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2022年度 受賞者発表! 第3回 SDGsの基本理念「誰一人取り残さない」小論文コンテスト

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2022年度 第3回 SDGs「誰一人取り残さない」小論文コンテスト受賞者発表!

SDGsの原点「誰ひとり取り残さない」をテーマにした小論文コンテストの結果を発表します。

※入賞作品は下部に、優秀賞、奨励作品賞は下部のリンクに掲載しています。

SDGs(持続可能な開発目標)という言葉は身近なものとなりました。しかし、その基本理念「誰ひとり取り残さない」は顧みられていないのではないでしょうか? 本コンテストは「若者の視点」での社会への問いを求めるものです。高校生や大学生を中心とした実行委員により運営され、第3回となる今回は、若者の正直な気持ちと圧倒的に迫ってくる多くの作品のなかから、大賞3作品、入賞22作品(特別賞含)、優秀賞191作品が選考されました。
LGBTQ+、障害、病気、家族との関係などと自分がどう向き合うか真剣に考えている作品が多い一方、身の回りの些細なことを掘り起こすことで社会への提言となる作品も多くあり、これからの「あるべき社会」を考えるうえで示唆となると思います。

募集要項はこちら:
https://nogezaka-glocal.com/dh3/

コンテストの特徴:
・SDGsの基本理念「誰ひとり取り残さない」視点での若者(25歳以下)の声
・小学生から高校生、大学生を中心とした実行委員会により運営
・入賞作品のみならず全作品を公開して広く社会に発信する
・LGBTQ+、
障害、病気、家族との関係など
 と自分がどう向き合うか真剣に考えている作品が多い


ダウンロード 第3回 SDGs誰一人取り残さない小論文コンテスト冊子

<受賞者>  (受賞作品は下部に掲載)

大賞 
・鈴木ゆか    玉川大学2年                 母を亡くしてからの心の在り処

・藤野美紀子   関西創価高等学校2年            取り残されている目線
・ 勇生        横浜市立蒔田中学校夜間学級  自分を取り残さない
  (御本人希望により姓は非公開)

kakogawaRD.jp特別賞
・髙田智哉   学校法人聖ヨゼフ学園日星高等学校教員   「私とあなた」

株式会社エイビス特別賞
・佐藤萌       熊本学園大学2年                家族の中で忘れられた“きょうだい”たち

奈良東病院グループ特別賞
・吉住恒思     東京大学教育学部附属中等教育学校4年            口で言うのは簡単だ

パーソネルコンサルタント マンパワータイランド特別賞
・鈴木美緒     鎌倉女学院高等学校2年  グローバル化が進む時代に向けて

フランスベッド特別賞
・藤原かりん   富山国際大学1年                外国人労働者が輝ける未来へ

株式会社スリーハイ 特別賞
・熊谷美咲     神奈川県立相模田名高等学校2年   曖昧な私とヘルプマーク

株式会社日東装備特別賞
・小池優希     東京大学3年            向かい風の中で

入賞
・野田怜弥     横浜市立大学3年(NPOテラ・ルネッサンス) 遅れていたら手を差し伸べればいい

・千ヶ崎彩花 早稲田大学3年           気づかれず静かに取り残されていく人たち
・大友のん 宮城県名取高等学校2年   今、子供達を想像してみてと言われたらどんな姿を想像しますか?
・入口侑可   国際基督教大学2年        置いていかれる私たち:生理が見えない社会にて
・松尾香奈     京都大学大学院修士課程2回生   ろう者から見たSDGs
・蒲圭織       国際医療福祉大学 1年           好きなものを好きと言える世の中
・原美咲       東京モード学園3年              大縄跳びに入れない
・匿名     高校2年           可能性の芽をつぶさない
・山本愛佳     新潟大学2年            人は生まれながらに不平等
・三村咲綾     福島県立ふたば未来学園高校3年 誰ひとり取り残さない避難〜私たちにできること〜
・大高美咲     玉川大学2年            目に見えない障害
・座間耀永     青山学院高等部1年             「生」から取り残された父を救ったSNS
・藤田咲桜里   私立鹿島朝日高等学校 2年  PTSDと診断され入院を経験した私が今思うこと
・呉恩愛       東京女子大学1年                今まで出会ってきた杉並区の人々
・坂本彩夏     練馬区立開進第四中学校2年  共に生きるために

 

優秀賞 

優秀賞氏名および全作品

 

奨励作品賞

奨励作品賞および全作品

 

実施の背景:

「誰ひとり取り残さない」はSDGsの基本理念であり、誰かを犠牲にしたり、取り残したうえでのSDGs達成はありえません。SDGsの宣言文でも「最も貧しく最も脆弱な人々の必要に特別の焦点をあて」「最も遅れているところに第一に」「最も貧しく最も脆弱なところから」などと繰り返し強調されています。

しかし、言葉として、あるいは総論としては理解していても、「誰ひとり取り残さない」を実際に意識して、SDGs活動を行っている人は案外多くはないかもしれません。

今目の前のできることから行うべきであり、「誰ひとり取り残さない」をあまり意識することは「非現実的」という声を聞くこともあります。

本コンテストは、今一度基本に立ち返り、SDGsの基本理念「誰ひとり取り残さない」視点をすべてのSDGs活動や社会活動に反映すべきとの観点から、若者の自由な発想や提案、計画についての小論文や作文を求め、またその声を広く社会に発信することを目的として実施するものです。

コロナ禍の2020年に第一回が開催され今回は第3回になります。
若者中心の実行委員会により運営され、資金はクラウドファンディングで運営しています。

コンテスト概要

募集内容:

SDGsの基本理念、「誰ひとり取り残さない」の視点で、考えること、自分が行いたいこと、社会への提言など自由な発想で、小論文・作文を作成のうえご提出ください。

応募資格:2022年4月1日時点で25歳以下の人

表彰・副賞:
大賞       3万円   3名

 入賞(特別賞)  2万円   7名
 入賞               1万円 15名

主催:野毛坂グローカル

運営:SDGs「誰ひとり取り残さない」小論文コンテスト2022実行委員会

後援:
一般社団法人 SDGs市民社会ネットワーク(SDGsジャパン)

独立行政法人 国際協力機構(JICA)

協賛:  
株式会社エイビス
kakogawaRD.jp
株式会社スリーハイ
株式会社日東装備
奈良東病院グループ
パーソネルコンサルタントマンパワータイランド株式会社
フランスベッド株式会社

審査員(敬称略):
野津隆志 兵庫県立大学名誉教授 / 野毛坂グローカル監事 :審査委員長

秋山愛子  国連・アジア太平洋経済社会委員会 社会課題担当官
安達一   笹川平和財団 常任理事
荒木田百合 横浜市社会福祉協議会会長(元横浜市副市長)
杉浦裕樹  横浜コミュニティデザイン・ラボ代表理事
高比良美穂 社会応援ネットワーク 代表理事
富樫泰良  オールニッポンレノベーション代表 / 野毛坂グローカル理事
長島美紀   SDGs市民社会ネットワーク理事/ながしま笑会代表
中西由起子  アジア ディスアビリティ インスティチュート(ADI)代表
      /  SDGs市民社会ネットワーク理事
藤谷健   朝日新聞東京本社デジタル機動報道部長
       兼 ジャーナリスト学校デジタル推進担当部長
和田恵   SDGs-SWY共同代表
奥井利幸  野毛坂グローカル 代表

【参考:「誰ひとり取り残さない」とは】

SDGsの基本精神は「誰ひとり取り残さない」です。

「何から取り残さないのか」よく質問をうけますが、野毛坂グローカルが考えるものは、「簡単にいえば「普通の人」、何をもって普通の人というのかはありますが、普通に享受できる社会経済活動の選択肢から、誰もが排除されないということです。

社会経済活動といえば、学校で学ぶ、十分な食事をとるというものだけではなく、スポーツをする、遊びに行くなど様々な活動があります。例えば、最近多く行われるオンラインセミナーでも、「あなたは障害者だから参加できません」いうのはあきらかに取り残されています。

別の言い方をすれば、「取り残されない人」「取り残される人」の社会の分断をなくすることが大切ともいえます。たとえば、「取り残されていた」貧困の子ども、軽度の障害者が取り残されなくなったとしても、やはり「取り残されない人」「取り残される人」の分断が残ります。

それに対する野毛坂グローカルの活動の基本方針は、「最も取り残されがちな人」に着目することです。 「非現実・理想論」と諦めるのではなく、視点を変えることで、できることが違ってくるのではないかとの思いです。分断をなくするためには、社会全体の負担を許容する社会である必要があるかもしれませんね。

入賞作品:大賞

・鈴木ゆか    玉川大学2年      母を亡くしてからの心の在り処

私は中学三年生の5月に母を亡くした。私はその日なぜが部活動に行きたくない気分になりそのまま帰宅したところ、玄関先でうつ伏せの体勢で液体が床に出た状態の冷たい母が横たわっていた。母はその状態で既に亡くなっていたが119番に電話をし、無我夢中で心臓マッサージをした。心臓マッサージの甲斐もなく母の死亡が確定したその後、冷たい母の遺体が自宅に帰ってきても、葬儀を行って骨になってお墓の中に入っても、20歳になった今でも心は中学三年生の5月に取り残されていたような気持ちでいる。
私のように人生の中で大きな精神的ショックを受けた人で、その「とき」に取り残された状態にいる人は少なくないのではないかと思う。自分の身体の歳はとるしほかにも歩みを進めている気持でいるけれどただ足踏みしているだけで後ろ脚は常にその「とき」に取り残されたような気持ちなのである。
心が歩みを進めていない中でも罪悪感や絶望感に閉じこもった箱の中から私を出してくれた人がいる。それが私の父である。高校生活の二年間、母を亡くした心の穴を埋めるために食に走った結果、過食嘔吐の摂食障害になった。はじめ一年間は自分の中で解決することができず、高校三年生の春に父に考えていることや今までの葛藤、解決したい事案等を相談したところ、否定もせず肯定もせずただ話を聞いてくれた。その後自分で考えた摂食障害の克服案を提案し、解決のために協力をしてもらった結果、一年間をかけて克服することができた。摂食障害という暗い箱の中から出た今でも歩みを進めることができていないと感じる理由は未だ「母」というものへの執着を拭いきれていないからだと思うが、今は今の私を肯定し続けていたいと思う。また、摂食障害を一人で克服しきれていなかったのは「誰かに話を聞いてもらう」ということをしなかったからであると今になると感じる。ひとりで考え、ひとりで悩み、箱に閉じこもっていたのである。私のように身近な人に救いの手を求めることのできる人がすべてではないと思うため、ただ話を聞くだけでも誰かに救いの手を差し伸べることができるのであれば私がその手になりたい。また、身近な人でそのような状態にいる人は気が付かないだけで少なくはないと思う。その手を掴むか否かはその人次第であるが、手を差し伸べる勇気を持って手を差し伸べたことであなたが助けたい人が希望を持つことが少しでもできるようになると私は考える。
最後に、心をその「とき」に取り残された人が足踏みでもよいから私が父に絶望の箱の中から救ってもらったように私も誰かを救う手を差し伸べることのできる人になりたい。

・藤野美紀子   関西創価高等学校2年       取り残されている目線

マイノリティーを受け入れる。私にはそれができなかった。
 近年、性において「マイノリティー」と呼ばれるLGBTQ+の人達を受け入れよう、という声を多く聞く。私ももちろん大賛成だ。性にはグラデーションがあり、男女という2択では表しきれない。性自認、性的思考、性的表現、そのどれもに人それぞれ違いがあるのは当然で、受け入れられるべきものだ。ほとんどの人が、この意見に首を縦に振るだろう。しかし、私は一つ問いたい。多様な性のあり方を、実際に「受け入れる」のは、誰か?友人、知人、家族、もちろんたくさんの当事者がいる。でも一番大事で、一番忘れられている存在がいると思う。LGBTQ+の方の好意を受け取る側は、どうすればいいのだろうか。
 私は中学生のとき、同性の先輩から好意を伝えられた。彼女は小学校のときからずっと私を可愛がってくれ、毎日のようにメールを送り合っていた一番親しい先輩だった。そんな先輩に、突然告白された。「好きだから、付き合ってほしい」そのたった一言が、私の頭を大きく揺さぶった。きっと、それが男の子からの言葉だったなら、無邪気に喜び、有頂天になっていたことだろう。しかしその時、私は自身に向けられた恋愛感情にただただ困惑した。「返事は?」そう聞かれても、言葉に詰まってしまう。嫌悪とかそんな感情ではなくて、どうしたらいいか分からないだけなのだ。
 慌ててインターネットで調べた。彼女と、どう向き合えばいいのか。でもそこには、模範解答のような言葉ばかりがならんでいた。「好意を向けられたことに感謝しよう」「相手の性を認めてあげよう」「態度を変えず、今まで通り仲良くしよう」それはできない、というのが率直な感想だった。私はあくまでも一先輩として彼女を好きだと思い、ずっと大事にしてきた。相手にとっても、ただの「仲がいい後輩」のはずだった。そう思っていたのに、突然恋愛感情だったと言われたのだから、当然混乱し、困惑したのも無理はないだろう。今まで続いてきた関係を急に終わりにされたような感覚で、心が追いつかない。しかしその当たり前の反応については、何の同情もアドバイスもなかった。
 マイノリティーを受け入れること。それは、誰もが平等に大切にされる社会を作るための大切な意識だと思う。しかし、私はこの性のマイノリティーについて、「LGBTQ+は絶対に受け入れられるべきで、それを拒む人間は悪だ」というような風潮を感じる。もちろん、多様な性が認められる社会は素敵で、とても好ましいことだ。しかし、好意を受け取る当事者の困惑を、「良くない反応」と決めつけるのは違うのではないだろうか。性の多様性に対する考え方は、ここ数年で急進的に浸透した。だからこそ、その世論に表面的に意見を沿わすことは簡単であるが、一人ひとりが何十年もかけて育て上げてきた自身の恋愛観がそんなにすぐに対応できるわけがないと思う。当事者に混乱があるのは、当たり前ではないだろうか。
 「LGBTQ+を受け入れる」とは、その方々の好意を素直に喜び、すべてに笑顔で応えるということではないと思う。心では混乱していても、それを隠し、表面上は取り繕うというのは、カミングアウトしてくれた方に最も失礼な態度であるはずだ。混乱を隠したまま従順に聞き入れるというのは、真に「受け入れた」ということではなく、むしろ理解することを諦めた姿とも言える。だから、打ち明けられて戸惑うならそれでもいいのではないか、というのが私の考えだ。「ビックリした」と正直に伝えたって良いと思う。「どうしたらいい?」って直接聞いたって良いと思う。もちろん、その前提として、自身を信頼してカミングアウトしてくれたことに対する敬意と感謝を忘れてはならない。しかしその素直な反応もひっくるめて互いに心の内を打ち明け合うことで、もっと相互理解が進むはずだと私は信じている。
 マイノリティーとして生きる人がいる。でもその一方で、マイノリティーを受け入れられない自分がいた。このリアルな経験を通し、私は今まで「LGBTQ+を受け入れる」という世論に他人事として意見を合わせていただけだったんだと気が付いた。きっとこれは、性の多様性だけに限った話ではない。「障がい者を助けよう」助けるのは誰か。「貧困をなくそう」なくすのは誰か。「自然を守ろう」守るのは誰か。きっと私たちはいつも他人事でしか理想を語っていないのだと思う。そうやって第三者として安易に世論を後押しする前に、「自分が当事者なら」と考える必要があるのではないか。誰かではなく自分自身を主語にして考えたとき、もっと具体的な道のりが見えてくるはずである。だから、たくさんの理想や目標が掲げられている今こそ、知らず知らずのうちに取り残されている当事者の目線に立ち返るべきではないだろうか。

 

・勇生   (ご本人希望により姓は非公開とさせていただきます)
 横浜市立蒔田中学校夜間学級  自分を取り残さない

僕は、僕自身を取り残していないだろうか。
偶然にもSDGs小論文・作文コンテストのポスターを見かけた僕は、「誰ひとり取り残さない」という言葉に疑問を抱いた。
僕には発達障害がある。だから、学校生活は難しいことばかりだ。教室に入れば、ガヤガヤと賑やかな声が聞こえてくる。エアコンがゴオーと動き、鉛筆がサッサッと走り、隣の職員室ではドアがガラガラ開いたり閉まったりしていて、僕は迷子になる。色んな音にかき消されて、授業をする先生の声を見つけられないのだ。
そもそも、僕が学校に通い始めたのは、社会で生きていく力を身につけるためだった。中学時代にあまり学校へ行っていなかった僕は、卒業してアルバイトを始めてから、時間の計算ができなくて困ったのだ。生きるためには学ぶことが必要だと知って、学び直し、自分と向き合うために19歳で夜間中学校に入学した。
期待を胸に始まった学校生活。でも、僕にはハードルだらけだった。賑やかな教室にいること、自分の気持ちを伝えること、時間割通りに気持ちを切り替えること。学校では当たり前のどれもが、僕の当たり前ではなかった。毎日できないことにぶつかり、いつも悲しくて悔しかった。
それでも、だれも僕のことを諦めなかった。「学校は失敗するところだよ」「ゆっくりだけど、ちゃんとできるようになってるよ」と何度も伝え、できないことがあった日は明日からのことを一緒に考えてくれたのだ。言いたい言葉が出てこない時は、信じて待ってくれていた。今、僕はたくさんの工夫をしながら学校生活を送っている。イヤーマフをつけて音を防ぐことで、教室に居やすくなった。時間が見えるようにタイマーを使ったら、あと何分で授業に行けばいいかわかりやすくなった。国語で詩を習ってからは、初めて僕の言葉で話せた気がした。自分の気持ちを伝える方法を手に入れることができたのだ。僕は僕なりに、少しずつできることが増えている。それがとても嬉しかった。
もちろん、全てができるようになったのではない。先生や友達に迷惑をかけ、自分を否定しそうになる時もある。でも、だれも僕のことを諦めずに信じてくれるから、僕も諦めずに自分の障害と向き合おうと思えるのだ。
「誰ひとり取り残さない」と聞くと、何か大きな課題を解決しないといけないような、自分には難しいことのような気がしてしまう。でも、きっとそれは身近な一歩から始まるのだと思う。
たとえば、今の僕なら自分を否定しないこと。できないことにぶつかった時は、挑戦や工夫をしながらできる方法を考えたり、助けてほしいと伝えること。まずは自分の存在を取り残さないこと。そして、先生や友達のように、周りの人を大切にすること。夜間中学校に入学したように、きっと何歳でも、いつからでも最初の一歩は踏み出せる。それが、今の僕から始めることのできる小さな「誰ひとり取り残さない」行動だと思う。

 

kakogawaRD.jp特別賞

・髙田智哉   学校法人聖ヨゼフ学園日星高等学校 教員   「私とあなた」

2019年8月1日。私はインドネシア東ジャワ州ナンガット村へと向かっていた。ワクワクと不安が入り混じる中、昨年出会ったおばあちゃんに再び会いに向かっていた。そのおばあちゃんと出会うことになった最初のきっかけは1年前の大学1年生の時に遡る。高校まで野球一筋で頑張ってきた私は大学入学と同時に色んな人に会ってみたいと思っていた。「どうしたら色んな考え方や価値観を持っている人に出会えるのか」と考えた結果、ボランティアという手段に行きつき、学生団体を探していた。その時に出会った団体がFIWC東海委員会というハンセン病の啓発活動を中心に国内外で活動している学生団体である。最初は「ハンセン病?何その病気?こわいの?」とハンセン病について名前も聞いた事がなかったし、恥ずかしながら何も知らなかった。とにかく海外へ行けるという理由だけで、その団体で活動することを決め、少しずつではあるがハンセン病について勉強していく中で、ある程度どんな病気でどんな過去があったのかが自分の中で見えてきた。ハンセン病とは末梢神経を犯す慢性の感染症で目に見える部分に症状が出る病気である事。昔は不治の病と言われて、差別や偏見を受けてきた病気であり、現在は特効薬が完成し治る病気である事。しかしながら現在でも国内外で差別や偏見を受け苦しんでいる人が沢山いる事。など私の中ではハンセン病について全て知ったつもりであった。
 そんな中、団体を通じて大学1年生の夏にインドネシアのハンセン病回復者の方々が集まる村「ナンガット村」で1ヶ月間生活する機会を得た。初めて会うハンセン病を患い、苦しい思いをしてきた人たち。どんな方々なんだろうと不安しかなかった。村に到着し初めて出会ったおばあちゃんそれが作文の冒頭に出てきたおばあちゃん「アスピアトゥルさん」である。最初は治る病気とわかっていながら、爛れた顔、壊死して曲がった指を見た私は握手を求められてもすぐに体が動かなかった。「治る病気だし、大丈夫だろう」と思って村へきた私は心のどこかでいつの間にか差別心を持ってしまっていたのだ。そんな自分が情けなかった。その村で生活する中で毎日おばあちゃんの家に通い、言葉がわからないながらも使い身振り手振り会話する中で、最初はハンセン病回復者と思い接していたが少しずつおばあちゃんへと自分の中での認識が変わっていった。
 その経験を機に2019年2回目のインドネシアでの渡航であった。2回目の村での滞在はハンセン病回復者に会いにいくというよりもおばあちゃんに再び会いにいくことが目的であった。再開した時におばあちゃんの笑顔は今でも忘れられない。2回目の渡航を終え、飛行機に乗った私はこれから自分に何ができるのだろうと自問自答した。その時にでた答えは誰かに「伝える」ということだった。インドネシアだけでなく日本のハンセン病の現状を沢山の人に伝え、ハンセン病について知ってもらいたい。特に日本はハンセン病回復者の高齢化が進み、今後忘れ去られてしまう病気になってしまう。そんな思いを持った私は中高生のみならず、大人の方々へ講演会を通じて年間30回以上を行った。
 その中で大切にしたこと。それは「私とあなた」の関係性である。私自身、初めは同じ人間にも関わらず、「私とハンセン病回復者」と分けて考えてしまっていた。それはなぜなのか。外見だけで相手を判断してしまっていたからである。だからこそ相手の外見ではなく、内面と向き合える社会にしたい。しなければならないと私は強く思う。私の周りでも未だに自分と容姿が違うというだけで避けている人は沢山いる。そんな社会は誰もが望んでいないし、誰かが行きにくい社会を作ってしまっている。自分の行動を振り返ってみてください。
 私は2022年春から高校の先生をしている。誰ひとり取り残さない社会を作るためにこれからも生徒たちに「私とあなた」の関係の大切さについて伝えていきたい。


株式会社エイビス特別賞

佐藤萌     熊本学園大学2年      家族の中で忘れられた“きょうだい”たち

私は、3人きょうだいの末っ子として生まれたが、3歳のときに難病と診断された。この病気は怪我や脱臼などをしやすく病院に通うことが多かった。
そんな想像を絶する多忙な子育ての中で、つい忘れられしまう存在がいた。それは“きょうだい児”である。
私の“きょうだい”の場合は、私が37度の熱を出した時に親は大事を取って休ませるが、姉が37度5分の熱を出しても、学校に送り出したことがあり、「ハジの時は仕事切り上げて迎えに行くくせに、私の時はまったく気にしてもくれない」「お母さんはハジの事が好きで、私には目も向けてくれない」「ハジばかりで不公平だ」と怒りの矛先を向けられたことが強く印象に残っている。同じような不満や悩みを抱えている“きょうだい”は多く存在している。
多くの“きょうだい”たちは、学校から家に帰ると宿題や友達と遊ぶのではなく、家事から始めることが多い。それが終わるとすぐに障害や病気のある兄弟姉妹の世話をする。普通の小学生や中学生であれば放課後は友達とゲームをして遊んだり、習い事や部活などの好きな時間を過ごしたりすることが多いが、その“普通”を知らないのだ。
家族の中に障害や病気のある兄弟姉妹がいると、親の注意・関心がその子に向きやすくなることで、家事や育児を両立することがさらに難しくなる。多くの場合は、親から子どもへ「手伝って欲しい」と助けを求めたり、幼き“きょうだい”が、大変そうな親を助けてあげたいと手を差し伸べたりして、それが日常化してしまう。その結果、「家族だから当たり前」と感覚が麻痺してしまうことがある。そうすると、いつしか“きょうだい”の心の中は、「どうして、私だけが家事をしないといけないの?」「なぜ、自分の苦しみや悩みを聞いてくれないの?」と親に対して不満やストレスを募らせる。
こんなに一生懸命に家族のために率先して動いてきたのに、1番親に振り向いて欲しいと思う時期に、親は振り向いてくれない…。
そんな家族の中で悩み苦しんでいた“きょうだい”を私は知っている。
それなのに、「助けてあげて欲しい!」と声を挙げることができなかった。
この子らは、まだ小学生や中学生である。本来ならば、医療や福祉が担わなければならない役割を小さな体の少年・少女がしているのだ。この現状を変えなければ、いつか親に対する不満や兄弟姉妹に対する負の感情が、最悪の事態を招くかもしれない…。
たしかに、困っていたら家族みんなで支え合うべきことが理想なのかもしれないが、“きょうだい”たちにも乗り越えなければならない発達課題がたくさん残っている。
家庭の中だけでは経験できないことが、家の外にはたくさんある。
友達と遊んで人間関係の形成の仕方を学ぶことは社会性を身に着けることにつながる。
学童期に経験することは価値である。
だから、声をあげたい。“きょうだい”にとって、親はあなたたちだけだ。
どうか、「お姉ちゃんだから我慢してね」「家族だから頑張ってほしい」「お母さんは忙しいから、また今度ね」などの言葉で納得させるのではなく、「ありがとう」「一緒に遊びに行こうか」などの感謝や親と子の時間を確保して、たくさん甘えさせてあげて欲しい。
子どもは表現力や語彙力が未発達なため、気持ちを言葉にして表現することが難しいが、心の中ではしっかりと親や兄弟姉妹に対して伝えたいことがある。
そんな小さなSOSを見逃さずに、気づいてあげて欲しい。
学校でも、障害や病気のある兄弟姉妹をもつ“きょうだい”たちの存在を把握して、時々声をかけてあげることも大切である。家族の中で孤独な感情で過ごしている時に、大人が気にかけてあげることで(私はひとりじゃない)と思わせてあげることが、相談しやすくなるきっかけになる。また、”きょうだい”たちだけのコミュニティを作って、子どもらしく羽を伸ばせる場所や定期的に当事者同士で話し合いができる場所を作ることを提案したい。
例えば、風邪などの病気になってしまったら、病院でその症状に合わせた薬で治すことができる。難病のような治療法がない場合でも、その人に合った方法で医療が提供される。知的障害や精神障害のように家族の理解が必要な場合は、福祉が介入して制度の利用をすることができる。しかし、“きょうだい”は、病気や障害があるわけではないため、どの制度を利用することも支援を受けることもできない。そのため、きょうだい児問題は露見することが少ない。
しかし、“きょうだい”は、家族の中の一員として、1人の人間として尊重されるべきである。
悩み苦しみ、自分の力では解決することができない“きょうだい”たちに、どうか希望の声掛けと光の手を差し伸べてあげて欲しい。
これは、一番近くで“きょうだい”を見てきた当事者の生の声である。

 

奈良東病院グループ特別賞

・吉住恒思     東京大学教育学部附属中等教育学校4年       口で言うのは簡単だ

駅の向こうの階段から、一見すると、おぼつかない足取りで、彼はクラッチといわれる杖をつきながら歩いてくる。私の姿を認めると、彼は、「やあ、吉住くん」ふふふと笑う。
彼との付き合いはじめは、よく覚えていない。私の父と彼の父は同じ会社で、同じ社宅に住んでいて、物心ついたときから同じ公園で遊んでいた。だから、本当の幼馴染といっていいかもしれない。私たちは、ほかの友だちと同じように、同じ小学校に入学した。そして、それが、「当たり前」だと、思っていた。
だけど、小学3年生のころ、彼は突然、転校した。
どうやら、引っ越したわけではないらしい――ということが分かったのは、相変わらず社宅のなかで、彼を見かけたからだ。多くの小学生がそうであるように、学校という社会の枠組みから外れた彼と話す機会はほとんどなくなった。
そんな彼と、ふたたび友だち付き合いがはじまったのは、高校に入ってからだった。「普通学級は、生きづらかったんだよね。転校したのは、やりきったと思ったから」
彼は、駅の向こうにある特別支援学校に転校していた。断っておきたいのは、彼の言う「生きづらさ」は、いじめにあったということではない。
しかし、ここに、より根深い問題があると私は考える。最近は法律が施行され、人権教育も進んだ。この結果、目立った「差別」や「排除」は少なくなってきた。だが、健常者という枠組みのなかで、やはり彼は異質な存在だった。事実、彼自身、小学生であっても、その異質さを埋めようと努力していたらしい。
例えば、利き手ではないボールを投げたり、できるかぎりエレベーターを使わずに階段を使ったり、そうやって健常者である私たちに合わせることに、疲れてしまったのだという。彼はそれを、「やりきった」なんて言葉で表現する。「気を使わせたのかな?」
と、私が言うと、彼は、「僕が勝手に気を使ったから、気にしないでよ」と笑った。
 結論から言えば、彼は特別支援学校に転校して、よかったのだという。下肢の不自由さといっても、彼のように杖(クラッチ)を必要とする生徒であったり、車椅子であったり、もっと介助を必要とする生徒であったりと、その状態は複雑多岐にわたっている。先生からは一人ひとり医療的な配慮をしていただけるので、彼は「生きづらさ」からは解放された。
 私たちは、彼らを「障がい者」と一括りにする。さらに、彼のような障がい者を「下肢不自由者」と一括りにする。
 しかし、彼に言わせれば、特別支援学校のなかでも、障がいの種類、程度によって、一人ひとりのアイデンティティーは変わってくるのだという。僕からみた彼の優しさと強さは、障がいから生まれた心のあり方かもしれない。
 そうして考えると、特別支援学校という「障がい者」の社会では、私たち健常者は異質な存在である。どちらが上でも下でもない。その境界は私たちが考えているよりも、もっと曖昧なもので、グラデーションのように混じっているのかもしれない。
 そして、私にとっての彼は、彼であり、「障がい者」や「下肢不自由者」は彼を象っている一部のアイデンティーだということに、あらためて気付かされる。杖を持たない彼は、彼ではないのだ。事実、
「まあ、こういう足だから、いまの僕があるんだよね」
と、彼は言う。
 多様性を認めあう「配慮」は必要だ。「配慮」することによって、誰一人取り残さない社会が現実になっていくと思う。一方で、私が言いたいことは、その「配慮」を突き詰めて、「普通学校でも、特別支援学校のような教育を行え」というような暴論ではない。当然、そこには教育の格差は生じてはならないが、「配慮」するための区別は必要であろう。
 大切なことは、その「配慮」を提起させる「交流」であると私は考える。
 事実、特別支援学校が駅の向こうにあることは、知っていた。知ってはいたが、それまで、そこは「得体のしれない学校」でしかなかった。しかし、いまの自分にとって、そこは「彼が通っている学校」に変わった。
 「誰一人取り残さない」「多様性を受け入れる」と、口で言うのは簡単なことだ。大切なのは、実際にそうした現実を、「観て、感じる」ことだと私は考える。そうすることによって、本当に「生きた配慮」ができるようになると思う。
 簡単なことからでいい。
 例えば、彼らとお昼ご飯を食べたり、テレビゲームをするところからでも、いいのではないだろうか。そうした簡単な交流から、僕と彼のように、学びあうことはかならずできるはずだ。
 

パーソネルコンサルタント マンパワータイランド特別賞

・鈴木美緒    鎌倉女学院高等学校2年 グローバル化が進む時代に向けて

「誰ひとり取り残さない」というSDGsの基本理念は、グローバル化が進む時代を生きる私たちにとって、これから常に意識しておくべき考え方だと思う。私は小学生のときに、取り残された経験があるため、「誰ひとり取り残さない」ことの重要性がよく理解できる。
 私は小学四年生のときに、父の仕事の都合でアメリカに引っ越した。それまで私は、外国に住んだことがなく、英語も少ししか話せなかった。そのため、私がこれから通う予定の現地の小学校に、日本人の生徒は一人もいないことを母から聞いたとき、とても不安な気持ちになった。
 転校初日、私は緊張していたが、勇気を出してクラスメートたちに英語で自己紹介をした。はじめは笑顔で聞いてくれていたが、私が日本出身であることを伝えると、その笑顔が一瞬にして消えた。彼らの反応に驚いたが、自分の英語が変だったのだろうと思い、あまり気にしていなかった。昼休みになると、先ほどのクラスメートたちが私の周りに集まって、
 「今日はイルカを食べたの?」
と聞いてきた。急な質問に戸惑ったが、私は首を横に振り、イルカは一度も食べたことがないと伝えた。すると彼らは、学校で配られたという雑誌に載っていたイルカの記事を私に見せてきた。そこには、「日本人はイルカを食べるため、日本ではたくさんのイルカが虐殺されている」と書かれていた。しかし私は、イルカが食用として販売されていることも、日本でイルカが殺されていることも聞いたことがなかった。そのことを伝えようとしたが、彼らはすぐに校庭へ遊びに行ってしまった。私は教室に一人で残され、寂しい気持ちでいっぱいになった。生まれて初めて「取り残された」と感じ、泣きたい気持ちになった。昼休みが終わり、クラスメートたちが帰ってきたが、その気持ちは消えなかった。その後は、誰からも話しかけられることなく一日が終った。私は家に帰ると、日本でイルカ漁は行われているのか母に尋ねた。母は、和歌山県の太地町など、日本の一部の地域ではイルカ漁が伝統文化として続いているが、ほとんどの地域では行われていないということを教えてくれた。
 次の日、私はクラスメートたちに母から聞いたことを説明した。私の英語は下手だったと思うが、誰ひとりとして笑う人はいなかった。彼らはちゃんと理解してくれ、昨日のことを謝ってくれた。昼休みになると、一緒に遊ぼうと誘ってくれ、彼らとの距離が少し縮まったように感じた。そして、転校してから一週間がたつ頃には、私にも友達がたくさんできた。寂しさや孤独感が消え、「取り残された」と感じることもなくなった。
 私はこの経験から、二つのことを学んだ。一つ目は、本に書かれている情報を鵜呑みにしてはいけないということだ。本だけではなく、テレビのニュースや、インターネットに載っている情報、人から聞いた情報にも同じことが言える。誤った情報のせいで偏見が生まれ、人を傷つけてしまうこともある。二つ目は、間違いを恐れるべきではないということだ。私は、英語があまり上手ではなかったが、間違いだらけでも伝われば大丈夫だと考え、気にせずに話していた。もし、あのとき、間違いを恐れて何も話さなければ、ずっと取り残されたままで、友達もできなかったと思う。
 グローバル化が進むにつれて、日本でも在留外国人の人数が増加した。学校や職場で交流する機会も増えると思うが、そのときには偏見を捨て、積極的にコミュニケーションをとってもらいたい。まずは日本から、国籍を超えて協力する姿勢を示すことで、いつか世界中で国籍や国境を超えた協力ができるようになると思う。誰ひとり取り残さない、より良い社会の実現のために、一人ひとりがこのことを意識して行動すべきだと思う。

フランスベッド特別賞

・藤原かりん   富山国際大学1年       外国人労働者が輝ける未来へ

皆さんの外国人労働者に対するイメージはどのようなものでしょうか。
あまり日本語ができなくて、出稼ぎに日本に来ている。と言ったところでしょうか。
外国人労働者に対して軽蔑の目で見ている人多くいるように感じます。私はそのイメージを変えるべきだと強く思います。
残念ながら、今現在日本人間での外国人労働者の問題について周知がされていない状況にあります。周知されていないことに着眼すべきだと私は考えます。
私の母は外国人です。この十八年間母が外国人労働者として働いていて、苦しんでいる様子を一番近くで見てきました。
ひらがな、カタカナ、漢字が読めない。言語、英語が通じない。誰がそんな環境で労働をしたいでしょうか。私だったら働きたくはありません。まるで日本が嫌いかのような文面ですが、私は日本が嫌な訳ではありません。ただ私は胸を張って、日本がいい国とは言えないと言いたいのです。日本には多くの外国人労働者がいますが、コミュニケーションを取れるほどの日本語の語学能力を持つ人は少ないです。現状として、外国人労働者は日本語能力試験である程度の級を取っていなければ職種を選ぶ事すら困難です。日本語能力検定の高い級の取得が困難かつ、日本語を教えてくれる学校に通うのもお金がかかる為、多くの外国人労働者は日本語をあまり必要としない単純労働、肉体的な労働を強いられているのです。こんな仕組みは狂っています。私は単純労働、肉体労働ではなく、外国人労働者がもっと輝ける場所があるはずだ。そう強く思っています。
私達は能力のある外国人労働者を生かしきれていない現状に気づき、直ちに行動するべきです。日本人は外国人労働者を下に見すぎているように感じます。漢字が読めないから馬鹿にする、言語が通じないから仕事を押しつける、もう信じられません。確かに日本に来ているなら日本語が出来ているべきだと言う意見もあると思います。然しながら、私達が当たり前のように使っている日本語を外国人が完全に習得することは極めて難しいのです。それを理解すべきです。
まず、私達は異国の地に来て、働きに来ている外国人労働者に尊敬の意を持つべきではないでしょうか。日本人は「働かせてあげている」という思考が強いように感じます。私達は外国人労働者に対して、感謝の意、敬意を表し、「働いてもらっている」という根本的な意識を変えていかなければならないのです。
今現在、多くの技能実習生、特定技能の外国人労働者は、建築業、食品業に多く就いています。
問題視すべきなのは、選べる職種が少なさです。技能実習生の就いている職業を見ても、肉体労働かつ単純労働であるものが多いように感じます。能力のある外国人労働者に対して職業の選択肢を増やすべきだと考えています。英語のできる外国人労働者は英会話スクールなどで働くなど、外国人労働者にはより能力最大限に生かした職業について働いてもらうべきです。
本当の意味で望まない職業につき、家族を置いて、言語も伝わらない異国の地で労働するのはどんなに辛いでしょうか。どんなに家族に会いたくても多額の借金あるため、仕事をすぐには辞めれず、辛い思いをしている外国人労働者がどれだけいるか考えたことはありますか。自分で選んだ道だろうと非難する声もあると思います。しかし、家族を養うために出稼ぎを強いられている人が多くいることが現状なのです。
あまりに過酷な労働環境、肉体的な労働をさせられ、逃げ出してしまう技能実習生もいます。それは、雇っている企業が外国人労働者に親身に寄り添わず、規定以上の労働をさせているからです。その問題にも着眼し、解決に向かって行動をすべきなのです。
外国人労働者も仕事を選ぶ権利があるはずではないでしょうか。本当の意味で望んだ仕事をしてもらうべきなのでは無いでしょうか。
日本語が分からないなら、私たちが英語、その国の言語を勉強してコミュニケーションを取れるようにすればいい。完璧ではなくていいのです。外国人労働者にとって、働きやすい環境、理解のある職場作りを徹底する。それが私達が一番重きを置いてするべきことなのではないでしょうか。
一番の問題点は、日本人が英語が喋れないことだと私は考えています。世界的に見れば日本語を話す人々は英語圏と比べれば、格段に少ないでしょう。しかし、英語を話せる日本人は圧倒的に少ないのではないでしょうか。「日本語が分からないなら、英語を少しでもいいから話せばいい。話せるようになろう。」そういう発想の転換に何故ならないのか私には分かりません。私には、日本語を覚えろと押し付けているように見えるのです。それこそ日本人の思いやりを発揮するべきなのではないでしょうか。
まずはじめの一歩として私達は外国人労働者の文化、言語を尊重し、共に歩み寄ることをすべきです。みんな幸せに生きて、もっと価値のある人生を送れるようにすべきではありませんか。外国人労働者であろうが、一人の人間であり、単純労働、肉体労働をするために日本に来ているのではありません。外国人労働者を含めて誰一人取り残さない環境作りを作ることについて重きを置くべきだと私は考えます。
外国人労働者の皆さんに本当の意味で望む職業に就いてもらいたい。外国人労働者がもっと輝ける場所を作りたい。働きやすい環境作りをしたい。そういう環境、場所を作ることが私の将来の夢です。

 

株式会社スリーハイ 特別賞

・熊谷美咲    神奈川県立相模田名高等学校2年   曖昧な私とヘルプマーク

あなたは、「ヘルプマーク」を知っていますか。
「ヘルプマーク」に、どんな印象を持っていますか。
ヘルプマークを知らない方もいると思いますので、少しヘルプマークの説明をしたいと思います。
ヘルプマークとは、外見からは分からなくても援助や配慮を必要としている方々が、周囲の方に配慮を必要としていることを知らせることで、援助を得やすくなるよう、作成されたマークの事です。
そして、それの対象となっている方は、義足や人工関節を使用している方、内部障害や難病の方、妊娠初期の方など、援助や配慮を必要としている方となっています。(東京都福祉保健局より引用)
このように、ヘルプマークは目に見えづらい障害を抱えている人が正しく使うことで、マークとしてきちんと効果を発揮するのだと思います。
では、目に見えづらく、自分でも気づきにくい障害を抱えている人は、ヘルプマークを使ってもいいのでしょうか。
突然ですが、私は、十年前から不安障害を持っています。といってもずっと症状があった訳ではなく、最近になって症状が悪化し専門機関に受診して発覚しました。不安障害の中でも複数に名前が別れているのですが、その中で私は「恐怖症」に含まれています。嘔吐恐怖症を持っている私は自分が嘔吐することは勿論、人が嘔吐しているところを見る事も怖く感じてしまいます。また、過去に気分が悪くなってしまった場所や気分が悪くなっている人を見た場所も、怖くなり行けなくなってしまったり、行けるようになるまで時間がかかったりします。もちろん同じ恐怖症を持っている方でも人によって症状は様々で、程度も大きく違ってきますが、私は一度症状が酷くなると回復するまでに時間がかかってしまうことが多く、日常生活にも影響してしまうことがあります。障害によって生活に影響してしまうことが多くなるとどうしても皆さんのように行動しづらくなってしまう事があり、悩んでいました。なんとかできないのかと思っていた時に出会ったものが、ヘルプマークでした。目に見えづらい障害を持つ人が周囲の方に配慮を必要としていることを知らせることができるマーク。言葉で伝えることが苦手な私は、話さなくても一目でその事が伝わるという点でとても素晴らしいマークだと思いました。しかし、次に思った事が前に述べている事でした。「目に見えづらく、自分でも気付きにくい障害を持っている私はヘルプマークを使ってもいい人なのだろうか」「私はヘルプマークを悪用しようとしているだけではないだろうか」「本当に私はヘルプマークを必要としているのだろうか」。なにせ症状が出る場所も一部で、症状が出る期間も少ししかありません。自分でも症状が出ないように工夫することも出来なくはないし、体調によって症状も変わります。要は、私はヘルプマークの対象者なのか分からないのです。
そんなに悩むのならヘルプマークを使わなければいいじゃないか、と言いたくなる方もいると思いますが、やはり私は障害を持っていると実感する場面は沢山あるし、そのせいで迷惑をかけてしまうこともあります。
じゃあヘルプマークの対象者として利用したらいいじゃないか、と言いたくなる方も無論いると思いますが、そうすると私は他のヘルプマークを持っている人と比べてしまうと健常者に近いのです。
障害を持っていない訳では無いし、迷惑をかけないという訳でもない。しかし、障害を持っていると明言できるほどの症状も出ていない。
私は健常者でも障がい者でもないと思っています。
そして、私のような曖昧な人にこの国はあまり配慮されていないと感じています。
障がい者の基準に僅かに満たないグレーゾーンの方、生まれつきの気質と言われているHSPの方など、私が知らないだけでもっともっとたくさんの曖昧な人がいると思いますが、その人達は常に曖昧である故に様々なことに悩んでいます。
今回のテーマ、「誰一人取り残さない」を私の意見と擦り合わせ、意見をまとめると、「取り残されない人」とは私の言う健常者であり、「取り残される人」とは私の言う障がい者です。そして、私も含まれている曖昧な人は「取り残されることもある人」です。この曖昧な人は私はある意味いちばん取り残されやすい人だと思っています。取り残される人達が優先的に考えられ、後回しにされることが多く、結果的に取り残されてしまう可能性が高いからです。その曖昧で取り残されることが多い人の一人として伝えたい事。それは、私たちの存在を忘れないでほしいということ。ひとつの物を取得するだけにも葛藤している人がいることを知っていてほしいということ。
私たちの存在を忘れないでいてくれるだけで、きっと、取り残される人は少なくなると思います。

株式会社日東装備特別賞

・小池優希     東京大学3年            向かい風の中で

SDGsの4番、「質の高い教育をみんなに」日本に暮らす中で、この項目を意識する人は多くないでしょう。学校に通えなかった訳ではありません。「ただの贅沢」と言われそうな私たちの話を、どうか今だけでも聞いてください。
 大学3年生、20歳です。「変わった子」だった幼少期、検査を受けに行きました。結果に書かれていた「極めて高い知的能力」。受け取った両親は、説明の際の「お子さん、天才ですよ」という言葉に驚き、そして悩んだそうです。
 0.25倍速みたいな授業。退屈すぎて拷問みたいだな、と思いました。よりハードだったのは人間関係で、何をやっても上手くいきませんでした。どの語彙ならクラスメートに伝わるのか、どうしたら「浮かない」会話ができるのか。何も考えたくなくて、図書室の本を片っ端から読んでいました。どこへでも行ける物語の中が大好きでした。
 「学校は社会の縮図」という言葉を聞くたび、“社会”に合わせられないダメ人間なんだ、と感じました。最初は「学校は理不尽を学ぶ場だから」と言っていた母に「もっとお金があったらあなたに合った私立にも、海外にだって行けたのにね、ごめんね」と謝られたことを良く覚えています。毎日爆発しそうなくらいイライラしていて、辛くて苦しくていなくなりたかったです。
 難関校向けの塾に入った中学2年の秋、自分が孤立した存在でないことを知りました。高校の授業は相変わらず退屈だったし、先生には「勉強時間が短すぎる」と責められていました。それでも生きていけたのは、全力で話しても「面白いね」と言ってくれる仲間がいたからだと思っています。「同じような人が沢山いそう」と選んだ大学は、目論見通りとても楽しいです。
 嵐のような子ども時代を経て、現在の私は知的能力の高い「ギフテッド」と呼ばれる特性を持つ子ども、そして保護者を支援するプロジェクトに携わっています。「毎日退屈な授業がつらい」「話の合う友達が作れない」かつての自分と同じような悩みは、今でも至る所で見られます。「学校側の理解が得られない」「ロールモデルがいない」と不安に思う保護者の方々も、サポートが乏しい中で迷いながら子どもたちと向き合っています。
 支援の場に立っていて感じるのは、かつて知られていなかった「ギフテッド」という言葉が少しずつ広まり始めていることです。文部科学省は現在「特定分野における特異な才能のある児童生徒」への支援策を打ち出しているとのこと。それに伴い、ギフテッドに関するニュース・特集記事などを見かけることも増えてきました。
 しかし、「ギフテッド?才能がある凄い子なんでしょ?」という声が多い中で、より正確な理解は果たして広まっているのでしょうか。周りとの知的発達の差異ゆえに通常学級の授業が辛いと感じたり、友達を作ることが困難だったりすること。子ども本人の中でも知的能力と社会性の発達にはギャップがあり、「こんなに良く知っているのになぜ?」と大人から誤解されやすいこと。ギフテッド特性から完璧主義や感受性の激しさを持つ子どもも多く、抑うつや不安、自己肯定感の低さに苦しむ子どもも少なくないこと……。
「質の高い教育」を受けるにあたり、特別なニーズを持つ子どもたちがいます。「ギフテッド」とされる子どもたちもその一部です。心理社会的なサポートと適切な内容の教育を受けることは、その子がその子らしく生きていくために必要なことなのです。
 しかし、ネットニュースに吹き荒れるコメントは、社会がまだまだ厳しい場所であることを示しています。「本物のギフテッドなら放っておけば伸びる」「どうせ大成しない、大したこともないくせに」「わがままでは?周りに合わせる努力をしなきゃ」etc.
 私は今後、所属するプロジェクトでギフテッドに関する情報発信を行おうと考えています。私のような子どもをこれ以上出さないこと。どんな厳しい言葉にも負けないくらい、「社会にはあなたの居場所があるよ」と伝えること。それが当面の目標です。

 

入賞

・野田怜弥     横浜市立大学3年(認定NPO法人テラ・ルネッサンスインターン)   
  遅れていたら手を差し伸べればいい                 

「誰ひとり取り残さない」。正直、ただの綺麗ごとだと思う。どこを基準に「取り残さない」のか。みんなが平等に立つことは不可能だ。

 人は比較によって幸・不幸を感じる。例えば、現在一日一食食べられるかどうかの生活をしていた人が、SDGsの達成目標年である2030年に、三食(主食+おかず)食べられるようになったとしよう。しかし、もしも近くに主食+おかずに加えて、デザートを食べている人がいたら「自分は不幸だ、貧しい」と思ってしまうはずだ。

 この地球に住む人類の生活の底上げ、もしくはレベルの異なる階層のギャップを埋めることは可能だろう。人々全員の生活が改善されているのだから、それは間違いなく「誰ひとり取り残していない」と言えるだろう。しかし、上記のような状況が生まれる中で、果たして底上げされたヒエラルキーの下にいる人たちは満足するだろうか。貧困の問題だけではない。障がい者やジェンダーの問題も同様だ。

 バリアフリー化が少しずつ進んでいるが、既存の建物の中には一度取り壊さないとバリアフリー化できない建物は数えきれないほどある。建物の持ち主や既存利用者、周囲の人々など影響を受ける人が多く、実行は難しいだろう。実際に私のバイト先である飲食店は地下にあり、狭い階段を降りないと入店できない。一方で、デジタル化は急速に進んでいる。メタバースといったウェブ3.0と呼ばれるものまで普及しつつある。メタバース空間では障がいの有無は関係なく楽しめる。しかしそこで現実との比較がされ、ギャップに強く気づき、ショックを受けてリアル世界を拒否する人も生まれる可能性があるのではないか。また、知的障がい者や一部のお年寄りはデジタルについていけない。もちろん教育をすればいいのだろうが、私の祖父母のように「難しいからいい」と拒否する人は少なくない。それを「誰ひとり取り残さない」ために無理やり教えるのか。きっとメタバースが普及すればその中でしか得られないメリットも増えてくる。この状況で、デジタルにアクセスしたくない人たちは「取り残されていない」と言えるのか。

 さらにジェンダーの問題でいうと、女性が守られる風潮が強くなりすぎて、男性の肩身が狭い世界になりつつある。私の知り合いにも、電車内では絶対に腕を組む、ハラスメントを恐れて慎重な言葉使いをする、といったエピソードを聞く。彼らに悪気がなくても受け取る側が嫌だと感じれば、それは犯罪になってしまうからだ。人種問題に関しても、黒人対白人の対比で、同様の、加害者が被害者になる構造が見られるだろう。

 ここまで批判してきたが、私はその野望を持ち続けることはすべきだと思う。私は、2021年3月からの14か月間、東アフリカに滞在した(内訳は、ウガンダ9か月、ルワンダ3か月、ブルンジ1か月、ケニア1か月)。渡航前、「地球市民」というワードが漠然としすぎて私はあまり好きではなかった。しかし、実際に遠い大陸であるアフリカに行ってみて、そこにいる人々と生活してみて、改めて「同じ人間なんだ」と感じた。みんな何かを目標に生きているし、誰かを守るために生きているし、楽しく生活するために生きている。そして、何もできないただの大学生である私を、一友達として、家族として、みんなは受け入れ助けてくれた。それをみんなは、「助け合うのは当たり前でしょ」と言っていた。だからこそ、みんなからも金銭的だったり人脈だったりのサポートを求められたが、それは支えあうのが当たり前だからだ。

 同じ地域内の4か国に行ったが、隣国同士、地域ごと、民族ごと、個人でも問題は異なり、かつレベル感もかなり違った。さらに、まだ見えていない不条理や問題・格差があるはずだ。それを国際的に解決していくのは難しい。私ができることとして考えたのは「伝える」こと。現在、絶賛就活中で記者になろうと奮闘している。将来的にはフリーの国際ジャーナリストとして、世界中にある小さな問題を掘り起こして発信していきたいと考えている。無知は無意識な無視かもしれない。だが、知る機会がなければ知ろうとすることもない。私は伝えることでその場を設け、読者(視聴者)に知って・自分事化してもらい、生活の中で少しでも地球という同郷をもつ誰かの事を想う時間を作ってもらいたい。そうすれば、日常の中で地球市民のために何ができるかを考え、どんな小さなことでも実践するようになるはずだ。

 私は「誰ひとり取り残さない」世界ではなく、「地球市民みんなで前に歩んでいく」世界を目指したい。東アフリカで出会った私の仲間たちが考えているように、同じ人間として当たり前に助け合う社会であれば、遅れている誰かに誰かが手を差し伸べるだろう。”

・千ヶ崎彩花   早稲田大学3年   気づかれず静かに取り残されていく人たち 

現在、SDGsという言葉をあちこちで耳にする。授業ではSDGsについてのプレゼンをさせられ、就活でもSDGsを方針の一つとしている企業の話をよく聞く。それくらい、SDGsは現在の社会でトレンドとなっている。では、実際、SGGsときくと、皆さんは何を思い浮かべるだろうか。「環境保全」「平等な教育」等を思い浮かべる方が多いのではないだろうか。これらは確かにSDGsの17の目標の中に含まれているので、これらを思い浮かべることは決して間違っておらず、正しいことである。しかし、一つ一つの目標も大切だが、その根底にある、「誰ひとり取り残さない」という基本精神をなにより忘れてはいけない。

 

私は現在イギリスに留学している。日本人は少ないため、ここでは完全なるマイノリティである。周りはイギリス人の学生ばかり、留学生がいるといっても、中国系やインド系の学生が多く、日本人はほとんどいない。

とはいえ、差別をしてはならないという教育を受けてきたモラルがある学生ばかりなので、周りの学生は決してこちらをあからさまに差別することはなく、排除するような行動をとることはない。しかし、積極的に話しかけてくれて、気を配ってくれるわけでもない。こちらから助けを求めれば確かにアドバイスをくれるが、やはり彼らは彼らで固まって友人関係を作っていくことのほうが多い。1人でいても、それを見かねて仲間に引き入れてくれるという雰囲気にはならないことが大半である。ネイティブの学生の話すスピードについていくこともままならない状況で、そこに自分から入っていくのは、かなりの勇気と自信がいることだ。活発な性格の学生でないと難しいだろう。こうして、みえない壁に阻まれ、楽しい学生生活からは取り残されていく。それは薄く、透明な壁で、マジョリティの側からは壁を作っている自覚がないために気づきもしないようだ。しかし、それは確かに存在していて、壁の外にいる側からみれば常に孤独を感じ、自信をなくすことにつながってしまう。それだけではなく、周囲に相談しても、「それならこちらからどんどんアタックしていけばいいじゃないか」とあしらわれるだけであり、まるで小さな問題であるかのように扱われる。その難しさや辛さは伝わらないので、声をあげることさえもままならず、1人で悩むのである。

私は、日本にいたころはごく一般的な学生で、友人関係に悩んだことはほとんどなかった。しかし、こちらにきてマイノリティの立場になることで、人というのはより多くの共通項をもつ者同士で無意識に固まっていくことで、結果として「消極的な仲間外れ」が発生してしまい、そしてそれに気づいてもらえることもなくただ静かに取り残されていく人が存在するという状況に気づいた。このような人たちに対しては特に目立つ差別もないから注目されないし、重要な問題だと扱ってもらえないからこそ、「誰ひとり取り残さない」という意識をもって積極的に配慮していく必要がある。

 

SDGsときくと、何か政府が主体となって行動したり、企業がプロジェクトとして行ったりするもので、個人的に実践できるものではないというような印象をもつかもしれない。または、遠い場所で起こっていることで、自分が直面している問題かと言われると、そうは思わない人が多いように思う。実際、日本で一定以上の水準で生活している多くの学生にとっては、周りの人はみんな小学校、中学校、高校へと進んでいて、教育を受けられないというのは東南アジアやアフリカの貧しい地域の子どもたちの話、という印象をもつことが多いだろうし、海洋プラスチック問題というのも遠い海での話であって、実際には何の不自由もなく魚を食べることができている以上、正直どれくらい深刻なのかあまりぴんとこないだろう。

しかし、SDGsの本質というのは、「誰ひとり取り残さない」という精神であり、17の目標というのは具体例にすぎないのである。日常的にまわりをよくみてみれば、取り残されている人と言うのは案外身近に存在していて、助けを必要としている人は多い。しかし、それに気づかない人がどれだけ多いことか。

「環境を守る」「教育支援をする」というような、規模の大きなことにのみフォーカスするのではなく、もっと身近なところに目を配り、取り残されている人を積極的に探知していくというところからSDGsを実践していくべきだ。”

・大友のん        宮城県名取高等学校2年   
  今、子供達を想像してみてと言われたらどんな姿を想像しますか?

私の将来の夢は保育士になることだ。小学校4年生の2分の1成人式で発表し、その夢を達成させるために人生計画表を立てた。あの頃はもっと遠い話だと思っていたけれどあっという間にときは流れ、駒が進み、私は来年高校3年生になる。そのため、2年生からは進路のための情報収集などが各々始まり、人生の分岐点が近づいていることをそのとき改めて実感した。

高校2年生の夏休み。私は友達と初めて大学のオープンキャンパスを訪れた。正直、せっかくの夏休みにわざわざ行かなければいけないのかとあまり気が進まなかった。そんな気持ちのまま学校に入り、説明会が始まった。私は体験型の講義を受けた。先生は講義が始まってすぐに一つの質問を投げかけた。

「今、子供を想像してと言われたらどんな姿を想像しますか?」

私はその質問に

「外で元気に遊んでいる子供達の姿を想像します。」

と答えた。他の生徒もお絵かきや歌を元気に歌う姿などと答えていった。その後、先生は二枚の写真を私たちに見せた。ひまわりのような明るい笑顔をしている女の子。その子の写真をよく見てみると耳に補聴器をつけていた。もう1枚は、片足が無い男の子の姿だった。先生は、

「君たちはこの子供たちの姿を少しでも想像しましたか?」

その質問に私は何も答えることができなかった。無言の私達を前に先生は話を続けた。保育士は子供の世話をすることだけではない。それと同時に子供たちに平等を与え、その手助けをすることだと。片足のない子がサッカーをしたいと言ったらどんなことが私たち先生にはできるのかを考える。そしていわゆる「障害児」の数は現在増えつつある。だからこそその子たちの存在を疎かにしてはいけない。保育の資格を持って働く場所は、保育園や保育所、幼稚園だけが保育者の勤め先ではなく、障害を持つ子どもの支援をする仕事がその倍以上あることも知った。この日の講義は私にとってとても心に響くものであり、同時に私の考えは無知で浅はかなものだったと痛感した。

これを読んでいるあなたは、この質問にどんな子供たちの姿を想像しましたか?私は将来、ただ保育士になりたいそう思っていた。しかし、今はたくさんの子供を笑顔にさせることができるような保育士になりたいと心から思う。そのために私自身、今できることとしてたくさんの人とコミュニケーションをとる能力をつけれるように努力している。そして、人のために努力する心もより身につけていきたい。そして、たくさんの子ども達が平等に幸せを得ることができるそんな社会になりたい。”

 

・入口侑可    国際基督教大学2年 
   置いていかれる私たち:生理が見えない社会にて

はじめて生理が来たのは小学校5年生の秋、パニックを起こしながらインターネットで生理について情報を集めた。なけなしのお小遣いで泣きながら生理用品をレジへもっていくと、すぐ使うのにもかかわらず紙袋に包まれてしまった。スーパーのトイレで茶色の袋をビリビリに破きながら、生理は隠さなくてはならないと学んだ。私が生理を受け入れられるようになるまで10年の月日が必要だった。

 しかし、社会の大多数にとって生理は「恥」として受け止められている。現大学にはオールジェンダートイレがあり、SDGsの精神にのっとり多様性を推進している。しかし、所属する学生のなかには男性も使うオールジェンダートイレは生理中には使えないと答える人びとも少なくない。生理を男性に見られたくないという感情から、彼女たちは男女で分かれたトイレで用を足さねばならず、不要な移動距離や経血が漏れるかもしれないという不必要な不安を抱えている。これに留まらず、生理のタブー視は生理のある人の多くに大きな負荷をかけている。購買にて生理用品が売られているものの、他学生に見られることに気まずさを覚え、トイレットペーパーで一日やり過ごしたことがあると言う人もいる。

 女性活躍という言葉を聞くと、私たちは男女間の賃金格差や理系への進学率について思いをはせる。しかし、その環境はどうだろうか。女性が一人ガラスの天井を破ったとしても、トイレから逃れることはできない。同様に生理のある人が様々な困難を乗り越えたとしても、社会から不可視化されてしまっている障害は大きなハンデとして降りかかる。だが、本来生理は月に一度身体におこる生物的な反応に過ぎず、そこで味わう苦しみは身体的なものだけでいいはずだ。なぜ人びとはそこに過剰な意味を与え、精神的な負担を負わなければならないのだろうか。

 現在私は、所属する大学内で生理の可視化に向けて活動を行っている。オールジェンダートイレにおいて、生理用品の無料提供運動を行うことで今までナプキンやタンポンと縁のなかった生理のない男性たちに理解を促すことを志している。しかし、大学で生理に関する教育をするのではあまりにも遅すぎる。現在、小学校時において生理に関する授業が行われているものの、そこに載せられている記述はあまりにも無機質で人びとの声が抜けている。教科書的な生体反応として扱われるか、タブー視された「オンナノコの日」として扱われるかという両極端な二択はそれを経験する人々を余計に苦しめるだろう。クラスの約半数が経験し、時に身体の不調を引き起こす生理はそのような記述のどちらにもあてはまらない。生理が無いからと言ってナプキンについて無知のまま過ごし、あろうことかパートナーに向かって心無い言葉をぶつけるようでは教育の失敗としか言いようがない。その時に体験する身体的な感覚を疑似的にでも味わうことでこのような偏見を乗り越え、生理の可視化が可能になるのではないだろうか。その時はじめて、ガラスの天井を乗り越えた先にある全ての生理ある人が活躍できる社会が待っていると言えるのではないだろうか。

 生理のある人は地球上の半数以上を占めるのにもかかわらずなぜか社会からは置いていかれてしまっている。これを改善するためには生理をタブー視せず、社会全体で語らなければならない。小学校からの教育をはじめ、政府や公共機関における議論を重ねよりよい社会を目指していきたい。

 

 

・松尾香奈  京都大学大学院 修士課程2回生    ろう者から見たSDGs

SDGsはうさんくさい。「もっとも取り残されがちな人」を重視して「支援」することを目標に掲げるSDGsは、私からしてみれば、まるで人間の選別をおこなう宣言のようだからだ。

 本題に入る前に、簡単に私についての話をしたい。私は、ろう者の大学院生だ。授業はPCテイクがなければ受けられない。自主研究会に参加するには、自分で通訳派遣を学会に要請しなければならない。通訳派遣には高額な費用がかかるため、派遣要請時には非障害者から高圧的な態度をとられることもある。抑圧を受け入れなければならないのは、日常茶飯事だ。

 非障害者の眼には、おそらく私は「支援対象」として映っている。私は、聴者が「当たり前」にできる、「きく」という行為ができない。音のある豊かな世界を知らない可哀想な人間なのだ。支援がなければ話せない障害者でしかないのだろう。

 だが、ここまで言っておきながら、私は「もっとも取り残されがちな人」ではない。社会には、盲ろう者や、24時間介護を必要とする重度障害者がいる。私は部分的に通訳者を必要とするが、24時間「支援」を利用しているわけではないし、必要ともしていない。そういった意味では、私は「もっとも取り残されがちな人」ではない。もちろん、私の所属する研究室には私以外に「支援」を必要とする障害者はいないという意味で、私は「もっとも取り残されがちな人」ではある。視野を広げたとき、おそらく私はSDGsの理念で重視されている障害者ではなくなるのだ。

 「もっとも取り残されがちな人」ではない私は、SDGsを推奨する人びとの眼にはどのように映っているのだろう。「支援」する価値のない人間だろうか。とりあえず後回しにしておいて、手が空いたときに「支援」しておけばいい存在だろうか。どうでもいい存在だろうか。優先度の低い存在だろうか。

 SDGsを素朴に良いものと考えているのであれば、「『もっとも取り残されがちな人』を重視する」という宣言が如何に傲慢なのかを考えるべきだ。「もっとも取り残されがちな人」を重視したいと思う以前に、その宣言や自分自身の加害性を見つめ直すべきだ。「誰ひとり取り残さない」と言っておきながら、「支援」の成果がもっとも可視化されやすい「もっとも取り残されがちな人」を重視するというのは、あまりにも現実が見えていないと言わざるを得ない。

 私の暮らす、音のない世界へと少しだけ誘おう。耳の聞こえない人びとは、手話言語や共通するきこえない身体を有する人びと同士のネットワークを有している場合がある。私自身は、手話を使用するろう者とのつながりを持っている。私は音声日本語ではなく、日本手話を使用して生きているからだ。私は、書記日本語と日本手話ができる。普段は耳の聞こえない可哀想な人と見られているが、日本手話の使用されるコミュニティであれば、聴者が音声日本語で澱みなく会話できるのと同じように、私は日本手話でコミュニケーションをとっている。日本手話が話せれば、選択できる情報保障の方法も増える。文字通訳だけでなく、手話通訳を選択できるようにもなる。

 その一方で、情報保障のないまま聴覚活用で過ごす人びともいる。補聴器や人工内耳を使用し、軽度・中等度難聴者並みにきこえるようになる人びとの中には、情報保障をあえて申請しない人びとがいる。だが、申請しない人びとのなかに、「少しだけきこえるから」と自ら遠慮する人びとや、情報保障の存在すらも知らずに過ごしている人びとがいる。こういった人びとは、私からしてみれば、重度障害者とは別の意味で「もっとも取り残されがちな人びと」である。

 SDGsを良いものと考えている人びとは、わかりやすく取り残されている人びとしか視野に入れていないように見える。だが、「もっとも取り残されがちな人びと」は、障害程度だけで決定されるわけではない。「支援」につながれているかどうか、利用できる「支援」方法をどれだけ持っているかどうかにもよるのではないだろうか。

 SDGsを掲げるのであれば、「もっとも取り残されがちな人」という一方的でしかない選別基準を撤廃してほしい。「支援」やSDGs活動の場に自主的に参入してくる障害者を受け身で待ち続けるのもやめてほしい。どうか、支援とつながりをもてていない障害者の存在を知り、そして常に忘れないでほしいと願う。

 

・蒲圭織     国際医療福祉大学 1年       好きなものを好きと言える世の中

私は、女性です。そして、今、女性が好きです。モヤモヤしている気持ちを文にして、少しでも同じような人が楽になれたらいいなと思い、応募しました。また、この考えに共感できずとも、このような人がいるんだな、と思っていただけると幸いです。

今回は、LGBTQ+について「誰ひとり取り残さない」というSDGsの基本精神の視点から自分の考えることを書いていきたいと思います。そして、同性婚についてLGBTQ+の当事者ではない人も考えて欲しいと思っています。世の中を変えるのはとても難しいので、少しでも興味を持ってもらえたらいいと考えています。

中学校にあがって、とても仲の良い友人ができました。部活動が同じで、帰る方向も同じだったのですぐに仲良くなりました。互いに意見をぶつけて、喧嘩することもよくありましたが、とても素直な人で大好きでした。ある時、私のことが好きだ、と言ってくれました。同性の人にそのようなことを言われたのは初めてでした。恋愛的な感情はなくとも、好きだったのでお付き合いをしましたが、上手くいかなかったのでお別れしました。その後関係が悪化し、今ではその人の連絡先も知りません。風の噂では、彼女は今、「彼」として人生を歩んでいるそうです。

この経験から、女性が好きなのかもしれない、と感じ始め、今でもバイ・セクシャルなのかレズビアンなのか自分の中で葛藤しています。そこまでオープンにできないので、仲の良いい人には相談をしていますが、恋愛対象についてとても悩んでいます。

今、好きな人は女性です。中学の頃に告白をしてくれた友人は今の私のようにとても悩んでいたのかと思うと、本当に行動力があって、私には難しいと思えることですが、素敵だと思います。彼にもう一度会えるのならば、「勇気を出して告白してくれてありがとう。あなたのおかげで本来の自分と向き合うきっかけになったよ。」と伝えたいです。

ここ数年で多くのLGBTQ+の映画やドラマ、アニメなどが出てきており、同性愛、同性婚について考える人も増えたのではないでしょうか。

私は女性が好きです。現段階で男性が恋愛対象に入るのかは分かりません。だからといって、なにか問題があるのでしょうか。様々な人がいて、様々な考え方があって、好きなものは好きと言っていいはずです。もっと単純でいいはずですし、誰が誰を好きでいようとなんの問題ないはずです。

現在では、パートナーシップや同性愛に関しての条例がある地域も増えてきており、前向きな取り組みがされているとも感じています。

しかし、現時点で日本は同性婚を認めていません。今すぐに女性と結婚したいと思っていませんが、好きな人と結婚したいと思うだけで、実現できないということは辛いです。

好きなものが好き、ということを受け入れて同性婚を認めることは、人権の尊重になると思います。コロナウイルス蔓延で様々なトピックが後回しになってしまっていますが、日本でも誰もが暮らしやすく、互いを尊重できる国として、同性婚を認めてほしいと考えています。

私は、恋愛対象で悩んでいますが、女性が好きでも、男性が好きでも、オープンにできる世の中になってほしいと思います。そして、自分自身と向き合うきっかけをくれた「彼」のように性自認で悩む人もその人らしく生きていける世の中になってほしいと思います。

だからこそまず、様々な人と接し、様々な考えに触れ、互いを尊重することがより大切だと考えます。誰かを否定するのではなく、受け入れていくことやそのような考えもあるということを知ることが大切だと考えます。誰か1人の力でどうにかなることでないのですが、ひとりひとりのお互いを尊重し合う気持ちがオープンな世の中をつくっていくはずです。「好きなものを好きでいられる、好きと言える世の中」、「誰ひとり取り残さない、互いに尊重し会える世の中」であってほしいです。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。日々頑張っている人に幸せが訪れますように。

 

原美咲        東京モード学園3年             大縄跳びに入れない

たし、たし、と固い地面を叩く音、せーのと皆が上げる声。そのどれもが喧しく、私の鼓動を次から次へと押し潰す。秋から冬へと移る季節、数多の学校がそうであるように、私の通っていた小学校でも大縄飛びの授業があった。

 大嫌いだ。この世界で、枯れ葉が重なり生まれるカサカサとした音は『風情』があるらしい。車も電車も、人々の日常に欠かせない物である。それなのに私は、それらの音で何時間も眠れない夜を過ごしていた。景色に溶け込む筈の一音で、きゅうと息が詰まるのだ。

 聴覚過敏を持つ私にとって、小学校での生活は混沌に素手で挑むような日々であった。キャハハと笑う子供特有の甲高い声は私の鼓膜を突き破り、ピーと鳴るリコーダーはお構い無しに思考をグズグズと掻き回す。幼い心に『うるさい』という気持ちはとんでもなく惨めな悪意に思えて、祖母に買って貰ったお気に入りのランドセルも、見るだけで心が重かった。

 大縄跳びが嫌いだ。入って、飛んで、出て行って。八の字を描いて駆け抜ける子供達の列は、私のターンで不自然に途切れてしまうから。タイミングも、校庭の喧騒も、身体の動かし方も、何もかもが分からない。全ての雑音が私を嘲笑うように頭の中をギュッ締め付けるから、ただそこに在るだけでいっぱいいっぱいであった。いい加減に入って、飛んで、そして出て行かなければいけないというのに、意識はそこら中に散らばって戻らない。

 膨れ上がった自意識が、縄のたった一本も跨げない自身の情けなさを、テリトリーから弾き出された様な虚しさを嘲笑い、脳裏に強くこびり付いて離れなかった。まだ聴覚過敏という言葉も知らず『聴こえない』訳ではない私は、どうしようもなく神経質に思えた自分を噛み締めて生きていくしかなかった。助けを求められず、日常を諦めきれず、常に落雷に見張られている気分であった。

 何年か経たある日の体育の授業で、担任教師から軍手を渡された。簡単なことで、縄を飛ぶことが出来なくても、それを回すことは出来たのだ。教師は縄の反対側を持つと、『先生は回すのが上手なんだ。』と言って笑っていた。弾き出されたと思い込んでいた私も、容易くテリトリーの中へと入ることが出来たのだ。

 私は力のある方ではないから、教師が力強く回す縄を離さないようにといっぱいいっぱいで、それでも良いと思えた。疎外感のない時間は心のゆとりができて、縄が地面を叩く音も、自分が思うよりも恐ろしいものではなかったのだと気がついた。

 きっと周りから見たらとても小さな出来事で、それでも自身の中で鮮烈に輝く思い出だ。積み重なった一つ一つの出来事に雁字搦めになっていた当時の私にとって、革命にも近い出来事であったのだ。

 人間には限界がある。聴覚過敏の根本的な治療は、いまだ確立されていないのだ。かくいう私も、枯れ葉の擦れる音や、車や電車の走る音に、慣れることは一生ないのだと思う。そして時折、その事実にどうしようもなくチクチクと痛む心がある。

 それでも、縄を飛べないのであれば、縄を回せばいい。困ったことがあるならば、別の解決策がある筈だ。少し遠くを見渡せば、世界には様々な人が存在する。

 疎外感を感じている人々に強く伝えたい。助けを求めることは決して間違ったことではないのだ。短所を長所に、なんてことは出来なくても、マイナスをゼロにすることは出来るかもしれない。あの日、ヘルプを上げることも出来なかった私も、今では聴覚過敏専用の耳栓やノイズキャンセリング機能の付いたイヤホンを使いながらなんとか日々を過ごしている。

 誰かと誰かで、技術と社会で、空いた隙間を補い合うことで掬い上げることの出来る心がある。そうやって、社会の輪というものは構成されていくのだ。

 

・匿名    高校2年   可能性の芽をつぶさない    

私は「出る杭は打たれる」ということわざが好きではない。

このことわざは頭角を現したり、自己主張をする者が妬まれ、妨げられることをたとえている。このことわざには、いわゆる同調圧力に通ずる部分があると私は考えている。

 日本にはまだこのことわざの風潮が強く残っていて私は残念だと思う。私は高校入学を機に、約9年半暮らしたシンガポールを離れて日本に帰国した。高校生活が始まって、周りの人と自分の比較材料が増えた。テストや模試の順位・成績、外見、帰国子女であることなどがそうである。見た目は周りのほとんどの人たちと同じ日本人。でも私には私のアイデンティティがあって、それはシンガポールでの生活や日本人小学校やそれ以降に通ったインターナショナルスクールで学んだこと、自分特有の経験も積み重なって形成されたものだ。私の周りの同級生もそれぞれのアイデンティティがあるはずなのに、なぜかできるだけ隠そうとしているようだった。気づいた頃には、私自身も周りの人の目を気にして、できるだけ目立たないように注意して行動していた。中学までの自分の話はしないようにして、出来ないふりやわからないふりもした。

 それでも私をストレスのはけ口にするクラスメイトが現れた。自分なりに頑張ったつもりだったが、ターゲットになってしまった。どうしたら逃げ切れるか、考えに考えて、学校から帰宅してもずっと考えていろいろ試したがダメだった。私は、学校に助けを求めることもできず、もう心がボロボロになってしまい、とうとう限界に達して学校に行けなくなってしまった。不登校になってから担任と学年主任の先生と話す機会があった。今までの学校でのつらい出来事を話すことは、私にとっては大変な勇気が要ることだったが、私の前に座っている先生たちには、理解してもらえなかった。突き放されたような気がして、悲しい気持ちや悔しい気持ち、言葉ではうまく説明できないような感情が入り乱れた。先生たちは、宇宙人でも見るような目で私を見ているように感じた。結局、私は、学校に復帰することができないまま退学し、その後、孤独に襲われ、自信も失った。そんな暗闇の中、壊れかけた私の心をつなぎとめてくれたのは趣味の音楽や私のことを信じ続けてくれた家族だった。おかげで今は別の高校に編入することができて、上手くいかないこともあるけれど、私の人生は新たな節目を迎えている。

 学校を退学したとき、私は自分が「打たれてしまった杭」だと思った。自分の個性(アイデンティティ)を隠すことが当たり前になっている人たちの中に飛び込んでみて、自分も努力して周りに合わせたつもりだったが、周りの人からしたら私はどこか異質な存在だったのかもしれない。出る杭を打つと、皆が同じように揃い、誰も取り残されていないようにみえるかもしれない。しかし、人は「打たれる」と傷つくということを自分の経験を通して実感した。そして「打たれる」ことが続くと、心がボロボロになり、いずれは取り残され、暗闇から抜け出せなくなることもある。出る杭を打つことは、「誰ひとり取り残さない」こととは正反対ではないだろうか。

 経営の神様と称される松下幸之助さんは、「出過ぎた杭は打たれない」という名言を残している。「出過ぎた杭」になるのは容易ではないと思う。皆はじめは「出る杭」になるための可能性の芽を持っている。可能性の芽には自分の趣味、特技、まだ挑戦できていないことや自分では気づいていないことなどがある。今の風潮では多くの可能性の芽が、周りの人の些細な言葉や、同調圧力のせいでつぶされている気がする。私は、これからの社会がどんな個性も受け入れ、どんな小さな可能性の芽もつぶさないような仕組みに変わっていくと良いと思う。誰もが臆することなく自分の最大限を発揮することができたら、社会は良い方向へ進むのではないだろうか。私は、目に見えない心に傷を抱えている人や、様々なアイデンティティをもつ人がお互いを受け入れ、認め合い、活躍できるような社会に少しでも近づくために、自分に何ができるか模索中である。

 

・山本愛佳        新潟大学2年        人は生まれながらに不平等

人は生まれながらに不平等です。「人はみな平等である」という言葉は私からすれば、大人が大人を正当化するために作った「うそ」です。

 私がそのことを痛いほど知ったのは高校2年生の時でした。 ひとり親家庭で育った私は大学受験に向け、塾に行きたいと母親に言い出せずにいました。金銭的な余裕が無いことや母親の苦労を知っていたからです。それは私にとって当然のことでした。泣きながら話したあの日のことを、今でも鮮明に覚えています。悔しかった。惨めだった。何も悪くない母親を責めているようで苦しかった。母親に頼らなければ生きていくことのできない自分が不甲斐なかった。塾に行っている友達よりも、塾に行けるのに行くことを選ばない友達が羨ましくてたまらなかった。私から見えるその世界には、平等も公平もなかった。

 なぜ、貧困は連鎖するのでしょう。なぜ、負のループは生まれるのでしょう。今の世の中、新しい価値が広がってきたとはいえ、まだいい大学に行くこと、いい企業に就職することが人生の成功のかぎを握っています。お金があれば、塾に行ける。私立の学校に行ける。物価の高いところにも進学できる。教材が買える。奨学金の心配をしなくていい。選択肢があるけど選択しないことと、選択肢がないことは違います。選択できないこともあります。努力をすれば変えることができると言われるかもしれません。ですが、あなたはじゃんけんの勝ち負けに対して、努力でどうにかできると言いますか?

 貧困の連鎖を断ち切るため、負のループを抜け出すため、教育は、教育だけは平等でなければならないと思います。生まれながらに不平等な人生。それを覆す機会だけは均等に与えられ、どんな状況に生まれようと保障されなくてはならないと考えます。

 教育の格差は様々な理由で起きます。経済状況、家庭環境、住んでいる地域。ただ、そこに生まれただけで選ぶことのできない選択肢があることに私は疑問を覚えて仕方ありません。納得できません。自分でどうにかすることのできないことで人生が左右される理由がわかりません。じゃんけんの勝ち負けと同じほどの偶然で、人生が全く異なるものになることが理解できません。

 しかし、これだけが不平等の原因なのでしょうか。私の知らないどこかで、私の知らない原因で教育の不平等に傷ついている子どもはいるのではないでしょうか。貧困とか家庭とか地域とかそんな言葉では分類できない、それぞれの苦しみがあり、取り残されているのかもしれません。そうだとすれば、「最も取り残されがちな人」という分類から取り残される子どもがいます。

 私は今、誰かのきっかけを作ることができるよう、教育系のNPOでインターンをしながら、教育の経済格差を解消するためのプロジェクトを行っています。「全ての子ども」が何も気にすることなく、やりたい事や可能性を伸ばせる世の中、仕組みを作ろうとしています。「最も取り残されがちな子ども」でも、「取り残されている子ども」でもなく、「全ての子ども」が対象です。分類することでそこから取り残される子どもが生まれるのであれば分類せず、全ての子どもに機会を与えるべきであると考えます。きっかけさえあれば、子どもは自分で学び、成長していくことができます。子ども食堂でパソコンの使い方を教え合う子どもたちを見て、そう思いました。やりたいことや可能性、才能、そんな「なにか」に気づくことができるきっかけを作るため、日々奮闘しています。誰も取り残したくありません。誰も取り残しません。全ての子どもに輝くチャンスを与えます。

 教育、福祉、支援といった様々な分野の問題が複雑に絡み合っていて、正直、今の私では力が足りません。1人でも多くの子どもを笑顔にできるように始めたことなのに、1人も笑顔にできていません。悔しくて、悔しくて、諦めそうになります。インプットしなくてはならない知識の量や学生をしながら使える時間の限界に心が折れそうになります。でも、あの時、あの思いをした私だからできること、言えることが必ずあると信じています。取り残された私だから、誰よりも取り残したくないと思えます。

 よく「なんでそんなに誰かのために頑張れるの?」と聞かれます。その答えはただ1つ。自分のためだからです。過去の自分を救うため。過去の取り残された私を今の私が取り戻すためだからです。いいえ、取り戻さなくてよいのかもしれません。当時の私がいるから今の私がいます。当時の私に「大丈夫だよ」と言うためです。絶望していた私に「ありがとう」と言うためです。過去の私に「あなたの未来は明るいよ」と言ってあげることができるように、私と同じように苦しむ子どもに1人でも寄り添うことができるように、人生の不平等を嘆く子どもがいなくなるように、1歩ずつでも着実に歩みを進めていきます。

 これは私の叫びであり、決意表明です。

 

・三村咲綾      福島県立ふたば未来学園高校3年   
 誰ひとり取り残さない避難〜私たちにできること〜   

「大きな地震をみんな体験しているから自分が何をすべきか分かっている。避難訓練はしなくていいと思います。」避難訓練後の感想に驚いた。でも、私も真剣には取り組んでいなかった。

私は、手足の末梢が徐々に衰えていく難病でみんなと同じペースで歩くのはツラい。東日本大震災の時、原発から約40キロの保育園にいた。年長組だったが先生におぶって貰って避難したのを覚えている。

 中学からは両足に短下肢装具を着用した。固定されることで歩きやすくなるが、階段の登り降りや走ることは難しくなる。例えるなら、スキー靴を履いて走るような感覚だ。

  高校1年の時、請戸小学校を授業で訪問した。広がった更地には、震災以前のおもかげはないが、高台を目指す車で渋滞する狭い道を82人の児童が走って避難したという話を聞いて、「私は、あの山へ逃げることができるだろうか?」もし今、避難が必要な災害が起きたら高校生の私を助けてくれる人はいるだろうか?と怖くなった。

 ここから私のプロジェクトが始まった。

 まず、難病や障害がある方の避難を知るために、以前支援学校に勤務していた先生に支援学校での避難訓練の話を聞いた。障害が中度の場合は自力で、重度の場合は教員が手をつなぎ、または車椅子などで避難する。しかし、中にはいつもと違う出来事にパニックになる子もいるので、突然の災害に避難出来るかという不安があったそうだ。

 その話を聞いて障害のある方の避難には、知識と多くの人の助けが必要であることが分かった。

 さらに調べていくと、障害のある方や高齢者を対象にした「避難行動要支援者避難支援制度」があることを知った。

 この制度は、災害時に自力での避難が困難な方の個人情報を安否確認や避難の手助けなどに役立てるものだ。多くの人に知ってもらうことで、誰ひとり取り残さない避難の実現につながると思い、昨年11月に認知度調査を行なった。

 その回答のほとんどが、当事者と医療や福祉に関わっている人達だったが、その半数以上が制度をよく知らないことが分かった。また、実際に「要支援者」に該当する方はかなり限られていて、私では制度の対象外だった。

 難病や障害がある方や高齢者の方でも、「避難行動要支援者避難支援制度」に当てはまらない人たち、更には、妊産婦や小学生以下の子ども、日本語に不慣れな外国人のような一人での避難や必要な情報を把握するのが難しい人を「要配慮者」と呼ぶ。

 難病や障害があっても一見では分からない人がたくさん居る。その人たちは、災害発生時に困っていても気付いてもらえないかもしれない。

 「要配慮者」の避難は、どうすればよいかという新たな問いが生まれた。

  このプロジェクトを行い災害はいつ起きるか分からないことを改めて認識した。旅行先や移動中など知らない場所で災害に遭った場合、誰もが要配慮者になる可能性がある。

 以前は、どうにかなるだろうと思い特に備えをしていなかったが、自分の命は自分で守らなければいけないと思い日頃から災害という奇襲攻撃から自分を守れるように、もしも作戦会議を頭の中で行うようにしている。

 兄が進学した地域では、要支援者を安否確認などで手助けする支援者の登録を推進している。「安全上、小中学生を除く」という説明から、高校生が災害時に支援する側になれることを知った。私が進学する地域での「昼と夜の人口を比較した表」に興味を持った。

 平日の昼間、大人が地域外へ出ると夜に比べて支援できる人が少なくなる。そんな時に災害が発生した場合、支援者が不足する可能性がある。

 私が通学する町の場合、町外から電車通学をする生徒が半数以上いる高校があるので、平日の昼間に支援できる人口が増える。もしもの時、高校生は地域で過ごす住民を助ける「力」になれるはずだ。 しかし、支援するためには、足手まといにならないようにしなければならない。自分の身は自分で守れるように、日頃から災害への対策を心がけることで、もしもの時に焦らず行動することができる。そうすることで、初めて…大きな「力」になることができる。

 「自助」が、とても大切だと強く思い、学校の避難訓練時にアクションをおこした。

 6月に行なった避難訓練では「自助」の大切さを伝えるために、災害はいつおこるか分からないこと、帰宅困難になる可能性があることなどを伝えるワークショップを行なった。

 避難訓練後のアンケートでは、「自分たちの身の安全のための行動であることを改めて自覚できた時間だったと思う。」といった積極的な感想を多く見ることができた。

 一人一人が防災意識を高めて、自分のためにしっかり取り組むことが、誰ひとり取り残さない避難への第一歩になること、そして、そのために高校生や大学生だからこそできることを私は全ての人の心に響き残るように伝えていく。

 誰ひとり取り残さない避難を実現するために。

 

・大高美咲        玉川大学2年        目に見えない障害       

このコンテストのチラシに「取り残されそうだと感じることはありませんか?」と問われて、直ぐにはいと心の中で答えた。私は小学生の頃から不思議ちゃん扱いをされており、周りから「天然だね」とか「美咲ちゃんってボーッとしてて全く人の話聞いてないよね」などと言われることが多かった。そんなボーっとしていて鈍臭い私を見て、クラスの中には心無い言葉を掛けてくる子もいた。また、周りよりもワンテンポ遅い私は友達の輪に入れて貰えないことがあった。それでも当時は仲のいい友達も居たので自分はそうゆう性格なんだぐらいにしか思っていなかった。中学に上がると途端に担任の先生や部活の顧問から叱られることが多くなった。話を聞いているつもりでも聞いていなくて、自分だけ宿題の提出期限を勘違いしていたり、整理整頓が出来なくてものを頻繁に無くしたり、どれだけ注意しても何かしらの問題を起こしていた。そんな私を友人は「おばあちゃん」と呼んで面白可笑しく笑っていた。もちろんいい気持ちはしなかった。本気で自分のだらしない性格に悩んでいたし、普通にやっても周りと同じように出来ないことがコンプレックスだったから。そして高校生になってからアルバイトをし始めた。初めてのアルバイトは寿司屋のホールだった。お客さんの注文を受けるだけではなく、電話対応やレジでの会計、持ち帰り商品の袋詰め。他にも沢山の仕事があった。そこでも私はミスを多発してしまった。電話に出て注文を受けたと思ったら保留ボタンを押し忘れて切ってしまったり、割り箸が欲しいとお客様に頼まれて「少々お待ちください」と言って取りに行ったがそのことすら忘れて別の作業を始めてしまったり、このようなことが何度もあった。ミスの多い私に店長が「周りの迷惑になってることわかってるかな」と言ってきた。しばらく寿司屋のバイトをしていたが、使えない認定をされた私は簡単な仕事しか頼まれなくなっていた。申し訳なくなった私は寿司屋辞めて別の飲食店で働き始めた。環境を変えたらきっと上手くいく、たまたま寿司屋の仕事が自分に合っていなかっただけ、そう思っていた。しかしそこでもミスを多発し、年下の従業員達から嫌味を言われたり無視をされるようになった。毎日バイト終わりには業務内容を忘れないようにノートにまとめて、出勤前と後にそのノートを確認していたのに、なにをしてもミスをしてしまっていた。そんな自分が嫌で毎日帰り道で泣いていた。環境を変えても駄目、どこへ行っても自分は受け入れて貰えない存在なんだと思って辛くなった。バイトであったことを友人に話すと、その友人からこんなことを言われた。「若干ADHDなんじゃない」初めて聞いた言葉だった。調べるとこのADHDというのは、発達障害の一種の病気であることが分かった。症状を見るとほとんど自分に当てはまっていた。それでも私は自分はADHDでは無いと信じていた。ただ自分がだらしないだけだと思っていた。数日後友人から言われたことを母に伝えると病院で診てもらうことを勧められた。診断の結果、私はADHDだった。自分には障害なんて無い、仕事でミスが多いのは性格の問題。そう自分に言い聞かせてきた。だからとてもショックだった。でもこの結果を聞いて少しほっとする自分もいた。

ADHDは目に見える病気では無い、だから周囲から見たら「ただ怠けている人」だと思われやすい。実際私がそうだった。今までどれだけ注意して作業に取り組んでもミスをしてしまい「集中してない、やる気がない」と周りから非難を受けていた。この病気は成人だと40人に1人の割合でいると言われている。私はその1人だ。とある芸能人の方が自身がADHDであることを動画サイトで公表されていた。しかしそのコメント欄には「ADHDを免罪符にしている」「同情してほしいの?」などという批判的なコメントが沢山書かれていて、ADHDが世間に理解されていないのだと思った。そして「取り残されそうだ」と感じた。

 私はADHDをもつマイノリティ派の人間だ。だからたとえ自分が前述した芸能人の方と同じように周りに公表したところで非難されるだけだと思った。だから私は今日もお馬鹿キャラを演じる。

 

・座間耀永        青山学院高等部1年         
 「生」から取り残された父を救ったSNS

「もし、もう一度、胃から出血があったら残念ながら、自然の摂理に任せるしかありません。」

「助からないという患者さんには、輸血ができません。」

「緩和ケアというのは、心臓マッサージもできませんのでご了承ください。」

「出血は明日起こるかもしれません。」

淡々と死を宣告する医師。父が「生」から取り残された、いや、見放された瞬間だった。

癌と向き合い、世の中から自分が取り残されたと感じる。それは、人には想像ができない。冷たい氷の壁に爪をたてて、ずるずると落ちていく感じだろうか。1年前にステージ4を宣告された時、突然、死が見えた父。手術後、元の生活とはほど遠い過酷な日々をすごさなければならず、普通の生活から取り残されたと葛藤していた。舌を失い、流動食しか食べられなくなった。しかも嚥下障害が激しく、吐きながら食べるという壮絶な食事風景。父を支えるのに必死な母と私。家族で食卓を囲む、という「普通に日々暮らす」という日常から私達家族は突然取り残されてしまった。

 父は毎年人間ドックを2回も受けており、調子が悪くなってから何度も病院に通った。半年かけて癌が見つかったのは秋。ステージ4を宣告され、11月に12時間にも渡る手術後、2か月も入院。その時、主治医は明るく言ったそうだ。

「人生100年時代ですから、がんばりましょう。」

同じ主治医が1年後に冷たく「あなたは死ぬけど治療はもうできません。」いう現実。夏に転移がみつかり再手術、その後、突然全身転移を告げられ、余命を言い放たれた。何が起きているのか家族も父も全く理解ができない展開だった。主治医が、出血しても輸血ができないという対応に。母は、納得できず、例えばお金を払っても輸血ができないのか、と食い下がったが無駄だった。血は貴重であり、死ぬのがわかっている患者には例えそれが天皇であっても回せない、と言い放たれた。医療が患者を見捨てることを知った。

 当初は、癌は採りきれたと言われていたし、転移もなかった。舌の殆どを失ったが、父は流動食でも食べられるのでありがたい、と希望を持っていた。毎日、工夫したメニューを楽しみ、懸命にリハビリした。できる限りもとの生活に戻ろうと家族で寄り添っていた。2か月ごとの診察で都度、転移がないことを確認。ミキサーを持って流動食にすれば温泉旅行くらいは行けるね、と励まし合っていた。父が食事ができなくなってから、楽しい家族の食卓は無くなってしまったし、旅行ももちろん行けない。学校の友達が楽しそうに家族旅行の話をしたり、ニュースや街で楽しそうな家族をみるたびに、「なぜ私たちだけ」と私は涙が止まらなかった。父が何をしたっていうんだろう。悲しくて切なくて苦しかった。私だって普通の生活がしたい、でももっと苦しいのは父だ、と自分に言い聞かせる日々。クリスマスには事情を知っている友達家族がお泊りをさせてくれたり、食事に誘ってくれた。それはもちろん楽しい。でもやっぱり家族とのクリスマスとは少し違う。クリスマスケーキを囲みながら、家族でクリスマスプレゼントを開ける、などという夢は我が家にはもうやってこないのだ。

 1年前には希望を持っていた父だが、突然の余命宣告後は、「明日死ぬかもしれない。」と、さすがにうちひしがれていた。病気がわかってから書いていた病状ノートに怒りをぶつけている姿が痛々しかった。

それまで父はよく家族のことをSNSに載せていた。私の断わりなしに勝手に写真をあげていることがわかった時、大ゲンカをした。父はこれは「日記だから」と言うが、私は嫌で揉めた。しかし、病気になってからは言えなくなってしまった。まるで遺言のように、その日の病気に対峙する姿や、過去の同じ日の回想録などを記していく父。多くの友人が励まし、父はそれに勇気づけられていた。しかし、SNS特有の炎上もあり、心無いコメントや、母のところにも内容が重い、などメッセージも来て、家族で悩んだ。食事ができない、と記しているのに。「元気になったらごはんにいきましょう!」というメッセージが続いた時、父は荒れた。しかし、私たちは、みんなよかれ、と思って書いてくれているんだから、となだめた。いろいろな意見があるんだから、それを全部受け入れられないのであればSNSをやめるべきとも話し合った。結果、元気づけてもらえるコメントだけを受け入れ、辛くなるコメントには冷静に対応するという条件でSNSを続けることにした。毎日、毎日、父の遺言がアップされ、私自身も読むのが辛い。しかし、元気をだして、というコメントも多く、父は取り残されていないと思い始めている。それを見る私たちも救われる。

死は明日にでも訪れるかもしれない。しかし、最後まで「自分は取り残されていなかった」と父が思えるようになったことは大きい。私は、父に気持ちに寄り添い、最後の最後まで支えていく。

 

・藤田咲桜里    私立鹿島朝日高等学校 2年               
 PTSDと診断され入院を経験した私が今思うこと       

皆さんはPTSDという単語を聞いたことがあるだろうか。また、PTSDが何を指す言葉なのか知っているだろうか。PTSDとは別名を心的外傷後ストレス障害と言い、自然災害や人災などが原因となり、その記憶が自分の意志とは関係なくフラッシュバックや悪夢に見たりすることが続き、不安や緊張が高まる状態になる病気である。私は、そのPTSDと5ヶ月前に診断された。多くの人は、診断されると今後の生活や人間関係に支障がでるのではと不安になるだろう。しかし、私は診断された時とても安心したのを覚えている。それは、2年弱の間名前のない病気と闘っていたということが大きい。異変を感じたのは中学3年生の11月だ。突然学校に行けなくなったのだ。体調が悪くないのに行けない。もちろん私も困惑したが、私以上に困惑していたのは家族だった。今までほとんど学校を休むことがなかった私が突然体調不良でもないのに休んだことが衝撃だったのだろう。しかし、当時は気づくことができなかったが、幼稚園の時から中学を卒業するまで一緒に住んでいた祖父母にずっと固定観念で縛られていたことが不登校の原因になったと思う。家庭内での厳しいルールがあり、常に勉強することを強制され「真面目で賢い子」という理想像を求められていた。そして、そんな理想像を描いている祖父母は不登校になった私を受け入れてくれなかった。毎朝、私を無理やり起こし、「行けない」と言えば言葉の暴力が降り注ぐ。そんな毎日を中学卒業まで送っていた。その後、高校に合格し、祖父母から離れて生活することになった。しかし、私の心の傷はそう簡単には治らなかった。私は高校に入学して1週間が経たないうちに再び学校に行けなくなったのだ。今まで足枷となっていたはずの祖父母から解放されたのになぜ学校に行けなくなってしまったのだろう。自分を責め続ける日々が始まった。頭の中は学校に行かなければという思いで常にいっぱいだった。さらに、学校に行っていないことを聞いた祖父母が毎日電話をかけてくるようになった。私はそれが原因で電話の着信音にさえも怯えるようになってしまった。また、直接家に祖父母が来るのではないかと思い、インターフォンの音も怖くなった。そして、高校1年生の時の夏休み、私は高校を辞めた。正確に言えば全日制高校から通信制高校へと転校した。理由は、このままだと留年する可能性が高かったからだ。逆に言えばそれ以外の理由は無く、転校に対して反対する人の方が多かった。しかし、当時通っていた心療内科の先生に転校を勧められ、私も続けることは無理だと思い転校することを決めた。そして、9月に通信制に転校し、そこから私の体調は回復していった。しかし、高校2年生になってから1ヶ月ほど経って次は心の体調が悪くなった。1番大きかったものとしては、「希死念慮」だ。いつも「死」というものが頭の片隅にいて、当時はこの世から自分という存在をとにかく消してしまいたかった。そして、OD(オーバードーズ)をし、マンションの10階から飛び降りようとした。そんなことがあったため、心療内科の先生から病棟がある精神科への転院を勧められた。転院を決め、初めて精神科の先生に会った時、投げかけられた印象的な質問がある。それは、「あなたは絶対死なないと約束できますか?」という質問だ。その時の私は「はい。」というたった2文字が言えなかった。そして、その後PTSDというはっきりとした診断を受けた。その時、私は今までずっと苦しかったものにやっと名前がついたと安心した。PTSDの原因としては、やはり家庭環境が大きいと言われた。そして、すぐ閉鎖病棟での入院生活が始まった。入院生活を通して1番感じたことは、入院をしている人は良い意味で普通の人が多いということだ。精神科の病棟なので目に見える病気を抱えて入院している人は当たり前だがほとんどいない。だからこそ、すれ違うどの人も私には普通の人に見えた。そして同時に精神疾患が受け入れられづらい理由もわかった気がした。目に見えないからこそ健常者の人と思われてしまう。そして、みんなが思う普通から外れてしまえば、周りに受け入れられず疎外されてしまう。だからこそ精神疾患は完全に回復するということが難しいのだと改めて理解した。そして、私は入院生活を終えた今も薬物療法を続けながらPTSDと闘っている。希死念慮に襲われることは少なくなったものの、現在も幻聴や睡眠障害、記憶障害などと毎日闘っている。また、同時にだからこそPTSDという病気の存在や周りの環境の大切さ、そして多様性を理解しようとする心が重要であるということを伝えたいと思っている。これから精神疾患の人がもっと生きやすい世の中になることを私は心から願い、自分ができるものはどんどん行動していきたいと思う。

 

・呉恩愛    東京女子大学1年   今まで出会ってきた杉並区の人々  

私は、今年韓国から日本にきた留学生であり、杉並区にある大学で国際関係を勉強している。学校では留学生向けの日本語科目授業を受けており、そこで杉並区との繋がりが始まった。本論文では、今まで出会ってきた様々な杉並区民との交流を通して感じたことと誰ひとり取り残さない持続可能な社会に近づくために努力すべきことを自分なりに考えて述べていきたい。

 1つ目は、ケア24善福寺で行った“お年寄りとの交流”活動である。私は、祖父と2人で暮らしているが、孤独死で亡くなるお年寄りの話しを耳にすることもあり祖父以外に普段あまり接することができないお年寄りの方とお話しをしたいと思ったためこの活動に参加するようになった。実際、お年寄りの方から若い世代とお話しすることが出来て嬉しいとも言われた。この活動には中国からの留学生も一緒に参加したが、主に韓国と中国の絵本を読む活動を行った。“小豆粥おばあさんととら”という日本の猿蟹合と内容が似ている絵本を選んだ。絵本を選んだ理由は話と絵を一緒に聞いて見ることで壁なく、みんなとイマジネーションし交流することができるためである。韓国語で本を読む時参加者の方々が理解しにくいのではないかと心配していたが、日本語にはない発音や新しい言語にふれ合い、楽しい時間を過ごすことが出来たということや韓国語の意味は分からないけれど音の高さやイントネーションで“これはとらが驚かせるために出す声なんだな”という感想などを聞いて嬉しかった。そして、参加者の方から“せっかくだからとら(絵本に出てくる主役)って韓国語でどう読む?”という質問を頂いた時、その方が積極的に学ぼうとする姿を通して私も頑張ろうといういい刺激を受けた。絵本を選ぶことから始まり最後に本読みをするまでの過程は長がく、大変であったが、責任感を持って貴重な経験をすることが出来たと思う。

 2つ目は、夏ボランティアで行った手話体験である。手話を学ぶのは初めてであり、聴覚障害者と会うのも初めてであった。しかし、手話で自己紹介をすることを学び、聴覚障害者の方と触れ合うことで言語以外に新しい手段でコミュニケーションできるということがとても嬉しかった。これからも持続的に手話を勉強していきたいと思う。

 最後には、視覚障害者の方から学ぶ点字教室である。実際に点字に向き合って勉強するのは初めてであったが、‘点字には漢字がないこと’、‘一から六の点を合わせて文字を書いていくこと’、そして、‘突然失明するようになった方は点字を学ぶのが大変なため音声に頼ってしまい点字離れが進んでいること’など様々なことを学ぶ時間になった。点字は色んな工夫をして作られており、点字作成ルールを知ることで身近に感じるようになった。韓国では時々交通機関の乗り場の番号や飲み物など点字が正確に表示されていない問題があると聞いたことがあるが、今回の教室を通して点字の大切さを学び、このような問題は国が積極的に解決しなければならないと考えた。点字の本は様々な方の努力と時間、真心をを込めて作成されると思うが、より大勢の方に文字を伝えられる、なくてはならない大切な手段だと思った。

 これまでの活動を通して私が感じたことは、学生の立場から様々な人々と触れることで世の中には色んな人がいることを認知し、色んな人々の立場に立って世界を見る視野が広がるようになったことである。外国からきた留学生でも皆と繋がりを作れる上、話し相手になれるということがとても嬉しい。初めの出会いを作るのが大変だと思うが、気軽に参加してその後は持続的に触れ合いを繋げてみんなと出会う時間を楽しめばいいと考える。人は完璧ではなく、人と違うことが決して間違いではないということを伝えたい。その違いはお互い理解していくべきだと考える。これからも杉並区との繋がりを大切にしていきたいと思い、今後は杉並区以外にも新しい縁を作っていきたいと考える。

 

・坂本彩夏  練馬区立開進第四中学校2年 共に生きるために

 私が小学生の時、障がいを持っているクラスメイトがいた。彼はダウン症だった。そのため、みんなと一緒に勉強をすることはできなかった。彼は、多くの人が属している普通学級とは別に、同じ小学校の中にあり、障がいを持った人や人と関わるのが苦手な人たちが集まる「くすのき学級」というところに所属していた。彼はそこで彼の進度に合わせた学習をしていた。
 私たちクラスメイトにとって彼は、言葉は発せられなくても、クラスを明るくしてくれる、ムードメーカーだった。そのため、私たちは、彼を大切な仲間として対等に接していた。しかし、彼を取り残してしまう時もあった。それは、みんな遊びの時間だ。「みんなでドッジボールをしよう」となった時、彼は、生まれつき首が不自由で、負担がかけられないため、見学をしていた。それを見かねたクラスメイトの一人が、「特別ルールを作ってみんなで遊べるようにしよう」と言った。これには、クラス全員が賛成した。どのようにすれば、彼はもちろん、みんなが楽しめるだろう?みんなで考えた。先生の助言も取り入れながら、ルールの改善を重ねた。ルール作りをはじめて、一ヶ月。ついに完成した。具体的に、ルールの一つ目、彼は基本的には外野にいてもらう。二つ目、彼がボールを投げる時にはみんな静止し、ボールが上手く飛ばなかった時には、もう一度投げてもらう。三つ目、勝ち負けではなく楽しむことを意識する。四つ目、ルールを変えるときはまたみんなで話し合う。これらのルールを決めたことで、彼もみんな遊びに参加できるようになった。彼もみんな遊びに参加し、楽しそうな笑顔を見せたことで、よりクラスが一つになった。
 私は、みんな遊びで取り残されていた彼のためのルールづくりを通して、周りをよく見て、取り残される、取り残されそうな人に気づくことが大切だと知った。そしてその気づきをみんなに共有し、対話を重ねていくことが「誰も取り残されない集団」に繋がると私は感じている。
 社会的に障がい者は取り残されやすい。街を歩いていれば、好奇な目で見られることもある。しかし障がいの有無に関わらず、人間であることには変わらない。だから障がいを持っていたとしても、「何かをしてあげる」のではなく、お互いに助け合う。互いに気にかけて、生まれた課題に対して自分の思いや意見を伝え、議論をしていくことが、「誰も取り残されない社会」になるのだと私は考える。
 私は、彼が取り残されていたことに気づけなかった。また、特別ルールをつくるとき、誰かの意見に賛成をすることしかできなかった。自分の意見を持つためには、さまざまな角度から課題を捉える必要がある。多くの知識を得ることは、課題を解決する手助けになる。
 あれから私は、教養を得るために色々なジャンルの本を読んだり、新聞を読んだり、たくさんの人の話を聞いて、色々なことに関心を持ち、日々学んでいる。また、学校にあまり来られない友達には、毎週にLINEで他愛のないメッセージを送り、気にかけている。もう、誰かの意見に賛成するだけだった、小学生の時の私とは違う。誰かが取り残される前に気づき、その人に寄り添える人に私はなり続けたい。

 

 
 

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