視されることは少ない。その理由の一つとして日本は多民族国家ではないため,多様な人種が存在しないことが挙げられる。アイヌ民族や大和民族,琉球民族などの民族は存在するものの,日本人の98%は同じ民族に所属する。また,日本全体での外国人住民の割合は約2%に過ぎない。つまり,そもそも人種差別の問題につながるような多人種と関わることが少ないのだ。
 またアメリカとは違い,日本では人種差別が暴力や事件に発展し,メディアで報道されることは少ない。しかし人種差別は気づかないところで起こっているのだ。
 私は学校の帰りの電車の中で日本の大学に通うシリア人の女性とお話しする機会があった。彼女はイスラム教信者の外国人として,日本での日常には様々な些細な不便があると話していた。例えばミスドのドーナツにイスラム教では禁忌である「豚」の油が含まれていたこと,先輩と日本語で話す時に敬語が難しくて失礼に思われてしまったこと,東京の鉄道網が複雑すぎてよく迷ってしまうことなど。その中でも特に私の心に残ったのが,日常で感じる人種差別についての話だった。私はその日「外人席」という言葉を初めて耳にした。「外人席」とは,電車やバスの中で一番最後に埋められる席が外国人の隣である現象を表した言葉である。シリア人の女性は自分も経験したことがあると話した。特に彼女はイスラム教徒の服装であるヒジャブを巻くことでより目立ち,避けられることが多いと言う。この現象は何の根拠もなく,ただ「外国人だから」という日本人の無意識な考え方によって起こる。あくまでも無意識的であるので,日本人は差別だとは認識しないのだ。思い返してみると,確かに積極的に外国人の隣に座る人は少ない気がした。しかし私はそれが差別であるとは思いもしなかった。その日初めて私は人種差別とはニュースで聞くような暴力的,攻撃的な言動だけでなく,些細な日常の行動でも起こることに気づいた。
 日本は少子高齢化に直面している現在,外国人労働者を受け入れて労働不足を解決しなくてはならない。しかし,まずは外国人に働き先として日本を選んでもらう必要がある。そのためにも日常で外国人に不愉快に感じさせてしまう行動はとってはならない。日本人は無意識な人種差別の存在を認識し,多様な人種と共存する必要があるのではないか。子供たちの未来を保証するために。グローバル化の波に乗り遅れないために。そして誰も取り残されないために。

 

上釜わかな 横浜隼人高校

 

小学校の頃、給食は絶対に残してはいけないという、いわゆる完食指導を先生方はよくしていた。K先生は生徒が完食しない場合、掃除の時間になっても机に残させて食べさせていた。周りの子供達が掃除をしながら気の毒そうにその子を見つめる中、埃っぽい教室でしょんぼりしながら食べていたその子の表情を忘れることができない。またN先生は、ある生徒が牛乳がどうしても嫌いでロッカーに隠したことを知ると、授業中であったにもかかわらず、長々と説教をしていた。さらに、その子が結構前からそんなことをしていたとみんなから聞き、今後二度と同じことが起きないようにとみんなで話し合いをして、牛乳係というものを設置した。私は、その時の延々と続く説教と話し合いほど不毛なものはないと今も思っている。
先生方の言い分としては、食べ物がもったいない、作ってくれた人の気分を害する、食べたくても食べれない子供もいる、だから全部食えということだった。これらの言い分のうち、食べ物がもったいないという意見と並立して、完食すれば食品ロスを生み出さないという意見も往々にして言われてきた。
これは、「食品ロスを減らすために私たちにできること」としても本当によく言われていることだが、果たして残さず食べるということが食品ロスを減らすための最善の取り組みなのだろうか。残してしまう側にも、量的に体が受け付けなかったり、本当に不味くて食べられないなどの理由があるが、このような人たちにも、完食せよということで食品ロスは本当に減らせるのか。もちろん、好き勝手に食べ残しをしてもいいのかと言えば、そんなことはいけないが、「残さず食べる=食品ロスを減らす」ということが最善策ではないと思う。
食品ロスはどうやっても生まれてしまうものであるから、それを減らすために尽力するよりも、生まれてしまった食品廃棄物をどう利用するのかにもっと力を注ぐべきだ。
例えば、食品廃棄物を利用して、発電、熱、燃料などを生み出すバイオマス燃料のうちの一つの、バイオガスとして活用する取り組みだ。バイオマス燃料は、石炭や石油と違い枯渇することはなく、燃えても二酸化炭素を増やさないという利点がある。バイオガスに用いられるバイオマスは、家畜の排泄物や下水汚泥などがあるが、中でも食品廃棄物はバイオガス発生量が著しく多いという利点がある。バイオガスは、食品ロスを減らすことができ、環境にも優しく、かつ再生可能エネルギーなのでこれから注目して積極的に取り組んでいくべきだと思う。
フィリピン・ミンダオナ島のパイナップル工場では、皮や芯やヘタなどの残りかすをバイオガスとして活用している。今、フィリピンでは電気料金の高騰が悩みの種で、コスト対策と環境負荷の低減のために計画したという。
私は、食品ロスを減らすために、このバイオガスの活用を提唱したい。この意見は、今の小学生や中学生、高校生にとってまだまだ身近なものではないと思う。ぜひ、将来の学生たちにとって、食品廃棄物を活用したバイオマスの利用が当たり前になっいるような社会を目指していきたい。

 

種村竜馬 慶應義塾大学 4年生

 

私は、障害者を支援するNPO法人の活動に参加している。
 大学一年生の夏休み、ヨーロッパにバックパッカーとして訪れたとき、障害をもつ方々が日常生活に溶け込む姿を見たのがきっかけであった。
 東欧ハンガリーの首都であるブダペストのレストランでは、片方の腕が不自由な男性が、健常者と一緒になんの違和感もなく溶け込み、ウエイターの仕事をしていた。街の公園で知的障害者がヘルパーと一緒に笑顔でくつろぐ姿も見た。
 その時までの私の障害者との関わりというものは、実に限定的なものであった。小学生の時に、課外活動で養護学校と交流したくらいで、障害者との関わりについて考えたこともほとんどなかった。そんな私はレストランの店員に、その状況について詳しく尋ねて見ることにした。彼は「これが当たり前の光景だ」と放った。何も知らなかった私にとって、それが驚きの言葉であったことは読者の皆さんの想像に難しくないだろう。
 みなさんは、そのような光景に遭遇したことがあるだろうか。少なくとも、私が日本で十九年間生活した中では、全く目にすることがなかったものだ。
帰国してからも、その光景と出来事が頭から離れなかった。気がつくと、私はネットで障害者支援ができる場を探していた。ほとんど衝動的に体が動いていたのをよく覚えている。
 NPO法人での活動を始めてから、障害者福祉に関する文献を読んだり、法人での活動を垣間見たりする中で、日本の設備の不十分さやヘルパー不足などの実態をまざまざと知った。そして、私はヘルパーの仕事に興味を持った。
 私が初めて外出支援に立ち会った障害者の方は、車椅子で全身に麻痺があり、うまく体を動かせなかった。施設にお迎えに行き、スーパーで買い物をし、図書館に行き、自宅まで送るという一連の流れの支援だった。その支援中にある出来事があった。
ヘルパーの方と支援に立ち会う私がいる中、障害者の方が自ら車椅子から体を乗り出し、エレベーターのボタンを押していた。そして、大きな笑みを浮かべている姿をみた。
私は、それまでヘルパーの役目というものは障害者のできないことを、すべてしてあげることだと考えていた。しかし、この光景を見て考えが変わった。できないことを助けることももちろんだが、できることを増やし、可能性を広げることこそがヘルパーの務めだと気がついた。
その後、ヘルパーとして活動する中では、できることに自信を持ってもらうよう心がけた。たとえ間違っていても、自分でできることは自分でする。そうすることが、障害をもつ人も、もたない人も、ともに暮らすことができる街づくりにつながると考えた。
私が所属するNPO法人はりくりうすが目指す社会理念は以下のようなものだ。
「君の町、わたしのまち、一緒に生きる街」
障害をもつ人ももたない人も、住み慣れた地域で見知った仲間や大切な人たちとともに生活し続けることができる街づくりを目指す。そのためには日常生活・社会生活の総合的な支援が必要不可欠だ。個々人の協力や社会全体の認識の統一も必要だろう。

 私はヘルパーの採用活動にも従事しているが、障害者支援の世界は常に人手不足だ。ヘルパーの力添えを必要とする方々が多くいる一方、支援に当たるヘルパーの数は常に不足している。
「誰一人取り残さない」
 SDGsの大切な理念の一つ。障害をもつ方々は支援を必要としている。
私たちにできることは、まずは助けを必要としている方々がいることを知ること。私はヨーロッパの福祉先進国での光景からそれを知ることができた。みなさんはどうだろうか。日常生活を過ごす中で、そうしたきっかけはあるだろうか。そして、できる限りの力をみんなで合わせること。誰一人取り残さないために、一人ひとりの力を出し合おう。大きなことはすぐにできないかもしれないが、知ることから始めてみよう。日常の何気無い風景から、少し外れて、助けを必要としている人を探してみて欲しい。きっと何かが見えてくるに違いない。
私はNPO法人での活動を通じ、障害者をもつ友人がたくさんできた。みんな個性的で、明るく、一緒にいてとても楽しい。
障害者について考えたこともなかった私だが、今では「当たり前」の光景を実現することに尽力している。

 

まあちゃん 小学4年生

 

私は、10さいの女の子です。まわりでとり残されている人を見たこと、聞いたことがありません。ですが、世界の人のことを考えてみました。
世界では、学校に通えない子どもがいるとおもいます。女の子だから家庭の手伝いをしなくてはいけない、自分の住んでる国がせんそう中でせんそうにいかなくてはいけない。お金がかかるから、遠いから。こんな理由で、学校に行けないなんて、おかしいと思いませんか。学校に通えないと、計算もできない、よむこともできない。給食もない。自分がもし学校に通えなかったら何で自分だけ、ととり残される気分になります。
 そこで、世界のリーダーが集まってきめた2030年までかいけつすべき17の目ひょうがあるとしりました。その内の3つが、4・しつの高い教育をみんなに。5・ジェンダー平等を実げん、10・人や国の不平等なしです。
でももう一つ、私はとり残されてると思うのがあります。それは、森や自然、動物たちのことです。今、地球にはたくさんの人が住んでいます。このままでは食料がたりなくなり、森や自然をこわしてしまうかもしれません。その時、自然に住んでた動物たちはどうなるのでしょうか。もし私が動物だったら、自分の住む場所と食べ物がなくなってしまうので、じきに死んでしまうのでは、と思いました。なので、15・りくのゆたかさを守ろうは、とてもいい目ひょうだと思いました。
 もし、私がSDGsの目ひょうを作るとしたら、「ごみのない未来」です。そのためには、ごみ箱ではないところにすてるなどをしない、それとごみの分別をきちんと守りたいです。なぜなら、川や海がごみまみれになるのがいやだからです。それでクジラやアザラシがあみにかかってしまったり、ごみをのみこんで死んでしまったりするのはあまりにも悲しすぎていて、信じたくなかったからです。私にとってごみは、どうしても出てしまう、やっかいな物だと思っています。なので、生ごみ、もえないごみ、もえるごみ、しげんごみなど分けたいです。
 このように私は、とり残されている人や動物たち、とくに子どもたちがたくさんいるのだと分かりました。その子たちに何かしてあげられないのかなとも思いました。そこで、ぼ金をすることにしました。そうすれば、自然をこわさなくてすむし、学校作りにもお金を役立てていけるんじゃないかと思ったからです。ぼ金は、私のおこづかいでかいものをするときに、おつりをためています。ママのぼ金もいれます。じぶんでかいたいものもあるし、ちょ金もしたいので、おこづかいぜんぶはむりだけど、みんながきょう力して、とり残されてる人たちをなくすためにできることがあります。
 私はみんなが幸せになる未来を願っています。大人はどうですか?

 

山口茜奈 九州産業大学

 

近年社会はバリアフリー化が進み、商業施設には沢山のサービスや施設、オストメイト等の設置、補助犬の受け入れなど以前に比べると多くの人が生活しやすい環境は整いつつある。しかし、精神的に「取り残されている」と感じる人はまだまだ多いのが現状である。私は今回「子育てママ」に焦点を当てて考えた。私は現在、大学のゼミナール研究で子育てに悩み、葛藤しているパパ、ママの気持ちを少しでも軽くすることができるよう学びを進めている。世の中には子育てに悩み、苦しみ、誰にも相談することができない「子育てママ」がたくさんいる。そんな「ワンオペ育児」を強いられているママに憩いの場や、くつろげる空間の提供、そして子育てがしやすい環境に代わっていく必要がある。そのためには、まず私たちがワンオペをしているママや、子育てに悩みを抱えているママのことの現状を知り必要がある。そもそもワンオペ育児とは母親(もしくは父親)が一人で家事や育児などを行う状況のことを指す。NHKの「子育ての悩みは何ですか?」という調べに対し、1位が子供の食事についての悩み、そして2位がきょうだい育てへの不安、3位がワンオペ育児でパンク寸前になっているという現状である。初めての子育てという経験に戸惑いだけではなく、普段の家事や仕事など毎日することが山積みとなり、自分の時間が作れない、あるいはうつ状態に陥ってしまう、そんなママもいるのだ。考えていた子育てとは全く違う現実に悩んでいるママたちのことをどれほどの人が知っているだろうか。そしてどれだけの人がママたちに救いの手を差し伸べているだろうか。厚生労働省はこの現状を打開するために様々な策を講じている。育児休暇が少し前に比べると取りやすい雇用環境にはなってきているし、待機児童などの減少にも取り組んでいる。しかし、まだ不安は解消されていない。では、私たちに何ができるかというと、大きな変化を起こすことは現実的にも難しいことである。ただ、何もできないわけではない。私たちが悩んでいるママ・パパのことを知り、理解して受容することができるのである。それはとても些細なことでも構わないと思う。例えば、子連れの家族に電車の座席を譲る、近所の子どもと一緒に遊ぶ時間をつくるなど、子育てママに少しでも自分の時間を与えることができるような取り組みはたくさんある。私たちのゼミナールでは、大学の美術館を利用してパパ・ママ・そして子どもたちからだもココロをリラックスできるワークショップを行う予定である。子どもたちと私たち大学生が一緒に時間を過ごすことでパパ・ママにはゆっくりと体とココロを休める時間をつくってもらい少しでも楽になってもらいたいと考えている。すべての悩みを拭い去ることは私たちにはできないが、ほっと一息つける空間を提供していきたいと思う。
 まだまだ世間は子育てママに対して冷たく、泣いている子どもとその親たちを冷たい目で見るような現状がある。テレビで報道される家庭問題に対して客観的な批判だけを述べる世の中である。そうではなく、私たちがすべきことは子育てママやパパを受容し支援する行動である。「自分は第三者であるから関係ない。」「躾ができていない親が悪い。」というのではなく、いつも頑張っているパパ・ママを支える、元気にできる言葉かけや行動を行うべきである。できることは身近にあり、ワンオペ育児の現状を知り、理解していくことも私たちができることの1つであると私は思う。もっと子育てが楽になる世の中にしていくために、家庭内だけではなく私たちが支えてあげなければならない。そうすることで「誰一人取り残さない」という目標に一歩近づいていくと私は考える。

 

三浦すず 横浜隼人高等学校 2年生

 

SDGsの基本理念「誰ひとり取り残さない」を達成するために私は自分の為に動くのではなく、周りを見て相手の為に動くという事が大切だと考える。この世界には子供や大人、知的障害を持っている子、身体障害を持っている子など色々な人がいる。そんなこの世界にはスポーツをする事やご飯を食べる事、遊ぶ事などの活動で取り残される人がいる。なぜ取り残される人が出来てしまうのだろうか。それは、周りを見て相手の為に行動しようとする人が少ないからだ。自分の為では無く相手の為に行動すると言うことはとても大変なことだ。なぜなら、自分に大きな利益があるわけでは無いからだ。
私の近くに知的障害を持っている女の子がいる。その子は小学生だが、中身はまだ幼稚園生だといわれている。そんな彼女は、運動する事や友達と遊ぶ事が大好きだ。ある時、彼女はクラスの友達と公園に遊びに行った。しかし彼女は知的能力が低いため、遊びのルールなどを理解するのが難しかった。そんな彼女と友達は遊ぶことがあまり楽しくなかった。ここで多くの子は彼女と遊ぶことをやめてしまうだろう。だが、その友達の中の1人の女の子は一緒に遊ぶ事をやめなかった。その女の子は周りが良く見えて、人の事を思って行動できる人間だった。この女の子の様な周りを見て相手の為に動くことができる人がこの社会には必要だ。しかし、反対に自分に利益があれば良いという考えの人もいる。確かに自分の為に動けば、自分に大きな利益があるがこの世界の人が皆自分の為に行動する人だったらどうだろうか。そうなると協調性が無くなりこの社会は成り立たなくなる。なので、この社会に誰ひとり取り残さない、この社会を成り立たせるために相手の為に動くという事が大切なのだ。
現状、女の子のような小さな子でも相手の事を考えて行動する事ができる人がいる。その様な人がふえるようにこれからの社会を作らなければならない。大人であっても自分のためでは無く相手の為に行動することはとても大変な事だが、全員がやらなくてはいけないことだ。みんなで協力して誰ひとり残さない社会を作るために。

 

佐藤花恋 伊奈学園総合高等学校 3年生

 

『誰ひとり取り残さない』これがSDGsの基本理念だ。
この理念の達成のために、『全ての人の意見が拾える環境づくり』を一番に考え、マイノリティの意見を取り入れていくことが重要である。

私はある意味ではマイノリティである。人口比で少数である若者で、意見が反映され難い女性だからだ。

今日本では衆議院の男女比が話題になっている。衆議院の女性議員はわずか10%弱、先進国では最下位である。この議員比で、女性の意見は反映されるのだろうか。
SDGsのテーマの一つ、『ジェンダー差別を無くそう』が推進されるのだろうか。
きっとそれは難しいだろう。
では、実際の女性の意識はどうだろう。多くの女性は議員に立候補するという意識は殆どなく、自分で状況を変えよう、といった意識はあまり感じられない。
そのため、当事者である女性自身が一番無関心になってしまっている。
しかし、今がSDGsの機運に乗って変えていけるチャンスなのではないか。

私は現在、高校のフランス語コースでフランス語はもちろん、フランスの文化や政治について学んでいる。授業でフランスの時事問題について考えたり、フランス人教師の話や、SNSで知りあった現地の高校生とのやりとりの中で、彼等特に私と同じ世代の自己権利意識の高さに驚かされる。
高校生も権利の自覚を持ち、自分たちで行動を起こそうとしている。
例えば『黄色いベスト運動』、『人種差別テロ』が社会を不安にさせたとき、彼等はデモをしたり、ストライキで自己主張をしたりと、政治へ積極的に参加し当事者になっている。

私達『マイノリティ』が状況を変えていきたい時、このように声を上げていく必要がある。また、マイノリティである状況を広く認知させる必要もある。
しかしながら、日本にはデモやストライキといった文化がない。私達若者にとって身近なSNSを使うのはどうだろう。これまで公に意見が発信できなかったり、阻害されたマイノリティの人々も、今や簡単に意思表示ができ、同じ気持ちの人と繋がることもでき、輪が広がるだろう。
私達が発信していくことでこれまで気が付かなかった新たな問題も発見できる。解決策を考えようという流れにもなる。何十年も変わらない男性の価値観を変えていくことも出来る。

私はSDGsが広く認知されている今なら、女性の地位向上が若い女性の視点で改善されることが出来る気がしている。『誰ひとり取り残さない』にはこれまで意見を言わなかった私達若者や女性の意見を取り残さない、反映させるという意味でもある。そのために私はまず今後、周りの同世代とともに疑問やこうなって欲しい未来を発信していきたい。

 

今井優花 大阪学院大学高等学校 3年生

 

ダレ1人取り残さない。
ダレ1人…。この世の中に存在するということは生きています。何かに生かされています。それは命あるものだけとは限りません。お店で整列している服,教室の隅で隠れているほこり,雨で濡れている地面…。全てこの世の中に産まれてきています。命あるものの’生’とは少し違うが何かに生かされている。それら生物を無駄にしない。取り残さない。こう考えたとき最初は大きな問題にしか目がいきませんでした。しかし,いろいろ知るにつれ徐々に身の回りの小さな問題に気づいていけるようになりました。エコキャップ運動,洋服などのリサイクル,リユース。できることはしてきました。
ですが,1つ学校というものが壁になりました。学校の制服,クラブカバン,体操服,クラブでのジャージやユニフォーム。これら学校関連のモノには学校名やロゴが入っています。リサイクルに出すには個人を特定しやすいので難しいです。また教科書などは卒業した際や学年が変わるたびに買い替え捨てられます。海外でこれらを必要としている人たちに寄付したりしようとすればできますが,個人ですると少し手間がかかり行動する人は少ないです。私もその1人です。より多くの人たちが寄付やリサイクルができるようにダレ1人取り残さないためにと考えました。 
それは学校側で活動を積極的にしてもらうことです。おおざっぱで,誰もが思いつきそうなことですが,行動している学校は少ないです。
具体的にいうと,
制服や教科書,体操服などは寄付やリサイクル,リユースをするために卒業時に回収する。必要でない人は学校に出すだけで捨てずに済み,活動に貢献できます。また新入生の人たちの中で金銭的に余裕のない人や,お下がりでもいい人などに向けて提供することで買う方はお安くすみますし,リユースにもなります。
余ってしまったモノなどはまとめて学校側が寄付することで、配達も一回で済みますし、寄付団体側も生徒側も手間が省けます。
クラブ関係のモノについても同様です。
1番簡単なのは後輩にあげて長く使ってもらうことです。ですが,その前にそもそもの学校名の記載されている部分をとれるかたちで(ボタンでつけたりキーホルダーに学校名を書く)作ってもらうことで、必要でなくなった後もリサイクルショップに出しに行きやすくなります。

いろいろアイデアや意見を出しましたが,最終的に何が言いたいかと言うと。
SDGsを教えている学校側はSDGsを学びもっと積極的に行動すべきだと思います。大学の入試のために点が稼げるからボランティア活動をしなさい。SDGsについてテーマを決めてプレゼンを行いなさい。などいいように環境問題と正面で向き合っていないような伝え方をする教師が多く,生徒にはSDGsの内容や活動を教えているにもかかわらず,学校側が活動のお手本になっていないと感じました。これは決して私の学校だけではないと思います。学校側が行動し,活動することで生徒は気づき,学びにつながると思います。またその中で行動する人が出てくると思います。まず,SDGs,今の社会,環境についてを生で学ぶ,触れる,感じる環境を,機会を学校側で設けるべきだと私は思います。誰1人として取り残さないように。

 

高橋陽 埼玉大学 1年生

 

SDGsで最初に挙げられている目標は、「貧困をなくそう」である。あらゆる場所で、あらゆる形態の貧困に終止符を打つと書かれた内容は、世間の人々が今まで知られていなかった子どもたちの貧困に目を向けるきっかけとなった。しかし私は、子どもたちの貧困にばかり目が向けられていたために、最も大事な貧困にはまだ触れることができていないと考える。それは、心の貧困である。
心の貧困、というのを分かりやすく言うと、本当の自分を見てもらえないことによる寂しさのことである。人間関係が希薄になりつつある今日の世の中では他人との距離を感じたり、否定されることへの恐怖から本当の自分を出すことが出来ず、心の中で自分を見てもらえないことによる寂しさを溜め込む人は少なくない。そのような寂しさや本当の自分を隠して着飾った自分を演じることによるストレスは段々と積もっていき、やがてそれはその人自身の持つ価値を見えなくしてしまう。現に私は、否定されるという怯えから本当の自分をひた隠しにして見せかけの自分ばかりを相手に見せていたせいで、「本当の自分には何も価値がない」と感じて自分で命を絶ちたくなったことがある。もちろん、それを本当に実行したわけではないが、自分の価値を見失っていた当時に「痛みこそが価値だ」と勘違いして自傷行為を行ったみみず腫れの痕は、今でも左腕にしっかりと残っている。心の貧困は精神的なものだけでなく、肉体的なものにも繋がっていくのだ。
にもかかわらず、心の貧困に対しての世間の人々の視線は冷ややかである。自分の価値を見失い、生きる意味が分からなくなって自らでその命を終わらせる人々を、世間は「逃げ」「最低」などといった冷たい言葉で非難する。彼らは自殺という事実だけを見て、その裏に隠された心の貧困を見ようとはしない。「自殺は悪」という固定観念だけで判断し、その先にある自死者がどうしてその道を選んだのかという彼らの心の内には興味が無いのだ。
では、世間の人々に心の貧困を理解してもらうにはどうしたらいいのだろうか。心の貧困は、本当の自分を見せられないことから引き起こされる。そのため、本当の自分を見せられるようになれば、心の貧困は無くなっていくだろう。
だが、本当の自分を見せられるようにするのは簡単ではない。なにしろ、そこには本当の自分を出すことに対する怯えや本当の自分を出したとしても理解されないという諦めがあるからだ。そのような怯えや諦めを無くさない限り、本当の自分を出して心の貧困を無くすことはできない。まずは心の貧困を感じている人の考え方を変える必要があるが、人それぞれの考え方を変えるのには時間がかかるため、長い目で取り組んでいかなくてはいけない。
貧困というと、一般的に想像されるのは学校に行けない子どもたちや国外逃亡をした難民である。しかし、私たちは目に見える貧困だけでなく、目に見えない貧困も意識する必要があるのではないだろうか。「誰ひとり取り残さない」そのために、私は心の貧困にも関心を寄せるべきだと考える。

 

宮内萌夢 成立学園高等学校

 

現代には、貧困、飢餓、ジェンダー格差やプラスチック問題などの様々な社会問題が数多くある。この言葉は、きっと誰もが一度は耳にしたことがあるだろう。しかし、実際にどのようなものなのかは明確に理解していないのではないか。私も実際そのうちの1人だろう。その理由として、今まで社会問題に対して触れていく機会が少なかったからなのではないかと思う。しかし今回、SDGsについて調べてみて、ある事が分かった。それは、1人1人が社会問題に対して意識を向けていけば、解決に繋がるのではないかという事だ。「誰ひとり取り残さない」というテーマには、「年代関係なく1人1人が世界の問題に対して意識を向け理解し、その上で苦しんでいる人々を救うためにも、私達が行動しよう。」という思いが込められているのだと私は思う。では問題解決のために私達はどのような行動をすれば良いのか。それは、問題に対して実際に触れていく事だと思う。では、実際私達は、どのように触れていくべきなのか。そこで私は、二つの意見がある。一つ目は、「もしも自分だったら」というふうに、視点を自分に置き換えて考えてみる事だ。世界では、多くの国が貧困や飢餓といった問題が数多く存在している。普段、私達は品質には何も問題がないのにも関わらず、食料を無駄にしてしまっていたりしている。この何気なく行なっている行動が、誰か1人の命を救う事が出来るのではないだろうか。現在日本では、家庭で余った食品を寄付していただくための、「フードバンク」というものを設置しているお店が存在している。フードバンクで回収された食品は、福祉施設や団体等を通じて、生活困窮者に無償で届けられる。私は、この「フードバンク」を、全世界で設置するのが良いと思う。私達が、1つでも多くの食品を届けてあげることで、飢餓や貧困に苦しむ人々を救う事が出来るのではないか。そしてこの活動を一人一人が協力することにより、この問題から救われる人が増え、誰ひとり残されない世界が実現出来るのではないかと思う。二つ目は、知識を増やす為にも、テレビ放送を増やしてみたり、学校で本を配布していくのはどうだろう。私の通う学校では、毎月「ナショナルジオグラフィック」という本が配布され、年に一回、「ナショジオ発表会」というものが開催される。この取り組みは、まさに一人一人が社会問題に対して目を向けられ、教養を身につけることが出来ると思う。更に、テレビ等で放送することを増やしていくという事に関して、例えば毎週月曜日〜金曜日の夕方に、NHKの教育番組が放送されているだろう。日本語や英語について学んだり、料理について学んだりと、小さい子供たちに様々な教養を与えてくれる番組が数多くある。そこで、現在実際に起こっている数々の問題について学んでいく番組を放送してみるのはどうだろうか。小さな子供達でも理解しやすくいように、オリジナルのキャラクターが解説したりするなどしていくと、無理なく観ることが出来るのではないかと思う。そうしてどんどん教養を増やしていく事で、いつか社会問題が減っていく未来が見えてくるのではないだろうか。現在、世界では私達が想像もできないような社会的問題が、数多く存在している。この問題を少しでも減らしていく為にも、一人一人の理解、一人一人の協力が必要不可欠であり、最も重要な事である。「自分にはなんの影響もないから大丈夫。」、「少しくらい大したことない。」などという、私たちの勝手な考えで、実はこんなにも大きな問題になっているということに、もう一度全員が自分たちの行いを考え、身勝手な解釈を無くしていく必要があると思う。環境問題だけではない。貧困や飢餓、差別に対してもそうだ。「私じゃないから良い。」ではなく、「私達が協力出来る事は何だろう。」というふうに、考えを変えていくことが大切だ。そうすれば、いつか世界が暮らしやすい環境になっていくのではないか。
一人一人が問題に対して目を向け、理解をし、そしていつでも感謝の気持ちを忘れずに過ごし、誰ひとり取り残されることなく、一人一人が平和に暮らせる社会が実現出来れば良いと思う。

 

匿名 大学院生

 

初めて自殺を考えたのは、三歳の夏だった。祖母の走らせる自転車の荷台から、田んぼの側溝に身を投げたのを覚えている。田舎に住んでいたために「大学なんて女の行くところじゃない」と、高等教育を受けさせてもらえなかった母の夢は私を良い大学に行かせること。そんな母に毎日しばかれながら「そんなこともできないのか」という彼女の罵倒に怯えながらも、自分が出来損ないであることを呪っていた。
小学生になって状況は酷くなった。学年が上がるほど共通の話題が減り同級生に馴染むことは出来ず、除け者になることも増えた。それでも虐められないように、うまく相槌を打って話題についていっているフリをしたり、得意だった絵を描いて提供したりすることでなんとか仲間の輪に入った。私は好きなことを好きだと言えない子に育った。現実から逃げたいという気持ちが消えることは無く、「死んだふりごっこ」と称して高いところから落ちる遊びに興じ、あわよくば死ねないかと画策していた。
中学校は電車で通わないといけない私立の名門校に合格した。もしかしたら自分と同じような境遇の友達ができるかもしれないと期待したが、裏切られた。クラスメイトたちは皆育ちがよく、私の境遇を事実として受け入れてくれなかった。付属の高校への進学を辞退し、受験するもやはり変わらない。高校に進学しても恋愛や部活といったみんなが当たり前に享受しているそれは何一つとして許されなかった。私だけずっと、自分の家の部屋の中に教科書や参考書とともに取り残されたままだった。

転機が訪れたのは高校二年目が終わる頃。私は初めて家と学校以外のコミュニティを見つけた。SNSだ。高校や大学に行かせてもらえなかった人、周囲が求める子供像を演じ続けて好きなことや夢を諦めた人をはじめ、生まれた家庭や地域のために不自由に生きている沢山の人たちと繋がった。この時私は初めて自分が独りではないという安心感を覚えた。だが同時に、自分の周りにいる同級生達が恵まれた環境と自己肯定感を武器に夢を叶えていく様を見て悲しくなった。そして「自分の子供には同じ思いをさせたくない」、そう思う人等と繋がって、母も犠牲者だったのだと気づいた。彼女は田舎に生まれたというハンディキャップを経験させないために私に辛く当たるしか無かったのだ。

日本に生まれた私たちは、平和で十分に恵まれた生活を送っていると思う。けれどもまだ生まれた地域や家庭のために不自由な生き方を強いられている人は少なくない。生まれなんて変えられないから仕方ないと割り切れたらきっと楽なのだろう。しかし人はそれでもヒトでしかなくて、生まれ持っている社会性動物としての性ゆえか、どんなに傷が治ってもよく見れば跡が残るように、いじめられた悲しみや心におった深い傷は目に見えずとも確かにあって、思い出すたびに私たちの心はひどく痛むのだ。

近年、先進国では弱者を救おうという運動が活発になっている。SDGsはその最たる例だろう。「誰ひとり取り残さない」このフレーズを聞いた時、胸が熱くなった。きっとこの世界は良くなってくれるだろうという強い希望を覚えた。だが、同時に私は心配にもなった。果たしてその手は目に見えない弱者にも差し伸べられるのだろうか。テレビの中で悪党を倒すヒーローがやってくるのをずっと待っていた三歳の私は救われるのだろうか、と。

経済的に、社会的に一見問題が無いように見える人たちを助けていくこと、これが今後SDGsを実現する上で重要な課題になってくるだろう。身体的な障害がある人たちにバリアフリーを設けるように、「どこに、誰の下に生まれても自由に生きられる社会づくり」への取り組みが必要だ。教育こそがもっとも効果的な場所だろう。生まれ、人種、体格、ありとあらゆる多様性を尊重できる心を大人が教えれば子供はもっと自由に生きることができる。そうすればその子供の世代からは、今より人が傷つかない社会になるはずだ。かわいそうだと哀れむわけでも「その経験があったから今の君がある」なんて無理に肯定するわけでもなく、理解しようと努める姿勢こそが大事なのだ。苦しむ人生を送ることがほとんど決まっている人がいること、それを知ってどうすればその苦しみを減らすことができるのか一緒に考えて欲しい。多様性を尊重できているのか。常に自分の行動と発言を疑って欲しい。

今、私は高校生を対象に大学への進学や自然科学研究を助ける活動に取り組んでいる。「女だから」「田舎生まれだから」「貧乏だから」なんて理由で、夢を諦めた母のような人、そして私のように苦しむ人を減らすために。そしてそれが、20年以上死にたいと思い続けてきた私が今を生きる原動力になっている。世界の誰もが輝けるようになれるまではまだまだ時間がかかるだろう。けれど私のちっぽけな取り組みが、それが叶うまでの時計の針を少しでも押し進めていると信じたい。

 

角柄一花 目白大学

 

 ここでは、家がないだとか、生活に必要なお金がないだとか、いじめを受けているだとか、持病があるだとかそういう訳ではなく、一見普通に見えても、目に見えない悩み、言葉にできない感情を持ち、生きづらさを感じている人をここでは取り残されているという表現で表したい。
 人は自分の記憶を頼りにでしか世界を見ることが出来ないと思う。今は辛い記憶、悲しい記憶が自分の世界をつくっているから、生きづらいと感じてしまう。難しく思い、怖いと感じていることは、本当はとても簡単で、とても楽しいことが待っているのかもしれない。だが、そのことに気づくことが出来なければ、いつになっても同じ世界でしか生きることが出来ない。私は楽しい記憶や、嬉しい記憶をもっと増やして、自分の世界を広げ、自分らしく居られる居場所をつくり、幸せになれる人が世界中にたくさん溢れてほしい。
 では、楽しい気持ちや嬉しい気持ちになれることは何なのか。私自身の体験で例を挙げるならば、誰かを助けることが出来た時だと思う。辛い時は誰かに助けてもらうことが普通なのかもしれない。だが、自分が辛い時に、ただ誰かに話を聞いてもらい励ましてもらうことは、誰かに評価されることを人一倍恐れている私からしたら、辛いことだった。なので、私は辛い時でも、誰かを助けたい。そうすれば、自分が必要とされていることを感じられ、自分の価値に気づくことが出来ると思う。
 様々な悩みを抱え、生きづらさを感じている人は、この世界にたくさんいる。なのに、そのみんなが、一人、一人、取り残され、小さな世界に閉じこもり、辛い思いしていることはおかしい。世間の普通に当てはまらないだけで、仲間外れにされることは間違っている。みんなと違うということは、特別であるということ。みんなには出来ないことが出来る、みんなが進めない道に進める。そんな貴重で価値のある人を、普通じゃないからという理由でひとり取り残されてしまうことは絶対に間違っている。ならば、どうすれば誰ひとり取り残されない社会に出来るのか。私が取り残されている立場になって、考えるならば。
 あからさまに、「私はあなたの味方だよ」や「大丈夫だよ」と言葉で表現したり、支援団体をつくったり、協力して何かを取り組むだけでなく、たとえ言葉にしなくても愛されていることが相手に伝わるような、何もしていなくても溢れてしまうような感情こそが誰かを助けることに繋がるのではないか。カーテンを開ける、窓を開ける、テレビをつける、電源をつける、お風呂を沸かす、電話に出る、鍵を開ける、など日々の生活で何も考えずにしていることが、ひとり取り残されている人には厄介なことで、自分が何もしなくても、太陽の日差しが差し込み、風が吹き、音が聞こえる、などという空間づくりに愛情を感じるのではないだろうか。何も意識していない行動こそが、誰かを救うことに繋がるのかもしれない。人は決して一人では生きていけない。好きな人や大事な人が自分の周りを囲んでくれているからこそ人は存在する。まずは一人一人が自分を囲んでくれている人に愛を持って接することが出来れば、誰ひとり取り残されない社会に一歩ずつ進んでいくのではないだろうか。だが、私が仮に誰かを助けているつもりでも、その人自身は助けられた気にはならないのかもしれない。誰しもが同じ方法で助けられるとは限らないし、誰しもが同じゴールを目指している訳でもない。なのでやはり、誰ひとり取り残されない社会にする方法はまだよく分からない。ならば私は、自分の気持ちを一番に大切にし、自分の好きなことをして、自分が幸せになる道をひとりで突き進みたい。その行動がいつか誰かのためになるようにと願って。

 

塩塚景    鎌倉市立小坂小学校 6年生

 

 海洋プラスチックを良く知るきっかけになったのは五年生の時でした。今問題になっていることを市長に提案することになり、僕はその時ニュースでも問題になっていた海洋プラスチック問題を解決できるビーチクリーンについて提案することにしました。海洋プラスチック問題についてくわしく調べることにしたのは、それがきっかけでした。

 まず海洋プラスチックとは、海に流れるプラスチックのことです。軽いプラスチックは、風にのって町から海へ飛ばされていくので、海洋プラスチックは年々と増えていっています。魚がプラスチックを食べると、胃の中で消化されずに残り、満腹だと思いこんで何も食べなくなって死んでしまいます。しかも、世界経済フォーラムの報告書(資料1)によると2050年には海の魚の数と海洋プラスチックの数が同じ数になると予想されています。僕の町を見ると排水溝の近くや、道のはしなどにお菓子のふくろ、レジぶくろ、ストローなどのプラスチック製品が落ちていました。多分、こういう軽い気持ちで捨てられたゴミが海に流れていくのだと思いました。

 この状況を変えるために、僕は次の提案をします。
 一つ目は海や、砂浜を利用する人達に使う前や後にゴミを利用者に拾ってもらうというシステムです。例えば、あらかじめビーチをAビーチ、Bビーチというふうに場所をある程度で分けておいて、利用者は使うたびにそのビーチ内のゴミ拾いをすれば落ちているゴミが漂流することもなくなって、海から漂着したゴミも拾えたら、海洋プラスチックも徐々に減ってきれいな海で気持ちよく遊べると思いました。他にも、イベントなどで開催前や後にゴミ拾いをすれば状況はさらに良くなると思いました。

 二つ目はゴミ拾いを習慣化することです。ゴミ拾いを休みの日に行うということをすれば、そもそも海にいくゴミが少なくなるからです。例えば、町内会でゴミ拾いを町の人達に「きまり」で習慣づけて決まった時間に掃除をします。そしてその様子を町内会ごとに撮影して、一年に一回市長が決めた一番ゴミ拾い活動に活発に取り組んでいる町内会に市から町内の美化や環境整備のためのお金を、補助する形であげる方法がいいと思います。そうして一人一人が意識して活動に取り組んで理解を深めていけば市全体がきれいになり、快く活動に取り組めると思いました。

 三つ目は「マイ○○」の使用です。「マイ○○」というのは自分のものを使って無駄にものを買わない、もらわない、活動で、そうすることでプラスチックゴミの発生を抑えます。「マイ○○」には、色々なものがあり「マイバッグ」、「マイボトル」(水筒)、「マイ箸」などがあり、買い物などでは「マイバッグ」を使ったほうがお金もかからないので、いい面が多いと思います。なので僕は、コンビニなどでもプラスチック袋を売らず「マイバッグ」を売って稼いだら環境にも優しく、しかも稼げるのでいいと思いました。「マイ○○」は簡単で誰でも実践できることなので、ぜひやってほしいです。

 先程も言ったように今、世界は大変なことになっていて2050年には魚の数とプラスチックの数が同じになってしまいます。その被害は、海に住む「魚」以外にもその「魚」をとる「漁師」や「魚」を食べる「人」たちにも被害があるということを忘れてはいないでしょうか。その大きな被害を減らすために僕たちは、先程の事を実践する。一人一人違う状況にいるので、できない人は今の現状を知り、自分のできそうなことから実践することが大切だと僕は思っています。「魚」も「人」も「漁師」もその他の人たちも、気持ちよく過ごせる「誰一人取り残さない」そういう世界を目指して皆さんと一緒に頑張っていきたいと思っています。

参考資料(資料1)
CNN ニュース記事「海を漂うプラスチック、2050年までに魚の量超す見通し」
https://www.cnn.co.jp/business/35076480.html

 

井伊さゆみ ピラール・ド・スール日本語学校

安心して歩ける

 シンプルな質問と思われるかもしれませんが¨、「皆さんは安心して、散歩が出来ますか。」
私が六歳だった頃、私は友達と一緒に陸上をしていて、学校のグランドの周りを歩いていました。本当は、ジョギングをやらないといけなかったけど、幼かったから陸上を本気でやっていませんでした。覚えていることは、その日、学校の何かを直していたおじさん達がいました。そして、私達がおじさん達の前を通った時に、彼らは「お*は*よ*う」とか、「可愛い日本人。」、とか気持ち悪い声でいろんなことを言いはじめました。小さい時に両親は、「知らない人と話をしていけませんよ。」、と言っていましたから、私はおじさん達を無視しました。
 今これを書いていたら、他の話を思い出しました。ある日曜日の朝、母は、私と姉にスーパー買い物に行くように頼みました。そして、スーパーへ行く途中で変な男の人と出会いました。そのおじさんはオートバイに乗っていて、私達を嫌な目で見つめていました。姉も気付き、私達は走り出しました。けれど、その人は私達の後ろを追いかけて来ました。でも神様のおかげで、私と姉は無事にスーパーの中に入ることが出来ました。ところが、そのおじさんは十分ぐらい駐車場で、私達がスーパーから出てくるのを待っていました。でも私達は出て行かなかったから帰って行きました。その日は私にとって、人生で一番ダッシュで走った日でした。それに、本当に怖かったです。
 これらの話は無数にある話の中の2つのお話だけでしかありません。毎年、毎月?いえ、毎週たいていの場合、三十歳以上の男性たちが私の体をじっと見て、不快なことを言います。でも、もっと広げて見てみたら、例えば、私の国では、さっき言ったように女性の体を変な目で見つめて、不快なことを言うこともあるし、写真を撮ることもあります。そして、最悪の場合は、女性はストーカーされてレイプされ、殺されることも残念ながら多いです。それに、ブラジルでは、一分に一人女性はレイプされています。しかも、多くの被害者は13歳以下の女子です。
 最近まで私は家から出かけたかったら、いつも誰かと一緒に行かないといけませんでした。そして、いつも傘とか、大きい鋏とか太鼓のバチをかばんに入れて歩いていました。それに、「短い服や赤い爪や赤い唇やポニーテールの髪型をして、道路を歩くのは危ない。」と聞いていたので、服装を変えらないといけなかった時もたくさんありました。でも、例えば、ある女性が道路を何も気をつけることなくなく歩いていて、何か悪いことが起きても、「かわいそうに。でも、夜遅く、家の外で何をしていたの?バカじゃないの。」「彼女が着ていた服は短かったらしい。」、と考えたりする人達もいるのではないでしょうか。被害者をかわいそうと思うどころか、むしろ被害者のせいにしていてがっかりします。
「安心して歩ける」、と言いたいのは、家から出て何の不安も心配もなく自由に道路を歩けることです。でも実際は、女性や外国人、障害者、LGBTQIA+といった理由で、また、肌の色のせいで、自由に道を歩くのは難しいです。「安心して、どこにでも歩いていける人たちの方が実は少ない」、と皆さんは考えたことがありますか。それに、気づかないで他の人達の権利をうばっているかもしれないと、疑ったことがありますか。
 私にとって教育は多くの問題に対するひときわ輝く明星です。でも、「教育」、とは理科や、数学や、歴史などの勉強ではありません。「教育」とは、子供の頃から、尊敬や共感、「嫌だ」と言われたらしない、それに服装や外見に関係なく性犯罪を絶対にしないというようなことです。このような教育が必要で、この世界の道がもっと安全な場所になるためには大切だ、と思います。

 

伊藤岳 札幌市立福井野小学校

誰一人取り残さないために

 誰ひとり取り残さないために大事なことは一人一人思いやりをもつ事だと思います。なぜ一人一人思いやりをもつことが大切なのかを、例にして考えて見ましょう。

例)一人の子が、転んでけがをしてその時に大丈夫と声をかけてあげた。

このようなことが、お思いやりだと思います。他に代表的なことは、やるときに譲ってあげる事などです。僕も困っている人がいたら声をかけて助けた事があって、その時「ありがとう」といわれて嬉しかったです。思いやりをもって人を助けてると、自分も「助けてよかった。」と嬉しくなり、気持ちがいいと思いました。他にも色々な思いやりがあります。
 僕が考えていることは一人一人の思いやりをためる”思いやりのツボ”です。”思いやりのツボ”は、一人一人の思いやりをためていっぱい思いやりがたまると、みんなが人を思いやれるようになります。でも、誰か一人サボってしまうと思いやりが減ります。そのためには思いやる事を意識する事が大切です。
 みんなで一人の人の悪口や陰口を言う。このことをどう思いますか。可愛そうと思いませんか。こういう事があり、「学校なんて行きたくない!」「もうヤダ!」や、いじめられるから家から出たくないという声が今でもずっと続いています。このようなことをなくしていかないといじめは消えません。
 楽しいからとやっていても、その人の運命を変えることもあります。一度やったことはもう取り戻せません。その人のことを考えて思いやりを持たなければなりません。僕は思いやりをもって、普段から”思いやりのツボ”に思いやりをためていきます。

 

WANG MENGFEI 横浜国立大学都市科学部

 

先日、私がホームで電車を待っている際に、ちょうど目の前に電車が止まり、そのドアが開いた瞬間、ある目の見えない方が通った。この瞬間を目撃した私があんまりにも衝撃で、一瞬頭が真白になり、そこで、様々な質問が思い浮かんだ。なぜこんなにドアに近いところに歩いていたのだろう?それがすごく危ないことではないでしょうか?ドアが開いたのは知らなかったか?周りのみんなはなぜ何もしないか?降りた人はなぜ面倒くさいみたいの顔をしているか?そして、私が初めて点字ブロックというもの存在を気づいた。 それ以後、私が地面の点字ブロックを注意するようになり、例えば、点字ブロックが道路のどこに設置している、どこに点字ブロックがあり、どこにない、ここで点字ブロックを設置すると安全なのか?などを考えるようにもなった。初めて、私が目の見えない生活の大変さを少しだけ知ったような気がする。 でも、それがこの前私は身体障害者の方の存在は知らないということでしょうか?当然知っていると思う。多分多くの健全な人みんな全部知っているとおもう。更に、私たちは身体障害者の生活が不便で、この社会は助けるべきなどの理論も知っているでしょう。しかし、ただ知っているだけのことでした。つまり、この空っぽな認知を持っているが、本当の理解と配慮は存在しないことである。 もちろん、私はある健全な人間として身体障害者がどれだけの辛さを持っているか、生活を送るためにどれだけ難しいかというのを全部理解することはあり得ないのを知っている。だが、本当に少しだけ、少しだけ真の理解と思いやりがあれば、彼たちの生活は少し良くなるではないかと思った。 この事件により、私は健康の人に対する教育の重要性を更に認識できた。もし、健全な人に身の回りに障害者が本当に存在し、日々戦っていることを認識させないと、健全な人に障害者の生活を少し体験させないと、この社会は障害者のためにしたことを知らせないと、この世の中は永遠に平気に点字ブロックを踏み込み、電車から降りて、目の前に見えない方が通るだけでイライラする人間しかいないと思う。 私は健全な人に体が不便な人の辛さを知り、理解することと障害者に対する正しい対応を学ぶことが極めて大事だと思っている。前私がスターバックスで初めて耳に障害があるスタッフさんと出会い、聞こえないことを知った時、本当に慌てて、どうすればいいか全く分からなかった。ありがとうというべきか、それでも沈黙を保つべきか?でも、何もしゃべらないと失礼ではないか?話したら尊重されてないと相手に思わせるか?耳に障害がある方って口の動きを見て、話が分かるという噂を聞いたことがあるから、目を見て話した方がいいか?などいろいろ考えた結果は何も話さなかった。それが私は正しく身体障害者に対応する仕方が知らなかったためだ。 ただ身体障害者がいて、助けなければならないなど空っぽの理論を知ることだけでは明らかに不十分であり、本当に身の回りに障害者の存在を認識し、彼らの生活を理解し、体験し、ここから正しい対応の仕方や政府が障害者を助けるために出した政策などをきちんと学ぶことが今のところ重視されるべきだと思っている。

 

清田梨愛 鎌倉市小坂小学校 6年生

 

私は、難民の子ども達を助けるための活動をしています。
 私は、4年生、5年生、6年生の3年間で難民の子ども達を助ける活動をしていて、その3年間でなにをしてきたのかというと、まず4年生で、難民の子どものために、服をあつめました。難民の大人の人達の服は、まだ足りているそうなのですが、子ども服がたりないそうなのです。
 難民の人数は、約七千三十万人なのですが、その半分以上が子どもなのです。そのため、子ども服がぜんぜん足りないのです。なので、5年生でも、4年生と同じように、子ども服を集める活動をしました。
 そして、さらに、難民の子ども達のことをしらせるポスターや、チラシを町内会などにはったりしました。使用済みのハブラシも集めて、お金をきふする活動もしました。そのおかげで、かまくら市役所に服を集める箱(ダンボール)をおいてもらえました。そしたら、子ども服の数がすごくふえて、4年生と5年生あわせて、約1万千枚の子ども服をあつめることができました。
 そして、かまくら市役所においてある、ダンボール箱が、新聞にでて、もっとあつまるようになり、とてもたすかったし、ありがたいこともたくさんありました。
 そして、今、6年生でも、子ども服をあつめる活動をつづけています。そして、ポスターとかも町内にはって、もっと自分達にできることをさがしています。そして、できるかどうかは、わかりませんが、ほかの小学校や中学校といっしょに、難民の子ども達をたすける活動ができたらいいなと思っています。
 そしたら、もっと、もっと、自分達のできることもみつかると思うし、いいことができると思います。そして、もっと、いろんなところに、ポスターや、チラシをはって、いろんな人に知ってもらいたいと思っています。そして、これから、下の学年の人達にも、しってもらって、もっと、やくにたつことをしたいです。
 さらに、今、コロナで安全対策もしないといけないので、そういうのも、かんがえて、自分達のできるはんいで、やくにたつことをもっとしていって、できるだけ、難民の子ども達をらくにして、たすけてあげたいと思っています。
 だれもとりのこさない世界を作るためには、世界中から難民の子ども達がいなくなるような世界にしなければならないと思います。そのために、これからも、難民の子ども達を助ける活動を続けていきたいです。

 

本藤理子 横浜国立大学 1年生

 

私が、皆が享受するできる社会活動や経済活動から取り残されていると考えるのは、留学生や就労目的で日本に来ている人々である。私は海外で留学生活をしたことがないため、他の国や地域の留学生や外国人がどのような状況にあるかはわからないが、自分の身近なところで感じたものとして、日本の留学生や外国人労働者の一部を取り上げたいと思う。皆は、介護職のために入国した外国人留学生の現状を知っているだろうか。日本の介護福祉士養成施設(2年以上)を卒業したあと、介護福祉士の国家資格を取得する必要がある。 その後、在留資格が「留学」から「介護」に変更され、介護福祉士として働くことができるようになるのだ。 在留資格『介護』は受入国に制限がなく、在留期限もないため、条件を満たし更新すれば、ずっと日本で働くことが可能になる。しかし、この在留資格『介護』は、国家試験の合格者にのみに与えられる。この国家試験の合格率を見てみると、ベトナム人92.1%、インドネシア人36.5%、フィリピン人34.7%と国によってばらつきがあるものの合格率は高くない。
この状況から一つまず言えることが、2年間勉強捧げた介護福祉士国家試験に失敗し、在留期限が切れれば母国に帰ることを強いられるのである。日本は今や、超高齢化社会で要介護者の発生率は80歳から84歳では27%、85歳以上では59.3%にも上る。80歳以上の人口が2020年時点で1160万人だとすると、かなりの数の高齢者が介護を受けて生活していることが数字として明らかである。また、身の周りをみても平日のスーパーマーケットに行くと高齢化していることを実感する。その中で、日本にきて2年間勉強を重ねた、視点を変えれば、教育した人材を年一回の試験一つで手放している日本おかしいと思う。これは日本側の理由なので、まだ自分の首が閉まるだけである。介護の人材は現在もこれからも必要であるのに、国家試験に落ちたら、その人材を自国へ帰らせる仕組みをとっているのはなぜだろかと本当に疑問に思う。何度かチャンスをあげるべきだと感じる。もしくは、一回で合格できるような指導に力を入れることが大切に思う。しかし、何よりその人々の生活を平気で、棒に振っていることがおかしいと思う。彼らは、自分たちでお金を払い、人生を大きく変えて日本に来ているのである。そして、その勉強期間も経済的に豊かな生活をしている人は多くない。実際、学校に通っている学生が求めているのが、経済的支援と専門語などの日本語学習支援である。これらのことから日本に学びにきている留学生が、日本での生活において社会的、経済的に取り残されていると感じる。日本で必要とされる力を取り残さず、支援することが巡り巡らずともすぐに日本の力になるだろう。私はそのような助け合いの形が実現されてほしいと思う。

 

田村大樹 横浜国立大学 都市科学部 都市基盤学科 4年生

 

大学2年生になったある日,大学の教授からこのような話をいただいた.「車椅子のユーザーが不便なく移動できるような施策提案をしなさい」.わたしは,この問いに対しそれほど多くの課題があるとは到底考えられなかった.なぜなら,世の中は既にバリアフリーが進展しており,都市部においては十分な対策がなされていると考えていたからだ.しかし,この考えは一変する.
広島県にすむSさんは,大学職員として働きながら常に車椅子で移動する生活を強いられている.Sさんに会うために広島を訪問した私たちは,大学へ向かうためにバスに乗ることにした.その時Sさんは,「〇時○分のバスを予約しているのでそれに乗りましょう」と言った.予約をしているのはごく普通の路線バスである.健常者は何もせずに乗れるのに,車椅子の人は予約しないと乗れないのだ.乗車するのにも一苦労である.安全確保のためにバスに固定をしなければならず,10分ほどかかっていた.周囲の乗客は冷ややかな目線を送る.障がいがあるだけでここまで制限された生活をしなければならないのか,と悲しい気持ちになった.
その後,私は大学周辺のバリアフリー実態調査を行い,車椅子のまま乗車できるタクシーは17:00までの利用であること,ノンステップバスに段差なく乗車できる場所がかなり限られているという現実を見ることになった.全ての人が不便なく,そして自由に移動できるようになるには多くの壁を壊していかなければならないのだ.
「誰一人取り残されない」とはどういうことか,改めて考えてみた.誰しもが抱えているバリアを,互いに認め合いそして支えることではないか.今の日本にはバリアを持つが故に不便を強いられている,またそれを是とする風潮があるように思う.車椅子の話に限れば,伊是名氏のブログにて綴られた話が大きな話題を呼んだ.肯定否定と様々な意見が出されたが,私はSさんや彼女こそ「取り残されている」人ではないかと思う.車椅子による生活の不自由さを抱えていると同時に,一部の健常者からは冷ややかな目線が送られるからだ.
私は誰一人取り残されない社会の実現に向けて以下のことに取り組みたいと考える.1つ目は,バリアを抱える人に対して手を差し伸べることである.日々の生活で困っている人を助けるということはもちろん,仕事でもバリア解消に向けて最善を尽くしたいと考える.2つ目は,多くの人と価値観を共有することである.価値観の違いを理解することは相手を取り残さないことにもつながるからだ.
この小論文では,移動の不自由に主点をおいてSDGsの「誰一人取り残さない」について考えてみた.今あることは当たり前ではないのだということを心に留め,積極的に行動していきたいと思う.

 

きのみん 私立中学勤務

 

障害者やLGBTQ+,貧困,外国人などの方々への認識は近年高まりつつあると思います。しかし,人間の内面,つまり精神面への我々の認識はどうでしょうか。もちろん鬱病の方々が近年増えており,社会の注目も集まってきているとは思います。しかし,それはあくまでも鬱病と診断されたりして,公的な医療や診察を受けている方々に対してだけではないでしょうか。他にも,ほとんど他人に話すことなく,自分一人で苦しみ,闘っている人は本当にたくさんいると思います。社会はこのような方々にどのような視線を向けるでしょうか。「最近は心がすぐに折れる」,「メンタルが弱い」という言葉で片付けようとはしていないでしょうか。私には,この方々が社会に取り残されているように感じてなりません。
私自身,高校生の頃から頻繁に抑うつ症状を発症し,リストカットなどによる自殺未遂を起こしたこともありました。しかし,他者からの視線が怖く,自分の心の内をカミングアウトしたりすることはここ最近まで一度もできませんでした。また,私の身の回りにも,精神的な病気を発症しているが相談できずに自分で悩み苦しみ続けている人,他の病気が原因で精神的にかなり弱っているが,自分のメンタルの弱さだと考え,これまた自分一人で苦しんでいる人がいます。私を含めどの方も近くに気軽に相談できる人があまりおらず,周りの視線におびえながら,ごく一部の信頼し合える仲だけでなんとか自己を肯定することができている状態です。自分の内をひたむきに隠すことでしか生きていけない,そんな生活の中で周りの社会に精神面で取り残されているように感じています。
私と同じような気持ちの方は他にもたくさんおられると思います。そこで,この「精神面の弱さ=他者に話せないこと,よくないこと,認めてもらえないこと」といったネガティブな考えからの脱出を図るべく,「精神面の弱さ=これぞ自身のアイデンティティ,人生を生き抜く力の源,他者への共感の源」などといったポジティブな考えへの大転換を今こそ起こすべきだと私は考えています。これは,まさに「LGBTQ+」の方々が行われている活動の「メンタルヘルス」版。そのためには,地域の小さな団体ではなく,日本規模,世界規模でメンタルヘルスに苦しむ方々が結集し,大規模な啓発活動を行っていくべきでしょう。実際既にあるかもしれませんが,全然我々庶民にはその活動は届いていない。全国どこにでもある郵便ポストや電信柱のように,それぞれの声が高らかに自由に幅広く届き,誰もが自信をもって暮らせる,そんなメンタルヘルスのネットワークを創り上げていくべきです。私は,まずは小さなことからにはなりますが,その活動に教育者の立場から私の人生をかけて従事していきたいと思っています。皆さんはいかがでしょうか。どう思われますか。

 

仲野光 大阪府立門真なみはや高等学校 3年生

 

私が思う「誰一人取り残さない」というのは「心」の面だと思っています。もちろんそれだけではなく経済面、環境など数え切れないほどの場面があると思います。私は今まで生きてきた中で美味しいご飯を食べたりやりたいことをしたり、有難いことに幸せだと思うことが毎日あります。ですがその幸せな日々の中に人と関わることからの不安や自分だけが間違っているのではないか、みんなと違う意見が仲間はずれの原因にになってしまわないかと思うことがあります。これが「取り残される」ことの一つではないかと考えます。環境だけでなく人との関わりからくる取り残される感情は人と助け合って生きていくこの世界では避けて通れないことだと思います。だからこそ、その感情を取り除き解決するためにボランティア活動を、活性化させるのが良いと思います。ボランティア活動は性別や年齢など関係なく助けたい、誰かの役に立ちたいと思う気持ちが様々な場所で反映できると思います。この活動が広がれば 取り残される感情を持つ人や、助けて欲しいと思う人の手を差し伸べられる機会が増えると思います。たとえば高齢者施設にボランティアで交流できる機会があれば離れて暮らす家族と会えず寂しさから取り残されていると感じでいる人にとってコミュニケーションをとることで周りに話せる人がいる安心感や会話する楽しさを感じられ寂しさを取り除くことが出来ます。しかし現段階の社会ではコロナウイルスの影響で学校行事がなくなってしまい楽しみが減少し友達に会う時間が減ってしまった子供や子供の休校から家に居る時間が増え育児と仕事の負担が大きく、それに加えて普段の家事などから休む時間が減り、ストレスを抱える大人が子供に暴力や罵声を浴びせてしまう問題も出てきていて、家でさえ落ち着く場所ではなくなってきている現状に相談できるところがあっても声をかけることができない人が沢山います。実際、コロナウイルスにより学校での昼食時間中には友達と集まって食べていたところを自分の席で黙食をしなければならず会話が減り、こんなにも人と話すことが心の安心に繋がり毎日の生活を豊かにしていたのだと感じました。だからこそ助けを必要とする声を待つのではなくボランティア活動を通して声をかけにいける状態を増やすことで助けを必要とする人の声が届きやすくなるのではないかと思います。そして助けてもらった人が今度は別の人を助けるようになれば不安になる人が減り、安心して過ごせるようになり「取り残される」という心の感情を持つ人が少なくなるはずです。またボランティア活動やそれ以外の活動をただ知ってもらうだけでなく実際に行動してなにより継続していくことに意味があるとおもいます。たとえ行動することが苦手なひとや難しい人でも助けたいと思う気持ちがあればそれが誰かに影響を与えて別の人が行動していくことで少しずつ進歩すると思っています。そして誰一人取り残されることなく過ごせる時が来るよう自分自身も誰かのために行動していきたいと思います。

 

中西美晴 新田青雲中等教育学校

 

 私が社会に伝えたいことは、「人と人の繋がりを深めるために行動することの大切さ」だ。考えるきっかけとなったのは、コロナ禍における自殺者の増加である。私達は、去年から現在までずっと、新型コロナウイルス感染症の影響により、行動が制限され続けている。このような状況下では、様々な要因で心が辛くなる人が増える。感染症自体に対する不安や恐怖はもちろんのこと、インターネット上の不確かな情報や社会の変化に戸惑うこともある。そして私は、何より親しい人と離れなければならないということが、大きな要因になると考える。相談出来る人と会えないため、一人でどんどん辛さを溜め込んでしまう。誰かに気づいてもらうことも、自分でどうにかすることも出来ない。このように、人と人が繋がることが出来ない状況が、現在問題とされている自殺者の増加を引き起こしているのではないかと考える。
 自殺者の現状を調べてみると、老若男女を問わず増加している。中でも、中高生の著しい増加が問題視されており、前年の二倍を超える月もある。自分と同年代の多くの人が、自ら命を絶つ決断をするほど追い込められている状況に驚いた。この問題に対して、私の住む県では、無料でSNSや通話を通して相談することが出来る支援が行われている。相談者も増加しており、「支援を知るまで死ぬしかないと思っていた」というコメントが載った記事を見た。一人で気持ちを溜め込まずに、誰かに相談することが必要だ。人と人の繋がりの大切さを改めて強く感じた。
 しかし、中にはこのような支援を利用することが出来ない人もいる。公的な取り組みの利用を躊躇してしまったり、逆に一人になりたいと思ったりするのだ。私はそのような人達にも人と人との繋がりは必要だと思う。誰であっても、人と人は繋がっていることを感じてもらうために、私達一人一人にも出来ることがある。それは、ボランティア活動だ。ただボランティア活動をするだけでなく、それをSNSに投稿する。実際に、ゴミ拾いをSNSに投稿することを推奨する公式のアカウントもある。コロナ禍により、団体の活動が出来ない現在に適したボランティアの在り方だと考える。小さな取り組みに見えるかもしれないが、誰かが、みんなや自分のためにしてくれていると感じやすい取り組みである。
 また、私は今の社会において、情報の在り方も重要だと考える。最近、SNS上において、新型コロナウイルス感染症に関係する情報で人々の不安を煽ったり、誹謗中傷をしたりする人がいるというニュースをよく見る。このように、マイナスの事を発信するためではなく、人々にとってプラスとなるような事を発信するためにインターネットを利用していくべきである。例えば、生活の役に立つことや、有益な情報だ。そして、その情報が人々みんなに行き届くように、様々な方法で発信していかなければならない。その一つが、手話である。私達は、誰であっても繋がらなければならないのに、耳の聞こえない方への繋がりが軽視されているように感じる。私は、聾者の先生からのお話で、マスクによって口元が見えず、話していることが読みとりづらくて不便であるということを知った。そのため、手話という会話の方法も利用して情報を発信していくことが大切だと感じた。また、手話で完璧に伝えることは難しい。しかし、手話の活動を通して感じたことは、伝えたいという気持ちを持って、工夫して伝えれば、多くの情報を届けることが出来るということだ。
 このように、人と人が離れなければならない今だからこそ、みんなで協力することが大切になっている。その方法は様々だが、どのような方法でも、人と人の繋がりが大切なことに変わりはない。日本でも、ワクチン接種が始まったが、日本よりもワクチン接種が進み、マスクの強制が緩和されつつある国もある。これから先、新型コロナウイルス感染症に悩まされる日々が来なくなったとしても、人と人の繋がりはかけがえのないものだ。一人一人の行動で救われる人がいる。私も自分で出来ることに取り組んでいきたい。私がこのことを伝えることも、人と人とを繋ぐ一歩になると信じている。

 

中井琉夏 横浜国立大学

 

「誰一人取り残さない」この理念を実現するために必要なこと、それは本当に支援を必要としている人々と支援者の間をつなぐことではないだろうか。
私がこのようなことを考えた背景には、母から聞いたある出来事がある。新型コロナの流行が拡大し自粛期間に差し掛かったころ、地域の交流スペースを運営している母はこのように語った。
「今度地域の人たちとオンラインで行うイベントを企画しているの。もしデジタル機器が家庭にない人がいた時に貸すためにタブレット端末を予算で購入したんだけど、需要がないみたいで職場に置きっぱなしなんだよね。」
ウイルスの流行とともに様々な分野におけるオンライン化が広まり、教育までもがインターネットを通じて行われるようになったが、経済的な理由等によりインターネット環境やデジタル機器を満足に揃えることができない家庭があるという記事を見かけたことがあった。母の運営する施設もそのようなことを想定して準備したのだろう、と感心したが、その試みは無駄になってしまったようだった。困っている人々はどこかにいるはずなのに、支援したい人の気持ちがそのような人々まで届かないこと、支援の存在が伝わらないことのもどかしさを感じた。
これに少し似た例をネット記事で見かけたことがある。子ども食堂に関わる問題だ。子ども食堂は貧困により十分な食事を家でとることができない子供や、一人で孤独に食事をとるような子供の支援を目標としているところが多い。しかし、そのような支援対象となる子供たちが訪れない、という問題がその記事では取り上げられていた。そこには、そもそも食堂の存在が支援を必要とする子供たちや家庭まで知れ渡らないことといった背景が述べられていた。
せっかく困っている人を助けたいという気持ちがあっても、それが支援を必要とする人々まで届かなければ、社会の中で取り残されてしまいがちな人々を救うことには繋がらない。支援の存在を彼らに知らせるためにも様々な工夫が必要ではないか。例えば、短時間で不特定多数の人に情報を広めようとSNSなどを利用しても、最初に例に挙げたような、インターネット環境が十分でない家庭はネット上の情報収集能力に乏しく、なかなか情報が伝わらない、といったことが考えられる。相手がどんな場面で情報を手にするのか考えたうえで、また違った形で情報を伝えていくことが必要だろう。あえてチラシやポスターなどで情報を伝えていくといったことも考えられる。また、情報の広め手として地域のコミュニティが役割を果たすことも考えられる。困っている人を排除するのではなく、輪の中に取り込むことで支援へとつなげられるような地域コミュニティづくりをしていけるとよいのではないだろうか。

 

池添聡佑 鎌倉市立小坂小学校 6年生

 

 僕の学校で、僕の住んでいる鎌倉市に公共施設の電力を全て再生可能エネルギーにしてほしいと提案した。すると、本当に、公共施設の電力が全て再生可能エネルギーになった。僕は、この事から地域は、重要性の高い要望に対してみんなのためだったら、本当にアクションを起こしてくれるということを知った。

 しかし、2017年時点の日本の再エネの発電量の比率は16%で、その残りはほとんどが火力発電である【資料1】。二酸化炭素などの温室効果ガスが地球温暖化が進み、そのせいで森林火災や海面上昇が起き、困っている人がたくさんいる。そういった人たちをできる限り減らすために僕は、エネルギーを再エネにすることが最もよいと考える。なぜなら火力発電が日本の発電の割合で80%を超えているからだ。【資料2】そして、火力発電により発生している二酸化炭素はたくさんあると思うので、その二酸化炭素がなくなれば、かなりの二酸化炭素削減につながると思い、この提案をする。

 再エネの使用量を増やすために僕は、地域や企業の人々も、使用電力を再エネに切りかえてほしいと考える。これは、僕の学校でもやったことだ。特定の施設や学校などなんでもよいので電力を再エネにかえていく。すると、自分からよい方向に向けて進んでいけるようになり、これからの環境は良くなっていくと思う。

 また、自分の家の電力を再エネに変えることも大切である。家庭で使われる電力がすべて再エネになることで、その家の電力を発電するために発生した二酸化炭素がゼロになる。1人1人が努力することで二酸化炭素の発生量は減っていくと思う。

 しかし、このままだと火力発電所の施設が無駄になってしまうし、発電所の所長や職員が困ることになってしまう。僕は、火力発電の施設をバイオマス発電【資料3】に切り替えるのがよいと考える。火力発電もバイオマス発電も物を燃やして発電することは同じだから大体の施設は変えなくて済むと思ったからである。

 環境活動は我慢するというイメージが強いと思うが、上の提案は、1人1人のちょっとした工夫で、自分の生活を大きく変えることがなくできる。自分が動いても何も変わらないと思い、何もしないのではなく、自分ができること、我慢をしないでできることをみんなが1人1人やることがよりよい未来につながっていくと考える。誰一人とり残さない世界を作るためには、1人1人のちょっとした工夫が大切だ。

参考資料
【資料1・2】経済産業省資源エネルギー庁 日本のエネルギー2018「エネルギーの今を知る10
       の質問」
       https://www.enecho.meti.go.jp/about/pamphlet/energy2018/html/007/

【資料3】経済産業省資源エネルギー庁 再生可能エネルギーとは バイオマス発電
     https://www.enecho.meti.go.jp/category/saving_and_new/sainen/renwabre/
     biomss/index.html

石田理紗 横浜国立大学

「誰一人取り残さない」

教育においての機会均等という点について考えたいと思う。突然だが私は中学、高校と中高一貫の私立の学校に通い、その後受験を経て国立の大学に進学した。中学高校はいわゆる進学校で中学のころから6年間を通じて受験や将来を見据えた教育を受けてきた。そんな環境の中で私は当時、相当苦労、努力して大学に合格したという思いがある。しかし、今となっては当時とは違った考えが芽生えている。私立の進学校で学んでいた私はただ回れに流されるままに、周りに言われるままに勉強したりしていたのではないかと思う。ただ周りの環境によって私は大学に合格し進学したのではないか。もちろん周りの環境だけというわけではない。しかし、もし公立の中学校に進学しその後高校、大学と行くとしてどのような選択をとっていたのか、今と同じ進路をとっていたかは自信がない。
日本においては小学校・中学校は義務教育とされ、国民全員に平等に与えられている教育の機会である。しかし、その先の高等学校や大学は義務ではないので平等なものとは言えない。現在の日本では高校への進学率は98.8%とほとんどが高校へ進学している。しかし中には進学しない者もおり、進学できない者もいるだろう。また、大学への進学率は64%となっている。大学については本来専門的に学問を探求する場だと思うので必ずしも全員が進学するもるものではないとは思うが中には学ぶ意欲はあるのに金銭的な問題などで進学できない者も多いだろう。
教育や受験の機会は国民に等しく与えられ貧富の差をなくすことができる機会であるといわれているが私はそのようには思はない。まずお金がなければ進学すること自体が困難である。たとえ勉強を頑張ろうとどうしようもない問題なのだ。また、かろうじて公立の学校に進学ができることもあるだろうがやはり私立との差が生まれてしまうだろう。公立と私立の学校において教科の学ぶ内容は同じであるがそのほかの経験においては差があると私は思う。例えば私立であった私の高校では修学旅行には海外へ行ったり、たくさんの海外研修の機会が設けられていた。また、中学生のころからタブレットを用いた学習を取り入れていた。このようなことはやはり金銭に余裕がないとできないことだろう。また、学校に通わせることだけで金銭的に余裕がなくなってしまうような家庭では海外に行かせたり、何か学校の外での体験もさせてあげることができない。例えば習い事などもそうである。裕福な家庭で育った子供は幼いころから様々なことを経験してまた、学校もやはり設備の整ったいわゆる一流のところへ行くだろう。そうなればやはり将来の選択肢はい広く、多くなり自由にやりたいことをやることができる環境にあるといえる。一方家庭が裕福ではない子供は仮に中学高校と卒業をしてもそれまでの経験はやはり裕福な家庭の子供には劣っており差が埋まることはない。
医者の子は医者ということはやはり事実なのであろうと私は思う。教育、勉学は平等なものであるとうたってはいるがやはり教育は生まれた家が裕福かどうかで優劣がつくものであると思う。極端な話、学力ですらそうなのではないかと思う。小さいころから一流の学校に通っていたら学力が身につくのは当たり前である。貧困な家庭の子が学力がないというわけではないが学力を発揮する場が少ないということはあると思う。裕福な家庭かどうかによって経験という差が生まれていることは紛れもない事実である。教育は表面上は平等に見えるが実際は不平等な側面も含んでおりまた、その不平等は取り返すのが困難な場合が多いということを私は訴えたい。

匿名 長野県伊那北高校 3年生

大切なひと

「早く死にたくてさ、、、」
 これはある時、私の大切な人が放った一言だ。その時の胸の奥をぎゅっと手でつかまれたような感をきっとこれから忘れることはないと思う。
 
このひとは両親と血がつながっておらず、小さいころ特別養子縁組で今の両親と家族になった。私よりも2つ下の女の子で家が離れているため年に数回しか会うことができないものの、男兄弟しかいない私にとって何でも話せて気の合う妹のような大好きな存在だ。私がこのことを知ったのはつい最近で、その時今までにないほど驚いたことを覚えている。
私は彼女の様子が最近ずっと変なことに気づいていた。お互いにSNSを利用しており、連絡をとらなくてもどんな様子なのかを知ることができていた。SNSを見るたびに服装や髪の毛の色が派手になり、学校も行っていないように感じていた。わかっていながらも、私は何も言わなかった。私の知っている彼女ではなくなっていくようでなんだか悲しく感じ、心のどこかで少し嫌悪を抱いてしまっていたのかもしれない。そんな彼女の様子の理由を知った日、私は後悔とつらさでいっぱいになった。
最後に彼女に会ったとき、彼女は私にすべて話してくれた。親が本当の両親でないことを彼女が知らされたのは小学生の低学年であるそうだ。
「家にいるとなんだかおかしくなっちゃうんだよね。」と笑いながら言っていた。
思春期であるからこそ、自分が何者であるかというところにつまずき、不安でいっぱいになってしまっているのだと思う。話している最中にさらっと
「早く死にたくて。」
と彼女は何気なく言った。
こんな言葉があの子から出てくるなんて信じられなかった。どうして私は彼女の異変に気付きながら何もしてあげなかったのか。後悔してもしきれない。今でも押しつぶされそうになる。彼女の抱えてきたものははかりしれない。
しかしそれ以上に彼女の両親はこんな状態の娘にどうしてあげることもできずに毎日不安を抱えているはずだと思う。私は親になったことがないからわからないが、もし自分の子どもがつらい思いをしていたら心配で仕方がないはずだ。

家族は血のつながりがすべてではない。こういった家族のかたちが私には珍しく思えるし、きっとほとんどの人がそうであると思う。でもそれが彼女や彼女の両親を苦しめている一つの要因であるのではないだろうか。
私は彼女を通して今まで知らなかったことを知ることができた。私は自分にできることは何でもしようと思う。SDGsも同じことではないだろうか。自分とは遠くかけ離れたことがもしかしたら私たちと深いつながりをもっているかもしれない。どんなことも他人事になりがちだが、自分と少しでも関係があることに気づくことが様々な問題解決のための第一歩であると思う。
私は自分の経験を忘れず、そしてもう同じ後悔をしないためにも彼女に寄り添っていきたい。

 

西原加純 静岡県立静岡高等学校 2年生

 

誰一人取り残さない。一体、その言葉にどれだけの人が突き動かされるだろうか。どれだけの人が背を向けるだろうか。私はその光景を待ち望んでいる。
私の夢は世界平和だ。具体的に言えば、全ての人が安心して暮らせる自由な社会をつくること。それは『誰一人取り残さない』というSDGsのスローガンに等しい。私がその夢を口にした時、笑う人も、冗談だと軽く流す人も、全く相手にしてくれない人もいた。「世界平和なんて実現する訳が無い」、そう思っているのが言わずとも伝わってきた。だが、これは本当に叶わない夢だと言えるのだろうか。
現在、SDGsなどで多く取り上げられている社会問題では貧困、ジェンダー、人種、他にも様々なものがあるが、それぞれのカテゴリでマイノリティや脆弱層が社会から取り残されている。古くから根づく偏見やものの見方による政治家の失言などは報道ですぐに取り沙汰される。また、苦しむ人々の声は無視されがちだ。よく「人の考え方を直すのが最も大変だ」というようなことを聞く。そうだとすると、これらの問題を全て解決するのは不可能に近いのかもしれない。しかし、私は誰一人取り残さないということは多くの人の協力で現実のものに出来ると思う。それは今まで人類は歴史を大きく変えてきたからだ。
文明が起こって以来、戦争は絶えなかった。身分制度は明確にあった。現在より遥かに不条理な世界だった。それが公平な社会へと変わり続けているのだと『FACT FULNESS』という本を読んで知った。例えば女性の権利についてを考えてみれば、1919年にワイマール憲法が制定されるまでの数千年の間、女性の権利を守る法はどこにもなかった。だが、ワイマール憲法が制定され60年後の1979年には女子差別撤廃条約が国際連合で採択され、世界の決まりとして男女平等が認められた。確かに未だに完全な女性の権利の保護はなされていない。だが、急激に女性の地位が向上していることは断言できる。これは誰かが一歩を踏み出せば世界は簡単に変えられることを証明していると思う。他にも改善されていることはある。児童労働をする子供の割合は減っているし、飢餓に苦しむ人の割合も減少している。戦争や紛争による犠牲者だって減っているし、平均寿命はどんどん延びている。世界は決して悪い方向に向かっていない。むしろ今までにない速さで状況を良い方向へと変えつつあるのだ。
かつてと同じように、人々が望む限り世界は好転し続ける。誰一人取り残さないというのも世界平和も実現可能である、そう信じている。私は世界が前進するきっかけをつくる人になりたい。だから私の声が届いた人に伝えたい。世界は変えられる。絶対に変えられるから力を貸してほしい、と。

 

菅野朱里 横浜国立大学 1年生

 

私は「誰ひとり残さない」といった大きな目標を抱えているSDGsを先駆的で実用的であると思う一方で胡散臭さを感じてしまう部分もある。というのもSDGsだけに取り組んでいれば良いといった誤解が生まれてしまう可能性があること、「誰ひとり残さない」というのは本当に細かいところまで目を配れているのか、何より現実的に可能なのか疑念を抱えてしまったからである。私の地元はいわゆる限界集落のような場所である。現在は横浜に住んでいるため忘れがちになってしまうが、私の地元というのは歩いて行くことのできる距離にコンビニも最寄り駅もなく、一番近い友人の家も10分以上歩く距離にしかなく、同じ地区で一番若い人は私というぐらい高齢化が進んでいるような地域である。元々町であったのだが市に合併され、市の中心地は活性化されはじめているにも関わらず私の生まれ育った地は過疎化が進んでいく一方である。自分の地元を「田舎」だとは思っていたが、大学に入学し周りの友人たちの思い出話を聞くとやはり私の地元は大変な状況にあるのではないかと改めて実感した。私の地元のような地域は、先進国と言われている日本中にも沢山あって、そのような地域を救うために政府が何かしているかというと少なくとも私が住んでいた18年間中に実感することはなかった。正直大学の友人と話していると同じ日本にいたにもかかわらず「格差」を感じた。そういった立場からするとSDGsは全世界に同じ目標を掲げていてその目標を全世界が達成できるように互いに協力するということなのだろうが、同じ目標に取り組むにはあまりにも発展している地とそうでない地の差が大きすぎるのではないかと感じる。私は発展しているところは発展しているところなりにさらなる発展を目指せば良いと考えており、そこに過疎地域が追いつくための政策を求めているわけではない。ここまで拡がった格差をなくすために過疎地域が追いつくのもあまりにも難しすぎる話であるし、そのために発展している地の発展を止めるのは違うと考える。その地にあったその地を生かした政策をとるべきだと私は考える。そして、私はなんとなくSDGsは世界目標であるため世界を統一にするというようなイメージを持っていたのだが、ただでさえ国内で「取り残されている」と感じている側からしたら海外の問題のために何かをしろと言われてもそれならば自分たちは一体どうなるのか、なにを優先すべきなのか疑問を感じるのは当たり前だと思う。また、今日「世界共通の目標であるSDGs」といったように名前だけが一人歩きしており、SDGsにさえ取り組んでいれば良いというような風潮が広まっているような気がする。最低限の生存のために世界共通の目標を設定するのは理解できるが、世界共通というために抽象的な内容であるから何をして良いかわからず結局名前だけは聞いたことがあるが詳細は知らないというような状態になってしまったSDGsの意味は失われてしまう。またSDGsの存在の大きさに圧倒されSDGsの目標だけに目を向けて自分の本当に身近にある問題をないがしろにするのは持続可能な世界を達成するにあたって一番遠くなってしまうと感じる。結局世界をみろと言われても新型コロナウイルスの影響もあり海外に行くことも簡単ではなくなってしまった現在、少しでも持続可能な社会をつくるためにはまず自分の身の回りの課題に取り組むことが大切だと考える。

 

桂木有翔 名古屋市立大学

 

私がSDGsにおける「誰ひとり取り残さない」「誰も置き去りにしない」という理念を知ったのはほんの最近である。学んでいくうちに、人種、住んでいる場所、障害の有無、性的マイノリティ、経済事情などの様々な理由で差別されることなく、その先の持続可能な社会にむけて人類みんなで進んでいくことを目指す理念だということが分かった。この理念が掲げられる前提には、もしかしたら他の人を取り残してしまうかもしれない人々と、取り残されてしまうかもしれない人々の存在が想定されている。そこで、ある疑問が生じた。それは、「果たして自分はどちらに想定されている人間なのか」ということだ。
私は、現状の自分自身は取り残されてしまう側の人間だと考える。
私は日本では多数派である日本人であり、大きな障害を抱えているわけでもなく、性的マイノリティと呼ばれる人でもなく、家庭が困窮して特別に貧しい生活を送っているわけでもない。それならなぜ私は自身を取り残されてしまう人間だと感じているのか。それは私が持続可能な社会を実際につくっていくために必要なものを持てていないからだ。だからこれから持続可能な社会にむけて進んでいくなかで自分がしたいこと、するべきことが分からずに、取り残されてしまうと思ったのである。
では私が取り残されない存在になるためには何が必要なのだろうか。私は先述の通り、社会における重大な制約を持っているわけではないので、自らの行動や考えでこの現状を変えることができるはずだと考えた。私は大きく3つの要素がこの状況の打破に必要になると考える。
1つめは知識である。SDGsとはなにかはすでに学習しているが、それだけでは不十分だ。今までどのような取り組みがどのような形で行われてきたのか、その結果どのような成果を挙げたのか。今実際に起こっている問題は何なのか。SDGsに関する深く、また具体的な事柄について学び、その結果得た知識でつくられた思考の土壌を持って初めて、未来の社会について考えることができるようになると考える。
2つめは自分なりの理想やビジョンである。過去や現状を知り、知識を得ただけで満足してしまえば得た意味が全くない。過去や現状を踏まえた上で、自分がこれからどのような社会にしていきたいのか、その社会を実現させるためには何が必要なのか、どのような行動が必要なのかという考えを自分の中で明確に持つ必要があるだろう。もちろん理念の二はある程度おおまかな物も必要である。しかし、具体的な筋道を1つも持たない理想は、机上の空論に終わってしまう可能性を秘めている。
3つめは日常生活の中での意識、行動である。ここで大切になるのは「日常生活の中」という点である。SDGsを主題とした講義や会議、セミナーに参加している間にそのことについて考え、自分の意見を持つことは、誰にもできるし、誰でもしていることだろう。私も講義中は世界の様々な課題について考え、解決策を考案し、友人たちと意見を共有したり問題点を話し合ったりしている。しかし講義が終わってしまうと、学習したことについて考えることをやめてしまっている。しかし、それでは学習した意味が失われてしまう。学んだこと、考えたことを自身の日常の中に還元し、行動に移していくことで初めて持続可能な社会の推進に貢献することができるのだと思う。
以上の3つが取り残されてしまうかもしれない現状を変えることができる要素だと考える。しかし、現在のSDGsの教育の場では、そのことを失念して理念を学ぶだけでSDGsについて理解し、自分が引っ張っていく立場に立っていると錯覚してしまっている人は少なからずいるように感じる。私も現状ではそのひとりである。学んだことを活かし、生活に取り入れて初めて、SDGsの活動を先導する立場となることができるのだと思う。
もちろん、社会的な制限や不利を抱えている人たちが取り残されないような対策を講じていくことももちろん必要だ。しかし、今一度自分自身にスポットを当ててみることで新たに見つかる視点やアイデアもあるのではないだろうか。多数派にカテゴライズされる人々の現状や問題点から、様々な理由で少数派にカテゴライズされている人たちに関する新たな課題も見つかるのではないか。私自身ももう一度、今までに自身のSDGsに対する態度を反省し、3つの要素をまずは自分に還元することで、持続可能な社会の形成に貢献できるような人間に成長していきたい。

 

加藤誠人 和光大学 4年生

 

 突然ですが、あなたは取り残されていると感じる機会はありますか?
 家庭、学校、サークル…色々な所で疎外感を感じることはありますか?

恐らく、ほとんどの方がそのような経験があるのではないかと思います。人間関係やその場の雰囲気に馴染めないことが苦痛でたまらなかったり、性的嗜好が多くの人と違っていて「自分は普通ではない」と悩んでしまったり。私たちが私たちの生活をする以上、そうした「普通とは違う」所を持つものだと思います。
 しかし、私は「そうした違和感を強く持っている人ほど世の中を変え、人々に勇気を与えられるのでは」と強く思います。なぜなら、違和感を強く感じている方こそ、新しい価値基準を作り出してくれると確信しているからです。そして、その体験を私が目の当たりにしたからです。
 私は、高校生の時にうつになっていました。学校生活のこと、大学受験のこと、人間関係のことなど、いろいろなことが常に頭の中をグルグルしていました。学校に行くことも部活に行くことも億劫で、それまで好きだった会話にも次第に怖さを覚えるようになりました。大学に入るころには良くはなっていましたが、心配事の1つであった大学受験のことはうまくはいきませんでした。
 ですが、そうした自分の悩みに対して疑問を感じました。「私は何を基準に評価を下しているのだろうか」と。友達と一緒にいることが社交性のある証なのか。あるいは、いい大学に行くことが自分の価値を高めてくれるのだろうか。それらは必ずしもそうではないことを、生まれて初めて知ったのです
 そうした経験から、私の価値観は他人との比較ではなく、自分の今持っている感情表現や知識などをいかに困っている人に提供できるかに変えることができました。善し悪しで判断するような縦の見方ではなく、そういったやり方もあるなという横の見方ができるようになったことで、自分が自分に課していた「やらなきゃいけないこと」も減り、楽に生きることが出来ています。
 もう一つの変化として、私は「取り残された人」ではなく「取り残された人を救いたい人」になったことです。人生に対して希望を持てなかった人が、人に希望を与えたいと思えるようになったことで、さらに人の温かさやつながりを持てるようになりました。
 2021年現在、コロナウイルスが経済や人などに大きく影響しており、それに伴って孤独感や疎外感を感じる方も多くいらっしゃいます。日常や自分自身に違和感があるマイノリティーが新たな価値を提唱することで、そうした多くの人を勇気づけ、元気を与えることができるのではないかと思います。
 最後に、「取り残されている人」も「取り残されている人を救いたい人」も表裏一体であり、いくつかの価値観について考えるだけで大きく生き方が変わってきます。多くの人が生まれたことに意味があり、幸せになれることを感じ取っていけるような社会になってほしいと同時に、そういった取り組みをしていきたいと思います。

 

ELLOSO ZEINMAE 横浜隼人高等学校 2年生

 

 私はSDGsの達成課題17のうちの4「質の高い教育をみんなに」についてグループで新聞作りをした。この目標を選んだ理由は、私が小さい頃フィリピンで暮らしていたときに感じた貧困による教育格差、また私には障がいを持っている兄と弟がいて、私と同じような教育を受けられないことでこの目標を選んだ。
 世界ではいまだ、教育における男女格差が問題となっている。2018年時点で初等教育を受けることができない人が約5900万人いて、そのうちの3200万人が女の子である。また、男女格差は地域によって異なり、特に多いのはアフリカのサハラ砂漠以南のが地域と南アジアである。
 このような地域で女の子が教育を受けられない原因は「女子には教育は必要ない」という考え方が根強く残っていること、就学中に結婚させられる児童婚、各地域に学校を設置できないなどの理由が挙げられる。また、男女格差に限らず国や地域ごとに教育格差がおこる原因は貧困、戦争や紛争、親による教育否定、学校の教員の不足が挙げられる。
 こうした理由で教育の格差があるが、もし自分が学校に行けない女の子で将来自分がどうなってしまうのかを想像してみよう。おそらく、これらのことが起こりうるだろう。読み書きができないため、自分の就きたい仕事に就くことができない、必要な知識を得られていないため社会に取り残される。また、子どもができたときに正しい知識がなく子どもを亡くしてしまう。教育を受けられないことは、女の子の将来にとって大きく関わる問題である。学校は読み書き以外に、生きるためには必要な場所であると理解してほしい。女子教育の向上はその国の経済を上げることにつながり世界の繁栄と安定をもたらすことも理解して頂きたい。
 私はこうした問題を打開するため、間接的ではあるが新聞作りを一緒にやったメンバーと解決策を考えた。一つ目はフェアトレード商品を購入することで生産者の生活を向上させ、貧困家庭の子どもたちが学校に通えるようになることである。二つ目は私たちがユニセフ募金に参加してその寄付金の使い道を給水所の設置に回すことである。今なお330万人以上の子どもたちが生活用水を確保するために家から遠く離れた水汲み場までわざわざと行って取っている。これの往復を何度も繰り返していて教育を受ける機会を奪っている。また、この文化や習慣の役割を担っているのが女の子たちである。家の近くに安全な水を汲める給水所を設置すれば、学校に行く時間を確保するができて、その国の識字率が上がることにつながると考えた。

 

宮本あゆは 岡山大学 4年生

 

 SDGsを推進するにおいて、「ジェンダー」というものはかかせないトピックの一つである。ジェンダーと一口にいっても、今まで存在してきた「男らしさ」「女らしさ」という言葉についての疑問であったり、そもそも「性」というものを「男」「女」という二つに分類しきることはできないという議論が活発に行われるようになったりと、そのジャンルは多様である。
 私は「メイクとジェンダー」「服とジェンダー」という二つの論点についての疑問を投げかけたい。
 まず初めに、「メイクとジェンダー」について述べる。ここ数年で、メイクは女性のみがするものであるという価値観は変容を遂げている。「メンズメイク」という言葉が少しずつ大衆に広まりを見せている。このような傾向は化粧品業界のトレンドにも影響を及ぼしている。化粧品のモデルに男性の起用や、「LAKA」のようなジェンダーフリーをうたった化粧品ブランドの誕生が例として挙げられる。しかし一方で、より身近なレベルに落とし込んで考えるとどうだろうか。周りの化粧をしている男性に対する反応は、あまり暖かなものではないように感じる。
 これには、「容姿」というバイアスがかかっているのではないかと考える。いわゆる一般に言われるような容姿端麗である男性の化粧には肯定的な目を向け、一方でそれ以外の男性の化粧には否定的な目を向ける。ジェンダーという垣根を超える新しい価値観が生まれようとしている中で、「容姿」という新たなバイアスを生んでいるだけではないのだろうか。
 次に、「服とジェンダー」について述べる。特にこの潮流は、学生服において顕著にみられる。近年、制服の選択肢の幅を広げたり、そもそも制服をジェンダーフリーなデザインにしたりするなどジェンダーの考えを制服に反映する学校が増えている。しかし、制度などのハード面はこのように整えられていく一方で、周囲の理解などのソフト面は未熟であるのが実際のところである。例えば、実際に発生した事例を取り上げると、「LGBTへの配慮のために」制服の選択肢を自由にしたなどという触れ込みで制度を導入した学校があった。この場合、実際に生徒は自由な選択が可能になるだろうか。多くの生徒にとって、それはハードルの高いものになるのではないだろうか。もし女子生徒がズボンの制服を選択したときに、LGBTの生徒というラベリングを貼ることにならないだろうか。「LGBTへの配慮」と大々的に触れ込むことは、当事者の生徒にとっても、それ以外の生徒で自由に制服を選択したい生徒にとっても、ハード面では保障されている制服選択の自由が、周囲からの視線というソフト面で選択の自由を阻害されているといえる。
 また、女子生徒がズボンを選んだ場合と男子生徒がスカートを選んだ場合においても、ソフト面において状況が違うと考えられる。以前、トランスジェンダーの当事者の方にヒアリングを行った際に、スカートをはくという選択肢が制度面では保障されていたとしても、それを実際に学校の現場で選ぶことができるかというと、それは難しい問題であると述べていた。しかし、このような状態は本当に「服を選ぶ」という自由を保障している状態であるといえない。
 また、最近ではジェンダーレス男子、ジェンダーレス女子という言葉やそのようなキャッチコピーを持つ芸能人が出てきている。彼らを形容するこれらの言葉は、果たして本当に彼らの意図を理解しているのだろうか。
 ジェンダーと、自己表現と容姿。かわいいからかっこいいからいい、それ以外はだめではなく、だれ一人取り残されることなく自己表現ができる世界を私は目指したい。
 

髙橋優心 横浜国立大学 1年生

 

 近年 SDGsという言葉が流行している。誰もが取り残されない社会のための理念であり、国際的に協力の輪が広がっている。では、ここで言われている「取り残される人」とはだれを指すのだろうか。

 貧困や障害を持つ人、マイノリティなど、 SDGsの活動目標内では現状において不利な立場を強いられることもある人たちについて言及がなされている。彼ら彼女らはもちろん取り残されかねない人たちである。しかし、そもそもこの SDGsという考え方そのものから取り残されている人もいるのではないだろうか。

 私は運よく大学に合格し、授業内においてSDGsという考え方、理念について学ぶことができた。このコンクールに応募している多くの若者たちも何らかの手段で情報を得て、自分なりに考えているのだろうと思う。だが、私の友達はSDGsについて詳しくは知らない人もいた。また、私の祖父母に関しては全く知らなかった。このように、SDGsについて知ることができ、考えることができるのは環境やそれを得る手段を持っている人に限られてしまっている。これは誰もが取り残されていないといえるのだろうか。SDGsについてアクセスできる人だけが「取り残されない」ということにならないだろうか。それを知っている人だけが救われるのでは、新たな格差を生み出し、分断を招くだけであると思う。

  SDGsの活動は、それを考えられる人だけが参加するものではなく、すべての人が当事者として、自分たちができることから行動を起こしていかなければ真に「誰も取り残さない」とは言えない。しかし、 SDGsの17の目標は観念的なものが多く、実際に自分たちに何ができるのか、実際にどんな取り組みが行われているのかが見えづらくなっているのではないだろうか。私はSDGsの活動をより身近なものに普及させていく必要があると思う。例えば、小学校の教育の一環として、身近で行われている取り組みを探してみたり、実践してみたりすることだ。赤い羽根共同募金など身近で行われているSDGs関連の活動は意外と多い。それを子供世代が認識することで、家庭内へその輪が広まり、より多くの人をがこの活動を認識することになる。このようにより多くの人を巻き込み、より身近なものであるという認識が広まっていけば、より多くの人が自分のこととしてこの活動に向き合っていくのではないだろうか。

 私は大学でこのSDGsについて学ぶことができて幸せだと思う。だからこそ、私が学んだことをより多くの人に広めて、協力の輪をより多くの人に広めていけるよう努力していきたい。

 

髙橋志 新潟大学 2年生

 

 学習できる幸せとは何だろうか。文字を覚えて文章を作り出す、数のルールを知って計算式を解く。今日の日本で生活する我々にとって自分の好きな学問を思いのままに学習できる毎日は「普通」である。かくいう私も義務教育、高等学校での学習を修了し、現在は大学にて高校時代から興味を持っていた経済学を学習している。そんな私の日常を世界規模で比較した時、この日常がいかに幸せであるかということに気付かなければならない。本稿ではそんな私たちが享受している「普通」から「取り残されている」人々について世界、日本国内の現状の2観点から考察を行う。
 まずは世界規模で教育に関する問題を考える。SDGsに掲げられている17の目標の内、目標4では「質の高い教育をみんなに」というテーマが示されている。目標4はさらに細かく分けると10個のターゲットから成立しているのだがその中でも6番目のターゲットには「2030年までに、すべての若者及び大多数(男女ともに)の成人が、読み書き能力及び基本的計算能力を身に付けられるようにする。」という内容が盛り込まれている。教育は国家が経済開発をするために必要不可欠なものであり、一人間が自分の能力を使って尊厳のある人生を歩むために重要な役割を果たしている。特に今日におけるグローバル社会を生き抜く上では最低限の教育は世界中の人々にもれなく享受されなければならない。15歳以上の識字率自体はSDGsの前身ともいえるMDGs(ミレニアム開発目標)などの成果もあって1990年に76%であったものが2016年には86%に伸びているなど伸展を続けている側面もある。しかし、UNESCOが2019年に発表したGlobal Education Monitoring Reportでは学齢児童の内、6400万人は依然として学校に通えておらず、さらに約7億5000万人の成人は依然として基本的な識字能力が身についていないことが明らかになっているため、まだまだ問題は解決されていないというのが現状である。この問題に対し、我々ができることとしてはUNESCOをはじめとする諸機関への寄付を通して水源・トイレなどの確保や学校の設立に協力をすることはもちろん、それ以外にも先述した識字率などの現状やそれに立ち向かう組織の存在を多くの人が共有知識として広めていくことも有効であると考えられる。
 続いて、日本の現状について考える。ここでは教育に関する問題がしばしば経済的な格差や貧困の程度と大きく関係することがあるという事実から「相対貧困率」という指標を用いた考察を行う。相対貧困率とは生活水準に関係なく一定の割合でその貧困度合いを判断する絶対貧困率とは異なり、国民(全世帯)の所得中央値の50%を下回る世帯の割合を示したものである。結論から述べると日本の相対貧困率は当初所得、可処分所得において共にOECD加盟国の中で高い方に位置しており、砕いていえば日本の経済的な格差は大きいということを示している。経済的な格差が存在してしまう以上、子供の教育費に充てることのできる金銭的な余裕にも格差があることは明白である。格差是正に取り組むことはもちろん重要であるのだが、私はそれと並行して「子供たちが貧困に拠らず質の高い教育を受けることのできる仕組み」を創り出すことも重要であると考える。その一例としては近頃その創設が議論の的になっている「こども庁」が挙げられる。こども庁は児童虐待や不妊治療、子供の貧困問題などへの対策や支援を行う担当を統合することによって問題となっているそれらの問題により円滑な対応を行うことが可能になると期待されている。シングルマザー問題など多くの課題が存在する現状を考えると、こども庁の設立は日本が抱える経済的な格差と教育に関する問題を是正していく上で大きな役割を果たすことができるのではないかと考えられる。
 学習を当たり前のものとして享受している私たちの「普通」。ここまで見てきたように、世界だけにとどまらず日本においてもその「普通」の価値が見直されるべきであることは言うまでもない。教育面で「取り残されている」人々が少しでも減り、より多くの人が学習できる幸せを感じられる日々を送ることができるように私たちは現状の問題とその対策を考え、共有していく態度が求められていると考える。

 

齊藤彩 早稲田大学

 

日本において、「取り残されている人」とはどのような人なのか。自分のすぐ近くに、「取り残されている人」はいるのだろうか。大学生である私が自分にそのように問いかけると、「自分と同じ若者が、日本社会から取り残されているのではないか」という考えにたどり着いた。この「若者」とは、ここでは10歳未満の子供から20代の人をさすことにする。
なぜ「若者」が「社会」から取り残されているのか。その理由は大きく2つある。第一の理由は、若者が政治を身近に感じることができないことである。第二の理由は、自分らしく生きることができない子供たちがいることである。以上に挙げた2つの理由をこれから詳しく述べ、彼らを取り残さないための方法を提案する。
まず、若者が政治を身近に感じられないことについて考察する。言うまでもないが、現代の日本では、特に若い世代の投票率が低迷している。政治家として議会にいるのも、50代以上の高齢の人がほとんどであろう。「持続可能な社会」をつくるために、未来のことまで真剣に考えることができる「若者」の意見を反映させる必要がある。しかし少子化が進み、若者の政治への関心が薄くなっているために、反映されるのがより高齢の人の意見になってしまっている。実際、日本では若い世代が政治とつながりを持つ機会は、ヨーロッパの国などに比べて非常に少ない。例えばデンマークやドイツでは政党の青少年団体があり、その団員から意見を聞くこともある。またドイツではテレビ番組でいきなり政治家と中継して、スタジオにいる一般人の意見(自分の地区にアウトバーンを一本増やしてくれ、といった個人的な要望だが)を聞いてもらうことも多い。日本でこのようなことを急に行うのはさすがに無理がある。しかし、若者の考えを政治に反映させるためには、社会や政党から働きかけ、日常の疑問などを聞くことが必要になるのである。
次に、子供たちが自分らしく生きることについて考察する。近年、中高生の不登校が問題に取り上げられることが多くなっている。そのような生徒を受け入れる場として、高校生においては自分の好きなことだけを学べる学校や、登校日数が非常に少ない学校などがつくられている。しかし、義務教育ということもあり、中学生には「学校に馴染めないときの逃げ場」というのが非常に少ないと考えられる。受験しない限り自分の行き先を決められない中学校では、学校に馴染めない生徒を無理やり説得して学校に行かせるのではなく、別の道を進むという選択肢を、社会や学校が作ることが重要である。

 

眞田笑歩 岡山龍谷高等学校

 

「誰ひとり取り残されない」とは、どのような社会だろうか。みんなに仕事やお金を与えることか。施設の設備が整っていて、何不自由無い生活が送れることか。それとも、差別が無くなり、支え合えることだろうか。私は、このどれでもないと思う。何故なら、誰ひとり取り残されない、とは、言い換えれば「人類全ての望みが満たされている」という事と同じだと考えるからだ。望みは同じではない。全てが叶えられる保証もない。望みを叶える材料が揃っている人は、自ら動き出る。しかし、動き出す設備すら揃っていない人は、そこで立ち尽くし、夢で終わってしまうしかない。そんな人のために、少しでも助けになろうとする人もいるが、「取り残されない」社会を作るには、手を差し出す人、差し伸べる人の、両方の力が必要だと考える。
例えば、あなたは何か、食べ物を持っているとする。そしてあなたの目の前に見知らぬ2人の子供がいて、「食べ物が欲しい」という同じ願いを持っていたとする。2人は、どちらも紛争地域の子供で、何日も何も食べていない。やせ細って、今にも死んでしまいそうだ。しかし、あなたはその食べ物をどちらかひとりだけに、あげることができる。どちらにあげるだろうか。それとも、見て見ぬふりをするだろうか。しかし、どちらの選択をしても、必ず、最低1人は死んでしまう。このように、誰かが手を差し伸べても、その手を掴めなかったものは出てくるし、逆に、自分には関係ないと思い、助けられるはずだったものすら、その手を振り払う。この問題がある限り、「誰ひとり取り残されない」という社会は来ない。
それを解決するため、「取り残されない社会」を実現するために、最も重要だと考えるのは、「環境」を整える事だ。先程挙げた例で言うと、手を差し述べる人が、十分な人数と食材を揃え、手を差し伸べる人が、「助けが必要だ」と堂々と発言する勇気を持てる場所を作る事である。
世界が行っている、SDGsの「ジェンダー差別をなくす」という目標がある。私は、これは「誰ひとり取り残されない社会」を作る為の、大きな1歩になると考えている。この目標が掲げるのは男女平等、世界には女性の方が劣っているという、腹立たしい偏見がある。日本にも、男は仕事、女は家事・育児という性別役割分業意識が強く残っており、女性や子供が差別される状況が続く。もし、ジェンダー差別が無くなるのなら、誰ひとりとして、発言や行動に差別の目を持たれない。しかし、私達には性という違い、簡単には越えられない壁がある。それがある限り、私達は異性と必ずしも分かり合える、という訳では無い。助け合える社会を完成させるには、男女それぞれの特徴を理解し、尊重し、自身に合う居場所を見つける。これが、目標の環境を整えるための、1番の近道であると考える。
そして、SDGsだけでなく、私達ができることは何だろうか。それは、まず「私自身が取り残されている存在なのか」を考える事だと思う。私と同じ様な意見でなくとも、何を基準にしようが、自分に足りない事、満ち溢れている事を考え、それを周りの人に補ってもらうか、与えるかが、より自身の事を知る事ができる機会になるのではないのだろうか。

 

國松厚斗 同志社大学 3年生

「ESG投資による民間企業のSDGs展開で誰ひとり取り残さない社会を実現する」

 現在、SDGsを目標に全世界が一致し、より良い社会を目標に行動しつつある。一方で、SDGsには明確な数字や指標としての目標が無く、何をどうすればSDGsを達成したと言えるのか不明確である。この問題に対して答えを出せるのがESGではないかと考える。ESGとは企業の環境性、社会性、ガバナンスの三つの要素を指すが、これらを評価することによってESG投資が生まれている。現在世界全体で3000兆円とも言われるESG投資は我々の未来を変えてくれるのではないだろうか。

2.投資って何のため?誰のため?
 投資とは企業の価値向上のためのものだろうか。それは間違いと言える。ここでの投資は証券投資を指すが、そもそも投資とは自己利益や企業価値向上のためだけのものではなく、社会全体の利益向上を目指している企業に対して資金を援助するというものであるべきではないかと考える。その考えにフィットするのがESG投資による社会貢献であり、今後SDGsを展開するために必要な要素である。

3.ESG投資でSDGs達成に拍車をかける
 ESG投資がさかんに行われることで、投資した側は企業のESG活動を通して、SDGsの達成や長期的運用パフォーマンスを期待できる。また企業側は資金を調達することができ、新たなイノベーションを起こす可能性もある。この相関関係を用いれば、SDGsと経済成長を同時に達成することができるのではないかと考える。この潮流は欧米で浸透しつつあり、日本国内でも2019年のESG投資総額が336兆円となっている。今後、私はこのESG投資がSDGs達成の答えになると確信している。

4.誰も取り残さないESGの提案
 一方で、ESG評価については不確定要素が含まれる。ESG評価は信用格付会社ごとに評価基準が異なるため統一された評価基準は存在しないのである。これでは投資家・消費者が企業のESGを的確に判断し、投資・消費することができない。そのため私はESG評価の基準を日本政府によって策定すべきであると考える。その際にニ点を留意すべきである。   
 第一に”society”において、社会的弱者の雇用、貧困層への支援の基準値を定めるべきである。例えばホンダは2019年に95.7億円の社会貢献支出をしており、経済的支援に熱心である。一方で、支援内容としては、ホンダの持ち前を活かした技術支援、職業訓練、ボランティアなどがメインであり、社会的弱者に対する経済的支援は行われていない。もちろん、経済的支援を行うだけで評価の上がるESG評価基準では良くないが、企業による経済・雇用支援が盛んに行われれば、社会的弱者の経済的困窮や雇用不安定を解決・改善できるのではないかと考える。
 第二に国内におけるESG投資の評価基準は政府によって行われるべきであるが、その際に政府系金融機関などを通して、政府も大規模な投資を行い、ESG投資を活発化する必要があると考える。政府が本腰を入れて投資することによって、投資家・消費者の意識をESGに向けるとともに、SDGs達成のための民間の潮流を創り出すのである。

5.まとめ
 私が提案するESG投資による民間企業のSDGs展開とは、企業がESG活動を行うことで、社会的弱者を支援をすること、そのESG活動の評価を政府が中心となって策定すること、そして投資家・消費者がESGを意識した投資・消費を行うことで間接的にSDGsを達成するというものである。このことによって、社会から取り残された少数派を包括的に支援することができると考えた。今後この流れを生み出すためにも、私はESG、ESG投資についての考えを普及させたい。

 

會田悠人 クラーク記念国際高等学校

 

私達が今、全世界の人達と協力して達成すべきことは沢山あります。自分達の国だけが儲けること他国に核や新たな兵器で牽制することは時間とお金と資源の無駄だと言えます。
その武器を作るお金と資源を使って発展途上国を支援する方がずっと価値があると思います。 特に環境問題に関してはいち早く解決すべき問題だと思います。地球温暖化や海のプラスチックゴミなど人が生きていく上で障害となる問題が山積みです。ではそのような問題をどのように解決しより良い未来を作っていくのか。
そのためにはまず国同士の連携が必須となります。一国がどんなに訴えていても地球の問題は何一つ改善することはできないでしょう。そして1人1人が動くことが大切なのです。自分1人動いたところで出来ることや影響は目に見えているでしょう。しかしそのたった1人でも全世界の人々が動いたら何十億というとても大きな力 があります。まさに塵も積もれば山となるの言葉通りです。1人1人が動けば地球を変えていくことができるのです。しかし地球温暖化などの環境問題を解決していく上で問題が出てきます。それは”お金”です。何をするにもお金がかかってしまうのです。ここで一つ地球温暖化に着目します。地球温暖化の原因は温室効果ガスです。その温室効果ガスのうち、約80%を占めているのは二酸化炭素です。この二酸化炭素の国別排出量や、国民一人当たりの排出量は、国や地域によって大きく異なります。発展途上国に比べて先進国の方
が排出量が増えるのは当然です。その分先進国がより多くの温室効果ガスの排出量を減らす政策を取らなくてはなりません。兵器を開発するより先に自分達の未来のために二酸化炭素を出さない代用品の開発を進めていく方がいいと思います。
確かに他の国に遅れを取らないために、万が一にも戦争になった場合に負けないようどこよりも強力な兵器を持っておきたいかもしれないが、そんなことをしていては自分達が生きていく星が住めなくなってしまうかもしれないです 。今、環境が汚染されてしまっているのは先のことを考えずに人間最優先で科学を進めてきたからです。昔の人間の尻拭いは科学が進歩した今行うべきです。更に多くの人にSDGsを知ってもらい、しっかりと理解してもらえれば二酸化炭素削減のための資金援助をしてもらえるかもしれません。そこまでいかなくても1人1人がSDGsに対して少しでも意識してくれるだけで地球全体の環境を間違いなくよくすることができると思います。

 

露木百夏 横浜隼人高校

 

私は、SDGSの基本理念を達成するには世界中の人々が一人一人考えて意識を高めることが大切だと思う。なぜ私が一人一人考えて意識を高めるべきなのかというとSDGSという言葉を多くの人が聞いたことはあると思うが、目標を達成するために具体的なことを考えた人は少ないのではないかと思ったからだ。
私は、「誰ひとり取り残さない」と最初に聞いてなにから取り残されないのか?と疑問に思った。私なりに考えたが、飢餓や戦争ことではないかと考えた。
世界では、戦争や飢餓で苦しんでいる人が多くいる。戦争で苦しんでいる人を私たちが助けることは難しいかも知れないが、飢餓で苦しんでいる人を助けるには良い策があるかもしれない。日本では、食品ロスが多い。まずこの食品ロスを減らすべきだと思う。なぜなら世界の食料が足りないわけではないからだ。私たちができる対策として食べきれないほど買わない、賞味期限や消費期限の違いを理解してすぐに食料を捨てない、外食して食べきれなかったものを持ち帰ることができるようにするなど私たちができる対策は多くある。食品ロスを減らせたら食料を寄付したりお金を募金したりして飢餓で苦しんでいる人を助けたいと思う。
また、世界ではコロナウイルスにより私生活が大きく変わっている。コロナで通常だと思っていた私生活が大きく変わってしまった。日本では、マスクをこの世の中でしない人はほとんどいないと思うが、世界ではしない人も多くいる。また、一回目の緊急事態宣言で日本は要請で命令を出していたわけでないのに多くの人がそれを守った。このことから日本人は、協力的だと言えると思う。これをいかしてSDGSの取り組みをもっと多くの人に広め私たちが今できることを具体的に考え協力して少しでも解決したいと思う。
最後に私はこの作文を書いてSDGSについて深く考えられ、世界のさまざまな問題を具体的に知る良いきっかけになったと改めて感じた。私にできることは少ないが少しでもできることはしたいと思う。例えば、前に述べたように食べ物を無駄にしないやできる限りお金を寄付したり、情報を発信するなどを自らしたいと思う。「誰ひとり取り残さない」と聞いて、考えは十人十色だと思う。地球にいる人の分だけ考えはあると思う。コロナ禍で深く考えることが増えたと思うが深く考えることでよりよい考えが出ると思う。一人一人ができることを考えより良い世界になっていってほしい。

 

鈴木大河 東京工業大学 学士1年生

 

 私が最近の日本社会に対して感じている違和感とコロナウイルスの流行によって変わったことについて「誰ひとり取り残さない」という観点で述べてみたいと思います。
 先日早川書房さんのYouTubeチャンネルで「能力主義は正義か?」※1というマイケルサンデル教授と東工大教授陣の対話を目にする機会がありました。対話の中で頻出した「能力主義」という言葉。これについて私は、現状の日本ではまさにこのようなものが蔓延しているのではないかと考えました。例えば、企業の賃金形態は新自由主義の煽りを受けて年功序列型から成果型へと移行する流れがありました。「能力主義」というのは必ずしも悪いものではないと思いますが、不平等を正当化し、競争に負けてしまった人に責任を押し付ける「自己責任論」に容易につながってしまいます。昨年行われた「コロナウイルスに感染する人は自業自得だと思うか」と質問する調査※2では、日本人の11.5%が「どちらかといえばそう思う」「ややそう思う」「非常にそう思う」と答えました。これは米国1%、英国1.49%、イタリア2.51%、中国4.83%に比べて高い結果です。反対に「全く思わない」と答えた人は、他の4か国は60~70%台であるのに対し、日本は29.25%でした。
 このような「能力主義」や「自己責任論」は成功する人とそこから取り残されてしまう人との格差を広げてしまっているように感じます。こうした格差への対抗策としてサンデル教授は「実力も運のうち」という言葉を挙げていました。つまり成功するというのはその人の家庭の経済状況、教育、競争などの環境によって成し得たもので、全く能力によるものではないという考えです。サンデル教授は格差を埋めるためにはこれを意識し、家族や国家、共同体から得た恩恵を忘れない「謙虚さ」が大切だと語りました。私は「実力は運のうち」という考えには共感する一方で、「謙虚さ」という考えはある意味で“成功している人による上から目線的な考え”であって、万人に共通する解決策ではないだろうと疑問を持ちました。そこで私はコロナウイルスにより変化した例で「実力も運のうち」について考えてみました。
 突如として襲ってきたコロナ禍で人々の生活は大きく変わりました。娯楽施設は休業され、オンラインツールが急速に普及することになったのです。この過程で私は“取り残されている人”が変化したように感じました。例えば今まで飲食店や娯楽施設で働いていた人、彼らの多くはコロナウイルスが流行する前、“取り残されている人”ではなかったはずです。しかし休業を余儀なくされ“取り残されている人”になりました。また、機械が苦手な人もコロナウイルスによって取り残されているかもしれません。一方で今まで塾に通えなかった人はオンラインツールの普及によって低価格でレベルの高い授業が受けられるようになりました。外に出ることが難しかった引きこもりの人でも、ほかの人と同じように授業を受けたりイベントに参加したりすることができるようになりました。この変化から私が考えたことは、取り残されるかどうかという事はその人の何か性格や要素に起因するのではなく、周りの環境によって決まっているのではないかという事です。つまり取り残されているかどうかというのはサンデル教授の言う「運」で誰でもそう成り得るという事です。
 取り残されている人とそうでない人の間をなくすためにどう行動するべきか、先日拝見した「新型コロナで取り残されそうな人 SDGsの精神『誰一人取り残さない』セミナー」※3で感じたことを中心に考えたいと思います。セミナーでは盲ろうの方に伝わるよう、話したことや仕草を文字に起こし、それを点字に変換していました。そのために大切なことはとにかくゆっくり話すこと。初めは私もペースに慣れず、疲れてしまうことがありましたが、徐々にペースが掴めていきました。全体でも初めのほうは「もう少しゆっくり、間を開けて」という注意が多くありましたが、後半になるにつれて丁度よいペースになってきて、注意も少なくなりました。私はこの時全体の一体感のようなものを感じていました。私はこの一体感が取り残されている人とそうでない人の間をなくすために大切だと感じました。今回のセミナーではその場にいた人全員が全員の歩幅に合わせて歩み寄るという事が出来ていたと思います。一方的な「謙虚さ」や「配慮」ではありません。このような双方向の歩み寄りによって、誰もが過ごしやすい環境を作っていくことが非常に大切なのではないか今回のセミナーを通じて思いました。
 これらのことから私は、「誰でも取り残され得る」という事を意識して、「一方的な配慮ではない双方向の歩み寄り」をすることが重要なのではないかと考えました。「誰ひとり取り残さない」という目標を達成するためにはこのような考え方が必要なのではないでしょうか。

参考資料
※1 https://www.youtube.com/watch?v=GmLJtxUHFXA&t=833s
※2 https://www.yomiuri.co.jp/national/20200629-OYT1T50107/
※3 https://www.youtube.com/watch?v=qDy4HOnNlsI

 

鈴木雄登 横浜国立大学

 

「誰ひとり取り残さない」というSDGsの基本理念を実現させるためには「情報の平等」が必要不可欠であると思う。IT化が進んだ現在ではある情報を持っているという事だけで大幅にパワーバランスが変わってしまうほど、情報は重要なものであるからである。また、正確な情報があるからこそその中で何を選択するのかという自由が生まれると思うので、全員が正しい情報を得られる環境を整えることが必要であると思うからである。このことを改めて感じた身近な出来事は、昨年から猛威を振るうコロナウイルス関連のことである。映画館や百貨店などではどのように感染対策をすれば比較的安全であり営業することができるのかという情報を得る必要があったり、事業所への給付金などはどのような事業所が対象で、どのように申請するのかという情報を得る必要があったが、このような情報を関係する人全員が得ることができ、簡単に理解できるように内容を咀嚼したものに情報提供側が工夫することが「誰ひとり取り残さない」ことにつながるのだと思った。また、ワクチン接種ではネットを介した予約が主とされていたが、高齢者などでネットを普段使わず、ネットでの予約の仕方が分からない人などが多く散在している。我々のような若い世代ではネットを使う事が当たり前のようになっているため見落としがちではあるが、これはネットでの予約の仕方という知識、一種の「情報」を持っているのか否かということであると捉えることができるため、誰ひとり取り残さないためには「情報」が重要であると思うのである。さらにワクチン接種について考えると、複数の製薬会社が製造したワクチンがあり、それぞれのワクチンで僅かではあるが効果や副反応が違い、日本の場合であれば摂取できる会場の規模も違い、家からの距離も変わってくるため、これらの情報を正確に得た上で吟味して、どこでどのワクチンを接種するのか、はたまたワクチンは摂取しないのかを判断することが本当の意味での選択の自由なのではないかと思う。このような情報を得ることができなければ判断することは難しく、「よく分からないけど摂取しよう」と考える人がいたり、反対に「よく分からないから摂取しなくていいや」と考える人が出てきてしまったりする可能性がある。そのような状態は一部の人を取り残していることになると思うので、正確な情報を全員が得られるようにすることが重要なことであると思う。上記のように情報の有無によって大きく左右されるため、「情報の平等」が求められると思う。「情報の平等」について考えるとき、「自分の常識は他人の非常識」という言葉があるように、自分や自分の周辺の人は知っているから、その事を知っていることが当たり前あるというように考えるのではなく、他の人にとっては当たり前ではないのではないかと考えることが重要であると思う。またその事に関連する知識、情報を持っているかによってその情報に対する理解度も変わってくるので、背景知識がない人でも理解できるような文言や内容にすることも必要なのではないかと思う。このようにして情報を一部の人だけが持つのではなく、多くの人が情報を手に入れられるようにすることが、「誰ひとり取り残さない」という事を実現されるために重要なことであると考える。

 

鈴木愛唯 兵庫県立大学 1年生

SDGsは他人ごとではない

 「SDGsという言葉を聞いたことがありますか?」
 2021年の日本では45.6%の人が、この質問に「はい。」と答えるらしい。私は大学の講義でSDGsについて調べるまで「いいえ。」と答える54.4%の、取り残された側の人間だった。しかし調べれば調べるほどSDGsへの取り組みは他人ごとではないことが分かる。そして、案外参加していることに気がつく。マイバックを持ち歩くことや電気をこまめに消すことは、個人で出来る取り組みの1つだ。それが、SDGsに関係があると知らなかっただけで。日本では、SDGs実現のために何をやるのかを日本政府によって示されたSDGsアクションプランというものが存在し、SDGs推進本部によると、2021年は重要事項として4つのことに取り組む。私が今回注目したのは3つ目の「SDGsを原動力とした地方の創生、経済と環境の好循環の創出」だ。まちづくりに関わる指針であり、その具体的取り組みとしてSDGs未来都市という特定地域を選定している。内閣官房・内閣府総合サイト地方創生によると、SDGs未来都市とは優れたSDGsの取組を提案する地方自治体のことである。令和3年度では31の都市が選定され、4年間で124の都市が選定されている。私の地元、静岡県では今までに静岡市、浜松市、富士市、掛川市、富士宮市が選ばれた。そこではどのような活動をしてきているのだろうか。例えば静岡市では中学生を対象に推進学習授業を実施したりカラーホイールを設置したりSDGsウィークという期間を設け、その期間に様々なイベントを開催したりしていた。その結果、静岡新聞によると市民のSDGsの認知度は2021年には66%となっている。活動自体はどの地域でも実施出来そうに思えるが、それをやることで人々のSDGsへの認識が大きく変わってくる。認識が変わると今までの何気ない自分の行動を変えたり、もっと意識してやったりしようとする。今日の買い物は量が少ないから自転車で行こう、いつも持っていくエコバックを今日も持ったかな、地域でとれた野菜を買おう…。SDGsを意識した社会から「取り残されない」これらの行動が持続可能な社会の一端を担っていく。「知る」という一歩が差になる。私は、今よりもっと日本のSDGs認知度が高くなり未来都市とそうでない都市の境目がなくなれば良いと考えている。全日本未来都市化である。関係のない人は居ない、というのはどこにいても同じだから。そのために自分の立場で出来ることはなんだろうか。1つ目は、もっとSDGsについて知ること。例えば今日本は、質の高い教育や産業と技術革新における課題は概ね解決出来ているが、ジェンダー平等や気候変動、パートナーシップにおける課題が達成できていない。達成できていない課題について自分なりに考えてみると、ジェンダー課題に関して生理痛の辛さは例えたり説明したりするのが難しく個人差も大きいので生理休暇は理解されにくいな、気候変動に関して父が以前海の色が昔と変わったと言っていた…などと身近なこととして実感する。他の国ではどのように課題を解決しているのか、なぜ日本では解決が難しいのか、他に自分の生活でそれらの課題を感じる場面はあるか、出来ることは何か、など次々に知りたいことが出てくる。2つ目は、もっとSDGsを知ってもらうこと。自分自身で得た知識や考えを共有することで周りの人にもはたらきかけていきたい。例えば今回のような小論文を書いたりSDGsに関わる活動に参加してみたりする。大学生という私の立場を考えた時に「行動力」という言葉が思い浮かんだ。興味のあるものに対して調べる時間や体力があるからこそ、自己完結で終わってはいけない気がした。今までは「知る」という段階で満足してきたことばかりだったが、それを発信する行動につなげていきたい。自分の体験を通し、SDGsを知るというハードルを低くすることがテーマだ。思いやりを持って日常を見直せば、今から始められるSDGsの取り組みはきっと見つかる。そこで目をそらさなかったら取り残された人間ではなくなる。同時に、生きやすい未来を残していく人間になる。

<参考文献>
・地方創生SDGs・「環境未来都市」構想 – 地方創生推進事務局 (chisou.go.jp)(最終閲覧日:2021年6月28日)
・SDGs_Action_Plan_2021.pdf (mofa.go.jp)(最終閲覧日:2021年6月28日)

 

千葉翔太(仮名) 横浜国立大学一年都市科学部

 

「誰一人取り残さない」社会の実現は今のままでは難しいと考える。なぜならSDGsが地球規模での問題を解決する取り組みとして採択された背景からか、私たち一般市民が当事者意識を持つことがあまりないと考えるからだ。私自身も大学に進学してSDGsに関わる講義を受けるまでは言葉自体は知っていたものの、その具体的な取り組みについてまでは把握していなかったし、自分ひとりが行動したところで何か大きな変化をもたらすことはできないという思いもあった。しかし、大学の講義でSDGsの進める取り組みや現代社会が抱える貧困・差別といった様々な問題などについて学ぶなかでだんだんとSDGsを自分事として捉えられるようになってきた。このように、まずは一人一人にSDGsを他人事とせず、自分事として問題意識を持ってもらうことが、SDGsの理念である「誰一人取り残さない」を達成するために必要不可欠なのだと思う。
では、具体的にどのような方法でSDGsを自分事として問題意識を持ってもらうことができるだろうか。一つの方法は中学校の授業の一環としてSDGsについて学ぶ場を設けることであると思う。今現在においてもSDGsに関するイベントや番組は数多く行われてきたが、それらは自分自身で見つけ出して、実際に参加したり見たりしなければ関わることができない。そうではなく、ほとんどの人が就学するであろう中学校のうちに、小学生の時よりも成熟した思考でSDGsに触れる機会を作ることで、一人一人が自分事として捉える土台が出来上がるのだと思う。こうして一人一人の問題意識を育むことで前述したイベントなどを自分から探して参加する人が増え、だんだんと社会に「誰一人取り残さない」という理念が浸透していくのではないかと考える。しかしながら、教育の制度を変えるのは簡単なことではないし、変わるとしても非常に長い時間を要するだろう。それではいつまでたっても理念を実現することは難しい。少しでも実現に近づくためには、もっと簡単で誰もがすぐに始められるような取り組みも必要だと思う。
その方法として考えられるのはSDGsについて学んだ人が周囲の友達や家族へその学びを共有し、次々と自分事として捉える人の輪を広げていくことである。何度も主張しているように、私は「誰一人取り残さない」社会の実現のためには、まず一人一人が問題意識を持つことが何よりも大切であると考える。どんなに小さなことでもすべての人々が同じ目標のために行動すれば「誰一人取り残さない」社会を実現できる可能性は十分にある。私自身も当事者の一人として、自分にできることから始めていきたいと思う。

 

力丸恵莉聖 横浜隼人高等学校

 

 今の社会で最も考えていかなければいけない問題の一つに、差別の問題があると考える。日本では、島国であるということが関係しているのか、観光客や留学生、外国人労働者など、一般的に外国人という分類の人たちに対して、苦手意識や排他意識が強いように感じる。一つ目の例として私自身フランスと日本のハーフであるが、興味を持ってくれる人いれば、完全に日本人ではないということをよく思わず陰口を言う人もいた。このような経験をしている人は私だけではない。私が今通っている国際語科では、私と同じように外国にルーツのある人や、帰国子女が多くいる。その友人達もあまり他の人に理解してもらえることがなかったと話していた。さらにテレビでもそのような特集が組まれているのを見たことがある。二つ目の例として、最近ジェンダーの問題が世界では多く取り上げられている。SDGsのゴールの五番でも取り上げられている。性差別と聞くと主に女性差別が思い浮かべられる。しかしこれも「女性は差別されるものなのだ。男性は差別されない。」というようで、あまり男女平等だと言えないのではないかと考える。また、性的マイノリティーという言葉も多く取り上げられるようになってきている。しかし、一部の当事者の間ではこのような言葉があるのでより差別視されてしまうのだという意見も見たことがある。私はその意見により、特別視しすぎることなく、それぞれの異なった部分を個性や魅力、または感覚や解釈の違いだと考えることはできないか。と考えるようになった。今までは私自身も「そのような人たちがいるのだ」と捉えていた。しかしそのことにより「あの人たちは私とは違うのだ」とより差別意識がはたらいてしまうと考えることもできる。これらのことを解決するには、まず、少しでも相手の立場に立って考えるという事が必要だと考える。さらに、教育で取り上げることも必要だ。今小学校などでどの程度そのような教育をするかという議論が広がっているが、私は小さい頃から少しずつでも世界には自分たちの普通だと思っていることだけではないのだと学んでいくことも必要だと考える。これらはよく聞く話であり、当たり前だと捉えられるようになってきている。しかしやはり自分以外の人のことを考えるというのは思っているより難しい。だからこそその根本にある問題を解決しなければ、差別はなくなることも減ることもしないのではないか。

 

匿名 大学3年生

 

今、SDGsの抱えている課題として、私は「取り残されている側」の人間が、自分は「取り残されている側」の人間であり、現状を回復させるための取り組みが数多く行われていることを知らず、何が根本的な問題であるかを理解することができない、そのため助けを求めることができていない。ということを挙げたい。
「『SDGs』聞いたことのある言葉。何であるかはしらないけど、多くの国で取り組まれようとしていること。」私がたまたまこの小論文コンテストの記事を読んだときに感じた、最初の印象だ。なんとなく興味が湧き、そして「誰一人として取り残さない」という基本理念があることを知った。
私は大学で特別支援教育について学び、また週に1度、ボランティアとして特別な支援を必要としている幼児や児童と関わる機会を持っている。支援を必要とする人々がこのSDGsについて、果たしてどれくらい理解することができているのだろうか。私はほとんどの人が知らなかったり、あるいはそのような言葉があるということしか知らないのではないかと考える。しかし、分からないことを「わからない」と言葉や身体の動きで表現してくれるのだ。一方でこのようにわからないことを「分からない」と表現することが出来ている人々、自分が「取り残されている側」に立った際に言葉で伝えることができている人々はいったいどれくらいいるのだろうか。
私は全17の目標に触れていく中で、自身も「取り残されている側」なのではないかと考えさせられるようになった。新型コロナウイルスの脅威によって学校は休校を余儀なくされ、ほとんどの授業でオンライン化が行われた。そして同時に快適な通信環境とパソコン、資料印刷用のコピー機が必須になった。私は母子家庭で奨学金を借りながら大学に通っているため、急な出費に家族含め皆がとても参ったが、学費の免除制度や学校の給付金の制度によって多くの助けを受けることができた。私がこのような制度を知ることができたきっかけとしてはやはり「助けて」と伝えることができたからであろう。友人や先生などの様々な人々のおかげで今も学生として学び続けることができている。取り残されている側になってもおかしくない状況において、取り残されない状況がつくられたのだ。
私は障害児医学についてのゼミに入り、障害を持つ児童がよりよく生きることができるための法律や施策、環境整備について調べることが多いが、このような手厚い整備に気付くことができている人がいったいどれほどいるのだろうか。当人が理解することができなくても、周りや支える人が理解することができる環境をつくらなければならないと考える。そして、素直に「わからない」「たすけて」と伝えることができる環境を作ることが更に大切である。
各国においてSDGsが必ず学ばなければならないものとなってきている今、もちろん新たな社会における担い手として、SDGsを学ぶことも大切ではあるが、自分が社会において「取り残されている側」であることを理解した際に、声を挙げ助けを求め、その助けに対して誰もが手を差し伸べることができる環境をつくることが大切なのではないだろうか。

 

雷礼那 横浜国立大学

 

誰一人取り残さないという目標は非常に理想的ではあるが、実現には様々な問題があるのが自明である。まず、「取り残していない」に関して、どれくらいのレベルが「取り残していない」レベルなのかというのを考えなければならないのではないかと考える。貧困には、生存可能か不可能かのラインを示す「絶対的貧困」という指標と、生存は可能であるが文化的な生活ができるか否かのラインを示す「相対的貧困」という指標の二種類がある。
絶対的貧困のラインは購買力という経済(金銭)的な指標お用いてある程度数値で表すことができるため、絶対的貧困状態にある人々は相対的貧困状態にある人々よりもわかりやすい。よって、国によって数値が変わってくるという難しさはあるものの、絶対的貧困に関しては「取り残されない」レベルを考えやすいのではないか。ただ、「取り残されない」ラインを弾き出し、その分のお金を回すだけという支援はあまりうまくいかない。例えば、途上国支援において国家にお金を回しても、開発などに回されてしまうため、人々の生活に直接お金が回ることがない場合がある。ここで、途上国において「取り残さない」支援というのは、お金を回すだけでなく、人々の生活の中に入って自立を手伝うという方法もあるのではないか。大学の先生で、途上国の村で女性の実践的なエンパワーメント支援を行なっている方がいるが、そこでは女性たちは村のジェンダー観によって社会に進出して働いたりすることに制限があったり、農業や生活の知識が全然なかったりするという。これではお金を回したところで、彼らが絶対的貧困状況を脱することはできないのではないか。このように、途上国ではまだジェンダー観や伝統的な倫理観に縛られていたり、単純によりよい生活をするための知識が少ない村人たちもいたりするため、そのようなところでは、お金を回す以前に、村人たちと直接関わって人々の内部から生活の向上を高める支援を行なった方が良いのではないかとこの先生の話を聞いて思った。
相対的貧困に関しては尺度が個人の感覚による部分が大きく、「取り残されない」ラインといのを非常に考えにくい。ある人にとっては救ってもらえた支援でも、ある人にとっては取り残されたと感じる支援になる可能性があるという難しさがある。先進国では格差が広がっているため、相対的貧困はこれからますます問題となっていくだろう。また、私が一番気にしているのは、日本で外国人労働者受け入れが緩和されるようになったとき、外国からの出稼ぎ労働者などが先進国に流入することでさらに一国での賃金格差が生まれ、相対的貧困の幅が広がってしまうことである。グローバル化は急速に進んでいるが、外国人への支援はまだ十分に整備されていないし、認知度も低い。
次に、環境に関して、S D G sで海を守ろう、緑を守ろうというのを目標にしているのに、今でも途上国の森林で伐採した木を先進国が安く買いとるような、途上国の環境を搾取しているという矛盾した状況がある。それは途上国の人々を取り残しているということになるのではないかと思った。経済成長のため、生産において多くの自然環境を利用している状況があるため、環境の面でこそ脱成長社会を構想するメリットが大いにあると考える。

 

矢治祐真 横浜隼人高校

 

私は「誰一人取り残さない社会」を実現する為には、興味や関心をもつこと、寄り添うことが大切だと考える。対象はその「取り残されている人」だ。
理由としては、そのような行動をすることで世の中に対しての視野をもっと広く見えるようになり、今よりより良い社会を作ろうという意欲が湧いてくるのではと思うからである。
しかし急に全員がそのような人達に興味や関心を持てと言っても無理な話である。
なので本当に少しずつでもいいので一人一人が意識し興味や関心を持って生きていき、そして優しく寄り添い意見を聞く、こうすることによってより良い社会への第一歩を踏み込めるのではないかと思う。昨年から世界中を騒がせているコロナパンデミック、
多くの犠牲が発生し、また多くの失業もあったりと大混乱中である。
しかしこのような状況だからこそ先程のような行動が必要なのではないかと思った。
国家政府や国際機関も難しいかもしれないが、できるだけ国民一人一人に対して関心や興味を持っていただいて、政策を出せば今回のこのテーマである「誰一人取り残さない社会」への実現も近くなるのではないかと思う。
また日本はSDGsについては国際社会から孤立している状態が続いている。
国民性などの理由により実現が難しい課題があるのは承知の上である。
しかし日本人の思いやり精神は世界トップクラスの品を持っていると思っているので
このような少数派の意見を聞くのは得意であろう。
実現するしないは考えずに、まずは興味や関心を持って行動するのが誰一人取り残さない社会の実現への架け橋になるのではないだろうか。
また欧米諸国などに未だ根強く残っている黒人差別などもなくさねばならない
ただ黒人差別の意識がない日本人に具体的な解決案が出せるかと言われたら難しいであろう、しかし欧米諸国の人達が差別はいけないということを日々意識し、生活することが大切だと考える。同じく先住民に対しても同じである。
例え肌の色や文化が違えど、それらをできる限り受け入れ生活していくことも必要だと思う。
SDGsというのは全世界の目標である。誰一人として取り残してはいけないのは当たり前なことであろう。また国際機関も互いに争わず、本来の目的をもとに取り組んでいただきたいところである。
このように一人一人の意識して行動することも必要であり、また国家同士でもこのような活動に取り組めば、SDGsが夢見る社会へと繋がっていくのではないかと思う。

                                                          

野田怜弥 横浜市立大学(テラ・ルネッサンス)

 

「誰ひとり取り残さない」
国際協力だけでなく世界中で行われるすべての行動において大切なキーワードとなっている。そしてこのコロナ禍では特に、重要なワードだ。

現在、世界各地でロックダウンが行われている。感染拡大を最小限に抑えるためだ。しかしその地域をズームして見てみると、ロックダウンによって活動が制限され、生活が困難になっている人々がたくさんいる。私がいるウガンダもその一つだ。人々はコロナではなく、ロックダウンによる収入源の喪失によって生死に関わる危機に瀕している。感染対策は“全体”にとって大切だ。しかしそれによって一部の脆弱層が取り残され、犠牲になっている実情がある。これは一例であり、この構造はよく見られる。国際協力の場でいえば、ダムを開発して結果的に大勢のためになったとしても、その地域にもともと住んでいた人々は自分の土地を奪われる、という話をよく聞く。何かを実行するとき、決めるときは多数決がよく用いられる。もしくは権力者、実力者などの力のある人の裁量で決められる場合も少なくない。  
また、危機下においてはどうしても自分、家族、コミュニティ、地域、国など“自”が大切になってくる。“自”の安全が確保された後に“他”を見るようになる。コロナ禍ではNGOなどで「誰ひとり取り残さない」を掲げて海外で働く人の中に、一目散に帰国する人もいた(葛藤の中泣く泣く帰った人がたくさんいたのも事実だ)し、海外で事故があると日本人が巻き込まれているか否かでメディアの取り上げ方が大きく変わってくる。さらに、パレスチナやイスラエルの紛争に世界中が注目する中、同時期に発生し第二次世界大戦後最大の死者数を出してしまったコンゴ民主共和国の紛争への注目度は低かった(日本においてはほとんどなかった、「忘れられた戦争」)。このように自か他か、利か否かで無意識のうちに差別をしてしまっている現状もある。

世界には程度はあれ違いや差があるため、多数決や力のある人の裁量で物事が決まってしまう。そこにさらに“自”を大切にしがちな感情も加わる。しかしそれによって一つの事象によって受けるリスクや利益も、内容や規模が全く変わってくる。それに対応して行った行動に対しても、全ての人々が同様の利益を得ることは不可能だ。利益に大小が生まれるしリスクも発生してしまう。この時、リスクを負う人が脆弱層だった場合、すぐに倒れてしまう。では、生まれてしまった小さなリスクを負う人が富裕層など余裕のある人々であれば、ある程度その余裕を使って対処ができるのではないだろうか。上記のように、「誰ひとり取り残さ」ず平等に救うことは正直無理だと思う。しかし、倒れてしまう人を生み出さず、「どんな(内容、規模感)」「誰にとっての」リスクが発生するかを想定したうえで、リスクを受ける人や規模を最小限にすることは出来る。私はこれを諦めや消極的な姿勢だとは思っていないし、むしろこれすら出来ていないため、現在の世界は格差が広がり続けているのだと思う。

全体の動きと個の動きは繋がっている。コロナ禍でそのことはますます明瞭になった。では脆弱層が良くなれば、リスクを受け止められる、力のある人々にもその影響は伝わるはずだ。(逆のトップダウンの場合、上記のように脆弱層が倒れてしまう)これが続けば「誰ひとり取り残さない」世界に近づけるのではないだろうか。

 

野中小春 横浜隼人高等学校

 

私は今回の探究で安全な水とトイレを世界にというテーマについて調べた。
このテーマを選んだ理由は、日本はとても水が豊富な国で、自分自身は水に困ったことがないため、実際水不足で困っている人について詳しく知るべきだと思ったからだ。
その中で、世界中には、水不足で苦しんでいる人がたくさんいることを知った。
水に対する現在の世界状況として、約40%を超える人が水不足に苦しみ、糞便で汚染されている水を使用している国も多くあるということが分かった。
より詳しく調査した結果、糞便で汚染された飲料水を利用している人の数約18億人、トイレや公衆便所などの基本的な衛生を利用できていない人の数約24億人、また、水道の蛇口からそのまま飲むことができる綺麗な水が出てくる国は、日本を含め16カ国しかないということが分かった。
これらを解決するための取り組みとして世界で行われていることは、世界中に井戸を設置するというものである。これは、井戸建設を現地の人と行い、汲み上げ用のポンプをおくることで清潔な水が得られる環境をつくっていくというものだ。他にも、個人や募金によって支援を呼びかける取り組みもされている。また、この問題に対して私たちができることは、日頃から水の節約を心がけながら生活することだと思う。
これらのことから、世界には本当にたくさんの国々が水不足で苦しんでいることを知った。なので、今現在、こんなにも簡単に水を得られることが当たり前だと思わず、今まで以上に水を大切に使おうと思った。

 

野村優太 クラーク記念国際高等学校横浜キャンパス

 

今回のSDGs小論文コンテストではSDGsの1番、貧困をなくそうの取り組みとSDGsの取り組み方について考えた

私は貧困を題材にした理由がないほど、貧困をよく知らず、関心がなかった。
貧困とはなんなんだろうか、自分の家は貧困か、友達の家は?まずは世界の貧困基準を調べてみた。
調べていくうちに世界での貧困の基準は2つあることと貧困問題の深刻さがわかった。
世界で8億人以上が1日200円以下で生活している極度の貧困層である絶対的貧困と、
年収120万円以下で生活する大多数より貧しいとされる相対的貧困。
この2つが世界で貧困とされる基準らしい。
自分があたかも普通に生活していることが不思議なほどだ。
今日この現状を初めて知る人に、この深刻さをどうやってわかりやすく伝えれば良いだろう。
現状抱えている問題を目の当たりにせずに、この深刻さを文字や言葉で知るのは難しい。
そこで貧困についてもう少し深く掘り下げてみた。

貧困問題はSDGsが解決したい目標の1つとして掲げている一つだ、貧困問題を解決しなければどうなるのか。
当事者が苦しむだけでは止まらないのが貧困の恐ろしいところだった。
そう言うのも、現在進行形で苦しんでいる貧困層はほんの1世代に過ぎないのだ。
貧困はなるべくしてなる経緯がある、植民地時代の名残、紛争や内戦、災害による影響…
たった今、貧困は始まったわけではなく、昔からの悪循環が続いた結果なんだとわかった。
そう例えるなら…とある家族が貧困に苦しんでいるとして、その子供はどうだろう。
教育費がなく学校には通えず、家のために子供ながら働かなくてはならず…将来安定した職に就けずにまた貧困層となってしまう。
そうして次の世代にまで貧困が続いてしまう、働ける人が減る、経済としてのマイナスはどんどん膨らんでいく
悪循環とはそうやって続いていってしまう、負の連鎖だ。

では解決策や取り組みはあるのか…調べていくと企業が行っている取り組みが1つわかった。
Shoichiといった在庫処分のサービス会社は経営をしながら貧困問題に取り組んでいるそうだ。
売れ残った衣服を安価で販売、売り上げの一部の寄付などが主な取り組みだと。
なるほど、こういった取り組みでたくさんの貧困層を救えるのはとても良いことだ。
我々だけでもできる貧困問題の取り組みもある。
ユニセフの募金や寄付といった活動はそれだけでも貧困への取り組みになる。
確かに、貧困問題に取り組めるのは良いことだ。
しかし悪く言えばそれ止まりなのだ。
その企業のみの取り組みだけで救えるほど柔な貧困問題ならとうに解決している。
僅かな募金と寄付だけでは貧困層は救えない。
そう、これだけ深刻なのに我々の出来る手立てで貧困問題を解決できるはずがない。
企業の取り組みを調べても具体的に出てこないように、我々のできる取り組みが漠然としているように。
今日までのニュースで貧困の話題が全く上がらないのもそうだ。
今日までのみんなが問題に取り組まなかったように、社会で取り組むほど大それた問題じゃあないのもそう。
これらの現状はこの深刻な問題に誰も興味を示さなかったのが大きいだろう。

ここで問題なのがSDGsの今後やSDGsをこれから学ぶ我々のこの先だ。

SDGsは誰も取り残したくないそうだが、
今のままで、その通りになるのだろうか?解決に向かっているんだろうか。
企業の1つや2つが貧困問題に取り組んでも貧困の全ては救えないだろう。
何をするか漠然としたままSDGsの授業に取り組んでも身になるものはないだろう。
解決策がないと解決に向かえないように、危機感を持たないと真剣に取り組めないように、
関心がないと問題に立ち向かえない。危機感を覚えない。解決策を思いつかない。
・SDGsの問題に真摯に向き合うならば関心を持つべきだと思う。
関心を持って問題に取り組む人が増えたのなら、少しでも多くの貧困を救えるかもしれない。
関心を持って課題に取り組めば解決策や改善案を思いつくかもしれない。
関心を持って取り組めば、今よりも良い未来が待っているだろう。
解決に向かおうとしているのだから。

まずは関心を持とう。
そして多くの人と問題に取り組み、そして発信してほしい。
それは今回取り上げた貧困問題だけではない、SDGsの取り組みの全てに言えることでもある。
家族、友達、SNSでも、関心を持って一緒に取り組める人とSDGs問題の解決に向かっていって欲しい。
現にSNSを使ってSDGsの呼びかけをしている企業もある。
多くの人が関心のタネを持つことから問題解決は始まる。
まずは関心を持つところから。そこから始めよう。

今回のSDGs小論文コンテストではSDGsの1番、貧困をなくそうの取り組みを通して、
SDGsの問題に真剣に取り組むのなら、関心を持ってみるのが第一だ、そしてそれを発信することが大事だ
と考えた。

 

木村颯真 中央大学 2年生

 

 「勉強はできるけど、仕事はできない」、「勉強ばかりしている人はつまらなく、接しづらい」
 このような印象を、特に高学歴で頭の良い学生に対して思うことはないだろうか。SDGsの教育について考える時、大抵の場合は貧困が原因で教育を十分に受けられない子供を思い浮かべるかもしれない。確かにそのような子供を取り残さないのは当然である。しかし冒頭で挙げたように、現行の教育を受けられたにもかかわらず、大人になってうまくいかない人たちがいる。負のレッテルを張られた彼らも、また今社会から取り残されている被害者なのである。そこで、私は日本の教育の未来について提言したい。
 「非認知能力」という言葉を知っているだろうか。一般的に教育と聞いて想像する、読み書きや計算などの学校で勉強するものは「認知能力」と言われる。それに対し、学習や労働への意欲、努力や忍耐など人の内面に秘められた能力が「非認知能力」に当たる。協調性、コミュニケーション能力などはここで鍛えられる。つまり、大人になって成功している人はこの能力が高いのである。そのような人たちは困難に陥っても、乗り越えられる力を有している。また、多様な人と接し、仲間と協力することで問題解決にあたることができる。逆に、この能力が著しく低いと社会に溶け込めず、犯罪に手を染めるリスクが高い。よって、この能力こそが長期的な子供の成長において重要なのである。
 「非認知能力」を提唱した経済学者ジェームス・ヘックマンは、幼児教育の有無が将来の経済状況や生活の質に影響することを明らかにした。幼い頃いかに親の愛情を受けて健やかに育ってきたかが大きなポイントとなる。だが、就学すると友人関係は広がり、親離れが始まるため状況は変わってくる。そのため、次の段階では仲間と協力し、継続して何かに取り組んだ体験が能力を育む。このような体験は習い事などの課外活動で見られる。つまり、学習以外の人生経験が欠かせないのである。
 私がそれを実感したのは、中学生の時に所属した運動系の部活動である。部活動での経験から、人間関係の築き方や、目標に向かって頑張った成功体験などを得ることができた。様々な人と関わることが多く、仲間と協力する機会も多かったのでコミュニケーション能力、協調性などはここで身についたように感じる。また、スポーツは勉強と違い、練習量に比例して上達するわけではない。そのため、挫折することもかったが、一度も逃げずに部活動を継続できたことは、今でも自信になっている。このような課外活動はただ己を身体的・技術的に成長させるだけではなく、精神的な成長ももたらすのである。部活動の経験は、次の挑戦へ向かうための糧となってその後の生活に活かされている。したがって、自分の経験から考えても、こうした「非認知能力」の向上は長期的な視点から必要不可欠だと考える。
 しかし、現状はどうだろうか。日本にも最低限の教育を受けられていない子供が多く存在する。根拠として、国が公表している相対的貧困率とそれに伴った子供の貧困率は年々増加している。さらに、待機児童問題も未だ解決の糸口は見つかっていない。そんな中で虐待や育児放棄がおこっている家庭も存在するはずである。もしそうだとしたら、子供は幼いころから十分な愛情を受けて、学校に何の支障もなく通えることは困難だろう。習い事などはなおさらできるはずがない。つまり、子供たちの「非認知能力」を高める段階までには莫大な金額がかかるのである。私も小学生の頃は、家庭が裕福ではなかったので、やりたいと思っても習い事はできなかった。高校受験の時も、高額なお金がかかるため塾に行けなかった。習い事や塾に行けている友達と格差を感じたのを覚えている。私の場合は、金銭的負担の軽い部活動でやりたいことができたけれど、そこで見つからなかった可能性もある。だからこそ、全ての子供たちが貧困に左右されることなく、平等に挑戦するチャンスが与えられるべきである。したがって、未来の子供たちには質の高い義務教育が受けられると同時に、スポーツや芸術などの学習以外の分野で活躍できる機会を作る必要がある。将来に備えて「非認知能力」を伸ばすのである。
 子供時代は環境の変化が激しく様々な体験のできる大事な期間である。しかし、当事者である子供たちはそれに気づきづらい。将来子供たちが後悔する前に、大人になって取り残されないために私たちは教育の在り方を再確認しなければならない。

 

木住野円華 東京農業大学大学院

 

誰もが何かから取り残されるような経験をしたことがあると思う。例えば、私はランニングコミュニティに所属しているが、速さを追求する人と楽しさを追求する人と自然と線が引かれてしまうようなことがある。大学を卒業して、就職した人と進学した人、都心にいる人と地方にいる人、子どもがいる人といない人など様々な視点で見てみると多くの人が何かに当てはまるのではないだろうか。しかし、一番焦点を当てるべきなのはそれを自身で決めたことなのかどうかという点だと思う。もしもそれが自分で決めたことであれば自分の選択に責任を持つことが出来るだろう。一方で、周りがそうさせたことや誰かに決められたことであれば、その人たちには手を差し伸べるべきだと思う。
自分と似た人と一緒にいることは自分の身を守ることにも繋がるので、ごく自然なことであると思う。だが、その結果として自分達と似ていない人を知らないうちに排除することになっていないか立ち止まって考えることが必要だと思う。共通点と相違点をお互いに理解することで、初めて相手の立場になって考えることが出来ると思う。相互理解が誰かが取り残されている状況を少しでも改善することに繋がるのではないだろうか?例えば、私の通っていた幼稚園は障害のある子どもたちが多くいるところだったので、一緒に同じ時を過ごしてきた。障害のある子どもは少しだけ大人の支援が多く必要だが、一緒に出来ることの方が多かった。一緒に出来ることがあってもどのようなことが不自由なのかを一緒に時を過ごすことで、学んできた。このように共通点と相違点を理解することで、手を差し伸べやすくなると考える。
今、コロナ渦で、オンラインでのコミュニケーションが主流となってきているが、この独特なコミュニケーションツールによりさらに世の中が分断されていると感じている。私が困難だと感じる点は、大人数で話している時、一人ずつの話しか聞くことが出来ない点だ。なので、これまで対面式では自由に出来た1対1で話すことが減ってしまっている。それが苦手な人と気にならない人がいて、苦手な人は自分を知ってもらう機会がなくなっていく。さらに、オンラインでのコミュニティは似た者同士の集まりになりやすい。こういったコミュニティは、似た者同士の結びつきをさらに強め、その結果として似ていない者同士が話し合う機会が減少していることに繋がっているのではないかと感じている。このようなことは、オンラインだけでなくSNSでも起こっていると思う。
人の見た目も性格も趣味も十人十色である。誰もが、共通点がある部分と相違点のある部分を複雑に持っている。似た者同士の集まりでも、やがてお互いを知ることで相違点に気づいていく。お互いの相違点を理解することで、支援がしやすくなるならば、最初のコミュニティの時点で分断されていては、相互理解をする機会も失われ支援もしづらくなってしまうと考える。
では、誰ひとり取り残さないようにするには、どうすれば良いのだろうか。私は社会の在り方や私たちが意識する点について4つ考えた。一つ目に、子どもたちは一般的に自分の属するコミュニティを選べない。子ども達が多様な子ども達と関われるような環境を提供出来ているかという視点は重要だと思う。また、私たちが子どもの時よりも子どもたちがSNSに触れる機会がかなり増えている。SNSは知らないうちに狭いコミュニティになりがちなので、大人が気を配る必要があると思う。二つ目に、オンラインでのコミュニケーションが主流になっている中、取り残されている人がいないだろうかという視点は非常に大事だと思う。オンラインのみにとらわれず、どうしたらより多くの人に情報や機会を届けられるだろうかと常に考える必要があると思う。三つ目に、人々はメディアの影響を非常に強く受けている。LGBTや貧困などに焦点を当てた映画やドラマなど取り残されがちな人々に視点を当てたメディアは徐々に増えているが、誰もがこのようなメディアからでも自分自身との共通点と相違点に気づける機会が増えたらと思う。最後に、こうやって私が誰ひとり取り残さないために考える機会があるのは、自分がかかわってきた人々の影響が大きいと思う。なので自分の周りの人々へ情報を発信することもとても大事だと考えている。1人で悩んでいても社会は変わらないが、1人1人の発信がきっかけで人が集まり、社会が少しずつ変わっていく可能性はある。日々思うことやふと疑問に思ったことを周りの人と共有するようにしていきたい。これまでのように、オンラインではなく、一緒に時間を共有し共感し合えるようになることを切に願う。

 

本川実々花 横浜隼人高校 2年生

 

私は誰ひとり取り残さない社会を実現するためには貧困の人たちを救うことから始めるべきだと思う。この世界には様々な人が住んでいて、いろいろな状況にたっている人がいる。貧困はアフリカのイメージが強いと思うが、この日本にも貧困の人たちはいます。まず、自国の貧困の人たちを救っていく事が必要だと思う。今コロナ禍で収入が減って、生活が苦しくなった人も多いと思う。特に飲食関係のお店や観光を中心にしていたところが多いはずだ。そして、私たちはコロナの気にする生活がもう一年以上が経ちますが、まだまだ生活は変わりません。一日中マスクをつけて生活をし、行事も制限され、思ったような生活はできていません。それでも、生活できているだけでとてもありがたい事だと気付きました。それでは貧困な人たちはどうだろうか。私たちよりももっと普通の生活ができていません。私たちはその人たちに目を向ける事が必要だ。この人たちを救えない限り誰ひとり取り残さない社会は実現されないと思う。私は誰ひとり取り残さないとは、一人も生活ができない人がいないということを指すと考えている。そのため貧困を減らすにはまずこの状況を知り、広める事が大事だと考える。またそうした上で周りをみて、色々な視点から考えられる力が必要だと思う。なぜなら、何も知らないと何も起こらないからだ。何事にも自分で調べて考える事が必要だ。そしてそこで得た知識を周りに発信いくべきだ。なぜなら、今は一人の力ではどうにもならないからだ。そうしたら、それらを知る人が増え、この状況を変えるきっかけになると思うからだ。貧困の人たちを全て救う事ができたのなら、みんなが普通の生活を行うことができる。自国をまず完璧にして、そうしたら、世界の国々の貧困者をすくうべきだと思う。なぜなら、貧困をあまり経験していてない人が無くそうと思っても、ある程度はできるかもしれないけど、アフリカのようなたくさんの人を救うと思うとその人だけでは考えられないようなことが沢山あると思うからだ。貧困を経験した人と協力をし、世界のあらゆる場所で起こっている貧困をこれから、どんどん減らす必要があると思うのだ。最後に私は誰ひとりも取り残さない社会を実現するためにはまずSDGsの一番の目標でる貧困のたちを救うことだと考えたが、そうではないと考えた人も居ると思う。そういう人はSDGsを他にも色々と調べて欲しい。SDGsは17個目標があり、ほかの16個から自分の興味のあるものを見つけ、もっと自分で調べて、状況を知って欲しい。

 

堀江琴海 横浜国立大学

 

 私は「誰ひとり取り残さない」ためには広い視野と思いやりが必要だと考える。SDGsで掲げられている目標は、貧困や飢餓、不平等や差別をなくすこと、持続可能な環境や社会の実現である。SDGsの基本理念である「誰ひとり取り残さない」ということはつまり、これらを享受できない人がいないようにする、ということなのではないかと思う。では「誰ひとり取り残さない」ために何をするべきか。私はまず自分が取り残されたこと、取り残されそうになったことを考えてみた。
 私はしゃべることに自信がなく、人と話すことが苦手だった。新しいクラスになると誰にも話しかけられないでいた。しかしとある同級生が話しかけてくれ、うまくはない私の話を聞いてくれた。私でも人と楽しく話すことができるのだという自信がつき、人と話すことへの苦手意識は薄まった。今思えば些細なことだが、当時の私にとってはコンプレックスであった。勇気を出して積極的に話しかければ良いだけだったが、そうしたくてもできなかったのである。もし同級生に話しかけられていなかったら私は周囲に取り残されていたかもしれない。このことから私はこう考えた。あの同級生のような手の差し伸べ方を誰もができれば「誰ひとり取り残さない」ことができるのではないか。そのためにはまわりに目を向け、思いやりのある行動をすることが必要であると考える。支援ばかりではだめだという意見もあるが、支援は重要である。まずは手を差し伸べてその手を掴んでいいのだと思えることが大切だと考える。どんな手を差し伸べて欲しいかはそれぞれ違うが、それを考えることも思いやりなのではないだろうか。途上国に住む人々、障害者、被災した人々、過去の私のようにちょっとしたことで取り残されてしまった人など、取り残されてしまう人や理由は様々である。そもそも、本人にとってはちょっとしたことではないのである。それぞれがどんなことを悩みどんなことに苦しみ、どんなことで取り残されているのかを広い視野で考えなければならない。
 SDGs達成のための効果的な具体的方法は、目標や相手によって様々で簡単には見つからない。政策や国際援助など大きなプロジェクトから、町での声かけなど規模も様々である。しかし、目標達成の根底にあるのは広い視野と思いやりなのではないだろうか。政策や国際協力においては支援先が本当に必要としているものを知ること、障害者やお年寄り、外国人が町で困っていたら声をかけて助けること、人の個性を認めること、全ては思いやりがなければできない。また、持続可能な環境や地球の実現のためには資源や機会を無駄なく使うことが必要で、これの達成にも独り占めをしないなど思いやりが大切である。
 「誰ひとり取り残さない」という理念が“誰か”を想ってのものなのだから、その達成のためには人を思いやる気持ちが大切なのだと思う。

 

朴可鈴 成城学園高等学校 3年生

 

 毎日、テレビ、パソコン、スマートフォンのスクリーンに流れる映像。教育や労働面にとどまらず、娯楽面など、多様な使処を持つ映像は、私たちの生活の一部であり情報源とも言えるだろう。しかし、このルーツを使う上で取り残されている人がいる。ろう者や日本語を母国語としない人々だ。この中から今回は学生に焦点を置いて考える。補聴器をつけて普通学級に通う子供は全国に1〜3万人。海外とつながる子供のうち、日本語の支援を必要としている子供は5万人、加えて、不就学生が2万人。さらに、精神や身体の障害から、学習面で遅れをとっている生徒は通常学級の約6%にのぼる。彼らにとって映像の音声を聞き取り、瞬時に理解することは極めて困難である。このような現状に加えて、このコロナ禍において、映像を使うことが多くなった。よって、彼らを取り残さない方法をいち早く確立する必要があるだろう。今日、多方面に及んで言語とS D Gsの問題が指摘されている。本論文では、難聴の子供や言語的マイノリティの子供における日本の現状、及びその解決に向けた私の意見を提示する。
 まずこの問題の解決策として、全ての映像に字幕をつける活動が挙げられる。これは1983年頃から広まった。現在は、自動字幕起こし機能により、自動的に字幕が生成されることも多くなっている。しかし、ろうや難聴の子供や海外にルーツを持つ子供たちにとっては、字幕を読み取ることすらも困難なのである。耳に障害を持つ子供は、私たちが普段使っている話し言葉を理解する力が特に弱い。加えて、学習の進みが遅いため、映像授業などの字幕を見ても理解が難しい。また、日本語を学んでいる最中である日本語が母語でない子供は、随時流れていく字幕を目で追うことすら困難であろう。まず彼らにとっては、日本語を理解することが大きな壁なのである。
この問題を解決すべく1990年代に開発されたのが、「やさしい日本語」だ。これは一般の日本語よりも簡単で、外国人にもわかりやすい日本語のことである。簡単な単語と語彙を用いて、1つの主語と1つの熟語で構成されている短文のことを指す。阪神淡路大震災時、在日外国人が避難所やハザードマップを理解できずに、大変な状況に置かれた。この問題を解決しようと考えられたのが発起点だ。そして現在、「やさしい日本語」は日本語に問題意識を抱えているろう者や発達障害者向けにも役立っている。このように多くの人に重宝されることがわかってきて注目を集めている活動なのだ。
 このやさしい日本語に興味を持った私は、半年程前から小中学生向けの映像授業に、やさしい日本語の字幕をつけるボランティアに参加している。作業は決して難しいものではない。既に収録され、一つの動画として仕上がっているものに、漢字や語彙に注意しながら字幕を足していく。オンライン上での学習機会が守られていなかった、取り残されていた子供たちにとって、この活動は大きな支えになるだろう。さらに、この字幕は、今日注目を集めている機械翻訳においても期待されている。一度日本語の文をシンプルにすることで、英語はもちろん、全ての外国語に訳す際に、精度の高い翻訳文になる。やさしい日本語を置き換えることで、正しい外国語の表現にもつながるのだ。近年では映像字幕のほかにやさしい日本語を使った活動も増えてきた。落語家の桂かい枝は、この言葉を用いた落語を披露する活動を始めた。また、福岡県柳川市は外国人観光客をやさしい日本語でもてなす「日本語ツーリズム」の実証実験を行っている。
 このように多方面への実用性が認められ始めているやさしい日本語だが、一般的にはあまり知られていないのが現状である。今回、学生を対象にアンケート調査を行った結果、全体の67%が知らないと回答した。やさしい日本語の真価は、必要とする側だけが知っていても発揮できない。多くの人が認識して様々なことに適用しない限りは、彼らの活動可能範囲は広がらないのだ。私は現在、この言葉を知っている数少ない1人の学生としての自覚を持ち、この字幕ボランティア以外でも行動に移していきたい。その第一歩として、私は2つのことを計画している。一つは、過去の人気映画にやさしい日本語の字幕をつけること、もう一つは、やさしい日本語の新聞を作る活動だ。今回の論文において、「誰ひとり取り残さない」の「誰」の部分に該当するろうの子供、海外にルーツを持つ子供、発達に課題をもつ子供らが抱えている問題は健常者の私からは計り知れないものであろう。やさしい日本語を用いて、それらを理解し解決するサポーターとして活動すること、そして全ての学生がやさしい日本語を認識する社会を夢見ている。

 

北薗航平 会社員

 

 SDGsの基本理念「誰一人取り残さない」とは、アジェンダによると最も立場の弱い人 をエンパワメントすることとされている。私の考える誰一人取り残されない社会とは、つながりを求めるあらゆる人がコミュニティから疎外されず、それを実感出来る社会である。そして、つながりを実感出来る社会とは、全ての人が孤独感を覚えることなく、自分が受け入れられていると感じることが出来る社会だと考えている。
 家族や職場、趣味の集まりなど、人は多くの他者と接点を持ちながら生活している。一人で生きている人などおらず、支えあいによって私たちの暮らしは成り立っているように感じる。心理学者マズローが提唱した欲求五段階説によると、コミュニティに所属することを望む「所属欲」は、生命の維持や身体の安全といった根源的な欲求に次ぐものだ。そしてその「所属欲」が満たされないとき、人は孤独を感じてしまうとされている。
 孤独は社会問題として対策が急がれている。2020年の自殺者数が11年ぶりに増加に転じたことをうけ、政府は今年2月に孤独・孤立対策担当室を設置するなど、対策に動き始めた。自殺増加の要因の一つとして、コロナ禍での自粛に伴って他者との接点が減り社会から孤立し、孤独感を覚える人が増えていることがあると考えられている。このような人を減らしていくためには、人と人とのつながりを作り、深めていくことが必要となるのではないか。
 現在私は地元である横浜市瀬谷区において、街を盛り上げるべく友人たちと「マッチメディア瀬谷」というローカルウェブメディアを運営する団体を立ち上げて活動している。生まれ育った地元に貢献し、恩返し出来ることはないかと探していく中で、瀬谷の知名度の向上や地域の活性化につながるような、地域情報を発信するメディアの運営にたどり着いた。しかし、団体の立ち上げにあたり友人たちと活動の構想を練っていく中で、当初考えていた情報発信だけではなく、人と人とのつながりを深め、地域コミュニティを盛り上げていくことが、地域の活性化につながるのではないかと考えるようになった。団体名およびメディアの媒体名である「マッチメディア瀬谷」という名前には、「街」と「match」をかけ、街を紹介するメディアという意味合いに加え、街と人、人と人とをマッチさせるメディア になりたいという願いを込めている。瀬谷区は、令和元年に行われた区民の意識調査にて、「いつ起こるかわからない災害や、今後さらに進む高齢化に向けて、地域のつながりを深めること」が重要だと答えた人が91.8%にも上るなど、地域のつながりへの意識が高い。しかしながら、「日常生活での住民同士の支え合いを行えている」と答えた住民は18.4%、「趣味を通じた地域活動に参加している」と答えた住民は14.8%に留まっている。一方で、今後そういった活動に参加したいかという質問に関しては、半数近い人が「参加したい」あるいは「興味がある」と回答している。地域のつながりを必要とし、欲している人は多いものの、実際に地域との接点を持てている人は少ないのが現状である。
 私は地域コミュニティにおける「最も立場の弱い人」とは、つながりを求めながらもコミュニティに参加できず、孤独を感じてしまっている人だと考えている。そうした人を少しでも減らせるよう、「マッチメディア瀬谷」では、現在主たる活動として行っている地域の名所を紹介する記事の展開に加えて、今後は地域で活動する人や団体の紹介など、人に焦点を当てた記事を作成したいと考えている。地域の人や団体の活動を紹介するだけでなく、そのコミュニティへの参加方法を盛り込んだ記事を発信していくつもりだ。新たなつながりを欲しながらも、どのように動いたらよいのか分からない人が、人と出会い、コミュニティを見つけ、つながりを持つきっかけになりたいと考えている。
 コロナ禍による自粛は孤独や孤立といった問題を表面化させた。ただ、以前からこれらの問題に直面していた人は多くいるはずであり、表面化しているものは氷山の一角であると考えられる。顕在化した今こそ解決に向け問題に向き合い、コミュニティやそれを通した人と人とのつながりの価値を見直す必要があると感じている。もちろん一朝一夕で解決出来るものではなく、個人の行動で変えられる範囲も限られているのかもしれない。それでも、私は「マッチメディア瀬谷」での活動を通して、私が考える誰一人取り残さない社会、つまりはつながりを求めるあらゆる人が、コミュニティから疎外されず、それを実感出来る社会の実現に貢献したい。微力ではあるが、一つ一つ取り組んでいきたいと考えている。

 

芳賀友生 長崎大学 多文化社会学部 3年生

 

 2015年の国連サミットで掲げられたSDGsの基本理念は「誰一人取り残さない」というものであった。一見するとこれは世界規模での出来事、例えば経済格差や社会的な分断などに特に注目しているように思われる。しかしながらここでいうところの「取り残された人々」は決して我々と無関係な遠い異国に暮らしている人々だけではなく、とても身近な人、我々の家族や友人も含まれるのではないだろうか。
 2019年末から世界的な流行を起こした新型コロナウィルスの影響を我々の生活も多分に受けた。そして感染リスクを少しでも下げるため、人との接触の機会を減らす試みが国ぐるみで行われた。これにより浮き彫りになったのが世代間でのデジタルディバイドであり、情報化社会に「取り残された人々」の存在である。今までは我々が生きてゆく中で、人同士の直接的なコミュニケーションは極めて日常的なものであった。しかしコロナの感染リスクを少しでも下げるため、外出の自粛と自宅待機が求められ、人との直接的な接触が大幅に削減されることとなりその機会が激減した。これにより運動不足や精神的なストレスなど様々な問題が叫ばれることとなったが、他者とのコミュニケーションについてはインターネットの利用によりある程度は維持されたとも言える。しかしインターネットを利用していない人々に関してはどうであろうか。
情報通信技術の発達が急速に進んでいると言われ始めてから久しいが、その勢いはいまだ衰えることはなく国内の個人へのインターネット普及率は2019年度で凡そ90%にも達している。しかしここで世代別に見ていくと目には見えない分断が見えてくる。13歳~49歳までは確かに90%超のインターネット利用率だが、それ以上になると使用率は下がってゆき70代から50%を下回り始める。また日本の世代別人口比では一般的に高齢者とされる65歳以上が全体の凡そ30%を占めており、国民の三人に一人は十分にインターネットを十分に利用できていないと考えられる。今日ではインターネットを利用できる環境さえあれば、買い物から仕事、離れた場所にいる友人や家族との世間話まで大抵のことは不自由なくこなすことができる。逆に言えばインターネットを利用できる環境がない人々にとっては、このコロナ禍の中での生活は非常に不自由なものであり、精神的にも大きな負担を与えていると考えられる。これこそが目には見えぬ分断、デジタルディバイドであり、彼らが非常に身近な「取り残された人々」なのである。一見すると重要な問題ではないように思われるかもしれないが、今後今のようなライフスタイルが続いてゆくと、このことは生活の質に直結することとなり、インターネットを利用できる者とできない者の差が拡大していくことも十分に考えられる。
ではこの分断を解消するためにできることはないのであろうか。インターネットをどのように利用するか、あるいはしないかは結局のところ個人の自由にゆだねられてしまうため、外部からの解決は難しいが、「使いたくとも使えない」人々に援助することは可能であろう。私の祖母が住む自治体では、高齢者の住む世帯に対して、インターネットを利用できる機能の付いた固定電話端末を無償で提供しており、これを用いて体が悪く頻繫に外出できない祖母は離れた地域に住む友人と話をしたり、病院の先生との軽い問診、料理のレシピの検索などを行っていた。祖母は携帯電話も持っておらず、設置された当初はインターネットを利用することが出来るのか疑問であったが、簡単に使いこなせるようにボタン配置や機能一覧などカスタマイズされていたこともあり、しばらくすると使いこなせるようになり、今では生活には欠かせないものにまでなっている。
すべての高齢者がインターネットを快く受け入れ、使いこなせるかは分からないが、祖母を見るに決して不可能ではないことがわかった。世代間の分断、そして情報化が進む社会から「取り残される人々」、誰一人取り残さないために必要なのは個人、そして社会全体での多方面からの支援である。個人としてはまず両親や祖父母などの家族や身近な人のインターネットの利用を始めることを後押しすることや、使用している際に分からない所があれば話を聞くなどといった簡単なことから始めることができる。あくまでも多くの人はインターネットについて素人なので、決して難しいことはできないが一人一人が支援するという意思を持ち、その姿勢を示すことが重要なのではないだろうか。
行政や地方自治体としては高齢者に対する積極的なインターネット利用のための支援、例を挙げるとするならばインターネットを利用できる端末の購入の支援や配布、インターネットを安全に使いこなすための講習会など、様々な方法が考えられる 。
これらの個人そして社会全体での支援は対面しなければならないものも多く、今すぐに始めるということは難しいかもしれない、しかし捉え方によっては我々はポストコロナまでの準備期間を与えられたと捉えられる。ポストコロナ見据えた支援計画こそ、今後求められるものなのではないだろうか。

 

別府沙耶 兵庫県立大学 環境人間学部 1回生

『情報化社会に取り残される人たち』

現代の情報化社会において取り残されてしまう人たちは誰であろうか。
情報は生きていく上で必ず必要であるものである。情報化社会である今、情報を持つ者と持たない者とでは生活に大きな格差が出てしまうだろう。私は特にインターネット環境がなかったり隣人との交流が少なかったりする高齢者は現代から取り残されてしまうと思う。皆さんの周りにも情報格差によって取り残されている高齢者はいるだろう。情報がないと緊急時に適切な行動ができず逃げ遅れることというニュースもよく見かける。私は高齢者が情報弱者であることが多いと感じたため、今回はSDGsの11番の「住み続けられるまちづくりを」に注目して高齢者が安心して住み続けられるまちを創るためにはどうしたらいいのかを考えたい。
高齢者が情報化社会から取り残される原因としては、高齢者の孤独が挙げられる。厚生労働省によると2018年の時点で2492万7000世帯に65歳以上の高齢者がおり、このうち27.4%の683万世帯が一人暮らしをしている。また内閣府の「高齢者の生活と意識に関する国際比較調査」によると「家族以外に相談あるいは世話をしあう親しい友人がいるか」という質問に日本の高齢者の25.9%が「いない」と回答している。4人に1人は友達がいないということになる。他の国の割合ではアメリカで11.9%、スウェーデンで8.9%と日本はほかの国に比べて高齢者の孤独の割合が大きい。私はこの割合を知って、とても孤独である高齢者が多いと感じた。これからの少子高齢化社会において、一人暮らしの高齢者の孤独による影響が大きな問題になってきそうだ。
田舎に住んでいる一人暮らしの高齢者と都市部に住んでいる一人暮らしの高齢者とではどちらが孤独であるだろうか。私は都市部の高齢者の方が孤独であると考える。都市部では情報は豊富であるが、情報が豊富であるが故に人付き合いが希薄であり孤独を感じる高齢者が多そうだ。今高齢者のワクチン接種が進む中、私の祖父は一人暮らしをしておりインターネットもあまり利用しないので、祖父がワクチン接種の対象者であることを知らなかった。なにかあったらすぐ行ける距離に母親が住んでいるので、母親が祖父に情報を伝えてワクチンを打つことはできたが、普段一人で過ごしていると何かと不便を感じているようだ。インターネットや隣人との交流が盛んであれば、情報は多く手に入ると思う。逆に私の祖母は田舎で一人暮らしをしているが、ボランティアをしたり友人と習い事に行ったり趣味を見つけて資格を取ったりしているため、人と交流することが多くて日常の情報交換を隣人の方とでき、一人でも孤独を感じずに過ごせているようだ。
現代の近所付き合いだと、情報の持たない高齢者は取り残されていくばかりである。しかし高齢者を現代の情報化社会から取り残さないようにするには、家族や地域との連携が必要不可欠だ。そのため地域で活動している民生委員やボランティアの方々が、一人暮らしをしている高齢者に声かけて話し相手になったり、家に訪問して生存確認したりして高齢者を一人にしないようにすることが良いと思う。今、高齢者専用の住宅もあるので、高齢者住宅に住むことができるのならば、そこに住んだ方が家族も安心でき、不自由ない環境で過ごすことができると思う。また行政側が高齢者を対象にしたインターネットの使い方などを教える講習会もあると、高齢者は自ら情報を得る機会が増えると思う。周りの人の目があると高齢者も孤独を感じずに過ごすことができる。このような環境を変えるという以外で私たちが主体的にできることとしては、自分の家族の高齢者や近所の高齢者に積極的に話しにいくなどの高齢者を「見守る」行動が必要であると考える。高齢者と仲を深めることで、高齢者の悩み・困りごとなども聞き出すことができ、高齢者が安心して生活することができるかもしれない。
情報化社会の中、私たちは情報を得ることが容易だが、高齢者にとっては難しいかもしれない。これからの情報化社会において高齢者が取り残されないように私たちで高齢者を支え見守ってはどうだろうか。

 

別府将吾 名古屋大学大学院 修士2年生

 

私たちは「普通」という言葉を日々よく使う傾向にある。しかし、私はその「普通」という言葉を多用することに非常に違和感を感じる。そもそも普通とは共通普遍で万人に共通なものとされている。人それぞれの「普通・常識」は18歳までに形成され、それがその人の「普通」になる。
しかし、国や地域、ジェンダー、年齢、バックグラウンドが違えばそれぞれの価値観、いわゆる個々人に「普通」が存在する。しかし、18歳までの常識がそれぞれ育った環境によって違うため、相互にその価値観を共有することができない。

年齢のファクターも加えればジェネレーションギャップによってそれぞれの「普通・常識」というのは変わってくることが必然であると言える。故に「普通の人はこうする」という概念に私たちは縛られる必要性はなく人それぞれの多様性があって当然である。故に「普通の人はこうする」という概念など存在することはなく、またそれは万人に普遍的ではなくただその人個人の価値観を押し付けているものなのだと私は考える。加えて、インドでは多民族、多宗教国家でありまたカースト制度の影響もあり階級も様々である。勿論一人一人の個性は違ってあたりまえであり、個々人のバックグラウンドは大きく違うといえる。多様性のある国の一つである。

前文を踏まえて次の例として海外それぞれの国にはそれぞれの文化・風習がある。海外のある国で普通であることが他のある国ではタブーなものであったり、ある国で行われていることが他のある国では理に反するおこないかもしれない。他の例として宗教を挙げるときヒンズー教は牛肉を食べない、イスラム教は豚肉を食べない、また宗教や暦によってそれぞれの国のイベントは違ってくる。「普通」とは一体なんなのかと疑問を呈する。

「普通・常識」というものは人それぞれ違いがあると仮定して個々人に多様な考えや価値観が存在すると思う。共生社会・ダイバーシティという概念が成り立つためには個々人の多様性を認めることであり、「普通・常識」というものが存在しないことが必須条件となるのではないでしょうか。「普通・常識」ということが個人の偏見であるとすれば普通という言葉を使う時点で個人の意見を押し付けていることでありその社会は必ずしも多様な社会とはいえず、包括的な社会ではない。

まとめとして、共生社会が成り立つためには「普通・常識」というのが存在しないことが必要十分条件であって必ずしも個人の偏見を押し付けてはならない。インクルーシブ教育や共生社会を構築することは勿論個々人には18歳までのバックグラウンドが存在し常識は人それぞれ違うのでただ単に共生社会と簡単に片付けられる言葉ではないだろう。

SDGsの目標4「質の高い教育をみんなに」、目標5「ジェンダー平等」、目標10「人や国の不平等をなくそう」、目標11「住み続けられるまちづくりを」、16「平和と公正をすべての人に」と包括的という言葉が多用され、2030年に向けて包括的で多様な社会構築を目指されている。
しかしながら、「普通」という言葉を多用している限り多様性社会は築かれないと思う。「普通」という言葉を多用するのは日本が島国で単一民族だからなのであろうか。

私たちは誰ひとり取り残さない、人類みな平等であるために、ひとりひとりの意識が大切であると考える。

平田知穂 sisam工房

 

私は常々思うことがあります。
「誰かにとって大切な人を大切にしあえたらいいのに」と。
そして、こんなにも単純な輪が“なぜ”広がらないのだろうかと。

もしあなたの大切な人が将来の夢を持ちながらも大人になることができなかったら、
もしあなたの大切な人が好きなものを好きなだけ食べることができなかったら、
もしあなたの大切な人の命に優先順位をつけられていたら、
もしあなたの大切な人が受けた大学受験で差別的な不正が起きていたら、
もしあなたの大切な人が望まない性別を強いられていたら、
もしあなたの大切な人が安全な水にアクセスできていなければ、
もしあなたの大切な人が電気の供給もなく不便を強いられていたら、
もしあなたの大切な人が仕事によって家庭の時間が取れず子供と遊べなかったら、
もしあなたの大切な人が作っている作物が安く買われ他で高く売られていたら、
もしあなたの大切な人が肌の色で差別されていたら、
もしあなたの大切な人が屋根のある場所で生活ができていなかったら、
もしあなたの大切な人が作ったものが使い捨てられていたら、
もしあなたの大切な人が気候変動による自然災害に巻き込まれたら、
もしあなたの大好きな動物の害になるプラスチックを海に捨てられていたら、
もしあなたの大切な人が国の紛争に巻き込まれ理不尽な死を迎えたら、
もしあなたの大切な人が住む国が利益・価値によって優先順位をつけられていたら、

なぜ知らぬふりをするのでしょうか。
その不当で理不尽な目に遭っている“人”が、あなたの大切な人であれば、あなたの答えは変わってきませんか?
全ては想像力なのです。あなたが第三者じゃなく、当事者だったら、もしくは第二者間だったら“心が傷む”のではないでしょうか。

その輪が世界中のひとりひとりに広がり、そのひとりひとりが大切な人たちのことを思いやる。そうすることで、貧困、飢餓、医療の偏り、教育の偏り、ジェンダー不平等、不潔な水へのアクセス、電力にアクセスができない、劣悪な労働環境、技術の偏り、人種差別、危険な住まい、大量生産と破棄、気候変動、プラスチックゴミ、絶滅危惧種の増加、紛争、すべての問題が身近に感じることができるのではないでしょうか。
人々は「私の問題ではない」「誰かがやってくれる」「私の周りに苦しんでいる人はいない」。そうやって頭ごなしに決めつけて、想像することを止めてしまっているのです。

あなたはどんな社会で生きていきたいですか。
あなたはあなたの大切な人にどんな社会で生きてほしいですか。
あなたはこれから生まれてくる子供たちにどんな社会で育ってほしいですか。

いまこそ問い直しましょう。2030年は目前です。もう10年もありません。誰ひとり取り残さないために。

 

平田駿斗 岡山龍谷高校

 

 私たちは日常生活において、テレビのニュースやSNSなどを通して様々な情報を受け取っている。その中には、差別や自殺などの話題は少なくない。これらの問題は、「誰かが取り残されている」ことを示しているのではないだろうか。そこで私は、SDGsの基本理念である「誰ひとり取り残さない」ということは、何から取り残されないことを指しているのか、また、現在ではどのような人たちが「取り残されている」のかを考えることにした。
 「誰ひとり取り残さない」とはどのような意味を持っているのでだろうか。私は、「誰ひとり取り残さない」とは、誰もが互いに理解し合い、助け合い、尊重することなのではないかと考える。地球にいる全ての人が互いに理解し、助け合うことができるのならば、差別問題や自殺などは起こらないだろう。だが、現在では外国人や障がいを持つ人、LGBTQ+の人たちなどが周囲から排除され、攻撃されることがよく起きてしまっている。しかし、私たちも無意識のうちに周りと違う人を排除、攻撃しているのではないだろうか。私たちが電車に乗っているとき、乗客の中に1人だけ肌が黒い人、いわゆる黒人がいる状況を考えてほしい。私たちは好奇心や物珍しさに、その黒人に視線を送ることがあるだろう。これだけでは何の問題も無いように感じるかもしれない。だが、黒人の目線に立って考えてみてほしい。その黒人は周囲から絶え間のない視線を感じることになる。中には「黒人だ」「黒人なんて初めて見た」という声が聞こえてくることもあるかもしれない。そのようなことが起きると、黒人はどう感じるだろうか。私たちにそんなつもりは無くても、周囲から排除されている、攻撃されていると感じてしまうのではないだろうか。それは、私たちが自分たちと異なる人をに「取り残している」ことになるのではないのだろうか?
 このように、気が付かないうちに自分の周囲でも誰かが「取り残されている」ことは少なくないだろう。「誰ひとり取り残さない」ために、私たちにできる最も簡単なことは、身近にいる人のことを理解し、その人が困っていたら寄り添い、助けることではないだろうか。もしかしたら、「誰ひとり取り残さない」ことは思っているよりも難しいことではないのかもしれない。私たち一人一人が周囲と異なる人のことについて理解し、助け合うことができれば、いずれは「誰ひとり取り残さない」ことが出来るだろう。皆さんも自分や他人に向き合い、どんな小さなことでも構わないので、自分に出来ることが無いか考え、実行してみてはどうだろうか。

 

服部紗奈 横浜隼人高校

「誰1人取り残さない。」

年々進んでく社会活動、経済活動に取り残されている人々は何人いるのか。
今日の世界では貧困で苦しんでいる人、外国人差別で辛い思いをしている人、経済的にうまくいってない人など様々な人がいる。こんな人たちがいる中で私たちは何かしようという呼びかけはしてきたと思う。しかし私達が世界を何か変えることはあったか。実際にそういう人たちを減らすことはできているか。
自分にできることは何か考え、それを行動に移せているひとは一体何人いるだろう。そう考えた時、自信を持って「はい」と言える人はきっと両手で数えられるくらいだと思う。人々は常に周りの目を気にして自分を中心に生活している。
取り残されないように、置いていかれないように必死に毎日の出来事に縋り付いている。私は16年生きてきて一回も行動に移したことはない。この生きてきた16年間何も考えず生活してきた。今考えると無駄な16年だった。まだ子供だから何もしなくていい、自分には関係ない。この小論文を書くまでは取り残されてしまっている人のことなど考えてもこなかった。けれども今は学校での課題としても出てきいて本格的に考えなければならない。また私自身も取り残されていないとは言えない。
勉強、遊び、部活などで周りの人に追いつくのにばかり頭がいっている。そんな悩みを抱えている人がたくさんいると思う。
だからこそ今私たち学生や今働いている社会人、日本のトップで動いている政治家、さらに世界を通して働いている人達が動くべきではないだろうか。声をかけるだけ、表向きだけでの中身のない活動。そんな意味のないことが将来の何に役に立つのだろうか。今少しずつ進んでいる募金活動やボランティア活動は私達からしたら小さいことでも苦しんでいる人には大きな進歩だったりもする。
もしかしたらあまり役に立たないかもしれない、自分の案が採用されないかもしれない。それでも私はなにか変えることはできないかと考えて行動に移すその積極性が世界を救う第一歩になると信じている。そしてそれが今まさに私たち人間に必要なことではないだろうか。学校はもっと今でいうSDG’sに耳を傾けるべきだ。社会では自分の売り上げばかりを気にするのではなく人のために何ができるのか考えてほしい。これからは社会に飢えている人たち、周りに後ろからついていっている自信のない自分を変えていきたい。
誰1人取り残さないように。

富松明生 横浜隼人高校 2年生

 

 私はSDGsの目標を達成するためには、「主体的努力」が必要であると考える。「誰一人取り残さない」を基本理念に掲げ、2030年までの目標達成を目指しているSDGsは、近年益々注目されており、SDGsを事業戦略に取り入れている企業も多い。世界が一丸となってSDGsの目標達成に向けて取り組んでいる一方で、SDGsウォッシュという言葉も生まれている。SDGsウォッシュとは、SDGsに取り組んでいるように見せて実態は伴ってない企業のことを指し、問題視されている。さらに現在は、このコロナ禍の状況において、飲食店や航空会社など打撃を受けている業界も多く、雇用調整や人員削減のために解雇される人なども増加している。コロナ終息への動きも進められていく中で、新たにワクチン接種に関することなど、さまざまな問題が浮き彫りになっている。そんな中で我々にできることはなんだろうか。それは、私たち一人ひとりが自分の意思で判断し、行動に責任を持つようにすることではないだろうか。誰一人として社会から取り残さないためには、企業の取り組みだけでは足りないであろう。私たち個人の地道な主体的努力というのが必要不可欠なのだ。地道な努力というと例えば、レジ袋を使わないようにすることだ。日本では、2030年までにプラスチックごみの排出量の25%削減を目指しており、その一環として昨年からレジ袋の有料化がなされた。レジ袋が有料化されてから1年が経ち、日本のレジ袋の使用率は減少しつつある。環境省によれば、約3割の人がレジ袋有料化に際し、プラスチックごみ問題への行動や意識が変わったと考えているようだ。しかし、未だコンビニなどでレジ袋を使う人を多く見かける。我々にできる努力は、一人ひとりが他人事と思わず、主体的にレジ袋削減に取り組むことだ。これは一つの例に過ぎないが、普段生活する上で身近にできる努力はまだまだたくさんあるだろう。努力するためのは、まずSDGsをよく知り、理解することが大切だ。最近では、SDGsについて授業で取り上げる学校も多いため、若い世代の人々にも認知されている。これからは若い世代が中心となって主体的に努力や責任を持った行動をしていかなければならない。一つひとつは一面的な小さい努力かもしれないが、その地道な努力の積み重ねにこそ意味がある。世界中の人がその意味に気づき、意識が変われば、SDGsの目標を達成する最大の近道になるかもしれない。そして、誰一人取り残されることのない時代を迎えることができるだろう。

富樫星那 横浜市立橘中学校 3年生

 

私は最近、「差別」という言葉をよく耳にする。私の周りではあまり見ることはないが、日本全体や海外では、男女差別や人種差別など、様々な差別が問題となっている。そこで今回、私は男女差別について詳しく掘り下げようと思う。
私たちの代表である国会議員の日本とルワンダの違いが、わかりやすい例である。国会における女性議員の比率は、その国における女性差別の現状を表すと言われている。日本の女性衆議院議員の比率は、二〇二一年一月の時点で九・九パーセントであり、一九一ヵ国中、一六六位というとても低い割合となっている。対してルワンダは女性議員の比率が六一・三パーセントで、世界一位である。ルワンダでは、一九九四年に紛争から派生したジェノサイドが起こったことをきっかけに、人権擁護の立場からジェンダー平等への取り組みが進められるようになった。
では日本はどうだろう。日本では、七六年前の選挙法改正までの間、女性の参政権が認められなかった。これを聞くと、ルワンダは日本よりも遅く男女差別への取り組みがあったのにも関わらず、現状が日本よりも大幅に変わっていることがわかる。ではなぜルワンダは取り組みの影響が短期間で広まったのか。
その理由はルワンダで二〇〇三年に導入された「クオータ制」(割当制)が関係している。クオータ制とは、議席の三割以上を女性とするという制度である。この制度が導入されてから、女性の意見を取り入れる風潮が政界から社会の隅々に広がるという効果を生んだ。
それに比べ日本は、国会に関する法律が第一三三条まであるのにも関わらず、女性議員についての法律が、平成三〇年に公布された「政治分野における男女共同参画の推進に関する法律」というもののみであり、男女の候補者の数ができる限り均等となることを目指すという内容である。しかし、この法律では候補者の数を均等にすることはできるが、当選しないと国会議員として活動することができない。そして、今の日本の女性衆議院議員の割合が九・九パーセントということは、 やはりそれだけ国民からの票があまり女性に入っていないということである。
私は、今のままだと日本は男女差別の現状が変わっていかないと考えている。やはりルワンダのように国会議員の割合を決めることが必要だと思う。そして、いつか男女差別がなくなり、男女を平等に扱う男女平等の社会が出来上がること、それと同時に人種差別などの男女差別以外のすべての差別がなくなることを、私は願う。

 

尾崎萌々子 横浜隼人高校

 

 世界には教育格差があるために取り残されてしまう子供がたくさんいる。学校に行くことは子供に大きな影響を与え、自己を形成する大事な過程だ。私は、こうした過程を経験できないと、読み書きができなかったり、社会での生き方や人とのコミュニケーションなどの仕方がわからなかったり、自尊心を失って心を閉ざしてしまうのではないかと考えた。結果、教育格差があるために、就職することが困難になるのだ。教育格差は子供達の将来の可能性を狭めてしまうのである。
 教育格差の主な原因は貧困にあると言える。人種差別や、紛争、政治、自然災害が人々を貧困に陥れる。また、元々貧困だった家庭に生まれた親が教育を満足に受けられず就職ができなかったり、非正規雇用のため給与が少ないことがある。さらに、ひとり親や母子家庭で世帯収入が低いという現状もある。他にも、生活に必要な収入がないために子供も働かなくてはならなかったり、女の子が結婚を強いられる。そういった国では教育は優先されず、生計を立てることに精一杯になる。そうすると、本人の能力が優れていても、学校の勉強を頑張りいい成績を出しても生活に困窮している家庭に生まれたばかりに、大学進学、高校進学などを諦めなければいけなくなることも多い。学校に行くことすらできない子供も大勢いる。
 親から子へ、またその子供へと貧困は連鎖していく。教育格差をなくすにはまず貧困を解決することが必要である。私たちが今すべきことは、貧困にある状況を「知っている」のではなくなぜ貧困になったのか、どうしたら解決できるのか「考える」ことだ。

 

梅元菜月保 神戸大学 5年生

 

誰ひとり取り残さない社会、私はまちづくりの視点から地方の人々が取り残されない社会について考える。私は将来「地方都市に人々の出会いの場となるコミュニティの場を設け、人々が都会に行かなくても自分の好きな街で暮らせる社会」をつくりたいと考える。
 そう思ったきっかけは自分の生まれ育った環境とアメリカへの留学経験にある。私は都会である大阪で生まれ育ったが小さい頃から人混みが苦手であり、自然あふれる穏やかな場所での生活に憧れていた。大学で交換留学先として選んだアメリカのユタ州は、念願の落ち着いた自然豊かな場所であった。そこは勉強に取り組むには最適な環境であった一方で、都会での生活を享受していた私にとっては想像を絶する田舎暮らしだった。そしてユタの街には魅力が溢れていた一方で、魅力を活かしきれていないことや、狭すぎるコミュニティに課題を感じた。この葛藤に追い打ちをかけた出来事がニューヨークへの旅行である。欲しいものはすぐに揃い、娯楽施設も回り切れないほどあり、不自由ない生活を送れた。その一方で、物価が高く、どこを訪れても人混みが避けられない生活に息苦しく感じたことも事実である。日本に帰国し東京一極集中を少しでも緩和できれば、より自分らしく過ごせる人は多いのではないだろうか、と考えるようになった。地方の空き地に大型商業施設を建てることは一時的な人々の流れを産み出す可能性があるが、継続的な施設の管理や維持の困難さがある。さらに都会と同じものを地方に建設しても、都会で体験できることをわざわざ地方に来て体験したいとは思わないだろう。それでは、地方都市や政令指定都市の環境や価値を高めるのはどうだろうか。東京一極集中を分散させ、十極集中程度にすれば、より自分らしく輝ける人々は多いのではないだろうか。そこで私は、都会だけでなく地方都市でも各地域固有の既存の魅力を活用したまちづくりが必要であり、貢献したいと考えた。
 ここで日本のまちづくりについて考えてみる。江戸時代から高度成長期時代まで、日本の街づくりは古くなった建物をすぐ破壊して新しいものを作り直す「スクラップアンドビルド」が主流であった。そのため東京や大阪には煌びやかな商業施設や最先端なオフィスが増え、どんどん便利になり人口が集中するようになった。その一方で、若者をはじめとする生産年齢人口の都会への流出は歯止めが利かず、地方では過疎化が進み深刻な問題を生んでいた。近年はインターネットが普及し地方と都会の情報格差がはるかに縮みつつあり、ネット環境が整いさえすれば、どこにいても仕事ができ、授業も受けられるようになった。しかしながら、若者は人との出会いやチャンスを求めて都心へ進出し続けている。
 そこで私が考えるのは、単一目的にとどまらない多くの人が集える場を地方都市に提供することで、新たな人のつながりや出会いを生みだし、新しい価値やその地域の活気につながると考える。その地域にあった方法を考え、取り組みを進めることで、一過性に終わらない地域の活性化につながると考える。そうすればわざわざ都会に行かなくても自分の好きな場所で暮らすことが可能になるのではないだろうか。
 最後に、本論文ではSDGsの基本精神「誰ひとり取り残さない」に基づいて、まちづくりの視点から論じた。新型コロナウイルスという未曽有の環境の中で、地方や郊外への意識は以前より高まっている。この機に都心一極集中を少しでも緩和させ、日本のどこにいても誰ひとりとして孤独を感じない自分らしく暮らせるまちづくりに貢献していきたい。

 

背戸咲李 横浜国立大学 2年生

 

 一般的に、貧しさや豊かさについて測る指標は4つある。1つ目は絶対的貧困である。絶対的貧困とは、国や地域の生活レベルとは無関係に、生きるうえで必要最低限の生活水準が満たされていない状態を示すものである。この指標では、お金に換算することができないような分野については測ることができない。2つ目は相対的貧困である。相対的貧困とは、その国や地域の水準の中で比較して、大多数よりも貧しい状態のことを指している。所得について考えてみる場合、世帯の所得がその国の等価可処分所得の中央値の半分に満たない状態のことを相対的貧困という。3つ目は、人間開発指標である。人間開発指標とは、所得以外にも人間には普遍的に必要なものがあり、それらをどの程度満たせているのかを測るものである。保健、教育、所得という人間開発の3つの側面に関して、平均達成度を測るための簡便な指標となっている。4つ目は、幸福度である。幸福度とは、一人ひとりの幸福を所得などの経済的要素に限ることなく、家族や社会との関わり合いなどの要素も含めて評価するものである。個人が自分の幸福度について主観的に評価したものを測定値として使っていて、金銭面だけではわかりにくいような複雑な幸福について取り上げることができる指標である。
 新型コロナウイルスが流行している今、私は自身の心の貧しさに変化があったと感じている。それは、「コロナウイルスに感染した人を差別的な目で見てしまう」というものである。コロナウイルスに感染した際の状態に少しでも似た症状を持っている人を避けたいと感じてしまったり、感染者の家族を「もしかしたらウイルスの保持者かもしれない」と意識してしまったりするというように、実際に行動に移すことはなくても、私の心は貧しくなってしまった。
 この場合、私自身の心が貧しいだけでなく、差別的な視線が生まれてしまったことによってコロナウイルスの感染者や感染が疑われる人の普段の生活が「貧しく」なってしまっているということがわかる。このような貧しさは先に述べたような4つの指標を使っただけで簡単に測れるものではない。SDGsの活動を行う上で1番取り残されやすい、すなわち見過ごされやすいのは、このように一般的な「豊かさ・貧しさ」のものさしでは測れないような目に見えない「貧しさ」だと私は思う。そのような見えない貧しさに自身も周囲もすばやく気づき、改善させていくことができれば、SDGsの「誰ひとり取り残さない」という基本理念の達成に繋がるのではないか。しかし、「豊かさ・貧しさ」というものの種類はこの例でも分かるように社会の状況に合わせて様々に変化するものである。社会の状況について正確に知り、そこからどのような貧しさが生まれうるのかを一人一人が考えるところから、SDGsの取り組権くださいかみは始まると思う。/

 

すずめ 筑紫女学園高等学校

 

 私たちが暮らす日本は、最近しきりにジェンダー平等と言いながら、ジェンダー平等の達成度は他の先進国に比べてとても低い。つまり、ジェンダーに関する問題について日本は他国に取り残されている。そもそも私は、ジェンダー平等とは性別で差別されることなく、自分自身で自由に選択することができる状態だと考える。例えば、女性議員の割合は、日本は14.4%となっており、世界平均は25.5%である。このことは、女性が議員として政治に携わることの自由を奪われていることによると考える。また、私は幼い頃に、「女の子だから」という理由で自分自身で選択することの自由を失い、行動を制限されたことがあったのを今でも覚えている。
 そこで、日本が女性の社会進出において取り残されている現状への対策として、女性管理職を増やすためのシステムやプログラムを実施することを提案する。もし、会社の社員の40%が女性だとしたら、管理職も40%が女性であるはずである。そうでないのが現状で、それは私たちの古い固定観念がもたらしたよくない慣習であり、現状を打破するためには何か新しいことが必要である。よって、女性管理職を増やすためのプログラムなどの実施や、新たな法律を制定し、女性管理職を増やすためのバックアップを行うことを提案する。そうすることで、女性管理職がいる職場は女性にとって働きやすい場となり、女性の社会進出が進むのである。
また、日本はLGBTQ+の理解に取り残されており、日本社会はLGBTQ+の人々の選択を不自由にさせ、その結果LGBTQ+の人々を取り残したまま生活している。そこで、その現状への対策として、ジェンダーフリーのトイレや更衣室の設置の義務付けを提案する。性別や性の自己認識に関係なく、LGBTQ+の人々の権利を守ることができる方法である。さらに、ジェンダーフリートイレ等の設置により、LGBTQ+の人もそれ以外の人もどのようなバックグラウンドがあっても、人間が人間である限り持っている平等である権利というものを実感できると考える。
確かに、一つ目の提案について、女性の社会進出が進むことにより晩婚化や非婚化、少子化が進むのではないかと考える人もいるだろう。しかし、家事を平等に分担し、男性は家事を「手伝う」のではなく家事を「する」こと、育児について話し合うことで、女性の負担をなるべく減らすことができ、結婚する人が増え、少子化の進行に歯止めをかけられるのである。
 また、二つ目の提案については、ジェンダーフリートイレ等の設置は、男性も女性もLGBTQ+の人も皆同じトイレを使うので、防犯などの点で心配だという意見もあるだろう。しかし、実際に導入したところのデータによると、あまり人に会わないように設計されていたり、追い詰められて逃げられないような場所を作らないようにしていたりとプライバシーが守られるように設計されている。
 ジェンダー平等の面に関して、日本が取り残されないためにはいくつかの問題点がある。一つは政府の女性への支援の不十分な点である。男性に比べて女性の所得が低い問題を解決するためには、政府が法律を制定することが必要である。もう一つは、日本人のLGBTQ+の理解が不足している点である。小学校や中学校、高校などでLGBTQ+について知る授業を導入すべきだと考えた。このように、日本がジェンダーに関する問題について他国から取り残されているのにはさまざまな要因が考えられる。今すぐに解決することは難しいが、時間をかけて社会全体でひとつひとつ解決していくべきである。

 

二宮陽夏梨 横浜隼人高校

 

 近年、政府や大手企業がSDGsへの取り組みを謳っており、日本の一般の成人や中高生までもがSDGsの名を知っている。その知名度が高まる今、「誰ひとり取り残さない」世界の実現には、私たち一人ひとりが当事者意識を持ち現状を知ろうとすることが必要だ。では、ここで言う当事者意識とは何か。このことについて考えたqw際、私が思う当事者意識とは「他人事」ではなく「自分事」、すなわちSDGs17の課題は自分にも起こりうる問題でありSDGsにおける全てのゴールに自分自身も包括されているという意識のことである。
 SDGsというアジェンダ名、またその17個のゴールについて知っている、もしくは聞いたことがあるという人は増えている。それらの功績ははここ数年における日本の企業・団体の参加表明や新聞や雑誌などへの記事掲載の取り組みがもたらしたものであり、実際に朝日新聞社による第1回SDGs認知度調査(2017)の際 12.2%と1割程度であった認知度が 第7回調査(2021)では52.7%にのぼり、遂に過半数を超える結果となっている。この結果は日本におけるSDGsの意識浸透を表し、我が国また世界の国連加盟国の国々と一丸になってゴールを目指すに当たって喜ばしいものだと言える。しかし、同調査において浮き彫りになった事実として、”SDGsという名前は知っているが、具体的にどの様な取り組みか知らない”、また “自分も取り組みたいが何ができるのか?”などの疑問を持つ人が多くいることが挙げられる。また”具体的にどの様な取り組みが行われているか知らない”という人の中には、自分とはかけ離れた所で起こっていることであり自分には関係のないこととして捉えていたり、それ故に詳しく知らなくとも自分に不利益はない、などと他人事として見做している人が多く見受けられる。この様な状況下では、「誰ひとり取り残さない」という目標には到底及ばない。この問題点を踏まえて今後2030年までの期間で全てのゴールを達成するためには、まずこの現状を変えることが必要である。
 この様な現状において求められることは、一人ひとりが知りたい、理解したい、そして自分のできることから参加したいと考える前向きな姿勢である。“知りたい”という気持ちは、たとえ自分には遠い出来事に思える事柄でもより自分のことの様に寄り添いたい、理解してあげたいという柔らかく暖かなものである。また、今私は高校生であり、自立もしていなければ財力も発言力も持っていない。この様な私や周りの高校生ができることはまず現状を知ろう、理解しようとすることである。これらは全く力のない小さな事柄に思えたとしても、全てのゴールを解決する第一歩は“知ろうとする”ことに限られる。
 この様に、「誰ひとり取り残さない」世界を叶えるためには、まずは知ろうという姿勢を持つこと、そして他人事ではなく自分のことの様に考える姿勢が大切である。高校生である今、私自身にできることを小さなことからでも探し、自分のことの様に真摯に向き合い考えていきたい。

 

N 高校3年生

 

私はつい最近までSDGsという言葉を知らなかった。小学生のときは、プルタブを集めたり、ペットボトルのキャップを集めたりする理由がわからなかった。SDGsという言葉を知るきっかけとなったのは、学校の授業やテレビニュースでもなく、ある動画のコメントが始めである。ある日、私はSNSの動画で驚異的なコメントを目撃した。それは、地球温暖化などの社会問題が本格的な問題となるのは、まだ先のことであり、今から問題解決のために行動する必要はないという意見だった。私は困惑し、反論意見を考えたが、社会問題の背景や何が問題なのか全く知らなかったのである。そこで、そのコメントに反論意見を書きたかったために多くの社会問題について調べ上げた。その時に初めてSDGsという言葉を知った。そして、私はそのような思考回路にたどり着く人に対する解決法について考えた。
 まず、その思考に至る問題の解決策の一つとして、教育内容を変革するのが良いと考えた。正しい知識を身に着けることによって身勝手な意見をださないためである。例えば、教育機関でSDGsの知識を深める授業を加えたり、SDGsに焦点を置いた教科書の導入である。ところが、調べたところ、私が考えた教科書のアイディアはもう既に存在していて、活用し始めている学校もいるらしい。最近、SDGsに向けて動き始めている学校が増えてきているように見える。しかしながら、実際にこの教科書を導入している学校はまだ少ない。それに加え、学校側への理解を得て、その教科書を多くの学校で導入にあたるまでには、まだまだ時間がかかるだろう。したがって、SDGs対応教科書の有意義性についてメディアなどを活用して広めることが大事だと考えている。
 また、この教科書を導入するにあたって、教育面で改善しなければいけない点が出てくる。それは、生徒だけでなく学校の教師にもSDGsに対する知識が必要である点だ。好奇心旺盛な学生は、授業中に疑問点が思い浮かぶと先生に質問をすることが考えられる。そのため、教師側にはSDGsの講座を受講するなどをして事前に知識を身につける必要がある。それだけではなく、学生の授業態度の面でも問題が出てくると考えられる。学生にSDGsの正しい知識を知ってもらうためには、授業方法を変えることも解決への一歩である。授業にあまり集中できてない生徒のために体験型授業を行うのがよいと考えている。そこで、私の地元の学校で広がっている「子どもの哲学」をお勧めしたい。生徒全員で輪を作り、課題に対して一人づつ意見を発表する授業方式である。グループディスカッションに似ているが、この授業方式には特別なルールが存在する。それは、お互いの意見を否定せず、(事前に準備された)ボールを持っている人しか話せない仕組みになっている。参加した生徒は、否定しないというルールがあるので話しやすかったと述べていた。私は、このような授業を多くの学校で取り入れるによって、自分の社会問題に対する意見を持てる上にSDGsへの理解も深められると思った。
 そして、SDGsに対する意見を持つ生徒が増えれば、実際に行動に移す学生も増えるだろうと考えている。そうすると、必然的に自分のアイディアを発表して講評をもらうためにアイディアコンテストなどに参加する学生も増えると考えている。そして、私は2016年に開催された高校生ビジネスプラングランプリでトップに選ばれた商品、moskidsの実際の使用状況について調べてみた。moskidsとは、フィリピンで流行ってるデング熱の対策をするブレスレット型の道具である。私は、フィリピン人のmoskidsの使用現状について知るために、実際にチャットアプリを使ってフィリピン人と連絡を取った。その人の話によれば、moskidsのような商品は多くの子供達が使われており、実用的だと言っていた。高校生が考えたアイディアがフィリピンで実際に使われているということが知れてたため、私はとても嬉しいと感じている。
 しかし、moskidsのような成功例だけでなく、良い商品なのに売れていないという例も存在する。例えば、2019年に開催された同大会のPeriPeriなどである。身の回りで使っている人やスーパーで売られている姿を私は見たことがない。単純に商品の値段が需要を上回らないからと今の私は考えている。したがって、大学では経営学の基礎知識を身につけて、売れない原因を細かく追究し、どうすれば商品が売れるかなどを研究していきたい。将来、SDGs対応の教科書やSDGs向けの商品を売る方法だけではなく、様々な社会問題を経営学の面からサポートしていきたい。そして、未来の学生が自らが主体となり、積極的にSDGsに向けた活動ができる環境を作り上げていけたらと思っている。

 

南田愛斗 兵庫県立大学 1回生

交流拠点で育児問題を解決か!

 最近、子どもに関する問題をよく耳にする。保育園を設立しようとすると近隣住民から「うるさい」と反対運動を起こされ、公園ではボール遊びが禁止されるなど、親と子どもともに住みにくい環境が形成されてしまっている。確かに、子どもたちの声はよく響くため、うるさいと反対する住民を否定するつもりはない。また、ボールの使用も場合によっては、危険を伴い、住民に危害が及ぼされる可能性を考えるとボール遊びを禁止させようとする住民の気持ちも理解できる。
 しかしながら、こういった日本の子育て環境の悪さを放置することはできないだろう。日本では高齢化が急速に進行しているとともに出生率も減少してきており、人口減少に歯止めが利かない状況に陥っている。内閣府によると日本は高齢化率が総人口の27.7%にあたり、一方で出生率が1.34となってしまっている。こうした出生率の低下は、純然たる法の制度(国による子育て支援など)不足以前に、社会全体の子育てに対する関心のなさが原因ではないかと考える。
現状日本では、小さな子どもを連れた親たちは肩身を狭くしながら生活している。電車の中やバスの中では人々にいい顔をされず、逆にうるさいといわれることもある。また、共働きの増加に伴う保育園や託児所不足も大きな問題だ。待機児童といった言葉がメディアであふれ、日本全体の社会問題にもなってしまっている。「子どもは社会の宝」であるはずにもかかわらず、こうした子育て環境の悪さに親も子どもも社会から孤立してしまっているのである。これらは、国や企業などで推進されているSDGsとは程遠い状態であるだろう。特に11の目標である「住み続けられる町づくりを」の内容にそぐわない。子育てをしている親は世間から孤立してしまっている傾向がみられ、誰も取り残さないことをモットーとしているSDGsと対極状態にある。そのため、まずは、社会全体の子育てに対する意識改革をしていくことが必要である。また、その改革を補助する形で国や自治体が「誰もが取り残されない持続可能な町づくり」を推進していくことが大切であると感じる。
 さて、これらを実現するにあたりいくつかの実例をもとに子育て環境に関する解決案を考えてみた。まず事例の一つとして兵庫県灘区に設置された地域共生拠点・あすパークと呼ばれる施設の設置が挙げられる。あすパークとは、認定NPO法人コミュニティ・サポートセンター神戸が、2020年1月に灘区大和公園内に建設した民設民営の施設である。都市公園にこういった施設を作ることは地域コミュニティの活性化につながり、子どもと地元住民が交流する場として活用することができる。また、このような施設を作ることで、地元住民と子育てしている親との交流が増え、より町全体で子供を育てていこうとする意識改革にもつながる。あすパークでは、定期的にイベントなどが開催されており、誰もが参加しやすい空間を形成することにも成功していると感じる。保育所や託児所不足などに悩まされてきた親たちにとって交流拠点は大きな存在であるだろう。また、兵庫県西宮市などでは、あすパークのような交流拠点を作る際に運営費や建築費などを補助する制度などを行っており、交流拠点を広めていこうと推進している。こうした交流拠点を広めることは、子どもだけでなく高齢者にとっても大きな存在となる。高齢者にしてみれば、今まで孤立傾向にあった者同士が新たな交流拠点で、新しい関係を構築することができ、地域活性化にも大きく活かすことができるのである。また、高齢者が育児の経験を活かし、交流拠点を訪れる子どもの世話をするなどといった活動を起こしやすくなり、地域全体での子育てをすることにもつながる。こういった交流拠点は親の負担を大きく減らすことにもつながり子どもを育てやすい環境を構築することになる。少子高齢化が進行する日本にとって高齢者にも子育て世代の親にも優しいこの施設は今後の日本において欠かせない存在になっていくに違いない。
 今の日本は確かに子育てをするには難しい環境にある。しかしながら、こうした問題は、住民の意識一つで変えることができるのである。兵庫県にあるあすパークのような交流拠点を建てることは、住民の意識を改革していく一つの手段になるだろう。また、そうした交流拠点を建てることを国や自治体が運営、建築などで補助をしていけば、交流拠点を設立したい団体が増えていき、子育て問題の解決に大きく一歩前進するに違いない。今の時代は一人で全部を背負っていくのではなく、共助、公助の時代である。ひと昔前の日本のように地域全体で子育てをし、自治体もそれに協力し、子育てに寄り添っていく環境が今の日本には必要なのである。

<参考文献>
SDGs club SDGs17の目標 https://www.unicef.or.jp/kodomo/sdgs/17goals/
11の目標住み続けられる町づくりを https://www.unicef.or.jp/kodomo/sdgs/17goals/11-cities/
地域共生拠点・アスパーク https://www.cskobe.com/information/topics/aspark/
西宮市 共生型地域交流拠点  https://www.nishi.or.jp/kenko/shakaifukushi/chiikifukushi/kouryu-kyoten.html

 

南山将吾 横浜国立大学 4年生

 

SDGsの理念である「誰一人取り残さない」に向けて、私たちが行わなければいけないことは、とにかくコミュニケーションの場を設け、孤独になるような状況を作らないことだと私は思います。人はだれしも一人でいるときは不安に駆られ、「自分だけ取り残されているのではないか」と思い込んでしまうはずです。特にコロナ渦において一人で家にいる時間も増え、そういった考えを持ってしまう人たちが増えているはずです。しかし、実際には自分だけが取り残されているなんてことはほとんどなく、だれかと会話をしてみると、同じような境遇にいる人をたくさん見つけられるはずです。また、そうでなくても、人と話すだけで気持ちは楽になるものですし、「自分だけ取り残されているのではないか」という不安を脱却する活力も芽生えてくるはずです。実際に私もそうで、何か月も家で授業・課題の毎日を過ごしていると、「今自分の勉強は順調に進んでいるのだろうか」「周りの人たちが行っていて、自分が行っていないことがあるのではないか」といった不安に駆られることがありました。しかし、久しぶりに友達と話してみると、みんな同じような不安に駆られていることがわかって気持ちが楽になったし、これからどのような勉強をしていけばよいのかなどを話い合うことができ、今まで一人の時に抱えていた不安など簡単に払拭することができました。また、障害者や外国人が取り残されやすいことに関する問題に対しても、コミュニケーションというのは解決に向けて非常に重要なものではないかと考えます。例えば、私のバイト先に外国人の友達がいますが、あまり日本語が上手でないものの、たくさん会話を重ね、お互い助け合って働くことができています。このような状況で誰かが取り残されるということは絶対にありません。そのほかにも、障害を持った生徒が高校野球部のマネージャーとして部員の一員として活躍しているという記事も読んだことがあります。その人はその野球部にとっては欠かせない存在になっており、それは間違いなくコミュニケーションを交わしてきたからなのではないかとその記事を見て感じました。これはいろいろな状況でも同じで、どんな人種的、身体的差があろうと、たくさん会話をすることができるだけで、その人が取り残されるということはほとんど起きないと思います。このように、誰一人取り残されない社会を形成するためには、全員がコミュニケーションを取れるような状況がたくさんあり、気軽に自分の気持ちを相手に共有することができるということが重要なのではないかと思います。

 

鍋野巴留々 東京女子大学

 

「誰ひとり取り残さない」はSDGsの基本理念であり、この理念が重要であることは確かだが、多くの人々に手を差し伸べなければならない状況が、目では確認できない、見た目では普通に生活できている「取り残されてた」人々にまで目が行き届いていないのではと考える。例えば、「子どもの貧困」は世界中で問題になっている。特に、サハラ以南アフリカ・南アジアでは年間何百万人もの子どもたちが亡くなっている。一方、日本では街で今にも飢え死にそうな子どもを見かけることはない。では、日本でこの問題は大きな問題ではないと言えるのだろうか。日本の子ども達は取り残されてないのだろうか。これからこの問題について記述していく。
確かに、日本の国民は、日本国憲法第25条「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」という生存権のもと生活している。そのため、最低限度の生活を営むことができない国民は国から生活保護される。さらに今後ベーシックインカムという、政府が全国民に対して定期的かつ無条件に,最低限の生活を送るために必要な現金を個人単位に支給する制度を導入すれば、日本の貧困率は減少するだろう。しかし、ベーシックインカムが導入されたとしても、「子どもの貧困」を解決することはできない。なぜなら、私達の考える「貧困」と「子どもの貧困」は種類が違うためだ。貧困には絶対的貧困と相対的貧困の二種類が存在する。絶対的貧困とは、最低限の生活を営むことが出来ない状態のことである。これは多くの人々が持つ貧困のイメージである。そして相対的貧困とは、その国の文化水準、生活水準と比較して困窮した状態のことである。子どもの貧困はこれに当たる。そして、ベーシックインカムは最低限度の生活費を保障するものであって子どもの養育費を保証するものではないため、子どもの貧困を解決することはできないと分かる。また、日本での子どもの貧困は、国が抱え得る大きな問題の一つである。
日本の子どもの7人に1人が貧困状態であり、そのうち約半数がひとり親世帯である。ひとり親世帯では、親は家事・育児のみ、仕事のみなど分担することが出来ないため全て一人で行わなければならない。そのため、その環境下では、子どもを守るため・貧困にならないための仕事を増やせば増やすほど、子どもに愛情を注ぎ育てる時間が取られ、子どもの貧困が起こってしまうという反比例の結果になる。この悪循環は、ひとり親世帯だけではなく共働き世帯にも当てはまる。子どもを守るために働くことによって時間が取られ、子どもは心の拠り所を無くしてしまうだろう。また、子どもは親とコミュニケーションをとることで、自身の日々の生活の整理や視野の拡張につながるため、どんな時でも子どもとのコミュニケーションは欠かさず行い、外見の成長だけでなく、内面の成長まできちんと教育することが大切である。だが、親が実際に子どもとの時間を取ることは難しい。そのため、このような世帯の子どもが豊かに育つよう、周りの人々や児童館などの施設の人々で子どもとコミュニケーションを頻繁にとることが重要だ。
このように、誰にでも、私や周りにいる友達にも起こり得る子どもの貧困問題を、もっと多くの人々が認識し、大きく問題視すべきである。少子高齢化が進む今、さらに一人ひとりの子どもが身体的にも精神的にも健康に育つ必要があり、我々は、その中で取り残されている子どもたちに気づき、彼ら含んだすべての子どもたちが豊かに育つ環境を作れるよう取り組んでいくべきだ。

 

内野未唯 東京都市大学 4年生

 

「誰一人取り残されない」 「私は取り残されていない。」 そう思っていた自分こそが、「実は取り残されている存在」なのかもしれない、、と気づいたのは二年前、大学二年生の夏だった。 その年の春、私は、オーストラリア、フィリピン、マレーシア、タイ、そして日本の学生が1週間に渡り、SDGsをテーマに自由に企画提案を行うサマーキャンプに応募した。 そして待ちに待ったサマーキャンプ当日、私は海外学生の意識の高さに強いショックを受けた。 オーストラリアの学生:「私の国はいま○○〇という課題があるの。それに対して国は△△の対策をしているわ。でも、私はこうしていくべきだと思うの。あなたはどう思う?」 フィリピンの学生:「私たちの国では××があって、===よ。だから私は~~~だと考えるわ。あなたの国はどう?」 ・・・・・ 私:「(何も言えない)」 私は、ただ、何も言えなかった。 同時にある疑問で頭がいっぱいだった。 どうして、同じ学生なのに、この人達はこんなにも自分の国のことや社会・環境の問題に詳しいのだろうか。意見が言えるのだろうか。と。 とても悔しかった。ショックだった。自分自身、大学に入ったら社会を学びたい!と思い、いろんなものに挑戦してきたつもりだったからだ。 だが、このキャンプに参加して、自分は物事の表面しか見えていなかったことに気づいた。 そもそも、私はSDGsというものを知らなかった。 更に私は、日本という国が今どんな現状にあって、それに対して何が行われているのか全くさっぱり知らなかった。(考えたことも、関心を持とうと思ったことも無かった。) そして最後に、SDGsの説明や、各学生の解説を聞いても尚、“自分の意見”をつくることが出来なかった。 自分が井の中の蛙であったことに気づいた瞬間だった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 大学四年生の今、私は自分らしいやり方で、日本人の皆が「日本ってなんて素晴らしい国!」と思える社会を創りたい。という思いで、「円山町チャンネル」という文化発信・地域活性を行うメディア組織の立ち上げに挑戦している。 キャンプに参加してから、世界や社会を視る目が変わった。頭から見えないアンテナが生えた感覚で、今までだったら気づかないような情報が目に留まるようになった。 また、常にどんな環境でも、「自分はどう在りたいか」「そのために何をするべきか」を意識するようになった。 全国のゲストハウスを周ったり、知的身体障害者と旅をするボランティアをしたり、宗教を学んだり見学したり、まちづくりに参加したり。海外学生とのプロジェクトに参加しまくったり、都市開発提案にとりくんだり。。 そうした中で、やっと少しずつ、日本というものがわかってきた気がする。意見も言えるようになってきた気がする。という感じだ。 特に私が楽しいなと思ったことは、日本の文化や歴史を学ぶことだった。今ある全ての物は、過去の暮らしや文化と繋がっていることがとても面白いと思った。日本ってすごく美しくて素晴らしい国なのだと知った。日常に沢山の幸せが落ちていることに気づけた。 私はいま、日本を知り、好きになることで、皆の暮らしがより豊かになると心から信じている。だから円山町という場所の文化の発信と、地域の活性(衰退を止める)と、新しい文化の創造(自分たちで価値を創る!)ということをやっている。これを将来ビジネスにできるように日々奮闘中である。 とてもとても、楽しい。辛いこともあるけれど、それ以上にワクワクに満ちて充実に満ちている。 私は、皆がもっと日本(自分の国のこと)に当事者意識を持ち、一人一人が夢をもってワクワクに熱中できるような社会にしたい。自分が結果を出して、そういう生き方の楽しさを伝えたい。 話を戻すが、私はこう思う。 「自分は取り残されていない。」 そう思って、なんとなく毎日を送っている人こそが、実は“取り残されている人”なのではないだろうか。 さあ、これを読んでいる学生のあなたは、今の日本の環境問題や社会問題を言えますか?日本ってどんな国か言えますか??学べば学ぶほど、素敵な要素が出てくるのが日本です。ともに社会を創りましょう。

 

内藤藍璃 神奈川県立多摩高等学校

 

この小論文を書くことが決まったあと、「誰一人取り残さない」という言葉をテーマに皆で話し合うという授業が行われた。各々の実体験やニュースを見て考えたことなど様々な話を聞くことができたが、そのなかでも多く出たのは、いま社会問題になっている、男女差別の問題や高齢者に関することだった。私は話を聞いていてどうしても、実感のわかない、身近ではない、そんな違和感のようなものに苛まれた。確かに現代の世論を騒がせている男女差別、人種差別についても考えるべきなのだが、私達にもっと身近な場所で問題になっていることがあるのではないか。私は今から、病気でもない、障害でもない、しかし世の中で生きにくさを感じている人たちのことを話そうと思う。
HSPを知っているだろうか。HSPとは、「Highly Sensitive Person(ハイリー・センシティブ・パーソン)」の略で、「非常に感受性が強く敏感な気質もった人」という意味がある。視覚や聴覚などの五感で感じ取る刺激に対して敏感、人の感情などを読み取る能力に長けていて感受性が豊か、といった特徴を生得的に持っている人のことだ。
世界では、人口の15~20%もの割合の人がこのHSPに当てはまるのではないかと言われている。実際に、私の友人は、自分がHSPの気質を持つということを周囲に公言した。
公言するにあたって様々な葛藤があったことを、その友人が話してくれた。そのひとつが、「自分のHSPの気質などを周りの人に知ってもらいたいが、悪いようには思われたくない」というものだった。先述したような、HSPが人より過敏に感じてしまう様々な刺激に対しての不快感を、周りの人に少しでもわかってもらえたら、それだけでも今感じている生きづらさは改善されるのではないかと友人は話してくれた。では、「悪いように思われたくない」とはどういうことなのか。HSPはその人が生まれ持った気質であり、病気などではない。しかし、気質の違いについて周りの人に説明しようとすると、病気だと思われてしまうことがあるそうだ。HSPからうつ病に発展することが多いということも、精神病と勘違いされてしまう一因になっているのだろう。病気だと勘違いされたり、普通じゃない、気持ち悪いなどの差別視をされることを恐れ、自分がHSPだということを周りに言い出せない人も多くいるのだ。
では、その勘違いや差別視をなくし、HSPを周りに言い出せずにいる人や、生きづらさを感じる人が生きやすいと感じられるような世界を作るにはどうすればいいだろうか。私は、世界中の多くの人が持っているこの気質を、皆が理解し受け入れることが大事だと思う。社会問題になっている人種差別などの抗争は、肌の色、目の色、文化などのなにかが自分たちと違うと言うことを受け入れないことが原因になっていることが多い。HSPの気質を持つ人々が勘違いを受け、差別的な視線を向けられるのも、周囲の人達が自分との違いを理解できずに、自分たちの生き方や考え方、感じ方を彼らに求めてしまっているからではないか。HSPがどのようなものなのかをきちんと理解できれば、勘違いはなくなり、差別も格段に減るだろう。
私は、友人や、他のHSPに対する悩みを持つ人など、誰もが取り残されることなく生きやすいと感じられる世の中を作りたい。私の友人は今、身近な人へ向けての説明を中心に、自分が持つHSPの気質について知ってもらう活動を始めようとしている。私はHSPの気質は持っていはいないが、客観的な視点から彼らへの理解を深め、できる限り友人の活動をサポートしていこうと考えている。私達が考えられていないだけで、実は気づいてほしいと思っている人がこれを今読んでいるあなたの周りにもいるかも知れない。皆が少し周りに気を配り、自分とは少しだけ違う人たちのことを考えれば、世の中は少しずつ変わっていくのではないかと私は信じている。

 

徳田乃ノ香 白鵬女子高等学校

 

ふと過去のことを振り返ると、私は取り残された経験がぱっと思いつかないなと思いました。これは私が鈍感だからなのかと考えましたが、いつも私は取り残されてると察したら、視点を変えたり、その場から離れていたからだと思います。環境に恵まれていたのかもしれません。

「取り残される」というのはどういうことか。
仲間外れにされたり、身体に障害があり超えていけなかったり。
“思いやり”や”優しさ”を持とうといいますが、確かにSDGsを達成するには必要です。
ですが、果たして全員が全員”思いやり”や”優しさ”を持つことは不可能に近いのではと思います。もしほんとに実現させようとすると、そういう心を持たない人は消してしまわなければなりません。それはあまりにも理不尽極まりないですよね。
誰ひとり取り残さないという目標なのに、誰かを取り残してしまう。ならどうするか。
例えばクラスの中でリンゴとバナナどっちが好きか聞くと必ず分かれると思います。
リンゴが多数の場合、バナナの人は取り残されてることになるんですか?
全部が全部という訳では無いですが、取り残されている人は自分でそう思ってるだけで、見方を変えると案外そうではなかったりします。考え方が違うんだなと私だったら思っちゃいます。
“思いやり”や”優しさ”が無かったとしてもそういう人がいるんだな、考えが違うんだなと理解することが大事なのではないでしょうか。
SDGsの目標を達成するには”理解すること”が最重要だと思います。
例えば女性差別。
この仕事に就きたいのに女性はダメだと言われる。これだけ聞くと、女性が差別されていると確かに思います。でもそれが体格的に女の人ができない仕事だったらどうでしょう。これは性別とか関係なく、物理的に出来ないということになります。もし筋力や体力がある女性なら文句を言ってもいいと思います。差別されたと言う言葉をよく聞きますが、私は本当にそれは差別されていたのかと疑問に思うことがあります。ある程度、自分の能力を理解し、自分の障害を確認するべきです。この障害があるから自分にはこれをするには難しいんだなと理解するべきです。ただ理解と諦めは違くて、この障害があるからこのことをするには自分はこうしなきゃいけないと考えを変えるのが大事です。
障害があることを嘆いても時間の無駄です。
不平等さはあっても、人それぞれに障害はあります。

「取り残される」とはどういうことか。私は障害を越えられないことだと思います。
その障害を超えるには他人の力は必要不可欠です。ですが、他人の力を使うかどうかは自分次第です。手を差し伸べてくれる人は絶対どこかに居ますが、その手を探したり取ったりするのは自分次第です。
恥ずかしいとか怖いとか、感情の障害を乗り越えるには自分自身を変えるしか方法はありません。だから私は「誰ひとり取り残されない」という目標に少しでも近づけるために誰かに勇気を与えたい。
1歩を踏み出すのはとても怖いし、その1歩の責任は全部自分に来る。
恐る恐るでもその1歩を踏み出してくれるきっかけになれるような勇気を与える人になりたい。私はある人に勇気を貰いました。だから私も誰かに与えたい。そしてまたその人が誰かに勇気を与えたいと思ってくれる日を夢見ています。ある人に授けられた勇気のバトンは今度は私が誰かに渡す番です。

 

 

頭山かのん 横浜隼人高等学校

 

 私は、SDGsの基本理念である「誰一人取り残さない」というのを達成するためには、取り残さない側はもちろん、取り残されない側も常に受け身ではなく能動的に動くことが大切だと考える。数多の目標を見ていく中で、取り残されないためには、リアルタイムで変動していく問題や対応策などに目を配り興味を失わないようにすることが重要だと感じた。いつまでも情報収集もせずに受け身のまま、何かをされることを待っているだけでは、急激に方針の変わる可能性がある情報の数々からいとも容易く取り残されてしまうだろう。なぜなら今では SNSも発達したために、この自粛期間中にフェイクニュースや根も葉もない噂などが飛び交ってしまう上に真に受ける人も一定数いたからだ。いつ情報が変わるか、また変わったとしてそれ本当に正しいものなのか吟味するためには、横流しにされた情報を受け取るだけではなくその真偽を確かめるために自ら動かなくてはならない。そもそも嘘の情報を流す側が一番悪いが、大して吟味もせずにあたかもちゃんとしたものとして扱ってしまう方にも非はあると私は考える。参照をしっかりと読んだ上で目にしていく情報を噛み砕ける力はフェイクニュース等だけでなく、SDGsのような、たくさんの情報が乗っていることにも言えるだろう。上辺だけで物事を考えるのではなく、何故それが目標として掲げられているのか、またその真意は何なのかをよく考えることが求められているに違いない。こういう内容において欲されているのは自分から考えよう、実行しよう、叶えていこうという能動的な態度なのではないだろうか。例えば私のようにこういった論文を強制的に書かされている人よりは、自ずからこの問いかけに対して取り組み、考え、文字に起こす人の方が評価される。そのように、押し付けられたから、そういった情報が来たから受け取ったという態度では何も変わらないと思う。「受け取った」という過程こそ大切で、そこを契機に何か変わるかもしれないという人もいるかもしれない。だが、過程があったとしてもその根まで掘り返せなければ、意味も確認しないまま過ぎ去ってしまったら意味はないのではないか。たしかに新たな情報たちに触れる、という行為は興味関心の全ての始まりなのだろう。しかし昔と比べて格段に情報が増えた今では、一つ一つに丁寧に触れていくということは困難だろう。その中でいかに積極的に動けるか。今日のさまざまな問題をまとめられたSDGsという膨大な情報たちのまとまりにおいては、そこで差がつくのではないかと私は考えるのだ。

 

藤木祐輔 宮崎公立大学

 

コロナ禍によって私たちは自粛せざるを得ない環境下に置かれた。外出自粛というのは私たちが自由に行動することに制約があるということである。
実を言うと「障がい者」は、特に先天的な障がいの場合は常に社会生活において制約があるという状況下と言える。
つまり、大袈裟な言い方かもしれないがコロナ禍によって「世間の万人が“障がい”を持っている」と言うことができるかもしれない。

「障がい者」と言っても形はさまざまであり、身体的なものまたは精神的なものであったりする。「障がい者」というといまだに多くの人が、特定のステレオタイプなイメージを持っているかもしれない。

「障がい」にもdisability, disorder, handicaps, impairmentがあり障がいの解釈は多様である。
この中でも「障がい」と言うと一般的にdisabilityが指されることが多い。
Disabilityとは身体的な機能の欠損をもつことから、社会活動の主流から排除され、今日の社会的組織によって生み出された、不利益及び活動の制約が生じるものとする。

このモデル・考え方から「社会的」によって生み出されたとも言える「パンデミックによる外出自粛」は不利益及び活動の制約ということができる。
「障がい」についてICFの考えのうち活動制限に着目する。「活動制限」とは個人が活動を行う際に生じる難しさのことをさす。「活動」の例としては、「学習と知識の応用」、「単一課題の遂行」、「複数課題の遂行」、「日課の遂行」、「ストレス等への対処」、「コミュニケーション」、「姿勢の変換や保持」、「物の運搬・移動・操作」、「歩行と移動」、「交通機関や手段を利用しての移動」、「セルフケア」、「家庭生活」、「対人関係」などの領域である。

このコロナ禍の外出自粛によって、会いたい時に人に簡単に会えない、公共機関へのアクセスの制限、日課におけるエクササイズの制限、ストレス発散活動の減少、学習・仕事環境の制約など「障がい」における活動制限を私たちは現在受けていることになる。

SDGsには「包括的」という言葉が多用されており、特に目標10「人や国の不平等をなくそう」の年齢、性別、障がい、人種、民族、出自、宗教、あるいは経済的地位その他の状況に関わりなく、全ての人々の能力強化及び社会的、経済的及び政治的な包括を促進する」とある。

この辛いコロナのパンデミック下の中で社会的に活動制限がある中で、ただ単に「大変だった」で終わらないように社会的制約があることがどのような状況なのか、再認識し「障がい」とはなんなのか、せっかくの機会なので見直し、そしてSDGs目標10などでも目標とされている「包括的な社会」に一歩近づくものでありたいと思う。
障がいあるなしにかかわらず、人権は守られるべきであり偏見や差別が解消され、平等な社会でありたいと願うばかりである。

<参考文献>

池田法子(2014)障害学の理論的展開

(インターネット)

https://www.mhlw.go.jp/shingi/2008/12/dl/s1210-6a_0006.pdf

https://www.borderlessart.or.jp/sdgs/

藤田裕佳 長崎大学多文化社会学部国際公共政策コース 3年生

 

 金子みすゞは、詩『わたしと小鳥とすずと』にて「みんなちがって、みんないい」と残した。では果たして、今、この世界は、それが当たり前の世界になっているだろうか。私はそう思わない。この世界では、「人と違う」ことは差別の対象とされ、世界から取り残されることを意味する。
 私は高校生の時に、ドイツに1年間留学した。そこで経験したのは、アジア人差別である。地元の高校の登校初日。「うわ!!中国人かよ!?」と言われ、指で目を吊り上げた顔をされ、「ニーハオ!!」とニヤニヤしながら挨拶された。授業もついていけない。「手伝って。これはどうしたらいいの?」と聞いても、誰も助けてくれない。留学が始まった当初は学校に行くのが苦痛でたまらなかった。そんな時、ある授業でペアワークを行った際に仲良くなった女の子が、「友達になろう」と言ってくれた。そこから、彼女が間に入ってくれて、クラスでの居場所ができ、次第に皆と打ち解けていった。授業で日本を紹介する時間をもらったり、浴衣をクラスの女子たちに着せてみたり。「どこからか来たアジア人の女の子」ではなく、「10年生Aクラスの、日本から来たユウカという女の子」として接してくれるようになったのである。
 この経験から私は、取り残されないためのヒントを得ることができた。それは、その人を集団の一人ではなく、個人として向き合うことである。差別や偏見というものは、「個人」を見ない残酷なものだ。世界から取り残される要素は人種だけではない。性別を理由に、独立した人格として見られない「取り残された人たち」も世界には存在する。人はみな、どんな性格をして、何が好きで、どんな夢があるのか、それぞれ異なる。それは、「○○人だから」「男だから」「女だから」という理由で分かるものではないし、このようなくだらない理由でその個人の全てを判断することはあまりに悲しいことである。
 そこで私が考えたのは、全ての国の小学校で、「世界中に友達を作ろうプロジェクト」を必須科目にすることである。このプロジェクトでは、オンライン上で全ての国と地域の人と繋がり、世界中に友達を作ることを目的とする。科学技術が発展し続ける現代では、世界中の人たちとオンラインで繋がることが容易にできる。また、自動翻訳機能もどんどん正確性が増している。繋がったら、会話をするだけ。名前は何か。母国はどんな国なのか。何が好きなのか。嫌いな教科や趣味、将来の夢。会話をしていくうちに、おのずと自身との共通点を見つけることができる。それは、言葉や人種、住んでいる場所は違っても、同じ一人の人間であること。このことを小さな頃から気づくことができれば、人種差別は少しずつ消えていくのではないだろうか。
 このプロジェクトでは、小学校1年生から3年生までのSTAGE1、4年生から6年生までのSTAGE2に分ける。STAGE1ではクラス単位での交流をまず実施する。低学年の子どもたちは電子端末の扱い方や情報モラル、リスクへの知識がまだ十分ではないので、個人で交流するのは難しい。そこで、教員主導でプロジェクトを進め、クラス単位で各国に「姉妹クラス」を作り、交流する。STAGE2では、個人での交流に焦点を当て、それぞれの国で最低1人は友達を作ることを目指す。
 このプロジェクトには2つのサポートがつく。1つ目は、教員のバックアップである。「繋がって友達ができれば終わり」ではなく、教員が世界中に友達を作ることの意味や何を感じたのか、ということをフィードバックする。2つ目は、初めて話す人と友達になるのが難しい、という子どもたちのためのサポートである。そのような子どもたちには、あらかじめ趣味や興味分野がある程度同じ子どもたちをマッチさせることで、不安要素を少しでも取り除くことができると考える。このような国境を越えた交流、理解の促進に必要なアプリを作成することは、技術的にはそれほど難しくはないだろう。あとは教員の協力がどれだけ得られるかである。
 現在、世界規模での新型コロナウイルスの感染拡大をきっかけに、欧米諸国でのアジア人暴行事件や人種差別発言が目立つようになった。感染源が中国であるので、抑圧された生活を強いられることへの不安をアジア人に向けているのであろう。このような状況も、個人を独立した存在として見ていないことが原因である。人種差別をするような人は、世界に友達がいないのだ。一人ひとりを友達として認識し、個人を見つめることができれば、その人をただの人種という見た目で判断しないと考える。世界中に友達を作ることは、全員が同じ地球人であることを今一度確認し、誰一人と孤独と疎外から取り残されない世界を築く一歩になるだろう。

【参考文献】
・金子みすゞ,「わたしと小鳥とすずと」,2020年10月,『金子みすゞ童謡集 わたしと小鳥とすずと』,フレーベル館.

 

藤沢颯太 東大和市立大二中学校

肉の消費が世界を壊す

皆さんは牛丼いっぱいに使われる水の量を知っていますか?
答えは1300ℓです。その他にも、ハンバーガーを一個作るのに1000ℓ、牛肉40gを作るのの930ℓの水が使われています。輸入した食料を自国で作ったときに必要と推定される水のことを「バーチャルウォーター」というそうです。そして食料の60%を輸入に頼っている日本のバーチャルウォーター輸入量は年間約60兆ℓと巨大な量になっています。つまり私たちの生活は言うまでもなく水によって成り立っているのです。
2050年には世界の人口は98億人にまで、増加するといわれています。人口が増加すれば当然水を使用する人の数も増え、それらの国では今以上に水は貴重な資源になると考えられます。水不足が深刻化すれば食料の生産も難しくなうでしょう。これは食料の60%を
輸入している日本にとっても無関係な話ではありません。
 また水が不足していくと、国際河川の重要度が高まってきます。河川の上流の国が水を使えば使うほど、下流地域では水が枯渇し国家間の紛争にも発展しかねません。実際に歴史を振り返ると文明は水が豊富な川の近くで起きています。アメリカやインド、パキスタンなどでも紛争が起きています。このまま水問題を放置したら日本は食料の面で世界から取り残されてしまうのではないでしょうか?そのようなことから私はこの水問題に対して2つの提案をします。
1つ目は自国で作られたものを食べるようにするということです。身近なものではスーパーにある地域で採れた食材が売られている地産地消のコーナーから食材を買うということができます。普段買い物をするときは輸入品だけを買うのではなく、地産地消ができるものを買うことによってバーチャルウォーター輸入量を減らし、他国での水消費量を減らすことができます。
2つ目は肉の消費を減らし、野菜を食べる量を増やしていくということです。肉は作るのに多くの水が必要ですが、野菜は肉の5%くらいの水で作れます。つまり野菜を積極的に食べることで水の消費量を減らすことができます。しかし、いきなり毎日肉を食べないということは辛いことです。だから我が家では週に一回肉を食べない日を作っている。それならあまり辛くもなく、簡単に水の消費を減らすことができるます。ただ、肉を食べない日を作るためには家族の理解が必要です。肉の消費を減らすことが世界にとってどのような影響を与えているか、肉の消費を減らさないと自分たちの生活がどのように変わっていくかを身の回りの人に伝える必要があります。
 私は水不足をおこさないために最も重要だと考えていることは一人一人が水不足について知るということだ。「一人一人が世界の現状を知っていうことが大切だ」これは青年海外協力隊としてベナン共和国で活動していた中一の頃の担任から教えてもらった言葉だ。知識を持たないと関心もわかず、何をすればいいのかもわからない。SDGsを学ぶことは国連が掲げる「だれ一人取り残さない世界」という目標を達成するために欠かせないことである。資源は無限ではありません。いつ無くなる可能性が有ります。地球の持続を考えた行動が持続可能な世界を作っていくだろう。

藤井結衣 静岡サレジオ高等学校 3年生

 

ストローやビニール袋が体に刺さったウミガメや鳥などがニュースで取り上げられたことをきっかけに世界中が注目している海のプラスチック問題。プラスチックを使い捨てることで排出されるCO2による気候変動。“誰ひとり取り残さない”。プラスチックごみは様々な社会問題との因果関係が存在する。そこで日本では、2020年7月1日からレジ袋有料化が始まった。レジ袋有料化からもう1年が経過するが、マイバッグを常に持ち歩くという新たな習慣ができたと実感する。又、エコストローやマイボトル運動など、脱プラスチックへの取り組みがまた一段と高くなってきている。
しかし、プラスチックごみ問題に対する世界の認識がますます強まっているのに反して、新型コロナウイルスの流行により人々の生活が大きく変化した。数年前から世界中でSDGsが叫ばれ、日本でも最近になってメディアで頻繁に取り扱われている状況だが、コロナの影響でマスクを多く使い捨てるのが当たり前、いたる場所にアルコールのプラスチックケースや飲食店での感染防止のためのアクリル板、ビニール防護服を寄付することが良いことと見なされた実社会。脱プラスチックと言う割に、やはりプラスチックでなければというものもコロナの影響によりたくさん見えてきた。コロナによって社会全体でプラスチックごみが増えてきたのを身にしみて感じる世界となり、一体SDGsとは何なのかと捉え方を変えざるを得なく、私はとても困惑している。
日本のプラスチックごみの排出量は世界で2位であり、日本人口1人当たりの廃棄量はアメリカに次いで多いとされている。日本は非常にプラスチックを使いすぎているプラスチックごみ大国である。
数年前から探求してきたSDGsの本質を見失いそうな今だからこそ、コロナ禍でも大勢で取り組め、自分達で地球を守れると実感できる“何か”を、今すぐにやりたい!という気持ちに駆られて、昨年の自粛期間中にクラスの有志4人でチームを結成した。4人で話し合いながら見つけたのが、コンタクトレンズ販売会社である「アイシティ」が2010年に始めた使い捨てコンタクトレンズの空ケース回収事業で、この事業をより普及していくべきだと考え、<i>Projectを立ち上げた。静岡店店長に話を伺いに行くと、回収率は現在1%未満。しかしそれが東京ドーム1杯分相当になると分かり、大きなポテンシャルを感じた。ケースはPP100%(他社製も可)、PEとの分別不要の純度の高いリサイクル製品だ。幼小中高一貫の母校の構内8箇所と、外部入学者が繋いでくれた県内の中学高校に啓発ポスター・回収BOXを設置し、回収レースも企画した。また地域の民間企業・駅・大学等にも呼びかけて、これまでに8万個回収という予想以上の成果を出している。現在、私達が普及を進めているところでは回収することが新たな常識となった。小さな朝の習慣だけで世界を変えることができる。このOneActionが若者たちのかっこいい新習慣として広まれば、莫大な量のCO2を削減でき地球の未来を私たちの手で変えられるはずだ。認知されない空ケースとともにその可能性が捨てられている。私達の目標は、静岡県内回収率100%だ。もったいない!もっと早くもっと広く―私達はその情熱を発信し活動している。
毎日の“捨てる”を“リサイクル”に。捨てるのが当たり前の常識を一つずつ変えて、新しいパラダイムシフトを起こしていく。このように環境を整えることが、“誰ひとり取り残さない”世界の実現に繋がるのではないか。<i>Projectは、毎朝2個必ず捨てているものが環境破壊に終止符を打つ可能性を秘めている。この活動はコンタクトレンズをしている人はもちろん、コンタクトレンズを使用してない人でも周りの人に広めるということで簡単にSDGs活動に参加できる。つまりどんな人でもちょっとした心がけでできる活動なのだ。生活の中にはまだまだそういうものが隠れているに違いない。それらを見つけていくのが、これからの地球に住む我々のミッションだと私は強く思う。

 

S 中学1年生

 

  私は 、今回のコンテストのテーマである、誰も取り残さないとは、「助け、助けられる関係」を築くことだと考えました。それは、誰でも取り残される可能性があって、それぞれができることを生かして、できない人をフォロ―すれば取り残される人はいなくなるという考えです。
 例えば、貧困に困っている人を先進国や、私のようなSDGsに興味を持っている人々が助けます。私の学校で、毎週金曜日におにぎり弁当が実施されています。それは普段、お弁当にいれるおかずをいれず、おにぎりだけを昼食にします。そして、おかず代の50円を毎回寄付しています。ここで集られた寄付金は、フィリピンの子どもたちの奨学金になります。この活動では、貧しい暮らしをしている人の気持ちや、空腹のつらさを体感します。私の場合、ふだんのお弁当の量でも、夕方になるとお腹がへるのに、おにぎり弁当の日は、6時間目の授業中や、部活動の時間になるともう、お腹がすいてきます。いつもこのようなまたは、これ以上の空腹をかんじている人が世の中にはおられることを少し感じることができます。
また、この活動では、おかず代の50円を毎回寄付しています。ここで集られた寄付金は、フィリピンの子どもたちの奨学金になります。フィリピンでは、こどもの貧困率が高く、貧困ライン(l人あたり月3900円)以下で生活する17才以下の割合が31.4%です。(出典・国境なき子どもたち・2018年度活動報告書)。奨学金を得ることで教育を受けることができ、自らの道を自分で切り拓くことができる!私たちも、その奨学金を受けた人たちが送ってくださった感謝の動画を見て、「こんなにも役に立つことをしているんだな。」「これからも続けていこう。」と思いました。
私たちはフィリピンの子どもたちが教育を受ける為の奨学金を支援し、フィリピンの子どもたちからは、多くの元気をもらいました。これは、「助け、助けられる関係」の1つだと思います。
 私は小学生の頃からSDGsに興味を持っていました。貧困に苦しんでいる人を助けられる行動をしたいと思つていましたが、なかなか思うようにはいきませんでした。中学に入り、おにぎり弁当などの活動を行えるようになり、とても嬉しいです。これからは、まず小さなことから行っていこうと思います。特に、いつも私を見守ってくれている祖母の手助けをしていきたいと思います。祖母は、私が勉強をしていると夜食を持ってきてくれたり、母と対立した時に話を聞いてくれて気持ちを楽にしてくれます。そんな祖母を助けられることもあり、祖母にマッサージをしてあげたり、高いところにあるものをとってあげたりしています。このような私と祖母の「助け助けられる関係」を、これからも続け、生活していきたいです。
 それぞれができることを生かして、できない人をフォロ―すれば取り残される人はいなくなるという活動を自分自身が実行し、広めていきたいと思います。

 

藤井龍平 岡山龍谷高等学校

 

私は世界で差別を受ける人を無くしたい。例えば、最近LGBTが日本で話題になっている。その理由として、同性が好き、などから差別が生まれることがある。私は同性が好きになることはおかしいことでは無いと考える。その理由として人が人を好きになることは普通な事だし、相手が同性だったとしてそれは仕方ないことだと考えたからだ。中にはおかしいという人や異性を好きになるのが当たり前と言う人がいるが、考え方を変えるとそのような差別は無くすことが出来ると思う。最近では、山谷えり氏がLGBTについて問題発言をニュースになった。私がそのような差別を無くすために出来ることは、周囲の人やインターネットで声をかけることぐらいしか出来ないが、その情報を理解し、またその人が周りの人に共有することでそのような差別を無くすことが出来ると考える。ほかにも自分が差別をしないよう意識するということも出来る。LGBTと同じような差別はもうひとつある。それは黒人差別だ。最近では警察が黒人を銃で撃つ事件があった。それはとても悲しい事件だ。肌の色が違うだけで差別を受けることはおかしいし、生まれつきだから仕方ないことだと考える。差別には沢山の種類がある。その大半は思い込みや他の人がしているからするなどが原因である。私はその事を疑問に思い考え直すことが改善する方法のひとつになると考える。そして差別を受けている人を理解することも必要だ。差別を無くすことでこの世の中がもっと住みやすく、人が嫌な思いをせずに暮らせるような世界になると考える。差別で言えば目標10の国内及び国家間の不平等をなくそうという目標も入る。この目標は人種差別を無くす取り組みも入っている。もちろん黒人差別の問題も入っているが、他にも少数派への差別や働いても稼げない不平等な現実などもある。そして、所得格差を無くすために作られたフェアトレードという仕組みが現在ある。このフェアトレードがある事で不平等な差別を解決することが出来ているが、不平等な差別について理解することが今後重要になると考える。最終的に差別は自分が行動しないと収まることはないということが結果だ。理由は、自分が行動しないと周りに伝達することや相手を理解することも出来ないからだ。相手を理解することで新たな発見が生まれることもあると考えるし、周りに伝達することで誰一人取り残さない世界を作るきっかけになると私は考えた。差別を受ける人を取り残さないために私が今考えたことにしっかりと取り組んでいき、差別を受ける人に対して自分で何ができるかを意識しながら生活していきたい。

 

藤有紗 横浜隼人高校

 

 私はSDGsが掲げる「誰一人取り残さない」世界の実現の為には貧困、格差、ジェンダーに対する開発計画が大切だと思っている。世界には100以上もの国が存在し、またそれぞれの国の強みと弱みを持っている。残念なことに私たちは強みの部分を目にすることが多いようだ。
 ニュースやメディアのような情報機関ではアフリカが「天然資源の宝庫」とされていることやアメリカが「他民族国家」であるなど強みがよく目立つ。実際にはどうだろうか。本当に私たちが見聞きすることがただしいのだろうか。日本で例えてみよう。海外メディアは日本は経済成長が早いことや人口が多いことがメディアを通して知られている。海外の子供たちも学校でそう学んでいる。
 私たち日本人はこのようなトピックに対してどう反応するだろうか。きっと昔は経済成長が早く素晴らしかったが今は衰えていると言える。また日本の人口は他国に比べて多いけれど他国よりも少子高齢化が加速しているのも現状だ。このような現状はニュースでしかその国の情報をしれない人には信じ難いだろう。
 だからまず最初に大切なのは現状を理解することだ。だが注目するのだけではなく意識することでやっと問題点が見えてくる。その問題に興味を持つことによって様々な記事を読み、ようやく弱みがよりはっきりと見えてくるようになる。このように誰一人残されない為にはもちろん意識することはとても大切だと思うが私は「行動」することが一番重要なことだと思う。実際には理解し認識する人はたくさんいる。だがその先に進めない人がほとんどだ。問題に対して行動し改善していこうとする姿勢がまだ足りていない。
 反対に考えてみよう。このような報道はその国での差別や格差を紛らわすものだとも思える。アフリカの貧困は皆知っているだろう。だが朝に放送されるニュースに報道されることは滅多にない。これは現実から目をそらしそのテーマについて深く関わろうとしないように捉えることができる。私たちがその国に行かない限り現実を見れないのも事実である。やはり行動し現実を知ろうとする意欲がないと誰かが取り残されることになる。問題は学校でのSDGsの勉強がまだ十分ではないということ。いくら興味があっても知識や背景を知っていないと行動しようがない。
 幼い頃から貧困、格差、ジェンダーなどのようなトピックについて考えることを学べばその子にとっては当たり前になる。これはやはり経済状態がよくない国で育った子供は特に不自由のない環境が育った子供よりも環境や社会を良くしていこうという取り組みに率先して参加する傾向があるというのと同じだ。だから私は「誰一人取り残さない」世界の実現の為にはまず子供により多くの教育をし、自分から行動できる力を養う必要がある。

 

筒井敬哉 岡山龍谷高校

誰ひとり取り残さない

私は[誰ひとり取り残さない]という事に対して、現実的に不可能だと思う。どの学校、どの会社であっても、必ずしも1人という、存在に陥ることがある。状況下が違えど、[誰ひとり取り残さない]という事に関わることがある。
事例をあげると、日本は学校に通っている学生のうち自らの命を絶つ学生は少なくはない。誰ひとり取り残さないのであればそのような事例は発生しないと思う。日本の若者のうち、約30%の人が1度は自殺を考えたというデータがある。このことから、誰ひとり取り残さないという事は不可能だと考えられる。また、学生の自殺の原因としては、進路関係、親子間での関係、学業不振など例え、関わりのある人物がいれどこのような事例は今後も起こり続けると思う。今現在、流行している新型コロナウイルスに関しても、1度感染しただけでSNSによってデマ情報や個人情報を拡散している事例がある。これより、集団から個人への攻撃とも言える。だから、[誰ひとり取り残さない]という事に対して、一人一人の価値観が食い違っている限り、この[誰ひとり取り残さない]という事は不可能だと言える。
[誰ひとり取り残さない]という事に対して、一般的に不可能だという人が普通だろう。この世の中は、人と人とが共存しあい互いに支え合う社会づくりをしている。その固定概念が消えることはない。しかし、少しでも不可能を可能にすることはできるだろう。例えば、現在コロナ禍で医療従事者が協力してワクチンの製造、接種の活動をしている。また、募金活動や1人でもコロナ患者を減らすための活動を世界中で行っている。世界で活動している医療従事者から国民一人一人まで、世界の一人一人がコロナを終息させるために協力している。これは[誰ひとり取り残さない]ための活動と言っても良いだろう。これらより、[誰ひとり取り残さない]という事に対して可能とも言えるだろう。また、環境や状況下だけでなく、人とのコミュニケーションがなかなか取れないこの世の中だからこそ、現在、人と人とが協力し合い、ひとりを作らず、他人と強調しあい、そして共に共存することが重要だと思う。
冒頭にも述べたように、私は[誰ひとり取り残さない]という事に対して不可能だと思っている。私はこの世の中に孤独を感じている人が減ることはないと思う。だから[誰ひとり取り残さない]という目標は実現出来ないと思う。

 

東綾乃 横浜隼人高校

 

 2020年初頭から、私たちの生活は大きく変化した。新型コロナウイルスである。アジアから、瞬く間に世界中へと感染が広がっていった。人々は不要不急の外出を制限され、人と会うことを避け、経済がうまく回らなくなった。マスメディアによると、インドでは、1日の死亡者数が6000人を超える事態となっているそうだ。また、医療の最前線で新型コロナウイルスと戦っている医療従事者、1200人もの方々が感染して亡くなっているという。私はこのような現状を知り、胸が裂けるような思いだった。
 こんにちの日本では、初めて緊急事態宣言が発出された昨年4月よりは感染者数が減少傾向にあるが、まだまだ予断が許されない状況である。では、どうしたら、感染者数を極限まで抑え込むことができるのか。感染を早く食い止める、一番有効な方法は、今、世界中が取り組んでいる、ワクチン接種だろう。アメリカ政府のコロナ専門家によると、人口の70%から90%が免疫を持つことができれば、感染の広がりをかなり抑えることが可能だそうだ。つまり、言い換えるならば、すべての人がワクチンを接種しなくても良い、ということになる。しかし日本は、ワクチンを接種しなければ、職場から退職を迫られるなど、「コロナハラスメント」の問題が多発しているように思う。日本政府は、ワクチン接種を推奨はしているが、接種するかしないかという選択は、あくまでも本人が決めることである。新型コロナウイルスワクチンは、もちろん重症化を抑えられるメリットはある。しかし、体質によっては、アナフィラキシーなどの重いアレルギー反応を起こしてしまい、命に関わるリスクも同時に抱える人もいるのだ。この事実を踏まえると、皆が皆、同じ体質であると考えてはいけないことが分かるはずだ。ワクチン接種を受けないのは、何か理由があるということ。それにも関わらず、接種を強制し、個人の自己決定権を侵害されることは絶対にあってはならない。
 新型コロナウイルスの重症化を避けるため、悪気なくワクチン接種を強く求める人が多いだろう。しかし我々は、「みんな接種することが当たり前」という既成概念をすぐに捨てるべきである。そして、前述にあるように、人口のある程度の人数が新型コロナウイルスの免疫を持っていれば、ワクチン接種を受けない人も守ることができるはずだ。今、世界中が苦しい状況に陥っている。だからこそ、私たちはすべての人と手を取り合い、優しさを持って行動しなければならない。その一人ひとりの行動が、コロナ禍でマイナスな気持ちを抱く人を誰ひとり取り残さないための、大きな一歩になるのではないだろうか。

 

嶋田琴羽 横浜市立橘中学校 1年生

 

皆さんはこの広告を知っているだろうか。「問題です。サラさんは、起きている時間の半分で家の手伝いを、残りの時間の2/3で妹の世話をします。6時間寝たとき、勉強は何時間できますか?学校へは、歩いて往復3時間かかるものとします。(1) 答えは「ゼロ」だ。私はこの結果を知って思わず計算してみた。彼女の睡眠は六時間。学校の登下校に三時間。これで彼女の一日は終わりだ。 さて、あなたはこの問題を見てどう思っただろうか。今、世界の五人に一人が満足に授業を受けられていない。(2)世界の人々は平等であるべきなのに、学校に行くことすらできないのは不平等である。今回は、SDGsについての作文を書く機会を頂き、このような問題を知った。そこで私は、この問題解決方法を二つ考えた。 一つは世界の教育の現状を知ること。そうすることで、今世界がどのような事で困っているのかを知ることができる。 「知っただけで何が変わるの?」と思った人もいるかもしれない。しかし、知るだけで世界の見方が変わり、何かしようと思う人が少しでも増えるのではないだろうか。そのために本や新聞を読んでみるのもいいだろう。 二つ目はリユース文庫に募集することだ。「リユース文庫に預けるだけで、世界の何が解決するの?」と思った人もいるだろう。けれども、最初から世界の問題を解決しなくても、身近な人のお手伝いを少しずつするのもいいだろう。読まなくなった本は捨てずに、リユース文庫に預けるのは良い考えだ。何もやらないより、ずっと良いと私は思う。 SDGsは日本も含めた、世界各国の政府が「持続可能な開発目標」を達成できるように作ったものである。しかし、この目標を達成させるのは、私達だ。私自身、あなた自身が、先程のような現状を知り、行動に移さなければならない。
 出典(1)ACジャパン/セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン
 (2)UNICEF ジェンダーの平等

 

匿名 大学

 

土井咲子 東大和市立第二中学校

「これからの時代の女性像」

「120位」
この順位は、世界経済フォーラムが2021年に公表した各国の「男女格差」を図るジェンダーギャップ指数である。私はこの順位に驚いた。学校生活の中では、男子と同じ授業を受けていて、意見も同じように扱われるので男女に差があるということを感じなかったからだ。なぜ日本はジェンダー平等について評価が低いのか、私を待ち受ける社会にどんな「差」が存在するのか、自分の問題として「ジェンダー」に向き合うことにした。
調べ始めて分かったことは、問題視されている差が「機会の不平等」だということだ。その中でも私が注目したことは「大学入試」だ。私も将来は大学に進学したいと思っている。男女に明確な学力の差はないが、受験者に男女の差があり女子の比率が低くなっていることが分かった。先進国の日本の中にも未だに、「女性に学力は必要ない」というような風潮が残っているのかもしれない。また、海外では「女の子だから」という理由で小学校に行かせてもらえない子も多く存在する。でも、悪いことばかりではなかった。ジェンダーについて良くなってきている部分もたくさんあった。例えば、私の母の時代では男子は技術の授業を女子は家庭科の授業を受けていたり、出席簿が男女別になっていたり、教育の過程で「なんとなく」女性は家事をして男子は働くイメージが生まれ、女性の就く仕事が知らず知らずのうちに狭められてしまっていたが、現代の私たちは男子も女子も全く同じ授業を受け、興味を持てる幅が広がっている。また、男性の育休取得率は6.16%と落ち込んでいるものの育休を取りたいと考えている新入社員の男性は67.6%と半数を超えている。このように、世の中は確実にいい方向に向かっているのだ。そして、少しずつでも根付いた「文化」と「風習」を変化させていく必要がある。
ならば私たちに何が出来るのか。まず、ジェンダーの促進のためには男性の協力はもちろん必要だが、女性側の意識の向上も大切である。中には不平等に気が付いていない女性もいる。だからこそ、今社会に出る前にジェンダー平等について学ぶことで全ての女性がしっかり自分の意見を表現できるようになるのではないか。私は今、学級委員を務めている。学級委員会の中ではSDGsの達成に向けて何ができるのかを「ジェンダー」の視点から先生も交えて話し合ったりしている。「男らしさ」や「女らしさ」など「こうあるべき」という常識にとらわれることなく、みんなが多様な考えを受け入れられるように、委員会を通して身近なところから発信している。
これからの時代の女性は女性であることを引け目にとらず、自分自身をありのまま体現できるようにする必要があると思う。そのための男女関係なく能力のある人が評価される仕組みが先進国で整えば、またジェンダー平等の達成が遅れている国にも、その輪が広がっていきやがて世界全体につながっていくはずだ。そして、「誰一人取り残さない社会」を作り、「誰もが輝ける社会」を作っていきたい。私はその最前線を走っていきたいと思う。

 

渡邉水晶 横浜国立大学

 

「誰ひとり取り残さない」 そんなことは本当に可能なのだろうか。SDGsの基本理念であるこの言葉に私は違和感しか覚えない。コロナ禍によって格差が広がる中で、先進国においても格差は広まりつつある。私はこのままではだれ一人残さないということは不可能ではないかと考える。
私がそう考える理由として、相対的貧困の顕在化されにくいという問題がある。その問題の原因として、生活が苦しくてもそれを悟られないように無理に振る舞うことや、金銭的に塾に行けないが生きてはいける状態にある人は、貧困であることに周囲が気付きにくく、助けにくいことがあげられる。これは自助努力が求められ、生活保護が必要な人でもサポートを求めにくい現状によるものだ。その自助努力の機運が日本では強まってきており、現にコロナ対策の一環として行われた給付金は、当初「収入が著しく減少し、厳しい状況にある家庭に限って1世帯あたり30万円を給付する」としていたものが、世論に押された形で一律10万円給付へと変更となった。これにより本当に家計状況の深刻な単身世帯や、2人世帯に給付される金額が減少する一方で、金銭に余裕のある家庭までもが給付を受け取る結果を生み出した。そうして必要な公債支出は約4兆円から約12.8兆円に膨張する一方で、収入の減少した彼らへの生存保障機能の弱まりが起こってしまった。このように、本来あるべき弱者救済のための社会保障制度は崩れつつありながらも、依然として貧困の理由を当人の努力へと求める世論が多い。この体制によって、ますます相対的貧困は見えにくくなっていってしまうだろう。
加えて、貧困の連鎖性が問題としてある。日本は比較的豊かな国であるが、OECD37カ国中第7位という貧困率の高さである。相対的貧困にある家庭では、経済的事情から必要品の購入や修学旅行費が大きな負担になるため、進学をあきらめることもある。学歴社会といわれる日本では、高卒者の月給は大学以上卒の6割程度と落ち込みむように、貧困を理由に進学をあきらめることで、非正規雇用されやすかったり、給与の低い職に就きやすくなってしまったりすることで、結果として貧困は次世代へと連鎖する。これを断ち切るためには、教育機会の均等が必要であるが、日本の支援は十分とは言い難い。実際に、いまや大学進学率は7割を超え、当たり前ではなくなってきているものの、生活保護世帯ではその半分程度だ。ここへのサポートなしでは、貧困がなくなることはない。
相対的貧困は日本の大きな問題であるにも関わらず、見えにくいために貧困者を取り残してしまっており、今のままでは誰ひとり取り残さないという目標は達成されない。私は決してSDGsの基本理念に反対したいわけではなく、このままでは解消することのできない問題であるという立場である。よって私自身、貧困者への支援の仕組みを改めて考えなおすだけでなく、自助努力ばかりを求める考えを正しい情報を適切に伝えていくことでその解消につなげたいと思う。

 

渡邊彩帆 横浜市立橘中学校 1年生

 

今回私は、SDGsについて調べた。その中でも12番の”つくる責仕つかう責任”を主に調べた。
最初に12番の目的を説明する。持続可能な生産消費形能を確保すること。それが12番の目的だ。持続的開発を阻む要因の1つには、食品廃棄や有価物の投棄などの資源の浪費があげられる。少ない資源で、良質でより多くのものを得られるように生産や消費ができる形能を12番では求めている。
そのために、生産工程での廃棄物の発生の抑制や他の人へのリサイクルなどの呼びかけや、実際に行動されることが不可欠となる。他にも、産業界やメディアなどを総動員することで、持続可能な生産と消費の形を作っていくことを目指している。
そのターゲットとし、2030年までの天然資源の持続可能な管理と効率的利用、廃棄物の削減、化学物質などの放出の低減が謳われています。ほかにも、開発途上国への科学・技術分野への支援も定められている。
持続可能な消費や生産のために私達ができることはなんだろうか。考えてみよう。
1番大きく取り上げられるのは、食品廃棄。食品ロスと言われるものだ。世界全体で食用農水産物のうち、約3分の1が消費されずに廃棄されている。私達の生活の中では食べ物を買いすぎず、買った食材を使いきり、調理した食べ物を残さない。ということが大切である。
また「3R」も大事になってくる。日本は2000年を境にリサイクル率が増え続けている。そのおかげで2012年には、20.4%に達している。しかし世界的には日本よりも韓国やオーストラリアのほうがリサイクル率が高い。そのためリサイクルへの取り組みがさらに必要である。
また、クローズド・ループ・システムへの取り組みを進めている業者もいる。クローズド・ループ・システムとは、市販で販売した製品を使用後に回収し、部品を再生。あるいはリサイクルすることで埋立地に送る廃棄物をできるだけ抑制する取り組みだ。このような廃棄物の抑制や再利用も今後はさらに促していくことが、12番の目標達成には不可欠となる。SDGsの目標12番”つくる責任つかう責任”は、持続可能な生産消費形能を確保することだ。現在やっている取り組みには、活動資金や人材が足りていない。そこで、無理のない範囲であなた1人の力を貸してほしい。

 

渡邊里佳子 横浜国立大学 1年生

 

日本では少子高齢化による労働人口の不足を補うため、外国人労働者を積極的に迎えようとする政策が話題になった。外国人労働者は単身で日本に来ることもあれば、家族とともに日本に移住することもある。
 大学の講義で、親とともに日本に移住した人の話を聞いた。来日当初は家族全員が日本語を話すことができない状態だった。しばらく過ごすうちに日常会話程度の日本語はできるようになったものの、編入した学校の勉強のスピードに置いていかれ、また日本人との身体的な差異からいじめにあったりしたという。さらに、親は日本語が読めないため、学校からのプリントの内容を理解できず、学校で使うものが用意できずに困ってしまったこともあったようだ。
 また、外国人労働者は低賃金で長時間労働を強いられることが多い。その点で、相対的貧困家庭となることが多い。日本語が不自由な問題とも相まって学校に必要な資金を納めることができない、また親子のコミュニケーションがうまくいかないという問題も発生してくる。
 このように、日本の社会を円滑に回すために外国人労働者やその家族が犠牲となり「取り残されて」いる。
 話は変わるが、今日、時代は大量生産・大量消費社会である。私たちは安価な製品を安易に購入し、それに魅力を感じなくなれば軽率に捨てる。大量生産が実現しているのはひとえに工場で長時間働く低賃金労働者のおかげであるとは夢にも思わない。今日、日本でも相対的貧困家庭の問題が話題となっているが、そのような家庭はこのような低賃金労働者が多い。私は、大量生産の需要がある限りこの低賃金労働者が犠牲となる構造は変わらず、相対的貧困家庭の問題は解決しないと考える。
 もちろん、外国人向けの社会福祉制度はある。しかし、その日の生活に精一杯の人々がその情報を探す時間を作るのは難しい。あるいは言語能力の不足のために情報が得られない場合もあるだろう。そのため、社会保障を必要としている人に福祉が行き渡らない問題がある。
 講義で話を聞いた人も、学童保育指導員に日本語を母語としていない人のための公立高校の特別枠の存在を教えてもらう前までは高校進学も諦めていたほどに生活は逼迫していたと言っていた。日本語の勉強について行けず、学費が安い公立高校に行くほどの成績がなかったからだ。この人は運良く周囲の人々に恵まれたために進学できたが、他の同じ境遇の人がそうとは限らない。日本は学歴社会である。進学することでより多い収入が得られることが多い。貧困から抜け出すには、お金をかけて進学するのが一番の近道となってしまっている。日本語を母語としない人々に向けて進学を手助けする制度はあるけれども、彼らがそのような情報を得られないのであればそれは無いのとまるで変わらない。「誰も取り残されない」世界を実現するためには、ただ闇雲に手を差し伸べて満足するのではなく、本当に助けを求める人々の目の前に差し出されなければならない。
 日本語は世界でも習得が難しい言語だと言われている。だからこそ、日本語が分からない外国人労働者やその家族への配慮は他の国よりもすべきだ。国籍や母語を問わずに均等に勉強の機会が与えられ、生まれや境遇が原因で進学を断念し労働することがないように社会保障を充実させることが、基本理念「誰も取り残さない」達成への第一歩だと私は信じている。

渡邊紗羽 岡山龍谷高等学校

 

私が「誰ひとり取り残さない」というテーマを聞いて思い浮かんだ事は、失業者が増えていることだ。連日ニュースで新型コロナウイルスの報道がされており、その中でも私は失業者の増加が印象に残っている。私は、失業者が増えているのは新型コロナウイルスの影響拡大による緊急事態宣言などによる外出自粛や、臨時休業により収入が減少したことが原因であると考える。
まず、失業者を「誰ひとり取り残さない」という事はとても難しいことだ。日本の失業者の数は総務省統計局のデータによると、2021年1月の時点で完全失業者数は197万人となり実質的失業者を加えると約343万人が職を失っていることになる。宿泊業や飲食サービス業、小売業などコロナウイルスの感染防止対策による外出や営業の自粛で大きな打撃を受けた業種で雇用人数が減っている。特に影響が大きいのは非正規労働の雇用者だ。パートやアルバイトで働く人の減り方が大きい。そのため、企業は契約の更新の見送りなどで非正規から雇用調整を始めている。失業者の中でも女性が多い。その理由として営業自粛要請を受けた職種では女性の非正規労働者が占める割合が高く、就業構造的に見ても影響を受けやすくなっているからだと考えられる。また、高齢労働者も減っている。高齢者は免疫力が低いことや元々心肺機能が低下していることでコロナウイルスに感染したときに一気に重症しやすくなり肺炎などによって死亡してしまう人が少なくない。だから、高齢者がコロナウイルスに感染しないようにするために高齢労働者の失業が増えているのではないかと思う。日本は世界と比べると失業率が低い。日本では法律によって労働者の雇用が守られているからである。しかし、雇用が安定している引き換えに高い賃金と良好な労働環境は失われている。これはコロナウイルスだけでなく、少子高齢化も関係していると考える。人口が減少しているため労働者の需給を人数ではなく業務量で調整しようとしているため長時間労働を強いられている。この問題が改善しないのは消費税の増税などに対して反対する人が多いからだ。店への補助金はあっても経営するには足りないため失業者が増えてしまっている。つまり今の国の経済状況では実現することは不可能だ。
そこで私は3つのことを提案する。1つ目は全ての企業に持続的な協力金を支給することだ。なぜなら、今は一時的に支給されているため家賃や人件費などを支払うことができず、店を畳む人が増加した。しかし、持続的に支払うことによって問題を解決できると考える。2つ目は全ての企業に協力金を支払うことは国のお金が足りないので個人事業主に限定して協力金を持続的に支払うことを提案する。協力金はオリンピックに使用するお金を削減すればいいと考える。なぜなら、コロナウイルスの変異種がどんどん発見されワクチン接種が進んでいない中オリンピックを開催するのは感染者を増やすことになるからだ。3つ目は失業者した人に対して必要最低限度の食料などの生活必需品を支給することだ。飲食店などでは客が来なくなっているため食材が余っていることが問題になっている。だから、余った食材を失業者に提供したら良いと考える。

 

渡辺弓音 横浜共立学園高等学校 第2学年

 

 近年、日本では母国語が日本語でない子供が増えている。なかには、小中高生の年齢で初めて日本に来て暮らさなければならない人もいて、日本語の習得に苦労する人も少なくないと聞く。そこで私は、彼らが楽しく実践的な日本語が学べるように、独自の日本の漫画を全国の希望者に配布することを提案する。
 この漫画の特徴は主に3つであり、「親しみやすさ」「学生有志主導のプロジェクト」「楽しく楽に」に重点を置く。1つ目の「親しみやすさ」はまず、「日本への親しみ」を意味する。方法として、この冊子に今現在、日本で働いている母国語が日本語でない方々の協力の元、「日本あるある」の内容を入れることだ。「日本あるある」とは具体的に「初めて日本に来て大変だったこと」「知らなかった日本の文化·習慣」「日本の楽しい·面白いところ」「未だに日本で慣れないこと」などを想定し、それらを日本に来て数年たっている外国人の方々にインタビューし、内容をひとコマのシーンのイラストに収めるものがこの冊子のポイントである。初めに、日本にもう親しんで暮らしている方々の話をお聞きすることで、今学生である人々の孤独感を払拭し、共感性を高める狙いだ。また、教科書などの普段の教育面の[文章を使って日本語を覚えること]に合わせて、この冊子では一コマのイラストに一文程度の文(日本語と母国語それぞれ)を用い、[会話のワンシーンで覚えてもらうこと]でより日本語や日本文化に慣れ親しんでもらうことを期待する。さらに、日本語のみの冊子では、学習要素が強くなるように思えるため、母国語と併用してシーンを想像してもらう仕組みだ。
それだけでなく、この親しみに関しては「母国への親しみ」も深めてほしいと考えた。なぜなら日本に来て日本に親しむことと同じくらいに、母国への関心を深めることも大切だと考えたからだ。そのため、この冊子をきっかけに彼らが私達に母国の文化や伝統を教えてもらうことができたらなお良いだろう。

2つ目に、「学生有志主導のプロジェクト」の冊子にしたい理由として、日本人の学生の中には1つ目に述べたように彼らの文化を学びたい人、誰かの手助けをしたいと考えている人も多いと考えたことや、彼らは日本語を学びたい学生と同じ年代だからこそ、面白いと思える冊子を作れるのではないかと考えたからだ。
しかし、手助けをしたい学生の人々でも、機会が見つからなかったり、セミナーなどに参加するのに勇気がいる人も居ると考えられる。
そこで、この冊子のプロジェクトはSNSを中心に活動することを提案する。SNSで活動することで、気軽に、場所を選ばず参加できると思ったからだ。
また、SNSで繋がることで、日本の学生が彼らの母国語を学ぶ機会も同時に作れるだろう。

3つ目として、「楽しく楽に」というキャッチコピーはこの本の根底に置きたい言葉だ。私は高校生として英語を学習しているが、学校で教材を使ったりテストをして学ぶことは、とても大切であるし、十分力になるとは分かっているのだが、どうにも「学習」と考えると苦痛に感じてしまう。しかし、他国語の映画を見たり、本を読むと新しく言語を「手に入れる」楽しさを感じられる。(一概に映画や本だけで正しい他国語を学べるわけではないので、自分が楽しく覚えることに重きを置く)
ゆえに、この冊子はイラストを多くすること、内容が面白い(笑えるようなもの)、母国語でも文を書きストレスにならないようにすること、などの構成にしたいと考える。しかし、一人で作るには視点が凝り固まってしまうし、面白い冊子、とは言えないものができるだろう。そのため、先程述べたように、学生有志の人々や日本に住まわれている外国人の方々など、なるべく多くの人に協力してもらいたいと考える。
 私が今まで読んできた本や記事などにおいて、「自身のアイデンティティの喪失」と「境遇を悩んだ経験」が必ず書かれていた。しかし裏を返せば彼らは2つの国に親しむことが出来るのだ。そこで、この冊子により彼らが、自分の立場の豊かさに気づけて、むしろ楽しめるようなきっかけになれば良いと思う。
以上の点を踏まえ「誰ひとり取り残さない」というテーマの身近なスタートの一つとして日本のマンガを作成することを、提案する。

 

渡部大河 横浜隼人高等学校

 

私はSDGsの理念「誰1人取り残さない」という理念で活動して、効果を出すには、まずSDGsの活動のことを色々な人に認知してもらい、よく知ってもらう必要があると思います。みんながSDGsの活動を理解してないと、元気な一般の人が得することばかりで、障害者、外国人、高齢者などの人が取り残され、誰1人取り残さないという状況は作れません。SDGsの活動を知らない人や障害者、外国人、高齢者などが置いてかれるばかりです。2020年末のあるサイトの調査で日本でSDGsを知ってる人は約50パーセントと多くありません。2015年に採択されてから、5年以上が経った今でも半分は知らない状況です。実際に自分の家族の中にも知らない人がいて、聞いたことあるけど意味はわからないと言ってる人もいました。また、SDGsを知ってると答えた人でも18の目標全て知ってる人は少ないです。またSDGsの18の目標や具体的な取り組みは自分も調べるまでほとんど知りませんでした。そういった状況では自分が何をしたらいいかもわからず、取り残される人が出てくる一歩です。そこSDGsを正しく理解してもらい、誰1人取り残されないような活動が行われていくにはは、もっとSDGsが目に入る機会が増えることがいいと思います。私が毎日通学に使ってる鉄道会社はSDGsをアピールする電車を運行しています。外装は横全面ににSDGsのラッピング。車内に入ると電車内の広告すべてがSDGsで車内のモニターにはずっとSDGsのCMが流れていました、初めて乗った時に衝撃を受け、衝動的にSDGsに興味を持って、手に握りしめていたスマホでそのままSDGsを検索したのを覚えています。今では運が良いのか一週間か二週間に一回はその電車に乗る機会があります。乗るたびに車内の広告を見続けていたら自然に覚えていったSDGsに関する知識がいくつかありました。自分のようにそのSDGsの電車に何回か乗車し、SDGsに興味を持った人は他にも多かれ少なかれいるはずです。SDGsの電車は1編成しか運用されてないそうですが、もっと多くの電車、電車だけじゃなくて、バスやタクシーなどの交通機関にもっとSDGsの広告を取り入れて、人々の目に入る機会を増やしていくのがいいと思います。また学校でSDGsの教育をもっと取り入れるべきだと思います。教科にしてテストも行い、成績が出てもいいぐらいです。そうすればSDGsを勉強する機会が増え、もっと理解が深まって現状を把握でき、誰1人取り残されないような色々な取り組みや活動を考え、行動する人がこの先も増え続けていくはず。そしてSDGsのゴールに誰1人取り残さないという理念のもと近づけるはずです。

 

田中ひなた 東京女子大学3年 新居ゼミ

 

昨今のインターネット上で起きている様々な事象の中で、特に誹謗中傷については特に大きな課題であるように考えられる SDGsで課題になっている物事についても、そうでない日常の情報についても、大きなものから小さなものまで何かしら誹謗中傷がついてまわるように思える。匿名 だからこそ人を叩く人々もいれば、叩かれることを恐れて言いたいことが言えずにいる人々もいる 現状で、持続可能な社会を目指すにあたっては改善していくべき問題のひとつなのではないだろうか。
「取り残されてしまう人々」を掬いきれなかったり、対応が遅くなってしまうことなどの大きな原因 の一つに、誹謗中傷をしてくる人々によって出来上がった社会の目があるように思える。ほんの一 部の声であっても否定的なことを言われてしまうと大多数の意見に聞こえてしまったり、心に傷が とてもつきやすくなってしまうものだ。しかし、ここで視点を変えて「誹謗中傷をしてしまう人々」が取り残されている側であると考えてみようと思う。
今日までの教育や環境のまま何も変化を与えずにいれば、きっと今後の未来にも誹謗中傷をする人が出てきてしまうだろう。そのため、若い世代の人々に対しては教育面で変えていく必要があると考える。また、今の私たちが誹謗中傷をしていかない環境をつくっていくことが大切である 。
そして、今現在誹謗中傷をしてしまう人々に対してできることは何か、ということが大きな課題で ある。彼らはそのようなことをしてしまう理由は様々であるが、根本的なところは「書き込みをしている相手を生きている人間であるということを実感できていないということや、「互いを尊重する 心が足りていないということが挙げられると思う。誹謗中傷をしてしまう人々の中には、正義感であったり軽い気持ちでの「いいね」などによって無意識のうちに誹謗中傷に参加してしまっている人々もいる。そのような人たちは後に自覚することができている人もいるが、自覚せずにしてしまう人々に「相手が心ある人間である」ことを理解してもらえるような方法を考えていく必要があると強く考えた。無自覚に誹謗中傷をしてしまう人が現れてしまうひとつの原因に、心に対する教育が足りていなかったのではないかということが考えられる。流動的な人の心から発せられる様々な言葉や思想からマイナスなものを未然に防ぐというのはとても難しいことであるが、少しずつ改善していくことはできるだろう。まずは、同じ人が何度も人を傷つけてしまうような書き込みをしてしまわないように、一度でもしてしまったことがある人に向けてオンライン上で対面で話すなど活動をするワークショップをしてみるといいのではないかと考えた。そこから人々は考えが変わるのか、またどのような人が興味を持ち、どのような人が来るのか、などで見えてくるものがあるかもしれないと思ったからだ。
 また、誹謗中傷をしてしまった自覚がある人々には、相手に謝ることのできるサービスがあると良いのではないかと考えた。傷つけられた被害者の心を炎上したままほったらかしのことが多いように思えたからだ。
 インターネットが生活と切り離すことができなくなった今だからこそ、何をするに当たっても誹謗中傷が目に入るような社会は変えていきたいものだ。
 多様性を認め合うことが大事であるが、多様性という言葉を利用した言動で傷つく人が現れてはならない。そのために、他人のことを想いあえる、持続可能な社会に向けて考えて続けていきたい。

 

田村香菜子 フェリス女学院大学 国際交流学部

 

『SDGs』という言葉を最近よく目にする。3年前私が大学に在籍していた時に掲示板に貼ってあったり、大学の先生が授業で説明してくれたりした時よりも、遥かに今の方が世間に広がっていると感じる。メディアで取り上げられる機会が増え、様々な視点からSDG sに触れる事でその考え方は広がっていると感じる。その中で、取り残す・取り残されるという視点からSDGs について考える事は今まで私には無かった。

便利さや効率を重視し過ぎると、偏った世界になっていってしまうと私は思う。
テクノロジーやIT化が進む事で、私達の生活はより無駄のないモノへと進化したが、その一方で無駄の中から学べる沢山の事を忘れてしまっているのではないだろうか。生活しやすくなる事自体はとても良い事だと思う。一昔前の洗濯機や炊飯器や車などがない時代と今の時代を比べて生活の質が明らかに違う事は言うまでもない。ただ、何でもかんでも機械に頼る事で私達自身の能力は衰えていくだろう。古い物と新しい物のバランスをとっていくことが今後の課題になるのではないか。

誰一人取り残さないというのは、難しいことだと思う。ただ、沢山の選択肢があってその中のどこかに当てはまれば’取り残される’という事にはならないのではないだろうか。一人一人が自分から動く事が重要になる。その為には、様々な活動がある事をもっと広めていくことが必要なのではないか。知る事で興味が湧き、人が動き、社会が変化していく。

SDG sから住宅事情を考えると、空き家問題などが挙げられる。ただ最近では、空き家や古民家などを活用して新しい価値を生み出す活動を目にする。日本はスクラップアンドビルドの都市が多く、昔ながらの建物の良さを活かしきれていないと思う。ヨーロッパなどは昔ながらの建物の方が価値が高いことも多い。人々は新しく家を建てるよりも、古い建物を活かし自らアレンジしたり、ケアしながら古さを楽しんでいる。その様な考え方は、小さい頃からの積み重ねで身に付いていく。もちろん個人の好みもあるが私個人的な感覚で言うと、日本の子供たちはもっと日本ならではの良さなどを知る機会があった方が良いと思う。新しいものばかりでなく古いものへのリスペクトの気持ちや、ある物を活かして広がる可能性などをもう少し身近に、家庭や学校で触れることが重要だ。

京都や鎌倉など観光地の歴史ある建物や街道などは、昔ながらを守りながら観光地として成り立っていると感じるが、これからは地方でもその様な事を実践していくことが広まっていくべきだ。都市の良さもあれば、地方の良さもある。コロナの影響もあり、地方の良さを再認識する人も多くいた。これからは都市集中型がより地方分散型になっていくのではないだろうか。地方ならではの魅力を引き出す為には、新しく街開発をして新しい商業施設を建てて、などは持続可能な街づくりと離れていってしまうと考えられる。その土地にある物を生かし、住んでいる住民の意見を取り込み、かつ新しい物も取り入れていく、その様な事が必要だ。

その為には、自治体や企業などがもっとサポートしてくれる制度を整える事も必要になってくる。ボランティアの様なことでは一時的に活動出来たとしても、続けていくことが出来なくては意味がなくなってしまう。その様な面はSNSやインターネットなどを活用して資金を集めたり、現代ならではのやり方は沢山ある。まず実践するべきはSDG sと聞いて知った気にならず、自分が興味を持ったものに実際に参加したりする事ではないだろうか。身の回りですぐに出来る事をするだけでも良いし、参加できる活動に挑戦してみる。私自身はまだこれからだが、小論文を通して改めてSDG sについて考えるきっかけになったので、これから行動に移していければと思う。

 

田村陽哉 岡山龍谷高校

 

 「誰一人取り残さない。」結論から言うと、今の社会ではこの目標を達成するのはまず不可能だろう。第一に地球温暖化やそれに伴う海面上昇、それらの問題を解決しない限りは、その「取り残されそうな人々」には手を差し伸べられないのではと思えてしまうような現状だ。逆に言えば、それさえ解決すれば他の問題も容易に解決できることだろう。
 まず地球温暖化が引き起こす問題について考えを述べる。地球温暖化により地球全体の気温が上がり続けてしまっては、まず気温が低い状態でしか育たない食料などがいつか底を尽きてしまう。そうして食料が限られ、今ある食料を強引に作り続ける。そうなると、今度は「同じような料理ばかりで飽きてしまって、食事が楽しめなくなった。」や「この果物、料理が好きだったのに今の環境になるまで国が対策を怠った所為で食べられなくなってしまった。」などと、クーデターを起こす事態になることが少なからずあるだろう。食事を楽しめなくなった、満足に食べられず、更にストレスが溜まってしまったような人達が生まれてしまっては、果たして本当に「誰も取り残さない」という目標を達成したと、誰一人漏らさず救い出すことが出来たと、胸を張って公言できるだろうか。
 加えてもし気候の関係で再現不可能な食料(例えば霜があたると更に甘味を増すターサイなどが挙げられる。仮に再現ができたとしても、それは冷房下でしか育てられず、結果として供給量は低下するだろう。)なんてものが生まれてしまったら、一先ず今作り出すことのできる食糧が重宝されることは明白だ。そうしてそれを沢山生産できる国が輸出入などで産業のトップに君臨する、しかしそれでは気候の関係などで食糧を生産することが困難な国はどうなるだろうか。経済は徐々に綻びを見せてゆき、人々は貧しい暮らしを余儀なくされるだろう。そうして国民がクーデターを起こし、国は崩れ落ちてしまう。どこか1つの国がそうなってしまえば、似たような景気の国が「いつか我々の国もこんな結末を辿るのでは」と、パニックを起こすかも知れない。パニックは伝染するもので、そうなれば逆に経済的に優位な国は「他の国が手を組んで自分たちの国を襲いにくるのでは」という考えに至るのは想像に難くない。すると人々は我が身可愛さにSDGsそっちのけで他の国に牙を剥くことだろう。そうならない様にするために、まず地球温暖化を解決する必要があるのだ。
 では、果たしてどう解決すべきなのか。それにはまず土台として、地球温暖化防止に消極的な国と協力することが大切だ。仮に多くの国が地球温暖化防止対策を万全な状態で行えたとしても、一部の国で際限なくCO2を放出し続ければ、結果として地球温暖化という歯車の回転率を下げただけに過ぎなくなってしまう。だから全世界が地球温暖化防止に協力する姿勢を取る様に、地球温暖化防止に協力的な国が説得すべきなのだ。その後は水素エネルギーやIHコンロなどの地球温暖化対策の知識や技術などを世界で共有すれば、自ずと地球温暖化に歯止めを効かせることが出来るのである。
 「国だけの話では、一般市民は何もしなくていいのか。」という声も挙がるだろう。勿論そんなことはない。たった1人でも地球温暖化防止を呼びかけることは可能だ。例えば今、SNSの利用者数は38億人を超えている。私は絵を描くことが出来るので、例えば地球温暖化防止を促すような絵に「#地球温暖化を防ごう」というハッシュタグをつけて投稿したとする。大して意識もしない人々が多くとも、中にはこの言葉が少し気掛かりになるような人もいる。そんな人達が地球温暖化に拍車をかけるような行いを徐々に避けるようになれば、自ずと周りの人々も同じ行動を取り始めることだろう。それだけでなく、この取り組みに派生して、前述したように水素エネルギーやIHコンロなどの地球温暖化防止対策の知識や技術も広まっていくだろう。そうなれば、国も地球温暖化を防止する取り組みも進め易くなるのだ。
 例え誰か1人が、もしくは大半が活動を行おうとも、それに対して否定的な意見を持つ人間がいれば、達成は不可能だ。しかし手を取り合い協力することができれば、切り開くことのできる未来もある。例えば、二酸化炭素を排出するエンジン車に乗らず、近い場所には自転車で向かったり、レジ袋を貰わず常にエコバッグを持参したりするなど、こういった取り組みが一般化すれば、徐々に地球温暖化を問題視する声も減り、他の問題解決にも取り組み易くなるだろう。(1781字)

 

鄭(チョン)智允(ジユン) 横浜国立大学 2年生

<コミュニケーションを通じた誰ひとり取り残さないための社会づくり>

 誰ひとり取り残さないための社会になるためには、まず、誰かがどのような過程で残されるようになるのか、具体的な状況が重要である。最も頻繁に起こる疎外は、障害者、貧困者、外国人が対象となった疎外がある。 それだけでなく、状況そのものから疎外される場合もある。 例えば、韓国の場合、妊娠と出産による復職することの難しさ、求職難によって30・40代の女性が取り残される場合がある。または、学校及び職場内の社会生活はしているが、その生活の質が良くない場合がある。職場内のいじめや労働に対する正当でない待遇など正当な権利を要求できない構造的状況もまた、彼らには社会から疎外されることである。このように、今後は社会に残されたものについて対象について考えるのではない状況について考えるのが重要である。その状況でどうすれば誰ひとり取り残さないことなく、正当な権利を求め幸せな生活を送ることができる社会を作っていかなければならないと思う。

 社会にはどのような人々がどれほど疎外感を受けているかを示す数値がいくつかあるが、その一つが自殺率だと考える。社会的にも、10代から20・30代の自殺率が徐々に高まっている。自殺に対する原因は社会で遅れを取っているという不安と憂鬱な寂しさなどがある。私たちが普通社会に残されたと考える人障害者、貧困者、外国人だけではなく、私たちの周辺にいる普通の人々もまた社会内の疎外感を感じるというのだ。特に、学校や職場で社会生活をしている青少年や若者がどのような部分で苦しんでいるのか。その孤独や疎外感を解消し、自殺を予防するためにはどのような措置が必要なのか。人々のメンタルヘルスに関する部分で、SDGsの17の目標のうち、3番にあたる「すべての人の健康と福祉」の実現のためにはどのような方法が必要なのか。

 私は、社会内のコミュニケーションの活性化と適切な管理を通じて、誰かが取り残されない社会を作っていくことができると思う。 まず、コミュニケーション活性化の方策を考えることが考えられる。 具体的には、職場内にグループ作りや相談ができる窓口を作り、人々の意見を自由に交換できるようにすることが必要である。毎週の会議や相談を通じて人々の安否を尋ね、職場内に苦情はないか、どのような点を改善したいかなどについて自由に意見を述べ、自分の状況について話す機会を作っていかなければならない。これによって、個人が疎外されることなく、お互いに配慮し合う職場を作ることができると思う。
また、社会の中の適切な管理策が誰一人残らない社会のための方法である。 特に、大学の場合、小学校や高校とは異なり学生を管理してくれる先生は存在しない。そのためもっと自由だが、どの学生がどのような部分で困難を経験しているのか、本人が先に話さなければ分からない場合が数多くある。 特に留学生の場合、どのレベルで困難を経験しており、問題が発生しているのか問わなければ分からない。 自分の経験では、留学生の立場として、学校生活だけではなく自炊から生じる問題点(例えば、不動産契約や、水道や電気の管理など)について、問いただすところがない部分が最も困難であったことである。 自ら解決策を見出すことが難しい場合、誰かに助けてもらうためにどこに助けを求めたらいいか分からないというのが問題である。このような問題の解決のためには、管理が可能なプログラムを作って直接的な交流を作るのが良いやり方だと思う。 既にほとんどの大学では留学生担当課が存在しているが、具体的には学生が直接発信をしない限り、何ら実質的な交流はないということがデメリットである。これにより、より具体的な方策を講じて、積極的な学校生活及び留学生活ができるように手助けすることが重要であると考えた。

 以上のように、これから誰ひとり取り残さない社会を作るためには多様な方の立場・視線・考え方が必要である。一人ひとりが最低限の安定・権利を保ちながら幸せに暮らせるために世界全体の目標の下で、各国の政策などの努力が行うことで「誰ひとり取り残さない社会」が期待できる。

 

鶴岡大介 横浜隼人高校 2年生

 

私は「誰一人残さない社会」を実現するためには一人一人が目標を持ちそれを達成しようとする意思が大事だと考える。世の中あたりまえのことだが価値観のずれなどさまざまなことから大きな問題に発展してしまう傾向にある。このようなことが起こってしまうのは、自分のことだけに頭がいっぱいになってしまい、
他のことに目を向けている余裕がないことが原因ではないだろうか。しかし、国際協力に直接関与できるのは世界の中でもほんの一握りだ。ではその人たちだけでこの世の中を変えることが果たしてできるのだろうか。もちろん私は難しいと考える。
なぜならその人たちだけが「この世の中を変えよう」と思っていても他の人たちは気づかない、気づいてもらえないで終わってしまうからだ。しかし、私たち一人一人がもっと考え、自分の身の回りで起こっていることに興味をもちもっと社会に対して寄り添っていく事が大事だと考える。
現在世界ではグローバル化が進み、世界で起こっていることから
目を背けることはできない。日々の生活があっという間に過ぎていく中でそれと同時に世界ではたくさんの問題が発生してしまっている。そーいったことに少しでも関心を持ち、自分の考えを発信していくことが大事になってくる。
昨年はコロナ禍で世界の経済が停止し近代化していく成長にも歯止めがかかった。しかし、少しずつではあるが経済が復活し、
近代化そしてボランティア活動の取り組みが戻ってきた。
これにより、今まであたりまえだったこと、日常を失い先が見えない中で多くのことを学ぶことができた。
自分のことだけでなく、世界のことに目を向ける時間が増えたことで、世界が一つになったといっても過言ではない。
SDGSを通して「世界でなにが起こっているのか」をあらゆる人と自分の関係性を同じ立場で見つめていく、ニュースや新聞などの情報を通して実態について知ることが大切だと考える。
これから先の世の中で、誰一人取り残さず、世の中を回していくためには一人一人の目的、目標を達成していくことがいちばんの近道だと考える。そして、直接社会に取り残される人々に寄り添い、自分たちが世界を構成しているという意識を持って生活しこれからのより良く快適に過ごしていける世界を創っていくのは
私たち自身。
それに貢献していけるように弱い立場に置かれている人々への関心を持ち続け自分には「今なにができるのか」これを考え続けていきたい。

 

坪井隼人 中京大学

 

私がSDGsの基本理念「誰ひとり取り残さない」を知って最初に浮かんだことは『難民』の二文字でした。みなさんは難民と聞いて何を思い浮かべるのでしょうか。「可哀そう」とか、「助けてあげなければならないか弱い人」とかでしょうか。確かにそれは間違っていない認識です。パレスチナ人はイスラエルにより虐殺され、故郷を追われ、略奪などをされています。しかし彼らは日々を強く生きています。例えば元英国難民委員会会長のマーチンバーバーは「彼ら難民自身が望むことを達成できるよう、私たちが助けなければならない人よりも、むしろ、私たちが、何かしてあげなければならない人として描かれている。」とおっしゃっています。つまり難民は私たちが何かをしてあげなければ何もできない弱い存在ではなく、正しい支援をすることにより彼ら自身で人生を切り開くことのできる存在なのです。
では、なぜ難民を支援しなければならないのでしょうか。それは簡単です。難民が生まれるのは国民国家システムの構造的暴力によって生み出されたものだからです。簡単に言えば国民国家システムとは国民に国籍や選挙権、教育などを与え、国家は国民を守り、国民は国家のために働くというシステムです。このシステムの何が問題なのかというと国家の保護の対象が国民に限定されることです。例えば日本国憲法では第十一条に「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」とあります。つまり人権は国民にあるのであって国家の後ろ盾のない難民には保障されていないのです。国民国家システムにより難民が生まれたのですから難民の支援は「すべきこと」ではなく「しなければならないこと」です。しかし、国連パレスチナ難民救援事業機関はパレスチナ難民の教育や健康に関しては支援をしていますが帰還の後押しをしていません。一方国連難民高等弁務官事務所はユダヤ難民のパレスチナへの帰還を問題視していません。
ガッサーンカナファーニーの『太陽の男たち』という小説には難民の世界の不条理をとてもうまく表しています。そのなかには難民が給水トラックの運転手と手を組み国境を越えようとするものの運転手が検問所の役人の無駄話に付き合わされている間、灼熱の給水タンクの中で窒息死する話が出てきます。その遺体を見つけた運転手はなぜタンクの壁を叩き助けを求めなかったのかと遺体に向かって問います。また、この話は映画化されたのですがそちらではタンクの壁を叩き、外に救いを求めて叫びます。しかしその声は、その音はエアコンの音にかき消され届くことはありませんでした。
私は難民の全員が全員このような非業の死を遂げたとは思っていません。しかし私たちが快適な生活を国民国家で過ごしている間も難民キャンプという給水タンクの中で窒息死していく人がいるのだと認識し、そのタンクを叩く音、叫び声を拾い上げることが重要だと感じます。そして彼らに適切な援助をすることでSDGsの基本理念である「誰ひとり取り残さない」を達成できるのだと考えます。

 

長谷川珠央 神奈川県立多摩高等学校

 

最近、コロナ禍で「デジタル・デバイド」という言葉を報道でよく耳にするようになった。デジタル・デバイドとは、情報格差のことで、一般に、情報通信技術の恩恵を受けることのできる人とできない人の間に生じる経済格差を指している。現在、デジタル機器を上手く使うことの出来る若い世代と、上手く使うことの難しい高齢者の間に格差が生まれている。特に新型コロナウイルスワクチン接種のインターネット予約が始まった今、このデジタル格差はますます広がり、デジタル機器の操作に不慣れな高齢者は取り残されつつある。
 私の母は、インターネットを上手く使うことの出来ない祖父母4人に代わり、全員のワクチン接種の予約を行っていた。しかし、難しい内容の書類に加え、不慣れなデジタル操作、なかなか取ることが出来ない予約に母も長時間苦戦したという。このように近くに助けを求めることの出来る家族がいれば、予約を取ることは可能だが、いなかった場合にはワクチン接種を受けたいと思っても予約を取ることは難しいだろう。ワクチン接種の有無によって、コロナにかかる可能性に差が出てくるとすれば、デジタル機器が使えないことだけで生まれるこの格差は、命に関わるものになってしまう。そして、高齢者がどんどん取り残されていってしまうのではないか。
 今は、自力で予約を取ることのできない高齢者をサポートする地域のサービスが増えてきているが、それでもまだまだ取り残されている人は多い。高齢者の方がデジタル機器を使いこなせるようになるまでもっていく事は難しいが、周りにいる身近な人の支援で改善されることはもっとあるはずだ。たとえば、高齢者向けにデジタル機器の使い方を教える場を作ることなどである。私の住んでいる地域は、近くの他の地域に比べて高齢者の方、特に一人暮らしの方の割合が大きい。デジタル機器を持ってはいるが、上手く使いこなせず困っているという方もたくさんいる。そこで、そんな方たちを手伝うべく、スマートフォンやパソコンの基本的な使い方を教える会が、若い世代の方たちによって定期的に開かれている。小さな共同体の中で行われているため、家から近いといったの理由で高齢者の方も参加しやすい。また、知り合いがいることで、楽しく学ぶことが出来ているとも聞く。
 このように、助けを求めることが出来ず、1人で困っている高齢者を減らすため、若い世代の人が積極的にアプローチしていけば、デジタル・デバイドの解決だけでなく、地域交流を通じた楽しみにつながっていくと考える。
これからますます高齢化社会が問題になっていくなかで、若い世代の人たちだけでデジタル社会を作っていってはいけないと思う。高齢者の方を主体に考えてデジタル化を遅らせるのではなく、乗り遅れてしまう高齢者の方の存在を意識し、必要なサポートをする事が大切である。

 

長谷川彩華 桐朋女子高等学校 3年生

L G B T Q+の人々に対して、今必要な制度とは。

 先日、私のクラスで、L G B T Q+についての発表学習を行なっていた友達が、「私もL G B T Qの当事者です」とカミングアウトしていたのを見て、そうだよね、こんな近くにL G B T Qの人がいるのは当然だ、と思った。日本には3%から10%いると言われているL G B T Qの人々。彼らはヘテロセクシャルの人々にとって当たり前であるような、結婚などができないなど、思うように生きられないということを聞いたことがある。そんなのは人権侵害ではないだろうか。L G B T Qの人々のためにも、友達のためにも、今すぐに対策が必要である。
 国会では、今年に入ってから、国民のL G B T Q+に対しての理解を深めていく事が目的である、「L G B T理解増進法案」 というものが、話題になっていた。O E C Dが発表した、L G B T Q+に関する法整備ランキングによると、日本はワースト2位。法案は見送られてしまったが、日本にとっては大事な一歩であった。なぜなら、日本は、L G B T Q+に対して、あまり寛容な国ではない。唯一彼らの人権が守られていると感じるのは、「パートナーシップ制度」と、「性同一性障害特例法」である。しかし、「パートナーシップ制度」は同性婚のように法的な効力はないし、「性同一性障害特例法」も、トランスジェンダーが感じる性的違和は障害ではないと言われているのに、性別適合手術を受けないと性別を変更することができない。他国では、約28の国で同性婚が認められており、約13の国でL G B T Q+差別禁止法や、トランスジェンダー関連法が制定されている。
 しかし、制度の改革が進まない一方で、会社などで、L G B T Q+の人々に対するハラスメントである「S O G Iハラ」が問題視されている。S O G Iハラは、カミングアウトしていない当事者がどこにいるかわからないため、起こりやすい。「女の子らしくしなさい」「女の子の制服はスカート」といった、意図的でない差別もS O G Iハラの代表例である。日々の生活に紛れている、S O G Iハラによって苦しめられているL G B T Q+の人々は、精神疾患に陥る可能性が高く、自殺率が高いともいわれる。L G B T Q+について理解している人がもっと多くなれば、S O G Iハラは減っていくはずである。
 私は、「L G B T理解増進法案」は、とても良い法案であると思った。なぜなら、国民みんながL G B T Q+について知ることが、今後、同性婚制度などの、L G B T Q+の人々に対する制度を成立するための第一歩だと思ったからだ。だから、今私たちがすべきことは、「L G B T Q+について知ること・伝えること」である。これを実現するためには、S N Sやテレビ番組といったメディアを活用することが一番効果的であり、若者がそれを証明している。 
 L G B T Q+に対する寛容度は、若者の方が高いと言われている。その背景には、L G B T Q+インフルエンサーの存在があると推測する。インスタグラムでのフォロワー数女性1位であるアリアナ・グランデは、兄がゲイであることもあり、L G B T Q+コミュニティーのビッグサポーターであることから、ファンのL G B T Q+に対する寛容を促している。日本では、YouTuberやモデル等で活動している“けみお“がゲイであることを公表したことで、若者のL G B T Qに対する壁を取り払った。
 また、特に若者に人気の動画アプリケーションで、Z世代の象徴ある「TikTok」では、けみおを含め、L G B T Q+のクリエーターが多く活動しているため、若者はL G B T Q+の人々を身近に感じている。
 このように、若者を取り巻く環境が、L G B T Q+に対する寛容度を高めているのだ。私の周りにいるL G B T Q+の人たちは、周りの友達からは全く差別を受けていない。
 そこで、私は、理想の制度を考えてみた。一定の期間を「L G B T Q+教育期間」と称し、新聞、雑誌、テレビ番組やラジオ番組など、さまざまなメディアで、(番組では各チャンネル少なくとも1日1時間分放送)L G B T Q+に関する真実を伝えることを義務化するものである。内容は、L G B T Q+の割合(何人に1人など、身近に感じられる表現で)L G B T Q+に対する差別、S O G Iハラとは何か、L G B T Q+に関する映画やL G B T Q+歌手による曲などの娯楽の紹介、積極的なL G B T Q+インフルエンサーの起用、他国でのL G B T Q+に対する取り組み、また、本屋において、L G B T Q+に関する書籍の特設コーナー設置(同性の両親が出てくる絵本や、体験談などの書籍)の7項目である。
  L G B T Q+の人々は、ただ好きになる性別などが違うだけで、私たちと同じように生活していて、何も特別扱いする必要はない。今の差別的な状態から普通に変えることが必要なだけである。だから、この制度が必要である。

 

長船真紘 横浜隼人高校

 

誰一人取り残さない社会を実現する為には何が出来るのか。私は一人一人が問題解決の意識を持つ事が重要だと考える。
「取り残される人」という言葉のイメージは人によって様々だと思うが、私はどんな人でも取り残される事があると思っている。国籍も言語も違う何十億もの人がいるこの地球で自分と全く同じ人などいない。ただ自分と似たような人はいる。人間の集団心理として、自分と似ている人と関わる事が多いのは事実だ。それはどんな人でも共通して持つ心理であり、結果、自分とは違う人だと感じると「取り残される人」が出てきてしまう現状になった。そんな中で「誰一人取り残さない社会」を実現するのはかなり難しい事である。だからこそ私達一人一人がこの問題解決の意識をしっかりと持つ事が何より重要なのではないだろうか。
「自分と違う」人が溢れるこの世界で、自分と近しい人しか関わらないのは問題解決に繋がらない。しかしそのような人が大半なのが現状だ。ただ一人一人が「自分と少し違う人とも関わってみよう」と意識するだけでもこの問題は変わってくる。
コロナ禍で人との繋がりの大切さが実感させられた。人とのコミュニケーションが困難となっている今、より深く密接なコミュニケーションを求められている。相手にもっと寄り添ってコミュニケーションをする。同じ種別の生き物として互いに協力してより良い未来を創っていけるよう一人一人が努力していく世界を願う。

 

朝日昇太郎 横浜隼人高校

 

私は、1番重要な事は、SDGsを理解する事だと思います。まずどんな事を、行うにしても、内容が理解できなければ、物事は進められません。しかし、実際の所、僕達高校生は高校に入るまで、正直SDGsと言うものが、ブラジル連邦共和国の都市である、リオデジャネイロの国連持続可能な開発会議で、2012年に議論されていたなんて、知りませんでした。その為、僕は、世界の国民に、まずは理解してもらう、知ってもらうことが重要だと思います。まだ高校生なので、国の難しい事は分かりませんが、国のトップの人達が、会議をするのも勿論良いのですが、それだけでは、出されて決定された意見は、国民の意見では無く、国のトップの人の意見です。貧困地域にボランティアに行って貯水の井戸や、病気にかからないようにする、ワクチンも、重要です。しかし、これからは、そのボランティア活動を見ている、人達も、積極的に参加すべきなのでは無いでしょうか?しかし、そこまで大きな事は、まだ難しいかもしれません。ですが、私達高校生にも行える事は、全然有ると思います。具体例を挙げて見ると、SDGsの7番のエネルギーをみんなに、そしてクリーンというものです。そもそも、普段の生活の中から分かる通り、日本だけでは無く、最近は、電気を使い過ぎです、僕ら、高校生が見ても、明らかに要らない照明は、多々有ります。今までの生活では、家にいる時は、使わない部屋は、電気を消すように、など私達が、気をつけ無ければいけないものでしたが、もう、地球温暖化が、着々と進んでる中、動かなければ行けないのは、もはや、私達だけでは無いのです。今、私達の日常に入り混んでいる、企業も地球温暖化に向けて、活動をしなければ、いけないのです。そして、1番私達に関係、密着しているスーパーマーケットから、徐々に変えていく必要が、有るのです。例えば、使ってないレジの、電源を切る、冷凍食品は、温度管理をし、常温などの、冷凍する必要のない商品は、基本的に冷凍しない(近所のスーパーで、常温なのに冷凍している企業を、見つけた)、また、自動ドアは、あまり人のいない所は、決して電気を付けなくてもいいと私は、思う。そのほかにも、スーパーマーケットだけでは無く、映画館や劇場もそうで有る。今は、約1年間ほど前に発生した新型コロナウイルス(COVID-19)が流行したので、難しいと思うが、団体を一つに集めて、電気の削減をすることも、重要で有るといえると思う。その為、今までは、感覚としては、協力、いわゆる、ボランティア活動の一環として私達、我々は、考えてきた、しかし、北極、南極でも、雪が溶け出している通り、地球は、我々人間によって、今、危機的状況に、陥っているのである、その為、2021年現在は、学校などの、教育機関や、ボランティア団体だけではなく、社会人も積極的に、行わなければ、地球は、本当に壊滅してしまうのである。
                     以上。

 

中内春一郎 九州大学大学院 修士1年生

 

SDGsで取り残される人は、まさに私の父である。

父は中小企業の経営者であり、今は経済的にも困窮しているわけではないが社会的基盤は常に盤石というわけではない。
そこには大企業をはじめとする競合他社との競争があるからだ。
SDGsは製品に新たな評価軸を世間に与える一方で、取り組む余力がない者を取り残す可能性がある。

これまで、SDGsは期待を持って迎えられてきたであろう。
従来の環境への配慮やサステナビリティという考え方の系譜として疑いの余地はないように見える。
今一度今回の投稿を機に手放しで受け入れるべきかについて考える。

父は中小企業として工業製品を主力として企業を経営している。
私自身、浪人をして留年をした大学生であるが、そのような私を奨学金を借りることなく養うことができる。
これまでに何度か危機があったのも事実であり、企業の大きさが対処の方法を変化させるのを当時の私は幼いながらに理解した。
そして今は労働力不足と経営の透明性など取り組むべき課題は常に現れ続け、これからはSDGsである。

SDGsを取り巻く問題点は三つある。
一つが日本国内外での価値観の違いである。
次に技術開発である。
最後に、その結果生じる相対的競争力の低下である。

日本国内と欧州をはじめとする国々の企業に対する考え方は残念ながら異なる点がある。
その例が環境への配慮という企業の方針を魅力的に思うか、という点である。
設備投資やコストの増大が薄利や値上げをもたらしたとしても、顧客に訴求できるのならば経済活動として合理的であろう。
しかし日本国内の顧客に訴求できるであろうか。
あるいは国内外で環境への配慮などの有無によって製品を作り分けたとして、企業としてはダブルスタンダードとして批判されないだろうか。

同様に技術開発の問題がある。
自社でイノベートやそのための基礎技術研究ができるのならば、社会変革に素早く対応できるであろう。
それができない企業はSDGsの取り組みを行うときに既存のパッケージを導入することになるが、それは搾取になりかねない。

その結果としてSDGsが企業に対するエンパワーメントが適切、あるいは良い形で配分されるだろうか。
おそらく今のままではノーであると考える。

そしてこの問題点を生み出しているのが、SDGsの取り組みの動機が合理的に説明できないからではないだろうか。
マクロな観点では持続不可能な経済活動を行うのは不合理である。
しかしミクロな観点で、私たち家族や社員という組織とすればSDGsへの投資は現段階では困難である。
なぜなら、父の企業で働く人はSDGsの取り組みの恩恵を受けることができない。
ここからSDGsが取りこぼしている視点である、加齢や社会観をはじめとした価値観が浮き彫りになってくるであろう。

 

中島健樹 京都大学 学部4年生

 

「誰ひとり取り残さない」の実現には、「取り残された」と感じる人(以下、「取り残される人」)がその感覚を払拭できなければならない。それには、「取り残された」と感じていない、「取り残される人」の周りにいる人(以下、「周りの人」)からの有効な手助けが必要となることが多い。有効な手助けには、「周りの人」が以下の3ステップを踏むことが必要だ。①「取り残される人」の話を聞き、共感を示して精神的に寄りそうこと。②「取り残される人」が置かれた状況を、話をする中で客観的に理解すること。③「取り残される人」と共に、個別具体的な状況打開策を考案・実行すること。私自身、これら3ステップ、特に①と②の重要性を痛感した経験がある。それは、大学受験で全ての大学に落ちて浪人をした経験だ。浪人を始めた当初は、友人の大半が華やかなキャンパスライフを送る姿を目の当たりにして、今までは彼らと一緒に歩んできたのに自分だけ取り残されたと孤独感を抱いた。また、1つの大学からも合格を得られなかったことで、私は社会から必要とされていないと考え、自分自身の無力さや認めてもらえないことへの不満を感じていた。ネガティブに考えるのは良くない、自分一人でどうにかしようと思ったが、うまくいかなかった。この状況を打開できたのは、家族や友人が私の感情や状況を理解してくれたからであった。家族は、親自身の浪人経験を基に私の気持ちを推し量り、プレッシャーをかけずにこれまで通り接してくれた。また、夕飯時に私の受験に対する考えや想いを辛抱強く聞いてくれた。友人は、現役時代の彼らと私を重ね合わせ、私の愚痴を延々聞いたり、ご飯に誘ってくれたりした。また、大学での楽しい話をして、受験勉強のモチベーションを上げてくれた。私は、家族や友人のおかげで、自分の感情や状況を理解して支えてくれる人が周りに大勢いるのだと実感したことで初めて、自分自身の状況を客観的に捉え、勉強計画などの策を講じることができるようになった。家族や友人といった「周りの人」のおかげで、私は「取り残された」という感覚を払拭することができた。この経験は、私以外の「取り残される人」にも当てはまると思う。「取り残される人」の多くは、孤独感や無力感を抱き、不満や憤りを感じている。この時、「周りの人」は、「取り残される人」の話を聞き、共感をして精神的に寄りそうことが必要だ(ステップ①)。これにより、「取り残される人」は自己肯定感を高め、自分自身や状況に対するネガティブな感情を和らげることができる。また、「周りの人」は、「取り残される人」からの信頼を得て、より深い話を引き出せるようになる。「周りの人」が「取り残される人」に精神的に寄りそえたならば、次は、両者がじっくりと話をして、「周りの人」が「取り残される人」の状況を正確に理解することが必要だ(ステップ②)。この時、「取り残される人」が主体的に話せるようなコミュニケーションを心掛けるとよい。これにより、「取り残される人」は自分自身の状況を「周りの人」に伝える過程で、それをより冷静に捉えられるようになる。その結果、「周りの人」と「取り残される人」の両者が状況を客観的に理解できるようになる。状況を十分に把握できたら、次に、「周りの人」と「取り残される人」が、共に状況打開策を考案・実行する段階である(ステップ③)。ここでは、「共に」行うことが重要で、「周りの人」が不要な場合は「取り残される人」が単独で行ってもよい。なぜなら、「取り残される人」が主体的に考案することで、納得感を持って策を実行できるようになるからだ。以上のように、ステップ①、②、③を順に踏むことで、「周りの人」は初めて、「取り残される人」が抱く「取り残された」という感覚を払拭するという意味で、有効な手助けが出来る。しかし、多くの場合、「周りの人」は策の提示だけをしてしまう。これは間違いだ。なぜなら、ステップ①を踏まないと「周りの人」は「取り残される人」から信頼を得られず、深い話を引き出せないのでステップ②に進めない。また、ステップ②を踏まないと状況の不十分な理解から的外れな策に行きついたり、「取り残される人」が十分に冷静でないために策に納得感を持てなかったりして、ステップ③の効果がなくなる。つまり、ステップ①からステップ③を順に踏むことが、不可欠なのである。最後に、これは、「取り残される」国や地域に対しても同じである。なぜなら、国・地域も1人1人の感情を持った人間によって構成されているからだ。したがって、「周りの人」は、手助けをするいかなる場合においても、「取り残される」人・国・地域に共感をして精神的に寄り添い、話をする中で状況を客観的に理解することが不可欠なのである。

 

中島大地 横浜国立大学 1年生

 

私はいわゆる進学校と呼ばれる公立高校に通っていました。毎年東京大学や京都大学に合格者を輩出し、部活動も盛んで、自由な校風が特長の学校でした。私は野球部に所属していましたが、甲子園出場を目指しており強豪私学とも互角に戦う必要があるため練習量がかなり多かったです。授業は進度が非常に早く、分からない部分は各自でやっておくというスタイルだったので夜は塾に通って予習、復習をしていました。
最初の中間テストまでは1年生ということもあり部活動の時間は短かったですが、それ以降は3年生の最後の夏に向けて練習時間が増えていきました。部活動が終われば塾に行き授業を受けます。心身ともに疲れが取れないまま学校の授業に臨み、中学生の時はありえなかった授業中の居眠りもするようになっていました。このままでは「取り残されて」自分の行きたい大学に行けなくなってしまうのではないかと不安になりました。
1年生の学習内容はその後の単元にも繋がる基本的なものが多く、聞き逃すと後で追いつくのに苦労します。その大切な時期に余裕を持って授業が受けられないことで、大学受験に間に合わず浪人する可能性も高くなります。実際に私の高校は約半数が浪人しています。
この問題を通して私が提案したいのは、日本の教育システムの改革です。主な内容は、詰め込み教育の見直し、部活動の活動時間、塾の必要性の再検討の3つです。
1つ目の詰め込み教育ですが、大学受験だけを見据えた勉強に意味を見い出せない人も多いはずです。ただ座って先生の話を聞き、教科書に書いてあることをなぞる授業では面白さは少なく、これからの社会で生きていくために必要なコミユニケーション力なども身につけることができません。授業の中で申し訳程度のグループワークをするぐらいなら、しっかり時間を取ってディベートなどを行った方が良いのではないでしょうか。また極論を言うと、高卒の人と大卒の人の待遇に差を無くせば多少はこの状況が改善するのではないかと思います。いい会社に就職するために大学に行くという流れを止め、本当に勉強したいことがある人だけが大学に行くようにする。そうすれば全員が大学受験の勉強をする必要がなくなり、より有意義な授業をする余裕ができると考えます。
2つ目は部活動の活動時間です。高校生が部活動をすることに反対するわけではありませんが、あくまで課外活動のレベルにとどめるべきだと思います。長時間の拘束は他にやりたいことがあったとしても挑戦できず、経験の芽を摘んでしまいます。1つのことに打ち込むことはいいことだと思えますが、他の多くのことを犠牲にしていると捉えるとそこには少し疑問が湧きます。
最後に塾の必要性についてです。これも大学受験のために通うものですが、先程述べたように教育システムが変われば塾に行かず自分のやりたいことに時間を使えたり、社会で必要な能力を得るための塾ができるのではないかと考えられます。最近は入試改革が行われていますが、入試はあくまで入試であって表面上しか変わらないことが予想され、それでは日本の国際競争力も下がっていく一方です。今、日本の教育を根本から見直すべきではないでしょうか。
ここまで日本の教育システムについて述べてきましたが、文字にしてみると問題点が想像以上に多いと感じました。進学校で勉強に苦しむ人たちを取り残さないためにも、これらの提案が少しでも実現に向かえばいいなと思います。

 

中村晃康 兵庫県立大学 1年生

対策と抑制

 大災害が発生したとき安全に避難できるだろうかと考えることがある。大学入学を機に一人暮らしをしているので、もし災害が起きれば一人で行動を起こさなければならない。だから、そういう時に自分だけ取り残されてしまわないか不安になることがある。日本は地震をはじめとする災害が多く、避難に関しては幼いころから練習してきたり、避難所となるような場所たくさんがあったりするので、事前にしっかりと準備をしていれば自分が思っているような取り残されるということはあまり起きないのかもしれない。しかし、視点を世界に移してみると、そうとは限らないと思った。
 発展途上国は災害対策のための資金、技術、人材が不足しているため、異常気象や災害が発生した際、助けられる命も助けられなくなってしまうのではないかと思った。たとえそれが小さな災害だとしても、経済への影響は計り知れないものになると思う。地球温暖化が進行すれば、洪水によって住む場所がなくなったり、農業で生計を立てている国の人々は雨が降らずに起こる干ばつ化により生活ができなくなったりしてしまう。私でさえ自分自身の災害対策に不安を感じているのに発展途上国の人々の不安はもっと大きいだろう。そのため必要となってくるのが先進国からの支援や、先進国による減災が必要である。これはSDGsの目標13「気候変動に具体的な対策を」に通ずるものがある。
 私が考える対策は発展途上国へ向けて災害対策のための基金を集めることである。貧困で苦しんでいる人々に向けたユニセフとは違い災害対策だけに絞ることで、現在発展途上国で起きている数々の災害により苦しむ人々を救うことができるのではないかと考えた。また地球温暖化を止めることが途上国の人々を襲う災害を食い止めることにつながるので、一人一人が公共交通機関を使うなどして日ごろの二酸化炭素排出を抑えたり、エコに気を使ったりすることも大切である。
 SDGsの基本理念「誰ひとり取り残さない」を達成するためには、身近なことから考えることが大切だと感じた。自分自身の身近な不安を、ほかの人も感じていないか、自分だったらどうするかを考えることで、世界で今起きている問題に親身になって考えることができるようになると思う。そうすれば、いま私たちは何をすべきかが見えてきて、一人一人が世界の問題を意識するようになる。私にとっての、災害が起きた時の「取り残される」という不安は事前の準備や地域とのつながりをもっておくことにより少しは和らげることができるが、それができないと人々はたくさん存在している。これを改善することがSDGsを達成する意義だと感じた。

 

中村ゆり 田園調布学園 中学2年生

 

私は中高一貫校に通っていて、塾にも行かせてもらい、学校でも何の不自由もなく授業を受けさせてもらっている。今まではそれが当たり前で何の疑問も感じていなかった。しかし、今回それが当たり前ではないことを知った。世界中の子どもたちも私たちと同じように何の不自由もなく教育を受けられているのか。今回は、特に、十分な教育が行き渡っていないアフリカ地域について記述していく。

はじめに、私がこの問題に興味をもったきっかけは「マララ」という本を読んだからである。この本は、パキスタンに住んでいるマララという少女が「女性にも教育を」と訴え、活動した経緯について書かれた本である。パキスタンではタリバンという反政府勢力により、女性には教育が必要ないという考えが広まっている。私はこの本を読み、パキスタンの他にも十分に教育を受けられていない国があるのか調べてみたくなった。

現在、就学率に達していても小学校に通っていない子どもは約6700万人いる。その多くは、サハラ以南のアフリカ地域などの発展途上国と呼ばれている貧しい国に集中している。アフリカ地域では男子81%、女子77%と、5人に1人以上が就学していない。日本の初等教育就学率は、男女ともに100%である。学校に通えない理由には、戦争、教師不足、経済的問題、児童労働などの問題がある。私は、教育を受けられないと、文字の読み書きができず、必要な知識を得られなかったり、仕事を選ぶことができなかったりするため、やはり教育は必要だと思う。私は、アフリカのこのような教育の現状を解決するために解決策を2つ考えた。

1つ目は、義務教育や児童労働に関する法律を作ることだ。アフリカでは、家庭の経済的問題により、働かなくてはならないことがあり、学校に通う時間がない子どもたちがいる。日本では、就学に影響を及ぼすという理由で憲法17条第3項において児童を酷使してはならないことが定められている。また、憲法第26条に国民の義務として義務教育について記されている。私は、このような法律をアフリカでも作ったらいいと考えた。

2つ目は、アフリカに各国から教員を派遣することだ。先に述べたように、アフリカの子どもたちが教育を受けられていない理由には教員が不足しているという理由も含まれている。教員を育てる仕組みがなかったり、教員に給料を払えなかったりするそうだ。実際に、このような地域にも十分な教育を行き渡せるために他国から教員を派遣している団体もあるそうだ。私の母は、小学校の教員をしていて、JICAの海外教員派遣研修に参加したことがある。その時にタンザニアにある村や学校を視察したそうだ。JICA以外でもこのような活動を行っているので、私は、アフリカでもこのような活動をもっと積極的に行ったらいいと考えた。

しかし、私たちにできることは限られている。限られた中で、SDGsの基本精神である「誰一人取り残さない」を実現するためには、まず一人一人の意識から変えていくことが必要である。私は、今学校に通わせてもらい、十分な教育を受けさせてもらっていることに感謝し、このことが当たり前ではないということを理解することから始めようと思う。一人一人の意識が「だれ一人取り残さない」理想の社会をつくることに繋がる。

 

中西貴人 横浜国立大学 4年生 環境会計ゼミ

『就職活動で感じた理不尽さ』

 現在、筆者は大学4年生で就職活動の真最中である。就職活動を通じて、実務経験の無い新卒が様々な企業に就職できる特権、所謂「新卒カード」の重要性について再認識したが、それと同時に、新卒を重視する採用システムに、ある理不尽さを感じた。「新卒カード」が尊重されるあまり、企業と内定者とのミスマッチングや、転職しにくい環境が発生し、その環境において、採用システムから否応なく「取り残されている」人がいると実感したのだ。よって本稿では、日本式新卒一括採用の問題点ついて、SDGsの基本理念「誰も取り残さない」の観点から検討していきたい。なお、本稿にて取り扱う新卒一括採用は、四年制大学の卒業者を対象としたものであることを記しておく。

・新卒一括採用で「取り残される人」とは
 新卒一括採用とは、卒業予定の学生を、毎年同じ時期に一定数採用する仕組みである。終身雇用を前提とした採用がなされており、スキルや経験を持つ即戦力よりも、人柄が重視される。ここで1つ問題が発生する。面接の場において上手く話せた者が採用されることになるので、短期間で多くの企業を受ける学生達は、自分とマッチする企業を選定する作業よりも、企業の求める人物像になりきり、滞りなく会話するための練習に重点を置いてしまうのだ。自分の適正を考える暇が無く、画一的なES対策や面接対策が蔓延している新卒一括採用は、ミスマッチしやすい環境を醸成してしまうのである。
 他方、転職市場に目を向けてみよう。日本において転職することは、欧米と比較すると難しい。厚生労働省のデータによると、大企業になるほど新卒を重視し、中途採用の割合が低くなっている。これは、一度「新卒カード」を無くしてしまうと、大企業に転職することが難しいという日本の現状を表しているといえよう。ゆえに、一度ミスマッチを起こしてしまうと、辛くてもその企業に勤めざるを得ない状況に陥ってしまう。これは、折角就職した新卒社員が、社会のシステムに理不尽に「取り残されている」状態に他ならない。

・通年採用のススメ
 ここで、欧米で導入されている通年採用の特徴を見てみよう。通年採用とは、年間を通して、必要な時に新卒・中途関わらず募集を行う採用システムである。働きたいと思ったときに就活を始められ、納得できるまで就活が出来るという利点がある。人柄よりも個人の実力が重視されるが、学生時代にスキルを高める機会が多く、例えば欧米では、「休暇期間の長期インターンシップが採用に結び付き、待遇や配属は個別交渉で決まるというのが常識だ」(宇野健司2018 p.2)という。企業にとっても、採用コストが増える一方で、早期退職が減り、海外留学生等の多様な人材に出会う機会も増えるので、メリットは大きい。以上が通年採用の特徴であるが、日本の新卒一括採用と比べて、システムに振り回される理不尽さはない。個人の適性を考える時間を確保でき、ミスマッチが発生しにくいのに加えて、人材移動の流動性も高く、転職しやすい。これらを踏まえ、日本においても通年採用を取り入れることが、理不尽に「取り残される」人を無くすための最善策だと考える。
 
・通年採用化に必要なこと
 ミスマッチングにより、「取り残される」人が毎年発生している実情を考えると、いちはやく通年採用を社会に浸透させるべきだ。ただし、本稿で通年採用化を提唱する以前に、その重要性は認知され始めている。内閣府が発表した『年次経済財政報告』(2019)によると、日本企業の33%が既に通年採用を導入し、22.4%が導入を検討している。しかし、私自身就職活動を行う中で、通年採用に臨むことは卒業後の選択肢に含まれておらず、同様に、大半の就活生にとって、新卒一括採用は当然のことだという認知がなされていると言えよう。そこで筆者は、当事者である学生達をとりまく環境の変化が必要だと主張したい。具体的には、一般教養科目の単位取得を卒業要件から外すこと、大学の4年制を撤廃することの2つを提唱する。学生の素養を高めるために、一般教養科目は確かに重要な存在であるが、卒業要件として強要する必要は無く、各々が学びたい科目を学びたいだけ選択すれば良い。また、無意味に在籍期間を4年に縛ることは、新卒入社の義務感を生み出す源になっている。学生時代に、働くための実践的な知識を身につける時間や、個人の適性を見極めるための時間を確保し、かつ学生が納得できるまで就活を行うことを一般化するためには、上記の2つに取り組むべきだ。そしてこの取り組みが、通年採用の浸透に繋がると筆者は考える。

【参考文献】
・厚生労働省職業安定局(2019)「中途採用に係る現状等について」6/19閲覧
https://www.mhlw.go.jp/content/12602000/000557900.pdf
・宇野健司(2018)「新卒一括採用の見直しに関する提言」『大和総研の働き方教室<特別版5>』6/19閲覧https://www.dir.co.jp/report/research/introduction/economics/lecture/20181010_020360.pdf
・内閣府(2019)『年次経済財政報告』6/19閲覧
https://www5.cao.go.jp/j-j/wp/wp-je19/index_pdf.html 

 

中山明音 横浜国立大学 1年生

 

地球上の「誰一人取り残さない」ことを掲げる持続可能な開発目標SDGsであるが、現在地球上で取り残されているのはいったい誰であるのだろう。そもそも、なぜSDGsではこれほどまでに「誰一人取り残さない」ことが強調されているのだろうか。
 この2つ目の問いを考えるには、SDGsの前身であるMDGsでは達成できなかった課題に目を向ける必要がある。MDGsでは、特に途上国の人々が直面していた多くの問題を解決することを目標として掲げていた。そして、15年間世界が一丸となって取り組んだ結果、多くの命が守られ、人々の生活環境が改善された。その一方で、MDGsの達成状況を国・地域・性別・年齢・経済状況などから見てみると、様々な格差が浮き彫りとなり、”取り残された人々”の存在が明らかとなった。つまり、MDGsは先進国による発展途上国の開発という側面が大きく、一人一人には目が向けられていなかった。そして、そのためにこの”取り残された” 人たち(それは一見支援の対象ではなさそうな、目では見えにくい脆弱性を持った人たちかもしれない)が出てきてしまった。このことをふまえて新たに定められた目標がSDGsである。
これからの時代は、2005年の世界サミットで「人間の安全保障」という考え方が提唱されたように、一人一人に目を向け、その誰にとっても生きやすい世界を作られることが求められている。先進国か途上国、男性か女性、お年寄りか若者、現在の人々か未来の人々といった、ある一部の人たちにとってのみ生きやすい世の中ではなく、誰もが普遍的に生きやすいと感じられる世の中にしていくこと、ユニバーサルデザイン的な考え方をもって世界を作っていくことが必要だ。
 このような世界を作っていくためには、まずどのような人たちが”取り残された”のかを考えなければならない。そのためには、「真の」豊かさについても見直さなければならないだろう。MDGsが設定された時点の貧困の捉え方は絶対的貧困が主流であった。そこでは主に、飢餓に苦しんでいるかどうか、安全な飲料水と衛生設備を継続的に利用できるかどうか、といった生死にかかわる要因が豊かな人とそうでない人を分けていた。しかし、飢餓に苦しんでいないから、安全な飲料水と衛生設備を利用できているからといって、それは真に豊かな状態であるといえるだろうか。私は言えないと思う、といってもMDGsが目指していたところが間違っていたと言いたいわけではない。社会経済の発展によって、物質的な豊かさから心の豊かさなど物質的ではない豊かさに重点が置かれるように世の中が変化してきたのだ。物質的のみに豊かさを捉えていたことが”取り残された”人たちを生み出してしまった原因の一つだろう。これからは”平均値”で見る進展の陰に取り残された人たちがいることや、格差の拡大に目を向けなければならない。絶対的貧困だけでなく相対的貧困にもフォーカスし、豊かについてもお金では測れないところまで考慮していくことが必要だ。すべての個人が、すべての権利を享受し、人間としての潜在力を十分に発展させるために、平等な機会を持ち、恐怖からの自由と欠乏からの自由を得る権利を有すべきことを「人間の安全保障」が提唱された地球サミットで各国の首脳が認めた。この世界の実現のために私たち一人一人に出来ることが何かあるだろうか。それが、SDGsで掲げられている17の目標と169のターゲットを実践していくことだと思う。MDGsでは達成しきれなった国内格差をなくすこと、絶対的貧困のみならず相対的貧困を撲滅することなどを、途上国だけではなく先進国も含めた全世界共通の課題として認識し、専門家だけではなく全世界の一人一人が取り組んでいくことが必要だ。それも、SDGsという言葉の一人歩きとならないように、SDGsが目指す世界をみんなが心に思い描いて取り組まなければ意味がない。これからSDGsの掲げる17の目標と169のターゲットに取り組む企業や個人は、その取り組みを広げるだけではなく、現在の世界の状況と目指す未来の世界をも同時に周知していかなければならない。また、このSDGsに取り組む仲間を増やしていくために、まだ小さい子供たちにSDGsについて知ってもらう機会をもっともっと設けるべきだ。「誰一人取り残さない」というのは、決して今を生きる人間のみを指すのではない。将来世代、あるいは人間以外すべての生き物たちをも取り残さない世界をつくっていかなければならないのだ。この意識をしっかり持って、私はこれからも自分にできる小さなことから取り組んでいこうと思う。

茶谷杏吏 創価高等学校 3年生

 

いま世界には取り残されている人は多くいる。実際に紛争による難民だけでも約8000万人いる。そこで私はこの約8000万人が社会から取り残されないようになるための政策を提案する。それは、全世界の小学校、中学校、高等学校、大学の必修科目として、紛争や難民に関することを知り、学ぶカリキュラムを導入することである。この政策を提案する主な理由は、2つある。
1つ目は、紛争や難民について知っている人が世界に少ないからである。難民の数は多く、難民の出身国や支援団体だけで解決できる問題ではなくなっている。しかし最近では、ニュースや新聞で新型コロナウイルスの報道ばかりで、世界の紛争や戦争に関することを取り上げているメディアは少ない。さらに電子機器の発達により、特に若者の多くはニュース離れになっており、見るとしても芸能関係やゲームなど自分の好きなジャンルばかりになっている。紛争や戦争はどうしても暗いニュースであるため、目を向けない人を多くいるだろう。難民について知らなければ、難民を取り残してしまう世界が変わることはなく、さらに今よりも難民を増やしてしまう可能性もある。なぜなら受入国にとって難民は利点だけではないため受け入れを拒否したり制限したりするからである。紛争や難民について知ることで、自分は何ができるのか、難民を受け入れることの利点は何か、また仮に大きなことはできないとしても自分たちの生活がどんなに恵まれているのかを確認し日々の生活を大切にしていこうと決意し考えることができると思われる。
2つ目は、一人ひとりの意識が変化していくからである。必修科目としてカリキュラムを導入することにより文部科学省が紛争や難民について深く知り学ぶことになる。文部科学省が知ることにより、国民よりも世界とコミュニケーションがとりやすい政府の難民に対する意識が変わり、政策や難民認定基準が緩まる可能性があるからである。すると難民を受け入れる環境が変わり、難民が減っていくと考える。政府だけでなく、国民の意識も変わっていくと思われる。小学生、中学生、高校生、大学生が学ぶことにより、将来の仕事の選択肢として支援団体を視野に入れる人が増えたり、若者の発想や考えが世界中の人の意識を変えることができるからである。実際に当時10代であったマララ・ユスフザイさんの国連本部でのスピーチが多くの人の意識を変えた。また、こどもから親へ学んだことが伝えられ、親世代も現状を知ることができ意識が変化していくと思われる。
一人ひとりが難民について知り、考え、知識を身につけることにより、多くの人に派生していき難民が世界から取り残されなくなっていくのではないかと考える。
では、実際に難民について知る、学ぶカリキュラムとはどのようなことをやれば良いのかというと、例えばNGOやUNICEFで働いている方の話を聞いたり、実際に紛争や戦争が起こってる地域のドキュメンタリー映画を見るなどである。また、カードゲームや自分が難民だったらどうするか、どのように接してもらいたいかなど、体験、想像しながら知っていくこともいいと思う。これらを通して得た知識を踏まえ、国として、一人の人間としてどのように行動していくべきか、何をすることが解決につながるのかを考え深めていく内容にする必要がある。
誰一人取り残さない世界を作ることは難しいことである。しかし、一つ一つの問題を確実に解決していけばいつか世界平和が実現されるときがくると思われる。その問題の解決策として今回私は、全世界の小学校、中学校、高等学校、大学の必修科目として、紛争や難民に関することを知り、学ぶカリキュラムを導入することを提案した。一人ひとりの考えや意識の変化が多くの人に派生し、世界中の人が問題解決に邁進していくことを期待している。

 

池谷麻菜 Kalani High School 12年生

取り残されない、取り残さないために

「人は貧しくなると世界から見えなくなる。あなたは何人のホームレスの名前を知っていますか。」ハワイ大学ヒロ校でSDGsを教えるエリカ先生が私たち生徒に突きつけた言葉。その言葉は、毎日会うホームレスの名前を一人も知らない自分に驚きを届けるのと同時に、片親、日本人移民、ハワイでは低所得と分類される家庭で育つ私がいつ世界から見えなくなってしまうのだろうかと心を不安と悲しみで覆った。
透き通る海、踊るヤシの木、燦々と光り輝く太陽。私が住むアメリカ・ハワイ州は美しい自然と景色でよく知られていると思う。でもその裏側では、ホームレスの増加、違法薬物の乱用、海面上昇、森林伐採、止まらない物価の高騰、コロナによる観光業の衰退など、何本指があっても数えきれない問題を抱えている。ハワイの社会問題を嘆くだけではなく、解決していく力になってみたい。私はハワイ州議会のペルーソ議員に連絡し、今年二月からインターンシップをさせていただけることになった。
政治から見るハワイは、高校に通っていただけの私の世界をグンと広げた。例えば、州議会で公立学校教諭の減給を取りやめるべきという証言を提出する際に行ったリサーチを通して、年間六万ものハワイの子供達が、免許を持った教諭から授業を受けられない現状を知ったり。公立学校で無料の生理用品を提供する政策が通ったことを祝福するインスタ投稿の作成を通して、貧困によって生理用品が買えず学校を休まざるおえない女子生徒を知ったり。政府がアメリカ軍に訓練場として貸し出している土地をネイティブハワイアンに返すよう訴える抗議運動への参加を通して、人種差別、人権侵害が今でも起きていることを知ったり。自分を囲う今まで見えていなかった人や事実が徐々に見えるようになっていった。
そんな私は現在、ハワイ大学ヒロ校のオンライン授業を通して、SDGsの目標3「すべての人に健康と福祉を」への理解を深めるため、貧困家庭の母子の健康的な食事を支えるハワイと世界の政策について研究している。インターンシップ先ではハワイの公立学校の給食に、輸入品や缶詰食品ではなく、地域で採れた新鮮な野菜や果物の導入を促進するプロジェクトに携わっている。また、将来は貧困、田舎、紛争地に住むことなどを理由に医療を受けられないお母さん達のお産を支え、国際的に活躍する助産師になりたいという思いが強くなり、大学受験にも励んでいる。自分が起こす一つ一つの行動が、一人でも多くの人や事実を見ること、見えるようにすることに繋がっていけば。誰一人取り残さない社会の実現に向けて、私は今日も新たな行動を起こしていく。

 

池水一花 横浜市立本牧南小学校

動物や魚たちを守るために

 みなさんは、たくさんの動物や魚が住み家がなくなって絶滅危惧種になったり、死んでしまったりしているのはなぜかわかりますか。それは、私たちが「別に気を切ったっていい。」「海にゴミをすててもわからないだろう。」と思ってポイすてしたりしているので、多くの生き物が死んでしまったりしているのです。なので、野生のアフリカゾウやジャイアントパンダなど、絶滅のおそれがある生き物やクジラなどが死んでしまったりしているのです。
 わたしが、動物園に行ったとき「SDGs」のことが書いてあるパネルを見ました。ゴミのことなどが色々書いてあるのを見て二つおどろいたことがありました。それは、世界でもっともゴミが多い三つの国の中に、日本が入っていました。ほかにも、動物園にいた野生の生き物は、絶滅のおそれがあると、書いてありました。ほかには、うみがめの鼻にストローが入ってしまっているニュースも見ました。
 でも私は、こんなに、日本はゴミがたくさんあり、自分たちがたった一つだけポイすてをしただけで生き物たちがこまっていることを知りました。そして、それも知らずにあまり注意もせずに、わからないと思ってすててしまっている自分たちが環境を破壊していることがとてもいけないと思います。それに環境のニュースを見ていても、私は、関係ないと思って見ていました。ですが、数十年後には、私たちが食べているマグロやアジなどの魚の中からプラスチックがでてくるかもしれないということを知ったら、魚たちを少しでも守ってあげたいと思いました。
 私は、動物や魚たちを守るために、ゴミをポイすてせずに、持ち帰るようにしたり、分別するようにしています。ですが、注意をすることはしていなかったので、注意をして環境を守っていきたいと私は、思いました。そして、動物や魚たちを助けてあげたいと思いますし、私は、一人一人の行動で世界が変わっていくと思うので、よりよい世界にするために、一つでもゴミをへらせるようにしていきたいと私は、思っています。

大野春寧 新田青雲中等教育学校

 

 私が世の中に訴えたいことは、聞いてくれる存在がいかに大切かということである。なぜなら、世界は今、直接人とのコミュニケーションをすることが難しく人の温かさを求めているからだ。
 私は去年、体育祭で応援団の幹部に立候補した。応援団は体育祭の花形である。演舞を考え、団員に伝える役割を担う。そのため少し早い時期に2,3人で集まり相談や準備をするのが毎年の流れだ。今年は新型コロナウイルス感染予防のため、すぐに練習が出来ず、学校での全体練習が始まった。沢山の人に教えることの大変さや、コロナ対策不足ではないのかと難しい状況や問題があり揉めることの多さを感じた。それでも何とか進んできたが、ある日先に、「幹部が緩みすぎ。このまま緩みが続くのだったら体育祭を中止する。」と言われた。私は今までの努力が全否定されたように思え心が折れそうになった。しかし、ある一人の先生が急に声をかけてくれ、今までのことを話したら「気にせず、そのままやっていけばいいと思う。」と言ってくれた。私はその時、先生の一言で心がすごく軽くなった。今、体育祭の時を振り返ると、だれにも相談することが出来ず悩んでいるときに自分が正しいと思ってきた選択が否定され、自分の気持ちが整理できなくなっていたのではないのかと思った。そこに一つでも否定されない言葉をもらうと心が軽くなり救われると考えた。
 そこで、ある一つの映画からその考えを実現できるのではないのかと思った。その映画は、ある一人の人が困っている人、二人を助ける。その助けた人は、それぞれ二人に「私が今あなたを助けたようにだれか困っている人を二人ずつ助けてください。またこのことを伝えていってください。」と伝え、助けられた二人は、それぞれ二人ずつ誰かを助ける。伝言が伝わっていき助け合いの輪が広く繋がるという話だった。
 その方法を、松山市の人口動態(令和2年版)によると、松山市の人口から一日で一人の人が二人助け、その輪をつなげていけば何日かかるのかを計算した。人に被りがないものと考えると、19日で全ての人に助け合いの輪が繋がることがわっかた。もしこの助け合いの輪が実現すれば、今世界で注目されているSDGsのゴール5,ジェンダー平等の実現や、ゴール10、人や国の不平等をなくす取り組みに一歩近づくことができるのではないのかと思った。また、人と人との輪で心が楽になる人の増加につながるだろう。
 助け合いの輪の何人かが環境問題に注目し、海のプラスチックごみの回収や山での不法投棄物の回収するような取り組みをすればゴール14、海の豊かさを守ることやゴール15、陸の豊かさを守るといった、環境問題も解決することができるのではないのかと考えた。
 このようなことが世界に広がれば、自然豊かな場所が増えたり、病気になる人も少なくなったり、今よりもみんなが笑顔で楽しく過ごすことができる町や国になる。聞いてくれる存在がいるだけで人を助けることができ、人と人との助け合いがあるだけで誰でもSDGsのゴールに、一歩でも近づくことができると考える。私もあなたも、誰かの話を温かい心を持って聞くことはできる。誰もが誰かを幸せにし、地球に優しい取り組みができる。だからこそ、今すべての人に耳を傾けてほしいと伝えたい。

 

K 大学4年生

 

私は”豊かな人生を歩む可能性から取り残される子供”を無くしたい。具体的には、教育の機会を貧困、家庭環境などにより左右されない社会を作りたい。
塾の講師としてアルバイトをしているが、塾に通っている学生でさえ家庭環境、親の教育方針によって十分なあるいはその子が望むだけの教育が与えられない場合があると感じた。日本は先進国を謳いながら、ジェンダー差は大きく教育水準も他国と比べて高いとは言えない。
私は、高い教育を受けたいと心から望むどんな子供たちにも教育が与えられる社会を作る。
ここで重要になってくるのは、本人たちのやる気である。どんなにやる気のない子も親が金を払えば塾あるいは受験をし、あまつさえ合格させることが出来る場合があるが、お金ではなく本人が学校以上あるいは今自分がいる環境以上の教育を受けたいと思っているかどうかの意識調査が大切になってくる。
まず小学校から高校までの学生たちに意識調査のプリントを配る。
次のようなことを調べるプリントだ。
家庭の事情によって塾に通いたくても通えない、家庭環境により家で勉強することが出来ない、金銭問題等により受験が厳しいが受験をしたい、もっと学びたい、大学に行きたいという強い意欲はあるという生徒を調査する。
それらの調査によって高い意欲はあるが機会に恵まれなかった子供たちを学校の先生、地域の人達が支援する。
子供たちに足りないのは適切な情報と環境である。
インターネットの普及により簡単に情報を得られるようになった昨今、一方で情報格差がうまれるようになった。それが最も顕著にあらわれるのは子供たちである。
支援制度、奨学金などの情報を持ち合わせていないケースが多い。生徒の意志、描く将来設計にそった的確でユースフルな情報を提供する。
そして、勉強出来る環境を整える。放課後、学校の教室を解放する、あるいは公民館や公共の場所を提供し自習室を設ける。
そこでは学校の先生方や、地域の人たち、大学生らがボランティアで勉強を教える。
そういった活動が当たり前になる社会を私は目指していきたい。
コロナ禍で人と人との繋がりが分断される今だからこそ、繋がりを大切にしないといけない。
家の中にしか居場所が無く、そこがどんなに耐え難い環境であっても逃げ出せない子供たちは思いのほか多くいるのである。
露顕されにくいのは子供たちに主張し行動する力が無いからである。
他人の子供だから、自分とは関係ないからと言って見て見ぬふりをしている場合ではない。そうしていれば、日本は経済的にも文化的にも、資本的にもどんどん貧しい国になっていくだろう。
日本の明るい未来のためにも、声を上げ難い子供たちに適切な情報と環境を提供出来る社会を作っていきたい。

 

oota 大学2年生

 

私は、このコロナ禍で、日本の足りない部分が見えたと感じる。特に、女性の社会進出についてだ。女性と男性の差を述べると、「差別」と捉えられるかもしれないが眼を瞑って読んでいただきたい。日本経済は、コロナ禍前から男性中心である。その時から、女性の雇用・社会進出について様々な問題が飛び交った。しかし、コロナウイルスという新たな因子にぶつかり、女性の雇用・社会進出の問題がより大きく浮き彫りになった(男性に比べ、日本経済という障壁に取り残された)と感じる。以下から、コロナ禍によって、それまで以上に浮き彫りになった問題について具体的に述べていく。
初めに、コロナウイルスによって、多職種が仕事を失うことになった。(今は徐々に回復しつつあるが)飲食店、カラオケ店、温泉、テーマランド、映画、観光業などである。この職種と女性とで、なんの関連があるのか疑問を持つ人も多いだろう。だが、関連はあると私は考えている。その関連というのは、「非正規雇用」だ。総務省統計局が出している労働力調査(2020)では『男性の非正規雇用 665人、 女性の非正規雇用 1425人』 と記されている。統計でも女性の非正規雇用は男性と比較して多いことは明らかである。そして、コロナウイルスによって失業した多くの職種は、非正規雇用の力で営業していたと思う。そのため、非正規雇用の多い、女性が失業し路頭に迷う羽目になったと考える。また、上記のような職種でなく、一般の中小企業も同じことが言えると思う。派遣社員の多くは女性であり、経営状況が悪化すれば正社員ではなく、派遣社員・非正規雇用者を切るだろう。以上のことから、コロナウイルスと女性の非正規雇用の関連がわかり、コロナ禍によって生じた障壁に女性が取り残されている。ということを理解していただいたと思う。以下から、なぜその障壁があり、どのようにすれば改善していくのか。私の考えを述べる。
まず、非正規雇用の障壁はなぜあるのか述べる。それは、日本経済は男性中心(男性が生きやすいよう)に作られた物だからだと考える。男性が働きやすい場として完成されている所へ、女性がなんの問題もなく入ることは難しいように感じる。(価値観が大きく違うように考えるため)であるから、女性は就業する際、正規雇用ではなく非正規雇用として雇われるのだと思う。また、日本は古風な考え方を持つ人が多く、未だに「男は外で金を稼ぎ、女は中で家を守る」といった風潮がある。この風潮も、女性の非正規雇用に関係していると考える。次に、この障壁を越える改善策について述べる。今まさに、この問題について日本は取り組んでいると思う。しかし、はっきりと改善の兆しが見られないのは、日本人・日本経済の中で、未だ性差があるからだと思う。であるから、性差のない雇用方法・就業体系をより形作るべきであると考える。実際行っているところもあるが、例えば履歴書に性別・写真を載せない記さない。そして、面接は完全オンラインのアバターを用いるなど、性別がわからない、わかることはその人の能力・経験のみということだ。この方法であれば、誰が男で女かなどはわからず、対象者を一人の人間として見るしかほかならない。以下から、これまで述べたことのまとめを述べる。
以上の通り、コロナウイルスにより非正規雇用の女性の障壁が明らかとなった。そして、その女性たちは、この世の中で取り残されていると考える。なぜなら、男性社会、また古風な風潮が未だ蔓延しているからだ。これを改善する、非正規雇用の女性を日本経済から取り残さないためには、より性差のない就業方法を模索するべきである。

 

大塚初音 京都産業大学

 

「世界を平和にしたい」
 これは、私が日頃から思っていることです。私は国際関係学部を学ぶ大学3年生で、SNSで世界の問題について発信しています。大学生活は私にとって濃いもので、刺激的なものです。高校までと大学に入ってからで、私の考えや内面も大きく変わりました。
「平和な世界になってほしい」
 これが、高校までの私の考えでした。高校までの私は内気で人前に立つのが大の苦手でした。目立つことを好まず、自分の意見を飲み込んでしまうことすらありました。そんな私がなぜ、SNSで発信をしようと思ったのかというと、「行動しないと何も変わらない」、逆を言えば、「行動すれば何かが変わる」ということに気づいたからです。大学に入って、世界に潜む問題は複雑で解決が難しいものが多くあるという事実に直面しました。同時に、私にもできることはあるということも学びました。「ただの傍観者になりたくない」「私は世界を変えたい」そう強く思うようになったのです。
 世界を変えるためには一人一人の意識が大切です。問題を知らなければ取り残されてしまっている人に気づくこともできず、助けを求めている人の声を聞くことすらできず、アクションを起こすこともできません。そこで私は、SNSで国際問題や社会問題を発信しようと考えたのです。現在は友人と、どうすればわかりやすく伝わるか、どうすれば見やすいデザインになるかなど、試行錯誤しています。それに加え、「この問題に対しては、こんな支援ができるんだよ」ということも伝え、誰かの行動を変えたいという思いで発信しています。そのおかげで、それを見てくれた家族や友人から、「こんな事実知らなかった」「私にもできることをしたいと思った」という声を受け取ることができました。
 もう一つ、私には夢があります。それは、世界の問題を伝える絵本を描くことです。子どもたちにも分かりやすく、世界の問題を伝えたいのです。「世界にはごはんを食べられない人がいるんだよ」「LGBTや外国人、障がいを持つ人に対する差別や偏見はよくないことだよ」「十人十色、世界にはたくさんの人がいてそれぞれが個性を持っているんだよ」このような問題を子どもにも分かりやすく伝えることは簡単ではありません。しかし、「行動すれば何かが変わる」という私のマインドを大切にし、チャレンジしたいのです。
 最後に、私のように世界に起こる問題を知って、その現状を変えたいと思っている方にお願いです。その事実を周りの人に広めてください。大きな影響力がなくても、小さな行動で何かが変わります。自分の行動で誰かの行動が変わり、助けを必要としている人を救うことができるかもしれません。間接的にでも私は、現状を知らない人々が、助けを求める人の存在に気づくことができるお手伝いがしたいのです。大げさな言葉ですが、やっぱり私は取り残されて苦しんでいる人がいるこの「世界を変えたい」です。

 

大塚彪雅 埼玉大学 4年生

思想の告白

 

自らの思いを口にすることを憚らない友人がいる。その友人は高校時代、リーダーシップがあり、柔軟な発想を持って誰にでも分け隔てなく接するクラスの中心にいるような人物であった。私は友人を尊敬しており、大学に進んでからも私は友人と食事をしたり遊んだりする機会があった。
ある日、友人は近況報告と同じ抑揚で、自らがバイセクシュアルであると私に伝えた。
私はまだ、ジェンダー論については全くの無知であったにもかかわらず、素直にその言葉を受け入れることができた。友人であるという事実に対し、その人の性自認は私にとって大きなことではなかったのである。
またある日、友人はヴィーガンになったと私に語った。私は当時、菜食主義について無知であったが、違和感もなく受け入れた。菜食主義について聞いている中で、小学生の頃、動物愛護的な考えのもと、自主的に肉を絶った時期があった自分の経験に重なる部分を見つけ、共感できたためかもしれない。
こういった日々の中で、自分の考えを素直に示し、実行していく友人に対し、私は尊敬の念を増していた。
そんな友人に先日「高校の同級生との仲に不安を感じている。」といった旨の話を聞き、私は驚くと同時に寂しい気持ちになった。友人が自分の考えを自らの友に示す姿勢を、煩わしいと考える人がいるという。話を聞いてみると、煩わしいと思う人というのが必ずしも菜食主義や、性的マイノリティに偏見を持っているわけではないという。ただ、気楽にあれる友人関係に自らの思想を持ち込まれることを、煩わしいと思い、結果としてからかってしまったり、話を遮ってしまったりするのであると。
思えば私を含め、若者が友人間で政治思想を語ることは少ないように思う。政治に限らず、宗教観など思想を友人のアイデンティティとして受け入れることに慣れていない人が多いのかもしれない。相手の考えを日々の会話だけでなんとなく解釈し、自分の考えを多くは語らずに続ける友人関係は確かに楽だ。しかしながら、自らの思想が少数派であると自覚したとき、思想を吐露することができる相手はまずは家族や友人であると思うし、そうあるべきだと思う。性自認を他者に伝えるとき、「告白する」という言葉を使うことが多い。自らの性を伝えるだけで、「告白」などという大それた動詞を必要としてしまうのである。誰ひとり取り残さないためにできる、最も身近なことは、自らの考えや思いなどの思想を覚悟せずとも友人と語り合える関係性を多くの人が築き上げることなのではないだろうか。
結局、友人とは「該当の高校の同級生との距離の取り方、話の内容を考える」という私の提案を友人が受ける形で話を終えた。私の提案は現状友人が取る対応としては間違っていないと今でも思う。それこそが現状なのだと私は思う。

 

大谷紗生 横浜隼人高等学校

 

 私たちは日々生活していく中で、さまざまな世界の問題をニュースなどで見る機会がある。私自身は学校のSDGsの活動で17項目のゴールがあることを知り、解決しなければいけないことが世界にはたくさんあることを知った。だが、自分の中で、そのことをどこか他人事の様に考えてしまっている自分がいて、行動を起こすにも何から始めればいいのか分からない。という状態になってしまった。世界にたくさんの課題がある中で、その解決の過程から取り残されてしまうような感じがしている人はもしかしたら私だけではないのではないか、と思った。そういう人が多い中では、問題の解決に向かいにくいと思う。しかし、自分たちにできることは必ずある。行動を起こせる人を増やすには、まずは、何ができるのかを具体的に知ることからだと思う。また、身近なことであればあるほど、自分に関わることとして捉えやすいと思う。そこで、何が私の中で身近に捉えやすいかと考えた時に、つくる責任、つかう責任というSDGsの12個目のゴールのつかう責任が自分にとってとても身近だと感じた。          
 この世の中には大量の『もの』があり、使われなかったり、食べられなかったりして捨てられてしまって大量廃棄という問題になってしまっている。また環境に優しくない『もの』が大量に生産されているという現状もある。このことを考えたとき、私はここには大きく分けて2つの立場があると気づいた。それは生産する立場と消費する立場である。私はその消費する立場について詳しく考えてみた。
 まず、消費する立場にはこの世の全ての人が当てはまると思う。『消費』という言葉に焦点を当てた上でのことだが、私たち高校生も老人から赤ちゃんまで皆食べ物や衣服など何かを消費して生きている。この中で気づいたのは世界の中で消費するものの量や値段に格差が生じてしまっているということだ。特に顕著に感じられたのは食品についてである。最近、先進国では、食品ロスが問題になっている。日本では年間でまだ食べられる食品が600万トンも廃棄されており、世界全体では13億トンもの食品が廃棄されている。それにも関わらず、世界には飢餓の危機に直面している国がある。食品ロス自体は先進国でも途上国でも起こっているが、その原因は全く違う理由である。先進国では過剰生産された食品が売り残り、廃棄されてしまったり、消費者による買い過ぎで余った食料は消費者側に余裕があるため廃棄されてしまったりなどして食品ロスが生まれている。一方発展途上国では、生産段階や設備の不足などにより、生産過程で食品が悪くなってしまうなど、消費者の元まで食品が届かぬまま廃棄されてしまうことが多い。私はこのことを調べて私たちが当たり前にできている食品の消費活動から取り残されてしまっている人々がいるということに気付いた。だが同時に先進国に住む私たちはこのような現状を改善するために身近にできることがあるということにも気づいた。それは、先述した食品ロスを減らす努力をすることである。例えば、スーパーの買い出しに行くときに冷蔵庫の中身をしっかりと確認して、必要なものをメモしてから行くことや、食品売り場では賞味期限や消費期限が早い順番に前から並んでいるため、手前からとるなどである。これらは決して難しいことではないし、日常的でとても身近なことだ。
 世界の問題を解決する、ということだけを考えると、何か大きなことをしなければならないと考えてしまいがちだと思う。私自身もそうで、今まで世界の問題や課題についてどこか他人事と捉えてしまっていた。また、自分の些細な行動ではなにも変わることはないのではと思ってしまっていたこともあった。しかし、少し普段の買い物の仕方を変えるだけでも、それは問題解決のための一つの行動になるのだ。そして、1人1人が行動をしていけばやがて大きな変化をもたらせるかもしれない。これからは世界の問題を他人事とは捉えず、身近な出来ることを探して始めて行きたいと思う。また、もし、以前の私と同じような状況にいる人がいたら、身近なことにできることがあるということに気づいてほしいと思う。

 

大川歩夏 横浜隼人高校

 

私は今回 SDGs の目標 5 のジェンダー平等について考えた。その中でも私は、女性の社会進出に注目した。日本で最も女性の社会での地位の低さがわかるのは政界ではないか。日本の政界の男女比率はおよそ 9:1 と女性はたったの 10%にしか満たない。世界の女性国会議員比率のなかで、2019 年のデータでは 193 カ国中 165 位ととても低い。では、なぜこんなにも日本は女性の政治家が少ないのか。それは昔日本人の多くが思っていた「男性が働き、女性が家事や育児をする」という考えによるものなのではないか。最近では 1999 年の男女共同参画社会基本法などにより多くの職業で男女差別が減ってきている。しかし、政界では未だ男女差は解決されていない。これは政治家の多くの人が昔からの固定概念に囚われているからではないか。今年の 2 月、東京五輪組織委員会の元森会長が女性蔑視発言により辞任した。これは政治家の人が女性を軽視していることがよくわかる。これが一部の人の考えだとしても、上に立つ者がこのような考えではいつまでたっても改善されていくことはない。しかし、女性の社会進出が難しい問題ではないと思う。世界では政界での男女比率がほぼ同数の国もある。世界で最も女性議員の多い国のルワンダでは、憲法において、「指導的機関の地位のうち少なくとも 30%を女性が占めるものとする」と定 められている。他にもフランスでは、「パリテ法」という法律があり、これは各政党に対して、男女同数・平等な 50%ずつの候補者擁立を義務付けてる法律である。また、オランダでは「ジェンダーレストランプ」というものがある。これは普通のトランプとは違い、 キング、クイーン、ジャックではあなく、ゴールド、シルバー、ブロンドとなっている。 なぜこのようになっているかというと、キングやクイーンだと、男性の方が強いというイメージがあるので、オリンピックなどの順位で用いられるゴールドやシルバーが使われている。このように他国では国会議員の男女比を平等にするために国が法律によって対策をしていたり、男女の強さのイメージを壊すようなことがされている。ということは日本でも男女差をなくすことは可能なのではないか。 そこで私は今私たち高校生にできることと、日本にできることを考えてみた。まず私たち 高校生にできることは、現状を知ること。現状を知って何になるのかと思う人もいるかもしれない。しかし、現状を知らなければことの深刻さを理解できず改善につながらないと思う。現状を知った後は自分の意識を変える必要がある。今の子供は昔に比べて男性の方が上、女性の方が下、という意識は低いかもしれない。しかし、低いではダメだ。この意識は一切なくさなければいけない。そのために国は法律を変えるという大きなことではなくても、女性議員の活躍の場を増やしていくべきだと思う。そうすれば国会議員の男女差 に対するイメージはなくなるはずだ。イメージがなくなれば今すぐとはいかなくても、少しづつ日本の男女差は改善していくだろう。

 

大西諒磨 私立横浜高等学校 2年アクティブコース

 

私は最近「取り残される人」を、どのように取り扱うべきかを社会全体を通して、考えて行動に移すべき時がこの日本社会において、今なのではないかと思う。「取り残される人」には、貧困や女性、黒人などの特定の人種があげられることが多いと思うが、私たち日本社会の中で今より注目しなければならないのは目に見えない「取り残された人」たちではないだろうか。私が高校一年の頃、このような事件があった。電車の中で、知的障害者の方が取り乱していたのを見た学生が見下したような笑みを浮かべたことに、学校にクレームが入ってきたのだ。私には二つの思いがあった。一つの思いは、ほぼ同質の人間しかいない日本のような島国に生まれれば、確かにこのような学生が出るのはありうるのではないかと、私の頭では合点がいったことだ。アメリカで6年弱暮らした私に身についている“習慣”はこの日本という国家内では身に着きにくい。また、もう一つの思いは、旧態依然な社会構造が残っていることだ。新自由主義は「国の負担を減らす」という効率的滑車を持ったが、それと同時に回してはならない評価による「差別の助長」をする排外的滑車を回してしまった。しかし、その責任を当時の人々に押し付けるのは些か話としては不整合である。「我々はすべて弱さと過ちから作られているのだ。我々の愚かしさを許し合おう。これが自然界の第一原則である。」と、啓蒙主義を代表する哲学者の一人であったヴォルテールは言う。であるならば、我々は失敗を今に活かすべきなのだ。だからこそ、社会の構成員一同が考え、行動に移すべきという一文目に原点回帰するのだ。ここで話を改める。では、「取り残された人」または「比較的取り残されていない人」とどのように社会が接するべきなのであろうか。私は、2つの社会提言をする。まず、1つ目は「社会が同質な存在」を強く求めすぎないことである。アメリカには多くの人種、語族、文化、バックグラウンドを持つ人が一つの空間に存在し、お互いに認め合いながらも、差異を形成して、個人を形作り大きな社会となっている。これを人は「人種のサラダボウル」と言った。アメリカが「人種の坩堝」をやめたことは、今の日本社会と似た問題提起によるものだった。「人種の坩堝」では、様々な集団が混ざって、一つになることである。それに対し、「人種のサラダボウル」では、様々な集団が混ざり合いながらも、お互いの価値観や文化への理解を示すことである。アメリカがこの転換をしたことは世界史上大きな変革であったといえよう。この変革のおかげで、アメリカの公民権運動につながったと私は思う。確かに、アメリカには未だ黒人差別やアジア人差別が蔓延り一部の指導者らによる国家分断を生み、2020年には「Black Lives Matter」や2021年には「アジア系へのヘイトクライム」があるが、彼らは進歩した。今彼らの中には自浄しようという血液が流れている。2つ目に私が提言したいのは、「見えない状態を見える化」することだ。私は今まで「取り残された人」たちの例として、知的障害者を挙げたが、その他にも不登校児やニートは一部合致する部分があると思う。私の身の回りにも「不登校児」はいたが、彼らをどのように感情をうまく発揮し、対話できる心休まる場に学校がなるかが大事なのだ。そこで、1つ目の提言とも関与するが、「学校も、支配しやすい同質な生徒を求めすぎないこと」が大事になるのだ。確かに、一定程度学校は生徒を支配する必要性もあるとともに、統率・安全の観点からも外せない。しかし、それを極端に生徒に求めれば、拒否反応を示す生徒も一定程度出てくるであろうし、そういった環境から自由で開かれた雰囲気は出てこない。だから、学校ではいじめが横行しそれを担任に相談しにくい雰囲気があるため、相談できず毎年多くの人が亡くなっている。亡くならずとも心を病み学校に行くだけで吐き気を催す人は一定確実にいる。私の周りにも、そういう生徒は小・中・高で確実にいた。本当に、些細な一言・行動が子供の心には突き刺さり、大人にその傷を見せることなく、刃物を抜き、大量出血する。気づいたころには、血の海で心が正常な判断を下せず、社会からはみ出る。子供は今の日本社会の縮図を作り上げているのだ。だから、これらが見える環境や空気を社会全体に通す必要があると思う。このように、私は2つの提言をした。これらは未熟な高校生の浅知恵かもしれないが、この声が社会全体に広がることを望む。また、SDGsの「誰一人取り残さない」という、この理念を再度我々は認識すべきである。

 

大杉千紘 横浜隼人高等学校 2年生国際語科

 

 私は当たり前のように毎日学校へ行き、当たり前に授業を受けている。それが私にとっての「普通の生活」となっている。だが、全世界の子供が同じような教育を受けこの生活を送れていないのが今の現状だ。
 私は数日前、テレビ番組で学校へ通わずに親が全ての教科を教えている家族が出ているところを見て、さらに、近頃そのように学校へ行かせない家庭も増えている傾向があることを知った。学校へ通うことにすぎることはないが、確かに親が十分に学校と同様に教育ができる学力があり、尚且つ同世代との人間関係が築けているのならば一番の学校へ通う目的が果たされるため通う必要はない。
 日本はおよそ全ての子供が少なくとも九年間の義務教育を受けているが、主に欧州・北米地域は十人に一人ほどしか十分な教育を受けられていない。理由としては学校、先生の不足や、学校に通えるお金がない、妹弟を世話しなければならない働いて家計を助けなければならないなどの家庭的な問題でもある。
 十分な教育を受けられず大人になったら、能力が身に付かず生活ができるほどの収入が手に入らない、食料を買えないことでご飯を食べられず病気になりやす、そして仕事ができず収入を得られず自分の子供にも学校に行かせることができない、という負の連鎖が起こる。この連鎖が一度起き始めてしまうと止めることは難しい。やはりこの連鎖を止めるには周りの援助が必要だと私は考える。
 学校へ行けなくなってしまった子供たちに学校へ通えるようにするためにはまず十分に先生が足りている国から先生を異動させそのためには他の国でも生きていける国際的な力が必要だ。そのほかには、学校をどの子供も歩いて通える位置に設立させること。だが、これはだれにでもできるわけではない。特に私たちのような未成年は行動を自由に起こすことがまだ難しい。だが、子供が学校に通えていない家庭に限らず、貧しい地域に募金を積極的にすることや要らなくなったCD・DVD・書籍を売ることも一つの支援となる。そのことも難しいという人は、学校に通いたくても通えない子供たちを救うために自らそのことについて調べることで問題への理解を深め、伝えていくことも重要だと考える。一人でも多くの子供に教育を行き届かせるには、現状の課題や解決策、必要な支援などの情報を自発的に提供することによって問題な対する理解を深められる。そのような行動をすることで、問題に対しての共感してくれる人を増やし、支援の輪が広がっていくのではないか。学生である私たちもできる子だから積極的に行動するべきだ。

 

たぬき 大学2年生

 

 「誰1人取り残さない」や「誰が取り残されているのか」という言葉から、私が最初に連想した対象者は、世界という大きな視点からみた発展途上国の人々だった。南北問題といわれ、富裕層と貧困層の所得の格差が叫ばれるほど、発展途上国で暮らす貧困層らは取り残されており、これは世界中の課題といえるだろう。そして、私は、2021年現在のパンデミック下においても発展途上国の人々は取り残される対象者となっているのではないかと危惧している。資本主義社会の中では、ワクチンを製造して販売したり、購入したりし、ワクチンの競争を行う先進国とワクチンの購入が厳しい発展途上国の間のワクチンの不平等が起こりうるのではないか、そしてこれが命の選別となってしまい、さらなる「取り残される人々」を生み出してしまうのではないかと危惧する。その点において、発展途上国の人々はパンデミック下において取り残されている人々といえよう。
 しかし、私は、パンデミック下がもたらしたのは、世界という大きな視点からみた不平等だけではないと考える。パンデミック下は、先進国である日本でも、「取り残される人々」を可視化できる状態であぶりだしたといえるだろう。例えば、暴力などによって家が安心して生活できる場所ではない人々は、ネットカフェの閉店により路上に出ることを強要されてしまう。また、ホームレスなどの住民基本台帳がない人は1人当たり一律10万円が給付される給付特別定額給付金がもらうことができない。つまり、新型コロナウイルスの影響によって、発展途上国だけでなく、先進国である日本においても「取り残される人々」が可視化できる状態で浮き彫りになっていることがわかる。
 そして、私自身が取り残されていないか、についても改めて考えてみた。私は、自身が暮らす沖縄県という地域をとても誇りに思っており、沖縄県で今後も生活をしていきたいと思う程である。しかし、沖縄県においても取り残されている人々は多くいると考えられる。例えば、沖縄県は貧困率が全国の約2倍高いといわれている。その根底には、利益が沖縄県外に流出してしまうザル経済などによる低所得、親とその子どもの貧困による貧困の世代間連鎖が挙げられるだろう。つまり、沖縄県では、現在解決されていない状態で残っている課題が別の課題に連鎖してしまっているという現状がある。そして、沖縄県において最も大きな問題のうちの1つとして捉えられているものが、米軍基地問題である。沖縄県ではPFOSなどの化学物質による水の汚染が私たちの暮らしの中で起きているといわれている。そしてこの汚染源として、米軍基地が考えられている。専門家や研究者によると、この化学物質には発がん性があり、成長被害をもたらすようで、沖縄県民の暮らす地域では、普段の生活に欠かせない水が汚染されており、危険なものだといわれている。沖縄の地方紙やテレビ局はこれを「取り残された沖縄」と表現することもある。つまり、私が今後も暮らしていきたい沖縄県という地域は、「取り残される」対象となっており、私自身も取り残されているのである。私は、弱者を淘汰しないことこそがSDGsの社会の側面からみた真に持続的な社会であり、重要だと考えている。そのため、沖縄県における「取り残された」現状に危機感を抱いており、私に何ができるのかを考えている。そして、私にできることとして、社会の現状を伝えることができるのではないかと考える。私は将来、個人というミクロな視点から、地域や世界というマクロな視点で構造的に物事を捉えて、現状を知り、そして伝え、多くの人の認知に影響を与えていきたいと考える。そして、現状を知った人々の心理や行動に影響を与え、誰1人取り残されない、真に持続可能な社会を築くために、様々な現場で活躍する人材育成に役立てていきたいと考える。そのため、私は、現在社会学を専攻し、弱者や個人に焦点を当てて話をうかがうことや、ジャーナリズムの視点から弱者に寄り添う報道について学んでいる。そしてこの論文も含め、私の発信によって沖縄県という離れた地域から、全国各地の人に、地域・世界の課題を認識させ、考えや行動に変化をもたらし、SDGsや「誰1人取り残さない社会」に関わっていきたいと考えている。

 

多比良浩之 会社員

「誰ひとり取り残さないニューノーマルな教育 オンライン留学」

「新型コロナウイルス感染拡大により、海外渡航及び、課外留学は全面的に禁止となります。」このアナウンスを聞いた際に、自分は一種の絶望のようなものを感じました。2020年、大学4年生であった自分は、長年の夢であった半年ほどの海外への留学を志していました。しかし、コロナによりその夢を叶えることは出来ませんでした。その際、新型コロナで取り残されているのは紛れもなく自分であると気付きました。
 グローバル化している現在、ビジネスや学問において、競争相手は国内にとどまりません。そのため、海外の人との交流は今後を担う若者にとって欠かせないものとなっています。また、留学情報を扱うICCコンサルタンツが留学に興味関心のある全国の15歳以上とその保護者448名を対象に行ったアンケートでは、新型コロナウイルスの影響下において、対象者の98%は留学に行きたい気持ちに変わりはないと考えていることがわかっています。*1  ではこのコロナ禍で海外に直接行かずに海外の知見や情報を得るためにはどうすれば良いのでしょうか?その鍵はオンラインにあります。大学4年の際、現地への留学が困難となった自分はオンライン留学を行いました。その当時オンライン留学という制度は徐々に増えていました。そこで、自分は3つの大学の授業を家からオンラインで受けていました。
 自分はオンライン留学は現地での留学に比べて大きく3点のメリットがあると考えています。1点目は、どこからでも受けることができる点です。そのため、普段出会うことが出来ない、地方の人や海外の人とも一緒に授業を受けることが出来ます。自分がアメリカの大学の授業を受けた際には、日本、中国、韓国、イタリアから来ている参加者がいました。その中で日本人は少数派であり、他の国の友達を多く作ることが出来ました。2点目は教授との距離が近い点です。対面での講義では教授との物理的な距離があり、質問をするのが難しいですが、オンラインだとすぐに質問することができます。中国の大学の授業に参加した際には、教授と授業終わりに話していたため、教授とSNSでも話す仲になりました。3点目は参加費用が安い点です。現地留学に比べて小額なため、お金に困っている学生にも優しいものとなっています。自分の友人にお金の問題で現地留学をする事が出来ない人がいたのですが、オンライン留学でアメリカの政治学の授業を受けることが出来ていました。
 以上で挙げたオンライン留学のメリット3点はSDGsの基本理念「誰ひとり取り残さない」を教育機会、居住地、お金の観点から体現しています。ワクチン摂取により、現地留学が少しずつ出来るようになってきていますが、オンライン留学は留学のニューノーマルであり、残り続けると考えています。これからも自分はオンライン留学に参加し続けると同時に、SNSでオンライン留学の良さを多くの人に知らせていきたいと思います。

*1 https://resemom.jp/article/2020/06/26/56931.html

 

佐藤はじめ(仮名) 学生

 

私は日本国に生きている。だから世界基準での見方が少し難しい。そのことを念頭に置いて、以下の文章を読んでいただきたい。と、言いながらも一応は、世界に目を向けながら、段々と日本での考えに変えて行きたいとは思っている。もし時間がないなら最後だけ見て欲しい。それが一番言いたい事だから。たとえば、ジェンダーの問題。それを取り上げる時、被害者はいつだって女性だ。そのことは理解したくないが分かってしまうし、私も被害者になったことがある。思い出したくもないけれど。だが、自身が痛みを分かってしまう者だからこそ思うのだ。いつになったら被害者を〝人間〟というくくりで考えてくれるのだろうと。分かっている、分かってはいるのだ。世界に目を向ければ、身の毛もよだつなんて言葉じゃ足りないような状況にいる女の子が、目を背けたくなるようなたくさんの数いるのだと。でも、日本でそれを考えるなら、性的に虐げられることを直視するなら、男性だって被害者が一定数いてしまう。SDGsの目標は、2030年までに達成することが掲げられているが、正直、この狭い日本国内であってもそれは無理だと思う。長い歴史を見る限り、そもそもの事件がなくなるとは思えないし、自分を被害者だと思いたくない人物に対して被害者としてしまっていいのか等々、考えなければならないことが山ほどあるから。女性だけをくくってそれを考えただけでもそう思ってしまうのだ。そんなことを考えると、いつになったら〝人間〟で考えてくれるのかと考えてしまう。たとえば、質の高い教育。これは申し訳ないことに日本国内に限ったことを取り上げさせてもらう。私は思うのだ。我が国日本では本当に〝質の高い教育〟を望む者が取り残されてはいないかと。まあ、こんなことをいきなり言われても困るだろうから、まずは分かりやすく、大学のことを考えてみて欲しい。様々な学部が存在し、学習や研究を行う事ができると思う。私は好きなことを学ぶために文学部に進学した。勉強や研究はとても楽しかった。だが、その後に控えている就職ということになると、話は変わる。私は経営に興味があって、マーケティングに携わりたいと思うのだが、門扉が開かれていない。文学部にいるというだけで、機会を与えてもらえない。嗚呼、どうして、質の高い教育を受けたはずの者が、職業選択の際に謗られるんだろう。今一度、この国における質の高い教育を考えてみて欲しい。そして最後に、これが一番言いたくて、一番聞きたかったこと。SDGsの目標には、平和と公正を全ての人にという目標があるけれど、これは日本では憲法が守られていれば達成しているはずだろう?今、この国に住んでいて、この国の中であなたは、自信を持ってこの目標を達成しているって言い切れる?大きな目標を掲げる前に、憲法ってそんな、この国において1番に守らなければならないところでも、取り残されている人はもう既にいるんじゃないの?

 

足立晴日 お茶の水女子大学

 

3年前、ネパールに滞在していた。彼らは笑顔が素敵で楽しそうに生活していた。電気もない。通信機器を持っている人もほとんどいない。それでも彼らの笑顔は眩しかった。私はそんな輝いている笑顔を見ながら思った。「彼らの笑顔を世界中に届けたい」と。今日、SDGsでは環境問題や経済発展などが「地球を守るために」「発展をするために」行われています。しかし、本当にそうなのだろうかと私は思った。ネパールに滞在し、彼らの笑顔を見た時、私たちがSDGsに取り組むのは「幸せになるため」なのではないだろうかと思った。私たちは奇跡的に、今、この瞬間を生きている。いつ終わるかわからない短い、されど最も価値ある人生を幸せに生きるために。このことを踏まえて私は思うのです、「私たちは本当にこれで良いのか」と。ネパールでは、PCやスマホをほとんどの人が持っていないが幸せそうに生活している。一方、私たちの日本人の多くは、生活に不自由していなくても、ストレスで倒れそうになりながら働き、過労死する寸前でも仕事をやめない人が多い。「満足」という言葉を知らず、死んだ魚の目で過ごしています。「誰一人取り残さない」。これは誰から誰に対して向けた言葉なのでしょうか。多くの方が、先進国から途上国へ、健常者から障害者へ、マジョリティからマイノリティへ考えるのではないでしょうか。私は、まずそこに疑問をていしたい。私たち、マジョリティや健常者は無意識のうちにどこかで壁を作っているのではないだろうか。それは無自覚であり、悪気などないと思う。されど、確実に壁を作っている。持つものが持たざる者に対して、目には見えない、されど確実に存在する壁を作っている。もし、壁がないというのならば、なぜ、障害者はここまで生活することに苦労しなければならないのだろうか、なぜ精神疾患を持った人は周りから冷ややかな目で見られなければならないのだろうか。私の周りには、精神疾患やマイノリティの方がいる。そのような人は「自分は自分」と受け入れ歩み寄ってくれている。それを拒んでいるのはマジョリティ側である。真に「取り残されている」のは私たちマジョリティであり、健常者なのではないだろうか。「もっと、もっと」といくらあっても満足しない人なのではないだろうか。持続可能な社会のその先にあるものは何か。それは、「幸せ」であるべきだと私は思う。ネパールでの生活は決して快適だったと断言できるものではない。水質汚濁していてお腹を壊し寝込むこともあった。そのような環境を変えていくことで、彼らの生活はよくなる。そうして彼らの「幸せ」を大きくする必要があると思う。それは格差是正には不可欠である。しかし、真に世界中の人が「幸せ」になるためには私たちが変化する必要がある。無意識に壁を作り、「幸せ」になるために働いていたはずが、気がつけばどんどん自分を追い込んでいる。そんな「私たち」こそ、世界の「幸せ」というものから取り残されているのではないだろうか。SDGs、持続可能な社会、その先にある「幸せ」からもっとも取り残されているのは「私たち」であると考える。そんなわたしたちにでもできることがある。それは考え方を変えることである。「どのように生きるか、どのように生きたいか」を考える必要があります。そうでなければ、日々労働に追われ、ローンに追われ一生を終えてしまいます。持続可能な社会、社会の発展、「誰も取り残されない」というものは、「人類の幸せ」のために「自分の人生に満足する」ためにあるべきものだと考えます。だからこそ、「取り残されている」私たちは、考え方を変える必要があります。考え方を変え、身近な幸せに気がつく。これが「誰も取り残されない」ことに繋がると私は信じています。そして、世界中の人々が全員で、3年前に出会ったネパール人のような眩しいほどの笑顔で手を繋いでいる社会を目指しています。

 

霜尾咲羽 横浜国立大学 1年生

 

ネットワーク技術の普及に伴って、私たちの生活は大きく変化した。キャッシュレス化やリモートワークの推進だけでなく、新型コロナウイルスワクチン接種の予約でさえインターネットで行うほど、社会においてデジタルデバイスはなくてはならないものとなっている。
しかしネットワーク技術が進歩し、デバイスが普及すればするほどデジタル社会から取り残される人々との格差は拡大していく。
具体的に格差が生まれる点として、情報格差がある。平成30年度の総務省の情報通信白書によれば、20~30歳代のスマートフォン所有率は90%以上、13~19歳と40歳代がだいたい同じで80%程度であり、ここから年齢が上がるにつれて、所有率に明確な差がでる。50歳代で70%程度、60歳代で40%程度、70歳代で20%程度、80歳代では10%以下となる。デジタル機器を所有していないことにより、情報を得ることのできる機会に差が出てくるのではないだろうか。また、インターネットでの情報に触れる機会が少ないことで、情報リテラシーに欠ける人々が何らかの問題や犯罪に巻き込まれてしまうことも考えられる。
このような格差が広がりかねない現在の状況を打破するために、総務省は6月からスマホの使い方などの講習会を全国で開き始めた。6月11日付の朝日新聞デジタル記事によると、携帯電話大手などが公募に応じ、今年度は携帯ショップ2143カ所のほか公民館などで延べ11万回以上開く予定であり、40万人の参加を目標にするという。スマートフォンの基本操作だけでなく、LINEといったSNSの使い方も学ぶことができる。このような活動によって高齢者のデジタルへの不安感や抵抗感といったマイナス感情を少しでも軽減することができるのではないかと思う。
しかし、これだけでは格差を縮小することは難しい。なぜなら、デジタル化には必ずと言っていいほどお金の壁が立ちはだかるからだ。国や企業がいくらデジタルデバイスの講習会を開いても、デジタルデバイスを所持していないと意味がない。そこで私が解決策の一つとして考えたのは図書館や公民館といった地域の共有スペースに、地域住民であれば誰でも使うことができるパソコンやタブレット、スマートフォンを設置することだ。共有のデジタルデバイスがあることにより、たとえ自分のデジタルデバイスを持っていなくても多くの情報に触れることができる。また、デジタルデバイスをより身近に感じることができ、デジタル化に対する抵抗感も薄れていくのではないだろうか。
誰でも使える状態ではなく、地域住民のみが使える状態にすることで機器に破損など不具合があった際の原因追及も比較的行いやすいのではないかと考える。
社会のデジタル化というのは生活が便利になるうえで欠かせないものかもしれない。しかし、その変化についていけない人々を置いていくのではなく、ものや情報を共有しあうことで誰もが快適に暮らしていける社会にしていくべきだと考える。

 

相澤俊介 横浜隼人高校

 

『誰一人取り残さない』という誓いは、持続可能な17のゴールを全ての人に行き渡らせるという意思表示である。多くの企業がこれに取り組んでいる。しかし、全ての目標を取り組むことは不可能である。例えば16の「平和と公正を全ての人に」という目標など企業はどう取り組めばいいのか。残念ながら自分は、企業が取り組める問題ではないと思う。つまり、行政、個人間で取り組まなくてはいけないのである。自分たちにできることはなんだろうか。行動に起こすより実際に事実を知ることから始めるべきだろう。
多くの人は、アフリカの人が一番困っていると思うだろうが、アジアや南アメリカにも多くの人々が1日を生きるだけで精一杯の生活を送っている。また、紛争などで自分たちよりも若い子供たちが生きるために銃を持って戦っている。このような大変なことが起きているのにもかかわらず、自分たちは学校に行くのがだるいだのテスト無くなってほしいだの愚痴をこぼす。これを聞いた各地の生活に困っている人はどう思うのだろうか。きっと「そんなに学校が嫌なら変わってくれよ。」と思うだろう。自分たちは今の生活に慣れすぎてしまっているのだ。だからとは言って学校に行くなともテストするなとも言わない。なぜなら、どんなに辛くても苦しくても授業を受けてテストを受けて社会に出て人のために働く。あわよくば困っている人に手を差し伸べられる仕事につく。それが今自分たちにできる義務だと思うから。だから今自分たちにできる第一のことは、今を一生懸命に生きるということだ。
また、世界中で困っている人たちについて興味を持つことも、解決の糸口になるかもしれない。その調べたことを周りに話すことで興味を持つ人が1人、2人と増えていけばその中から議員や国連のボランティアなどが出て、困っている人を救ってあげられるかもしれない。0パーセントを1パーセントにするだけで助けられる人が10人20人と増えていくのだ。
実際に行動してみるのもいいかもしれない。もっとも身近でできるものは募金することであろう。もしもあなたが100円募金しただけで5人もの人を救うことができる。また、筆記用具も買ってあげることができる。あなたの100円で人の運命を変えることができるのだ。
このように今を一生懸命に生きて世界のことについて興味を持ち、募金をする。そのような人が増えれば世界は変えられる。綺麗事に聞こえるかもしれないが、今の自分たちにはこれができる精一杯のことだ。今生きるだけで一生懸命な人たちがいるということを心に刻んで今をよく生きていきたい。

 

倉本亜浬紗 N高等学校

 

「取り残されている」そう感じている人はどのくらいいるのだろうか。正直、私はこの社会から取り残されているという感覚はあまりない。だが前に進んでいるという感覚もない。誰かが取り残されるためには誰かが前に進んでいなくてはいけない。そもそも誰かが置いていかれるほど社会は進んでいるのだろうか。
SDGsというのは社会全体で解決しなければいけない問題だと私は認識している。社会が動くというのはほぼ全ての個々の人々が動くということ。一人一人が動かなくては意味がない。確かにSDGsの問題に目をむけ前に進もうとまざまな活動をしている人は多くいる。でも、今、そうやって前に進んでいる人の数とただ何も考えずに生きている人の数、どちらの割合の方が大きいだろうか。きっと後者だろう。そうやってほとんどが前に進めていないという状況を最もよく示された例がコロナだと思う。
突然感染症が流行し、他人との接触を最小限に抑えなくてはならなくなった。そこでリモートに変わったものが多い。しかし、リモートでうまくいった人はどのくらいいただろうか。緊急事態宣言の休校でリモートに切り替えることができた学校はほとんどなかった。あの時コロナをうまく対処できたところはごくわずかだったはずだ。そう、ほとんどが前に進めなかったのだ。それはつまり、みんな取り残されていたし、誰も取り残されていなかったと言えるだろう。「環境」の変化についていけない人なんてほとんどだ。ほとんどなのだから決して取り残されているわけではない。
SDGsの基本理念である「誰一人取り残さない」という言葉を調べた時、私はこの言葉よりも「取りこぼさない」という言葉の方がぴったりだと思った。その上で「取り残される」人はいるのか、私の考える「取り残される」というのはどういうことなのか。それは社会が進んだ時「気づいたら社会が変わっていた」という人だと思う。そして、取り残される人は必ずいるだろう。今の私は「取り残されている人」であると言える。コロナが社会が動き出す引き金になったことは間違いない。今はまだ環境の変化に社会が追いつけていないだけ。次第に嫌でも変わっていってしまう。しかし、私は環境の変化によって変わってしまった社会ではなく、人々の思いによって社会が変わって欲しいと思う。それは誰かの犠牲の上ではない社会を作ることにもきっとつなっがてくれるはずだ。変わってしまった社会ではなくみんなで変えた社会を未来で見れることを私は願っている。

 

前田玲奈 横浜市橘中学校

 

私達の社会では、現在すべてが平等だろうか。人としての権利は皆平等なのだろうか。
今、私達の世界では、SDGsの10番、「人や国の不平等をなくそう」が問題視されている。今回私がスポットライトを当てたのは人種差別についてである。
最近、ニュースで黒人差別について見かけた。人種差別とおおきく書かれた見出しに黒人男性の言葉、「私は何もやっていません。」と添えられたニュースだった。内容までハッキリと覚えていないが、私は黒人男性の言葉がこころにのこっている。肌の色だけで差別をして、
「私は何もやっていません」
と言わせてしまうのは同じ人間として考えなければならないことだと思った。
私の身の回りにも、多くの黒人がいる。例えば、英語の授業ではALTの先生が教えてくれる。今は違う学校だが、小学生の時に黒人の友達がいた。話すこともあったし、冗談を言って笑い合う事もあった。私はその友達のことを同じ人間として見ていた。でもその友達は、「外に出たとき、少しだけ人の目が怖い。自分に目線が集まっている気がする。」と言っていた。本当に視線があっているのか、それとも自分の肌を気にし過ぎているのかわからなかったが、肌の色だけでのびのびと外に出ることができないのはきっと黒人差別のせいだったのだろう。
私は人種差別のニュースと、黒人の友達の言葉を聞いてもっと私にできることはないのだろうかと考えた。日本にもこれから外国人がふえていく。ということは黒人、白人と多く付き合っていく。ということである。はじめは背が高く怖い。などのイメージを持ちやすいが、私の小学校の友達はそんなことなかった。むしろ明るくフレンドリーで話しやすかった。私は黒人の友達がいたからそれをよく知っている。だから、見た目で決め付けないで、話しかけられたら会話をする、こまっていたときの助け合い、英語の授業で習ったことを思い出してみて、少しでも会話していくことが私にできることなのではないのだろうか。
肌の色だけでなく、私達人間にはいろいろな違いがある。例えば体の一部が動かない、左利き、髪型・・・など、細かく出せば数え切れないくらいある。でも、それを認めあって、互いに共存していくことが大切なのではないのだろうか。たとえ第一印象が「怖い」だとしても、勇気を出して関わってみるのが大切なのではないのだろうか。私一人のちいさな勇気でも、その人が楽しい。と思ってもらえるなら、差別を少しでも減らせることができるのなら私もきっとSDGsの活動に関われたことになるのかもしれない。私はそう思った。

 

前田彩良 自立訓練を利用中

僕の大きな夢

 社会は誰がつくっていくものなのだろうか。きっと自分一人でつくっていくものではないだろう。だからこそ、みんなで協力して支え合って生きていくべきだと僕は思う。
 僕には大きな夢がある。それは、「全人類が幸せに暮らせる社会」をつくっていくことだ。これは、SDGsが掲げている「誰一人取り残さない」持続可能で多様性と包摂性のある社会の実現と類似している。僕の夢を聞いたら「ばかげている」と笑う人もいるだろうし、「ただのきれいごとだ」と言う人もいるだろう。しかし、僕にとっては、これはきれいごとなんかではなくて、僕が心の底から願っていること、そしてとても大切な夢なのだ。
 僕は女性として生まれたが、心は男性というトランスジェンダーである。自分自身がトランスジェンダーであると気づいた時から、僕はマイノリティという荷物を背負うことになった。当時は「周りの友人や家族にはなんと説明すればいいのか」「いじめられるんじゃないか」「僕が感じたことを理解してくれるだろうか」など、たくさん思い悩んだ。そして、「男性として生きたいけど、周りが理解してくれるかわからない。でも、このまま女性として生きるのは苦しすぎる。もう死ぬしかないのでは」とまで自分を追い詰めていた。しかし、実際にカミングアウトをしてみると周りの友人は僕のことを理解してくれ、そこから自分のありのままをさらけだして生きられるようになった。もちろん、この世界にはありのままの僕を理解してくれる人だけではなく、心無い言葉を投げかけてくる人もたくさんいた。それでも僕が自分をさらけだして生きていくのは、「全人類が幸せに暮らせる社会」を本気で目指しているからだ。僕は、マイノリティは存在自体の認知度が低いと思っているため、まずはこんな人もいるということをマイノリティ当事者やマジョリティの人々に知ってもらいたいと考えている。そうすることによって、マジョリティの人々もマイノリティの人と出会ったときに、自分とは少し違うけどそういう人もいると理解しやすいだろう。また、今まで自分はマジョリティだと思っていた人も新たな選択肢を知り、自分はどうだろうかと考えるきっかけになるだろう。このように、マイノリティについての知識を広めていくには、僕だけの力では難しい。だから、そのような知識を学校の教育に取り入れることによって、広まっていくのではないだろうか。
 この作文では、主にセクシュアルマイノリティに焦点を置いて書いたが、セクシュアルマイノリティだけでなく、世界にはさまざまなマイノリティがある。それらも、知識を広めていくことが重要だという点においては、セクシュアルマイノリティの問題と改善方法が共通しているだろう。
 「誰一人取り残さない」や「全人類が幸せに暮らせる社会」と聞くと、とても難しくて本当に実現できるものなのかと思ってしまう人もいるだろう。しかし、社会はこの世界中の人々全員でつくりあげていくものなのだ。まずは常識を疑い、自分の思考から変えていき、次は周りの人々にそれを伝えていく。それがどんどん広がっていけば、必ず誰一人取り残すことなく、全人類が幸せに暮らせる社会をつくっていくことができるだろうと僕は信じている。

 

前座領麻友 和歌山県立箕島高等学校

 

これからお話することはあらゆる分野で取り残された人、生き物の話です。社会から取り残されるのは人はもちろんそうですが、生き物も同じです。私たち人間が与えた影響により取り残されてしまった生き物たちにも目を向けていきたいと思います。

ある国に1人の社会から取り残された女の子がいました。
その子は言います。
私は健康的な体になりたかったと。
毎日十分なご飯をもらって、ゆっくり眠れる場所があれば健康体になれたかもしれない、他の国の人達は可愛い服を着て、髪の毛を束ねて、お化粧をするんでしょう?
彼女の目はとても悲しそうでした。

その子の国は未だ戦争が絶えない所です。
他国が発展し、キラキラと輝く街中を作り出していく中、彼女の国では景観が破壊され、砂埃がまうのです。そしてたくさんの命も失われ、家族から取り残される子もいるのです。

あるゴミ捨て場から悲鳴をあげている農作物がいます。

僕達は決して同じようには育つことは出来ません。
でも食べられる物も多くあったはずです。
人はあまりにも完璧を求めすぎています。
すぐに見捨てないでください。
僕達だって一生懸命育っているのです。

人は1年間にどれだけの食べ物を粗末にしているのでしょうか。
それは本当にこの世界にとっていらなかったものですか。必要としている人がいると私達はわかっていたのでないでしょうか?

ある大きな海から生き物が疑問を抱いています。

僕は群れから外れてしまいました。
辺りを見渡すと見たことの無いものばかり。
海のものでは無いものばかりが沢山あります。
これは一体なんなのでしょうか。

海の生き物が見ていたものは、人が捨てたゴミでした。
人は陸地だけでなく海の環境も破壊しているのです。

ある地帯の1本の大木。元気がありません。

僕は生き残りです。仲間は全員切り落とされてしまいました。人の休憩場所になったり、共存してきたはずなのに邪魔になると人は切り落としてしまいます。酸素を生み出すことはそんなに迷惑だったのでしょうか。

人は地球温暖化を進めないことを目標に掲げておきながら、たくさんの木々を伐採しています。
彼らは私にとって必要な存在なはずではありませんか?

このように沢山のものを見捨てて、どれだけのものを私たちは得たのでしょうか。

そのうえ見捨てられる側は、その日常が当たり前だと思い、生きて広い世界を知らぬまま生涯を閉じてしまうのです。それはあっていいことなのでしょうか。

私たちが見捨ててきたものを取り戻すことは不可能かもしれませんが、これ以上無くすことはあってはなりません。

今こそ目を向けていきましょう。誰一人置いていってはなりません。

ですが私も置いていかれている高校生の1人なのです。

私はSDGsに大変興味を持ち、学習したいという意欲があります。

それは我が校で、一人の熱心な英語の先生が英語の授業を通してSDGsを教えてくれたことがきっかけでした。

そして、その先生が中心になり今年の我が校の新1年生は研究授業としてSDGsについての学習を進めております。「地球市民プロジェクト」と題して1年間しっかり学習する場を設けてもらっている1年生が羨ましいと思いました。ポスターセッションやプレゼンテーション、「地球市民ウィーク」では学外に出て行き、リサイクル活動やSDGs啓発活動を行うと聞き、私もその授業を受ける機会があれば良かったのにと思いました。

私は、SDGsを知っていて当たり前になりつつある学生から取り残されてしまいました。
もっと学び、仲間と議論を深めたい。もっと早くから知りたかった、知るべきだったと感じております。

しかし今からでも決して遅くないと私は考えます。

独自でも学習を進めていくため、図書館においている本を読むようにしていますが、本校の図書館にはSDGs関係の本はまだ少ないです。もっと高校生が興味を持ってくれるように、図書館の本も充実させてほしいと思います。

本を読んで知識を得るのみではなく、
ゴミの分別などの小さなことから、ボランティアなどの少し大きな一歩を踏み出していこうと私は決めております。
誰一人取り残さないように私ができることは少ないかもしれませんが、誰か一人でも多くの人を支えることができるために小さなことからコツコツと心がけていきたいと思います。
私たちの子ども、孫世代のためにも。

 

前原梨花 白鵬女子高等学校

 

コロナ禍で取り残される人々 2020年から2021年にかけて、世界中を巻き込み、パンデミックとなった新型コロナウイルス。このような状況下で、SDGsとの関係はどうなっているのか。 日本のコロナ禍における影響は、まず、教育の差だ。コロナにより失業者の増加、授業料が払えなくなり学校を退学せざるを得ない状態となった人が多く存在している。また、オンライン授業が主流となり学校には通えず授業に集中できなくなってしまう。私自身、現在はオンライン授業を主にやっており、やはり学校でやる授業とは違い、家だから、といって少し怠けてしまう部分もあり、他の人との遅れも感じる。これは私以外にも多くの学生が感じている事だと考える。 では、どうやったら教育の差を無くすことができるのだろうか。私は、まず、学費を少なくすることが良いと考える。現在の大学1年生、2年生はまだ大学に通うことができていない。大学3年生の私の兄も毎日オンライン授業を受けており、去年から大学には行っていないという。ここで、大学に通っていないにも関わらず、施設費を今までと変わらない額で払うのはどうかと思う。実際、ある大学の学生が「対面授業をやらないのは、大学として義務を果たしていない」という理由から学費の半額分を返還して、と大学側を提訴した。私もこの意見に賛成する。確かに、施設の維持費や改装費の為に払わなければいけないが、これでは上記にも書いたように、学費を払えずに大学を辞めなければいけなくなってしまう。このため、学費の影響で十分に教育を受けられないという事実を少しでも無くせると考える。 次に飢餓について。これもまた、失業者の増加に伴い、ご飯をお腹いっぱい食べれる人が減っている。コロナ以前は、100円や200円程度で沢山食べれる子ども食堂があったが、緊急事態宣言や飲食店に対する休業要請が発令され現在ではお店をやっている所も少ない。 新型コロナウイルスにより「誰ひとり取り残さない」という問題が大きくなり、2030年までに達成するSDGsにとって、新型コロナウイルスは大きな妨げとなった。 私はSDGsについて沢山学んでいる途中だ。一人一人が地球を助けるという意識を持ち、誰ひとり取り残さない環境作りが大切だと考える。 また、わたしがこれからSDGsとして取り組みたいことは、海岸の清掃だ。海岸にはたくさんのプラスチックゴミがあり、魚や亀が誤って食べてしまう、ということを防ぎたい。そのためには自分や身の回りの人にプラスチックの利用削減やポイ捨ての防止をしていきたい。

 

染葉咲紗 横浜市立橘中学校 3年生

 

私は、17あるSDGsの中で目標13の「気候変動に具体的な対策を」という目標に注目して考えてみました。
私が、この目標について考えてみようと思ったのは、温暖化が進むこの地球で私たち人間やともに暮らす動物たちが様々な影響をうけていると思ったからです。
みなさんは、温暖化の危険ラインというものを知ってますか。温暖化にはこれ以上気温が上がらないように決められた世界共通の長期目標があります。その長期目標で示されている具体的な温度上昇の目安は「世界的な平均気温上昇を産業革命前に比べて2度以下に抑えることを目標とし、1.5度以下に抑制することを努力目標とする」とされており、この温度は、2015年11月30日から12月13日にフランス・パリで開かれたCOP21にて「パリ協定」として採択されました。危険ラインの2度は、人間なんとか自然と共存して耐えられる限度レベルと言われており、極めて危険な状態です。大型台風の頻発、海面水位の上昇により高潮発生、食糧不足による飢餓、環境変化に耐えられず絶滅する生物の増加、マラリア等伝染病の蔓延がおこってしまいます。気温上昇に伴い、人類存続に関わる深刻なリスクが発生します。
地球温暖化を防ぐために、私たちができることは何でしょうか。今の暮らしの中で、できるだけ二酸化炭素を出さないように工夫することが大切です。たとえば、電気をこまめに消して無駄な電力を使わないこと、買い物のときは、紙やプラスチックなどで素材をさいせいした商品の購入を心がけ、それらを無駄使いせず繰り返し長く使用することなどで温室効果ガスを減らすことにつなげることができます。また、二酸化炭素を出さない暮らしに変えていくことが大切です。太陽光エネルギーを利用したり、電気自動車を使うなども二酸化炭素できるだけ出さないことにつながります。
日本の取り組みとしては、2015年にSDGsが採択された後、その実施に向け政府はまず国内の基盤整備に取り組みました。2016年5月に総理大臣を本部長、官房長官、外務大臣を副部長とし、全閣僚を構成鰰「SDGs推進本部」を設置し、国内実施と国際協力の両面で率先い取り組む体制を整えました。さらに、この本部の下で、行政、民間センター、NGO、NPO 、有識者、国際機関、各種団体等を含む幅広いステークホルダーによって構成される「SDGs推進円卓会議」における対話を経て、同年12月、今後の日本の取り組みの指針となる「SDGs実施指針」を決定しました。
地球温暖化蝦ぐために、毎日の生活をみわたして、二酸化炭素を減らしたり出さないようにするために、私たちは具体的に工夫ができるのか考え、小さなことから実践して取り組んでみようと思います。

 

川北輝 広島国際大学大学院 実践臨床心理学専攻 2年生

 

 私は臨床心理士や公認心理師を養成する大学院に所属し, 日々研究やカウンセリングを行っている。こうした日々の中で, 世の中には心に悩みを抱えているにも関わらず, そのことを誰にも相談できず取り残されている人々が大勢いることを認識している。人は何かネガティブな悩みを抱えた際, それを自分一人で解決したり, 友人や家族に相談したりするなど, 様々な方法で対処しようとする。その悩みが深刻で, どうしようもない場合は医療機関やカウンセリング機関等の専門職のサポートを受けることが非常に重要である。一方, 現状のカウンセリング機関は深刻な悩みを抱えた人すべてに対応できるほどの余力がなく, 常に予約が埋まっているところも珍しくない。特に新型コロナウイルス感染症流行後はその傾向が顕著であり, 「一番相談したい (話を聞いてほしい) ときに相談することができない」という人が増えている。これは, SDGsの基本理念である「誰ひとり取り残さない」ということから逸脱している。よって, 誰もが安心して悩みを相談できる機会を充実させることが重要であると考えられる。
 しかしながら, 悩みを抱えている人の数に対して, 心理職に従事している者は圧倒的に少ない。例えば, 日本では精神疾患のある者が400万人を超えており, 日常生活における軽度~深刻な悩みを持つ人々も含めると, 悩みを抱えている人の総数が非常に膨大であると推察される。一方, 心理の国家資格である公認心理師の登録者数は, 2021年6月現在で5万人にも満たない。したがって, 悩みを抱える人をひとり残さず心理職が支援するというのは現実的に不可能である。私はこうした背景に加えて, コロナ禍で人々の移動が制限されていること, およびストレスやうつなどのネガティブ感情が高まっていることを踏まえ, 自律型アバターがカウンセリングを行うという研究を進めている。自律型アバターとは, 人が誰も操作していないノンプレイヤーキャラクター (NPC) やAI (artificial intelligence) のことを指しており, いくつかの先行研究では人がこれらに対して深いレベルの自己開示 (自身に関する情報を相手にありのまま伝えること) を行うことが明らかになっている。すなわち, 人間のカウンセラーに対して相談するよりも, コンピューターが生成したアバターなどに対して相談をしたいと考える人が一定数存在するということである。自律型アバターは昼夜問わずどこでも活動できるため, コンピューター環境さえあれば, 相談者は場所や時間を気にすることなく悩みを打ち明けることが可能である。そのため, 自律型アバターによるカウンセリングは安心して悩みを相談する機会の提供に大きく寄与できると考えられる。
 最近では, デジタル機器を介してオンラインカウンセリングを行う機関や, カウンセラーとクライエントがアバターを介したカウンセリングを行う研究もあり, 心理臨床領域のデジタルトランスフォーメーション (DX) が進んでいる。今後, 優秀なカウンセリングAIが世間に普及すれば, より気軽に悩みを相談することができるようになると予想される。一方, テクノロジーが進歩するにつれて, 情報格差 (デジタルデバイド) の問題が生じるなど, テクノロジーを用いた支援には限界がある。テクノロジーは心の健康の維持・増進に大きく寄与できる優れものであるが, それに頼り切った社会は人々に真の平等をもたらさない。結局のところ, 誰ひとり取り残さないためには, 人同士が手を取り合っていく必要がある。悩みをどうにかしたいと思った際に, 自分で解決しようとするか, 友人や家族に相談しようとするか, 医療機関やカウンセリング機関を訪れようとするか, AIに相談するか, あるいは何もしないか, などの選択には, 人の個性 (価値観や好み, 過去の経験など) が反映される。そのため, 誰ひとり取り残さない社会を目指すならば, 人々の個性に合わせたより多くの選択肢を用意する必要がある。AIやアバター, バーチャルリアリティ (VR) といったテクノロジーによる心理臨床領域のDXは新たな選択肢を提供する可能性を秘めており, 社会的なニーズが高い。私は今後も, 自律型アバターの研究を通じて誰もが安心して悩みを相談できる機会を増やし, 人々のストレスや不安といったネガティブ感情の低減を目指したいと考えている。

 

千葉和樹 横浜国立大学

誰一人取り残さないためにー世界観と価値観で見るー

 本稿では『leave no one behind』を誓うSDGsが、現実的にどのようなひと・社会に受け入れられそうなのか、またそうでないのかを考えたい。またあらかじめ便宜的に「価値観」を個人的な判断の基準、「世界観」を社会・集合的な判断の基準と定めて進める。
 まず世界観に絞って考える。持続可能な社会の達成(あるいは維持)がSDGsの根本的なテーマであるが、これはどんな社会構造、世界観を持つ国でも達成できるだろうか。その世界観とはおおきくこの星を分ける、近代化論、従属論、そしてアイデンティティ論のことである。SDGsの17の達成目標を見ると、それぞれの別の論に属し、世界観を異にする考えがちりばめられている。これは冷戦や様々な紛争を経て、ミックスされた各国の政治的情緒が複合的な理想をかかげるようになったことも反映している。そしてそれらの目標は、カラフルなアイコンとともにわかりやすく、人道的な感覚に寄り添いながら私たちに認識されている。ゆえにSDGsは地球上で普遍の理想と思えるかもしれないが、しかし現在もなお各国は利益や宗教をめぐり終わることのない戦いを続けている。決して終わらない。気を抜けば私達も、その極端な正論、原理主義的な世界観を作り出し、巻き込まれ、他の世界観を忘れ去ってしまう。すなわち、まるごと「取り残される社会」が生まれてしまうかもしれない。実際、いくつかの独裁国家の基盤である宗教の原理主義、アメリカの分断を生んだ反知性主義はその例なのかもしれない。政治において私たちはゆがんで極端な世界観をもちやすい。だからこそ、社会の通念としてSDGsをより普及させることが必要である。
 つぎに価値観について、個人的に取り残されてしまいそうになった経験をもとに考えたい。端的に言って、「偏屈な」人間ほどSDGsを懐疑的に見ることがおおい。わたしも大学で講義を受けるまでそのような人間の一人だったが、ではなぜそんな姿勢をとっていたのか。前半と矛盾するようだが、理由は「周り(世の中)がなんちゃらの一つ覚えのように使いたがるから。」である。偏屈な人間はなんとなく空気感にあわせて言葉と向き合うのを嫌う。世の中の企業やテレビなんかがまるで自分たちの活動の免罪符のようにSDGsをつかっていると感じた私は、SDGs自体もそういうものとして食わず嫌いしていた。しかし、講義でSDGs自体がいかにして出来上がったか、どのような世界観を内包しているか、など論詰めて学ぶことができ真摯に向き合うことができたと感じた。手前味噌だが、義務教育でSDGsにほとんど触れていない世代の偏屈者は同じような理由で辟易や食わず嫌いをしている場合も多いと思う。日本でもより深く、論理的にSDGsを掘り下げる本や番組などのメディアが増えることで、私のような偏屈な価値観の人間も「取り残されず」にすむのではないだろうか。

 

千葉愛澄 横浜国立大学 1年生

 

 私は自分が女性であるという理由で、将来働くことに不安を抱いている。まだ男性優位な日本の社会では、女性が苦しい立場に置かれることがよくあるからだ。高校や大学の入試ではあえて男性に合格を多く出されていたり、就職時には女性が冷遇されていたりするということがニュースになることがある。結婚や出産、育児を機に女性ばかりが働き方を変え、再就職にも苦しむ。女性であるというだけで社会から切り離され、取り残されている女性がたくさんいる。昔よりは女性の立場が向上しているのだろうが、依然として不安材料はなくならない。もちろんこの問題は、日本の社会だけでなく世界中のあらゆるところにある。女性だから教育が受けられない、仕事が選べない、自由に結婚ができないという人もいる。また、男性にも困っている人はいる。男性だから育休が取れない、主夫になりづらいなどという現状がある。
 これらの問題に直面し、最も重要なのはジェンダー平等だ。性別によってどちらかが優れているといった概念は存在しない。誰もが個人として扱われ、評価される必要がある。もっとも、今の日本の社会で男が上、女が下という考えをまだ持っている人はそういないように感じる。女が上、男が下と考える人も見かけない。ジェンダー平等を理解していると自分で思っている人は多いのではないだろうか。
 ここで問題になるのは、思想ではなく制度と文化だ。ジェンダー平等について社会で盛んに言われていると知り始めたころ、私は制度の変更が先行して人々の考え方の変化が追い付かないのだろうと思っていた。育児休暇制度を例に挙げると、制度が先に整うが男性が育休を取ることに反対する意見が多く、結局育休をとれないということが起き、女性が家庭に入らざるを得なくなるのだろうと考えていた。実際にそうなったようにも思った。しかし本質はそこではないと考え始めた。男性の育休に反対する人は、“男性だから”反対したのではないような気がする。単に、女性が育休を取るだけでも大変なのに、これまで育休を取ってこなかった男性まで育休を取り始めたら人手が足りなくなるから反対しているのではないだろうか。これは人の思想レベルの問題ではなく、休みをとれるようにだけして後のことを考慮していない制度の問題だ。ほかの教育や雇用などの問題に関しても同じで、制度やこれまでの習慣が男女を分けて考えたほうが都合がいいようにできているから、どうしても男女差が出てしまう部分が多いのだと思う。もう個人や小さな集団の努力でどうにかできる問題ではない。国や社会全体や大きな集団の手で、制度や習慣を抜本的に変えなければならない。ジェンダー平等を実現する際に発生する不都合を取り除くところまで考慮するのが制度を作り、変える者の責任だと思う。

 

石島茉優 聖徳学園高校 1年生

 

 人間には個性がある。人はひとりひとり違って、だからこそいいとする風潮がある。その一方で人間は理解の及ばないものを恐れ、遠ざける。個性があるから人を遠ざける。個性は全員にあるから誰も彼もみんなが何かの括りで取り残され、また人を取り残す。
 世界は自由を尊重している。人と違う在り方を、個性を、最大限尊重して尊重される世界を目指して動き始めている。しかし、人を尊重するには心の余裕が必要だ。世界が国家単位で自由を謳っても、それを個人にまで浸透させるのはとても難しいことだ。簡単にやろうと思ってできることではない。
 ならば、個性のない世界はどうだろう。そんな世界になれば、誰も取り残されなくなるのではなかろうか。人間には性別も何もなくて、全人類が同じ見た目で同じ声で同じ細胞で。けれど、生命は突然変異を起こす。偶然にも、生き残るためにも。
 個性のない世界では、突然変異した人間は最早人間ではない。違いが全く認められない、頭がかたくて息苦しい世界だ。そんな世界で、本当にいいのか?
 それを良くないと思うのは、この世界の人間が個性を持って生まれているからだ。ないものを制限されることなんかよりもずっと、あるものを奪われることの方が辛くて苦しいからだ。
 ほら、人間には個性がある。心臓でも脳でもない、唯一の心をひとりひとりが持って生まれて、それが己の内にあることを知らず知らずのうちに容認している。生まれた時からずっと、自分が他の何でもないことを知っている。
 自分が何でもないことは時に恐ろしい影となって自分を呑み込んでしまうこともある。人と違うから衝突して、傷つけてしまうことがある。自由な意思は自由であるがゆえに制御が難しく、意図しない動きをすることも少なくはない。
 それでも、人に愛され愛するのも、相手が自分とは異なる存在だからこそだ。愛のかたちがひとりひとり違うのも、個性に他ならないのだ。性別や性欲、それらすべての在り方も個性だ。
 生まれたときに割り当てられた性別と心の性別が違っても、性別が何か分からなくても。自分を上手く愛せなくても他人を上手く愛せなくても、上手く愛せても。あなたがあなたであるだけで、それ以上は何もない。
 自分を表す言葉がないなら作ってしまえばいい。自分のことがわからないのなら一生かけて考え続ければいい。個性は型にはまらない自由なものだから、あなたがどうあってもあなたなのだ。
 生まれてから死ぬまでのすべてがひとりの人間だ。千年後の誰もがあなたを知らなくても、あなたの存在はあなた自身が記憶している。ひどく不安定で、だからこそ愛おしいものだ。だってそうだろう、千年前を生きた人の真実なんて誰もわかりやしないから。
 それでも人間は考えて、ずっとずっと考え続けて、今日までをつなげてきた。長い長い人の歩みの中で、取り残された人の数は計り知れないけれど、それでも取りこぼさないように、未来の人々が軌跡を拾い集めている。
 あなたは特別じゃない。あなたは取り残されるけれど、きっと誰かがあなたを導いて、先に繋げてくれるだろう。それと同じだけ、あなたは知らず知らずのうちに誰かを導いて、先に繋いでいる。
 悲観すべきではない。思考を止めるにはまだ早い。考え続けた事実があなたを形作り、輪郭を描き出すのだ。くっきりと描かれた輪郭は他の人に認識されて、時に指標となる。
 誰ひとり取り残さないために、誰もが自分を愛せる世界であるべきだ。自分を愛し、自分について考えることが、きっと誰かに繋がっていくから。
 人と違うことを誇るべきだ。そして誰もが知り得ない「自分」を解明する為に、研究対象としての自分を深く愛するべきなのだ。

 

ホワイトペン 山陽女学園高等部 3年生

 

今回のテーマである「誰ひとり取り残さない」という言葉について、私はSDGsの掲げる16の目標を見て考えたことがあります。
目標5の中で、女性と女児に対することは書かれていますが、LGBTQの人達に関しての記述は見当たりません。その理由としてあげられるのは、SDGsは国連に加盟している全ての国でその取り組みを行おうとするものですが、一部の国では同性愛が犯罪となる国もあるからだそうです。法や宗教で禁止されている、という場合もあれば、国民のほとんどが同性愛に対してかなり否定的な考え持っている場合、その意見に合わせる、というにそれが「当たり前」だと考えていることが多いと分かりました。
日本では、同性愛は違法ではありません。最近ではLGBTQの人達に対する理解も深まってきていて、同性愛者に対して強く反対する意見は少なくなってきたように思います。ですが、同性愛に対して「変わっている」「変だ」と思う人が多いのが現状です。それが差別的な考えではなく、ただどう接すればいいのかが分からない、という人もいれば、身内が同性愛者だと反対するなど、強い嫌悪感を示す人もいます。なぜ日本でもいまだにそのような目が無くならないのか。それは、「自分が理解できないものだから」だと思います。
最近では自らが同性愛者だと明かす人も増えてきましたが、やはりそれでも少数派に分類されます。多数派の異性愛者の人達には、想像がつかない感覚を持った人としてうつり、自分とは違うとどこか一線を引いてしまいます。また、強い嫌悪感を抱いている人の中には、同性愛はおかしい、という考えが子どもの頃から頭にすり込まれているのだと思います。例えば、周りの人との会話で好きな人の話になると、女の子なら「好きな男子いる?」と聞かれ、アニメや絵本でも好きになるのは異性、同性を好きなった子は周りからからかわれる、いじめられる。そんな場面を繰り返し見ていくうちに、子ども達は「同性愛はおかしいこと」と学んでいきます。たとえ物語の結末が同性愛を認める内容で終わったとしても、世間一般の考えは違うんだと感じてしまいます。この考え方を子どもの頃から叩き込まれてきた今の社会の人達が、また次の世代の子ども達にも同じことを繰り返しては、いつまで経っても世界は変わりません。そこから考えた私なりの解決策は、子供向けのアニメや絵本などで積極的にLGBTQの人達を描くことです。決してその人達が差別の目を向けられるでも無く、「当たり前」にそこで生活をしている、そんな様子を子ども達に見せていくことで、その子ども達が大人になった時、「これはおかしいことじゃない」と考えることが出来る様になると私は考えます。
そして、今を生きる人達には、理解しようと努力することをやめないことが大事だと思います。理解出来ないからといって考えを変えなければ、人は変われません。理解しようと努力し続ける姿勢を皆が見せてくれるだけでも、私達少数派の人達は少しでも安心することが出来ます。私達のような少数派を取り残さないでください。

 

石田千晴

 

最近SDGsという言葉をよく見かけるようになった。企業でSDGsに取り組んでいるということでカラフルなバッチを付けている人も見かけた。
私自身少し興味があり調べてはいたが「誰一人取り残さない」という理念があることは知らなかった。現代の日本においてこの問題を解決するのは誰もが難しいと思っているのではないかと思う。日本は新型コロナウイルスだけではなく多くの問題を抱えてる。もしかしたらその社会問題を知っている人自体が少ないのかもしれない。自分が当事者になって初めて社会問題として認知する人もいるのだろう。そして誰もがいつ取り残されてしまう立場になるか分かるはずもない。
助け合って生活する必要のある人々が新型コロナウイルスによって人との関わりをかなり制限せざるを得なくなってしまった。大切な人を失った方、職を失った方、生活が苦しいなど多くの人に影響を及ぼした。ここで私が思ったことは人間はお金に依存している人があまりにも多すぎるということだ。確かにお金がないと生活はできないし対価として払うべきものなのはもちろん理解している。しかし2回目の給付されない給付金を待ち続けてあれこれ言うのはおかしな話ではないだろうか。お金で買えないものは「命」と「愛」。これらを大切にしている人は日本でどれだけいるだろうか。目の前のことに気を取られてすぎて大事なことを忘れてしまっているのではないだろうか。全員平等にというのは建て前で不平等なことが多いなと成人して強く思うようになった。貧困、障がい者、女性、高齢者、外国人など。助けを求めても助けてもらえない人たちがいる。手を差し伸べたいけどできない人もいる。それがとてももどかしい。社会問題を解決しようと取り組んでいる人たちがいる。それでも解決しないのはなぜなのか。それは当事者でない人たちが無関心だからなのではないか。そこには「愛」はあるのか。多くの矛盾を感じることもある。食べ物が手に入らず飢餓に苦しんでいる人がいるのに対し、もう食べないといって処分されることもある。「世の中にはご飯が食べられない人もいるんだから残さず食べなさい」よく親に言われたかもしれない。これに対してどう思っただろう。想像してみたことはあるだろうか。目の前で見て初めて直面する人もいるかもしれない。人によって考え方が違うことは当たり前ではあるが、問題に直面した時に「じゃあ自分には何ができるだろう」と考える人はどれだけいるだろう。
私自身が取り残されていると感じる場面は地域格差である。コロナウイルス対策によりリモート授業ができるようにと小学校でタブレットが配られているが、都内の小学校は今年の1月に配布されているのに対し私の母校は未だ配布されていない。まず田舎にはウーバーイーツというサービスがない。となると密を避けることは困難になる。人口が少ないし自家用車があれば大丈夫なのではと思う人もいるが果たしてどうなのだろう。地方でのクラスターも確認された。田舎は感染対策に対する意識が薄いなと思った。行政は必死に呼びかけているのに対しマスクをしていない人が多く見られた。意識の違いに私はショックを受けた。誰もが不安を抱えている。しかし意味のない正義感によって新たな問題が起きるのに対し、愛がないなと感じる。自動車の他県ナンバーを煽る話は本当におかしな話だと思ってしまった。相手の立場に寄り添うことができなくらい日本は追い込まれているのだろうか。もし追い込まれているとしたら新型コロナウイルス以上にもっと深刻な問題があると思う。地球温暖化により将来地球に住むことができなくなっている状況だ。自分を含めどうか問題を他人ごとにしないでほしい。そして世の中お金が全てではないことを思い出してほしいと心から思う。
「誰一人取り残さない」これを実現するにはまだまだ時間がかかる。いやもしかしたらこのままでは実現不可能かもしれない。それでも私はできることから始めていきたいと思う。人の温かさというものはとても素晴らしいことなのだから。だから皆少しでいいから自分以外の誰かに目を向けてほしい。みんなでやることが解決への大きな一歩になるのだから。そして何かアクションを起こしたいという人がたくさん集まることを祈る。継続的に動けば必ず変わるはずだ。

 

石井優 横浜隼人高校 2年生

 

 私は学校の授業で、SDGsについて考えた。5番の「ジェンダー平等を実現しよう」という目標を達成するために必要なことを考え、周りの人たちと共有した。
 私はまず、日本の現状について調べ海外と比較してみてたくさんのことがわかった。まず、日本では同性婚が認められていない。しかし、オーストリアや台湾では認められており日本は「LGBT」への対応が遅れていると感じた。同性婚が認められてないのは、異性同士の結婚に固定概念を持っている人が多くいることが問題だ。解消するために周りの人たちが理解し、受け止めてあげることが必要。それだけではなく、性別にとらわれていて本当の自分自信を発信できていない人をなくし、みんなが本当の自分を自信を持って発信できるようにする。自分から本当の自分を自信することは怖いと思うが、周りの人たちがサポートしてあげる事によって少しずつ発信できるようになる。また、1人1人が自分自身と向き合い自分を理解し、周りと共有することができるような世界にしたい。
 また、ジェンダーの人たちが周りにカミングアウトするのに抵抗があると言うことがわかった。抵抗になっている原因は日常生活を自分らしく送れていないことだ。例えば、体は男だが心は女でトイレで困っている人たちがいるとする。そこで、どうすればこの問題が解決するのかを考えた。まず、公共のトイレには多目的トイレというところがあるので、そのトイレを増やし、誰でも使えるようにすればいい。
 つぎに、ジェンダーについて考える機会を増やすために必要なことを考えた。子供のころから「LGBT」ジェンダーについて考える機会を設けるために学校が教育するべきだと思う。子供だと理解するのが難しいかもしれないが、子供のうちから考え方の自由を教えるべきだと思う。また、アニメやドラマでジェンダーについて考える機会を作る。気づかないうちにジェンダーについて考えて自分の意見を持てるようになればより良い世界になる。
 他には、恋愛対象を男女だけでなく、「男男」「女女」などの恋愛を周りの人や国が認め、当事者たちが過ごしやすい環境にする。環境が変化することで、周りにカミングアウトしやすくなる。
 私は、「ジェンダー平等を実現しよう」という目標を達成するために必要なことを考えてみて、日本には多くの課題があると言うことがわかった。この課題を、1人1人が真剣に考え、その考えを周りと共有し少しずつ解決できるようにしたい。そうすれば、日本だけでなく世界がより人々にとって過ごしやすい環境になる。

 

青嶋七海 横浜市立橘中学校 2年生

 

マイクロプラスチックというものを知っているだろうか。五ミリメートル以下の極微細なプラスチックのことで、人間を含めた様々な生物への悪影響が問題とされている。中でも海の生物たちに与える影響は深刻で、海のプラスチックの量は2050年でには魚の量を上回るとさえ言われている。プラスチックは、捨てられても自然界で完全に分解されることはないので、そのまま海の中で砕けて小さな破片となり、それを魚などの海の生き物がエサと間違えて食べてしまうのだ。クジラのお腹から山のようなプラスチックが出てきたというような話が他の多くの生き物に起きてしまっている。さらにマイクロプラスチックは生物にとって異物なので、毒性があり、物理的なダメージを受けるので、海の生物に撮って非常に悪影響だ。これは魚をはじめとした海の生物を食べる人間にも言えることで、人間が魚を通してプラスチックを食べると、有害化学物質が体内に蓄積され、ガンの発生や免疫力の低下を引き起こすと考えられている。このように海に捨てられたプラスチックは環境汚染の原因となる上、生物に有害なのにも拘らず、どんどん増えている。それは、プラスチックが生産されるスピードが人口が増えるスピードより早くなっていることことが原因だろう。ペットボトル、容器、発泡スチロールなど、私たちの日常にはプラスチックが溢れている。そして量が増えれば増えるほど海に捨てられる量も増えるという流れができてしまっている。人間の身勝手な都合で海の生物が被害を受けることなどあってはならない。マイクロプラスチック削減のために、私たち一人一人が行動を起こす必要がある。まず直ぐにできることは、マイバック・マイボトルを持ち歩くことだろう。「使い捨て」のものをできるだけ使わないライフスタイルを徹底すれば、社会全体のゴミ削減が進む。そして、初心に戻って「ものを大切にする」ことを心がけるのも大切だ。プラスチックだけでなく、ごみそのものを減らすことで、海を始め、地球全体の豊かさを守ることができる。生物たちが人間に脅かされることなく暮らしていけるようにするためにも、より多くの人が現状を知り、改善に向けてことが必要だ。一人がやることは小さくても、何人、何百人もの心がけによって地球はより良いものになっていく。そのことを頭に入れ、まずは海の豊かさを守るために、些細なことでも良いので実行に移してみてはどうだろう。「何とかしたい」いう思いで行動する人が増えれば、それだけ多くの生物を守ることができるのだ。

 

青山遊 信州大学教育学部附属長野中学校

 

 私は学校が大好きだ。中学校に入ってから2年半、学校に行きたくないと思ったことがない。これは私のちょっとした自慢だ。私には勉強について厳しいけれど優しい家族がいる。自分を理解し、寄り添ってくれる先生がいる。一緒に泣いて一緒に笑い合ってくれる友達もたくさんいる。そして、そんな大好きな学校に毎日登校することができる。入学してから私は自分のことをとても幸せな人間だと思ってきた。しかし、このような幸せが得られるのは周りの人々のお陰だと思う。だからこそ、次は私が、私たちが誰かを幸せにする義務があると私は思う。
 学校で、SDGsについての学習をした。どれか一つ項目を選んでグループごと分かれ、その項目の目標を達成するにはどうすれば良いかと言う討論を1ヶ月にわたって繰り返した。その時私は改めて、世界は皆同じじゃないと実感した。毎日危険にさらされながら生きている人、飢餓に苦しみながら生きている人。皆同じようにして生きている訳ではない。私たちは恵まれている人間なんだと思った。しかし、どんな環境下にいる人でも皆「幸せ」という感情は持っていると思う。黒人でも白人でも、男でも女でも、子供でも大人でも人間として生まれたなら誰もが「幸せ」だと思える必要がある。しかし貧困や飢餓、戦争など「幸せ」を妨害するものは数多く残っている。それらを私たちが私たち自身の手でなくし、誰一人取り残さずに持続可能な社会、理不尽に「幸せ」を侵害されることのない社会を作り上げることがSDGsの本当の目標であり私たちがこれから行うべきことなのではないか。私はまず、身近な貧困問題から率先して解決していきたいと思う。例えば、学校給食で余った食事を貧困に苦しむ人に食べてもらうのはどうか。また、給食なら栄養バランスも良いため、飢餓や体調不良に苦しんだりする人も減ると思う。同時に食品ロスも防げるため陸の豊かさや海の豊かさも守れる。他にはトイレットペーパーやティッシュペーパー、お米などの生活必需品の余り、使わないものをでそれぞれの地区ごと集め、貧困に苦しむ人などに使ってもらうのはどうだろうか。使わないもの、自分に合わないものが減って、ゴミとなるものも減少するし必要としている人には与えられるしとても環境に優しく、人にも優しいアイディアになると思う。
 このように、私たちが少しなにかを援助したり分けたりするだけで救われる人は増えると思う。自分の幸せを誰かと共有するために。幸せの輪が皆に広げるために私はこんなプロジェクトを提案したい。

 

西村宗杜 鎌倉市立小坂小学校 6年生

 

 僕は、前に学校から帰る時に機械で森林を壊しているのを見かけました。その夜、ニュースで今森林が世界的に減っていると言っていました。その原因は、家を建てるためだったり、土地を作って売る為だと言ってました。その森林減少を止めるにはどうすれば良いのか考えました。    

 僕はニュースを見た次の日に、近くの山に行きました。そしたら、かすかに機械で木を切っている音がしました。気になって音のする方へ行くと、やっぱり木をきっていました。その木を切っていた人に、なんで木を切っているのですかと聞きました。そしたら木を切っている人が、
「なんで切ってるかと言うと、ここに土地を作って売るんだよ。」
と、教えてくれました。その話を聞いた僕は、心の中で、あっ、昨日のニュースで言ってた事と同じだなと思いました。この事から、僕はこんな近くでも木を切っているということは、世界ではスゴイ量の森林伐採が行われているんじゃないかなと思いました。このような事から僕は、次の3点を提案します。
 
 1つ目は、加工した木の破片で、物を作ることです。森林は、無限にある資源ではないので、少しでも無駄なところを無くすためです。なぜこれを提案するかというと、木が限りある資源だと思っている人が、少ないと思ったからです。具体的には次のような提案を考えています。
・木の破片を使って動物のすみかを作る。(リスやツバメなど)
・企業とコラボして木の破片で、日常品をつくる。
木の破片を使うことによって、森林の大切さや森林は無限にある資源ではないという理解ができるようになり、エコな暮らしができると思いました。

 2つ目は、新しく苗木から育てて森に植えることです。これは、一人一人が、新しく苗木を育てて、森林に植えると言う事を提案します。なぜこれを提案するかというと、どうやっても森林伐採をゼロには出来ないと思うので、増やした方が良いと思ったからです。これを一人一人じょじょにやっていけば、木を切って土地を売る人や、木を売る人などを「誰一人取り残さない」事が可能になると思います。

 3つ目は、森林のじゅんかんを作ることです。(資料1)これは、まず苗木を植えて、次に育てた木を切ります。それから、その切った木を加工します。そして、その加工した木を使います。そのことを森林のじゅんかんと言います。なぜこれを提案するかというと、この森林のじゅんかんをすることによって森林を増やす事もできるからです。さらに、木を使っている仕事の人にも木が使えなくなるという心配がなくなると思います。
森林のじゅんかんができれば、上のようなことが起き、他にも動物のすみかが増えたり、空気をきれいにしてくれたりなどの効果が起きると思います。僕たちもこの活動に協力するためにこのような活動をしていきたいです。他にも、木を売っている日本産の木を買う。ボランティアをする。などの事が出来ると思います。
 

 もしも、このことが実現できれば、森林は増えて、さらに、動物の数も増えると思います。しかも、木を売っている企業も森林がなくなるという心配が無くなると思います。森林を増やすことや森林伐採を止める事の両方が出来た時、森林は、減って行かずに、増えてくるし、それ以外の事にも役に立つと思います。例えば森林の余った木で椅子や、机などの日常品などができたりします。僕もボランティア活動に参加して、森林を増やしたいです。

参考資料
「EduTownSDGsアライアンス 私たちがつくる未来
SDGs START BOOK SDGsスタート」
東京書籍株式会社 発行

 

星屋沙弥佳 札幌国際大学 4年生

 

「お一人様」には、2つの種類がある。1つ目は、1人の時間を楽しんで自ら選択しひとりでいる人。2つ目は、ひとりになりたくてなった訳ではない人。これはいわゆる核家族化が進み、地域の人や近所の人との交流が少なくなりひとりぼっちになってしまった人のことである。この作文では、SDGsの10個目の「人や国の不平等をなくそう」と11個目の「住み続けられるまちづくりを」の目標に観点を置き、好んでひとりになっている訳ではない高齢者の「お一人様」をなくすために取り組むべきことを考えるものとする。
まず高齢者の孤独死の背景について記述する。平成20年に厚生労働省が高齢者等が一人でも安心して暮らせるコミュニティづくり推進会議の報告書で高齢者の「孤立」の背景について報告している。戦後、高度経済成長が進み第二次・第三次産業中心の社会に変化する中で、日本は多世代同居型から核家族型に大きく変化していった。こうした核家族は子供が独立すると夫婦二人だけになるが、これに平均寿命の延びが加わって、夫婦二人またはその後一人という世帯が増加し、そのような世帯状況にある期間も長期化することとなったと述べられている。
私は上記のような孤立した人と社会との希薄な交流を改善するために、高齢者の方と若者の交流を強めることを提案する。交流と言っても大きなプロジェクトを立ち上げるのではなく、挨拶をする、回覧板を持って行った時にお話をするなどだ。一見普通のことのように見えるが普通にできている人が少ないと思い、これを提案することとした。
それでは交流の中でも「挨拶」を含めた取り組みを具体的に示す。私は小学生の時に 通学路の範囲にある高齢者の自宅へ小学校からのお便りを届ける役割を担っていた。私のように、お便りを届ける児童は複数人いた。実際に高齢者宅へお便りをお届けすると「いつも笑顔をありがとう」「元気を貰えるよ」と言って頂いたことを覚えている。今思えば、お便りを届けに行っているだけであったが、高齢者の方からすると若い世代の人と話すきっかけや家族以外の人との繋がりをもてる大切な時間だったのではないかと考えられる。また、小学生だった私からしても地域の人の顔を知る機会にもなり安全な街づくりにも繋がっていただろう。
次に教員以外の大人に話を聞いて貰えることで元気が貰えたり子供の安心できる居場所になったりすることについて触れる。前段落に記述した経験を生かして、小学校や中学校を経由してお年寄りの方へのお便りを児童生徒が配達する仕組みを広めることで異年齢交流と安全な街づくりを実現させたい。いわば学校教育と社会教育の連携を強化するということだ。また、異年齢交流が実現出来た際には、地域の人が学校に出向き昔の遊びを児童生徒に教えて一緒に遊ぶ時間を作りたい。遊ぶモノも今と昔では全く異なるモノから今も変わらず残っているモノがある。今いる先生が教えるのではなく、実際にその遊びをしていた方に教えて貰うことで児童生徒は教師以外の大人と交流する時間を持て、多様な価値観に触れることができるだろう。また、高齢者の方も自分の経験を伝えながら若者からエネルギーを貰えると思う。
今回述べたように、それぞれの地域がその地域に住んでいる人に対して向き合うことで結果的に全体が良い方向に向かうことができると考える。そして、SDGsの10個目の「人や国の不平等をなくそう」と11個目の「住み続けられるまちづくりを」の目標を達成するために、このような取り組みが普及することで「社会といつまでもつながりを持てる人材の育成」や地域内交流を強めることで「誰もが安心して生活し続けられるまちづくり」に繋がるだろう。

成願もえ 神戸大学 1回生

 

「誰ひとり取り残さない」この言葉はSDGsの基本理念の一つです。大学に入りSDGsについて本格的に考え始めたわたしは、まだSDGsについて学んでいる段階です。そんなわたしが今回このコンテストの存在を知り、いまの自分に書けることはなんだろうかと悩んだ末に、まずはこの言葉とじっくり向き合ってみたいと思います。
まずは”誰ひとり”の部分。この世界にはどのような人がいるのでしょうか?そもそも、「どのような」と書きましたが、人間を種類分けするということは可能なのでしょうか。例えば性別で人間を分類してみることにします。この世界には男性と女性しかいないわけではありません。LGBTQと呼ばれる人たちがいて、でもまだ他の性別を持った人がいるはずです。そもそも人間を完全に分類することはできないのです。分類は物事を考える時にはもちろん大切なことですが、分類分けをするということはそこからこぼれおちてしまう部分が出てきてしまうということです。もし人間を機械的に分類してしまい、そこからこぼれおちてしまっていたら、それは”誰ひとり”ということにはならないということです。”誰ひとり”というのは、決して分類分けをして「こういう人を救おう」というものではなく、ひとりひとりを人間として尊重するということだとわたしは考えます。
次に「取り残さない」という言葉。取り残されるとはどういう状態でしょうか?人によってそれを感じる場面はさまざまだと思いますが、どの場面においても他の人と繋がることができない、助けを求めることができないという要素が含まれるのではないかと思います。それを解消するためには、他人とのつながりを大事にすることが重要だと考えます。困っていることを他人に共有することはなかなか難しいからこそ、日頃から小さな悩みをなんでも相談できるような環境を作っていきたいです。
こうして考えてみて、わたしにとっての「誰ひとり取り残さない」というのは、人を変に区別したりせずに、困っている人を探してその人と積極的につながりを持つことだと感じました。現在大学でSDGsやESDについて学ぶことのできる授業を取り、先生方のお話を聞いたり同級生と話し合ったりしているなかで、このコンテストを通じて自分なりに考えたことを活かし、自分にできることは何か、考え行動していきたいと思います。

 

瀬川誠 横浜国立大学

 

SDGsの基本理念である「誰ひとり取り残さない」の視点で、考えること、提言、自分に何ができるのかを述べていきたいと思う。
 SDGsの基本理念は確かに素晴らしいことだとは思う。ただ、「誰ひとり取り残さない」ことを実現するのは極めて困難だといわざるを得ない。正直に言えば、現状では不可能だと私は考えている。快適で豊かな生活を送ることのできる人たちがいれば、貧しい生活を送っている人たちもいるだろう。そういった構図が出来上がってしまう背景は、思っている以上に複雑でどうすることもできない場合もあるだろう。すべてをすくい上げようとするのではなく、優先的にすくい上げる人たちなどを決める必要性があるのではないだろうか。まず、障害者などのハンデを背負っている人たちから優先的に救うべきだと私は考える。こういった人たちは周りの助けなしでは生きていくことが難しく、SDGsが対象としている中で最も優先度が高いと感じた。一方で経済活動に関する支援の優先度は低い。経済活動はそれぞれの能力に左右されることが多く、取り残される人は常に一定にいると考えられるからだ。経済力に差が出てしまうのはある程度は自己責任と考えていいだろう。ただ、人間開発指標の低い地域では、満足な教育を受けていない人も多いと思われる。先進国のような教育が発展している国の優先度は低いが、人間開発指標の低い国は例外的に支援を強化していく必要があるだろう。SDGsの基本理念である「誰ひとり取り残さない」とは、「誰もが同じスタートラインで」と言い換えることが可能だと思う。取り残さないのはスタートラインの「前」においてであり、それ以降で差が生じるのは各人の努力によるものであるというのが私の考えだ。自分ではどうすることもできない格差を埋めるのがSDGsの役割ではないだろうか。そして、選択肢の幅を広げる手助けができるのもSDGsの強みと言えるだろう。これからは基本理念を大事にしつつ柔軟な対応が求められるのではないだろうか。
 次に「誰ひとり取り残さない」ために私は何ができるのかを考えてみた。個人でできることには限界があるため、まずは取り残されてしまっている人が身近にいた場合、サポートを常日頃から意識的に行っていきたいと思う。こうした小さな試みでも多くの人が行うことによってSDGsの基本理念に近づくことができると思う。サポートする姿を見せることによって、他の人も行動に移してくれるかもしれない。また、サポートする際は意思疎通できるよう心がけるつもりだ。どうして取り残されてしまったのかを知ることは、SDGsの活動の助けになると思うからだ。

 

菅沼雅 横浜隼人高校

 

SD G Sの基本理念である「誰ひとり取り残さない」を現実にするためには「どのような行動をするか考える」ということが必要だ。「考える」ということ自体は普段から常にしていることである。例えば「誰ひとり取り残さない」という言葉を初めて聞いた人は自然とどういう意味かを考えるだろう。しかし、誰ひとり取り残さない社会をつくるために「何をするか」を考える人は少ないのではないか。少なからず私もそのひとりだ。だからこそ「どのような行動をするか」を考えていくべきだと感じる。行動しなければ意味がないという言葉をよく耳にするがその通りだと思う。行動しなければ結果は出ないし何も成し遂げたことにはならないかもしれない。しかし、現に今行動している人たちは何をしたら良いか考えた人たちだ。私が授業で見た 『バリのレジ袋廃止運動』はメラティとイザベルという10歳と12歳の少女2人が彼女たちの故郷である美しいバリ島を守るため、さまざまな活動をしていくというものだった。彼女たちは空港で署名活動をしたりして、知事に会い、レジ袋撤廃を約束してもらうまでに至った。彼女たちの根本にあるのはバリ島を守りたいという自然的な考えだ。ただ、彼女たちの素晴らしい行動は「守るために何をするか」を考えた結果だ。私たちも全ての人を守るためには、取り残さないためには、何をしていくのか考えることができなければ、行動に移すことはきっと出来ない。行動しなっかったのなら、目標は達成できないだろう。1人で行動を起こすというのはとても難しい。しかしたくさんの人が協力し合えたらどうだろう。協力してもらうためには自分の考えを誰かに伝えなくてはならない。そんなとき、「私は誰かを助けたいです。」と言っても相手は何に協力したら良いかがわからない。誰かを助けるために何がしたいのかが言えて、やっと誰かが協力してくれる。行動するのは難しくても、何をするべきか考えることは、意思があればいつでもできることだ。それが今、私たちのすべきことなのではないかと私は考える。行動するための第一歩が何をするか考えることなのだ。

 

菅原穂都 神奈川大学経営学部1年生

 

 SDGs、持続可能な開発目標。この言葉は数年前からテレビやネットニュースなどでよく目にするようになった。しかし、私はこの言葉を知っているだけで活動に関してはよくわかっていない部分が多い。この活動の基本理念「誰ひとり取り残さない」が誰の・どのような行動によって達成のカギになるのだろうか。
 近年、SDGsの取り組みは多くの企業や地域などから注目を集め、基本理念達成に向け様々な活動を行っている。例えば横浜に本社を置く日産自動車株式会社では、17項目すべてに向けてアプローチを行い、9項目14個のターゲットで実績をあげている。また、同じく横浜に本社を置く株式会社崎陽軒では、「森の豊かさも守ろう」「飢餓をゼロに」「質の良い教育をみんなに」の3項目を中心にアプローチを行い、このすべての分野で実績をあげている。
 しかしこの活動の焦点を企業の団体ではなく、個人に向けてみるとどうだろうか。朝日新聞が2020年12月に行った「第7回SDGs認知度調査」によると、SDGsという言葉を知っていると回答した人は52.7%という結果になった。2017年7月に行われた第1回の調査結果は12.2%だったため、認知度は3年で大幅に上がったといえるだろう。しかし、現在も約2人に1人がSDGsという言葉を知らないという現状がある。また、SDGsという言葉を知っていると回答した人の約4割が「特に取り組むことはない」と回答している。これは、私たち一人ひとりの危機感のなさが表れているのではないかと考える。
 現在、世界では地球温暖化や生き物の絶滅といった環境問題や差別、貧困、働き方など様々な問題に直面している。このような状態が続けば、2030年までに基本理念は達成できず、問題がより深刻化してしまう可能性がある。
 しかし今私たちには世界を変えるチャンスがある。数年後、数か月後にはこのチャンスは失われているかもしれない。基本理念達成のためには、企業だけでなく世界中の一人ひとりがSDGsに関心を持ち、達成に向けて今すぐにでもアクションを起こす必要があるのだ。
日本は現在、「ジェンダー平等を実現しよう」の項目で世界から特に遅れをとっている。世界経済フォーラムが毎年発表する「ジェンダーギャップ指数(男女の格差の有無を表す指数)」によると日本は世界156ヶ国中120位と先進国の中でも低い順位にとどまっている。その理由は様々だが、1つは政治の分野で女性の活躍が非常に少ないことである。また、職場では女性という理由で管理職に就くことができない、家庭では家事を女性のみが担うなどの問題もある。先進国でもこのような現状があるのだから、発展途上国などではより深刻かつ多くの問題をかけているのではないか。
 このような日本や世界の問題をたった1人で変えることは難しい。そんな時に活躍するのがSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)だ。コロナ過で人との接触を避けながら活動できるという点においてもSNSは非常に役立つ。このシステムを使い、「日常の中でもすぐに取り組めるSDGs活動」などを発信・共有していくことで、小さな声がより大きな声となり、国や世界をも変えることができる大きな力になる。私はこのようにSNSなどを使って情報の発信・共有していくことがSDGsという言葉の浸透や1人ひとりの活動となり、誰ひとり取り残さないという基本理念の達成につながると考える。

 

菅原未菜 隼人高校C組

 

日頃人と関わり合いながら生活している私達。そんな私たちには、一つなくすべき大きな壁があると考えています。それは、男女という性別です。いくつか私が実際感じた例をあげます。はじめに、「友達」です。今友達と考えすぐ思い浮かぶのは、女友達がほとんどです。しかし、女友達という言い方に私は、「なぜ、友達と考えたら、女に限られるのか」と。ジェンダーについ
て知り始めたわたしは、不自然に感じました。何の支障もなくごく普通のことだ。そう思う人がほとんどだと私自身も思っています。しかし、本当に支障がないのでしょうか。また、ある日、私が「Xジェンダー」について特集されている雑誌の記事を読みました。それは、ある普通の男子高校生が起こした、「制服改革運動」です。その方は、実際Xジェンダー、つまり、男女どちらにも属ない、性別の持ち主だったのです。しかし、彼自身の学校は、普通の制服の指定でした。つまり、男はズボン、女はスカート。その指定に彼は疑問に思い「男女」で制服を分ける必要があるのか。それを行動にして、ズボンをタイプ1、スカートをタイプ2として、変えたのです。また、ある男性が好きなメイクファッション、言葉遣いをしていただけなのに、周りの人に、変な人という認識をされ、好きなことが外ではしづらくなった。そういう記事も見ました。ただ、好きなことをしただけで誰にも危害を与えてないはずなのに、なぜ、人は、人を気にするのか。また、女の人が社会に出て、メイクをしていなかったら、礼儀がなっていない。そう言われる。「なぜ、女の人だから、男の人だから、か〇〇をしてないといけない。〇〇をしたらおかしい。」
と言われるのでしょうか。私には、これらのことを言っている人たちが礼儀がなっていない、というか、人としてどうなのか。と思ってしまいます。それはなぜか。それは、人の好きなこと、考え方は、それぞれ違う個性がある。しかしなぜ、人は、人の目を意識して、生活し、好きなことが出来なくなる。のか、本当にこの疑問を考えていくと、疑問から疑問に繋がっていくきがします。しかし、そのことを疑問におもうこと自体おかしいと私は思います。私たちが将来社会を引っ張っていく上で、必要なことは、性別で人を判断したりするのではなく、1人の人間を
人間という存在、能力で判断すべきだと私は、この作文を通して、必要だと考えます。私たちがすぐにでも始められることは、人のことを知る。知って認める。その繰り返しが段々と大きくなり、そのことがSDGsの「誰一人残されない」という目標達成に近づいていくのだと思います。

 

杉本優華 岡山龍谷高校

 

今の日本で取り残されている人は高齢者ではないだろうか。最近では日本でも新型コロナウイルスのワクチン接種が65歳以上の高齢者を対象に始まった。もちろん、高齢者を優先的に接種するのはいい事だと思う。東洋経済オンラインでは、ワクチン接種に関する問題が挙げられている。ワクチンが調達できなかったこと、ワクチン接種の準備が遅れたこと、ワクチン接種で混乱が起きたこと、ワクチン接種のロードマップが見えないことの4つである。私は3点目のワクチン接種で混乱が起きたという問題について考える。その中でも、ワクチン接種の予約方法に問題があると私は考える。現在のワクチン接種の方法は電話もしくはホームページからのネット予約の2種類の方法しかない。連日のニュースを見ていると、電話回線がパンクして電話が繋がらない、ネット予約の仕方が分からないなど、問題が山積みなのが明らかになっている。スマートフォンやパソコンなどの扱いに慣れている若者の私たちにとって、ネット予約はとても簡単だが、高齢者にとってネット予約はとても難しいものである。実際、私の親族の中にもネット予約の仕方が分からないと言う人も居た。なら、私たちはどうするべきか。そう考えてみると、私たちに出来ることは限られている。親族の中でネット予約ができない人の予約を代わりにしてあげるなどがあるが、この方法では遠くに住んでいる親族や、独り身の高齢者の手助けをすることはできない。したがって、私は政府もしくは自治体に2つのことを提案したい。1つ目はワクチン接種の日時を政府もしくは自治体が決めるということである。そうすれば、電話回線がパンクすることもなくネット予約をする必要もない。都合がつかなければ役所に電話して変更する。予めキャンセルがあった時の為にその日に行ける人を聞いておけばワクチンを無駄にすることも無い。しかし、政府や自治体もそこだけに時間を費やせられない。なので2つ目の提案は申請方法を紙媒体にすることだ。ワクチン接種者に都合が良い日時を5.6個ほど書いてもらい、役所に郵送する。自治体は、申請書によって日時を振り分けてそれを該当者に知らせる。かなり手間だが、高齢者にとってはネット予約よりははるかにわかりやすい方法であるだろう。しかし、人には得意、不得意がある。私がここで簡単だと書いたものでもある人にとっては難しかったりもする。その為にもある程度の手段を用意し、それを管理しないといけない。管理するための機関が必要かもしれない。しかし、この先の見えないコロナ禍の中でワクチン接種が希望の光になっている。変異種など様々な不安のある中、ワクチン接種は私たちの拠り所にもなっている。ならばそのワクチン接種をスムーズに進め、問題を減らす為に政府や自治体は方法を考えて実行する必要がある。もちろん私たちもそれに協力する必要がある。高齢者を取り残さない為にも、私はワクチン接種の日時を政府もしくは自治体が決めること、ワクチン接種の申請方法を紙媒体にすること、この2つを提案する。

 

杉山茉紘 慶應義塾大学 2年生

食事付き学生・社員寮の食堂を地域活性の場にするアイデアについて

1.はじめに
私は2020年4月、大学入学とともに兵庫県から神奈川県へ来ました。大学のまちづくり論の授業で持続可能なまちづくりを学び、大学周辺地域(藤沢市)の特徴と課題について調べました。私の住む湘南台は老若男女多様な世代の人が住んでいるにも関わらず、世代間の交流がありません。私もコロナ禍で授業はオンライン、友達もできない孤独な状況です。関西と違い地震も多く、地震のたびに「今大地震が起きたらどこへ逃げたらいいのだろう、誰に助けを求めたらいいのだろう」と取り残される不安を感じます。こんな時、地域の皆さんとのつながりやつながれる場所があれば安心だと思い、この提案を思いつきました。以下、私同様に地域に取り残される不安を持つ人のための持続可能で効果的な場作りについてのアイデアを記していきます。
2.湘南台地区の特徴と課題
湘南台駅は1966年に住宅地の開発に伴い新設された駅です。その頃から住んでいる人もちろん、現在は鉄道も3路線が通っていてアクセスが良いので転勤族や若いファミリー世代も多いです。大学も複数あり私のようにひとり暮らしをする学生も多い町です。
活性化している町の特徴として「多くの世代で構成されている」ことを授業で学んだのですが湘南台地区はその条件を満たしています。しかし世代間の関わりがないために地域に取り残され孤独を感じる人がいるのが課題です。多くの世代の多くの人で賑わっているのに地域のつながりがなくただ人が通過するだけの町になっています。
3.食事付き学生マンションの食堂を利用した地域活性のための効果的な場作りの提案
私の住む学生マンションは朝・夕の2食付きで食事は食堂でとるシステムです。毎食食堂のキッチンで複数のスタッフさんが手作りしてくれています。学生相手なので多めに食べ物を用意してくださっているのですが、かなり多くの食べ残しがあるのが以前から気になっていました。入学当初は専用アプリで事前に各食事の要・不要を申請しなければならず、食費を払っているのに煩わしいと正直感じていました。しかし、食材量管理、フードロス削減という観点からもいいシステムだと実感しだした頃、不具合発生でこのシステムごとなくなってしまいました。現状はまた、せっかく作ってもらった食事が大量に残されている状態に戻っています。
そこで、フードロス削減・地域の多世代交流の場作りとして、こういった食事付き学生マンションや社員寮の食堂を地域の人に開放し、活用してもらうシステムができればいいのではないかと考えました。フードロス削減の観点から言えば、スーパーやコンビニなどでも賞味期限の近い食品は割引するように、学生や社員の利益は守りつつ、彼らの食事時間の後に食堂を開放し安価で残った食事を提供すれば、環境・寮経営会社・地域住民全てに利益があるのではと考えます。地域活性化・多世代交流の場作りという観点からは、こども料理教室や地場の食材を使った料理教室、留学生たちによる自国料理教室などイベント開催の場となれば多種多様な人が集まり、関わり、地域を盛り上げる場になり得ると考えます。そしてこのような学生・社員寮は私の住むマンションの系列寮だけでも神奈川県に現在28あります。
4.実現のための課題
まず、全ての食事付き学生・社員寮でこのアイデアがうまくいくとは限りません。私の住む湘南台駅前の学生マンションは立地もよく多くの世代の人が立ち寄りやすく条件を満たしていますが、そうでないところでは寮経営者の負担が増えてしまいます。そこは充分なリサーチが必要です。また、入寮者の安全確保の問題も重要です。学生マンションや社員寮に住むメリットはセキュリティの良さです。地域の人との多世代にわたる交流は孤立感を薄めるものでもありますがしっかり安全も確保する必要があります。食堂への出入りの時間を分ける、また入場者チェックなどの必要があります。また、地域の人々へのインフォメーションの仕方も重要です。多くの人の目に付く駅などに「あと30食!300円で朝定食あります!」などの掲示をする、地域の人が登録する地域情報アプリなどを充実させそこに随時発信していくなどです。
5.まとめ
少子高齢化が進み一人世帯が増え個人の孤立が今後さらに深刻になっていきます。個人としての自由を守りつつ、地域でつながりを持ちいざというとき安心できる場を持つことが大切だとコロナ禍で実感しました。実験的にでもこのアイデアが実現し、誰かの孤独を取り除くことができたら嬉しいです。

 

須藤健太郎 横浜国立大学 1年生

 

 一度「取り残される」という経験をした人は同じような経験を積むにつれて、次第に「取り残される」ということに慣れてしまい、自ら孤立してしまうのではないかと思う。ここでいう「取り残される」とは人間関係や学業、その他のことにおいてでも同じである。どのような側面においてでも「取り残される」という経験は本人の中に蓄積されていき、徐々に「取り残される」ということ、一人でいることに慣れ、他人を頼ることができなくなり何事も自身の中に抱え込んでしまう。しかし「取り残される」という経験を完全に排除するべきかというとそういうわけではない。人は「取り残される」ことで自身の「異常性」に気が付き、修正して、社会の中に適応していくからである。仮に「取り残される」ことを完全に悪とし、排除したならば個々が自分勝手に行動し、社会が成り立たなくなってしまう。社会という集団の一員として生きていくにはある程度の「取り残される」という経験は必要不可欠である。人は「取り残される」という経験を通してその後の「取り残される」ということを回避する。つまり一見矛盾しているかもしれないが「取り残される」ということがあって初めて、「誰ひとり取り残さない」ということが実現されるのである。
 では、どのような「取り残される」という事例が必要なのか。ここで重要になるのは「取り残される」側と「取り残す」側のどちらが修正可能かという点である。例えば毎朝寝癖を直さないで登校する人がいたとする。もちろん周囲からはだらしがない人として「取り残されて」しまう。次に日本語をほとんどしゃべることができない海外からの転校生が来たとする。この人もまた文化、人種の違いから「取り残されて」しまう。この二つの違いはなにか。それは、前者は当人による修正が可能、後者は不可能という点である。社会の一員として生きていくうえで必要な「取り残される」経験とは前者のような事例である。このような経験を通して「取り残される」側の人は「誰ひとり取り残さない」社会を目指すのである。そして、ここで私が問題としたいのは後者のような事例である。
 前に挙げた海外の人のような事例は日本では特に多いと思う。小さいころから海外の人と関わるという経験が少ないため「取り残す」側に問題があるとはなかなか言えない。ではどこに問題があるのか。それはそのような経験をすることができない環境にあると考えられる。日本には海外の人が少ないというイメージがある人も少なくないと思うが実は日本は世界的な「移民大国」なのである。そのようなイメージが存在する理由は海外の人との住みわけが徹底されているからである。外国人学校などはいい例である。もちろん最近の学校にはネイティブの先生などがいることも多いが必要なのは気楽に話すことができる外国人の友達である。小さいころから日常的に異なる文化をもつ人と接することでその人がもつ「異常性」を「異常」だと感じないようにすることが重要である。そうすることで「取り残す」ということをなくしていくのである。
 そしてこれは外国人だけでなく身体的、精神的に障害をもっている人も当てはまる。私の通っていた小学校にもそのような障害を抱えた生徒が複数人いて同じクラスになることも何回かあった。しかし朝礼、終礼、昼食の時間を除き彼らと関わることはなく、一緒に授業を受けるということは少なかった。そのような環境であったため結局「彼らは自分たちとは“違う”」というイメージだけが残った。この例も障害を持っている人と十分に関わることができなかった環境に問題があると考えられる。大人になり社会に出るとそういった障害を抱える人と関わることは増えるため、小さいころからお互いに知ることが必要である。
 以上海外の人、障害を抱える人の二つの例を挙げ、彼らを「取り残さない」ために小学校など小さいころからコミュニケーションをとることを提案した。しかし、両者の提案で言えるのはどちらとも「取り残される」側の人に大きな負担がかかってしまうということである。知らない言語で授業を受けても本人のためにはならず、また無理して通うことで心身に負担がかかってしまうなんてことはあってはならない。けれども現在の教育現場、特に日本のものはあまりにも区分化しすぎなのではないかと疑問に思う。完全に同じ生活を送ることは困難かもしれないが外国人学校、また、いわゆる特別支援学校との交流を積極的に行い、小さいころから彼らと違う部分を知ることができる環境を整えることで「誰ひとり取り残さない」社会を目指すべきである。
このように「誰ひとり取り残さない」社会を構築するためには「取り残される」経験を通じて集団の調和を保ち、また、小さいころから自分とは違う性質を持つ人と関わることで「取り残す」という考え自体をなくすことが重要なのである。しかし後者においては今回例に挙げたようなわかりやすい例だけではなく相対的貧困のような見た目ではわかりにくい例も多くある。そのため個々が受け身になるのではなく自らSDGsについて考えを巡らせ、目標を掲げるべきだと考える。

 

須長凌 青山学院大学 3年生 経済学部

 

SDGsが掲げている目標として「1つに飢餓を無くそう」というものがある。日本で暮らす我々にとって飢餓はあまり馴染みがない。ところが、2016年の段階で世界人口の8.8%、11人に1人が飢えている。2050年には世界人口が100億人前後に達すると考えられている(※①)。一方人口爆発や地球温暖化などによる気候変動、化学肥料による農地の劣化などを考慮すると、これからの飢餓問題は、より深刻になり、十分な食料供給が得られず、取り残される人が大幅に増えると考えられる。そこで私はスーパーフードに飢餓問題の解決の可能性を求めて述べていきたい。
スーパーフードと聞くと、どういう印象を持つだろうか。多くの日本人は「知らない」もしくは「美容にいいもの」と思うだろう。しかし、実際のスーパーフードは、料理の食材や健康食品の両側面を持つもので、一般的な食品よりも栄養価や健康成分において秀でている。しかも、食歴が長く、安全面において信頼性が高いものである。
スーパーフードの中から私が注目している2つを紹介する。 最初に私が紹介するはキヌアである。キヌアは南米アンデス山脈の高原の冷涼小雨な地帯で育つ穀物で、他の穀物に比べて生産量は少ないものの、古代インカ帝国の頃から5世紀以上にも渡って食べられてきた「母なる穀物」と言われる。歴史の長い穀物で、国際連合も飢餓問題解決に大きく貢献すると考えています(※②)。事実白米は100gあたりタンパク質6.1g,脂質0.9g,食物繊維0.5gなのに対し、キヌアは100gあたりタンパク質12.3g,脂質5.4g,食物繊維6.1gと栄養価が高い(※③)。しかも水がなくても食べることができるため、水不足の国でも摂取しやすいことも特徴として挙げられる。
次に紹介したいのはチアシードである。チアシードとは「チア」という草の種子で雨季・乾季や昼夜の寒暖差が激しく、気候が安定しないメキシコ中南部を原産としている。チアシードの100gあたりの栄養価も白米100gあたりと比較すると、タンパク質18.0g(白米6.1g)、マグネシウム316mg(白米:23mg)、カルシウム697mg(白米:5㎎)と高いことがわかる(※④)。このため、マヤ文明の頃から5世紀以上にわたって食べられていた。
私は迫りくる飢餓問題の解決の一策として、こうしたスーパーフードの国内生産量を増やし輸出することが求められると考えた。その理由として1980年代にアメリカでキヌアの大量生産に失敗したとされる農業機械の普及が日本では進んでいること。また、日本自体の食料自給率が先進国で最も低く、農業の衰退が著しいものの、キヌアやチアシードは寒冷地の北日本などでも十分生産可能であることなどが挙げられる。
 そして、これからの世界に求められるスーパーフードを多く生産し輸出することは、食料自給率の上昇や日本の農業の発達も期待できるだろう。また、日本の農作物は安全性や品質の高さにおいて世界から高く評価されているため世界向けに生産した際の需要も期待できる。
 国内でスーパーフードへの理解が少ない理由として、親近感の無さがあると考えている。スーパーフードは海外での生産が多く、輸入の際に関税がかかり、高価なものという印象もある。国内生産を推進し、輸送費などを抑えることで安価で入手しやすくすることで、多くの人々にスーパーフードを認知してもらう必要があるだろう。また、スーパーフードにはビタミンなどが多く含まれるため美肌などの美容効果に優れており、理解が得られればSNSなどで拡散され、若い人を中心に親近感を持ってもらえると考える。さらに、スーパーフードのパッケージなどで飢餓問題の現状などを伝えることで、先進国で問題とされる食べ残しや賞味期限切れなどの食品に対する考え方が変わることにもつながると思う。
 私はスーパーフードを正しく理解し普及することで、身近な食品の無駄を考え、引いては飢餓問題解決への一歩となると考え提言する。

出典
※① https://www.unic.or.jp/activities/economic_social_development/social_development/population/
※②
https://www.unic.or.jp/news_press/features_backgrounders/4286/
※③
https://www.dmsugar.co.jp/products/p_quinua/
※④
https://www.hakubaku.co.jp/products/grains/243/

 

 

仁平夏椰 横浜国立大学 2年生

 

 「誰ひとり取り残さない」というフレーズを聞くと、貧困、教育、障害、性別などに関わる不平等や格差などが想像しやすいと思います。しかし、このSDGsの基本理念は17のゴールと169のターゲットがすべての国、すべての人々、及びすべての部分で満たされるようにするためのものであり、募集内容にあったように、みんなが享受できるとされる社会・経済活動の選択肢から誰もが排除されないことであると考えることもできます。そこで、誰かが取り残されてしまう場面とはどんな場面かということを考えると、上に挙げた以外の観点からも様々な場面で取り残されてしまう人がいると考えられます。そこで、今回は私が考える「取り残される人」の一例を挙げ、そのような人々のためにSDGsの観点から何ができるのかについて述べていきます。
 まず、私は取り残される人として、現代のインターネット社会についていけず、情報を得ることができなくなっている人を挙げたいと思います。グローバル化が進む今、通信機器の普及は一層進み、私たちはインターネットを通して様々な情報を得ることができるようになりました。しかし、スマートフォンなどの電子機器を持たない、あるいは持っていても上手く使いこなせないために、インターネットを活用している人と得られる情報量に差が出てしまう人がいることも事実です。このような情報収集力の差による情報格差をデジタルデバイドといいますが、これによって不自由な生活を送ることになる人も、SDGsの「取り残される人」に当てはまると言えるのではないでしょうか。
 デジタルデバイドは様々な要因によって生じますが、私が最も身近に感じるのは年齢によるデジタルデバイドです。総務省の調査によると、2016年のスマートフォン普及率は、20〜30代は90%を超えているものの、60代は約33%、70代は約13%と、年代が上がるごとに低下しています。高齢者は自分たちが若い頃にはスマートフォンに馴染みがなく、操作も不慣れなため、敬遠してしまうことが多いと考えられます。そのため、高齢者は若者に比べて自分で入手できる情報が少なく、ネット社会から取り残されてしまっているのです。実際私の祖母も、スマートフォンを所持しているものの使いこなせず、電話やメールなどの機能しか利用できていません。現在の高齢化が進む日本社会を考えると、このデジタルデバイドによって取り残される高齢者の存在は今後一層大きな問題となっていくはずです。
 ではどのようにして年齢によるデジタルデバイドを解決すれば良いのでしょうか。高齢者がネット社会に参画できるようにするためには、通常のスマートフォンのような機器を簡易化した新しい機器を作ることが必要になってくると思います。スマートフォンは電話、メール、カメラ、その他のアプリなど、様々な機能が豊富に備わっており、それ1つで色々なことができるという魅力がありますが、高齢者のような使い慣れていない人にとっては、そのように様々な機能が1つの機器に混在していると、操作が難しくなってしまい、かえって不便なのではないかと思います。そこで、機能ごとに機器を分けるか、あるいは機能ごとに分かりやすく切り替えられる機器を作るべきだと思います。インターネット、スマートフォンが普及する以前は携帯電話で電話をし、テレビや新聞で情報を得て、カメラで写真を撮っていたのだから、その時代を生きた高齢者に寄り添い、インターネット利用だけのための簡易的な電子機器を開発することが、高齢者がインターネットを利用しやすくするための方法の一つとして考えられると思います。そうすることで、高齢者が自力でインターネットから情報を得ることができるようになり、デジタルデバイドが解消され、インターネット社会から取り残されなくなると考えます。
 「誰ひとり取り残さない」世界にしていくためには、貧困やジェンダーなどの問題の解決の他にも、様々な場面で「取り残されている人」に目を向ける必要があります。全ての人が現代の社会に適応していけるよう、今回取り上げた情報面などでも「取り残される人」に手を差し伸べる取り組みをしていくことで、SDGsの目指す世界の実現に近づくことができるのだと思います。

 

真島大季 横浜隼人高等学校 2学年

 

私は「誰ひとり残さない」をテーマとした社会を作り上げていくためには、一人一人がそれぞれ動くのではなく、みんなで一緒に協力し、周りに困っている人や病気で苦しんでいる人を助け、お互いに協力し合える社会を目指していくべきであると思う。そこで私は、SDGsの17の目標の中で「貧困を無くそう」という目標が目にはまり、世界で貧困に悩まされている人々を助けたいと思った。現在世界では現在7人に1人の子供たちが貧困で悩まされていて、その多くは学校に行き、ちゃんとした教育を受けれない。その理由として、お金がなく、子供に教育を教えられる教員が少なく、子供でも働かないと行かないのである。また、子供たちが教育を受けれないのは、近くに学校がなく、遠くの学校まで行かなければいけない。しかし、学校までの道のりの道路整備が整ってないことが大変危険である。このような状態に置かれている子供たちは本当に辛い状況にある。また、安全な水を手に入れるためにも下水道の完備がしっかり整っていないし、みんなが正しい水の取り扱いができていない。また、貧困の地域では十分な食料を確保することができていないため、栄養不足や栄養失調になる人がたくさんいる。医療全体の規模が少なく、医者の数も少ない状態にある。このような中で、貧困に悩まされている人そして私たち国民は自分の思いを伝えることができないため、現代の政府や自治体などは我々国民の意見をあまり聞かず、自己中心的になってしまっているため、国民からの批判を数々背負っているだろう。また現在でも世界的にコロナウイルスが拡大している中で、政府や自治体は国民からの多くの口調を受けており、政府に対して不満や不安を抱えている。そこで、私たちに必要なことは、しっかり自分の意見をもつことや発言力、表現力、行動することそして協力することがこのSDGsの17の目標を達成する上で大切となってくる。この中で最も重要なことは行動することだと思う。もちろん、自分の意見をもち自分の思いを伝えることは大切だが、そこで終わらせてしまうとせっかく出した意見や考えを反映できなくなるので、そこで自分から行動するということが重要となってくる。しかし、一人一人がそれぞれ行動してしまうと、また意見が食い違ってしまって口論になってしまうので、政府や自治体を中心に、このテーマにあるように誰ひとり残さないでお互いに協力し合える社会を築きたいと思いました。また、現在世界でも貧困の地域を活性化させるために、ユニセフ募金や赤い羽根募金、寄付活動などが着々と進んでいる。その中で、貧困に悩まされている人や苦しんでいるのためにも「One for all All for one」という言葉を胸にきざみ、簡単なことからできることをしたいと思う。

 

深田祐輝 横浜国立大学

 

SDGsの基本概念の中に「誰ひとり取り残さない」というものがある。この中にはだれでも享受できる社会の選択肢を誰もが失うことなく生活できるようにする、などの意味が込められている。教育や社会福祉、栄養のある食事などが世界中に行きわたるようにするというグローバル的な意味がある一方で、ある地域内で周りとの違いから取り残されていると感じる人をなくそうというローカル的な意味も含まれていると思う。このローカル的な意味での「誰ひとり取り残されない」社会について以下考えていく。社会から取り残されていると感じることのない空間の実現は、将来よりよい社会を築いていくために大事なことである。しかし、これを達成していくのはとても難しいことのように思える。そもそも私たちはそれぞれ違った人間であり、それぞれ違った考え・個性を持っている。それにより自分と違った人を理解することが難しい場合や、ときには差別的に相手を見てしまうことがある。例えばLGBTQ+に理解を示し、そういう人たちがいることに対し親身になる人はいる。しかし、本当の意味でLGBTQ+の人たちを理解できるのは同じような境遇の人たちだけだと思う。また私たちは日常で身体に障害がある人をみることも珍しくはない。そのような人たちに対して私たちは助けの手を差し出すなど、支えていかなければならないという考えがある。車いすの人が電車を降りる際に、溝に落ちないよう駅員さんが板をしいてあげたり、階段が登れないなら複数人で持ち上げるなど介助することができる。しかし、障害者の中にはそのような「特別感」を抱くことで、自分は周りと違うことを実感する人もいる。このように私たちはそれぞれ違った考えを持っているので、相手のことを完璧に理解することや、相手がどのように感じるかを把握し支えあっていくことは難しいように思える。
ではどうしたら「誰ひとり取り残さない」社会に近づけることができるのか。この社会に近づけるために、私は社会の中で「つながり」を大事にしていくべきだと思う。例えば、先ほど例を挙げたLGBTQ+や身体障害者だけではなく、うまく仕事に就けなかった、周りに変わっていると思われるような趣味を持っているなど、様々なコミュニティを形成していくことで、「つながり」がつくられていくと思う。同じような境遇の人たちでコミュニティが結成できれば、自分のことをより理解してくれる人とも出会えるし、なにより「自分が他と違う」などという劣等感や孤独感を感じることは少なくなると思う。コミュニティという、愚痴を言ったり、悩みを打ち明けたり、相談したりできる場は人同士の「つながり」をより実感させ、それによってコミュニティの人たちに安心感を与えるように思える。誰しも周りに取り残されていると感じたり、自分だけが周りと違っていると感じることは怖いことである。周りの人とつながっていき、そのように考える人も自分だけではないのだと感じられるなど、「つながる」ことで得られる安心感が「誰ひとり取り残さない」社会に近づける重要なことだと私は考える。

 

森田真央 兵庫県立大学

放置から経験を生む

 皆さんは森林に関する環境問題について聞かれたとき何を思い浮かべますか。多くの人は、森林の伐採などの森林破壊についてだと思います。しかし、今日本で問題となっているのは人口林の放置なのです。皆さんの周りにも放置されているもの、取り残されているものはあるはずです。
 私の周りに放置されているものは住宅街の中にぽつんとある竹藪です。竹藪は日本らしく風情のあるものです。しかし、竹藪にあう場所がなければ環境と調和することができず、単に取り残された空間になってしまいます。竹藪の放置が引き起こす問題はいくつかあります。まず、竹は背丈が高く、一面に生えるため地面に太陽の光が届くことができません。そのために他の植物を絶滅に追い込んでしまいます。また新たに植物が成長することができません。その影響で生物の多様性がなくなってしまうため、竹藪を放置すると竹しか生えていない孤独な空間を作り出してしまいます。また、生物の問題だけでなく竹藪は光が届かないから、昼間であっても夜のように暗いです。そのため、安全なところとは言えず、通りたくないからと近寄る人もあまりいないため町からも取り残されています。今竹藪がある場所を他のことに利用ができたら、何か始めたいけれど土地がないと困っているという人に力を貸すことができるかもしれません。竹藪の空間を取り残さないで、その周りに住んでいる人の安全な暮らしのためにも、竹藪の有効利用は必要不可欠だと思います。しかし、竹は植物の中でも生命力がとても強いため徹底した対処が必要となります。具体的な方法は竹の伐採と根を枯らすことなどがあげられます。また、その後の利用によっても竹の伐採方法は変わるため、何に利用するのかを検討してから行う必要があります。その案として、私は竹藪をただ単になくしてしまって土地だけを利用するのは竹も自然のものであるから、もったいないし、寂しいなと感じたので、伐採した竹の有効利用も考えていくことを提案します。そこで思いついたのは、竹から自然や伝統を学ぶことです。私たちの時代からだんだん自然とのつながりが減ってきているなと感じます。コロナの影響もあって、家の中にいることが増えて、外で植物と触れ合う機会は凄く減ってきています。家にずっといると植物を見たり触れたりすることもなく、人と会って話すなどの機会も減ってしまって、周りから取り残されてしまっているような孤独を感じてしまいます。だから、私は自然と触れ合ったことのない人や孤独を感じてしまっている人にこそ竹を使ってほしいと考えました。私は小学生の時に近所の竹藪に行って竹を切ってそこから、流しそうめんの台を作って流しそうめんを行いました。何年も昔のことだけれど、自分たちで何か材料から作り上げたものは経験として自分の心の中に残っています。その時の達成感や、一人では完成させることができないけれど、協力することで完成できたという喜びなども覚えています。また、竹は流しそうめん以外にも食器などをつくることができたりします。ネットなどが普及していて欲しいものを頼んだら配達してくれる今の時代に実際に自分で何かをつくることは貴重な経験になります。自然に触れ合ったことのない子供などをこのような取り組みでなくすことで、もっと自然に目をむけてくれる人が増えて、自然は自分たちに関係のあることだと分かり、環境についてもっと考えてくれると思います。何かを一緒に取り組むことで人とのつながりができ、孤独と感じる人は減ります。竹から物を創作できるだけでなく、竹から何か作るという経験を人々に与えることができると思います。
 竹藪の伐採と再利用によって、竹藪があることで取り残されてしまっている環境、その周りの人々、町の住みやすさを改善することができます。そして自然に触れ合ったことのない人や、孤独を感じている人に伐採した竹を使って、協力して制作してもらうことで一体感や団結力を生むことができます。その取り組みは、人々の心に何年も残っていく経験を作り出すことができると思います。形ある物が生まれることも大切だけれど、経験という形はないかもしれないけれど人々の考えのもとになるものを生むことができるという取り組みはとても大切だと思います。自分の身近に放置されているものを考えることで直接関係ない問題の解決や、困っている人も取り残さないようにできると私は今回思いました。竹藪を考えることが他の日本の問題についても解決できると思います。だから、皆さんも自分の周りにある放置されてしまっていることから探してみて、誰も取り残さない社会を考えてほしいと思いました。

 

クローバー 大学4年生

 

「誰ひとり取り残さない」SDGs活動とは、皆が他者への尊敬心を持って行動し、より良い社会を一緒に創ることだと考える。社会で取り残されそうで支援を必要としている人々に対して、支援者が良かれと思って差し伸べる手は、無意識のうちに「こうあるべき」という自分の価値観や社会通念の押し付けになっていないか。せっかくの支援が「余計なお世話」として受け取られたり、受益者の不快感を生んだりしないためには、どの人も社会を構成するプレイヤーであるという視点に立ち返り、支援者と受益者の対等な対話と、尊敬心を込めた支援が必要である。真のインクルーシブな社会とは、皆の目線の高さを揃えることから始まる。
尊敬心は言葉や態度に自然と表れる。人間は様々なバイアスに影響されて生きている。見た目や名前、性別、人それぞれの経験などがいつのまにか思考に影響を与える。たとえば、学校や会社で遅刻を繰り返す人を、信用ならない人だと思いこむ前に、睡眠に関わる病気や家族の介護の可能性も視野に入れて、その人自身が遅刻の事実に対してどういう風に考えているのか質問をしてみると、両者はもっと良い関係性が築けるかもしれない。また、様々な社会的格差は、個々の当事者に要因を還元できないにもかかわらず、当事者個人の問題として受け止められてしまう傾向にある。たとえば教育格差を例に挙げると、家庭環境が子どもの学力に影響を与えるという研究結果がある一方で、勉強の出来は本人の努力次第で決まると思いこむ人もいる。このように、他者のことを勝手にわかった気になってしまうことは、相互理解を阻み、「誰ひとり取り残さない」ことへの弊害になり得る。特に、病気や家庭環境、障害などによっては、目に見えないそれぞれの苦労や差異に配慮するために、尊敬心が伴った行動は重要な役割を果たす。
私は日々の行動の中で、常にリスペクトを持って人々と接することを心掛け、さらに、支援を必要としている人へ適切な伴走を提供する事業に貢献したいと考えている。また、私は発信してコミュニケーションをすることが好きなので、今後も社会について学び考えて文章にしていきたい。今回のように小論文を発表したり、周囲に思考回路を共有したりすることを続けて、その文章がやがて誰かの行動の源になることを目指し、誰もが主体的に参画する社会の実現に寄与したい。このような行動を通して、周りの人びとも自分の考えや表現もレベルアップさせ、皆でより良い社会を創っていきたい。

 

植村星海 兵庫県立大学 環境人間学部 食環境栄養課程

食べることを楽しむことは善なのか

毎日ごはん茶碗1杯分の食べ物をゴミ箱に入れている自覚はありますか。
あなたが食事を楽しんだそのお店で毎日どのくらいの廃棄が出ているか知っていますか。
私は自覚もなかったし、知りもしなかった。人は自ら知ろうとしていること以外は聞いても覚えていないかまず聞く機会を持たないことが多い。なにであれ知ろうとすることが大切なのだと考える。
環境問題、近年よく聞くが具体的には地球温暖化、砂漠化などを指す。それらの環境問題は自然災害につながる可能性がある。自然災害は人の命を脅かし、それは日本に住んでいる私たちにも例外でなく突如として降りかかってくるかもしれない。まったく遠い話ではない。そして自然災害につながる環境問題がどんどん進み、そこに住む私たちや次の世代を置いていく、地球上で私たち全員が環境問題に取り残される。そこで私は「持続可能な消費・生産形態を確実にし、つくる責任、つかう責任について考える」という目標12を軸に食品ロスについてどんどん進んでいく環境問題においていかれ、最終的に取り残される私たちという立場で考えようと思う。
現代には大きく分けて食事について2つの考え方があるのではないかと考える。食事を日々の楽しみとし食べるという考え方、楽しみとは考えずただ食べているという考え方だ。前者のほうが食に重きを置き食品ロスが少なそうだと私は思ったが、同時に本当にそうなのだろうかと考えさせられることも思い出した。私は飲食関係でアルバイトをしていたが毎日大量の廃棄が出る。最初はもったいないと思っていたが私1人がどうにかできる量ではない。そんな飲食店に来る人のほとんどは前述の1つ目、食事を楽しむ人たちだ。本当にエネルギー摂取だけだと思っている人たちはゼリー飲料や栄養食を少ない量食べている。
それを踏まえると食事を楽しみとしていない人のほうが環境によいのではないかという考えになった。しかし農林水産省の国民の食育に関しての意識調査では日々の食事に満足している人や食事の時間が楽しいと感じている人は国民の約8割に上る。多くの人が食事を楽しむ現代で食事を楽しみかつ食品ロスを減らせる方法はないものか。
私はここで賞味期限と消費期限について言及したいと思う。東京都環境局の調査では未使用のまま食品を廃棄した理由の32.2%が賞味期限切れであるそうだ。これは約3人に1人が食べられる食品を捨てていることになる。私が指摘したいのは賞味期限は書いてあるが消費期限が書いていない食品が多く存在することだ。これが賞味期限で捨ててしまう人を生む原因だと考える。一方で期限の記載がない食品も存在している。例えば塩や砂糖、アイスなどだ。塩や砂糖は品質が変わらないことや塩は特に浸透圧の関係で殺菌作用があることで期限がない。アイスも同様にー18℃以下で保存すればほとんど品質に変化がない。だから私は母や身近な人が砂糖や塩、凍っていたアイスを捨てるのは見たことがない。そういった期限がないものを生み出せば無駄な食品ロスは減るのではないかと考えた。
しかし期限のないものを作るのはとても難しい。今年5月にニューヨーク州北部のフードテック企業Farther Farms社は、新たな殺菌技術を開発。気体と液体の特徴を兼ね備えた特殊な加工を施した二酸化炭素「超臨界CO2」を、食品が入った袋に充填することで、細菌を死滅させ、食品の酸化を防ぐことに成功したという。これにより90日間保存期間を延ばすことはできたが期限を無限にすることは難しい。
ではアイスのように冷凍してしまうのはどうなのだろうか。実際私は今年から1人暮らしを始め使いきれない食品や作り置きなどを冷凍している。冷蔵より日持ちはするがアイスのように期限の記載をしなくてもいいほど品質に変化がなくなるわけではない。冷凍庫の中では冷凍焼けが起こり風味や食感がおちる。冷凍焼けが進むと油焼けが起こってしまう。そうなってくると解凍しても美味しく食べることができなくなり結局廃棄してしまい元も子もないことになってしまう。とはいっても冷蔵より冷凍が長持ちするのは事実であるし、うまく使いこなせば食品ロスを大きく減らすことができる方法でもある。だがその方法を知らない人が多い。また賞味期限と消費期限についても違いを知らない人が多い。だから捨ててしまう。より多くの人に知る機会を持ってもらうことが必要だ。その絶好の場が義務教育だと考える。食育の家庭差を埋め9年をかけ同じように学んでいく。義務教育下での食育活動をもっと活発なものにし、まず私たちが正しい情報を知っていく、下の世代に食品ロスから身近な食品管理などを知ってもらうことから始めるのがこれからの未来の環境を過ごす世代を取り残さないためにできることではないだろうか。

農林水産省 第1章食育推進施策等の現状 第2節食をめぐる意識と実践の現状
https://www.maff.go.jp/j/syokuiku/wpaper/pdf/b_1_2_1.pdf,(参照2021-06-20)

平成29年度東京都環境局「家庭系食品ロス発生要因等調査」消費者アンケート調査結果 https://www.kankyo.metro.tokyo.lg.jp/basic/conference/resource/cat.files/new_syokurosu3_sankou4.pdf,(参照2021-06-20)

山田山太 Yahoo!ニュース 冷蔵庫なしで食品の賞味期限を90日以上伸ばす技術が開発。世界の食糧問題解決の糸口に
https://news.yahoo.co.jp/articles/dee4b9b0fc0076bd1690854ab9f559500e164f67
(参照 2021-6-20)

 

沼尻茉梨 早稲田大学 4年生

 

 私は「取り残される人」として,日本で日本語の教育を受ける外国人の子供たちを挙げる。日本語教育を受ける外国人児童を取り残さないことは,SDGsの目標項目の中では4番の「質の高い教育をみんなに」と10番の「人や国の不平等をなくそう」に直結し,さらに長い目で見ると8番の「働きがいも経済成長も」にも繋がっていくと考える。今回,日本で教育を受ける外国人の子供たちを選んだ理由は,大学で複言語社会の子供たちに関する授業を履修したことがきっかけだ。今まで海外から日本に来て働いている外国人労働者の存在は認知していた。しかし,その外国人労働者の子供たちが日本で日本語の教育を受けておりそこには苦労もあるということを初めて授業で知り、関心を持った。
 日本語指導が必要な在日外国人の子供たちの数は年々増加しており,平成20年から平成30年にかけて約1.5倍に増えている。このような子供たちに日本語教育の整ったサポートがないとどのようになるかを考える。考えられる問題は連鎖的に発生する。まず日本語をうまく使うことができず、意思疎通や人間関係構築に困ってしまう。次に、言語学習自体だけでなく日本語を使って他教科を勉強するフェーズでつまずきが起こる。そして最終的に希望の仕事に就くことが難しくなる場合がある。これらの問題が起きることで、外国人児童たちは日本社会から取り残されてしまう。
 では,外国人児童への日本語教育の現状はどうなっているのだろうか。具体例を2つ挙げる。1つ目は島根県の例である。島根県の外国人住民割合は総人口の1.31%である。日本語教室は20か所で十分ではなく,日本語講師の高齢化や不足に伴ってここ10年で3か所減少している。そこで,固定の教室を構えるのではなく訪問型に切り替え,個人宅や公民館で教育を行っている。2つ目に浜松市を例に挙げる。浜松市の外国人住民割合は3.02%である。浜松市はICTの配置にも力を入れている。タブレット端末を使用し外国人児童生徒やその保護者に対して通訳や翻訳の支援を行ったり,テレビ電話を用いたバイリンガルによる相談対応を行ったりしている。ICT活用などを通し,ただ日本語を教えるにとどまらない,長い目で見たサポートに力を入れている。
 これらの現状を考慮すると,今後の外国人児童に対する日本語教育にICTの活用は不可欠であると私は考える。例の1つ目に挙げた島根県でのやり方では,教育を必要とする全員に質の良い教育を届けるのは難しいように感じられる。日本語講師が今後も減らないという保証はなく,授業開講のための場所を借りるのにコストや手間もかかる。一方で例の2つ目に挙げた浜松市のやり方だと,外国人児童の数が増えてもタブレット端末を増やすお金さえあれば対応しやすく,オンライン授業の拡大の余地もある。オンライン授業の場合,場所を問わないので対面で授業を行うよりも低コストで,多くの教員を必要としないだろう。
以上から,今以上にICTを活用していくことで,日本語教育を必要とするより多くの外国人児童に日本語教育を平等に高品質に届けることができると考えられる。そして彼らが日本語をツールとしてほかの勉強をできるようになることで,選ぶ職業の選択肢が拡大していくことができ日本社会から取り残されることがなくなっていくのではないか。ICT活用を拡大させていくのに必要なものは,資金と技術を適切に扱える人材だと考える。これらを集めるにはまず日本語教育を必要とする外国人児童に対する教育の現状を社会により広く伝わることがまず大切だ。社会にこの現状を知ってほしい,そして外国人児童に対する日本語教育でICTを活用させたいというのが私からの提言である。
 私自身がこの現状を前にすぐに何か行動することは難しい。しかし私は次の4月からITや通信を担う会社で働くので,そこで外国人児童に対する日本語教育でのICT活用に関しいてサポートができると考える。より安価にタブレット端末を渡らせたり使いやすいサービスを展開したりする取り組みを実現させたい。

[参考文献]
ž 総務省(2019)「児童生徒の教育・日本語学習支援の取り組み事例資料」<https://www.soumu.go.jp/main_content/000612057.pdf>,p.2,4 (2021年6月29日最終アクセス)
ž 文部科学省総合教育政策局 男女共同参画共生社会学習・安全課(2020)「外国人児童生徒等教育の現状と課題」<https://www.soumu.go.jp/main_content/000684204.pdf>, p.3,(2021年6月29日採取最終アクセス)

 

松本季海芳 東京都市大学 4年生

 

SDGsの基本理念である「誰ひとり取り残さない」という言葉、「誰ひとり」とは”私”であり”あなた”から始まるものだと思います。そのような思いに至った経緯と私自身が感じ、考えたことを以下に示したいと思います。SDGsという言葉を初めて意識したのは昨年、大学3年生になり新型コロナウイルスのパンデミックが本格化してきた頃のことでした。感染拡大防止策として「ステイホーム」が世界中で強いられる状況となり、三密回避の必要性や通学できなくなってしまった学生など解決しなければならない社会の課題が顕れたことでSDGsという達成するべき指標を多くの人々に強く意識され始めたことが、私自身もSDGsを認識するきっかけとなりました。また、その中でSDGsの基本理念として、世界中の「誰ひとり取り残さない」という標語あることを知り、1つ大きな疑問をいだきました。「誰ひとり」「取り残さない」と言うことは、今現在「誰か」に対して取り残されないようにと手を差し伸べようとしている―つまり、「取り残される人」がいると捉えることもできるのではないでしょうか。そう仮定した場合、「取り残される人」と「取り残されない人」の違いはどこにあるのでしょうか。また「取り残される人」とはだれを表しているのでしょうか。その疑問に答えるべく、様々なサイトや本を閲覧しましたが「取り残される人」とは誰なのか明記されているものは無く、この小論文コンテストをきっかけとして様々な人の意見を聞き、また自身も考えていく中で、私は「取り残される人」として私自身も含まれているのではないかということに気が付きました。今まで、私自身社会から「取り残されている」と感じることはあまりありませんでした。家庭環境や容姿など、周囲と違う部分に引け目を感じることもありましたが、それでも学校に行ったり、友人と遊んだり、食事をするなど日常的な生活を何不自由なく行えてきたことから、私自身は取り残されてはいないと思っていました。なので「取り残される人」について、初めは社会的マイノリティーやダブルの方々などに当てはまるのではないかと考えました。しかし、SDGsについて学ぶワークショップに参加し、周囲の友人たちと話していると、彼らは既にそのようなことは考えた上で「取り残される人」に対して手を伸ばすための活動を起こし、更に私達に発信している姿を見て初めて自分自身は取り残されているという感覚を持ちました。。確かに、手を伸ばされるべき人たちは本当に助けが必要な社会的マイノリティーグループかもしれない。しかし、本来であれば手を差し伸べるべきである私たちであっても、そこに「誰ひとり取り残さない」ことを目指した社会があることを知らなければどうすることもできないのだと思います。なので、まずは”私”や”あなた”が「誰ひとり取り残さない」という標語を知り、考えていくことが大切なのだと感じました。そうすることで、今までは見えていなかった手を伸ばす人を発見するだけでなく、私たち自身が彼らに手を差し伸べる準備ができるのではないかと思います。そして、私達が次の人へ、また次の人へと「誰ひとり取り残さない」社会があるということを伝えていくことから始めていくべきなのだと強く思います。私達を中心に輪を広げ、やがてはすべての人が手を差し伸べる用意ができている、助けを必要とする人が手を伸ばせる社会が実現することができたならば、それはとても素敵なことだと感じます。
まずは”私”から”あなた”に、「誰ひとり取り残さない」ということについて伝えていきたいと思います。

 

松尾悠佑 鎌倉市立小坂小学校 6年生

 

 ぼくは、あるテレビ番組で地球温暖化に関する特集を見ました。その内容が、「地球温暖化によって、暑さで動物が死んでしまうことがあって、これ以上温度が上がると人間も耐えられないことがあります」と言っていて、衝撃的な情報でした。これを聞いて、何か地球温暖化を止める方法はないかと思いインターネットで調べてみると『地球温暖化対策には、再生可能エネルギーが有効』と書いてありました。そして、さらに詳しく再生可能エネルギーと検索してみたら『地球に優しい発電方法、地球温暖化対策に一番最適な方法』とあったので興味を持ちました。そこでぼくは、再生可能エネルギーについて提案しようと思いました。 

 まず、最初に提案したいことは、温暖化の悪化を、少しでも止めるために、再生可能エネルギーの導入を増やすことです。去年(2020年)の、全国の発電電力量のうち、再生可能エネルギーの発電電力量は、約20パーセントでした。【資料1】でも、太陽光発電、風力発電、水力発電、地熱発電、バイオマス発電など、全ての再生可能エネルギーを合わせての20パーセントなので、少ないと思います。なので、再生可能エネルギーを増やしてください。

 テレビ放送の情報だと、今の発電電力量が、恐らく、一番多い石炭を使った発電(火力発電)は、あと約50年(石炭が持つ年)しかありません。ということは、再生可能エネルギーを増やすしかありません。
 具体的に、土地が余っている県、または土地が多い県に、再生可能エネルギー(太陽光発電、風力発電、水力発電、地熱発電、バイオマス発電など)を導入、さらに、人工的に島を作ってその島に再生可能エネルギー(太陽光発電、風力発電、水力発電、地熱発電、バイオマス発電など)を導入、ということになります。 
 提案が実現された時の効果は、50年後(石炭がなくなる年月)に、火力発電(石炭を使った発電)ができなくなってから、つまり、2071年に効果が出ます。火力発電ができなくなるということは、原子力発電と、再生可能エネルギー(太陽光発電、風力発電、水力発電、地熱発電、バイオマス発電など)だけの発電電力量になった時です。

 再生可能エネルギーは、発電電力量が少ないですが、二酸化炭素を出さない、再生可能なのでずっと(100年後でも、1000年後でも、いつでも原料が途切れない)エネルギーを作れるため、50年(石炭が持つ年)立つ前に再生可能エネルギー(太陽光発電、風力発電、水力発電、地熱発電、バイオマス発電など)を増やしていくべきだと思いますし、切れてからだとどのくらいの再生可能エネルギーが必要かわからないので、やはり再生可能エネルギー(太陽光発電、風力発電、水力発電、地熱発電、バイオマス発電など)を増やしてもらいたいです。誰一人取り残さない(再生可能エネルギーの発電電力量で電気が足りないという人を作らない)ために、早めに再生可能エネルギーを増やしてください。お願いします。

参考資料
【資料1】isep 認定NPO法人環境エネルギー政策研究所 2020年の自然エネルギー電力の割合  URL https://www.isep.or.jp/archives/library/13188

 

松尾遼太郎 立命館大学法学部 3年生

 

SDGsは実によく広まっている。企業のホームページにはS取り組んでいるSDGsの目標が大量に書かれており、お店の中にはポスターがある。銀行に行けば窓口の担当員が胸にバッジをつけている。誰しもが知らず知らずのうちに目にするものとなっている。一体いつの間にこれだけ広まったか、みんなその内容をどれくらいわかっているのだろうかと疑問に思いたくなるほどである。これだけ世に広まっていれば、少なくとも人々への認知という点でSDGsに取り残されている人はいないとさえ思えてくる。「取り残されている人は誰であるか」という本稿のテーマについて考察する前に、まず、SDGsとは何であるかを足早に確認しておきたい。
 SDGsとは何かという問いには複数の回答が成立するが、基本として挙げられるのは「世界から貧困をなくすことと、『つづかない(持続不能な)社会・経済・環境』を『つづく(持続可能な)社会・経済・環境』へと変革することを二つの柱とする目標」であり、「2030年を期限として、17のゴール、169のターゲット、232の指標により、世界の社会・経済・環境のあらゆる課題をとりまとめる、相互に不可分一体の目標」であり、「条約のように、国連加盟国を法的に縛るものではないが、先進国、新興国、途上国がともに取り組むものであり、実現にあたっては『誰1人取り残さない』ことが謳われている目標」である(南博、稲葉雅紀『SDGsー危機の時代の羅針盤』岩波書店、2020年)。まとめると、全ての国で期限を決めて持続可能な社会へとシフトしていく取り組みの目標のことだ。今までの国際協力のイメージでは「We Are The World」を始めとする国際支援であったかもしれない。何か特別なことをする必要はない。
 さて、一体これほどまでに広がった背景はどんなものであろうか。企業のPR活動を主眼に少し遠回りをしよう。1980~90年代広まったエイズには有効な治療薬があったものの、知的財産権の恩恵を享受する一部の企業によりアフリカなど途上国に行き渡っていなかった。投資家たちが社会的な責任を果たしていない企業は投資先から一斉に撤退するという出来事が起きた。投資先を選別していないという批判を恐れてのことだ。それにより企業はこの知的財産権を放棄した。この一件を発端に企業が投資家の重視する環境的(Environment)、社会的(Social)、企業統治的(Governance)な視点を持つようになった。(出典:前出)これらに配慮している企業に投資することをESG投資と呼ぶ。あくまでも、投資家に嫌われないためであり、投資家も消費者から嫌われないための取り組みである。これらと同時期からCSR(Corporate Social Responsibility)という企業の社会的責任を重視する流れが企業の中にできた。本来は工場が大気汚染などを引き起こすことがないように、酒を製造販売する会社は消費者がアルコール中毒に陥ることがないようにといった、責任を持った企業活動を指すものであるが、自社のイメージ向上のためゴミ拾いをするなど本質的でない方向に走っている企業も目立つ。どうしてこのようなことが起きているのだろうか。原因は、SCRをアピールに使うことにある。消費者が気付くかどうかわからない配慮ではなく表立ったアピールのためのCSR。その背景となるESG投資の隆盛。ここにSDGsが登場した。
 企業にとってのSDGsの本質は方針転換にある。ガソリン車を売っていた企業が持続可能な発展のために電気自動車に切り替えたり、女性は出産や育児で職場を離れるからと男性を中心で雇い、回っていた企業が働き方から見直していくことなどがその例である。しかし、そのような内部のことではなく、SDGsに取り組んでいること自体や今までのゴールを何個目指していたかなどがアピールに使われる。朝日新聞社第7回報告「2030 SDGsで社会を変える」から読み取れる社会的認知度が50%を超えてなお企業が社会の認知度の低さをその問題としていることからも企業のSDGsの捉え方の深刻な現状が窺える。アピールの手段として捉えることはSDGsの本質に反しているのではないか。
 取り残されているのは私たちである。SDGsは変化を求めている。今までの経済活動は持続不能性を基盤に行われてきたのではないか、自分たちの活動によって抑圧されている人がいたのではないかと問い直さなければならない。取り組みを喧伝することは構わない。そうやって社会に流れができるのだと主張する人だっている。しかし、とりあえず言っておけばいいというようになっていないか。かつてカール・マルクスが資本主義の辛い現実が引き起こす苦悩を和らげる「宗教」を「大衆のアヘン」だと批判したことに準え、マルクス研究者の斎藤幸平はSDGsが現代版の「大衆のアヘン」だとした(斎藤幸平『人新生の資本主義』集英社、2020年)。いや、もっと言おう。日本において、SDGsは本当にそれだけの位置付けを持てているだろうか。どこまでも投資家に向けた活動は消費者の目を引かない。大衆のアヘンですらなく、企業は自分たち自身のこれまでの活動をただ慰めているだけだ。SDGsは企業にとってのアヘンである。取り残されているのは私たちだ。
 いつの間にか社会に増えていったSDGs。内実を伴わないSDGs。この違和のなかにチャンスがある。大衆のアヘンになる前に、どれが正しいSDGsの理解であるかを峻別すること。SNSでは口コミがかつてない速さ、規模で広がる。アヘンに溺れる企業に目を奪われることなく、真に変化を遂げる企業を私たちは応援できる。取り残されている私たちの手で、私たちの社会を変えていく目標として取り戻さねばならない。

 

松田唯愛 横浜隼人高等学校 2年生

 

現在多くの会社ではSDGsを主として環境からLGBTQ+まで幅広く寛容な社会になるようにと活動しています。それらの活動は確かに今後更に世界を視野に入れていくにおいてとても大事なものであり、全ての人が等しく幸福な生活を送るために必要なものです。今よりも更に『誰ひとり取り残さない』社会に近づけていくためには目に見えないもののせいで排除されてしまっている人々に目を向けるべきだと考えます。今回私はHSP、ハイリーセンシティブパーソンについて書いていこうと思います。HSPとは音や匂いに過剰に反応してしまったり、他者の感情を必要以上に感じてしまったりしてしまうものです。先天的なもので精神病ではないため、診断される事もはっきりとした治療法もありません。そのためADHDとは違い社会に認められにくい個性です。それに加えてLGBTQ +とも違い知名度があまりありません。会社で働こうにも周りのコンピューターが稼働する音や人の内緒話などが耳に入ってどうも集中できなかったり、自分は会社にとってお荷物なのではないか、同僚から面倒なやつと思われているのではないか、と周りが他の人と比べ物にならないほど気になってしまい、仕事を辞めてしまう人が多いようです。近頃LGBTQ +はよくテレビやSNSで取り上げられて、言葉自体を知らないと言う人は少なくなってきましたし理解がある人も増えてきました。これはとても素晴らしい事であり、SDGsに対してしっかりと取り組んできた会社や人々の努力の上に成り立っている功績です。勿論ここで満足するのではなく、更にLGBTQ +の方々が生きやすい世界になっていけばいいなと思っています。それに比べてHSPはどうでしょう。SDGsの中にも入っていないのも疎かSNSで取り上げられることも少ないです。私はこの現状こそ取り残されてしまっている人がいるということになるのではないかと思います。今のHSPの扱いは昔のLGBTQ +の扱いととてもよく似ています。昔はLGBTQ +に対して自分とは違う考え方の人だから怖い、と思っていた人が多かったと聞きます。それはきっと人として当たり前の気持ちの動きであって決して悪い事では無いと思います。ですが今となっては理解がある人が増え、怖いと思う人もだいぶ減ったのではないでしょうか。そのように周りの人からの気持ちは変化するものです。HSPに対する気持ちの動きも今はめんどくさいと思ってる人がいても人々の行動によって必ず変化します。これからHSPの方がより生きやすい、『取り残されない』社会にするためにSNSで積極的に発信し、沢山の方の理解を深める事が必要だと思います。正直高校生の私では発信力がなく難しい問題ではありますが、今回のこの小論文が少しでも大人の方の目に止まりHSPに関する情報を発信するきっかけになればいいなと思います。

 

松岡拓実 会社員

 

SDGsが推し進められてゆく今後、我々は「情報」に取り残されるリスクを抱えていると思われます。情報取得における優劣が明確に生まれ、それは新たな貧困の形である「情報の貧困」を形成する可能性があります。

過去、SDGsという言葉ができるよりも以前では、人々の持つ情報獲得の手段は新聞やラジオ、テレビといったものに限定されていました。娯楽も比較的少なかったことから、そういったメディアで発信された情報は広く共有されました。

現代、特にここ二十年ほどになってその様相は大きく変わりました。まずパソコンの世界的な普及がありました。家庭でもパソコンが用いられるようになり、インターネットを通じた交流が盛んになります。そのデバイスは携帯、更にスマートフォンへと進化を遂げていきます。総務省の統計によると、令和二年には日本のスマートフォンの世帯普及率は八割を超えています。
スマートフォンの普及と同時に広がったものがソーシャルメディアでした。
そして、新聞などといった旧来のメディアと並んだ存在に複数のSNSは成長し、オンラインサービスと連携することで新たなメディアとしての形が世に提示されました。

こうした形でメディアが複数乱立した状態となった今では、メディア同士が他のメディアが報じる内容を取り上げる相互報道のような形をとることも珍しくなくなりました。
これまでにない速さで急速にメディア体制は進化しています。
しかし、一方で情報の共有という点では過去とは違った面も出てきたように感じられます。若者がSNSに傾倒する一方、高齢者の間ではスマートフォンなどの操作が難しいことから新聞やテレビなどのメディアが主とされていることがあります。
各世代によって使用するメディアずれているのです。

全ての人が平等に同じ情報にアクセスしていない。そういった状態がすでに起こっています。これでは丁寧な情報発信が無ければ社会全体へ共通認識を持たせることが難しくなります。
実際に、SDGsという考え方も複数のメディアで繰り返し説明されることで、一般社会にも浸透したように思います。少なくとも二十四歳の私からはそのように見えました。

そして今後、メディアはどのようになっていくのでしょうか。数十年後には私達には想像もつかないような変貌をとげている可能性もあります。
そうなった場合に、情報を得るという行為は更にハードルの高い行為になっていると考えることもできます。
メディアを選択する方法がわからない。誰が言ってることが正しいかわからない。そういった悩みを抱える方が今より多くなることが考えられます。
そこで、情報の氾濫に惑わされない、また最新の情報から取り残されないようにするために、これから求められることはなんでしょうか。

一つ目はメディア側の姿勢と思われます。少数を取り残さないような情報の発信を常に心がけないといけません。経済や教育において劣っている人を減らす取り組みと同様に、公平に最新のニュースや知識が行きわたる仕組み作りが国際社会の中では必須です。

二つ目は一般市民が情報に対して受け身になるのではなく、自発的になることです。
これまでは情報は一方的に与えられるものでした。それが現代では多くのメディアから知りたい内容を自分で探すことが出来るようになりました。インターネットを使い各省庁のホームページを見ることで国の施策などの細かい内容まで知ることもできます。
SNSでは各業界の専門家が情報発信をしていることもあるので、そういった人の発信を追うことも大事になるかもしれません。
「知らされる」から「知りにいく」という考え方の転換が必須となるかもしれません。

「情報に取り残されない」これを一つのテーマとして、一人ひとりが行動できるかどうか、他人事にならないように発信していく必要があると思います。

最後に、私は恵まれた環境下での平等がSDGsの下に推し進められることを願っています。

 

小栁優佳 横浜国立大学 1年生

 

「誰ひとり取り残さない」。この言葉は、「少数派が多数派に取り残されない」ことを前提としているように聞こえる。しかし、本当にそれでよいのだろうか。一口に「取り残される」と言っても、一人ひとりに事情があり、一人ひとりに願いがある。いつまでも少数派は「少数派」と片づけられるままでよいのだろうか。「多数派の事情=当たり前」なのだろうか。
数年前、医学部入試において女子や浪人生に不利な待遇がされていたことが明らかとなり、大きな話題となった。当時中学生だった私は「酷いな」としか思っていなかった。しかし、自分自身が受験生になってからは「受験生の努力を踏みにじるなんて許せない」と思うようになった。受験生がどれほど努力するのか、身をもって知ったからだろう。
また昨年、コロナ禍の日本では国民に一律10万円が給付された。ただし、給付の対象者は住民基本台帳に記されている者であったため、海外赴任中で日本の住民票がない父は受給できなかった。しかし、海外赴任中の人は受給できないということは周囲にはあまり知られていない。おそらく私自身も、父という身近な存在に起こった出来事でなかったら知り得なかっただろう。
このように、自分がその立場にならないと分からない事情はたくさんある。事情を知らずに「多数派の事情=当たり前」という態度で接された側は傷つくだろう。
冒頭でも述べた通り、この世界では一人ひとりに事情があり、価値観があり、願いがある。たくさんの「当たり前」があるのだ。だからこそ、私は「様々な立場を想定し、配慮する」ことを心がけたい。そして、それぞれの事情に合わせたサポートがしたい。
しかし、自分の置かれてきた環境を「当たり前」と感じながら様々な立場を想定することはできない。まずは自分の置かれている立場を客観的に把握することが重要になってくる。そしてその上で様々な立場を学んでいきたい。
実際私は、いくら授業などで「世界の貧困問題」「飢餓問題」と聞いてもあまりピンと来ていなかった。しかし二年前、父の赴任先であるインドネシアを訪れて衝撃を受けた。ボロボロになったTシャツを着た8歳くらいの少女が、道端でポケットティッシュを売っていたのだ。しかも、一日中。おそらく学校には行っていない。インドネシアの夏は暑いので、夕方にはぐったりしてしまっていた。道を通るたびに胸が痛くなった。あの子に何ができただろう。今でも考える。それに対して私が8歳の時は、毎日小学校に通って好きなように遊んでいた。衣食住のことを気にしなくても良い環境は当たり前ではないのだと痛感した。
貧困問題は、衣食住など人間として最低限の生存を維持することが困難な絶対的貧困だけを指すのではない。皆が「当たり前」と考えているような行為を実行できない、相対的貧困という概念もある。各人の置かれた環境によって求めるものは違う。一人ひとりのニーズに合わせたサポートが必要だ。
現代はSNSの発達により、様々な背景を持った人々がいるということをネット上で体験できる。まずは自分の置かれている立場を理解し、そのうえで様々な立場を想定し、配慮すること。その立場まで含めて、各人の願いに合わせた助けをすること。一人ひとりのささいな心がけは、周囲をも巻き込み、あたたかな空間を生み出す。誰もが、お互いに配慮しつつ自己実現ができる世界になることを願う。

 

小林隆大 神奈川県立多摩高等学校

 

「昨日のイベントがさぁ」「あいつガチャで限定スキン当ててた!」中学校に入ってから、仲のいい友達が話すのは専らスマホゲームのことだった。自分の家ではスマートフォンは、高校生になってから持たせる。中学校の間は勉強に専念させる。という方針で、親との連絡手段は子供ケータイのみ、友達とは放課後遊ぶ時以外は連絡を取っておらず、学校が終われば次の日までは会話を交えることはなかった。それが当たり前だと思っていたし、特にその状況に疑問を抱かなかった。ある日、いつも通り授業が終わり仲の良い4人で一緒に帰っていると、スマートフォンを持っている僕以外の3人が、前の日にやったであろうスマホゲームの話をし始めた。「あれが強い。」「どの景品もらった?」「俺のエイムすごくね。」自分の前で繰り広げられる全く耳にしたことのない単語で、仲の良い友達が自分以外と会話しているのを見た瞬間、強い孤独感に襲われた。スマートフォンを持っていないだけでこれだけ友達と距離が出来てしまうのかと、持ってない自分はどう思われているのかと、心配で仕方がなかった。
 今や小学生は35%、中学生が79%、高校生に至っては92%もの人がスマートフォンを所持しており、その利便性を享受している。また、このコロナ禍においてオンラインを通じての活動が急速に普及し、スマートフォンなどの電子機器は環境に応じて新たな価値を獲得したと言えるだろう。ただ、その一方でそれらを持たない人々はどうだろうか。自分のように親が決めたという人もいるだろうし、様々な理由で所持していない人がいる。しかし、「持っていないから」たったそれだけの理由で多くの人との間に差が生まれる。仲間外れにされたり、時には面倒がられる。「あいつがLINEやってればいっぺんに連絡できんのに」何度言われただろう。「俺スマホ持ってないんだよね」と言った時、どれだけの人に同情の目を向けられ、嘲笑われただろうか。このような経験はもうニ度としたくないし、誰もしてはならない。
 様々な人が様々な事情を抱えて生きている今、誰しもが生きやすい社会こそが、持続可能な社会のあるべき姿だと思う。スマートフォンに限った話ではない、性別や人種、国籍、年齢など、マイノリティとマジョリティに差がある社会はとても持続可能とは言えない。誰ひとり取り残さない社会、それは、全ての人が全ての人に対してお互いを受け入れ、その人の本質を理解することで実現していくと思う。

 

小方彩楽 鎌倉市立小坂小学校 6年生

 

 私は、3年生の時、初めてビーチクリーンに行きました。その海にとてもゴミがありました。ゴミがたくさんあったことに驚いたのでプラゴミについていろいろなことを調べました。そして、プラゴミは自然に分解されにくいということを知りました。【資料1】5年生の時も、ビーチクリーンに行きました。前ほどはゴミはあまり見当たらなかったのですが前の時より「小さいプラスチック」などの「小さい」ゴミが多くありました。その時私は「あ、3年生の時のビーチクリーンで取れなかったゴミは分解されず、小さなマイクロプラスチックになってしまったのかな。それを、クジラやウミガメが誤飲してしまったのかもしれない」と思いました。
 
 今、海にはたくさんのゴミが落ちていて、そのプラゴミを誤飲したクジラなどの生物が海に打ち上げられたという事をテレビのニュースで見たことがあります。私もビーチクリーンで実際に見ましたが、海にはゴミがあふれてしまっているのです。しかし、そのプラゴミは川などからゴミが海へ流れたことから海にゴミがついてしまったものも多くあるそうです。【資料2】そんな、大変なことが起きているのにポイ捨てや無駄使いをする人がいるかもしれません。私はプラスチックなどのゴミが原因で海などの生き物が亡くなってしまうことを防ぎたいと思い、海を綺麗にする活動をしようと思いました。以上のことから私は次の2点の提案をします。

 まず、1つ目は、使い捨てを減らしていくために、ジッパー袋を使わずタッパーを使うようにすることを提案します。ジッパー袋は使い終わったらほとんどの場合、すぐに捨てることになってしまいます。しかし、タッパーなどなら洗ってまた、くり返し使うことができます。これは、身近なものから再利用をして、プラスチックの無駄づかいを減らしていくためです。同じプラスチックでも再利用ができるプラスチックのものを使うことで使い捨てを減らすことができます。それに、もし川などに流れ出てしまい、海にもに流れていきそうになっても、ジッパー袋だと気付きづらいけどタッパーならジッパーより気付きやすく回収して海にゴミが場がれ出ることを防ぐのも可能になっていきます。ジッパー袋を使わずタッパーを使うことで使い捨てが減らす減り、「使い捨てのものをできるだけ使わないようにしよう」と思えるようになります。これはたくさんの人が協力があってこそ使い捨てを減らせることができます。そして、再利用をする習慣もつきやすくなるのです。
 2つ目の提案は、ゴミ箱を海や川などに多く設けてもらいたいということです。ポイ捨てが原因で海にゴミが流れるのは主に川からです。【資料2】なので、ゴミ箱を多く設けることで、ポイ捨てをせずゴミ箱にちゃんとゴミを捨てるようになりやすくなります。 これは、海にあったゴミはポイ捨てされたものも多く含まれるのでポイ捨てをしてしまう環境を減らしていくためです。「ポイ捨てをしていない」と思っていなくても無意識のうちにゴミを落としていたり、ちゃんとゴミを捨てたつもりでも、ゴミを落としていたりすることもあるはずです。しかし、ゴミ箱が近くにあればゴミを落とす前にゴミを捨てることができるのです。

 私は、漁業の人や海の周辺に住む人が海のゴミを見て悲しんだりしてほしくありません。だから、少しでも海に関係する人たちが困らないように使い捨てやポイ捨てを減らしたいと思い2つの提案をしました。この提案を実現させて漁業の人や海の周辺に住む人などの人が「綺麗な海で漁業をしてきてよかったなぁ」「綺麗な海の近くに住めてよかったなぁ」と、また、それ以外の人には「この海、ゴミもないし綺麗だなぁ」と思ってもらえるような海にして、漁業をする人、海の近くで暮らす人を取り残さない社会にしたいです。

参考資料
【資料1】WWF 海洋プラスチック問題について
https://www.wwf.or.jp/activities/basicinfo/3776.html

【資料2】かながわ海岸美化財団   海岸のごみはどこから来るのか?
https://www.bikazaidan.or.jp/kaigangomi/kaigangomi2/

 

小幡青愛 横浜隼人高校

 

誰一人残さない。当たり前のように感じるこの言葉で、多くの人ができていると思っていることだが、実際には解決していない問題なのだ。「LG BT」という言葉を聞いたことがある人は多いのではないか。「LGBT」とはとはレズビアン、ゲイ、両性愛者、トランスジェンダーのことである。私たちの身の回りにも本当の自分について言えなくて隠している人も多いかもしれない。性別にとらわれることが多いこの世界ではトイレ、制服などの自分が好きな事を好きなように表現するには周りの目が気になってなかなか難しい事だと思う。私は好きなことを自由に表現するにはは周りの環境次第だと思う。例えば、海外では認められつつのある同性婚。日本の法律では認められていないがないわけではない。パートナーシップというものがある。それが100以上の自治体で行われている。だが、この取り組みは認知度がとても低い。私は今後も200、300ともっと増えて欲しい。なのでもっとこの活動は広めていくべくだと思う。そして、誰一人残さないためには私たちも「LGBT」を知っていく必要がある。これからの社会、「LGBT」が身近なものになってくる。今の人たちは「LGBT」につての知識が身につけられていない。教育にもこれらについてもっと力を入れていくべきだと思う。小さい時からこんなことがあるんだなと知っていれば異性の考え方の自由を学ぶことができるし、恋愛っていろいろな形があるのだなと教えることが出来る。このことで私たちはどんなものなのか理解しているので本当のことを言えなく隠している人もカミングアウトしやすくなり、精神的なストレスがたまらず自分らしく日常生活を過ごせていけると思う。そしてこの言葉はある芸能人の方が言ってました。「世の中のはいろいろな人がいます。自分と同じ人間はどこを探してもいません。考えることも好きなことも大切なことも一人ひとり違うのです。一人ひとりが違うからこそ、相手に興味がわき、もっと知りたいと思ったり、愛しく思えたりするのではないでしょうか。 雨上がりの空にかかる虹が美しいようにさまざまな色が輝き、調和すればこの世界はもっと美しくなると思うのです。一人ひとりが自分を自由に表現できる世界。そんなカラフルな世界を一緒に作っていきましょう」彼はトランスジェンダーで昔は「気持ち悪い」などの罵声を浴びせられ、理想の自分になれなかったそうです。でも今自分がこんなふうにいられるのは母の理解があったからだそうだ。だから、私たちが彼らの理解者となって一人で抱え込まないでほしい。こういった方が誰一人も取り残されないためにもっと「LGBT」についてたくさんの方に広めていきたい。

 

小島芽依 橘中学校 1年生

 

持続可能な社会を目指すために、私達が取り組んでいる「SDGs」の内の一つ、七番にある「誰もが使えるクリーンエネルギー」にスポットライトをあてて、地球上の問題についてふれてみようと思う。
目標七の具体的なターゲットは、「二〇三〇年までに、安価かつ信頼できる現代的エネルギーサービスの普遍的アクセスを確保する」「二〇三〇年までに、世界全体のエネルギー効率の改善率を倍増させる」などといった五つがある。この目標の中で、大切なポイントが三つある。
一つ目は「誰もが電気を使える環境を整える」ということだ。世界には、二〇一八年時点で約八億六〇〇〇万人の人々が電気を使えずに生活している。電気が使えない地域の殆どは、貧困世帯が多いとされる発展途上国の農民である。電気が普及していなければ、「教育を満足に受けられる環境が整わない」「農作物や魚類の収穫物を加工する施設も未成熟で、農業が発展しない」などの貧困の解決に必要な行動を起こしにくくなってしまう。
二つ目は、「再生可能エネルギーを活用する」ということだ。電気を使える環境を整えるにあたり、環境に負担がかからない再生可能エネルギーを活用していくことが求められる。これまで、石油や石油燃料を利用してエネルギーを生み出していた。だが、石炭や天然ガスは限りある資源であり、このまま使い続けると枯渇してしまう。また、大量の温室効果ガス排出の原因ともなるため、それに替わる次世代のエネルギーとして期待されているのが再生可能エネルギーだ。再生可能エネルギーは、枯渇しない・どこにでもある・CO2を増加させないというメリットがあるため、持続可能な社会を築くために欠かせないエネルギーである。
三つ目は「エネルギー利用において地球に負担を与えない技術を向上させる」ということだ。巨大な設備を設置するために、途上国の人々が住む場所を追われたり、その土地の森林を大規模に切り開いて生態系への影響が見られるようでは、持続可能とはいえない。今後、再生可能エネルギーを効率よく利用できるような技術の向上を目指すことが必要だ。
そこで、私達にできることは何なのかを考えてみよう。身近でやりやすいものといえば、節電だ。電気を無駄なく使ったり、電気を使用しない時間は節電をする、といったように私達ができることはまだまだ沢山ある。私達の小さな活動でも、電気を利用することのできない国には、役に立っていると私は思う。だから、小さなことでもいい。世の中には、私達のように電気を使うことが当たり前ではない国もある。その国について調べてみたり、考えたりすることも大切だ。ほんの些細なことでも行動にうつしてほしい。
行動にうつすことは、簡単にできることではない。だが、世の中に目を向け、世界を見渡して私達にできることは何なのかを考えてみることは可能だ。視野を広げて、世界の現状に目を向けてみて欲しい。私達にできることは無限にあるのだから。

 

小田竜太 ピラール・ド・スール日本語学校(18歳) 

不平等と差別                            
 人類の歴史にはいつも人と人の差ということがありました。でも、それが、今の差別の問題に対する言い訳になるわけではありません。そういうことがいつでも起こってしまうことは仕方がなく、差別の問題はいつまでも解決しないのかもしません。でも、その数と差を少なくすることはできます。今の時代と数年前とを比べてみると、ちょっとずつ変わってきていることがわかります。
 人々の争いを解決するためには、何をしたらいいのでしょうか。その問いにはいろんな答えがあって、百パーセントの答えはありません。例えば、ブラジルでは肌の黒い人たちには大学に入るのは難しいから、チャンスを与えるためにその人達が入学できるように与えられた枠があります。これは一見いいことに思えますが、それも見方を変えると、差別になると考えることができます。でも、なかったら困る人達がいるので、とても難しい問題です。
 皆が取り残されないために、もちろん政府の取り組む姿勢が大きく関係しており、重い責任があります。しかし、人々がそれらの問題を深く知ろうとしなかったら、何も動かないし、何も始まりません。
 Lgbtq+とか女性とかに対する差別が続くのは、宗教にも一因があります。キリスト教やイスラム教ではLgbtq+と言う人達は罪人と言われています。それに、これまでの歴史でも女性に対して厳しくて、大変でした。だから、今の時代に合うように宗教が変わらなければいけません。
 障碍者の中には足や腕がない人達がいて、その人達はそういう生活になれていても、当然、できない事が色々あります。義肢や義足を買える人達もいますが、でも全員ではありません。だけど、この問題については、年々に技術が進むとともに売る量が増えれば、買いやすくなります。今出来る事は、義肢や義足を作る会社や、障碍者に寄付をする団体にお金を寄付することで、それらが大事ではないかと思います。
 貧困を減らすためには、貧しい人達にお金をあげても何も解決しません。その人達が仕事をしていなかったら、その方法には頼りになりません。だから、まずは皆にいい教育が出来るようになり、りっぱな仕事が出来るようになることが必要です。
 外国人にとって一番困る問題は、言語のことです。ですので、最初に国を入る時に、どうやってその国の言語を覚えられるか教えたり、他の問題が起こらないように大事な事を教えたりすることが大事だと思います。例えば、日本のゴミの捨て方は他の国と違うので、それを知らない外国人と周りの日本人の間でトラブルになって困ることになり、またそこから差別につながってしまいます。
 だから、情報が一番大事です。関係のない周りの人達でも、困っている人がいることが分かったら、手伝うべきです。困っている人も自分の人権を知っていたら、多くの問題は解決できるのではないでしょうか。でも誰も知ろうとしなかったら何も始まりません。
 「教える事」と「知る事」。それによって多くの問題が解決され、取り残される人達が減ると思います。

 

小池華 横浜市立山内小学校

 

私は、「アリアナ・グランデ」について紹介したいと思います。アリアナは、アメリカの有名な歌手です。また、女優としても活動しています。
 私は、小さいころにアリアナの曲を聴いて、すっかりアリアナの声が好きになりました。アメリカのヒットチャートの第一位、二位と三位までアリアナの曲だったこともあるくらい、人々の心にしみる曲たくさん歌っています。そして、テレビで、「あなた自身でいられることを幸せに思って。」というアリアナの言葉を知り、人を羨ましがってばかりでなく、自分で自分を幸せにしているアリアナに感動しました。
 アリアナは、有名だからといってけっして苦労をしなかったわけではありません。自分に自信を持つことができたから有名になったのです。私も、そのなアリアナに負けないくらい、くじけずに前を向いて何事にも取り組んでいきたいです。

 

小泉芽衣 大学3年生

 

近年、日本でもよく耳にするようになったSDGsという言葉。世界は今2030年までに達成することを目指してアクションを起こしている最中だが、コンセプトである「誰一人取り残さない」社会を実現するためには先進国・開発途上国を含めた全世界が協力して取り組む必要がある。世界中で共通認識として定着してきているSDGsのゴールに少しでも近づくために、私たちには何ができるだろうか。
「誰一人取り残さない」ということは、人種・宗教・性別・環境など何もかも違う全員が壁のない平等な社会で暮らせるということである。後発開発途上国を始めとする開発途上国では今でも5人に1人が1日を1.25ドル以下で暮らすことを余儀なくされている極度の貧困に陥っている。日本円で約140円だが、1日を約140円で過ごすことは容易に想像できない。しかし残念なことに、これは現実に起こっているのである。私たちにとって異常だと感じる生活が彼らにとっては普通なのである。2020年、新型コロナウイルスによって私たちの生活は一変した。1年間、大学に行って講義を受けることはなく、普段なら気軽に会える友人達とも会う回数は極端に減ってしまった。何よりアルバイトの収入が減ったことがとても大きかった。ある程度コロナウイルスの知識が集まってきてはいるものの、未だオンライン授業が多く以前と同じような生活に戻るのには時間がかかるだろう。今まで何不自由なく生活していた人が今回のコロナ禍で生活保護を申請した話をたくさん聞くくらいなので、開発途上国の人々は支援の道が断ち、次の日に生きていれば良いと思うほど常に生死の境にいるのではないかと考える。今も誰かが助けを求めている。そこで、SDGsの目標達成のために遠くからでも貢献できることを考えたい。
例えば、フェアトレード商品を買うことである。開発途上国の原料や製品を積極的に購入することで、立場の弱い人々の自立の手助けになる。次に食品ロスを減らすこと。これは先進国に多く見られることだが、まだ食べられるのに流通の段階で捨てることがある。経済的に豊かで食べ物が豊富にあることや、消費者の食品の品質や鮮度などに対するニーズが増えていることが背景にある。食べ残しをしないことや無計画な買い物は行わないなどが飢餓撲滅につながるのである。私自身は、使わない電気はすぐ消すことや、こまめに水を止めること、部屋の電気をLED電球に変えてCO2削減するなどを行なっている。また、最近ではICTを活用しながらカンボジアの子供達と交流して平等な教育実現のため努力している。
社会の状況が落ち着いたら、オフラインで子供達と交流したいと考えている。
数人が行動に移して世界が動いたとしてもそれは微力である。一人一人がSDGs達成のために行動を移すことで環境が、社会が、そして世界が大きく動くと考えている。SDGsがより身近な存在になるにはまだ遠いかもしれないが、これを知るきっかけになるものが全世界の人々に必ずある。今、世界中で何が起きていて誰がどのようなメッセージを伝えているかを明確に知り、行動に移すことが大切である。だから、SDGsはこれからの未来にとって必要不可欠な存在なのである。誰かの心に雨が降っているならば、率先して傘をさしてあげられる、そんな日が来るのを願っている。

 

小松芽衣 横浜隼人高校 2年生

 

私は「誰ひとり取り残さない社会」を実現するためには、「様々な人とコミュニケーションをとる」ことが重要であると考える。今、私たちにコミュニケーションが足りていないというわけではない。ただ、誰とどうコミュニケーションするかで自分の考え方に変化が現れるはずだ。私は、自分と違う環境で育った人や価値観が違う人と対話し、お互いを理解しあうことが私たちに不足している点だと考える。私たちはどちらかというと自分と考え方が似ている人と一緒にいることが多い。誰だって、そのような人と一緒だったら自分のことをいち早く理解してくれるし、物事を進めるにも考え方が同じだったらやりやすい。しかし、本当にそれでいいのだろうか。このように考え方が同じ人とばかり一緒いてグループを作るから、取り残される人が発生してしまうのではないだろうか。価値観が似ている人とばかり一緒にいたら、取り残されている人に気付くことができない。もはや自分から気付くことから逃げている。取り残される人をなくすには「自分と違う環境で育った人や価値観が違う人と対話し、お互いを理解し合うこと」が今の私たちに必要であると考える。なぜなら違う境遇の人と理解し合うことができれば相手への思いやりが生まれ、改めてこれからどう進んでいくか、改善していくかを考えるきっかけにつながるからだ。また大切なことはもうひとつあげられる。今回の新型コロナウイルスで私たちの生活は大きく変わってしまった。悪いことばかりな気がする。しかし、これは取り残されている人を見つける良い機会だと私は思う。テレビを付ければ、今世界がどんな状況なのか、なにかしらの番組が報道している。今こんな人が世界で困ってるんだ、と発見できる。自分に何ができるかな、と取り残されている人を気にし始める。このように安心して暮らせている私たちが、取り残されている人を気にかけることで私たちは自分がやるべきことが見えてきて、取り残される人をなくしていくための努力ができると思う。このように常に周りの状況を確認し、自分にできる最低限のことを精一杯やっていきたい。また、様々な境遇に置かれている人とコミュニケーションをとり、今までの固定概念を捨てて、自分と違う価値観や考え方を、どんどん吸収していきたい。

 

小山田美海 鎌倉市立小坂小学校 6年生

 

 三年生の時にインターネットで、海の生き物がマイクロプラスチックや、プラスチックのせいで困っていることを知りました。そして、これ以上海洋プラスチックが増えると2050年には、魚よりもプラスチックゴミの量の方が上回ると言われているそうです。【資料1】プラスチックがこれ以上増えるとどういう問題があるかというと、魚が餌と間違えてマイクロプラスチックを食べてしまって、マイクロプラスチックが私達の体内に入ってしまうという危険性があるそうです。
 私が、学年でビーチクリーンに行った時はサンダルや、たばこの吸いがら、プラスチックのごみなどがありました。そして、その中のごみの中で一番多かったごみは、プラスチックごみやたばこの吸いがらなどでした。サンダルやその他のごみは少しだけでした。これらのごみは、約7割が町や、川などから海の砂浜に来ています。そのうちの約3割は、海の砂浜に残されたごみです。以上のことから私は、4つの提案をします。                             

1:プラスチックを使わない
 例えば、飲食などで使うストローや、スプーン、はしなどの、プラスチック製品のものを使わずに紙のストローや、スプーン、はしなどのものを使った方が良いと思います。なぜなら、プラスチック製品のものを使わなければ海などの場所にプラスチックや、マイクロプラスチックがほとんどなくなるからです。

2:川や海、町で飲食をしたら必ずごみを持ち帰る
 例えば、コンビニなどで買ったお菓子や飲み物のごみを川や海に捨てたままにすると、川や海に流れてしまいます。そのごみは、そのまま海や川の中に残されてしまいます。

3:掲示板などにポスターを貼る 
 例えば、川や海の近くにある掲示板や、いっぱいごみの落ちていそうな場所の近くにある掲示板などに、ポスターを貼ったりすると良いと思います。ポスターには、今の海の現状、マイクロプラスチックとは、海洋プラスチックはどこから来ているのか、今私達ができることなどのことを書いたら良いと思います。

4:ビーチクリーンを〇回やったらポイントをもらえる
 例えば、ビーチクリーンを3回やったらポイントが〇ポイントもらえて、〇ポイントまでたまると自分が拾った貝がらや、シーグラスなどをアクセサリーなどを作ってもらえるなど商品がもらえるなどという事をすればビーチクリーンをしてくれる人が増えると思います。

 プラスチックやマイクロプラスチックのせいで魚などの海の生き物がいなくなりそうになっています。私達が食べる魚がいなくなってしまったら、魚に関係している仕事をしている漁師や、魚屋さんなどの人が魚を売れなくなったり、私達、消費者が魚を食べれなくなってしまいます。このようなことになってしまったら魚に関係している仕事をしている人の仕事がなくなってしまいます。誰一人残されないようにプラスチックや、マイクロプラスチックを出さないために、なるべくプラスチックを使わず、プラスチックを使う時は、ちゃんと持ち帰るなどのことを私はずっと続けて行きたいと思います。
参考資料
【資料1】日本財団
     2050年の海は魚よりもごみが多くなる 私たちにできる2つのアクション-
     https://www.nippon-foundation.or.jp/journal/2019/20107

 

勝原向日葵 横浜国立大学 3年生

 「自分らしさ」

 SDGsの基本理念である「誰ひとり取り残さない」というフレーズは、全ての人の足並みをそろえるという一致団結のイメージがある一方、設定された17のゴールによって世界が標準化されてしまい、アイデンティティや多様性が失われてしまうのではないかと危惧の念を抱いてしまう。
 「誰ひとり取り残さない」の「誰ひとり」という表現に着目したい。この表現において、取り残さないよう目をむけられるのは、おそらく障がい者、貧困層、人種差別など「名付けられる社会的少数派」の人々だろう。これらの人々を可哀想だという目で見て、その人々自身の個性を尊重できているのだろうか。『THE GREATEST SHOWMAN』というミュージカル映画の挿入歌『This is Me』では、他人とは違う特徴的な外見を持つ人々が、自分という存在に誇りを持って主張するシーンに胸を打たれた。その中でも、『I know that there’s a place for us. For we are glorious.』という歌詞が印象に残った。自分自身が輝ける場所があるのだというメッセージから、一人ひとりの個性には価値があることは明確だ。
 また、「名付けられる社会的少数派」だけでなく、「名付けられないひとり」の存在こそ見捨ててはならないと考える。この「名付けられない」とは、集団の中で、なに不自由なく暮らしているように見える人のことを指す。つまり、精神的に「社会から取り残されている」という孤独を感じる人たちだ。新型コロナウイルスの感染拡大により、人との直接的な関わりや外出が制限され家で過ごす時間が格段に増加したことで、人々の孤独はさらに深刻になってしまったように感じる。特に大学生は授業のオンライン化や部活・サークル活動の休止、アルバイトのシフト削減など人と関わる機会が制限された。私自身、一人暮らしをしており、2020年の春頃からは感染リスクも考え帰省せず、緊急事態宣言中も一人で過ごした。サークルの友人といわゆるオンライン飲み会を行うこともあったものの、一人でいる時間が増え、塞ぎ込んでしまう時期もあったことは事実だ。私はどちらかというと外向的で、人とコミュニケーションをとることが好きだと思っていたが、この孤独によって「自分らしさ」を見失ったように感じる。
 「SDGs、持続可能な開発目標」とは、自然環境や経済発展を踏まえた世界共通のゴールであるが、個性の豊かさも疎かになってはならない。「誰ひとり取り残さない」以上に、「誰もが自分らしく振舞える」社会を目指す姿勢が必要なのではないだろうか。

 

渋谷光基 横浜隼人高等学校

 

私は、SDGsについて誰ひとり取り残さないというモットーは、大切だと思う。しかし、世界で考えると先進国と新興国でインフラの差があり、情報の伝達に差があり、このモットーは全ての人々には届いていないように思える。17の目標を掲げているが、人々は全ての目標を知っているのだろうか?誰ひとり取り残さないようにするには、もっと情報を発信するべきだと私は、思う。2030年までの17の目標を全て達成するには、国だけが動くだけでは足りない。ボランティアなどの先駆性のあるものをより活発にしなければならない。国境なき医師団などの人たちがいい例になる。彼らは、“すべての人に健康と福祉を”という3番目の目標を達成するために活動している。我々学生は、こう言った海外での活動は難しいと思うが、ものを大切に扱うや海や山にゴミを放置をしないなどのことができるように思える。旅行へ行くとよく見かけるポイ捨て禁止の看板、しかし、人々はそのような看板を気にもせず空き缶などを捨てる、特に多いのは、タバコのポイ捨てである。タバコの火を完全に消火できずに捨ててしまうと、山火事になり、自然の汚染、破壊に繋がる。地球を生かすも殺すも人間にかかっているのはもちろんのことながら、我々は、どう生活し、ものを大切に使うのかを求められている。海の汚染や大気の汚染は、誰かのせいなどという、なすりつけをしている場合ではない。大気の汚染は、人間が進化して、新たなものを開発するのに必然的なものだったと私は思う、なぜなら、道具を作り、量産するには膨大なエネルギーが必要になるからだ。しかし我々はまだ、為すべきことがある。特に、環境の汚染は、ひとりひとりが責任感を持ち、自然と共存することが大切だ。私たちにできることは、レジ袋を使わず、エコバックを持ち歩くことや食品を大量に購入せず、適度な量、言い換えれば消費期限までに食べ切れる量のもの、また、使えるものの再活用などがある。国としてできることは、プラスチックの容器や袋などのプラスチックを用いるものの使用の撤廃や、古い街並みの保全などがある。国のによる街の再開発は自然の山々を切り開いたり、海を埋め立てたりなど自然を破壊しているのと変わりないが、人口が爆発的に増え、さらには、島国の日本。ビルを建設するのは仕方のない地域がある一方で、京都府などの歴史的観光地では、建物の高さの基準を決めたり、古い民家を改築して使ったりなどのことをしている。人口が過密化している都市部と過疎化している農村部このギャップを埋めるためには、仕事のリモート化が必要になる。それを成し遂げれば、人口が均等になり過度なビル建設事業を減らすことができる。将来的には、たぶん、人間ができる仕事が減ると思う。それは、IT化によるものや、上記で述べたように自然の過度な破壊を防ぐためなどのポジティブな側面があるが、無職の人が増えるなどのネガティブな側面もある。そのような職を失った人々に農業を教え、自給自足可能な生活をしてもらうことなどの対策により、そのネガティブな側面を少しでもポジティブな側面に変えることができるのではないかと、私は、思う。このことをすることによって、“住み続けられるまちづくりを”という11番目のの目標や“陸の豊かさも守ろう”という15番目に目標を達成できる。それに加えて、農地が増え、整備されることで、土の栄養分が川を通り、海に流れることで、“海の豊かさを守ろう”という14番目の目標までも達成できる。つまり、陸と海を一気に豊かにできることができる。今まで述べたことをまとめると、SDGsの17の目標を達成させるためには、ひとりひとりが生活をしている中で、環境に気をつけ、また、地域では、古い街並みを継承しつつ、人口に偏りをなくすために、仕事のリモート化を進め、自然破壊を防ぎ、その取り組みを世界のあらゆる国と地域に、人種や民族の枠を越え共有していかなければならない。

 

渋谷百花 大阪教育大学

 

友達が100人欲しい!私が大学生になった1年前、家族にこう話した。4年間しかない大学生活で、沢山の人と出会い、沢山の場所に行き、様々な価値観に触れることで、自分の世界を広げたい。そう考えていたからだ。今もその考えは変わっていない。しかし、私たちは大学受験が終わりを告げたと同時に、世界中で我慢を強いられる生活が始まった。私は大学試験を終え、友人と卒業旅行に行く予定だった。大好きなアーティストのライブにも当選していた。しかし、二回生になった今も、旅行はおろか、大学での対面授業すらほとんどなく、人と交流する機会もなかなか無い。延期、中止。正直なところ、もうこの言葉にはうんざりしている。社会がこういった状況の中で「取り残される人」というとどのような人だろうか。双方向通信機器に慣れていない高齢者、毎日命がけで働いてくださる医療従事者の方々、給食では黙って食事をする子ども達。今「我慢しているすべての人」はみな、社会や見えない壁に取り残されていると私は感じている。
私は夢に取り残されている。海外にボランティアに行くという夢は、高校生の頃に出会ったとある女性の言葉がきっかけだ。その女性はシリアから日本に来た方で、海外の文化に触れるというイベントでボランティア活動をしているときに出会った。みなさんはシリアという国に、どんなイメージを持っているだろう。当時の私は、シリアという国は内戦が多く、危険な場所だという印象があり、シリア人と聞くと怖いという感情を持ってしまっていた。しかしそれはただの偏見に過ぎなかった。彼女は穏やかで、日本文化を愛していた。そして、流暢な日本語で私たちに思いを伝えてくれた。たとえ、言語も肌の色も衣服も異なっていたとしても、みんな同じ人間であるということを、日本で伝える活動をしていきたい、と。頭にヒジャブを巻いていると街中で白い目を向けられることもある中でも「私は負けない」と小さく、でも力強い声が部屋に響いたことを鮮明に覚えている。その時、次は私がこのやさしさのバトンを繋いでいく使命があると感じたのだ。世界中で沢山の人が我慢している今だからこそ、こういったやさしさのバトンを繋ぐ必要があるのではないだろうか。実際に海外に行くことはできなくとも、何らかの形でこのバトンを握りしめ走っていたい。
そのためにまず、私は知ることから始めようと思い、自宅でSDGsや不登校、LGBTQなど、コロナウイルスによる影響が出る前から取り残されてきた人々に関する読書を始めた。現在、私は教育学部に通っており、小さいころから目指してきた小学校の教員になるため勉強している。私が今、これらの知識を知るだけでも、将来子ども達に何か還元できることがあるのではないかと思ったことも、私を突き動かしている要因のひとつだ。先日、不登校児は無限大の可能性を秘めている、という趣旨の本を読んだ。そして、不登校の子どもを絶対に取り残してはいけないと強く感じた。教員である私たちが寄り添うことをしないなら、誰がその子どもの味方になるのだろうか。私は今まで、不登校の子どもたちが学校に来ることができるようにしたいと考えていたが、本を読み進める内に変化があった。「不登校」とはあくまでもその子の状況であり、その子に社会性がないと決めつけるのはおかしい。無理に学校に来るようにすることよりも、第一にその子の意思を尊重すること、その中で、教員として保護者との連携を取りながらその子の可能性を広げてあげることが重要なのだ。極論を言えば、学校に来ることができなくても、その子どもが10年後、20年後、社会の中で幸せになれたらいいのではないだろうか。それがその子にとって、取り残されない未来になるのではないだろうか。勿論、教員の卵として、不登校の子どもが学校に行けるようにするための勉強は継続する。また、その子にとって、学校に行くことが何よりの幸せにつながるのなら、そのための努力は決して怠らない。私は、これから出会う沢山の子ども達を、誰一人として取り残したくない。この気持ちは、ずっと忘れないでいようと決めた。
「取り残される人」の中で不登校の子ども達に焦点を当てたが、冒頭でも述べたように、今、見えない壁に取り残されていると感じている人は沢山いるだろう。新型コロナウイルスとの闘いの旅路は私たちが想像していたよりも険しく、長い。しかし、ワクチンという一筋の光が見えてきた今、諦めてはいけない。もう少し、あともう少し、頑張ってみようではないか。
今しかない今を一生懸命生きる。時間は有限だが、可能性は無限大である。私はいつか必ず、海外でボランティアをし、その経験を教員として子ども達に伝えようと思う。それが、誰ひとり取り残さないための第一歩になると信じて。

 

 

舟元美咲 横浜隼人中学高等学校

 

私は、「誰一人取り残されない社会」を実現するためには、「一人ひとりがその問題について身近に感じること」が重要であると考える。たとえば、lgbtqは学校や会社、友人、家族のなかにいる可 能性は高い。そういったなかで、「自分は関係ない」と区切るわけにはいかなくなる。他にも、海洋 プラスチックが問題になっているが、海に捨てられたプラスチックを食べた魚を人が食べ続けると 体内にプラスチックが溜まってしまい、大きな病気になりかねないので、これも決して、政治や会 社が過大に問題視しているわけではなく、自分、そして世界の人々に大きく関わる問題である。そ ういった世の中であるはずにも関わらず、自覚や、考え方が追いついていない人々があまりにも 多すぎるのだ。そして、日本や世界で一丸となって行なっている取り組みも同様に知らない人が 多い。そのためには学校や会社などで教育として取り入れたり、テレビ番組でSDGsについての 世界のニュースを取り上げる頻度を今までより増やしたりする事から始めるべきだと考える。それを感じた出来事が最近あった。それは、テレビで報道されていた足立区のファミリーシップ制度についてだ。私は2015年から東京都の渋谷区と世田谷区にて、同性カップルを自治体が証明する「パートナーシップ制度」があり、現在日本では100以上の自治体で行われているのを知らなかった。しかし、ある時みたニュースで、2021年の春、東京都の足立区にて、「ファミリーシップ制度」が自治体がlgbtのカップルとその子どもをまとめて「家族」と認める制度を開始していたことを知った。私はそのニュースを見て、日本では想像以上に取り組みを進んでいる事に驚いた。 それから、日本での他の取り組みにも興味が湧き、調べてみると2003年からすでに日本では、 「性同一性障害の性別の取り扱いの特例に関する法律」が制定されていたことを知り、さらに驚いた。なので、私の様に、前から名前や詳細などを知っているのにも関わらず、日本や世界での取り組みを知らないまま過ごしている人々は決して少なくないはずだと考える。もしかしたら、当事者であり、日常生活で苦しんでいる人にも当てはまるのではないだろうか。もし、この様な様々な問題を身近に捉えることが出来る人々や世の中になっていければ、周りから認められずに苦しんで生活し、最終的には耐えられずに自殺に追い込まれることがかなり減るのではないだろうかと考える。私はそんな世の中になるために行動できる人を目指していきたい。そのためには自分の知識を深め、周りに広めていくことから始めていきたい。

 

秋元塁 横浜市立新羽中学校

この青い地球を守る事(命の水を守る)

  「SDGs、それって何?」
母の世代では、そんな事は授業で習わなかったらしい。聞いた事のない言葉だったようだ。だから僕と母は、少しの時間だが、その事について一緒に勉強する事にした。とても分かりやすく説明されている『こどもSDGs』という本を借りたので、僕が読んで聞かせた。それによると、とにかく今、人間は知恵を出し合い、力を合わせ、地球を守っていかなければならない事だけは確かなようだ。でなければ、地球の生命は早くに滅んでしまう。「地球は青かった」とガガーリンは言った。この人は人類初の宇宙飛行士で、最初に宇宙から地球を見た人だ。真っ黒い宇宙空間に青く光り輝きながら浮かんでいる地球は、僕もとても綺麗だと思う。僕はここに生まれ、今、生活している。地球のようにたくさんの生命に溢れる星は、珍しいと聞いた事がある。人間は、この生命に溢れる地球のリーダーになって、良い方向へ導いていかないとならない。人間は、食物連鎖のトップにいて、とても強い存在だ。知恵があったからそうなれたのだろうと思う。だがその知恵を、後先考えずに悪いことに使ったりすれば、地球を滅ぼしてしまう事にもなりかねない。地球温暖化や水、空気の汚れは、全て人間のしてきた事の現れだ。人間は、リーダーの自覚をもって、考えて行動して行かなければならないと思う。明日やその先の未来のことを考えながらだ。僕が現在住んでいる場所だけが快適ならいい、では済まされないのだ。
 「地球は青かった」の言葉通り、地球の表面は水色が多い。それは、海が地球の7割を占めるからだ。海から全ての命は生まれ、今のような地球に変化していったのだ。人間は、一週間食事をとらなくても死にはしないが、水を飲まなければ一週間は生きられない。生き物と水は、切っても切れない関係なのだ。
 日本は水がとても豊富で、水道の蛇口を回せば飲める水が出てくる。湧き水の豊富だ。日本を訪れた外国人がデパートの洗面所の水をペットボトルに入れて飲んでいるという話を聞いた事がある。海外では、汚染された水を飲むしかなく、毎年多くの子供が亡くなっていると聞き、ショックだった。小さな子供の仕事が、危険な道を一日かけて歩いて、家族のために水を汲みに行くことだったりする。生きるために命がけな人が大勢いるのだ。きっとその土地には、元々水が無く、水道を作る技術も無いのだろう。技術なら、他の国から教わることが可能なはずだ。食べ物の作り方も同じだと思う。日本も食料は海外からの輸入にほとんど頼っている。綺麗で清潔な水を他校に分けてあげる事はできそうだが、自給自足の力がない日本だ。国同士で互いに助け合う事は大事だと思う。
 僕はまず、一番にする事は、地球の水を保つ事だと考える。水は全ての生き物の命の源だからだ。綺麗な水なしでは、すべての生物が滅んでしまう。海の生物は今、人間の手によりとても苦しめられている。目に見えない物から大きな物まで、プラスチックが大量に海へ流れ込んでいるのもその一つだ。それが海の生物の体に入り、人間もそれを食べて害になる。人間の犯した悪事が人間にそのまま返ってくるのだ。公害もそうである。人間は、目先の利益ばかり考え、不要な物は海へ流してしまう。もちろんそれも、人間に返ってくる。もし、人間が地球に存在しなければ、地球は汚染される事なく、今よりも美しく平和であった事だろう。コロナ禍で海の生物が水面をゆったりと泳ぐ姿が多く目撃されたと聞いた。そして、海水が綺麗になったとも。僕たち人間は、これからの地球の事をしっかり考えて守っていけるよう行動しなければならないと思う。一度に様々な事を行うのは不可能かもしれないが、まずは水を守る事が大事。そして世界中のどんな国でも綺麗で清潔な水を飲めるようにすること。子供が「自分が明日は生きていられるのだろうか」などと考えながら生きなくても大丈夫な様にしていくこと。明るく清潔で、水の流れるトイレをどこの国でも作れること。トイレも深く水と関わっていると思う。人間らしく幸せな気持ちで生きるには、トイレは大切だと思う。
 水を綺麗にすること、青い地球をいつまでも青いままで保てるよう、大切にすること。宇宙の外の星へ移住しないと駄目であるとか、そんな事にならないようにすること。人間は、常に地球のリーダーであることを忘れないようにし、小さなことから、できることから少しずつしっかりやっていかないと駄目だと思う。水や海が綺麗なことは、地球のすべての生き物の幸せに繋がると思う。ゴミは捨てない、落ちていたら拾う。そんな小さいことだけでもやろう。そしてずっと先の未来の地球が、青く輝くことを願わないとならない。

 

柴田優希 横浜市立橘中学校 3年生

 

世界では、医療が発達している国と、発達していない国がある。今回は、それについて、調べたことを書いていこうと思う。
まず、ユニセフのSDGsによると、サハラ以南のアフリカ地域では、2人に1人の子どもが肺炎になっても治療を受けることができず、2019年現在、1000人生まれてきた子どものうちの、101人以上が亡くなっている地域も多いとのことだ。
なぜ、アフリカは医療がここまで発展していないか、Gooddoというサイトによると、アフリカでは、医療のアクセスが難しい、医療費の捻出ができないといった様々な理由があるのだが、中でも最も深刻なのが、医師・医療従事者不足だ。これは、人口に対しての医師の数が足りていない現状であり、世界では広く認識されているのだが、具体的な対策がなく、改善ができないのが今の世の中なのだ。
さて、ここまでアフリカのことを説明してきたのだが他の国はどうだろうか。
世界事典の病院数ランキングによると、日本では、人口100万人に対して、病院が66の数あるのに対して、イスラエルはたった9しか病院がないのだ。しかし、訪日ラボによると、イスラエルは新型コロナウイルスのワクチン接種が急速に進んだことによって、2021年の6月1日より、出入国以外の、ソーシャルディスタンスやマスク着用といった制限が解除された。
なぜここまでイスラエルはワクチン接種が急激に進んだかというと、エコノミストによると、そもそもイスラエルは人口が約93万人と比較的少なく、国民皆保険も存在し、HMOという健康機構制度に加入している人は、ワクチンの情報をより早く受け取ることができ、HMOに加入していない人も、ネットで申し込んだ翌日には接種ができることができることも関わってくる。
ここで、先程も出てきた国民皆保険制度について説明していこうと思う。
gooニュースの国民皆保険制度によると、日本やイスラエルの他にも、ドイツ、フランス、オランダといったヨーロッパ諸国の大半は、国民皆保険制度が基本である。
アメリカでは、高齢者に対するメディケイドという医療制度以外は、全て自己負担であり、かなり高い医療費を負担させられることになる。
他にも、イギリス、スウェーデンでは、医療費を税金として、患者は一切お金を負担しなくても良いといった制度もある。
これらを踏まえていくと、医療が発展している国と、そうでない国で格差が生まれているのが分かる。今後、その格差をなくすためにも、皆1人1人が協力することで、格差をなくすことができると思う。
例えば、募金に協力したり、SNS等で、周囲に呼びかけをしたりして、世界を医療困難から救い、世界中の人々が皆健康で暮らせる世の中を作り出していきたいと、私は思う。

 

柴田菜帆 早稲田大学 3年生

私にとってのSDGs

振り返ってみれば、去年の1年間は本当にイレギュラーなことだらけであった。私の所属する学部、国際教養学部の醍醐味だと言われていた1年間の留学がいとも簡単にキャンセルになり、人生で一番楽しめるはずの大学生2年目はあっけなくステイホームになった。新しい友達を作ることも、サークル活動に精を出すことも、気軽に旅行することも出来ず、大学のキャンパスに行くことすらままならなかった。心待ちにしていたオリンピックのボランティアは延期になってしまった。そして、一人暮らしをしていることもあり、様々なショックが自分に一斉に降りかかって耐えられなくなりそうになった時もあった。でも、それでも私はなんとか気持ちを切り替え、新しいこと・出会いを貪欲に求めにいくことができた。障害をもつ方、高齢者、路上生活者、自分が訪れたことのない地域に住む人など、今まで出会ったことのなかった方々と出会い、繋がり、沢山の学びを得ることができた。それはなぜか。おそらく、きっかけは野毛坂グローカル主催のオンラインイベント、「〜SDGsの精神『誰ひとり取り残さない』を目指して〜」だったのだろう。
大学の友人をつてに野毛坂グローカルと出逢い、初めてお手伝いをさせていただいたのがこのイベントの要約筆記だった。要約筆記は、盲ろうの方のためにフェイスブックのチャットを通じて行われ、リアルタイムで彼らにも会に参加してもらえるように情報をタイプする役割を担った。軽い気持ちでボランティアを承諾したものの、事前準備は他の参加者ときちんとした上で、張り切って本番に臨んだ。ところが、結果は散々だった。スピーカーの話に要約筆記が到底追いつかず、どこを取捨選択して言葉にすればいいのかも分からない。しかし、健常者と同じ情報を盲ろう者に伝える責任が私にはある。そのような感じで、常に軽いパニック状態にありながら一瞬で時間は過ぎ去った。
この経験を通じて、SDGsを理念としては理解していたとしても、「誰ひとり取り残さない」というのは身近な場面でさえも達成されるのが極めて難しいということを痛感した。もちろん、自分もコロナ禍で取り残されていた一人だと感じていたし、盲ろう者のように、更に基本的な情報からさえも取り残されてしまう人がいることを体感した。しかし、それは私にとって「誰ひとり取り残さない」を考えるにあたって、とても大事な第一歩になったと思っている。なぜなら、自分が取り残されやすいと思われる人々と直接関わりを持ち、つながることで、一人でも取り残されてしまう人を減らせるかもしれないと気づいたからだ。自分にとっても、様々な境遇の人と触れ合うことで新しい学びにつながったり、いい刺激がもらえたりする。色々な立場を理解することで、もし同じような境遇に置かれた異なる人に出会った時に、相手の気持ちが少しでも汲み取れるようになる。このように、必要に応じて助け合えるようなゆるい関係性をより多くの、多様な人と結ぶことにより、誰かが取り残されてしまう可能性が少しでも減るのではないだろうかと私は考えるようになった。そして、それがより多くの人によって達成されれば、この世の中から取り残されてしまう人をなくせるかもしれない、そう思った。
そのような社会を作っていくにはどうすればいいのだろうか。とても壮大で難しい問いのように思われる。自分でも具体的な方法というのは正直分からない。しかし、現時点で私が考えていること、それは、ボランティア活動というものを、意識の高い特別な人がやるようなことではなく、普段の生活を送る中でごく一般的に行われるものだという認識を社会の中に染みわたらせるということだ。いや、ボランティア活動というとやはり敷居が高くなってしまうかもしれないので、社会人になっても人と人とがつながる場を地域社会でより多く創出し、いつでも気軽に助け合えるようなゆるいコミュニティーを作ること、と言ったほうがいいだろうか。一人一人が持つ力は小さかったとしても、それらが結合した時、それは大きな力となるはずである。誰一人として同じ経歴を積んでいる人はおらず、誰もがそれぞれの強みを持っている。それらを組み合わせることができれば、大抵の問題はクリアできるのではないかと私は信じている。そうして、SDGsの理念に近づいた、誰も取り残されない、生きやすい社会への一歩を踏み出せるのではないだろうか。
最後に、これからの人生を生きていく上で、自分は今までふれ合ったことのなかったような人との出逢いを積極的に求め、多種多様な知見を蓄えることを究極の目標としたい。そして、その知見やつながりを必要な人に受け渡したり、分け合ったりする役割をこの社会で担っていけるような人になりたいと思う。

 

柴田基希 横浜国立大学 2年生

 

 「あなたにとって、幸せとは何ですか。」この問いに対して、考える時間が必要かもしれないが、答えられる人が多いだろう。好きなものを何でも買える。家族と過ごす。友達と遊ぶ。学校で学ぶ。好きなことをやる。このように、幸せの形は個人によって大きく異なってくるだろう。国や文化、価値観の違いが大きく影響するだろう。しかし、そのような大きなものでなく、個人と個人の考え方の違いによっても変わるだろう。「あなたにとって、幸せとは何ですか。」という問いに対して答えることができても、「あなたの隣にいる人にとって、幸せとは何ですか。」という問いに対して、あなたが答えることは不可能だろう。隣にいる人が赤の他人であればもちろん、仲の良い友人や家族であったとしても、あなたと「同じ」人はいない。すべての人がそれぞれ「違う」という認識は、すべての人にとってよりよい、より持続可能な未来を築くための前提条件となるだろう。
 SDGsの基本理念は、「誰ひとり取り残さない」である。それを基に貧困や不平等、気候変動、環境劣化、繁栄、平和と公正など、私たちが直面する諸課題の解決を目指す。しかし、ここで一つの疑問を持った。「貧困とはどのようなことを指すのだろうか。」それは、お金がないことだろうか。家がないことだろうか。清潔な環境がないことだろうか。貧困という一つの言葉でも、それが指すものはいくつも存在する。また、「誰にとっての貧困なのか。」ということも重要な論点であると考える。私たち日本にいる人達とアフリカにいる人達とでは生活様式も文化も全く異なる。そのため、日本にいる人達にとっての貧困とアフリカにいる人達にとっての貧困は異なるだろう。この貧困に焦点を置いて、SDGsの基本理念について考えていきたい。
 貧困の考え方はいくつか存在する。例えば、絶対的貧困である。これは、世界全員に対して同じ物差しを使って貧困を測るというものである。次に、相対的貧困である。これは、相対的貧困率を使うことで、格差に対して貧困を考えるものである。この二つはどちらも所得を貧困の指標としている。もう一つ、人間開発指標がある。これは、保険、教育、所得という3つの観点から貧困を考えるものである。最後に、幸福度という指標がある。これは、上の三つの指標とは違い、経済力ではなく、生活の質といったような主観的な面で貧困を測る。SDGsでの貧困のへの取り組みについては、前者の3つが近く、幸福度のような主観的な貧困については言及されていない。しかし、幸福への考え方が多様化しているように、貧困も多様化していると考える。例えば、人間関係も貧困として捉えることができると考える。何不自由なく生活している人がいるとして、その人は友達や知り合いといったような頼れる人がいない。人間関係で孤独を感じている人にとっては、これは貧困になりうると考える。そして、この意見に対して、そのようなものは貧困に入らないと考える人もいるだろう。しかし、どちらかが正しくて、どちらかが間違っているなどということはない。主観的な貧困というものは、個人が貧困と感じるかどうかである。これについて、基準を設けるのはとても難しいだろう。不可能かもしれない。それは、人にとっての当たり前が「違う」からであると考える。そして、「同じ」貧困というものはなく、人によって異なるからであると考える。
 ここまで、貧困についてのみ考えてきたが、ほかの残り16の目標についても、その目標のゴールになるべき部分は人によって変わってくるだろうと考える。誰ひとり取り残さないという理念に対して、取り残されていると感じるかどうかは人それぞれであるという投げかけをすることは、揚げ足取りではなく、目指すべき道標になると考える。人によって取り残されていると感じるかどうか。これは、自分にとっての当たり前が満たされているかという問いでもあり、「当たり前の多様化」でもあると考える。当たり前の多様化は、SDGsの課題の多様化につながるだろう。あなたにとっての当たり前があなたの隣にいる人にとっての当たり前とは違うということを認識しなければならない。そして、当たり前が多様にあることを知り、ほかの人の当たり前を理解し、歩み寄ろうとする姿勢が必要になってくるのかもしれない。SDGsという世界規模の大きな目標は、あなたのすぐ隣にいる人を取り残さないための目標である。そして、自分が取り残されないための目標でもある。当たり前というものは、今後も多様化し、刻一刻と変化し続け行くだろう。その度に当たり前とは何か立ち返るに必要がある。今日のあなたにとっての当たり前が、明日には当たり前じゃなくなっているかもしれない。

 

篠田凜子 成城学園高等学校 3年生

 

 『SDGs』間違いなくここ数年で多くの人に認知されるようになった言葉であろう。高校生だけで考えると、SDGsを全く知らない人は少数派なのではないだろうか。それ程、少なくとも私の周りではSDGsの活動が流行っている。しかし、SDGsの基本理念を知る人はほとんどいないと思う。私自身、この小論文を書くにあたり、初めて基本理念の存在を知った。「誰ひとり取り残さない」視点から、改めてSDGs達成に向けて、私のような高校生に何ができるかを考えた。私は、地域に密着した医療提供をするために医師を志している。私の中で軸となっているSDGsのゴールは「すべての人に健康と福祉を」だ。この軸は「誰ひとり取り残さない」視点から改めて考えたとしても、ぶれないものである。この目標の達成にあたり、大きな壁となっているのが「貧困」だろう。今回は、高校生に身近な日本国内での貧困から生じる医療格差の問題に焦点をあて、考えることにする。
 まず、日本において「貧困」とはどのように捉えられているだろうか。恐らく、私たちの多くがイメージする「貧困」とは、「必要最低限の生活必需品すら手に入れることが困難で、衣食住がままらない」といったものだろう。このような1日1.9ドル(約200円)未満で暮らす人を、「絶対的貧困」呼ぶ。しかし、日本で実際に問題となっている貧困は「相対的貧困」と呼ばれるもので、自国の中で手取り年収が中央値の半分以下の人を指す。日本だと、4人世帯で年収約224万円以下が相対的貧困にあたる。日本の相対的貧困率は15.7%でG7(主要先進7ヶ国)の中で2番目に高く、7人に1人の子供が相対的貧困の状態にあると言われている。そのような貧困の中で苦しむ人たちに目を向け、日頃から問題意識を持つ必要があると考える。
 次に、先程述べた貧困から生じている医療格差と、問題の解決に向けた取り組みを提案する。現在の日本では恐らく、ほとんどすべての人に健康と福祉を「提供」はされていると思われる。しかし、保険証を持たない、医療費を支払えない、あるいは病院に行くまでの交通費がかさむなどの理由から病院にかかることができない人がいる。全国には全日本民主医療機関連合会や医療生協があり、貧困を理由に医療を受けられない人に対して、入院ベッド代を取らない、医療費の自己負担額を1割にするなどの活動を行っている。他にも、その地域に住む人と連携し、定期的に食料の無料配布を行ったり、駅前で生活の悩みや困りごとなどを相談できる「なんでも相談会」を開いたりしている。食料配布のボランティア学生は、参加者から「助かります」「本当にありがたい」などの声を多く聞き、受け取る方の笑顔を見ることができたという。また、参加者にアンケートをとることで、本当に必要としているものを知り、次の開催時の参考にしているようだ。
 私はこれらの活動が実施されていることを、彼らが主催する高校生向けの講習会で知った。貧困の中におかれる人々への具体的な支援活動だけでなく、その活動自体を多くの人に知ってもらうことも大切だ。そこから、地域の人々とのつながりが深まり、活動の規模が広がる。私たちは、このような活動に実際に参加したり、講習会で学んだことを積極的に拡散することで、「すべての人に健康と福祉を」提供するための手助けができるのではないかと思う。私は将来、学校で毎年行われる健康診断を活用して、地域に寄り添った医療提供システムを確立したいと考える。学校医をはじめとし、保健師や民生委員、児童委員などの協力も得て、地域住民にも無償で健康診断や相談会を提供したい。学校へ行くことは病院へ行くことより、アクセス面でも精神面でも抵抗の壁が低いのではないかと思う。また、生徒には医師からの健康指導や貧困による医療問題についての講義を行い、関心を高めたいと考える。あなたの暮らす地域にも、見えない貧困に苦しむ人がいるかもしれない。地域の人と少しでも多くの関わりを持つことで解決の道は開かれると思う。これは医療面だけに限らない。各々が考える将来と「貧困」は必ず交わるはずだ。自分の将来を考える時、貧困に苦しむ人たちのために何ができるかを考えることで、「すべての人に健康と福祉を」達成への道につながると思う。
 誰ひとり取り残さず、「すべての人に健康と福祉を」提供するには非常に高い壁があり、私たちにできることは少ないと思いがちだ。しかし、全ての人が問題解決のためにできることがある。まず私たちは身近な貧困、「相対的貧困」の中で生活する人々に目を向けることが大切だ。そして、誰ひとり取り残さない社会をつくるためには、医療を始めとし、教育や経済など様々な分野が垣根を越えて協力し合う必要がある。私自身は医療の面から、そうした社会を築いていきたい。

 

篠原彩音 茨城県立竹園高等学校

 

「誰ひとり取り残さない」という言葉からは、現状、取り残されている人がいることがわかる。では、誰ひとり取り残さないように一心になっている人がたくさんいる今、どうして取り残されている人がいるのだろう。
わたしは「取り残されている人」という漠然とした言葉を自分なりの言葉で言い換えることで、その疑問について考えてみようと思い、3つの言葉が浮かんだ。
1つ目は、「まだ問題が解決されていない人」。特に、現在、貧困に喘いでいる人やジェンダー不平等に苦しむ人など、SDGsについての政策や活動を広げる際にぱっと顔が思い浮かび、また、その対象にされる人達だ。しかし、以前は「LGBTQ+」を知らない人が多かったり、「隠れた貧困」などの言葉があったりするように、わたしたちが存在に気づいていないだけで、いまだに問題を抱えている人がいる可能性は非常に高い。それが2つ目の「『助けて』の声に気づいてもらえない人」だ。自分の悩みをどう発信すれば他の人に理解されるか分からず、1人で悩んでしまう人や、もっと社会に自分の抱える問題を認知されたいが、上手くいかない人達を指す。彼らにできることは不断の努力を続けることだろうが、わたしたちがしなければいけないことは、彼らを見つけることだ。なぜなら、多数派にとって生きやすい制度や価値観が中心となる世の中では、助けてを求める声に気づくことができなければ、わたしたちは現状維持に徹するだけで、知らないところで、わたしたちの無関心さや無意識の言動がその人を傷つけているかもしれないからだ。そして、3つ目は「自分の中の違和感に名前をつけられない人」だ。実際、わたしも小学生から中学校にかけて、将来の計画を立てる時は周りの女の子のほとんどが「結婚」を人生のどのタイミングかにしていたり、むしろ「結婚」と書いていないと「どうして結婚しないの?」と不思議がられたりした。ジェンダーについて学んだ今、私が当時感じたもやもやした感情は「女の子なのに」と自分を否定された気がしてしまったからきたのだと考えることができる。しかし、そのような違和感を感じたことがあるのは私だけではなく、「女子力」や「障害者」という言葉を不適切だと感じる人もそうではないだろうか。他にも、「シングルマザー」や「子どもの貧困」と聞いて、「自分もそうかもしれない」と思う、すなわち、違和感に名前をつけることができてはじめて、自分を責めているものや苦しめているものがわかり、自分と似た境遇や状況に身を置く人がいることを知る人もいる。もし名前をつけられなければ、周りと違うことを自分自身が受け入れることができなかったり、自分の気持ちや考え方をどう処理すべきかわからず、困り果ててしまう人がいる。だからこそ、知ることは大切であり、わたしは多くの人と自分の知っていることを共有し、知らないことを教え合いたいと考えている。
わたしは昨年度、SDGsカルタというものを作った。そして、これはわたしの考える「知ることは大切だ」という考え方に密接に関わっている。そもそも、SDGsカルタは、わたしの学校の位置するつくば市の身近な施設や食べ物に関する内容も織り交ぜながら作ったもので、小学生がSDGsについて知るきっかけになることを一つの目的としたカルタだ。はじめは生徒と教員の合計七人から始まった活動が、学校の友人や先生方、市の教育委員会の方々など多くの方々の協力もあり、今年の春には、同市の全小学校に配布するその過程はわたしに新しい気づきをくれた。「誰ひとり取り残さない」ために、すなわち、「まだ問題が解決されていない人」、「『助けて』の声に気づいてもらえない人」、そして、「自分の中の違和感に名前をつけられない人」をなくすために、 鍵となることは「人と人の繋がり」だということだ。家族をはじめとして、地域社会や、学校、会社などわたしたちは必ず何らかの共同体に属し、大勢の人と繋がっている。そして、 その共同体や人と人との繋がりは日本ないしは、世界中、誰一人残らずつないでいるだろう。だから、全員が取り残されないためには、全員がそれぞれの共同体で活動をすればいい。そうすれば、やがてその輪は大きく広がり、誰ひとり取り残さない社会になるはずだ。私や友人らが作ったカルタも、7人から始まり、多くの人を巻き込み、結びつけたものだった。もし小学生がSDGsカルタで遊んだことを親やほかの友達に話せば、輪が広がる。もしわたしたちの活動を知った他の市や学校が同じように自分の興味のあることや自分の住む町についてカルタを作れば、さらに輪が広がる。そうして、少しずつ、一人一人が輪を広げれば、さらに多くの人がSDGsだけでなく、それに関するたくさんの情報や話す機会が生まれ、知り、気づき、「誰ひとり取り残さない」社会が実現できるとわたしは信じる。

 

山田太郎(仮名) 高校3年生

 

私は今回、SDGsの17のgoalの内の4質の高い教育を、と5ジェンダー平等を実現しよう、この2つをメインにお話したいと思います。
First of all, let’s talk about sex. 私は今英語でセックスについて話し合いましょうと言いました。でもどうしてでしょう、日本でこの文章を日本語で言うことに対してとても抵抗を感じています。これを読んでいる方の中にも恥ずかしい気持ちになってしまっている方もいるかもしれません。これは日本がold-fashioned-thinkingつまり固定概念が深く根付いているからだと感じています。この固定概念のせいで本来は恥ずべきではない、性についての話が恥ずべき、ネガティブなものになってしまっています。sexと口に出していけない。いやらしい。男子に生理についてオープンにするべきではない。
日本ではこのようなさまざまな深刻な問題が浮き彫りになっています。緊急避妊薬、いわゆるアフターピルは医師の診療と処方箋が必要だったり、望まない妊娠が推定61万件/年あると言われています。また性暴力は大人に限らず、小学生でも被害のケースがあります。そして日本の性教育は2009年にユネスコが発表した「国際セクシュアリティ教育ガイダンス」を基準にしている世界からかなり遅れをとっています。この遅れによって日本では多くの人が取り残されていると言う悪い状況が作られてしまっています。
日本では性に対するネガティブさが深刻で、sexに対しての正しい知識、そして性犯罪を防ぐ方法などを十分に学ぶ機会、つまりビフォーケアが十分でない、かつ、性教育のようなビフォーケアを受ける年齢が遅すぎると強く感じます。そして万が一望まない妊娠だったり性犯罪に巻き込まれてもこのような日本の状況の中で、なかなか周りの人に話しづらく、警察に届出たり病院へ行くのも諦めてしまう場合もあります。これは気軽に相談ができる環境、つまりアフターケアが十分固定概念ではないからです。
私はこれからの日本の性への捉え方を変え、ビフォーケア、アフターケアを充実させるためのアイデアを考えました。
まずはビフォーケアのために教育を変えていきたいと考えます。私が学校教育で変えたいことは3つあります。 
一つ目に授業スタイルについて、一方通行型の性教育を改め、相互通行型にシフトしていくということです。そして授業中には同世代という横で性についての会話と、親や先生という縦の繋がりでの性に対するコミュニケーションの機会を増やすことが大切だと思います。ただ性に関する知識を聞くだけではなく、こんなシチュエーションにあったらどうするのかといったトピックをディスカッションしていくことで、もし悩みを抱えてしまった時でも、躊躇せずにオープンに話せるように慣れていけるはずです。
次に性教育年齢の引き下げです。私が初めてSEXについて学んだのは高校生になってからです。遅いと思いませんか?UNESCOが発表した国際セクシュアリティ教育ガイダンスでは、性教育は5歳から始めることが推奨されています。性犯罪は児童でも十分にあり得ます。小学生でも近年スマホを所持する割合が増え、外とのコミュニティとの接触の機会は増えていっています。 コロナの影響でオンラインでのつながりの機会も増えていっています。
最後に学校で行われる授業や子供が読む絵本のコンテンツの見直しです。私たちの高校の授業で使用されている教科書では、性行為に関する描写や説明がなくどのようにコンドームを使用するのか記されていません。対照的に、海外の絵本では、両親が性行為を行い自分が生まれたということを何気ない場面で描写しているのに対して、日本ではsexがタブーなトピックとなっているため描写されることがなく、子供が性交について知るのが嫌だと考えている日本の特徴ともなっています。実際に日本でも性について描写されている子供向けの絵本が出版されていますが、あまり売れていないのが現状です。
性教育とは人生の教育です。これらを成し遂げるために、性教育改革に関しての署名を集め、具体的なこの問題の解決策と共に文部科学省に署名を提出し日本の教育を変えていきたいと考えています。
そして私は性に対してもっとリアルに身近なものに感じられるような教科書を作ります。今の教科書ではコンテンツが薄く、sexについて少ししか触れられていなかったり、またコンドームを実際に触ることもないため、結局自分で情報収集をしなければなりません。
匿名で入室可能な”LINE OPEN CHAT”を使用して誰もが自分の問題を話し合える場を作ります。このLINE OPEN CHATはアフターケアとして利用者自身の親や友達に相談できないような怖かった体験を打ち明ける居場所づくりや、その様な体験を未然に防ぐための知識を与え、ビフォーケアをすることによって性の問題をお互いにオープンに話せない日本の性教育のあり方を変えるきっかけにしようと考えています。
これからの時代がさらにジェンダーレスな社会になると考えています。その中でも性への捉え方の改革によって全ての人にとっての居場所が設けられ、誰もが快適に性生活を行える世の中を作っていきたいです。
今回、私が勇気を出して性教育についてストレートに話しました。この行動が多くの人に勇気を与え、今世の中で取り残されている人、そして未来の世の中で取り残されてしまう人を減らせるようになると願っています。

 

糸川龍朗 横浜国立大学

 

私は誰一人取り残さないという視点の中で前提となる「誰が取り残されているのか」をたくさんの人が知って、理解するということが必要であると考える。そもそも、我々が生きている中で誰かを取り残している意識があったとしても前を歩いているその人には後ろが見えない、どれだけ離れているかは後ろを歩いている人にしかわからない。なぜ、そこで振り向くことができないのか。まずは、それを考え、振り向いて、手を差し伸べられるような人間になろうとすることが必要だと考える。特に、ここで提言したいことは相対的な貧困、目に見えにくい貧困に対して気づけるようにするかだと思う。その中でも子供の相対的貧困は大きな社会問題である。相対的貧困によって教育の機会を制約される子どもたちがいるという状況を放置してしまうことで懸念されるのが、貧困の社会的連鎖である。いわば、貧困が親世代から子世代に連鎖していくことが相対的貧困の問題点であるのだ。我々日本人は特に、貧困というのはアフリカなどで生じる絶対的貧困を思い浮かべるだろう。しかし、この相対的貧困は日本やアメリカなどの先進国でも確実に広がっている。日本では世帯間で所得に大きな差があるといわれている。2016年の世帯当たりの平均所得額は545万4000円だが、全体のうち61.5%が平均所得金額以下の世帯に該当する。ここから、平均所得に満たない世帯が6割以上であり、日本の所得間格差が大きいことがわかる。そして、この格差が教育環境にも差を生じさせることになった。一般的な家庭では、小学校の頃から学力向上のために塾や家庭教師を利用したり、私立学校を受験させたりすることが一般的になってきている。
一方で、年収が100万円〜200万円代の相対的貧困家庭では、こうした教育を受けることはかなり難しいのが実情である。この教育機会の差は、貧困家庭とそうでない家庭との間で、学歴、就職、収入などあらゆる面で格差を広げてしまい、ひいては連鎖を生む要因となるのだ。特に近年の離婚率の増加により、一人親世帯が増えており、より格差や貧困が拡大している。これらの取り残されている人を知る。知った上で理解することが必要だと感じる。知るためにも、まずは調査が必要で、その上でまず、教育環境の支援や学校の放課後を利用した環境整備が必要だと考える。そして、この環境の提供を貧困に陥っている人だけでなく、他の多くの人も利用できるようにし、貧困に陥っている人が利用しやすいようにすることが大切である。そもそも、この貧困への支援が何か悪いこと、税金泥棒のように扱われる世の中を変えることも後々必要になってくると思うが。そして、もう1つがひとり親家庭、特にシングルマザーの就労の機会を増やすことが必要である。最近では正社員や管理職としての女性の活躍は、ニュースなどで耳にするようになったが、まだまだ不足しているのが実情である。こうした連鎖を断ち切るために、正社員や管理職登用を進める、学歴採用重視主義を失くす、貧困家庭をサポートする福利厚生の充実、といった取り組みが企業に対して要求される。私は特にこの2つの支援を行うだけでも相対的貧困は減少すると考えられる。しかし、この相対的貧困は相対であるからこそ0にはできない。
それこそ、この資本主義社会では格差があってこそ成り立っているようなものだ。だからこそ、格差を小さくするための支援が大小にかかわらず必要で、差し伸べられた手が希望の光となるのは必然ではないだろうかと私は考える。

 

市村太耀 横浜隼人高校

 

 私は目標に少しでも近づくためには、知ること、そして身近な生活の中でできることをするのが大切だと考える。
 私が考えるに誰ひとり取り残さないという目標には誰もが平和を求めるだろう。笑顔で戦争のない豊かな暮らしは誰もが望む。しかし、戦争がなくなれば平和なのか。貧困がなくなればみんな平和なのか。間違っているとは言いにくいがそれは違う。なぜかというと、そもそも平和というのは何かの犠牲の上に成り立っているからである。私たちが住む日本では紛争がなく治安も比較的良い。だから、私たちは平和と感じるかもしれない。しかし、平和はすべての地域、人々にもたらさなければならない。同じ人間という立場で取り残されてしまう人はもちろん、身分や人種による差別や、優劣というものが存在してはならない。しかし、現実で存在してしまっている。私たちが感じている平和は表面上のものでしかないのだ。例として、中東やアフリカ地域では紛争が絶えないが、日本から遠く離れた地域のため私たちの生活に直接影響することはない。しかし、欧米諸国や日本を含む国の人は平和のためにテロ集団と戦っているのである。現在日本では幸いなことに紛争は起きていないが、私たちが住む日本でも、70年前は戦場となっていた。70年前に空爆が落とされた場所にいた人たちは一瞬にして命を奪われた。日本に住んでいる私たちにとって他国ごとでもなければ、他人ごとでもない。70年前の犠牲者がいての今があることを忘れてはならない。なぜなら、私たちがその時にその場所にいたら今の人生はないからだ。私たち一人一人が世の中を平和に変える希望の星なのだ。そして、ほんの小さな戦争でも、罪のない人たちの命が奪われたり、取り残されて紛争地域に住まざるを得ない状況に直面している人が今この瞬間にも存在していることを、心に留めておく必要がある。このことを解決するために国際ボランティア活動に参加したり、インターネットで募金をするといったことは簡単に思いつくが高校生の私には簡単に実行できない。しかし、私たちの身近な生活の中でできることがあるのではないか。
 例えば、今身近にいる仲間を大事にすることや、その仲間とSDGsの意見交換や調べ学習をし関心を持つこと。これらは、私でも簡単に実行できる。まず、仲間を大事にするというのは、小さなきっかけとして平和につながると考える。誰かに大事にされた経験は、誰かを大事にする。その連鎖が続いて誰ひとり取り残さない目標に近づくのではないか。地球規模で考えよう。今地球に住んでいるすべての人がある場所に集めて円になるとしよう。円になり手を繋ぐ。その時、全員が両隣にいる人に優しく接したらどうなるだろうか。きっと、誰もが人に優しく接し、人を大事にすると思う。もちろん全員が優しくできるわけではないのが現実である。しかし、せめて自分と関わりのある人たちの繋がりを大事にすることは必ず正の連鎖につながる。この理由から、その途中の段階として、今身近にいる仲間を大事にすることは、世界の平和につながるきっかけになる。そして、その仲間とSDGsについて意見交換をしたり、調べ学習をすることで、関心を持つことができ、目標達成のために、何ができるかを一緒に考えることができる。そして、その協力する力が世界を救えるのではないかと思う。しかし、ほんの少数の力だけでは世界を良くすることは難しい。だからこそ、私たち一人一人が関心を持ち、同じ地球人の一員として協力することが大切だと考える。とは言っても、地球には70億人もの人がいる。これだけ多くの人がいれば、意見の食い違いや、対立が起こるのは仕方ないかも知れない。だからといって、自分たちの価値観を相手にぶつけたり、ねじ伏せるのは違う。もし対立が起きるのであればお互いの意見を尊重し、冷静に議論するスキルを身につけることが大事だと思う。
 最後に、私が信じている言葉として「正義は勝つ」という言葉がある。世の中には様々な悪が存在する。私たちはあらゆる立ちはだかる悪に負けてはならない。そして、悪に染まってはならない。人には人として踏み外してはならない道がある。その道には正義があると思う。私たち一人一人が正義感を持つべきだと私は思う。その正義は世界全体の平和を守る。結果として、その平和は誰ひとり残さない目標を達成させる。どんな状況でも私は正義の味方でいたい。そして、私は正義が勝つ世の中になってほしいと心から思う。また、世界には生きたくても生きれなかった人がいる。だからこそ、自分はもちろん、他人の命を粗末にしてはならない。一人一人の命を大切にし、人のために何ができるか日々考えていきたい。 

 

山﨑美桜 横浜隼人高等学校 2年生

 

私はSDGsの基本理念を見た時に、取り残されるとはどのような基準なのか疑問を持った。私は、現在日本に住んでいる。その現状で、日々の生活に不満を持ったことは何一つなく、不自由も感じていない。しかし、世界中を通して見ると平凡な日常を送ることが出来ない人がいることをSDGsからしっかりと認識した。
国は、発達の状態によって区別されており、簡単に説明すると1番技術や世界水準が高い先進国と先進国から援助を受ける発展途上国、発展途上国の中でもさらに開発が遅れた後開発発展途上国の3種類である。
一般的な考えだと先進国の方が人々が望んでいる未来へは近いと考える。それは、技術が発展しているからだと考える。しかし、なぜ発展途上国の人々が遅れていると私は考えたのかその部分に疑問を感じた。それは、生活水準が高い国の方が取り残される側だとは考えず、開発が遅い方が当たり前のように取り残される側だと自然に考えたからだと思う。SDGsという世界が掲げた目標を知るまでは世界の状況などは地理の授業で習ったことしか知らなかったが自分自身には関係ないと思い調べようともしなかった。
また、発展途上国についについて触れてきたがこれは先進国にも同じことが言えると思う。先進国では技術が発達しておりその技術が人々にとっては良いが環境には、地球温暖化や酸性雨などの悪影響を与えることが多々ある。また、インターネットが一般に普及しているがためにSNSでの誹謗中傷などが問題になっている。また、技術が発達したがゆえに高い期待に応えなくてはいないようなプレッシャーに押し潰されてしまい病気になってしまう人や死に追い込まれる人も多くなっている。
発展が遅れているから、発展しているからといってどちらかが悪く、どちらかが良いわけではないと思う。すなわち、どちらにも欠点や利点がある。だから、私は「取り残される」という考え方のボーダラインが人によって違うので私には分からなかった。もし、自分自身が取り残されていると感じている人がいるのならばどこに違和感を感じるのかを理解できるように他の人や地域、国と自分や故郷を比較して見ると自分が望むものが分かるかもしれない。誰かにとっては当たり前のことが自分には当てはまらないことがある。人間は生まれる前に自分自身がどこに生まれるのか選択を与えられないと思う。だから、自分が置かれている環境を受け入れ不満を持った人が誰かを頼るのではなく、立ち上がっていく必要があるのではないかと思う。

山本聖奈 横浜国立大学都市科学部 2年生

 

SDGsの基本理念、”誰一人取り残さない”の理念を考えるにあたって私は、都市科学の観点から、SGDsの目標を達成する都市づくりについて考えました。そのためにはまず基本理念がどういった人を救済や支援の対象としてみるか、取り残さないとはどういう状態で達成されるのかを再考する必要があると考えました。
 まず、SDGsの対象についてです。私たち、多くの人は自分たちが生活に困ることは少なく、SDGsのでは発展途上国の貧困な人を守るものであって自分が対象になることはない。などという考えを持っている人が多いのかもしれません。しかし、実際に対象となる人や物は幅広いことがわかりました。SDGsの17の目標から考えると、絶対的貧困や相対的貧困状態に苦しむ人、女性、中小企業、人種や宗教などの違いによって損益を受ける人、身体的弱者(妊婦、子供、高齢者、障がい者など)、未来の世代、そして今と未来の動植物に対して、それぞれの問題を解決していくことを目指していくのではないかと思います。私たちはそのような人として支援を受けることもあれば、援助をする側になることもあり、隣り合わせの状態であるということを頭に入れておかなければいけません。今回は、それらの対象者を不自由のある状態から解決し、自立していく手助けをしていくための都市形成に必要なことを私は考えてみました。
 一つ目は貧困層、女性、身体的弱者、多人種、信仰の異なる人々に対して、マイノリティーの意見も取り入れ、街づくりや行政に生かすことです。たとえ時間がかかったとしても多種多様な考え、主張を持つ人々が共存するコミュニティーはクリエイティブに満ちた開放的空間を作ることになり、長期的に見るとよいことが多くなると思います。意見の主張しやすい空間が日本には特に少ないと思うので、正当な主張ができ地域参加を増やすためにも環境づくりが必要です。
 二つ目は、未来の住民と動植物に対して、持続可能な社会を作り今と未来の環境をクリーンに保つことです。持続可能な都市づくりはクリーンエネルギーの開発や省エネの意識をもつことももちろん大切ですが、都市計画の観点から考えると都市単位で共通のインフラを使う、都市単位で資源を循環させることが特に重要であり、目の付け所ではないかと思います。
 三つ目は、あらゆる対象に対して、福利厚生を手厚くすることです。日本のような先進国は経済成長がある程度仕切った状態なので、幸せであることの意味が必ずしもお金を稼ぐことやお金を持つことではなくなっているということではなくなっているようです。そこで、保険などの民間の制度を見直し、福利厚生で国民や地域の住民が安心して暮らせる環境を政府や自治体が提供するようにすることが必要であることおもいます。
 最後に四つ目は、中小企業や地域産業に対して、住民の雇用を職住近接の範囲で作り、地域内で経済循環を作ることです。
これらの開発が行き届いた例として、私はアメリカのポートランドという都市について注目し、個人的にポートランドの都市のモデルになるような取り組みや、成果について学習しほかの都市にも生かすことはSDGs踏まえた都市造成において重要であると感じました。
ポートランドは1970年にアメリカではじめて高速道路を撤去し乱開発を防いだ点から持続可能な内発的発展都市としての街づくりが行われ続けて来ました。メトロ政府などの中枢行政機関を設置し、統一的に交通インフラや計画性のある都市開発をすることによって職住近接型の街を形成しました。特に共有緑地や公園、交通システム、地域内でのエネルギーシステムを豊かにすることで得られた成果はとても大きく、それらが住民に共有されること、共同で使うことが増えることで前述したような持続可能でクリーンな環境に都市が進化してきました。多種な住民と共有することが増えることで異なる人種、宗教、性からなる多文化社会が実現します。
ポートランドだけでなく世界の各都市でそのような取り組みは行われています。共有される都市デザインによって誰も取り残さないような都市づくりに近づけるのではないでしょうか。私は行政や都市計画の在り方でSDGsの指標の達成に大きく貢献できると考えるようになりました。これから都市造成に携わる仕事をしてSDGsの達成に貢献できるような仕事をする人にとってこのような考え方は重要になっていくのではないでしょうか。

 

山本唯実 横浜国立大学 1年生

 

生徒としての私、友達としての私、家族としての私。全ての人が様々な顔を持っているが、「取り残されやすい」という観点で考えた際、私が真っ先に思い浮かべたのが「女性としての私」だ。世界の国々と比較しても、ジェンダーギャップ指数が極めて低い日本ではこの傾向が特に強い。
 「生理用品を軽減税率の対象に」という署名活動が行われたことはその最たる例である。中高6年間を女子校で過ごした私にとって、生理用品の必要性を周囲の誰もが理解しているのは当たり前の環境であり、世間の人々、特に男性もそのような認識を持っているに違いないと思っていた。しかし、実際の状況は決してそうではないという事実がこの署名活動によって浮き彫りになった。当時感じた衝撃は今でも忘れられない。
 また、「夫は外で働き、妻は家で家事や育児をする」というジェンダーロールに則った構図も、「女性としての私」が取り残される一因だと言える。その例として、育児に積極的に取り組む男性が「イクメン」という言葉のもとにもてはやされる風潮が挙げられる。もちろん男性が育児に励むことは良いことだが、そこにはどこか「手伝っている」という意識があるように思う。「夫婦2人の子どもなのに、なぜ夫ばかりが褒められるのか。妻だけではなく、夫も育児の主体ではないのか。」と苦悩する女性は多いだろう。さらに、このようなジェンダーロールが根強く残る中でのコロナ禍は、専業主婦の女性にとっては特に苦しいものだろう。実際、私はふと母がこぼした「この1年、家族以外と話してないな」という言葉にハッとさせられたことがある。家族全員が「家の外での交流」という手札を失った中、その痛手を最も被っていたのが専業主婦である母だったことに胸が痛んだ。
 では、こういった「女性としての私」が取り残される状況を改善するにはどうすれば良いのだろうか。
 そこで、私が提案したいのが「性教育の充実」である。ただし、ここで言う性教育とは、生物学的な側面のみを指すものではない。社会的な側面をも含む包括的なものである。
 私がこの提案をするに至ったのには、高校時代の保健体育の授業が大きく関わっている。私の母校は半世紀以上前から性教育に力を入れており、「LGBTQ+の方々がどのような悩みを抱えているのか」「いかにしてジェンダーロールは形作られたのか」「女性の意思で避妊をするにはどのような方法があるのか」などといったことまで学んだ。その結果、最近では「自民党「LGBTは種の保存に背く」「道徳的にLGBTは認められない」発言の撤回と謝罪を求めます」という署名に参加するなど、人一倍ジェンダーなどについて強い興味を持つことができている。
 しかし、カリキュラムの都合上、現時点で上記のような内容にまで踏み込んだ授業を行うことは厳しいだろう。それでも、私は高校時代に抱いた「これは誰もが生きる上で絶対に知っておかなければならないことだ」という危機感に自ら蓋をすることはできない。前述の生理用品についての理解不足は、「そもそも生理とはいかなるものか」が十分に理解されていないことが原因だと言える。性別に関係なく快適に生きられる社会を構築することは、現在の日本にとっては急務だ。柔軟な性教育を通してそれが実現されていくこと、そしてこの小論文がその第一歩になることを切に願ってやまない。

 

山田菜月 横浜国立大学

 

 私は、個性や価値観の違いで「取り残される人」について取り上げていきたいと思います。
 個性や価値観は人それぞれ違います。私は、日本という平和な国で何一つ不自由なく育ってきました。毎日を生きるのが困難である人と比べると、とても恵まれたと思うし、そのような人のことを考えると、不満を抱いたり、文句を言ったりしているのが情けなく、何だか申し訳なくなります。しかし、平和な国で生まれ育った私でも、辛いと感じたり、悲しいと感じることは多々あります。そのような感情を抱いてはないと言われてもそれは不可能だと感じます。その理由は、人それぞれ抱く感情の基準は違うからです。生活が困難な人に置き換えると辛いと感じる基準は低いかもしれないし、幸せだと感じる基準は高いかもしれません。しかし、その基準というのは、変えようとして変えることができない、一種の個性・価値観だと思います。貧困を個性や価値観で片づけるなという意見もあるかもしれません。だけど、私は柔軟に基準の違いは個性だと考えようと思います。生活を送るのが困難である人達も、貧困層と位置付けられ、可哀そうだとか気の毒だなどと思われることや、常に被支援者と捉えられるのは嫌だという考えもあるかもしれません。このような考えも個性や価値観です。このように、個性や価値観の違いは、感情の話に限って起こることではありません。考えや好み、感性、性格など様々なことに当てはまることだと思います。このような視点から「取り残される人」について考えていこうと思います。私は、このような個性・価値観の違いについて考えることがあります。
 私は、少し変わった好みをしています。カラフルなものや形の変わったものなど、他の人があまり好まないようなものが好きです。私は、このように他の人と違うもの好むことを嫌だとか変わりたいなどとは思っていません。むしろ、自分の好みを誇りに思っています。しかし、周りの反応は少し違い、そのようなものを身に着けつけたり、持っていたりすると、好奇の目で見られることや、冷たい目で見られることが多くあります。私の他のにも、街でロリータファッションをしている人が、歩いている時に「うわー。」「あれはないわ。」などと無慈悲なことを言われているのを見たとこがあります。このような経験から、人と違うものを身に着けていたり、持っていたりすることは、全員ではないものの、多くの人からあまり良い印象を持たれていないと感じます。「普通」であることを求められていて、自由に好みを表現することを煙たがられているように感じます。私は、このように自分の個性・価値観に偏見を持たれ、否定されたときに「取り残されている」と感じ、自分の好みが尊重されないという寂しい気持ちになります。違うことを好むこと、つまり、自分の個性・価値観を表現することは悪いことなのでしょうか。
 このようなことは、「普通」という正解の決めつけ、個性や価値観の決めつけだと思います。同じく、上記に示したような、貧困層だと位置づけられたり、被支援者だと捉えられ、不憫に思われることも、個性や価値観の決めつけだと考えられます。このように、勝手に「普通」を定義づけられ、その普通に当てはまらない人は、違う枠に入れられ、偏見の目で見られる。これは、起きていいのことなのでしょうか。起きていいはずはありませんし、そもそも、そのようなことは起こり得ないことだと思います。個性や価値観は一人ひとり異なるはずで、「普通」の決めようがないからです。もし、何かの「普通」が大多数の意見だとしたら、それには何らかの妥協が含まれているものです。意見の完全な一致などはありえないことだからです。 
 個性や価値観は一人ひとり違うもので、正解も不正解もありません。先述のように、「普通」というのは妥協案であり、自分の個性・価値観を捨ててまで、重要視されることではありません。他人の決める「普通」が正解だとは思い込まず、自分の個性・価値観を大切にするべきです。自分の個性・価値観を表現することは悪いことではありません。むしろ、そのようなアイデンティティは尊重は「取り残される」ということを無くすために、とても重要なことで必要なことです。個性や価値観が尊重されるような社会、「取り残されてる人」がいない社会が造られることを願っています。
 

山田来夢 横浜隼人高等学校

 

私は最近、SDGsという存在を知りました。そこでSDGsが行っている活動について調べてみました。私の中でSDGsは「世界中の人々が今よりも暮らしやすくなるような目標を立て、取り組む組織」と捉えています。今回のテーマである「誰ひとり残さない」という言葉を耳にしたとき、世界には食困っていたり、学校に行けていなかったり、と多くの人が様々な悩みをかかえているのだと改めて感じさせられました。そこで、現状の格差を改善するために今私たちに出来ることを考え、お友達とグループワークを行いました。グループでは主に4質の良い教育 について話し合い、識字率やジェンダー格差、学校に通うことのできない子供達がいるのは何故か、を調べ、新聞を作りました。答えとして、学校に行けない子供は学校に行くほどお金に余裕がない、又は学校が近くにない、先生がいない、でした。日本では学校に行けていない子供はあまりいないと思います。なので「学校に行けていない人がいる」という問題自体を真剣に考えたことがなく、私たちにとって考えることの難しい課題でした。そこで私は他国に目を向ける機会を増やすことが、格差を減らす改善策だと考えます。日本は比較的経済格差が少なく、平等な国なので日本以外の国に注目することで日本では無いような問題を知ることができます。さらに日本のように格差が少ない国と格差の激しい国を比べることで経済の仕組みの違いなどを明確にわかることができます。また、今の世界の現状をより多くの人に知ってもらうことも、解決策のひとつだと思います。「誰ひとり残さない」ということは「日本人」という区切りではなく、「人間」が皆平等で、最低限の生活を送れるということだと思います。「日本人」に限らずこの地球に生きる全ての人が今の現状を現実的に受け止め、行動することで、少なくとも助かる人は現れると思います。まだ日本の学生は、私のようにSDGsを知らない人、格差の酷さを身近に感じたことがない人がほとんどだと感じています。そんな学生たちにSDGsのやっている取り組みを知ってもらい、協力してもらうことで、格差の少ない国も、格差の多い国の立場となり考えられ、改善するチカラになれると思います。これからの未来を背負う、任される私たちに必要なことは、世界中のあらゆる問題と向き合い、積極的に意見を発信することです。多くの人が自らの意見を言うことで、誰ひとり残らず、平等な世界に近づけると考えます。

 

山田幹太 東大和市立第二中学校

食も環境も地球の未来も考える

「この子は栄養失調が原因で死んでしまったんだ。」
青年海外協力隊としてアフリカのベナンで生活していた担任の先生が見せてくれた写真とその言葉をきっかけに僕は食糧問題について関心を持った。世界では約6億9千万人が飢餓に陥っており、それに加え新型コロナウイルスの影響で、さらに1億人が栄養不足に陥ると予測されている。
 一方、日本では毎年612万トンの食品が廃棄されていて、それは東京ドーム約5個分の量にあたる。正直、僕も給食を残してしまうことが多々ある。児童生徒の年間食糧廃棄物は17キログラムと無視できない量になっている。「食料が足りない発展途上国と食料が余る先進国」この差を埋めるためにはどうしたらいいのか。僕はこの問題の解決策を考えてみることにした。
 そして1つ結論が出た。そもそも輸入する量が多いのではないだろうか。
 日本は年間1900万トンもの食品を輸入している。しかし、その3分の1は廃棄されてしまっている。例えば、コンビニでは毎日弁当を39個仕入れて、そのうち5個は廃棄してしまっている。
 また、弁当の食材は世界の様々なところから仕入れられていて、弁当一つ分の食材の流通にかかる距離は16万キロにもなる。これは地球を約4周する距離だ。輸入をするときに流通が難しい規格外野菜などは廃棄されてしまうため、そこでもロスが起きることになる。 そして、流通時には輸送車両などから二酸化炭素を排出してしまうため、輸入が多ければ多いほど環境を悪化させてしまう。
 さらに、外国産の食品は国産のものと比べて安いので売れる。そうなると、生産をする人たちは少しでも低額で販売するために大量生産をする。しかしいくら安くても量が多いと売れ残ってしまい「売っては捨てる」という社会システムができてしまう。このシステムは生産にかかる費用が無駄になり、廃棄時に出る温室効果ガスによって環境悪化が進んでしまうため、地球の未来を考えるとあってはならない。これからは「売っては捨てる」ではなく、食も環境も地球の未来も考えた形にしていくべきだ。
 今、僕の中学校では近くの子ども食堂に提供するジャガイモを育てている。生産者と消費者が交流できれば、ニーズがわかり、必要な分だけ食品を届けることができる。そうなれば量が多いことが原因で廃棄される食品を減らすことができる。さらに、流通をするときに出る二酸化炭素の量も減り食料自給率も向上する。地産地消をキーワードに、食べ残しによる食品ロスの削減につながってほしい。
 誰1人取り残さない社会を作るためには「世界の食糧問題」や「大量の食品ロス」などを見直すだけでなく、自分の生活を変えていくことが大切だ。なぜなら僕たちの生活と世界環境は深くかかわっているからだ。そこで、自分の生活で変えられることはないかと考えたとき、一番に思い付いたものは料理だ。僕は毎週一回だけ夕ご飯を作っている。自分が作った料理を「おいしい」と言ってもらえることは何よりもうれしいことだ。しかし、多く作りすぎてしまった日は、残されてしまうので悲しくなる。だから僕は家族が食べきれる量の料理をおいしく作れるようになりたい。

 

山上桃香 鎌倉市立小坂小学校 6年生

 

 3年生の時、海岸に打ち上げられたクジラの死体から大量のプラスチックごみが出てきたというニュースを家のテレビで見ました。私はそのニュースを見て、疑問に思うことがありました。それは、そのプラスチックはどこからきて、どのような被害があるのかということです。
 私は、その疑問を解決しようと、インターネットで海洋プラスチック問題に関連することを調べてみることにしました。そうしたら、このようなことが分かりました。私達が生活の中で消費するプラスチックが海に流れ込むことにより、海に住んでいる魚や鳥が被害を受けたりしているということです。私はそのことで、プラスチック問題に興味を持ちました。
 以上のことから、私は、皆さんに次の提案をします。

 最初の提案は、「使い捨てプラスチックを出来るだけ使わないようにする」ということです。この理由は、いきなり明日から全てのプラスチックを減らすのは難しいから、生活する上で使うプラスチックの中で、一番身近で手を付けやすい使い捨てプラスチックから減らそうと思ったからです。 具体的には、次のような4つのことに取り組んでほしいと考えています。
 1つ目は、レジ袋を使わず、マイバックを持ち歩くことです。
 2つ目は、ペットボトル製品を買わずに、マイボトル(水筒等)を持ち歩くことです。
 3つ目は、よくカフェやお店にある飲み物を入れたりするプラスチックカップではなく、ステンレス等でできたマイカップを使うことです。
 4つ目は、プラスチックストローを使わずにそのまま飲むか、使う場合にはマイストロー(市販の木やアルミでできたもの)を使うということです。 
 これを実行することで、場合によっては、普段の生活の中にある使い捨てプラスチックの量をいくらか減らすことができます。 

 次の提案は、「リデュース、リユース、リサイクル(3R)を積極的に行う」ということです。 これは、先程の提案と同じように、みんなが明日からにでも始めることができるような方法で、プラスチックごみを減らせるという理由からです。 
 具体的には、プラスチックの使用量を減らし、プラスチックを過剰に使った製品をなるべく使わない(リデュース)。有害ではなく、耐久性があるものを繰り返し使う(リユース)。リデュース、リユースができないような場合には、リサイクルをするといったことに取り組んでほしいと思います。

 最初に述べたように、今、プラスチックによる環境破壊が深刻になっており、海洋プラスチック問題によって漁業に関係している人達、魚料理をメインにしている店を開いている人達等が世界から取り残されてしまいます。又、直接でなくても間接的に私達も被害を受けることになります。誰ひとり取り残さないためにも、私が提案したことや、それ以外のことであっても、自分が出来そうなことに取り組んでみたら良いのではないでしょうか。

 

山崎佑誠 鎌倉市立小坂小学校 6年生

 

 みなさんは,家などで節電をしていますか。僕は家だけしています。なぜ聞いたかというと,エネルギーが原因で地球温暖化が進んでいます。みんなが節電を心掛けないと,より早く温暖化が進んでいってしまい,熱くなるだけではなくなってしまいます。例えば,異常気象が起きたりします。そして、自分たちが快適になるために,もっとエネルギーの使用量が上がっていき,地球が、生物の住めない死の星になってしまいます。そこで,僕はエネルギーを減らすために五つの提案をします。

 まず一つ目は電気を火力発電や原子力発電などから脱却して,再生可能エネルギーを主な発電方法に変えることです。一般的なのだと太陽光発電,風力発電,などが家庭でも設置できます。そして蓄電池などを繋げればある程度は電気だけ自給自足ができます。

 二つ目はガソリン車から、電気自動車、水素自動車、ハイブリットに変えることです。なぜ電気自動車、水素自動車、ハイブリットに変えるかというと今は、ガソリン車が一般的でハイブリットなどが少ないからです。その理由は一般的なガソリン車より、値段が圧倒的に高額だからです。なので、ハイブリッドなどが流通するまで余っている場所などに木や植物などを植えたり、なるべく歩いたり自転車を使って買い物をするのがいいと思います。そして、土地を使うことになったら、植えていた木を切り、必要なものに活用したらいいと思います。

 三つ目は、家に誰もいない時に、エアコンをつけっぱなしにしない事です。夏になるとエアコンを使う人も増えると思います。例えば、家に帰る時間がわからないときなどで電気を無駄に使用していることがあります。エアコンは、1℃で電気を約10%も無駄に使用していることになります。なので、人がいない時に、エアコンをつけない用に心がけてください。

 四つ目は、テレビをついつい見過ぎてしまう事です。最近はコロナ対策で家に籠ることが増えているのでなおさら増えているのではないでしょうか。そのため、1日1回散歩などのために外へ出てみてください。ですが、汗をかいても良いように水などの飲料水も持っていってください。

 五つ目は、食材などの処分の仕方です。生ゴミの水気は、よくとりましょう。調理などで出てくる生ゴミを燃えるゴミなどを水を良く切らずに捨てると、良く燃やすために二酸化炭素が増えて、環境にかえって悪くなってしまいます。以上の事から、僕はエネルギーは、必要不可欠な資源だけれど、使いすぎずに再エネなどを使って二酸化炭素をなるべく出さずに、そして、生ゴミや電気などを無駄にせずに大切にしようと思いました。

 

三田琳太郎 北海道大学 2年生

 

 「取り残される人」、それは先進国のワーキングプア層、すなわち「働く貧困層」であると考えた。今日、一般的に先進国の人々は世界的に見れば裕福になり、歴史上でかつてないほど豊かな生活を送っているように思えるが、実際はそうではない。たとえば日本では、バブル崩壊後の就職困難な時期に大学を卒業した、いわゆる就職氷河期世代は、家庭を築くことを望んだとしても、いまだに実現できないような経済状況におかれていることが少なくないのである。
 しかし日本におけるSDGsの取り組みは、ほとんどが「気候変動に具体的な対策を」や「ジェンダー平等を実現しよう」に関連するものばかりであり、最も重要であるはずの「誰も取り残さない」という目標がないがしろにされている。というのも、環境やジェンダーに関する目標は、企業や政府がそれほど予算を割かずに達成できるうえ、近年の社会の関心もそれらにあり、環境問題やLGBTQ差別の対策に取り組んだ方が世間ウケもいいのである。一方、先進国における貧困層の撲滅というのは、環境やジェンダーと比較すれば実態を捉えにくいうえ、非常にカネのかかる問題であるために対策が進んでいない。これには、自由競争を特徴とした現在の社会に蔓延る、自己責任という考え方も大きく影響しているように考えられる。
 さらにSDGsの掲げる目標はどれも、発展途上国の貧しい子供たちや、迫害された難民に焦点が合わせられており、就職氷河期世代に代表される「働く貧困層」などは国内問題として当該国が自力で解決することが望ましいという考えがあるように思われる。つまり、国際的な協力によって解決すべきであるはずのSDGsの諸目標のなかでも、「働く貧困層」といった先進国特有の問題は、国内問題として処理することが暗に期待されているように感じられるのである。しかし、当該国による取り組みだけでは、先進国における貧困層を撲滅することはできない。というのも、上述したように政府、そして企業はカネのかかる貧困問題への取り組みに前向きではないうえ、SDGsへの取り組みを声高に叫ぶ企業が非正規雇用や劣悪な人材派遣といった「働く貧困層」の根源を生み出していることも少なくない。
 以上のように、「働く貧困層」を取り残さないためには、企業や政府が積極的に貧困撲滅に向けて取り組んでいくことが要求される。具体的には、正規雇用の拡大による雇用の安定性向上、最低賃金の底上げなどが考えられる。また、企業や政府といった国内での動きだけでなく、同様の問題を抱える国々が足並みをそろえて対策していく必要があるだろう。

 

三竹莉理佳 横浜隼人高校

 

私は「誰一人取り残されない社会」を実現するためにはみんなが現状を理解する必要があると考える。私はSDGsについて調べるにあたって医療を主なテーマとして調べた。今現在発展途上国と先進国に医療の格差があるのも、先進国内でも医療の格差があるのも全て人々の現状理解が足りていないからではないかと思う。医療の格差が生じる理由としては貧富の差、衛生環境、アクセスの悪さなど様々な要因があるが全ては貧富の差が原因となっているのではないかと思う。一般的に1日の生活費が約200円未満の人が貧困と言われ、世界には貧困と言われる人が11人に1人いる。現在世界の人口が約78億人で貧困と言われる人が約7億人いるということである。ここで私は「誰一人取り残されねい社会」を実現するために私たちができることの一つとして募金をあげる。もし貧困ではない残りの71億人の人たちが10円ずつ募金したとしたら710億円のお金が集まることになる。一人一人がたった10円誰かのために募金するだけで病院ひとつを作るお金が集まるということだ。十分に医療機関を受診できて十分な暮らしが送れている人々の中には医療格差の現状を知らない人も少なくないはずだ。だからSDGsのような活動をもっと世の中に広めていく必要があると思う。そして現状を知る人々がさらに広めていくことで誰かが誰かの心を動かすことにつながるのではないかと思う。もうひとつ「誰一人取り残されない社会」を実現するための行動として現実から目を背けないことが必要だと考える。例えば道で苦しそうにしている人がいたらその人を助けようと行動できる人と、その場から逃げてしまう人がいると思う。また、世界には様々な環境問題があり食品ロス、水質汚染などは私たちの小さな心がけで改善できることが多くある。でもそれを知っているのにまだ食べられるものを捨ててしまう人、海洋生物にとって有害な物質を流してしまう人がいる。このようなことは医療の格差にも当てはめることができる。「今自分は十分な医療を受診できているからそれでいい」と考える人がいるのではないだろうか。そのような人たちにその考えはま違っている。と言い、協力を煽る力と影響力が私たちにはない。だから私は一人一人が自分で調べて自分で理解し、その現実から目を背けないことでしか世界を変えることができないと考える。私は今回学校から提示された課題をきっかけに世界の医療の現状を知りこれからの自分の行動を見直すきっかけになった。しかし学校でこのようなことを学べない人が世界にはたくさんいると思う。そういった人たちのために学ぶ機会を頂けた私たちが事実を理解し目を背けず、誰かに伝えていくことができれば「誰一人取り残されない社会」への大きな一歩となるのではないかと思う。

三戸幸美 横浜国立大学 1年生

 

 新型コロナウイルスが世界的に感染拡大し始めた2020年4月頃、私はカナダ・バンクーバーにて高校留学中であった。ここでは、その当時日本人として感じた「疎外感」について現地での体験を踏まえながら紹介し、表面化しづらい場面でどのように「誰ひとり取り残さない」社会の構築に貢献できるのか考察していきたい。
 公共の場でのマスク着用の義務化などによって今でこそ外国人のマスク使用率は高まったが、コロナ禍以前の北米にはその習慣がなかった。これは「マスク=大病」という固定観念が引き金となっており、しばらくの間カナダ国内では根強いマスクへの拒否反応が続いていた。一方で、日本人は日頃から風邪予防・冬にはインフルエンザ予防としてマスクの着用がマナーの1つであるかのように身近な存在であったことから、自分がうつらない・うつさないためにも徹底した感染対策を試みたかった。しかし、現地の人々と共存していかなければならない状況でマスクを着用することはどこか「文化を否定するような感覚」に陥り、着用の有無で葛藤する日々が続いていた。実際に、バンクーバー市のバス内でヨーロッパ系の男性がマスクをしていた中国系の女性に対し「全ての始まりである母国へ帰れ」と罵倒したとの報道があった(1)。このようなマスクの装着による人種差別的な被害を恐れて人目を気にしながら過ごしていたが、日本に残る家族には1人で抱える「疎外感」はなかなか理解され難く、健康維持に対する心配のゆえ外出時のマスク着用を強制された。
 このように誰もが体験したことのない事態と闘っていかなければならない中、文化の相違は人々に恐怖や不安を募らせ、周りと分かり合えない孤立した環境で過ごすという日々は非常に辛かった。これも一つ異国で生活する上での特別な経験ではあるが、それによって過度な精神的ストレスを一人で抱え込んでしまう人々を社会に「取り残す」ことは絶対にあってはならない。こうした文化的価値観の違いから生じる「疎外感」をなくし、異なる人種と共存するためには「個人の尊重」が欠かせない。これを実現させるために私ができる第一のことは、ものの考え方の多様性を受け入れることではないか。家族や友達であろうが、生まれ育った国や地域が異なる他人であろうが文化に正しいや間違いは存在しないため、思いやりを意識したコミュニティ作りを心がけない限り異文化間で「誰ひとり取り残されない」社会を構築することは不可能である。

 

笹岡春花 大学生3年生

『生きづらさの根底にある社会の暴力。その社会に生きる私たち』

 日本には従来から社会の根底に根付く、暗黙の了解や当たり前がある。その「普通」から外れた人は「異質」として認識され、偏見や差別が生まれている。問題は、差別的な言動をする当事者がそれを差別だとは気づいておらず、無意識に恩恵を受け、差別を受ける側も自分が社会の暴力の犠牲になっていることを知らず、疑わないことだ。例えば、ジェンダーに関する偏見・制度的な不備、子どもの貧困の連鎖、精神的な孤独を抱える人への誹謗中傷など、「その人の努力がたりない」「しょうが無い」と、均等な機会が与えられない構造的な暴力を、どうしようもない自己責任という言葉で片付けられている。その社会に生きる私たち自身が、誰かが生きづらさを感じる社会を創っている。「生きづらい」という声が届かない、声なき声が存在している。
 常識を疑い考えることを放棄し、自分の当たり前フィルターで見る正しさで他者を評価し、知らぬ間にエイリアンと同胞の境界線を設け枠でくくっている。自分たちの価値観のアップデートをせず、頭ごなしに異質な価値観を否定し排除しようとする。批判を恐れ、ポリティカルコレクトネスの言葉ばかりを並べて、本質的な社会の問題を深く対話し、根本的な議論をすることから目を背けている。その上で、「考える=正義」であるかの疑問も生まれる。本質を考える人だけが恩恵を受ける社会は、格差の再生産をうむことになる。
 人間みな生きていれば違う経験を積み、個性を持っている。もっと生きることや人生で小さな楽しみ・幸せを感じる社会であっていい。正しさと同じように、幸せ自体も主観的で、そもそも他者への暴力、想像力の欠如は、自分自身をも殺してしまう。今目の前の人のこと、世界の人、歴史上の人、未来の人、自分ではない誰かを思えば、無関心や無知により見えない壁を取り除き、不安・憎悪・攻撃的な言動を慎むことができる。無関心は不安を生み、不安は誰かを信じることをできなくする。いずれ憎悪は憎悪を生む。それは国境や時空を越えて、人への暴力となる。相手を思いやることは、自分を助ける方法にもなる。自分が辛いときは、あなたを思う他者があなたを助けるだろうから。
 「誰も取り残さない社会」は、ひとりひとりの価値が軸に確立し侵害されず、自分の価値判断で他者を否定しない社会だと思う。「受け入れる」ことは難しいが「認める」姿勢を持つことはできる。多様な生き方を認め、「生きたくない」から少しでも「生きてみよう」と思える社会を築きたい。

 

作田詩織 琉球大学農学部卒(21卒)

微笑みの国タイでの中進国ならではの取り残し「移民の子ども達に幅広い選択肢を」

タイはASEANの中ではシンガポールと並んで経済的に発展していると言われています。そんなタイは、途上国よりも先進国に近い、中進国と言えるでしょう。

私は東南アジアが大好きで、中でもタイが一番好きです。私は元々貧困問題に興味があり、大学時代は、東南アジアで海外ボランティアをしたり、孤児院やスラムを訪れたりしていました。

タイの孤児院やスラム等の貧困地域をまわっていたとき、タイは中進国であり、都心と地方の差が激しいからこそ、そこの子ども達は外部との差に苦しむこともあるのだなということを知りました。
それまで東南アジアで貧困地域を訪れていても、子ども達はみんな一瞬一瞬を大事に楽しんでいて、私はその子達からたくさんの刺激をもらいました。
全てを見ることができたわけではない中でも、タイではカンボジア等他の周りの国との差を感じました。
都心等外部が見えやすいからこそ、外と比べることで取り残されたように感じる、タイのように途上国とは言い難い中進国だからこその問題もあるのだなと思いました。

私は、タイで子ども達とタイの大学生と日本の大学生を混ぜたイベントを行ったとき、子ども達が自国や他国の大学生と交わることで少しだけ選択肢が拡がっている場を見て、小さなことからでも、発展スピードが速い都会に比べ少し取り残された分の差を埋めることができるのではないかと思いました。そして、そんな事例を一つでも創ることができたら、その事例をもとに他の場所で同じように取り残されてしまった子ども達の希望になれるのではないかと思いました。私の今行っていて、今後もっと加速して行っていきたい活動はそんなところから始まりました。

ミャンマーとの国境であるタイのターク県は、東南アジア一移民が多いタイの中でも、移民学校が集中しています。この場所の移民の子ども達は、自分の親が日雇い等の不安定就労で生計をたてていることで、自分もその道をたどる確率が高いことを幼いながらに察知しています。子ども達18人にヒアリングをしたところ、9割の子ども達が将来は家族を十分に養うだけの必要最低限の収入を得たいと答えました。そのうちの8割以上は、自分のやりたいことをもっていました。ヒアリングに協力してくれた子ども達全員が、学校での勉強は大好きだと答えました。

私は、自分が活動を通じ関わり続けているタイで、理不尽な環境下に生まれたというだけの外因的要素で、移民の子ども達が取り残され将来の選択肢を狭められてしまう社会の現状を変えたいです。この子達が、真面目で向上心があるという強みを生かした仕事につけるようにコーディネートしたいです。その先に、「子ども達の未来の選択肢が外因的要素によって狭まることがなく、未来に希望を持って生きられる社会」を創りたいです。

私がこの世の中で一番許せないことは、「子ども達の未来の選択肢が、生まれた環境等外因的要素によって狭められてしまうこと」です。子どもは好奇心旺盛で、自由な発想を持っています。本来、より良い世界にするためには、そんな自由な発想を持っている子どもの芽を潰さず、子どもなりの目線で考えているさまざまなことを引き出す必要があると思います。にもかかわらず、生まれた環境等の本人が自分の力ではどうすることもできない外因的要素によって、初めから選べる選択肢が少ないと、子どもはそれがわかったときから芽を伸ばすことを諦めてしまいます。私は、今後、外因的要素によって思うように自分の芽を伸ばすことができずにもがいている子ども達の芽を一つでも多く引き出したいです。

今まで途上国の子ども達と関わってきて、子ども達の視点はいつも私の世界を拡げてくれました。世の中を良くするために必要なものはいつだってイノベーティブな発想で、それを一番持っているのは子ども達だと思います。

私はこれからも、中進国で支援等が入りにくいならではの子ども達の取り残し等、子ども達を外因的な要素によって取り残さない社会にしていくために活動を続けていきたいです。

 

阪本活美 開智高校 高等部 3年生

 

 5年前、私は両親の仕事に同行し、初めてアフリカ大陸の東に位置するタンザニアという国を訪れました。日本以外の国を訪れるのは初めての経験で、飛行機の中では、タンザニアがどんな国なのか、楽しみと不安と緊張でずっとドキドキしていました。
空港に着くと、とても気さくな現地の人が車で迎えに来てくれて、その人の運転でホテルまで向かいました。空港からの道はコンクリートできちんと整備されていて、多くの車が走っていました。大きなショッピングモールや建設中の橋なども見かけました。その人の話によると、日本や中国、EUなど、海外からの支援で建設されているものも多いそうです。世界の国々が協力し、助け合っているのだと、少しうれしい気持ちになりました。タンザニアの街中は、私が想像していたよりもはるかに発展していて驚いたことを今も覚えています。
しかし、車が大きな交差点で止まった時、道路で物乞いをしている人を見かけました。とても痩せていて、身体に障がいを持っているようでした。テレビや教科書の写真で目にしたことがあり、きっとタンザニアにもいるのだろうと思っていましたが、それでも衝撃を受けました。一方では道路や大きな建物が次々と建設され、こんなにも発展しているにもかかわらず、他方では、車が多く行き交う危険な状況で物乞いをする人が数多くいる現実。それは貧富の差がはっきりと目に見える形で現れていました。その後も、市場や駐車場で物乞いをしている人を何度も見かけましたが、私は何か声をかけられたり目が合ったりすると、どうしていいのか分からず、思わず目を背けてしまったり最初から目を合わせないようにしてしまいました。彼らの、こちらに訴えかけるような目が脳裏に焼き付いて頭から離れず、どうするのが正解だったのだろうかと何度も考えました。お金を持っていたならば、少しでも助けになることを期待して、お金を渡した方が良かったのか。それとも、その人に一生お金を渡し続けるということが出来ない限り、何の解決にもならないのだから、渡す必要はなかったのか。今でも、正しい答えは分かりません。
 ただ、ここにいる人たちが必要としている支援は、道路を整備したり橋を建設したりすることだけではないと感じました。もちろん、そういった支援も必要です。ですが、海外からの支援による急激な発展は、そこに住んでいる人々を置き去りにしてしまう危険性もあると思います。一見、発展したかのように見えても、それは、上部だけの発展であり、その国の格差を広げてしまっているのかもしれません。『誰一人取り残さない』このSDGsの理念を知った時、この考え方に基づいて世界の国々が協力し助け合えば、性別や人種、職業、障がいの有無などに関わらず、だれもが生きやすい社会を築けるのではないかと思いました。
そして、今の自分に出来ることを考えたとき、まず、自身の経験を通して感じたこと、学んだことをより多くの人に伝え、知ってもらうことだと思いました。周りの友人に、アフリカに対するイメージを聞くと、貧困・貧富の差、紛争、治安が悪いなどのマイナスのイメージが必ず挙がります。また、当然と言えば当然なのかもしれませんが、どこか他人事のように話している印象を受けます。「海の向こう側、日本から遠く離れた場所の問題は、紙の上、テレビの中の話」そう考えている人は少なくないのではないでしょうか。事実、タンザニアを訪れる以前の私もそのようなステレオタイプでした。実際の状況を目の当たりにしたからこそ、これほど身近な問題としてとらえるようになったのだと思います。世界で今何が起こっているのか、その状況や実体を知らなければ、協力することも手助けすることもできません。世界で問題となっていることをただ漠然とした知識で知っていたとしても、そこから目を背けていたら、いつまでたっても解決には近づけません。私も、世界の問題について知らないことばかりです。だからこそ「世界で今何が起こっているのか」という社会の動きを
学んでいます。
 先日「タンザニアの子ども達に絵本を送るというプロジェクト」のクラウドファンディングが実施されました。この活動には私も5年前から参加してきました。プロジェクトの支援の輪を広げると同時に、友人や先生方にタンザニアについて伝えたいと思い、学校長に許可を取り高校で広報させて頂きました。小さな事ですが、私にとって最初の、大きな一歩を踏み出すきっかけになりました。今、私たちはSNSを使うことで、誰でも世界に向けて発信することが出来るようになり、私自身の経験や学び・考えを発信することもできます。ここ日本では、私たちの生活と発展途上国とのつながりを感じる機会はほとんどありませんが、SNSという新しい情報発信ツールを使い、より多くの人達に発展途上国への関心を持ってもらえるように伝えていきたいと思います。

砂川しずく Dual BA between Sciences Po and Columbia University

 

「あなたは恵まれている国から来ている」と、大学で友達になったスペイン人の子は言う。確かに、彼女そう言った時に思い浮かべているだろう、貧困層や戦争などは他の国に比べてないに等しい。しかし、私はそれから様々な人や文化に触れてきて、思うことがある。近い将来、日本にいる私たちが取り残されるのではないだろうか、と。

大学での専攻科目を聞かれると私は一瞬言葉に詰まる。SDGsの根本となるサステイナブルディベロップメントを専攻している私でさえ、このコンセプトをいまだに簡潔に説明し、訳せないからだ。インターナショナルスクール出身の私が日本人の知り合いに自分の専攻を答えると一番よく返ってくるのが、「それは理系?文系?」、という質問。私たちは自分の知らないことを理解しようとする時、馴染みのある枠組みに当てはめて考える。これは情報を整理する上で非常に役立つ。様々な区分は優先順位の設定や時間短縮、物事の簡略化に日々重宝されている。

しかし、私はSDGsの掲げる「誰一人取り残さない」を目指すには、このカテゴリー化が一つの障害になっていると思う。SDGsやサステイナブルディベロップメントで向き合う問題は、決して簡略化できるような問題ではない。環境問題やコロナウイルス感染症のような公衆衛生問題を見ると一目瞭然だ。グローバル化とデジタル化によってこの複雑に交わりあっているこの世の中で持続可能な社会を目指すならば、もはや自分のコミュニティ、自分の街、自分の国だけで成し遂げられるものではない。従来の枠組みにとらわれず、それらを超えた物事の考え方をしなければ、持続可能な社会に転換できないだろう。

つけっぱなしで忘れたあの電気、お腹いっぱいで残したあの食事、口を衝いて出た専業主婦の妻へあの発言、外国の方に感じたあの抵抗。私たちの日常の無駄や贔屓が積み重なり、社会現象となり、温暖化や女性差別、過剰消費や人種差別などのバケモノと化す。そして日常に存在しているからこそ、子供達は親の行動を見て学び、世代間で受け継がれやすい。個人個人の家庭に届く政策づくりは容易ではなく、結果的に一番取り残されがちな人々が実際に取り残される、悪循環となる。一見恵まれている日本社会では、現状維持が好まれやすく、積極的な情報収集や変化を促す行動が少ない。それは、これからの世界の社会・経済活動から自分たちを除外しているのに等しいのではないだろうか?

この負のサイクルを抜け出すのに不可欠なのは、私たち一人一人の意識改革だと私は信じる。日常の積み重ねで私たちが作りあげているバケモノは、私たちが日常を変えて退治出来る。「最も取り残されがちな人」を想像する力が必要、と言う認識はだんだん浸透してきているが、これでは足りない。誰もが経験したことがあるだろう。プラスチック汚染で大量死した魚のドキュメンタリーを見た後に「自分も生活を改めよう」と決意したにも関わらず、数日後にはコンビニのプラスチックで個包装されたおにぎりを買ってしまう自分。これは貧困で苦しむ子供、海面上昇により住む場所を失った人々、十分なバリアフリー設備がなくて起こる事故などのニュースを観ても同様だ。掻き立てられた想像とそれに伴った決意が、日々の行動に継続的に反映される人は、ほんの一握りだろう。

ではどうすれば「最も取り残されがちな人」を意識した日常生活ができるだろうか?それには、自分や自分の大切な人たちが取り残され、助けが必要となり得る未来を受け入れることだ。自分が病気や怪我、年老いて思うように体を動かせなくなったら?自分の親が住んでいる場所が異常気象によって度々台風や地震に襲われたら?友達が女性であると言うだけで昇進のチャンスを握りつぶされてしまったら?子供が日本人であると言うだけの事実でいじめにあったら?家族が毎日食べている魚がマイクロプラスチックによって毒物となっていたら?どこかの誰かではない。変わっていくこれからの世界で、私たち全員がこれから先「最も取り残されがちな人」になる可能性があることを認識すべきだ。自分と関わりがある、と言う実感を高めることによって意識改革は始まる。

私たちがこれから先「最も取り残されがちな人」に属する時間は、今、既にそうである人たちに比べては刹那的なのかもしれない。幸運にも一時的なものかもしれない。だが、SDGsにはしっかり私たちも組み込まれている。私たちが弱ったときの保証も含まれる。だからこそ、責任は私たち一人一人にもある。これは他人事ではない。「誰一人取り残さない」には私たちも当然含まれているのだから。

 

佐藤雅岳 横浜国立大学

 

私は「SDGs」を聞いたことがありませんでした。やっている取り組みとして「誰1人取り残さない」、このスローガンを聞いた時とても胸が締め付けられました。私はサークルの会長としてサークル活動に専念しています。はじめの頃は120人以上いた同期も2年たった今となっては35人まで減ってしまいました。会長としてやはり同期が辞めるのはとても悲しい気持ちでしたが、それと同時に人数が少なくなって団体として動きやすくなるといい方向でも考えてしまいました。サークルに残るのも自由だし、辞めるのも自由。そういうふうに考えていました。しかし、最初にやめていった人はともかく、1年以上所属してからやめていった人とはしっかり向き合って話を聞いてあげるべきだったのかもしれません。どういう気持ちでやめていったのかは今となってはわかりませんが、もしかしたら寂しい気持ちを感じていたのかもしれません。残る人は誰も辞めることを気にせず、辞めることを止めない。もしかしたらその人のことを取り残していたのかもしれないですね。
最近、人種差別が世界の問題となっています。黒人差別やアジア人差別、昔からずっとこの世界には思想が残り続けています。これらは差別だとすぐ分かるのですが、特別扱いが逆に差別になっているのではないかと思うことがあります。女性に関して特別に思うことです。確かに昔の日本人は男尊女卑をしていると聞いたことがありますが、いまだに残っていることは俄かに信じられません。女性側が不快に思うことはしてはいけないとわかっています。しかし、最近は女性に対して贔屓すぎるのではと感じることがありました。贔屓しすぎて逆に差別と思われるのではないかと思いました。そこで何が差別なのかを考えていたところ、「取り残さない」この言葉が突き刺さりました。贔屓しすぎて取り残しても差別と感じてしまうことがあるので、取り残さないことがとても大切だと思いました。
人種差別が世界問題となっている世の中ですが、ある一本の動画を見ました。それは社会実験の動画です。「アジア人差別を受けている人がいたらどうするのか?」この動画はアメリカに留学に行っている人によって作られた動画です。日本人が知らない人に道を尋ねます。話している間に知らない人が来て(仕掛け人)その人がアジア人差別の言葉を言いにきます。しかし、知らない人にもかかわらず道を尋ねられた人は止めに入るし、通りかかりの人も助けに来ます。知らない人に「君がここにいて嬉しいよ」と声をかける人もいました。とても感動する動画でした。そこで差別を受けても誰かしら支えてくれる人、助けてくれる人がいることを教えてくれました。差別に溢れている世の中に見えるかもしれませんが、とても優しい世界であることを改めて感じさせてくれました。「誰1人取り残されない」そんな世の中になることを私も強く願っています。

 

根本七海 那珂湊高校 3年生

 

“誰ひとり取り残さない”を目標とするのであれば、SDGs17のルールの一つ、”貧困をなくそう”をクリアしていく必要があると私は考えました。
現在の世界には、未だ貧困が絶えないという事をSNSをみて知り、何か自分にやれる事はないか、と考え、まずは自分がSDGsについて知ることから始めました。貧困には、経済的貧困と相対的貧困があります。私はこのターゲットに親近感を覚えました。なぜならば、私の家庭でも楽しく食事ができていない時があったからです。私も同じ思いを少しばかりですが感じるなぁ、と、感じたからこそ貧困に苦しむ世界中の方たちの現在を知り、助けたいと思いました。
そして、調べた事を自分なりにポスターにまとめ、学校で広める活動をしています。
もう一つ、クリアしなければいけないのではないかと考えるものは、地球環境問題です。
私は、物を使用•消費する際に繰り返し使えるか、この素材は環境によいものなのか、という点を見据えて購入するようにしています。海には、沢山のゴミが落ちています。地元の海で、”海を綺麗にしよう”という活動が定期的に行われており、活動がある際には積極的に参加しています。
温暖化の現象を抑えるために、自分は何ができるか考えた際、電気の使いすぎを無くすことはどうだろう?と思い付きました。
できる限り自然にやさしい再生可能エネルギーや、ろうそくなどのものを使ったりもしています。
このように、まず、自分なりに何ができるかを考え、小さなことからでもいいので行動をする。この行いを地球にいるみんなで行えば、”誰ひとり取り残さない”未来が待っているのではないでしょうか。

 

今野綺音 専修大学附属高校

「女らしくしなさい」と母から叱られた経験がある。私は、小学生の時、女の子らしく過ごすことが苦手で男の子と一緒に遊ぶことが多かった。そして、女の子らしくしなさいと叱られたが、自分の過ごし方は怒られるものなのかと疑問を持った。私らしくいたいのに、女の子は女の子らしく過ごすべきだという考えがある。この考え方は、日本の歴史において「男は外で働き、女は家庭を守る」という性別による固定的な役割によって生まれてしまった考え方だ。このような男女に対する偏見は、日本国憲法第14条第1項によって制限されたが、今後女性が社会から取り残されないために、男女差別に対して、社会、メディア、私たち自身で改善していかなければならない。
 男女差別の問題に対して、SDGsの5に「ジェンダー平等を実現しよう」という目標がある。具体的には、男女平等を実現し、すべての女性と女の子の能力を伸ばし可能性を広げることを目指すものだ。この目標を達成するには、女性が活躍しやすい環境を整えるべきだ。例えば、ユニセフによると2020年の各国の女性の国会議員の割合は、一番多い国は61.3%と過半数を超えている。しかし、5番目以降は、50%を切る結果となり、特に日本は165番目の9.9%と世界から見ても非常に低い割合となっている。他にも、女性アナウンサーは画面の華としか見られず、積極的に自分の意見が言いづらい。これらの風潮を改善するために、政治の場においては、国会議員の男女比をクオータ制にするなど社会全体で女性が受け入れやすい環境、雰囲気を作っていくべきだ。
 また、「誰一人取り残さない社会」に向けて、メディアが固定概念を生み出す場となってしまっている事態を知るべきだ。日頃、私たちは新聞、テレビなどの様々なメディアに接している。メディアの中に、男女を必要以上に区別する描写や記事内容を目にする機会が多くなっており、私たちはメディアによる女性像が当たり前だと感じてしまっている。テレビに描かれる女性像として、女性アナウンサーや女優は、容姿を重視されがちだ。この風潮が、テレビを見る女性にとって、容姿が良くないと評価されない、容姿が良くないから挑戦できないなどとメディアに影響を受け、容姿に対して自信が持ちづらくなる。このような女性像に関して、固定的な描写をメディアが映し出すと、社会への影響力が大きい。そのため、メディアは男女差別について現状を把握し、女性の固定的な描写に関して気をつけるべきだ。
このような現状から、私たちは男女差別を改善するために、今年開催される東京オリンピック・パラリンピックでダイバーシティを学ぶ必要がある。オリンピック・パラリンピックでは、大会ビジョンの一つに「多様性の調和」が含まれる。これは、「この大会を世界中の人々が多様性と調和の重要性を改めて認識し、共生社会をはぐくむ契機となるような大会とする」という内容だ。このビジョンに沿って、スポーツの場だけでなく、政治においても女性が取り残されないための環境づくりを始める機会にもすべきだ。また、古いしきたりや伝統に囚われやすい日本人にとって多様な文化、人間を知ることが誰ひとり取り残されない社会実現への第一歩となる。

 

黒澤鈴花 横浜国立大学 3年生

 

 このコンテストの募集内容の文章にもある通り、障がい者、LGBTQ+、貧困、外国人、などというような、いわゆる取り残される人への着目度の高まりは最近の世の中の流れであり、自身も良い流れであると思う。だが、今になって着目され始めている「取り残される」状態というものは、どうして発生したのだろうか。国によって状況は異なるであろうが、少なくとも日本は昔よりは国全体として豊かになったはずなのに、どうしてこのような問題が新たに生まれてきたのか。まずはその原因について考えたい。
 日本において、戦後は、国土の復興、そして経済成長というような、国民全体がほとんど共通として持っている目標があったこともあって、政府や企業、メディア等が個人を支配する、組織が中心的な社会であった。情報は少数のメディアが支配して個人は情報を受信するのみであった。男性は結婚して家庭を持ち、正社員になって定年までその企業で働く、女性は結婚・出産をし、専業主婦として夫に添い遂げる、というようなライフコースも、自然と当たり前のものとして定まっていた。自由ではないが、誰しもどこかの組織に属しているために安定で安心を感じられるような時代であった。
 だが、グローバル化やスマートフォンの普及などから、組織が個人をまとめる構図は消え、個人が中心的な社会へと変わっていった。自由に個人が発信できるようになったことで多様な生き方が認識されるようになり、ライフコースの選択肢は増えたと言える。これ自体は一見良い変化だ。だが、逆に多様化したライフコースすべてに適応した社会の制度・仕組みは設けられない。ある程度国は豊かになり、生き方や目標に正解がなくなったからこそ、長い人生の中で何度も決断を迫られ、個人は孤独を感じる。何かで失敗したり、困窮状態に陥ったりした場合に、自身を見つけ、救ってくれる組織や制度が必ずあるとは限らない。このように、自由ではあっても不安がついてくる時代となったと言えるのである。
 このように、無秩序となった個人を社会がカバーしきれていないこと、また個人が孤独や不安を感じやすくなったことから、「取り残される」というような構図や感覚が生まれてきたのではないだろうか。個々の違いが認められてきたことは良いことだが、その分不安定であるこの状態を改善するためには、これまでの「秩序」があった社会と、今の「自由」な社会を上手く融合させた、新しい「秩序ある自由」な状態を目指す必要があると考えられる。
 とはいっても具体的にどうすればよいのか、様々なアイディアが必要となってくるであろうが、自身が考える必要な変化をここで1つ述べたい。それは、官民連携の強化である。多様な生き方が認められてきて、その分これまでの社会制度では対応できないニーズが増えてきた。だが、行政が個々のニーズに応えるという昔の感覚のままでいては、行政側の負担は増え続けるため全てに対応できることなど不可能であり、問題は解決しない。そのために、地域課題に対しては行政が知識や資源は提供しつつも住民自らによって解決していくというような、新たな行政の仕組み、そして行政と市民の関係性の構築が、必要であると考えている。
 このように、現在は「取り残される」人々というのは、その感覚の大小はあれど、多くの人に当てはまるものであり、彼ら1人1人のアイデンティティを尊重した上でどのように社会としてすくい上げるのかが、課題である。段々とSDGsの認識は広まり、個々の生き方についてお互い認め合うというマインド的な部分は、良い方向に進んでいると自身は感じている。だが、実際に個々が自身の希望する生き方を安心して選択でき、それを維持できる社会はどうすれば実現するのか、そして持続可能となるのか、社会の仕組み的な部分まで入り込んで考えていく必要がある。

 

高聖雅 横浜隼人高等学校

 

みなさんは「外国人」と聞くとどのように感じますか?また、みなさんは「中国人」と聞くとどのように思いますか?私は生まれも育ちも日本です。ですが日本の血は全く入っていません。父は中国人で母は台湾人です。私はそれをとても誇りに思っています。日本に暮らしていながらも毎日のように中華料理を食べることができ、家では日本語と中国語、両方で会話しています。ですが私は小学生の頃からコンプレックスだと感じていることがあります。それは名字が一文字だということです。どれだけ顔立ちが日本人で、生まれも育ちも日本だとしても、名字は隠すことができません。小学生の頃、周りの友達の苗字はみんな二文字でした。そんな中、ある一人の友達が私に「なんで名字が一文字なの?」と聞きました。当時の私はまだ名字が一文字であることに対してなんの感情も抱いていませんでしたが、私が「お父さんが中国人でお母さんが台湾人なの。」と言うと白い目で見られました。そしてその翌日からだんだんと周りに「取り残されている」ような感じがしました。決していじめられていたわけではありません。ただ距離を置かれていたのです。悪口を言われたわけでもありません。ただ次第に取り残されていったのです。私はその日から自分に日本の血が一切入っていないことを自分から言わないようにしています。あの時と同じ質問をされても、何気なく誤魔化して、できる限り自分が「外国人」と思われないようにしています。ですが、中には「中国語が喋れるなんてすごいね」などと私のことを差別的な目で見ずに、私が「外国人である」ことを受け入れてくれる方もいます。私はそういう人たちと出会って初めて、どんな違いであってもそれは必ずしも個性になると思うようになりました。人種をはじめ、障害やジェンダーもその一人一人の強みになると思います。私は確かに完璧に日本人と言えるわけではないし、今でも胸を張って「私は外国人です。」と言うことに対してためらいがあります。けれど私は日本語も中国語も話せることが自分の一番の強みだと思っています。しかし、この世の全ての人が一人一人の違いを受け入れるとは私も思っていません。中にはその違いを嘲笑い、蔑む人もいます。私が望む「誰ひとり取り残さない」社会は、そのように違いを受け入れようとしない人がいなくなることです。決して簡単なことではありませんが、みんながみんな、それぞれの違いを受け入れることができたなら、自分が思うコンプレックスを強みに
変えることができるのではないでしょうか。

 

香川心結 就実高校 2年生

 

私は日本に住んでいる高校生です。風邪を引けば低価格で親切な診察を速やかにしてもらうことができるし、生まれた瞬間から水や食べ物に困ることなく当たり前のように質の高い教育を受ける事ができています。ですが、私が当たり前のように享受できている日々を、望んでも手に入れることができない人がいることをSDGsについて調べる高校の授業を通して知ることができました。そこで私は私が考えること行いたいことについて述べようと思います。
まず私はSDGs第4番目の目標「質の高い教育をみんなに」についてと友達とグループトークをしました。世界の子供の教育を受けれていない原因は仕事をしなければならなかったり、
兄弟の子守をしなければならない。家から遠く離れた場所まで水くまなければならなかったりなどの理由からでした。それらを知りどうしたらいいのかと考えたところ、先進国が発展途上国の手助けをしたり、水の環境を整える必要があると考えました。
そうすると次にSDGs第6番目「安全な水とトイレを世界中に」という目標に繋がります。
先程も述べたように、発展途上国に住んでいる子どもたちは遠くまで水をくむため、教育を受ける事ができていません。そのうえ、苦労して手に入れた水は泥や細菌が混ざった水であり、その水が原因で命を落とす乳幼児は年間30万人に及ぶそうです。日本では公園でも蛇口をひねれば水が出るという一見当たり前のことのように感じますが、世界をみればこれも有り難いと感じることです。
また、私はSDGs第15番目の目標「陸の豊かさも守ろう」に基づき、森林保護のボランティアに参加しました。現地の人は「昔、温暖化がなかった時にはたくさん取れた特産物も取れなくなり、そこにはえる木さえも注意を払うようになった。」とおっしゃっていました。実際に木の手入れを手伝わせていただきましたが、すごく大変だったのでこれを現地の人のみでやっていると思うと頭が上がりませんでした。
このように、調べれば調べるほど、学べば学ぶほど当たり前のように受け入れている私達の日常は当たり前ではないことに気付かされました。そしてそれが当たり前だと世界の皆が感じることができる未来がくるため、SDGsに取り組むことが必要であるといっそう強く感じました。SDGsの17の目標は他人事ではなく、私達が知らないところで、誰かが努力してくださっている。もっとSDGsについて真剣に考えなければならないと先進国に住んでいる私達が思うことが解決への鍵になると私は考えます。
誰一人残らないより良い世界に向かって。

行睦美 Lindenwood University 1年生

 

新型コロナウイルスのワクチンが開発され、私も幸いにもワクチンを接種でき、段々と元の生活に戻っているような感覚もあって私は嬉しく思っていました。しかし、それは全世界、全ての人が同じように思っているのでしょうか。十分なワクチン数が確保できない国、ワクチンについて十分な情報が得られない人、ワクチンそのものにアレルギー反応を起こしてしまう人もいます。ワクチンを接種したか、していないかで労働の機会が奪われることも最近ではあります。当たり前にワクチンを受けられた人がいるということは、それが当たり前でない人もいるということです。

S D Gsの最終目標「誰1人取り残さない」を達成可能なものにするためには、下のような行動が必要だと思います。それは、あらゆる人が置かれている状況や境遇を知ること。また、知ろうと努力する、体験することです。先程あげたようなワクチン接種のように、当たり前が当たり前ではない人に目を向けることが、誰1人取り残さない社会への第一歩になります。先日、ヒューストンにて食料配給のボランティアに参加しました。私が参加したボランティアの主催団体は、助けが必要な退役軍人の方々をサポートする団体でした。そこには、車で必要な分の食料を取りにくる人が大勢いました。話を聞いてみると、食べるもの、財政面、就職、精神面でのサポートが必要としている人がかなりたくさんいることを知りました。私はこのボランティアを通して、知る、さらに言うと、体験する機会がなければ、取り残されそうな人の生活、境遇は目に入らないと実感しました。私が普段、スーパーで買い物をして何気なく野菜を買っているときには、毎日の食べ物に困っている人がいることの実感は正直に言うと無いに等しかったです。今回このボランティアに参加して、情報としては知っていたフードバンクの取り組みや、実際に食べ物に困っている人々のことが自分ごとになった感覚がありました。

これはオンラインのイベントに参加することでもいえますが、ボランティアやさまざまなイベントに参加することで初めて、取り残されそうな人がいることを実感しました。しかし、イベントに参加する意欲のある人は、取り残されそうな人がいることや、「誰1人取り残さない」というS D Gsの目標に少なからず関心を持っている人だと思います。私たちが今後していかなければならないのは、私もあなたも含め、取り残されそうな人はすぐそこにいるということを、できるだけ多くの人に認識してもらうことです。この目標を達成するために、自分自身の当たり前を疑い、知る機会をもっと広くのあらゆる人に届けていかなくてはなりません。

 

綱島康悦 クラーク記念国際高等学校 横浜キャンパス

 

 私は今を生きる一学生としての視点から、現在の学校教育に最も必要なのは、倫理観を育む事であると考えています。倫理観とは、道徳観や善悪の基準についての見方です。
 理由の一つとして、私の小学校時代の体験を例に挙げてみると。
 ある夏、公園で友人と共に遊んでいた時の事でした。一人の少年が取ってきたセミの羽を、別の少年がもぎ取って楽しそうにし始めたのです。それからも友人たちはセミをいたぶり、遂には踏み潰してしまいました。
 あまりに気持ち悪く、気分が悪くなり私は家に帰ったので、その後の事は知りません。ですが、その後でも、誰も止める人が居なかった場合、他のセミを捕まえて痛ぶって遊ぶことはあるでしょう。
 また、ある時。蟻の巣を見ていた私は、靴に蟻が歩いているのに気がついて飛び跳ねました。
 そして当時、幼かった私は怒りのままにバケツを持ちます。それに水を入れてから、蟻の巣に水を流して満足しました。ですが、蟻の命を奪うことに、抵抗がなかったと気付いてからはハッと目が覚めるような想いになりました。正しく教育が行き届いていれば、このような悲劇も起こらなかったのでは無いか。今ではそう思います。
 ですがその時、私は悩みました。そして、ある人にこの事を話し、蟻を殺してしまった事を悔いていると告げたのです。
 あの人なら、きっと正しく自分を叱ってくれると思ったのです。それほど、その人は信頼できる人でした。
 すると、話を聞いたその人は、蟻の巣に向かい。やがて、ホースの水で蟻の巣を完全に壊してしまいました。とても頼りになる優しい人だったのに、そんな判断を下したことに私は驚いてしまう。
 その人は、私の両親よりもずっと年上の人でした。

 このような経験から、私は倫理観の必要だと確信しました。
 暴力も差別も、善悪が分からないから起ること。調べてみた所、私の尊敬する人の学校教育には道徳が存在していませんでした。
 優しく、穏やかなあの日の不可解な行動も、友人たちの悍ましい遊びについても。幼少の頃から倫理を、今よりも長く道徳を学んで行くことが唯一の解決策で、発展した社会には、それに相応しい品格や感性が大事なのだと。
 それこそが、平等な精神、他者の立場になって物事を考える思考。誘惑や苦しみに抗う思慮深さに繋がり、悲劇を事前に無くし。これにより育った優しく気高い人間が、持続可能な開発をするのだと、思っています。

 そして同時に、この問題について、2つの解決策を考えてみました。
 一つは道徳の時間を増やす、あるいは導入することです。この授業は小学校・中学校でも存在していた授業学校ではあるものの、高校には存在しない。
 これは大人が子供に対して「現在までにまともな倫理観を有している」と判断しているから。そうだと思っていますが、この考えは間違った認識だと言わざる終えません。
 成績よりも、曖昧な正しさよりも、教育により気付かれる善性こそが重要なのだと、私は訴えます。
 つい最近も虫を潰して笑っている高校生がいたのが、私に道徳教育の必要性をより実感させました。
 しかし、高校は義務教育ではなく。道徳に時間を割けば、その分授業に当てられる時間は少なくなり、場合によっては保護者の苦情も考えられる可能性は大いにあるでしょう。
 そこで二つ目の案は、どのような宗教であれ、正式に政府が認める何かしらの宗教への加入を義務付けること。宗教というのは大概、命を奪う事を推奨しない。危険な考えの宗教が存在しても、政府が正式に認めなければいい。
 常日頃から、どうすれば少しでも良い世界になるのか。悩み、何も出来ない自分に嫌悪し、何もしようとしない自分を少しでも変える為。これがSDGsの平和と公平のために、精一杯頭を悩ませて考えた自分なりの解決策です。

 

江草和奏 福山暁の星女子中学高等学校

 

今、日本が目標としているSDGsですが、最近ではテレビ、新聞、雑誌など多くのメディアで取り上げられています。
私も毎朝テレビでSDGsについて取り上げているニュースを見ています。
SDGsとは「持続可能な開発目標」と言う意味ですが、この言葉を聞いただけでは正直どう言う意味なのか理解できないと思う人は少なくないと思います。私も初めこの言葉を聞いただけではどう言うことなのか理解することができませんでした。しかし、様々なメディアを通してSDGsについて知っていく中で、「世界中にある環境問題・差別・貧困・人権問題といった17個の課題を、世界のみんなで2030年までに解決していこう」という計画・目標だと言うことが分かりました。
そして、「持続可能な」とは、人間の活動が自然環境に悪影響を与えず、その活動を維持できる」と言うことだと分かりました。
私はこのSDGsの活動を広げるアイディアとして、自分たちにできる身近なことから始めたら良いと考えます。
例えば、買い物の仕方を見直すことです。
買い物の仕方を見直す方法として、パッケージがプラスチックの物を買うのではなく、紙でできたものを選んで買えばよいと考えます。最近では、お菓子などのパッケージがプラスチックから紙でできた物になっている商品が多いです。紙でできたパッケージの商品を選んで買うことで、プラスチックの使用を削減することができ、SDGsに貢献できると思います。
また、レジ袋を使うのではなく、エコバックを使うことでもSDGsに貢献できます。
さらに、もっと身近に考え、家でできることとして、電気を節約すると言うことがあります。
例えば、電気機器をコンセントにさしたままにしない、使わない部屋の電気をつけたままにしない、無駄にクーラーをつけないなどがあります。
コンセントにさしたままにしたり、電気をつけたままにしたり、無駄にクーラーをつけたりしてしまうと、無駄な電気を使用してしまうことになります。そして、電気代も高くなってしまいます。家庭で使われる電気の多くは発電所でつくられた電気なので、無駄に使ってしまうと石炭や石油を多く使ってしまうことになります。
しかし、さしっぱなし、つけっぱなしにしないことで、無駄な電気を使用することを防ぐことができ、節電に貢献でき、そしてSDGsに貢献できます。
そして、最も重要なのは、周りに発信していくということです。
テレビや新聞、雑誌などで得た情報を発信していくことで、たくさんの人がSDGsについて知ることができます。そして、SDGsに貢献してくれる人が増えてくれると思います。その発信方法として、1番簡単にできるのが、Instagram、TwitterなどのSNSを通して発信することです。例えば、SDGsに配慮された商品を購入してその商品を写真に撮り、SNSにアップすることで、その商品を知る人が増えて、たくさんの人がSDGsに貢献してくれるようになると思います。
このように、誰でも簡単にSDGsに貢献できる方法はたくさんあります。1人1人の小さな一歩により、世界中の人たちが楽しく生活できるようになると思います。

 

広瀬みお 慶應義塾大学

 

「誰もとりのこさない」と聞いて私が真っ先に頭によぎった事は、多死社会を迎える日本における「お看取り」である。誰ひとりのこさず全ての高齢者が「幸せに逝く」ことを支えるために、私たちはどのような役割を果たしていくべきであろうか。

SDGsにある『全ての人に健康と福祉を』を聞くと、より良く生きることや生活の質(クオリティオブライフ)を高めるというイメージを持たれることが多い。しかし、高齢者施設で介護スタッフを務める私は、人生の最期をどう迎えるのか「クオリティオブデス(quality of death)」に関する議論や実践を生むことの重要性を日々感じてきた。今回は、全ての高齢者が「最期を自分らしく迎える」ために、今地域や社会で必要とされていることに焦点を当てた。

多死社会とは、超高齢社会の次に来る社会だと言われており、人口の多数を占める高齢者が寿命で亡くなる社会を指している。このような中、「看取り難民」と呼ばれる高齢者の孤独死は日本が解決すべき大きな課題であると言えるだろう。「平成30年版高齢社会白書」の調査によると、65歳以上の高齢者において、男性の5人に1人、女性の4人に1人が一人暮らしをしているとの結果が得られた。そして今後も、一人暮らしの高齢者が右肩上がりに上がっていくと予想されおり、在宅で死亡する件数も増加すると言われている。

そのような高齢者を取り巻く環境において、如何すれば孤独死をなくし、高齢者一人ひとりが最後まで自分らしい豊な生活を営むことができるのだろうか。その中の一つの鍵として、私は「地域の見守り強化」に注目をした。一人暮らしの高齢者の多くは、困った時に頼れる人がいない割合が非常に高い。地域住民の関係性が希薄化したことによって、高齢者は孤独に陥りやすくなっているのである。そこで、私が注目した「地域の見守り強化」とは、高齢者と地域住民との繋がりを強化し、高齢者の持てる力を地域に活かすことを考えた。高齢者になると支援される側になるという印象が多いが、支援される・する側の関係性を超えて、共に生きていく関係性を築くことが重要であろう。地域において、長い人生の中で培われた知識や技術をいかす方策は多く存在し、子育て、人生の教育、日本文化の継承などが挙げられるであろう。私は今、高齢者が地域との繋がるきっかけを創出したいと考えており、今まで築き上げられた経験を生かしながら地域を見守る側に立つ可能性を模索している。支援される側の高齢者が、支援される側に立つことは、地域と高齢者の走者にWin-Winの関係性を生み出し、希薄化する住民同士を繋げる可能性まで秘めているのではないだろうか。このWin-Winの関係性を生み出すことこそ、持続的に高齢者と地域との繋がりを作っていく鍵となり、高齢者がモテる力を生かしながら、最後までいきいきと暮らせる社会の実現に一歩前進するのではないだろうか。

 

古別府大尊 横浜国立大学 1年生

 

誰一人取り残されない社会の実現のためには何が必要なのだろうか。現代日本でSDGsの観点から、取り残されているとされているのは貧困世帯や障害者、LGBTQ+などの人々が挙げられる。自分はこの中のどれにも属しておらず、夫婦共働きの一般的な核家族のもとで特に不自由もなく暮らしてきた。勉強やバイト、サークル活動を楽しんでいるどこにでもいるような大学生だ。そんな自分がこのエッセイを書くにあたって自分自身の取り残された経験について考えてみた。そこで気づいたのは自分が取り残されたと感じた経験は、例えば勉強で学校進度についていけなかったり、その時代の流行に後れを取ったりというような自分の力で変えられるものばかりであったということだ。上記の貧困や障害、LGBTQ+のような基本的に変えることのできないもので取り残された経験が自分にはなかった。そして、そのような変更不可能なものをもつ人々が、それに対しどのような辛さを抱いているのかが自分にはわからなかった。私はこれが誰一人取り残されない社会の実現のための重要な観念になるのではないかと考えた。なぜならこの事は多くの政治家にあてはまっていることが予想できたからだ。
そもそも日本の政治家の五割以上は世襲議員という説がある。裕福な家庭環境の下で育ち、社会的少数派の人々とかかわる機会が少ない人々が大勢政治家になり、そういった人が政策を打ち出す。そのような政策は現場の状況を知らずに机上ではじき出されたものであるため少数派の人々への適切なアプローチができていないことが多い。このような構造ではいくら頭が良い人が政治家になろうとも根本的問題は変わっていかないことは明白だ。
ではどうすれば少数派の人々も取り残されない社会が実現できるのか。それは少数派の人たちの積極的な政治参加が鍵になる。実際に2019年に国会で初の重度障害を持った議員が誕生し、このことをきっかけに国会でのルールは変更され、また障害に関する制度や法の課題が浮き彫りになった。ほかにも生活保護、不良のリーダーを経験したのち議員となった中谷一馬氏などもおり、そういった経験をしたからこそわかる実情をもとに脱法ドラッグや犯罪加害者家族の支援などの問題を改善しようと勤しんでいる。そして、そういった人々が口々に言うのは、実情を知っている我々が現状を変えていくしかないという趣旨のものだ。
結論、少数派の人々の政治参加がない限り少数派の人もより良く暮らせる社会がやってくることはないだろう。しかしそれは同時に私を含む不自由なく暮らす人々が少数派のためになにもしなくてよいということではなく、積極的に少数派の実情を知ることや実際に障害や性的マイノリティを抱えた人が政治参加をしやすいような環境を整えることが誰一人取り残されない社会の実現のために必要であることを意味する。まだまだ課題は山積しているがすべての人がそれぞれの幸福を平等に追求できるような社会が創られていくことを心から願っている。

 

古川大智 横浜国立大学・都市科学部 1年生

 

今全世界がコロナウイルスの脅威にさらされている。未曽有のこの事態は、日常的なマスクの着用からはじまり、ソーシャルディスタンスの確保さらには不要不急の外出自粛といったところまで、私たちの生活をそれまでとは大きく変えてしまった。また、感染症のまん延によって職を失ってしまった人や収入が減ってしまった人への支援、また各国でワクチン供給・接種状況がバラバラなことなど多くの解決しなければならない課題が生まれた。SDGsの視点から考えてもこれらの課題は人々の健康であったり、人や国の間での不平等であったりといくつかの項目に当てはまることから早急に解決しなければいけないということがわかる。しかし、これらの課題は連日メディアなどを通して頻繁に叫ばれていて問題意識が共有されている。コロナウイルス関連としてメディアにも取り上げられない隠れた問題がもっとあるのではないだろうかと私は考えた。
 誰もが経験したことがないこの状況の中、私たちは行政やメディアが発信する情報を日々入手し、それに従っている。それが当たり前になっているし、従っている人が多数派である。逆にそれに従わなかったり、異議を申し立てたりすると社会的に批判を浴び、孤立してしまうというのが今の社会の現状である。私が問題に感じるのはその点である。もし受け取った情報に疑問に思うことや違うのではないかと思う点があったとしても、なかなか言い出しづらく結局そのままその情報に従ったり、賛成してしまったりすることはないだろうか。私は少なくともその同調圧力のような空気をここ最近で感じている。みんな従うのが当たり前、従わない人は変わっていて排除されるべきなどという社会になってしまうのではないかと私は危惧している。いうまでもなくそのような社会はみんなが住みやすい社会とは言えないし、すべての人が平等で幸せ社会とは程遠い。コロナ渦においてもそういった少数意見にしっかり耳を傾けて、尊重すべきところは尊重し、話し合うところは話し合っていくべきだと思う。誰一人取り残さず納得いく案にするのは難しいかもしれないが、だれ一人残さず自分の意見を発信できる環境はつくれるし作っていくべきだと思う。
そもそもこれまでの生活から一変した生活スタイルを作っている途中なのだから、たくさんの考えがあるのは当然なのではないだろうか。むしろいろいろな人が様々な角度から発信する意見を受け取ることで、より良いアイディアにつながるということもあると思う。皆が協力して意見を出し合って、よりよい対策を考えられ、より早くコロナウイルスが収束するような社会を目指していきたい。

 

古岩玲菜 鎌倉市立小坂小学校 6年生

 

 私は「誰1人取り残さない社会」をつくるためには、「世界の人々が、手を取り合って協力すること」が大切だと思います。ここでの取り残された人とは、「性格の違い、考え方の違いなどで戦争になり、国から追い出されてしまった難民たち」のことです。でも、その人たちを「世界の人々が、手を取り合って協力すること」で生活を助けてあげることはできると思います。
 しかし、私は、そもそも難民が増えてしまう原因の性格や考え方の違いで、国から追い出す人が難民たちにそのようなことをする理由が知りたいです。なぜなら、必ず人間は1人1人個性を持っていて、性格や考え方が、全く同じ人間などいないからです。また、考え方がみんな同じだと、その考え方1択しか手段を取ることができなくなるからです。また、自分の考えは、他の人の考えを聞くことでよりよくなっていくのに、他の考えを聞くことができないと自分の考えをよりよくする材料がなくて、自分の考えをよりよくすることができないからです。したがって、性格や考え方の違いだけの理由で国から追い出すのは違うと思いました。そして、難民に関わらず、裕福な生活がきている人も、自分の考えを表に出すことを恐れている人もいるかもしれません。だから、自分の個性を安心して発揮できるような社会になってほしいと思いました。
 そこで、そのことを考えて思ったことがありました。そもそも、難民は、性格や考え方の違いによって争いになります。そして、戦争へと広がっていき、その結果、国から追い出されることによって発生します。したがって、「世界で戦争を禁止すれば、性格や考え方が違うことでの戦争も起こらず難民も国から追い出されないのではないか」ということです。このようなことから、難民の増加問題のことが、核兵器の問題にも結びついてきました。
 「世界の人々が、手を取り合って協力する」というのは難民問題を対象とした解決策でしたが、核兵器問題にもこのことは関係すると思います。なぜなら、世界の人々が、手を取り合って協力すれば、2021年に発行された核兵器禁止条約に賛同する国も増えて、世界中が核兵器などの戦争道具を持たなくなり、難民が国から追い出されることは、争いが起こりにくくなるので、難民も少しは減少するのではないかと思ったからです。難民は戦争で今までの生活や家族を奪われているので少しでも早く元の生活に戻してあげたいです。そして、難民たちを救って難民となり苦しんでいる人を世界から減らしたいと改めて思いました。
 そこで、1つみなさんに私から意識して欲しいことがあります。それは、「今の自分の周りの環境を当たり前とは思わないでほしい」ということです。難民たちは、急に生活を奪われてしまうのです。だから、家があって、家族がいる、それだけでも難民たちにとってはものすごい幸せなのです。しかし、人間は、どうしてもより便利なものを求めてしまいます。そんな時、ぜひ、生活に困っている難民たちのことを思い浮かべて見てください。そしたら、難民たちに比べて私は裕福なのだと気づき、この暮らしができることをきっと幸せに感じられると思います。私の文章を読んでくださった方には、ぜひ、このことを意識してほしいです。世界の人々が、手を取り合って協力して、誰1人取り残さない社会をつくっていきましょう。

 

玄蕃莉子 愛知淑徳大学 心理学部 4年生

 

SDGsとは,持続可能な開発目標のことである。経済・社会・環境という3側面でバランスよく以下の17分野を達成することを目標に掲げている。17分野の内訳は、貧困の撲滅、飢餓対策、健康の改善、教育の提供、ジェンダーの平等、水・衛生の確保、クリーンエネルギーの普及、人間らしい労働の促進、強靭なインフラ整備、不平等の是正、安全な都市、持続可能な生産・消費、気候変動の対策、海洋の保全、生態系・森林の保全、平和と法の支配、グローバルパートナーシップの活性化である。SDGs「誰ひとり取り残さない」の視点から2つの取り組みを社会に提言したい。
 1つ目は、フードロスの削減である。私は病院食に関わるアルバイトをしている。毎日余った病院食が40㎏以上、廃棄されるのを目にする。よって、病院食のフードロスを改善したいと考えた。
 2019年の日本の高齢化率は28.4%であり世界最高である。同時に、高齢者の孤立が進んでいることが問題となっている。特に現在はコロナウイルス感染拡大による、外出自粛の長期化で人とのつながりが希薄になっている。この状況より、社会的に孤立し、望まない孤独を感じる人の増加が懸念される。加えて、高齢者の中には病気や、老化により身体機能や認知機能が低下して、十分な食事を用意することが困難な人がいる。このような現状から、余った病院食を、支援を必要としている高齢者に提供することを提案したい。
 病院食は栄養満点であることはもちろん、噛み切りやすく飲み込みやすいため、誤飲のリスクが少ない。よって、高齢者の健康の改善・促進が可能となる。加えて、食事を配送する際には、高齢者の様子をうかがうことができ、孤立状況を改善できるだろう。このようにして病院食のフードロスを減らし、高齢者の孤立を防ぐことができると考える。
 上記のことを実現するには、企業と行政が連携することが必要である。企業と行政が、提供する食事量と高齢者の状況を把握し、必要としている人に食事が届くように環境整備を行うことが必要である。
 2つ目は、ジェンダーの平等である。最近では学校で制服が選択制になったり、大学にはジェンダー研究所が創設されたりするなど、ジェンダーの平等に向けて様々な取り組みがなされている。一方、いまだ多様なジェンダーへの理解は不十分な点がある。また、同性婚に関しても大きな壁がある。
 私は、ジェンダーの平等を広めていくために、学校教育でジェンダーの平等を取り上げることが有効であると考える。子どもたちが早い段階から様々な性があることを知り、ジェンダーについての理解を深めることで、次世代のジェンダー平等の意識が構築できるだろう。学校教育全体を通して、ジェンダー教育を横断的に実施することを望む。
 しかし、子どもたちがジェンダーについて学ぶ際、子どもの中には心の面で負担を感じる場合もある。また十分に理解できずに傷つき、時には誰かを傷つけてしまうことも起こり得る。誰ひとり傷つけないために、学校でのジェンダー教育の際には、心のケアを行うことができるような心理学の専門知識を有する人を配置することが必要だろう。
 2019年12月31日に放送されたNHK紅白歌合戦では、歌手・MISIAさんのパフォーマンスで、レインボーフラッグが掲げられる演出がされた。レインボーフラッグとは、LGBTをはじめとしたさまざまなセクシュアリティの尊厳、そして多様性を表している旗のことだ。わが国のエンターテイメントにおいて、ジェンダーの平等を用いた演出が行われたことに感心した。人間は誰ひとり人同じ人はいない。いろいろな違いがあり、それぞれの人が、自分の色で、自分らしく輝くことが最高に美しいと思う。すべての人が、自分の色で自分らしく輝いて、違いを分かりあい、誰もが幸せを感じられる、そんな虹色の美しい世界を作りたい。

 

原あい子 神田外語大学

 

「誰ひとり取り残さない」という言葉ほど、言うは易く行うは難しという古事成語がぴったりと当てはまる言葉は他にはないと思う。それほどに、誰も取り残さない、と言うことは難しい。この言葉を目標として何か一つのことを成し遂げるにしても、ひとつの問題に対して人々のおかれている状況やその原因が多様かつ複雑で、一筋縄では解決できない。私が関心を持っている紛争地域の子どもたちの教育も、そういった問題のひとつである。
 紛争地域における地域ごとの教育においては、地域の大人たちによる民族主義に偏ったものが行われている場合が多い。この偏った教育が、紛争解決までの道のりを長期化させている一因なのではないかと考えている。なぜなら、人間は育っていく環境の中で自分のアイデンティティとして、自己の属する宗教や門族について周囲から学んでいくものであるからだ。ここでは、民族・宗教対立の長期的な視点からの解決のために、対立当事者同士の子どもたちに、その民族や宗教についてどのような教育を行うべきかというテーマで、コソボにおける事例と、世界ではどのように宗教について教えているのかという部分に注目し考察することにした。
 コソボでは、セルビア語のみの共通カリキュラムに反発した多数派のアルバニア人が、”影の教育”と呼ばれる、隠れた場所に仮の教室を設け、アルバニア語の教科書での授業を行っていた。セルビア当局はこれを厳しく取り締まった。この事例から、自分たちの民族に関する関する教育を行うことによって、対立関係にある民族による反発を招きうるということがわかる。このような事態は、どのようにすれば防ぐことができるのだろうか。ここで、対立しあう民族間の紛争を教育によって解決する方法を考察する。
 民族間紛争の原因の多くに、異なる宗教による対立がある。世界の宗教の教科書に注目すると、世界には主に、宗教についての授業を禁止している国と、様々な宗教について総合的に学ぶ国と、生徒がそれぞれ自分の宗教にあった授業を選択する国の3つのパターンがある。禁止している国では、政教分離を徹底している国が多い。多様な宗教を学ばせている国では、国内に多様な信仰があるという部分もあるが、その中でも、共通点について考えたり、同年齢くらいの信者たちとの交流を行ったりと様々な工夫が見られる。選択制の国では、無宗教者に対しては倫理などの授業を開くことで、信仰がある子どもたちが宗教の授業の中で受けている、道徳についての教育を無宗教の子どもたちにも行っている。ここからは、それぞれの国の各宗教に対するバランスの取り方が異なっていることがわかる。
 この点から、大人の判断のみによって偏った教育が行われてしまっていること、公平性のある情報を子どもたちに教えるべきであることが読み解ける。「紛争解決のための教育」に対する考察として、互いの民族や思想、宗教について第三者的視点から学ぶことが重要であると考える。また、そのために必要なものとして、教育の軸となる教科書を公平な視点から作成すること、子ども同士が民族や宗教に関係なく交流できる場を設けること、授業の選択肢をつくることが不可欠であると考える。
 「誰ひとり取り残さない」ための教育は、食料や住居などの問題と比べて生存という観点において緊急性が低いため、支援が必要とされている地域でも後回しにされがちである。しかしその教育こそ、地域によって複雑化、そして多様化した問題を解決していくための非常に有効な手段である。なぜなら、どんなことに取り組むにも、知識は必要不可欠なものだからだ。知識があれば、例えば発展途上国においては、自分の健康や周囲の衛生について工夫を凝らすことができたり、より給料の高い、良い仕事を得ることができたりする。紛争を経験した国では、互いの民族や宗教についてそれらを多様性として理解し、怨恨を断つことで紛争の再発や長期化を防ぐことができる。また先進国においても、異なる分野の知識を融合させることで作業の効率化を図ったり、地球にやさしい新たなアイデアを模索したりする事ができる。より良い生活を、自分の手で得ることにつながるのだ。子どもも大人も関係なく、皆等しく教育が必要なのだ。資金や物資などの援助も大切だが、支援を受けた地域が自立するという未来を見据えて、開発援助従事者はもっと人々の学びにも目を向けるべきである。

 

金澤優人 横浜国立大学

 

 SDGsの2030年までに達成されるべき17の目標のうち、「人や国の不平等をなくそう」という目標における視点から考察していく。現在、先進国と発展途上国の間では、様々な分野において格差が見られる。この指標は「絶対的貧困」という言葉で言い表されるが、先進国に住んでいるからと言って、決して裕福であるというわけではない。先進国の中でも相対的にみて、貧困である人々が見られる。この指標は「相対的貧困」という言葉で言い表される。この相対的貧困は、栄養や健康、福祉等において十分に享受することができない状況が同じ先進国内でも起こっているという点において、「取り残される人」が存在している。特に、健康や福祉などは、不平等が生じてはならない分野ではあるが、現状お金がなくて治せる病気も治せない人が同じ先進国内にも存在していることは事実である。また、食料という観点からも、お金がなく人が生活していく上で必要最低限の食料も確保できない家庭が多数存在することも事実である。食料を十分に確保することができないことにより、十分な栄養を摂取することができず、飢餓もしくは飢餓に近い人々が出てくる。これは特に発展途上国によくみられ有名な話ではあるが、実際は先進国にもそのような人々が多く存在しているという事実をしっかりと認識しておくべきであり、世ではあまり目を向けられていないことからも、「取り残される人」になりうる可能性は非常に高くなる。
 ここまで「お金」を物差しとした貧困に関する議論をしてきたが、「貧困」という観点で見るとお金の有無での裕福―貧困の関係だけではないように感じる。それは「精神的な」貧困である。この指標は「幸福度」という指標で言い表される。これは精神的な面での議論であり、所得が高いからといって幸福であるとは必ずしも言えないのである。確かに裕福な人は「お金」に関しては、他の人よりも優位に立っていることは間違いないが、もしかしたら孤独を感じていたり、今の生活に充実感がなかったりすると、それは精神的に貧困な状態にあるといえる。このように精神的な貧困にある状態の人は社会的に「取り残される人」といえるのではないかと私は考えている。これは先進国や発展途上国関係なく世界中にこのような人が存在しているのは間違いないだろう。具体的には自殺率などが主な指標となりうるだろう。
 このように絶対的貧困、相対的貧困、精神的な貧困の3つの指標から議論してきたが、いずれも、SDGsの「人や国の不平等をなくそう」という目標に対して、この議論は必要不可欠で、今後この指標をもとに対策を講じていくことが望まれるだろう。

 

金中幹樹 横浜国立大学 都市科学部 都市社会共生学科 1年生

 

21 世紀に突入し、人類にとって試練ともいうことのできる様々な危機を迎えている。世界では発展途上国を中心に人口が爆発的に増加し、食糧難や貧しい住環境に苦しむ絶対的貧困者が 7 億人以上存在している。また、テロ活動が活発化し、テロの首謀者たちは世界から取り残されていると捉えることもできるだろう。
日本においては、東日本大震災に代表される大地震や津波、気候変動やそれに伴う大雨や台風、そして今現在、私たちが戦っている新型コロナウイルスなどが試練の一部として挙げられる。大雨に関しては毎年のように何年に一度の大雨という言葉を耳にしているような気さえする。そして、このような危機を迎えたときに職を失うなど最も被害を受けるのは貧困層の人々である。日本人の約 6 人に 1 人が相対的貧困者とされており、特に子どもや高齢者の貧困が問題となっている。
私は新型コロナウイルスが蔓延している今、「誰一人取り残さない」世の中を実現させることができるか試されていると考える。そもそも取り残されている人とは誰のことなのであろうか。まず初めに私が思い浮かべたのは路上生活者である。路上生活者の多くは新型コロナウイルスが蔓延し、緊急事態宣言が発令されている時も感染対策を取ることが難しい状況にあるだろう。高齢者へのワクチンの接種が進んでいるが路上生活者へのワクチン接種をどのように進めていくかが課題となっている。
なぜ路上生活者にとってワクチン接種がハードルの高いものになっているのだろうか。私は原因の 1 つにワクチン接種の申し込み方法があると考えている。多くの自治体は電話やインターネットを通して接種の申し込みを行っている。当然ながら路上生活者の大半はインターネットにアクセスできる環境にないため申し込みをすることが叶わない。インターネットは私たちの生活を便利にさせる一方で取り残される人々を発生させてしまうのだ。私の祖父母は 2 人で田舎にて生活しているのだがスマートフォンは所持しておらず、ワクチン接種の際には苦労していると話している。「スマートフォンを使いこなすことが出来ればどれほど生活が楽になるだろう」この祖母の言葉が強く印象に残った。そこで私が感じたのは、スマートフォンなどを高齢者や社会的弱者などの取り残されがちな人にまで普及させることが「誰一人取り残さない」世の中を作る第一歩になるのではないかということだ。
スマートフォンには位置情報を知らせる機能があり、個人の動きを地図情報と照らし合わせることにより人や物の流れを正確に理解することができる。移動手段が貧しい地域はどこか、どれだけの公共交通が必要かなどの輸送手段の観点から持続可能な社会を構築するのに役立つだろう。スマートフォンの普及により取り残されがちな高齢者に寄り添った政策を取りやすくさせることができるのだ。また、地図を利用して公園が少ない地域はどこか、保育施設が不足しがちな地域はどこかなど子育てに関わる情報を集めることによりジェンダー平等の観点からも取り残されがちな人を見つけることに繋がるかもしれない。取り残されがちな人の「見える化」がインターネットの普及で可能になる。インターネットを普及させることは地方活性化も期待することができると考えられる。
コロナウイルスは都市、特に東京への一極集中の問題を露呈した。テレワークという新しい手段が選択肢の 1 つになった今、人口減少に苦しみ、なかなか地方創成が進んでいなかった自治体が良い環境を求める人々の呼び込みを活発に行っている話もある。持続可能な都市を作っていく中で若者や子どもたちは将来にわたって成長力を確保することに欠かせないし、成長力は都市の維持・再生を図るのに欠かせない。
コロナウイルスの蔓延により私たちの生活がいかに脆弱なものであったか明らかになった。裏を返せば、コロナウイルスにより私たちは生活様式や SDGs への取り組み方を見直す機会を得ている。SDGs は目標となる世界の姿は明確に示されているが、その世界にたどり着くまでのプロセスは示されていない。自分たちで考え、行動することが求められている。そして、日本が SDGs において世界を先導することができるようにまずは国内で取り残されている人々に手を差し伸べることが大切なのだ。

 

金川修汰 横浜隼人高校

 

私は「気候変動に具体的な対策を」について調べました。これは地球温暖化などによって気候変動に影響を及ぼしてしまう問題のことだ。以前から地球温暖化などは進んでいたが現在その影響を直で感じる瞬間が出てきている。今の状況はこれからの地球の状態が悪化していくか、改善していくかの分岐点なのかもしれない。そこでいくつかの改善点などを調べた。まず代表的なものでハイブリッドカー。節水・節電。さらにはビニール袋の廃止。まず最初にこのような対策を取るにあたっていきなり大きなことをするのは不可能またそれをできる人は限られてくる。なので私は世界中の人々が簡単に協力できることが地球温暖化や気候変動の改善につながるのではないかと考えた。例を挙げると先ほども言った節水・節電などだ。普段生活している中で無駄に水や電気を浪費しているときはあるはずだ。必要な時に必要な分だけ調節して生活していくことが必要だ。とはいえこのようなことは私たちの年齢くらいになれば誰でも分かることだ。しかしここが問題である。節水・節電は大事だと分かっていてもできないには理由があると思う。それは人々がまだ危機を感じていないことだと思った。コロナウイルスを例にあげると最初はただの風邪程度に思い人々は「どうせすぐ終わる。」などあまり自分には関係ないと思っていた人がほとんどだ。しかし命を落とすほどのリスクがある病気だと分かってから途端にたくさんの対策を取ってきた。こういうことから危険なことが起きる前に対策を取るのはかなり鍵になるのではないだろうか。そのためにはもっと国が、世界中がこの話題を全面的に取り上げることだと思う。ニュースで放送されたとしても少ししか取り上げられなかったり私たち一般の人には今どのくらい危険なのかなど行き渡っていないと思う。だからこそ一人一人が協力できる節水などを一般化していく必要がある。しかしこの対策だけ取ったとしても地球温暖化の促進は止まらない。やはり大きなことをしないとおさまらないのだ。ハイブリッドカーに変えて排気汚染をなくすというのももちろん重要なことではあるがそれよりも私が問題だと思うのは先ほど言ったビニール袋。これもかなり問題になっている。日本では去年からレジ袋の廃止など少しずつ対策を取っている。某コーヒーショップでもストローや容器などを紙製にしている。しかしこのような素材にプラスチック類が一ミリたりとも使用されていないというと話は別だ。今世界中はプラスチックで溢れかえっている。しかしこれは仕方のないことだ。なぜならもうすでに私たちの生活にはプラスチックは必要不可欠になっているからだ。そうなるとビニール袋などプラスチック類のかわりになるものを作るしかないのだ。いずれできるかもしれないがそう簡単にできることではないのでまた他の対策を取るとすると、ゴミだ。このプラスチックらも海にゴミとして出てきている。それにより多くの動物たちが困っているという記事も沢山ある。プラスチック問題に大きく関われない分ゴミの分別などはしっかりやるべきだ。まず日本は街中にゴミ箱が少ないと言われている。さらに日本は1人あたりにゴミの量が多かったりかなり身近な問題がある。ゴミ箱を増やすくらいただ作って置くだけなので国ももっと協力するべきだ。できることは全てしていかないと本当に手に負えないレベルまでいってしまう。このように少し探しただけでも改善点は山ほど出てくる。やはりこういった活動や授業などでこれから学んでいくひとたちがどんどんこの問題を対策するのを一般化していく必要がある。そのためにも私たち1人1人がこの問題に関心を持つことが大切だと思った。

 

金子晃 横浜市立橘中学校 3年生

 

この地球にはおよそ七十八億人もの人がいる。そのうち八億人以上の人つまり、約九人に一人が満足に食事をできていない。なぜそんなことが起きてしまっているのだろうか。私は原因が食品ロスにあると考えた。
食品ロスとは、食べることができるはずのものを食べずに捨ててしまうことだ。ではなぜ食品ロスは起こってしまうのだろうか。それには三つの理由がある。
一つ目は、食べ残しである。家庭で作った料理や外食での料理を消費しきることができず、廃棄してしまうことだ。
二つ目は、腐敗やカビの発生である。買った食品が使う前に腐ってしまい、廃棄してしまったという経験も多いのではないだろうか。しかし、それも食品ロスの一つの要因なのだ。
三つ目は、売れ残りである。お客に売るわけにもいかず、かといって店で消費することもできずに廃棄してしまうことがあるのだ。
これらのことがあって食品ロスはおきてしまう。
それでは食品ロスの一体なにがいけないのか、それには三つの理由がある
一つ目は、環境に悪いからである。ゴミとして捨てられたものは焼却処分される。しかし焼却処分するときに二酸化炭素が出てしまう。そしてその二酸化炭素は地球温暖化に大きな影響を与えてしまうのだ。そうなってしまえば、海面上昇によって生活すらできなくなってしまう恐れがあるのだ。
二つ目は、もったいないからだ。どんな食品でも必ず生産者がいる。生産者の方々が丹精を込めてつくった食品を食べずに捨てることは生産者の方々に失礼である。
三つ目は、世界中には満足に食事をできていない人がいるからだ。世界全体で見ると、十三億トンものまだ食べられるものが廃棄されている。日本としてみても六百十二万トンも廃棄されている。それは世界中にいる満足に食事ができていない人が、満足に食事をするために必要な食べものの量よりも多い。つまり食品ロスとは、世界中にお腹をすかせている人がいるのも関わらず、お腹いっぱいだからという理由だけでその人たちが欲しい物を捨てているということに他ならない。
私は、満足に食事をできていない人が生まれてしまう理由は食品ロスだと考えている。それと同時に、そういう人たちを救うこともできると考えている。
家庭から生まれる食品ロスを減らすのは簡単だ。自分たちで食べ切れる量の食品しか買わないようにすればいい。しかし、問題はお店から生まれる食品ロスだ。先述の通り、お客に売ることも、お店で消費することもできない。ではどうしたらよいだろう。
私は、消費期限が切れる前に寄付する習慣をつければよいと考えた。そうすれば食品ロスは発生しない上に、食べものがほしい人にあげることができる。
飢餓とは辛く大変なものである。すべての人々に等しく食事させるには、寄付といった人々が手を取りあう他ない。だからこそ、友達におすそわけするような軽い気持ちで寄付できる世を私は望む。

 

金子汐夏 横浜隼人高校 2年生

 

私は2020年5月、アメリカでのある殺害事件についてのニュースを見てとても驚いた。被害者は黒人で、加害者は白人警官。加害者に首を押さえつけられた被害者は、息ができないと訴えたがその手は止まらず、彼は亡くなってしまった。その様子が撮影された動画がSNSで世界中に拡散され、アメリカで黒人差別に対する抗議運動が激化した。加害者の警官は3度人種的マイノリティに対する銃撃に関与しているとみられている。

今日の世の中には、たくさんの差別がある。私はこの小論文のための調べ学習を通して、もちろん全ての差別などは根絶するべきだと思っているが、特にHIV感染者への差別や犯罪被害者家族へのなどに衝撃を受けた。
まず、HIVは人から人へと感染する病気ではあるが、感染経路は性的接触、血液感染、母子感染の3つに限られる。それにも関わらず、会話、日用品の共同使用などの日常生活の中で感染されると捉えられてしまい、別の病気のための診療を断られたり、職場の採用を取り消されたりということがある。
次に、犯罪被害者、その家族への対応について調べていて一番多く問題としてみられたのはマスコミや周囲の人、SNSでの根拠のない噂、心無い言葉だ。ある事件の被害者家族には、被害者と加害者は知り合いだったのではないか、被害者は素行が悪かったから被害にあったのではないか、などのデマがネット上に広がり、さらには、猛省を促す、という言葉で締め括られた手紙が家に届いた。なりたくて被害者、その家族になった訳ではなく、さらに被害で苦しんでいるところに追い討ちをかけられてどれだけ辛かったのだろうか。東京都港区の人権に関する調査では、「犯罪被害者やその家族への差別が存在するか」という問いに対して、「存在する」と答えた人が67.3%であった。これらは日本国内での話だが、外国でも差別は存在している。

どうしたら差別をなくすことができるだろうか。

私は、差別をなくすために、「誰一人取り残さない」ためには少数派への正しい知識を深く学び、身につけ、それを他者に伝えることが大事であると考える。
差別や偏見は無知、誤った知識からきていると私は思っている。
アインシュタインの言葉で、「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションでしかない。」というものがある。私たちの常識とは、別の立場の人の常識なのだろうか。正しい知識を身につけ、それを他者に伝えていく。その人がまた別の人へ伝える。学ぶ環境がある私たちが率先してこの良いサイクルを作っていきたい。差別をなくすために。

 

金子美乃里 横浜国立大学 3年生

 

私は10年前に起こった東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故で被害を受け、いまだに取り残されている人々について考えたい。世間ではほとんど取り上げられなくなったが、あの事故による被害はまだ続いており、終わりが見えない状況にある。
 「自主避難者」という言葉とその意味を、いったいどれだけの人が知っているのだろうか。私も少し前に受けたメディア論の講義で初めて知った言葉だ。福島の原発事故による放射線物質の放出・拡散によって、原発近辺に居住する人々に避難指示が出されたが、その地域には該当していなくとも、汚染による健康被害を懸念して自ら避難することを選択した人々がいる。これらの人々は自主避難者とされ、国や政府などから受けられる補償などの面で、かなり不利な状況にある。そして驚いたことに、この自主避難者は「避難者」として数えられていないという。生きていくために一番に守るべき健康のための避難を国が率先してサポートしてくれないどころか、その権利すら否定されているということになる。問題は自主避難者だけではない。住宅提供や医療費の打ち切りなどにより、身体的にも精神的にも追い詰められている人はまだ多くいて、中には自ら命を絶ってしまった人もいるという。これらの人々の、権利を求める戦いや様々な苦しみとの戦いはまだ続いている。
 私は、今でも鮮明に記憶に残っているあの地震と原発事故から10年が経ち、目に見えるもの、聞こえてくるものだけで復興は進んでいると勝手に思い込んでしまっていた。しかしこのような事実があることを知り、復興の裏でもなお苦しみ、声を上げても聞き入れてもらうことができない人々を取り残し、日本は東日本大震災を乗り越え復興したと言ってはいけないと強く感じた。この問題について、国や政府の対応に不信感を抱くと同時に、日本国民として同じ国で苦しみ続けている人がいることすら知らなかった自分自身に腹が立って仕方がなかった。世界に目を向けるよりも前に、少しでも自国で取り残されている人々の力になれることを行っていかなければならないと思った。そのためにまず私が行うべきことは、何が起こっているのか、何が真実なのかを自ら知ろうとすることだ。どんなことにおいても、立場が弱い人や少数派の人々の声は埋もれてしまいやすい。大きな声にかき消されてしまった小さな叫びがあるかもしれないということを常に考え、それを自ら知る努力をしなければいけないと思う。そして、知るだけでなく、できるだけ多くの人に伝えていくことも必要だ。知る人が増えれば、一緒に声をあげる人や救おうとする人も自然と増えていくはずだ。取り残されている人々の声を拾い、みんなで救っていくという日本を作るための一員に私はなりたい。

 

近藤裕基 NPO(名古屋大学大学院修士卒業)

 

昨今のコロナ禍にて各国において人種間の対立が激化したように感じざるを得ない。アメリカのブラック・ライブズ・マター(BLM)などの事例があり、小さな問題をカウントすると数え切れないとも言うことができそうである。
しかしながら、私の立場から見ると人種やジェンダー、民族、障がいの有無など劣っているとか優劣はないと思う。
そもそも、人間の祖先をたどれば、一つの個体に行き着く。生物学的にいうと我々みんなが共通の祖先をもち、少なからず血のつながりを持つ。
さらに、SDGsでは多様性やダイバーシティ、差別・偏見の防止に関連するものが目標として抱えられているものの、そもそも極論をいうと私はマジョリティなど存在せず、みんながマイノリティだと考える。世界人口70億人を超える中で、70億の過半数を占める宗教や民族、国民、人種は存在せず、世界人口的な規模で見てみたら置かれる環境によっては必ずマイノリティになると言える。
私たちはついマジョリティだと感じることがたびたびあるものの、実はマイノリティだと気付くことで価値観の変化があると考える。
マイノリティだと気付くことでおごり高ぶることが減ると考えられうるし、また一人一人少しずつ個性や性格、特徴が違うので、全く同じ人間はいない。そう考えることが多様性への一歩であり、個人個人一人一人がマイノリティだと気付くことによりお互いの違いをお互いに尊重することにつながると思う。
世界でもマジョリティ、マイノリティという言葉が多用されている傾向にあるが、その言葉自体が対立を招く一つの要因なのかもしれないし、それが人々の中で「マジョリティVSマイノリティ」という構造を無意識に作ってしまっているのかもしれない。
もしかすると、みんなが「マイノリティ」という自覚をもつことで、自分一人では何もできない、マジョリティという構造を借りてラベリング化によって安心感を得ているのではないか、さらにはそのマジョリティという構造化から除外・阻害される人は劣っているという見方が存在するのではないか、と私は考えた。

しかし、もし地球全人類がそのようなマジョリティがいい、マイノリティが悪いという形式的な構造や常識から抜け出し、一人一人が実はマイノリティになりうると考えたとしたら、それは「差別禁止」や「ダイバーシティ」を訴えかけることよりも効果があると私は考える。
ゆえに無意識に作られてしまった偏見・ステレオタイプに縛られることなく、一人一人の価値観、「マイノリティ」だという考え方が本当の意味で多様性のある社会を構築することにつながると思う。

 

近藤櫻仁 東京都東大和市立第二中学校

「幸せの象徴」の裏側に

「お父さんと 2 人で選んだ指輪なんだよ」

そう言ってお母さんは嬉しそうに私に結婚指輪を見せてくれた。指輪の中央には光り輝くダイヤモンドがあり、まさに「幸せの象徴」として両親を繋いでいるものだと実感した。しかし、ダイヤモンドが採掘される場所は地球上でも限られており、そのほとんどは海外だそうで、日本は今まで約 1.5 トンにもなるダイヤモンドを輸入しているという。私たちの生活にこんなにも身近なダイヤモンドは、一体どこから来ているのか。私はそのことについて調べてみることにした。

すると、目を疑うような信じ難い言葉を見つけた。それは「ブラッドダイヤモンド」日本語にして「血塗られたダイヤモンド」というアフリカのことを指す言葉だった。「幸せの象徴」のはずのダイヤモンドがなぜそのように呼ばれているのか初めは意味が分からなかった。1980年代から 90年代、アフリカでは各国で頻繁に内線が起こり、計り知れないほどの犠牲者がでた。中部アフリカに位置するコンゴ民主共和国では、ダイヤモンドの奪い合いから内線が続いているという。18歳に満たない子供兵が戦場で戦っていたり、強制労働を強いられる人々がいたり、対立する武装グループの中にはダイヤモンドで得た資源で武器を買ったり、それらを不正に輸出することで利益を得ている例もある。そしてその背景には鉱物資源を購入する私達先進国の企業、消費者の存在があるのだ。この事実を知り、私は鳥肌が立った。私はこの問題の当事者だったのだ。

現在は、ダイヤモンドの他にもスマートフォンやパソコン、デジタルカメラなど多くの電子機器に使われるレアメタルがアフリカの内戦の原因になっており、私達がスマートフォンなどの電子機器を買えば買うほど、遠い国の争いに加担することになってしまうことが分かった。私の担任の先生は青年海外協力隊としてベナン共和国で活動していた。先生は常々「アフリカの中で起きている問題はアフリカだけの問題ではなく先進国など、それ以外の国が関わっていることが多くある」と言っていた。実際にダイヤモンドによる内戦も先進国の利害が関係していることが分かった。

最近では紛争ダイヤモンドではないことを証明する「キンバリープロセス証明書」を確認した上でダイヤモンドを購入することができるようになってきているし、「誰一人取り残さない社会」を作る為には、やはり「知る」ことが大事だと思う。国連が掲げるSDGsは、そんな世界の問題を知る上での指針になると思う。僕達はこの問題にとどまらず世界で起きている様々な問題を様々な視点から知り、判断していく必要があるはずだ。「誰一人取り残さない社会を私達が作っていく」そういう気持ちでこれから行動していこうと思う。

 

橋本文香 兵庫県立大学

世界の子どもへ教育と幸福を

世界には、学校に行けない子どもたちがどのくらいいるのでしょうか。そして、その子どもたちはなぜ学校に行けないのでしょうか。私は初めこの問題を日本という枠の中で考えました。現在日本は高齢者の割合が3割近くとなる超高齢社会。またこの状況は進行し続けると考えられています。高齢化が進む中で日本社会は高齢者のための福祉施設の充実、病院の建設など、保健・医療・福祉が連携した状況が多くみられます。しかし、今後高齢者を支え社会を担っていくのは紛れもなく今を生きる若者たちです。若者が減ってしまっては、高齢者を支えることすらできなくなってしまいます。私のこのような考えが日本や世界の子どもたちの学習環境を調べるきっかけとなりました。
 2018 年9月にユニセフが発表した資料によると、世界の 5 歳~17 歳の子どもの 5 人に 1人にあたる 3 億3百万人近くが学校に通っていないことが分かりました。またその多くは発展途上国で暮らす子どもにあることが分かっています。1つ確認すべき点は、「学校に行けない」とは精神的な引きこもりや不登校といった意味ではなく、経済面や貧困的な問題を意味するといったことです。学校に行けない理由としては、今もなお続く内戦に巻き込まれる、学校に通うお金がない、重病にかかった、など様々です。さて、この問題は SDGs の目標のうち、「質の高い教育をみんなに」につながると考えます。またこの目標の中には「無償かつ公正で質の高い教育」というターゲットがあります。日本を含む先進国では、初等教育、中等教育、高等教育を受けられる体制が整えられており、私たちは当然のようにその恩恵を受けることができます。しかし、1歩外の世界に足を踏み出すと、この状況は必ずしも当たり前ではなくなります。私は、「当たり前」に質の高い教育を受けられることが今やこれからを生きる若者にとっての基盤になると考えます。
 では、具体的な対策について、先進国と発展途上国に分けて考えていこうと思います。まず先進国では、保育所や幼稚園の設置や充実、教育に無償化などの対策が必要です。先進国では、急速な核家族化や両親の共働きなどの社会の変化がめまぐるしくおこります。またインフラの整備などによる学習環境の提供の困難など、就学前の制度の充実も求められます。
 一方、発展途上国における取り組みとして、先進国と同様、教育の無償化を推進することが効果的であると考えます。教科書無償運動や無料の給食導入、奨学金を提供することが、貧困状況から脱し自立した人生を送るための基盤となります。またこのような取り組みを行うためにはもちろん「学校」という場が必要不可欠です。一般的に、私立の学校のほうが学費やその他もろもろの費用が高いため、貧しい家計には私立の学校へと子どもたちを通わせる余裕はありません。よって公立の学校の建設が望ましいと考えられます。また私たちが身近に取り組めることとして募金があります。ユニセフの主な活動分野には教育も含まれます。子ども用の鉛筆、消しゴム、スクールカバン…私たちの募金する一円一円の積み重ねはこのような目に見える形で世界の誰かに届けられています。今を生きる世界の子どもたちが貧困や内戦などの理由により、“学ぶ場”から取り残されないためには、社会全体で補い助け合っていかなければなりません。私の、あなたの、たった 1 円が、1 人の人間への学ぶ場の提供につながります。
 学校に行けない子どもたちに1日でも早く学ぶ場を提供することが持続可能な社会をつ
くる第一歩であると私は考えます。

参照 web ページ“世界の就学状況報告発表”
https://www.unicef.or.jp/news/2018/0155.htm

 

 

橋本さくら 神奈川県立多摩高校

 

 私が先日皮膚科に行った時看護師の人からこんなことを聞きました。最近は男性でも脱毛をする人が増えてるんですよ。私はこれを聞いた時「美意識が高いんだなぁ」としか思いませんでした。この話を帰ってから家族にすると、弟は「俺もしたい」と言いました。まさか弟が興味を示すなんて思わなかったのか、父はとても驚き、「男なのに!?」というような反応をしました。この時初めて私は男女という性別の間に偏った考えを持つ人がいることに気付きました。
 現在、少し前の時代にはあまり目にしたり耳にしたりしなかったことが出てきました。それは例えば、男性が化粧をしたり、髪を伸ばして可愛らしいヘアスタイルをしたり、ピンクやハート柄を取り入れたファッションをしたりということです。また、芸能人やインフルエンサーとして活躍する人も出てきて、これまでマスメディアにはスポットライトが当たらなかった様々な個性を持つ人が頻繁に登場するようになりました。ゲイ、ニューハーフ、女装家、男装アイドル、レズビアンカップル、バイセクシュアルのコメディアン、トランスジェンダーなど多種多様なタイプの人がここ最近になって一気に広まりました。この変化に対して昔からの固定観念や習慣にとらわれて受け入れられない人がたくさんいるように思われます。なかにはこのような人たちを気持ち悪いと批判したり軽蔑したりする人もいます。私のこれまでの経験や周りを見てもこのような個性を持つ人たちにあまり出会ったことがないので批判を受けた時に孤立してしまう可能性は高いでしょう。それを恐れて自分の思うように振る舞えなかったり自分を素直に表現できない人が少なからずいるはずです。近年、LGBTへの理解は広まってきています。しかし男は外で仕事、女は家で家事育児というような男女の性差に囚われないジェンダーレスという考え方はよくわかっていない人が多いように思えます。
 この状況を改善するために私たちには何ができるでしょうか。私はこの問いに対してその人その人の考えに触れ、尊重し、受け入れることが大切だと考えます。自分にはなかった考えに触れた時や実際にそういう人に出会った時すぐに受け入れることは難しいと思います。人それぞれ考え方があるので無理に自分の考えを変える必要は無いでしょう。A君は物知りだ、Bちゃんはオシャレだ、C君はお調子者だというのと同じようにそれぞれの個性として受けとめるべきです。異質なものとして遠ざけるのではなく歩み寄ることで自分の視野を広げることができます。これからますます新しいタイプの人が現れて来ると思います。だからこそお互いの個性を認め合い『誰ひとり取り残さない』社会を作っていきたいです。

 

宮崎あおい 兵庫県立大学 1回生 環境人間学部食環境栄養課程

飢餓をゼロにするためには

世界には、様々な分野において取り残されている人々がいる。私は管理栄養士の養成課程に所属しており、食について考える機会が多くある。日本には十分に食料があり、飢餓とは縁がないと考えがちだが、平成22年の世界価値観調査によると、日本の飢餓経験率は5.1%である。その主な原因は貧困であるため、私たちと関係がない話ではない。そこで、今回はSDGsの目標2である「飢餓をゼロに」の考えをもとに、私たちができる活動について考えていこうと思う。
飢餓の原因は、紛争、自然災害、またはそれらによる貧困などがあり、それぞれが複雑に絡み合っているため単純に解決することは難しい。しかし、国民一人ひとりが意識をすれば、塵も積もれば山となるように、状況の改善に大きく貢献できるだろう。そのために一番必要なことは、多くの人に今の世界の状況を知ってもらうことである。知ってもらうことができれば、少しでも人々の意識を変えることができる。知ってもらう方法として、私はSDGsについてテレビで知ったので、テレビやSNSで取り上げてもらったり、こうして私たちがSDGsについて文章にしたりすることが挙げられる。
次に、私たちがこの問題に対してできることは、食品ロスを減らすことである。それを実現するために、私たちの最も身近なところでは、まだ食べられるものを捨てないこと、食べられる量だけ買うことが挙げられる。消費期限と賞味期限の違いを理解することも食品ロスを減らすための一歩になる。しかし、飲食店での廃棄はどうしようもないようにも思われる。飲食店でアルバイトをしている方からは、廃棄の量が多すぎて驚いたという声や、もったいないけれど一人でどうにかできる量ではない、という声をよく耳にする。そこで、多くの企業で活用してほしいのが、フードシェアリングサービスである。フードシェアリングサービスとは、小売店や飲食店で出た、食べられるのに廃棄になってしまう食品を購入できるというものである。私も実際にこのサービスを受けられるアプリケーションをダウンロードしているのだが、今私が住む兵庫県にはこのアプリケーションと連携している店舗が90軒あり、通常よりも安く手に入る場合が多い。もっとこのようなサービスに協力する企業が増えれば、サービスの利用者が増え、食品の廃棄も減っていくと考える。
これらの活動は直接飢餓の改善につながるわけではない。しかし、食料の大半を輸入で占めている日本において、将来的に日本で必要でなくなった食料の輸入が少なくなり、その食料が食料不足の現場に届けられるのではないかと考えている。このように少しずつではあるが、人々の意識や行動によって「飢餓をゼロに」という目標を実現していけると思っている。
私たち一人ひとりの意識や行動で社会を変えていくことができるということは、飢餓の問題ではなく、他の分野についてもいえることである。「取り残される人」の立場に立ち、どのような対策が必要なのか、自分で考え、行動に移すことが必要であると考える。

 

宮崎陸 神奈川県立多摩高校

 

母いわく、私の小さい頃は病気と隣り合わせだったらしい。様々な病気、中には生死に関わる病気もあったようで、それらを経て今の自分があると考えると改めて命の尊さを実感する。そんな幼少期を送ったため、成長した今、医療に関するニュースに対して敏感に反応し深く考える事が多い。
 今日、世界中がコロナウイルスの大流行によって日常生活を脅かされている状況で、ふと耳にしたあるニュースが私の関心を掴んだ。それは「コロナウイルスによる病床の逼迫によってコロナウイルス以外の病気を診てもらえない、診る余裕がない」というものだった。中には、そのせいで詳しく診てもらうことができず、悪化して亡くなってしまうといったケースもあった。もちろん、「コロナウイルス」という未知なものを前にすると人々の関心はそこに向けられる。一方、他の病気はどうだろうか。例えばガンは日本で最も多くの人を死に至らしめるし、コロナウイルスによる死亡者よりうんと多い。それにも関わらず、コロナウイルスによって逼迫した医療から取り残され、最期を迎えてしまう人がいる。これはどうなのだろうか。
 この状況を作り出す「コロナウイルス」と私たちがどう向き合っていくか。それがこの問題に立ち向かっていく上で大切なことだ。最近は緊急事態宣言が発令されても人々の危機感はあまり強まらず、普段通りの生活を送ることに抵抗を覚えていない。「どうせかからない。」「若いから大丈夫。」などのコメントを報道番組の街頭インタビューで耳にすることもある。心の中で「私は大丈夫」「このくらいならいいや」と言ったどこか他人事のように思う気持ちを持っている人がきっとたくさんいる。私たちが「コロナウイルス」を含めた病気にかかった人たちを『誰一人取り残さない』ためにできることはまずそう言った意識から変えていかなければいけない。命の重さに優劣なんてないから誰もが平等に病気を治してもらう権利があるし、誰もがそれを大切にする義務がある。そんな他人の権利や義務を守るためにも私たちは当事者意識を持ち、人のために行動できる人間にならなければいけない。
 日に日に人々に与える影響を強めている「コロナウイルス」とそれに反比例するように薄まっていく私たちの危機意識。「誰が悪い」「なんとかのせいだ」と怒りの矛先を向けにくいからこそ、関心や危機意識が薄れがちではある。だが、誰も悪くないからこそそれに苦しめられてる人たちを救うことができるのもまた自分たちなのだということを自覚し生活することが大切なのではないだろうか。

 

久保田睦己 鎌倉市立小坂小学校 6年生

 

 僕は、SDGsの14番の海の豊かさを守ろうのポスターを書いたり、そのポスターを貼ったりする活動をしています。なぜそのような活動をしようとしたかというと、3年生の時にプラスチックについて調べたし、5年生の時には先生が海洋汚染についての番組を見せてくれて海洋汚染の深刻さがわかったからです。呼びかけをしているのに町を歩いていると、プラスチックが落ちています。プラスチックは、太陽の光を長い間浴び続けていると細かくくだけて、とても小さなマイクロプラスチックになってしまい、雨がふって川により海へ流れていってしまいます。

 そのせいで魚達がプラスチックをエサだと思って食べてしまいます。そしてその魚を食べた鳥たちやクジラにも悪影響を及ぼしていて、しかも今では年間800万tものプラスチック(ジャンボジェット機5万台分)が海に流れ込んでいます。【資料1】また、今では新型コロナウイルスの感染拡大により、需要が急増したマスクや手袋などが新たな環境問題を引き起こしています。

 それを皆さんに知ってもらったり、海洋汚染を防ぐために3つの提案をします。
1つ目は、まず身近な所から始めるということです。それは、具体的に3Rです。まず3Rとはリデュース、リユース、リサイクルというものです。リデュースとはゴミになるものを減らすということ。リユースとは、ものを大切に繰り返し使うということ。ゴミを原材料として再生利用するということです。この3Rはゴミを減らして、限りある地球の資源を守るために、資源を有効に繰り返し使う社会を実現するために大切なことだと思っています。しかも、3Rは海洋汚染をあまり知らず、それを防ぐために何をすれば良いかわからない人にとって、かなりやりやすいのではないかと思っています。

 2つ目は、海に落ちているプラスチックをリサイクルして製品を作ることです。なぜなら、海に落ちているプラスチックを再利用することでプラスチックを減らし、海の魚達への被害を少なくすることができることができると僕は思っています。しかし、これは子どもである僕達には難しいことです。なので企業に頼み、落ちているプラスチックを製品にしたら良いと思います。

 3つ目は、プラスチックを拾ったらポイントがもらえて、ポイントがたまったらご褒美がもらえるというようなアプリを使ってもらうことです。なぜそう思ったかというと、そのアプリを使うことでみんなが海に落ちているプラスチックを拾ってくれて、自然にプラスチックが減っていき、海洋汚染問題を少しでも解決することができると思ったからです。

 今までの話をまとめると、今では海洋汚染が深刻化していて、海の魚たちに悪影響を及ぼしています。しかも、これは魚たちだけが被害を受けているのではなく、魚をとってそれを売って生活をしている人が困ってしまいます。SDGsの目標である誰一人取り残さない社会になるように僕は3つの提案をしました。この提案が通るかは分かりませんが、僕は海を守る活動を続けようと思っています。

参考資料
【資料1】WWFジャパン
    今世界で起きている「海洋プラスチック」の問題
URL: https://www.wwf.or.jp/activities/basicinfo/3776.html

 

吉澤一晃  就労移行支援manaby

 

 私達が暮らす現代社会において、ネットは欠かせないものになってきています。気軽に閲覧できる動画サイト、欲しいものをすぐに探し出せる通販、知らない人と交流できるSNSなど、日々生活する上でネットに触れない機会はありません。ネットの普及で、確かに私達の生活は便利になりました。しかし、その裏でネット社会は『必然的に取り残される人を作る』という重大な問題を生んでしまっているのです。
 よくSNSの登場で『世界中の誰もが自分のメッセージを発信し、伝えられるようになった』と言われます。あれはとんでもない間違いです。確かに発信自体は誰でもできますが、伝えられているのはごく一部の人間だけなのです。
 例えば人気タレントのSNSでのコメントは多くの人が目を通します。熱心なファンが常時彼らのコメントをチェックし、『いいね!』などの反応をします。そして自分たちの知り合いにもコメントを拡散してさらに注目を集め、時にはニュースにもなるのです。言うまでもなく、彼らは自分のメッセージを発信し、伝えられていると言えます。
 では、日常で誰とも関わりがない、無名の人間の場合はどうでしょう。例えば人種差別についての訴えをコメントしたとして、果たして何人の人間がそのコメントに目を通すでしょうか。結論を言いますと、誰も通しません。顔も知らない、どこの誰とも分からない人の訴えなど、誰も興味を持たないのです。これでは自分のメッセージを発信できていても、伝えられてはいません。メッセージは誰かに伝わってこそ意味を成します。誰も見ないのでは、発信していないのと同じなのです。
 この問題は、ネット社会のある特徴に関係している可能性があります。ネット社会では、『見たい時に見たいものを見られる』のです。ネットを使えば、好きな時に映画やドラマ、動画サイトを見られますし、SNSも自分の好きなユーザーをフォローし、そのユーザーのコメントだけを受け取れます。ネットが普及する前の、テレビが主要メディアだった頃はそうではありません。テレビは制作者がフォーカスした情報を一方的に提供するだけですが、例えば家族と共にテレビ番組を見ることで、それまで関心がなかった情報に触れる機会があったのです。しかし今や主要メディアはテレビからネットに代わり、自分で見たい情報を検索し、選べるようになりました。結果、私達は興味がない情報に触れる機会がなくなってきてしまっているのです。
 こうして、誰からも興味を持たれない無名な人間のメッセージは、たとえそれがSOSであったとしても伝わることなく埋もれていきます。これが、『取り残される』ということです。物理的な意味だけではなく、「私はメッセージを発信しているのに誰も見てくれない、誰からも助けてもらえないんだ」と精神的にも取り残されるのです。
 ではどうすれば良いのか。『メッセージを伝えたくても伝えられない人間が大勢いる』というメッセージを、大勢で伝えるしかないのです。既に述べたように、現代の社会で取り残されている人は大勢います。だからこそ彼らから共感を集め、誰もがメッセージを世に出せるような社会を作るべきなのです。
 私自身も人生で多くの挫折を味わい、実際にネットで伝えようとメッセージを発信しましたが誰にも見てもらえませんでした。私は自分だけ取り残される絶望を味わうと同時に、『これではネットが普及する前のメッセージを発信する手段がなかった時代の方がマシだ』とすら感じました。しかし、「同じ悩みを持つ人は他にもいるはずであり、彼らと共に社会を変える努力をしたい」と強く思うようになったのです。その努力は今からでもできます。専門機関の会合に参加して自らの口で訴えて共感を集めたり、特定のテーマのサークルを立ち上げ同じ悩みを持つ人を集めるなど、やれることはたくさんあります。確かに今の私ではメッセージを発信しても社会に伝わることはありませんが、こういった地道な行動をし続けることで、やがて伝わるようになると信じています。
 以上のように、世の中にはネット社会の仕組みによって取り残されている人が大勢います。しかし、世界中の誰もが自分のメッセージを発信し、伝えられる社会を作れば、誰ひとり取り残されなくなるのです。そしてその社会こそ、ネットが普及したことによって実現すべきであった、本来の形なのです。

 

K.Y.  放送大学 1年生

 

あなたのセクシャリティは何ですか?
きっと「私は男、女だ」と考えた方が多いのではないかと思います。
でもそれは絶対にそうでしょうか。
もしかしたら、まだ自分のセクシャリティに気づいていないだけかもしれません。
私は、以前まで自分が当たり前に“女“だと思っていました。
自分のセクシャリティを疑うこともなく、これが普通なのだと思っていました。
私が自分のセクシャリティについて考えるようになったのはある芸能人の方を知ったことがきっかけです。
その方は性別がどっちつかずで分からなくて、初めて見た時は私の知らないセクシャリティに衝撃を受けました。同時にその個性がものすごくかっこ良く見えて、紐で引っ張られるように引き込まれたのを覚えています。
その後から、その芸能人の方のようにかっこよくなりたくて、その方が見えている世界を少しでも共有したくて私も性別がわからないようなファッションや仕草をするようになりました。
やってみると、これ以上ないほどしっくりと自分の個性にはまった感覚がありました。霧の中で掴めなかった自分の個性が、サーっと霧が晴れるように見えてくるような感覚です。霧が晴れてくると、以前まで気づかなかったけれど確かにあった「性別が男と女しかない」ことの不快感、違和感を感じていたことに気づきました。
違和感に気づき始めてから、私はLGBTQ +について調べました。調べてみると、セクシャリティは男、女の二つに留まらず、中性やどちらでもない無性、好きな性別の振る舞いをするセクシャリティなど、数え切れないほどのセクシャリティがあり驚きました。
その膨大なセクシャリティの種類を見て私は「セクシャリティの広さを知らなかったから違和感に気付かずにいたかもしれない」と思うようになりました。
実際、私はあの芸能人の方を見なかったらずっと違和感に気付けず、そして自分のセクシャリティに疑問を持つことなく大人になっていたと思います。
私がそうであったように、「自分の性別、セクシャリティは疑うことなくこれだ」と思っているけれど、まだ自分のセクシャリティに気付いていないだけの方がいらっしゃると思います。
色々な人が、自分のセクシャリティと向き合うことが増えたら、“誰ひとり取り残さない“ことのできる社会に一歩前進するのではないでしょうか。

 

吉田幸太郎 横浜国立大学 2年生

 

SDGsの基本理念である「誰ひとり取り残さない」について、私は「自然に触れあう機会を与えられているか。」という観点から考えていこうと思う。普通、「誰ひとり取り残さない」と聞くと、人種問題やこころとからだの性、教育の機会の平等などが連想されるだろう。しかし、私は現在のコロナ禍で、心の豊かさがなくなっている人が増えていることから、緑や自然に触れあう機会が必要なのではないかと思った。特に、首都圏の大都市では自然に触れ合う機会が未だ少なく、その結果か心の豊かさを求める人が多く感じる。そのため、私が言及している観点からみると「取り残されている」都市部に住む人達が緑、自然を享受する機会を積極的に与える方法を見つける必要があると考える。ここで、私の話をする。私は横浜市の比較的緑や自然に恵まれた地域に住んでいる。そのため、幼少期から自然と触れ合いながら生活してきた。その経験が、現在の心の余裕や豊かさに関係しているのではないかと思う。特に、近所の舞岡公園には動植物の多様性に恵まれた生態系と田んぼや古民家等があり、自然と人間が共存しあっている場であった。その場所での経験は貴重なものであったと感じる。しかし、現在、都市部に住む子供たち(大人も)はそのような経験ができる場所があるのであろうか、近所の小さな公園が自然と触れ合う場というのであれば、私は否定したい。建物と雑音に囲まれた閉塞感のある場では心は休まらないと思う。心の豊かさとは目に見える指標ではなく、自分の主観でしか判断しないが、現在のコロナ禍における都市部に住む人々のストレスはそのような場では解消されないと感じる。比較的ストレスに強いと思っていた自分でさえも、昨年は非常に心理的ストレスを感じていた。それを解消してくれたのは、先ほど説明した緑、自然に触れ合う機会のおかげといっても過言ではない。それほど自然が我々に与える影響は大きい。今では、未だコロナ禍以前の生活に元通りとは言えないが、大学に通い、部活動ができ、比較的充実した生活を送ることができる。しかし、大都市である東京に住む人たちはどうだろう。東京の大学に在学している私の友達の多くは現在もオンライン授業がほとんどであり、人が非常に多く集まる場所であるためコロナ対策による制限も多くある。そのような生活の中で、やはり緑、自然と触れ合う機会は非常に需要があり、心の豊かさにつながるのではないかと思う。私は現在、大学で都市と自然の関係性について学んでいるため、このような観点からSDGsの掲げる「誰ひとり取り残さない」社会を考えた。多くの人に私の意見を共有していけたら良いなと思う。

 

吉原夏芽 横浜隼人高等学校

 

SDGsを達成するには貧困、飢餓、男女格差などあらゆる場面において弱い立場の者が声を上げることが重要だ。なぜならそれらの問題における強い立場の者はそれらを改善しようとする動きが鈍いためだ。
日本の飢餓人口は9.2%で国民の約1割が飢餓に苦しんでいることになる。この数字は他の先進国と比べて大きく、近年増加傾向にあるといい、特に若年層と高齢層で飢餓が広まっている。しかし国内で飢餓を改善しようとする運動は活気付いていないように思う。確かに日本では飢餓や食糧不足の問題より、男女格差など他の問題についてよく耳にする。しかしこの状況では飢餓、食糧不足の問題は一向に解決せず、「誰1人取り残さない」は達成されないだろう。なぜなら、先ほど述べたように日本に住んでいる多くの人々は飢餓、食糧不足の問題に直面しておらず、そのため関心が薄く、他人事だと考えている人があまりにも多いからだ。つまり問題を解決しようとする人々が少ないのである。では問題を解決するにはどうすれば良いのだろうか。それは弱い立場の者が声を上げ、助けを求めることである。私はこの小論文、作文コンテストが無ければ国内で飢餓に苦しんでいる人がこれほど多いと知らなかった。なぜ知ることができなかったというと飢餓の苦しんでいる人々の声を聞くことができなかったためである。ところで、ネットカフェ難民という言葉を知っているだろうか。ホームレスの一種で、定住する住居がなく寝泊まりする場としてインターネットカフェを利用する人たちのことを指し、ネットカフェ難民となった大半の理由が仕事をやめて家賃が払えなくなったためだという。彼らはなぜ自分の住処を得ることができないのか。親戚や友人に相談すれば簡単に解決しそうな問題である。私は彼らが自分が置かれている状況を恥じており助けを求めることが難しくなっていることが原因だと考える。周りが気付いてあげることも重要だが救済される側が受け身となっていてはいつまでも気付くことができずSDGsの誰1人取り残さないという目標は達成しない。救済される側と救済する側が責任を持って貧困、飢餓に対処することが重要である。したがって私が行うべきことはどんなに小さなことでも不平等だと感じたり、助け欲しいと感じたらすぐに声を上げることである。誰かが声を上げたら人々はそれに賛同し、ついてくるものだ。弱い立場にいる人が勇気を出して大きな問題に取り組むこと、それが問題解決に繋がる大きな一歩である。

 

吉原愛璃 横浜隼人高校

 

私は「誰一人取り残さないSDGs」を実現するために必要な事は十代、二十代へのSDGsに関する教育を徹底するべきだと考える。それはなぜか、若者はSDGsに関する「当たり前の時代作る」力があると私は考えているからだ。そう考える理由は二つある。一つ目は、SDGsに対する理解や考えが薄いからだ。例えば、SDGsのテーマの一つである「海の豊かさを守る」ためにスーパーにレジ袋を待って行ったりを積極的に行っているのはほとんどが大人であると私は思っている。だが、もしSDGsへの理解や考えが浅い若者たちに教育を徹底すればスーパーにレジ袋を持っていくことも、食品ロスを無くすために必要な分の食材しか買わないなどが当たり前になる。そして若者達が社会人、いわゆる社会の手本となる立場になったとき若者達は
それを当たり前として見習う。それはきっと何十世代、何百世代と続いていくだろう。若者達へのSDGsに関する教育を徹底して行う事は私たちが計り知れないほどの可能性を持っていることだろう。
二つ目はSNSを多く利用していることである。例えSDGsのニュースがテレビで多く取り上げられ特集が組まれていたとしても私を含む若者達はニュースは滅多に見ないしYouTubeやインスタグラム、ツイッターなどのSNSに夢中だ。それにSNSは発信する側とそれを見る側で成り立っている。具体例としてバリ島で「バイバイプラスチックバック」と言う取り組みを行った姉妹がいる。彼女達が問題視したのは美しいバリ島に浮かぶべきでは無いゴミ袋だった。しかし彼女達が住むバリ島は小さな島国で署名を集めることも大変だったのです。ですが彼女達にはSNSというbきがあつたのです。直接だけでなく実現しようとしているゴールやレジ袋のデメリットなどをオンライン・オフラインで署名活動を行った。それに加え、レジ袋を廃止しているサインであるステッカーが貼ってあるバリ島内の店名をSNSで公表し、ステッカーを貼っていないお店がバリ島内で目立つような取り組みを行った。のちに彼女達のこの活動はバリ島を飛び出し、各国の大人が集まった講演会でも活動について話すなど世界の人からも注目を集めた。ここまで述べたようにSNSには国境や人種を超えて交流をする頃ができる。もし十分な教育を受けられていない地域の人と日本の学生がSNSを通して繋がれば、日本の学生は世界が抱える問題をよりに近くに感じることができると思う。先ほども述べたが若者の持っている発想力や可能性は無限である。行動しようとする意欲とツールを十分に持っている。だからこそ
SDGsに対する教育を徹底し、導いていく必要があると私は思った。

 

岩上ゆり(仮名) 高校3年生

 

近年、日本国内では他の先進国には遅れをとったもののLGBT等の性的マイノリティに対する配慮がされるようになってきた。しかし、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの知名度は上がったものの、他の性的マイノリティでは同様でないのではないか。また、LGBTについても誤った固定観念が形成され、本質的には当事者個人への理解がなされていないのではないか。
さて、SDGsの目標5にジェンダー平等という項目がある。内容には女性の権利向上を目指す文句が多いが、これは発展途上国において未だ男尊女卑の風潮が強くのこり、女性らの生存権をも脅かすような現実があるからだろう。しかし日本のような先進国においては、未だ男女差のある分野もあるものの、基本、男女平等が実現しつつあると思う。そこで私は次のステップとして全てのセクシュアリティの人にとって生きやすい世界を目指すべきではないかと考える。
現代の多様化した生活様式に対し、社会は男女二元論に拘泥しすぎではないか。社会に浸透しつつあるLGBTに関しても、例えばレズビアンは性自認が女性であり女性に性的指向が向く場合、狭義のトランスジェンダーに関しては性自認が身体性とは異なる場合を指すが、あくまで男女どちらかという枠組みに収まるために、偏見は少なからずあるものの、社会でもある程度理解されるようになったのではないか。
しかし、世の中にはLGBTには当てはまらない性自認や性的指向を持つ人もいる。例えば、性自認が男女どちらにも決まらないXジェンダーや、性的指向が全ての性の人に向くパンセクシュアル、自身のセクシュアリティに悩んでいたり意図的に決めていないクエスチョニングなど、男女の枠組みでは語れないセクシュアリティも多種多様である。ただ、それ故に異性愛者で、性自認と身体の性が一致している、所謂普通の人には共感をしたり想像で補うことのできる部分が少なく、一時の気の迷いに過ぎないとして取り合わない人も多いのではないか。男女二元論の蔓延しているこの社会の中では男女の中間層に位置する人々への理解を蔑ろにしがちなのではないかと私は危惧している。
実際、私自身もセクシュアリティについて悩んできた経験を持つ。私は自分が女性であるとするのも、男性であるとするのも何かしっくりと来ず、さらに、恋愛感情もはっきりとはわからない。ただ、それを周囲に軽く話したところで、ほとんどの人に「いつか分かるようになる」と言われるのが関の山である。確かに、セクシュアリティとは流動性を持ちうるものではあるが、このような発言はそれに関連したものではなく、人間は男女どちらかの性自認を持ち、恋愛感情を抱くこと、が常識であるという意識が根底にあることによるものであろう。
軽く話すだけでもこのような反応なのだから、性的マイノリティの中でも知名度の低いセクシュアリティをもつ者たちがカミングアウトして、自分のことを理解してもらうことは相当体力のいることだと思う。カミングアウトは相手に自分のことを理解されるとは限らないというリスクを孕み、相手の持つ固定観念や無知さ故に傷つくことも多いだろう。それらは全て、日本人のセクシュアリティに対する無関心さや、未だタブー視される話題であることが原因だと考える。しかし、セクシュアリティというものは所謂普通の人も含めて必ず持っているものであるので、決して他人事であるはずはないのだ。
そこで近年、SOGIという新たな考え方が広まり始めている。SOGIとは性的指向を意味するSexual Orientationと性自認を意味するGender Identityの頭文字をとったもので、自身のセクシュアリティを示すものであるために、全ての人を対象に、並列に扱っている。その点、性的マイノリティをカテゴライズするLGBTsなどに比べ全ての人を尊重している。さらに、SDGsの基本理念である「leave no one behind」にも相応しい概念であると言えるだろう。ただ、日本での市民権を獲得したとは言い難いので普及を目指したいところだ。
さて、よくセクシュアリティに関しての記述で目にする「性はグラデーション」という言葉がある。本来、性というものは境目が曖昧なものであり、男女やLGBTのようにカテゴライズするべきものではないだろう。ただ勿論、全ての垣根を無くせという訳ではない。性犯罪防止の観点や、どうしても生じる男女間の生物学的性差を考えると完全に取り払うことは危険であるとも思う。その辺りをどのように考慮しつつ全ての人を尊重できる世の中にしていくかは、今の私には知識不足故にまだ難しい。そこでまず、大学や社会経験を通して学びを深め、正しい情報を発信し、世を改善していけるような存在になりたいと切に思う。

 

佐藤澄仁(仮名) 大学生

 

誰ひとり取り残さない(Leave no one behind,LNOB)という誓いをコンセプトに2015年に開催された国連サミットで採択され2030年を目処に17の項目が目指すべき指針として先進国や発展途上国などといったことを問わず国連に加盟している世界中の国と国との間で合意がなされた持続可能な開発目標、通称SDGs。そのSDGsの達成に向けた動きが今世界中で取りおこなわれている。2020年に新型コロナウイルスが日本を含め世界中で流行し十分な医療を受けられずにこの世を去った人々に加えて、ウイルスの感染によるものに留まらず日本国内においては感染対策のための対策がなされその余波を受け経済的に困窮してしまったがために自ら死を選択した人々もいた。私自身は経済の専門家ではないため正解が何であるのかを知らないしSDGsの8番目の項目とは少々ズレがあるかもしれないが、この時に私は大量消費や一時的な使い捨てに依存した経済の仕組みは人々が思っているよりも脆すぎるのではないか、そう考えた。そのために誰も置いていかれず不幸にならずに済む持続可能な経済が求められているのではないか、という思いがめぐった。この文章を書いている時点でも流行当初ほどではないにしても少なからず新型コロナウイルスの勢いはとどまっていない。話は打って変わるが、私は一時期自宅にひきこもりっていたことがあった。内閣府によれば2015年の調査で15歳から39歳までの若年層で約54万人、2019年の調査では40歳から64歳までの中高年層で約61万人、合わせて少なく見積もっても100万人以上のひきこもり状態にある人々が国内にはいると推測されている。新型コロナウイルスによる社会不安の影響もあるのかもしれないが、日本がイギリスに次いで世界で二番目に孤独・孤立対策担当室を内閣官房に設置するということから事態はそれほどまで深刻であると言えるのかもしれない。さらにひきこもりを英語にするとShut-inという単語が当てはまるにも関わらず、Hikikomoriという単語が存在していることから日本だけに限らず世界中にそういった人々がいるということを示唆しているのではないかと思う。彼らがひきこもりとなった原因はさまざま、それこそ多種多様である。現状はそうでなくても原因がさまざまであるからこそ、この文章を読んでくださっているあなたも含めて老若男女問わず誰もがそうなる可能性を常に秘めており私ももう二度とひきこもらないという保証があるわけではない。そのため誰もがいつ、いかなる立場に陥っても救うことを明確に表した誰ひとり取り残さないという誓いが必要不可欠なのだと思う。そして私的にSDGsについて一歩下がった視点から言わせてもらうと実は恥ずかしながらこの文章を書いている時点で私自身は実際にSDGsの推進に貢献するような具体的活動をしたことはない。またSDGsに関するワークショップといったオンラインイベントに複数参加してはいるもののまだ100パーセントの確信を持てたわけじゃない。いくらSDGsを声高に叫ばれ表向きは盛り上がりが活発だったとしても水面下にいるサイレントマジョリティーに属する人々に共感してもらえなければそれは空虚なプロパガンダに終わってしまうのではないだろうか。SDGs達成に積極的な先進国が消極的な発展途上国に強引に押し付けるようなことがあればそれは誰ひとり取り残さないとは程遠いのでないか。SDGsそのものに懐疑的な人々、さらに現状は若者世代が中心であるためそれより上の大人世代や老人世代も含めて全員に共感してもらえるように働きかけ最終的には手と手を取り合いともにSDGs達成の実現に向けた道を歩む。それが『誰ひとり取り残さない』というものなのではないか。そうでなくただ独善的に行動したのであれば人類の歴史が示しているように対立構造が起こりやがて分断を招くという結果になってしまうのではないか、そう考えてしまう。だからそうならないためにもSDGsの推進をただ一方的に進めるのではなく具体的にそして着実に創出した成果で共感や信頼を集めていけば積極的に活動する人々が次第に増えていきSDGs達成の実現となるのではないか、少なくとも私はそう考える。私自身、SDGsに対して全く批判する意識がないといえばそれは嘘になる。だからといって目の敵にする気もなく、むしろ内心では応援しているつもりだ。この先私はSDGsに貢献できるのだろうか。そして誰ひとり取り残さないSDGs達成がなされたその先の世界でははたしてどんな光景が目に映るのか。私はそんな思いを胸に抱きながら今を生きている。

 

岸本一総 長崎大学多文化社会学部 広瀬訓ゼミ

 

SDGsの目標3は「すべての人に健康と福祉を」について皆は可能だと思うだろうか。先進国では高齢化が進み、患者が増える一方、医師の数は変わらず医療の提供は遅くなっていく。しかも国が払う健康保険料は莫大で財政的な負担は大きくなっている。途上国ではこれから都市化が進むことで人口が爆発的に増え一極に集中し、すると公害や感染症が必ず起きるだろう。そこで十分な医療提供ができるのだろうか。医師も足りなくなるし、社会の福祉のシステムを迅速に確立しなければならない。例えば国民健康保険などである。失敗すれば、必然的に貧しい人から最初に被害に遭ってしまう。しかし、私はこの健康と福祉の問題は、SDGsの中で最も改善が期待できると分野であると考えている。
 今私たちがこの問題を解決するためにできることは何だろうか。SDGsのステークホルダーは企業や国際機関だけでなく個人も含まれている。まずは自分の健康を管理することが大事だ。自分が取り残されないよう、定期的に検診などを受け、正しい医療知識を持つことで、できるだけ健康を維持することが肝要だ。COVID-19のパンデミックででは、新型コロナウイルスが蔓延し始めたころ、「白湯を飲めば大丈夫」「納豆を食べれば大丈夫」「トイレットペーパーがほとんど中国産でなくなる」などの誤った噂も広まった。混乱するあまり、正しい情報と間違った情報の区別をせず、社会が混乱した。また、若者は大丈夫と油断をして多くの人が外出をした結果パンデミックを悪化させた。まずは自身がグローバルヘルスを向上させる当事者としての認識を持ち、問題を悪化させる要因となってはいけない。それが結果的に医療にゆとりを持たせ、メディカルニーズの大きい地域への支援へとつながる。
 世界を変えたいと思うことは素晴らしいし、大事なことだ。だが、それを行動に移すのならば、何が一番効果的、効率的なのかは慎重に考えなくてはならない。例えば、健康において一番大事なものが水として、途上国で井戸を掘るボランティアがあるとする。それに参加することを決め、何時間もかけて井戸を掘る作業に入る。それまでにいくらの時間とお金を要するだろうか。井戸を掘った経験のある業者を雇う場合と比べてどちらが早く安いどうか、また、井戸を掘る効率的な仕事ができるのはどちらだろうか。あきらかに業者を呼んだほうが良いに違いない。渡航費を業者へ募金すれば素早く、しかも良質な支援ができるのではないか。健康問題は結局資金に左右される部分がとても大きいと感じる。ワクチンや医療施設、蚊帳などの道具はそれで解決する。
 もちろんお金でどうしようもないことはある。例えば、医療従事者の数、AIDs、癌などがある。医療従事者を急増させることは困難だ。したがって、医療器具・医薬品の充実を目指し、彼らの負担を減らすことを目標にするべきだ。AIDsの治療まだ無理だが、薬などで症状を小さくすることはできるし、新たな患者を生むことは充実した教育を施し知識を持たせることで防ぐことができる。癌も現代では早期に発見すれば治るため、いかに早期発見を促すかが大事だが、これは前に述べたように自分を当事者として認識し、定期的な検診を受けることで可能になる。
 健康と福祉は意外と簡単に充実できるように考える。しかしその意識を全員が持たなければなかなか実現は難しい。一人一人が健康について興味を持ち行動することで、社会課題の一つは改善へと向かうはずだ。世界の健康と福祉を考えるならば、まず自分自身を取り残さないところから始めなくてはならない。

 

岸田有里子 兵庫県立大学 1年生

 

海と聞くと何を思い浮かべますか。海は地球の面積の約 7 割を占めていて、雨水、飲料水、
気候、海岸線、食べ物、さらには大気中の酸素でさえ、究極的にはすべて海が提供していま
す。しかし、その海は現在深刻な問題を抱えています。
まずは魚の獲りすぎについてです。今は 1970 年当時の 49%しか魚がいませんが、私たちが
お寿司屋さんやスーパーに行くとたくさんの魚が並んでいます。そのため、私たちは魚が減
っていることを実感することはほとんどありません。しかし、魚を限りある水産資源と認識
しないまま、環境破壊につながるような漁業を繰り返せば魚の数はどんどん減ってしまい
ます。国連食糧農業機関によると世界の水産資源の 3 分の 1 が獲りすぎの状態で、持続可
能な水産資源に頼る世界の数千万人の生活を脅かしていると言われています。このままで
は魚がいなくなってしまい、私たちは今のように魚を食べることができなくなり、漁師の方
が失業してしまうかもしれません。特に発展途上国では大きく打撃を受けると思われます。
この状況を改善するために漁獲量などの規制が行われており、その基準を満たした魚に貼
られている「海のエコラベル」と呼ばれるマークがあります。MSC 認証マークは、いつまで
も魚を食べ続けることができるように、海洋の自然環境や水産資源を守って獲られた水産
物に与えられます。このマークを見たことがある人は多いと思いますが、私は知りませんで
した。マクドナルドのフィレオフィッシュなどにもついているそうですが、日本では余り普
及しておらず、母親に聞くと、スーパーでは探しても見つからないほどだそうです。テレビ
などで取り上げることで認知度を上げることや、今の乱獲の状況を理解して認証された魚
自体を増やす取り組みも必要だと思います。そして、私たちが海のエコラベルのついた魚を
買うことで、水産資源を守ることや、持続可能な漁業に取り組む漁師の方を応援することに
もつながると思います。
次に、海洋汚染についてです。現在、世界中で海洋汚染や富栄養化が進んでいます。瀬戸内
海では赤潮や汚染が問題になっていたのを知っている人は多いのではないでしょうか。し
かし、瀬戸内海は栄養塩類などの規制により水質改善に成功し、現在はきれいになりすぎて
います。その結果海苔に色がつかないなどの問題が起こっており、規制緩和による水産資源
の回復が課題ですが、この瀬戸内海の水質改善の成功例は世界中の汚染や富栄養化で苦し
む国々に広め、問題点は改善しながら実践することで、汚染を減らすのに役立てることがで
きるのではないかと思います。また、海洋プラスチックの問題もあります。レジ袋有料化な
どでプラスチックゴミ問題は身近な存在になっていると思いますが、流出したプラスチッ
クのほとんどが行き着く場所が海です。こうしたプラスチックゴミは、生態系に甚大な影響
を与えており、海の生物か傷つけられたり死んだりしているだけではなく、豊かな自然で成
り立っている産業にも影響を及ぼしています。日本はプラスチック生産量が多く、世界の海
洋プラスチック問題の一因になっていることは事実です。プラスチックゴミの半分はレジ
袋、ペットボトルなどの容器・包装が占めているため、当たり前のことのようですがマイボ
トルやエコバッグを持ち歩くことで大きく貢献できると思います。レジ袋の有料化やスタ
ーバックスの紙ストローへの切り替えのように、できることから取り組むことが最も重要だと思います。
私たちが誰ひとり取り残されず、これからも海の恩恵を受け続けるためには、私たちの置か
れている状況を理解し、一人一人ができることから海洋資源を守る行動を始めていくこと
が大切だと考えます。

 

関口陽奈子 東大和市立第二中学校

「SDGs」本当に必要?

 皆さんは、忘れられた傘の行方を考えたことがあるだろうか。日本では、年間約1億3000万本のビニール傘が処分されており、これは世界ワースト一位の量である。実際、私の学校でも傘の忘れ物は絶えない。そこで、私はビニール傘及び、プラスッチクのリサイクルは本当に必要か考えた。
 プラスチックは、ビニール傘だけでなく、ペットボトルやお惣菜の容器など幅広い製品に使用されており、これらのプラスチックごみの86%はリサイクルとして出されている。しかし、実は、このようなプラスチックは日本ではなく、主に中国などの東南アジアに輸出され、東南アジアで再生されていた。つまり、これらの国々にプラスチックを買ってもらっていたのだ。しかし、東南アジアもプラスチックごみをリサイクルする環境が不十分であったため、2017年に中国は日本からのプラスチックごみの輸入を取りやめた。そのため、今まで日本が東南アジアに送ってきた大量のプラスチックごみは行き場を失い、海に流れた後、再び日本の海岸に流れ着くというケースが問題になっている。これを聞いてどう考えるだろうか。そのまま捨てず、リサイクルをするのは環境に良いと思い込み、リサイクルを行っていた私は衝撃を受けた。このような状況が続くと、プラスチックに含まれる有害物質を食べた魚を人間が食べてしまうこともあり得れば、そもそも、海の生物が絶滅してしまう可能性も十分にある。
 実際、SDGsをなぞって対策しても、もとの原因をなくしていかなければ目標達成は難しいのではないかというSDGsの目標に反対する意見も少なくない。
 このようなことから、私が考えたことは二つある。
 一つ目は、悪化の対策ではなく、一つのものを長く大切に使という考え方だ。小さな規模で言うと、リサイクルではなく、使わない、捨てないなどといった考え方が大切だと考えた。そのため、私の学校では傘立てに出席番号を書いた紙を貼り、それぞれの傘を置く場所を決めた。この活動により、今年の傘の忘れ物は0本になった。
 二つ目は、このような問題に対して決して難しく考える必要はないということである。世界問題と聞くと、つい大きなことして捉えて気が引けてしまうかもしれないが、日常生活の小さなことから変えるために行動することが大切である。私の家では傘にストラップをつけ、間違えて持って帰ってしまうことを防ぐような対策をしている。他にも、コンパクトかつ、間違えにくい折り畳み傘を持ち歩くようにするなど、たくさんの対策方法が身近に潜んでいる。
 これらは他の世界問題でも言えることで、世間で言われている概念にとらわれず、実際は本当にそうなのかと、立ち止まって別の視点から考え直す必要がある。だから私は、整った情報機関でたくさんの情報を取り入れていくと共に、もっと発信していこうと考えている。世界問題に貢献する正しい行動をすると共に、「誰一人とり残さない世界」についてもっとたくさんの人に知ってもらいたいと思う。

 

関戸紘仁 札幌市立藻岩高校

 

私は、世界のあらゆる人に健康と福祉を届けていきたいと願う。

イギリス政府の国家統計局(ONS)は3月1日から4月17日にかけて、イングランドで最も困窮する貧困地域では人口10万人につき55.1人がCOVID-19関連で死亡したのに対し、最も裕福な地域では25.3人にとどまったと発表した。

現在、世界では貧しい人が多いと言われる国は、「発展途上国」と考えている人が多いと感じている。

しかし、この捉え方で良いのだろうか?

「発展途上国」は国民全員が貧しい訳ではない。正確に言えば、貧富の差が激しい国であり、それは日本も例外ではない。

これからは、「発展途上国」「先進国」という言い方で捉えることは間違いであり、所得グループで考えるべきだと私は考える。それが以下の4つの分け方だ。

1. 1日2ドル以下で暮らす人たち
2. 1日2ドル〜8ドルの所得で暮らす人たち
3. 1日8ドル〜32ドルの所得で暮らす人たち
4. 1日32ドル以上の所得で暮らす人たち

あらゆる人に健康と福祉を届けるためには1,2の人たちを支援したなければならないと考える。

過去に、日本の医療は医学雑誌ランセットにアジアのみならず世界一流レベルだと紹介された。
医療品質レベルのランキングは、世界196ヵ国・地域の中でも中国は60位の一方で日本は11位に選ばれるほどだ。
一般的に、人口が多くなるほど高い質の医療サービスを維持することが難しくなると言われているが、1億2000万人程の人口を抱える国が世界の11番目というのは非常に価値が高く、G7の中でもトップだと評価されている。

私は世界でもトップクラスの日本の医療をアジアの貧しい国へ支援することが責務と感じる。

今後、途上国と言われる貧困層への医療教育をする事により、貧困層の自立生活水準の向上が可能となっていくと考える。
そして、富裕層も安心した医療を受けることで経済効果が望め、貧困層も徐々に中間層へシフトチェンジが可能となると信じている。

その時になれば、数の少なくなった貧困層も途上国の社会全体で支援できる体制になり
誰一人取り残される事が無くなると思う。

世界は不平等であり完璧なシステムなどこの世に存在しないのだ。

ですが、SDGsを通じて今後この世界がもっと良くなっていくことを祈っている。

 

関はるか 愛知高等学校

 

「誰ひとり取り残さない」という言葉の誰が何から取り残されないのか。
そのことを考えたとき、私はLGBTQ⁺の方々のことを思い浮かべました。
そこで、私の中での誰ひとり残さないというのはLGBTQ⁺のことを知らない人、未だ理解できていない人たちを誰ひとり残さないという意味で今回考えさせていただきました。
私は今高校生で、周りに「私はLGBTQ⁺だ」とカミングアウトしてくれた友達は数人います。しかし、そこで受け入れることが当たり前の人と受け入れることが当たり前でないの人とで、見事に分かれたのです。「へえ~」「そうなんだね」「いいじゃん」「素敵」という人、「え、まじ??」「もう女子・男子更衣室入ってこないでほしい」「変な目で見ないでね」「やば」「きも」という人。私は後者の人達の意見を傍で聞いたとき、手を出そうかと思ったほど怒りが立ち込めました。この2021年にLGBTQ⁺の方々のことを軽蔑する人がまだいることにとても残念な気持ちになり、悲しくなりました。
日本では10人に1人は自分なりのセクシュアル・マイノリティを抱えていると言われています。「えっそんな高確率でいるの?私の周り誰もいないけど」と思う方もいるかもしれません。でも、LGBTQ⁺の方達が全員、恐れなく言えるわけではありませんよね。言えていないだけで実はそうかもしれない。友達がどんな顔をするか、仲良くしてくれなくなったらどうしよう、嫌われたらどうしよう、怖くて言えない。という声はとても多くあげられます。
現在ではだいぶ理解が深まっており、LGBTQ⁺の方々が自分らしく活動できるコミュニティを作ったり、大学の方でもサークルなども増えており、LGBTQ⁺を身近に感じる人も年々増えてきています。しかし、先程私が学校で体験したように受け入れることが当たり前でない人々もまだまだたくさんいるということも忘れてはなりません。私の学校ではLGBTQ⁺のことについて勉強をしたり、講師さんが来られて理解を深めるといったことが全くと言っていいほどありません。
そのため、学校では興味のある生徒以外ほとんどといっていいほどLGBTQ⁺のことをよく知らないのです。「自分は違う」「自分は関係がないこと」「興味がないから調べたこともない」という人々が少なからずいると思います。だからLGBTQ⁺の方々に変な目を向けたり、心にもない言葉を言ってしまったりしているのではないかなと感じました。
よって、学校でもLGBTQ⁺の授業を義務化するべきだと私は思います。週1回でも1日30分でもLGBTQ⁺について学ぶ時間を設けることによって、友達同士に限らず先生同士、保護者の方々にもより「普通」のこととなり、もっともっと素敵な世界が見えてくると思うのです。カミングアウトをしても「ん?それがどうしたの?普通のことじゃん」という世界を作ることでより、人々が生きやすく新たな道が開くと思っています。
LGBTQ⁺は「特別」なのではなく、「普通」だということを。
本当の私でなくては何をしても楽しくはありません。
お互いに理解しあい尊重しあい協力しあうことが、みんなの生きる世界をより良くするための基本なのではないかなと感じます。

鎌田健太朗 神奈川県立多摩高校 3年2組

 

 わたしは生まれたときから今までで一度も食事などで困ったことはなかったし、それにそうやって何不自由なく生活することは当たり前だとさえおもっていた。わたしが小学生のときにあった道徳の時間で、ある写真をみて衝撃を受けた。うずくまっている少女をハゲワシが見つめているというものだったが、その少女はやせ細っていてハゲワシに襲われそうになってた。この写真はアフリカの悲惨さを象徴しているとして賞を取っている作品ハゲワシが見つめているであった。この写真をみて、同じ地球に生まれて、同じ人間であるのに、どうして生まれた場所や国が違うというだけでこんなにも生活が違ってしまうのかと思った。わたしたちは水道をひねれば水は出てくるが、貧しい国などでは水を何キロメートルも離れた場所から運んでこなくてはならない人もいて、またそれもきれいな水とは限らない。他にも子供が大人と同じように働いている国もあるだろう。一方で私達の国では何不自由なく生活をしてますます発展していっている。このようにわたしたちは貧しい国を見過ごして自分たちだけ発展していくだけで良いのだろうか。私はこの格差を埋める方法には先進国が貧しい国を支援することがあると思う。そこでわたしたちにできることとして、たとえば募金などがある。そもそも衛生面の水準が低いのはお金がなくて病院を作ったりすることができなかったり、パイプラインがなくて水を浄水する設備などが建てられないことできれいな水を飲むことができていない。そこでお金を支援することで衛生面が向上して感染症などで死ぬ人の数を減少させることができる。他にできることとしては技術を教えに行くことがある。技術を教えることで食糧自給率の向上をすることができ、またその技術を使って商売を始めて生活水準も向上するはずだ。そうするとその国は経済的に自立することができるようになる。貧しい国と先進国との差はすこしは埋まるはずだ。
 しかしこのような経済格差は貧しい国と先進国だけの問題だけではない。それは国内でも起こりうるだろう。例えば貧しい家庭と裕福な家庭との間にある格差がある。これも貧しい国と先進国との格差と同様に生まれた家庭の環境が違うだけで生活様式はかなり変わってくるように思える。たとえ先進国に生まれたとしても貧しかったら食料に困ることだってあるだろう。ではこの差をうめるにはどうすれば良いか。これは政府などの国が生活援助をする必要がある。裕福な家庭からは多く税金をとって貧しい家庭をその税金を使って援助するべきである。
 このようにいまわたしたちの世界ではたくさんの格差があって、同時にその格差を埋める方法はたくさんある。その方法をわたしたちがみつけて実行することが必要である。

「ハゲワシと少女」の写真を見たのはいつ、どんなタイミングだった?その辺りを書くと受けた衝撃の強さやリアリティが増すと思います。短文の連続がリズミカルでいいですね。その中で主張につながる文章を目立たせるためにはどうするといいと思いますか?

私はこの格差を埋める方法には〜からの文が「支援することがあるとおもう」と結ばれていて若干の違和感を感じた。それ以外はすごく読みやすかったです!具体的な解決策があってよかった。

根拠がしっかり書かれていて読みやすかったです。途中、「が、も、を」とかの助詞?がちょっと惜しいとおもいました!

とても読みやすい小論文でした。前半部分のお金による支援と技術を教える支援は段落分けしてもいいかなと思います。

 

かぼっちゃん 大学院修士課程 1年生

 

私たちは既に取り残されていると思います。SDGsの気候変動に具体的な対策を、という目標に関連することで、脱炭素社会、カーボンニュートラル、カーボンマネジメントという言葉が私は嫌いです。なぜならこのビジョンは現実離れした話で、世の中の大人の人たちがこんなことを言っているのが恥ずかしいからです。木などの植物は二酸化炭素を吸収して成長するからこれを燃やしてもプラマイゼロだ!というような考え方がそもそも間違っていることに気づかないのがすごく不思議です。木を伐採して車で運んだら温室効果ガス発生しているし、再生可能エネルギーを作り出す機械を作り出すプロセスの中でもたくさんの温室効果ガスを発生させているし、結果できたものだけ見れば何かいいことをしているかのように見えるが、新しいこと新しいものを生み出したりするのを活性化させること自体が事態を悪化させているので矛盾していると思います。つまり、プロセスを見ていない、本質を捉えられていないのだと思うのです。誰一人として取り残さないというのが基本理念にあるとするならば、今行われていることは矛盾だらけの解決策ばかりです。私たち地球上に住んでいる生き物全てに住みやすい環境を作っているとは言えないと思うのです。だた現状維持をしているだけ、むしろ悪化させているだけだと思うのです。基本理念にたどり着くことさえできていないと私は思うのです。基本理念に達していない取り組みを続けていては私たちはどんどん取り残されていく一方です。
なぜなら、そもそも技術革新することがSDGsにおける問題解決につながるのかというところで、本質を捉えられていないことをしているので、今の世の中は意味がない技術革新をしていると思っています。何かを生み出す中で設計によるもの、エネルギー効率を考えていない技術革新をしている世の中を誇りに思うことはできません。少し話はずれるのですが、コロナ禍においても換気が叫ばれているがこれは根本的な解決をしていないと思う。換気は希薄にしているだけ、ウイルスを外に出しているだけに過ぎない。一時的な解決策として換気は良いのはわかるのだが、根本的にウイルスを分解しようみたいに考えに達しないことに少しもどかしさを感じています。これが難しいことも、少し意味がわからないことを言っていることも分かっているのですが、持続的継続社会とか言っているのであれば一時的とか結果として見た目というか最終的に解決する働きをしているみたいなことではなく、根本的な部分やそのプロセスを考えた上で行動すること、考えた上でその行動を示してくれることで本当に私たちが住みやすい地球になるのだと私は思います。言葉でうまく表現できないのですが、SDGsにおけるビジョンを語ること自体は良いと思います。なぜならビジョンを語って仲間を増やし、みんなが協力する仕組みを作ることはなくてはならないことだからです。しかし、そのビジョンを達成する具体的な対策案をプロセスを加味することなく、ただ漠然と進めるのでは繰り返し同じ状態を行ったり来たりしているだけで、新しい未来を築けてないことに気づいてほしいのです。ビジョンを達成するためのプロセスにきちんと目を向けることができて初めてSDGsの基本理念にたどり着けると私は思います。

 

すだち 国立大学 4年生

『持続可能な未来に向けての教育』

 持続可能な社会の実現において最も大切なものは言わずもがな人間である。いかにロボット工学が発展しようとも、人間の成長なしにサスティナブルな社会などありえない。
 では現状日本の学校教育はどうなっているだろうか。私は生徒、教師双方にそれぞれの問題点を抱えていると考えている。今回は生徒側の問題点として「いじめ」を、教師側の問題点として「過労」を取り上げ、最終的にそれらを解決する具体案を提示する。
 今年の二月、北海道は旭川市で当時十四歳だった少女の遺体が発見された。彼女を死へと追いやったのは集団によるいじめであった。
 この一件は何も氷山の一角ではない。日本人の二人に一人は大なり小なりのいじめ被害を訴えている。その内容は多種多様であり、わかりやすい暴行から侮辱、最近ではSNSなどのグループから省くなど例を挙げたら枚挙に暇がない。人間の本質とは悪辣であり、善性なんかないのではないかと疑いたくなってしまう。
 一度いじめの被害に遭うと、その経験は被害生徒のなかで飛び散ったコールタールのように残り続け、それが転じてうつ病や摂食障害などの精神疾患に繋がる恐れがある。そのせいで豊かな青春を過ごせなかった子供たちの人生は次第に崩れだす。不登校、受験失敗、自己肯定感の低さ故の就職難航、自殺未遂。
 この世の中に一切の希望を感じることが出来なくなった子供たちは、部屋に引きこもりひたすらインターネットで誹謗中傷(個人で出来るいじめ)を繰り返すモンスターとなってしまう。
 問題は被害者だけではない。加害者側のことも考えねばならない。
 なぜならいじめという集団犯罪の虜になってしまった子供はまた別の形の犯罪を行ってしまう恐れがある。万引き、無免許運転、無差別な暴行、ドラッグ。このような青少年犯罪を犯してしまうと前科がついてしまう。そして結果的に就職難航からの貧困、切迫した状況からの更なる犯罪、と最悪のループに陥る。
 ここで問題なのは、このような加害者に対しては自業自得だと決めつける人間が一定数いることである。それはだめだ。本来人間は善でも無ければ悪でも無い。そのどちらをも併せ持ったキメラ的精神の持ち主なのだ。そして得てして子供たちの心は容易に善悪の彼岸を反復横跳びする。
 だからこそ教師の力が必要になる。こといじめに関しては「仲良し学級」なぞというお遊びで解決出来るわけがない。古来より人間は共謀することで集団より異分子を排除してきた動物だ。であればこそ誠に残念ながらいじめというシステムは人間の本能的行動なのだ。なればこそ、いじめをこの世から減らすには厳罰化しかありえない。学校が責任をもって地域の弁護士、警察、被害者、加害者、そしてその保護者をかき集め、徹底的に証拠を吟味し、その上で加害者にしかるべき罰を与えるべきなのだ。
 もちろん、厳罰を科した加害者を見捨てるなんてことはしてはならない。最初に叱った後はまた地域の方たちと一緒に前に進んでいけばよい。
 ここで一番大事なのは、一件のいじめに対して大人がきちんと対処する様を子供たちに見せつけることである。この大人たちを舐めたら痛い目を見る、そう思わせるのが大切なのだ。昭和でいうところの「雷鳴りオヤジ」である。もちろん、高圧的な怒鳴りはパワハラにとらえられる。だからこそ学校裁判なのだ。
 さて次に教師の過労について論じたい。直近でいうとSNSで炎上した「#教師のバトン」が有名だ。残業代が少なく、土日出勤は当たり前、もちろん責任重大な仕事なので休めない。その結果、精神疾患を患い教職をリタイアする人が増えている(文部科学省調べ)。これは良くない。教師の現状がこのような有様の中で、子供たちが教職に憧れるはずがない。実際小学校教員の志望倍率が二倍前後になっている地域も存在している。
私はこの問題を、「IT化」、並びに「無駄な業務の中止」によって解決すべきだと考える。
 教師の本業は授業とクラス管理である。それだけに集中できるようにすべきだ。配布物にするような連絡事は即時ラインで共有、授業の参考資料としてのユーチューブ利用、課題管理はグーグルフォームで行う。
 部活や行事に関しては生徒主体で行う。教師は進捗管理と生徒間では解決できない事案にのみ関与する。これだけでも教師の負担は相当軽くなるはずだ。そして空いた時間で授業準備を行い、クラスの問題に耳を傾ける。
 もちろんこれらのようなことがすぐに出来るとは思わないし、多くの困難に出くわすだろう。
 しかし、それでも本来学校は楽しい場所なのだ。気の合う友人と連載漫画の展開について熱く語り、教師からは学問の翼を授かる。失恋は辛いけど、失意の中飲んだコーラの味に破顔する。  
 人間が人間として生きていくのに必要な「言葉」、「連帯」、「自信」はすべて学校で身につけるものなのだ。

 

河村由宇 鎌倉市立小坂小学校 6年生

 

 提案のきっかけは、私が小学五年生の時に、担任の先生に広島の原爆の衝撃映像を見せられたことでした。
 それは、約14万人の命がなくなった時の映像。私は怖さと絶望に包まれました。映像を見たその日の夜、このことを母に伝えたら、母は、
「もしかしたらに『福岡』にも原爆が落とされてたかもしれない。」
と言われました。
 その話を聞いたときに、私は、自分のことに置き換えて考えてみました。ちなみに、私のひいおばあちゃんは、福岡にずっと住んでいます。もしも福岡に原爆が落とされてたら、私はこの世にいなかったかもしれません。また、この家や国にも住んでなかったかもしれないのです。
 幸いにも福岡には原爆は、落とされませんでした。原爆が落とされなかった理由は、天候が悪くて見通しも悪かったため、中止され、長崎へ変更されたらしいです。しかも、予定では、ひいおばあちゃんの家の近くにある「武器をつくる製鉄所」だったそうです。
ひいおばあちゃんの家とは、すごい近いので、危なかったと思います。

実際に、原爆で亡くなってしまった人は広島で14万人、長崎で7万人、合わせて21万人の命がうばわれました。また、福岡の人々の命がうばわれてたかもしれないと思うと、私は、怖くて仕方がないです。だから、私は、このことを世界に伝えなければならないと思いました。

 今の現状は、世界全体で、核兵器は13000発ぐらいあるそうです。この核兵器を無くさないと、戦争が激しくなってしまって、死者や怪我人がすごく増えてしまいます。そして、「難民」も増えてしまいます。 授業で核兵器廃絶センターの専門家の話を聞きました。今は、地球温暖化が問題になっていますが、核兵器が増えてしまうと、逆の「地球冷暖化」になってしまうと聞きました。原爆などのキノコ雲で、地球が包まれてしまい、太陽がさえぎられ、寒くなってしまうかもしれないと言っていました。太陽がさえぎられたら、草や木が育たなくなって、牛などの草食動物が生きられなくなり、食べ物を食べられなくなってしまったり、お米などの作物ができなくなってしまうので、飢餓などが増えてしまう恐れがあります。
 つまり、核兵器問題は、飢餓、難民、地球温暖化、戦争などが関わっているということがいえます。
だから私は、核兵器問題を解決することが重要だと思うのです。自分たちでできることはないかと、チームのみんなと考えています。まずは、核兵器の問題を広めることが大事なので、次のことを提案します。
①核兵器のことをみんなに知ってもらえるようにする。
②原爆、核兵器の恐ろしさを知ってもらう。
③チームのみんなでできるだけポスターやチラシを作り、一人でも多く核兵器のことを知ってもらうようにする  など…
このようなことを心がけて核兵器廃絶のためにチームのみんなで頑張っています。
 今でも世界には戦争をしている国があり、その国を止めること、そして
核兵器禁止条約(製作、使用、配備、持つことも禁止されている条約のこと)を結ぶことをすすめていきたいです。核兵器禁止条約を結んでいるのは全世界で2/3しか結んでいないそうです。日本は、核兵器禁止条約を結んでいません。だから、核兵器禁止条約を結ぶこと、原爆や核兵器の恐ろしさを知ってもらうために、チームのみんなや学年のみんなで、核兵器をなくすために全力で頑張ります。地球の未来を守るために、誰一人取り残さず、社会の常識を変えよう!SDGS15番を中心に活動しています。

 

嘉本(かもと)千晴 川崎医療福祉大学

 

誰一人取り残さない。それは果たしてどのような意味が込められているのだろうか。一人でいることを防ぎ、集団に馴染むことなのだろうか。一人一人を尊重していく考え方を一人一人が意識していくことだろうか。
苦しんでいる人に手を差しのべる勇気をもつということであろうか。
私は、誰もが生きやすくなるために、誰ひとり取り残さないことが大切であると考える。
近年、LGBTQや貧困、障がい者といった社会的弱者と呼ばれる人に焦点が当てられてきた。
しかし、私が身体の不自由な祖父母の側にいて感じることは、それらの人々に対しては未だに根強い差別が残っているということだ。
それは、LGBTQや貧困に苦しむ人にも共通している
ことだろうと考えた。
私が幼い頃、友人とお店で食事をしていた。
すると、発達障がいの人や認知症の人が通りかかった。
すると友人は、頭のおかしな人が近くに来た。だから面白いから行動をマネしようか。と言った。
私は止めた。
しかし、これらのことは氷山の一角である。
それは、長年、日本が病や障がいに対して隔たりを持ってしまっていたから、現代にも差別と偏見が根強く残っているとわかった。
それを看ている先生やスタッフの中でさえ、この人は病気や障がいがあるからおかしなことを言っていると決めつけたり、本人の思いを汲み取ることが不足してしまう場合もある。とても嘆かわしいことである。
私は、これらのことからハンセン病のことを思い浮かべた。本当は、感染力が強くないのに差別と偏見に苦しめられ、今も表には出たくないと考えておられる入所者のかたもいる現実だ。
それをただ単に、気の毒で苦しかっただろうと、理想論や常套句を並べるだけでまとめるだけでは問題であると考える。それはハンセン病だけでなく、LGBTQや貧困、障がい者の人々に共通する苦しみだと考えるからだ。
誰ひとり取り残さないために皆で共に生きよう
一度その考えがまとまっても、誰か一人、行動や言動が皆の普通と違ったらその人を責め、一人にすることがある。それを大人やリーダーに分からないように行い、ストレスの捌け口にする。そのターゲットになりがちなのは、社会的弱者だ。
だからこそ、誰ひとり取り残さないためには、それらを未然に防ぎ、自分が発する言葉や態度や行動が相手を傷つけるものではないか、一人一人が考える習慣を身につけるべきだと感じる。

 

加藤健祐 横浜市立大学

 

皆さんの身近な人に障がい者、貧困に困っている人など「取り残されてしまう可能性が高い人」はいますか?僕の身の周りにはそのような人はいません。もちろんLGBTQを隠している人や、周りから見たらわからないけれど実はお金に困っている人はいるかもしれません。しかし、そのような状況を隠さず、オープンにしている人は僕の周りにはいないのです。SDGsが学校やテレビで話題にされる度に、「もし知り合いに「取り残されてしまう可能性が高い人」がいたら直接助けてあげられるのに」と思います。直接助けてあげたいけれど、助けを求めている人がどこにいるのかわからないのです。このような立場に立たされていて、自分にできることがあればしたいのに、何をすればよいかわからず、困っている人は多いのではないでしょうか。今回のコンテストを機に、そのような人がどんな心持ちでどんなことに取り組んでいけばよいのか考えてみました。まず最も簡単に「取り残されがち」な当事者の方々を直接助ける方法としてボランティアに参加するということが挙げられると思います。「老人ホームの高齢者と交流するボランティア」や「無料塾の先生」などいろいろな種類のボランティアがあります。当事者の方たちと直接関わることによって、本当に困っている人がいるのだということを再認識し、SDGsに対する考え方が変わるきっかけになると思います。しかし、ボランティアに参加するのには時間が必要だし、自分にボランティア活動をこなせるのか自信がなく、なかなか踏み出せない人も多いと思います。そのような人でもできる取り組みを考えました。1つ目は募金です。募金箱はコンビニや飲食店などいたるところに設置されているので簡単にすることができます。最初は店員さんの前で募金するのが少し気恥ずかしいと感じるかもしれません。しかし、立派な行為なのだから恥ずかしがる必要はないのです。例えばユニセフ募金なら世界の貧困層の子供に栄養治療食を配給することに使われたり、赤い羽根募金なら障がい者の支援に使われています。「取り残されがちな人」の役に立っているのです。2つ目はコンビニやスーパーで食品を買うときに前のものからとっていくことです。前のものはいろいろな人が手に取ってみたりしていて汚いから、奥のほうにあるものを購入する人がコロナ禍を機に増えているそうです。しかし基本的に新しいものが奥に補充されていくのでみんなが奥の商品を買うと、手前の商品が売れ残ってしまい賞味期限がどんどん迫り、結果的に処分されてしまうという事態になると思います。この事態は目標12の「つくる責任つかう責任」に反しています。飢餓に苦しんでいる人がたくさんいるのに、食料に余裕のある私たちが食材を無駄にしてしまうことは良くないです。だから前の食品から購入するという考えはまだあまり広まっていないし、地道なことのように思えるけれど、大切だと僕は思います。ここまで例を2つ紹介しましたがどちらにも共通していることは地道だということです。ボランティアなど、直接的に人を助ける取り組みであれば、達成感などもあり続けていきたいと思うはずです。しかし、地道な取り組みは当事者の方たちを助けているという実感がわかないし、本当に自分のしていることに意味があるのかわからなくなって続けられない人も多いのではないかと思います。僕も実際にこの2つの取り組みをしていてそう思ってしまった経験があります。そんなふうに思ってしまったときは「困っている人を助けるためにやっている」ということを再確認してほしいと思います。どんなにちっぽけなことでも困っているひとの助けに少しでもなっているという事実は変わらないのです。だから地道な取り組みをまるで義務であるかのようにこなすのではなく、誇りをもって取り組んでいけるようになったら続けていけるのではないでしょうか。「塵も積もれば山となる」ということわざのようにどんなに些細なことでも続けていくことが大切なのです。だからSDGs達成のためになにか大きなことをすることだけが正しいのではなく、地道にできることをコツコツとこなしていくことも大切であり、当事者と直接的なかかわりを持たない人にもできることはたくさんあるのだという考えがもっと広まってほしいと思います。

 

加藤美和 成蹊大学 1年生

誰ひとりのひとり歩き-私にとって「誰ひとり取り残さない」は永遠に達成できない

「誰ひとり」とは誰のことなのか?私は「誰ひとり取り残さない」と聞くたびに疑問に思う。「誰ひとり取り残さない」という言葉を聞くと、どのようにして「取り残さない」ようにするのかという点が注目され、その対象が見えなくなる。本来、「誰ひとり」とは「一人も」という意味であり、裏を返すとここではすべての人であるが、ここで掲げられる「誰ひとり」は本当に誰ひとりなのか?そして、「誰ひとり取り残さない」は達成できるのか?考えていきたい。

私は「誰ひとり」に関して3つの視点で捉えられると考えている。
1つ目は、社会の中で共通認識が形成されているすべての人である。ここにおける「社会」とは特定の個人が認識する領域の重なりである。私は「すべての人」に対する認識は人それぞれ異なり、重なった部分が表面化すると考える。例えば、私一人が社会から孤立している人を認識していたとして、それを第3者と共有しない限り、その人は私の認識の中でしか存在していないことになる。したがって、「すべての人」に含まれない人が存在する。
2つ目は、一人一人が認識しているすべての人の集合である。前述したように人それぞれ認識する「すべての人」が異なるが、それらを合計したら、かなり多くの人間を含めることができるかもしれない。しかし、例えば、社会から完全に孤立している人を全員探し出そうとすることは可能であっても、それが達成し社会から孤立している人がいないと証明することはできない。このように、私たちが「すべての人」を認識していると錯覚していても実際にそれを証明することはできないのである。
3つ目に、“難民”や“LGBTQ+”、“日本”というようなネーミングがされているすべての人である。私たちはある事物を認識するのに言葉を使う。例えば、「難民」もその言葉が生まれることで難民という認識が誕生し、難民のイメージが人々の中で形成される。「すべての人が認識できない人がいるという事を認識する」ことは可能であるが、それは「すべての人が認識できない人がいるという事を認識する」という言葉があるからこそ認識できているため、ネーミングがされておらず、既存の言葉で説明できない人は認識できない。

以上のように「誰ひとり」を、社会の中で共通認識されているすべての人とも、一人一人が認識しているすべての人の集合とも、ネーミングがされているすべての人とも捉えることができる。しかし、いずれにしても、普遍的で完全な「すべての人」は存在せず、「誰ひとり取り残さない」という事は不可能である。いくら社会課題に取り組む私たちが「誰ひとり取り残さない」と掲げても、それは永遠に達成されない。

それでは、永遠に達成されることはない「誰ひとり取り残さない」が掲げられている中、私たちは何が求められているのか?
まずは、「誰ひとり」が言葉通りの「すべての人」ではないことを理解し、自分の取り組みや世界中の取り組みでも、排除される人が存在すると認識することだと思う。それは、私たちの取り組みが達成されることも終わることもないということを意味している。
その上で、それぞれが「誰ひとり」とは誰のことなのか考える必要があると私は思う。それは、私たちが日々、だれを思って社会課題に取り組んでいるのかを自身に問いかけることにつながる。残念ながら、SDGsを謳う人の中にも169の具体目標を知らない人がいることを私は知っている。「誰ひとり取り残さない」を掲げ、少しでも社会課題と向き合うのであれば、その取り組みの先にある顔を想像して、社会を変えていきたいと私は思う。

 

加藤菖 東大和市立第二中学校

今私たちにできること

 水中のゴミは拾えない。プラスチックストローのせいで苦しんでいるウミガメを見て衝撃が走った。鼻にささったストローが引っ張られ、血と苦しみがにじみ出ていた。私がプラス
チックゴミに興味をもったきっかけはウミガメだ。私たち人間が捨てたプラスチックのせいで、痛みを我慢し、必死にもがく姿に胸が締め付けられた。今、世界ではSDGsの達成が目指されている。SDGsとは持続可能な開発目標のことで、国連加盟193カ国が2016年から2030年の15年間で達成するために掲げた17の目標だ。日本の達成度は17位。その中でもSDGs14番「海の豊かさを守ろう」の達成率は低い。プラスチックゴミ問題は大きな課題となっているのだ。そこで思った。「水上のものは使い方次第で変えられ、拾うこともできるが水中のゴミは拾えない」と。
 ウミガメのおなかの中からビニール袋やハブラシなどが見つかるのは珍しくないそうだ。私はその中でも特にハブラシという言葉に衝撃を受けた。私も当たり前のように1カ月に1度ハブラシを捨てていたからだ。世界中で1年間に廃棄されているハブラシの量は約36億本にものぼる。この量の多さにとても驚いた。私はプラスチックゴミを減らすために3Rの取り組みが大切だと考える。リデュース「減らす」リユース「繰り返し使う」リサイクル「再資源化する」の3つだ。私たちの学校ではその中のリサイクルの取り組みに該当するハブラシプロジェクトを行っている。これは捨ててしまえばゴミとなる使用済みハブラシを回収・リサイクルし、植木鉢などの新しい製品に生まれ変わらせるプログラムだ。私はこのプロジェクトで学級委員として私自身も今までで5本ほどのハブラシを寄付した。たったの5本だが、少しでも私の行動が力となり、豊かな海を取り戻せたらという気持ちからだった。結果、全体で120本ほど集まり、今後は生徒会や他学年にも呼びかけていく予定になっている。これらの数が全ての学校から集まるとどうだろうか。相当な数になる。このような「塵も積もれば山となる」と言われるように、小さなことから始め、多くの人の力が集まって大きなものとなることは、誰一人取り残さないSDGs達のために必要なことだと思う。
 私の担任の先生は青年海外協力隊としてベナン共和国で活動していた。私がSDGsや世界の状況に興味をもったのもその先生である。そこから私の物事に対する考え方は一変した。そしてウミガメの映像を見て、プラスチックゴミへの思いが強まっていった。 
 ハブラシのことについてさらに深く調べると、発展途上国では、ハブラシは家族で1本という場合がほとんどで、あまり歯を磨くこともなく、正しい歯磨きの方法も知らないという。もちろん、歯科医院はほとんどないので、虫歯の痛みは薬を噛んで和らげているそうだ。彼らの立場からすると、私たち先進国の人の使い終わったら捨てるという行為はあまりにもぞんざいに扱っているとしか思えないだろう。先進国の人たちは発展途上国をサポートする立場にもあるが、全世界の人々が平等でもあるので、まずは日々の自分の行いを改めてみてほしい。私も今回のハブラシプロジェクトやコンタクトレンズ、ペットボトルキャップのように寄付できるものがあったら、進んで参加したいと思う。
 「Be the change you want to see in the world~世界の中で起きて欲しい変化にあなた自
身がなろう~」これは「インド独立の父」と呼ばれたマハトマ・ガンジーの名言で私も好きな言葉でもある。私たち一人ひとりの行動で多くのプラスチックゴミを排出し、悪影響をもたらした。今度は私たち一人ひとりの意識で世界に良い影響をもたらせるようにしたい。私たちが変わらなければ世の中も変わらない。

 

下田としお ピラール・ド・スール日本語学校

変えれば良い事

 現代、色々な環境問題や社会問題が起こっています。そのため、その色々な問題を解決するために、ある国際会議で「SDGs」と言う事が考え出されました。SDGsは要するに、将来のために作った十七つの目標の事です。
 SDGsは誰一人取り残さないで目標を全部果たすために、お金や人々の協力や努力が重要です。たとえば、全世界できれいな水を利用できない人が二十億人ぐらいいます。それを解決するために、水道を作るようにお金を使わないといけません。でも誰でもできる事もあります。例えば、誰でも水の消費を減らす事ができます。でも、僕が住んでいる国、ブラジルでは、そうする人の数はかなり少ないと思っています。なぜかというと、人によって考え方や意識が違うからです。
 他に、ジェンダー不平等も世界中で問題が起こっています。例えば、同じ会社で同じ職業をしている男の人と女の人がいます。仕事が同じけど、男の人の給料が女の人の給料より高いです。なぜなら、そうする会社の社長が、「男性だから、きっと女よりもっと良く働ける。」と思っているかもしれないからだと、僕は思っています。
また、他の国ではどうかちゃんとわからないけど、僕が住んでいる国ではゴミがどこにでも捨てられてしまっています。特に人口が多い町はすごく汚いです。そのため、そんな町では洪水が起きてしまうのは珍しいことではありません。でも問題はそれだけではありません。海岸にもゴミがたくさん捨てられています。それで、海にいる生物がゴミを食べて死ぬ場合もあります。
 それ以外では、ブラジルでは教育が他の国と比べれば質が低いです。特に公立の学校は大変な事になっています。僕は今、私立学校に通っているけど、その前に公立の学校に通っていました。そこでは、先生が悪いわけではなく、学ぶ意志が無い生徒が時々いて、授業中にさわいだり、先生を怒ったりしていました。それで、授業のじゃまになって、他の生徒や先生に迷惑をかけたりしていましました。その結果、勉強をまじめにしなかった人達は、将来無職になって、貧困の人の数が増えてしまいます。
 それと、悲しい事に、現代、全世界のたくさんの人々が差別ですごく苦しめられています。肌の色とか、ジェンダーとか、国籍とか、色んな理由で差別している人がかなり多いと思っています。なぜかというと、最近インターネットで差別を経験した人が増えてきたからです。
 今まで例とし書いてきた問題は、僕の視点では「人々の考え方」と関係しています。例えば、もし人々が「こうすれば、あとでどうなってしまうのだろう?」としっかり考えれば、これだけで色々な問題を解決することができるのではないかと、僕は思います。だから、人々の考え方が変わればいいと思います。そして、それを実現させるために一番重要な事は、そんな人達に別の視点を見せ、物事を色々な視点で考えられるようになってもらう事だと思います。

 

下山達大 東京工業大学大学院

 

 以下では、日本が再生可能エネルギー(以下ではREと書く)普及の流れから取り残さないようにするために、自分は何が出来るかを述べていく。
 自分は、0円太陽光プランを広めていく。これは初期投資0円で太陽光パネルが置けるプランであり、今後必ず太陽光パネルの置き方として主流になるであろうモデルである。ではなぜこれを広めて行くことが重要なのか。その背景と原理を説明していく。
世界が2050年にRE100%のエネルギーシステムを実現していこうと奮闘しているのに対し、日本は後れを取っているように思う。例えばドイツやイタリアは総発電量に対するRE比率が約40%なのに対し、日本は約20%である。
 日本がここから逆転するには、各家庭が続々とREと蓄電池を利用していくことが重要になると僕は考えている。屋根上や壁に太陽光パネルや小型風車を置き、更に蓄電池を置くのだ。こうすると、ある程度家庭が電力系統から独立するようになる。これが重要なのだ。
というのも、日本の至る所で系統容量が一杯になってきているので、追加の大型太陽光発電所や風力発電所を置いたとしても、電線に電力を流せなくなってきているのだ。新たな電線を作るにもお金が掛かるので、可能な限り現状存在している電線を利用することが重要になるので、いかに現状で最大までREを入れていけるかを考えなければならない。
ここで、各家庭が電力系統から独立することが解決に向けた大きなカギとなると、僕は考えている。そうすることで系統に空きが生じ、他の大型再エネ発電所が入り込む余地が生まれ、RE普及を後押しすることが出来るだろう。
 ただ、現状蓄電池が高くて独立電源を作るのはいささかハードルが高いとも思われる。太陽光パネルを屋根上に置くだけで初期投資はざっと200万円ほどだ。さて、どうすれば良いか。
 実はそんな現状も、一昔前で終わっている。今、蓄電池や太陽電池の低コストが進んできているので、状況が変化しているのだ。それに最近、0円太陽光モデルという画期的なアイデアが生まれ始めた。それは初期投資が0円で太陽光パネルが屋根上に置けるプランの事である。そんな上手い話があるのか。あるのだ。現状、我々が大手電力会社に支払っている電気代よりも、10年間で太陽光パネル設備を分割払いするときの月額の方が、安くなってきているのである。ということは、0円太陽光プランを使って太陽光パネルを置いたとしても、ただ今まで支払っていた電気代よりも安い額を月額支払うだけとなり、完全に経済面ではお得な状態となる。蓄電池を含むと安くなる分が少し減るようだが。初期投資のインパクトは完全に消え去ることとなる。この0円太陽光プランは、非常に魅力的なプランなのに対し、認知度が低い。そこで、僕がやるべきなのは、この0円太陽光を広めていくことである。
僕は来年から再生可能エネルギー事業者に就職することになっているので、そこで全力でこのプランを広げていく。そして日本中に分散型電源を創り出し、RE普及の流れに追い風を吹かせる。
 最初、日本はRE普及に向けて後れを取っていると述べたが、それは電力系統などのインフラの問題が壁となっているのであり、裏でそれを打開しようと動いている人は沢山いる。大型RE発電所を建てようとしている人はそこら中にいる。その人たちを上手く後押しするためにも、0円太陽光に伴う分散型電源の拡大が、重要になってくるのだ。
 もっともっと、RE化の流れを加速させる。日本が世界から見放されないために。また、人類が滅びないようにするために。

 

岡崎みどり 武蔵野大学高等学校 3年生

 

誰ひとり取り残さないとは、どういう意味だろうか。私はこれについて2つの考えがある。一つとして挙げられるのは、100人いたら100通りの考え方があるように様々な捉え方があるが、誰からも自分の生き方を否定されずに、また自分を偽ることなく生きることができる世の中であることだと考える。誰か一人でも社会に対して生きずらいと考える人がいれば、それは誰ひとり取り残さないということに反することになる。このような壁を取り除くためには、私たちの中に存在するステレオタイプ化された”普通”という概念を取り除く必要があると強く感じる。日常生活でよく、普通は○○だよね、普通だったらこんなことしないよね、というような言葉を耳にするが一体普通とはなんだろうか?普通という基準は誰が定めたのだろうか?私はこれについてとても疑問に感じる。私たち自身で普通という枠を作ることによって自らの首を絞めているということに気が付かなけらばならない。
2つ目は、生まれた環境によって左右されるべきではないということだ。私は以前、アフリカ地域で起こっている紛争を題材とした映画を見た。その内容は、ダイヤモンドをめぐって争いが起きており、そのダイヤモンドを発掘する人や紛争の兵士として18歳未満の子供たちが起用されているというものだった。彼らは学校に行くことなく、鉛筆の代わりに銃を持たされたり、兵士の大人たちの洗脳によって人を殺すことが当たり前とされていた。彼らはまるでゲームをするかのような感覚で無差別に人を殺しており、私は大きな衝撃を受けた。日常生活で、銃や争い、紛争によって起こる殺し合いなど平和な日本で生活している私には到底理解するのには時間のかかることだった。もし、彼らが日本で生まれていたら正当な教育を受け安全に生活を出来ていただろうし、もし私がアフリカなどの紛争地域で生まれていたら今頃どのような生活を送っていたか想像することは出来ない。当たり前だが、私たちは生まれる場所を選ぶことは出来ないし、それを変えることも不可能である。だからこそ、生まれながらにして持った環境によって左右され、その人の夢を奪ってはならない。
上記の2つの事柄に共通することとして教育格差を生んではならないと感じる。1つ目の例については学校教育の中で、普通という概念を押し付けずに多くの多様性に触れた授業を実施すべきだ。例えば、外国人、障がいを持った方、性的少数者、その他マイノリティを持った当事者の方々と関わることができる機会を増やすということだ。特に多くの物事を吸収する初等教育においてこれらの学びは重要視するべきだろう。2つ目の例については、紛争が起こっているほとんどの地域では正当な教育が実施されていないという現実がある。それによって、子供たちは暴力や人殺しが当たり前であるということを植え付けられてしまうのだ。また、紛争が終わった地域でも正当な教育を受けていないために就職を拒否されたり、周りから教養がない子供だと差別される。生まれながらの環境によって不平等な政策を受けたり教育を受けられないという事実を撤廃しなければならないと感じる。これら2つのことを踏まえ、将来は教育を支える立場の人間として活躍したい。

 

遠山翔太 神奈川県立多摩高校

 

私は英語力向上のためにオンライン英会話をしているのだがそこでこんな体験をした。その日はフィリピン人の方が講師として「性的マイノリティ」というテーマで会話をした。それまで私は性的マイノリティについてなんの知識も持っていなかった。それは自分がLGBTQなどといった性的マイノリティに属しておらず、周りにもいないと思っていたからかもしれない。
 会話が始まってから10分がたったとき、その講師が突然自分がゲイであるということを私に言ってきた。私はこれまで自分や自分の周りに性的マイノリティであるという人がいなかったため反応の仕方がわからなかった。少し私が困って黙っていると、彼は「日本人にはいつも同じような反応をされる。」と言った。その後も会話を続けていると彼は日本は性的マイノリティへの理解が他国よりもないと話していた。日本人との会話でゲイであることをいうと引かれてしまうことがあるそうだ。続けて、「性的対象が異なるだけで人間としては何も変わらない。」ということも言っていた。
 この日の英会話は私に大きな衝撃と新たな気づきを与えてくれた。それは、現代の社会、特に日本において性的マイノリティの人々が取り残されているのではないかということだ。例えば、日本では大部分で同性婚が認められておらず、先日は議員さえも「同性愛者は生産性がない」と発言をしていた。このことからも日本における性的マイノリティへの理解が足りていないことがわかる。性的対象の相違への偏見といった現状に苦しんでいる人が多くいるということをその講師の方が気づかせてくれたのだ。
 そのような人々を取り残さないために私に今できることは何なのか。それは「普通に接すること」だと思う。何かと最近、性的マイノリティの人を取り上げて理解を深めようとテレビなどで呼びかけているのを目にする。確かにそういった人がいるということを知ることは大切だろう。しかし、男性が好きでも女性が好きでもその人のパーソナリティに何も影響しない。単に一つの個性に過ぎないのだ。だからこそ性的対象が異なるからと言って差別することも、特別扱いする必要もないはずだ。普通に区別せずに接すればいいのではないか。
 おそらくこれまでの人生で性的対象の相違のために周りから虐げられてきた人は多く存在しているだろう。そして、その人達の中には特別に扱ってほしいと思う人がいるかもしれない。しかしそれは社会全体にとっていい影響を及ぼすのだろうか。
 1960年代アメリカでaffirmative actionという黒人等優遇政策が取られたことがある。これはそれまで差別されてきた黒人等を就職や職場、教育において優遇した政策であり、これによって多くの黒人等が社会進出を果たし、社会にとって大きな進歩であったように見えたが、この裏に大きな問題が起きていた。白人が逆差別されたのである。黒人等が優遇されたことによってそれまで職を得ていた白人は就職が困難になったり、進学がしづらくなった。
 このように、なにか一つを特別に扱うとその裏で苦しむ人が必ず出てくることを私達は歴史から学ぶことができる。つまり、性的マイノリティを特別に優遇すればその裏で誰かを取り残すことになる。その点、性的マイノリティでもそうでなくても等しく、普通に扱うことが誰も取り残さない社会を作ることになるはずだ。 
 誰も取り残さないために誰が相手でも同じように普通に対応する。横一列となって共存していく。これこそがジェンダー平等が実現する社会の姿なのではないだろうか。                                        

 

永島春香 国際基督教大学 4年生

 

3歳のときに父の仕事の都合で、韓国へ移った。母は私を日本人用の幼稚園に入れようとしたが、空きがなかったのでインターナショナルスクールという主に駐在員や外交官などの子供が通う、多国籍な幼稚園に入った。当時私は英語が全く話せない中、英語で話さざるを得ない環境に無理やり入らされた。しかし、新しい環境を嫌がらず、むしろ楽しんでしまう性格だったため、すぐになじんだ。それから5年間韓国のインターナショナルスクールに通った後、小学校を3回転校した。中学からは上海という新境地で第二の人生が始まった。第二の人生とは、私に中国語という第二外国語ができた人生だ。それまで私の世界は日本語と英語に限られていたが、中国に移ったことで中国語を学んで、私に新たな言語の扉が開いた。
このように私は海外と日本を行き来してきた、いわゆる「帰国子女」だ。しかし、帰国子女には様々な種類がある。現地校やインターナショナルスクールでいきなり英語や現地語しか通じない環境に放り込まれるケース。日本人学校で外国語として現地語を学ぶケース。経験は人それぞれ全く違うけれども、一言で表すと、「帰国子女」である。

帰国子女は日本に生まれ育ってきた人とは全く違う景色を見ている。理解できる言語がより多かったり、深かったりする部分がものの見方の違いに影響している。ただ同時にそして同等に、複数の言語を学ぶことはとても難しい。特に現地校やインターナショナルスクールに通っていると、日本の学校と学習内容が違うので、「日本の学校の勉強」を別個でやらないと日本に帰った時に全くついていけない。だから帰国子女は勉強の点でとても大変な面がある。

考え方も勉強内容も海外で暮らしてきた日本人と日本で暮らしてきた日本人とでは、全く異なる。その影響でよく「変わってるね」と言われるが、正直不快だ。インターナショナルスクールでは国籍も文化も宗教も違う人たちと一緒に過ごしてきたから、人と違うことが当たり前だった。みんな一人ひとり背景が違うから、私だけが「変わってる」と言われる意味がよくわからない。だからもしあなたが帰国子女に出会ったら、ただの「変わってる子」で済まさず、「大変だったね」と労いの言葉をかけてくれると嬉しい。そっちの方が日本社会から取り残された帰国子女たちにとって、これまでの苦労が報われるような気持ちになるから。

 

永原凛佳 札幌手稲高校

 

私はSDGsについて今まで全く知識がありませんでした。そもそも知識がある人はそんなに多くはいないのかも知れません。きっと「最近テレビでそのワードよく聞くけど…」ってことだけできっとSDGsの話題が始まった数秒後にはそれに興味が無いと違うテレビ番組に切り替わってる家庭が多いと思います。
SDGsの基本理念は「誰ひとり取り残さない」。そもそも取り残されてしまうのは男・女、貧困・裕福など私たちが勝手にグループ分けをしてしまったからなのかもしれません。中でもLGBT+について現代の人がより考えるべき問題だとおもいます。社会に出たら男性の方が就職しやすい、女性は賃金が安いなどと言われます。その差別を無くすために色んな法律やルールが決められてきたと思います。また今では女性が働きやすい会社!などそれをスローガンにしている会社なども多く見られます。誰ですか男だから細かい作業は無理だ、女だから重労働は無理だと決めつけた人は。ただその男性が重労働を得意としていてその女性が細かい作業が得意だっただけです。これと同じように異性を好きになるのが普通、同性好きなのはおかしい。と決めつけがあるから生活がしずらい人が出てくるのです。
考えてみてください、あなたがまだ小学生だった頃、「鬼ごっこする人この指とまれ」、その時指にとまったのはどんな人がいましたか。同性の人だけでしたか、きっと違うと思いますその指には色んな人がとまってくれていたと思います。君は私とはちがうから、君はみんなとはちがうから、そんなふうに仲間外れにしていましたか。僕も入れて私も入れてみんなで遊ぼうって今の大人たちに出来ていないことが昔の自分や今の小学生、もっと小さい子たちの方が出来ているのかもしれません。先の事を考えすぎて今思い出すべきことを忘れていのかもしれません。このことを限られた人ではなく私たち全員が考えるべきなのではないでしょうか。

今ではSDGs関連のドラマや政策が沢山あります。その中でもドラマは1番影響力のあるものだと思います。役者さんは演技でそれを見た人達の心を動かすことが出来ます。もし私がテレビ企業に務めることができるなら私は今1番視聴者さんに考えて欲しいジェンダー平等についてのドラマを作りたいとおもいます。現時点でLGBTに該当する人は日本で10人に1人と言われています。この中でカミングアウトしている人は0.1人つまり100人に1人なのです。カミングアウトしずらい理由として偏見をもたれたくない、相手に気を使わせたくないなどがあります。私はこのドラマを作ることにより多くの人にLGBTの理解を広め少しでも生活しやすい環境を作っていきたいです。
これからの未来を作るのは私たちです。世の中にはどんな人がいるのかを知ることによってもっと世界が広く見えると思います。そして自分が当たり前だと思わないことが誰一人取り残さないことにつながっていくのではないでしょつか。よりよい未来を過ごせるように今ある何かを変えていくことが大切だと思います。それは未来を見るだけでなく過去を振り返ることも時には大事だと思います。

 

永井輝空 兵庫県立大学

誰ひとり取り残さない空間

 SDGsの「誰ひとり取り残さない」という理念を生活する空間の中で考えたとき、私が一番に思いついたものが、ユニバーサルデザインである。ユニバーサルデザインの考え方は、SDGsの「11.住み続けられるまちづくりを」の目標を達成する方法の一つだと考える。
ユニバーサルデザインとは、「年齢、性別、身体的状況、国籍、言語、知識、経験などの違いに関係なく、すべての人が使いこなすことのできる製品や環境などのデザインを目指す概念」である。ユニバーサルデザインには、公平性、自由度、単純性、明確さ、安全性、持続性、空間性の7原則と、耐久性と経済性、品質と審美性(美しさ)、保健面と環境面への配慮、の3付則がある。ユニバーサルデザインとよく似た概念で、バリアフリーがあるが、バリアフリーとは、「障害をもつ人々が、生活環境(住宅、地域施設、交通施設)において、普通に生活することを阻んでいる障壁(バリア)をなくすこと」である。ユニバーサルデザインとバリアフリーの大きく違う点は、対象とする人で、ユニバーサルデザインの方が、「すべての人」と、対象とする人の範囲が広い。
 ユニバーサルデザインは、自身も車椅子を利用する障がい者であったロナルド・メイスによって、1980年代に提唱された。それ以前にも、「ノーマライゼーション(身体的・精神的障害を持った人でも、健常者とともに可能な限りノーマルな生活を送る権利があるという思想)」という、ユニバーサルデザインの概念に近い思想は存在していた。しかし、1960年代、アメリカで障害を持つ人が急増したことによって、これらの人々があらゆる分野で差別を受けないように、また、不便さを取り除くために、それまでの概念に代わってユニバーサルデザインが提唱された。
 街中でよく見かけるものを二つ、ユニバーサルデザインの例として挙げる。一つ目は、自動ドアである。街中のお店はほとんどが自動ドアであるが、これはドアを開けることを困難とするような、身体的障害を抱える人や、車椅子を利用している人にとってだけでなく、妊婦や荷物をたくさん持った人にとっても使いやすくなっており、そして現在のコロナ禍には非接触という点で便利なものである。二つ目は、ピクトグラムである。ピクトグラムとは、情報や注意を示すために表示される視覚記号であり、交通標識や、店内のトイレのマークなど、様々なところに使われている。文字よりも視覚で伝えるために作られたため、言語の違う外国の人にでも、公平に伝えることができる。
 2018年、厚生労働省の調査によると、障害(身体障害者、知的障害者、精神障害者)のある人の人数(障害認定を受けている人)は、約936万6千人であり、日本の全人口の約7.4%であると公表した。高齢化の進行に加え、障害への理解が進んで障害認定を受ける人が増加したこともあり、年々障害を持つ人が増加している傾向にある。しかし、まちの様々なものは、健康な人の利用を暗黙の前提として作られている。障害を持っている人に限らず、高齢者、怪我をしている人、妊婦、そして健康な人まで、すべての人が使いやすい、つまり、誰ひとりデザインに取り残されないようにするためにあるのが、ユニバーサルデザインである。

<参考文献>
Design for all http://design-for-all.jp/

朝日新聞2018/4/8 https://www.asahi.com/articles/ASL495Q7BL49UTFK01W.html

永井温登 中央大学 3年生

 

「課題ほんとに多すぎ。マジ死にたいわー」
「それな。わかりみが深い」
大多数の学生の多くはこんな感じの会話をしたことがあるでしょう。軽いノリでの会話であり、そこに本意はないと思います。だが世の中にはほんとに死にたいと思う若者が多くいます。日本の自殺者数は世界トップクラスです。私はそんな社会が嫌いです。変えたいです。今私にできることの1つとしてこの学生論文に応募しました。この小論文のテーマである「誰ひとり取り残さない」の中に、未来を支える若者が多く含まれるなんて悲しいことです。若者が死という離脱を選択する社会のあり方に対して主張します。
 直近のデータ(今年1月~4月時点)を調査すると、自殺者数は7,000人を超えます。コロナが流行し始めた期間である令和2年の総自殺者数は21,081人であり、先の7,000人を合わせると述べ28,081人にも及びます。これはコロナに感染した死者数13,531人を超えてきます。(2021年6月8日時点)特に若者の自殺者数が増加傾向にあります。年代別に見たとき、20代の自殺率は前年比約19%増加であり、年代別での増加率は1位でした。このように若者の自殺は社会問題であり、いち早く改善するべきだと訴えかけます。
 ではどのように社会のあり方を変えていくべきか。私は幸福度を指針に改善していくことが得策なのではないかと思います。若者の自殺の大きな要因は、「自分らしく生きられない」や「自分の居場所がない」などの理由です。(厚生労働省自殺対策白書より)この要因は幸福度調査にも表れています。国連が発表した幸福度ランキング2021年で日本は56位でした。他の先進国に遅れをとった理由は「自由度」と「寛容さ」が低いからでした。この「自由度」と「寛容さ」が低い社会のあり方が、まさに若者が自殺する大きな原因だと考察します。「自由度」は学業の面、家庭の面など多くの事象に該当します。その中でも表現の自由は今すぐにでも改善できるはずです。例えばSNSの普及により、表現の自由は楽になったと思います。しかし窮屈な社会と捉えることもできます。他人を気軽に責めたり、一般論を押し付けたりなど出る杭が打たれやすいです。だから多くの若者はサブ垢を作ります。本当に言いたいことはメインのアカウントでは言わず、自分を偽ります。ネットの中でさえ偽らなければならない。現実において自分らしく生きられてる若者は一体どれくらい存在するのだろうか。「自分らしく生きられない」と「自由度」は密接に関わっていると断言します。「寛容さ」も同様に普段の生活に欠けています。例えば暗黙の了解・ルールという言葉が存在するように、外側は美しく見えても中側は自由と寛容さが欠如している構図はよくありがちです。慣習にうるさく、いじめが多く、ボランティアの参加者が少ない日本は典型例です。ポジティブ思考が社会には少ないのです。多くの若者は大人になるにつれてそんな社会を受け入れます。そんな社会に疑問を持ち、立ち止まった若者に対して社会は居場所を与えてくれません。「寛容さ」が足りないからこそ居場所がないと感じる若者が存在するのです。「自由度」と「寛容さ」の2つが今より溢れる社会を目指すべきなのです。
 「自由度」と「寛容さ」に溢れる世界は誰が提供してくれるのか。自然と自殺者が減少する社会に変わっていく世界線が最善です。しかし待っていては遅いです。その世界を創るのは同じ世代である私たちでもできます。若者が活躍する例があります。大学生が立ち上げた「あなたのいばしょ」というサービスです。自殺を考えてしまう人にチャットによる相談を繰り返し、ひとりひとりの解決策を模索していきます。チャットという匿名性と気軽さから若者の利用者が多く、話題を呼びました。また、自殺率全国ワースト1位であった秋田県では、全国初となる大学内に「自殺予防総合研究所センター」を設置しました。こちらは対象が若者ではなく高齢者ですが、同様に大学の学生が積極的に自殺率抑制への活動に貢献しています。このように若者が若者に目を向けて一緒に歩んでいくことができます。未来を生きていく若者の多くを取り残さないためには、同じ世代の力がカギとなるでしょう。
 メディアなどでSDGsが特集される場合、多くは環境、貧困などが取り上げられる傾向にあります。もちろん他の社会問題も大切です。だが、自殺者についても知るべきです。
若者を含めた多くの人間が苦しんで、置いていかれるという現状を。冒頭に述べたように、若者の自殺率が高い社会に主張します。もっと目を向けるべきです。同じ世代の若者には、この文章を読んで一緒に考えていただけたら幸いです。

 

引田遥 武庫川女子大学短期大学部 2年生

 

大気中にある二酸化炭素やメタン、フロンをはじめとした温室効果ガスが地表にたまりすぎていること引き起こされる地球温暖化が深刻化している。18世紀にイギリスで起こった産業革命以降技術の発展は目覚ましく生活は便利になったが、その代償として温室効果ガスの排出は抑制されていない。。そして、地球温暖化が進行することで我々の生活や農業、生態系が脅威にさらされることがわかっている。では、地球温暖化の進行を食い止め世界中の人全員が住み続けられるまちづくりの実現は可能なのだろうか。
 地球温暖化を引き起こしている気候変動の原因の一つとして挙げられるのが、海洋・太陽活動の変動、火山活動による大気中の微粒子の変化である。これらは自然現象の中の変化であるため、我々人間の手で止めることは困難である。しかし気候変動の原因はもう一つあり、それは化石燃料の燃焼、森林伐採をはじめとした温室効果ガスの増加である。この二つ目の原因は我々人間の手による代償であるので、気候変動を完全に止められなくても我々の人間の手で抑制することは可能である。
 環境問題が起こる原因として挙げられるのは地球環境資源に依存した大量生産大量消費である。物を大量に生み出しそれを我々消費者が消費することで環境に影響を与えるという考えである。しかし、実はこの大量生産大量消費の外側には別の問題がある。それは、大量採取大量廃棄である。しかし、採取と廃棄の問題は特に先進国で不可視化されている。それは、資源の採取と廃棄の役割を途上国が担っているからである。そしてその中でも公害輸出の問題がある。公害輸出が起こる原因はダブルスタンダードと呼ばれる先進国と途上国の環境基準の格差である。先進国では核燃料をはじめとする処理できない有害な製品や廃棄物を途上国に輸出する貿易があり、その影響で過去に先進国で起こった公害問題が途上国で発生する。これは先進国にとっては都合がいいかもしれないが、途上国にとっては経済成長を妨害し人間への健康を保証できなくなり南北格差が広がる原因にもなっている。有害な廃棄物を先進国より自然環境が守られている途上国に流すことで本来守られるべき植物や動物の生態が危険にさらされてしまう。途上国で環境破壊が行われることで地球全体の気候変動を抑制できず地球温暖化は進行し、途上国の人々の身体も危険にさらされ海抜の低い地域に住む人は住居がなくなってしまう。しかし、先進国はこの現状を理解しきれておらず、核拡散防止条約で保有が認められていながらも核を保有している国は5か国ある。
 そのため、先進国は途上国や海抜の低い地域に住む人々の現状を知り適切な対処をする必要がある。核燃料の廃棄をする時には他国に輸出するのではなく自国で各連量サイクルができる施設を建設したり、島国が沈まないように埋め立てを行うといった対策が必要になる。日本では核燃料サイクルを行う六ヶ所再処理工場の建設が行われた。2050年には沈んでしまうといわれているツバルでも国土の埋め立て工事が進められようとしている。
 世界の国々の現状であるローカルな環境問題を知り、地球温暖化に代表されるグローバルな環境問題と向き合うことが、世界中の人々が全員住みつづけられるまちづくりの実現を可能にする一つの突破口である。

 

茨木良 横浜隼人高校

 

2015年、9月に国際連盟に参加する193ヵ国は持続可能な開発目標を掲げた。英語名は Sustainable Development Goals(SDGs)で、2016年から2030年の15年間で達成するために作 られた。これは17の大きな目標と、それらを達成するための具体的な169のターゲットで構成されている。SDGsの目標は大きく3つのブロックに分けることができ、1つ目のブロック(1から6)は貧 困や教育、安全な水分の確保など、主に開発途上国に向けた支援だと見ることができ、2つ目の ブロック(7から12)はエネルギーや経済成長、まちづくりの話など、先進国とも言える日本も関係 してくるような内容だ。3つ目(13から17)は気候変動や海と陸の環境についてなど開発途上国に も先進国にも大きく関わるような話である。このように、ほぼ全ての国がより良い開発を進めてい く協力ができるのが、SDGsが世界に広がっている理由だと言えるだろう。 私は特にそのなかでもNo.14「海の豊かさを守ろう」に着目して話していく。近年、世界では海の 汚染が進んでいて、その影響は人々だけでなく魚をはじめとした多くの生き物にも及んでいるのだ。そのため、このままこの状況が続いてしまうと現在世界3位を誇っている日本の漁獲量にも影響がでる可能性は少ないとは言えないだろう。私がこの問題に着目した主な理由は若い世代の人間でも日々の細かい行動を修正していくだけで簡単に海洋汚染を防止できる取り組みを行えるという点であった。たとえば、私のような高校生でもゴミ拾いなどのボランティア活動に参加したり、買い物をする際にマイバッグなどを持ち込むようにして極力ビニール袋をもらわないようにし たりするだけでも海の汚染防止活動になるのだ。 しかし、近年では世界中の多くの国々が新型コロナウイルスに侵されNo.14だけに関わらずほとんどの開発目標に大した取り組みの進行が低速化していると言えるだろう。もちろん日本でも その影響は大きく、感染拡大を防ぐために人々はウイルスの互いの直接的な接触をできるだけ 避けなくてはならないのだ。2016年には誰も予期していなかったトラブルが多くの被害をもたらしてしまっている。だからこそウイルスに負けずに今後も社会をより良くしていくためにはあらかじめ 用意されたものを全うしようとする能力だけでなく1人1人がしっかり問題に向きあい、協力していこうとする能力もまた必要となる。世の中は私のような若い世代の人たちにも助けを求めているのだ。

 

一政さとみ 横浜市立本牧南小学校

「地球温暖化にていこうする」

 今、全世界で地球温暖化が二酸化炭素などの温室効果ガスで深刻になっている。
 今、私たちの生活のほとんどが、石油や、石炭、天然ガスなどの化石燃料で成り立っています。これらの化石燃料は、テレビを見たり、冷蔵庫を使ったり、車が走ったりするのにこれら化石燃料を燃やし、エネルギーを作る際、二酸化炭素が生じ、温室効果ガスが増加し、地球温暖化が進み、平均気温が少しずつ上がり、干ばつ、海面の上昇などの自然災害が起こっています。
 私が三年生の時の夏、埼玉県が気温四十度以上になったことを知りました。この時は、「私だったら、こんな暑いのいやだな。」と思っているだけでした。
しかし、四年生になって秋の季節。台風十九号が東日本に牙を向き、爪あとを残しました。長野市では、千曲川のていぼうが切れ、多くの家がしん水し、宮城県、丸森町では、川があふれる上、土砂くずれなどの大きなひ害が起こりました。どれも地球温暖化のせいです。私は小さなことでいいからやってみました。車は、持って帰る荷物の量が多い時、大人数で帰る時、遠くに出かける時以外は、自転車や、歩きで帰ったり、冷ぞう庫は、必要以上に開けず、利用したり、ベランダで野菜を育ててみたり、家でゲームばかりしないで、あまった新聞紙で折り紙や、外で散歩して自然にふれてみたり、テレビを見てない時は、電源を切るなどをして、地球温暖化にていこうした。実際にやってみると、育てた野菜はおいしかった。それに、新聞紙で折り紙をした時、弟と遊べて楽しかった。
 地球温暖化は、一人、一人の人間が深刻にしていった。ならば一人、一人の努力で地球温暖化を止めればいい。こうして一人、一人、地球温暖化の事をにんしきし、小さなことでいいから自分に出来ることを考え、取り組んでいったら、未来の地球に住む、自分の子どもや、孫の未来、地球の明るい未来を守れると私は思う。

 

磯野アサ 横浜市立南高等学校

「誰一人取り残さない ~SDGsの多様性~」

 最近はテレビや新聞で毎日と言っていいほど目にするようになった「SDGs(持続可能な開発目標)」。その理念に「誰一人取り残さない」とあるが、「人種、性別、障害などによる差別や、貧困や地域による格差の是正のために、地球上のみんなで目標を持って取り組む」、そのような言葉は、きれいごと、決まり文句になってはいないだろうか。
 私は小さい頃から社会問題に関心を持ち、中学・高校ではSDGs達成に向けて自分には何ができるかを考え、取り組んできた。そして、深刻な社会問題に対処するには、より多くの人が問題意識を持って取り組む必要があると考えてきた。しかし、この春休みに、そんな私の考えを大きく変える出来事があった。
 春休みの3月、私は、海外に興味がある高校生による高校生のためのソーシャル部活動「#せかいぶ」が開催した「せかいの“今”を話そう!」というイベントに参加した。そこでは、20カ国以上から来た500人近くの若者が参加し、SDGsや10代の生き方について意見交換をした。私のグループでは「エシカル消費」に着目し、SDGs達成に向けた各国の取り組みについてのプレゼンテーションが行われた。私は、シンガポールやスペイン、フィリピンなどで進んだ取り組みが行われていることを聞いて、日本は遅れているように感じ、圧倒された。しかし、最後のプレゼンターだったエジプト人の青年の発言にハッとさせられた。
 「僕の国でSDGsの達成について考えるのは難しく、新興国でも取り組むのはきついと思う。SDGsはグローバルアジェンダと捉えるべきではない。なぜなら、僕の国のように、持続可能性を求めるよりも先に、解決しなければいけない目の前の課題があるからだ。SDGsやエシカル消費は先進国による贅沢な悩みに思えてしまう。」
 私は彼の発言を聞いて、根本的なところに立ち返らないといけないと感じた。SDGsに取り組む世界中の多様なアクターの現状についてである。ニュースなどで目にするSDGsの取り組みの多くは、欧米の先進諸国によるものだ。例えば今回のメンバーの話では、再生可能なエネルギーの導入や環境に関連した新たな産業・雇用の創出、有機栽培のベジタブルガーデンの開催など、これからSDGsの政策をさらに進めていく側の日本にとっては魅力的な事例が多く参考になるが、開発途上国の人々にとっては夢のような話かもしれない。SDGsについて語る場でもそのような受け止め方の差があるのに、「誰一人取り残さない」と言えるだろうか。
 しかし、彼は次のように続けた。「政府が進んだ政策をすることが出来なくても、国民の一人一人が『何が正しい選択か』を考えることはできる。エシカル消費に関して言えば、何が道徳的行為か、例えば海に何かを捨てる時にそれは魚を殺してしまうことに繋がらないか?などとね。」
 彼が言う通り、それぞれの国がその社会・経済状況に合わせた課題を持っており、同じ地球上でも取り組めることは地域によって変わってくるはずだ。それなのに、SDGs達成のための政策を他国に強制したり、国別取り組み度ランキングを作って比較したりすることは重要ではない。むしろ、SDGsに取り組むアクターを誰も置き去りにしないために、それぞれの地域に合わせた多様な方法を考え、互いにその違いを受け入れていくべきではないか。
 目標の2030年まであと9年。先進国でも、途上国でも、みんなが共通意識を持って、一人一人が自分らしくベストを尽くすことが出来る社会になってほしい。

 

磯野里江 横浜国立大学 1年生

コロナ禍で働くこと

 新型コロナウイルスが日本で流行し自粛した生活を求られ約一年半が経つ。多くの人々はこの生活に順応している面もあるが、コロナ禍での働き方については生き延びられる人、今までの仕事を辞めざるを得ない人など、格差が出ている。私は今回、コロナ禍で働き手を失う、仕事が立ち行かなくなることについて考え、コロナ禍でも誰一人として取りのこさない社会というものを考える。
 新型コロナウイルスにより損害が出た職種は数えきれないほど多く、その中でもよくメディアに取り上げられるのが飲食店、特に、チェーン店ではない個別運営の飲食店である。経営状況の悪化により既に閉店をしてしまった店は数多くニュースで取り上げられるが、政府の補助金などの国からの支援が大幅に改善されることはなく、現在も店の存続が危ぶまれている飲食店はある。一方で、電化製品を扱う電気機器メーカーや、IT企業はコロナの家籠りによる需要の増加で利益が拡大している業種もある。このようにコロナの影響により業種によって格差が出ているのではないかと考えた。ここで注意するべきは、電化製品の需要が増し、利益が拡大する業種があるということが問題ではなく、飲食業界、旅行業界など、コロナによって大きく影響を受けた業界の支援が閉店に追い込まれてしまったり行き届いていないこと、格差のバランスの下層が増えていることが問題だと考える。これは会社などの単位だけではなく、個人単位でも表れている。例えば、大学生のアルバイトでは、コロナ禍の経営規模の縮小により解雇され、次のアルバイトも決まらず収入がない、また、内定取り消しとなってしまった就活生など、多くの大学生が影響を受けている。このような学生や閉店してしまった店の人たちは社会に取り残されてしまったということではないだろうか。本来、SDGsではコロナのような非常時での格差を想定しているのではないかもしれないが、格差があるという事実が重要なので、この問題も解決すべきである。コロナ禍で職が安定しない人々をどう支援するのか、その方法についてはあらゆる専門家や批評家が意見を述べ、私も政府の政策は改善するべきところがあるのではないかと感じる。しかし、政府にできることには限りがあり、何より取り残されている人一人一人を助けることは難しい。今私たちができることをは限りなく少なく、小さいことだが、周りで困っている人はいないか情報共有をし、人々の助けを借りられやすくすることではないかと思う。例としては、飲食店の従業員を一時的にあまりコロナの影響を受けていない企業に移ってもらい生活に影響の出ないよう収入を安定させ、安心してもらうというとりくみである。このような取り組みが企業間だけでなく個人間でも行われることで、社会に取り残されてしまう人々をなくし、格差是正への第一歩につながるのではないかと考える。

 

郁天華 創価高校

 

「誰ひとり取り残さない」というテーマのために、私は「相手を尊重すること」「相手を知ること」が大切であることを伝えたいと思います。
私は離島で生まれ育ちました。幼いときから同級生のメンバーは変わりません。昔から周りの友達は一緒です。私は、一人にならないように友達に合わせる日々を送っていました。人間関係が親密であるがゆえに、自分だけ違うことをするのが怖かったのです。一年前、東京の高校に入学しました。知り合いはいるはずもなく、コロナの影響で、2ヶ月間はオンライン授業。登校するのは7月からでした。中学から進学する生徒が半数を占めているため、その生徒は、登校すると友達がいる、という状態でした。周りに合わせてきた私は、一人ぼっちになってしまう、との焦りと不安でいっぱいでした。そして迎えた初登校日。予想とは違い、みんながみんなに話しかけ、みんなが笑顔で会話をしていました。私はてっきり、俗に言う「一軍」のような存在がいて、周りの人は静かであるとばかり思っていました。
なぜ生徒一人ひとりが笑顔なのか、この一年間で大いに実感しました。
私の高校は、「誰も置き去りにしない」という理念を掲げています。授業では殆どの科目がグループワーク形式で、毎日必ず自分の意見を述べています。相手の意見が自分の意見とは反対でも、否定することなく話し合いが進みます。「私はこう思ったけど、あなたは?」と聞き返したり、相手の意見を聞いて「なるほど!」という声が挙がったり、相手を認めて受け入れているのです。「相手を尊重すること」が、一人も置き去りにしない、取り残さない空間を作っているのです。だから私は、自分の意見を主張できるようになりました。自分から話しかけることができるようになりました。
また、「対話」と称して、友達、さらには話したことがない生徒とまで語り合うことがあります。「今頑張っていること」や、「大切にしていること」とか、「平和について」というテーマまで、たくさんのことを語り合います。普段何気ない会話をしている友達の新たな一面を見ることができたり、対話をしたことで、イメージとは全然違うとわかった人もいました。先入観、固定概念で相手を決めつけてはだめなのです。話したことがない人は、自分のイメージのみで相手の全てが決まってしまいます。「相手を知ること」これはとても大切なことなのです。
「相手を尊重すること」「相手を知ること」これらは、実行しにくく、難しいことです。ですが、一人ひとりが普段の生活を変革していけたら、「誰ひとり取り残さない」社会ができるのではないかと思います。「桜梅桃李」という言葉があるように、それぞれ、咲く時期が違い、それぞれの花を咲かせます。人にも一人ひとりの個性があるのです。一人ひとりがありのままの姿で最高に輝く、「誰ひとり取り残さない」社会になることを願います。

 

井村智哉 兵庫県立大学 1年生 環境人間学部

伝統•文化を防災に

1. 取り残される人々
東日本大地震では年齢が判明した犠牲者うち、60歳以上の高齢者の割合はおよそ65.2%になります。また、死亡者が10人以上で30市町村の総人口に対する死亡率は1.03%でした。それに対して障がい者の死亡率は倍の2.06%となります。なぜこのような差が出てしまうのでしょうか。
2. なぜ取り残されるのか
取り残される人がいる理由は住民同士の助け合いの欠如にあると考えます。東北地方には、「津波てんでんこ」という教訓が伝承されています。津波が起こったときは周りの人のことを気にせず、みなバラバラに逃げろという意味です。しかし、自分一人の力では「てんでんこ」に避難することができない人がいます。高齢者や障がい者などの災害弱者です。寝たきりの高齢者や車椅子で生活している方は一人で高台へ行くことは困難だと考えられます。また、目の不自由な方は普段生活していたところも災害により状況が変化し、避難することができなくなる可能性があります。耳の不自由は災害を知らせる音声でのアナウンスが伝わりません。助けを呼ぶ声も出すことができません。災害弱者を守るため、東日本大地震では震災前から「災害時要支援者名簿」を作られていました。しかし、それは市町村が管理しているだけのものであり、災害時の緊迫した状況では役にたちませんでした。住民は災害弱者の状況を知ることなく「てんでんこ」に避難してしまったのです。
3. 住民同士の助け合い
SDGsの基本理念である「誰ひとり取り残さない」の達成には、避難者は「てんでんこ」に逃げるのでなく、災害弱者に声をかけ、支援する必要があります。そのためには「災害時要支援者名簿」のように市町村だけが情報を知っているだけではなく、住民同士がお互いにどのような支援が必要なのかを知っている必要があります。
4. 伝統•文化で住民同士に繋がりを
住民同士がお互いにどのような支援が必要なのか知るためには、住民と住民の関わりをより深いものにしなければなりません。そこで提案するのが伝統•文化を用いることです。例えば、秋田県男鹿半島の「なまはげ」は高齢者や障がい者を災害から守る働きがあります。「なまはげ」は大晦日の夜に家にやってきて、一人で逃げられない人がいることを確認しています。災害が起こったら、それぞれの住民の状況を理解している「なまはげ」が避難の支援者となります。このように、地域の伝統•文化が住宅同士の関わりを深くし、防災に繋げることができると思います。それぞれの地域で伝統•文化を大切にし、防災にまで繋げようと意識することで「誰ひとり残さない」避難を行うことができるようになると思います。

 

井上翔太 東大和市立第二中学校

本当に変わらなければならないのは、私たち先進国

 

「途上国に衣服や靴を寄付すればするほど、現地の人々を貧困に追い込むことになる」
 青年海外協力隊として、西アフリカのベナン共和国で活動していた担任の先生の言葉に私は衝撃を受けた。なぜなら、子供のころからずっと『寄付』ことはよいことだと信じて疑わなかったからだ。
授業の後、私はすぐさま先生に詰め寄った。そして「洋服を寄付すれば、貧しい人々は、それらを安く手に入れられるはずなのに、なぜそれが逆に現地の人々を追い込むことになるのですか?」と疑問をぶつけた。すると、担任の先生は私に「では、もしあなたが途上国で洋裁ビジネスや服屋を経営する人間だとして、先進国から寄付された大量の衣服が、同じ市場で安く売られていたらどうですか?」と言った。その質問を受けて、私はハッとした。「私の作った服が売れない」ということに気が付いたからだ。
実際ベナンでは、先進国から寄付された服が1着5円から15円で売られている。現地の人は、それらの安い服を購入するため、現地の服屋の作る服が売れず、貧困に追い込まれるということだった。良かれと思って『善意』で行っていた寄付が、逆に現地の人々を苦しめていることを知り、私はショックを隠し切れなかった。しかし、SDGsが目指す『誰一人取り残さない』という理念を実現するためにも、私はこの問題から目を背けず、向き合うことに決めた。 
 調べていくと、日本ではファストファッションの影響もあって、年間10億着以上の衣服が廃棄されていることやTシャツ1着を作るのに2700リットルもの水が使用され、環境に負荷をかけていることが分かった。「では、私たちに何が出来るのか?」と考えた。出た答えは、『今着ている服を大切にすること』と『日頃節水に努めること』だった。なぜそうするかというと、私が言ったところで、衣服メーカーは聞く耳を持たないと思う。しかし、大勢の人が今着ている服を大切にし、新しい物を買わなくなったら、それがメーカーへの意思表示になるはずだから。また、節水も自分の身の回りのことから変えるべきだと思ったからだ。
これらのことをとおして、私は『本当に変わらなければならないのは、途上国の人々ではなく、私たち先進国の人々の考え方や行動だ』ということを強く実感した。そして、これからもSDGsに関する授業をとおして学んだことを、様々な人の立場から考え、それを多くの人に発信していきたいと思った。

 

井上寛人 明治大学 情報コミュニケーション学部 4年生

 

 私は、誰もが何かのマイノリティだと思う。そのため、「誰一人取り残さない」社会を創っていくためには、多様な世代の、お互いの強みを活かしあって、地域コミュニティで一緒に乗り越えることが重要であると考える。以下、「取り残されない人」「取り残される人」の分断が生まれやすい、「少子高齢化」のテーマに絞って詳しく述べる。

 少子高齢化に至るさまざまな原因として、若い世代が、安心して子育てをできる環境が整っていないことが考えられる。その理由は三つある。

 まず、教育の視点からは、身近に学校の先生以外に、頼れる人が少ないことだ。そのせいで、子供ができても、子供の保育園選びのことや、習い事のことなどを相談しにくく、安心して子育てができないという課題が生まれる。

 次に、経済の視点からは、夫婦で共働きせざるを得ない状況になっているからだ。そのために、保育園や塾や大学に通わせるお金を工面するために、夫婦で共働きをする家庭が多いが、その場合、子供が熱を出したときや、いじめを受けてきつい思いをしている時に、親に頼ることが難しいという課題が生じる。

 最後に、健康・医療の視点からは、近くに病院が少ないことや、子供の健康のことについて相談できる人が少ないことも挙げられる。そのために、親は子供の病気に対して適切なケアをしにくいという課題が生まれる。

 これらの課題は、それぞれが相互に影響しあって、解決が困難になっている。そこで私は、多様な世代の人たちの、お互いの強みを活かしあって、地域コミュニティで一緒に乗り越えることを提案する。

 まず、教育の視点では、地域の多様な世代で一緒に、混ざり合って学び合える機会を増やす。例えば、小学校の授業参観日や運動会などのイベントで、地域の方と交流して出し物を行うコーナーを設けたり、自治体主催のオンライン/オフラインワークショップを開催したりして、地域の世代間交流を増やす。

 次に、経済の視点では、 労働力不足の問題を、地域のそれぞれの世代の強みを活かし合うことで、安心して暮らせる地域づくりをしていく。例えば、お年寄りの豊富な経験を地域の若い世代に伝えたり、コンピューター・デジタル系は若い人が、お年寄りに教えたりする講習会をオンライン/オフラインで開催する。そして地域コミュニティのつながりが生まれれば、お年寄りに自分の子供を預けるなどの助け合いが加速するだろう。

 最後に、健康・医療の視点でも、地域でコミュニティ農園や、再生可能エネルギーの発電プロジェクトを行うことで、多世代のつながりができる機会を作る。そうすることで、「ご飯ちゃんと食べてる?」など近隣住民同士の状態・状況をケアしあえる地域になるだろう。

以上

 

井上彩子 横浜国立大学

 

 6月の穏やかな朝、我が家に衝撃が走った。「フードドライブの受付場所が我が町には一か所しかない…だと…⁉」
 ことの発端は、衝撃が走る前日に録画していた番組である、2019年10月1日にNHKで放送された、「世界ふれあい街歩き 分かち合う異文化の街 ブリクストン界わい(ロンドン)」を見たことからである。ブリクストンという街は、スープキッチンや無料の本屋・ジムなどといった貧しい人たち向けにも充実した施設やコミュニティが整っている地域である。番組で取り上げられて興味深かったものに、フードロスを減らすために考案されて設置されたコミュニティ冷蔵庫「The People‘s Fridge」である。この冷蔵庫は、飲食店や家庭において余った食材や作りすぎた食品を無償で提供することを可能にしてくれる。そして何よりも特徴的なのは、だれでも利用可能であり、「利用する場合、ほかの人が利用できるように何かしらのものを冷蔵庫に入れなくてはならない」といった交換制ではなく、自由に冷蔵庫に入れたり持ち出したりすることが可能なのである。そのため、フードロスを減らしたい人にはもちろん、食べ物に困っている貧しい人にも役立てられている冷蔵庫となっている。ちなみに、コミュニティ冷蔵庫はドイツやスペインなど欧州各地でも取り組みがあり、日本でもコロナをきっかけに本格的に導入し始めた地域もあるようだ。とにかく、誰もが簡単に気兼ねなく生活の一部としてこういった活動ができるブリクストンという地が、私をはじめ家族の皆には新鮮に映り格好良くも思えた。刺激を受けた私たち家族は、「困っている人たちのためにそしてフードロスを減らすためにも、積極的にフードドライブを活用していきたい」という考えに至ったのだ。我が家にはちょうどその時、食べきれなさそうな頂き物のお菓子や缶詰等があったこともあり、俄然フードドライブへの意欲が高まっていた。そして、この翌日に、序盤に述べたように衝撃的な事実が浮かび上がってきたのだ。
 では、この後我が家はフードドライブの活用ができたのか。残念ながら、実行には至れていない。そもそも我が町では、述べてきているようにフードドライブの受付場所が一か所、しかも中心地の駅前等にある訳でもなく、アクセスが良いとは言い切れない場所にあるのだ。これでは、受付場所付近の住民にしか活用が十分にできないと考える。一応我が町のHPに、とあるNPOのフードバンクの方でも受け付けている旨が書かれていたが、フードドライブ初心者にはハードルが高いように思われてしまった。「意識が低い」から実行に移せていない部分もあるかもしれないが、気軽に活動できるような体制が整っていないことは由々しきことである。気軽に活動することができないということは、裏を返せばフードロスの軽減化が進んでいない、そして食に困っている人が満足に利用できていない恐れがあるということだ。
 また、コロナ禍になったことで仕事等を失い、食に困る人が日本中で増えた。そういった人のために緊急食糧支援等が行われてきているが、果たして継続的に安定的に行われているのだろうか。さらにニュースなどで食糧支援が扱われた際、「遠方から来ました」といったコメントなども流れることがある。つまり現実問題、満足した支援が行き届いていないのである。食糧支援体制等の脆弱、あるいは対応に地域差があるといった偏りが今日まであったために、こういった問題が発生してしまうのだ。
 このように、活動する・支援する側もされる側も「取り残された」状況になっているのが現状である。制度があったとしても行動しづらいために、置き去りにされる活動・支援者。そしてその結果、十分に恩恵が享受されず、厳しい生活状況に取り残されてしまう人が現れ続けてしまうのだ。
 フードロスをなくし、同時に食べ物を必要とする人たちを救うこのフードドライブはSDGsのゴールに寄与している。しかし、SDGsはあくまで努力目標であるため、「SDGsに貢献している」と仮に発信したとしても、このように充実した活動がされない、つまり絵に描いた餅になる恐れがある。では、活発化した活動ができるようにするためにはどうすればよいか。それは、先に挙げたブリクストンのように日常的に気軽に誰でも活動でき、利用できるような体制を整えることである。我が町の場合、フードドライブの主な拠点が一か所しかないので、コミュニティセンターでも受け付けや配布ができるようにすることで、地域との結びつきや活動が強固なものになり、支援する側もされる側も利害が一致することとなるだろう。
 コロナ禍で一層協力が求められるようになり、人々の中には「支援したい」「役に立ちたい」という思いが募ってきている。その思いを十分に生かせるようにするためにも、支援に「気軽さ」「日常性」を持たせることも必要であるということをひしひしと感じる自分が6月の穏やかな朝にいた。

 

井戸原夏 横浜隼人

 

 私たちはお腹がすいたら食べ物を食べることができる。手元になかったとしてもスーパーやコンビニで食料を調達することができる。私たちにとってこの当たり前な日常が、当たり前ではない人が世界にはたくさんいるのだ。そのような社会問題を飢餓という。
 今日の世界では約8億人もの人が飢餓に苦しんでいる。これは9人に1人が飢餓に陥っているということだ。長期間にわたり十分に食べられず、栄養不足となり、生存と社会的な生活が困難になっている。生きていくために必要な栄養を補給できずに命を落とす人が世界には多くいるのだ。そして世界の中で最も飢餓人口が多いのはアジアだ。その数は約5億400万人にも及ぶ。実際に、日本でも飢餓問題は起こっている。このような飢餓の問題をなくすためにはまず、飢餓の現状を知る必要がある。現状を知りそれを発信することで、多くの人が飢餓の問題について理解し、ボランティアや募金に参加する人が増えるのではないかと考えるからだ。
 そこで私は学校の総合探求で飢餓について調べた。食事の中での好き嫌いや食べ残し残飯など、無駄になってしまっている食料は数えきれないほどある。友人のバイト先であるドーナツ屋では毎日多くのドーナツが破棄されている。店側が消費者の需要を上回るドーナツを生産しているのだ。私はこれを聞いた時、捨てるということ以外に残ったドーナツを消費する方法はないのかと考えた、例えば雇用人や材料を運ぶ人に配るなど。しかしそれは不可能だ。それでは商売という仕組みが成り立たないからだ。そのため、まだ食べられるであろう食料が捨てられている。これも一つの社会問題である「食品ロス問題」だ。食品ロスと飢餓は全く関係のないものなのだろうか。
 食品ロスは飢餓の問題と同じように簡単に解決する問題ではない。私は食品ロスを減らすことが飢餓を減らしていく近道となると思う。食品ロスを減らすためにはまず、身近なことから気をつける必要がある。例えば、普段の食事の中で食べ残しをしない、食料を買う時に食べられる分だけ買うなどです。これらの簡単なことを気をつけることで食品ロスを減らすことにつながり、そして飢餓問題の解決にも繋がるのです。
 世界の社会問題を解決することを考えると、自分にできることなんてあるのだろうか?と思うだろう。しかしその問題を知るということだけでも解決に繋がるのだ。知って、それを発信する。これは何事にも繋がることだ。そして自分自身の身の回りのことから気をつけ、問題を解決へ導こう。世界の問題を解決する一員として行動しよう。
   

伊藤雅広 横浜国立大学 2年生

 

17の目標があるSDGsではさまざまな目標があるが、その中には10番目の目標の「人や国の不平等をなくそう」や16番目の目標の「平和と公平をすべての人に」というものがある。ここからすべての人への平等を考えると、その考えにおいて「誰ひとり取り残さない」ということが非常に重要になっている。貧困状態にある人々や障がいがある人々などは今日の生活でまだまだ苦労することが多いだろうが、社会活動からの排除に対してのセーフティーネットのようなものが整備されてきているように私は感じる。そこで今日の状況で最も取り残される恐れがある人々について考えると、それはセーフティーネットのボーダーラインに瀬戸際で入らなかった人々であると私は考える。例えば、厚生労働省は生活保護を支給する際に最低生活費と言うものを定め、最低生活費と収入の差を保護費として支給することになっている。しかし、最低生活費をわずかに上回る場合は保護費がもらえないという状況に至る。これがセーフティーネットのボーダーラインに瀬戸際で入らなかった人々に該当すると私は考える。同様に、障がい者という診断を受けることができなくでも、軽度の発達障害を持つ人などは障がい者としての支援の対象外となってしまう。これもセーフティーネットのボーダーラインに瀬戸際で入らなかった人々に該当する。このような人々は政府や企業などからの支援や活動から取り残される可能性があり、「誰ひとり取り残さない」という視点ではより注意が必要であるため、ここでは彼らが取り残されないような行動や施策について考えたい。
貧困のラインをわずかに上回るような人々に対して、私が自分自身で行いたいこと、行うことができることは、彼らの声を世間に伝えることや彼らに支援策などの有益な情報を伝えることであると私は考える。貧困に対しての人々の認識は「生活保護を受給している人が貧困であり、そこが解消されれば十分である」という考えが多く見られると感じる。このような人々に対して彼らの現状を伝えることは、将来的に必要な施策や法整備などの動きをスムーズに進める上で非常に重要である。また、貧困のラインをわずかに上回るような人々は支援を受けることができるにも関わらず情報がないためそれを受けることができないという状況もしばしば見受けられる。今日はSNSをはじめとする情報を発信する場が発展してきており、それらによって情報を広めることは一般人である私にも可能であると考えたためこのような情報発信を行いたいと考えた。
軽度の発達障害に関しても同様、もしくは上記の貧困の問題よりも難しいことかもしれないが、これも私が行うことができることとしては情報発信があると私は考える。特に発達障害などに関しては、数値で明確にわかるものが少ないため、エピソードや共感することなどの情報を発信することが必要である。
国や行政が行う施策では、金銭の支給はラインを定める必要があるためどこかでこのような問題が生じるのはやむを得ないことかもしれない。しかし、課税方法を変えて負担を小さくすることや生活必需品の消費税を廃止もしくは大幅に軽減することで彼らの生活における負担を小さくなるだろう。
軽度の発達障害に関する問題では、ケアの枠組みを広げる施策が必要である。これにおいては、発達障害の境界線を明確に定めるのではなくあえて曖昧にすることで軽度の発達障害の人々をもれることなくカバーできるようにすることが求められる。これによって軽度の発達障害の人々だけでなく、発達障害の有無にかかわらず何か問題を抱える人々をサポートすることも可能になると私は考える。
上記では「取り残される人」になる可能性があると私が考えた人々に対しての行動や施策について考えたが、ここで取り上げることができなかったような人も多く存在するし、そのような人々こそ「取り残される人」になってしまうかもしれない。一つの視点からはすべての人々を見ることはできないため、異なる視点や広い視野を持つこと、また自分の異なる立場の意見に触れ、それを共有していくことが「誰ひとり取り残さない」という視点において最も重要なことである。

 

伊藤大地 横浜市立南高等学校 

 

私たちがSDGsを取り組むことにどのような意義があるのか。総合的な学習の時間で触れるたびに疑問に思う。この達成が社会に好影響を与えることは間違いない。けれども果たして誰もがその意義を理解することができるのだろうか。たとえば1つ目の目標である「貧困をなくそう」は発展途上国にとってはグローバルな課題であるとともにローカルな課題でもあるので意味を見出すことは容易だ。しかしながら、日本のような先進国には途上国にみられるような極度の貧困は見られない。そうなると、特にこうした問題を抱えていない私たちはこのような問題を真摯に受け止めることはできないのではないか。つまりは、SDGsに意義を見出せない状況が生じるということだ。したがって私は“誰一人取り残さない”の実現のために、新たなSDGsの考え方を定義する。
 SDGsは17の目標と169のターゲットで構成されている。しかし、前述したようにこれらすべてが必ずしも世界中の人に当てはまるわけではないから、すべての人が同じ価値を見出すことが難しい。だから私は、「文化と融合したSDGs」に取り組むことを提案したい。これを表した具体例を二つ挙げる。一つ目は、私たちがビニール袋の消費を抑えるために使用しているマイバッグを日本の伝統的な風呂敷に変えること。二つ目は、ペットボトルの消費をおさえる、という発想ではなく、家では急須を用いてお茶を入れるようにするということ。
 前述した二つの例には「日本文化に触れられる」という共通項がある。この要素は今までのSDGsにはなかったはずだ。先進国に住む私たちにとって、環境問題や貧困の問題はあまりにも現実味がない。だから関心はあまり湧かないし、別に取り組んでいて楽しいわけでもない。しかし、こうした日本文化とSDGsを関連付けて考えることで、私たちは先人が紡いできた歴史に触れることができるだけでなく、生活をより豊かにすることが可能になるはずだ。この考え方のほうが従来のものよりはるかに面白く、取り組みやすいから、多くの人にとって受け入れやすいのではないだろうか。
 どうしてもSDGsを考える際に多くの人は発展途上国のことに目を向けがちだが、「誰一人取り残さない」の実現のためにも私たちの意識の変革はかなり大切だと考える。日本人である私たちにできることはどんなことか。私が提示した日本文化的SDGsはその問いに対する一つの答えだ。世界中の人々それぞれにとってのSDGsを型にはまらない考え方で一人一人が真摯に取り組んでいくことが目標の達成に繋がるはずだ。

 

安村泰成 横浜隼人高校 2年生

 

 私は「誰一人取り残さない社会」を実現するためには、「協力すること」が必要だと考える。この地球では、さまざまな考えや立場をもつ人々が多く存在しており、そのような人々と協力するのは難しいことかもしれない。しかし、そのような状況においても、できる限りさまざまな考えや立場をもつ人と協力して問題を解決することは可能であると私は考える。むしろ、この世界で、誰もが尊厳を保ち、それぞれの人生を自由な意志で謳歌出来るようにする為にはそのようなことが必要なのではないだろうか。国際協力に直接関わるごく少数の人々では、世界規模の問題を解決することは出来ない。しかし、私たち一人一人がもう少し視野を広げ、自分たちの周りで起きている小さなことに関心をもち、さまざまな立場にある人々と協力ことで、少しずつ世界を良い方向に変えていくことが出来ると思う。多様化・グローバル化が進んだ現代において、自分の世界以外に対して「無関心」を貫くことはもはや出来ない。日々、自分たちの生活に忙殺されてしまうが、一人一人が少しずつ他者への思いやりをもち、周りで起きていることに対して他者と協力することによって、社会で取り残されている人々を救うことが出来るのではないか。また、今回のコロナウイルス感染症に伴う一連の社会現象から私が考えたことは、「全員で足並みを揃えて少しずつ前へ進めば良い」ということである。コロナウイルス感染症によって、世界規模で経済活動が停止し、それまで活発だった開発活動や近代化への急速な成長にも歯止めがかかった。コロナウイルス感染症は私たちに甚大な影響をもたらしたが、それと同時に、私たちに他者と協力することの大切さを改めて認識させたことで、それまでの社会の在り方を改めて見つめ直す機会に恵まれたとも言える。これを機に、「一部の人々に恩恵が偏る急速に発展する世界」から 「すべての人々が共に少しずつ前に進む世界」に変えていければと考える。最後に、私の好きな言葉に、’One for all ,all for one (一人はみんなのために、みんなは一人のために)’というものがある。当然だが、一人で社会の問題を解決することはできない。しかし、みんなで協力することによって、私たちは世界規模の問題の解決にすら近づくことができる。また、時にはみんなが一人を助けることも必要になり、それが問題の解決につながることもある。常にこの言葉を心に留め、どんな形であろうともさまざまな人と協力することに対しての関心を失わず、自分に何が出来るのかを考え続けていきたい。

 

安井秀明 青山学院大学 3年生

 

私たちは「逆差別」というテーマについて論じたいと考えています。「逆差別」とは、差別を改善し撤廃しようとする過程で、優遇されて来た集団の優位性や平等性が失われることで起こる差別と定義されています。以前私が駅構内のホーム端から電車に乗車しようとした際に女性専用車両が端にあり、乗車ができず不便を感じました。その経験から興味を持ち調べてみたところ女性差別を是正するために講じられている女性専用車両という施策がかえって男性差別を助長しているのではないかという疑問を抱きました。
調べていく過程の中で以下のデータを見つけました。以下のアンケートは日本法規情報株式会社が2018年3月に699人を対象に行ったアンケートです。「電車に女性専用車両があることに対して賛成しますか」という質問に対して「いいえ」と回答した人が僅かではあるものの5%いました。次に「いいえ」と回答した人を対象に「なぜ女性専用車両に反対しますか」と質問したところ「男性差別だと感じるから」44%、「他の車両の方が混雑して不公平になるから」32%、「痴漢防止のための適切な手段ではないと感じるから」11%、「改札口に一番近い車両にいたい男性に迷惑になるから」8%、その他5%の回答が得られたことがわかりました。
この結果から「男性差別だと感じるから」、「痴漢防止のための適切な手段ではないと感じるから」という二つの項目に対して有効だと思われる案をそれぞれ提案したいと思います。
まず、「男性差別だと感じるから」に対しては男性専用車両の設置を提案します。実際に先程のアンケートの中に「男性専用車両が必要だと考えるか」という質問項目があり、「必要である」28%、「どちらかと言えば必要である」34%、「どちらとも言えない」25%、  「どちらかと言えば必要でない」7%、「必要ない」6%という回答が得られました。この結果から男性専用車両が必要だと考える人が6割以上いることがわかりました。男性専用車両を作ることで「痴漢を防止する」という本来の女性専用車両の目的を達成しつつ、逆差別を是正することが可能だと考えました。
一方、「痴漢防止のための適切な手段ではないと感じるから」という回答に対しては一般車両に監視カメラを設置するという代替案が有効だと考えました。全車両に設置することはコストがかかる施策ではありますが、鉄道会社が「監視カメラを設置する」と公表することにより、鉄道利用者の意識改革につながり、痴漢の抑止力になると考えます。
以上の案を実行することで男女平等を目指す社会の中で「誰一人取り残さない」社会を局
所的に実現できるのではないかと考えます。

日本法規情報株式会社 相談者調査レポート 
『セクハラ・パワハラ相談サポート』 『モラルハラスメント対策相談サポート』
https://www.google.co.jp/amp/s/prtimes.jp/main/html/rd/amp/p/000000188.000006827.html

 

 

阿部孝哉 国際医療福祉大学 保健医療学部 理学療法学科 3年生

 

 生きるために、泥で汚れた水を躊躇なく飲む少年をテレビで見たことがある。病気の両親を養うために、日給30円前後を求めてゴミ山で働く少女のドキュメンタリー番組を見て、学生らで劇を作ったことがある。その中で強く印象に残っていることは、疲れ切った姿でいる少年と少女のどちらもが笑顔で映っていたことで、その笑顔が今となっては少々不気味に思えてしまう。私は、言葉にならないそのモヤモヤとした感覚が只々心地よくなく感じてしまう。当時は、「こんな世界もあるのか」と、私とはどこか遠い世界に感じ、深く考えたことはなかった。SDGsという言葉に触れたのは大学一年生の時で、それが掲げている目標というのは、「あまりにも大規模で実現するにはあまりにも時間が足りないのでは」そう思った。同時に、「世の中から理不尽な不平等や不公平がなくなればどんなに素敵だろう」そのようにも思っていた。これは私的な理想に過ぎない。しかし、理想を考えるうえで、改善すべき点を無理だと決めつけ、初めから思考することを放棄し受け入れてしまうことは悪ではないだろうか。以前、大学の先生とSDGsについて話す機会があり、『ぼくがラーメンたべてるとき』という絵本を差し出されたことがあった。内容を端的に説明すると、「少年がラーメンを食べている時、隣にいる人は倒れている」といったもので、ここで使われる「隣にいる人」とは、国境を隔てた遠く離れた地に住む、顔も知らない人のことを指す。この言葉は至ってシンプルだが、ページを開いた時に何か不意を突かれたような肌に感じるゾクゾクとした感覚は、世の中に対する見方について改めて考えるきっかけになった。「人は、生まれた環境の違いだけで、不幸な目にあっていい理由にはならないだろう」そう強く思った。
 そこで、私達に課せられる課題とは何であるかを考察したいと思う。私は、課題の一つに「安全のための目を普及させること」を挙げたい。喜ばしくも、私たちが生きている文明というのは、科学技術の発展に伴い「カメラ」という、ヒトの目にとって代わる代物が誕生した。今ではその性能を駆使し、公共施設などでの人の出入りや不審なヒトの動きを記録するために使用されている。それによって、犯罪等は抑制され、減少方向に導いているのは言うまでもないだろう。しかし、「カメラ」が生み出した効果はそれだけではない。日々、身の回りからの危険防止や自分の安全を証拠として証明してくれるのもまた、「カメラ」ではないだろうか。そしてそれは、「安全のための目」という言葉と同義であると考える。私は、それをSDGsが掲げる目標に応用できないかを問いたい。
 70億人以上が生きている現在の世界では、8億4000万人以上の人は満足な食事ができず、2人に1人の36億5000万人は基礎的な医療保険サービスが受けられていないことが統計上の数値として明らかになっている。しかし、実際にそれを目の当たりしない限り、それはあくまで数値でしかない。つまり、SDGsが掲げる目標を実現させるには、「安全のための目」を街中に、あるいは労働環境に普及させ、失う必要のない命を救うことが大切ではないだろうか。確かに、「それらの様な場面を記録化したところで直接誰かを救えるわけではない」といった声が上げられるのも当然だろう。「カメラ」という物体は、記録に限りなく現実味を帯びさせ、人に媒介する媒体でしかないのだから。「カメラ」を「安全のための目」へと形を変えるには、記録を有している「カメラ」への人からによる、記録を基に問題の予防案や解決案を考え、実行していく様なアプローチが必要である。これを幾度も積み重ね、「カメラ」を媒介とした意識と認識の厚みが、普段では人の目には届くことはない、泥で汚れた水を飲む少年やゴミ山で働く少女を映像といった形で世界中に発信し、そしてそれを問題として取り上げ、組織は動き、個人が動くことに繋がる。私の知っている限りでは、様々な場所で「カメラ」を「監視のための目」として使われているのは確かであるが、「カメラ」を「安全のための目」の機能として多くの場所で使われているとは言い難い。先ずはその普及をスタート地点にし、「誰ひとり取り残さない」を考えていくことが問題を解決していく近道であると、私は信じている。
 今、私の隣には、腹を空かせて泣いている者がきっといるであろう。そして、腹を空かせて泣いている者の隣には、呼吸を絶えて倒れている者がいるはずである。そのような、自身の目では決して届くことのない不幸を、単なる数値やグラフのみで表すことは他人事として捉えているのとほとんど変わらない。「誰ひとり取り残さない」という言葉には、「それぞれの人が背負っている事実にきちんと目を向けていかなければならない」責任を持ち合わせ、SDGsが私たちに求めているものは、その責任を背負って向き合っていけるような姿勢ではないだろうか。

 

スクマ フェブリオアジ Univerisity of Brawijaya

 

ゴミ捨ては私たちが取り除く必要がある悪い習慣です。習慣が続くと自然災害が発生します。
例えば洪水のようにです。あなたが自然に愛されたいのなら、私たちは自然の世話をしなければなりません。

したがって、ゴミ捨てをやめましょう。人々に警告する前に、私たちから始めます。
そうすれば、他の人が私たちのような良いものを模倣することができます。

キ チンギ 関西大学

 

「誰ひとり取り残さない」とは、すべての人のための目標の達成をめざし、もっとも脆弱な立場の人々に焦点をあてることを意味しています。社会的な不平等と経済的な不平等の両方が医療の不平等を増幅させます。貧困や教育水準が低く、地域密着型サービスの不足、住宅などの要因により、状況は悪化しています。私は女性の問題について詳しく説明したいと思います。ジェンダー平等の問題は、依然として世界中で大きな問題となっています。女性は仕事、教育、さらに生存さえも大変です。私は東京に住んでいた時、街頭でビラを配る人がいました。貧困地域の女性たちに寄付金を募っていいました。私は途上国だけではなく先進国でも、児童婚や性暴力の問題がまだあることをしりました。女性の地位が低い地域では、彼女たちは教育を受ける権利を奪われ、取り残されることになります。彼女たちは助けてもらえず、無視されることもあります。中学生の時、私は差別されました。化学の授業で、男性は当然のように実験器具を占拠していました。「女性は理科が下手なので、きっとみんなに迷惑をかけるだろ」と言う言葉も聞きました。周りに同性の同級生の多くが、母親同様に大学にかないという悪循環が生まれていました。SDGs目標5は「政治、経済、公共分野でのあらゆるレベルの意思決定において、完全かつ効果的な女性の参画及び平等なリーダーシップの機会を確保する」と述べています。世界の多くの国では、賃金労働は貧困脱却の十分条件ではありません。新興国および発展途上国の労働力の多くは、貧困ラインの人々です。低所得労働に占める割合が高い女性が、家計を支えていることは稀ではありません。その原因は、団体交渉や最低賃金のような政策メカニズムの欠如が原因です。平均賃金に関する2016年の報告では、先進国、新興国、途上国のいずれでも、女性の平均所得が男性より20%低いことが示されています。この格差の主な原因は、女性が所得の低い部門や職業で高い割合を占めていることがあげられます。また、団体交渉や最低賃金のような労働市場のメカニズムや政策の欠如も、原因の一つです。UNウィメン2020年の報告書では、女性の就労の機会提供は20年間停滞しています。25歳から54歳までの男性は、十分の九以上が労働に従事していますが、女性は三分の二に過ぎません。一方、無償介護や家事のほとんどは女性が引き受けています。女性の平均賃金は男性よりも16%低く、ある国では、男女の賃金格差は35%にも達します。過去1年間で、女性は5人の中で1人がパートナーから暴力を受け、3200万人の女童が依然未就学です。そして議席は、男性が4分の3を占めています。報告書では、女性に優先順位をつけなければ、ジェンダー平等は実現できないと警告しています。女性の独立に経済的独立は不可欠です。女性も知識と技術があれば労働に参加できます。高等教育を受けた女性は、自己実現が可能になります。そのためには、女性の就業保障制度も必要である。政府機関等は、女性の就業差別に対する処罰の強化や法整備が必要です。例えば世界の医療従事者人口の三分の二を占める女性は、新型コロナウイルスの最前線で患者さんの治療に尽力しています。男性と女性の平等を実現する第一歩は、若い世代から古い考え方を変えることです。例えば「女性は赤い色、男性は青い色」「女性は文科、男性は理科」などのステレオタイプの払拭も必要です。日本は、女だから、男だからという社会のしくみが非常に強くあります。完全に男女平等を実現することは不可能かもしれない。しかし、みんなで一緒に行動すれば、「誰ひとり取り残さない」と言う目標はいつか実現できるはずです。

カク シカ 横浜国立大学

 

 SDGsは持続可能な開発であり「誰一人取り残さない」ことを目標にして、世界ではあらゆる貧困や格差が生まれており、それをなくすために打ち出された政策である。SDGsは、発展途上国だけでなく、先進国も取り組むべき普遍的なものとして考えられている。そのため、取り組みの中で「誰一人取り残さない」という理念を掲げている。
 SDGsの目標やターゲットは、統合された不可分のものであるとして「経済」「環境」「社会」のバランスを大事にして、持続可能な開発のための「5つのP」を掲げている。「5つのP」の内訳は「People=人間」「Planet=地球」「Prosperity=反映」「Peace=平和」「Partnership=連帯」ということである。人間というのは全ての人の人権を尊重することで、貧困や飢餓のない社会を目標に、ジェンダー平等を達成することも目標の一つである。地球というのは地球をあらゆる災害や破壊行動から守ることを目標に掲げ、誰でもが安心して暮らせる社会の実現を目指す。そして豊かさはすべての人達が豊かな生活を送り、充実できるようにと目標が立てられ、自然と調和できる経済や、技術や社会の進展を確保する目標である。さらに平和はすべての人が平和と公正を享受し、恐怖と暴力を受けない社会のための目標を掲げて、また、同時にすべての人が受け入れられ、かつ参加できるインクルーシブな世界の実現を目指している。最後のパートナーシップというのは「政府」や「民間セクター」「市民社会」「国際機関」などの多様な関係性で結ばれた者たちが参加できるグローバルなパートナーシップを目標として、グローバルパートナーシップが確立できれば、弱者のニーズを重視することもでき、すべての人達が一丸となって達成に向けて努力できる。
 ではその中で本当に誰でも残されていないのか?
 発展途上国と先進国は努力して自分の国の貧困がなくせるが、アフリカやインドなどでは本当に貧困をなくせるのか?食料も少ないし、水の供給も足りない、一人当たりの飲食量がもっと少なくなるではないでしょうか?もし本当に全球の貧困を無くそうと決まったら、先進国からの援助が少なくないでしょうか?今新型コロナウイルスの状況で、先進国はお互いに助けて、医療資源を共用し、治療が難しい国家に援助の手を本当に伸びたのか?自分の国家の利益のもとにみんなが自分のことを考えて解決しようと思う一方、貧困国と協力して経済発展を一緒に努力しているのか?エネルギーをみんなにそしてクリーンにしたい、そして海の豊かさを守ろうとする一方、日本は自分の国家で汚染された水が処理と浄化ができなくなるため太平洋に核排水を排出しているし、アメリカのフロリダ州でも227万トンの毒水を漏らして川などに排出していて、放射線汚染になる恐れもある。これが本当に持続可能な社会を作るためにすべき行為でしょうか?環境の問題だけではなく、世界はタイで女性に変身した男性などのニューハーフに本当に差別していない、じゅうぶんの尊敬を持っているのか?今まで男女の問題が解決されていないのではないでしょうか?
 SDGsは2030年まで達成したいものとはいうものの、残っている九年間で世界で全部の国民が団結して問題を解決できるか? 発展中の各国家は本当に誰でも残されなかったのか?このような問題が今後解決してはいけない課題である。

 

オ ハヌン 九州国際大学 4年生

 

はじめに
 2015年9月、世界をめぐる諸問題を解決するために国連サミットで発足した、SDGsは「誰ひとり取り残さない」という精神(以下、SDGsの精神)を基に17つの目標を取り上げ、一定の成果を成し遂げている。とはいえ、コロナ共存時代で経験しているように、例えば、日本や韓国では依然として貧困格差や差別など、誰かは「取り残される」という、SDGsの精神とは逆の状況が続いている。①それはなぜなのか、そして、②いかにSDGsの精神を実現化できるのか。本稿では、こうした単純な疑問から問題意識を設定したうえ、②を明らかにしたい。具体的には、SDGsをめぐる異論と新自由主義の社会経済思想の検討に重きをおき、今後におけるSDGsの精神の実現化のために「政府」と「国民」の二つの視座から、各主体が行なうべきことを提言する。

1. SDGsをめぐる異論
 SDGsの「持続可能」という言葉はWCED(環境と開発に関する委員会,1987)から由来しているが、環境経済学の父と呼ばれるH.E.デイリーは、持続可能という意味は曖昧であり、多くの経済学者は持続可能を経済成長として捉え、成長のみが貧困の解決だと考えていると指摘をした(¹)。なお、SDGsの17つの目標は大雑把で、明確性が乏しいものであり、政府や企業、消費者への影響力が強くない点において、目標の実現化は困難なところもある(²)。
 以上を踏まえると、現在のところSDGsの精神と現実での経済社会の各主体(国民、政府、企業)の「共通意識」が噛み合っていないことが判る。とすると、「なぜ、SDGsの実現化における各主体の共通意識が噛み合っていないのか」という疑問が湧くが、これは②を解く鍵となる。まず、結論を先取りすれば、新自由主義的政策および教育がその原因である。詳しくは、以下に述べる。

2. 新自由主義の特徴
 1950~80年の世界(工業資本主義)では、戦争や経済危機・成長などによって従来の規律や思想に反感を持ちはじめ、「ポストモダニズム化」が勃発した。これは、機能中心主義という芸術や建築の分野がその影響を受けるようになり、自然科学の発達によって道徳や宗教、倫理の重視から人間の理性のみを重要視する合理主義及び実証主義に移り変わったが、1980年代からこうした思想は我々の生活や幸福と関わる社会科学分野に強く作用していた。特に、政治と経済を切り離して経済活動を完全競争および無政府の理論に基づく民営化・緊縮財政・規制緩和を軸とした市場原理主義を信奉する新古典派経済学の新自由主義が主流となり、これらは、株主資本主義・短期主義・経済成長主義とも呼ばれている。
 こうした社会経済思想の変容の中、経済や技術は著しく成長した一方、SDGsの精神を妨げるような状況を産み落としたが、日本の場合は、バブル崩壊後の経済回復のために行ったアベノミクス政策は、非正規雇用や地域格差の問題と共に、大学教育の在り方を一変させた。例えば、日本(韓国も含め)の多数の大学は、学生の切磋琢磨よりも、大学を序列化することで低学歴者の劣等感、教育と賃金格差など、企業の労働生産性の向上のために学生を商品化し、人的能力ではなく、人的資本として捉え、競争を掻き立てる「資本主義型大学」に変質した(³)。覆せば、競争社会を合理化する思想を生み出したのである。
 その結果、新自由主義が成り上がった米・日・韓ではGDP対比人々の幸福度は低く(⁴)、大学では各分野への手厚い教育による学生の社会諸問題への関心や探究、つまり、SDGsの精神への切磋琢磨が難しくなり、競争による勝ち負けが分けられ、そこで取り残される状況を合理化する社会になったと推察されることから、初頭の「なぜ、SDGsの実現化における各主体の共通意識が噛み合っていないのか」が理解できるだろう。このことから、以下では前述の②について述べていく。

3. 結論 
 政府は、大学の序列化をなくし、学歴社会を改善すべきである。SDGsの精神を実現化するためには個々人の問題意識の成立、つまり、切磋琢磨が欠かせないが、前述の通りに大学が序列化されている以上、単に就職や合格のための成果主義的勉強法が行われ、企業や社会では大学名が人を評価する一因となり、出身大学別収入の格差から判るように(⁵)、所得格差にも繋がる。これは覆せば、「取り残される構造的不平等」だと言えよう。よって、大学を一律化する時点で、「大学名に囚われない自由な選択、平等化=SDGsの精神」の実現に近づくのではないか。
 これを受け、国民は人生の目標はお金ではなく、人間関係に価値をおくという共通意識を持つ必要がある。そのためには、まず、知識人らが新自由主義的思想を知らしめ、一般市民に問題意識を与える必要があるだろう。例えば、なぜ、北欧諸国では小学生が環境問題を訴え、国民から難民問題を改善しようとするのかを考えれば、知識人や学生の取組みからの実りだと推察される。つまり、社会のハビトゥス(無意識)に新たな発見を与えることである。
 以上、あらゆる国に該当する話ではないが、世界のマクロ的視座からSDGsの精神の実現化における政府と国民の役割について再考ができた。しかし、何よりも、筆者自身から実践していきたいと思われる。

参考文献
1. ハーマン・E・デイリー, 他3名『持続可能な発展の経済学』みすず書房 (2005年)
2. Spangenberg, J. H. (2017). Hot air or comprehensive progress? A critical assessment of the SDGs. Sustainable Development, 25(4), 311-321.
3. 塚本恭章 (2021). 「岐路に立つ日本社会と大学教育:学問の危機と経済学」.『愛知大学経済論集』. (214), 71-93.
4. John F. Helliwell,他6名『World Happiness Report 2021』OECD(2021)
5. Open Work「働きがい研究所」. (2021). 「卒業生の年収が高い大学ランキング2021:ベスト30・完全版」,1-3.

 

NGUYEN THI HANG アーキ• ピーアンドシー株式会社

 

2019年暮れから現在に至るまで、世界は新型コロナウィルスと呼ばれるパンデミックに見舞われました。新型コロナウィルスには大勢の人達が感染して亡くなりました。経済にも多大な影響を与えました。しかし、日本政府はコロナのせいで苦しんでいる国民のために、この難局を乗り切れるように政策、方針を練り、物質的、精神的な援助をしてきました。目的は誰ひとりとりのこさず、救援することにあります。
2月4日に安倍首相は、全国の5000万以上の住所に1億以上のマスクを送ると発表しました。一家族に対して、マスク二つです。全ての経費は400億円(372億ドル)。当時のマスク不足がこれにより、少しずつ解消されました。マスクが要らない人や不満な意見を言う人が居ましたが、私にとってはその時は本当に助かり、感謝の念でいっぱいでした。
コロナが急速に増加している状況でお店やショッピングモールをしめて、多くの人が集まる場所も制限されている。日本人の生活ばかりではなく、外国人の生活も、困窮しています。当時、2020年4月21日に政府は国民の全員(外国人も含める)に10万円を支給しました。本当に有り難かったです。感謝しています。私たちを見放さなかった。他の人達にとっては10万円は少ないかもしれません。しかし、アルバイトが休みにされたり、就職活動中の交通費にも困っていた私にとっては凄く助かりました。
新型コロナウイルスはいまだに、荒れ狂ってます。政府から緊急小口資金、総合支援金、新しい支援が始まっています。生活が困窮している人たちに援助してあげてます。貸付利子はゼロです(保証人がいる場合)。保証人がいない場合、年1.5%です。返却期間は10年です。収入が少なかったら返さなくてもいいのです。
上記は日本政府の対策です。日本に住んでいるベトナム人に対してベトナム政府がどんな対策しているのか知りたいですね?。
海外で困窮な状況に陥っているベトナム人のためにベトナム政府は隔離の為のフライトを手配しています。乗客には、主に留学生や宿泊に困っている人、ビザの延長ができない等の困難な人等が含まれます。搭乗の前に健康診断と体温測定を行い、機内の中では医療用マスクを着用します。最初の隔離の費用はすべて無料です。
日本からベトナムの市民を迎えに行くために1ヶ月に2便を出してます。
どこの国においても、ベトナム政府はベトナム人誰ひとり残さず救助する意向です。

 

CHEN ZIYAN 横浜国立大学

 

 SDGsというものはパートナシップと実用主義の精神に基づき、いま正しい選択をすることで、将来の世代の暮らしを持続可能な形で改善することを目指している。SDGsは社会の持続可能に注目することに限らず、すべての人を取り組んで持続可能な発展をしているのである。ここで日本を含み、すべての社会の残業状況がひどいということを思い出し、残業ばかりする社会人たちが正しくSDGsに取り組んでいるかを疑問に思って、以下にこういう社会人たちをSDGsに取り組むについて考えたことを述べたいと思う。
 最初に残業ばかりする社会人たちの場合、SDGsの17目標の中のどちらに合わせているかを考えていこう。17目標の中で、社会人の健康と社会経済発展に関連するのが「3すべての人に健康と福祉を」「8働きがいも経済成長も」この二つである。なぜかというと、社会人たちにかかわる年金が福祉の一部であり、残業という者実態は経済成長と働きがいに含まれているからである。ところが、詳しくターゲットの方を見ると、年金に関する福祉問題は一切に含まれていないし、残業に関する働きについても一切ターゲットにかかわっていないらしい。こういう状況で、残業ばかりしている社会たちは持続可能な社会に取り残されているのではないかと考えている。
 続いて、幸福度の視点から討論する社会人たちの残業への要望を考えていこうと思う。勝手に今回討論する社会人たちは日本のようなすでによく発展している国に生活していることにして、貧困を解決するための一生懸命働く人たちと別物である。よって、こういう社会に生活している社会人たちの要望を考える時に、モノに対する需要以外に、精神的満足も考えないといけない。日本社会を例として考えると、基本給料が主に生活水準をある程度保つ状況になっている。よって、残業は無論残業代をもらえるが、社会人たちは自由時間のかわりに仕事することでもらったお金をどれぐらいほしいだろう。また、ひどい残業状況のせいで自殺率がある程度あるということで、社会人たちは幸福に仕事をしているのだろうか。要するに、幸福度の視点から見ると、社会人たちは残業する社会にあるから残業するが、精神的にある程度抵抗を持っていると言っても過言ではないだろう。
最後にSDGsのことと社会人たちの幸福度を連携し個人的の提言したいことを述べてみたいと思う。残業というものは労働者が働き時間外の労働によって会社、社会に価値があるものを作る。残業から経済成長を引き出すことが否定できないだろう。よって、残業が必要とする社会では社会人たちの幸福度を上げることによって、一つのSDGsに取り組む方法ではないかと考えている。SDGsの三番目目標と八番目目標を考えていて、年金制度の中に残業時間と比例する計算値がない事を気付いて、年金制度に残業のことを加えたらどうだろうと考えている。年金は20歳以上の日本国内に住む人が支払っているが、会社の残業需要状況によって働く時間も違う。よって、年金を計算する時に、年金の報酬比例部分に月額残業代に掛ける率」というものを加えたら、社会人たちが公平を感じる一方、残業代を給料のようなものに見える感じもあり、残業に対してより抵抗が減られると考えている。また、今と同様に、会社別で残業状況も違うので、残業をしたくない社会人たちはそのような会社行ったりすることで、残業への不満が減り社会人たちの幸福度が上がるだろう。
「誰ひとり取り残さない」というと、よく弱い立場にある人々を思い出すだろう。例えば、障碍者たちは健康な人に対して弱い立場にあり、LGBTQは多数の人々に対して弱い立場にあり、残業する社会人たちはボスに対して弱い立場にある。今地球レベルの発展では、すべての人を取り組む社会持続可能発展はグローカル化に欠けないことだと思って、残業する社会人のような幸福度がまだまだ上げられる人々をSDGsに積極的に取り組むべきだと考えている。

 

McGregor Kaoru CCI

 

私はボランティアで子どもたちの自主学習の支援をしているため、中学生や高校生と話す機会があります。最近は学習指導内容にもSDGsが含まれてくるため、子どもたちともよくその話をします。しかし、SDGsの話をすると途上国の、知らない人の話と思われがちで、自分たちの国でも同じような課題があることがあまり知られていないようにも感じ、危機感を覚えます。

実際に誰も残さない、という目標は掲げたものの格差はまだ狭まらず、国と国との間だけでなく国内での格差は広がる一方にあります。拡大するコロナ感染のワクチンを見ても先進国内でも普及に隔たりが見られるほどです。誰も残さない、というコンセプトがとても重要に思われる一方でその対処法やいかに問題提起していくのかのプロセスは大人の私たちでもよく理解できていないのはないでしょうか。

女性の権利に対する問題を見ただけでも先進国であるはずの日本も問題を抱えています。日頃から問題としてあげられる働く女性に対しての政府援助の欠如や保育園などの育児支援もさることながら、女性に対する性暴力に対する抑止支援などの状況を見るだけでもとてもSDGsにたどり着けるような状態ではないと思えます。

仕事柄、女性に対する性暴力の支援施設の見学に行きますが、東京の支援施設はレイプキットのような必要な設備が整っておらず、支援体制も24時間のプロボノのオペレーターが2名程度と、とても1300万人の人口に対応した設備とはいえません。

私たちが本当の意味で誰も残さないようにするにはどうすればよいのでしょうか。私が考える課題としては一つに教育、そして二つ目に資源と権利の分配です。

子どもたちと向き合う現場にいると、教育に一筋の希望を見出せます。まずは子どもたちに正しいSDGs教養を身に着けてもらえるよう、開発途上国の話だけではなく、国内での格差や労働、女性問題を教育現場でも取り上げていく場気だと思います。恥ずかしながら私自身慰安婦問題や南京事件など日本の負の歴史は国外で世界中の人と話をするなかで学びました。昨今の人種差別問題やそれらを排除するような動きからもわかるように、ある問題に対して、問いを投げかけ、問題提起することが大切なのであって負の遺産にも触れることは大切です。もしそれを怠れば私たちは歴史から何も学ばず、同じことを繰り返してしまうのではないでしょうか。学校はなにが正しいか、正しくないのかを教えるだけではなく、子どもたちの考える力を育む場所です。正当性を求めるだけでなく、子どもたち自身に問題を投げかけ、彼ら自身が自分ごとのように世界の問題を考える場が必要だと思います。

二つ目に、資源と権利の分配ですが、これはもう一般の企業では少しづつ浸透しているのではないでしょうか。例えばジェンダーバイアスをなくすため、応募用紙に性別を問わなくなる企業が話題になりました。また、一般の企業でもSDGsや企業の社会的責任を全面的に会社の経営方針とし掲げる企業も少なくありません。こういった企業がなぜこのような方針を出しているかと考えると、消費者の欲求や思考が少しづつ変化していった背景があります。つまり、消費者である私たち一人ひとりが政治を担う有権者のように賛成する企業に一票を投じることが重要です。環境や脆弱性の高いグループに焦点を当てることは企業にとって足かせになるものではなく、投資になるものであるという理解が進まなければなりません。このような成長が見込まれるにも関わらずなぜ変化が起きないのでしょうか?それは脆弱な人がいることで得をする人がいるからです。

たった42人の高所得者は貧困層の50%もの富を有すると考えられます。3億7000人の総資産がたった42人で分配されているということです。このような格差はコロナ禍で一行に解消されず、進むばかりです。その中でも女性は特に賃金の安い仕事に就きやすく貧困層は気候変化の影響をより受けやすくもあります。

ブラジルの例がそうであるように男女関係なく仕事に見合った賃金を担保することがまず第一です。そして韓国のように富裕層に所得に見合った額の税金をかけることが重要です。そしてまたこのような経済状況を調査し、分析するGDPだけでない社会の豊かさの指標をモニタリングすることで重要です。

脆弱性の高いグループのデータの収集は投資を行う上で重要です。もし6億人もの女性たちがインターネットのアクセス権を有するなら144か国もの発展途上国で180億ドルものGDP成長が見込まれています。教育があれば賃金は10‐20パーセント伸び、2025年までに男女格差が解消されれば28兆円ものGDPの伸びが予測されます。

誰もが取り残されない、とだけ言うととても正当な意見のように聞こえますが実際地球上のすべての人が1%の富豪のような生活し、同じような権利を有したらするようになったら地球はどうなってしまうのでしょうか。地球上にどれだけ資源があってもかなわなくなるでしょう。私たちが誰も取り残さない社会を作るためには資源や権利を与えるだけでなく分配しなくてはなりません。

経済開発に力を注ぐだけでは貧困はなくならず、雇用の創出にもつながりません。誰も取り残さない社会を作るには経済や政治、支配構造やビジネスモデルにおける草の根の問題に力を注ぐことが重要であり、権力と富の集中をいかに分配していくかに焦点をあてなければなりません。

誰も取り残さない社会は重要なコンセプトではありますがそれをどのように実現していくかの方法についてはあまり語られることがありません。誰も、どの国も取り残さないようにするには国際的に理路整然で、各国の成長を促すような政策が必要です。具体的には以下のような政策を提言します。

(1)マクロ経済に焦点を当て、財政手段を確保すること。公平で持続可能な成長、雇用創出に向けて取り組み、貧困と不平等の削減を含む富の極端な集中を避けること。
(2)SDGsにおけるプロセスの作成を細分化・明確化し、全てのステークホルダー参加を促し、決定権を与えること。決定権を尊重・保護し、人権条約を履行すること。
(3)産業政策、農村開発を含む統合政策で生産能力を構築し、
包括的開発のための人的資産の開発に力を注ぐこと。

(4)技術革新政策は包括的開発を進める大きな可能性を秘めていると同時に国内および国際的な不平等と社会的排除の根源にもなり得ることを念頭に、包括的かつ、持続可能的で公正な政策を提示すること。

(5)国際協力における課税、国境を越えた資金の流れ、移住、送金、債務救済および貿易分野の課題に対して対策を講じること。

(6)ドナーおよび受益国の政府代表が開発協力をより包括的なものへシフトさせ、新旧のフレームワークを統合させること。

(7)これらすべての事項を開発途上国に優先して執り行うこと

大体的なゴールとして誰も取り残されない世界を掲げるべきであって、それに固執した特融の政策のみだけで解決されるべきではありません。誰も取り残さない社会とは社会全体の平均をみて、その基準で平等を図るのではなく、社会において一番脆弱性の高いグループに着目し、このグループの目線でいかに暮らしやすい社会を形成するかが重要です。脆弱性の高いグループが住みやすい社会を作ることによって誰もが住みやすい社会になるのではないでしょうか。

 

津久井日菜 鎌倉市小坂小学校 6年生

 

わたしは、核兵器をなくすことについての活動をしています。核兵器をなくす活動を始めたのには、中村先生との出会いから、始まりました。核兵器のことを知ってもらい、核兵器のない世界を作り出したいです。
 5年生の時、国語のじゅぎょうで「たずねびと」という原爆についての物語を読み、とてもきょうみを持ちました。そして先生が、中村桂子先生という、長崎大学の核兵器廃絶センターの先生が話しているラジオを聞かせてくれました。それで、思い切って手紙を出してみました。数日後、返事が帰って来ました。手紙だけではなく、核兵器についての本、資料、ポスターなどがたくさんとどきました。すぐに校内にポスターをはり、返事を出しました。こんどは、学校で中村先生の演ぜつを聞かせてくれないかと出しました。なんと、中村先生からOKをもらいました。それも2時間も演ぜつをしてくれるのです。そして、その日が来て、クラス全員で中村先生の話を聞きました。がぞうや動画などでせつめいしてくれたり、質問なども受付けてくれました。そしてある子が長崎県の市役所や原爆資料館にポスターをはってもいいかと質問しました。中村先生にいいといってもらいました。その時は本当におどろきました。話は再開して、楽しくわかりやすく進んでいきました。声が止まったり、がめんが止まったりなどのハプニングもおこりましたが、なんだかんだでもとにもどっていました。そして、初めてかくへいきは海や陸、飢餓などいろいろなことにかんけいしていることを知りました。たとえば核兵器の実験で打ち上げられたら、陸や海が破壊され陸や海が破壊されたら魚や食料がなくなり飢餓がおこります。陸が破壊されたら住む場所がなくなり難民が増えたり、土地による争いがおこったりなど、核兵器はすべてに関係していました。なので核兵器をなくせば、飢餓で苦しむことや土地による争いがおおはばに減るということです。このことを知りとてもおどろきました。時間はあっというまにすぎ中村先生の話は終わりました。そして私は6年生になりました。
 これからもポスターやチラシなどの活動やまだためしていないことなどをやっていきたいです。そして中学生や高校生になってもやって行きたいです。SDGsで世界をみんなで変えようとしている中、そんなときに核兵器は必要だと思いますか?だれ一人とりのこさない世界に核兵器は必要がないと思います。

 

大比良優 鎌倉市小坂小学校 6年生

 

 私は、SDGsの一つの目標である、「海の豊かさを守ろう」のために、海洋プラスチックを減らすことに取り組んでいます。
 海洋プラスチックとは、海にあるプラスチックゴミです。このゴミは、大きい物から小さい物まで、いろいろな形の物があります。そして、0.5mm以下の小さなプラスチックは、「マイクロプラスチック」と呼ばれています。マイクロプラスチックが海の中に入ると、魚たちは、マイクロプラスチックを食べ物だと思い、食べてしまいます。そうすると、胃でマイクロプラスチックが消化できなく、胃にたまってしまいます。それをくり返すと、胃に食べ物が入らなくなってしまい、食べ物を食べれなくなってしまいます。ほかにも、プラスチックの輪が、口にはまって食べ物を食べれなくなったり、かめのこうらにゴムなどがはまって、こうらの形が変形したりしてしまうなど、海洋プラスチック(ゴミ)は海の生き物にひどく、たくさんの被害をあたえています。だから私は、海の生き物を守りたいと思い、海洋プラスチックを減らすことに取り組んでいます。
 さらに私は、海洋プラスチックはどこからでてきているのかについて調べました。すると、海岸ゴミの約70%は、川から海に流れてきたゴミ、約30%は、海岸に直接捨てられたゴミでした。川から海に流れてきたゴミは、上流や中流で、山や街で捨てられたゴミが、川で海まで流されてきていることが分かりました。そして、海岸ゴミの約50%は、プラスチックゴミだということも分かりました。
 なので私は、身近にできる海洋プラスチックを減らす取り組みを考えました。学校ではビーチクリーンや、新聞・ポスター作りなど海の状態を地域の人に知ってもらう取り組みをしています。ビーチクリーンは、海岸ゴミをたくさん集めました。最初はゴミだらけできたなかった海岸が、ゴミ拾いをすると、たちまちきれいになりました。砂浜にゴミがなく、けがをしないので、ドッチボールをしました。少しの場所の海岸でゴミ拾いをしただけだったけれど、心がスッキリして、達成感が感じられました。新聞・ポスター作りでは、ポスターを町内会のけいじ板にはってもらい、新聞を町内会のかいらん板でまわしてもらいました。すると、近所の人が、質問をしてきたり、感想を言ってくれました。とてもがんばって書いた新聞とポスターだったので、とてもうれしくて、なみだが出そうになりました。家では、妹と一緒に通学路に落ちているゴミを拾ったり、ヘチマスポンジを使ったりするなど、たくさんの工夫をしています。通学路のゴミ拾いでは、ゴミ袋と、軍手を常に持ち歩き、拾ったゴミは家で処分しています。ゴミはきたないのですが、このままだと、海に流れていってしまうので、軍手をはめ、ゴミ袋に入れています。ゴミを拾うと、達成感はあるのですが、道に落ちているゴミは減らないので、少しうんざりしてしまいます。また、家では、食器洗いにヘチマスポンジを使っています。ふつうのスポンジは、プラスチックでできた物なので、食器を洗っていると、スポンジがちぎれて、排水口から、海に流れ出してしまうおそれがあると分かったからです。ヘチマスポンジは、もし流れていったとしても、自然に分解されるので、地球に害はありません。なので、ヘチマスポンジを、お風呂で体洗い用や、お風呂のそうじ用に使うのもいいと思います。ほかにも、いろいろな取り組みをしています。
 私は、私がしている取り組みだけでは、決っして地球を救えないと思うけれど、取り組みをやらないよりは、やって、少しだけでも地球にいいことをしたいです。それに、ちりも積もれば山となると一緒で、この問題を、皆が少しずつ、取り組めば、やがて、社会はかわると思います。そして、こういう取り組みは、誰ひとり取り残さない社会につながっていくとも思います。

 

青柳悠真 鎌倉市小坂小学校 6年生

 

 ぼくは、SDGsの取り組みをしていて、難民のことや地球温暖化などの気候変動のことを知りました。そのため、今も、SDGsについてを、やっています。17こう目ある中、主に11番、「住み続けられるまちづくりを」をやっています。
 最近、身の回りは、SDGsに関係することが、多くなったような気がします。学校では、ポスターを書いたり、難民に送る服を集めたりもしています。ぼくのやっている11番では、いろいろなことを調べています。たとえば、「生命の危機」や、「困窮」などです。このようなことを調べていると、なんだか、自分もみんなも地球もかわいそうに、なってきます。なにしろ、自分やみんなはいいかもしれませんが、それを支えている地球は、もっとかわいそうです。ぼくは、これを止めなければいけないと、思いました。その地球を止めるには、自分やみんなが対策をして、動かなければいけません。もちろん、今すぐに二酸化炭素の排出をゼロにすることはできませんが、少しずつでもいいから、二酸化炭素の排出を減らしていきたいと思います。ぼくは、11番をやっていると書きましたが、住み続けられるまちづくりは、主に、住み続けられるなので、住みやすいという意味でもあると思うのですが、家や住む場所が無くて、生活が苦しい人に、家を提供してあげることでも、あると思います。ぼくは、11番をもとに、どっちをやる、のようなことではなく、住みやすいまちを作る方も、家を提供してあげる方も、どちらもやっています。ぼくは、いろんなことを調べました。ですが、この気候変動を止めるのは、調べれば、解決できる、という簡単なことではありません。つまり、調べても、この問題を解決するのは難しいということです。今、地球を守るために、SDGsじゃなくても、がんばっている人がいます。それでも、止めることが難しいということは、全員で、がんばる必要があると思います。
 ぼくは、SDGsについてを調べたり、ポスターを、書いたりしながら、地球が危ないということを、だんだん知っていきました。今では、自分一人一人から、世界中の人が、世界を守るために取り組みをしています。その一人が、自覚をもってやっていれば、いつかは、おさまると思います。そのために、がんばっています。だれ一人取り残さないために。

 

杉山勘 鎌倉市小坂小学校 6年生

 

 ぼくは、今クリーンエネルギーに注目しています。五年生の時、地球温暖化について学びました。その温暖化の大きな原因は、二酸化炭素だということを知り、人間の息から出ていると聞いてビックリしました。オーストラリアで森林火災が起きたり、寒い所で氷がどんどんとけていってます。オーストラリアの森林火災では、コアラが火傷をおってしまい、氷の全てがとけてしまえば海面上昇が起き砂浜や低い土地がしずんでしまいます、これらはすべて温暖化のせいです。そして地球温暖化をすぐ止めないといけないと思いました。なので、地球温暖化の大きな原因二酸化炭素をどうやって減らせるか調べてみました。そうすると、火力発電が多くの二酸化炭素を出していることを知りました。石炭火力発電になると二酸化炭素を多く出す上、石炭という地球上に限りある資源を使ってしまうのですごく環境に悪いのです。けれども、火力発電だけしか発電方法がないというわけでもありません。再生可能エネルギーと言われている太陽光発電・風力発電・水力発電などは見たことがあるでしょうか?太陽光発電は、太陽光パネルを使い、太陽の力で発電します。風力発電は風車を風の力で回して発電できます。水力発電は、水車を水の力で回して発電します。この再生可能エネルギーの3つの発電方法には共通点があります。それは、無くならない自然エネルギーを使っているのと発電時に二酸化炭素を出さないことです。これらのことを見て再生可能エネルギーは、クリーンエネルギーと言えるでしょう。ただし再生可能エネルギーは、天候に影響されやすく、設置場所が必要なので増やすのが難かしいです。けれども、このクリーンエネルギーを増やせば二酸化炭素を出す量は大幅に減るでしょう。ぼくは地球温暖化を止めるにはクリーンエネルギーが必要だと思ってます。つまり今、ぼく達に求められているのは、クリーンエネルギーを普及させることだと思います。
 ぼくは、三年の時SDGsを知りました。けれども、事の重大さがわからず四年になり、学年で由比ヶ浜にビーチクリーンに行きました。由比ヶ浜とは、プラスチックのせいで死んでしまったクジラが漂着した所です。そこにはプラスチックがいっぱいあってSDGsにも14番の「海の豊かさを守ろう」というのがあったのを思いだしSDGsを早く達成しなければいけないと思いました。五年では、地球温暖化について調べて再生可能エネルギーやエコな車などを知りました。そしてポスターやチラシなどをグループで作りほかの人に広める活動をしました。エコな車を調べてわかったのは、電気自動車は、全体的に見るとエコカーじゃないかもしれないということです。電気自動車は、電気を使って走るのでその電気を火力発電などで発電していたら二酸化炭素をだしてしまいます。ただしそのエネルギーをクリーンエネルギーに変えれば違います。エネルギーを発電する時に二酸化炭素を出していなければ電気自動車はちゃんとしたエコカーなのです。そういう事を知りぼくはビックリしました。それ以外に学校内で友達とポスターセッションを作り題名を「エコな車たち」として1,2、3年生に発表しました。なぜそんなことをするかというと、自分達には広めることが一番だと思ったからです。子供一人じゃ力がありませんが、大人一人に力はあります。けれど大人は、大人の話はそんな聞いてくれませんが子供の話は聞いてくれます。ぼく達は広めてみんなが世界の現状を知ってくれればこの社会がかわると思います。この社会が変われば国などが対策をとってくれると思います。だからぼく達はポスターやチラシなどでこの社会の現状を伝えているのです。これからは、アンケートなどをしてSDGsのことを詳しく伝えるほかテレビやほかの手段を使って地球温暖化の現状・再生可能エネルギーの大切さを訴えていきたいです。
クリーンエネルギーのおかげで地球温暖化が止まりだれ一人取りのこさない世界になればいいと思ってます。中学・高校・大人になってもぼくはこの活動をやめません。そして、ぼくは絶対にクリーンエネルギーで誰一人取りのこさない世界を作ります。

 

森田晴 鎌倉市小坂小学校 6年生

 

 私は、初めて『難民』の存在を知ったとき、「じゃあ、私にできることは何だろう」と思いました。しかし、私が『難民』の人たちのもとに行けるわけでもなく、その場で手助けを出来るわけでもありませんでした。それでも、私は『難民』を助けたいと思いました。
 4年生のときは、クラスで子供服を集めています。という事を学校中や自分の家の近所に知らせ、服を集めました。集めた服をUNHCRに送り、難民の子供たちの所へ運んでもらいました。
 なぜ大人服ではなく子供服だけを集めていたかというと、私たちの学校に、ユニクロの店員の方が来てくださり、子供服がたりていないことを説明してくれて、みんなに服を集めてほしいと聞いたことがキッカケで、それから私たちは子供服を集めることになりました。その結果、私達が集めた服は、約8000着集まりました。
 私達は、子供服以外にも、『使用済みハブラシ』を集めました。私達が集めた使用済みハブラシは、1本2円になり、集めた使用済みハブラシをテラサイクルという会社に送り、テラサイクルがUNHCRに送って、1本2円のハブラシのかわりに、約800円ほどが難民のもとへと届けられました。
 これから私は、今までやってきたことを未来に活かし、難民の人々がふつうの暮らしができるようになることを願います。そのためにも、私は、ポスターや、チラシなどを書いて、多くの人々に難民の存在や、難民の現状などを知ってもらい、皆で難民が安心して暮らせるように、皆で考え、また、活動したいと思いました。さらに、これから自分にできることなども考え、行動に移したいと思います。
 私がやりたいと思う行動は、まず、自分たちでくわしく難民の存在のことや、難民がどうやって難民になったのか、などを書いて私たち、皆にできること、やってほしいことなど、いつ、どこでこう言うことをやっているなど、今自分たちが行動に移していることも知ってもらい、その行動と、こうしたらいい、ああしたらいい、などと、案もだしてもらいながら、皆で行動をしたいと思います。このことから、私が誰ひとり取り残さないために必要だと思ったことは、「一人の百歩より、百人の一歩」だと思います。だから、私は、難民の存在を人々に知ってもらうために、難民のことをくわしく知っている私達が、難民が安心して幸せに暮らせるように、自分たちで分かりやすいポスターなどを書いて、まずは、身近の人たちから、大ぜいの人たちで、皆で一緒に難民を救えるような活動を、やってみたいと、強く思います。

 

小林丈太郎 鎌倉市小坂小学校 6年生

 

 ぼくは、5年生から、今まで、ずっと陸の豊かさを守る活動をしています。特に、森林を守り、地球から失われた分を、昔のようにもどす活動をしています。
 今、予想以上に、森林は多く減っています。世界では毎年730万ヘクタールもの森林が地球から失われています。つまり、一ヶ月にすると、約60万8千3百33ヘクタールもの森林が、1週間で約15万2千83ヘクタール、1日だと約21726ヘクタール、1時間でも、約905ヘクタール、1分に約15ヘクタール、1秒だと約0.25ヘタタールもの森林が失われています。1年だと、「1年でだから1秒だと以外と少ないのでは?」と言う人がいるでしょう。しかし、1秒、だと、0.25ヘクタールです。そう考えると、かなり多いと思いませんか?そう、「いーち」と数える間に、約0.25ヘクタールもの森林が減っているのです。今、日本は木を植林していますが、どんどん土地をかいたくしているので、自分の考えだと、このままだといつか全ての土地をかいたくし、植林する場所がなくなり、森林が減っていくと思います。なので、この持続可能な町として、案は二つ。一つは、町の場所自体をもはや地上ではなく、海中、海上、空中、地中、地上でも砂ばく、宇宙など。しかし、技術や、地しん、津波などの自然災害の被害、金や人手を考えると、ほとんどというか、全て無理に近いから、まだ無理、となります。二つ目は、町自体を変えるという案です。排気ガスを無くし、自然の多い町が理想だと思います。しかし、そうすると人口増加で町が広がり、森林の場所の確保という目標の一つがぬけてしまい、更に町中の木をなくし、そこに家などを建てるかもしれないので、この案も余り良いとはいえません。なので、技術などの進化に、たよるしかないのです。
 今までやってきたことは、3年生から。その時は、まだ陸ではありませんでした。その時、初めてSDGsのことを知りました。そして、SDGsを調べて発表しようとなりました。その年、ゆいヶ浜にシロナガスクジラの子どもがひょう着したので、そのことも入れて、クジラのことを調べて、発表しました。4年生では、少しずつ森林のことに興味を持ち始め、他の人は本格的に動いていました。しかし、自分だけ動けてなくて、動けない自分に少しいらついていました。
 五年生になると、陸の活動をし始めたけれど、ポスターは1まいていどしか書けませんでした。その他、陸だけでなく、ビーチクリーンへ行ったり、学校の周りのゴミ拾いを1回やったりしました。その時、学校の周りの1部で、見たらすぐ見つけれるほどのりょうのゴミがありました。アメの袋やはっぽうスチロール、チキンの骨などびっくりするもの、野球ボールまであって、結局終わりませんでした。このゴミの多さに、ショックでした。ビーチクリーンも、場所によっては、ゴミばっかで、その他もゴミが必ずありました。これは、まずいと思いました。やはり袋、はっぽうスチロール、弁当パックなどがありました。五年生の最後には、苗木をもらって、今も育てています。スダジイしか名前は覚えていませんが、4本あります。将来育ったら植えようと思います。たった4本の木でも、一人一人が植えれば、たくさんの木がなります。その事を知っているので、たとえ、だれがこれを読んでも、読まなくても、みんなが少しでも木を植えてくれることをしんじています。
 そして、六年。ポスターもかいて、森林保護活動を続けています。
 さきほどいったように、たった数本の木でも、世界中の一人一人が植えればアマゾンのような大森林ができます。このように、世界の一人一人が力を合わせて協力し、SDGSの活動を行えば、きっと、「だれひとりとりのこさない」世界を、実現できます。そして、全てが一つとなって世界を、地球という天国を守れば、信らい、きずなを作ると共に、SDGs全目標を、達成できると信じています。みんなが、力を合わせることで、地球を救えます。大事なのは、「だれひとりとりのこさない世界」と、「SDGs17の目標」の達成です。

 

高橋新奈 鎌倉市小坂小学校 6年生

 

私は、海の未来と地球の未来を変えたいと思っています。今、海のじょうきょうは、たいへんです。海では、年間800万tもの、プラスチックが、海に流されてしまっています。そして、プラスチック袋1つで、1000~1万もの、マイクロプラスチックが海に流されます。マイクロプラスチックを、魚がプランクトンだと、まちがえてしまって、食べてしまうと、海の生物も陸の生物も命があぶないです。そして、陸にあるペットボトル232億本のうち206億本回収しています。はんぶん以上回収しているけどまだ26億本ものペットボトルが行方不明です。これがつづくと、行方不明のペットボトルがだんだんふえていってしまいます。そのためには、人々、一人一人がプラスチックが海にいかないように、協力しなければなりません。このことを、見て見ぬふりする人達がいます。「どうせむりだ。」「ほかの人がやってくれる。」と考えてる人は、まちがっています。だけど、だれでも、何かを変えられます。
私たちは、SDGsポスターやしんぶんを、町内会や市役所にはりつづけたので、多くの人に、おうえんのメッセージやはげましの言葉をもらいました。メッセージやはげましの言葉をくれた人の中には、私たちのしている活動をてつだってくれる人もでてきました。そのてつだいで、プラスチックが有料化になったのではないかと、私は、思っています。
こういうことをしてきて地球の未来を変えるには、まず、海の平和を守ることだと思っています。私がこれからやりたいことは、もっと、SDGsのことを知らない人におしえる活動と、プラスチックをへらす活動をしたいと思っています。
SDGsのことをより多くの人に知ってもらうには、他の学校にポスターをはらせてもらったり、スーパー、駅、市役所、町内会に、ポスターをはらせてもらうことが大切だと思います。そして、もう一つ、プラスチックをへらすには、まず、多くの人に今の海のじょうきょうを知ってもらいたいです。最近SDGsのことを、耳にする人が多くいると思います。それでも、「なにSDGsって」で終わる人がほぼみんなだと思います。なので、SDGsをよりふかく知ってもらえば、行動におこしてくれる人も、いると思います。
だから私は、だれ一人取りのこさない世界にするには、海の未来を守り、地球の未来を変えるという目標をげんじつにするのが、大切だと思います。そのためには、この活動をしつづけることが大事だと思います。

 

工藤李奈 鎌倉市小坂小学校 6年生

 

 私は、難民を助けるための活動を行っています。この活動を行っている理由は、ふんそうなので難民になる人がたくさんいるからです。
 私たちは、少しでも難民を助けたいという気持ちがあり、学校内や鎌倉市役所などと協力をして、難民キャンプに送くる子ども服を集めています。そして、私たちは、鎌倉市内に難民を助けるチラシをはっています。
 難民になる子どもには、親が殺されてしまう子もいて、子どもだけが生き残っているじょうたいで、もし私たちが難民だったらどんな気持ちになっているのだろうと思います。
そうなると、難民の人々は、とても強い勇気や心をもっていると私は思います。
 人間のさべつなどが起きていることを、他人事だと思っているかたがたが、数多くいると思います。
 これからは、私たちだけでなく、下の学年にも難民のことや人間の大切さをしってもらって、世界中に広めていきたいです。
 今の服を集めている活動だけでは難民をいっぱい助けるにはたりません。けれど、少しだけでも何かの役にたてるように色々なかたがたに、難民のつらさをしってもらって一人でも多くの難民を私たちの力で助けたいと思います。子どもから大人まで一緒に協力をして難民を助けたいと思います。
 私がもし難民だったらこわすぎて一人で生きていく勇気がないと思います。難民の子どもの中には、私たちよりもうでが半分以下の子もいます。食べ物もなかなか食べられないで、水もしっかりとしたとうめいな水が飲めていません。飲めたとしたら、茶色くにごった水しか飲めていません。いつもこんな生活だったら、もう私はひからびていると思います。難民がしあわせに楽しく暮らしていけるには、私たちが力をあわせて協力していくことだと思います。
 アイパットで難民が、ユニクロや私たちが送くった服をもらっている写真を見つけました。その写真は、とっても笑顔でよろこんでいる難民でした。私たちが送くった服でこんなに笑顔になるんだと強く思います。どの写真を見てもとてもとてもくるしんでいる写真がほとんどでした。けれど、私たちが送くった服で難民が笑顔でよろこんでいる写真がとてもうれしかったです。私は、この笑顔の写真をいっぱい作りたいと思いました。そのために、私たちにできることや、助けられることをいかして、少しずつ難民のことを助けながら、笑顔の写真を増やしていきたいです。そして、私たちと同じ人間で、さべつのない世界にしたいです。
 そして、私たちと同じように毎日しあわせで、笑顔で、楽しい日を過ごせるように、少しずつしあわせにする、笑顔にする楽しい毎日にするために、早く元の生活にもどれるまで、難民を支えていきたいと私は思います。

 

河村路美 鎌倉市小坂小学校 6年生

 

私は小学4年生のころにSDGsを知りました。しかし、その時は、SDGsに対して興味、関心さえありませんでした。四年生の3学期から、少しずつ興味をもちはじめて、SDGsって何だろう?と考えるようになりました。5年生に進級し、SDGs推進隊に入って活動をはじめ、SDGsについて深く考えるようになりました。
SDGsの活動も活発にしていたころ、家族とニュースを見ていた時、森林火災、ミャンマーのクーデター、難民の増加、温暖化による気候変動などのニュースが放送されていました。
 よく考えてみると、全てSDGsにつながっていました。そこで、私は、SDGsに取り組み、だれ一人取り残さない、全ての人が幸せである世界をつくりたいと思いました。
 まず、少しでも、たくさんの人にSDGsを知ってもらおうと思い、ポスターを書きました。
 まず、たくさんの問題がある中で「難民」を助けることを中心に活動しました。
 私は、難民を助けるということがどれだけ大切なのか、気づきました。
 私たち、ふつうの人々は、水も、水道をねじるだけ。食料も、家へ帰ればかんたんに食べることができ、学校もいけて、楽な生活をおくっています。しかし、難民のみなさんは、遠くまで歩き、やっとの思いでのめる水は、茶色くにごった水。しかし、生きるためには飲まなければなりません。
 私はこの活動を通して、「あたりまえ」や、私達にとっての「ふつう」がどれだけ大切なのかとどれだけ幸せだったかに気づかされました。私は、難民以外にも活動のはばを広げて、たくさんの人を助けて、だれ一人取り残さない世界をつくりたいと思いました。
 なので、もっと、ポスターを作り、活動をがんばって、日本中にSDGsを広めたいと思いました。まず、身近な人に広めて、どんどん、いろいろな人がSDGsに関心をもった世界になって、難民問題、気候変動、たくさんの問題を、世界中の人々と解決したいと思いました。
 SDGsはまだまだ4年生のころの私のように、知らないし、人事と思っている人がたくさんいると思います。
 だから、もっと、自分から、取り組みたいと思います。
 そこで、私は「SDGsを考える日」をてい案します。
 まず、一週間に一度、SDGsを考える日があったらいいなと思いました。
 そうして、少しずつ、SDGsをたくさんの人に広めて、だれ一人とり残さない世界を作ろうと思います。

FBでイベント情報発信中!

  • facebook
PAGETOP
Copyright © 野毛坂グローカル All Rights Reserved.
Powered by WordPress & BizVektor Theme by Vektor,Inc. technology.