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奨励作品 第3回 SDGs「誰ひとり取り残さない」小論文コンテスト

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奨励作品 第3回 SDGs「誰ひとり取り残さない」小論文コンテスト

・柴田  優      高陵中学校      私たちの世界を守るには 

2015年9月、国連サミットで世界を変えるための⒘の目標、「SDGs」が採択された。数多くの問題が存在しているこの世界。今の私たちの生活、世界を失わないためには、SDGsが鍵になると私は考える。

最近、いたるところでSDGsという単語を耳にする。しかし、具体的に何をすればいいのか悩んでいる人も多いだろう。そこで、わたしは「つくる責任・つかう責任」について考える。

私たちの身近には、「食品ロス」というものがある。食品ロスとは、まだ食べられるのに捨てられる食品のことだ。日本では年間およそ522万トンの食品が捨てられている。これは、毎日一人おにぎり一個分の食べ物を捨てている計算になる。金額にすると、一人あたり年間6万円分を捨てている。

年間522万ある食品の内訳としては、家庭247万トン、企業275万トンとなっている。私たちにより身近な家庭の食品ロスの原因としては、食べ残し、切りすぎ、手付かずなどが挙げられる。

まず、手付かずについて掘り下げてみる。あなたは、賞味期限・消費期限の違いを、正しく理解しているだろうか。消費期限は、食べても安全な期限のことだ。傷みやすい生ものに付いているため、期限を過ぎたら食べないほうが良い。対して、賞味期限は「おいしく食べることができる期限」のことだ。期限が過ぎてもまだ食べることができるため、捨てる際にはもう本当に食べられないのか確認してから捨てる必要がある。一度そうやって考えてみることで、手付かずの食品廃棄が減るのではないか。

次に、食べ残しについて考えてみる。食べ残しの主な原因は、好き嫌い、時間が短い、量が多いというものが挙げられる。私が通っている中学校では年間1,608t、一人あたり2.9㎏の食べ残しが発生しているそうだ。食べ残しを減らすには、何ができるだろう。一つは、自分の食べられる分だけをお皿に盛る、注文することだ。しかし、学校給食では、それを許さない先生もいる。そういう時は、友達にあげよう。どちらにしろ、食べ残しを減らすために大切なのは、自分の食べられる分だけをお皿に盛ることだ。そうすれば、少しは食べ残しが減るのではないだろうか。

食品ロスを減らすために、私たちができることは、①買いすぎない。必要なものだけ買う。②使い切る。消費期限が過ぎないように使う、切り方や料理の仕方を工夫して捨てる所を減らす。③食べきる。好き嫌いしないで食べる、食べきれる分だけ盛り付ける。この三つが必要だと私は考える。しかし、食品ロスがどんな問題を与えるのか理解しないと、この三つを意識するのは難しいと思う。食品ロスは私たちの生活にどんな影響を与えるのか、以下にまとめてみた。

Ⅰ食品ロスがもたらす問題

〇地球温暖化

食品廃棄物を廃棄する際に運搬や焼却で余分な二酸化炭素を排出

廃棄の時だけでなく、食品の生産から販売までの各段階で温室効果ガスが発生している。

→地球温暖化の原因に

地球温暖化が進むと…

異常気象、災害の増加(大雨・高温等)

食べ物が取れる地域の変化(農業・漁業への影響)

〇飢餓

世界では約8億人(9人に1人)が栄養不足の状態にある。

成長期(子供の時)に満足にご飯が食べられないと体が弱くなり、病気にかかりやすくなる。

日本は、食料自給率37%。(令和二年度)

食料の約6割を海外から輸入している。海外から大切な食料を輸入しているにも関わらず、大量に食品を廃棄している。

〇税金の無駄遣い

食品を廃棄するための処理にお金がかかる。そのための処理費用は、税金から出される。

日本の市町村におけるごみ処理費用は約2.1兆円。

〇発電効率を低下させる

食品廃棄物の水分は焼却施設の発電効率を低下させる。

ごみ焼却施設の発電は焼却炉で発生する廃熱を利用して発電する型式である。そのため、食品廃棄物の水分は焼却施設の発電効率を低下させる。

〇水資源の無駄

ハンバーガー一個作るには、3000Lの水が必要になる。

1L当たりの水道代は、約0,24円。つまり、ハンバーガー一個作るのにかかる水道代は約720円。

資料Ⅰからわかる通り、食品ロスはたくさんの問題を引き起こす。だから、この世界に住む一人ひとりが買いすぎない・使い切る・食べ切ることを心がけてほしい。

しかし、これは食品ロスにかかわることだけではない。SDGsのうち、食品ロスに直接関係するのは、⒘の目標のうち、「⒉ 飢餓をゼロに」「⒓ 作る責任つかう責任」「⒔ 気候変動に具体的な対策を」の3つだ。あと⒕個もの目標がある。SDGsは2030年を目安にたてられた目標だ。日々変化している世の中で、あと8年で⒘もの目標を達成しなければいけない。世界を動かせる力を持っていない、日本を動かせる力を持っていない、大した力を持っていない私たち一般の人々に、何ができるのだろうか。

・丸本紗羽      神戸大学2年    交通難民のための民間サービスの新設     

今回私が社会に提言したいことは、「交通難民のための民間サービスの新設」である。SDGsの目標11におけるターゲット2項目に「2030年までに、女性や子ども、障害のある人、お年寄りなど、弱い立場にある人びとが必要としていることを特によく考え、公共の交通手段を広げるなどして、すべての人が、安い値段で、安全に、持続可能な交通手段を使えるようにする1)」というものがあるが、現時点ではそれが遠のいていく方向にあると考えている。というのも、都市部への人口移動による地域の過疎化、モータリゼーションによる公共交通機関の利用率低下などによって鉄道や路線バスが減便もしくは廃止になっている地域が年々増加している。現状はSDGsの目標と反した方向に進んでおり、地域社会の維持がかなり困難になることは目に見えている。そこで、交通難民のための民間サービスとして、SDGsの目標に挙げられている項目に対応させて私の案について述べていきたい。まず値段について、SDGsでは値段は安い必要があり、それは公共交通機関によって叶うとしている一方で、私が提案した民間サービスに委ねればそれは高くつくのではないかと考えられるかもしれないが、やはり私も、弱い立場にある人びとが必要としている交通の値段がタクシーのように高くては意味がないと思っている。それの解決策として、国からの補助金を考えている。民間サービスである以上それは民間人が運営する組織によるものであり、矛盾しているように感じるかもしれないが、その組織の人々が属しているのは民間団体であり、公的機関でないと確認しておく。実際に鉄道や路線バスの維持のために国から補助金が出ているところもあるため、全く不可能ではないと考える。次に安全面についてであるが、ドライブレコーダーやドライブ記録が常に運営に送信されることでドライバーにとって常に監視の目があることになり、完全な個人の車とは区別されて良いだろう。これらを車内に明示することで乗客も安心できると考える。最後にサービスの持続可能性について、ドライバーはアルバイトのように自身にとって都合の良いタイミングで送迎ができるようにするのが良いと考える。交通難民が相対的に増加していると言ってもその地域における絶対数はまだ少なく、例えば一日待機して1.2件ではサービスが持続していかない。よって、乗客からの依頼があってその時に送迎が可能である人が挙手するようなシステムであればドライバーが時間に縛られることも、勤務がない人に払う賃金も必要なくなって双方にそこまで負担がなくサービスが持続していくのではないかと思う。そして、ドライバーの報酬は歩合制であるが給料かまたは何かの費用を割引する、何かの優待券がもらえる、ふるさと納税のような食べ物の還元があるなどを考えてみた。例えば仕事で使用したガソリン代とは別に、普段のガソリン給油の際にも割引されるだとか、テーマパークの優待券が手に入るだとか、その地域のみならず全国各地の名産物を取り寄せることができるとかの報酬は、現実的には難しいかもしれないがもし実現すれば面白いと思う。以上のような交通難民のための民間サービスの新設で、交通難民を救い、SDGsの達成理念の「誰ひとり取り残さない」に近づくのではないだろうか。

【引用サイト】

1)日本ユニセフ協会、11.住み続けられるまちづくりを

11.住み続けられるまちづくりを | SDGsクラブ | 日本ユニセフ協会(ユニセフ日本委員会) (unicef.or.jp) (最終アクセス:2022年11月1日)

・西岡  主税    済美平成中等教育学校1年 80億人の世界  

この世界には約80億ほどの人が住んでいる。そんな世の中に住んでいたら、もちろん様々な人が存在する。例えば、体のどこかが無かったり。私たち学生に分かりやすい例を挙げると、どの教科が全くできない。また、運動が全く出来ない人であるとか。

では、早速本題に入るが、果たしてこの世の中に生きる人たちは全員が全員同じように「取り残されず」に生きられているのだろうか。僕は全くと言って良いほど出来ているとは言えないと思う。

では、どのようにしていけば良いのか。これは人それぞれ考えがあると思う。ただ私なりの意見をここで述べさせていただきたいと思う。楽しく生活を送ることだと思う。楽しくと言っても楽しさは人それぞれだ。なのでここでも、私の思う「楽しく生活を送る」とは何かを述べたいと思う。楽しく生活を送るとは、安全な場所に快適に住める「家」があって、先生の話を集中して聞ける「学校」があって、卒業した後は、自分の就きたい「仕事」に就けて、退社した後は自由気ままに過ごす「老後」を迎えて、様々な人に見送られながら「安らかに眠る」ことができる人生だと思う。

これらの事はそう簡単にできる事ではないことは十分承知だ。だが考えてみてほいい。お互いに協力し合えば不可能ではないという事を。そう「協力」する事がとても重要になるのだ。

皆が思いやりの心を持ち、協力し合えば必ず僕の思う「楽しく生活を送る」を実現できると思う。

そのために私が行いたいことは、まず今、この世界に起こっていることを正しい情報で身に付け、考えを深めることです。今のうちから、大人になったときに行動を起こせるようにしたいです。

・川田航大      ことり企画さん  持続可能な社会と人にも環境にも優しい社会のビジョン

テーマは持続可能な社会と人にも環境にも優しい社会のビジョンです。持続可能な社会は、生活と環境保全が両立する社会です。持続可能な社会の実現が必要な理由があります。持続可能な社会を実現することは温室効果ガスである二酸化炭素を減らして、地球温暖化を防ぐことにつながるからです。そして助け合うことで人も環境も大切にしていく人にも環境にも優しい社会の実現につながるからです。優しさとは人を助けてあげることです。優しさとは人と人との助け合いからできています。助け合い人を大切にしていくことも社会の幸せと平和につながります。なので、私は社会の幸せと平和を実現して人々を大切にして助けてあげるために、国会議員と首相になりたいです。その社会の実現のための5つのビジョンがあります。1つ目のビジョンは社会の幸せと平和の実現です。命と正義を大切にして守っていく協力と努力が社会の幸せと平和の原動力です。正義を大切にして心掛けていく努力も社会の幸せと平和につながります。社会の幸せと平和は正義と共にあります。私は社会の幸せと平和のためのソーシャル・ピース・ビジョンを提唱します。ソーシャル・ピース・ビジョンは社会の国が環境保全と民主主義と保健と防災と平和につながる努力をして持続可能な社会を目指すビジョンです。ソーシャル・ピース・ビジョンは社会の国を協力と絆で結ぶ平和への架け橋です。このビジョンには4つのテーマがあります。第一に核兵器の廃絶です。日本も核兵器禁止条約に批准して核兵器を廃絶して、社会の幸せと平和と核兵器のない社会を目指すことも大切です。そして核兵器と全ての兵器を廃絶する社会の幸せと平和のための条約を結ぶことも大切です。私は社会の幸せと平和と核兵器のない社会を目指して、平和への努力を続けます。第二に平和憲法と平和主義の推進です。日本が平和な国であるのは日本国憲法に平和主義の規定があるからです。なので平和を大切にしていく平和教育と平和憲法と積極的平和主義の理念を社会の国に広めていくことも必要です。そのために、

防災政策と平和政策を積極的に進めていく平和庁の設置を提唱します。私は環境と平和と命の大切さを会議と発表会で発表していく平和の活動をしたいです。第三に人間の安全保障と社会貢献です。人間の安全保障は人々の平和で幸せな人生と生活を保障する理念です。例えば、社会の国に環境技術と防災技術を提供したり、環境インフラを整備したりすることです。そして食料と生活と医療の支援をしたり、民主化への支援をしたりすることです。第四に東北アジア平和共同体の設立も必要です。協力して国境を開くことで、東北アジアの平和と非核化を目指します。2つ目のビジョンは環境保全です。環境を保全して自然と共に生きていくことは命と社会の幸せと平和を守っていくことにつながります。環境を保全することは、二酸化炭素を減らして地球温暖化を防ぐことにつながるからです。環境を保全することで、水と食べ物と資源を保全できます。そして、目標を目指して仕事と学びと運動を頑張って幸せで平和に生きていくこともできます。食べ物も自然の恩恵です。地元と日本の食べ物を食べて応援することも環境の保全につながります。野菜を食べて食べ物を大切にしていくことも必要です。自然と共に生きていくことで自然の大切さを学べます。私は自然と命の大切さを学べる教育を通じて人も環境も大切にして共存していく社会の実現に取り組みたいです。その実現のためには学校の授業で環境保全のボランティア活動とSDGsの学びをやることも必要です。3つ目のビジョンは人にも環境にも優しい経済です。人も環境も大切にして社会の幸せと平和を目指す経済です。環境と経済の両立も大切です。電力と交通などで環境に優しいインフラを作ることで需要につながって経済に良いです。私は国会議員になって外国人と人々の生活の支援と社会保障の実現に取り組みたいです。助け合い目標を持ちチャレンジできてる安心の優しい社会は大切です。4つ目のビジョンは民主主義です。助け合い人々を大切にしていく優しさと真心が民主主義の原動力です。私は人々が優しい言葉と正義とモラルを大切にしていく男女平等の優しい社会の実現に協力したいです。その実現のためには同性婚と選択的夫婦別姓制度の実現も必要です。仕事などで女性の比率が一定になるようにするクオータ制の導入も必要です。女性の民意を反映できて女性の社会の進出につながるからです。外国人への参政権の付与も大切です。私は仕事にも家庭の仕事にも協力します。5つ目のビジョンは文化を大切にしていく社会です。私は仕事と生活の調和があることで人々が文化の活動に取り組めて人生の充実と目標の実現につながる社会の実現に取り組みたいです。そのためには日本人と外国人が共に文化の活動に取り組んでいく場を作ることも大切です。文化を大切にしていくことは人のつながりと社会の幸せと平和を大切にしていくことにつながります。私は感謝をして優しさと真心を持ち優しい言葉を話して頑張ることで社会の幸せと平和に貢献します。

・川口莉奈 東京医科歯科大学 大学院医歯学総合研究科修士2年
平等に命が扱われる社会を目指して

「僕は20万円で腎臓を売った。このお金で家族の薬が買えたんだ」

ニュースの中で語る青年に、私はひどくショックを受けて涙を流していた。

地球温暖化による気候変動、紛争による難民の増加、飢餓に苦しむ子どもたち、さまざまなトピックがニュースで流れてくる。私はそれらにひどく無関心だった。食べられないくらい大量の食事を頼んだりはしないが、一人前の料理を食べ残すことに抵抗はなかった。幼い頃に聞いた「食べたくても、食べられない子が世界にはたくさんいるのよ」という言葉は、私が食べ物を無理に食べ切っても解決できるものじゃない。遠くの国の出来事と私の世界は交わることはないと本気で思っていた。

私は医療の道を目指している。白血病という病を克服した私は、名前も知らない治療薬を生み出した誰かのおかげで生きている。私もそんな誰かになりたいと強く思った。簡単なことではないが、誰かを救う足掛かりにでもなれたらいい。そんな思いで研究者を志した。世の中には数えきれないほどの病気が存在して、私が関われるものはたった一握りだけ。それでも、誰かを救えるのなら、私は私の手の届く範囲で誰かの役に立ちたいと思った。

夕方、学校から帰宅して、リビングのソファーで携帯を見ていた。いつも付けっぱなしのテレビでは、コロナ禍でさらに貧困が加速した難民についての特集が放送されていた。その中では、人身売買について取り上げられていた。「近所の子は誘拐されて、ゴミ捨て場に捨てられていた。その子のお腹には大きな傷があった。」と取材に答える男の人の話が聞こえ、目線をテレビに向ける。日本では、普段耳にすることのない話題に興味が移る。テレビをそのまま視聴していると、別の青年が画面に映った。私よりも幼く身えるその子は、取材に対し、自身の腎臓を20万で売ったことを話していた。彼の口ぶりからして、この国ではよくある事なのだろう。貧しいという理由だけで。日本では馴染みのないトピックに、今までの私だったら携帯に視線を戻していたに違いない。しかし、その日は違った。その話を聞いて私は涙を流していた。

私は、誰かを救いたいと思っていた。全人類を救うことなど勿論できない。けれども、その誰かは、誰でもないはずなのだ。それなのに、きっと私はあの青年を救えないのだろう。どれだけ素晴らしい薬を開発しても、貧しいという理由だけで救えない命があることを知った。そのことがひどくショックだったのだ。貧困という理由によって搾取される命があっていいはずがない。どれだけ医療技術が進歩しても、命の選別が人によって行われてしまえば意味がない。遠い国で貧困に苦しむ誰かは、私に関係のない人ではなくなった。私の救いたい誰かなのだ。私の夢は少し形を変えた。この世界のどんな命だとしても、誰かを救える社会で研究をしていきたい。

・齊藤陽大 専門学校 日本デザイナー芸術学院    私の考える取り残されないためにできること

「誰ひとり取り残さない」。大言壮語に聞こえる言葉だ。だが、多くの人が力を合わせていけば、きっと実現できるだろうと、現実味を帯びている言葉でもある。

これはあくまで個人の意見だ。これが絶対ではない。一人の意見にこんなものがあるのかと、ただ心の片隅にでも置いてほしい。一つ昔話をしようと思う。私が高校生の時の話だ。弓道部に所属していた私は、もちろん初心者として、先輩方から様々なことを教えてもらった。ここでいう、助けてもらった人間だ。その時に私は教えられることが定着してしまった。自分の歩みが人より遅いのは自覚していた。だが、私は差し伸べられる手ばかりを取り、自分から手を伸ばすことをしなかった。その結果、私は大会のスタメンから外された。ほかの人とは実力がかけ離れ、取り残されたのだ。

助けてもらった人は、それを当たり前と思ってはいけない。自分は他とよりも歩みが遅いから、助けられて当然だと思ってはいけない。自分は助けられる存在だと甘んじてはいけない。自分は助けられて当然なんだと甘ったれた考えを持ってしまったら、誰も手を貸してくれなくなる。助けてもらった時は感謝を述べて、また前に進む。その時に、自分よりも歩みが遅い人がいたら助けに行く。こうして誰か一人がではなく、みんなが手を取り合って進んでいけば、誰かが取り残されることはなくなるだろう。

誰かが助けるだろう。誰かが助けてくれるだろう。そんな風に考えて、手を伸ばすことも、差し伸べることもしないなら、そこに居続けることになる。誰かが何とかするだろうという他力本願な考えは、誰かを取り残すことになり、自分を取り残すことになる。一人一人が誰かに手を伸ばし、手を差し伸べられる世界になれば、きっと誰一人として、取り残されない世界が実現するのだろうと、私はそう思う。

・髙木来依      札幌私立開成中等教育学校2年    SDGs達成とその先の未来 

学校、会社、町、国、世界。現代において、私たちの生活を取り巻くさまざまな環境に散りばめられているSDGs。登下校しているだけでも、駅のホームや電車の車内に発展途上国に関するポスターが貼られていたり、街中では慈善団体が熱心に呼びかけを行っている。学校の授業でも、SDGsに関連させた研究を行ったり、SDGsをテーマとした小論文を書いたり、さまざまな活動を私は行ってきた。もちろん、SDGsにこうして触れてきたのは私自身だけではなく、日本国内の学生、または社会人なんかも、なんらかの形で触れてきたことだろう。実際、日本の国別SDGs達成率は欧米諸国・ヨーロッパ諸国と並んで上位20位以内を保っている。世界から見た日本は、少子高齢化などの問題を抱えていながらも先進国に名を連ねており、これは戦後を生きた日本人たちの薙れもない努力である。そんな日本が、欧米諸国・ヨーロッパ諸国と肩を並べてSDGsの目標達成を掲げることに、私は何の疑問も抱かなかった。むしろ、当たり前だと思っていた。そんな私が、あることをきっかけに「SDGsの目標を達成した暁には何があるのだろうか?」「このランキングで上位を維持し続けることに意味はあるのだろうか?」と考え始めた。

それは、学校の授業の一環で行われた講演会でのことである。その日は、自分の気になるテーマから選択して講演を聴くというような内容であった。私はいくつかのテーマの中から、発展途上国についての内容を選択した。他のテーマ、例えば、ジェンダー問題についての講演であれば、そういった問題に関する団体の方が、医療問題についての講演であれば、近くの病院からお医者さんが来て講師を行っていた。そんな中、私の選んだ発展途上国についての講演の講師は、我が校の数学の先生だった。私は最初、疑問に思い、なんだか残念な気持ちを抱えていた。私と一緒に参加した友達も「なんだあの先生か」と言葉を漏らしていた。そんな気持ちで臨んだ講演会が、今私がこの文章を書くきっかけになったのである。

前に立っているのは見知った数学の先生。その先生は、大学生時代に2年間JICAの一員として発展途上国にある学校で数学の教師をしていたという。私は驚愕した。その先生の決意と行動力、自分にはない強さ。先生は当時、何故JICAの活動に参加しようと思ったのか、周りが就活に励む中で、自分だけが周りと違う方向を向いていたこと、実際に行ってみて大変だったことや楽しかったことを私たちに話した。先生の話は、私も周りも引きこんでいた。そんな講演会の終盤に先生が放った一言が、私の価値観を大きく変えた。

「向こうの子供たちは、何も知らないから何も欲しがらない。僕が持っている初めて見るものに興味津々で、欲しい欲しいとねだっていたくらいだ。」

私はこの一言にハッとした。教育を受けることが当たり前で、いかに良い大学に進学できるかを争い毎日勉強に励む学生。自分の時間があることは当たり前で、いかに充実した日々を送れるかを争い写真映えやSNSに励む若者。私たちは、私たちの知らない人々が望んでいる生活が当たり前になりすぎて、その先を求めすぎているのではないか。今の生活が当たり前になりすぎて、先の将来に希望を抱けないのではないだろうか。生きることが当たり前になりすぎた、物事を知りすぎた私たちは、なにかを求めすぎているのではないか。そんな考えが私の頭を巡ったのである。もちろん、世界の現状を無視しているわけではない。教育を受けられない子供や、今日を生きるのがやっとの人々がいることはわかっている。それでも、自分の生きているこの環境が自分自身が思う“当たり前”なのである。

SDGsの17の目標は、2030年に達成することを目指している。達成できるかできないかは私にはわからない。しかし、いつか達成する日が来ると私は思う。そのいつかが来て、教育を受けられない子供や、今日を生きるのがやっとの人々が今の当たり前と違う当たり前を獲得した時、「知らないから何も欲しがらない」ではいられなくなるだろう。そうなった時、現代の若者のように認められることばかりに支配されないで欲しい。いつまでも満たされない心を抱かないで欲しい。自らの将来に明るい光をさして欲しい。そして、今を生きる私たちも、自分が何をやりたいのか、何ができるのかを自分の軸で考えられるようになるべきなのだ。これが、私が考える、SDGsの17の目標のその先である。

・筒井泰志      文教大学2年    「普通」ってなんだろう?       

皆さんは、「普通」って何だと思いますか?あなたは、「普通の人」だと思いますか?

私は誰ひとりとして普通な人なんていないと思います。みんなそれぞれ、肌の色も髪の色も顔も性格も得意なことも不得意なこともそれぞれ異なるし、一卵性の双子であっても好きな人のタイプは違ったりするからです。みんなそれぞれが特別な存在です。人々は誰しも先入観や偏見を持ってフィルターをかけてモノを見ていることを認識し、当たり前になっていることを、常識を疑ってかかる「クリティカルシンキング」という考え方を知る一助になればという気持ちで私の考えを述べていきたいと思います。

肌の色や目の色、髪の色から判断して○○人だと判断することはこのグローバル社会では極めて危険です。100年前までは肌の色で「人種」というふうに明確に分けていた。だけれども、一塊にして個々人を見ないで攻撃をしたときに差別が起きてしまいます。同じ人間であり、たまたま髪の色が違った、たまたま肌の色が違っただけでみんな同じ人間であると認識するべきです。

性格に関していえば、人に話しかけることが極端に苦手な人を「コミュ障」と障害だと自称する人もいますが、僕自身も含め、気を遣ってしまっているだけ、どうしたらいいかわからないだけなんだと思います。そういう性格、内向的な性格なだけです。障害なんかではありません。また、みんなそれぞれ得意なことや苦手なことがあるのは当たり前で、それがたまたま話すのが苦手なだけ、文字をきれいに書くのが苦手なだけ、じっと座っているのが苦手なだけで、もっと言えば、目が見えないことも、耳が聞こえないことも、四肢欠損であることや鬱症状すらも一つの特徴であり性格です。そのように理解すると、もっと気が楽になるのではないかと考えます。誰もがある日突然怪我をして何かを失うこともあります。何かを失った途端に障害者として扱われることに関してどう考えるでしょうか。私は今まで通りであってほしいと考えます。 障害の有無に関わらず、最初からみんな同じように扱っていれば変わらないと思います。

某テレビ局で毎年夏に24時間テレビなるものをやっているが、そこで取り上げられるものは目に見えてわかりやすい障害だけだと感じていて、強く憤りを覚えています。目に見えるものだけではなく、目には見えないけど生きるのに障壁となるものも当然あると思います。彼らが直面している困難な状況に対して、交通事故で何かを失った際に彼らと同じ状況になる可能性があるということを理解しながら、いろいろなタイプの人が居るということを知ろうとする努力と共感力が大切だと考えます。

街を歩いていて、点字ブロックの上に自転車などのモノが置いてあることや目が見えない人用に横断歩道の際に音が鳴る器具があるものの、それを作動させるためには、手をかざさなきゃいけないという極めて矛盾したものが存在することなどに目を向けてみると、やはり当事者意識がないと、クリティカルシンキングをしないと気づけないことが多々あるのだなと感じます。LGBTQ+ではなく、SOGIのような全員を内包するような考え方に派生させていくことができれば、誰一人取り残さない社会をつくることにつながると考えます。大学でこのようなことを学んでいきながら、将来は市民に寄り添い、「誰一人取り残さない社会」を作れるような公務員として働ければと考えています。

・片川里咲      玉川大学3年リベラルアーツ学部  人の嫉妬心     

SDGsの基本理念「誰一人取り残さない」の視点で、障害者が社会・経済活動の選択肢から排除される懸念があると考えた。この理由は、就職活動をする中で、障害者の採用募集枠を設けている企業が多くないことに気がつき、社会・経済活動の選択肢から排除されつつあるのではないかと考えたためである。企業によっては、「〇人の障害者を雇ってください」と公的に定められているところもあるが、それは極めて少ない人数であり、さらにはすべての企業に適応されているわけではない。また、そのような枠組みを設けなければ、障害者が社会・経済活動に参加することは難しいという社会の状況を示している。

このような状況をふまえ、障害者が社会・経済活動に参加するためには、世間・企業からの偏見をなくすことが重要だと考えた。しかし、障害者への偏見を取り除くことは、容易ではない。例えば、日本を騒然とさせた「相模原障害者施設殺傷事件」すなわち「津久井やまゆり園事件」に対する世間の反応も、障害者への偏見が目に余るものであった。障害者は莫大な時間と金がかかり、社会の負担であるため、社会から排除すべきだというような残酷な意見が、いくつもネットに上がっていた。

日本の障害者に対する偏見を目の当たりにし、このような残酷な意見を示している人の多くは、身近に障害者がいないのではないかと考えた。もしも自分の身内が、ある日突然障害者になってしまったとき、「社会の負担だから」という部外者からの発言で、死を迫られてしまったら、受け入れることはできるだろうか。確かに、障害者は健常者よりも時間と金を要するが、障害者に対して偏見をもっている人々の時間と金は奪われているわけではない。そのため、人の生を損得勘定で見ているのはなく、「障害者のほうが、自分よりも時間と金をかけられているのは不公平だ」という嫉妬心が芽生えている状態にあると考えた。

上記の意見をふまえ、障害者が社会・経済活動に参加するため、世間・企業からの偏見をなくすには、部外者である我々が、「障害者に対して抱いている感情はどこから湧き出ているのか」を分析する必要があると考えた。人に対する嫉妬心は、相手に非があるのではなく、自分の気持ちの未熟さから生じるものである。また、障害者を社会・経済活動から排除することは、人の嫉妬心の表れであり、理不尽な状況を生み出しているだけである。そのような人の嫉妬心と理不尽さで築かれた社会にしないためにも、人は部外者という立場からだけでなく、自分が関係者だった場合のことを想像しなければならない。すなわち、障害者が社会・経済活動に参加するために、人々の意識を変えることが不可欠である。

・本多希愛来    大成高等学校1年生      ○○でなければいけないの?   

「あなたは女の子なんだからもっと可愛い服を着なさい。」

幼稚園児くらいの時にこんな言葉を言われたことがあります。

その時、言葉の意味も対して考えず何も思わず聞き流したような記憶があります。

最近、SDGs関係のニュースを見る機会が増え、小さかった頃の疑問が

一気に湧きあがりました。女の子だから可愛い服を着なければいけない。

かっこいい服を着ない方がいい。言葉遣いは優しく丁寧に。

なぜ女の子だからという理由で、着る服や座り方、言葉遣いなどを自由に

出来ないのか。

私は、世の中が思う一般的な女の子・男の子の姿をし、それにそぐわない

行動や思想が性別にあっていないと注意をされる。という状況に疑問を

持ちました。

疑問には思っているけど小さい時から言われているからそういうものなのだと

思っていたり、言いたいけど言う勇気がなかったりして、言い出せない子が

今までにいたかもしれません。実際私もそういう子のうちの一人でした。

私の住んでいる日本では「男性は会社で働いてお金を稼ぎ、女性は結婚して

子供を産み家の家事ごとを全てやるべき」という考えが年配の方の中では大半を

占めています。

しかし会社でバリバリに働いているキャリアウーマン、自宅で子供の世話をしながら

家事をこなす主夫。この人たちのやっていることはおかしいですか?

女性が仕事をし、男性が家で赤ちゃんの世話をする。全くおかしくないと思います。

小さな女の子が、キャリアウーマンになりたいと言っていたのを聞いたことがあります。

小さい子が好きだから保育士になりたいと思う男の子。でも「女の子はそんなに頑張らなくていいよ」「保育士は女の人がなるものだよ」そんなふうにこたえる周囲の人々。

この子たちのように、性別についての固定観念で、自分のやりたいことができない、

職業や生き方を選べないのは、やはりおかしいと思います。小さい子が目を

キラキラさせながら「大きくなったらこの仕事やりたい!」そう大声で夢を語れる、

やりたいことをやれる、そんな社会になれば、みんなが幸せに仕事ができ、幸せに

暮らせるのではないでしょうか。

性別についての固定観念、といえば、避けて通れない問題がジェンダーの平等です。

体と心は女性で恋愛対象が女性のレズビアン(L)、体と心は男性で恋愛対象が男性の

ゲイ(G)、体と心の性別は関係なく恋愛対象が男性と女性の両性のバイセクシュアル(B)、

体の性別と心で思っている性別が一致しないトランスジェンダー(T)。

これらが、いわゆるLGBTですが、本当はもっと多くの性の在り方があります。

今の社会は、こうした人たちが、とても生きにくい社会になっています。誰でも好きな人と一緒に生活ができるようになったら嬉しいはずなのに、婚姻届けを出しても同性同士だからという理由で却下されてしまいます。

ある政治家は「そこには生産性がない」と表現しました。

道徳教育では、国や肌の色に関わらずみんな平等だよ。と教わります。

しかし教育現場で積極的にジェンダーの平等を語る機会はほとんどありません。

確かに、昔に比べれば、日本でも状況は変わってきていると思います。実際に、パートナーシップ制度の広がりや、男女の賃金格差をなくそうという動きがあります。でも、男性は

女性と、女性は男性と、という考えとちがえば、周りが変な空気になります。男の子が

「保育士になる」と発言すれば、本気にしてもらえない。そのせいで自分の本当の気持ちに蓋をして生活している人がたくさんいます。

では、自分の気持ちを口にして、夢を叶えられる世の中にする為には、何ができるでしょうか。それには、まず私たちが「知ること」だと思います。

日本での女性の生きづらさ、海外の性を巡る考え方、現状、人々の声を知ること。

固定観念を変える試みには何があるのかを知ること。政治家はなぜ人の生き方を語るときに「生産性」という言葉を使ったのか。どのような文脈でその発言をしたのかを知ること。

性の在り方について、SNSなどで、当事者の思い、本当に理解してほしいと思っている

ことは何かを知ることです。そして、考えを共有することです。

私も、おしゃべりをしようと思います。これから出会う多くの人と、楽しいこと、

悲しいこと、その人と価値観を共有できるようなおしゃべりをしよう。

それが私にできる精一杯の第一歩です。

・匿名      なし    <SDGs>の基本理念を見つめ直す   

今日の世界はますますグローバル化が進んで進んでいる。これはCOVID-19という現代史において未曾有のパンデミックを経てさらに加速した。かつてのパンデミックは大陸を越えての広がりを見せることはなく、あくまで一定の陸地に限定されていた。しかしCOVID-19ではまさに地球規模の拡大を見せた。そうした予想外の感染病の中で浮き彫りになったのは強者と弱者の社会的立場の差であり、圧倒的な排他性である。この二つの壁は<SDGs>という世界規模の達成目標を目指す上で全人類が改めて見つめ直さなければならないものとなった。

COVID-19という大きな爆弾は先進国と途上国、富裕層と貧困層を今一度浮き彫りにし、それは一種の排他的なものへと発展してしまった。そうして生まれたアジアン・ヘイトや留学生、出稼ぎの多国籍への暴力行為は第二次世界大戦前の全体主義と何ら変わらないものである。大きな障害を前にしてもどうして人間は一丸となってそれに立ち向かうのではなく、自らの手でさらに問題事を増やしていくのだろうか。そこには「他人の立場になって考える」という就学前に習うことを忘れてしまう大人で溢れているからに他ならない。そうした大人たちを見て育つ子どもたちが果たして他人の立場になって考えることができるであろうか。ましてや<SDGs>の基本理念である、「誰ひとり取り残さない」が守られるはずがない。もう少しフランクな言い方をするのであれば、「悲劇のヒロインぶる」人々が多すぎるのだ。自らだけが不幸であり、こんなにも頑張っているのに報われない、などの主観でしか物事を考えることができない人たちが、己の鬱憤を晴らすためだけに、社会的弱者に対して差別を行い、そうした迫害を受けたものたちがさらに弱いものたちへと同じことを繰り返す。まさに悪循環である。にもかかわらず、ごく少数の上層部の人はそれを見て見ぬふりをし、実行しない注意喚起(最悪なのはヒーローを気取って綺麗な言葉を並べた胡散臭い演説)を行うことで満足して根本的な解決をしないのだ。幼稚園や小学校といった、隔離された空間で弱いものいじめが行われている世界、そしてそれをもみ消す社会において70億人の意思を一つにし、差別のなくならない世の中にするのはまず不可能であろう。つまり「誰ひとり取り残さない」という基本理念そのものが破綻しているのだ。資本主義を基盤とした現代においてこの基本原理には違和感しか覚えない。先進国も、途上国もない、地球人という括りで頑張りましょうという聞こえの良い目標だけ掲げ、達成するわけもないものに多額のお金を費やして何が生まれるのだろうか。我々人類はいい加減叶いもしない目標を達成しようとする演技を辞め、目の前の現実に向き合うべきなのである。結局のところ、ウェストファリア条約以降、国際条約の全ては権力者による圧政的な平等、理念、協定の押し付けに過ぎないのである。それに気づかせない言葉巧みな言葉と、気付いたところで変えられない圧倒的戦力差が待っているに過ぎない。世界の構図は中世以降何も変わっていないのだ。見せかけの交友はCOVID-19のような障害の前でこそ本性を晒し、ほとんど全ての国が自国ファーストの政策をとった。そうしてなす術もない非力な国民はマスメディアやネットニュースを見てつぶやくだけなのだ。

こんな世界が縮小した今日だからこそ、大きな組織、団体、国にだけ依存し、不平不満を言うのではなく、世界とは社会とはこう言うものだと受け入れた上で、「一個人である自分がどのように生きていくか」を考える必要があるのである。そうした思考をひとりひとりの人間が改め、正面から受け入れることで本当の意味で「他人の立場になって考える」ことが可能となる。その過程を経て初めて<SDGs>の基本理念である、「誰ひとり取り残さない」を皆が共有することができるのだ。それなのにもかかわらず、少数のお偉いさんたちは目先の成果欲しさに気持ちいの良い言葉を並べ、啓蒙的に、上から基本理念を押し付けているのだ。私たちが本当の意味で一つになる未来は(少なくとも私たちが生きている間に)来るはずがない。しかし一歩一歩、小さな目標、日々の態度、相手への接し方が、周りへ、子供へと伝播していき、それが少しずつ世界を変えていく契機になるのだ。

・百留吉馬      梅光大学学院    誰ひとり取り残さない「教育」   

私は「誰ひとり取り残さない教育」について考えていく。今回このテーマを考えるきっかけになったのは大学の講義である。

大学の講義では各国の教育の比較を行っていた。比較を通して感じたのは、国の風土や人口、政治が大きく教育へ影響を与えている事である。例えば中国は「学歴社会」の風潮が強く、その背景として人口に対しての大学の数が少なく、エリート大学に入るには高い倍率を乗り超えなければならない背景がある。また、カンボジアでは、貧困層が多く教育を受けさせることが困難という背景がある。このように様々な要因が重なり教育の特徴が生まれている。

一方、日本はどうなのか。皆さんも自分の受けた教育を思い返してほしい、学校設備はどうであったか、成績の全てはテストで決められていたか。世界的に見ても日本の教育は評価が高く教育には十分な力注がれている。しかし、全ての子ども達が、この教育を平等に受けられているとは限らない。日本の抱える教育問題は様々である「ネットいじめ」「貧困」「ネグレクト」「給食問題」「良い子の固定化」上げだしたらきりがない。SDGsの掲げる目標の一つ「質の高い教育を皆に」の実現が日本ではできているのだろうか。私はできていないと考える。

特に私が注目しているのが「貧困問題」である。貧困の連鎖という言葉は耳にしたことがあるだろう。本来、教育機会が平等であれば貧困の連鎖は生まれる事はない。しかし、実際貧困の連鎖は止まることなく、最悪なことに「だるま」のように貧困の深刻化が進んでいる。それは裕福な家庭は教育に時間やお金を注げるのに対して、貧困家庭はそのような余裕がなく、技術や能力だけではなく、感性や思想にも大きな差が生まれるからである。そして、この貧困の影響は親にも大きなストレスを与え「アタッチメントの不足」「ネグレクト」などの愛着障がい、心身の傷となって人格形成に影響を与える。このような状態がある日本の教育は「平等」なのか、「とり残された人」は本当にいないのかもう一度考えてほしい。

このような問題を解決するために必要なのは、人々が共に助け合う感覚を養う事である。いきなり国や、教育、政治などの大きな組織を動かそうとするのではなく、身近な存在である友人や、家族、クラスメイトや職場関係などいった、人との関わりを「仲間」と意識し共に手を取りあう事である。そうする事で、小さな輪が広がり、それが大きな国という共同体をも含んだものとなる。

「国の制度が悪い」「ネグレクトする親が悪い」と批判をする事は、自分には何の責任もないという言い訳に過ぎない。そして、そんな非協力的な人がいるから目標が達成できないという言葉も言い訳に過ぎないのだ。大切な「今」ここで変わり、知らない誰かと手を取り協力するという勇気である。今の社会や政治、歴史、教育、そして問題を作り出しているのは私達であり、この問題を解決できるのも、唯一の私達であるという自覚をする事が必要だ。過去の歴史や教育観、そして国の人口や風土といったものに対して、どのような意味付けをするのか、変えられないモノを変えようとするのではなく、私達がどのように使っていくのかが重要だ。

今、ここで書いているこの文によって、誰かの勇気を後押しできると嬉しい、私の一歩は、私達の一歩であり、社会の一歩である。

・宗岡怜那      梅光学院大学2年 エチオピアの教育支援について   

私は、誰一人残さないと聞き、発展途上国と先進国に、違いがあるのではないかとふと思った。そこで、私は発展途上国の中でアフリカについて調べてみようと思った。

中学校や高校の時の社会科の授業時間にアフリカについて学んだ。その時に、サハラ砂漠や植民地などの地理的・歴史的要因だけではなく、アフリカは、発展途上国で、支援を必要としている人がたくさんいる場所だと知った。しかし、授業ではアフリカ大陸として全体を学び、個別の国を詳しくは知らないまま今に至る。そこで、このレポートではアフリカ大陸の中でも、日本と過去に友好関係があり、コーヒーが有名なエチオピアについて、親しみを感じ詳しく調べてみようと思う。

まずは、エチオピアの概要について説明する。エチオピアは、面積は日本の約3倍の109.7万平方キロメートル、人口は日本の0.875倍の約1億1787万人、首都はアディスアベバ、主な言語はアムハラ語・オモロ語・英語、主な宗教はキリスト教・イスラム教である。日本との時差は、6時間である。

次に、エチオピアの教育制度について述べる。小学校8年間、中学校2年間、高校2年間、大学4年間という4つの構成になっており、義務教育期間は8年間で日本より一年短い。PISAやTIMSSの上位国には載っていない。教育における問題点は、“男子に比べ、女子児童の初等教育に入学する割合が低いこと・留年率や退学率が高く、特に第一学年での退学率が高いこと・小学校を卒業できない児童が多いこと・教室や教師、教科書など、児童の学習環境が整っていないこと”である。日本と義務教育期間が一年しか変わらず、教育制度が日本と似ているエチオピアだが、同時に教育における問題点が多いエチオピアでもある。そこで、識字率は日本とどれくらい違うのか、調べてみることにした。

エチオピアの識字率は39.0%で、日本のかなり高い識字率99.0%と比べるととても低いが、識字率の世界平均85.9%と比べてもかなり低い。文字が読み書きできそれを理解できることは、必要な情報を入手して、自ら選択する人生を生きていくのに必要不可欠だと思う。そこで私はエチオピアの識字率をあげるために、私たちが出来ることはないかを考えてみた。現地に実際に行って、日本で使わない鉛筆やノートなど学習用具を配ったり、現地の小学生に算数セットを使って算数を教えたり、机や椅子を準備して学習環境を整える、様々な支援ができると思う。しかし、それを少しの期間だけ行っても、続けないとエチオピアの子どもたちに失礼だと思う。なぜなら、途中でやめることで、そこで学びがストップしてしまうからだ。仮に私たちが支援をしたとする、私たちは達成感が生まれるかもしれないが、エチオピアの子どもたちにとっては、必ずしも幸せではないかもしれない。そのことを十分に理解した上での支援と言えば限られてくる。

調べてみると、ワールド・ビジョンというものが出てきた。これは、デラ地域開発プログラムとゴンダール・ズリア地域開発プログラムというカンボジアで取り組まれている支援である。どちらの支援も、食料確保・教育・水衛生の3点に焦点を当てて支援しているものだと分かった。地域課題の教育の部分には、教育の重要性についての啓発と書かれており、その部分を読んで、水衛生の部分で、水汲みに行く子どもと書かれており、生きていくために家の手伝いをして学校に行けない子どももいることが分かった。日本では子どもは学校に行って学ぶという当たり前のことが、難しいエチオピア。義務教育期間が日本と1年しか変わらないのに、識字率がこんなにも違うのは、義務教育期間に平等に教育を受けられないからだと思った。この原因は、生きていくために生活をすることを優先せざるを得ないからだと思う。学ぶよりも飲み水を確保したり、その日食べるものを調達したりしなければ生きていけないという現実があるからだと思う。

そして、そのことが識字率にもつながっているのだろうと考える。先進国では、教育の質をさらに良くしていこうと取り組まれているが、エチオピアをはじめ発展途上国では、日本でいう教育環境を整える・教育内容を良くするということよりも、むしろ生活を安定させて、安心して学ぶ環境を作ることが必要だと思う。

最初は教育の支援をしたらよいと思っていたが、生活を整えて、安心して教育に目を向けられるようにしていくことが大切だと思った。例えば、エチオピアの人に、水衛生の設備をするために、支援金を募ったりして、井戸を建設したり、国を超えて、協力していくことで、識字率もみんなでアップさせていくことが出来ると思う。よりよい世界になりますように。

・Zahky Awal    ブラウィジャヤ大学、3年生      電子機器廃棄物の対策としての都市鉱山業 

現代は、経済・文化・技術の急速な発展とともに、地球も日々高齢化しています。人口が増えれば増えるほど、直面する問題も大きくなります。現在、注目しなければならない問題のひとつが、毎年急に増えて続く廃棄物の量のであります。そして、最も注意を要す廃棄物のひとつが電子機器廃棄物のです。

BBC(2022)によると「WEEEによると、洗濯機やトースターからタブレットPCやGPSなどの機器に至るまで、電子機器廃棄物の「山」は2030年までに年間7400万トンにまで増加すると調査結果が発表されています」。このことから、電子機器廃棄物は定期的に管理されなければ、土壌や水、大気を汚染する可能性のある廃棄物が大量に蓄積されることになると結論づけることができます。

現在、世界が直面している電子機器廃棄物の緊急性を考慮すると、都市鉱山は電子機器廃棄物を活用し、リサイクルの解決のひとつとなり得るのです。都市鉱山とは、電子機器廃棄物に含まれる材料や貴金属を回収する過程のことです。電子機器廃棄物は、金属(中でも金、銀、銅、軽銀などの貴金属元素)、メタロイド、希少鉱物、ガラス、プラスチックなどの混合物で構成されています。電子機器廃棄物はリサイクルすることで、多くの有価物を生み出すことができることがわかります(Purchase, 2020)。しかし、電子機器廃棄物には有価物だけでなく、危険な有害物質も含まれているため、都市鉱山は簡単で無謀にできないことに留意する必要があります。電気製品に含まれる可能性のある主な有害物質は、鉛、水銀、カドミウム、亜鉛、イットリウム、クロム、ベリリウム、ニッケル、臭素系難燃剤、三酸化アンチモン、ハロゲン系難燃剤、錫、ポリ塩化ビニル(PVC)、フタル酸エステル類です(Nimpuno, 2011)。ですから、政府が都市鉱山用のために、施設を作るべきなのです。それとも民間企業と提携することができます。

地球で電子機器廃棄物の量が増えている今、私たちは電子機器廃棄物を減らすための対策を始めなければなりません。これは、都市鉱山を導入することで実現できます。残念ながら、公害や有毒ガスをまったく発生させない都市鉱山は今のところありません。しかし、電子機器廃棄物の大量発生を考えると、選択肢の一つとして考えてもいいのではないでしょうか。それに、普通の私たちにとっては、電子機器の購入を減らすことで、電子ゴミの増加を大幅に抑えることができるのは確かだと思います。

・Rahman Muhammad Ariq Mulya   Brawijaya 大学3年生    プラスチックごみの問題 

インドネシアでは、プラスチックは人の生活と切り離せないもの、それはプラスチックです。軽くて丈夫な実用的なアイテムとして、多くの方に支持されています。しかし、私たちの行動によって、プラスチック廃棄物は今や至る所にある、島を作ることさえできる、という問題が起こり続けています。それが身近にあると思うと、どんなに恐ろしいことだろうか。インドネシアでは、プラスチックゴミの問題は些細なことのように、ほとんど誰も気にしていないほどです。実は、プラスチックゴミは、じわじわと環境を破壊し、数十年後の災害にもなりかねない脅威なのです。1年間でインドネシアは合計1,800万トンのプラスチック廃棄物を拠出しており、決して少なくない量であることは明らかです。しかし、この数は今後数十年にわたり増え続けるでしょう。この廃棄物量から、1,300万トンを適切に管理できるのは朗報です。それでも、廃棄物による環境破壊が私たちの日常生活に大きな影響を及ぼしていることは、人間として認識しておく必要があります。想像してみてください。プラスチックゴミによる被害の影響は、洪水、土壌汚染、水質汚染など私たちの身近なところにあり、クラゲと勘違いしてプラスチックゴミを食べたために多くのカメが死んだという事例もあるのです。

プラスチックゴミの影響を防ぐには、ゴミを適切な場所に捨てる、プラスチックの使用を減らす、プラスチックの代わりにトートバッグを使うなどプラスチックに頼らないライフスタイルを採用する、プラスチック素材から便利なものを作るなど、さまざまな方法があります。しかし、プラスチックゴミを減らすには、これらの方法だけでは不十分で、これらの方法を最大限に生かすには、誠実な意思に基づき、環境に配慮した考え方で、目標に一貫性を持たせることが必要なのです。この目標を実現するために、インドネシア政府は国民に環境への関心を呼びかけ、ワークショップやプラスチックごみからのアート展示、ごみゼロ生活の実践、さらにはインドネシアの子どもたちにごみを加工して作品にするよう呼びかけ、インドネシアの学校でも社会化しています。

プラスチック廃棄物の影響から環境を守るには、私たちから始めなければなりません。私たちがこの地球上で行うすべてのことは、必ず結果をもたらします。 だからこそ、私たちを取り巻く環境が、誰にとっても住みやすく、子や孫にとっても明るい未来を実現するために、環境を大切にしようではありませんか。

・Istifarini Silsilia Nur ブラウィジャヤ大学3年(Universitas Brawijaya )
私たちの水は私たちの生命です

水は生活の中で最も重要なものです。人間が生活する上で、飲み水、料理、洗濯など、さまざまなニーズを満たすために水を使います。

マランは、冷たい温度を持っている空気と水で、東ジャワの山の中の都市です。マランは、東ジャワ州の有名な観光都市であり、そう遠くないマランから、あなたはバトゥ市に行くことができ、バトゥ市は、ほぼすべての観光スポットです。バトゥ市はマランの北にある都市なので、レイアウトは本当に山の上です。多くの有名な大学はマランにあるマラン自体はまた、学生の街です。そのため、海外の人がたくさん来るので、マランは人口密度が高くなりました。しかし、時代の変化もあり、2000年代前半のマランと今のマランの状態は大きく異なっています。2000年代前半のマランは、まだ美しく、空気はとても涼しく、市営水道の力を借りなくても水はとてもきれいな状態でした。しかし、2020年になると、マランはとても変になり、空気は暖かくなり、冷たい空気を感じたければ、まずバトゥ市へ行かなければならないと感じます。 市営水道を使っても、出てくる水は少し汚れているので、飲んだり料理したりするときは、水道の水をまず沸かして、細菌を取り除かなければなりません。市営水道は、毎月料金を支払って、きれいな水を利用するためのサービスです。市営水道で使う水そのものは処理水なので、山から湧き出る純粋な水ではありません。

ジャワ島は大きな島で、人口が密集していることで有名です。インドネシアの首都ジャカルタもジャワ島にあり、正確には西ジャワにあります。その人口密度の高さから、大気汚染から水質汚染まで、公害は避けられません。そのため、工場の廃棄物によって汚染された川の水や、無造作に捨てられたゴミによって汚染された水など、汚染された水の事例が多くあります。ジャカルタ、スラバヤ、ジョグジャカルタなどの大都市では、川の水が茶色から黒く変色し、不快な臭いを放っているのが見受けられます。水道水そのものも、茶色や黒に近い色をしているので、料理や飲み物に使うことはできません。飲食用には、市販のペットボトル入りの水を購入することができます。

インドネシアは島国なので、ビーチがたくさんあります。ジャワ島自体にもアニエールビーチ、バライカンバンビーチ、パラントゥリチスビーチなど多くのビーチがあります。残念ながら、ジャワ島沿岸のビーチだけでは、もはや美しいとは言えず、ビーチにはすでに多くのゴミがあり、普段ビーチを歩いているマングースなどの海洋動物もほとんど見られず、海辺の観賞魚もほとんど見かけなくなりました。つまり、ジャワ島そのものが、山の中の高地の水も海の中の水も、かなり汚染されてしまっています。

この問題は、ジャワ島だけでなく、インドネシア全土で発生しており、本当にきれいな水はもちろん、飲むことのできる水のを手に入れることが難しい場合もあります。遠くまで行かなければならない、あるいはお金をかけて水を買わなければならないことも少なくなります。実はこの問題は、本来なら美しい自然が残っているはずのインドネシアの僻地でもよく起こっています。その原因は、ゴミのポイ捨てなど、無責任な人々の行為にあります。

この問題の解決には、ゴミをその場に捨てるポイ捨て文化の改善など、直せるものは直していくことが必要です。自然が健全で良いものであれば、私たちの生活も良くなります。そしてその後、森林再生や、原水をより良く処理してから地域に提供するなど、水質を改善します。そうすれば、インドネシアの人たちも海外の人たちと同じように、せめて水道水を直接飲めるようになるはずです。

・鷲羽阿知      犬山市立城東中学校      皆が平等な世界を作っていくために

僕は、だれ一人取り残さないの視点で見たとき、一番重要だと思った、SDGsの目標は、10番の人や国の不平等をなくそうを一番の目標とし、その解決のために、1から7と16あたりが大切になってくると思いました。そのうえで、これらのことをもとにしていくと1から7の目標を優先して解決していくべきと考え、これらを解決するうえで大切なのは、これらのことを知ってもらい、少しでもこれらの課題に取り組む人が増えればいいと思いました。そしてその人たちでアイデアを出し合い、協力して取り組むべきだと思います。こう、文章を書いている今でも、飢餓で苦しんでいる人がいますこの時点でまだ取り残されている人がいるということは明確でしょう。私は、中学校の課題追及の一環でSDGsについて調べており、より詳しくSDGsの知識をつけるため、2か月ほど前に、JICAの名古屋地球広場へ訪問させていただきました。実際に訪問してみて、今の世界の現状を知ったり、ウガンダで実際に食べられている給食を食べたり、ヨルダンへ、海外青年協力隊として派遣された方の話を聞いたりと、貴重な体験をさせていただきました。その説明の中でも、質問タイムがあり、いま私たちにできるSDGsの解決につながることについての質問をしたところ、その人からも、やはり大切なのは、自分自身が、その問題点を深く知ることが大切といわれていました。これらのことから、一番大切なことは、SDGsについて知ることということが説明できたと思っています。

さて、それでSDGsについて知るということをして、実際に、それらのことについて取り組みたいという人が出てくることも少なからずあると思います。そんな時は、僕が大切だと思うこととして、意外と、支援をすることだと思います。例えば募金をするなり、それこそ、JICAへ行ったとき、たべたウガンダの給食は、料金の10円が募金されるという仕組みになっているのです。募金をすることで、政府による物資の支援や教育などが、充実し、1,2,4の解決へつながると思います。僕が、支援を大切だと思う理由の2つ目は、その国に、すべてやってあげても、それは一時的なもので、継続しなければ、意味がないと思ったからです。

今の説明じゃわかりにくいと思うので、分かりやすく説明すると、数学の問題で、答えだけを教えてもらって、式がわからない状態では、今後生きていくうえでそのことがわからないままで、人や、機械に頼り切ってしまうからです。そのようなことは何とか避けていき、その国々で、自らが取り組めるような環境を整えることが必要なのです。

・Haris Setiawan       インドネシア国立ブラウィジャヤ大学3年        魚爆撃で海水への悪影響

海洋生態系は、海洋生物と人間という生物にとって大きな役割を担っています。海の生態系は、サンゴ礁、海草、マングローブの三つに大別されます。これらの海洋生態系の役割は、食料調達の場、居住・避難の場、食料防衛、波除け、そして観光地としての役割です。水域は、人間の生活にとって最大の充足感の中心地です。しかし、人間は海洋生態系とその中の天然資源を無視しがちです。人間は、海の魚を爆撃することによって起こる悪影響を考えずに、得られるものばかりに目を向けています。

魚爆撃は、海洋生態系に悪影響を与える漁法の一つです。爆釣の方が手軽で実用的です。しかし、海洋生物相、特にサンゴ礁に悪影響を与えることも事実です。サンゴ礁の被害は、海洋生物の死滅や魚類の生息環境の悪化につながり、魚類の生息数を減少させます。

魚の爆撃は、海洋生物に悪影響を与えるだけでなく、地元の漁師、釣り人、伝統的な漁師、養殖場など、人間の生活にも悪影響を及ぼします。魚爆撃は、人の安全を脅かし、障害や死亡につながる可能性があります。Lautsehat.idの報道によると、250グラムの重さの魚の爆弾を使った漁業活動は、少なくとも50平方メートルのサンゴ礁を破壊し、回復に長い時間を必要とする可能性があります。このまま海域で魚の爆撃が続けば、もう魚は戻ってこない。また、海では繁殖しなくなった魚を漁師が探すため、次の世代に貧困が広がる可能性もあります。また、傷ついたサンゴ礁の魅力に惹かれてシュノーケリングやダイビングの活動で海域を訪れる観光客も減り、爆心地に住む魚もいなくなりました。

魚の爆撃は、インドネシアだけでなく、多くの国で禁止されています。政府は、環境資源の保全を危険にさらすような漁業活動を禁止し、魚の管理に関する法律第4号の1985年を発行しました。そこで、国連は2017年に「The Sustainable Development Goals(SDGs)」という議題を策定し、2030年までに達成することを目指しています。SDGsは、経済的福祉の向上、社会生活の持続可能性、環境の質を世代を超えて維持することを目的とした、地球の平和と繁栄のための17の世界的目標からなる国連機関です。SDGsは、社会の福祉を向上させるための世界的な取り組みであり、そのひとつである第14の目標は、海洋生態系を保護することです。

海洋生態系の保護という目標は、海洋資源管理の改善、水資源の保全の改善、IUU漁業の規制と海に損害を与える活動の停止、人材と海洋文化の役割の強化、環境にやさしい資源の生産性の向上を目指しています。また、このSDGsの目標は、破壊的な漁業や爆釣による悪影響から海洋生態系を回復させることにもつながります。また、海域の生態系を破壊しないよう、地域の漁業活動を監視・観測する公共の役割も必要です。

・Aulia Nurillita  インドネシア国立ブラウィジャヤ大学3年 

パンデミック後のインドネシアの教育の質を見つめて

私たちが気づいていようといまいと、インドネシアの教育は世界一ではありません。インドネシアの教育は189カ国中、107位です。東南アジア地域でも、インドネシアは5位で、近隣諸国より2ランク下です。

基本的に、インドネシアの教育を衰退させる要因はたくさんあります。その中には、施設やインフラの不備、そして教育の実施において、多くの学校には教えるのに適していない教師がいることが挙げられます。また、インドネシア全土の教育統計が均等でないため、教育の不平等が未だに顕在化しています。

インドネシアの教育界は、Covid 19の大流行時に難局を迎えている。Covid 19の蔓延の連鎖を断ち切るため、インドネシア政府は人間同士の多くの相互作用に関連するすべての活動を停止せざるを得なくなったのです。教育の世界は、学校は生徒の相互作用が非常に強く求められる場所の一つであるため、政府にとって特に懸念される分野である。

また、集団の健康を維持するために、政府はオンライン学習を実施しました。パンデミック時のオンライン学習の導入は、教育の世界では課題となっています。なぜなら、教育現場では、すべてがオンライン化されることを前提に設計されているわけではないからです。オンライン学習の導入には、さまざまな問題があります。

教育改革は、手のひらを返すほど簡単ではない。インドネシアの教育の世界は、どこに停泊していいかわからない船のようなもので、船長が変わるたびに、方向性や行き先も変わってしまう。同様に、教育の世界でも、政策立案者が変われば、当然、インドネシアの教育の方向性も変わる。

したがって、インドネシア人のための教育は、すべてのインドネシア人に教育を提供するだけでなく、すべてのインドネシア人が利用できる質の高い教育を実現するために、少しずつ進化していかなければならないのです。

すべてのインドネシア国民に質の高い教育を提供するという目標は、基本的に2000年から追求されてきた「持続可能な開発目標(SDGs)」との調和であり、最終的には2030年までに「世界の持続可能な開発目標」に到達する予定です。

SDGsの目標のひとつに「質の高い教育を みんなに」があります。政府は、すべての人に平等な質の高い教育を確保し、生涯学習の機会を支援することが期待されています。このアジェンダを実現するために、政府はインドネシア国民に質の高い教育を提供するための目標を設定しています。

インドネシアの教育システムは、先進国と言われる国の教育を真似ることが多く、多くの外国の学習システムモデルがインドネシアでテストされる、現場の条件を考えずに、忘れてしまうことがよくあります。 多くの島々からなるインドネシアは、地理的条件も違えば、インフラ設備も教育者も違うはずで、当然、同じ測定基準で測れるものではありません。同じ教育現場の状況に応じて複数の測定基準を設けるか、あるいは学校独自の測定基準を決めるイノベーションが必要である。

インドネシアの教育は成績がすべてであり、この方向性は、インドネシアの学生、教師、両親のほぼ全員が理解している。成績が良ければ良い生徒と言われ、成績が悪ければ悪い生徒と言われる。

著者によれば、これは間違ったベンチマークである。教育の本質は、成績を表すだけでなく、学生が理解し、生涯を通じて学ぶための刺激を与えることである。教育に革命を起こしたいのであれば、この概念を変えなければならない。なぜなら、教育とは成績という結果だけでなく、それ以上に「人間を人間らしくする」ためのプロセスだからだ。

教師が教育の先鋒であることは否定できない。しかし、その教育への献身に見合うだけの給与が、すべての教員に支払われているわけではありません。 同じ責任を担っていても、正社員と非正社員の間にはアンバランスがある。

特に非正規雇用の教員については、教員の福利厚生を充実させる必要がある。また、生徒のために最善で質の高い教育サービスを提供するという教師の本分を阻害しないような制度が必要である。 教師の管理業務が教育する義務より重くならないように。

したがって、インドネシアにおける教育の質の向上に向けた最初の基礎は、教育の方向性を変えることである。さらに、施設やインフラの充実は、教育のすべてのレベルにおいて、すべての都市、地区、小地区からすべての村まで、州内全域で均等に利用できるようにしなければなりません。

ポスト・パンデミックは、より良い方向に教育を変革する機運となるはずです。政府が打ち出したSDGsのターゲットとして教育を実現し、すべてのインドネシアの人々のための質の高い教育へと教育の方向性を変える必要があるのです。

・阿部聖史      栄東高等学校1年 医療の大切さ   

「誰ひとり取り残さない。」

このことを、今回はSDGsの10番目の目標「人や国の不平等をなくそう」について考えていきたい思う。

まずは国際的な観点から考えたい。

私は現在、学校の大きな取り組みの一つである「土曜AL」において、カンボジアの保健衛生の環境や意識を向上するための企画を考えている。企画発案の最中に、私は驚愕の事実を知ってしまった。「UHC(ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ)」といわれ、すべての人が適切な予防、治療、リハビリ等の医療サービスを、支払い可能な費用で受けられるかどうかを示す値がある。日本は182カ国中15位の85で、1位はカナダ。気になるカンボジアは61。主に先進国といわれている国々よりも20程度低い値になってしまっている。これを少しでも底上げするためにはどうするべきなのだろうか。一つの方法として先進国の援助により保健機関を作ることがあるだろう。しかし、これは中長期的な解決方法にならないだろう。ではどうすれば良いのか。私が考えるには、大学が医師や看護師、薬剤師などの輩出を増やすことが大事だと思う。そのためには、主に先進国にある大学が発展途上国に系列校を積極的に置くべきだ。大学側のメリットとしては医師などの輩出量の増加、発展途上国の政府からの援助を受けられる事が考えられる。

もちろん、発展途上国には足りないものが多いが、整った医療を敷くことで内状は良くなることを願う。

・谷山紗夏      横浜市立市場中学校 3年 地球のためにできること 

私は社会の授業でSDGsの存在を知りました。初めは「持続可能な社会」なんて意味がよくわからないし自分には関係ないと思っていました。ある時たまたまネットでSDGsのホームページを見つけ、私はそこで世界の現状を目の当たりにしました。飢餓、早すぎる結婚、人種差別、自分が毎日平和に暮らしている遥か遠くには考えられないような生活が送られていることを知って悲しくなったのと同時に甘い考え方をしていた自分を情けなく思いました。そしてどうすればこのような問題が解決され、人々が社会的にも精神的にも満足した生活が送れるのか、自分にできることは何か考えました。そこで私が行ったことは2つあります。

1つ目は環境によい生活を送ることです。私は今までの生活を見直してみて、ペットボトルを水筒に変えたり、ノートを端まで書くようにしたり、エコバックを持ってプラスチック包装されていない八百屋さんに買いに行ったりしました。意識をすれば環境にもいいし自分も気持ちよく生活できました。2つ目は寄付です。全部で12着ほどのもう着れなくなった服をお店に寄付しに行きました。回収された服は80の国や地域に持っていって現地の子供や大人にも渡されるそうです。自分が大好きだった服を違う国の誰かが大好きになってくれていると思うと自分まで得した気分になりました。

SDGsを達成するには、まずSDGsがどんなものか知らなければなりません。家族や友達に取り組みを話したり、作文やポスターを作ったり、意識する人が増えればこの地球はどんどんより良いものになっていきます。今後も私は自分でできることを少しずつやって、いつか国境をこえて世界中の人々が笑いあえる地球になることを願っています。

・渡邉香峰      創価大学3年/国立政治大学       地球市民とSDGs -私たちの心に国境はない-

ウクライナ侵攻により多くの人の命が失われ、核兵器というさらなる脅威への危機が高まるなかで、私たちは「戦争」という言葉の重みを感じ、「平和」に遠ざかる日々に無力感を覚える。一方、このウクライナ侵攻によって新たな課題が生じている。それは難民・移民の発生である。彼らは、祖国の戦争状態により常に安全保障が脅かされることから国を逃れ、はからずも慣れ親しんできた文化、生活、言語圏から切り離される。またより良い生活を求めて移動を図る「移民・難民」というレッテルが貼られる。本論文では、SDGsの「誰一人取り残さない」社会の実現に向けて私たち、市民レベルでの移民・難民問題へのアプローチについて自身の見解を論ずる。また、自分とは無関係に思える国際的課題を世界市民の共通認識であるSDGsを通して「自分ごと」として捉えることを目的としている。

難民とは、難民条約の第1条で「人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であることまたは政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けられない者またはそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まない者」と定義されている。また国際移住機関(IOM)によると「本来の居住地を離れて、国境を越えるか、一国内で移動している、または移動したあらゆる人」のことを指す。それらの要因は、紛争、迫害や自然災害が挙げられる。このように人間の安全が脅かされる状況により、長く険しい道のりを経て国境を越える者もいる。ここで最も主張したい点は、難民、移民は私たちと変わらない普通の人であるということである。私たちは難民・移民問題について考える時に彼らを「特別視」する傾向がある。日本の難民受け入れの例を挙げると、内閣府の世論調査で日本の難民受け入れに対して「少ないと思う」とする者の割合が54.6%である一方で、今後日本は、これまで以上に積極的に受け入れるべきだと思うか、それとも慎重に受け入れるべきだと思うかに対し「積極的に受け入れるべきである」とする者の割合が24.0%、「現状のままでよい」と答えた者の割合が15.8%、「慎重に受け入れるべきである」とする者の割合が56.9%という結果であることから、日本は難民の受け入れに関しては寛大であるべきだが、実際に難民を受け入れることに関しては、世論は一般的に慎重さを求めている。その理由の1つとして人々は「難民・移民」と聞くと犯罪の発生や治安の悪化というようなネガティブなイメージと結び付きが挙げられる。実際に2017年度における日本国内の移民に不法残留者を足した人数の犯罪率は0.4パーセントであることから、そのような思考プロセスは否めないが、健康、経済的、家庭と様々な状況が複合的に絡み合った結果から生じた犯罪であることも踏まえ、国民が差別意識を持たず、彼らの存在を建設の方向へ転換していくマインドセットが必要である、

コロナウイルスという新たな脅威が混在する今日、ワクチン接種の管轄はほとんどの場合国が責任を持つが、UNHCRは各国に対し、自国民だけでなく、ワクチン接種プログラムに祖国を逃れた難民や移民にも手を差し伸べるよう求めている。国が彼らのために特別な“何か”を設け社会から分断することは国民の差別に繋がり人と人の間にさえ分断をもたらす危険性がある。だから、今いる私たちの場所に彼らをインクルードしていくことで、国民の不安や不満を和らげ、難民移民自身の尊厳を傷つけない方法に繋がるのではないかと考える。私たちと何も変わらない、同じ地球上に住む地球市民として「誰一人取り残さない」世界を目指し、同じ目線で相互に価値を共有できる実現の仕方を模索していきたい。

・原田篤弥      梅光学院大学2年 子ども学部     1万6000人。これは何の数に思えますか? 

1万6000人。これは何の数に思えますか。日本の公立小学校・中学校・高校に通う外国籍の子ども達の数は約3万4000人。この数は、10年前の約1.5倍と年々、数を増やしていっている。また、その内、約2割にあたる1万6000人もの子ども達が様々な事情により、日本の公立学校に通えず、就学不明となっているという実情がある。

こうした、通いたくても通うことができない外国籍の子ども達は、どのような理由で通うことができないのだろうか。例えば、子どもたち同士のコミュニケーションが取れずに、いじめにあってしまうことや、日本語で行われる授業についていけないなどの様々な問題があると感じている。こうした、外国籍の子ども達も含め、全ての子ども達を取り残さない学校づくりについて考えていきたい。

近年問題となってきていることが、ウクライナとロシアによる戦争の影響でウクライナからの避難民受け入れによる外国籍の子ども達の急激な増加があげられる。ウクライナではロシアからの攻撃で、自分の家族や友達、その家族など多くの人々が殺されたり、学校が破壊されたりとウクライナの子ども達は特に他国に避難を行い、よりよい学びをすることが求められている。そのため日本にも多くのウクライナ国籍の子ども達が避難し、全国の公立学校に通学をしている。だが、そうした日本での教育では言語など様々な問題から完璧な教育は難しいのが現状である。そのため京都教育大学がウクライナの言語に訳したものを無料配信するなど教育で少しでも取り残さない取り組みは日に日に増えてきている。

これらのことから、子どもたち同士の中で特に問題となっていることは、言葉の壁があるだろう。日本人は日本語を、アメリカ人は英語を、中国人は中国語をなど、それぞれの国々によって母語となる言葉が存在し、コミュニケーションのとり方すらも変わってくる。そのため、他国に行くことになってしまうことで人との日常会話さえもできず、そして遊びに行くこともできないという負のスパイラルとなってしまい、関係性が築けなくなってしまう。そうなってしまった子ども達の多くは学校に行くことも嫌になってしまい、不登校などとなり、学校での教育を受けないまま、大人となってしまう子ども達が多くいる。

そして、授業における外国籍の子ども達の問題で抱えている問題は、日本語の授業についていけないというものである。もちろん、教員は外国籍の子ども達にも分かりやすいような支援や声掛けは行っているはずだ。だが、こうした問題点が出てくるのには、教師の働き方や人事の問題も多くあるのではないかと感じている。教員は一人で基本的に30人近くの子ども達に指導などを行うため、外国籍の子ども達の支援を細かく行えている教員はそう多くはないのではないだろうか。教員のなり手は年々減少し、外国籍の子ども達は年々増加しているため外国籍の子ども達にきめ細かな支援を行うためにも教員数を増やすことは喫緊の課題であるだろう。

小学校教員を目指す私自身、実際に現場を見に行く機会もあり、そこでは実際に外国籍の子ども達に支援を行う姿は見てきたことがあった。授業の中にはその子ども専門でつく教員の姿もあったが、ほとんどの場合、担当教員がつくことは無く、担任の教員が見たり、周りの子ども達が翻訳機を片手に確認したりする姿が見られた。このような現状では、どうしても外国籍の子ども達が、学習内容でつまずいてしまった時にすぐに尋ねることができない問題や他の配慮の必要な子ども達への対応などがどうしてもおろそかになってしまうのではないかと思う光景を目の当たりにした。

こうした、年々、外国籍の子ども達が教育現場に増加する中、全ての子ども達が勉強し、これからの日本、そして世界を、担う子ども達の学ぶ権利を奪わないよう、平等な教育とは何かを考え、誰ひとり取り残さない学校教育を今見直すべきである。そして、教育を受けた子ども達の未来には笑顔となり、世界で活躍する姿を信じて私自身教員の夢も叶えていきたい。

・海老駿汰      梅光学院大学 子ども学部・2年   ひとりじゃない 

「誰ひとり取り残さない」私はこの言葉を聞いた時に、「誰もひとりではない」という風に捉えた。取り残さないというのは、その人を必要としている、つまりどんな人でも誰かから必要とされていると感じたからである。取り残さないとは、ひとりにしないということである。人は生まれた瞬間から孤独ではない。親がいて、家族がいて、友人がいる。どんな人でも孤独で生まれてきたわけではない。しかし、愛情を受けて生まれてこなかった人、捨てられた人。この世の中には残念ながらそういった人が多く存在する。確かにそのような人は孤独なのかもしれない。そのような人を社会から見捨てず取り残さない、孤独にしないということからこのSDGsの基本理念があるのではないだろうか。

先ほど述べたような人たちが、日本だけではなく世界各国に多く存在する。日本では、親など大人からの虐待、学校でのいじめ、また貧困などによって社会に出ることが難しい人達がいる。しかし、世界に目を向けてみると戦争や紛争により家や家族を失った人が存在する。権力者の身勝手な行動で失われるはずもないものが失われていく。このように世界には日本とは違う形で社会に取り残されている人がいる。このような人たちに手を差し伸べ共に歩んでいくことができることが、誰ひとり取り残さないことになる。その人たちに孤独を感じさせない、自分は必要とされていると思って頂けることがゴールではないだろうか。

では、私にはどのような事ができるか考えた。私は現在、小学校教員を目指して大学に通っている。現在子どもへの虐待、また学校でのいじめ問題が深刻化されている。それにより学校に行くことができない、学校が嫌い、人に会うのが怖いといった児童が出てくる。私はそのような児童を作らない。虐待の多くは親が原因であり、愛情を受けて育つ児童が少ない。家庭との連携が大切になっており、児童の小さな変化にも気づいてあげられることが支援の手立てである。学校におけるいじめは、授業でいじめの教材などを取り扱い、いじめが起きた後の対処ではなく、いじめを起こさないようにすることが大切である。また、このような被害に合ったこどもの多くは、自分をふさぎ込んでしまうだろう。自己存在感を与えることが「取り残さない」「孤独にさせない」ということに繋がるのではないだろうか。では、どのようにして自己存在感を与え高めることができるだろうか。私が教師の立場ならば、クラス全員がお互いの存在を尊重できるようなクラス作りを行いたい。例えば、学級全体が揃う事の喜びを教える。そのことで、児童一人一人が自分は必要とされていると実感することができ、自己存在感を高めることができるだろう。また、児童に寄り添える心優しい教師になりたい。誰ひとり取り残さない、一人一人の存在を尊重できることが求められる。私の学級ではいじめを起こさないという強い気持ちで教師という役職に就きたい。中途半端な気持ちで児童に向き合っても、児童の心を開くことはできない。孤独の児童を作らないということに必要な事は、本気で児童一人一人と向き合うことである。私は、そのような気持ちを持ちこの道を歩んでいる。それがこの「誰ひとり取り残さない」というSDGsの基本理念に沿っていることがとても喜ばしい。また、世界でも勉強ができる環境ではない子どもが存在するだろう。私のような日本から出たことのない大学生では、できることは限られているだろう。しかし、全世界の子どもに限らず厳しい状況下にいる人達全てが平和に過ごせるようにと祈ることはできる。日本は諸外国と比べ、今の暮らしが当たり前になっている。この暮らしに満足するのではなく感謝し、他の国々の方の幸せを願う。それが今世界に向けて私ができることだろう。誰ひとり取り残さない、いや誰もひとりではないと思えるような世の中を全員が思うことができたのならば、このSDGsの基本理念も当たり前のようなものになってくるだろう。孤独になることは誰だって寂しい。そこへ手を差し伸べる勇気があれば孤独というものが無くなり、社会に取り残される人もいなくなるだろう。

・平山絢菜      立正大学1年    自信を持つことと主張すること   

どこかで、「普通の人間」として生きることを諦めているのではないか。もちろん責めたいわけではない。いやむしろ、諦めるのも無理ないと思う。今まで生きてきて、様々な、本当に様々な場面で、私たちはきっと取り残されてしまっていたのですから。

学習性無力感という言葉が存在する。私たちが何度も輪に入ろうと努力しても入れなかったりしているうちに、何をしても無意味だと思えてしまって、もう頑張ろうとも思えなくなることだ。

私たちは、みんな、誰一人取り残されないと、自分を信じて主張を止めないことが最もいいのではないか。傍若無人に振る舞えと言いたいのではなく、私も「普通の人間」であると、信じることである。どこまで足掻いても、世の中は平等なものではなく、理不尽が溢れている。目で見えていても、いなくても、私たちにはそれぞれの苦しみを抱えている。もっとも取り残されている人というのは、幻のようなものであって、どんな側面であれ、みんなが取り残されている。それを、みんな一緒なんだから我慢しろとは言わない。私たちには、普通に生きる権利が誰にでもある。それを信じ、主張することが誰一人取り残さないために我々ができることなのではないか。

・小松洋翔      札幌開成中等教育学校2年 自己実現のための投票   

SDGsの基本理念に「誰一人取り残されない」という言葉があります。誰一人取り残さないと訳されることもありますが、自分も世界や社会に取り残される可能性は常にあるので全体として誰も取り残されないような世界を作るという意味で「取り残されない」という言葉を使います。今回はこの理念の達成に何が必要かについて、普段あまり気にしない視点でSDGsについて考えていきます。

SDGsと言われると多くの人が連想するのが17のゴールでしょう。これは一番アイコン的な効果があり、多くの人に馴染み深く広く知られているものですが、17の目標には169のより詳細なターベットと五つの根底になるものがあります。今回はその根底である5つのPについて見ていきます。

五つのPを知ることはは、SDGsが根底にはどのような目的があるのかがわかります。すべてPから始まる英単語から来ており、「People(人間)」「Prosperity(繁栄)」「Planet(地球)」「Peace(平和)」「Pertnership(パートナーシップ)」となっています。

Peopleは分かりやすいと思いますが、人々の尊厳と平等などを大事にしており、ただ健康に生きるだけでなく人間らしく生きることを強調しています。そのため人々が個々のスキルを発揮する世界の実現というものを大事にしています。

ProsperityとPlanetはある意味対照的に見えますが、発展と地球の環境維持は持続性のために必要であるためバランスが求められることがわかります。

そして様々な問題の解決の糸口になってくるのがPeaceとPartnershipです。平和を維持するために戦争をやめることは、単に争いがなくなるだけでなく、飢餓など戦争による二次災害的な面も解決することになり結果として多くのメリットがあります。パートナーシップも多くの国が協力関係を持つことはあらゆる点での解決に大きく貢献します。

このようにSDGsが抱える理念を見ていくと、単に私たちができる問題も多くありますが、それ以上に国としての協力関係が取り残される人一人一人にフィーチャーするよりも明らかに効率的であり効果的であることがわかります。国によって人々が苦しめられているのが現状であり、それを解決するのも国なのです。そのことから私たちはあらゆる点で取り残される人に着目した時に、国を良くすることを目指さなくては行けません。飢餓といった観点では多くの日本人は取り残さない側に回りますが、人々の持てる能力の発揮などの点は日本はまだまだ取り残されている側かもしれません。国を良くすることはこれらの解決になるため、少しでもできることはあります。

日本は選挙の投票率が極めて低い国です。この問題の解決に必要なのは主体性が自己実現には必要だということを理解することです。わずかな時間を費やして投票することで多くの時間やメリットを手に入れることができます。選挙に参加することは結果的に私たちに意味があることになります。

・Fadiel       Daffa   ブラウィジャヤ大学3年  備えあれば憂いなし     

2022年11月21日にインドネシアの西ジャワにある町で地震がありました。そのまちはチアンジュールと言います。地震のせいで、チアンジュールにいる人たちは、300人ぐらい死んで、1000人がけがして、20人が消えました。ですから、このことは今年で一番大きな事故の一つです。チアンジュールのみんなが両親や子供を失った人もいるし、家が壊れた人もいるのです。その暗い景色を見ると、泣きたいほど悲しかったのです。

一方で、この事件から嬉しいことと感動されることを見ることができます。それはインドネシアのみんなのやさしさです。インドネシアは美しくて、優しい心を持つ人々がたくさんいます。この事件のように起こったら、皆はいつも被災者を助け合います。お金だけじゃなくて、直接に現場へ行った人も少なくないです。それはインドネシアの力の一つです。どこの人でも、どんな人でも、何も差別しないで、必ず手を差し伸べます。インドネシアはいろんな人がいるからです。

皆のやさしさは良いことですけど、この自然事故がまたどこかで起こった場合、影響を減らすために、解決策を考えなければなりません。その解決策は政府と社会が協力することが必要です。そして、 協力できれば、習慣にするべきです。それで、みんながもっと準備して、この事件のようにまた起こらないと思います。 解決策また準備するべきことは失敗や事件の影響を学ぶことではなくて、未来には何か可能性があるのを知ることです。そのためには、自然災害に対する訓練が必要で、地震に負けない安全な家を作らなければなりません。その二つのことは、政府が真剣に準備して、特別な人ではなくて、一般な社会へ説明しなければなりません。説明してから、みんながその知識を持って、自分のことや家族を守ることができると思います。地震が起きるときに、もう準備できたからです。

つまり、 この悲しいこと、この事件、この辛い思いでがまた起こらないように、いろいろな準備することが非常に必要です。失敗から学ぶことがよいけど、未来を見る方が正しいです。起こったことはもう起こったから、何も変えることができないということです。あることわざこういいます、「備えあれば憂いなし」。意味は、もしものことを想定してあらかじめ準備しておけば、何か起こったとしても心配ないという意味です。 何の活動でも、何のことでも、このことわざを覚えて、心が安心すると思うから、覚えていてください。そして、未来の自分や家族を残さずに守りましょう。

・Styasari Ava Silvi    インドネシア国立ブラウィジャヤ大学3 年生 

女性には自分の生き方を選択する権利があります。       

多くの人は、女性は高等教育を受ける価値がないと考えています。 彼らは、女性は最終的に専業主婦になるしかないと考えています。 だからこそ、多くの女性があえて才能を発揮せず、黙っていることを選択します。しかし、私は女性にも高等教育を受ける権利があると思います。今は男性だけがリーダーになるだけでなく、女性もリーダーになれるからです。 専業主婦にしかなれないという憶測が飛び交い、いまだに顔を出さずに身を隠している優秀な女性がたくさんあります。

映画を見ていると、キャリアウーマンとして成功している女性を多く見かけますが、現実にはそのような人はまだ少なく、特にインドネシアではそうです。その理由のひとつは、先にも述べたように、「女性とは弱いものだ」と考える人がまだ多いからです。ここでは、女性たちが心を開き、自分が思っている以上になれるという自信を高めてほしいと思っています。 女性には、周囲の目を気にすることなく、自分の成功に向かって冷静に歩んでほしいと思っています。

女性は専業主婦にしかなれないと思っている人たちの考え方の続きで、家庭の仕組みについて少し触れたいと思います。社会生活において、一家の主が男性であることは専売特許だが、そうすると女性に対して勝手な態度は取れません。世帯主である彼らの多くは、家族を守ることはしません。それどころか、多くは女性に性的暴力を与えます。それが家庭の中で普通なのだろうか?という疑問から、「普通ではない」という答えにたどり着き、私はこのことについて声を上げたいと思いました。男性に頼るばかりでなく、女性も自分の家庭を管理することができると思います。女性は自分自身と、場合によっては子どもたちを養うために働くことができます。男性からの毎月の支払いを待つ必要はなく、彼女自身で処理できるはずです。

この問題の解決策は、男女共同参画の社会化活動をもっと頻繁に行うことです。大都市だけでなく、遠隔地の村にも足を運び、世界中のすべての女性に均等に知識を伝えることが必要と思います。

・木村友香      玉川大学2年    誰もひとりじゃない     

「誰ひとり取り残さない」膨大なテーマではあるものの、本当に大事なことだと思う。私も取り残されてしまうのではないか、孤独になってしまうのではないかという不安に襲われたことがある。

私は小さい頃から身の回りの不幸が多かった。幼稚園の頃おばあちゃんを亡くした時、幼いながらに死の呆気なさを感じたのをよく覚えている。その時は本当の意味での死をわかっていなかった。私にとってのターニングポイントは、おそらく中学生の頃父を亡くしたことだった。父は強くて優しくて、仕事からもいつも真っ直ぐ帰ってきてくれて傍にいてくれた。そんな父が、私が小学生の時病気になった。入退院を繰り返していた父を見て、痩せていく父を見て「いつかはいなくなってしまうのではないか」と思い、言葉で表すことのできない寂しさがあった。寂しかったけれど、生きててくれて、会うことができたから悲しくはなかった。何でもいいから生きて傍にいてくれれば良いと思っていた。しかし、そんな思いも束の間、父は亡くなった。数日前まで普通に話していたのに、もう二度と話すことができなくなってしまった。当たり前にいた人、当たり前にあった生活はなくなった。辛かったけど、残された家族は生き続けるしかなかった。それからしばらくして、今度は母がくも膜下出血で倒れた。病院にいる母を見て、涙も出てこないで、ただ震えていた。身の回りの人を失う事の恐怖をわかっているからこそ、怖かった。「どうして私ばかり」と何度も思った。様々な恐怖との葛藤があったけれど、母は手術を頑張って乗り越えてくれた。そして今も生きて私の傍にいてくれている。これがどんなに有難いことか、当たり前だと思っている環境が続いていることがどんなに有難いことか、今の私にはよくわかる。世界には、私と同じような思いをした孤児、遺児がたくさんいると思う。家庭の状況や今置かれている状況がたまたま他の人と少し違って、やりたいことができなかったり選択肢が狭められてしまっている人もいると思う。。私もそのひとりで、欲しい物ややりたいことを諦めたことが何度もあった。でも今、私は大学に通うことができている。通わせて頂いている、凄いことだと思う。今ある環境が当たり前だなど決して思わない。いきなりガラッと環境が変わってしまうことを経験したからこそ、今をより大切にできる。

私は今幸せだ。だからこそ今より多くは求めず、同じ思いをして苦しんでいる人の力になりたい。その思いから、私は年に二度ある孤児や遺児への募金活動には必ず参加する。そして何より、周りの人を大切にする。母が私をひとりにしないでいてくれたように、私も誰かを取り残したくない。誰かのSOSに気付ける人でありたい。

・Asa Adzkia    ブラウィジャヤ大学3年  スラム地区の世帯の栄養不良     

大都市では栄養が問題になることが多い。特に近隣地域はそうです。ジャカルタの栄養失調は、都市化によって急増した違法居住区で多く発生している。ジャカルタだけでなく、バンドンなど他の大都市でも。インドネシアの無秩序な人口は、貧困、失業、犯罪などの社会問題を引き起こすため、地域社会の栄養失調の問題につながっています。サバンからメラウケまで、インドネシアの多くの地域で栄養失調の問題があり、毎年、栄養失調の患者数が多くなっていることが心配されています。このことは、政府と社会のあらゆるレベルにとって重大な関心事であるはずです。

栄養失調は、体が必要とする栄養が一定期間内に満たされないため、脂肪層や内臓層の下にある蓄えた食物を分解してしまう状態です。家族の栄養不足は、家族の子育て(親の行動)、環境衛生(衛生)、食料が買えない(経済)、教育不足(教育)が主な原因であると言われています。グレーゾーンが多いからこそ、そうした問題が起こりやすいのです。

栄養失調は、体や健康に悪影響を及ぼします。栄養失調になると、体重が急激に減る、集中力がなくなる、肌が青白くなる、疲れやすくなる、髪が抜ける、などの症状が現れます。さらに、栄養失調は、ベリベリ病や貧血などの危険な病気にかかることもあります。

栄養不良の問題は、人材の質の低下への影響とその原因要因の両面から、非常に広範な次元に及んでいます。栄養失調は、直接的または間接的に知能を低下させ、成長と発達を妨げ、生産性を低下させる。

栄養失調による死亡率の高さという問題に対処するには、政府と地域社会が関与して栄養失調を管理する必要があります。栄養失調のすべてのケースに適切に対応できるようになることが望まれます。栄養失調の克服には、健康面という一つの側面だけでなく、すべての側面が関わってくるのです。栄養失調の問題を解決するためには、栄養教育プログラムの実施、コミュニティのエンパワーメント、コミュニティの意識向上、食料部門の増加、保健サービスの活性化などが必要です。サービスの役割は、健康診断プログラムを実施することですが。

情報不足で栄養失調の問題が認識されていない近隣の状況を見て、私が提案するのは、政府がボランティアを派遣して近隣の人口を記録し、栄養失調の危険性を克服することの重要性を伝える手助けをすることです。また、地域住民の方々は、病気が蔓延しないように環境を清潔に保つことに協力できます。また、すべての住民が熱心に健康チェックを行うことが奨励されてと思います。

・ルシダ ニルナ        ブラウィジャヤ大学3年 

せいしんしょうがいにちゅういしましょう(精神障害に注意しましょう)

人生において、健康は最も重要なことの一つです。健康でなければ、人間活動に大きな支障が出てしまいます。

健康について語るとき、多くの人は身体の状態だけを思い浮かべます。それでも身体の健康だけではなく、精神保健も非常に重要です。身体の健康が良くない人と同じように、精神障害にかかえると、その人の思考や、感情や、気分などの状態が大丈夫でなくなるから、人間としての活動には支障をきたすようになります。

精神障害と言っても、うつ病や 気分障害や 不安障害など、様々な種類があります。世界保健機関(WHO)によると、精神障害の中で最も多いのは、うつ病と不安障害です。そこに、世界中で発生しているコロナウイルスが加わり、人々は家から出ることを制限されることになったから、うつ病をかかえた人と不安障害をかかえた人がふえてしまっています。

それぞれの精神障害には、害を及ぼす危険性があります。例えば、うつ病にかかえた人は、もう我慢できないと、人生を終わりにする危険性があります。したがって、精神障害にかかえた人は、分野の専門家である心理学者や精神科医の助けを得ることが強く望まれます。

しかし、このことは、まだ多くの人々や 精神障害者の本人に無視されています。その結果、精神障害はなかなか乗り越えられず、または治りません。また、その後、精神障害にかかった人が、自分だけではなく、まわりの人にまで危害を加えてしまうことが心配されています。したがって、学校では、精神障害について、その種類や危険性、また、精神障害になった場合にどのような対処が必要かという一般的な知識を提供することができればよいと思います。そうすると、将来、精神障害者が周りの人から見下されることがなくなり、また、精神障害者が心療内科や精神科に行かないことで、自分の気持ちを無視することがなくなるのではないかと思っているのです。そして、精神障害をかかえた人々が、社会の中で安全に、そして安心して暮らせるようになることを願っています。

・Affandi      Fariz Hilbran   ブラウィジャヤ大学の3年生        再生可能エネルギー     

インドネシアは現在、非常に急速なグローバル化のプロセスを経験しています。このグローバル化の時代には、当然ながら大きな基盤として大きな資源が必要です。しかし、今までは非常に速い技術開発と使用する資源のバランスがほぼ重なっていました。インドネシア自体、コミュニティで使用する資源は再生可能な資源ではなく、まだ古いものです。

古い資源はそれ自体が環境に多くの悪影響を及ぼします。古いエネルギー資源の結果の残骸の結果、多くの環境が汚染されているのです。環境へのダメージに加え、インドネシアでは資源の分布がまだ偏っており、大都市だけが再生可能な資源を完全に利用できるのです。例えば、私の住む村では、今でも多くの人がガスや灯油を調理器具として使って生活しています。今はより効率的な電気ストーブのように使える新しい資源があるにもかかわらず、です。新しい資源に切り替えたくない理由は、インドネシアの人々の多くが高齢者であることを考えると、不便に感じるからです。また、インドネシアはまだ発展途上国です。

この10年間、新しい政府が代替エネルギーの利用を導入してきた。代替エネルギーそのものは、多くの外国でとっくに発見され開発されているため、遅すぎたと考えられている。インドネシア政府は、農林産業廃棄物をエネルギー源として産業と一体的に利用すること、バイオマス開発と地域の経済活動を一体化すること、バイオマスエネルギー変換技術の製造と支援事業を奨励すること、廃棄物利用に関する研究開発を強化することなどにより、バイオマス開発に取り組んできた。

インドネシアには、主に国家の電力管理などのニーズに対応できる代替エネルギー源の可能性があります。これらのエネルギー源のいくつかは、地熱や地熱エネルギー、海洋波力エネルギー、風力エネルギー、潮力エネルギーから得ることができ、また原子力エネルギーはあまり使われていないかもしれず、インドネシアではまだほとんど使われていない再生可能エネルギー源と考えられているものである。

また、政府は、再生可能エネルギープロジェクトを加速させる努力の中で、ガバナンスを改善するための支援策を出さなければならない。これは特に、許認可の容易化、エネルギー鉱物資源省でのオンライン許認可システムの実施、 データ・情報の改善、地熱発電事業のモニタリング・評価の実施と問題解決の促進、人事基準・ 認証の改善という形で実現される。

・Darma Igor Darma Basmala     ブラウィジャヤ大学3年生 汚染された水   

日常生活では、教育面をはじめ、衛生面でも毎日必ず多くの問題が存在します。すべては人自身から始まる。汚染水などの問題を例にとれば、それも人間に起因するものであることがわかるでしょう。無造作に木を切り倒すような。そこで、国連が作成したSDGsには、こうした社会生活における既存の問題を解消するための17の開発目標が掲げられています。これらのSDGsは、社会生活に存在する17の問題の解決に貢献する準備ができている2030年までの未来に実施されます。そこで、以下では、身近に存在する問題の一つを取り上げます。問題は、きれいな水の減少の問題です。

水は生活には欠かせないものです。例えば飲むこと、浴びること、洗濯することです。その例から、水はとても必要です。でも、今の水はゴミに汚染され、水が汚れになってきました。インドネシアではあるニュースが報告されました。そのニュースはインドネシアの水が70%ほど汚染されたというニュースでした。このデータは、2万種類の水を調査して得られたものです。今はインドネシアの水が汚れています。原因は色々あります。それは無差別伐採から川にゴミを捨てる人もあります。だから、もしインドネシアの水飲みたい時、沸かしたほうがいいと思います。

こうした既存の問題点から これらの問題を克服するためには、いくつかの戦略や解決策を立てることが必要です。第一の解決策は、その場所にゴミを捨てることです。このような小さなことから、この問題にはとても役に立つのです。ゴミがその場所に捨てられれば、この水問題にとって非常に良いことだと思います。インドネシア人の多くは川にゴミを捨てることが多いので、周りの水にも悪影響です。なぜなら、ゴミは細菌を発生させ、病気の温床になるからです。そしてもうひとつは、木をきちんと切ること、つまり、本当に切るべき木を選び、ただ選ぶだけの伐採はしないことです。なぜなら、この時代、多くの人が木を切るだけで、植え替えもしないのですから。木があれば、木の根が水の浄化に役立つので、土壌にとって木はとても重要です。2つの解決策のうち、問題を克服するのに役立つかもしれません。地域社会として、おそらく直接できる最初のステップは、人々に注意を喚起し、これらの解決策を実行することでしょう。このようなことを継続的に行う人が増えれば、汚染された水の問題は二度と起きないはずです。

・Anantya       Raihan インドネシアのブラウィジャヤ大学3年生        若者の結婚

インドネシアでは昔から今まで結婚文化が変わりません。何歳でも結婚することができます。なぜなら、まず経済的な理由です。インドネシアでは教育よりお金をもらうのが大切です。お金さえあれば、何も心配しません。お金をもらうのは簡単じゃありません。それに、仕事を探すのは難しいです。経済が悪い人は見合い結婚をします。経済が悪い人にとって女性の教育はそんなに必要ないです。特に村で、若者の見合い結婚がよく行われています。普通は妻のほうが夫より若いです。例として、中学校の友達がまだ13歳の少女でももう結婚しました。そして、彼女の夫はもう21歳です。ちょっと、寂しいですが、私は何もできません。そんなに若いのに、彼女の未来と自由を奪われました。今、彼女はもう21歳です。そして、彼女の娘は6歳です。結局、彼女はただ小学校を卒業しただけです。彼女の結婚理由は見合い結婚です。それはその村の文化です。その村で若者の結婚は普通です。全てはお金のためです。なぜなら、教育費が高いからです。お金がない家族は子供を見合い結婚したほうがいいです。結婚したら、もう教育費を考えないと思います。

若者の結婚の理由は経済だけじゃありません。他の理由もあります。例として、若者のカップルが限界を超えて妊娠しました。そのカップルはまだ高校生です。18歳未満の女性は妊娠することが危険です。死ぬ可能性が大きいです。それから、そのカップルの真実を隠すために結婚しました。まだ、卒業しないのに、もう結婚しました。結局、そのカップルの教育は未完成です。教育が未完成だったら、仕事を探すのが難しいです。そこで、経済の問題は解決することができません。そして、若者の精神的な部分はまだ未熟です。そこで、若者は簡単に怒ります。少し疲れましたが、すぐ怒ってしまいます。そして、若者の考え方が大人と違います。問題があったら、大人は冷静に問題を解決することができます。しかし、若者は簡単にパニックになります。最後は、若者の結婚は離婚の可能性が大きいです。なぜなら、まだ青春が足りませんでした。彼らにとって、人生はもうつまらないです。自由が欲しいです。それに、若者の結婚は簡単じゃありません。家族として生きるのは単純じゃありません。色々教えてくれるはずです。例として、お金や、食べ物や、家や、子供です。しかし、若者はそんな事を考えない。私にとって、人の自由は大切です。若者は青春と教育が一番大事です。結婚は大人になる近道じゃありません。大人になるためにもっと勉強して、そして、楽に生きることです。もう大人になったら、結婚することができます。未来を考えると人生はもっと楽になると思います。

・大西未桜      玉川大学2年    差別をなくすために     

男女平等の壁はかなり高いと感じている。以前に比べれば差はなくなっているのだろうがそれでも依然として男だから、女だからと性別で区別されることが多い。

男女の賃金格差や女性の性的被害、国会での女性議員の少なさなど挙げるときりがない。

家庭においても男は仕事、女は家事といった思考が強く、亭主関白という言葉があるほどだ。

男女の賃金格差も女性差別の一つで2021年の男女の賃金格差は22.1%もあるといわれている。サークルでも会長は男性と決まっていたり、「女なんだからこうしなさい」と言われるなど男女差別は身近なところにも多くある。

ではなぜ男女差別が起こるのか。社会において男性が優遇されるのはなぜなのか。

男女差別はかなり昔から行われてきた。女性が選挙権を持つようになったのは昭和からで、女子の高等教育は明治になってからと男子に比べてかなり遅い。このような女性差別が起こる背景には宗教的背景と昔からの文化がある。イスラム教では女性より男性の方が身分が高いという教えがあり、ヒンドゥー教にも女性差別に該当する慣習がある。さらに仏教でも女性は仏になることはできない、女性は男性に生まれ変わることで成仏できるといった女性差別に該当する思想がある。文化的な面では、日本では昔から男性は外で働き、女性は家事を行うと考えられていました。世界でも貧しい国などでは女性は働かずに家事を行うとされており、十分な学習が受けられていない。

ではどうすれば男女差別はなくなるのか。まず職場環境を整えることが大切だと考える。育児休暇が取りやすかったり、保育施設の完備など職場なら女性も働きやすくなるだろう。また、賃金格差をなくすために法律で禁止することも必要だと考える。企業に任せるのではなく法律で定めることで確実に格差をなくすことができる。イギリスなどではジェンダー表現のある広告を削除するようにしている。広告など多くの人の目につくところから変えていくことが大切である。ニューヨークでは男性トイレにもおむつ交換台の設置を義務化している。おむつ交換台が女性トイレにしかないのは女性が育児をするものといった決めつけに過ぎない。男性トイレにも設置することで決めつけられた役割意識を排除することにつながる。

このように外国では次々と男女差別をなくすための対策をしている。しかし日本ではまだまだ差別があり、対策も進んでいない。男女差別に限らず、差別をなくすには自分たちの意識を変えなくてはいけないがしかし強く根付いた固定概念はなかなか変えることができない。きっと差別をなくすにはかなりの時間がかかるだろう。差別をなくすことは誰かのためでもあり自分のためでもある。差別は絶対にあってはいけない。

・Adityo Ferdiansyah インドネシア国立ブラウィジャや大学の3年生        ゴミを不用意に燃やす

ゴミは社会の深刻な問題です。ごみを減らす方法の 1 つは、ごみを燃やすことです。実はゴミを燃やすのはいいことです。ごみを燃やすことで、ごみ

の量を減らすことができます。ゴミを燃やすのは誰でも当たり前のことです。でも、ゴミを不用意に燃やすなら大変なことになります。私たちはごみ焼

却炉でごみを燃やさなければなりません。ランダムな場所でゴミを燃やすと、火災が発生する可能性があります。ゴミを不用意に燃やすと火災の原因に

なります。ごみを不用意に燃やすことは、環境汚染の原因にもなります。

私の近所にはゴミを不用意に燃やす無責任な人がたくさんいます。彼らは私の隣人です。彼らは人々の家の近くでゴミを燃やしています。火災が発生

する可能性があるだけではなく、煙は呼吸の妨げになります。私はそのことに嫌いです。燃やされるプラスチック廃棄物も有害な化学物質を生成します

。したがって、廃棄物を燃やす前に、廃棄物を分別する必要があります。ゴミを燃やすことによる臭いも人々を悩ませる可能性があります。燃えるゴミ

からの煙もドライバーの視界を妨げる可能性があります。煙による大気汚染は、人間の健康に影響を与える可能性があります。 これらの大気汚染物質に

さらされた人々は、目や鼻の炎症、呼吸困難、咳、頭痛を経験する可能性があります。ゴミを燃える場所がないので、ゴミを不用意に燃やすのかもしれ

ません。彼らは悪い人ではありませんが、無分別にゴミを燃やすことの危険性についての知識が不足しているだけです。彼らはまた、ゴミを適切に燃や

す方法を知りません。

廃棄物が多ければ多いほど、政府は各地域でより多くの廃棄物焼却炉を準備する必要があります。ごみ焼却炉も住宅地から離れた場所に設置する必要があります。焼却炉あれば、社会かってに不用意に燃やさない と思います。社会は、どの廃棄物が安全に焼却でき、どの廃棄物が安全に焼却できないかを理解する必要があります。廃棄物の無分別焼却の危険性について、一般の社会に教育する必要があります。ごみを燃やすだけでなく、廃棄物をリサイクルして廃棄物を減らすこともできます。また、買い物の際に自分の買い物袋を持参することで、ゴミを減らすことができます。ゴミの多くはプラスチック製の買い物袋から発生しているからです。私もまだゴミの正しい燃やし方を勉強中ですが、近所の人に教えてあげたり、誘ったりして、正しい燃やし方を身につけたいと思います。

・米田真夏      玉川大学2年    性的差別から誰一人取り残さない 

私はSDGs目標5に掲げられるジェンダー平等に向けた現状について述べていきたい。この項目には人身売買や早期結婚を始めとした女性、女児に向けた差別を撤廃するための目標である。特に私は未成年者の結婚と未来ある女性たちへの性的暴力の現状を知った時には驚いて言葉が出なかった。まず初めに抱いた感情としては「なぜ?」の一言に尽きたが、その現状から脱することのできない理由があるからこそ差別が終わりのないものとして扱われてしまっていると感じたため、私のように現在起こってしまっている悲しい現実に目を向けることもなかった人たちがまず知ることが重要だと実感した。

たとえ同じ女性としてこの世に生まれても国や地域といった環境が違うだけで輝かしい未来が潰され取り残されてゆく人たちがいるという現状は少しずつでもアクションを起こしていかなければそう簡単になくなるものではないと思う。児童婚については彼女たちの意思が反映されることもなく、生きてゆくために必要だから、慣習だからというようなたった一言で片づけられてしまうことが現状である。このような事実を知ると同時に私は当の本人である彼女たち自身も「仕方のないこと」として捉えてしまっている事例もあるのではないかという考えが過った時に、とても恐ろしいことだと感じた。小さいうちに結婚をすることで日本における初等教育ですら受けることが出来ないのだから教育における平等も実現することは出来ないまま彼女たちは教育的にも不利になり将来が狭められてゆくと考えると悪循環でしかないのだ。これは明らかなる差別であり慣習などと言っていられない現実が繰り広げられている。ただ、経済的困難の影響というのは世界的にも手も貧富の差はこれまでも埋まることなく進んできた。やはり国が違う以上景気や制度も明らかに異なるのだから経時的な援助や心の支援などできることから少しずつ進めていくことがたとえ小さな一歩でも大きな進歩だと思う。

女性における差別はSDGs目標16に掲げられる平和と公正において取り残されている現状にある性的少数者も同様にジェンダー平等の目標にも大きく関わってくる問題だと考える。これにはもちろん取り残されている人の中に男性も含まれる問題だが自分の性別や性的指向を基に区別が成され差別へと繋がってしまう事象許されるべきではない。自分が生まれ持った性別によって強制的に未来を遮断され、自分が生まれ持った性的指向がマイノリティであるからといって法にも守られず自由に生きることが出来ず、それもまた自分の生まれた環境によって待遇が異なるのだからこのままでは人生すべてが運で成り立っているといっても過言ではなくなってしまう。自分の思うとおりに生きて誰とも比べることなく自由に生きてゆくことのできる社会を作ることこそ、「誰一人取り残さない」社会づくりに貢献できると考える。

・Anggela Laurita      ブラウィジャヤ大学3年生        誰もが公平に教育を受けられる

人間は教育から切り離すことができないため、教育は人間の生活を支える重要な役割を担っています。教育学の発展も、社会で起こっていることに応じてバランスを取らなければなりません。教育は実験のようなものですから。インドネシアは教育の国です。しかし、教育の状態はまだ不均一です。特に大都市から遠く離れた小さな村です。小さな村や都市部では、まだ多くの教育格差があります。

その一例が、まだ不足している施設やインフラです。施設とは、目的を達成するために用いるものです。たとえば、本とコンピューターなどです。インフラとは、プロセスの実装を主にサポートするすべてのものです。例えば、校舎や食堂や学校へのアクセス道路、運動場などです。多くの人は、インドネシアの教育施設やインフラはまだ不均一だと思っています。十分な施設とインフラは大都市に集中しており、小さな村とは大きく異なります。都市から遠く離れた多くの村では、学校の建物、机、椅子が十分ではありません。特にテクノロジーに関してはまだ十分ではありません。施設やインフラのくせに、学生にとって非常に重要です。施設やインフラが依然として不十分である場合、教育プロセスに障害が起こって、学生が不快に感じます。現実を見ると、アクセス道路が障害物だらけで学校へ行くことに苦労している子どもも多いです。しかし、彼らの地域には教育施設やインフラが不足しているにもかかわらず、これらの子供たちは非常に熱心に学びます。

もう 他の例は、教育者の数が少ないことです。教育者の普及は、小さな村よりも大都市に集中しています。ついに、小さな村には大都市と同じ数の教育者がいません。さらに、多くの教育者は僻地で教えたくないあります。僻地では教育者が不足しているので、多くの高校卒業生がこれらの僻地で教えるために教師になることを余儀なくされています。教育者の不足は、学習が最適ではないので、業績が得られないなど、学生に影響を与えます。ある村に、体育教師が2人しかいない学校があり、生徒数に比例しません。ついに、別の学校の先生を連れてきて教えます。これにより、学習が最適ではなくなり、学校の質が低下させます。村の教育者の数が少ないことに対処しないなら、インドネシアの教育への影響はさらに広がるになります。

この 2 つの問題を解決するには、政府が大都市だけに集中するのではなく、僻地の教育の質の向上に集中する必要があります。例えば、教育を必要とする小さな村の教育者、施設やインフラにも注意しなければなりません。それから、毎年定年退職する教育者がいるので、毎年定期的を募集します。しかし、募集は勝手に行うものではなく、多くのことを考慮しなければなりません。卒業生ではない教育者向けのプログラムを編成して、開発できる洞察と能力を追加します。僻地に、教育は高い程度に続けることができない人がたくさんいるからです。これらすべての問題のうち、教育が均等に広がって、すべての子供たちが高い程度の教育を続けられるようになることを願っています。すべての子どもは教育を受ける権利を持っているからです。

Febriani Siska ブラウィジャヤ大学3年生 

みんなへのお米:インドネシアの農業生産性向上による飢餓の克服

インドネシアは農業国として世界に知られています。住民の仕事のほとんどは農家です。インドネシアのさまざまな地域は肥沃な土地がたくさんあります。ですから、住民は簡単に農業に使用できます。また、インドネシアの人口は、他のアジア諸国の中で最大のコメ消費国です。つまり、インドネシアの人々は、基本的な必需品を満たすために農産物に大きく依存しています。

現在、インドネシアのすべての地域でどんどん近代化し始めています。開発は至る所で行われ、多くの土地を必要とします。そして、たくさんビジネスマンは、住宅やその他の施設を建てるために住民の農業用地を買いました。その結果、農業用地が減り、米の生産量は減りました。

農家が自分の土地を売るの理由のいくつあります。例えば、高い入札価格や年齢要因や土地の世話をする農家がいないなどです。一方、ほとんどの農家は自分の土地を売りたがらないこともいます。 しかし、まわりの土地はすでに別の当事者によって買わされていたため、売りさざるを得なかった。

土地の問題に加えて、インドネシアの米生産量を減った原因は他にも問題があるのは農家として働く若者が減りました。若い世代の農業への関心が低い理由のは、彼らが得る給料が低いことです。そして、ほとんどの若者は土地へのアクセスがありません。したがって、生計を立てるために、若者は農業以外の仕事を選択します。

これは、高齢化しているインドネシアの農家の年齢に関して分析されたデータと一致しています。過去30年間で、35 歳の農家の年齢層は25%から13%に減りました。一方、55歳以上の農家は18%から33%に増えました。これら 2 つの主な理由に加えて、インドネシアの農業に影響を与える他のいくつかの理由があります。例えば、資本の問題、近代的な農業技術、マーケティングの問題もあります。

その結果、米の生産量は日に日に減っています。 そして、米の埋蔵量を満たすために、インドネシアは他国から米を輸入しなければなりません。これはまた、米の価格が時間とともに上昇する原因にもなります。もちろん、貧しい人々が毎日の食事を満たすことは非常に困難です。貧しい人々の多くは、米を買う余裕がないため、食べないことを選択しています。その結果、子どもからお年寄りまで、多くの人が毎日飢えに苦しんでいます。

この問題を解決するにはいくつかの方法があります。もちろん、政府と農家との協力は必要です。まず、農地の重要性を社交する。これは、個人的な利益のために肥沃な農地を買うビジネスマンがないようにするためです。また、農家は将来の農地の重要性を理解し、無責任な人々に土地を売りません。

二番目は、農家がより効果的に働き、質の高い結果を得るのに役立つ最新の農業技術を開発することです。これにより、農業という仕事が古いの仕事ではないという若い世代の関心も引くことができます。農家はまた、これらの最新技術について進んで学ぶ必要があります。

最後は、農家に財政支援を提供します。例えば、事業を営むための支援や肥料補助金の形です。農業を続けたいけれど資金がない農家がまだまだたくさんいるからです。農民の福祉が保障されれば、農民になりたい人も増えます。

これらの方法が適切に実施され、すべての関係者が協力することができれば、インドネシアの農業の問題はすぐに克服できます。米の生産量も増え、高価な米はなくなります。インドネシアは他国からの米の輸入を少しずつ減らし、インドネシアの農家が生産した米をより多く販売することができます。米などの基本的な商品の価格が社会のあらゆるレベルで手頃な価格になれば、インドネシアの飢餓の問題も克服できます。

・平安加委      玉川大学        誰一人取り残さない     

「誰一人取り残さない」

このタイトルで最近気になっていることがあります。取り残される例として障害者、LGBTQ+、貧困、外国人といった人たちが取り上げられます。体験談を読んでもずいぶんとつらい思いをしてきた、或いは現在でも差別を受けて苦しんでいることも多いのだろうと思います。

僕の考えでは、「取り残される」って言葉は、別の言い方をすれば「差別されている」ってことで、この人たちはいわば差別に苦しんでいるのだと思います。

そして、そのことと関連して、今とても気になっていることは、若者の「自殺」です。最近、一体いくつ起きているのかわからないくらい中高生の自殺、特にいじめによる自殺が毎日のように全国ニュースで流れます。北海道の女の子は、公園で凍死しました。青森の踊りの上手な女の子も陰湿ないじめにあって電車に飛び込みました。そのようなニュースの後には、学校や教育委員会がいじめはなかったと記者会見し、一年くらいたってようやくしぶしぶ認めるといったことが繰り返されています。

この子たちは、まさに、生きることから取り残された、生きる権利を奪われたわけですが、ここで大きな疑問があります。大変失礼な言い方ですが、この子たちは、「障害者、LGBTQ+、貧困、外国人」に該当するのでしょうか。ニュースを見る限り、ありふれたどこにでもいる学生に思えます。

そしてまた、別の耳を疑うようなニュースがあります。ある日突然、家出した高校生や大学生が、自殺サイトで知り合ったアカの他人に頼んで「自分を殺害してもらう」という全く理解できない事件が頻発しています。

しかもこの人たちは、薬剤師などの立派な学歴を持っていたりするのです。

ここで私は声を大にして言いたいのです。取り残される人のリストに身体や履歴にハンディがある人と並んで「普通の人」を入れるべきだと。

日本は、いったいどうなってるのでしょうか?

昨日のニュースでは、大学教授が騒音だとクレームをつけて公園を潰して子供たち閉め出したとのことでしたが、これって子供たちの権利奪っていませんか?

コロナで失業して、バス停のベンチで寝泊まりしている女性が殴り殺されました。ばかな高校生がホームレス狩りと称して面白半分にホームレスに暴力を振るいます。日本のマスコミは、オリンピック前に、外国から見た日本は「オモテナシ」の国で、日本人は「親切」で「礼儀正しい」だの「治安が良い」だの「サッカー観戦後も掃除して帰るマナーが世界の尊敬を集めている」だのとアナウンサーが話してますけど、上のニュースとのギャップはどう理解すればいいのだろう?

東日本大震災の後、たくさんのボランティアが被災地を訪れました。福島から各地へ避難した子供たちが暖かく迎えられました。一方で疎開した土地で放射能・放射能と呼ばれ、いじめられル子もたくさんいたそうです。僕はこのような事実から目をそらしてはいけないと思います。

日本人は、集団でとても良いこともするし、とても陰湿なこともするという事実です。

いじめに関して言えば、誰かがいじめのターゲットになったとき(たいていその子はおとなしくてほかの子を責めることができない)、ほかの子は、自分がターゲットなりたくないからボスザルの命令には逆らえません。でもターゲットになった子に何か攻撃するほど悪人でもない。だから、「無視する」という消極的な意地悪に参加するわけです。その行動は、実はまさに悪そのものですが、一歩で心の中ではゴメンナサイという気持ちも持ってるのだと思います。でもこわいから逆らえない。つまり子羊は、オオカミにおどされたら、仲間の子羊に意地悪する。これが日本のいじめの構造だと思います。

偉そうなことを言っていますが僕だってそんな羊の仲間です。

ただ、毎日のニュースを目にして、なんとか一人でも救いたいという気持ちを強く持っていることは嘘ではありません。だからこそSDGsの運動がもっと広がって「誰ひとり取り残さない」取り組みが広がって欲しいと強く願っています。

・Rezi Rezi ブラウィジャヤ大学3年

観光地としてのマリンクンダンのビーチの美しさと生活を維持する 

A.マリンクンダンビーチの歴史

マリンクンダンビーチは、西スマトラのパダン市にあるビーチです。このビーチは、海の美しさを楽しむために観光客が訪れる場所の 1 つです。実はこのビーチは、伝説のビーチや古代の伝説の物語で有名です。自然の美しさや観光目的ではなく、この浜に伝わる伝説に興味を持って訪れる人もいます。

このビーチ自体の伝説はマリン・クンダン自身です。マリン・クンダンは、この地域で母親と幸せに暮らす男性です。彼らの生活は貧困に打ちのめされています。その後、マリン・クンダンは大都市での生活を変えたいと考えました。彼は夢のために母親を捨てた。

数年後、彼の母親は彼の帰りを待っていました。しかし、マリン・クンダンからの知らせはありませんでした。時が経ち、ついにマリン・クンダンは故郷に戻った。彼は金持ちのように進歩したようで、いくつかのボディーガードがいました。彼は母親のところに行き、彼女の母親はとても幸せでした。しかし、マリン・クンダン自身から問題が発生し、彼はこの女性が自分の母親であることを認めませんでした。母も泣いていた。

最後に、彼の母親は彼を石に誓って呪いました。この石はマリン・クンダン・ビーチと呼ばれるビーチにあります。この歴史的な物語から、この石が人々がビーチを訪れる理由だからです。

B.マリンクンダンビーチに存在する問題と出来事

SDGs の 1 つの目標は、海洋環境の保全です。しかし、マリン・クンダン・ビーチではまだ問題が発生しているため、SDG の目標は最適に達成されていません。よく発生する問題の1つは、海に流れ込む河川からの工場廃棄物の処理であり、この廃棄物によって水が汚染されます。

その影響は、海の近くに住む住民にとって、海の周りの水と大気の汚染です。この問題も、油の形で廃棄物を浄化するにはより多くのコストがかかるため、解決が困難です。

C.マリン クンダン ビーチの海水汚染を克服するためのソリューション

政府自体から、この問題が頻繁に発生するため、海の保全を維持するためにいくつかの規則が適用されます。解決は:

  • 廃棄物を適切に処理する

廃棄物を適切に処理する目的は、まだ使用できる残りの廃棄物を利用して、廃棄物の量を最小限に抑えることです。

  • 環境に優しい素材を使用

環境にダメージを与えない素材または素材の使用。

  • 川などにゴミを捨てないでください
  • 環境に配慮した洗剤を使用
  • 水源の浄化に定期的に取り組みます
  • 利用可能な土地に木を植える

D.海洋保護に関する批判と提案

政府によって実施された解決策に関しては、それらは海の美しさを維持し、維持するために非常に役立ち、適切です。私自身の意見は、ビーチをよく訪れる人々にも当てはまります。ビーチの状態と美しい雰囲気を維持するために、ビーチエリアの周りにそれを投げないでください。ビーチを汚染するだけでなく、観光客の訪問意欲を低下させます。

E.結論

SDGsのテーマから、面白いことが浮かび上がります。この世界の多くの海はまだ汚染されているため、海洋生態系に損害を与える可能性があります。このテーマの SDGs の目標は、実行に値するものです。なぜなら、海はそれ自体が美しい世界であり、海には食料源もあり、水の品質と仕様も維持されなければならないからです。世界中の海がきれいに保たれますように。

・ヘガ  クリステェナ    ブラウィジャヤ大学3年、インドネシア        安全に飲める薬 

安全に飲める薬

健康は人生において重要です。 体を大事にしないなら、薬を飲まなければなりません。 薬とは、消費されると生物の生理機能または心理機能に変化を引き起こす物質です。 薬は通常、食品や体に入れる物質とは区別されます。 薬物の消費は、吸入、注射、皮膚からの吸収などによって行うことができます。 薬は高いので、「健康になるにはお金がかかる」と言われます。私も健康を大切にするのは重要だと思います。

でも最近、危ない薬がたくさんあります。多くの薬物が投薬記録なしで配布されていることが判明します。 そして、多くの薬物は長期的には健康に害を及ぼします。危ない薬はアセタミノフェンやアルコールやコルヒチンやクラリトロミシンやジゴキシンです。血の閉塞や心不全にさえつながる可能性があります。すごく危ないです。私は薬を飲む時心配になりました。”これは安全かな”と思っています。

ですから、この問題を解決することが必要です。 そのため、BPOM 規則が発行されました。BPOMとはなんですか?BPOMはインドネシアでの医薬品と食品の流通を監督する任務を負ったインドネシアの機関。 この機関の機能と義務は、米国の食品医薬品局や欧州連合の欧州医薬品庁に似ています。薬だけでなく、食品、飲料など、BPOMの番号がパッケージに見られます。パッケージに BPOM 番号が記載されている製品は、安全に消費できる製品です。BPOM の数列は通常、2 文字と 11 の数字で構成されます。

しかし、パッケージに BPOM 番号が記載されているから大丈夫だとは思わないでください。BPOM 番号を確認する必要があります。「どうやってBPOMの番号をチェックしますか」。 まずはGoogleで「BPOMを確認」と書いてトップサイトを開きます。 開封の際はパッケージに記載の番号をご記入ください。 入力した番号が BPOM に登録されていれば、製品は安全に使用できます。これはとても簡単と便利と思います。これで薬やか飲み物や食べ物化粧品でも使える前に安心にできます。

危険な商品には注意が必要です。使用する製品にどのような成分が使用されているかを確認する必要があります。しかし、パッケージに書かれている成分すべてが使用されている成分であるとは限りません。 製品を確認する必要があります。 もちろん、そんな時間はありません。したがって、BPOM番号を使用すると、製品を簡単に確認できます。製品をチェックせず、製品を消費しただけだと想像してみてください。どんな悪いことが起こるかわかりません。また、商品の賞味期限の確認も重要です。賞味期限を過ぎたものは、お召し上がりにならないでください。他の国に BPOM に似たものがあるかどうかはわかりません。しかし、より良い方法があれば、それは素晴らしいことです! 製品の消費と責任ある生産についてもっと知りたいです。

・Adrian Justin インドネシアのBrawijaya国立大学3年生 

インドネシアの貧しい医療制度、貧しい患者は病院から拒絶されます。       

三番目のSDGsのはすべての人に健康と福祉をです。しかし、インドネシアではまだ達成されていません。インドネシアの医療制度は、長い間多くの問題を抱えていました。例えば、病院に断られた気の毒な患者もいます。いろいろなニュースがありました。患者は身分証明書もお金も持っていないため、病院から追い返されました。この問題で多くの患者さんが亡くなりました。病院は、病気になったときに最も重要な場所です。しかし、人は病院に断られたら行くところがありません。病気がひどくても、お金がなければ家に帰るように言われました。助けも薬もなければ、彼らは数日後に死亡しました。

この問題は今でも発生しています。政府が何度も警告しているにもかかわらず。これはインドネシアの大きな問題です。 6 歳から 60 歳までの人が、病院に拒否されて死亡しています。これが起こるのを見るのはとても悲しいです。病院は人生において非常に重要な役割を担っています。しかし、多くの人が必要な薬を手に入れるのに苦労しています。

こうした既存の問題点から これらの問題を克服するためには、いくつかの戦略や解決策を立てることが必要です。最近は、病院を政府に報告することもできます。病院は、病気の患者を拒絶することが発覚した場合、閉鎖の危機にさらされます。人々は貧しい病人を助けるためにコミュニティを形成してきました。しかし、このコミュニティはいくつかの場所にしか存在しないためには、まだすべての人が利用できるわけではありません。

インドネシアには、まだ医療制度が整っていないところがあります。病院さえない村もあります。村人たちは、遠くの街まで薬をもらいに行きましたが、お金がないからと病院に断られました。多くの人が亡くなっていました。しかし、政府は、病める貧民の救済に乗り出しましたが、いまだ進展はありません。私たち一般人には、援助する資源がないので、参加できません。困っている人たちを助けてあげられたらと思います。遠方にお住まいの方で、必要な薬を手に入れるのに苦労されています方です。政府は迅速に対応する必要があります。

国連は、私たちの社会で起こった問題を解決しようとしてくれています。SDGsには、こうした社会生活における既存の問題を解消するために、17の開発目標が掲げられています。2030年までにこの問題がなくなり、すべての人が良い医療制度を受けられるようになることを願っています。

・早田尚史      梅光学院大学、3年生    私も取り残されています。

SDGsの基本理念「誰ひとり取り残さない」という視点で論じるために、大学で比較教育学について学んでいたため、学習という面に沿って論じていきたい。「誰ひとり残さない」というものは、私にとって難題だ。なぜなら、現在、私は世界に向けて何か役に立てる活動をしてもいないことや、世界ではなく日本でさえもの教育事情を理解しきれていないからだ。加えて、人間が共通して取り残されない方法など考えつかない。もちろん、取り残さないように様々な考えや行動を起こして、少しずつでも人間を取り残さないようにする方法はあるが、方法が通じずに取り残されている人は、さらに取り残され取り返しがつかなくなってしまうのではないかと考えた。では、大きな方法を打ち出すのは考えつかないし、日本の教育事情でさえも理解しきれていない私が他者に通用するような具体策を打ち出せるのかと言えば、そうではない。そこで私は、通用するのかしないのかはやってみなければ分からないことと、

私自身が課題に対して最大限に発揮できるものを提案したい。

私が考えたものは、私自身のことを考えて取り組むというものだ。これはどういうことかと言うと、自国や他国の人たちが学習においてどのように取り残されているのか気持ちも理解できないし、直接教えて貰うことも出来ない。そこで、私自身が取り残されていると感じていることを論じることによって、何か力になれるのではないかと考えたからだ。

実際に私は、いつも学校等で学習をするときに「取り残されている」と感じている。なぜなら、理解と習得にかなりの時間を要するからだ。これは、貧困のため学習を受けられずに他の子どもたちと差がついていることでもないことに加え、日本生まれ日本育ちで日常的に日本語を使ってきて、日本語の学習を受けているが先述した様に感じている。

では、どのようにして解決するべきかと考えたが、この問題を解決しようとしないで良いのではないかと感じてきた。このようなことを言ってしまえば、SDGsの基本理念「誰ひとり残さない」というものを否定しているように見えるが、完全ではないが敢えて取り残すことも重要なのではないだろうか。私は同じクラスメイトから置いて行かれない(取り残されない)ように他人の学習を真似てみたり、学習塾にも毎日のように通ったりしたが、計算がはやくなったり、正答率が上がったりした訳でもない。苦しんでいたときに、友人や塾の教師に私が置いて行かれない様に優しく丁寧に方法を教えてくれていたが、反対に私はこの場から逃げ出したい、止めたいと感じてしまった。一人ひとりがそれぞれの学習の方法があって、理解の仕方があるため自身が取り残されない様に努力をすることは当たり前だと感じているし、このSDGsの課題のように取り残さないように方法を提案、実行していることは本当にありがたいことだ。しかし私にとって、それはとても辛いことだった。

このことから、世界のどこかの国の人も特に家庭に問題があるのではなく、ただ学習の仕方が自身に合っていなかったり、学習環境が合っていなかったりすることで取り残されているが、取り残されないようにやってくれていることが、反対に辛くなったり辞めたくなったりする人もいるのではないかと私自身の経験を元に考え、敢えて取り残すという選択もあって良いのではないだろうか。

「誰一人取り残さない」ということを論じるためには、どうすれば良いかを私なりに考えた結果が「敢えて取り残しても良い」というものだ。しかし、少し問題だと感じていることは「取り残す」という言葉の聞こえが悪いということだ。人を見捨てているように感じるため、私は「取り残す」を「様子を見てみる」と表現したい。

今回、このテーマを論じることによって、こじつけているように思われるかもしれないが、次のように感じた。私たちは、生まれてから親などの誰かしらに見守られ(様子を見られ)、高齢者になると我が子などの誰かしらに見守られる。このように人生は様子を見ることも重要だと感じ、すぐに助けようとせずに様子を見て行動することも考えなければならないと強く感じた。

・アンドレアンシャ レザ        インドネシア国立ブラウィジャヤ大学3年

インドネシアにおける不平等な開発

インドネシアは大国です。インドネシアは1,904,569 km²の面積を持つ14番目に大きな国であり、世界で6番目に多い島国です。インドネシアはアジア、正確には東南アジアに位置する国です。インドネシアには多くの言語があり、約652の言語があり、公用語はインドネシア語です。インドネシアの言語の数は、インドネシアの島の数と人口の数に影響されます。インドネシアの人口は約2.70億人です。インドネシアの首都ジャカルタがジャワ島にあるため、インドネシアで最大の人口はジャワ島にあります。ジャワ島の人口が多いため、ジャワ島のインフラストラクチャと建物の建設は、インドネシアの他の島に比べて非常に進んでいます。インフラの急速な発展とジャワ島の開発は、多くの良質で質の高い人材を生み出しました。ここでは、インドネシアの他の島々とジャワ島の人的資源と建設インフラの比較について説明します。

わたしの意見では、インドネシアはジャワ島のインフラ整備に力を入れすぎており、他の島々はまだ非常に開発が遅れています。ジャワ島の人口が多いため、ジャワ島には多くの最高の学校や大学があり、最高で質の高い卒業生を輩出し続けています。最高の学校や大学を卒業した人々が、ジャワ島をより発展させています。ジャワ島の優れた人材により、ジャワ島は多くの高く美しい高層ビル、ジャワ島の多くの列車、そしてジャワ島がより良くなり、最も魅力的なものになるように行われた多くの改修を行うことができます。インドネシアの開発された島です。

ジャワ島以外のインドネシアの島々を見てみると、ジャワ島のように設備が整っていない地域がまだたくさんあります。他の島々の人口はジャワ島ほど多くないため、生産される人材はこれらの島々ほど良くありません。すでに良好なインフラストラクチャを備えている島はごくわずかですが、ジャワ島にはまだ均等に分散されていません。おそらく、各島の首都だけが、優れた美しい建物の建設インフラを備えています。他の島々には、インドネシアで最高の学校や大学がいくつかあるだけで、ジャワ島で最高の学校や大学ほど多くはありません。一部の都市では、ジャワ島以外の地域で建設インフラの構築を進めています。これは、ジャワ島の外から来た人材の一部がジャワ島に来て、ジャワ島にあるインドネシアで最高の大学で勉強を続けるためです。最高の大学を卒業した後、彼らはそれぞれの地域に戻り、地域のインフラストラクチャの構築を進めました。

わたしの希望は、インドネシアが将来、ジャワ島だけに焦点を当てるのではなく、他の島々のインフラ開発を一般化できるようになることです。インドネシアの島々はジャワ島だけでなく、他の島々もインドネシアの島々であることを考慮してください。将来的には、他の島々のインフラ整備がジャワ島のインフラ整備と対等な立場に立つように、インドネシアがますます優秀で質の高い人材を輩出してくれることを願っています。現時点ではまだ不可能かもしれませんが、将来的にはインドネシアが先進国になり、ジャワ以外の島々でも同様のインフラ整備が行われることを願っています。

・手塚愛里      玉川大学2年    未来を担う子どもたち   

私は今回のテーマである「誰一人取り残さない」と聞くと障害者の方やLGBTQ、外国人、高齢者の方に焦点が当たりやすい。だけれど健常者など第三者からみても当事者から見て普通の人と言われる人の中で取り残されている人が必ずいる。その人に焦点が当たることはほとんどない。だからこそ今回そこに焦点を当てていきたい。

学校教育に関する教育基本法の規定の概要三条で「すべての国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであって、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない」とある。また1948年の世界人権宣言で「すべての人は、教育を受ける権利を有する。」と規定されている。それに対して教育を受けられていない人がいる。一番わかりやすい例としては経済的な理由で教育を受けられていないことだ。日本は小学校・中学校は義務教育のためにすべての人とは言い難いがほとんどの国民がこの制度を利用して教育を受けている。そうなると高校・大学は国からの全面的な支援はないため各家庭の負担になる。高校に進学するかどうかは個人の選択となるが文科省の「学校基本調査」によると2021年度の高校への進学率は98.9%である。ほとんどの人が高校に進学している。1.1%の人の中に自分の意思で高校に進学しないと選択した人もいるだろう。だが経済的理由で諦めなければならなかった人の方が多いのではないかと考える。日本では教育格差というものが広がっている。教育格差というのは生まれ育った環境によって受けられる教育に格差が生まれることを指している。本人が努力してテストで好成績を取ったとしても、結局は家庭の経済状況で進路が制限されてしまう場合もある。生まれ育った環境が原因となると子どもの力ではどうしようもできない。中卒・高卒・専門学校卒・大卒の学歴により就職できる会社や収入が大きく変わる。教育の格差は年収に大きな影響を与える。貧困な家庭で育った子どもが大人になり、十分な収入がえられないまま結婚、子どもが生まれた場合、進学や進路についてまた経済的な制限が生まれてしまう。貧困から生まれる教育の格差は、何世代にも渡って連鎖していく可能性がある。

この状況を打破するためにすべきことは二つある。一つは政府が教育の支援を手厚くすることである。少子高齢化が進みこれからの未来を担う若い世代の人口が少ない。だからこそよりいい人材というものが求められる。それに応えるには教育というものは外せない。具体的な支援は高校まで義務教育にする、私立高校に入学した人に支援金を送る、教科書の無償化が挙げられる。二つ目は小中学校で授業時間外で勉強を教えて貰える場所を学校側が作る。経済格差とはいっても学校によっては成績優秀であれば補助金が多く出る学校もある。お金がなくて塾にいけないから授業以外で学ぶには一人で参考書や教科書と向きわなければならない。勉強に対して向上心がある人達が積極的に学ぶことが出来る場所を作ることで経済格差に関わらず平等に学力をつける一歩になるのではないか。

今回私は経済的に教育の制限が生まれてしまう子どもに焦点を当てて考えた。自分は何か取り残されていることがあるかと考えた時に何も出てこなかった。テーマである「誰もとりのこさない」というフレーズを聞き学校のコミュニティが一番に思い浮かんだ。当たり前だと思っている今までの生活が恵まれているものだと自覚するためにもこのテーマを選んだ。勉強が好き嫌い、特異不得意に関わらずすべての人が教育を受けなければならない。その中で教育上の差別はされてはならないのに教育を受けることができないという差別が起きていることはあってはならない。この貧困が続き教育が次世代にも受け継がれてしまうことを危惧して子どもを作ることを諦めてしまう可能性がある。そんな状況になってしまうと経済的な問題が教育・収入・高齢化社会の多方面に影響を及ぼしてしまうからこそこの状況を打破する必要があるだろう。

・Rahman Azka Luthfir ブラウィジャヤ大学、3年生 インドネシアの政府から健康のプログラム 

インドネシア語には、『予防は治療に勝る』ということわざがあります。これは、病気に受けなければならない前に、健康に気をつけた方がいいという意味です。 このことわざから、健康はどれほど重要であるかを知ることができます。病気になると、できるはずの生活はまったくできなくなるからです。 しかし、地域社会にとっての健康の大切さから、実際には、どの国の既存の医療サービスも「完璧」という言葉からには程遠いものです。これは、治療にかかる高額な費用にも影響されます。

各国には異なる管理システムの問題があります。 例えば、私自身の環境、インドネシア。インドネシアは世界中の島国で、インドネシアの多くの島々は、インドネシア自体の多く多様である原因でもあるからです。 多くな市民がいるから、政府が市民を 個々管理することはもちろん簡単ではので、特に健康ではそうです。インドネシアの政府は国民、公務員、および民間従業員の健康と雇用を確保することを任務とする特別機関である BPJS「社会保障庁」という名前で支援を提供しています。BPJS により、社会は保証を得ることができます。その 一つは、すべての人々がまともな生活のための基本的なを満たすことができるようにするための社会的保護です。

上の説明から、どう思っているんですか。どのように印象的に聞こえますか。 しかし、本物の現実は辛い現実であるものです。生活の最も重要な側面の 一つで社会を支援できるはずのプログラムが、社会の自体にとってまるで両刃の剣になってしまいました。BPJS では、社会は三つのクラスに分けられ、最も少なくのは一人あたり 一ヶ月で四十二千ルピアです。多分、日本の円には安いと言える寄付ですが、インドネシアのほとんどの人は、これらの寄付を払うことよりも、毎日の食料の必要性に関心があります。このサービスを使用すると、病気のリスクがそれほど危なくないと判断された場合、私たちは振り回され、最も低いレベルから開始する必要があります。それだけでなく、病院がこのサービスのユーザーに提供するサービスは、計画されたものに全然違います。 彼らは、私的に支払う人々や、他の私的保険を使用する人々とは異なる扱いを受けます。

では、誰も取り残さなかったための解決策は何ですか? 私にとって、インドネシア政府はプログラムの実施の現実、特に広い社会に関連するプログラムを再検討する必要だと思っています。もちろん、国民が感じている苦情の数は、政府が耳を傾けないわけにはいきません。 このプログラムは、BPJS 全体を使用してより多くの病気に対して支払うことができるように、より広く開発することもできます。BPJS が最初に開始されたときと比較すると、多くの病院がこのプログラムを受け入れています。最初の開始時には、この BPJS での支払いを拒否する病院がまだ多くいたからです。しかし、それは政府だけでなく、国民も過ちを認めなければなりません。 BPJS に登録するの人、さまざまな理由で支払いを滞納した人も少なくありません。経済的に余裕のある人は、困窮している人を助け合い、取人り残されるがないようにすることができます。 でも、何よりも一番大切なことは毎日に運動し、体を動かし、健康を維持するという意識が必要だと思っています。

・Awallu Faizal               川の生態系     

インドネシアに川の生態系はもう汚染されました。人々が規則を気にしない多いです。特に街にいる人である。ほとんどは、川の水のきれいさに注意を払っていません。たとえばスラバヤやジャカルタで水のきれいさはとても汚いである。川の水は浴びるにはできません。村の川の水とは異なり、水は日常のことに使用できます。しかし、村のすべての川がきれいなわけではありません。いくつかの川の村は、町の川の影響なので汚れています。

データブックのウェブサイトの基づいてインドネシアの1万の村の川が汚染しています。最も汚染された川はジャワ島にあります。ほとんどがジャワ西にあります。1310村の川が汚染しています。その結果は日常生活で水を使えない人が多いである。たとえば、川の水で洗濯してはできません。そのことは村に住んでいる人がよくしていました。でも、今水のきれいさは汚染されたので、そのことができません。それとも、川の水で飲んだ人が病気になりました。水は日常生活にとって非常に重要だと思いますのに、ほとんど人が注意していません。彼らは影響について考えていませんが、影響は非常にヤバイです。

その後、河川の生態系に多くの影響があります。汚れた川の水ので多くの魚が死にました。川が汚れたの結果は川の水の色が変わりました。最初は明確だったものが今では汚いである。汚れた川には生ける魚が少しいがいます。けど、その魚が食べられません。魚を食べようとする人は普通、お腹が痛くなりました。その魚を食べられてみれば、魚をきれいにしなければならない。でもほとんどの人は汚れた川の魚を食べたくないである。他の結果は川の近くにたくさんモスがあります。それが川の色が変われます。町の川はほどんと匂いが悪すぎるである。たとえば、ジャカルタのチリウン川です。

それから、川にゴミを捨てたに関する規則を強化する必要があります。工場廃棄物の処分も考慮する必要があります。このままだと色々影響が出てくるである。また、政府は川をきれいにするための努力として川をきれいにする必要があります。川は人間にとってとても大切なものだからです。川をきれいにする考え方を身につけよう必要があると思います。そのはゴミを出さないことの規則が必要があります。人々がその規則が気にしなければならないである。川の水守るために、その規則が必要があります。

・長谷涼那      藤女子高等学校1年      日本の貧困     

私は貧困層の人をいなくしたいです。そのためにもまずは日本国内の相対貧困層の人を減らすべきだと思っています。

そのためにまずは義務教育の拡大を求めます。現在は中学校までが義務教育の範囲となっておりますが、大学まで義務教育にすることで、貧困の連鎖を無くせると思います。なので、国はまず高校まで義務教育にすべきだと思います。

・山田真央      東京女学館 高校1年生  貧困に苦しむ人を社会から取り残さないために

貧困に苦しむ人を社会から取り残さないために。

コロナ禍で経済活動が停滞し、生活が苦しくなる家庭が増えたことにより、生活支援が盛んに叫ばれるようになった。

今まで日常生活を送る中で私自身食べるものに困ったり、学ぶ機会を奪われたりした経験もなかったので、当たり前の権利としてこうしたことを意識することすらありませんでした。しかし、コロナ禍で、周りの環境も変わり始め、否応なく貧困についても改めて考えるようになりました。

では、生活支援を必要とする貧困家庭は実際どれくらい存在し、どのような支援を必要としているのでしょう。憲法で「最低限度の生活を営む権利」は保障されなければならないと学校で学んではいたけれど、実際に最低限度の生活というのは、どのようなレベルのことを指すのでしょうか。最低限度の生活を送ることができなければ、貧困に当てはまると言ってもよいのでしょうが、具体的な定義を考え始めるといろいろ疑問が湧いてくる。貧困について周囲の人と話をすると、昔は多くの家庭は中流階級と考えられていて、貧困家庭に該当する家庭は少なかったけど、今は格差が広がって生活にも困る家庭が増えたのではないかと聞くことが多い。しかし、生活に困る家庭全てが貧困家庭として支援を行うことは現実的ではないとも聞く。見た目や客観的な基準が無いので支援を必要とする家庭と言っても簡単には決められない。

ただ、日本の将来を考えれば、すべての子供が衣食住に加えて、教育を受ける機会は保証されるべきである。将来国を支える能力があるのに教育の機会すら得ることが出来なかったためにその能力を生かす場所さえも逃してしまうことにもなり、国にとっては大きな損失を負うことにもなる。税金を納める人さえも逃す結果になってしまうからだ。貧富に関わらず、せめて機会というのはすべての人に漏れなく与えられるべきだと思います。将来返金しなくても良い奨学金制度が充実すれば、将来国を支えていく人を増やすことにもなり、支援することによって将来大きなプラスになって返ってくることにつながると考えます。

また、教育の機会に関して、私自身が実際に支援に携わりたいこととしては、学習する場所を提供し、子供たちに教育の大切さを教えていくことです。そして、経済的に厳しい環境下に置かれた子供たちに安心して学べる環境を提供することです。この支援により1人でも多く将来国を支える大人へと育っていってくれれば支援の価値は十分にあったと評価できるのではないでしょうか。

食事についても、子供にとっては、ただ空腹を満たすだけでは足りず、バランスを考えた食事を与える場所を十分に確保し、支援をしていくことが行政に求められているのではないでしょうか。ボランティアだけに頼るのは、継続性の上からは限界があるのではないでしょうか。

教育以前の問題として、医療についてもお金がかかるからといって病院にも行けず命を落とすことはあってはならないし、こうしたところには支援は必要だと考えます。

ニュースでも報道されているように生理用品さえ買うことができない女性も増えてきているのが現状だ。女性の立場として、そうした問題を支援するためにトイレに生理用品が入ったボックスを置いておくことを提案したい。一人でも、そうした声があげられる社会に変われば、人にやさしい社会に繋がると思います。

これらのことが満たされてこそ、最低限度の生活が保障されていると言えるのではないでしょうか。特に子供が将来国を背負っていく人材と考えるのであれば、社会全体で支援していくという意識に変えていく必要があり、そのことによって国の発展にも繋がっていくのではないでしょうか。

貧困に苦しむ人を取り残さないことが国の発展へつながるという意識を持つことが重要なのだと思います。

横顔    楓佳    宮城県名取高等学校2学年 生活が安定するサポートを

私は「取り残された人たち(社会的弱者)を救うために何をするべきか。」という問題の、社会的弱者を経済的弱者に目を向けて考えました。それは、私の周りに生活はしていけるが、少し大変な人がいるからです。そして、それ以上に大変な人がいることも知っています。こういう人たちを救うためには「持続的に安定した収入を得られる」支援をすることが大事だと考えました。

一昔前よりは支援・サポートセンターが増えてきているのかなと思います。ですが、約2年前から今でも流行中のコロナで、ただでさえ生活が困難な人がもっと辛い状況になっています。さらに、解雇になってしまった人たちが大勢出てきてしまい、その人たちも生活難に陥っているとテレビやニュースでよく見かけます。コロナ禍で支援を必要とする人は大幅に増えているはずです。そうなると、どれだけ支援・サポートセンターが頑張っても、しっかりと全員には行き届かないのが大変なところだなと思います。

1番最初に挙げた「持続的に安定した収入を得られる支援」をするのに直結する、「安定した給料・仕事」を見つける支援が大事だなと思いました。「支援金」「補助金」と言う言葉をよく耳にする気がします。私は生活困難でも、それに関することを調べていたわけでもないのでそう感じるのかも知れないです。支援金・補助金などお金を渡すだけだと、ほんの一時的なものでしかないです。もちろん、そういう支援を受けることによって仕事を見つけるまでの費用として使えている人もいると思います。しかし、多くの場合お金の面だけでの支援だと、その場しのぎとしての分しかないと思います。一刻も早く生活困難から抜け出すためには「安定した収入を得られる職場につけるように支援」するべきだなと考えました。

これは誰でも思っていることは同じだと思います。支援・サポートセンターは、もちろんそういう人たちに対して1番適切な対応をしていかなければいけません。ですが、私たちの身の回りに生活困難の人がいたら、私たちも協力していくことが大切だと考えます。例えば、生活が苦しくて心の余裕がない人がいたら、話を聞いてあげるだけでもその人にとって心が軽くなると思います。もし、余裕があるのならある程度の頻度で相談に乗ってあげるのもいいと思います。

これらのことから私は「経済的弱者を救うために持続的に安定した収入の支援 」をしなくてはいけないと考えました。今ではシングルマザー・シングルファーザーも多くて、そういう人が経済的弱者に当たることが多いと思います。難しいことは分かっていますが、みんなが安定した収入を得られる生活をしていけるようになるといいなと思います。

・船水琉花      宮城県名取高等学校2年  貧困について考えたこと 

私がまず考えたのは、貧困を無くすことが重要な問題点なのではないかなと思います。貧困は、なかなかすぐに解決する問題ではありません。でも、絶対に私たち日本人、世界の人達ができることがきっとあるはずです。今、世界では食料が上手く行き届かなかったり、学校に行って勉強がしたくてもなかなか行けなかったり、医療を受けることができなかったりなど日本人の私たちには当たり前のような生活が世界ではそのようなことができていないことが現状です。私がこの貧困という問題について考えた時に、気になったことがあります。それは、子どもたちは仕事を優先され、教育が受けられないということについてです。なぜ、子どもたちが働かなければ行けないのか、それは家計を助けるため、家族を養うためだそうです。このような重労働を繰り返していれば、子どもたちは体力も奪われ、学校に通っていた子どもも休む日が増えたりし、最終的に学校を辞めてしまうケースが多いそうです。このような問題が世界であるということが私はとても残念な事だなと思います。私たちにできることは、支援団体への寄付や募金、フェアトレード商品を購入する、ボランティア活動への参加をし、声を上げるなどがあります。日本には関係ないとは思わず、まずできることから少しずつやっていき、1人でも多くの貧困という問題を解決できるよう、私も寄付や募金などから始めて行きたいと思います。

・高橋桜芽      名取高等学校2年 悩みを解決するだけではいけない 

もしも自分の手の届く範囲に取り残されている人がいたらどうしますか?他の人は悩みを聞いてあげる、あるいは解決に導くようなことをする、言うなどをする人が多いも思います。ですが私はその人を解決するのでは無く、私はその人の味方になってあげたい。悩みを解決してもらってそう思いました。私はとある悩みを友達に打ち上げました。そしてその友達は肯定してくれ無事その時は良い気持ちになりました。ですがその後仲良くはなったもののその後は何事も無いかのようにその友達とは話すことが無くなってしまいました。これを思い出した私は今回の誰1人取り残さない小論文に応募し、悩みを解決するだけでは取り残されたままになってしまう。なので私は悩みを解決するのではなく、誰かの味方になってあげたい。そう思いました。

・佐々木怜      宮城県名取高等学校2年  格差問題下でできること 

格差問題とは様々な事例があります。

富裕層と貧困層の格差、病を患う人と患っていない人に絞って書きます。

こういった格差問題の中で何ができるのか、

何をしたらその格差下で苦しめられてる人を救うことができるのか、と思いこの小論文に

応募しました。

結論から書きますと、

一つ目は富裕と貧困の中で苦しめられている人がいたら真っ先にお金を与えることです。

二つ目は自分から病を患う人へと歩み寄り添うそしてお話を聞くことです。

ではなぜ、この二つのことをするのか?

一つ目は、貧困の人にはそれぞれの理由があってそのような立場があります。その事情を詳しく聞いた上で行います。これは、困っている人というのはお金が欲しいという思いも勿論ありますが、事情を理解して欲しいという思いもあるのです。その思いに応えるべく

話を聞いて理解した上で与えるが大切だからです。

二つ目はこれも同様に病を患う人にも悩みがあり、その苦しみを少しでも理解して欲しいという思いがあるのです。その思いを自分の中で留めるのではなく人と共有して分かち合うこと。ですが、それをなかなか自分からは出来ないものなのです。自分の病に関して

自ら話すというのは、過去の思いをフラッシュバックさせ嫌な思い出を思い起こさせることがあります。

話したいのに話したくない、という板挟みから脱するために患っていない人自ら理解をしにいくために話を聞くのです。

患者さんのその板挟みから解放するために話を聞きに行くのが大切だからです。

人が抱える思いを理解するという部分が共通して大切だと言えることです。苦しめられてる人がいたらその心を見透かすことはできなくても想像する事はできます。

その想像以上に苦しめられている人は苦しめられています。

その苦しみを少しでも理解すると人は必然的に行動する生き物です。逆に理解しない人というのは無視、素通りする人に該当します。

例えば大勢の前でとある人が倒れ、

それに対して見過ごしたり、素通りする人がいるとします。その人達の中には助けたいけどどのようにすればいいかわからないと考える人がいる一方、自分には関係ないし無視しよと考える人がいます。

道徳的に考えると圧倒的に前者の方が良いです。行動はできなくても、呼びかけることはできるのだからです。

人は話を聞いて理解しない限り行動しない生き物なので、人間固有が持つ聞くこと・話すことを駆使すること、そしてその上で行動するというのがとても大切だと思います。

・加地椿 埼玉県細田学園高等学校1年 子どもたちが生きやすい世の中にするために

この小論文では、GIDの気持ちを理解できる大人たちから見たGIDの子どもたちと今後GIDの子にどう生きてほしいかについて考察していく。第一章では、小論文のテーマとしてなぜGIDを選んだのかについて書いていく。第二章では、GIDを理解できない大人たちからしてGIDの子どもたちはどういう存在かについてまとめる。第三章では、GIDを理解できる大人たちからの思いをGIDを研究している人から聞いた話をもとにまとめる。第四章では、これまでの内容をもとに今後GIDの子どもたちが生きやすく世の中にするためにはどう行動していくべきかについて考える。

第一章・なぜGIDを書こうと思ったか

まず、GIDとは自分の生まれ持った「身体の性」と自分自身が自分の性をどう思っているかによる「心の性」が一致しない状態のことで、今では性同一性障害やトランスジェンダーとも言われている。私は今年からスマホを持つようになり、初めてSNS内で人と関わるようになった。ある時、初めて話すとある人から「GIDですが、仲良くしてくれますか?」というコメントがきた。そのコメントに私は、なぜそんなことを聞くのか尋ねると、周りの人から気持ち悪いや頭がおかしいなどの悪い言葉を言われた経験があるからだと答えていた。その出来事があってから、周りからの悪い印象をなくしたいと思い、テーマに設定した。

第二章・GIDの今の現状

第一章で書いた通り、GIDの人に対して色々言うことはわからなくもない。全国でGIDについて知らない人はたくさんいるだろう。それがいじめなどの原因になると私は思っている。そこで、理解者を増やすために、2017年度からGIDが含まれる「LGBT」が高校の教科書に初めて登場した。だが、今でもGIDについて理解できない人達がいる。それは、GIDについて学んでこなかった大人たちだ。そのため、GIDの子が相談しているというアンケートでは、全体のの七割が大人より、同級生や、部活や学校などの友人である。インターネットで調べると、ある記事に大人たちはGIDの子どもに対して「納得いかない」「勘違いでありたい」と怒鳴ってしまったという出来事が2018年にとある家庭であったという。そのような出来事が今後無くなり、否定ではなく分かち合いに繋がるきっかけになればと思う。

第三章・GIDの子どもたちへの思い

日本では18歳から性別の取扱いの変更審判を受けられる。しかし、GIDの人数は全国で4万3000人いるのではないかといわれている。つまり、これだけ多くの人が日々苦しんで生活している。そこで私は、岡山大学大学院保健学研究科教授でもあり、GID学会会長の中塚幹也さんにGIDの子どもたちへの思いを聞くことにした。中塚さんは、GIDについて学ぶ場所を作り、知ってもらうため30年以上前にチームを作成。1998年からジェンダークリニックでGIDの子が抱えている問題の話を聞くことを始めた。話にくる子は子どもが多いが、中にも大人もいるという。それから、お子様がGIDの親にGIDのことよりを知ってもらうため、GIDの今の現状や抱えている問題などをまとめた本が出版された。この本は、学校の先生や学生の一般の人が読めるようにデータも一緒にわかりやすくまとめられており、周りがその人の生き方やあり方を認め、そのままでいいと自分自身で思えるように、性別関係なくその人らしく生きてほしいという思いが込められている。そのような本が日本全国で増えている。

第四章・この先の行動

私はこの先GIDに対して、「居て当たり前」「堂々としないほうがおかしい」という考えを周りの人が持てる世の中になってほしい。そのために、GIDについて知らない人に教える場を大人たちにも作りたい。だが、今からそのような場を今から作るのは難しい。そこで、今の時代誰もが使うインターネットの中でも最も利用している時間が多いユーチューブを利用して、GIDの日々日常の辛さをまとめた動画などを作ったりして知ってもらい、多くの人が少しでも考えが変わってほしい。

・佐々木佑純    玉川大学2年リベラルアーツ学部  SDGsと結婚    

SDGsの基本理念「誰ひとり取り残さない」の考えで私は「結婚」について述べていく。大学を卒業し数年で結婚する人もいるため私たちにとっても身近な話題だと思ったので取り上げていきたい。

まず、人はなぜ結婚願望を持つのだろう。わたしは2つの理由を見つけた。1つ目に寂しいからだ。人は漢字にもある通り人と支え合って生きていく。毎日のちょっとした会話が日々の生活を支えていくと思った。1人で大学卒業後の22歳から80歳まで生活するのは孤独である。1人暮らしをしている友人もずっと1人はさみしいと話していた。私自身1人でいるのは好きだが長年1人と考えると不安を感じた。また、今実家暮らしで賑やかな生活をしているので1人で静かに暮らすことも不安である。しかし両親や兄弟には迷惑を掛けることは出来ない。仲の良かった友人も結婚をしている、または遠くに住んでいる。そうなると「結婚したい」という感情が生まれてくると考察した。2つ目に人生が豊かになるからだ。結婚をしない場合趣味を堪能する時間は多いだろう。しかし結婚をすると毎日が充実すると考えた。好きな人と毎日暮らす。子供が生まれて過程を築く。子供が歩けるようになり、言葉が話せるようになる。子供の成長を日々実感できる。これらは今までに無い経験で人生を豊かにしてくれるのではないだろうか。例として写真フォルダを挙げる。スマートフォンの写真アプリにはさまざまな写真が入っている。結婚し、子供がいる人は相手の写真や子供の写真が多いだろう。一方1人暮らしの人は趣味や友人との写真が多いと考えた。どちらも充実はしているが結婚している人の方がフォルダは充実しているのではないだろうか。

結婚生活は楽しいだけのものではない。夫婦はぶつかり合うこともあるだろう。家庭の人数も多くなると家事が増え、好きなことが出来なくなってしまう。ここに関して独身は自由である。しかし周りの友人たちが結婚していってしまうと「取り残された」と感じる。親から早く結婚して欲しいと焦らされると不安になる。そこで結婚願望のある人を誰ひとり取り残さないための対策が現代で必要だと考えた。例えば地域でコミュニケーションを取る機会を増やすことだ。自宅と仕事場の往復では出会いは少ない。わざわざ場所や日時を指定しなくても公式の場所を作ることで気軽に話すことが出来る。アプリや婚活パーティーより行動しやすい方が人も多く集まる。気軽に話せる場所があると出会いの場も増え、生活も充実すると考えた。また、子供を欲しい人も多いため少子高齢化の改善にも繋がるだろう。

・前田亜央伊    名取高校・2年  日本で障がい者を救うには

誰一人取り残されないという視点で考えると、まず1番に私は障がい者が頭に浮かんだ。障がい者には色々な見方があるが私は社会から取り残されている1部だと思っている。

なので私は障がい者を救うために、世界で国で色々な対応をするべきだと思う。

なぜ、この意見が出たのかと言うと障がい者はまだ生きにくく、からかう人やバカにする人がいると思うからだ。障がい者に対する理解度は昔より高まってきてると思うが、まだ理解してない人も多いと思う。特に小、中生はまだ世の中のことを分かっておらず少しでも自分、周りと違うとからかったり、馬鹿にする傾向があり、それを注意しない大人も少なくないからだ。また、障がい者は働きづらくなっており、雇用問題があるからだ。障がい者にもいくつか障がいの種類はあるが、共通して言えるのが雇用問題だと思う。障がい者というだけで普通に働けない、採用されないということが多いと思う。たしかに、適した業務がなければ採用されないと思う。ですがそこで、障がい者でもできる仕事を考えるという企業側の努力が必要なのではないかと思う。

このようなことから私は障がい者を救うために国でもっと色々な対応をすることが良いと考える。

・今野日陽      名取高校2年    自分の家で自分が1番安心を。   

取り残された人たちという言葉を聞き、高齢者と思い浮かぶのはあまり良くないことなのかも知れないが、私は高齢者を救いたいと思いこの案を考えた。私は高齢者を救うために家のバリアフリー化を進めるべきだと思う。

なぜなら、自分の家でも過ごしやすいと思いながら暮らしてほしいからだ。日本ではバリアフリーが年々増え、過ごしやすい環境になってきている。だが、自分の家はバリアフリーされているかと問われれば違うと思う。多少自分が過ごしやすく家具の配置や物を置いている場所を考えているとは思うが、それをバリアフリーとは私は思っていない。私が考えているのは、お風呂やベット、廊下などに手すりをつけることだ。私は、階段やトイレに手すりがついている家は多いが、お風呂などはあまり見たことがない。また、事故死も減少するからだ。手すりをつければ、お風呂で立ち上がれなくなってそのまま水死したりなどの例が減少すると思う。

もちろん、バリアフリーを設置するには多大なお金がかかるし、家も少し狭くなるだろう。

だが、このデメリットがありながらも、バリアフリーをすれば、高齢者の方々は自分の家で安心して暮らせると思う。私は、自分の家で自分が1番安心したい。と思うので高齢者の方々にもそうしてもらいたい。

以上の理由で、デメリットもあるけれど、自分の家で安心して過ごして欲しいと思っているからこそ、家のバリアフリー化を進めるべきだと私は考えるのだ。

・黒川晴菜      梅光学院大学2年 誰ひとり取り残されない学校生活

私たち学生は、毎日学校に通っている。日々の生活の中で家にいる時間と同じくらい、または、それ以上の時間を学校で過ごしているだろう。毎朝決まった時間に起き、家を出る。決められた時間授業を受け、決められた時間に給食を食べる、掃除をする。私たちの毎日の生活の中に、ルーティン化された学校生活がある。学校という存在は私たちの生活にとって当たり前になっているのだ。学校が大好きな人もいれば、苦手な人もいる。大勢で過ごす時間が楽しくて好きな人もいれば、1人で読書をする時間が好きという人もいるだろう。学校生活というひとつの枠組みの中には、さまざまな考え方や個性を持った人たちが集まっている。この繰り返される毎日の学校生活の中で「誰ひとり取り残されない学校生活」とは一体どのようなものなのだろうか。いつも誰かといる子は本当に取り残されてない子なのだろうか。反対に、ひとりでいたらその子は学校生活において取り残されている子なのだろうか。パッとその状況だけを見て、取り残されているかいないかを判断することは難しいだろう。

そこで、「誰ひとり取り残されない学校生活」とは、どのような生活なのか考えた。例えば、問題の解き方が分からなくて、困っている児童がいるとする。その児童に、解き方の方法を児童が教える。児童同士のコミュニケーションの場を授業の中で取り入れることで、達成感を一緒に感じることができる。互いに学び合うことで、自分の学びにもつながるとともに、誰も取り残さない授業を行うことができる。授業面以外にも、休み時間のちょっとした時間に好きなことを互いに話し合う。好きなことを話す時は、必然と口数も笑顔も多くなる。コミュニケーションの時間を沢山とることで、孤独感を感じてしまう児童や困った時に頼ることができない児童の手助けにもなると考える。まずは、隣の席の子を取り残さないことを目標とする。次に、班の子、クラスの子と対象とする児童を増やしていく。小さな輪から取り残さないを目指し、どんどん輪を大きく広げていくことで、取り残されない子どもを増やすことができると考える。「誰ひとり取り残さない学校生活」を行うために、私がたどり着いた答えは、「コミュニケーションの場を増やすこと」である。日々のコミュニケーションを大切にすることが、「誰ひとり取り残されない学校生活」に繋がるだろう。

また、世界にも学校生活で取り残されている子どもたちがたくさんいる。学校が近くにない、先生の教育の質が悪い、給与の低さから働きたいと思う先生がいないなど教育を受ける、学びを届ける環境が整っていない国や、両親の教育に対する理解、関心の低さや家計を支えるために働かなければならない子、また戦争や紛争で難民になり、学校に通えなくなってしまった子どもたちなど、世界にはさまざまな問題から学校生活からかけ離れて取り残されている子どもたちがいる。これらの問題に私たちはどのように向き合っていかなければならないのだろうか。

SDGsの世界を変えるための17のゴール、目標でもある「質の高い教育をみんなに」「人や国の不平等を無くそう」「平和と公正をすべての人に」はこの「誰ひとり取り残されない学校生活」と特につながりを持っていると考える。教育を受けられない子どもたちは、文字の理解や、読み書きすらもままならない状況にいる。そこで、識字率の低下が問題視される。文字の認識ができないため、仕事の選択肢が狭まったり、自分の名前が書けない、意思疎通ができないという理由から、取り残されてしまうケースも少なくはないだろう。

この教育の格差をなくすために、どんな小さなことからでも、私たちができることはたくさんあるだろう。例えば、寄付活動や、ボランティア活動など、小さな手助けが世界の子ども達も未来を救うことができる。「誰ひとり取り残されないな学校生活」とは、学校に行けていない子ども達にも関係し、取り残さないために、私たちが今できることを考え行動していかなければならない。

・佐竹星夢      名取高校2年    同性愛者と社会の壁

取り残された人達を救うために、私たちに何が出来るかを考えて見ました。私たちが変えないといけないのは理解と固定概念、偏見だと思います。なぜ人々は偏見だけで嫌うのでしょうか?私は同棲愛も素敵な恋愛だと思います。ただ好きになってしまった人がたまたま同性だったということだけで他に変わったことはないと思います。人を好きになることは自由で奇跡なこであるのに対し、ルールや国によって法律があったり、偏見に縛られるのは、その人たちの自由や愛情を引き離そうとしているようでとてもおかしいと思ったからです。私は現代でいう腐女子です。腐女子というのは、異性同士の恋愛を応援している女の子のことです。最近では、腐女子向けのBL映画や漫画、ドラマがたくさんあるほど、同性との恋愛が発達していると思います。特に「美しい彼」「おっさんずラブ」は聞いたことがある人も多いくらい浸透しているジャンルだと思います。これらの物語では、最初は異性愛者でしたが、同性の人のことを好きになっていくにつれて同性に対して偏見がなくなるという物語でした。私は昔、同性愛者の人たちに対して険悪感を抱いていました。しかし、この物語を見て、人を好きになるのはその人自身の自由であり、なぜ他人である人が人の恋愛観に口を出すのかと感じました。私は紐を好きになったことがありませんを好きになった人がない人にとって、その好きになる気持ちは私の経験にないものなので、とても尊いことだと思いました。偏見によって生きづらさを感じる。自分の好きなもの、好きなことを伝えられないのは周りと孤立しているように感じ、伝えたらさらに孤立してしまうのではないか?という恐怖を感じて伝えられないという人も多いのではないでしょうか?実際に芸能人でも、同性愛者であるとカミングアウトした後に、インターネットで偏見の言葉や悲しい言葉などが見受けられ、勇気をだして伝えたことだと思うのに、それを踏みにじるのは人としてありえないことです。まず、「素直に本当のことを伝えてくれてありがとう。」と伝えるべきだと思います。私は自分の性に対し、悩みや不安はありませんでしたが、そのような心情を伝えてくれたら、温かく寄り添ってあげたいです。ですが寄り添ってあげたいという気持ちが本音ですが、動揺してしまうのも本音です。それでも、相手の考えを否定しないこと、受け入れることが1番大事な事だと思います。自分を責めないで欲しい。その気持ちを1人で考え込まないで欲しい。どうしても辛くなったら自分の本当に信用している人にだけでも伝えられたらもっと楽になるのではないかなも思います。話は少し逸れてしまいますが、「性同一性障害」という言葉を知っていますか?見た目は普通の男の子なのですが、性自認は女の子であり、自分の性別に悩んでしまう障害のことです。逆のパターンもあります。あるドキュメンタリー番組で性同一性障害の人のことを取り上げていました。その人は昔から感じていた違和感、気持ちは女の子だけど、着させられるのは男の子の服ばかり。誰にもいえず、バレないように異性と結婚して何年か後に自分の性自認について家族に伝えることができた人でした。その後彼女は、自分のなりたかった理想の女性になることが出来て、カメラの前からはとても幸せそうな表情をしていました。長年自分の気持ちを伝えられないくらい、世の中は性に対して言いづらい風潮にあると思います。誰にでも幸せになる権利はあります。それが自分と異なる異性になりたいという気持ちだって尊重すべき心です。国によっては法律で禁止されていることころがあります。日本は同性での結婚は認められていません。現代は日々変わってきているのに対し

、法律は「男性と女性で結婚すべき」という古い固定概念が残っているのではないでしょうか?根本的な解決方法ではないですが、人の価値観を見守って受け入れることが理解することに繋がる第1歩だと思いました。

・葉坂倫        宮城県名取高等学校2年  飢餓を無くすために     

飢餓を救うために、無料でご飯・お菓子を出す場所を作ることをするべきだと考える。

なぜなら、今の日本は子どもがいる親でも両親が共働きの家族が多くなっている。そのため、夜遅くまで親がいない子どもが多いだから、お腹を空かせて遅くまで待っている子どもが居る。その子どもはきちんと栄養が取れないことになる。それにそのままご飯を食べれないと餓死してしまうこともある。今は虐待などでもご飯を与えてもらえない子供もいる。そのいう子ども達は、食べたくても食べれない子がほとんどだ。

それに子どもは自分で働くことをできないため、お金が稼げない。そのためいくらお腹空いてても、食べ物が買えないのだ。

あとは、今はコロナウイルスが流行して今まで普通に経営出来ていたお店や会社も経営が難しくなってしまったり、倒産してしまったお店や会社がある。そのため、生活に苦しむ人が増えた。そのため、子どもだけではなく、新社会人などの貯金が少ない若者までが生活に苦しみ、お腹いっぱいに食べることができない人たちがいる。10代、20代などは、まだ学生の人が居る

そのため、アルバイトで生活しながら学費を払っている学生も多いいだろう。学費が高く、1番栄養を取っておかないといけない歳なのに、お金が少ないからという理由でお腹いっぱいにご飯を食べることが諦めている若者も少なくない。

そのため、こういう状況に陥っている人たちを対象にした無料でご飯・お菓子を提供する商店などがあれば飢餓が少なくなり、親が遅くまで働いている子どもは寂しさなどの悩みなども少なくなると考える。それにこういう人たちを対象していれば、自分だけが悩んでいるんじゃないんだ。などと他の人達の意見などが聞けることになり悩みなども消える。それにお金がかからない為お金を気にして食べることも無くなると考える。だから飢餓を救うことが出来るとわたしは考える

・小幡廣洋      宮城県名取高校2年      ジェンダー平等 

僕はSDGsの目標の5番目にある「ジェンダー平等を実現しよう」について疑問に思ったことがある。

それは、このジェンダー平等は人間の考え方による問題であるため不可能では?ということ。

この問題を解決するにはその人の考え方を改善しなければならない。

例えば、男だからとか女だから、男のくせにとか、女のくせになどといった決めつけのような考え方。

人の考え方を変えるのはとても難しい。

しかし、この問題は人間の考え方だけではないと言われるだろう。

女性の不平等な雇用条件、教育格差、日本では夫婦別姓などといった社会や法律による不平等もある。

そうではあるが、仮にそれらが解決したからといっても考え方が変わっていなければ他人に差別的発言を浴びせられたり、執拗に避けようとされるかもしれない。

はたしてそれは解決したというのだろうか?

特に小学校の子どもたちはジェンダーの知識は少なく悪気はなくとも配慮に欠ける言動をするだろう。また、いじめにもつながることだってあり得る。

例えば、外見は男だが一人称は私、反対に外見は女だが一人称は僕または、俺とか。そういったことでいじめに発展するケースもある。

これらのことにより、ジェンダー平等を実現するのは不可能であると思う。

・足沢 佑樹    宮城県立名取高等学校2年 取り残されない社会へ   

皆さんはsdgsと聞いてなにを思い浮かべるでしょうか?様々な答えが出ると思いますが、sdgsの基本理念である誰一人取り残さないという言葉が出る人は少ないと思います。私は取り残されるというのはどういう意味なのかを考えました。そこで社会的に取り残されていると考えました。そこで思いついたのが「同性愛者」でした。

1989年デンマークで世界で初めて、同性カップルに異性カップルが結婚している場合に認められるものとほとんど同じ権利が認められる「登録パートナーシップ法」が作られました。10年後の2001年、ついにオランダで法律上の性別が同じ者どうしの結婚が実現しました。現在では、ヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニアなど、33の国・地域において同性婚ができます。その上、アジアでは、2019年5月から台湾は同性婚ができるようなりました。このことから同性愛者は日本では社会的に取り残されていると言えると思います。

確かに少子高齢化が問題となっているこの現代社会で同性婚なんて認めて大丈夫なのかという意見もあると思いますが、同性婚を認めている国のデータを見てもそのような事例はないです。その上、好きでもない人と結婚をして、子供を産めというのはなかなかに難しいことではないでしょうか。

ではどのようにしたら日本で同性婚が認められるのか考えてみました。 まずセクシュアル・マイノリティー(同性に恋愛感情をもつ人や、自分の性に違和感がある人などのこと)がカミングアウトできない状況に追いやられており、どれだけの苦悩を抱えているかが社会にまだまだ周知されていないことが問題だと思います。過去には同性婚を認めないことは人権侵害・憲法違反であるなどとして、同性カップルが国を訴える訴訟が各地で提起されています。しかし国による同性婚に向けての具体的な法整備は進んでいません。

このことから私たち自身が同性愛者のことを理解していく必要があると考えました。私たちが同性愛者のことを理解することでセクシャル・マイノリティーがカミングアウトできるような環境になったり、差別がなくなったりすることで日本全体に同性愛者の理解が進んでいき、国が同性婚の許可が下りるのではないかと思います。

これは同性愛者に限ったことではないと思います。自分の理解がないものに興味を持ち、理解する、理解しようとすることが大切でそうすることで誰一人取り残さない社会をつくっていけると私は思います。

・山本響輝      札幌開成中等教育学校   「取り残され始めている人」を救う。

日本の地方にはインフラから「取り残され始めている人」が存在している。地方には人がまばらに住んでいるため、タクシー会社、バス会社が次々に撤退していく。鉄道も一日の本数減らしたり、やむなく廃止にしたりしている。現在では、公共交通機関の代わりに自治体主体のデマンドバスなどが運営されているが、すべての地域をカバーできないなどの問題点から、あまり普及していないのが現状である。

インフラから「取り残される」と買い物や通院などといった生命維持のために必要な行動がとれなくなる。特に、体力や年齢といった要因からマイカーを利用できない、公共交通機関に頼っていた高齢者は移動範囲が著しく制限される。これらの理由で日常的に買い物が難しくなった高齢者は、劣化が早い野菜や肉などの生鮮食品を食べなくなり、カップラーメンやスナック菓子といった保存食のみを食べるようになるため、低栄養状態になるとされている。実際に政府によると、日本の高齢者のうち、700万人ほどが買い物難民であり、500万人が通院不便者であるとされている。

しかし、これらの対策を自治体主導で行うことは難しい。先述した通り、地方には人がまばらに住んでいるため、買い物代行等をするにも行政の人手や資金が不足するからである。そこで私は「IOT技術」を用いてこれらの問題を解決することを提言する。IOTとは総務省によると、「様々な物がインターネットにつながること、インターネットにつながる様々な物」を指しているとしている。例えば、外出しながら家の鍵を閉める、太陽光発電量から温度を自動で調整する、等である。この技術を発展させ、買い物代行サービスに応用すると、人手を大きく抑えながら買い物難民問題を解決することが出来るのではないか。

例えば、「自動ドローン」を活用した買い物代行サービスを行政主体で行うのはどうだろうか。週に2回程度、住民が発信した「買いたいものリスト」を集計し、その結果に応じて行政は提携している小売店の業者などから商品を購入する。購入した商品をトラック等でドローンの発着地点へ運搬し、そこから自動ドローンに運搬を任せるという流れである。現状、日本政府はドローンの無人飛行を条件付きで今年の12月から許可する方針であることから、法律の面では実現は可能である。一方、ドローンの購入費や維持費などの費用などを商品価格などに転嫁する必要があるため、価格という面で利用者のニーズが満たされない可能性がある。この問題を解決するために、ドローンの配達経路をリアルタイムで最善化できるプログラムを作成したり、ドローンの発着地点を増やしたりすることで輸送距離をできるだけ小さくする必要があるが、どこまでコストダウンにつながるか不透明である。

実際に「自動ドローン」を活用した買い物代行サービスは北海道上士幌町などの市区町村で始まっているようである。これらの先行事例を活用し、地域の地形、財源などと調整しながら、このサービスを普及させていくべきではないか。「インフラから取り残され始めている人」を救うために、地方自治体の思い切ったIOTへの投資が今、必要である。

・後藤瑞生      宮城県名取高等学校2年  誰かの為に変わる考え   

SDGsの基本概念は「誰も取り残さない」となっていますが、これから考えてみれば、私たちは「普段の生活の中で、誰かを取り残す、放置することに気づかなければ、その逆で自分だけが取り残されることもある」という事を、意識しなくてはならない。例えば、学校の中のグループ作りからその際取り残される人物を考えてみる。その中では、目や耳に障害を持っている人が取り残される事は目に見えているかもしれません。ですが、取り残されるのは本当にその人たちだけなのだろうか。私は違うと考えている。今回は、「障害者以外の、健常者にあたる人物たちが取り残される状況」に焦点を当てて、考えてみたい。

1私の経験則 様々なことを考える前に、私の現在について簡単に説明する。私は人とのコミュニケーションを撮るのがとても苦手だ。そのせいでグループ作りで1人になる事は多いし、迷惑をかける事もある。その程度のことで迷惑をかけるとは情けないと考える人も多いかもしれない。でもこれが自分なのだから仕方がない。この様な場面も含めて、「健常者にあたる人物たちが取り残される状況」について考察する。

2「他の人を取り残している状況、その理由」 結論から言ってしまえば、自分たちの気付かぬところで、私たちは、他の人を取り残している状況を生み出していることがある。自分が仲の良い人とグループになれても、周りが全員グループになっている様に見えても、私たちは気づかないで誰かを取り残しているかもしれません。また別の視点から考えてみると、気づいた上で自分には関係ないと、軽く考えて取り残しているかもしれない。例えば、行事のグループや役割決めの時、主に人は自分の組みたい人と組めるか、自分がやりたいことをやれるかという思考になります。その中に自分に関係ない人を気にすることは殆どありません。それこそ最後に余ったところでというものです。それを私たちは普通だと思って生活しています。何故なら普段の生活の中で他人を気にすることなどほとんどないからだ。気にするとしても、それが自分にとって利益、不利益になる際に少し気にする程度である。そんな普通が世界全体でありふれているからこそ、私たちの生活の中に取り残される人が生まれる。

以上の私の個人の目線からの考察から、結論を書くと、私たちは取り残される人が生まれるのを見て見ぬふりをして容認しているのです。だからこそ、取り残される人が生まれます。それらを無くすには、世界全体の自己中心の考え方、周りを気にする考えを定着させる必要があります。「自分が大丈夫だから」、「お前も自分で」、という考えではなく「その人は大丈夫?」、「一緒に頑張ろう」という考えが必要です。私はこの考えを沢山の人に伝えて、少しでも周りが優しくなるよう活動してしていきたい。

・齋田颯大      宮城県立名取高等学校2年 子どもの悩みは軽くない 

私は将来心理士になりたいと思っています。私は過去、そして今起きている事で苦しんでいる子どもをなくしたいです。そんな心理的•精神的に苦しむ人をなくすには、学校との協力の元、全員に定期的なカウンセリングなど、悩み事を誰かに伝えられる環境を作る事だと思います。

なぜなら子どもの時に自分の悩みを人に話したことがあるかの有無で自分の抱える悩みを少しでも軽くできると思うからです。

みなさんも想像してみてください。もしあなたがひとり悩み、苦しんでいる時に誰かにそれを打ち明けようとなった時に、まだ一度もそのような誰かに自分の相談をした事がなかったら、きっと話す事を躊躇し、伝えられ無くなると思います。誰だって自分の悩み事を伝えるのには勇気がいります。でももし子供の頃、仲のいい友達や先生、親の人に相談出来たことがあるとすれば、誰かに伝える勇気が生まれると思います。

また、中には仲のいい友達にも言えないようなことがあると思います。この事は誰にも言いたくない、でもひとりで抱えているのは辛い、そんな時にもし学校で定期的に行われているカウンセリングがあったらと思います。そしてここで最も重要な事はただカウンセリングを開くのでは無く、全ての人におこなう事です。年頃の子どもの中にはカウンセリングに行きたくても行きにくいと感じる人も少なくないと思います。ですが生徒全員に個人面談を取り行えば、行きたくても行けないという事は起こりません。

悩むと言う事は全てが悪いと言うわけではありません。悩むと言う事はそれだけ真剣だと言う事だからです。私も誰ひとり取り残さない事について、とても悩みました。でももしその悩みが苦しみに変わらないように、私は子供のカウンセリングなどが大切だと思います。

・佐藤苺愛      名取高等学校2年 決めつけを無くし、取り残さない 

私が考える誰一人取り残さないとは、現代の社会における勝手な決めつけによって制限されつつある中、人の意思を取り残さないということです。

ジェンダーレス化を目指している世の中であっても未だにその世の中を見ずに悪態をついたり、偏見を押し付けてくる人が沢山います。

例えば、「女は料理をすべきだ」「男は育児より仕事だ」「女なんだから男みたいな格好はするな」など様々な意見、いや。決めつけ、押し付け、個性を潰す言動がまだまだあります。私はそれが人の気持ちがこの世の中の進みから外されてゆく原因になっているのだと考えています。

実際私が好きでスラックスを履いて高校に行った時にも少数の周りの女子に小声で「うわぁ。ないわ。」などとこちらを見て言われたものです。とても生きづらく思った瞬間でした。

もっと理解は深められないのでしょうか。人の個性に口をだす義理が他人のどこにあるのでしょうか。

自分の好きな姿でいることのどこが悪いのでしょうか。男性が育児をするのはおかしいことでしょうか。女性がかっこよくて何が悪いのでしょうか。

男性が可愛くて何が悪いのでしょうか。

皆さんも1度言葉にする前に考えてみてください。

その発言、相手を縛り付けませんか?

私はこの問題が少しでも良い方向へと進んだ時にはこの世の中がもっと生きやすく、楽しいものもなるのでは無いかと強く思います。

もう、世の中の進みから外れていく人を見逃してはいけません。まず、一人一人が理解するだけでも進みについていける人が増えていくはずです。

・佐藤七海      宮城県名取高等学校2年  自分が経験したことで   

私はSDGsをあまり聞いたことがなかったので調べてみたら日本語では「誰一人取り残さない」と略すこともありますが、SDGsの原文では「誰一人取り残されない」と書かれていました。これは自分もその対象にある前提で書かれていると知った時自分は何かで取り残されていると思ったことがあっただろうかと考えました。

学力や友達関係、身長や体力など過去の自分を考えると些細なことでも様々な場面で取り残されていたんじゃないかと思いました。大きなことで言ったら自分の学力。

私は一般的な中学校に通っていてほとんどの生徒は同じ小学校からあがっていて顔を知っている人ばかりでした。ですが私の代の生徒たちは頭がいい人が多く、中学校から近い場所にある偏差値の高い同じ高校に進学を考えている人が多かったのです。小学校から一緒に過ごしてきたのにこうも周りと差ができてしまうのかともっと努力すればよかった、勉強していればよかったと後悔しました。今考えても間に合わず、私は片道1時間ほどかかる高校に進学しました。仲のいい友達どころか同じ中学校だった子はほとんどおらず、私はここですごしていけるのだろうかと本当に心配でした。その時にまず私は周りから「取り残されていく」ととても感じました。他にも部活をやっていると時々、周りがどんどん上手くなっていって技術も体力も抜かされていくと感じ孤独感に襲われたり、昔は身長が小さかったり足が小さいと馬鹿にされその場は盛り上がっていたけど心の中では(なんで私だけばかにされるのだろう)と日常的に感じていたりしました。

小学校や中学校ではそういう小さなことでも取り残されていると感じることが多々ありこの先自分は耐えられるのかと考えることもありました。

でも、高校に進学してからは不思議とそういうことが少なくなった気がします。何故だろうと考えた時いままでに感じていたいろんな出来事が時間が経つにつれて解決していって何も感じなくなりました。

むしろ、長所になるものもありました。高校では知り合いがおらず一から友達を作るという状況で、自分から声をかけ友達を増やしていく積極性が身についたり、同じ学力の子が多い学校だからこそ勉強し周りより上の目標を目指すことで1つ自分の中でのレベルが上がったりと、こんな自分でも大丈夫なんだ周りについていけるんだと実感しました。

つまり私が思うのは、SDGsでの例としてあげられている障害を持っている方や、外国での肌の色の違いなどの差別は時代の流れによって取り組みが進化し誰もが取り残されるのとなく共存できる社会を作ることができるのでは無いかと私は考えました。自分と同じような事で取り残されていると感じる人や今課題とされていることができるだけ早く悩みが解決されるように小さなことでも時代の進化のために協力しなければいけないと思いました。

・阿部美咲      宮城県名取高等学校2年  入学前から友達作りは始まっている

「誰一人取り残さない」という言葉を聞いて思い出したのは、高校の入学したての頃です。高校生活が始まる時の私の1番の不安は、友達作りでした。私は積極的に誰かに話しかけるのが苦手なタイプなので、新しい環境で友達ができるのかとても不安を感じていました。

高校入学初日に、緊張しながらクラスへ行くと、何組かすでにグループが作られ、初対面とは思えないほど仲良く話している姿があり驚きました。しかし私は、自分から話しかけることが出来ず、初日は1人でいる時間が多くありました。

あとから、なぜ初日から話すことができたのか聞いてみたところ、入学する前からSNSを使って話していたため、会うのは初めてでもすぐに仲良くなれた、ということでした。

最近は、SNSが10代の生活に欠かせないものになってきています。SNSは、友達作りにも必要なものとなりつつあるのです。

SNSを利用し入学する前から友達を作っておけば、友達が出来ないという不安もなく、安心して高校生活を始められることができます。しかし、私はSNSを使った友達作りに100パーセント賛成することは出来ません。なぜなら、私のように事前にSNSで友達を作っていない人は、0から友達作りを始めなくてはならないため、SNSで友達作りをしていた人と比べると仲良くなるのに時間がかかってしまうからです。また、既にできているグループに自分から入っていくのはとても勇気のいることで、なかなかできることではなく、取り残されていると感じてしまいます。

この先、もっとSNSが友達作りの中心になってしまったら、SNSをやっていない人は友達作りに苦労することになってしまうのではないのでしょうか。自分から話しかけるのが苦手な人にとって、既にグループができてしまっている所に入って友達を作ることは難易度が高く難しいことです。そのため、友達が欲しくても諦めてしまうことがあるかもしれません。

このことから、私はSNSに縛られすぎないことが大切だと考えます。SNSは、様々な人と繋がることができとても便利なものです。しかし、SNSを活用しすぎることで自分で人を判断し自分と性格が合うかを見分ける能力が低下してしまっているのではないでしょうか。SNSが友達作りに欠かせないものになることで、取り残してしまっている人がいます。それは、SNSを利用していない人です。SNSを使って友達を作ることが普通となっている今、SNSを使わないと友達を作ることが出来ないという環境は、SNSに能力を制限されてしまうということなのです。友達作りには様々な方法がありますが、SNSに囚われすきずよく話しをしながら友達作りをして欲しいと思います。また、取り残されている人がいるなと思った時には、手を貸して手伝ってあげて欲しいです。新しい環境でもSNSの力に頼りすぎず、自分で判断し考え友達作りをすることが「誰一人取り残さない」ということに繋がりると思います。

・酒井環妃      宮城県名取高校2年      自殺してしまう人を助けるために 

私は、よくニュース番組で中高生が自殺した、あの俳優が自殺したなどのニュースをよく目にする。なぜそのようなことが起こってしまうのか私は自殺してしまう人には共通点があると思った。人に頼らず、一人で追い込み取り残されてしまうことだ。私たちのように客観的に見てしまうと「だれか頼ればいいじゃん」、「自分に甘いだけなんじゃない?」などといった意見が心の狭い人には出てしまうかもしれない。そんなことを追い込んでいる人に言ったらどう思うか?なんの助けにもならないし、自分で理解していると思う。誰かに頼らないじゃなくて、頼れないのだ。分かりやすく言うと、自分の気持ちを言葉にするのが苦手だと言うことだ。だから、親や友達、先生などに相談できずにいる。その結果、自分に怒りができ、精神的に病んでしまい自殺してしまう。このパターンがいちばん多いと私は思う。特に今は、コロナウイルス感染症により、倒産や感染したことによる差別などにより自殺をする人病んでしまう人が多いだろう。世の中には問題が山ほどあり、壁だらけなのだ。私は、自殺を考えてしまう人の考え方を知っておくことが大切だと思う。私たちのような他人は自殺を考えている人のことを読み取る能力はないし、理解することも出来ない。なら何をするべきか。それは、自殺しそうな人が行動しそうなことを、完璧に理解するのではなく可能性としてしそうなことを想像してみるということだ。人の心理やメンタルを読み取る言葉出来ないけど「こんな行動をしそうだな」、「こんなことをするだろう」などといった明確ではないが想像することにより、たくさんの考えが出るだろう。私は、あるニュースの専門家が「自殺を考える=死にたい」ではないと言っていた。最初私は全く理解することが出来なかった。言い方悪いが自殺は死ぬためにすることではないかと思っていた。いや、誰もが思っていただろう。自殺したいは、単純に死にたいではない。何らかの気持ちがあるから行動してしまうからだと言っていた。例えば、「未来のことが考えられない」、「死ぬことしか考えられない」などの気持ちになることで自殺を起こすと言っていた。このことを聞いて、私は改めて自殺の意味が明確にわかった。

私は、自殺は起こってしまうことはしょうがないではなく、無くすことが必要であると思う。自殺で人生が終わってしまうのは悔いが残る、誰も喜ばないし悲しむ何が得になるのだろう。今、自殺を考えている人に絶対誰かに頼って欲しい、一人で悩まないで欲しい、ひとりで取り残されないで欲しいと言いたいと思った。

・毛利くるみ    宮城県名取高等学校2年  飢餓をなくそう 

飢餓をゼロに

私は飢餓に苦しむ人々について知ってもらおうと思う。そもそも飢餓とはなんなのか。長期間にわたり十分に食べられず、栄養不足となり、生存と社会的な生活が困難になっている状態をさすのだ。現在飢餓に苦しむ人は世界で8億2000万人だ。国際連合広報センターによると、第二次世界大戦後、食糧生産量は年々増えてきており、飢餓人口は1990年の9億5900万人から1997年の7億9100万人にまで減少しました。 しかし、2019年の国連の報告により、世界の飢餓人口が3年連続で増えていることが分かる。

このように、飢餓に苦しむ人はこんなにもいるが、今回私は敢えて、飢餓に苦しまない人に焦点を絞って言及していこうと思う。

飢餓に苦しまない人は恵まれている。好きな時に好きなものを好きなだけ食べることができる。

飢餓に苦しんでいる人がいるなんて考えたこともないだろう。故に食品ロスというものが生まれる。

食品ロスというのは、まだ食べられるのに、捨てられてしまう食べ物のことをさす。食べ物を捨ててしまうのは、もったいないだけでなく、地球環境にも悪影響がある。今、これからの未来に向けて、食品ロスを減らすためのさまざまな取り組みが行われてはいるが、まだまだ行き届いていないところがある。だから、飢餓に苦しむ人がこんなにもいるのだ。いかに無駄なことだろう。生命を維持するために必要な栄養すら摂取できない人が沢山いるというのに、食品に溢れた生活を送っている私たちは沢山の食べ物をむだにしている。

ここで仮説を立ててみようと思う。仮に、私たちが本当に必要な分だけの食事をとるとする。

食品ロスが減るだろうか。私たちはひとりひとりが取り組まなければ変わらないのである。

私たちに今必要なことは無駄な食を減らすということだ。

・大村悠斗      宮城県名取高等学校2年  取り残さないことと強要の違い   

今日では、SDGsの「誰一人取り残さない」という原則に則り、「普通」という壁を広げようとする活動が多く見られるようになりました。例えば、障害を持つ人を普通の人と比べて下に見たり、貧困の人を普通の人と比べて位が下だと見下したり、そういったことを減らそうとする活動が増えてきたようにおもいます。しかし、そのような活動には自由を縛り、行動を「強要」してしまうという危険を孕んでいるように私は考えます。そもそもなぜ人が人を下に見るなんてことが起こるのか、それは比べるからでしょう。普通と比べて劣っている、だから下だ。これが差別の基本形とも言えます。これを無くすための手段として、誰一人取り残さない事が取り上げられるのです。つまり、みんな一緒なら差別は起こるはずがない、という訳です。普通という概念は、長い時の中で人々に根付いたいわばテンプレート。テンプレートがあるから比べることが出来るのです。ですから、テンプレートの元である普通という概念を、作り替えてしまえばいいのです。健常者も障がい者も、豊かな人も貧しい人も、みんな普通。そうすれば差別は無くなることでしょう。このような価値観を現代的な価値観と呼ぶこともあります。ですが、本当にそれでいいのでしょうか?これはあくまで考え方を変えただけ。障がい者の生きづらさが改善される訳でも、貧困が改善される訳でもありません。これは人々に現状維持を「強要」しているともとれます。誰一人取り残さないのであれば、誰一人残さず救済するべきでは無いのでしょうか。そうしないのは何故でしょうか?それはもちろん、出来ないからです。誰一人残さず救済することなど、不可能なのです。例えば足の不自由な人を差別するのは良くないからと言って、マラソンをやらせてできるかと言えば出来るわけがありません。貧しい人に贅沢をやらせれば家計は破綻します。これこそまさに「強要」です。結局のところ、どう転んでも誰一人取り残さないことは「強要」になり得るということになります。では「強要」にしないためにはどうするのか。人には必ず違いがあり、その違いを無くすことは未来永劫不可能なことだと私は考えます。時には違いを「容認」し、願わくば「理解」することが必要です。「寄り添う」と表現してもいいかもしれません。強要することと寄り添うことは紙一重です。価値観によりその行為は強要にも寄り添いにもなります。そこにはやはり尊重が必要です。つまりは思考の改革、それなしでは差別は無くならないでしょう。強要と寄り添うことを同一にしてはいけません。取り残さないことには必ず容認が必要であり、そこに理解があればより良い関係となります。取り残さないとは、寄り添うこと。これが私の思う誰一人取り残さないという事です。

・太田京助      宮城県名取高等学校2年  教育を受けられない人を助けるために

教育を受けられない人がいると言われることがあります。SDGsの目標に「質の高い教育をみんなに」というものがあります。すべての子どもたちが教育の権利を持っています。そのため、教育を受けられない子どもたちのために多くの団体が支援活動を行っているそうです。

例えば、2017年の時点で世界では小学校へ通えていない子どもは世界で約6,100万人にも及び、このうち半数以上の子どもがサハラ以南のアフリカの地域に暮らしているというデータがあります。この実状を知って私は、どうにかして教育を受けられる環境を確保できないのか疑問に思いました。また、これだけの人々を取り残さないためには、どうすればいいのかが重要です。

アフリカの多くの子どもが学校へ通えない背景に、貧困や劣悪な衛生環境、子どもの労働、男女格差などがあります。途上国の多くの場所では家事や幼児の子育ては子どもが担っています。貧困な家庭が多い途上国では、両親が揃って働いていることも多く、家のことや小さな兄弟姉妹の世話などの労働をしなければならないからです。学校の建設や設備、環境の整備、教師の育成から指導、さらに貧困により学校へ通えない子どもたちには、文房具や教材の配布なども必要になります。また、両親が共働きのケースも多く、それだけでは家族を養えないため、年齢が高い子どもは家計を助けるために外で働かなければならないケースも多いそうです。戦争や病気など様々な理由で、両親あるいは片方の親が亡くなってしまった家庭であれば、子どもが働きに出なければいけない状況下に置かれやすくなります。これが教育を受ける時間が無いと言われる理由です。

また、小学校の知識が身に付いていなければ当然、字の読み書きができず、情報や知識を得られないと言うことから、文章や本を読むことができず、生活に必要な情報や知識を得ることができません。例えば、注意書や警告文があっても、読むことができないので、危険にさらされることがあります。また、計算ができないことで、金銭的な管理ができなかったり、騙されてしまうことにもつながってしまいます。こうなると社会から取り残される事につながってしまいます。

世界の教育問題はわたしたちが想像している以上に大きな問題です。質の高い教育を受けることで、世界が抱えている多くの課題を解決することにつながり、持続可能な開発目標の達成においても重要なカギとなると思います。

・阿部紗矢      宮城県名取高等学校2年  好きな人と結婚がしたい 

あなたは好きな人と性別が同じだということだけで法律に邪魔をされ、好きな人と結婚が出来ないという事実についてどう思いますか?

そもそもなぜ同性婚が認められていないのか。

それは同性カップルは生産性がない、つまり子供を産むことが出来ないから認められないということです。

女性の卵子と男性の精子がないと子供を作ることは出来ません。

なので同性婚を認めると少子高齢化が進むのではないかと言われています。

ですがその対策となるものがあります。

それが、精子バンクです

これは患者の体内から卵子を採取し

体外でドナーから提供された精子と受精させ

再び患者の体内に戻す方法です。

ですがこの方法は法的に婚姻している夫婦でないと受けることが出来ないため、同性婚が認められなければ同性カップルが使うことができません。

では例えばそのような女性同士のカップルはどうしたらいいのか。

1つ目は海外の精子バンクを利用する方法、

2つ目は親族や知人から提供してもらう方法、

3つ目はSNSから第三者に提供してもらう方法です。

海外の精子バンクを利用する方法と、親族や知人から提供してもらう方法は病院を通して行われるためある程度の安心感はありますが、

SNSから第三者に提供してもらう方法は

大きく3つのリスクがあると慶應義塾大学医学部の田中守さんは言っています。

1つ目は感染症のリスクです。

感染しても実際に血液検査の抗体として検査で引っかかってくるのは数か月後ということがあるためSNS上の精子提供だと、HIVや肝炎などのウイルス性の疾患がうつってしまう可能性があります。

2つ目は遺伝病のリスクです。

ドナーの方がある種の遺伝病持っていた場合、その遺伝的な病気が子供にに引き継がれる可能性があります。これはSNS上での取り引きは確認できことです。

3つ目は近親婚のリスクです。

病院を通してだと1人から10人の子供が妊娠した時点でその人からの提供を停止しますが、

SNSだとそういった制限もないので

20人30人、たとえば100人の子供が出来たとすると近親婚の可能性が出てきてしまいます

仮に同じ100人同じ提供者からの子供がいたとすると、

実際にその子供が結婚する時

兄弟同士である可能性がかなり高くなってしまうのです。

以上のことから女性同士のカップルが子供を授かるには法的に婚姻できるようにしないとかなりのリスクがあることがわかります。

また、ある日ニュージーランドで行われた演説で私はとても心打たれた言葉があります。

「同性婚という法案を通して実現したいのはただ1つ。愛し合う2人の人間を受けいれ、彼らの結婚を認める。ただそれだけ。核戦争を始めると宣言してるわけでも、農業を壊滅させるようなウイルスを持ち込もうとしている訳でもない。ただ、愛し合う2りの愛を結婚として認めるだけ」

一方日本の政府の見解としては

今の憲法では両性(異性間)の結婚を定めており

同性カップルは想定していなかった

憲法改正に関しては家族のあり方の根幹に関わる問題で、

慎重に扱うべきだと主張しています。

私は同性婚が認められることを心から願っています。

・嶺千歳        宮城県名取高等学校2年  私は取り残されている? 

私のクラスには私の他に37人のクラスメイトがいます。みんな個性豊かで見た目も違うし、考えも違うし、もちろん暮らしている地域や家も違います。でも行事の時にはいつもと違う一体感が生まれ、みんなひとつになります。しかし、そんな風に感じるのは私だけかもしれません。私は仲良くしてくれる友だちがクラスにもほかのクラスにもいるのであまり1人になることは少ないですが、時々1人でいる人を見ることがあります。その人は一人でいることを好んでいるのか、それとも仲間はずれにされているのか、どう感じているのかは分かりませんが、私はそういった人を取り残されていると思います。「誰ひとり取り残さない」という課題を世界規模で解決することは不可能に近いと思います。なぜなら40人クラスの世界でそれが起きているから。80億人もいるこの世界で「誰ひとり取り残さない」という課題は解決できるのでしょうか。確かに、富裕層の多い国もあれば貧困の国もあり不平等だと感じることがたくさんあります。しかし貧困の国が取り残されてるという考えも違うと思うしその国の人達が自分達は取り残されていると感じていないかもしれません。さらに、誰だって自分は取り残されていると感じる瞬間は絶対にあるはずです。今、私は家族と暮らしていて仲の良い友達がたくさんいて幸せだなと感じながら生きていますが、時々自分は取り残されているなと感じます。たとえば、自分が知らないドラマの話を友達がしていたり、家族でいる時に弟と妹は両親といるけど、私は1人になってしまうなど取り残されている感覚はあります。

そのため、世界が考える「誰ひとり取り残さない」という課題をすぐに解決することはできないと思いますが、まずは身近な取り残されている人を助けることが大切だと思います。その積み重ねが世界規模での解決に繋がるのではないでしょうか。

・阿部愛望      宮城県名取高等学校2年  ジェンダーに対する偏見や差別を無くすために

取り残された人たちを救うために何をするべきか。私は、社会的偏見の性差で苦しんでいるジェンダーの人たちを救うために性別に対しての偏見をなくし、一人ひとりが個性や自分らしさを出せる社会になるべきだと思う。

なぜなら、「男性はズボン、女性はスカート」といった性別に対しての偏見が未だなくならず、苦しんでいる人が多いからだ。

私たちの身近で例えると学校の指定である制服だ。性別に対しての偏見である「男性はズボン、女性はスカート」と考える学校は未だ多く、女性用のスラックスを認めている学校は少ない。都道府県の全日制高校3205校を対象にした調査ではスラックスを採用している高校が44.4%であることを説いている。この調査から分かることは、未だスラックスを認めていない高校があるということだ。

私が通う高校では、女子生徒はスカートの他にスラックスが認められている。学校に通う人たちがスラックスを履いている生徒を理解することで偏見を持つ者がいなくなり、過ごしやすい環境を作っている。誰もが好きなタイプの服を着れるように、私たちはジェンダーである人たちの気持ちを理解し、その人たちの個性や自分らしさを否定せず尊重することが大切だと思う。

最近では、女性が男性者のズボンを履いたり、男性がネイルをしたりなど個性や自分らしさを出せる社会に少しづつ近づいてきている。

確かに、今の時代韓国ファッションの流行やアイドルの影響によって男性も女性も自分がしたいファッションをすることで個性や自分らしさを出して過ごせるという考えが、浸透している。

しかし、男性が女性用の服を着たり、スカートを履いたりすると周りから冷たい目で見られてしまう。これは、人それぞれに対する偏見があるからである。人は会ったばかりの人に対し見た目で判断する傾向があり、悪い印象を持つことが多い。

私は、自分がしたいファッションを自由に着ることができる社会を作るために「その服似合わない」や「女の子なんだからスカート履きなよ」などといった人の好きな服装に対して侮辱するような言葉をなくしていきたいと思う。時には言葉は刃物になり人の心を傷つけてしまう。もし、自分がこの言葉を言われたらどう思うのかということを考えて発言する必要がある。そのためには、相手の好きな服装に対しての偏見を持たないこと。逆の立場だったらどうするのか。ということを考えて行動するべきだとおもう。

以上の内容から私は、社会的偏見の性差で苦しんでいる人たちを救うために女性、男性といった性別に対する偏見を持たず、一人ひとりが自由に個性や自分らしさを出せる社会を作る必要があると思う。

・髙原雛乃      宮城県名取高等学校2年  いじめが原因で学校に行けていない人たち

「誰ひとり取り残さない」この言葉を聞いて私は、誰ひとり取り残さないとはどういうことなのだろうと思った。そして誰ひとり取り残さないとは、孤立しない、孤独と感じないことなのではないかと考えた。

そこで私は学校に行けていない人たちについて考えた。取り残された人たちを救うために何をするべきか。私は、学校に行けていない人たちを救うためにその人自身の気持ちになって考え、今どういう状況にあるのか親身になって聞くことが大切だと考えた。

学校に行けていない人たちはみんな何かしらの理由があったり、問題を抱えていたりしているのだろう。よくニュースで耳にするのは「いじめ」が原因で学校に行けず不登校になったという事例だ。自ら自分の命を絶つ人も多くいる。

インターネットで調べたところ、2021年度の小中高等学校におけるいじめの認知件数が61万5351件と過去最多となったことが、文部科学省が2022年10月27日に公表した「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」で明らかになったという。また、小中高等学校における不登校者数は29万5925人もいることがわかった。小中高から報告のあった自殺した児童生徒数は、368人だという。

調べてみて、いじめが原因で不登校になったり自殺してしまったりする人がたくさんいるということがわかった。なぜそのようなことが起こるのか。なぜいじめはなくならないのか。いじめをなくすにはどうしたらいいのか。学校ではよく、学校生活アンケートやいじめに関するアンケートを行っているが果たしてそれは本当に意味があるのだろうか。なにかの役に立っているのだろうかと私は思った。アンケートを実施したところでいじめはなくなっていないし、不登校の人が少なくなるとも限らない。

それは学校側の対応が適切な対応を取れていないからなのではないだろうか。学校側が早めに気づいて対応できていればいじめられている子を助けてあげられるかもしれない。だが、そもそもいじめがあったということを知らなかったというケースもある。そのようなことがないためには、適切な対応をしていくべきだと思う。

以上のことから誰ひとり取り残されないように、ひとりでも多くの子が楽しく学校に行けるように、その人自身の気持ちになって考え、今どういう状況にあるのか親身になって聞くことが「誰ひとり取り残さない」ことなのではないかと思った。

・渡辺悠太      宮城県名取高等学校2年  1人ぼっちと一匹狼     

あなたは1人で生活している人をみんながみんな「1人ぼっち」だと思いますか?「1人でお昼ご飯を食べている人」、「1人で街中を歩いている人」、「1人でカフェにいる人」など。私たちの生活には、至る所に「1人で〜している」という人がいます。確かに、人とコミュニケーションをとれず1人で行動している人、なんとなく友達の輪の中に入れず1人で行動している人などはいると思います。ですが、私は1人でいる人全員がそういう訳では無いと思います。世の中は「一匹狼」という言葉があります。これは、「自発的に単独行動をする人」、「誰かと行動をともにするのではなく、自ら好んで単独行動をする人」という意味です。要するに、1人が好きだという人のことです。自ら1人を好んで行動している、生活しているとなれば、これは「1人ぼっち」ではありません。「一匹狼」は決して悪いことではありません。逆に私は、「一匹狼」は個性的でとてもいい事だと思います。周りからしたら、1人ぼっちに見えたり、友達いないのかなど負の考えが思いつくかもしれません。しかし、逆に言えば、1人で物事が判断でき行動できる、自立心が人一倍成長するなどの良い考えがあります。

では、1人でいる人をどのようにすれば取り残さないで接することが出来るのでしょうか?「1人で〜している」という人は、先程述べたように、2パターンあると思います。「単純に1人の人」と「自ら1人になる人」。まずは、「単純に1人の人」についてです。このような人は、自分から周りに上手く打ち込めない人が多いと思います。そのため、第2者、第3者の周りにいる人が声を掛けてあげて、誘ってあげれば必然的にその人は1人じゃなくなります。もちろん、人と関わるのが苦手ということを克服してもらえば話は簡単です。ですがそう上手くはいきません。そのため、周りにいる第2者、第3者の対応によってこのような人達は仲間外れではなくなります。

一方、「自ら1人になる人」についてです。この人は好き好んで1人になっています。そのような人に声を掛けたり、誘ったりすると断られる可能性が少なくありません。「いいよ、僕のことは気にしないで」、「僕は1人の方いいからみんなで遊んできていいよ」など。ですか、このような人にでも声を掛けてあげるという行動はとても大切だと思います。たとえ断られても、声を掛けてあげるという行動でその人は「僕は1人でいるのが好きだけど、周りにはみんながいてくれる。1人じゃないんだ。」と思えるようになります。そのため、1度声を掛けるということが大切です。

以上が私の意見になります。結論、「1人にさせない為に周りの人が声を掛けて誘ってあげる」ということです。

・佐藤悠来      宮城県名取高等学校2年  誰も取り残さないためには       

耳が聞こえない、目が見えない、手足が自由に動かないなど当たり前のことが当たり前に出来ない人。私は昔からそんな人に興味がありました。

なぜかというと小学校の頃から近くにそんな症状がある子が多かったからです。私たちの学年は他の学年と比べてかなり多かったです。最初は関心もないし、少し抵抗がありました。障害を持っているから勉強内容が違ったり、することも違っていて当時小さかった私はずるいなと思っていました。

でも、その考えが変わったのは少し学年があがった頃でした。耳の聞こえない子と仲良くなったのがきっかけでした。補聴器、手話、指文字、たくさんの知らない言葉がありました。その子は普通のクラスの授業は受けれないので違う教室で授業を受けていました。でもたまに普通のクラスで受けていました。最初は何も聞こえないのではないか、ついてこれないのではないかと思っていました。でも、隣に先生がいたり、分からない時は質問したりついてきていました。そんな姿にすごく勇気づけられたのを今でも覚えています。先生たちもその子を取り残さないようたくさんの工夫をしていて、すごいと思います。

周りだけが頑張っているのか?そんな訳ありません。その子自信がとても頑張っていました。補聴器をつけているので少しは聞こえているので、手話をしなくても喋ることがある程度出来ます。でも聞こえなかった時は何度も聞き返してくれたり、笑顔で話してくれたり、一緒に指文字を教えてくれたりしてくれました。耳が聞こえないだけで、他は私たちと何も変わりません。一緒に話していて楽しかったです。

その他にも耳も聞こえて目も見えるけど周りの子と同じことが出来ない子もいました。その子達の方がなんで出来ないんだろうと思う人が多かったです。でもその子たちも少しスピードが遅いだけで私たちと同じことが出来ます。

絶対に自分が1番辛いはずなのに頑張って私たちと同じことを出来るようになろうと思う気持ちがすごいなと思います。

そこから耳が聞こえない以外でも日常的に障害を持っている人を少しでも助けられる工夫があることに気付きました。点字やスロープ、その他にも色々あります。

まだまだ障害者をみんなが受け入れられるわけではないと思います。ですが、少しずつ理解する人が増えてると思っています。でもまだ取り残されているように感じます。取り残さないようにするにはどうしたらいいのか。それを考えることが必要なのかなと思います。誰も取り残さない世界になれればいいなと思います。

・田中晴空      宮城県名取高等学校 2年 SDGsを知らない人もいる

最近社会はSDGsという言葉に取り憑かれているように動いています。

しかし、私は同じ社会に生きていると思えないほどSDGsを理解しきれていません。私と同じ人はたくさんいると思います。SDGsの基本理念である「誰ひとり取り残さない」はこの時点で壊されてしまっています。人はそれぞれ理解するのに時間がかかるし、人それぞれのキャパシティがあります。教える以前に、そもそもSDGsという言葉の存在を知らない高齢者もいます。このような人たちはどうすれば社会に取り残されずに生活できるのかと思いました。

まず、2015年に始まったSDGsには達成期限があり、それは2030年の8年後に迫っています。そこまでにSDGsの存在を認識してもらい、17個の目標を達成しなければいけません。そもそも15年間で17個の目標を達成するということは無理だったのではないかと思います。15年かけてやっと10人聞いて10人知っているという状況になるのではないかと思います。そこで、まずは、期限を伸ばすべきなんじゃないかと思いました。

しかし、SDGsは世界規模で定められた目標ということで、そう簡単に期間を伸ばせるものではないと思います。

そこで、私達ができる範囲の活動でSDGsの呼びかけをするのが、ベストなのではないかと考えました。活動の例として、公民館などで、主に学生がSDGsの出前授業を無料でやるなど、誰でも気軽にSDGsを学べる場をたくさん作ることです。もし、出前授業を受ける人が減ってきたときは、SDGsがほとんどの人に浸透した証拠だと思います。

もう一つ、チラシを配って少しでも興味を持ってもらうことも大切だと思います。

これらのことを実施することによって、「誰ひとり取り残さない」という理念も達成できるのではないかと考えます。

・匿名      宮城県名取高等学校2年  取り残されるサイクル   

今の生活は楽しい、そう感じていれば取り残されてはいない。しかし、今の生活に不満や不安があれば取り残されてるのかもしれない。ここでは、日常生活のなかでの

「幸せ」をテーマ話していきたい。私たちが日常生活のなかで「幸せ」を感じることの例をあげると美味しいものをみんなで食べた時、友達の遊んでいる時、プレゼントをもらった時など人と人の関わりがあって「幸せ」を感じると思う。つまりは、人と人の関わりが幸せに直結しているとも言える。

だが、この関わりが崩れてしまった時に人は不満や不安を感じ、取り残されるのがイジメである。イジメは、周りで見ているだけでも加害者で、直接手を出した場合ももちろん加害者になる。そのため、加害者が多く解決するには時間も労力も多く必要となる。また、イジメを受けている人の中には自殺を図ることがあるのも事実だ。ある記事による世界では40秒に1人の割合自殺して、年間にすると約80万人にものぼるとかかれていた。ここまで追い込まれ、取り残されてる人を減らすにはどうすれば良いのか。1番は被害者を作らないことだ。イジメの発端にあることは、ストレスがつながっていると考える。

そう考えた時、ストレスを減らす環境づくりへと転換されていく。ここで自分の身の回りについて振り返ってほしい。全員でコミュニケーションを取れているか、誰も取り残されていないかを考え直してほしい。そのひとりひとりの行動が取り残されている人を救う一歩になる。

そして自殺をやめてイキイキと暮らせる生活へと繋がっていくと私は思う。その考える必要があるのは今楽しく過ごせてる人の方である。その楽しさを分けることが新しい楽しさとして受け入れられる心を持つべきである。

取り残されている側に理由があると思う人もいるかもしれない。しかしそれはイジメが良い行為でもあるという結論になりかねない。一般に人の命が奪われる行為が良いとされることはあり得ない。そのため、その反論はみとめらない。では、なぜイジメがなくならないのか、それは人は人をいじめることで自分のかかえるさストレスから解放されるためであるだろう。こうして人間の抱えるストレスは負のサイクルへとのめり込んでいく。誰一人取り残さないために楽しいと思える生活にする。楽しいと思える生活にするために不満や不安をなくす。不満や不安をなくすためにイジメをなくす。イジメをなくすためにストレスを減らす。ストレスを減らすためにイジメをする。不安や不満を抱える生活になる。そして取り残されるという末路を迎えることになるサイクルだ。

・鈴木留奈      宮城県名取高等学校2年  相手の話を聞く 

最近SDGsという言葉を口にしたりテレビやネットニュースで取り上げられることが多いと感じました。SDGsの誰一人取り残さないという目標について私が取り残されたと思ったのは、人に説明をする時です。

私は人に説明をすると言った場面の時に緊張して固まってしまうことが多くとても苦手です。

小学校の頃先生から「何を言いたいのか分からない、もういいよ」と少し怒り気味で言われ突き放されたような感じがして、ショックを受けたのを覚えています。私はその時の事を思い出すことが多く説明する場面になった時も相手を困らせて、突き放されるかも知れないと思い怖くなることがあります。一時期は自分のことを上手く話せずにその場で泣いてしまうこともありました。その時の私は自分だけ周りから置いてかれてる気持ちになりました。

しかし、優しい友達や先生と出会い私の説明に対して否定や怒ったりせずそれってつまりこういうことかな?と理解しようとしてくれる気持ちがとても嬉しかったです。

私はこのような経験をして、何事もすぐに決めつけず相手の話をよく聞いて理解しようとしてくれる人が増えてくれたらいいなと思いました。今、世界でもまさに同じことが起こってるのではないのかなと思いました。

社会的地位が低い国が先進国に意見を言ってもあまり聞いて貰えなかったり、先進国に歯向かう力がなくいいなりになってしまうことがあると授業で聞いた時に世の中ではそのようなことが起こっているという事実に驚きました。

そのため私はどんな関係でも相手の話をしっかり聞くことがいろんな場面で大切だなと思いました。

・石戸兜雅      宮城県名取高等学校2年  1人でいることは仲間外れではない       

あなたは1人でいることが仲間はずれだと思いますか?

仲間はずれではないと、言う人も多くいると思いますが状況によってはそれが仲間はずれに見えてしまう事も私はあると思います。

私は授業で、自由時間にみんなが集まって何かをしているところに「私は1人が好きだから」という理由で、それに参加しない人もいると聞きました。確かに参加するのは自由かもしれませんが、それを違うクラスの人から見ると「なんであの子だけ1人でいるんだろう」と思う人もいると思います。

私はいつも人に流されやすい性格なので、人が多い方に自然とよって行ってしまいますが、1人が好きな人は他人から声をかけられることも苦手なのかも知れません。

みんなが集まっていて1人でいるのが可哀想だから呼んであげるなど、いつも多い人数と接している人は簡単かもしれませんが、それを言われると1人でいることが、可哀想と思っていると伝わって逆に嫌な思いをさせてしまうかもしれません。

本当は仲間に入りたいけど、入れないという人はどうするのかと言われるかもしれません。そこで私は大人数でいる人は、気軽に友達が増えるのを許せる人だと思います。

自分から話しかけるのは、難しいと思いますが少しずつ一緒にいたいというサインを、出し続ければいつか仲間に入れてもらえると思います。

自分も高校に入ってすぐは、同じ中学の友達も少なく、1人のことが最初は多かったけれど部活に入り友達もだんだん増えて、そのスポーツのゲームをやってる人とも友達になり、私はグループや部活などに入ることが、1人でいたくないけれど、1人になってしまっている人が抜け出す1番の近道だと思います。私が言っている事が全て正解ではないと感じますが、一度試してみてください。

話題から少し外れてしまいましだが、私は1人でいることは恥ずかしいことではないと改めて思いました。

このことから私は1人でいることは恥ずかしいことだと思わず、1人でいることにしかできないこともあるということをこの文を読んで多くの人に知って欲しいと思います。

そして1人でいるが全て仲間外れだと思わないで欲しいです。

・木村夢芽      宮城県名取高等学校2学年 普通とは       

私は「誰ひとり取り残さない」と聞いて理解するのに時間がかかりました。取り残すという言い方は人が人を区別している気がして私はあまり好ましくないと思いました。取り残さないというより、自分の価値観は他人と違うので他人に押しつけないことが大切だと思います。そう考えるのは私自身、ちょっと違うなと感じた体験があるからです。その体験は、家族や友達と会話している時、会話中に「普通」という単語が出てくると疑問に思うことがあります。人それぞれ考え方が違うのになぜ「普通」という単語に自分の考えをまとめてしまうのだろう、正直私はあなたと考えが違うのに、と。「普通」という単語は、普通な人と普通じゃない人を人が区別してしまう言葉だと思います。このような体験から、自分の価値観は他人と違いそれを他人に押しつけてはいけないということが大切だと思います。

阿部    麒紗来  宮城県名取高等学校2年 みんなは気づけていますか。       

何から誰1人取り残さないのか、私には疑問である。もうそのことを考えていること自体が自分では気づかないうちに誰かを取り残してしまっているのでは無いかと思い、それはどんな時であるのかを考えてから私みたいな1人になっている人に気づけずにいる人を無くすためにも誰1人取り残さないにはどうしたらいいのか考えた。私にとって誰1人取り残さないとは悪気がなくても差別してしまったり、クラスの中でペアを作らなきゃいけなくなった時に1人になっても誰も助けることが出来なかったりすることなのではないかと考え、このように一見1人きりに見えなくても誰も知らないところで1人になってしまう人を無くすためにはどうしたらいいのか。それはその人の見た目や噂、勝手な偏見などで人を判断せずに1度相手を受け入れて自分自身、そして相手をも決めつけないことが大事だと私は考える。なぜなら自分の勝手な判断によってあの子はあの子と仲がいいから大丈夫だとか別に私が助けてあげなくても大丈夫だと決めつけて知らないフリをして何もしないままであるからだと私は思う。その勝手な判断を無くし相手に声をかけてみたり少しでも常に周りを意識し勇気を持って行動することが誰1人取り残さないことにつながると思うからだ。確かに周りを意識していても気づけないことがあったり、取り残された1人が勇気を出して意志を伝えないと分からないと言う人もいるかもしれない。しかしこちら側がその人を受け入れられる雰囲気を作ったり誰とでもニコニコで話したりしてその人の心開くまで待つことができないと1人の人の気持ちを考えたとき、1人で全て決めて行動しなきゃいけないし荷が重いと思う。だから私たちの方から勇気をだして行動しないといけないし、自分にはには関係ないと決めつけて知らないフリをしてはいけないことである。だから普段から気を使いすぎなくてもふとした時、あ、あの子は今1人なのかな?大丈夫なのかな?私には何ができるのだろう?って気づけてるような普段から誰とでも話せるぐらい気さくな雰囲気がある人を目指すことができると1番良いのではないかと思う。このことから何も考えずに行動するよりも少しの意識で誰かを救うことができるのではないかと考える。以上の理由でその人の見た目や噂、勝手な偏見などで人を判断せずに1度相手を受け入れることが大事だと私は考える。そして相手を受け入れることができるのなら、自分自身も決めつけずに受け入れて行動していくことがさらに誰1人取り残さないことにつながるという風に考えることができた。

・鎌田真由香    名取高等学校2年 発言をしずらい人々     

最近、SDGs という言葉をよく聞くが、意味を知る機会がなかった。今回「誰ひとり取り残さない」について考えるにあたって私が思う1番社会的弱者だと感じるのは、「吃音症」と呼ばれる発達障害の人達だ。吃音症とは、身体的な障害はないが言葉をスムーズに話せなかったり話そうとする時、最初の音が連続して発せられたり声が出なかったりする障害だ。誰しも咄嗟に言葉が詰まることはあると思うが、この障害は身体的障害ではないので周りから判断しずらく分かりづらい。このような障害を抱えている人は、自分の意見や発言を思った通りに話せないことが多いのでは無いかと考える。このことから、吃音症の人々を救うために対面での会話の場合相手の伝えたいことを聞く時の姿勢を工夫するべきだ。なぜなら、1番の最善策は吃音症を治すことだが吃音には3つの主な原因がある。1つ目は、「体質的(遺伝的)要因」である。親からの吃音の遺伝は約八割発症すると言われている。例えば生まれた時左利きで、小学生になる前に右利きに直すのはとても難しい。とくに遺伝という先天性のものは意識的に直せるものじゃないため改善は困難である。2つ目は、「発達的要因」である。これは吃音症の9割にあたる症状で、身体や認知、言語などの急速な発達によるものだと考えられている。だか、明確な原因が分かっていないのが現状である。最後の3つ目は、「環境要因」である。これは身の回りの環境によって発症してしまうものだ。この中では特に環境要因が1番は直せる可能性があるのでは無いかと考える。だが、発達的要因が9割を占めているため、環境要因の発症者を治すことが出来ても、全体の吃音症の障害者を治すことは、不可能に近いからだ。また、障害を治すことより先に私たちが吃音症の人の意見を聞こうとする姿勢を見直すことが大事なのではないかと考える。対面で話すことで感じ取ることができる考えやその場の雰囲気もあるが、私達が吃音症の人々と向き合う上で大事なのは、「声」を聞いて会話をするのではなく、ジェスチャーや表情を見て会話することである。吃音症の人々も無理に発音しようとするのではなく、自分の伝えたい内容を伝えることに意識を向け、私達も吃音症の人々が身近にいることを理解し、その人の意見を尊重することによって、さらに吃音症の改善や発言のしやすさに繋がっていくと考えられる。このように、発言権が弱い人々を無視せず尊重することにより、取り残された人たち(社会的弱者)を救う行動の一歩になるのではないかと思う。以上の理由から、吃音症の人々を救うために、吃音症の人々を救うために対面での会話の場合相手の伝えたいことを聞く時の姿勢を工夫するべだ。

・竹中ひかる    市立札幌開成中等教育学校5年(高校2年)  隣の街にも目を向けて   

すべてのものは、なにかを軸に回っている。観覧車にも、コマにも、どこにだって中心は存在する。それなら目に見えないものだって、例えば情報も、実はそうなのかもしれない。

私は、北海道の札幌市というところに住んでいる。全国規模の天気予報では、北海道の中で唯一、名前が表示される街。JRも地下鉄もバスも市電もあって、有名人のコンサートだってたまに来る。それが、札幌。

でも、生まれてからずっと札幌に住んでいたわけではない。父の仕事の関係で、中学校に入る前は、いろいろな街に住んでいた。地図を開いて、北海道をちょっと拡大して見てほしい。北海道は、面積が広い分、たくさんの街がある。私の住んでいたこの街たちも、そのなかの1部だ。

私がよく覚えているのは、一個前に住んでいた街、釧路市だ。釧路市は、北海道の東の方にあって、北海道の街にしてはそこそこ大きめ。私は、小学3年生から5年生までの間、釧路で過ごした。そこで私が1番熱中していたのは、とあるカルタだ。

カルタの名前は、「釧路ふるさとカルタ」。当時の釧路の小学生の中ではかなりメジャーな遊びで、大会も開かれていた。カルタにしては枚数が多く、88枚。「あ」の札が3枚あったり、「た」の札にいたっては5枚もある。

そして1番の魅力は、それら88枚の札ぜんぶが、釧路についての内容だということだ。釧路のラーメンは細麺のしょうゆ、好きな刺身をのっけて作る勝手丼、世界3大夕陽とも言われた幣舞橋からの夕焼け、校庭に水を撒けばできるスケートリンク。6年以上経った今でも、釧路のことは鮮明に思い出せる。

その後、札幌に引っ越して、だんだんと札幌人になっていったけれど、最近ふと思うことがある。情報の中心は、都会の街なのだ。全国区の天気予報は都会の街しか表示されない。交通事故や火事のニュースだって、都会で起こったものばっかりだ。レストランやカフェは都会のお店が紹介される。人が多く住んでいるのが都会なのだから、当たり前ではある。でも、少しだけもどかしい気持ちになることがある。本当は、どの街だって天気は荒れるし、事故は起こる。

それにやっぱり、美味しいお店だってたくさんある。特に北海道といえば食べ物。釧路なら勝手丼にスパカツ。帯広は豚丼、深川はお米、美唄は焼き鳥、別海はアイスクリーム。たぶん、北海道だけじゃない。どの街にも、都会に負けないものがたくさんあるのに。

だからこそ、ちょっとだけでいいから、考えてみてほしい。あなたの隣の街の美味しい食べ物や、きれいな景色、おもしろい場所。今なら、これまで気づかなかったことだって、気づけるかもしれない。そうやってみんなが、隣の街から興味をもっていったら、いつか誰も取り残されない世界になっていく、私はそう信じている。

・千葉優奈      高校2年生      バスで園児が取り残され死亡した事件について     

今年の九月、静岡県牧之原市にある認定こども園「川崎幼稚園」の通園バスの車内に三歳女児が置き去りにされ、熱中症が原因で死亡した事件が起きました。その女の子は、五時間程度にわたり置き去りにされたそうです。その事件が起きた原因は、普段の運転手が休みのため、代理の運転手による人数確認の不足や、運転手自身の焦りによって起きてしまったと考えられています。当時の気温はとても高く、その気温の中バス内で五時間も放置され、四十度程度まで上昇していたそうです。三歳の女の子がたった一人でバスに置き去りにされ、静かに待つというお父さんの言うことをしっかりと守った上で一人で過ごしていたと考えると、とても苦しく、残念な気持ちになります。バスの運転手だけでなく他の先生方にも、女の子が置き去りにされていることにどうにかして気付いて欲しかったと思います。仮に、人数確認を一度していたとしても複数回繰り返し行うという些細な行動によって、今回のような事件が起こらずに済んだのではと思いました。それに、今回の事件だけでなく、同じような事件が何回か起きました。何日も同じくこの事件が報道やニュースで流れたというのに、テレビを見ていないのかもしれないけれど、誰も学ばないのかなと少し呆れました。これから、また同じような事件が起きたとして、誰も得しないし、信頼も少なくなってその保育園や幼稚園を利用する人も誰もいなくなると思います。また、その子どもの保護者の方にとっても、謝罪どころじゃ済まないと思うし、むしろ、なにをしても許されることは無いと思います。ですが、家庭でも保護者の方と子どもが、万一の時に備えてクラクションを鳴らす等の訓練を行うなどしている人々もいるみたいです。その成果が得られるように私は保育園や幼稚園側の人たちや、もちろん自分たち自身も事件が起こらないよう、気をつけていってほしいと思いました。ただ、車内からブザーを鳴らすという案もあるそうなのですが、窓が全て締め切っている状態だと、なにも音が聞こえないらしいです。ネットでも調べましたが、政府側は、所在確認や安全装置の設置を義務付ける、安全装置の仕様に関するガイドラインを国が作成する、安全管理マニュアルを国が作成する、総合経済対策に盛り込み、財政措置を講じるなどと信頼度が高そうな防止策を作成したそうです。それを踏まえた上で、このような事件がもう二度と起こらないことを心から願っています。

・星汰征        宮城県名取高校 2年     最近聞くようになったSDGs       

最近よくSDGsをよく聞きます。私がコンビニで水を買った時ペットボトルの容器が以前とは違っていました。そこで調べてみたところ100%リサイクルペットボトルを使用していて、環境にもよいボトルになったそうです。他にもストローがプラスチックから紙のストローになったりなど身近なとこで環境を考えている取り組みがあります。また、SDGsはそれだけでなく「誰ひとり取り残さない」を原則としているので考えてみました。誰ひとり取り残さないということは場合に応じて使い分けた方がいいと思います。例えば学校の行事で協力しないといけなかったりすることは誰も取り残されないようにしないといけないと思います。それ以外では1人になってる人がいても全然私は取り残されてないと思います。なぜなら友達がいても1人が好きな人もいるし、場合によって1人になることもあるからです。私も休み時間などは1人で過ごしています。そう考えると場合によって使い分けないと行けないと思います。また、一人ひとりが周りのことを考えて行動しないといけないと思います。誰ひとり取り残さないということは簡単そうに見えますがよく考えてみたら難しいと感じています。1人が嫌な人もいれば1人が好きな人もいるので考えるととても難しいです。だからSDGsの原則とされていると思います。人それぞれ違うので自分が思っていることを他人と同じだと思っては行けないと思います。誰ひとり取り残さないということは考えれば難しいですが、まずは自分の考えを持ち、他人を尊重することが大切だと思います。けれど自分の考えを他人に押し付けてはダメだと思います。その人がどう思っているかが大事だと思うので、相手の意見も尊重しないとダメだと思います。SDGsの環境に優しい取り組みは私も最近になって知りましたが、誰ひとり取り残さないことがSDGsの原則なことは今回のことで知りました。自分の考えと相手の考えを一人ひとりが大事だと思うことです。

・髙廣星那      宮城県名取高等学校2年  見えてないところで     

私はSDGsの基本理念の「誰一人取り残さない」というこ

とに関して思いつくことを考えてみました。それで心因症というのに目を向けました。心因症とは悩み、ストレス状況などで心理的葛藤から様々な症状がいじるものです。

私は心因症からパニック障害やうつ病などが思いつきます。それらは癌などの病気とは違って心の病なので人には見えづらい病気だと思います。他人から理解されづらい病気なのではないかと思います。目に見えない病気だからこそ、誰にも言えずに一人で抱え込んでいる人々がたくさんいるのではないかと考えました。そういう人たちを「誰一人残さない」ことができたらどれだけの人の為になるかと考えました。私はこれまでうつ病で仕事をやめる人を何度か見てきました。またテレビなどでパニック障害で活動休止する芸能人が多いことなどを見てきて、誰でもなってしまう病気なのだと分かりました。自分が気づいていないだけで、身近で抱え込んでいる人がいるのではないかと思いました。心因症を抱えている人にも友達や家族とかに言っている人や、心配されたくないと思い誰一人にも言わない人がいると思います。でも私は一人で抱え込まないで信頼できる人には伝えることで少しでも手助けをしてくれる人がいる世界だと思います。人には中々見えづらい病気だからこそ、まず理解してもらうことが大切だと思います。私はパニック障害でじっとしていないといけない美容室に行けない人がいることを知っています。少ないかもしれないけど、病気のことを伝えることでわざわざ美容室に行かなくても、家まで美容師の友達が髪を切りに来てくれるかもしれません。自分の信頼している人は抱え込んでいるものを伝えられたら、伝えてくれてありがとうと思うと思うし、お節介にならない程度に何か力になりたいと思う人がたくさんいると思います。

「誰一人取り残さない」というのは、これからもずっと世界の課題となっていくと思います。自ら一人を選んでいく人がたくさんいると思います。でも身近な人で抱え込んでいそうな人に気づいて悩みを聞いてあげることだけでも「誰一人取り残さない」を出来ていると思います。少しでも誰かの力になれることはなかなか出来ないし素晴らしいことだと思います。

・大塚芽衣      宮城県名取高等学校2年  聴覚障害者への理解を深めるには 

聴覚障害の人を救うためには、周りの理解をもっと高めるべきだ。

聴覚障害の人は健康な人から見ると違いが分かりにくいと思う。例えば、視覚障害の人は盲導犬と歩いたり、白状を使ったりして生活している。その光景を見たら誰もが障害があるということに気づくだろう。それに比べると聴覚障害の人は補聴器をつけるという手段もあるが、いずれも一目見ただけでは分からない。そのことで知らない間に傷つけてしまうかもしれないということをもっと理解するべきだ。

私は陸上部に所属していて、去年の大会に聴覚障害の人と出会った。その人はとても笑顔で話しかけてくれた。ただその人はメモ帳で話しかけてきた。「何組目ですか?」その時初めて私はその人が聴覚障害なのだと気がついた。初めての経験で私は手で数を表すだけなのにとても戸惑ってまともに示すことが出来なかった。それは相手も戸惑わせてしまったと思う。だけどその人は困った顔1つせず笑顔でこっちを見ていてくれた。私はその優しさに助けられた。それと同時にこんなにも自分が咄嗟に行動に表すことが出来なかったと後悔もした。それから沢山会うことはなかったけれど会うときあっちも覚えててくれて少しの時間の時でもあの人に会うとこっちまで笑顔になった。レースが終わった後に1度メモ帳を見せてもらったことがある。1番最初のページには名前、学年、学校名、などその人の基本情報がびっしりと書かれていた。そこからページを捲っていくと色んな人との会話の後が沢山あった。そのメモ帳を見ただけでその人がたくさんの人と会話をしてきたんだなと読み取ることは簡単なことだった。また、あんなに多くの人と話せるのも彼女は耳が聞こえないけどそれ以上に彼女の人柄の良さが出ているのだと思った。もし自分が聴覚障害を持っていたとしたらあんなに人に話しかけることが出来ないかもしれない。ましてや、陸上競技というスポーツをしているかも危うい。だが彼女は耳が聞こえないけれど、陸上競技を選び、あの人柄の良さで困難も乗り越える事ができたのだろう。

初めに言ったが聴覚障害はほかの障害者の人と比べると健康な人との区別が分かりにくい。実際私も聴覚障害の人と会った時一目では分からず話して初めて分かった。けどそこで無意識に線引きをしてしまったら何も変わらない。私はまずその意識を変えるべきだと思う。たしかに耳が聞こえなければ遠くから呼ばれても聞こえないし、普通に喋って会話することが出来ない。けれど、だからと言って喋るだけが会話では無いし、分かち合えない訳では無い。聴覚障害の人だって一人の人間だ。私たちと何個も違う訳では無い。だからこそもっと私たちが聴覚障害の人に寄り添えるような意識がけが出来たら、聴覚障害の人ももっと生きやすい世界になるでは無いのかと私は思う。だからこそ、聴覚障害の人を救うためには、もっと周りの理解を高めるべきだ。

・畑中陽輝      宮城県名取高等学校2年  どんな事を誰のためにするか     

皆さんはSDGsと聞いたらどんな事を浮かべますか?少し前からですが少しずつ再生可能な社会という事で、様々な場所で取り組まれてきました。身近なところで触れると、スタバのストローが紙ストローに、コンビニの袋が有料に等と私たちの生活の中に少しずつ溶け込んできています。また今年には芸能人の方々がSDGsのサポーターとなりより世間に広めようと活動をしている。世界的に見ても2030年を目処に””17″”の目標を達成出来るようにと取り組んでいる国が多くあります。

誰一人取り残さないという事について私は足並みを揃えることは難しいが少しでも何か出来ることは必ずあるという事です。””17″”の目標とありますが私が特に注目したのは『貧困を無くそう』という目標です。貧困というのは1人あたり1日約200円以下で生活をしている人達の事を指します。世界では約10%、7億3600万人の人々が貧困であるというのが今の世界です。実際に貧困と聞いても具体的に、というのはなかなか分かりません。ですが去年学校で授業の一環としてSDGsについて外部の方々から今起きている事について詳しく教えて頂いたことがあります。その時に私が学んだ分野が主に貧困の状態である子供や家族の事についてでした。最初お話を聞いている時は同じ世界という空間にこんな子供達が本当に存在して、自分たちが分かりきれないほど苦しんでいる現状を知りました。子供なのにまともな教育を受けられず家族のために朝から遅くまで働いたりなどと今の自分たちの暮らしからは想像のつかないことばかりでした。外部の中には実際に子供達に会い、話をしたりどんな事に困っているのかなどと色々な事を聞いた人もいました。外部の方々はその子供達、そして貧困に苦しんでいる人達の生の声を聞いて自分たちがどんな事が出来て、その人達にどのような事が力になるのかとても真剣に向き合っていました。私はその授業を聞いて外部の方々が必死に考えて行動をしていたという事がとても印象に残りました。今はコロナ禍の為実際に現地に行くことは出来ておらずその話をしていた時はとても悔やんでいるように私は見えました。外部の方々のお話を聞いてより貧困に苦しんでいる人達へ、何かできることは無いのか。少しでも彼らに出来ることはないのだろうかと考えるきっかけにもなりました。

彼らを貧困完全に救う事は私達には出来ないかもしれません。だからといって何もせず他人事と考え見て見ぬふりをする事は誰一人取り残さないという事に関してだけでなく罪もない子供達が見捨てられるという状況になってしまっています。行動をしなければ何も変わらない。何か彼らの為に行動する事によってすぐでは無いがいずれ彼らを救う事になるのではないかと私は考えます。改めて誰一人取り残さないという事について私は足並みを揃えることは難しいが少しでも何か出来ることは必ずあると考えます。

・小山一華      名取高等学校2学年      地球に住み続けるために

2015年9月に採択されたSDGSの中に「住み続けられる街づくりを」と目標が掲げられています。現在の地球では、様々な問題を抱えています。その1つとして環境問題です。地球温暖化、海洋汚染、水質汚染、大気汚染、森林破壊。これら全て人間が自分達で環境を悪くしています。しかしなぜ悪くなったのでしょうか?地球温暖化の原因としては排出された温室効果ガスが地球を覆うことで、太陽の熱が閉じ込められます。海洋汚染は主に海洋ごみが原因とされていますがそれだけではありません。ごみの不法投棄や船舶の事故による油の流出、工業排水や生活排水などが挙げられます。水質汚染は川や海などの水の汚れの原因としては、工場などからの産業排水や畜産などからの排水の他に、台所や風呂・トイレなどの日常生活からの営みから出る生活排水があります。 水の汚れは、かつては産業排水が主原因でしたが、工場などに対する規制が強化され、排水処理対策の進んだ今日では、生活排水が汚れの大きな原因となっています。大気汚染は大気汚染の主な原因は、工場や自動車などから出る煙です。地球の大気は国ごとに分かれていないので、大気 汚染はひとつの国の問題ではありません。たとえば自動車は、中国やインドで急速に増えました。大気汚染を減らすためには、世界の国々が協力する必要があります。森林破壊の主な5つの原因 森林破壊には「森林火災の増加、森林の転用や開発、持続可能では無い焼畑農業の増加、違法な伐採」の5つの原因があります。人間たちが悪くしたとありますが、悪くしてしまったのには原因があるとおもいます。中国やインドのように人が増えると当然ゴミの量や排気ガスなどが増えてしまいます。ですか、私たちにもできることがあります。照明をLEDに替える、家電製品を省エネ型に買い替える、再生可能エネルギー比率の高い電力会社に替える、温暖化対策に積極的な政治家を支持する、窓を二重窓・断熱サッシにリフォーム太陽光発電・太陽熱温水器の導入、無駄な食料の削減、製品の購入時に原料・加工方法等を確認することで少しでも地球環境問題を抑えることができ、私たちが良い暮らしをしていけるのではないでしょうか。

・匿名      宮城県名取高等学校2年 

「障がい者は障がい者として、健常者と差別されることなく、同じ権利を有する」

私は「障害者差別」について考えました。

最近テレビを見ているとジェンダーや性同一性障害、LGBTなどの話題が多く挙がっていることがあります。その中でも私が1番耳に入ったのは「障害者差別」についてのニュースでした。障がい者への虐待や周りからの差別、障がい者に対する特別扱い、可哀想に思う周りの気持ち。人々が障がい者に対する気持ちは様々です。

私の意見は、障害者は特別扱いされて当然ではないと思います。その理由として、可哀想だから特別扱いする。助けてあげる。などといったことは、逆に障害者の人に失礼な感情を与えてると思います。だからといって特別扱いせず、普通の人と同じ生活ができるかと言ったらそれも難しいと思います。「障がい者は障がい者として、健常者と差別されることなく、同じ権利を有する」って事だと思います。

障害者差別は何故消えないのだろうか。そもそも障害者と健常者などと区別して考える事が好ましいのだろうか。障害者はいつでも手助けのいる、気の毒な人なのだろうか。

確かに障害のある人に手助けが必要な場合もある。聴覚障害者には手話が必要な事もあるし、視覚障害者には点字が必要な場合もある。

しかし健常者も手助けが必要な場合がある。例えばベビーカーを使っているお母さんが階段を利用する時、誰かの手助けが必要だ。

困っている人を助けると言う点に於いて、健常者と障害者という壁は必要ない。

そして障害者の中には特別扱いを好まない人もいる。ある保育園では運動会や発表会で健常者と同じ様に、竹馬や跳び箱、難しい楽器演奏をしている知的障害の子供がいた。先生が他の子と同じく、全く手加減せずに激励叱咤する姿を見て、私達大人は「かわいそうに。もっと優しくすればいいのに」と思っていた。

しかし私達の考えこそ、障害者差別に当たるのではないだろうか。心の奥底で「障害者イコール(=)かわいそう」と思ってしまっていたのではないだろうか。だが実際は特別扱いしなかった事で、このように良い結果を導いたに違いない。私達の考えは、明らかに間違っていたのだ。

ゆえに私は障害者と健常者を分けて考えるという考え方には賛同出来ない。健常者にも得手不得手がある様に、障害者にもそれはある。お互いをカバーし合う事により、障害者が特別な手助けが必要だという思いがなくなるに違いない。

そして周りの者が障害者を特別扱いせず、対等な立場に立つことが必要である。そうする事によって、お互いがのびのびとリラックス出来、良い関係が育める。そうする事によって社会から少しずつ障害者差別が減っていくだろう。

以上の内容から、私は「障がい者は障がい者として、健常者と差別されることなく、同じ権利を有する」ということが大事だと思いました。

・匿名      宮城県名取高校 2年     貧困で苦しんでいる人々を取り残さない

私が思う「誰ひとり取り残さない」とは、貧困で苦しんでる人々を取り残さないことだ。貧困が引き起こす結果を知らなければ解決することわできないと私は思う。

貧困が原因で引き起こされる結果には、これらのようなことがある。

〇教育格差

貧困で苦しんでいる子供たちは、幼いころから働かされていて満足な教育が受けられないことが多くある。学校に通うお金がない上、親の教育への意識が引く傾向にある。子供たちが教育を受けないと、経済発展も見込めないが、生きるためには働かないといけないというジレンマも存在する。

〇医療格差貧

困地域では満足な医療が受けられず、「マラリア」や「はしか」といった予防できる感染症の予防処置もできない。先進国では助かる疾病でも医療整備が不十分なため、助けられるはずの命もう失われている。

〇性差別

教育格差とつながる部分だが、性差別も生まれている。国際協力機構によると、小学校に通う可能性のない女子の人数は男子の1,5倍とされ、特に貧困地域では女子の教育が軽視される傾向が強くみられている。

このような差別や格差が起こることより、取り残される人たちを私は無くしたいとおっもた。そこで私は、なにが原因で貧困が起きてしまうのか考え、災害などが貧困に多くの人を至らしめているのではないかと思った。そのため、災害をなくすため、少なくするために私たちにできることはないのか、考えた。私はこれらの3つのことができると考える。

一つ目は寄付や募金だ。身近の募金といえば、緑の羽募金や、ペットボトルキャップの集めなどがある。しかし、これらの募金は多くの人が何の募金か知っていなかったり、募金というものを頭の中に入っていないことがあると私は思う。そのために、私は募金の声がけをしたり、一人一人がこれがなにに使われているのか意識することが重要であると考える。

二つ目は、ボランティア活動に参加することだ。皆さんはボランティアは大変だし、お金も出ないからしたくない思うかもしれない。だが、それは、ボランティアをすることで、どのような効果があるのか本当にはわかっていないのだと私は思う。本当にわかっているのなら、自分の行動に自信がつき、いいことをしている実感が湧く。そして、その自分の行動に助けられる人がたくさんいるということを知っていただきたい。だから、ボランティアをやる前から嫌いにはならないでほしい。

三つ目に温暖化対策だ。ここでみんなは、なぜ温暖化対策と思った人もいるだろう。なぜなら温暖化対策をすることで、地球の環境が良くなり、異常気象や、台風などが少なくなるからだ。そうすることで、それに伴う二次会災害が少なくなり被害者が減ると考える。そこで、私たちにできることは、よく言われてきていると思うが、レジ袋の使用の削減や電気、ガスなどの節約が挙げられる。これらのことをすることで、二酸化炭素が減り、温暖化が緩和する。だから、積極的に行なっていく必要がある。

最後に私はこれらのことを踏まえ、災害を少なくしていき、貧困の人々を取り残したくないと思った。

・北沢侑莉      宮城県名取高等学校2年  肯定的エイジズムを広めたい     

最近高齢者差別のニュースをよく見る。

老人ホームなどの施設で暴力を受けたり暴言を吐かれたり介護、世話を放棄されたりする事件が増えている。このような 年齢差別、特に高齢者に対する偏見と差別のことをエイジズムという。

エイジズムはしょうがないことなのか、私は差別だから良くないことだと思う。

日本の総人口(2022年9月15日現在推計)は、前年に比べ82万人減少している一方、65歳以上の高齢者人口は、3627万人と、前年(3621万人)に比べ6万人増加し、過去最多となった。一般的に高齢化率が 21%を超えるような社会を超高齢社会と呼ぶが、現在日本はこの超高齢社会であるということができる。

エイジズムの原因はこの超高齢社会の中、高齢者をひとくくりにした偏見や固定観念、年齢を重ねることによる高齢者自身の身体的・精神的変化などにより、高齢者の経済的な自立や社会参画が困難なこととなることがある。

超高齢社会に関して私たちは、良い印象を持たないように思う。

実際にエイジズムについて調べてみると反対に「肯定的エイジズム」もある。肯定的エイジズムの例としては交通機関、テーマパークなどで導入されているシニア制、後期高齢者医療制度など、高齢者が優遇される制度のことだ。他にも、高齢者の方が経験や知識が豊富だという考え方や、電車で高齢者に席を譲るという行為が肯定的エイジズムだ。

このエイジズムを無くすために施設を増やしコミュニケーションを取る機会を増やし高齢者の居場所をもっと増やすべきだと考える。そして施設の従業員を理解のある人にするべきだと思う。

私の近所にも高齢者がたくさんいるので周りにもきっと困っている高齢者はいるはずだ。元気そうに見えても困っている高齢者はたくさんいると思う。このような高齢者を少なくし、高齢者でも生きやすい世の中を作るべきだと考える。

支える側と支えられる側のバランスが崩壊し高齢者が働かなければならない現状もある。

逆に高齢者は現役世代の主に20歳から60歳までの世代に比べて動けないのがあたりまえだから差別は仕方ないと言う意見もあるだろう。

だが、高齢者のなかでも元気な高齢者や病気や体が不自由な高齢者など様々な人がいる。元気そうに見えても困っている高齢者はたくさんいると思う。

ニュースで見る施設などで暴力を受けている高齢者どのような気持ちなのかを考えてみるべきだ。

私たちの身の回りで、この社会には間違いなく「エイジズム」が問題であり、この肯定的エイジズムがもっと広まり、高齢者全員が尊重され、生きやすい世の中になればいいと思う。

・渡邊脩斗      宮城県名取高等学校2年  ひとりひとりの感性     

SDGsという言葉を皆さんは聞いたことがあるでしょうか?SDGsとは世界中にある環境問題、差別、貧困、人権問題といった課題を世界のみんなで解決していこうという計画のことです。私も何度か聞いた事はありましたが具体的にどのような活動をしているかは知りませんでした。全てを解決するというには難しすぎるとは思いますが、本当に素晴らしい活動ですよね。

そんなSDGsの基本理念は「誰一人取り残さない」です。世界中の貧困、環境問題などについて調べ、意見を述べようと思っていましたが、私は「誰一人取り残さない」というテーマについて疑問に感じた点があったので、そのことについて述べていきたいと思います。

まず、その人が取り残されているかいないかというのはその人個人にしか分からないことであると私は思っています。何故ならグループでワイワイ騒ぐことが好きな人もいれば、一人で静かに遊んだりする方が好きという人もいるからです。好んで一人でいる人に対して「取り残されている」というのは全く違うと思います。しかし、その考えが分からない人からすると「あの人、取り残されてる…大丈夫かな…」という考えに陥ってしまいます。この考えはごく自然のことでしょう。気にしない人もいるとは思いますがそのような目線が苦手な人もいます。私がそうです。ずっと一人で良いという訳ではありませんが、この時間は一人でいたいという時間が私にはしょっちゅうあります。そんな時、哀れみのような目を向けられると私は辛いのです。あの人はハブられていると勘違いされるのは気持ち的に良いものではありません。そして、現代では陽キャラ、陰キャラという言葉が若者の間で定着しつつあります。そのワードが載っている辞書もあるそうです。私はこの言葉によって学生達などの間で境目ができてしまっているのではないかと感じています。SNSではよく出てくる単語ですがこの言葉で傷つく人も一定数いると思います。そして先程言っていた取り残されている、取り残されていないの判断にもこの言葉が関係しているのではと感じています。陰キャラになるのを恐れて無理して他人に合わせている人がいるということをSNS等で聞いたことがあります。あまりこの言葉は良いものとは思えません。一人を好む人にとっての障壁となっている言葉と言っても過言では無いというのが私の意見です。

まとめとして、皆がみんな同じ感性を持っているわけではもちろんありません。極端ですが「私は一人の方が気が楽なんだ。」と言ってみると「一人の方が好きなら次から誘わないようにしよう」と現状の社会では思われてしまうかもしれません。「そうなんだ!じゃあ遊びたい時とかあったら言ってね!」と、返せるような、そんな平和な社会になって欲しいなと思っています。

・大山乃愛      名取高等学校2年 日本に暮らす外国人労働者を助ける

皆さんは日本に住んでいる外国人についてどう思いますか?私は言葉が通じなさそうだなと思ったり何を考えてるのか分からないなと思ったことがありました。でも話してみると話が伝わらないや何を考えてるのか分からないといったことはなく私たちと変わらない同じ人間なんだと感じました。このような理由で私のように少なからずこのような外国人への偏見を持っている人、持っていた人がいたと思います。

なので私は日本人が外国人に偏見を持つことで社会にどんな問題があるのか考えました。それは外国人労働者の雇用です。今の日本は昔と比べ外国人労働者の雇用はだんだんと増えてきています。ですが、まだ完全に雇用されているわけではありません。外国人への偏見のせいで働きたい人が働けないなどの状況に陥っている人もいると思います。外国人労働者を雇用するメリットデメリットを考えるとメリットとしては人手不足の解消、グローバル化への対応がしやすくなる。デメリットはその国と日本の文化の違い、コミュニケーションがとりにくいなどのことが挙げられます。外国人の雇用をしない企業はこのようなデメリットがあるからだと思います。確かに外国人労働者を雇用し、グローバル化に対応しやすくなってもその会社でコミュニケーションがとれなければ全く意味がありません。

ですが外国人も私たちと同じ人間でありしっかり伝えれば話は伝わります。そのため外国人労働者を日本で少しでも多く雇用するためには私たち日本人が外国人に働きやすい環境を作ることや私たち日本人も外国人とコミュニケーションをとれるようにいろいろな言語を覚えるなどをしていければ外国人労働者の雇用が増えると思いました。

国籍が違うだけで一方的に遠ざけるのではなく私たち一人ひとりが日本で暮らす外国人への偏見を考え直して今後の日本で暮らす外国人が辛い思いをしないで暮らせる日本にしていきたいと思いました。このことから私は日本で暮らす外国人が困らずに労働できるようにするといいと考えます。

・壹岐莉帆      名取高校2年    取り残された人たちを救うために 

取り残された人たち(社会的弱者)を救うために何をするべきか。私は、世の中で取り残されてる人たちを救うために偏見や差別をなくすべきだと考える。

なぜなら、取り残されてる人たちはなにも悪くないのに、世の中の勝手な偏見や差別によって苦しく辛い思いをしている人がいるからだ。

社会的弱者には様々な問題がある。低所得者を見下しひどく扱う所得格差による差別や、シングルで子育てをしている人に対しての偏見、性別・国籍などによる差別、ジェンダーによる差別、障害のある人を差別するなどこのほかにもたくさんの偏見や差別がある。

しかし、これは社会的な問題であるとも考える。例えば、シングルで子育てをしている人は子育てはもちろん、生活するためのお金を稼ぐために働かないといけない。しかし、もし風邪をひいた場合や病気になった場合などは休まないといけない。働きたくても働けなくなった場合に社会がどう対応するかということも大切になると考える。

そしてここ最近問題になっているジェンダーのLGBTについては、他人が口出しをする問題ではないと考える。海外では法律で認められているとこもあるのに、日本はその対応が遅いと思われる。自分が好きになった人が同性だっただけで変な目で見られてしまう。けど、同性を好きになったとしてもそれは悪いことではないと思うし、その人の自由であると考える。これらのことから、日本人のジェンダーによる偏見や差別を少しでも早くなくし、それによって苦しんでる人が生きやすい社会になればいいと考える。

また、差別や偏見をしている人は、もし自分がその立場になったとしたらということを考えて発言をするべきだ。

自分がその立場で言われていたら不快に思うかもしれないのに、その立場になっていない人は平気で傷つくことを言ってしまうこともある。だから、一旦相手の立場にたって発言することも大切になってくる。しかし、今のこの社会で差別や偏見を全部なくすことは難しいと思う。けれど、お互いのことをよく知らず、理解していないからこそ偏見を持ってしまうし、差別しない心がけをするためには相手のことを理解しようとすることも大切になると考える。そのためにはコミュニケーションを交わすことがとても重要になる。簡単に打ち明けられることではないけれど、信頼できる人にだけ話すことで、理解が深まっていくこともあると考える。

それぞれの個性を認め合い、偏見や差別がなく誰もが自分らしく生きていける明るい社会になるためには、この問題に無関心にならずに向き合うことが大切だ。

以上のことから、世の中で取り残されてる人たちを救うために、偏見や差別をなくすべきだ。

・菅原優芽 名取高校2年生      ひとりひとりの価値観の違い     

日々、友達と話していて意見が食い違うことがあります。なんでこんな考えになるんだろうと自分に理解できないこともたくさんあります。でもこれはひとりひとりの価値観が違うから当たり前のことなんだと思いました。

ある物事への考え方が違うことで衝突してしまうことがあります。例えば、価値観の違いには金銭感覚があります。一緒にご飯を食べるとなったときにご飯の予算が合わないとモヤモヤすることもあります。しかし、ひとりひとり育ってきた環境が違うため、価値観の違いはあって当たり前なんだと気づきました。たしかに、価値観が合わないことで喧嘩になったり、話もなかなかうまく進まなかったりすることもあります。しかし、価値感が違うのはしょうがないことなのでせっかくならポジティブに捉えようと思うようになりました。価値観が違うことで、新しい価値観を知ることができます。人と喧嘩したら疲れてしまいますが、それを乗り越えられたら大きな成長に繋がると思います。相手の意見を尊重し、こういう考え方もあるんだと捉えることで気持ちも楽になると思います。価値観の違いを感じたら、自分の価値観を押し付けず、思いやりを持ってお互いに歩み寄ることが大切だと考えました。これは、友人関係だけでなく、恋人関係にも当てはまると思いました。恋人関係だったら、結婚観や連絡頻度などがあります。価値観の違いから別れに繋がってしまうこともあると思います。でもこれはよく考えて、話し合うことで解決する問題です。「自分が持っていないものを持ってる」ということから、相手へさらに魅力や尊敬を感じることにもなります。この問題を2人で乗り越えられたならもっと素晴らしい関係性になると思います。

日常で価値観の違いを感じることは当たり前です。しかし、それをどう乗り越えて行くかが重要です。私はこれから価値観の違いを前向きに捉え、楽しんでいこうと思いました。

・浅野聖風      宮城県名取高等学校2年  豊かさで誰一人残さない 

日本が発展している一方で、どこかの国では貧困で苦しんでいる。私たちが暮らしている日本では豊かさが進んでいると言われている。では、日本は誰一人取り残さず豊かだといえるのだろうか。私はそうは思わない。

確かに、日本はとても経済が進んでいる。そして、私自身も豊かに暮らせている。しかし、ニュースなどでは犯罪、虐待、窃盗など物騒なことが流れてくる。そして、どこがで貧しくて苦しんでいる人たちがいるのではないか、と考えると私は日本は誰一人残さず豊かではないと思う。最近、虐待のニュースが多く見られる。なぜ虐待をするのだろうか、とニュースを見ているときに考えたときがあった。私が考えたのはストレスや経済的に問題があるのか、ということだ。経済的に問題があると言っても金銭の問題が多く関わっていると思う。そこからストレスに繋がっていくのではないだろうか。

このようなことから、私は日本は豊かで誰一人残さず豊かだとはいえないと考える。私は悩んでいる人を誰一人残さず、このようなニュースがこれ以上増え続けていかないように行動に起こしていきたい。自分自身を大切にして、何かをやる前にちゃんと考えて行動することが大切だ。

・林瑞希        名取高校 2年   難病児を救うために     

私は全国にいる難病児を助けたいです。

全国には25万人を超える難病児がいます。そのうち、約2万人の子供たちが医療的ケアを必要としています。難病児を助けるために私は、医療・福祉・教育・市民がうまく連携することが大切だと思います。医療ケアが受けられない子供たちは、今でも自宅で家族の介護を受けながら生活をしています。その子供たちを助けるために、まずは、医療・福祉・教育・市民がうまく連携できる社会を目指すことが必要となってきます。子供たちが苦しまずに暮らせる社会を作っていくことができれば良いと思います。

・シェリカ      ティヤ  ブラウィジャヤ大学3年  “消費に適さない水”    

人間にとって水はもっとも必要なものです。水は人間の体に多く含まれる物質です。体に水分の摂取量が不十分では健康への障害になります。水中の物質にも注意することが必要です。水によく見られる有害物質には、銅、ヒ素、鉛、石灰、塩素、亜硝酸塩、および有機物質が含まれます。誤って長期間摂取すると、重大な健康上の問題を引き起こす可能性があります。

私が住んでいる場所では、真に安全に消費できる水を見つけるのは難しいです。毎日使用する水のほとんどは地下水から取られています。少なくともどの家にも、水の収集を容易にするための井戸があります。私が住んでいる土地は石灰岩の土壌です。これにより、私が住んでいる地下水には石灰が含まれています。その水は、皆が毎日の生活に応じて使用するものです。

消費される水は、通常、フィルター プロセスを経由しません。井戸から汲んだ水を消費する前に、通常、それを沸騰させるだけです。ペットボトルの水を買うより、自分で沸かしたほうがいいという人が多いです。その理由は、お金を節約するためであり、そのお金は他の必需品、例えば、基本的な食品を買うために使うことができるのです。

私が住んでいる川の水は完全に消費できません。40年前, その川はとてもきれいで澄んでいました。その川の水は毎日のニーズにも使用ことができます。今では、工場の廃棄物処理で川が汚れています。川に排出された繊維廃棄物の液体は、川の水の色を非常に濁らせ、消費には非常に危険な状態になります。水の色がとても濁っているので、周りの人はあえて消費しません。

政府が配布する水は信頼できません。政府が配布する水も地下水からとられています。政府から水の配分も不均一です。わずかな人だけその配布する水をもらいます。登録された住民だけが配水を受けます。登録されておらず、登録したい場合、プロセスは非常に長います。

実は都心から少し離れた山に湧き出る泉があります。残念ながら、その泉はすでに民間企業の所有となっています。ですから、周りの人は使うことができません。私が住んでいる土地のほとんどは石灰岩土壌であり、川の水は非常にも汚染されています。安全に消費できる唯一の水源は山の水だけです。

すでに深刻すぎる河川汚染の解決策はないかもしれません。ただし、河川への過剰な廃棄物は直ちに止めなければなりません。人々は消費する水にもっと注意を払うべきです。たとえば、水フィルターを使用する、消費する前に水を沸騰させる、定期的に水源パイプを掃除します。少なくともこれにより、汚れた水の消費による健康問題を最小限に抑えることができます。将来、安全に消費できるきれいな水が増えることを願っています。

・小池琳々      宮城県名取高等学校2年  ジェンダー平等社会を作りたい   

最近、SDGsが注目されている。そのなかでジェンダー平等を実現しようという課題がある。LGBTQ+だ。

世間ではLGBTQ+というと、差別をされたり社会的弱者といったイメージがあるが、果たしてそれは正しい認識と言えるのだろうか。私はそんな人々を取り残さないような社会を作る必要があると思う。

LGBTQ+とはレズヒアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、クィア、クエスチョニングの頭文字を取ったものである。

LGBTQ+は受け入れてもらえない、批判される傾向にあると思う。

なぜなら、実際に男同士女同士といった恋愛を批判されているからだ。他にも、本当の気持ちを打ち明けることが出来ず、いざ打ち明けると批判されるという例もある。

最近では、「男性でいる事が辛い」と、LGBTQ+を理由に離婚した人がいる。その人は、「子供がいるのにありえない」や「墓場まで持っていけ」などといった誹謗中傷、批判を沢山浴びた。

LGBTQ+ということを知られてしまうと批判される世の中である。家族や友人にも世間と同じような対応を取られるのも少なくない。

そのままで本当にいいのだろうか。社会的弱者を取り残してもいいのだろうか。

一方で、そんな社会的弱者を取り残さないような社会を作る、ジェンダー平等を実現するために様々な取り組みを行っている学校や企業もある。

例えば、女子でもスラックスの制服を着用してもいいという校則があることや、名簿や証明書、申請書、履歴書の性別欄廃止などがある。

また、小さなことかもしれないが、男女共用トイレが設置されているということもその取り組みのひとつだと思う。

このような取り組みはとても素晴らしいことだと思う。この取り組みを続けることで社会的弱者を取り残さない社会を作れるのだと思う。

このような学校や企業、また個人の取り組みがあるからこそ、社会的弱者と呼ばれるLGBTQ+の人々は社会から取り残されずにいると思う。その取り組みをする人々に感謝したい。

だが、まだまだ解決策はあると思う。だから、これからも未来に向けて誰ひとり取り残さない社会を作る必要がある。その社会を作るのはこれからを支えるわたしたちだと思う。だから私はLGBTQ+に限らず、社会的弱者と呼ばれる人々を取り残さないような社会を作りたい。自分でもどうしたら社会的弱者を取り残さないような社会を作ることができるかということを考えてこれからも生きていきたい。

・佐々木杏      宮城県名取高等学校2年  貧困を無くさないために 

2022年になった現在の地球。この地球上の人々がみんな裕福な生活を送っている訳では無い。中には、紛争や飢饉などで「極度に貧しい」暮らしを強いられている人々が大勢いる。

現在、全世界で「極度の貧困」の中で暮らす人の数は、2015年で約8億人、子供たちだけでも約3億人いる。2019年になっても人間の基本的ニーズを満たせない人が多くいる。私は、2022年になってもなぜ貧困が絶えないのか疑問に思った。

現在、世界では貧困を無くす目標として、2030年までに世界中で「極度に貧しい」暮らしをしている人をなくす、2030年までに、それぞれの国の基準で色々な面で「貧しい」とされる男性、女性、子供の割合を少なくとも半分減らす、それぞれの国で人々との生活を守るためのきちんとした仕組みづくりや対策を行い、2030年までに貧しい人や特に弱い立場にいる人達が十分に守られるようにする、2030年までに、貧しい人達や特に弱い立場にいる人達をはじめとした全ての人が平等に、生活に欠かせない基礎的サービスを使えて、土地や財産の所有や利用ができて、新しい技術やサービスなどを使えるようにする、2030年までに貧しい人達や弱い立場の人達が、自然災害や経済ショックなどの被害に合うことをなるべく減らし、被害にあっても生活を立て直せるような力をつけることを掲げている。この5つの目標を全て達成すれば、貧困の人はいなくなり、地球上の全ての人が裕福に、幸せな暮らしを送れるのではないかと私は考える。それは、2030年という、残りわずかな期間で達成できるとは大勢の人は想定考えられないという。だが、私は必ずこの5つの目標を残り8年で全て達成できると信じたいと思ったから。

「世界中から貧困を残さないために」私は日本に住んでいるが、貧困という訳では無いが決して裕福ではない。世界中から「貧困な人」を無くすために、1人でも取り残さないために、SDGsの取りくみを意識して、これから生活していきたいと思った。

・長瀬竜葵      宮城県名取高等学校 2年        親を失った子供達       

僕は、親を失った子供達を救いたいと考えました。その考えを実現させるために僕は町にしどう保護施設への募金の設置する量を増やすことを考えます。

他の案が良くないと思う根拠は児童保護施設に物を届けるということは自分達でもすることができます。ですが親を失ったばかりの子供達は、心が不安定な状態になってしまうことが多く、知らない人が関わってしまうことでトラウマや、恐怖を与えてしまうのではないかと思ったからです。親を失った理由が大人に殺されたなどだったら子供は大人に対して怖がってしまいます。それと同時に親を亡くなったことへの悲しみを思い出してしまい、落ち着いてきた子供達を深い傷をえぐり返してしまうと思います。

そして募金の設置箇所を増やすことが一番良いと思う根拠は多くの人が関わることが出来ることです。先程の物を届けに行くことは児童保護施設に直接行かなければならないので時間がない人などは手伝いたくても手伝えないと言うことに鳴ってしまいます。募金を増やすことによって時間がない人でも協力することができるようになるし、元々児童保護施設への募金を知らない人にも知ってもらい協力してくれる人が少しでも増えるようになってくれると思います。

なので僕は募金の設置箇所を増やすことが一番良いなと思います。

・中川璃々花    宮城県名取高等学校2年  虐待の連鎖を止めるには 

近年、被虐待児の増加が問題となっている。おそらく、それに伴って虐待による被虐待児の自殺も増えてきていることだろう。また、被虐待児が大人になってほぼ無意識のうちに自分の子供を虐待してしまうのもめずらしいケースではない(主に心理的な面で)。その「負のループ」を途絶えさせるには、第三者の介入によって一時的に「身体的虐待」を止めさせるのではなく、周りの人たちによる被虐待児への心のケアが大切になってくるはずだ。

そもそも、被虐待児は親と離れることをいくら望んでいても、児童相談所の訪問は数回にかけて行われるし、なかには中途半端なものもあるためそうしているうちに親が子供に「お前が余計な事を言ったのか。」など罵倒したり結果的に虐待自体悪化してしまうことも多いはずだ。多いから虐待死も増えているのだ。もちろん被虐待児はそんな事望んでいるわけもない。そんな事になって悪化するくらいなら、少なくとも心だけはなんとか軽くありたいものだ。

たしかに、被虐待児の心のケアだけで虐待がなくなるかといったらそんなことはない。被虐待児の心が軽くなったとしても、親からの虐待自体は絶対に止められない。しかし、心も体も辛いまま虐待され続けるくらいなら外で心をすっきりさせたほうが間違いなく救われるし、先程述べた「負のループ」も確実に起こりにくくなる。また、虐待をしてしまう人(親)の傾向として被害妄想が激しかったり、自分に自信がなくネガティブな人が多いように感じる。そんな親のもとで生活していたら子供も負の感情を抱きやすくなってしまう。そして、その中のいくつかが気付かぬうちに自分の子供に対する虐待につながってしまうのだ。さらに、被虐待児は悩みがあっても親という「一番信頼できるべき大人」には相談することができない。社会をよく知らないうちは大人は怖いと思い込んでしまいがちだから、学校の先生や地域の大人に手を差し伸べられると、なんとなく救われた気持ちになれるのだ。そうすると自分の今までの価値観が”いい意味で”壊され、自分がされていることの重大さに気付き、子供を産まない選択をしたり、産んでも虐待なんてしないと心に誓い、「負のループ」を抑えられるはずだと、私は考える。身体的な虐待をいきなり止めようとするのは、被虐待児からすると少しお門違いに思える。正直、児童相談所に発見されて悪化するケースがあるのは児童相談所側にも多少の問題があると思うが、以上の理由で私は被虐待児を社会的に取り残さないためには「適切な心のケア」を行うべきだと考える。経験の差が、未来を担う子どもたちの人生を変えられるのだ。

・澤畑春        宮城県名取高等学校2年  食品ロスと十分な食事を取れない人々     

皆さんは社会取り残された人がいることを知っているだろうか?私はその中でも特に栄養失調に陥っている十分に食事が取れてない人々を救うためにどうしたらいいかの意見を挙げたいと思う。

十分に食事を取れてない人々を救うには食品ロスを削減する必要がある。なぜなら食品ロスを減らすことで発生した食品を十分に食事の取れてない人々に配ることができるからだ、現状日本での食品ロスは年間平均して552万トン出ている。これは1日1人あたり約113g(茶碗一杯分のご飯に近い量)をロスしている事になる。そしてロスした食品の中で食卓で出た食品のロスした理由の約7割は「料理の量が多かったため」という理由である。そのため好き嫌いなく残さず食べるようにし、食べられるのにゴミになってしまう勿体ない食品も減らすことが大切だ。この食品があれば全世界の食に困ってる人々約8億4千2百万人のうち、少なくとも数万の人々の食生活を立て直すことができるでしょう。また食品ロスの削減によって食品の廃棄量が減り焼却処理を行う量も減るため、地球温暖化防止に繋がる。地球温暖化は気候変動を起こしてしまうため、雨が降らなくなる場所が増えたり、台風や洪水が増え農作物の成長、収穫に悪影響を及ぼし、動物が生きる環境も変化してしまう為、魚や肉などの食材が減ってしまう。よって十分な食事を取れる人が減ってしまい、さらに状態が悪化してしまう。

確かに食品ロスを削減する事は長年の問題となっているため解決する事が困難だと言う意見が多数あると思う。しかし周りと少し協力するだけで改善できる点が多いと考える。例としてスーパーと賞味期限専門店が協力し、賞味期限がきれてしまってまだ食べれるのに廃棄になってしまうものを格安で販売したり、家族とコミュニケーションをとり食事の量を調節するなどがある。実際自分は家族とコミュニケーションを取り食事の要否、食事の量を相談しています。その結果ほとんど食べ残しをしていない。このように周囲と協力することが大切だ。

以上の理由にで十分に食事を取れない人々を救うために食品ロスを削減する事が良いと考える。

・高橋羚貴      宮城県名取高校2学年    高齢者を救うには

SDGs には「誰一人取り残さない」という理念があります。

SDGsの「誰一人取り残さない」という取り組みがあることを知り、取り残された人とはどういう人なのか、どうしたら救えるのかを考えた。そこで今回は高齢者について考えることにした。高齢者といっても元気な高齢者と膝が痛いや体が動かないなどの身体に障害がある高齢者がいる。僕は身体に障害がある高齢者について考えた。

まずはじめに思いついたのが、階段や段差を出来るだけ減らすことです。段差は道路整備を行い、階段はスロープやエスカレーターを設置するなどが考えられました。

神社やお寺などの出来上がったものにはエスカレーターは設置出来ない、スロープにしても斜面が急になるか距離がものすごく長くなってしまうという反対意見があります。この意見に対して僕は川に架けるような橋を何個も繋げれば緩やかで短いものになると考えました。

僕はこの1つのことに絞って何個も考えることでたくさんの意見が生まれるそしてこれが何個も繋がればこの「誰一人取り残さない」SDGsが達成できるのではないかと考えます。

・佐々木美月    宮城県名取高等学校2年  子どもにとっての幸せとは       

取り残された人たちを救うために何をするべきか。私は、家族のいない子どもたちを救うためには里親制度を広め、もっと手軽に進められるようにすることが良いと考える。

なぜなら、里親制度を広めることで里親になりたいと考える人が増え、手軽に進めることで児童施設で暮らす子ども達が減るからだ。

現在、児童施設で暮らす子どものうち、里親に出されている子どもは全国で約15パーセントしかいない。里親になりたいと考える人を増やすにはまず、里親制度をもっと身近なものにする必要がある。たしかに、里親制度を身近にすることで簡単に自分の子を見放してしまう人が増えるかもしれない。しかし、今施設で暮らしている子どもはすぐに成長して里親に出されにくくなってしまう、子どもを救うには一刻も早く親を見つけることを第一にするべきであると考える。もし、早く見つけたことで里親と子どもが上手くいかなかったとしたらどうするのかという意見もあると思う。これはその後の周りの人が理解をすること、サポートをするなどで変わっていくはずである。そして、里親制度を身近にすることは周りの理解や、配慮が得られるようになっていくという利点もある。このように国全体で広めていくことは子どもたちにとって良いことである。

そして、私は里親制度は複雑、審査が厳しいというイメージを壊すことで前向きに考える人が増える里親制度を手軽にすることが良いと考える。一番審査が厳しいと言われる特別養子縁組という制度がある。これは他の養子縁組と違い、苗字などの扱いが実子と同じになる。この制度を使って里親になりたいと考える人は多い。つまり、この制度をもっと手軽にすることで里親になりたい人が増えるのではないかと思われる。里親と苗字が同じということは子どもにとっても学校などで嫌な思いをあまりすることなく過ごせる良いことである。そのためにはインターネットなどの配信で正しい説明をする機会を増やすことで制度について十分な理解をしてもらってから手続きなどをスムーズに行えるようにするべきだと思う。たしかに、実際に里親と同じ苗字になりたいと考えている子どもだけではなく、実親の苗字のままが良い子どももいるだろう。そのような子どもにはそのままにする権利は残しつつ、いつでも里親と同じ苗字を名乗れるようにできるようにすれば良いと考える。そうすることで、里親側の都合だけでなく、子どもの気持ちも尊重しながら、親子になっていけると考える。

以上の理由から私は、家族のいない子どもたちを救うために、里親制度を広め、もっと手軽に進められるようにするべきだと考える。

・齋賢太朗      宮城県名取高等学校2年  ADHDってなにそれ?    

取り残された人たちを救うために何をするべきか。私は、ADHDの人を救うためにADHDに関するセミナーを開催することが良いと考える。

なぜなら、ADHDのことをあまり良く知らないひとが多いからだ。

とあるインターネット調査では「ADHDという言葉を知っている人は54.8%、言葉を知っていても大人になってからADHDであることに気づくこともあることを『知らない』と回答した人が32.4%おり、さらに約9割がADHDに対する適切な対応を知らないと回答した。さらに、ADHDという言葉を知っていると回答した人の中で、大人のADHDの症状として認識が最も低かったのは『衝動買いをしてしまう』となり、また、大人のADHDを抱える人が困っていると思うことは『外見上は障害があることがわかりにくい』という結果になった。」とあり、自分自身も気になって調べてみるまで、ADHDのことはよく知らなかったからだ。

次に、ADHDの特性によるいじめが多いからだ。

厚生労働省によると、「子どもの多動性-衝動性は、落ち着きがない、座っていても手足をもじもじする、席を離れる、おとなしく遊ぶことが難しい、しゃべりすぎる、順番を待つのが難しい、他人の会話やゲームに割り込む、などで認められます。不注意の症状は、学校の勉強でミスが多い、課題や遊びなどに集中し続けることができない、話しかけられていても聞いていないように見える、やるべきことを最後までやりとげない、課題や作業の段取りが苦手、整理整頓が苦手、宿題のように集中力が必要なことを避ける、忘れ物や紛失が多い、気が散りやすい、などがあります。

大人になると、計画的に物事を進められない、そわそわとして落ち着かない、他のことを考えてしまう、感情のコントロールが難しいなど、症状の現れ方が偏しますが、一般に、落ち着きのなさなどの多動性-衝動性は軽減することが多いとされています。また、不安や気分の落ち込みや気分の波などの精神的な不調を伴うこともあります。」とあり、発達障害の子どもといじめと仲間はずれについての研究をしているアメリカのトウィマン氏によって、定期発達の子供でいじめられた経験がある人が8.5%、仲間はずれにされた経験がある人が8.6%で、約10人に1人なのに対して、ADHDの子供はいじめられた経験がある人が29.2%、仲間はずれにされた経験がある人が27.6%で、ADHDの人の約4人に1がいじめ、または仲間はずれにされた経験があることが分かるからだ。

確かに「甘え」だとか、「自称」だ、という意見はあるが、しかし、それは正確な知識が欠如しているからであり、知っていればそのような意見が出ることはかなり少なくなるのではと考える。

以上の理由で、私は、ADHDの人を救うためにADHDに関するセミナーを開催することが良いと考える。

・加藤優陽      名取高校 2学年 私の経験から考える「誰ひとり取り残さない社会」 

ある日のこと。私は当時、小学四年生だった。休み時間に突然、先生から「おばあちゃんが倒れたと、親の方から電話があったのですぐに早退するように。」と告げられた。私は何事だと思い頭が真っ白になった。

すぐに車に乗せられ、おばあちゃんの家に駆けつけたが、実際の所おばあちゃんは倒れていなかった。私はその時、安心したと同時になぜ嘘をついたのだという疑問が生まれた。しかし小学生の僕には理解しがたいことだと後に発覚することになった。それは父親が借金をしていたということだった。

その日はおばあちゃんの家で、晩御飯を食べた。おばあちゃんの家はとても安心感があって、木の温もりを感じる。そして、おばあちゃんの家に泊りに行く時はいつも楽しみだった。その日もいつもと何ら変わりなく楽しく泊まっていた。

その日かは忘れてしまったが、私の両親は、祖父母と話し合うことがあった。私は何について話し合っているのか分からなかったが、とても深刻だということはわかった。今になって思い起こしてみれば、その問題は離婚に向けての手続きだった。当時、小学生のわたしが父親が隠れて借金をしていたことなど知るよしもなかった。

父は買い物におもちゃ屋さんに連れてってくれていたし、私の大好きなゲームを一緒にしてくれてとても優しく息子思いだった。そんな父がある日突然家からいなくなった。もちろん母からは離婚することは告げられたが、私はとても悲しかった。

以来私の家庭は、母子家庭になった。ただ私は母子家庭だからといって不幸だと思ったことはありませんでした。しかし、やはり経済的な面において母は苦労していると感じることがあります。それは、経済的負担(学校教育費や食費など)の大きいものには手を出せないということです。今まで私はただ、まわりの家庭とは少し違うだけだと考えていましたが、大人になるにつれて、一般的に見たら社会的弱者なのだと感じるようになってきました。

このような経験をしたからこそ私が考えること。それは私と同じようなひとり親家庭を救うために、学校で募金活動を行うということです。募金活動を行うという上でいちばん大切だと考えることは、たくさんの人に知ってもらうということです。今の現状、ひとり親家庭には様々な支援がありますが、まず私たちができることは社会的弱者の立場にならないために予防するということです。それは将来の日本を背負うということに繋がります。学校の授業で習うように、何かについて知って理解しなければ問題を解決することはできません。つまり、ひとり親について知ってもらい、将来的にひとり親家庭がすこしでも減るように小学生や中学生などの若いうちから知識を身につけるということが大切だと考えます。知識を身につければ人間性も向上するのではないでしょうか。また、募金をすることで社会的関心を深めてもらう、みんなで社会をより良くしていこうという意識を高めると考えます。

確かに募金はウェブサイトでも行われていて、簡単に募金ができるかもしれませんが、若い頃から社会的関心がある子供は少ないと思いますし、やはり予防するためには、若い子供のうちから理解するということが望ましいのではないかと思います。

さらに、わたしは小中学生時代、親の話になったときに自分はひとり親だと言い出せないということがありました。私の家庭では車を所有していなかったため、部活動の送迎の際、友達の車に乗せてもらっていました。正直私は、いつも申し訳ないなという気持ちでしたが、私の家庭は貧乏だといことをさらけ出すことも嫌でした。私の家庭は他とは違うのだと意識したのはこのような経験からだったと感じます。一人一人の理解があれば、自分はひとり親なのだとオープンに言えると思うし、社会問題はこんなに身近に起きてるのだということが皆さんに伝わると思います。

負の連鎖を断ち切るには、もちろんどのような支援をするかという議論も大切だと思いますが、一歩踏みとどまって考えると、先を見据えて考えなければいけないのだと捉える必要もあるのだと思います。また私のようなひとり親家庭にできることは意見を述べるということです。意見を述べるということは支援する人たちにとっても貴重であって、誰もが求めているものだと思います。例え実現できなくとも、何かを改善するためには意見が必要であって、私たちはアクションを起こす、そして国を変えていくという正の連鎖へと繋ぐ。それが私のような社会的弱者にできることだと思います。社会全体が変わっていくために学校で募金活動をして、ひとり親家庭を0にするとまではいかなくとも、近い将来に家庭をもつ人たちにとってその活動は「誰ひとり取り残さない」社会になり得ると思います。

・浅倉星奈      宮城県名取高等学校2年  予期せぬ妊娠で苦しむ女性を救うために   

現在の日本では中絶件数が多い。2020年度の人工妊娠

中絶届出件数は厚生労働省が公表した衛生行政報告例によると1年間で14万1433件となっている。つまり、毎日日本のどこかで400件ほどの中絶手術が行われていることになるのだ。私はこの中絶件数の多さにとても驚き、生まれてこれるはずの命がこんなに殺されてしまっていることにとても胸が苦しくなった。

この中絶をする原因は一体何だろうか。その原因は「予期せぬ妊娠」である。そしてこのことが原因となってしまう理由は「性知識の不足」である。そのため、私は性教育を普及させることで、男女共に妊娠する仕組みについて学び、予期せぬ妊娠に苦しむ女性を減らすことができる。そのため、中絶件数を減らすことにも繋げれるのではないかと考えた。

日本では現代になってきてようやく、「性教育の遅れ」が問題視されてきた。例えば、日本の保健の教科書には妊娠の仕組みについては記載されているものの、避妊については触れられていることが少ない。記載されているとしても、避妊道具の名称が載せられているくらいで、具体的な使用方法や、道具を使い妊娠する確率などについても掲載されている教科書が少ない。

それに対し、ヨーロッパでは性教育が日本に比べ、積極的に行われている。例えば、フランスでは保健や健康教育のような教科はなく、サイエンスという授業で人間の性を扱う。中学校の教科書では、基本的な生命の誕生を詳しく説明したあとに、避妊の説明になり、女性用コンドームやコンドームとピルを使用したときの失敗率などのデータなどまで、具体的に教えている。そして、イギリスでは性教育が、小学校低学年から行われている。しかし、急に命の誕生の仕組みなどについて学ぶのではなく、プライベートゾーンゾーン(水着で隠れる部分)は人に見せない・触らせないことで、自分を守ることを学ぶ。私はこの性教育の仕方の違いに驚き、日本でももっと深く触れていくべきではないかと思った。

しかし、性教育はデリケートなものである。そのため性教育をタブー視しており、普及に反対する人も多くいるだろう。だが、性教育は「命に関わる問題」であり、場合によっては女性の心と体を傷つけてしまうものになってしまう。もし望まぬ妊娠をしてしまったら、男性は他人事にできるかもしれないが、女性は逃げることができない。そのため、性教育をタブー視せず、命に関わる問題だと捉え、積極的に普及することで、男女共に性知識を学び、予期せぬ妊娠を減らすことが大事ではないかと思う。

例えば、現在日本では性教育を進めるために、男性が実際に女性の生理について学ぶために、生理中の女性の不安や困り事に寄り添う大切さや、ナプキンやタンポンの使い方について学ぶために「生理の授業」を取り入れているところがある。私はこれを知り、男性が生理について学ぶことで、女性の体の仕組みについて理解し妊娠する仕組みについて学ぶ機会になったのではないかと思った。私は男性が女性の体の仕組みについて理解するためにも積極的にこのようなことを行うべきだと思う。そしてこれが性教育の遅れを解決し予期せぬ妊娠に苦しむ女性を減らせると思う。

私自身も性教育をタブー視せず、しっかり向き合うことで、性に理解のある社会にしていきたいと思う。

・針生寧々      宮城県名取高等学校2年  5分の優しさが5年の価値に     

取り残された人たちを救うために何をするべきかというテーマについて、私は、独居老人を救うために自治体のイベントや見守りサービスを増やすことが良いと考える。理由は2つある。

1つ目は、独居老人の増加である。日本は年々高齢化が進んでいる。それと同時に「独居老人」も増加している傾向がある。独居老人とは、1人で生活している高齢者を指す。身内が近くにいないため、仕方なく1人で住んでいる人や老人ホームなどは高額なお金がかかる為、入居したくても金銭面に余裕がなく入れない人もいる。

2つ目は、独居老人の孤独死についてだ。孤独死をしてしまうケースは、家族や親族とのコミュニケーションがなく、近所付き合いも希薄な人が多い。また、統計的から意味のある差がみられた指標を示すと、独居老人では同居者がいる高齢者と比較して、うつが疑われる人の割合が高く、さらに生活上の不安を多く抱えるなど、精神・心理面で問題を抱えた人が多い。また、人に頼りたい時に頼れない独居老人も多いという。例として、電球を変えることができなく困っている・高い場所の物を取りたいが取ることができない。ということが挙げられる。このような小さいことを手伝うことでも、独居老人は安心感を得ることかできると思う。

以上のことから、自治体のイベントを増やしコミュニケーションをとる機会を作ることや、見守りサービスを行うことで常に独居老人の状況を知ることができる。各地区の役員などが交代で独居老人宅を定期的に徘徊することで、地域の交流も深まるのではないかと考えた。短時間でも人と会話をすることによって、元気がでたり、自分は1人ではないという気持ちになることができるのではないか。

それに対して、独居老人自身が人と関わりたくない可能性があるという反対意見もあると思う。確かに、コミュニケーションを取ることにストレスを感じてしまう独居老人もいるはずだ。しかし、それではいつまでも孤独死は解決しない。そういった独居老人の為にも自治体が見守りサービスを実施して良いかアンケートなどを実施すればそれぞれの意見を聞くことができるはずだ。1人1人に寄り添った対応をすることが大切だと思う。インターネット環境が整っていれば、オンラインで会話したり、簡単な質問に答えてもらうことで今の状況を知ることができる。高齢者はインターネットの使い方に慣れていない人が多くみられるため、そういった高齢者のためにもインターネット教室を地区の集会所で開くこともいいと思う。孤独死を軽視せず、少しでも孤独死を減らすことができるかどうかが重要だと思う。

このようなことから、孤独死を減らし、少しでも長生きできるように、私は独居老人を救うために自治体のイベントや見守りサービスを増やすことが良いと考えた。

・植田虎徹      宮城県名取高等学校2年  働きたいのに働けない高齢者を無くすために       

現代において、高齢者層の増加が著しい一方で、働く年齢層も全体的に高くなってきています。そんな中で、「自分の私生活の質を高めたい人」や「働くことに生きがいを感じる人」というのは一定数存在していますが、高齢者層において実際に働きたくて働けている人というのは少ないと私は考えます。そこで、私は、若年者層と言われる段階で私生活や職場において、技術や経験をするべきだと考えます。

なぜなら、高齢者層と言われる段階になってからでは、技能や経験を一から蓄積するというのは難しいと考えられるからです。

まず、高齢者層の段階では、若年者層のときの経験をもとにして技術を活かす、というのが一般的であり、技術を学ぶ機会を作れたとしても若年者層のときの経験を上書きする形となってしまい、新たにインプットするというのは更に時間を要してしまい、働くことのできない年齢にまで行ってしまう可能性があるからです。

それに、高齢者というのは、心身の能力の低下が著しくなるのも事実で、多くの人が該当するのもまた事実です。

また、若年者層から、多くの技術を学び、経験を蓄積することで将来の選択肢を広げることができる。そして、「いつ、どのタイミングで、どう活かすのか」自分自身で考え、行動する自主性も高められと私は考えます。また、コミュニケーションの面でも、同世代や目上の人のアドバイスを聞ける機会も高齢者層より多いと考えられます。

確かに、高齢者層でも、若年者層のときに培った人脈を使うことで多くの人からアドバイスを聞ける、というのは一理ありますが、言い換えれば若年者層で人脈を広げれなかった場合、アドバイスを受けるのに要する手間が増えてしまうことになります。

つまり、人脈も技術や経験の多くを学ぶ機会というのは、若年者層からが適正であり、「働きたいのに働けない高齢者」を減らすには、若年者層の時期から行動を起こし、私生活や職場を上手く利用し、技術や経験を学ぶことが良いと私は考えます。

・坂井和輝      名取高等学校2学年      ADHDの症状を軽くする  

皆さんはADHDという言葉を知っているだろうか?ADHDとは、年齢あるいは発達に比べて注意力が足りない、衝動的で落ち着きがないといった特性があるために日常生活に支障をきたしている状態のことであり、医学的には“注意欠如・多動症”と言われている病気である。私はそんなADHDの方を救うために、定期的にカウセリングをするべきだと思う。理由は3つある。

まず1つ目はADHDの症状によって、将来に影響が出るかもしれないからだ。ADHDの症状で苦しむ人はとても多く、主な症状としては気が散りやすい事や落ち着かない事が多い。気が散りやすくなったり、落ち着かない事があったりすると、仕事ができなくなってしまい、自分がやりたい事が出来なくなってしまうからだ。また、学生などはテストや授業などが集中出来なかったりする事がある。

2つ目は、生きづらさを感じ自殺するケースがあると言う事だ。ADHDの症状が悪化して生きづらさを感じたり、いじめにあってしまう事で自殺する事があるという事だ。ADHDの自殺関連の質問では、希死念慮といた「死にたい」と思う人が二七パーセントもいるというデータがある。

3つ目はADHDを持っている人は健康にも影響が出る事だ。2つ目で説明した、生きづらさを感じ、精神的に追い詰めらたれたりする事により健康に害がでてしまう。例えばADHDを持つ子どもは意識的に症状を予防あるいは軽減しようと試みても困難である。本人の意図とは別にどうしてもじっとしていられず、学校で必要な持ち物を忘れたり失くしたりしてしまう事がある。このような失敗行動は、えてして周囲の人たち(たとえば両親や教師)に厳しく叱責されるため、「どんなにがんばってもうまくいかない自分」という否定的な自己イメージを持ちやすく、家庭や学校においてつらい思いをしていることが見受けられてしまう。さらにADHDを持つ子どもは学業不振や対人関係で悩むだけでなく、気分が落ち込んだり、不安感をコントロールできなくなったりなど、こころの症状を合併することもある。

ADHDとはこのように精神に追い詰められ、それにより自殺したり、うつ病になったりとする。定期的にカウンセリングを行う事で心が軽くなったり、前向きな気持ちになって現状を良くしようする気持ちが湧いてきたりする。

また、カウセリングは悩みや苦しみを抱えている人の相談に乗ったり、援助・助言・指導を通じて本人の成長や発達、問題の解決をサポートしてくれるので、自分の悩みなどを整理でき、新しい自分に出会える事もある。

確かに定期的にカウンセリングへ行くのは

時間がかかるし、なかなか忙しくて行けないという人もいるかもしれない。しかし、オンラインでカウセリングを行えば、現地にいかずとも、自宅で行えるし、時間もかけずに済むことが出来る。

以上の理由により、私はADHDの人を救うために、定期的にカウンセリングをするべきだと思う。

・松山波音      宮城県名取高等学校2年  見えない障害を伝えるために     

耳が聞こえないと言う事は、初対面の人から見るとわかりません。ということは、難聴の人が困っている時、何も知らない他の人達から客観的に見てみれば、何か困ってるな、まあ大丈夫だろうな。くらいの感覚になってしまうかもしれません。難聴の人からすればとても困っているとしても、周りの人に自分の耳が聞こえないがために困っているとは考えもつかないと思います。本当に難聴の人に対して、周りの配慮ができているのでしょうか。私は今のままでも十分ではあるが、もっと改善することができると考えています。まず初めに難聴になってしまった人ができる事は、自分が難聴である事を周りの人に見て伝わるようにすることです。具体例として、ヘルプマークや、難聴の人専用の耳マークなど色々なマークがあり、それを身体につけておけば、自分が身体障害者であるという事を伝える手段の一つです。これをつければ周りの人に最初からどんな障害を持って何に困っているのかが、ある程度他の人にも伝わると思います。また、難聴で困っている人に対して私達はどうすればいいのか。やはり1番わかりやすいのは筆談だと思います。今の時代、スマートフォンを持っているのが当たり前の時代なので難聴を抱えている人も困らないような社会にはなっていると思います。しかし、やはり持ってないような人が少なからずいると思います。そうなると次に難聴の人と取れるコミュニケーションの方法は、口の動きを読み取る口語か、文字や数字を空に描く空書があります。確かにコミュニケーションを取れますが、練習しないと難しいと思います。なので、スマートフォンがない場合、紙に書いたりするか、地面などに文字を書いて伝えるなどの手段を取らないといけません。つまり、難聴の人を救う方法はコミュニケーションをしっかりと取り、お互いが理解し合うことが大切なのだと思います。難聴になってしまった人は、自分が難聴であると言う事を周りにわかるようにして、ある程度わかってもらった上で助けてもらうことが大切で、助ける側になる人も、相手の事をしっかりと考え、尊重し、できる限りわかりやすく説明することができるようにしてあげることが、耳が聞こえ無くなってしまった人を救うことにつながっていくと思います。また、難聴だけでなく、他にもある難病に対しても、コミュニケーションをしっかりと取ると言うことが、問題の解決へと進むきっかけになっていくと考えています。

・千葉優輝      宮城県名取高等学校2年  障害を持つ人とともに   

障害者いじめについて知っているだろうか。厚生労働省の調査結果よると2021年の障害者いじめが認められた件数は771人らしい。前年度比の14.3%減になっているが、まだ少ないとは言えない。

そこで私は障害者いじめを減らすために障害者施設でボランティアする機会を増やせば良いと思う。なぜなら障害者とふれあう機会が多ければ障害者を理解できる機会も増えるからだ。私はこれまで生きてきて障害者と触れ合う機会が極端に少ないと思った。例えば学校生活では障害を持つ人は学校では別の教室で授業を受け、顔も知らないという場合も多いのだろうか。他にも、日常生活でも近所に障害を持つ人はなかなかいないし、いたとしても関わることはないだろう。これまで生きてきた中でどうしても障害者との壁を感じてしまう。ならば、障害者施設でボランティアをして障害者とコミニュケーションをとって触れ合えば良いのではないかと思った。だが障害者とのコミュニケーションは大変だという声がある。

確かに障害者とのコミュニケーションは普通の人とは違う場合もあるので大変な場合もある。例えば聴覚に障害がある人は普通に話しかけても聞こえないので話しかけた内容を理解するのはほぼ不可能だ。他にも精神障害を持つ人は話しかけても話の内容を理解するのはなかなか難しい。しかし障害を持つ人には障害によって様々な接し方がある。例えば聴覚に障害を持つ人は筆談や、手話がある。筆談は誰でも簡単にこなせるので簡単にコミュニケーションをとることができる。精神に障害を持っている人はその人の心情に寄り添い、話をすれば良いそうだ。このように話をする人の障害ごとにそれぞれコミュニケーションの方法があるため、その方法を使って会話をすれば良い。その他にも障害者がなにを考えているかわからないという声も存在する。確かに障害を持つ人は生活の方法が障害を持たない人とは違うことがあるかもしれない。そして違う環境で育って考え方が障害を持たない人とは違うと思うかもしれない。だがそれは勝手につくられた人物像にすぎない。彼らは普通の人間であり普通の考え方をしている。障害者施設でボランティアをするのは簡単ではないが難しすぎて不可能だというほどでもない。

このことから私は障害者いじめをへらすために、障害のある人を理解するには、障害者施設に行ってボランティアをする機会を増やし、障害のある人を理解するべきだと思う。

・佐藤澪        宮城県名取高等学校2年生 手を差し伸べるための第一歩

私は、LGBTQ+の人達を救うためには理解を深め、偏見をなくすことが大切だと考える。

なぜなら、「まだ異性を好きになって当たり前。同性を好きになるなんておかしいんじゃないか。」「男なのにそんな格好してるの?男らしくしなよ。」という人が少なからずいるからだ。また、対して知りもしないで「レズなんだから女のことが好きなんでしょ?私のことそういう目で見るのやめてよね」という人もいると思うからだ。

私は小説読んだりや動画を見たりするなかでLGBTQ+について触れているものを見ることが多々ある。そして、それについて考えさせられたこともある。その人達は世間から向けられる目を気にせず、自分らしく生きていてとてもかっこよかった。自分はこうだから。と決めつけないでずっと戦っていた。理解ある人には理解してもらい、理解できない人にも理解できるように説明し、それでも理解してもらえなかったら諦める。その人達の努力はみのり、理解してもらえることも増えた。しかし、少しずつ浸透してきたとはいえ、まだまだ偏見はある。   私は、それはLGBTQ+について触れてこなかったからだと考えている。少しでも勉強していれば多少はマシになるのではないだろうか。LGBTQ+について深く知ることで、まだ、自分のことが良くわかっていない人でも「あぁ、自分はこうなんだ。」と気づくことができるかもしれない。しかし、そういうのデリケートな問題について深く追求しないでほしい人がいることも事実だ。ただの好奇心で「レズの人ってなんで女の人が好きになるの?」「バイってみんなが恋愛対象何でしょ?どんな気持ちでみんなのこと見てるの?」などと聞くのは良くない。それに、どんなに悩んでても声を出せない人がいるかもしれない。そういう人達に手を差し伸べるためにはLGBTQ+について理解していなければならないと考える。他人の気持ちや性別について理解するのはとても難しいし、人によってしてほしい対応も違うので大変だと思う。1日2日で世界の考えが変わるとは思っていない。しかし、少しでもLGBTQ+について理解が深まったらみんなが生きやすい世の中になるのではないだろうか。その理解が偏見をなくし、みんなが生きていきやすい世の中を作っていく第一歩だと考えている。

以上の理由から私はLGBTQ+の人を救うためには理解を深め、偏見をなくすことが大切だと考える。

・菅野ほのか    宮城県名取高校2年      障害のある子供たちを救うためには       

取り残された人たち(社会的弱者)を救うために何をするべきか。私は、障害のある子供を救うために子供と関わる仕事に就こうとしている人と障害のある子供たちが関わる機会を増やすことが良いと考える。

なぜなら、障害のある子供はそれぞれ制限されている部分がある。例えば、視覚障害であれば今どこにどんな人がいるのか見れないなど制限されている。このように制限されている子供たちが、色々な人と関わる機会を作ったら障害のある子供自身が成長するからだ。障害のある子供はない子供に比べると、話したり、遊んだりするなど制限されてしまい、一部の人としか話したり、遊んだりしないと思う。同じ障害を持ってる人やお世話をしてくれる人などが基本遊んだり、話したりする人だと思う。それでは、障害のある子供たちはいつまで経っても制限されたままになってしまう。それは、大人になっても影響してしまう可能性がある。子供のうちに様々な人と関われば、障害のある子供は「話すのが楽しい」「これってどうゆう意味だろう」と子供たちが発見できることがある思う。なので、子供と関わる仕事に就こうとしている人と話したり、遊んだりすることで、障害のある子供は成長できると考える。

たしかに、障害のある子供じゃなくて、障害のない子供でもいいと思われる。

しかし、子供と関わる仕事に就こうとしている人も障害のある子供と関わることで、気づいたりすることや子供のことを詳しく学ぶきっかけになるからだ。例えば、教師を目指す大学生などに障害のある子供と関わってもらうことで、障害の種類や一人一人の個性が出てき、何かに気づくことがあると思う。障害のない子供から学べないことも学べると思う。障害のある子供だからこそ、広く深く学ぶことができる。障害のない子供について学んでも、学べることはた沢山あると思うが、それは一部の子供(障害のある子供)のことは学べてないと思う。両者について学ぶには、教師を目指す人は障害のない子供とある子供、どちらについてもまず学ぶべきだと思う。教師を目指す人は大変だと思うかもしれないが、障害のある子供とない子供について学び、実用していけば楽しくなると思う。なので、障害のある子供と子供と関わる仕事に就こうとしている人、お互い成長でき、新しい発見があると考えた。

以上の理由で、子供を救うために子供と関わる仕事に就こうとしている人と障害のある子供が関わる機会を増やすことが良いと考える。

・齋藤朱里      宮城県名取高等学校2年  デジタルに取り残されている高齢者について       

80歳を超えた祖父母とスーパーに買い物に出かけた。そのスーパーのレジはセルフで会計をするもので、祖父は電子機器の扱いに困っていた。「そうだろうな。高齢者にはセルフレジの扱いさえも苦に感じるんだろうな。」とそう思った。

最近はデジタル化が進み、社会では様々な事が便利になってきている。その反面、高齢者は電子機器を使う必要が無い、または使い方がわからないという理由からデジタル化に追いつけず、取り残されている人が増加している。そんなデジタル化に追いつけず取り残されている高齢者を救うために、私は何でもかんでもデジタルにせずに、高齢者の生活に支障が出ない程度にアナログを残すべきだと考える。

高齢者がデジタル化に困っている例として、冒頭で言ったスーパーのレジの話はもちろん、飲食チェーン店も挙げられる。飲食チェーン店ではタブレットを使って注文をしなければならない所が増えてきている。私もよく飲食店に行くと、タブレットの扱いに困り、注文できない高齢者の方々をよく見かける。ご飯もまともに注文できないとなると、高齢者は肩身が狭いだろう。実際私の祖父母も下手にご飯も食べに行けないなと言っていた。そうやって、高齢者の行動範囲がせばまれていき、外に出かけもせず、刺激もない生活をし、認知症になったりする人が現れるのでは無いだろうか。

また、最近では何らかの申請までもが電子機器で行わなければいけない。ついこの間、祖父母のカード申請をすることになったのだが、スマートフォンで申請することしか出来ないものだった。これは若者にとっては便利な事だがスマートフォンを持っていない高齢者にとっては不便な事だ。高齢者の中にはスマートフォンを持っていない人はそう少なくない。申請さえもデジタル化されていったら高齢者は生活にさえ支障が出てきてしまうのではないだろうか。

だから、高齢者の生活に支障が出ない程度にアナログを残して欲しいと私は思った。

しかし、社会は日々進歩しているためデジタル化をいつまでもさけることは出来ないだろう。高齢者の方も生活に必要ない、扱い方が分からないなどの苦手意識を持たずに、挑戦という形でスマートフォンなどの電子機器を買い、デジタルに慣れることも必要だろう。

最近ではデジタル・ディバイド問題を解決するために、携帯会社などではデジタル講習会というものを行っている。デジタル講習会に行ったりなどして、デジタルについて学ぶこともひとつの解決策ではある。高齢者も、社会もお互いに協力しあってよりよい生活をしていけたらなと思う。

・神谷怜奈      宮城県名取高等学校2学年 在日外国人と関わる     

外国人が日本で暮らしていく上で言葉が通じないという言葉の壁が最も問題となっている。壁を少しでも減らしていくために、私たち自身がもっと積極的に在日外国人と交流しようとする気持ちを持つ必要があると考える。

私たちが習慣としてしていることは外国人にとっては難しいことだ。たとえば、ゴミの出し方だったり税金の制度など、私たちがなんとなくでできてしまうようなことが悩みだという外国人は多い。それはなぜか、日本の多言語表示の少なさ、分かりにくさが原因だと思う。レストランのメニューや店頭の商品の説明も日本語表記だけで、イメージを掴みやすい写真やイラストも載っていないケースも多く、不便だと感じる。日本は他の国に比べて外国人を受け入れる体制がしっかりしていないのではないだろうか。よって、地域の人と関わることは日本の習慣を知る機会にもなるだろう。些細なことでも、日本人にとっての常識が外国人にとって非常識な場合もある。

そして、日本人のモノをはっきりと言わない性格や習慣には困る外国人が多い。時間やルールに厳しいこと、社交辞令がわからないこと。また、社交辞令やマナーがわからないことは次第に解消されていくが、日本人がモノをはっきりと言おうとしないは外国人にはどうにもできない。

たしかに、文化の違いが大きく外国人と話すのは難しいし、英語を喋るのが不得意だと恥ずかしいという気持ちが生まれてしまい交流しようという気持ちにはなれない。しかし、交流しないと分からないことが多いと思う。最近では英語の教育にも力を入れ初めてはいるけれど、日常会話で使える教育はあまりされてないと言えるだろう。学校で習うのは丁寧な言い方でネイティブの人と喋るには不自然になってしまうことが多い。YouTubeやTiktokなどで学校ではこう習うけど、実際は使ったら失礼な英語のようなものをまとめている投稿を見ることがある。つまり、実際に交流しないとこういったことは分からないということだ。交流しようとしないのは日本人の悪いところであって、島国だから壁を作りがちで、外国人が悩んでいることでもあった自分の意見を押し殺しがちな性格が、上手くコミュニケーションをとるべきだけどできないから難しい、他の人がすればいいと思わせている。でも、ここを乗り越えるにはやはり外国人とコミュニケーションを重ねることが大事だということだ。

日本人は英語をはじめとする外国語に苦手意識を持つ人が多く、また外国語で話しかけるのを躊躇したり、英語をある程度理解できても話すということを恥ずかしがる日本人も多い。ただ交流するだけなら翻訳アプリを積極的に活用したりするとスムーズにコミュニケーションをとることができるが、在日外国人にとってそれは悩みの解決作にはならない。日本の文化をもっと知ってもらうために私たちは、日本語学習支援や地域との交流で在日外国人の受け入れ態勢と、支援を整えることが良いと考える。

・長田結凜      宮城県名取高等学校2年  飢餓を救うためにできること。   

取り残された人たち(社会的弱者)を救うために何をするべきか。私は、飢餓で苦しんでいる人々を救うために、食品ロスをなくすため食料を必要な分だけ買うようにすることがよいと考える。

なぜなら、本来食べられるものが捨てられていることで、本当に食料を求めている人たちに届いていないと思うからだ。農林水産省によると、日本で発生している食品ロスの量は年間522万トンも捨ててしまっている。日本人1人当たりの食品ロス量は1年で約41キログラムであり、毎日お茶碗1杯分のご飯を捨てているのと近い量といわれているそうだ。加えて、日本ユニセフ協会によると、2018年の時点で世界の飢餓人口は増え続けている。2017年には世界の飢餓人口は約8億2100万人、9人に1人が飢えに苦しんでいるそうだ。日本は貴重な食料を大量に捨ててしまっているのではないだろうか。そこで私は、食料を買うときに事前に冷蔵庫等の在庫を確認し、食べきれないほどの食料を買わないようにすることで捨てられることが減り、本当に食料を求めている人たちに届けられるのではないかと思う。

また、食品ロスを放置したままで、必要以上の食料を輸入することは、輸出国の資源枯渇に繋がるからだ。全世界で生産されている食料は毎年およそ40億トンで、全人口の食料を賄うのに十分な量ではあるが、必要以上の食料を輸入することで、生産国で残る食料が少なくなってしまう。これは、生産国での飢餓人口が増えてしまうということになる。食品ロスを見直せば、必要な分だけの食料を輸入すればよいこととなり、生産国にも十分な食料が残ることになる。また、輸入にかかるエネルギー消費を削減することができる。しかし、食品ロスの問題に向き合わず放置したままでは、必要でない分の食料も輸入することになるので、必要以上のエネルギーを使うこととなり、エネルギー消費を削減するどころか逆に増えてしまう。少しでも食品ロスを減らすことで、過剰な輸入を抑えられるのではないだろうか。

このようなことから、食品ロスが原因で飢餓で苦しんでいる人たちがいることを深刻に受け止め、小さな力ではあるが私たち1人1人ができることを見つけ、貢献していくことが必要不可欠なのではないかと思う。それらを継続していくことで飢餓で苦しんでいる人の1人でも多くの命が救われるだろう。なので私は、飢餓で苦しんでいる人々を救うために、食品ロスをなくすため食品を必要な分だけ買うようにすることがよいと考える。

・鈴木寧々      宮城県名取高等学校 2年 独居老人を救うためには 

取り残された人たちを救うために何をするべきか。私は、一人で暮らしている65歳以上の高齢者のことを指す、独居老人を救うためにその方の家を訪問し交流をすることが良いのではないかと考える。

なぜなら、年金生活の方が多いため生活の困窮が問題であるからだ。定年退職し、年金のみで生活している人が多く、十分な生活費がないと衣食住が整った生活をすることが難しくなってしまうので、年金の金額を少しでも上げて、無料で食事の宅配サービスや、家に訪問した際に作り置きの料理を何品か作り、作り方や保存方法などを教えたり一緒に料理をすることが良いと考える。実際、無料ではないが、低価格で栄養価が高いお弁当を安否確認を含めて届けに行くというサービスもたくさん存在していて、利用している高齢者も少なくはないだろう。このサービスを利用することにより、栄養が偏りすぎたり、ご飯を食べないということが減るだろう。

確かに、訪問をして交流をしなくても家の玄関先にものを置いておいたり、タブレットやスマホ、パソコンを使ってテレビ電話などをしてやりとりをすることもできて、負担がかからなくて良いという考えもあるだろう。だが、タブレットやパソコンなどを使えないという高齢者も多いと思う。私たちはパソコンやスマホが使えて当たり前というような状況だが、高齢者にはそれが難しく、どのように使うのか分からない、自分には必要ないと思っている高齢者の割合が高くなっていることが現状だ。そのため、パソコンやスマホを使うよりも、家を訪問して交流した方が、高齢者も安心し、一緒に料理を作り、指先を使ったり頭を使いながら料理をすることで、老化や認知症防止にもなるのではないかと考える。

しかし、社会的に孤立したり寂しさを感じたり、病気やけがなどに気づくのが遅れてしまうのも交流をした方が良いという理由だ。社会的に孤立するということは、外に出る機会が少なく、話し相手もいないため、地域や社会との関わりが少なくなってしまうことが社会的に孤立していると言えるだろう。社会との関わりが薄れていくと、子どもが生きがいだという人や周りの人から感謝されたりするという生活の楽しみや活力を失ってしまう人もいるという。家を訪問してくる人がいなかったり、話し相手がいないと、孤独感を感じたり、病気になった時に自覚症状がなかったり自分で気づいていても病院に行こうとしないといったことで、治療するのが遅れて重篤化したり、入院する時の保証人がいないなどの問題が起きる。さらに、認知症は本人は気づきにくい特徴を持っているため、治療までに時間がかかることがある。病気になったことに気づかずにそのまま孤独死してしまうというケースも少なくはない。訪問販売をしている人が、テレビの音が聞こえているのに、インターホンを押しても反応がなく、近所の家の人に中に入ってもらったら亡くなっていたということがあった。

以上の理由から、独居老人を救うためには、その方の家を訪問して交流をするということが良いと考える。

・菊地真依      宮城県名取高等学校 2年生      非正規労働者を救うために         

取り残された人たちを救うために何をすべきか。私は、非正規労働者を救うために非正規労働者の待遇を見直すことがよいと考える。なぜなら、非正規労働者は収入が不安定で、退職金や賞与がないからだ。というのも、非正規労働者は正社員に比べ、収入が固定給ではないため、休んだり会社の稼働日が少ない月などは収入が減ってしまう。実際、国税庁の「令和元年分民間給与実態統計調査」から、正社員の平均年収は五〇三万円、非正規社員の平均年収は一七五万円というデータも公表されている。にもかかわらず非正規労働者には退職金の手当も賞与もない。そのため賃金が不安定であると、自分が生活をするのに精一杯で趣味にお金を使うのが難しかったり、車や家などの大きな買い物をするのに時間がかかってしまったり、お金が借りれなかったりするデメリットがある。また、結婚をする余裕や子育てをする余裕が生まれない。結婚をする人、子育てをする人が減ってしまうということは少子化につながってしまうということだ。また、正社員と非正規労働者の収入や賞与など賃金の差から職場での地位が低いという問題があるからだ。私の知り合いが働いていた職場では、派遣社員が正社員に暴言を吐かれたという問題があった。一人一人が平等であるという意識を持って人間関係を形成すれば差別も無くなるのではないかという意見もあるだろう。もちろん、差別を無くすには一人一人の意識を見直すことも大事だ。しかし、正社員と非正規労働者の待遇の違いから差別を生み出してしまうのは事実であり、一人が意識を変えても非正規労働者の待遇が見直されない無い限り差別は消えないだろう。では、なぜ正社員で働くことを選ばないのだろうか。正社員は非正規労働者に比べ責任が重いのが理由の一つと考えられる。しかし、正社員になるには年齢制限や会社規定の試験がある。ゆえに、正社員にならないのではなく、なれない人がいるのも理由の一つとして考えられる。そのため、非正規労働者でも満足して働くことの出来る待遇に見直すことが重要なのではないだろうか。非正規労働者の待遇が見直されれば、職に対してのモチベーションの維持や、将来への希望、生きがいややりがいを感じられる人が増えるのではないか。またSDGsの観点からも目標達成への一歩につながるのではないだろうか。以上の理由から、非正規労働者を救うために、非正規労働者の待遇を見直すべきだと考える。

・関川美宥      名取高校 2年   体が不自由な高齢者を救うために 

取り残された人達を救うために何をするべきか。私は、体の不自由な高齢者を救うために食事面でのサポートをすることが良いと考える。

なぜなら食事は病気などの健康面につながるからだ。

体の不自由な高齢者は食事を作るのが大変なため、その手間がないお惣菜や冷凍食品、加工食品などに頼ってしまう。実際に、私の祖父も1日3食のうち2食は冷凍食品やお惣菜に頼っているそうだ。そうすると食生活の乱れや食品添加物の摂取をし、病気などの健康面に支障をもたらす事になる。冷凍食品には食品添加物が多く入っているものが多く、食品添加物は発ガン性を含むものが多いため過剰な摂取は体に悪い。お惣菜には塩分や防腐剤が多く使用されている。塩分を多く摂取すると高血圧につながり脳卒中や心臓病を引き起こしやすくなってしまう。冷凍食品とお惣菜のどちらも体に悪いとは言ったが摂取をするのが悪いというわけではない。作るのが面倒くさい時や忙しい時などそれらに頼るのは良いと思う。しかし「毎日」それらに頼ってしまい日々の積み重ねで食生活の乱れにつながってしまうと考える。

しかし食事面で予防するのでは無く、サプリなどに頼っても良いのでは無いか、という意見もある。確かに今は医学も発達し、サプリなどに頼るという事もできるだろう。だかしかし、体質によっては副作用が起きたりする場合もある。それになりより、サプリなどで済ませるのでは無く、食事面で予防することにより、食事することの楽しさを実感したり、心の健康にも影響するだろう。

それが食事面でのサポートをすべきである一つの理由である。食事をすることは精神的健康にも影響し、食べることの楽しさを知ることで生活の安定、充実感を得ることができる。そうすると心にも影響し、精神面が安定してくる。食事は沢山のことに影響を与える。特に高齢者は病院気を起こしやすいため食事に気をつけなくてはならない。しかし体の不自由な高齢者は健康に気をつけた料理を毎日毎日作ることは簡単ではない。なにより作る本人自身に大きなストレスがかかるだろう。そのため食事のサポートが必要だと考える。

今、高齢者に対しての食事や栄養面を支えるサポートは全くないわけではない。しかしそれらのサービスが行われている事を知っている人は少ない気がする。そのためもっと高齢者に対しての食事や栄養面を支えるサポートがたくさんある事を沢山の人に知ってもらう工夫も必要だと思う。そうすることでもっと体の不自由な高齢者を救えると思う。

改めてこれらの理由で私は、体の不自由な高齢者を救うために食事面でのサポートをすることが良いと考える。

・山寿々音      宮城県名取高等学校2年  取り残された人を救うために     

社会的弱者と呼ばれる障害者を救うためには、私はヘルプマークを周知させる活動をするといいと思う。

私は前に電車内で発作を起こしている人を見た事がある。その時、周りにいた人がその人のカバンについている赤いタグを見て冷静に発作を収めているのを見た。当時はヘルプマークについて知らず、不思議に思い、調べてみると、障害者の方や助けを求めている人が、自分の症状や対処法等を書き、周りに知ってもらうタグだということがわかった。昔の私のように周りの人がヘルプマークを知らないと、障害者の方がヘルプマークをつけていても、何も行動することが出来なくなってしまう。そこでヘルプマークを周知させる活動をすることにより、社会への認知度が高まり、障害者の方が少しでも生きやすい社会に変わると思う。もちろんまだヘルプマークというものを知らない障害者の方がいるかもしれない。その方に対しても知ってもらうことが出来る。

ヘルプマークが広まったとしても、実際に行動に移して助けられる人は少ないのではと考える人もいるかもしれない。確かにヘルプマークを知っていたとしても、障害者の方を助けられないことがあるかもしれない。しかし、ヘルプマークを知っているだけで、この人は障害者の方なんだと分かり、発作を起こしたりしても、何だこの人といった好奇の目に晒されることは少なくなるだろう。ヘルプマークを周知させることによって生まれるメリットは多いと思う。

したがって、私は障害者を救うためにヘルプマークを周知させる活動をすることがいいと思う。

・半沢舞悠      名取高等学校2年 飢餓を救うためにできること

私は飢餓を救うために、苦しんでいる人たちを支援するべきだと思います。

世界には食べ物が食べれなくて困ってる人が何万と居ます。

なのに日本人は給食で嫌いなものが出たりしたら残す人も多いです。

支援するべき理由は2つあります。

1つ目は食糧不足で命を失う人がいるからです。世界には食糧がなくて食事が出来ない人がたくさんいます。

日本では食べられるのに捨てられる食品が多いです。その捨てられる食品をなくして支援すれば命を失う人も減るからです。捨てられる食品を支援するだけで多くの命が救えます。

SDGsの目標で2030年までに、飢えをなくし、貧しい人も、幼い子どもも、だれもが一年中安全で栄養のある食料を、十分に手に入れられるようにする。これらの目標を実現するためにも1円でも多く募金したり支援することが大切だと思います。

2つ目は日本で捨てられる食品を減らすことです。日本は食べれるのに捨てられる食品が多いです。一人一人意識して残食を減らすことが大切だと思いました。フードバンクなどの取り組みが行われておりぜひみなさんも参加してみてください。

参加することによって飢餓の人を救う大切さや大事さに気づくかもしれません。

よって私は飢餓を救うために苦しんでる人たちを支援することがよいと考える。

・星野  成希    宮城県名取高等学校2年  偏見の存在     

取り残された人達(社会的弱者)を救うためになにをするべきか。私は差別を救うために、偏見をなくすべきだと考える。

なぜなら人種差別は偏見が1番の原因だと考えたからだ。

黒人差別では、白人がそれ以外の人種に対して悪感情を抱いており、肌が黒いだけで差別が起こり迫害されている。

確かに私も黒人が怖くないかと言ったら多少怖いという気持ちがある。ただそれが迫害したり殺害していいという理由にはならない。

また、昔黒人が植民地で奴隷だった過去があるため差別している人がいると聞く。その考えは全く理解し難くとても身勝手な考えだと私は考える。

可哀想なのは奴隷にされていた黒人なのにも関わらず、現代を生きるなにもされていないような人がなぜか差別をしてしまう。これも偏見がこのような幼稚な行動を起こしてしまう。

性別差別でも同じように考えられる。昔から「女には出来ないだろう」という偏見に囚われ、女性の仕事が減ってしまっいるのが今の現状だ。差別が減るように国からも法が作られ多少は減ったのではないだろうか。

そのため差別を救うには法を作り強制的に偏見を無くしていく必要があると考えた。

・亀井香乃花    名取高校2年    障害者を救うために     

私は障害を持った方を救うために、公共交通機関を使いやすくすることが良いと考えました。

なぜなら、障害のある方は普段の生活の中で不便に思うことの多くは、公共交通機関であるからです。その中でも、いちばん多いのが電車であり、今回私は肢体不自由のある方と、視覚障害・聴覚障害がある方について考えてみました。

まず肢体不自由の方は、電車に乗る時にスロープを利用されます。ですが、その時駅員さんとの連絡が上手くいかず、ホームで1時間ほど待つことがよくあるそうです。私はこのことから、電車に車椅子の方専用の出入り口をつければいいのでは無いか、と考えました。そうすることで肢体不自由の方が電車に乗る時に、駅員さんに頼らなくてもすむことや、電車への出入りがスムーズになる、という利点があると考えました。

確かに、このことを実現するには、たくさんの費用がかかったり、混雑時の対応の仕方、どのようにしたら、車椅子の方でも出入りしやすくなるのか、など考えなければならないことが沢山あります。

これらについての解決案は、費用については、駅のわかりやすい所やインターネットなどに大体的に上げ、募金をよびかけてみたり、混雑時の対応の仕方は、利用が開始されてからアンケートなどで利用者の意見を聞いてみること。どのようにしたら出入りしやすくなるのかは、肢体不自由の方にアンケートを取ってみる。など色々な対策ができると考えました。アンケートに関しては、答えてくださった方にクーポンなどを配布することでたくさんの意見が上がると考えました。

次に、視覚障害・聴覚障害がある方について考えました。視覚障害者、聴覚障害者の方は駅の情報が伝わりにくいということや、駅の何番線などの情報が分かりにくいなどを不便に感じている、との声が多数でした。私はこのことから、障害者の方専用のアプリを作り、駅の詳細を詳しくのせたり、スマートフォンの音声利用案内とリンクし、何番線など分かりやすくしたりするのが良いのではないか、と考えました。これらを実現するには色々な企業の協力が必要であり、たくさんの費用がかかります。しかし、視覚障害者・聴覚障害者の方が電車を使うことを不便に思いにくくなることで、その分利用される回数が多くなり、結果的にいい方向に向かうのではないかと考えました。

私は以上の理由で、障害者を救うために公共交通機関を使いやすくするのが良いのではないかと考えました。

・菊地優翔      宮城県名取高校2年      足腰の悪い高齢者を救うために。 

足腰が悪い高齢者を救うために、高齢者が使用する施設や乗り物、バリアフリーがするべきだと考えます。なぜなら、高齢者が使用する施設は道が一つ一つ狭くて困ってしまうからです。それは、スーパーの棚と棚の間が狭いことで、他に人がいるとどちらかが譲らないと通れないようなことがたまにあるからです。それに、高齢者の場合は譲るのにも時間がかかって譲られるのにも時間がかかります。棚と棚の間を広くしてバリアフリー化をすることで譲るということをなくして、買い物を少しでも短縮することで客の回りもよくなります。また、足腰の悪い高齢者は動くのに時間がかかることも理由としてあります。足腰の悪い高齢車の外出手段の割合として26.7%がバスが使っているというデータがあります。そのバスにはまだバリアフリー化が進んでいない部分が多くあります。足腰の悪い高齢者のバスの事故の原因は昇降時に多いというデータもあります。それは、バスの階段が高かったり、狭かったりすることが理由だと考えます。私も、荷物を多く持っていてバスに乗ったときに、非常に狭く感じる時がありました。足腰の悪い高齢者がバスを使わない人がいるのには、他の移動手段があるということも確かだが、他の人に迷惑がかかってしまうからということが関係していると思います。階段を低くすることでつまずくことをなくしたり、広くする事でぶつかって怪我をしたりすることも少なくなると思ったのでバスをバリアフリー化することが足腰の悪い高齢者によいと思いました。もちろん、反対の意見として、お金がかかることがあります。バリアフリー化をするのは国や県なので、基本的に税金が使われます。その税金を使って他にやることがあるかもしれません。そして、バリアフリー化にするにあたって、人手も必要になります。人を雇うにもまたお金がかかります。しかし、そういった道やバス、棚と棚との間をあけて足腰の悪い高齢者が過ごしやすくなれば、移動も早くなり健康な人も一人一人移動が快適になります。そしていろいろな場所に人が増えるとお金が回り、結果的にお金が戻ってくることが考えられます。それに、今はどんどんと高齢化社会が進んでいる状況なので、早い段階で行うことは、後から行うことよりメリットになりうると思います。以上の理由から、足腰が悪い高齢者を救うために、高齢者が使用する施設や乗り物、バリアフリーがするべきだと考えました。

・谷津敬直      宮城県名取高等学校2年  第一次産業を救うために 

今日では、第一次産業に分類される職種の労働人口が減少し、年齢層も高くなってきた。そんな第一次産業を救うためにその職業達を公務員化することが良いと考える。

このように考えた理由は、労働人口の底上げが見込まれるからだ。

固定給があり、収入が安定する公務員はどの職種でも一定の人気があるため、第一次産業もそうなれば必然と就業者は増えるだろう。

また、生活も今以上に安定するはずだ。

第一次産業はその年の気象状況をもろに受け、不作の年にはかなり厳しい生活を強いられる人も少なくない。生活をするのに最低限の固定給を設定することで、不作でもある程度の生活は保証される。そうして第一次産業の不安定さのイメージが払拭されれば、さらに就業者人口増加につながるだろう。

しかし、機械を導入すれば就業者人口を増やさなくても人手不足は解決するかもしれない。

確かに昨今の日本の技術力は凄まじく、その技術力を活用すればゆくゆくは少人数で大規模な産業を行うことが出来るようになるかもしれない。人員削減による収入の増加も見込まれ、生活も苦労しなくなるだろう。

ただ、今の第一次産業の状況にいきなり機械を導入することが可能だろうか。60歳以上が就業者の過半数を占める第一次産業に、その革命的な技術を完璧に使いこなすことができる人がどれだけいるだろうか。今この瞬間に安価かつ誰もが扱える機械が開発されるなら可能かもしれないが、とても現実的ではない。今の段階では、いつか当たり前になる超技術に対応可能な土台づくりが必要なのだ。そのためにもまずは就業者数そのものを増加させ、第一次産業を活発にさせることが先決だと考える。

では、第一次産業に属する職種を公務員化することの問題点はなんだろうか。

一つ考えられるのは、誠実に働いた人と怠惰で働きが悪い人の給与に差が出ないのではないか、といった点だ。公務員という仕組みの性質上その年の働きに関係なく一定の給料が振り込まれてしまう。怠けても他と同じだけの給料を貰えるのならその方が得だ。しかし、公務員には昇給の制度が設けられている。毎年一回その年の業績や働きなどから評価がつけられ、それによってどの程度昇給するかが決まる。つまり、働きが悪いと判断されればいつまでも給料は上がらないのだ。第一次産業でもこれに倣って農業協同組合などの出荷先に管理職を設け人事評価を行い、それに応じて昇給する制度にすれば、自ずと競争が生まれそれぞれの仕事の質も向上するだろう。

このように第一次産業に属する職種の公務員化を行うことで、その就業者を増加させ競争を生み、活発な産業にすることができると考える。

・内藤愛里      名取高校 2学年 産後の母親を取り残さないで。   

あなたは産後うつを知っているだろうか。私は聞いたことがある程度だったので、調べてみると10人に1人の確率でなる心理的障害で、極端に悲しくなったり、泣き叫んだり、易怒性や気分の変動がみられたりするものだと分かった。妊娠中、出産時、産後の育児は言葉にならないほど大変だということは母から実際に聞かせてもらっていたので少しは知っていたが、それに加えて産後うつもあるのかと思うと将来子供を産みたくないと思ってしまう。ただ、この大変な期間に父親が身体的、精神的にサポートしてくれたらこの思いはかなり良い方向に変わってくるだろう。ただし問題なのは、今の日本には男性が育休を取得すること自体あまり浸透していない。育休をとっただけで「良い旦那さん」というイメージが周りにつくほどだ。さらには取得を拒否する会社もある。この問題を解決するために私は、育休取得を男性と企業に対して義務化することが良いと考える。

なぜなら、最近の男性新入社員の7割から8割、そして35歳以上の中堅社員でも8割が将来育休取得を希望しているという調査結果がある。また、将来の夫に育休取得を希望する女子学生は9割もいたという。これらから、いかに育児取得が将来の母親、父親に重要視されているのかがわかるのだ。

確かに、育休取得期間は収入が無くなって生活が苦しくなる、長期間休んだら仕事が回らない、父親が家にいても子供が1人増えるだけだ、といった意見もあるかもしれない。

しかし、育児休業中は社会保険料が免除されるため、手取り額は8~9割の収入が保証されている。また、ランチや飲み会などで減る出費もあるだろう。このことから生活への大きな支障はないといえる。また、一度に長期間の育休をとるのではなく、2回に分けて取得ができる。1回目は母親のサポートで、2回目は育児のため、このように時間を有効活用していけば仕事に大きな影響を与えることは無い。その上、仕事中心の生活から家庭中心になることで仕事の効率化が上がったり、その後の積極的な家事、育児の参加へと繋がることが研究結果で分かっている。意外にも乳幼児期にはなにも役に立てることはないと思っている男性が多いみたいだが、そんなことはない。例えば、オムツ交換や夜中の授乳、夜泣きの対応などがあげられる。産後うつの原因になる、授乳による睡眠不足や生活リズムの乱れを防ぐためにも父親のこのような行動が母親にとってはとても大きな支えになるのだ。出産直後から乳幼児期までの期間、父親の行動しだいでその後の夫婦関係が決まると言っても過言ではない。

以上の理由により私は父親の育休取得を義務化し、企業には育休取得を促す雰囲気づくりを徹底するべきだと考える。

・高玉そら 宮城県名取高等学校2年 学校や会社に精神的な理由で行けない人を救うために     

あなたは学校や会社に精神的な理由で行けないという人に出会ったことがありますか?私は中学生のとき、精神的な理由で学校に来れなかった友達に出会ったことがあります。その友達は1ヶ月に数回しか来れない時もあり何かその友達のために出来ることは無いかと考えたこともありました。実際、私も学校に行きたくないと思ったことがありましたが、その間はとても辛く苦しかったという経験があります。その時、私は家族や先生などに相談しながら乗り越えることが出来ました。最近のニュースでも学校に行けない人が増えているというニュースをよく見ます。そのような人たちが増えている今、わたしたちには何ができるのでしょうか。私は、学校や会社に精神的な理由で行けない人たちを救うために相談できる施設を広めていくことが良いと考えました。

なぜなら、悩みなどを相談できる施設を知っていれば色んな人の意見が聞けるため、解決策や地域で行っている取り組みなどを知ることができます。同じ悩みをもっていたことがある人や解決方法が分かる人に相談することで悩みを解決できると思います。また、1人で抱えていたことを誰かに話すということは気が楽になるため、精神面を助けることができます。悩みなどがあるときにはストレスが原因で起こるパニック障害やうつ病などの病気もあり精神面を助けることは良い点が沢山あります。

確かに、相談できる施設に行くのに勇気がいるため、カウンセラーなどの資格をもつ人が自宅訪問するなどの案が出てきます。一人一人の自宅に訪問するのは大変で時間がかかったり人手が足りなくなったりする可能性がありますが、自宅に来てくれるため、相談できる施設に行くよりは気が楽で、自宅の状態なども見れるため良いと思います。

しかし、相談できる施設に友達や家族など信頼できる人と一緒に行くことで1人で行くより気が楽になると思います。家から相談できる施設に行くことで外の空気を浴びたり友達などと話したりして気分転換になるため、自宅に来てもらうより相談できる施設に行くことが良いと思いました。また、相談することによって自分を傷つけたり自殺を考えたりすることがなくなり少しでも良い方向に向けると思います。悩みがある人はふさぎ込んでしまうことがありますが、相談することは大切だと思います。

以上の理由で学校や会社に精神的理由で行けない人たちを救うために相談できる施設を広めることがよいと考えます。

・菊地由倫      宮城県名取高等学校2年  「認知症」を減らすためには

取り残された人たちを救うために何をするべきか。

私はこの言葉を聞いた時「認知症」という言葉が思い浮かびました。なぜなら、つい最近母と認知症について話したからです。「最近お母さん忘れっぽいんだよね、

もしお母さん認知症になったら宜しくね(笑)」

冗談交じりでこのような会話をしたのを覚えていたため「認知症」についてもう少し知りたいと思いました。もちろん自分のためでもあるし、自分の家族のためにも予防策は考えておくべきだと思います。

改めて考えた時、認知症にならないために日頃から予防するべきだと私は考えました。

なぜなら、高齢化の進展とともに、認知症患者も増加しているからです。

高齢化の進行と比例して認知症患者も増加している事が現在の日本の課題というのを目にしました。2025年にはおよそ700万人(約5人に1人)、2060年には850万人(約4人に1人)もの認知症患者が増えると推計されているというのを調べた結果分かりました。

また、認知症が原因での混乱やトラブル等からの社会問題が発生しているからです。

特に多いのは、自宅に戻れない行方不明者の増加や、ゴミ屋敷・孤独死の増加、介護殺人、車の運転による事故などといった問題が多発しているということを耳にしたことがあります。

このような問題は全て認知症が原因でのトラブルです。このような問題を無くすためには、認知症を減らさない限り無くならない問題だと思います。

だが、認知症だけでなく、他の病気も予防をすることで高齢化の進行も防げると思う人が多いと思います。

たしかに、高齢者に多い病気で認知症の他にも高血圧や糖尿病といった病気もたくさんあるなか、認知症だけでなく他の病気も予防することで高齢化の進行も抑えると思いますが、そんな簡単には全ての病気を一気に予防することは難しいと思います。

しかし、日頃から「認知症」の予防をすることで理解力・判断力も向上され、理解力・判断力が向上することで、健康にも繋がるため認知症患者が減り、それとともに高齢化も防ぐ事が出来ると思います。

以上の理由で私は認知症を減らすために日頃から予防することが良いと考えました。

例えば、高齢者でも出来る簡単な予防策だと、毎日健康管理をしたり、普段から専門家に相談をしたり、食生活を整える、飲酒・喫煙が過度にならないようにする、生き生きとした生活をするなどといった予防策があります。

自分の身の回りの人だけでなく、世界中の人が「認知症」にならないためにも日頃からこのような予防策をするべきだと思います。毎日10km以上走る、毎日腕立て100回するよりも認知症を予防することはとても簡単なことです。

認知症になってから辛い思いをするよりも、辛い思いをしないで出来る対策を今しておくべきだと思います。

自分のためにも出来ることからしていき、次にみんなのため、将来のためにも、、、とそのような高齢者の方が増えると高齢化の進行を抑えられます。

将来辛い思いするなら、今辛い思いしないで日頃から対策して行こうと思います。

・市川野乃夏 宮城県名取高等学校2年 下半身が不自由な人でももっとテーマパークを楽しむために

社会的弱者を救うために何をするべきか。私は、下半身が不自由な人でもテーマパークで他の人と同じように楽しめるようなジェットコースターを作るべきだと考える。なぜなら、修学旅行で行ったテーマパークで、車椅子に乗った女性がつまらなそうで寂しそうな顔で一人で佇んでいたのを見たからだ。そんな場面を見てテーマパークは行った人みんなが笑顔になれるような場所なのにどうして悲しそうな顔をしているのだろうと強く心に残った。

私が強く心に残ったのはテーマパークで車椅子に乗った人を初めて見たから、ということもあるかもしれない。乗り物に乗れないからという理由で行かない人が多いからテーマパークではあまり見かけないのだと考えた。水族館や動物園などの見て楽しむものは楽しめるが、遊園地のような体験するものは楽しめない。それは下半身が不自由な人が社会に取り残されていると感じた。現に私がテーマパークで見た人も一緒に来た人に放って置かれていた。

確かにテーマパークはミニゲームやパレードなどもあって、乗り物に乗らなくても十分楽しめるだろう。そして全員がジェットコースターが好きという訳ではない。

しかし、後天性の下半身不自由者の中にはジェットコースターが好きでまた乗りたいという人がいるかもしれない。下半身が不自由になってできなくなったことが少しでも少なくなって欲しい。

他にも、ジェットコースターでは風をきって爽快感を感じることが出来る。風をきって速さを感じることは車や電車ではできない。下半身不自由者は特に、走ったり自転車を漕いだりできないので爽快感を感じるにはジェットコースターが最も良いと私は思う。

以上の理由で下半身不自由者を救うために下半身が不自由でも乗れるジェットコースターを作るべきだと考える。しかし下半身不自由者が気軽にジェットコースターに乗れるようになるにはまだまだ改善点がある。

例えば、下半身が不自由だと乗り物に乗ることに時間がかかる。よって乗るまでの階段を無くしたり、乗り場と乗り物の間の隙間を狭くしたりなどのテーマパークのバリアフリー化を進めることも重要だと思う。

生まれつき下半身が不自由な人にはジェットコースターを通して風をきって進む爽快感を味わって欲しい。後天性の下半身不自由者にはもう乗れないんだと諦めるようなことが少なくなって欲しい。近い将来、下半身が不自由でも乗れるジェットコースターが開発されてたくさんの笑顔が増えることを私は願っている。

・佐藤冠汰      宮城県名取高等学校2年  障がいをもっている就活生を救うには何をすべきか

取り残された人たち(社会的弱者)を救うために何をすべきか。

私は、障がいを持っている就活生を救うために、障がいを持っている人が就活をしやすくしたり、もっと働きやすい環境を整えるべきだと考える。なぜなら、障がい者のトライアル雇用をもっと増やすことにによって離職率を減らせると思うから。これを実施することによって、障がい者雇用をしてもらった本人が業務の内容や、社内の雰囲気を確かめることで離職率を減らせると考える。

また、企業全体で障がいについて知ることで働く環境が整うと思う。なぜなら、障害がい雇用された本人の特徴や特性などを伝えることで、どう接したら良いかが分かって良いと思うから。そうすれば、障がい者雇用された本人もコミュニケーションを取れてその企業に馴染みやすくなるとも考えたから。

そして、障害者は、可哀想な人、助けてもらう必要があるという偏見をなくすことができる。加えて、障がい者雇用で働きたい人は、そのような偏見や同情されることを望んでいるわけではなく、働く障がい者は、自分が働きその働きに対する評価をもらい対価を受け取りたいと考えている。

また、障がい者の現実を理解した枠組み作りを行うことも大切だと思う。なぜなら、障害のある人の中には、特性としてなんらかの苦手さがあったり、社会人経験が少ないために、仕事の仕方や、効率的に行動することが難しいことがあると思うから。

また、障がいを持っている人が、仕事を考えるときに、そのような背景の人でも仕事ができるような仕組みづくりを行うことが大切だと考えたから。

確かにこれらのことを、実行するためには、企業側に大きな影響を及ぼしたり、余計な仕事が増えるかもしれない。しかし、これらを実行できれば、障がいを持っている人がどんどん仕事をして、企業が大きくなるかもしれないと思ったから。

また、障がいを持っている人を雇うことで、業務を見直し、最適化、効率化を図るきっかけになったり、障がいを持っている人とそうでない人を分けることで、生産性を向上させることで、戦力として活躍させたり、社会的責任を果たす、企業としての価値創出につながったり、多様性のある企業文化、組織づくりができたりすると思う。

このような理由で、私は取り残された人たち(社会的弱者)を救うために何をすべきかについて、障がいを持っている就活生を救うために、障がいを持っている人が就職しやすい環境をつくったり、就職した後働きやすい環境を作ることが大切だと思う。

・伊深悠大      宮城県名取高等学校 2学年      増え続ける高齢者を救うために。

誰一人取り残さない。自分の周りで考えてみると近くにありました。取り残された人たちを救うために何をするべきか?私は、高齢者を救うために若い人達の輪を広げ、介護ができる人にある程度の知識を広げるべきだと考える。

なぜなら少子高齢化で高齢者に比べて若者の数が徐々に減っているからだ。介護や手助けが必要な人は増えるばかりで、これからもっと取り残される高齢者が増えると考える。そこで、今の自分の知識だけで支えることができるだろうか。私はできない。身近に助けてあげたい人がいるのにも関わらず、できないことが多い。

それはなぜか。何をすれば良いのか、何に困っているのか分からずにいるからだ。その問題を少しでも緩和できるようにわずかな学習でも知恵を持つことが大切だ。

しかし、ある程度の知識と言っても学校に通っていたり仕事をしながらだと、とても大変で計画、実行する時間がない。少しの知識と言っても不十分だとかえって良くない。帰ってからだと疲れてしまっているだろう。そもそも家が遠く顔を出せない人も多い。65歳で仕事を辞めてからでもいいのではないか。

だが、その間にも日本の少子化は悪化するのだ。税金の話で例えると、2000年には65歳以上の人を3.6人で支えていた。2050年には1.3人で支えなければならない。それくらいに若者が減っている。取り残さないためには今からでも少しづつ学ぶことも大切だ。私の姉はリハビリや介護の職についている。実際に話を聞くと為になることが多く、とてもおもしろい。今では、老人の孤独死や老老介護が問題になっている。身近にも、近所の人でもこのような問題をなくすことが大切である。

私は高齢者を取り残さないために、日頃の挨拶も大切だと思う。挨拶では補えない部分を不自由な人のことをどのように支えればいいのかを少しでも知る必要がある。現在の日本では、老老介護という問題がある。老老介護とは、介護が必要な人が他の人を介護することで、見ていてとても大変そうで、つらそうだったのを覚えている。孫や子どもに助けてもらえれば良いが、全ての家庭でそれは絶対にできないだろう。子どもだからできないことはない。祖父母に聞いてみると顔を見るだけで元気がでるらしい。同じ時間を共有していく間に課題を見つければ良いのではないだろうか。全ての人が対応できるようになれば少しは、解決できると考える。これからも増える高齢者にどう向き合っていくか、どのように考えるかが大切だ。

・菊地美安      名取高等学校2年生      差別を受ける女性を救うためにするべきこと取り残された人達を救うためにするべきこととはなにかと言う問に対して私は、差別を受けている女性を救うためにまず一人一人が他の人を差別をせず、自分のことも差別しない社会を作るべきとだと考えます。

この案は確かにみんながすぐに理解して取り組める案では無いかもしれない。

しかし、差別問題が起きるのはこれから根拠として出すものが原因であると考え、男女の偏見をなくして変えていかなければ、事件は解決するかもしれないが、実際事件数が減るとは限らない。なのでそういった小さなことから始めて、一人一人が皆の個性を尊重すれば偏見が少しずつでもすくなくなり差別問題が減少すると思ったからだ。

実際に女性が受けている差別の事例、まず初めにDV事件である。

DV事件は年々増加しており、去年は8万3042件で18年間連続で最多を更新してると分かりました。DVの主な理由は「暴力は自己の欲望を満たすため、相手を支配するため」その次に多い理由は「男性と比べて女性は価値が低いから」という理由でした。これらの理由は女性の人権の軽視の表れであると考え、女性の人権が尊重されてないことが分かります。

それに対しDVを受ける女性は相手が子供を利用したり、経済的暴力を用いたり、離婚をすると脅迫してきたりするので、相談できなかったり、諦めている女性が増えているそうだ。これは女性が自分が男性よりも立場が下だと自分を差別しているからだと考える。

次に女性は男性よりも賃金格差が大きいことだ。私は男女の違いによる賃金格差も女性差別の1つだと考える。実際日本の男性のフルタイム労働者の賃金の中央値を100%に対して女性の賃金中央値は77.5%でした。他の国のアメリカやフランスなどは、女性賃金80%以上で、日本は他の国と比較しても男女の賃金格差がさらに大きいことがわかった。なぜなるのか、要因として分化的差別があるからなのではと考える。男性は仕事、女性は家事、育児をするべきといった昔ながらの男女の偏見があり、今でもその偏見が当たり前だと思ってる人が多いからだと私は思った。そして子供ができた時に女性は育休が始まり、再就職の割合が最初の就職率の半分も減っており、再就職したい女性も育児や家事を全くしてくれない旦那さんという現実を見ると負担が大きく仕事に就けないことが原因だそうだ。

よって私は差別を受けている女性を救うためにまず一人一人が他の人を差別せず、自分のことも差別しない社会を作るべきと考える。

・武藤美優      名取高等学校 2年       「生きやすい」を広げるために   

取り残された人たちを救うために何をするべきか。私は、聴覚障害者を救うために、幼稚園や保育園で積極的に手話を取り入れることが良いと考える。

なぜなら、幼い頃から手話に触れることで、聴覚障害者への理解が自然と備わるからだ。幼い頃からあたりまえのように手話に触れていれば、全く手話を知らない人とは大きな差ができる。例えば、小学校に進学して、特別支援学級の人達と交流するような機会だ。手話を知らない子供たちは、言葉が通じないことに気づくとどうしたらいいか分からず、交流する手段が無いと思ってしまう。一方、たとえ簡単な手話であっても知識がある子供は、挨拶を交わしたり、動きで伝えたいことを表現したりなど、交流の手段をいくつか知っている。そのような子がいると、聴覚障害のある子供も「一緒に遊んでくれる子がいる」という安心感を持つことができる。また、社会に出て聴覚障害者の人と接する場合もある。大人になると、筆談やスマートフォンを使った会話など、交流の手段はあるが、聴覚障害についての理解はほとんどない。手話を学ぶことでその立場になって考えることができ、相手を傷つけない行動をとったり、適切な手助けができると思う。

確かに、ほとんどの人が実際に聴覚障害者の人と接する機会は少なく、関わることがあっても会話する必要がない場合も多くある。

しかし、コミュニケーションの方法として手話に触れておくことは、差別や偏見を生まないことにも繋がるのだ。

今の日本社会には、「健常者」と「障害者」という区別をしてしまう傾向があると感じている。バリアフリーなど、障害のある人も生活しやすいようにと、環境は整えられ始めているが、一人一人の意識はどうだろうか。未だに、障害があるというだけで障害のない人と違った態度をとる人もいる。環境が整えられていても、私たちの意識が変わらなければ、本当の意味で聴覚障害者を救うことはできない。

実際に、偏見は「ステレオタイプ」という、特定の集団に対する一般的な固定概念から生まれるという考えがある。これに基づけば、「聴覚障害者の人とコミュニケーションを取ることは難しい」という固定概念から差別が生まれてしまうと言える。逆に言えば、固定概念が植え付けられる前の幼少期に手話に触れることで、「聴覚障害者ともコミュニケーションを取ることができる」という考えの人が増えると言える。結果、偏見を持つ人が減り、聴覚障害について理解のある人が増え、聴覚障害者が生きやすい社会になると考えた。

時間がかかる方法ではあるが、根本から今の意識を変えていくには、この方法が最善ではないだろうか。

以上の理由で、聴覚障害者を救うために、幼稚園や保育園で手話を取り入れるべきだと考える。

・根元和香奈    宮城県名取高等学校2年  障害者が分け隔てなく暮らすためにはどうすればいいか

取り残されている人達(社会的弱者)を救うためにはどうすればいいのか。

私は障害者が分け隔てなく暮らすためには、私達自身が障害者について深く理解しなければいけないと考える。なぜなら、政府の施策だけでは障害者が分け隔てなく暮らすには不十分だと考えたからだ。

たしかに、障害者が分け隔てのない共生社会の実現のため、差別を失くすためにに、ノーマライゼーションを基本理念とする、障害者施策を進めてきた。例えば2011年に改正された障害者基本法、2016年に施行された「不当な差別的取扱いの禁止」、「合理的配慮の提供」等の障害者差別解消法だ。これ以外でも政府は障害者差別を失くすために以前から施策を進めてきた。

しかし、現状では車椅子での乗車やアパートの入居を拒否される等があり、障害者に対する理解や配慮が十分ではないことは明らかだと思う。

それらを改善するには、法務省が施策を進めるだけではなく、障害者に対する私達自身の見方、考え方、なにより障害者ヘの意識や偏見の改善、知識、工夫が必要だと考える。例えば学校で障害者についての授業を行ったり、実際に障害者と会ってみたり、障害者でもバスを利用できるようにユニバーサルデザインを施したり等をすれば効果があるのかも知れない。ユニバーサルデザインは今私達の身の回り例えば家の階段の手すり、店のロープウェー等多く活用されている。

しかし、それでもまだ障害者差別が失くなったわけではない。

ゆえに、政府の施策だけでは解決するのは困難であるため、私達の意識や見方を変えなければこの問題は解決するのは難しいと考える。障害者について深く理解すれば障害者に優しい態度をとることができ、尊重することができる。

したがって、障害者が分け隔てなく暮らすためには私達自身が障害者について深く理解しなければいけないと考える。

・三田妃奈音    宮城県名取高等学校2年  障がい者への社会的差別をなくすために

テーマ、取り残された社会的弱者を救うために何をするべきかについて私は考えました。取り残された障がい者を救うために障がい者の人への理解をすることが良いと考えます。なぜなら障がい者への生活的不安、社会的不安、障害者への立場を理解することによって障がい者の気持ちがわかると考えました。障がい者の人の目線になって物事を考えることで今まで見えてなかったところが見えるようになったり、何気なく使っている道具などに対しても「障がい者が利用したらどのような不便があるのか。」などを考えるきっかけを作れると思いました。障がい者の気持ちを理解することで障がい者を見つけたら積極的に手助けや、気遣いをすることができると思ったからです。常に障がい者への気遣いをすることは一握りの人しかしていません。障害者への気遣いというのは意識しないとできないものだと思います。簡単なことだと思いますが、かなり意識をしないと、常に「障がい者への気遣い、立場」ができないと思います。まずその第一歩として自分のSNSなどを利用して障がい者への気遣い、障がい者の目線などを発信すればいいと考えました。SNSを使を使って発信するより、テレビや雑誌などで掲載すれば簡単に広まると考えました。

確かに、テレビを使って発信すれば、障害者への理解がすぐに浸透すると思います。その他にもSNSと比較しても「障がい者への理解」の浸透期間はすごく短期間で広範囲に広がります。

しかし、テレビを使うことによってお金もかかり、高校生の私たちには実施することがとても安易にできるものじゃないと考えました。自分達での力で「障がい者への理解」の自分たちの力で発信することが大切だと思います。時間や、期間、テレビとは比べ物にならないくらい大変な作業だと思います。ですが自分たちの力で発信していくことが大切だと思います。

障がい者を助けるためには自分たちでSNSなどを利用して障害者への理解を深める、広めることが大切だと私は思います。障害者への理解を深めることで障害者への立場、行動をしてみることで今までにはなかった発見などが見つかると思います。私がこの小論文を通して障がい者へのバリアフリー化が広まり、社会的弱者への格差がなくなればいいなと思いました。

・高橋陽斗      宮城県名取高等学校2年  学校に行けない人を救おう

取り残された人のために何をするべきかわたしは考えました。わたしの考える取り残された人とは、世界中の学校に行けない人のことです。学校に行けない人を救うために、募金をもっと知ってもらい寄付することが1番の救う方法だと思うます。コンビニの会計の時横に置いてあったり学校などでは羽根を配ったりしています。しかし、コンビニの横にあっても気づかずスルーしてしまったりもらった羽根も気づかないうちになくしてしまったりしていますまだまだ募金が広まっていないとわたしは感じました。

なぜわたしが募金を広めることが1番の救う方法だと考えたかというと、募金を広める世界中の人が1円でも募金をするようになれば世界には80億人いるので、80億円も寄付することができます。1人の子供が成人するまでには2100万円から3000万円程度の費用がかかると言われています。80億円もあればたくさんの子供を救う事もでき一人一人が10円や100円募金すればさらにたくさんのお金が寄付できるようになり、もっと子供を助けられるようになると思ったからです。

2つ目の理由は募金をした人はお金を寄付しているので助けてる感があり、寄付をした人にもいい感情が残りお金を寄付してもらった人も学費が払えるようになるというウィン・ウィンの関係が作れるからです。それに、コンビニなどで買い物をした時にお釣りが多くなってしまう時があります。そのときに募金箱にお金を入れたらじゃらじゃらと小銭が多くなることもなく寄付できるというこれもまたウィン・ウィンの関係がつくれると思います。

学校を増やし自分の家の近くの学校に行ったり、学校に入れる人の人数を多くするという考えもあると思います。しかし、それだと学費を払えないという根本的な問題を解決することができないし、学校を造るための土地や費用もたくさんかかってしまいます。なのでこの意見は現実的じゃないと思います。

わたしがどうやって募金をひろめようと考えているのかというと、夏祭りやクリスマスなどのイベント行事がある時に人がたくさん集まるところで募金の呼びかけをするというものです。人がたくさんいるとこで呼びかけをすると興味をもつ人が増えるかもしれないからです。2つ目は、コンビニなどもっと気づきやすいように箱を大きくするのと出入口にも募金箱をつくるのが気づきやすくなって良いと思いました。

以上の理由から募金をすることが学校に行けない子たちにできる最善の方法なんじゃないかと思いました。

・岩渕光希      宮城県名取高校高等学校2年      障害者を救うためには   

取り残された人たちを救うために何をするべきか。私は、障害者を救うために生活する上でのさまざまな工夫をすることがよいと考える。

なぜなら、工夫をすることによって障害のない人達に近い生活をすることができるからだ。障害者の人達は、必ずどこかで不便を感じたことがあるはずだ。その不便をなくすことができれば障害者の人達もストレスや不便のない生活をすることができる。そうすれば社会的弱者から少しでも抜け出すことができると思う。

たとえば、あらゆる場所に点字や点字ブロックをたくさんの場所につくれば、視覚障害者の人達が問題なく生活することができ道路への飛び出しや線路への落下をなくすことができる。また、車椅子の人でも押せるようにエレベーターなどのボタンの位置を低くすることで車椅子の人でもストレスなく生活できる。手話をたくさんの人が覚えれば、聴覚障害者の人も少しは楽な生活ができると思う。

確かに、点字をたくさんの場所につくると大きな費用がかかったり、手話を覚えるのも簡単なことではない。

しかし、それで障害者の命を救ったり、不自由な事を少しでも軽減できるのであればするべきだと私は思う。障害者の人が障害があるせいで障害のない人との差が生まれてはいけないと思うからだ。

以上の理由で、障害者を救うために生活する上でのさまざまな工夫をすることがよいと考える。

・小野大和      名取高等学校2年生      LGBTQについて我々のできること 

SDGs、この言葉には色々な意味と思いがこもっている。たしかにSDGsの思想は素晴らしく叶うのならば社会は今よりさらに良くなることであろう。しかし現代の社会においては課題が山積みになっている。そんな中で我々ができることは何か?我々が理解しなくては行けないことは何であろうかを改めて考えるべきである。現代社会の課題の一つであるLGBTQについて考えるべきではないだろうか。

このLGBTQという言葉は現代では少し浸透してきた言葉だと私は思う。しかしまだ相手への理解や受け入れる準備ができていないように感じられる。まずLGBTQとは何か、それは性に関する言葉である。レズビアンは心の性が女性であり、好きになる相手の性も女性である。ゲイは心の性が男性であり、好きになる相手の性も男性である。バイセクシャルはどちらの性の人間も好きになることである。これらの課題は未だに同性での恋愛や結婚が認められていない節がある事にあるだろう。異性同士であるのが普通、同性だなんて気持ち悪いと考えてしまう人が現代にはあまり少なくないであろう。故に人に打ち明けられず自分の想いを殺すしかない人が多数存在しているであろう。たしかにパートナーシップ制度という同性でも結婚と同じような関係を示してくれる制度が存在する。しかしそのパートナーシップ制度が使えるのは一部の地域だけなのである。この制度が全国全てに展開される時にはSDGsの理想の社会に大きく近づいているであろう。トランスジェンダーは自分の体の性と心の性が一致していない人のことである。クエスチョニングは自分の性認識や性的指向が定まっていない、もしくは定めていない人のことを指す。これらに対する課題は自分を理解できていない不安感や男女の区別をしている施設やサービスによるものであると私は考える。自分の性がどちらなのか選択を余儀なくされることがあるので、施設側や提供側からの配慮が社会には必要不可欠になることだろう。

私は声を大にしてLGBTQの人達には共通している点があると考える。それは自分がほかと同じでは無い、自分が異端、異質であるという自負がある事であろう。しかし今1度考えて欲しい。人と同じ人がいるだろうか?この社会において人の要素は全て個性であると私は声を大にして言いたい。しかしサポートが必要な場面があるのは確かである。この社会を形成する土台の認識を正すことで全ての人が暮らしやすい世界を作れることであろう。

・森菜々美      宮城県名取高等学校2年生 障害者や高齢者、持病持ちの人を助けるために

皆さんは「ヘルプマーク」という言葉を聞いて何を思い浮かべるでしょうか。知っているという人ととは逆にヘルプマークを知らないという人もいるでしょう。その人のために説明すると、「ヘルプマーク」とは義足や人工関節を使用している患者さんや、内部障害や難病の患者さん、妊婦初期の女性など、援助や配慮を必要としている人が外見で分かりずらい人を分かりやすくするために作られたマークのことを言います。そんなヘルプマークを、私はもっと分かりやすくするために、ヘルプマークの改良をした方がいいと思っています。

なぜなら、電車やバスなどの交通機関では混雑しており、とても見えずらい状況だからです。実際、私も体験しました。部活の大会でバスを使っていた私は、ヘルプマークをつけた難病指定の患者さんが乗ってきたらしく、私も混雑していたせいで気づきませんでしたが、私以外見えてなく、小さいヘルプマークが人の波とかで押され余計見えなくなっていると感じました。しかも、ヘルプマークを見ても席を譲らない人、配慮してる人が少ないのも分かりました。

これも実際に私が体験しました。先程とはまた違う日に、今度は電車に乗りました。お昼ということもあり、かなり混んでいました。私が乗った次の駅でヘルプマークを付けた人工関節を使用している患者さんに出会いました。幸い私と友達は座っていて、すぐに席を譲ることは出来ましたが、同じ駅から乗ってきた不良や社会人はなんの躊躇もなくその患者さんの前の席に座っていて、しかも大声で話したり笑い声がでかいなど、ヘルプマークを付けてる人にはとてもストレスが溜まる現象だったと思います。確かに交通機関を使っている人はなにかと忙しいし、自分の事で手一杯で配慮できなかったりもすると思います。しかし、自分の視野や行動を広げることで困っている人を助けられるし、マナーを守ることも出来ます。ヘルプマークをつけてる人じゃなくても困ってる人は沢山居ます。例えば、荷物をいっぱい持っている高齢者や、お腹の中に赤ちゃんがいる妊婦さんなど、社会には色々なパターンの人達がいるのです。自分の行動ひとつで1人の人間が救われると思ったら凄いことじゃないですか?なので私はヘルプマークについての知識をつけることも大事だと思います。しかし、今は知識ではなく、改良の話です。

ではどのように改良したらいいのでしょうか?私はこう考えました。まず大きさを変えた方がいいと考えます。今のヘルプマークの大きさは縦約8cm、横5cmなのを、縦15cm、横8cmくらいに変えた方がより見えやすくなると思います。次により見えやすくするためにリュックを引っ掛ける部分につけた方がいいと思います。なぜなら、人は低い位置より高い位置にある物の方が、目立って見えるからです。最後に、ぶら下げる式もいいですが、リュックに直接つけれる安全ピン式にするのもいいと思います。なぜなら、その方が頑丈で動きづらく、交通機関の揺れがあったとしても少しは見やすくなると思ったからです。このように、少しヘルプマークの改良を行うだけで、先程上げたヘルプマークの無視や配慮の無さが少しでも減る=ヘルプマークをつけてる人の手助けができるきっかけになると思うし、それだけヘルプマークで困ってる人を助けるのが大事なのだと社会に広めることができると感じました。

以上の理由から、私はヘルプマークをもっと分かりやすくするために、ヘルプマークの改良をするべきだと思いました。

・佐藤笑 宮城県名取高等学校2年 貧国民を救いたいと考えたことがありますか

私は、貧国民を救うために、まず貧国民について知り、高校生でもできるボランティアや募金などをするべきだと考える。

なぜなら、ボランティアをすることで、貧国の現状を実地で知ることに繋がると思ったからだ。

また、募金は1日150円の継続支援で保健や衛生、教育、生計向上など子どもたちを取り巻く環境を改善する長期的な支援につながるため、そこまで大金ではなくても協力できると思ったからだ。

確かに大切な時間やお金を、自分の生活はあまり変わらないのに、会ったことのない国の人のために差し出さないといけないのは何故だというふうに思う人もいるかもしれない。

しかし、日本にも貧困に悩んでいる子供が多くいるので、貧困問題に直面しているのは発展圃場国だけではない。実際に子供食堂などを作り貧困に悩んでいる子供たちを救おうと行動している大人たちがいる。学生ならインターンや貧国に関するイベントを実施している、NGO(非政府組織)NPO(非営利組織)などで開催のお手伝いをすることも立派なボランティアとして活動することが出来るし、直接的な募金だけではなく、買い物の時に寄付につながる商品を買ったり、フェアトレードを選ぶなども間接的に援助になるため、多くの方法で支援することができる。寄付・募金する金額は少なくても、みんなで取組むことによって、金額が大きくなり、その分、支援団体ができる活動の幅も広がる。

例えばアフリカは、経済は発展しつつあり、初等教育の就学率も上がってきているものの、特にサハラ砂漠よりも南の国々(サブサハラ・アフリカ)では、未だに深刻な貧困状態が続いている。こういった過酷な現実を変えるためには、長期的視野に立ったきめ細やかな支援事業が必要で、その多くは寄付によって支えられている。

100円を募金するだけで子供たちを守るワクチンが買えたり、栄養治療食の提供や経口補水塩の提供ができる。

そして、貧困が及ぼす影響は、飢餓や栄養失調・感染症など様々あるが、健康被害にとどまらず「教育格差」「医療格差」「性差別」といった問題も生じていくことになる。

以上の理由で、貧国民を救うためには、私たち一人ひとりが貧困問題についてきちんと理解し、できることを考え高校生でもできる支援をするべきだと考える。そして、私たちが普段不自由なく学校に行き美味しいご飯を食べ、友達と遊んだりすることができる生活を当たり前だとは思わずに感謝して生きていくべきだろう。

・棚橋乃希      宮城県名取高等学校2学年 身体麻痺があっても働きやすい社会へ

取り残された人たちを救うために何をするべきか。僕は今、抗癌剤治療の副作用への不安をもつ癌患者さんに不安を減らし、どうフォローしていくかを探究している。その中でも抗癌剤治療などの副作用で身体麻痺やしびれによって会社への通勤が難しく、仕事をしに行きずらい人を救うためにもっと仕事のテレワーク、リモートワーク化、そして心のバリアフリー化を進めることがよいと考える。

なぜなら、つ身体麻痺がある人は身体をうまく動かしずらいからだ。例えば、身体麻痺の中でも右麻痺の人の場合だと歩行失行という歩き始めるときに床から足を離せなくなるなど歩けなくなる失行がある。他にも観念運動失行という意識しない時には問題なく行える簡単な動作や習慣的動作が、意図的にしようとしたり、他に人の真似をしようとするとできなくなる失行もある。このことから通勤がなかなか難しく、辛くなる。また、片麻痺の人の場合だと、麻痺している側の視野が欠ける視野欠損の症状が出て、ものが見えづらくなることがある。更に、左麻痺では対象物を認識できない失認という症状が出ることがある。失認では、左側にあるものを見落としてしまったり、左側にある障害物に気づかずにぶつかってしまうなど、左側が見えていても右側にしか注意が行かなくなる。このことから、失認があると通勤時左側から車や自転車などが来てるのに気付かずに危ない目に会う可能性も出てくる。

確かに、会社ではなく家で仕事をするので「自分以外の仕事の進捗が把握しづらい」というコミュニケーション上の課題。セキュリティ対策を万全にしないと、自宅や公共のネットワーク回線のセキュリティに不備がある場合、安全に社内ネットワークにアクセスできず、情報漏洩のリスクが高まったり、ウイルス感染やハッキングだけでなく、データの紛失、データの盗難などのリスクも考えらるという情報セキュリティの課題があり、なかなかテレワーク化、リモートワーク化が難しいという意見もある。また、まずまず身体麻痺を抱える人の通勤が大変で危険なら、周りの人が手助けをしたらいいのでは?という意見がある。

しかし、「自分以外の仕事の進捗が把握しづらい」というコミュニケーション上の問題については、必要な書類はクラウド上に保管して、常に共有、共同作業ができるようにし、情報共有やお互いの業務が見える化する仕組みづくりをする事で解決できる。情報漏洩やウイルス感染、ハッキング、データの紛失、データの盗難などのリスクがあるという課題については、VPN(仮想プライベート回線)を構築するなど、インターネット回線のセキュリティ確保や社員一人ひとりのリテラシーを高める教育をする事で解決できる。身体麻痺を抱える人の通勤が大変で危険なら、周りの人が手助けをしたらいいのでは?という意見に関しては、日本はまだ車両に乗るのに手を差し伸べるなどの心のバリアフリー化がまだ足りないので難しい。

以上の理由で、抗癌剤治療などの副作用で身体麻痺やしびれによって会社への通勤が難しく、仕事をしに行きずらい人を救うためにもっと仕事のテレワーク、リモートワーク化、そして心のバリアフリー化を進めることがよいと考える。

・安孫子凛音    宮城県名取高等学校2年  みんなは同じ人間です、同じ時を生きています。   

取り残された人たち(社会的弱者)を救うために何をするべきか。私は、肢体不自由者の方を救うために受け入る環境をつくることがよいと考える。

なぜなら、社会的弱者に当てはまらない人の肢体不自由者の方へ向ける視線が冷たいからだ。皆さんは体が思うように動かない、字が書けない、車椅子を利用しているといった人に出会って何を第1に考えますか。わたしは小さい頃肢体不自由者の方を見て、近付きたくないと思っていた。だが、大きくなるにつれてなんて酷いことを考えて過ごしていたのだろうかと反省の気持ちが込み上げてきた今の私は幼少期の自分に、「そんな酷い考えを今すぐ捨てるべきである」と伝えたい。今でも私の周りで「不潔」「汚い」と言った悲しい声が飛び交うことがある。

確かに、「自分とは違う」、「何を考えているかが分からない」、「怖い」と言う声を多く耳にする。私は普通に行動して生きていけるのにどうしてあの人は違うんだろうと疑問に思うこともあると思う。

しかし、どんな見た目でもどんな中身でも、1人の人間に変わりは無いのだ。私たちの周りで考えてみるとしよう。「Aくんはとても絵が上手だけどそれに比べてBくんの絵は汚い。」といった考えに違和感を持つだろうか。Aくんが上手に絵を描けるからと言ってBくんの絵を下げるような言い方をしているのは違うと思う。Bくんが上手に絵を描けなくてもそれはBくんの個性である。

私たち人間は1人1人個性があり、全く同じなんて人は居ないのだ。私の体が健康だからあなたも健康でしょう、という考えは違うだろう。健康な人がいるのであれば苦しんでいる人もいるという考え方を持つべきだ。肢体不自由者の方も1人の人間である。同じ人間では無いような言葉や視線を浴びせるのではなく、仲間として助け合うことが大切である。学びの場や公共の場で助けを求めていた場合を見て見ぬふりしていませんか。学びの場では一緒に考えたり、意見を聞いたりすること、公共の場では勇気を振り絞って声をかけてみるのもいいのかもしれない。誰1人欠けない社会を目指して、日々、お互いを受け入れて過ごしていくと笑顔が溢れるだろう。

仕事の場でも、社会的弱者ではない人の意見ばかり取り入れるのではなく、取り残されてしまった人たちの意見をきいてみてほしい。いつも考えていることが違った視点で見えてきたりするかもしれない。

以上の理由で、私は肢体不自由者の方を救うために、受け入れる環境をつくることがよいと考える。

・鈴木みずき    宮城県名取高等学校2学年 自信のない人を救う

取り残された人たちを救うために何をするべきか。私は、自分に自信がない人を救うためにその人が自分について、色々な視点から知ることが良いと考える。

なぜなら、自分一人の意見だけでは一般化できないからだ。自分では、「いい所なんてない。悪い所は沢山あるのに。」と、常にネガティブに考えてしまう人がいる。たまにならそこまで深い傷にはならないが、毎日のように積み重なっていけば、とても大きな傷となってしまう。一人の意見だけではそれだけが独立した形になるため絶対にしてはいけない事だと考える。それを踏まえた上で自分以外の人に意見を聞いてみると、自分だけでは分からなかったいい所や悪い所も沢山見えてくる。分かりやすく言うと、ここに食べたことも見たこともない食べ物があるとする。そこで友達が「この食べ物は今まで食べた中でいちばん美味しい!」と絶賛している。もう1人の友達は「普通くらいかな。」と答えた。実際食べてみると、とても美味しくなかった。このように、一人の意見では正確な評価ができない。もし自分だけの意見でこの世に広めたら、その食べ物の需要が低くなってしまったり、とても栄養が高いものなのに食べられずにいるなど、本当の評価をされなくなってしまうかもしれない。しっかり他の意見も取り入れ、意見が多ければ多いほど真実に近くなると私は考える。だから、色々な視点が必要なのだ。

また、色々な視点を知るためには、たくさんの人と関係を持つことができるからだ。誰かといることで話し相手になってくれる。孤立感がなくなる。少しのきっかけから、未知な世界を知ることもできる。自分には思ってもなかった意見を聞くことによって、また新しい技術を発展することが出来るかもしれない。人の考えによってはプラスになることもマイナスになることだってある。この恐怖心を超えてこその自信があると思う。この心情は学校では生ぶことが出来ない。いつ学ぶことが出来るのかはその人次第でかわる。人生で1度も経験をしない人もいるだろう。だからこそ、このチャンスを作るためにも知る行為は大切なのだ。こうして人間は関わりをたくさん持つことで学んでいき、この学んだ知識は自分にとって最強の武器となる。そして、その最強の武器はこの世にひとつしかなく、誰にも奪われることがない。ずっと自分の心の中に託されている。これこそが、自分の自信が湧いてくるのだ。

以上の理由で自分に自信がない人を救うためにその人が自分について、色々な視点から知ることが良いと考える。

・寺田美羽      宮城県名取高等学校2年  女性も働きやすい世界へ 

取り残された人達(社会的弱者)を救うにはどうしたら良いのだろうか。

私は働く女性を救うために女性を管理職へ起用するべきだと思う。

なぜなら、女性の雇用や抜擢を進めて職場に女性管理職が増えると組織が活性化するからだ。これは、人口減少が進むなか、より多くの女性に活躍してもらうことで労働力人口を確保することができ、企業や経済の発展、経済成長にも繋がるという考え方だ。人口減少が就業者減少につながり、経済成長の要素である労働投入が減少することで日本経済の悪化が懸念される。このような背景から、日本では女性が多く活躍することで就業者数を増やすことができると考える。また、女性を採用することは、優秀な人材に出会える確率も高くなり、企業の生産性向上にも繋がる。さらに、女性が働きたい環境を整えることは、様々な従業員が働きやすい環境を作ることでもあり、社内の多様性が増す。これを実行するには女性管理職が必要だと考える。そして、女性の非正規雇用が多い今は、男女の賃金の格差が男性33.7万女性25.6万で8.1万の差があるが女性を正規雇用することでこの差も埋めて行けると考える。女性管理職が少ない背景には、女性が活躍できる社会的環境が整っていないことがあげられる。 女性管理職を増やすには、女性が能力を発揮してキャリアを中断せずに働ける環境を整備し、管理職への昇進意欲を高めることが必要になる。

確かに、今まで男性で回してきたところに男性より体力や立場などが劣る女性を入れたら回転率が悪くなるかもしれない。企業の生産性向上に繋がらない可能性もある。

しかし、現代では男女平等が唱えられ、女性の産休、育休はもちろん、男性の育休も認められやすくなってきている。これで女性が健康な状態で仕事に望める確率が格段に上がった。自社の女性活躍に関する状況把握・課題分析課題解決にふさわしい数値目標と取り組みを盛り込んだ行動計画の策定・届出・周知・公表自社の女性の活躍に関する情報の公表をすることで女性が働きやすくなり生産性向上にも繋がる。また、上記の義務に加えて、女性活躍推進に関する取り組みの実施状況が優良な企業については、申請により、厚生労働大臣の認定を受けることができる制度も存在する。

以上の理由で私は働く女性を救うために女性を管理職へ起用することが良いと考える。

・掃部関柚海    宮城県名取高等学校2年  障がい者を救うために   

取り残された人達を救うために何をするべきか。私は、障がいのある人たちを救うためには差別や偏見を無くことが良いと考える。差別や偏見から思いよらぬ出来事が起きてしまってからでは遅い。事前に防ぐことが必要だ。

なぜなら、差別や偏見からいじめ等が起きるからだ。障がい者だから特別にしてあげるとか特別にしていいよとか他の人たちよりも過剰に接するところや、様々なことが劣っているのではないかと思ってしまっている。

確かに、障害者には健常者とは違うところが多々ある。急いでるときに車椅子の人がバスに乗ってくればイライラするし、英単語を覚えているときに知的障害の人に話し掛けられればキレたくもなる。それと同時に少し怖いと思う人もいるのではないか。それは当然の感情で、差別ではない、障がい者が健常者と同じように一人でやれと言われてもできないことがある。耳の不自由な方は当然耳が聞こえない。脚が不自由な方は脚を動かせない。だからといって障がいのある人をからかったり、指をさして笑ってみたり、イラズラしてみたりすることはしてないだろうか。嫌だと思っていてもはっきり言えないかもしれない。

しかし、私達と同じ人間であり、知的な障害を持つ方も身体に不自由を持つ方もなんの不自由も持たない方もみんな一緒。これらは外見でしか判断できない。嫌なこと、楽しいこと、悲しいこと、イライラすること、感情は私たちと同じじゃないか。超能力持つ人もいると思ってくれればいいことだ。障がい者の方のためにつくられた駐車場を利用してしまっている方はいないだろうか。その場所が何の目的でつくられたのか、そして、なぜあの場所につくられたのかをもう一度確かめておくことが大切だ。そこに健康な人達がとめてしまっていいのか。そんな人達がとめてしまうことによって、また障がい者の方の人権はうばわれてしまう。人権をうばってしまうことによってどれだけの人が困るのか、考えればわかるはずなのだ。そして、意識した行動をとれば、今困っている人も、その人の人権も守ることができるのだ。自分たちの勝手な行動や思い込みで障がい者達は傷ついているかもしれない。差別だと思えば差別だし、そうではないと思えばそうではない。私たちが気をつけるべきことは気をつかうのではなく、みんなと同じように接することです。変に気を使うと障害者の人も気持ちはあまりよくないはずだ。ならば、いっそのこと普通に接することだ。そうすれば障害者も気持ちは良いと思うし、特別な目で見ないことが重要である。もう一つは、笑顔でいること。誰だって嫌という顔はあまり良い印象ではない。もし、障害者で困っている人がいるなら笑顔で対処すべきだ。面倒臭いという顔をしながら相手を助けるのと笑顔で助けるのとは全然気持ちは違うのだ。だから、少しのことでも良いので障害者に明るい一歩を踏み出す勇気を分けあたえたい。実際に障がい者と触れ合ってみて、一人一人相手のことを思いやる気持ち、行動が差別や偏見を無くすことに繋がり、平和で平等な社会を築けることが出来ると思う。以上の理由から、障がい者を救うためには差別や偏見を無くすことが良いと考える。

・豊田遥那      宮城県名取高等学校2年  飢餓の人々を救うために 

取り残された人たち(社会的弱者)を救うために何をするべきか。

私は飢餓の人々を救うために、誰でも簡単に契約することが出来る畑を用意するべきだと考える。

なぜなら、誰でも使用することが出来る畑があれば、1つだけでも野菜を持っていたらその種からたくさんの野菜を育てることができ、食材に困ることが少なくなり飢餓になる人が減ってくるだろう。飢餓は、栄養不良や母子栄養不足による妊産婦のリスクが高まるなど命にかかわる問題だ。飢餓により命を落とす人々を一人でも多く救うためには、課題解決に取り組む方々や団体の存在が不可欠になっている。しかしながら、継続した活動をおこなうためには資金や人材がまだまだ足りていない。飢餓の主な原因として自然災害の地震、津波、洪水、干ばつなどが原因でなる。農作物や田畑が被害を受け、家や仕事などの生活基盤も失われるからだ。経済的にも物理的にも食糧を手に入れることができなくなり、人々の栄養状態が悪化してしまう。日本でも飢餓経験率は5.1%、つまりは全体の 20人に1人くらい。具体的な数値を見ると、2020時点の日本人口1億2,713万人に対して635万人が飢餓経験がある。つまり、東京半分の人口に当たる計算になる。したがって、誰でも使用出来る畑があれば自然災害により農作物や田畑が被害を受けて野菜を育てることが出来なくなっても、種さえあれば野菜を育てることが出来て食材に困らなくなると私は考えた。

確かに、たくさんの人々が使用するので自分が育てた野菜が盗まれたり、一緒に育てている人が間違えて自分の野菜を採ってしまったりすることも考えられる。さらに、自分が使用する場所がが狭くなってしまいスペースがなくなるかもしれない。

しかし、私が考えている畑を使用する際に名前登録をしてからしか使用することが出来なくなっていて、自分が使用するスペースが決められており、自分が使用するスペースの周りにはちょっとした柵が立てられているので間違えて他の人の野菜を採ることはなくなる。もし盗もうと考えている人がいるなら、その人は柵を乗り越えることになるので、周りで畑を使用してる人に目撃されるだろう。たとえ、畑のスペースが人々でいっぱいになって自分が作れないとなっても、予約制にして名前と電話番号を記入しておけばいつかは絶対に野菜を育てることが出来る。

以上の理由で、私は飢餓の人々を救うために誰でも簡単に契約することが出来る畑を用意するべきだと考える。

・阿部優斗      宮城県名取高等学校2年  仕事をできるのは普通じゃない

私は、寝たきりで仕事に就けない人達を救うために店舗などでVRを導入することがよいと考える。

なぜなら、現状だと寝たきりの人が正当な所得を得ることが難しからである。

現在、パソコンを使って家で仕事をすることは可能であるが、相当な知識であったり技術がないと所得を得ることが難しいと思う。だからこそVRを導入することで、スマホなどを使い、文字を打ったり定型文を選択することによって顧客との会話を成立させ、接客などの業務をこなすことで所得を得ることができる制度や仕組みを導入すべきである。

確かに、寝たきりの人の中には手足が動かせない人達がいてそのような人達は文字を打ったり定型文を選択することができないということや、そもそも国が寝たきりの人達に対しての補助金を上げれば働かなくても済む話だとか、寝たきりでも大変なのに働かせるのとか酷い、卑劣だという意見もあるかもしれない。

しかし、今では、目を動かすだけで文字が打てるという技術があるが文字を目で打つのは目が相当疲れてしまうのでその技術を応用することによって、寝たきりで手足が動かせない人でも定型文の選択ができるようになる。

実際問題、国からの補助金を上げることは難しく2021年は過去最高の税収だったのにも関わらず、日本経済は低迷している。また、2022年は2021年度の税収を上回る見込みと政府関係者が明らかにしていることから分かる通り、税収は年々上がっているが日本経済は低迷し続けたままであるため、国から寝たきりの人達に対しての補助金を上げることなど、無理に等しいと思う。

寝たきりの場合、家族であったり介護サービスを使って介護してもらうのがほとんどだと思う。家族にしても介護サービスしても経済的に困窮してしまう。例えば、夫婦で暮らしていて夫が寝たきりになってしまい介護することになったとしたら、家の外に働きに出てお金を稼ぐ暇があると思いますか?実際にはお金を稼ぐのは厳しいと思う。だからと言って補助金だけに頼っていてもギリギリ生活ができるかできないかだと思う。

だからこそ寝たきりの人でも働ける環境作りをし、補助金と所得の両面で経済的な困窮を無くしていくことが大切だと思う。

さらに、寝たきりの人にだけではなく、介護している家族にもVRで短時間の仕事をして貰えれば、経済的な困窮はほとんどなくなると思う。

以上の理由で寝たきりで仕事に就けない人達を救うために店舗などでVRを導入すべきであると考える。

・渡辺琉太      宮城県名取高等学校2年  優先席の優先順位

取り残された人たちを救うために何をするべきか。私は、本当に座りたい人達を救うために優先席の廃止をすることが良いと考える。優先席という名前が付いている限り、本当の意味で不自由な人にとって自由で優先されたものではないと思う。

第一に、優先席と普通の席が区別されている事で、不自由な人が座るのは優先席だから譲るのは優先席だけでいいという考えが生まれてしまう。座席を必要としている人がかえって普通の席に座りにくくなってしまうのだ。優先席だけに限られてしまった人達は、当たり前ながら優先席だけで足りるわけがなく、席を必要としている人達の中で「優先席の中での優先」が起きてしまう。座りたい人達が余ってしまい結果立つことになってしまうのは優先席が引き起こした不自由だと言える。

第二に、優先席はその名前が付いているが故に怪我や体調不良などの人は譲ってもらったり、わざわざ優先席に座ったりする程ではないと思って気を使ってしまう。自分では優先席に座るほどではないと思って、普通の席が空いていたら座るという人が多いと思う。その結果優先席が空いてしまう。これは本末転倒では無いか。

実際、優先席に座るべき人と普通の席を使うべき人との線引きは難しい。もちろん優先席に書いてあるような妊婦の方や内部障害の方、体の不自由な方などは優先席を利用してもらいたい。そして一見何も不自由なところがないような人は周りの目を気にしてしまうと思う。他者の目を気にしてしまうような状況になるなら座るのを躊躇うのは当然だ。だが、私は高齢者がいちばん難しいのではないかと思う。私は優先席や普通の席を高齢者が譲らせるという場面を見たことがある。足腰が不自由な場合がある中、譲らないことにもいかない。高齢者が優先席を占拠してしまった場合他の必要としている人が座れなくなってしまう。優先されるだけの高齢者ではないようにして欲しい。

当然、全部の席を普通の席にすることで座りたい人が座るためには、乗客の優しさ頼りになってしまうため、優先席がなければ譲られるまで座ることが出来ないという考えもあると思う。

しかし、譲られないと座れないくらい電車やバスが混んでいる状態はそう多くなく、そもそもとても混んでいる場合は座りたいと思っている人達は混んでいるタイミングにわざわざ利用しないと思う。すぐに出来ることでは無いかもしれないが、一人一人が譲る精神を持ち座席を必要としている人達が座れるようにすれば解決する。

以上の理由で本当に座りたい人を救うために優先席の廃止をすることが必要と考える。

・高沢莉菜      宮城県名取高等学校 2年 『精神障害者と向き合い共に暮らすためにできること』

『精神障害者と向き合い共に暮らすためにできること』

『取り残された人たち(社会的弱者)を救うために何をすべきか』このような問いに対して私は、精神障害者を差別から救うために、精神障害福祉に関する法律の具体化・教育者や学生を対象とする精神障害者差別廃止のためのセミナーの開催をするべきだと考える。なぜなら、精神障害者に対する法律の内容にあまり具体性がないことなどから、精神疾患・精神障害者に対しての学校内、職場などでの差別やいじめが起こる大きな要因となってしまっているのではないかと考えるからだ。しかし、精神保険に関する法律の具体化や、精神障害者に対する差別廃止のためのセミナーの開催と聞いてもあまりイメージが湧いてこないと思う人が大部分を占めるだろう。そのような原因が起こる要因として、精神障害者の人々たちに目を向け、向き合い物事を考えてこなかったからではないかと考える。障害を持った人と聞いても多くの人がイメージを持つのは、聴覚障害者や全盲のような人たちの事などではないだろうか。具体的にどのような人が精神障害者としての例を挙げられるのか分からないという人が大半いるだろう。精神障害とは主に、精神疾患のため精神機能の障害が生じ、日常生活や社会参加に困難をきたしている人のことを言う。このように社会的に浮き彫りとなった精神障害を持つ人々に対しての社会全体としての対応をこの問いを通して生きやすく、暮らしやすい世の中へと変える事のできる第一歩となればよいと私は思う。確かに精神障害者に関する法律である精神保健福祉法の内容の具体化をしても変わることは何もないのではないかと考える精神障害者もいるのかもしれない。しかし、今の法律の内容のままだと精神障害者の人たちにとって暮らしやすくこれまでぶつかってきた差別の壁をなくすことはできないのではないかと考える。法律の内容が大まかであることから学校内での例を挙げると、吃音症を患った患者さんなどを馬鹿にしたり、虐めたりなどという具体性のないものから、具体性のなさを逆手に取った苦しみを与えることに繋がるのではないかと考える。以上の理由から私は、精神障害者に対する法律の内容の具体化を社会的弱者を救うための解決策の一つとして挙げたいまた、先程もう一つの社会的弱者を救うための解決策の一つとして挙げた、教育者・学生を対象とする精神障害者差別廃止のためのセミナーの開催をするべきだと考えたきっかけは、ある日吃音症の人について取り上げた番組を観た時に吃音症患者の人が『普通の人たちと同じように接してほしい』と話していた事から、まだまだ社会的に理解が進んでいない事が多くあるのだと知り、まだ障害を持っているからという理由で健常者よりも何か劣っていることがある、できないから健常者よりも丁寧に接し付き合おうと考えている人が居るのが現状ななのだと考えさせられたことがきっかけとなり自分中でこの状況を変えたいと強く思ったからだ。確かに精神障害を持つ人々は健常者と比較した時にできないことが多少出てきてしまったり、手助けが必要な場面が多くあるため、健常者である私たちが気づいて行動しなければならないがそれが逆に精神疾患・精神障害者を持つ患者さんは一人一人について考えた時にそれがストレスと感じる人もいるのではないかという意見もあるだろう。しかし、私は、精神障害者について理解をもっと深めなければいけないのが教育の場だと思っている。なぜなら、精神障害者を対象とするいじめが起きてしまっているのが現状で、ニュースでもたまに扱われているのを見かけるからだ。それは教育者や学生にとってまだまだ理解が浅いからなのではないかと思った。セミナーを開催する事で実際に障害を持つ人々について親身になって考える事でより、日常生活を送る上での苦労などについて学び寄り添う心が生まれるのではないかと思ったからだ。そうして一人一人の精神疾患・精神障害者を持つ人々についての社会的理解が深まればより良い未来はすぐにでも実現することが可能となるだろう。一人でも多くの患者にとって、生きやすい、暮らしやすいと感じる世の中へとするために、私は、社会的弱者を救うために、精神疾患・精神障害者の差別を救うために、法律の具体化や教育者・学生を対象とする精神障害者差別廃止のためのセミナーの開催をするべきだと考える。

・南部遥香      宮城県名取高等学校 2年 いじめや虐待を受ける人を取り残さないために

あなたはいじめや虐待を受けたり、受けたのを聞いたりしたことはありますか。そもそも、どこからがいじめや虐待に入るかわからない人もいるでしょう。私は、いじめによって自殺する人や虐待によって殺される人をニュースで聞いて、「どうしてこんなことが起こってしまうのか。周りの人は何をしてたのか。」と辛く思う。なぜ同じ人間を傷つけたり、自分の子供を守らないで暴力をしたりするのだろう。いじめや虐待をしている人は自覚がないのだろうと思った。また、そのような人の中には自分もいじめや虐待を受けたことがある人がいるのではないかと思う。いじめ自殺や虐待死は年々増えている。

そこで、私はいじめや虐待を受ける子供を取り残さないために、いじめや虐待を受ける人もする人にも直接話を聞くべきだと思った。なぜなら、どちらからも直接話を聞くことで、いじめや虐待をする原因なども分かり、解決できると思ったからだ。私は、いじめや虐待は加害者に何か問題があって起きると思った。加害者は周りの人に知られたら怒られたり、逮捕されたりすると思い誰にも話さないでいると思う。だから、被害者だけでなく、加害者も相談できるようにし、問題を解決すれば被害を受ける人も減ると思う。二つ目の理由として、アンケートだけでは聞けない情報も聞けると思ったからだ。確かに、アンケートをすればすぐ終わり、手間を省くことができる。しかし、アンケートだと、本人の本当の気持ちを聞くことができないと思った。私は、小学生の時に軽いいじめを受けた。当時の私はいじめアンケートで、いじめを受けたと答えた。すると、先生に呼ばれて「誰にされたか」などたくさんの質問をされた。正直、私は先生を信頼していないので、何も答えなかった。「いじめは受けてない、間違えて書いた」と言い、その場を去った。このように、私のような人は他にもいるのではないかと思った。

いじめ防止委員会やいじめのアンケートなど、いじめを止める活動がたくさんある。しかし、虐待を止める活動は少ない。親と先生が話す機会があるが、虐待をしてたとしても正直に話したり、直接聞いたりする人はいない。だから、私は虐待を防止するための活動ももっとするべきだと思う。

以上の理由で、いじめや虐待を受ける子供を救うために、いじめや虐待を受ける人もする人にも直接話を聞くべきだ。私は、いじめや虐待が全く無く、楽しく、生きやすい世界、そして子供が平和に成長していくことを心から願う。

・日下凜        宮城県名取高等学校2年  過重労働を軽減していくには

現在、世の中には過重労働者や長時間労働者に当てはまる人はどれほどいるだろうか。過重労働者の現状は、年々減少してきている。それでも、他国と比べると日本は労働時間が長く課題が多いとされている。私は、そんな過重労働者を救うため、より軽減していくには、会社などの勤め先での意識改善・環境作り、仕事の効率化を図るべきだと考える。

仕事場での疲労が溜まっていくと、十分な休養ができる時間の確保が大事になる。過重労働者の中での主な原因は、長時間労働となっている。その原因を改善していくために今までの仕事の働き方の常識を捨て、仕事を効率化し、より多くの時間を確保する必要がある。

仕事を効率化をしていくには、人間でなくても出来る仕事は機械に任せるべきだろう。機械に仕事任せることで、職場で働いている人は別の仕事に手を回したり、休憩を取れるようになるだろう。しかし、このような時間確保のための環境作りは、コストが多くかかる。それに、機械のプログラミングなどや職場に導入するためには多くの時間がかかっていくと考える。

今までは、過重労働・長時間労働を軽減するために法や規則などを定めて、実際に軽減したことは確かだろう。しかし、より休養可能な時間を作るためには、仕事場での休みやすい環境作りや意識改善をしていくことが重要だ。1980年代には2100時間ほどあった平均年間総実労働時間数は、1990年代には1900時間を下回るようになり、2019年には1669時間まで減った。これは、厚生労働省が調査したものだ。働き方改善などで長時間労働を軽減させていくことが出来たが他国と比べると日本にはまだまだ課題が多く、労働時間は世界的に見ても日本はまだまだ上位である。

今までのように法や規則を定めて長時間労働を軽減することにも限界がある。ゆえに、職場の中での雰囲気や環境が休養をとることや残業を減らしていくのに十分な影響を与えると考える。女性でも男性でも上司でも誰でもが休みやすい環境は少ないと思う。職場の中での全体の意識が変われば、無理をして働き続けることが減少していくだろう。このように減少傾向が見られれば、過重労働が原因で自殺をする人や過労死などでなくなってしまう人が減少していくと考えられる。

このように私は、過重労働者を少しでも軽減させていくためには仕事の効率化を図ることや会社などの全体の意識改善・環境作りが鍵となってくる考える。

・根元ひなの    宮城県名取高等学校 2学年       貧困女子の現状から。   

皆さんは、女性が社会でどのように生きているのか考えたことはありますか?取り残された人たち(社会的弱者)を救うために何をするべきか。私は、貧困女子を救うために女性に働きやすい社会を作ることが良いと考える。

なぜなら、女性の職業率が低いからだ。日本の社会は他の国に比べると女性にとって働きづらい。「働く女性にとって有利な先進国ランキング」では、日本はワースト2位となっているほどだ。他に働きづらいものとして、女性の半分以上が非正規雇用として働いていることだ。非正規雇用者は正規雇用者のような十分な給与を稼ぐことができない。そして男性に比べ、女性の方が給与が少ないことがあげられる。実際、非正規雇用者として働いていた多くの女性が、このコロナ禍で休業や失業を強いられた。これらのことから、女性の就業率が低いこと、女性にとって働きづらい社会であることが分かる。たしかに、働きづらいのは女性だけではない。仕事を簡単にやめなければいいと言う意見もあるだろう。しかし、結婚した場合出産や子育てがあることで職場からの離脱、あるいは離職してしまうこともある。もし離職しまった場合、再就職は難しくなってしまう。他にも女性に対して、まだ差別的な扱いがあることがある。

また、他の意見として夜の仕事をしなければならないことだ。先程あげたように女性の半分以上が非正規雇用として働いている。非正規雇用として働いていると十分にお金が稼げないため、時給の高い夜の仕事をする女性もいる。したくなくても、お金のために夜の仕事をせざるを得ないのである。そして、女性の中でも特に夜の仕事に進んで行ってしまうのが若い世代の女性たち(学生の女性たち)である。周りからの目、親が反対する仕事をすることに複雑な気持ちを抱いて仕事をしている。それなら普通にアルバイトをすればいいのではないか、と言う意見もたしかにあるだろう。しかし、アルバイト先が廃業や休業になってしまったことで、学費が払えないこと、生活費が苦しいこと。昼の仕事と両立しやすいことから、お金が必要な若い世代の女性たちが泣く泣く夜の仕事をせざるを得ないということが起こっている。実際、「夜のハローワーク」という場所を訪れる学生が後を絶たないという。そしてこの現実、新型コロナの拡大による影響でアルバイトの収入が減少したことで経済的不安を感じている人が多い。

以上の理由で、貧困女子を救うために女性に働きやすい社会を作ることがよいと考える。

・木村茉耶      宮城県名取高等学校 2年生       身体障がい者が快適に生活を送るために

「取り残された人たち(社会的弱者)を救うために何をするべきか」という問いに対して、私は身体障がい者を救うために、積極的にバリアフリーの設置・心のバリアフリーの取り組みをするべきだ。

なぜなら、公共施設、交通機関を利用する際に不便と感じる人がいるからだ。例えば、どこにでもある歩道も実は問題点がある。健常者といった、いわゆる障がいを持っていない人からすると何気ないただの歩道にしか感じない。しかし、身体障がい者からすると不便なところが多々ある。それは歩道のアップダウン、段差、幅などである。他にも電車を利用する際、車椅子を使用する人であれば、改札口が狭くてスムーズに通れない、切符を購入する時に自動券売機が高くて操作しにくいなどがある。これらの問題を解決するために、1部の地域では取り組んでいるところがあるが、全ての地域ではまだ行われてはいない。たしかに身体障がい者が使いやすいように全ての自治体でバリアフリー化を行えば良いのかもしれない。しかし、1つのバリアフリーを設置するだけでも何十万とかかるため、全ての自治体で行うとなると多額の費用がかかってしまう。今現在、全ての自治体ではバリアフリーを設置することは困難ではあるが、徐々にバリアフリーへの意識を高めていき、バリアフリー化の設置を積極的に行うことができればいいと考える。

また、身体障がい者に対して偏見や差別といった問題もある。普段生活していて差別や偏見を感じる時がある身体障がい者の割合は約6割である。この問題を解決するために取り組みとして、2016年の4月に障害者差別解消法が施行された。そして、心のバリアフリーの取り組みもある。心のバリアフリーとは、様々な心身の特性や考え方を持つ全ての人々が、相互に理解を深めようとコミュニケーションをとり、支え合うことである。そのため、コミュニケーションをとることが最も重要となる。身体障がい者のサポートの必要基準はさまざまであるため、なんでもサポートしてしまうと身体障がい者ができる範囲までも奪ってしまい、逆に不快にさせてしまう可能性がある。手助けしようとして声掛けて断れたらどうしようと思うかもしれない。しかし、手助けしようとしたという気持ちがあるだけで全然いいことである。声掛けて困っていないなら良かったと思えればいいことであり、本当に手助けが必要な人がいたら手助けしてあげればいいと考える。

以上のことから、さまざまな問題や課題があるが、それを徐々に改善していき、身体障がい者を救うために、積極的にバリアフリーの設置・心のバリアフリーの取り組みをすることがよいと考える。

・高島美結      玉川大学2年    男女差別       

SDGSの基本理念「誰ひとり取り残さない」という視点から男女差別をなくすべきだと思います。

日本では、男性は働きに出て、女性は家事をするという生まれつき分担をしているから改善していくべきだと思います。「男性は働き、女性は家事をする」という性別分業は、どの国でも共通というわけでもなく、太古の昔からずっとそうしてきた伝統でもありません。

日本人の半分以上が農業に関わっていた時代は、農家の女性は家事だけをやっていたわけではなく、男性も女性も農家の仕事をしていました。日本の多くの女性が専業主婦になったのは、1950年の戦後からです。性別分業は、会社や工場に出かけて仕事をする働き方と連動して生まれました。現在でも性別分業が強いのは、男性が働くメリットがあるからです。それは、男性の方が家事をする時間もなく朝から夜の長い時間働くことができるからです。また、男性は、残業をしないと部署が上がらないことや、育児休暇を取ったら仕事に復帰しづらいことがあり、仕事の長期休暇を取りづらく家事をする時間がなくてしていません。一方女性の方は、育児や家事をするため朝から夜遅くまでは、働けないと仕事も限られてしまいます。そのため、結婚しない人が増えていることが現状です。

そこで私は、男女の違いを巡る思い込みをなくすべきだと思います。「男なんだから泣くな」とか「女子は理系に向いてない」とか「男なんだから4年生の大学に行きなさい」のような思い込みです。あと、女性は可愛らしくいるという固定概念があり、女性のアスリートが少なくなっています。私も大学の部活をやっているアスリートですが、一生懸命にスポーツをすることは良いことだと思います。また、実際のデータから「子供が家の手伝いをする」割合は10歳から12歳の女の子と男の子では、女の子が72%、男の子が33%と圧倒的に女の子の方が手伝いをする割合が多いことが分かっています。

このような生まれてきた性別で、できること、できないことを決めつけるのではなく、家事は男性も女性も協力して一緒に行うべきだと思います。だから、男性だけが働く社会ではなく、女性も働きやすい社会を作るべきだと思いました。もともと日本が農業をやっていた時代は、男女問わずに仕事をしていたので、新しい世代でも性別分業をなくしていけるように努めていき、家事は男性もやるようにするなどの一人一人の行動を変えていくように努めていくべきだと思いました。

・鈴木野乃花    玉川大学3年    取り残してしまったからわかること       

2011年3月11日、14時46分、三陸沖の宮崎県可牡鹿半島の東南東130㎞付近で、深さ約24㎞を震源とする地震が発生しました。この地震の規模は日本観測史上最大のマグニチュード9.0を観測。東日本大震災が起こった当時、私は小学校3年生で5時間目の授業を受けているところでした。強い地震が来る直前に教室の電気がパっと消え、そこから机やいすが激しく揺れるほどの地震に見舞われました。先生の支持に従い机の下に潜り揺れが収まるのを泣きながら待っていたのを強く覚えています。学校では家族のお迎えを友達と待っていて、電気は使えず詳しい状況を知るのはだいぶ後のことだったと思います。震源地付近の県では、私が暮らしていた神奈川県よりも、大きな揺れと津波、火事など様々な2次災害も起きていることをテレビの画面越しで知りました。私の祖母は画面越しで見た光景に近い福島県にいました。幸い地震による被害はそこまで大きくなく、親戚たちは無事でした。しかし、その後、福島第一原子力発電所の事故が起こったのです。福島第一原子力発電所の爆発により、放射能が放出され、福島県民は被爆者というレッテルを貼られたという記事や、被爆者である福島県の車のナンバーで出かけると嫌がらせをされるなどといった、福島県民の声を耳にしたことがあります。その事故の影響で福島県の人たちは他県の人たちから取り残されてしまったのかなと今、感じています。当時の私は、福島第一原子力発電所や放射能、被爆と言った言葉には無知でどれほど大きな問題にあるのかわかりませんでした。しかし、今回のコンテストを機会に当時のことを調べてみると、福島県の小学校では子供たちの健康状態を管理するために、体内に取り込まれた放射能の数値を図っていたり、福島県産の食べ物の放射濃度を測定したりと、十分気を配り、気を付けていたことが分かりました。実際に、祖母や叔父は野菜やお米などを日頃から送ってくれていました。、しかし、「日本大震災後は少し送るのに抵抗はあった。嫌に思うのではないか。でも検査をして大丈夫なものしか送っていない」と言っていたことを父から聞くことができました。このことから、私は「誰ひとり取り残さない」というテーマに沿って考えてみると、祖母や叔父、いとこ、福島県民は他県の人たちに取り残されてしまい、私は取り残してしまった側であることに気が付きました。「誰ひとり取り残さない」ということを実現するためには、福島で行っていた対策などのように、正しい知識や情報を得るべきだと思います。そして、取り残してしまったと感じた今の私は、当事者の気持ちを考えることが大切ではないかと実感しました。

・酒井愛波      宮城県名取高等学校2年  食べ物に困らない未来を 

取り残された人を救うため・に何をするべきか。私は、食糧に困っている人を救うために、食品ロスになってしまう物を使って食べ物を提供することが良いと考える。

なぜなら,食糧に困っている人は、世界中に存在しているからだ。世界で、地球温暖化が問題視されており、最近では、パキスタンで今まで生活してきた地域が浸水し、生活が苦しくなってしまっている。また、世界中で多くの災害が起き、生活が安定しなくなってきている。地球上には、約77億人が生活しているが、発展途上国を中心に、8億人以上(約9人に1人)が、十分な量の食べ物を口にできず、栄養不足で苦しんでいる。これからさらに災害が起きてしまうと、食糧に困る人がさらに増えてしまう。災害が、これ以上増えないようにするためにも、食品ロスを減らす必要がある。食品ロスを減らすことで、二酸化炭素の排出を削減でき、焼却後の埋め立ても削減することができる。

また、食品ロスにになってしまう食べ物も多くあるからだ。食糧に困っている人に、食品ロスになったものを使い食べ物を提供することで食品ロスの削減にもなり、食糧に困っている人のためになる。日本では、1年間で食品ロスになってしまう食べ物が約612万トンある。世界では、1年間で13億トンの食べ物が廃棄されている。国民1人あたり、毎日お茶碗一杯分の食料を捨てていることになる。世界では、食料生産量の3分の1が毎年廃棄されている。

たしかに、日本のように子ども食堂のような施設を設置すれば良いという考えもある。

しかし、子ども食堂のような施設を設置するためには,お金がかかってしまう。また、運営していくためにもお金がかかってしまう。そのため、施設を設置するのではなく、臨時的に行うことのできるように、テントを立てて行うような形にして、食事を提供することで、施設を設置した場合にかかるお金を節約することができる。そのため,多くの地域で行うことができる。

しかし、日本には子ども食堂が設置されているところがあるので、食糧に困っている人は利用して欲しい。現在、食糧に困っているが、子ども食堂について知らない人も少なからずいると思う。その人達に知ってもらうために、学校にチラシやポスターを配ると良いと思う。まずは、存在を知ってもらうことが大切だ。ここ数年は、新型コロナウイルスによって、生活環境が変わり、生活が苦しくなってしまう人が日本でも多くなってきている。生活がいつ苦しくなってもおかしくない今の社会、生活が苦しくなってしまった時のためにも、子ども食堂の存在を知ってもらうことは、大切だ。

以上の理由で、食糧に困っている人を救うために、食品ロスになってしまった食べ物を使って食べ物を提供することが良いと考える。

・清原胡太郎    梅光学院大学    「平等に受ける教育」   

SDGsの基本理念は「誰ひとり取り残さない」である。誰ひとり取り残さないと言うことで4の質の高い教育をみんなに着目した。本当に質の高い教育を日本の子供たちは受けているのかと疑問が出た。調べてみると日本には21万人の子どもが学校に行けていない。その理由を考えてみたところ二つあった。

一つ目は経済的問題である。日本は義務教育制度があり、日本で生まれた子どもは等しく教育を受ける権利があり、親権者は子どもに中学まで義務教育を受けさせる義務がある。しかし、経済的に困窮していて学校に通わせることができないにつながる。教科書図書購入費、学校給食費など多くの経費があり、保護者の経済的負担能力が変わってくる。そして貧困は連鎖するためどんどんと学校に通えなくなる子どもたちが出てきてしまう。

二つ目にいじめによる不登校や引きこもりが急増し平等に教育を受けることができないと言うことである。特に新型コロナウイルスで不登校や引きこもりが急増したと言われている。突然の休校で生活習慣が崩れた子どもたちが多く、学校が始まっからの生活に慣れずに引きこもりする子どもや学校になじめず孤独になってしまい学校に行かなくなってしまう現象が増えてしまった。このような現状があるのにも関わらず質の高い教育を受けることができるのであろうか、また今問題のウクライナとロシアの戦争で避難してきた人たちの教育対応が遅れている気がする。だからこそ、私は誰ひとり取り残さないように平等な教育を受けれることができるのか疑問が出てきた。

学校に行く人だけが質の高い教育を受けれるのか、それは違う。皆が同じ教育を受けれる必要がある。学校に行けない人や言葉が通じない人たちにも、質の高い教育を受ける権利がある。

私がこう言う事を感じている人は私以外にも多くいるかもしれない。疑問に思ったり提示するだけでは意味がないと感じた。自分ができる事を少し考えてみた。

私はすべての人が義務教育を平等に受けれるようにしたいと考えた。そのため大学の講義を有効活用していきたいと考えた。日本と諸外国と比較し外国の人でも受けれるようにするため多くのことを学んでいった。ここで取り上げるのはアジア諸国の国を取り上げたい。その理由として、お仕事で日本に移住や留学などで日本に来る外国の方が増えている。コンビニでも深夜になると外国の人が働いているなど注目ができる。

アジアの中で教育の仕方が伸びている国がシンガポールである。PISA調査では上の方を保っている。シンガポールの独自の計算法、「バー・モデル」と言った算数の授業文章問題で視覚できるようにする教育が行われている。日本で言う線分図のようなものである。日本の数学は式に表し計算しようとする。しかし、シンガポールでは図に表すことで流れをつかみ思考の整理を目的としている。図の制度を上げることで式の確認にも使え信頼度の向上にもつながる。このように外国の教育は日本に似ている部分がある。しかし、文化や進め方などが違うため混乱が生じる可能性がある。そして第一の壁である言語の壁があるため日本語の授業に追いつくことができない。そう言った人たちが取り残されないようにする必要がある。

不登校の人など参加できるオンライン授業や母国語に訳して授業を聞けるようにするなどできる事がある。しかし、そのような授業では淡々と進められ、子どもたちの想像力やコミュニケーション能力がかけてしまう。学校現場では多くの児童がおり、様々な情報を交換できる場があるため、自分の意見だけではなく違う意見を取り入れることで多くの学びを得る。私ができる事は学校に来れない人、外国の方など文化が違う人への対応を力に入れたいと考える。普段から授業を動画を撮影して、その動画を見ながら授業や説明をすることや色々は外国の教育を取り入れその子にあった教育方法を見つけ出すことも取り残さないと言う部分に繋がってくると感じている。

・小倉光花理    梅光学院大学 2年      世界に平等な教育を     

私は将来、小学校の教員になって子ども達の成長に携わりたいという夢があります。なので、現在は大学で教員になるための勉強をして、教員免許の取得と教員採用試験合格のために日々がんばっています。そのため、大学の講義で子どもの教育や成長について考えたり、実際に学校現場に行って子ども達の成長に関わらせていただく機会が多くあります。子ども達と関わるなかで私は、子どもにとって良い教育とは何か?もし教員になったとき私なら子ども達にどんなサポートをしてあげることが出来るのか?と考えるようになりました。そこで、教員になる立場として私は現代の日本や世界の教育の現状や課題について知っておかなければならないと思いました。

私が履修している大学の授業の一つに、「比較教育学」というものがあります。この授業では、世界と日本の教育を比較することで、教育の現状や課題を知ることが出来ます。私はこの授業をとおして、東南アジアを中心とした発展途上国や、現在もロシアによる軍事侵攻に苦しんでいるウクライナなど、深刻な問題を抱えている国々の教育について考える機会がありました。例えば、東南アジアにあるカンボジアでは、内戦直後に比べて教員の数が増えており、少しずつですが改善しつつあります。しかし、終戦から年月がたった現在でもまだまだ多くの問題を抱えています。カンボジアの子ども達は、教員の質が悪かったり、設備などの教育環境が整っていないことが原因で充実した教育を受けることが出来ていないのが現状です。なので今もなお、多くの国から支援団体がボランティアに訪れたり、教材を寄付するなどの教育支援を受けています。また、就学率を日本と比較すると、日本の小学校の就学率は99.9%と世界でも1位であり、高校の進学率も97%を超えているのに対して、カンボジアの初等教育は日本と同じように就学率は90%以上と高いのに、最終学年まで残っている児童の数は半数にも満たしていません。さらに、中等教育を受ける子ども達は男女ともに5割未満で卒業率は34%ほどで、さらに低くなっています。この理由の一つとして、経済的事情で学校に通えない子どもがたくさんいることが考えられます。子どもの貧困問題は教育にも大きな影響与え、教育格差が生まれます。

また、カンボジアの教育事情以外にも問題とされているのが、ロシアとの紛争により日本に避難してきたウクライナの子ども達の学びをどのように支援していくかということです。ロシアの軍事侵攻が激化するなか、ウクライナから日本に避難してきた子どもの数は増えており、5月時点で200名もいるそうです。その子ども達のほとんどが、すでに日本の小学校や中学校に通っていたり、受け入れてもらえる学校を探しているという状況にあります。日本の小学校や中学校に通っているウクライナの子ども達は、知らない土地で知らない言葉を話す人に囲まれて学校生活をおくらなければなりません。また、日本語が分からないので、授業内容を理解するのは困難です。日本に避難してきた子ども達のなかには、日本語の勉強と日本の学校での授業と母国のオンライン授業の3つを掛け持ちしている子もいます。気を休める暇もなく、遊んだり、好きなことをして過ごす時間はほとんどありません。自分が望んだわけでもないのに、住み慣れない国で暮らさなければならないのは、誰にも悩みを相談できずとても辛いことです。なので、子どもだけではなく、一緒に避難してきた家族にも、ストレスを発散でき、悩みを打ち明けられる環境を作る必要があると私は考えます。

このように、世界にはカンボジアやウクライナの子ども達のように、安心で充実した教育を受けることが出来ない子どもがたくさんいます。世界だけではなく、日本でも解決できていない教育問題はたくさんあります。なので、それらの問題や課題を少しでもなくしていくのが、子どもの教育に一番近くで関わることの出来る教員の役割だと思います。実際に京都の大学ではウクライナ語で学ぶことの出来る学習動画を作成するという取り組みが行われているそうです。

私はまだ学生なので、教員としてのサポートをすることは出来ません。ですが、教員になったとき、子ども一人ひとりの気持ちに寄り添うことの出来る教員になりたいです。

また、子ども達の学びの場を奪うのではなく、良い方向へと変えていこうとする人々がこれから世界に増えていってくれれば良いなと願っています。

・匿名    玉川大学        私たちが普段きるもの   

私たちが普段着るものが、持続可能であるかという事は考えたことはあるか。私は、アパレル業界でのファストファッション及び、低価格で提案されている洋服についての生産段階における労働環境の悪化と、一部の消費者も、低価格で提案されるが故に起こる皮膚トラブルについて今回は取り上げていきたいと思う。

まず、アパレル業界におけるファストファッションの生産段階における労働環境問題である。先進諸国で消費される衣料品が発展途上国で生産されていることは、生産コストの削減のためであることは言うまでもない。大量消費大量生産のファストファッションが世界的に流行した際に、生産工場は人件費が安い地に建てられることとなる。このような中、2013年に起きた「ラナ・プラザ崩壊事故」は記憶に新しいものであると考える。この事件で、ファストファッションの業務委託の際の経営業態から非難の目にさらされた。この事故で、死者1127人、行方不明者約500名、負傷者2500人が犠牲となった。調査が進むにつれ、グローバル展開がなされているファッションブランドらが、こぞって労働者を低賃金で劣悪な環境で働かせることをよしとしていた。また、労働組合の結成も、認められず、労働において、時間と労力、および人権が搾取されていたという事実が報告されている。

生産段階における劣悪な労働環境の実態を知り、私は先進諸国の消費者が求めれば求めるほど、代償が命に関わるようなブランドの洋服をたくさん持つこと、着ることがとてもみすぼらしく、なんとも言えない気持ちになった。同い年の女性も働いていたと考えると恐ろしくなったからだ。

ただ、先進諸国でも消費者が求めているものを在庫十分にし、常に求めることができる環境に置かれていても問題が起こる。今現在の季節は冬であり、温かいインナーとして有名な吸湿機能が備わっている化学繊維のインナーは必須なものとなっているだろう。

私は、このインナーにおいて肌荒れを起こしたのだ。皆さんが考える温かいインナーは、100%化学繊維でできており、汗を吸収し、蒸発段階で発熱をさせ体感温度を保つというものである。乾燥肌の私は、冬に乾燥に重ね、汗よりも普段の水分量を吸収されることにより、皮膚機能が平常ではなくなってしまうのだ。それにより、肌荒れ及びそのインナーの名前の病名があるくらいだ。また、アトピー性皮膚炎持ちの方や化学繊維アレルギーの方はこのようなインナーは着ることが難しく、天然繊維が半分を占める割合のインナーでないと着ることがむずかしい。このように、消費者が絶対的に求めていると企業は考えているが、一部の人間は着ることさえむずかしい場合もあるのだ。

このように、企業の戦略として少数意見である意見も取り入れる姿勢でないと持続可能性が持つことができるのが難しいと考える。値段と消費数、求めやすさばかりを追求するのではなく、少数意見がみえる提案も期待をしている。

・森田宇泰      梅光学院大学 2年      異国での学習はどのような気持ちなのか 。

もしもあなたが「知らない土地に引っ越し学習することになったら」どのような気持ちになるだろうか?また、どのような困難を迎えるのだろうか?

私は小学校教員を目指し学んでいる学生だ。そのため学内外に問わず、児童教育に関して知見を深めるため活動をしている。先日、大学内の講義にて私が深く考えるべきであると考えた題材があった。それは、「外国人児童生徒に対する教育支援」についてだ。現在、日本の教育現場では外国人児童の増加や教育が大きな課題の1つとして取り上げられている。令和4年10月18日に文部科学省から発表された。「日本語指導が必要な児童生徒の受け入れ状況等に関する調査(令和3年度)」では、日本国籍と外国籍の児童生徒を含め、58,307人であった。この数値は、前回調査である平成30年の51,126人より、7,181人の増加が見られる。この生徒数の推移は、現在も上昇傾向にあるが、この先も上昇傾向にあると考えられる。そのため、総合学習の時間や、特別活動、各教科の授業において、文化の理解と尊重を意識して指導を行っていくことがこれまで以上に求められる。

私は、初めに問いかけた質問に対し、突然に母国語や文化が全く異なる環境に住むことになり、教育を受け学校生活を行っていくことになる。旅行のような気楽な気持ちでその国へ行くことと訳が違うのだ。そこでは、生活の面でも、慣れ親しんだ環境ではなく、文化の違いから常識が異なる。このような環境の急激の変化は、尋常でないストレスがかかるはず。また、周囲で何が起こるのか、異国から来た私の行動を周囲の人間はどのように見て何を思っているのか。という重い緊張感を感じる。と想像した。おそらくではあるが、外国人の児童生徒の多くが私の想像したような感情を持って学校生活や日常生活を送っていると考えられる。

さて、そのような児童生徒にはどのような支援が必要になるだろうか?初めに、学校現場へ触れる。一般的な考えとして、国際教室や日本語指導教室を担任や指導担当の先生が指導して、いち早く日本での生活に慣れてもらうことが上がるだろう。しかし私は、外国人児童への支援以前に、次の学級の中の空気感を作るべきと考える。他人の違いを個性として受け入れ、その違いを生かせる環境を生かしながら、お互いに支えあっていけるものにすることができる学級。これは、「気になる行動や勉強に難を抱える児童生徒」に対して行えることと同じである。この空間の中では、外国人児童の言語や文化は、気になること、ではなく「個性」として受け入れられ、その文化が生かせる空間が作られ、外国人児童は、ストレスや緊張感を感じることがなく心を開くことができ、自己有用感を持つことができる。

次に、地域社会での日常生活について触れる。現在の日本の制度では、外国人が住みにくい環境にいる。賃貸契約などに関して、日本の保証人が必要なところがある。携帯電話などの通信機器も条件付きの契約になる。税金を免除・減免する制度があるのに案内されない。など、生活することに多くの難点がある。私は、移民児童生徒の学業の継続のため、日本の制度などの紹介や、ある程度の生活ができるようになるまで、地域や学校で協力ができる環境を整えることが生活面での安心感を与えることができると考える。また、学内の活動の中で、町案内などを催すことで、周囲の環境に対しての恐怖心なども緩和されると考える。

子どもは、この先の未来を創造する原石である。その子どもが生活する場所が異国であれどんな場所であれ、自らの力を発揮することができ、未来を前向きに思い描くことができなければならないと私は考える。私は、学生生活の中で外国人児童生徒の支援に関して、学校生活、日常生活の中でできることを考察し、実施できるように思考していく。

この先の未来で、さらに増加していくであろう外国人児童生徒を誰ひとり取り残さない場を整えることができるのは、今の大人であり、そのことを学べる私たちである。

・廣木幹彩      玉川大学3年    誰ひとり取り残さない社会構造と思想

「誰ひとり取り残さない」という視点から考えるにあたって、まず、どのような人や状況が「取り残される」という見られ方をし、また、どのようにしてそのような判断に到るかということから考えていく必要がある。そこを突き詰めていく過程には、「取り残される人」とは、意思があることに対して行動を起こせない人のこと指すということが共通点の一つとして挙げられると私は考える。例えば、LGBTQに関連する問題としても、外見やバイアスだけで判断してしまったりすることで、悪いことをしていなくても、意思を持っている当事者が困惑してしまうような事態になってしまうことがある。当事者の意思が通らず、他者から意思にそぐわない認知をされてしまうことから、「取り残される」というような感覚が生まれてくる。これらのような問題がメディアなどにも露出していることが多いと思われる。ここで、より踏み込んでいくと、このような「取り残される人」という中でも、突き詰めていった先に本当にあるものとして、そもそも意思を持つことができなくなる、また持ちづらい環境にいる人が挙げられてくると私は考える。それは、子どものころからの家庭環境、周りの人たちからの極端な理不尽などから、自分自身のアイデンティティすらわからなくなり、意思を持てずにいる人などを指すと考える。親からの抑圧的な教育などによって、早い段階で意思を持てなくなってしまう人、また、周りの人からの非難や否定などから持っていた意思の消滅をしてしまう人、様々な段階やタイミングがあると察する。このような人に対して、どのように接し、どう対処していくことが解決策として挙げられるのかを考えると、まず個人の接し方や考え方の改めから必要になると考える。まず人をパターン化することをできるだけなくし、人を個人として尊重するという考え方を持つことが求められる。しかし、そのような豊かな考え方を持つには、それなりの教育、環境づくりが必要となる。そのために、まず最低限度の日常生活を送れるだけの環境整備が一つ目の根本として必要となる。それが足らない人などに対して、積極的に気づくためにも、各自治体や役所、または警察などによる、定期的な家庭調査などを行っていくことで、各家庭への対応、救済措置などを取れるようになると考える。そこでまず一つ目の最低条件をクリアし、そして次に、学校などで家庭環境の調査をすることで、子どもの置かれている環境、生活状況を把握し、場合によっては学校側から保護施設などへの提案をすることで、虐待などへの対処を遂行していく。そうすることで、子どもに対しての環境整備が少し改善されていくことが期待できる。このように、今抱えている問題をより改善していくためにも、子どもへの環境、教育整備が各地域、自治体で施されていくことで、豊かな考え方や発想が生まれやすい環境になり、個人の意思への尊重、人という生命のつながりを広げていく工程を創っていくことができると考える。そうすることで、結果として「取り残される人」が一人でも少なくなっていくことを期待したい。

・二村徠夢      愛知県あま市立美和中学校2年    一人一人の違う心       

人間一人一人1つの心を持っている。でもその心を分かるのは「 自分 」だけ、他人の人には人の心なんか分かりやしない。それぞれ持っている心は全く違う。性別や性格、社会の生き方。でも、その心を1つにまとめるのがSDGs5つ目の目標「 ジェンダー平等を実現しよう 」なのだ。

今自分達が住んでいるこの世界は、ジェンダー平等をまだ実現出来ていない。例えば……男性があまりやらず女性に傾いてしまっている家事、親の勝手で決定されてしまう未成年の結婚、子供を産んだ後の男性の育休の有無などがある。その人達を誰1人取り残こさない為には、男性が気軽に家事に参加できる環境作りや男性社員などへの育休推奨などへの取り組みも必要になってくる。今、自分自身が学校でやっている内容には、ジェンダー平等の事を多くの人に知ってもらうため、本の掲示やSDGs(LGBTQ+)についての講演が開かれたりしている。冒頭でも言った通り人間一人一人違う心を持っている。その心は、人には分からないが、互いに理解し合い、

「 誰1人取り残さない社会を作る 」これを目標にし、自分自身も今の現状と向き合って行きたい。

・葛西悠希      玉川大学、2年、リベラルアーツ学科      幸せな後悔から人々を助ける

私は今、とても後悔をしている。先月の中旬に大好きだった祖父が亡くなった。祖父は周りから、とても頑固で自分勝手な行動が多いと言われており、家族のからも理解されることが少なった。しかし、私から見る祖父は、いつも私のことを気にかけてくれる優しい人だった。生前、私は祖父に「何か食べたいものない?」と聞かれた。ごく普通の会話であるが、これが食べたいと自ら食べたいものを指定する祖父にとって、このような質問をしてくることはとても珍しかった。そこで私は昔、祖父の家の近くに美味しいラーメン屋さんがあると聞いたことを思い出し、「一緒にラーメンを食べたい」と答えた。その後祖父は、笑顔で頷いた。しかし、一緒にラーメンを食べる前に祖父は亡くなった。そして、祖父の最期の言葉が「ラーメン食べたい」であった。祖父が亡くなって何日かした後、家族でラーメンを食べに行った。そこで私は驚いた。家族が美味しいと言っているラーメンの味がしなかった。そこで、私は祖父を取り残してしまったと感じた。そして、一緒にラーメンを食べることを達成したかったことに対して、自分を責めたてとても後悔をした。

しかし、この後悔は、幸せな後悔であると捉えることができる。食べたいものを食べられる環境に置かれていたからこそ、何が食べたいか聞かれた際に選択肢が生まれ、ラーメンを選ぶことができた。しかし、世の中には選択肢が狭い人、そもそもの選択肢がない人もいる。 その原因として、差別が主にあると考えている。この世には、男女の差別や、家庭内における差別、社会における差別など多くの差別が存在する。私は小学6年生の時に、ガーナの子どもたちのビデオを視聴し、関心を持った。そのビデオには、ガーナの子どもたちが学校に行かず、カカオの収穫を仕事として生きている姿であった。また、その仕事の収入は少なく、社会的差別を受けているものであった。そこで、フェアトレードというものを知り、フェアトレードのマークがついている商品を購入すると収益が平等に行き渡るという取り組みであった。この取り組みも含め、「誰一人取り残さない」行動を取り、SDGsの17の目標にある「人や国の不平等をなくそう」や「飢餓をゼロに」、「平和と公正をすべての人に」の手助けをしたいと考えるようになった。具体的に、フェアトレードの商品を購入することや、多くの食糧が処分され、環境にも問題が起きる食品ロスを解決すること、地域の方々とコミュニケーションを取り、ボランティア活動に積極的に参加するなど、地域に貢献できることは行っていきたい。また、後悔しないように何事にも早めに行動していきたい。

・生野  ほのり  関西看護医療大学1年    日本社会について

日本の問題として

男性看護師の方が昇進しやすい傾向にある。

旦那より妻の方が育児をしている時間が長い

妻は義理の両親や妻の両親の介護をしている時間が長い

例えば、医療現場では医師は男性が多いのに、看護師は女性が多い。また、患者に近い距離でケアに携わる職業に従事しているのは、女性が多い傾向にある。

医学部の不正入試問題が発覚し、複数の大学が男性や現役生を優遇し、女性や浪人生を差別していた。このように、ジェンダーによって明らかな差別が生じている。

日本は、男女間のジェンダーギャップが未だに大きい為、解決すべき問題が沢山残っている。

例えば、学校・職場・医療機関などの制限、更衣室・トイレなどジェンダーに関わらず利用できるものを設置したり、本人が望む性で生活できるようにサポートをすることも大切。

性別違和がある学生は、男女別の制服やトイレや更衣室などが登校への障壁になる場合もあり、不登校になったりしてしまう原因として、学校教育の中で同性愛について異常だと習っている人や否定的な情報が多く、いじめに発展してしまう。

医療機関への受診の際にも障壁がある。

例えば、問診票の男女欄に印をつけないといけない為受診しない人がいたり、見た目と戸籍上の性別が違うことにより、何度も本人確認をされたり、自認している性別と異なる戸籍上の名前を呼ばれることにより苦痛に感じてしまうこともある。また、本人が希望すれば誰でも病状説明に同席できるのに病院側から拒否されたりしてしまう。

また、自殺行為やうつ病などに繋がるリスクがある。

LGBTQの人達は、喫煙、飲酒、薬物依存などの物質依存のリスクが高い。また、差別的な感情を内在化し自分自身に向けてしまうことにより、自傷行為・うつ病などのリスクも高い。

電車も、女性専用車両があるのに対して男性専用車両がないのはおかしいことだと思います。

最近LGBTQの方達の話題が多くなってきたので、繁華街などで同性同士で手を繋いでいたりするところを見掛けることが多くなってきたので少しだけ社会が良くなったと思いました。

これからも、自分と同じ人間は居ないので、人のことも受け入れることが出来、互いに認め合うことが出来れば誰も不快な思いをしたり悲しい思いをすることが少なくなると思います。

・Muhamad Baharudin     Heykal Fazri    Brawijaya 大学  誰ひとり取り残さない

現在、世界の国々には、注意を払うべきいくつかの欠点があります。例えば、社会面では貧困が大きな問題になっています。経済格差があるからこそ、社会階層が形成される。社会階層が問題になるのは、誰かが排斥されることになるからです。そこで、国際社会は17のSDGsを形成し、社会の問題解決に貢献することを期待されています。

「誰ひとり取り残さない」というのは、最貧困層への支援だけでなく、国内外における差別や不平等の拡大、その根本的な原因を解決することが必要です。現実には、法律、政府の政策、慣行などが最適に実施されていません。2016年11月の国連首脳会議では、国際プログラム「誰も置き去りにしないための枠組み」を推進しました。持続可能な開発の中心にある平等と非差別」このプログラムは、世界の不平等と差別に立ち向かうための国連の行動であり、持続可能な開発のための2023年の取り組みである。すべての関係者、特に取り残された人々の自由で積極的かつ有意義な参加を確保することは、「誰ひとり取り残さない」の政策、計画、プログラミングのすべてのステップと段階における重要な要素である。

2019年を振り返ると、グローバル社会は在宅勤務やレイオフ、貧困など、自分たちを不安にさせる状況を受け入れなければなりませんでした。その年のパンデミックの結果、経済的に後進国になり、差別を受けたことは否定できない。国際社会、特に発展途上国は絶望感を抱き始め、権力者に有利と思われる政府の政策に抗議することで反抗したのです。社会的な面では、不平等から状況に適応できないなど、多くの人がその影響を感じています。社会とともに生きる私たちは、時に人を助けることも必要です。しかし、現実にはまだまだ個人主義的な生き方をしている人が多い。そんな個人主義的な生き方をしている人の中には、「他人と一緒にはいられない」と思っている人もいる。基本的に、自己認識はすべての人にとって重要です。なぜなら、人間は他人の助けなしには生きられない社会的な生き物だからです。また、誰かと別れるということは、人間から離れるということです。

私たち個人は、周囲の人々が感じている状況に確実に貢献することができます。他の人が孤独を感じないようにするために私たちができる簡単なことのひとつは、お互いを認め合い、尊重し合い、違いがあるから良いことができないと考えないことです。そうすることで、人々の生活は以前より良くなる。私たちが気づかないうちに、私たちの助けを必要としている人たちがまだまだたくさんいるのです。

・丸山洋輝      梅光学院大学3年 取り残される外国人児童 

私は、小学校教員を目指して大学で勉強しているが、障がい、貧困、いじめ、家庭環境などの様々な要因によってひとしく教育をうける権利をもちながら取り残される児童が想像よりも多いとわかった。教育過程における「取り残される人」についての問題は決して少なくないのだが、自分のなかで「取り残される人」を考えたときに、特に関心を抱くのは日本での外国人児童生徒への教育についてである。最近、ウクライナ難民への日本の教育支援がニュースや記事になっていることが多い。詳しく調べていくことで、外国人児童生徒へのいじめやストレスによる不登校といった教育機会や進学状況・就職状況に大きな差が生まれる問題が起きているとわかる。これからの多様化が望まれる社会でそのような問題があるのはありえないと感じた。ここでは、外国人児童生徒の教育に対して、どのような問題点、それに対する考えをまとめたいと思う。

まず外国人児童生徒の教育に対する問題点として、やはり言語の問題、日本語支援の不足があげられる。日本では全国で同じ内容で均等に外国籍の子ども以外でも、日本国籍でありながら、外国にルーツを持つ親の子どもや帰国子女などで、日本語指導を必要とする子どもが多くいるのが現状であり、そのような児童生徒のコミュニケーションを支援する人材は不足している。また、海外では、多民族・多文化である国も珍しくなく、普段の生活で使われる言語と教育を受ける際に使われる言語が異なっている場合も見受けられる。そのような国では、政府が二言語教育に対する政策を打ち出し、国民にも二つ以上の言語を使う意識があると思われる。一方で、日本では方言の違いこそあれど、普段の生活と教育活動で使われる言語は日本語で統一されている。教える側である教員も相手が日本語を理解していると考えて授業における取り組みを作成していることが多い。このことを考えると、教員も外国人児童生徒に対する意識を取り残されていると思われる。

もう一つの問題点としては、日本と海外における学習内容の違いである。例えば、ウクライナでは、小学校二年生でかけ算を学ぶ際に同時に割り算を学んでいる。日本では、同じ小学校二年生で九九の仕様を理解して暗記し、かけ算を学習する。もし、ウクライナの児童生徒が日本で九九を学習した場合かけ算の仕様を理解しないまま暗記したり、自国での内容との差異に混乱を覚えたりする可能性が考えられる。こうした文化の違いといったところで、外国人児童生徒は日本の教育を受ける際に困難を感じている。

これらの問題点に関して、教員の現状問題の把握、理解が必要であると思われる。まず教員は外国人児童生徒の現状を把握する必要性について理解しなければならない。日本語の習得状況、学習状況、長期滞在なのか、短期滞在なのか、文化・教育内容の違い、学校以外での教育支援を受けているのかなど、児童生徒の個人によって困難に感じる状況や必要としている支援は大きく異なっている。その上で、正しい知識と理解をもってその児童に適した支援を考えるのが大切である。また、そのためには、政府が外国人児童への支援とともに、外国人児童を実際に支援する教員に対して、外国人児童の抱える困難への知識形成を目指した取り組みを行うことも重要であると考える。

日本の人口減少や労働力の問題も含め、外国人の受け入れや定着は今後増えていくだろう。また、日本人が海外にでて活動する場面も多くなると考えられる。これからのグローバルな社会に向けて、日本人と外国人が、お互いに違いを認め合いながら暮らすことのできるような基礎的な考えの形成に学校教育は非常に重要である。外国人児童生徒が増えていくことを踏まえて、外国人児童生徒の教育の困難を理解する必要がある。政府が中心として、外国人児童生徒に対する適切な環境づくりと、実際に支援する教員に対する環境づくりを行うことが必要だと考える。また、教員を目指している自分たちも外国人児童生徒に寄り添えるように知識をつけるとともに、日本の児童が海外でも取り残されない人であるような教育環境をつくりたいと思う。

・松島功汰      梅光学院大学 3年      私が考える「今」から取り組むSDGs
私は、今回「誰一人取り残さない」SDGsについて、主に日本における貧困と教育面について述べていきます。

なぜなら、世界のみんなで世界中にある課題を2030年までに解決しようという取り組みの基、行っていると学びましたが、まず日本が自国の課題を解決できずして、世界にある課題を解決するのは難しいと考えたからです。

まず1つ目の、貧困についてです。様々な要因で貧困に陥る原因はあると思いますが、私はまず国の政策を見直すべきだと考えました。なぜなら、近年、税収が過去最高記録を更新しているにも関わらず、財源が足りないのは他国への莫大な金額の支援だと思います。勿論、他国への支援も大事なのはわかっているのですが、自国の市民が苦しんでいるときに行うべき行動ではないと思います。

そこで私は、明石市の政策を全国で行うべきだと考えました。明石市の政策とは、具体的に「医療費は18歳まで完全無料」「市街の病院も薬代も無料」「保育料は2人目以降完全無料」「オムツは1歳まで無料で家にも届ける」「給食費は中学校まで無料」「児童養護手当は毎月支給」「子ども食堂は、すべての小学校区にある」という内容です。この政策は、所得制限なしで、すべての子どもに等しく対応すること、そして税金や保険料で、国民の皆様から預かっているという認識の基成り立ってるそうです。確かに、お金がないから消費税を上げたり、新しい税金を作るのではなく、お金がないときこそ、子どもにお金を使うことが大切だと考えました。政策により市民の生活の負担が減り、ゆとりが出ることで、町が活気づき、そうすることでお金が動き、お金が動くということは、税収が増えるため、それに伴い財源が増えると思います。そうすることで数か月に1回所得制限なしで一律に給付金をすることが可能になると思うので、貧困層には勿論のこと、値上がりラッシュで苦しい思いをする方にも全員が笑顔になれると考えました。また、この子どものための政策をとることで、人口減少にも歯止めがかかる可能性があるため、副産物としても良い効果をもたらすことが出来ると考えました。

次に2つ目の、教育面についてです。まず、SDGsにおける「質の高い教育」というのは国や地域の状況で変わってくると考えました。日本で考えると、小学生の頃から学んできた教育は、結果的に社会に出たときに役に立つ能力を身に付けた方が良かったという人も存在するため、大学に行かずに就職する人にとって見れば、習ってきたものは役に立たないものが多いと言われることをよく耳にします。その反面、大学に進学したり、その専門分野に進む人にとって見れば、大事な教育内容となっています。しかし、そのような人たちでも、何の意味があったのか分からないという教育内容もあるという声を耳にします。

ですが、子どもの頃には、将来どうなりたいかの決断がつかなかったり、夢が変わることもよくあることだと思います。そのため、みんな一律に教育を受けているという現状があります。これは、大学卒と高校卒で給与の面が違うことが目に見えてわかる通り、学力を身につけるための努力を評価している部分が日本の現状だと思います。

つまり、これらがどう世界に対しての結びつきがあるかは不明であると考えました。

そこで私は、まず世界につながる仕事のために、普段の教育に追加で学ぶという形で興味がある人に全員受けてもらい、続けられないのであれば、その時点で離脱しても良い形をとります。(離脱した方は、今後、携われないものとします。ここは要検討だと思います。)続けることが出来たなら、報酬金が貰えし、その証明書がもらえ、世界につながる仕事が行えるという仕組みを考えました。

これは一見、誰一人取り残さないという点から外れているように見えるが、全員に一律のチャンスがあると考えます。なぜなら、この仕組みが成り立つのであれば、今後様々な分野における教育を実施し、大人になった際に今まで学んできたことの殆どが無駄であると言われないような仕組みが成り立つと考えたからです。

以上が、一部ではありますが、私が考える「誰一人取り残さない」SDGsです。

・なかだ航太    玉川大学2年    マイノリティー 

SGZsの基本理念は『誰一人取り残さない』である。日本でも世界でも多くの問題があるが世界の意識に比べたら『日本はSGDsへの問題意識が低いのでは』と調べて幾度に感じた。日本では問題は数え切れないほどあるが大きな問題としては、経済的不利な子供は進学しづらい環境やジェンダー差別問題や公害問題、環境問題、民族問題など多くあります。このような問題は日本人の多くの人が困っているわけではなく、何も悪くない一部の人が非常に困っている。この問題には全国各地で不利なマイノリティーがいてその人のために困っていないマジョリティーの人が深く考えることをしないと改善されることはないと考えた。もし考えて行動する人が減ると完全にマイノリティーの人はマジョリティーに置いてかれてしまい社会的格差は広がるばかりになる。その先には、マイノリティーの人々の生活しづらい生活が待っているのではと考えた。『何も悪くない一部の人』であるマイノリティーの人々が困るのはおかしく、そのような環境にならないために一人一人がマイノリティーの環境を理解して配慮や考えを持つことが大切だと考えた。一人一人が思いやりを持ち行動することによって少しずつでもいい方向に環境が変わっていくのではないかと思ったからだ。

またこれから新たに置いてかれる人を増やさないためにも環境問題には配慮するべきだ。差別が生まれる要因には色々とありますが、防げる要因の多くは自然問題にある。ひとは文明を発達するために数多くの自然を犠牲に発明して便利になってきました。しかし、そこで失われた自然により多くの人の健康や人権をも壊してしまった。その過去から環境を考えた発展を行う社会になってほしい。再生可能エネルギーを多用したり、CO2削減したり、排出物に気を遣ったり、環境にいいものを発明したりしてこれから被害を受ける人を減らすために尽力して、これから生まれるまだ見る子が差別をゼロに近づけたい。

・山本類        玉川大学        誰一人取り残さない世界を実現するためには
私はSDGsの基本概念の一つである「誰一人取り残さない」は多くの人に当てはまると考えます。例として、黒人や、白人、黄色人種などの肌の色、生まれながらに持った先天性の障害、LGBTQや性同一性障害(GID: Gender Identity Disorder)などの性的障害を持っている人など他にも多くの問題があると思います。しかし、そのような代表的な例だけではなく、私はもっと身近な人にも当てはまると考えています。それは、見た目や日常的な会話、行動などでは見分けることの出来ない些細な問題を抱えた人です。これは実際に私が経験した事なのですが、学校での人前の発表の際、とても緊張してしまい手や声が震え発表が上手く出来ませんでした。「他のクラスの人たちは普通に発表しているのに何故自分はこんなに上手く発表できないのだろう」と感じその時、自分は他の人たちより遅れているという孤立感を感じるという経験をしました。そのときは自分の実力の問題だと思っていましたが、今回のテーマを踏まえて考えるとこれは「取り残されている人」だと分かりました。学校や職場などで、自分と同じように他の人達に比べて上手く出来ず人より劣っていると感じている人は多くいると思います。このような人たちを少しでも減らしていくために、二つの方法を考えました。一つ目の方法として周りの人達から理解を深めていく事が大切だと考えます。また二つ目の方法はその人に適応した環境に移動することだと考えます。一つ目の方法は周りの人たちがその人を理解してあげることで「取り残されている人」が不安や心配といった感情を少しでも解消していき、良い方に考え方が向く事が出来ると思います。私も実際に友達などに自分の状況を説明し、コミュニケーションを取り理解してもらったことで気持ちが楽になり前に比べて苦手意識を克服する事が出来ました。二つ目の方法は人によって意見が分かれてしまう考えだと思います。人には適した環境にいるべきという考えは、その人自身の意見が尊重されてない、不平等な扱いだと思う人もいるかもしれません。しかし、これは現実的に考えれば多くの人を救う事が出来ると思います。一つ目の方法を実践したとしても改善できない人は少なからずいると思います。その場合その人は悩みや不安を抱えたまま生活を過ごしていくよりも、環境を変化させ生活自体を一新させた方が良い結果を生み出せると考えます。また、この方法は「取り残されている人」も救われ、周りの人達も少なからず感じていたかもしれない緊張やストレスを無くす事が出来るかもしれません。

自分の考えた方法だけでは誰一人取り残さない世界を実現するまでにはまだまだ多くの問題や見落としている部分もあると思います。しかし、様々な人たちの意見を持ち寄り、考えを共有していけばより理想な社会に近づける事が出来ると思いました。それでも最終的には一人一人が意識変えていく事が最短の道だと考えますので、今回の小論文を機に、自分のこれからの生活を変えていきたいと思います。

・飯田優瞳      玉川大学2年    誰一人残さないためには私たちは何ができるのだろうか

今この瞬間、貧困で苦しんでいる人が世界中にいる。

貧困には様々な種類がある。例えば、住むとこも食べるところもないストリートチルドレンのような人や、家はあるが学校にいけない人や、戦争で難民になった人など、様々な問題を抱えている貧困がいる。貧困の人たちが””貧困の人””と分けられないようにその差を埋めるためには私には何ができるのだろうか。

私は半年間入院をしていた経験があったが、病院内の学校に転校し授業を受けられたり、栄養が計算され健康的な食事が提供されたり入院をしていても整った環境下で過ごしていた。貧困の人たちに置き換えて考えた時、貧困の人たちは学校に通えない子どもたちや充分な食事をとることができない人たちが7億人もいると聞いたことがあり、私は入院をしていた身として、入院は自由があまりきかないが、自由がきかなかった時でさえ充実した環境で過ごせていた。このように考えると私は、「ただいま」といえる家があり学校に通える環境があり、美味しい食事や美味しい飲食をいつでも取ることができる環境がどれだけ素晴らしいか身に染みて実感する。

世界には196の国があり、その中で生活環境が整っている国とそうではない国が存在しているが貧困に苦しんでいる人とそうではない人の差を埋めなくてはならないし、世界中が協力しなければならない。

SDGsCLUBでは、2030年までに貧困で苦しんでいる人たちをなくす働きをしているが、本当にあと7年でなくせるのだろうか。

世界では近年人口増加に伴い全員に食事が行き届くことができない。と言われている。

では、どうしたら貧困に苦しんでいる人たちを救えるのだろうか。私は、「2030年までに貧困で苦しんでいる人たちをなくす」このような大きい目標を立てる前に貧困に苦しんでいる人たちに沿った目標をたて、世界中の誰でも苦しんでいる人たちを救えるような支援の場を提供したり、もっと具体的な提案を示すべきであると考える。

私たちができることを考えてみた時、よく現地の状況を知る。という意見が飛び交うことがある。確かに現地の状況を知ることは解決策を考えるにあたって1番最初にできることであるが、私は現地の情報を知った後が重要だと考える。そこからどのような支援ボランティアがあるのか、イベントに参加したり現地に行ってみたり、行動に移すことで1人でも多くの貧困が解消されるのではないか。正直、2030年までに貧困で苦しんでいる人たちを失くすことは難しいと考える。しかし、終わることがなくても、貧困を失くす努力をしないと貧困で苦しむ人はいつまでもゼロにならない。

1人が誰かのために1人の力が誰かを活かす。この言葉をモットーに、まず私はユニセフに募金をしようと思う。

・桑原美侑      玉川大学2年    子供たちに取り巻く経済的要因   

「誰ひとり取り残さない」とSDGsの目標で掲げても、取り残されている人はこの世の中に数多く存在してしまう。この目標は達成を視野に入れたものではなく、達成を他所に「目指すべき」という指標として表されたものだと感じる。一体、取り残された人はどのくらい居るのだろうか。私が最初に思い浮かべた存在は、経済的に不平等な扱いを受ける子供たちだ。親は子供を産むかの選択肢があるが、子供は産まれるかの選択肢も親も選べない。家庭の経済社会状況に巻き込まれるのはいつだって無知な子供なのだ。困窮家庭の子供たちは学業や生活において不平等を強いられる場面がある。経済的に安定している家庭は、子供が幼い頃から色んな習い事で経験を積ませたり塾や家庭教師を雇い、学業でより高みを目指したりすることができる。しかし、困窮家庭では教材を買うことがやっとで他に何かやらせる余裕はなく、子供の力は思うように伸びない。将来の仕事も、有名な大学への進学や大学院の道へ進む人が大手企業に入りやすく、学歴のない人は低賃金で長時間労働をやむを得ないという悪循環が生まれている。将来、一生にかけて家庭の経済面が作用してくるのである。また、身なりや家庭環境から学校の和に馴染めず距離を置かれることも少なくない。そのように育つと自己肯定感が低くなりやすく、生活環境は本人の性格までに影響してしまう。もちろん、全員が全員そうな訳では無い。いつだって前向きてポジティブで好かれやすい人は存在する。でも他の恵まれた人と比べると、何にしても苦労の量は違うはずだ。

調査で、経済的に困難な家庭の子供は非行少年・少女が多い傾向にある事が分かっている。家庭環境が良くないと家に居たくないと思うのは最もで、彼らの家庭離れは精一杯の抵抗と新しい環境への希望なのでは無いかと思う。今では7人に1人の子供が貧困状態にあるそうだ。私はそんな子供たちを取り残したくない。生まれた環境は困難でも、不平等だと感じずに生きて欲しい。私の理想の支援は、貧困家庭への満足な食料の配布、高校までの学費の負担、教科書や制服、体操服の負担、大企業による寄付金の募集の呼びかけなどだ。大企業の理由は、有名な会社でないと自分の大事なお金を任せるので、任務を果たす、という信頼感が必要な事と、ネットやCMで宣伝し集客効果が得られるからだ。今現在出来ているものもあれば、現時点では厳しいものもある。私自身でできることは、ボランティアで学業支援や居場所を作ってあげたり、寄付したりする事だろう。でもそれは今までの支援の形と全く同じで、溢れてしまう子供たちは増え続けている。「取り残さない」為には思い描く支援を行動に移す人が増えることが重要なのだと思う。声を上げる人が増えて、残された子供たちが少しづつでも救いあげられていって欲しい。そして誰ひとりとして取り残さない未来に向かって少しづつでも歩みを進めて行けたら良いと思う。

・三森修自      玉川大学2年リベラルアーツ学部  私の考えるSDGs

SDGsというのは、現代社会においての大きな問題だと私は捉えています。この問題について私は20年間ほぼ触れずに生きてきました。ですが、ここ最近ニュースやテレビ番組でSDGsについて触れていて少し興味がわきました。さらに、授業で触れることによってさらに興味がわきました。そしてこのコンテストが出たときに改めてSDGsについて考えてみました。基本精神としてだれ一人取り残さないというのがありますが、これは簡単に捉えると例えば障碍者、貧困、外国人、などが浮かぶと思います。だれ一人取り残さないという点においてこれはすぐに思いつく例だと思います。しかし、だれ一人取り残さないという言葉をもっと重く受け止めたときに何があるのかというのを私は考えました。そこで私が考えたのは自分を含めて、取り残されていない人もなにかで取り残されているかもしれないということです。例えば、スポーツが苦手な人、勉強が苦手な人、歌が下手な人、などこのようにうまい人がいれば下手な人がいるというのが世の中です。私も運動はできますが、勉強はできません。これは人と違うことなのかもしれませんが私は気にせず生きています。その中でなぜ人と違うのに取り残されていないのかというと恐らく、見た目に大きな違いがなかったり、話す分には何も問題はなかったりするからなのではないかと私は思います。逆にたったそれだけのことで、人を判断して取り残したりしていると考えるとみっともない世界だなと思います。生まれてきた以上人間として一種の同じ動物に生まれているのだから手を取り合ってよい世界を作っていくことが義務なのではないかと思います。先ほど挙げた,スポーツがうまい下手、勉強ができるできない、などの違いというのも見た目や話し方の違いも何も変わらないのです。同じ人間なんてこの世に一人もいなくて自分はかけがえのない自分で、またあなたのかけがえのないあなたなのです。結論私がDGs基本理念「誰一人取り残さない」に対して思うことは人というのは生まれてきた時点で同じ人間なんていなくてみんな違ってみんないいんだから全員が全員に同じように対応するのがこの世界に生まれてきた人間の本当の意義であるということです。これが自分の結論です。今回多くの時間をSDGsに使うことができてよく考えることができたので、自分がこのいまの現状を変えるという気持ちでこの問題に向かっていきたいと思います。世界が手を取り、誰一人残されない環境をこれから望んで生きていきます。

・牧野七海      玉川大学2年    悲しみの顔が消える世界 

私は授業で誰一人取り残さないの誰一人について習った。障害者、健常者、など人々の中で幅広く認知されている省かれているかもしれないと思う方だけでさないと知った。例えば、どこかの国で授業を受けているクラス生徒のうち3分の1は授業で話している言語がわからず、訳もわからないまま授業を受けている子どもたちが存在する。そんな目に見えない気づいてもらえない人々をも取り残さないようにするのがsdgsの基本方針に添える内容であると思う。そんな目に見えない人々を救うことでどこで何をして生きていても誰一人取り残さない世界が少しずつ生まれるのかもしれない。何が正解で何が不正解かも分からない問いに対して人間たちは答えを出そうと必死にもがいているが、きっといつかみんなが笑って明日のことに悩まずに生きられると願いたい。

・匿名      玉川大学4年    デジタルディバイドの曖昧さ     

SDGsの「誰ひとり取り残さない」という基本理念について考えると、真っ先にデジタルディバイドの問題について思い浮かぶ。現在の日本社会ではICT化が急速に進行している。民間、行政問わずIT分野での活動の重要性がまし、そこでは1人1人がインターネットを活用することが当然視されているように思える。しかし、日本人の全てが十分にインターネットを活用できるわけではない。情報通信技術の活用が難しい人は、現在のICT化の中でまさに「取り残されている」のだと思う。

社会生活におけるインターネットの重要性が高まっている。まず、インターネットに接続できるかどうかによって圧倒的な情報格差が生まれてしまう。日常生活における利便性においては言うまでもなく、非常時の情報収集や連絡手段においても明確な差が見られる。また、近年では行政や民間企業のサービスにもインターネット環境が前提として見られることがある。インターネット環境の有無によって得られる支援にも大きな差が生まれてしまうだろう。また、近年ではインターネットはコミュニケーションツールとしての活躍の場を広げている。LINEなどのSNSの普及率は高まり、コロナ禍ではリモートワークによってインターネット上での業務が一般的になった。インターネットに接続できる端末が無ければ、コミュニケーションの場がインターネット上に移った際に、孤立してしまう可能性がある。

上記のようにインターネットの重要性が急速に高まる中で、デジタルディバイドの問題が発生する。インターネットはまさに近代科学が生み出した技術であり、現代人の生活は過去に例のない速さで変化し続けている。しかし、その変化に全員が対応できるわけではなく、特に情報通信技術に馴染みのない高齢者層は変化に取り残されている状況と言える。デジタルディバイドの問題にはその深刻さを認識しにくいと言う特徴がある。まず、社会の取り残す側は取り残される側を意図的に排除しているわけではない。社会の環境の変化によるものであり、個人的な意思は存在しない。また、取り残される側も、自身の自由意思でインターネット環境を望まない選択をしていることが多い。その場合取り残している、取り残されているという意識は持ちづらいだろう。しかしそれは、インターネットの活用の有無による差を明確に認識できていないことが一つの理由としてあると考えられる。最後に、取り残す側、取り残される側の区別が非常に曖昧であると言える。ICTの活用の程度は、グラデーションになっている。

「誰ひとり取り残さない」というSDGsの基本理念に対して、ICT化が急速に進む現代における

・清宮ほのか    日出学園高等学校 3年   見えない人たちを救うために

「ヤングケアラー」という人たちを初めて知ったのは中学2年生の時だった。特別支援学校の先生になることを目指しはじめ『取り残されないとはどういうことか』と疑問を持ち始めた。ネットで調べた時に「ヤングケアラー」という言葉を知った。

現在の日本ではあまり見えていない存在だからこそ取り残されてしまうのだと私は考える。実際の事例として、中学生の頃からヤングケアラーで介護をしていて大学に進学後も介護を続けたため、単位が取れなかったという人もいる。そうした人たちへの配慮が日本はまだまだ進んでいないのだ。制度があっても使い方がわからない、法律があっても未成年だったり、という理由で学業や交友を諦めざるを得ない。

「アファーマティブ・アクション」というものを知っているだろうか。改善措置として学業や生活における配慮・支援をすることで彼らが取り残されることを防げるのではないかと考える。例えば、教育機関において親や祖父母の介護、幼い兄弟や姉妹のお世話などを自分がやらなければならない状況になった時、学校に申請をすることで学業を無理なく続けられるように教材を自宅へ送ったり、義務教育機関であれば市町村と学校で連携を取り児童・生徒への支援をしていく。ソーシャルワーカーの数が少ないため、形としてしっかりできるようになるには時間がかかるかも知れないが、代替的なもので繋ぐことは今からでもできる。

「ヤングケアラー」である状況は1人では抜け出せない。民間の企業が動きはじめ出しているにも関わらず、市町村や国はなかなか動き出さない。ヤングケアラーを取り残さないそんな社会を確立していってほしい。

私は大学では社会福祉を学ぶ。ヤングケアラーの人たちを救える方法を少しずつ学び、彼らの支援もできるような教員になりたい。

・片田シェロ 玉川大学2年リベラルアーツ学部リベラルアーツ学科        「腹が減っては戦ができぬ」

1.はじめに

私は「農場主」が取り残されていると考える。日本は一般機械が強みであり、輸出が輸入より上回っているが、食料品に関しては輸入に頼り過ぎている。ロシアとウクライナの戦争もあり、今後日本は他国に頼れなくなる時期が来ることを視野に入れるべきである。そこで私は以下にデータと解決方法を述べる。

  1. 食料品の輸入状況

まず、JFTC -日本貿易会によると日本の食料品の輸出額 4,815億円と輸出総額に 0.7%占めている。主に魚介類(ぎょかい:魚や貝類など)/その他の調製食料品など。

一方で、輸入額 6兆7,277億円、輸入総額に7.8%占めている。主に魚介類(ぎょかい:魚や貝類など)/肉類/穀物類/野菜/果実など。

3.日本に輸入品が増えた理由

SMART AGRIの小野(2019)によると戦後直後の日本の食料自給率は88%だった(1946年度)。 ところが、1965年度に73%の水準を記録して以降、緩やかに下がり始め、2000年度以降は40%前後でほぼ横ばいに推移している。 一方、海外に目を転じてみると、カナダは264%、オーストラリア224%、アメリカ130%、フランス127%(2013年度、農水省試算)などとなっており、日本との差は歴然としている。 これを受け、2010年に当時の民主党政権が、2020年度までに食料自給率を50%に回復させるという目標を立てたものの、2015年には目標値自体も「2030年度までに45%」に引き下げられている。 かつて、日本人の主食といえばコメであったが、戦後の復興に伴い、国が次第に豊かになっていくと食生活が欧米風に変化していった。 コメの消費が減る一方、肉やパンの需要が急激に増えていったのである。

4.国内産の方が高いのか

全国農地保有合理化協会によると「外国の農産物が安い最大の理由は、「土地が広い」ことと「労賃が低い」ことにある。逆 にいえば、日本の農産物が「高い」最大の理由は「土地の狭さ」と「労賃の高さ」にあるということに なる。しかしこれが世界的に見て「異常である」とか、日本の農家や農政が特に「劣っている」からとかいうことはできない。むしろ輸出国の「土地の広さ」や「労賃の低さ(労働条件の劣悪さ)」が異常な のではないか。」と記述されている。確かに我々の農場主の収入の低さが問題である。

さらに、輸入品の売上が高いため国産品を生産する農場主に利益がなくなりやる気も失うであろう。

5.食料自給率が低いと何が起こるのか。

農林水産省によれば、輸入のリスクに注目すると食料の生産は農地や水、太陽の光などの自然環境を利用する。そのため、天災や異常気象により不安定になることがあり、過去には日本でも飢饉と呼ばれる不作による飢餓が何度も起きた。最近でも、干ばつや異常気象などにより輸出国の穀物生産量が減少し、国際価格が高騰したことがある。

5.解決方法

まず、国内の農場主に目を向け手厚く支援をする。そうすることで値段を下げることも可能になる。次に、輸入品の制限を行う。輸入品が少なくなれば値段も上がる。次第に国民は国内産を買う様になり輸入品は非常食用に備えるぐらいの量にすておく事が必要になる。また、学校の給食で国内産を使用すること、国内産の素晴らしさを授業で取り上げる事や実際に農家への職場体験を実施することが重要になる。

6.成功すれば…

最後に、これに成功すれば日本の食料品は他国に比べ美味しいため発展途上国技術提供に提供すればSDGsの「1.貧困をなくそう」の手助けになると考える。

提案として子供を働かせる事には反対しており、大人の方が実際に仕事して教わる。それに対して子供たちは学校でそれを学ぶ。これだと子供が学びたい学問を学べなくなるが将来、収入が安定した頃に海外に出て学びたい学問を学ぶ事ができる手助けになると考える。

「腹が減っては戦ができぬ」という言葉がある。まさに発展途上国の人々に会う言葉だ。

まともに食事ができない子供たちが国のために戦うことは難しいが、安定した食を手に入れる事ができれば自然と頭の回転も早くなり開発途上国になるというのも夢ではない。

私と一緒に世界の人々に手を差し伸べる活動をしませんか?

参考文献・参考資料

日本の主な輸出入品 | JFTC キッズサイト | JFTC – 日本貿易会|

(閲覧日2022年12月28日)

https://www.jftc.or.jp/kids/kids_news/japan/item.html

日本の「食料自給率」はなぜ低いのか?- SMART AGRI (閲覧日2022年12月28日)

https://smartagri-jp.com/agriculture/129#:~:text=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%A3%9F%E6%96%99%E8%87%AA%E7%B5%A6%E7%8E%87%E3%81%8C%E3%81%93%E3%81%93%E3%81%BE%E3%81%A7%E4%B8%8B%E3%81%8C%E3%81%A3%E3%81%A6,%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82

その2:食料自給率って低いと良くないの? – 農林水産省 (閲覧日2022年12月28日)

https://www.maff.go.jp/j/zyukyu/zikyu_ritu/ohanasi01/01-02.html

外国の農産物はなぜ安いか – 全国農地保有合理化協会 p3(閲覧日2022年12月28日)

http://www.nouchi.or.jp/GOURIKA/pdfFiles/tochiAndNougyou/no38/38_03.pdf

・Alexander     Michael ブラウィジャヤ大学  3年生      ジャカルタでの大気汚染 

空気は、私たちが生きていくために必要な、目に見えないものです。しかし、時代の流れとともに、多くの人々の悪い習慣が、きれいな空気を汚しています。大気汚染は、有害な二酸化炭素を含み、汚染は呼吸や消化を妨げるため、生物にとって危険な問題です。また、公害は高血圧を引き起こす。調査によると、インドネシアでは10人のうち3人が高血圧に罹患しており、そのほとんどが大気汚染の被害者であるという。ジャカルタ、スラバヤ、バンドンはインドネシアで最も空気の悪い都市であり、実際、ジャカルタは現在、世界で5番目に空気の悪い都市である。2022年6月15日、ジャカルタの大気質指数は185 AQI(Air Quality Index)(インドネシアの大気質チェッカー)となり、空気が吸えない状態になっています。実は、コビド19が流行したとき、多くの工場が操業を停止し、街中の車も制限され、その結果、空気の質が良くなったのです。しかし、パンデミック終了後、操業を再開すると、またすぐに大気環境が悪化し始めています。

汚れた空気を吸うと、風邪をひいて肺が汚れるので、外出時はマスクをする、必要のないときは外出しない、窓を閉めて汚れた空気が入らないようにするなど、予防する必要があります。

大気汚染は、自動車やバイクなどの乗り物の排気ガスが原因です。また、最大の汚染源は、工場の煙、森林火災などです。さらに、人間の人口増加により、樹木の土地は減少しています。そのために、私たちは公害を減らすために環境を守ることがいかに重要であるかを認識しなければなりません。難しいことではなく、小さなことでも良いので、例えば、近い場所であれば徒歩や自転車を使うなど、少し疲れるかもしれませんが、空気の質を良くして、私たちの体を健康にすることにつながるのです。次に、空気を大切にする方法として、燃焼や喫煙を減らすことが挙げられます。よく、ゴミを集めて燃やしている人がいます。乾季にゴミや落ち葉を燃やすことは、大気汚染を引き起こす要因の一つです。ゴミはゴミ処理場で処分してください。また、家の周りに木を植えることも始めてください。木は空気を新鮮にしますし、家の周りに木や花があると家も美しくなります。

誰もが環境、特にきれいな空気を守る責任を負っているのです。家族や友人、周りの人たちに、自然をきれいにするよう呼びかけましょう。きれいな空気は、私たちや将来の世代にとって最も大切なものの一つです。もっと環境を大切にしましょう。

・匿名 大学3年 環境管理における「AMDAL」の役割。

持続可能な開発とは、環境、社会、経済の側面を開発戦略に統合し、現在と将来の世代の安全、能力、福祉、質を確保するための意識的かつ計画的な取り組みです。開発の存在に伴い、環境リスク、つまり環境の質を損ない、持続不可能になる脅威が発生します。しかし、開発がなければ人間の成長と繁栄は達成されないため、開発は続くでしょう。したがって、ここでは、開発と環境が調和のとれた雰囲気の中でうまく機能するように、環境のリスクと損失を減らす最善の方法を見つける必要があります。秘訣は、幼い頃から環境に大きく重大な影響を与える可能性が高い活動を計画し始めることです.このような計画には、活動の利点、環境、天然資源、自然条件、社会文化的価値などに生じる影響から始めて、さまざまなことを分析することが含まれます。これは、環境影響分析または一般に「AMDAL」と呼ばれるもので行うことができます。

AMDAL は、環境的に持続可能な開発としても知られる、持続可能な開発を達成し維持するために追求されている多くの手段の 1 つです。 AMDALは基本的に、環境的に健全な開発または持続可能な開発のアイデアから来ています。一国の各地域での開発量は、地域そのものの進歩・発展のためであるため、やむを得ないものです。実行される開発は、通常、産業、工場などのいくつかのセクターの形で行われます。開発を行うには、環境影響分析(AMDAL)の理解が必要です。これが必要なのは、AMDAL が環境破壊の発生を防ぐことができるためです。開発が原因で環境破壊が発生する可能性がある場合、人間、特に開発の近くに住む人々を危険にさらす可能性があります。

「AMDAL」により、会社が行うすべての開発は、周囲のコミュニティが開発地域に住むことを安心させることができます。時代とともに「AMDAL」は開発を体験するようになったので、開発をしたい人は「AMDAL」で起こる開発を理解できなければなりません。一般的には、構築を行う前に「AMDAL」ドキュメントを作成します。作成された「AMDAL」文書は、「AMDAL」問題を扱う機関によって審査されます。したがって、開発を行う側も、「AMDAL」ドキュメントを扱う機関も、「AMDAL」を本当に理解している必要があります。作成された「AMDAL」文書により、「AMDAL」の担当機関は開発の可否を判断することができます。 AMDAL文書から環境に害を及ぼす可能性のあるものがたくさんある場合、開発は実行できません。逆もまた同様です。

「AMDAL」の目的

AMDAL を使用して地域の開発を行う場合、いくつかの目的があります。以下が「AMDAL」を作る目的です。

事業活動または開発の計画に関する情報を提供する

「AMDAL」の第一の目的は、実行される開発または事業活動が環境を汚染および損傷しないようにアドバイスを提供できるようにすることです。これは、「AMDAL」を作成することで、開発が環境を汚染したり損傷したりしないようにするために何をする必要があるかを知ることができ、開発が本来あるべきように進むことができるからです。このインプットにより、開発プロジェクトまたはビジネス活動に関与するすべての関係者は、環境を保護する役割を果たします。また、環境や「AMDAL」に関する法律や政府の規制に違反しないため、開発はうまくいきます。

環境経営に関する社会への情報提供

「AMDAL」を持つ第 2 の目的は、開発プロジェクトが行われる際に、一般の人々が環境管理について知らされることです。周囲の環境が損なわれず、汚染されないため、人々は安心します。実際、周囲のコミュニティも進行中の開発プロジェクトに貢献できます。この目標は、コミュニティと開発プロジェクトを実行する人々にとって非常に有益です。コミュニティは開発から利益を得ることができ、彼ら (資本の所有者と開発プロジェクトの所有者) は平和に建設できるため、完成した開発プロジェクトは長期間続くことができます。

事業または活動許可の付与

AMDAL の 3 つ目の目的は、政府がビジネスまたは活動の許可を与えることです。ビジネスを構築したり活動を行ったりするための許可は、遺言執行者が所有しなければなりません。ビジネスまたは活動に許可がない場合、環境に害を及ぼす可能性があり、建設中のビジネスや実行中の活動の周囲の人々の生活を乱す可能性があります。「AMDAL」は、事業または活動を開始するための要件の 1 つです。これは、「AMDAL」が環境に関する情報を政府に伝え、政府が構築するビジネスや活動を実行できるかどうかを判断できるようにするためです。

地域の開発計画の参考に

つ目の「AMDAL」は、地域の開発計画を立てる際の参考になることを目的としています。綿密な計画を立てれば、適切かつ最適な開発が行われます。開発を行う上で考慮しなければならない計画の 1 つに、「AMDAL」の作成があります。

「AMDAL」は、環境を汚染したり傷つけたりしないため、開発の成功にかなり重要な役割を果たしていると言えます。これは、自然条件を適切に維持するために重要です。

法的および科学的文書を作成すること

番目の「AMDAL」の目的は、法的および科学的文書の形式としてのものです。この目的のために、政府とプロジェクトの所有者は法的証拠を持っているため、開発の実施が妨げられることはありません。また、「AMDAL」は、開発を取り巻く環境が損なわれないという科学的証拠としても利用できます。この科学的証拠は、開発プロジェクトを実施する前に調査と研究を行うことで証明できます。

このことから、「AMDAL」は環境破壊を防ぐため、開発を行う前に行うことが非常に重要であると結論付けることができます。環境にダメージがあれば、生物に悪影響を及ぼし、開発を妨げることさえあります。したがって、建設を希望する機関や企業は、環境条件に注意を払い、AMDAL を作成することが義務付けられています。

・塚田涼吾      玉川大学2年    これからの世界へ       

私が今回SDGsの講義を通して「誰ひとり取り残さない」というテーマについて考え自分なりに解釈しこの社会に対して考えていることを伝えたい。結論、私はこの「誰ひとり取り残さない」という基本理念は実現可能であると思う。しかしながら課題が多すぎる為莫大な時間を要するだろう。私は、この講義でSDGsについて詳しく学ぶまで世界がいま取り組んでいることについて全くの無知であった。その状態にあったのは私以外の若い世代にも少なからずあるだろう。まず私は今後よりより世界を作って行くために行われている活動を知らない何を行っているのかなど具体的なことを知らない人が多すぎると感じた。もっとこの活動を知ってもらう理解してもらうことこそが今後の社会に大きな変化をもたらすと考えた。例えば、SDGsの11番「住み続けられるまちづくりを」というテーマに着目した場合この活動を知っている人ならばきれいで住みやすいまちづくりのために自分の住んでいる街にゴミのポイ捨てや、タバコの吸殻を捨てることなどを行うことは減少するだろう。そのためにはなんの為にこの理念があり、どのような世界を望んでいるのかを深く知っておくべきである。ある程度大人になり自分の時間に余裕が持てなくなってしまう前に基本理念や考え方を教育するべきでは無いのだろうかと考えた。要するに子供の頃からSDGsについて学ぶ機会があれば自然と考え方が自分本位ではなく同じ方向性に向かってる行くのではないだろうか。基本理念でもある「誰ひとり取り残さない」という言葉のひとりが自分のことでは無いと勝手に無責任になっている人が多すぎるのではないかと思っている。私自身もそうであった。障害者だからセミナーに参加出来ないなどという周りから取り残されてしまう形もあるがポイ捨てなどの行為は自分から社会から分断し、取り残されに行っている。この理念を知らないからこそそのような行動をとったとしても何も思わないのだ。今回私が着目したテーマは「住み続けられるまちづくりを」であったがこのテーマだけで実現可能か考えた場合時間はかかってしまうかもしれないが不可能では無い事が伝わっただろうか。SDGsについて小さい頃から知る機会学ぶ機会を作ることで自然とこの世界について考えた生活を行うのではないだろうか。色々な場面で色々な企業でひとりひとりが自覚を持った行動を選択することで「誰ひとり取り残さない」理念は叶えられると思っている。この活動について無知な人が多すぎるゆえの話なのではないと私は感じ考えたので今回、知ってもらうため学んでもらうための手段を考えた。

・坂口貴哉      佼成学園高等学校        誰一人取り残さない子育てを目指して

私は喫緊の課題である待機児童問題において、「誰一人取り残されることなく子育てができる」社会を実現したい。

志を抱いたきっかけは幼い妹が保育園に入園する際にたらい回しされ、苦しむ母親の姿を目の当たりにした経験がある。なかなか妹に入園先が決まらない一方で、子育てに多くの時間を奪われ精神的に追い込まれる母の姿を見て胸が締め付けられる思いでいっぱいだった。詳しく調べてみると全体の待機児童数に減少傾向が見られるものの、私の住む東京は待機児童数がワースト1位であり、我が家と同じ悩みを抱える家庭は多く存在することがわかった。加えて近年の都市化に伴った核家族化や共働き世帯の増加により保育希望の子どもが増えたことが大きな原因となっていることがわかった。本来「子育て」とはより良い未来に向けて命を繋ぐ素晴らしいものであるはずなのに、働く母親などが社会から取り残されてしまう足枷となってしまう悲しい現実があることを学んだ。この現状が続けば少子化の加速を煽る危険性もあり、私たちの明るい未来を守るためにも誰一人取り残さない保育を模索しなければいけないと考えている。

まず保育を受けたい子供に対して、保育所とその受入人数が足りていない現状の直接的原因は、保育所自体の数が少ないことが考えられる。さらに保育所が少ない本質的な原因は、労働環境が劣悪で保育士の数が保育を希望する子供に比べて少なく、慢性的な人手不足に陥っているからだと予想できる。

これと同じような現象が介護施設でも起きている。超高齢化社会に突入した日本では、65歳以上の高齢者が全体の30%近くに上り、介護士の数に対して介護を受けたいと希望する高齢者の数が圧倒的に多いと考えられる。劣悪な労働環境で、過酷な労働を強いられ離職率が高まり、さらに人手不足が進行すると言われている。少子高齢化が深刻化している日本が解決しなければならない保育施設と介護施設における問題の根本的な原因は人手不足である。

これらの2つの問題を解決するために、幼老共生施設の設立を提案したい。子供と高齢者が交流することによって、関係人口の貧困化が問題視される子供は高齢者から無条件の愛を受け、高齢者は自らのアイデンティティーを確立できる。また、保育士と介護士にとっても、子供と高齢者が互いに見合うことによって、人手不足を緩和できるのではないだろうか。つまり、幼老共生施設を作ることによって、保育士と介護士の人手不足問題を解消しつつ、子供と高齢者の満足度を高め、ひいては預けている家族の満足度も高められると考える。

だが、この解決策の懸念点として既存の保育・介護施設からの反発が想定される。「保育・介護の質を下げるな」という意見や「資格を持っていない人たちに子供と高齢者の面倒を見させるのは危険だ」という指摘も予想できる。それらの懸念点を解消するために、まずは子供と高齢者が参加できる地域の居場所を半官半民で運営していきたい。その中での実践を通して制度に落とし込んでいくことや幼老共生施設の拡充を模索していきたいと考える。

SDGsが達成された社会の実現を目指して、まずは保育から「誰一人取り残されることなく子育てができる」社会を実現したい。自分達の明るい未来は、自分達で切り開くことを肝に銘じてこれからも社会と向き合い続けたい。

・匿名      高校1年 互いを「分かり合う」ではなく「認め合う」世の中に

分かり合えない人達を分かり合わせようとするのは間違っている。

恐らく、今生きる多くの大人たちは「どう足掻いても分かり合えない人」が存在することを理解しているはずだ。

しかし、若い人たちの多くはそれをあまり理解していない。これは問題だと私は考えている。

みんなが分かり合えるという理想を抱いてしまうのは若さゆえの愚かさ、美しさだと考える人もいるだろう。

しかし、この考え方は危険である。価値観の統一を図ろうとする考えは、マイノリティを苦しめるからだ。(ここでいうマイノリティとは、周りの多数派の価値観に馴染めない人たちを指す)

私は一人でいることが好きだ。しかし、学校生活において一人でいることが多いと「ぼっちで可哀想」「社会性のないやつは将来終わり」だのと言われることがある。

しかし、私が一人でいることが誰かに迷惑をかけているわけでもないのに、なぜそのような事を言われなければならないのだろうか。グループワークなど、やらなければならない所できちんとコミュニケーションを取っていればいいのではないか。

自分が多数派で、相手が少数派だからといって、相手を迫害していい謂れはない。私の考えが気に食わないのなら、無視すればいいだけだ。

言われたことは大きな傷になる。こんな暴言を中学校時代に言われた私は、今でもそれがトラウマになって学校で一人になることがすごく怖い。

このように、マジョリティの人たちにとっては記憶にも残らないような些細なことでも、マイノリティにとっては、それが大きな苦しみとなるかもしれない。ただ、認め合うだけでいい。少数派が存在することを認識して、お互い過干渉せず、共生していくだけでいいのに。

当たり前を当たり前にできる人は少ない。そんな言葉があるが、改めてそれを痛感させられる。大なり小なりはあれど、差別は世界中、どんな国にも満ち溢れているのだ。

ところで、日本には義務教育という素晴らしい制度がある。そこで、前述したような、分かり合えない人同士が共生していくコツを教えていくのはどうだろうか。

価値観は人それぞれ。分かり合わない人は必ずどこかにいるのだから、そういう人とは分かり合おうとするのではなく、お互い不干渉を貫く。協調すべきところは最低限協力し、お互いを害さないようにする。

多様性の世の中を一義的な視点でまとめようとするのではなく、この世の中を上手く生き抜くコツを教えてあげるのだ。

そのような制度ができれば、この先私と同じような苦しい思いをする人も減っていくのではないだろうか。

・Diva Nurani Latifa    日本語教育学科のbrawijaya大学 3年生 ジャカルタに貰困をなくすために

ジャカルタはインドネシアの大都市です。インドネシア人だけでなく、多くの外

国人が住んでいます。彼らの主な目的は、大きな給料を得るためにここに住むこと

です。インドネシアにはたくさんの都市や島があり、それぞれが独自の費用を持っ

ています。ジャカルタは大都市の 1 つなので、給料も出費も高いです。大都市に住

むことは多くの人にとっての夢かもしれませんが、大都市に住むことによってかか

る費用を認識していない場合もあります。通常、人々はゼロからスタートし、ここ

に引っ越して、突然高いコストの費用によって構造化されます。運試しのように、

ここでの生活が充実することもあれば、そうでないこともあります。だから、ジャ

カルタが大都市であっても、小さい村もたくさんあります。

ジャカルタはインドネシアの小さい村に住む人々は夢みたいです。ジャカルタに

素敵なライブと家を手に入れたという噂は、そこに住むことに興味を持っている人

を増やしています。 それだけじゃなくて、 ジャカルタの経済と技術は確かに説得力

があるように見えます。 大きいビルと広いモール、納得の団地もたくさんあります。

ジャカルタにはたくさんの公共交通機関があります. バスから地下鉄まで、インドネ

シアにはあまりありませんが、ジャカルタにはすべて揃っています。普段小さな村

に住んでいる人にとって、ジャカルタは本当に夢のようだ、と人々は思った。ここ

での生活は、人々が言うほど簡単ではありません。

舞台裏では、大都市に住むことには多くの問題があります。貧困から汚れた水と

空気へ。ジャカルタの貧困は常に問題であり、多くの人にとって一度見ただけで忘

れられてしまいます。すでにジャカルタで生まれたインドネシア人であれば、彼ら

はすでにここに住んでいる拠点を持っているので、通常、ここでの生活に苦労する

ことはありませんでした。すでにジャカルタで生まれたインドネシア人であれば、

彼らはすでにここに住んでいる拠点を持っているので、通常、ここでの生活に苦労

することはありませんでした。仕事、家、それだけでなく、ここで生活するために

必要な費用を探しなければなりません。ここでたくさんのお金を手に入れますが、

多くのお金も使います。電気、水道代からして、決して安くはありません。 そのた

め、多くの人がここでうまくいっていません。彼らは他人からお金を求め始め、貧

困に陥りしてしまいました。 ジャカルタ政府のウェブサイトから入手したデータに

よると、2022 年 3 月の時点で、貧困者数は 502,04 千人であると書かれています。特

に 2021 年 9 月からは約 2 千人に上ります。つまり、ジャカルタの貧困率は約 5% に

達します。

ジャカルタの貧困を削減しようとする政府の支援はすでにたくさんあります。学

費から入院費まで、困っている人は手を差し伸べることができますが、それでもそ

れを手に入れるには多額のお金が必要です。ジャカルタから貧困を完全になくすの

は簡単ではないと思いますが、困っている人を助ける方法はあるはずです。ジャカ

ルタは、貧困から一般人、裕福な人まで、大都市です。せめて食べて、いい位置で

生活できた私たちは、困っている人を助けなければなりません。人々は慈善団体を

作ることができます。または、私が団地で知っていることから、私たちは時々、ま

だ素敵で着ることができるが、もう着ていない服を販売し、必要としている人にお

金を与えます。あるいは、服や役に立ちそうなものを集めて、困っている人に渡す

こともできます。それだけでなく、人々は困っている人に配るために大量の食べ物

を調理できたはずです。米を集めるだけでも、毎日の物を与えることも彼らにとっ

て大きな意味があります。簡単でシンプルな方法で貧困をなくす方法はたくさんあ

ります。私たちが本当にする必要があるのは、連帯感です。交流することで、

ジャカルタだけでなく世界中で貧困を減らし、貧困を減らすことができます。

路上でお金を求める貧乏人に同情するのは普通のことです結局、私たちは人間で

あり、共感を持っています。でも、そんな風にお金を出すだけではダメです。誰か

に同情するためだけに、見た目が良くない人がたくさんいますが、私たちは彼らに

私たちの気持ちを伝えたくありません。私たちが本当に必要としているのは、日常

生活を送るために本当に私たちの助けを必要としている人です。それは私たちから

遠く離れていないかもしれません。だからこそ、社交し、共感し、うまくいってい

ると感じたら、後ろに誰かを探してください。私たちが助けてくれる助けを必要と

している誰かがいるかもしれません。なぜなら、他の人を助け、この世界で誰もが

幸せに暮らせるように努めることです。その人だけでなく、あなたも今よりも大き

な人生を手に入れるでしょう。

・君島陽太      関東第一高等学校3年生  些細な事から始めよう   

身近で些細なことだと思うですけどしかし、しかしです。

駅とか周りをたまに見ると思うのです。そしたら外国人とかいるのですけど、迷ってそうなのにあまりその人のことを声かけてないのが良くないと思うのです。なぜなんて冷たいのだろうかと自分は疑問に思うところがあるということなのです。

私は積極的に声などかけていってるのでそこのまだ、慣れてない人もいるので、道案内とかしてるとたまに、余計なお世話かなと思うかなと自分で思ってしまう所もあります。けど、話しかけて不快にさせる事はないと思うのです。人の温もりを優しさで感じる事は事は今のご時世あまり抵抗はあるかもしれないけど、積極的に話しかけ、伝えることが大事なのです。しかし、日本人は、自主的に動かない所が少しあるのです。その自主的に動くことが大切のだと思います。

もし、自分が逆の立場だった場合を考えててよく言われますが、その考えの通りだということです。自分があまり知らない町で、1人しかおんなじ言語の人がいなかったら不安だし、頼れる人がいないので心ぼそいのです。その結果私はあまり、英語も完璧に話せないと思うと思うのですけど、1人にさせないことを心がけて日々生活をしてます。日本という国を安心させて安全で優しく、温もりがあり、また訪れたかなったり住みたくなることがとても大事なのだということなのです。

少し、話はズレてしまうのですけど、何が黒人差別、アジア人差別などと言いますが、そのことを理由に差別してしまうことは、どうかなと思います。そんなのはその住んでいる人の大人数が勝つ多数決ではないということなのではないのです。大人数が絶対ではないということではないのです。昔が差別して歴史など書いてありますが、今は、今なのです。自分は多くの人々と会って友達になりたいです。

誰が正義が悪だなんてこの世で決めたのだと僕は思う。なぜそのように差別を行うのだ。一方の考えのことしか考えてないからダメなのだ。だから色々なことを考えて知るということが大切で差別してる人が少ないからニュースになってるのですから、その国全員が差別してる事はないと思うのです。恐れずにその国に行って体験することが大事なのです。

だから、困っていたら手を伸ばすのです。

・今井梨友      玉川大学2年    無自覚の「取り残される側」

「誰ひとり取り残さない」。これは、SDGsが掲げる基本理念である。

「取り残されない」と聞くと、貧因に苦しむ人々や、障がいや性的マイノリティによって差別を受ける人々をその対象とし、それに該当しない自分は「取り残されていない側」だと錯覚する。しかし、この基本理念には「何から」取り残さないのかが明確でない。つまり、考え方次第では、誰もが「取り残される側」になり得るということだ。私はこの「無自覚の取り残されている側」が、日本に多く存在していると考える。

そもそもこのSDGsの取り組みについて、個人が簡単に出来ることは多くある。例えば、節水や節電、紙の使用量削減といった無駄遣いの防止である。しかしこれらの取り組みを、全員が日常的にしていると言えるだろうか。そして、これらを実践していないことはつまり、SDGsそのものから「取り残されてしまっている」のではないだろうか。

このSDGsは、世界193カ国が加盟する共通目標である。多くの国が参加していることに加え、一人一人の簡単な心がけが目標達成へと繋がる。この共通目標は、私たち一人一人の参加を目的としているため、それを怠ればSDGsそのものから取り残されたことになるのだ。そして、「自分には関係ない」と参加意識の低い者や、SDGsへの知識が皆無である者がいれば、その時点で「誰ひとり取り残さない」という基本理念は果たされない。

こういった人々は、自分が「取り残されている側」だという自覚を持っていないため、貧因や差別で苦しむ人々とは違って、無自覚に取り残されてしまっている。日本では、他国に比べ貧困などで苦しむ人々が少ない反面、こういった無自覚の取り残されている側が多く存在するように感じる。そしてこの観点から見れば、無自覚に取り残されている人が多い国は非常に危険である。取り残されている人は、日常的な取り組みを怠っているということだが、そのような人が多い国がSDGsを達成できるはずがない。しかし逆に言えば、取り残されていることを自覚するだけでもSDGs達成の1歩へと繋がる。

ではなぜ、簡単にできるSDGsの取り組みを、全員が行わないのだろうか。それは、簡単に出来るからこそ1人1人の責任が散漫し、「誰かがやってくれる」という負の意識変換が起こってしまうからだ。更に、SDGsを知っていても、簡単な心がけ次第でSDGsの達成に繋がることを知らない人も多い。そのため、目標のみでなく、それを達成する上での具体的な対策をセットで知ってもらう必要がある。こういった情報は、テレビや雑誌といったマスメディアや、若者が多く利用するSNSといったツールを利用すれば、もっと多くの國人に周知させることが出来るだろう。更に、小学生の授業にもSDGsに関連した授業を取り入れれば、幼少期から知識の享受をおこなうことができるので節電や節水といった行動が、当たり前にできると考える。そういった、若年のうちからSDGsを意識した取り組みをおこなうことができれば、無意識の取り残される側は減っていき、「誰ひとり取り残さない」未来が訪れると考えた。

・河邨右京      関西学院大学二回生      ハブの持つ可能性

持続可能な開発目標(SDGs)とは、貧困をなくし、地球を守り、すべての人に平和と繁栄をもたらすために、2015年に国連で採択された17の世界目標である。SDGsの根幹には、「誰一人取り残さない」という原則があり、これは、すべての人々が、その背景や状況にかかわらず、自らの可能性を発揮し、地域社会や国の発展に貢献する機会を確保することを意味しています。

SDGsを真に達成し、誰一人取り残さないためには、さまざまなグループの多様なニーズや状況を考慮した包括的で公平なアプローチを採用することが不可欠です。これは、単に必要なサービスを提供するだけでなく、一部の人々が社会へ十分に参加することを妨げている構造的・制度的な障壁に取り組むことを意味します。

SDGsの達成を支援し、誰一人取り残さないためのユニークなアイデアのひとつが、””インクルーシブ・グロース・ハブ “”の設立です。このハブは、あらゆる階層の人々が集い、コミュ ニティにおける課題や機会を特定し、それに対処するための地 域の拠点となります。

このハブは、政府、企業、市民社会組織と のパートナーシップの下に設立されます。ハブは、人々が地域経済に参加し、コミュニティの発展に貢献するために必要なスキルや知識を身につけられるよう、さまざまなサービスやサポートを提供することができます。

例えば、デジタルリテラシーや起業家精神など、新たなスキルを身につけるためのトレーニングや教育プログラムを提供することができます。また、起業や事業拡大を目指す人々には、資金調達や事業開発へのアクセスを提供することも可能です。

こうした価値あるサービスに加え、ハブは、貧困や不平等の根本的な原因を特定し、それに対処するために、多様な声や視点を集め、対話や協力の場として機能することができます。これには、包括的な成長と開発を支援する政策やイ ニシアティブを擁護するために地元政府と協力することも含 まれます。

ハブが真に包括的で、誰一人取り残さないようにするた めには、ハブの設計、実施、ガバナンスにおいて、周縁化さ れた不利な立場にあるグループの関与とエンパワーが不可欠で ある。これには、現地の女性グループ、青年団、障がい者な どを巻き込み、彼らの声を聞き、彼らのニーズに対応できるよう にすることが含まれます。

全体として、インクルーシブ成長ハブの創設は、持続可能な 開発を促進し、誰一人取り残さないための強力なツールとなり得 ます。実践的な支援を提供し、協力と対話を促進することで、誰もが貢献し成長できる、より公平で包括的な社会の創造に貢献することができます。

・野澤理紗子    細田学園高校一年        同性婚と国の成長

結婚は異性同士は認められているが、同性では認められていない。これを差別とは思いませんか。

2022年7月にはヨーロッパ、アメリカ、オセアニアなどの31の国や地域で同性婚が可能になっている。2019年5月にはアジアで初めて台湾にて同性婚が認められた。段々と同性婚が可能になっているのに、日本ではまだ同性婚が認可されていない。同性婚に代わるパートナーシップ制度があっても、差別は無くなったとは言えないだろう。

なぜなら、この制度は法的効力を持たないからだ。すると、パートナーが事故にあった時や病気になった時に面会や手術の同意ができない。パートナーの子どもを育てていても自分に親権がない。パートナーが死亡した際はこの制度では遺産を得られず、パートナーの家に住んでいたならそこから追い出されることもある。また、パートナーの国籍が違えば、配偶者ビザが貰えないため、失業した際は同じ国で暮らすことも叶わない。

こんな条件でもパートナーシップ制度があるから、同性婚が無くてもいい、と言えるのか。きっと多くの人が首を横に振るだろう。だから私は同性婚の必要性を訴える。

なぜ同性婚は認められないのか。同性婚の問題点とその解決策を考えてみる。まず、同性婚は憲法違反であると言われていること。憲法24条1項の婚姻は、両性の合意のみに基いて成立するという文の、両性を男女と捉え、同性婚は憲法違反と言われるが、同性婚の禁止の記載はない。同性婚の禁止は憲法14条の法の元の平等が侵害されていると言える。しかしそれは個人の解釈次第となるため、今も議論がされいている。

他の理由は、偏見、少子高齢化、労働者の減少、子供の発育への影響などがある。

私は偏見が捨てられないことと子どもの発育への影響は一緒に解決できると考える。子供の頃から関わっているものに偏見は生まれない。我々が呼吸をするのに疑問を持たないのと同様に。ならば偏見があるから認められない、というのが現在の人々の課題となる。子どもの発育への影響も、これから子育てをする世代の課題だ。性的マイノリティーは未来の、それが普通と思って育った人々の課題ではない。それが躊躇いや優柔不断により、次世代に決断を押し付け続けている。なら、我々がすべきことは今、変わることではないだろうか。と言っても、それが難しいから未だ世界は変わらないのだろう。しかし、子どもの育て方がカギになるのは確かだろう。

次に労働や人口について。日本は海外の技術を積極的に取り入れるため、外国から人を呼ぶことが多いが、日本の赴任に同性のパートナーが同伴できないため、赴任が拒否されることが増えている。また、日本では同性婚が認められていないため、同性婚が認められている国に移住する人も多い。つまり、人口が減っている。なら、同性婚が認められれば、人口増加に繋がるのではないか。さらに、同性婚を認めた国ではウェディング産業が活性化した例もあり、経済も救われると言える。また、HIVが広まった過去がある同性カップルは同性婚ができないことで関係が安定しなかったこと、妊娠しないため避妊をしなかったことが病気の原因とされている。なら、同性婚が認められれば、関係が安定し、責任感を持つようになるかもしれない。すると、病気による死亡率も減らせる。

最後に少子高齢化について。これは、私は根本的な解決策は思いつかなかった。どうしたって体の構造的に同性で互いの遺伝子が混じった子孫を残すことはできない。男性は誰かに精子を与え、女性は誰かの精子をその身に着床させる生殖医療は、日本では同性愛者には適用できないし、それは愛しい人との子どもとは言い切れない。だから、その制度を整えたとして、それを利用したいと考える人がいるかは分からない。そこで、私は里子制度を提案する。誰もが聞いたことがあるであろう、孤児を引き取る制度だ。孤児はもういない、と考える人もいるかもしれないが、孤児は少子化に関わらず多い。今、全国の児童養護施設は満員で空き待ちの状態だ。法改正で被虐待の可能性がある子どもの保護のため、裁判所の許可が降りると児童相談所が強制的に立ち入れるようになったからだろう。虐待や育児放棄が原因で保護される子どもが特に多いのはそのためだ。そして、勘違いをされがちだが養子縁組と違い里親には婚姻は関係がない。なら、子どもを増やすのは異性婚に任せ、すでに生まれている孤児を助けるのは同性婚の役目としないか。

しかし、同性婚と少子高齢化に因果関係はあるのだろうか。異性婚でも晩婚化や経済的な問題、不妊などで子どもが作れない、望まない事がある。それなのに少子高齢化の原因は同性愛だ、と言えるのか。因果関係がそこにないなら、同性婚を認めよう。差別は、個人が幸せから置いていかれることだと思うから。新しくなってゆく世界に国が置いていかれるから。

・山田友見      天理大学        ペイ・フォワード〜人との繋がり〜

ペイ・フォワードという言葉をご存知だろうか。私はこの言葉を映画にもなったキャサリン・ライアン・ハイドの『ペイ・フォワード』という本の中で知った。誰かから受け取った贈り物に対して、その恩をほかの誰かに返す、という独創的な発想で世界が少しずつ幸せな方向に変化していく物語。ペイ・フォワードとはその考え方のことだ。

“”誰ひとり取り残さない””このテーマを聞いた時、これほど難しいことはないだろうと思った。障害を持っている人を取り残さないためにはそれぞれの障害にあった対処法が必要だし、LGBTQ+の人を取り残さないためには人々の理解が必要だし、貧困に苦しむ人たちを取り残さないためには社会制度を変える必要があるし、外国人を取り残さないためには言語の壁を越える必要がある。障害者やLGBTQ+、貧困、外国人といったわかりやすい例だけでも必要なことが山のように積み上がっている。だから””誰ひとり取り残さない””を実現するほど難しい事はないのではないかと思ったのだ。

でも違う。私は先に紹介した『ペイ・フォワード』を読んだときに気づかされた。””誰ひとり取り残さない””ということを私たちが社会の問題として大きく取り上げ過ぎているだけなのだ。私たちは一人一人なのだ。障害者やLGBTQ+、貧困、外国人、その他多くの枠組みにとらわれることなく、まず一人の人として一人一人と向き合うことができるのだ。そして、私たちは誰かと繋がっている限り、決して取り残されることはないのだ、と。

私たちは繋がりを通して””誰ひとり取り残さない””世界を実現できるのである。障害者や

LGBTQ+、貧困、外国人といったわかりやすい例にとどまらず、私が感じるちょっとした取り残された感をも解消してくれるのが繋がりである。一人話についていけないと感じている時にそっと話の流れを説明してくれる友達という繋がりがあれば、決して取り残されることはない。

私はペイ・フォワードを実践していきたい。ペイ・フォワードを通して、私とあなただけの世界にとどまらず、多くの人に幸せを届け、繋がりを広げ、またその繋がりをより強固なものにすることができると思うから。人と人との繋がりが””誰ひとり取り残されない””世界を実現すると信じているから。誰かの「おはよう」に「おはよう」を返すだけでなく、また別の誰かに「おはよう」ということ。これが私の””誰ひとり取り残さない””世界の実現に向けた初めの一歩。

・Labibah Nadiyah インドネシアのブラウィジャヤ大学 3年生      

新しくきれいなエネルギーを使いましょう!     

最近、天然資源の問題がたくさんあります。インドネシアでは、最も使われる

エネルギーは化石燃料です。実際は色々な新しいエネルギー源を使用できます。それ

に燃料油は時間の経過とともに枯渇する可能性があります。それから他にも説明した

い問題がたくさんあります。

私はマランに住んでいます。高原に位置し、山に囲まれた都市です。この都市

は東ジャワ州にあります。マラン市は教育の街として知られています。最高の大学も

色々あります。また、山に囲まれた自然と涼しい空気が魅力の観光都市でもありま

す。街を彩る花が多いので、花の街としても知られています。そして、民族や文化を

持つ多種多様な人々がいます。マランは涼しく、美しいので、さまざまな国の人と日

本人もここに住んでいます。

マラン市の人気により、マイナスの影響もたくさんあります。たとえば、大学

生や人々は、多くの人が住んでいるのため、ゴミや公害が蓄積されています。まず、

インドネシアの人々はまだ化石燃料を使用しています。また、自分の車やモーターバ

イクを日常生活に利用している。日常生活でモーター バイクを使用する一人一人は、

汚染がもっと悪くなります。

実際、東ジャワの他の都市と比較すると、マラン市は少し寒いです。 しかし、

家にいなくてもエアコンをつけっぱなしにしている方も少なくありません。これは照

明にも当てはまり、私たちの多くは家にいなくても照明をつけています。それはよく

ない、””global warming”” に悪影響ができます。

上記の例に基づいて、地球を助けるために私たちができる簡単なことはたくさ

んあります。無駄なエネルギーを大幅に減らすことができます。 外出するときは必ず

電気やエアコンを消す、直射日光で衣類を乾かす、再利用できるものを使ってプラス

チックの使用を減らす、公共交通機関を利用するなど、簡単なことから始めましょ

う。

研究者や賢い人々が再生可能エネルギーを効果的に使用する方法を見つけるま

で、地球の寿命を延ばすことができます。 たとえば、風力エネルギー、水、太陽光、

および将来の自動車の燃料として水を生成するなど、私たちの想像を超えるエネル

ギーの使用などです。 少なくとも私たちは、人間自身が生み出す愚かさを減らすため

に最善を尽くしてきました. 私たちはこの地球に住む自然と動物を助けることができま

す。

地球のため、動物のため、人間のため、あなたのため、そして自分のために、

クリーンなエネルギーを使いましょう。

・Sotya Nadia Tanaya BRAWIJAYA大学3年 ジェンダー平等を達成し、すべての女性と女児に力を与える

ジェンダー平等を達成し、すべての女性と女児に力を与える。

ジェンダーとは、社会によって形成された役割と、社会化プロセスを通じて組み込まれた、女性と男性の性に関連する行動と定義することができる。女性と男性の間には生物学的な違いがありますが、文化はこの生物学的な違いを、適切な行動、権利、資源、権力に関する一連の社会的要求として解釈しています。ジェンダーに基づく差別は、今でも世界中のあらゆる生活場面で起こっています。これは、今日、男女平等がかなり進んでいるにもかかわらずです。差別の性質と程度は、国や地域によって大きく異なります。

女性と女児は不平等の矢面に立たされていますが、それは基本的にすべての人に害を及ぼしています。したがって、ジェンダーの平等は、それ自体が価値を持つ開発目標の中心的な問題なのです。男女平等とは、女性と男性がまったく同じ資源を持ったり必要としたりすることではなく、女性、男性、トランスジェンダー、ジェンダー的に多様な人々の権利、責任、機会が、出生時に割り当てられた性別に依存しないことを意味します。現在、世界は男女平等を実現しようと努力しています。それは、世界の多くの地域で、政治における女性の役割の向上、経済的機会の増加、ヘルスケアの向上などに表れています。男女間の賃金格差は世界中に存在し、特に母親や介護をする女性には大きな負担となっています。この男女平等の例でいう男女平等とは、性別に関係なく、同じ仕事には同じ賃金が支払われるようにすることです。

教育の欠如は、男女間の不平等がもたらす最も大きな結果の一つです。女子教育が男子教育と同じように優先されれば、より多くの女子が学校に通うようになるでしょう。そうすることで、将来、より良い仕事の機会を得て、収入を得ることができるのです。ジェンダー平等は、女性に対する暴力の根本的な原因であるため、女性や少女に対する暴力を防ぐことができます。これを克服するためには、女性にも男性と同等の権利があることを継続的に社会化することが必要です。そして、女性がどこまで男性と対等になれるかが重要なのです。なぜなら、ある事柄については、女性は名誉を維持し、女性自身を守るために男性の立場を占めることができないからです。また、女性を保護しつつ、男性と同じ権利を与えることで、女性は自分たちの正義が完全に果たされたと感じることができるのです。そうすれば、人生のバランスは実現されるでしょう。

したがって、ジェンダー平等を実現し、女性に対する暴力を防止する最善の方法のひとつは、ジェンダー平等そのものを求め、声を上げ続けることです。結論として、男女平等は、女性と男性の人間としての平等な権利を維持し、女性がしばしば経験するあらゆる形態の差別、暴力、ハラスメントをなくすために重要である。

・高橋沙緒莉    宮城県名取高等学校2年  平等な生活を   

SDGsの原則である、「誰一人取り残さない」という概念から、私は、一人一人が平等に暮らせるように手助けをすることが大切だと思いました。

世界には貧しい国がたくさんあると思います。お金が無く、ご飯をしっかり食べられない人、水も汚れていて汚れた水しか飲めない人、子供でも学校に行けず働いている人、障害持ちで不十分な生活をしている人などさまざまな人々がいると思います。それらを解決するには、一人一人が手を差し伸べてあげることも大切だと思いました。食べ物では、ここ最近、フードロスが多くなってきていると気がします。フードロスは食べ物が捨てられるという意味を指します。その食べ物をご飯で困っている人に分けたり上げたりするなどの工夫をすることが大切だと思いました。障害持ちで不十分な生活をいている人にはその人達に合った施設や建物を作り、充実した生活を送れるようにした方が良いと考えました。足腰が弱い人にはスロープ付きの建物を作ったり、発達障害を持っている人は介護サポートをしてもらったりなどの工夫が必要だと思います。

また、日本では、ジェンダーでの差別も多くなっているとおもいま思います。例えば、男性が女性に対する暴力、DVが多い気がします。女性は家事を中心に中には仕事と家事の両立、男性は仕事で家を出ている人が多いと思います。女性も疲れているのに、男性は自分が帰ってきたときに、ご飯が作られてなかったり、風呂が掃除されてなかったりしたりしたときに怒ったり文句を言ってきたりします。子持ちだったら子どもの育児をしながら家事をするのはとても大変だと思います。自分の都合が悪くなったときに人に八つ当たりで文句言ったり殴ったりするのは人としてすごく最低なことだと思います。電車やバスなどの共通な場所で赤ちゃんが泣いていると、うるさいなと思う人がいます。赤ちゃんはまだ言葉が分からず喋れません。それなのにも関わらず、冷たい目で見たり、うるさいと言ったりするのはおかしいと思います。赤ちゃんは喋るのが仕事なので泣いて感情を表現するしかないと思います。

ここ最近、子ども関係の事件をくニュースでみます。保育園や幼稚園の先生には子どもの世話や教育をする義務があります。それなのにも関わらず、脅して世話をしたり、殴ったりするのは先生としておかしい行為だと思います。子どもには愛情を持って育てなければいけません。我慢させるのもときには大切だけれども我慢させすぎるのも良くないと思います。

このことから私は、世界中の人々が平等に暮らせるようにするためには、一人一人が意識して行動し手助けをすること、男性は日頃から女性に対する感謝の気持ちを忘れないこと、子どもには愛情を持って接することが大切だと思いました。

・古川蒼依      水城高校2年    「誰一人取り残さないSDGs SNSいじめについて考える」   

誰一人取り残さないSDGsとはなんだろうか。身近で考えれば、いじめや差別があげられる。誰もがSNSを毎日使う現代、ネットでのアンチ(anti:反対者)による誹謗中傷は年々明らか増えている。ティーンズに人気のインフルエンサーやアーティストは特に影響を受けているのではないだろうか。

私は高校生だからこそできるSNSを通じて取り組めるSDGsがあると思った。

①      いじめの原因追求

主な原因として嫉妬、恨み、仕返しがあげられる。

このようなグループ内から学校生活へ派生したいじめが、匿名性を持つSNSを利用することで、身分を隠したまま他人を攻撃することができ、権力の優位性によって攻撃がエスカレートする傾向があると知った。

②      アンチを生まない、誹謗中傷をさせない取り組み

第一に、自分が他人に対する誹謗中傷をしないようにする取り組みが必要だと考えた。

例えば、10代のSNSのいじめで多くある事例が下記である。

・twitterによる悪口、隠し撮りの拡散

・グループLINEで無視される、省かれる

・なりすましで嫌がらせを投稿する

・掲示板に個人情報を書き込まれる   etc…

<Qなぜ誹謗中傷をしてしまうのか>

誹謗中傷する人には共通して下記のような特徴がある。

・コンプレックスを抱えており、嫉妬心が強い

・常に不満を抱えており憂さ晴らしを求めている

・ゆがんだ正義感を正しいと思っている

このような自分にかかっているストレスを他人にぶつけて少しでも和らげることが目的なのだそうだ。

③      両極どちらも受け入れる環境

ならば、自分自身が他人に誹謗中傷をしないために、受けないために、自分を肯定してあげられる余裕のある心の教育が必要ではないだろうか。

そこで私は、高校生ボランティアとして電話でいじめ相談を受け付けたり、ただひたすらに相手を褒めまくるサイトがあったりしたらいいと思った。

ここでは匿名性を利用しているので個人情報についての一切を気にすることなく、また年が近いからこそ話しやすい場を作れば、批判やコンプレックスによるストレスを改善できるのではないだろうか。自己肯定感の底上げとともに心の痛みに寄り添える、現状続いているいじめに悩む人が救われる、だれひとり残さない場所を同じSNS上でもつくりたい。

・Zalianti Nur Halizah  ブラウィジャヤ大学3年生「インドネシアで早すぎる結婚と子供結婚」

「ジェンダー平等」とは、権利と義務を果たす上で男女が平等な状態という意味です。しかし、「ジェンダー平等」に関する悪い事件はまだたくさんあります。 例えば、早すぎる結婚式や女性と少女に対する差別や家庭内暴力です。どこでも、この事件は頻繁に発生します。そして、「ジェンダー平等」の事件に対応するための人々からの反応がまだ不足しています。

私の住んでいる場所は事件があります。 その事件は早すぎる結婚です。 事件は近所の娘に起こりました。 彼女は結婚できる年齢ではなかったが、状況のせいで彼女は早すぎる結婚を強要された。 乱交と親の監督の欠如が原因で発生する可能性があります。 その事件の結果は、彼女は若くして妊娠しました。 それと、インドネシアでは未婚の妊娠は悪いと考えられています。そして、それは彼女にとって非常に有害です。彼女は男性よりも多くの損失を被ります。 この事件は、彼女に多くの悪い影響があたくさんあります。彼女は精神的に準備ができていなかったので、結婚は終わった。息子さんも可哀想すぎる。 父親がいなかった。 でも、今の状態はもう良いです。彼女は息子と一緒に暮らしているほうが幸せです。

早すぎる結婚は、十分な年齢の女性よりも出産時に死亡するリスクが高くなります。 このリスクは最大で 5 倍になる可能性があります。さらに、早すぎる結婚した少女は不安とデプレッションとさらには自殺の考えなど、多くの心理的問題を経験します。この子達はまだ自分をコントロールできません。そして、赤ちゃんにとって危険です。リスクが高く、赤ちゃんは未熟児で生まれや栄養失調でありや成長遅延を発症するリスクがあります。彼らは経済的に早すぎる結婚するので、安定していません。 そして、それは彼らにとって非常に悪いことです。そして、最も残念なのは彼らの子供です。

結論は、早すぎる結婚は悪い影響がたくさんあります。例えば、デプレッションや不安やさらには自殺など、本当に危ないです。 子供の世話をする親の役割は非常に重要と思います。政府も結婚適齢期を発表しています。 しかし、僻地では若いうちに結婚することの危険性をいまだに気にかけません。私としては、この早すぎる結婚をもっと真剣に受け止めてほしい。取り組む必要があるのは早婚だけではありません。 「ジェンダー平等」に関する事例も、より真剣に受け止める必要があります。気にする人がほとんどすこしだけです。

・柳澤李空      名取高校2年    SDGs

学校生活を通して自分らしさや個性を制御されていると感じることはないだろうか。代表的な例として化粧があげられるだろう。社会人になったら化粧はマナーと言われるが学校では禁止となっている。高校で禁止されていたらいつ化粧の仕方を学ぶのだろうか。このまま社会に入ってマナーがなっていないと言われても仕方がないというのが考えられる現状であろう。大学でも化粧や社会のマナーを大学側が講義として提供することは数少ない。

これはだめ。あれはだめという固定観念が現在の世の中にはあるのではないだろうか。

どうやったら平等で皆が納得のいく学校生活を送れるためにはどうすれば良いのかを調べていくうちに、ブラック校則というのが問題になっていることを知った。 ブラック校則とは、合理性のない学校規則で基本的になぜ禁止にされているのかということに対して論理的な説明できないものが多い。 例えば髪の毛の色が黒では無いと非行を行うかもしれないというのは、偏見や固定観念であり、論理的な説明とはなっていない 黒染め強要について大阪府立の高校で問題となったことがある。 また、学校にブラック校則があると答えた人は中学時代で三人に二人。高校時代で二人に1人があるというアンケート結果も出ている。 このことから生徒たちが過ごしやすい生活をするための二つの提案をしたい。

第1に校則委員会を作り教員や生徒が年齢役職関係なく平等に話し合う機会を作ることである。教員側は、なぜこの校則がありなぜ生徒に必要なのがを双方に納得できるまで議論を重ねる。このことで時代に即した校則を新しく作ることが可能である。 第二に、男女の制服の差をなくすことである。大手学生服メーカーであるトンボ学生服がジェンダーレス制服を提案している。これは、男女ともに様々な選択肢で自分らしい制服を着ることが可能となる。ここで重要なのはジェンダーレス制服の採用ではなく選択の自由を可能にしたとアピールすることである。

これらを実行していくことは世間にSDGs推進をし、LGBTQに理解がある学校だとアピールするとともに全国の学校に良い影響を及ぼしていくことに違いない。

今の世の中は普通に固執する傾向がある。しかし、普通の基準は誰にあるのだろうか。誰が普通を決めるのか。今私達に求められていることは個々の普通を理解し認めていく。そしてその波を広げていくことではないかと私は思う。私達の高校生活が有意義なものとなるようこれからの動向に注目していきたい。

・中嶋乙翔      梅光学院大学2年        誰ひとり取り残さない授業

私はこれから「誰ひとり取り残さない授業」をテーマに述べていく。誰ひとり取り残さない授業をつくるための策として、私は授業のユニバーサルデザインに着目した。授業のユニバーサルデザインとは、簡潔に言うと「すべての子どものための授業」である。学力の優劣や発達要害の有無、国籍や言語に関わらず、すべての子どもが楽しく、「わかる・できる」ように工夫・配慮された通常学級における授業を言う。授業のユニバーサルデザイン化の指導の工夫として以下の三つが挙げられる。共有化・焦点化・視覚化である。共有化では、学びの確認・拡散をするためにおとなり同士での確認やグループ活動をする。焦点化では、指導内容を絞るために具体的な問いかけをしながら授業を進める。視覚化では、イメージ化を促すために見せ方の工夫やあえて見せずにするなどがある。私は特に焦点化の部分に注目した。具体的な問いかけをすることで今、考えなければならないこと、やるべきことが子どもの中にすっと入っていき、質問されたことや教師の指示が何なのかを理解することができる。そのため指導を焦点化することは、学習の優劣や発達障害の有無、国籍や言語に関わらず、すべての子どもにとって良い働きかけであると言える。私は、この授業のユニバーサルデザインこそが「誰ひとり取り残さない」のテーマにぴったりであると考える。様々な子どもの様々な困り感に寄り添うことができる授業であり、かといってそのような子どもたちだけに寄り添った授業というわけでもない。授業のユニバーサルデザインは、個人だけでなくクラス全体としてレベルアップできる授業なのである。

そこで私はユニバーサルデザインが進んでいる国に注目した。まずは、ユニバーサルデザインが生まれた国であるアメリカについて調べた。特定の人だけでなく、みんなが一緒に使いやすいものをつくろうという考えのもと、街の様々な場所にユニバーサルデザインが施されている。例えば、街中で多く見かけられるというピクトグラムである。これは、文字が読めない小さな子どもや海外の観光客にも分かりやすい表示である。その他にも、車椅子でも遊べる公園があったり、自転車やベビーカーなどのモベリティも畳まずに乗れる交通機関があったりする。

私は次にノーマライゼーションが生まれたデンマークに注目した。ノーマライゼーションとは、もともとは社会福祉の用語であり、障害の有無や性別、年齢の違いによって区別されることなく、主体的に当たり前な生活や権利を保障されたバリアフリーな環境を築いていく考えを意味する語である。障害者や高齢者といった社会的な弱者に対して特別視をせずに、すべての人が社会に一員であるという捉え方をする。デンマークでは、電気をつけるスイッチが大きかったり、廊下の手すりが違う高さだったりとデンマーク独自の美しいデザイン力も生かしながら街だけでなく、部屋にもユニバーサルデザインが使われている。

このようにユニバーサルデザインが進んでいる国を調べてみて、私は授業のユニバーサルデザインにおいて取り入れられるのではないかと考えたものがある。それは、視覚化の部分であるピクトグラムである。ピクトグラムは、外国国籍である日本語が分からない子どもや教師の説明を聞き取ることができない子どもなど様々な子どもに対応できるものであると考えた。分かりやすいピクトグラムをいくつか作り、ただの看板のような役割だけでなく、教師がそれを黒板に貼ったら次の行動を始めるというような使い方もできる。ピクトグラムを使うことで、教師が何度も説明を繰り返すことや、指示が分からずにきょろきょろし、他の子どもよりも1テンポ遅れたりする子どももいなくなる。そのような環境をつくることができれば、クラス全体の学習規律の向上につながり、さらにまた一段とクラスとしてレベルアップすることができるだろう。私はこのような考えから、「誰ひとり取り残さない授業」として授業のユニバーサルデザインを推奨し、すべての子どもが楽しんで授業をつくることができる、そのような環境づくりに励んでいきたい。

・小松真子 立命館大学1年生    教育を平等に受ける機会はオンラインだけでは生み出せない!

都市と田舎、あなたはどちらに住みたいですか?私は、都市と答えます。理由は簡単。都市に住めば、生活が便利だから。何か買い物をするにも、大手の塾に通うにも、都市にはほとんどそろっている。田舎に勝てないのは、自然の多さ、空気のきれいさ、近所の人との距離感ぐらい。生活をするには、都市の方が便利。

私の昔からの知り合いから、1学年の生徒が10人もいない学校に通っていたということを聞いたことがあります。私は小学生時代、1学年の人数が100人を超える学校に通っていたため、人数が少ないのは寂しいのではないかと思いました。現在では、小学生へのiPadの普及が進み、田舎にいても、都市にいても、同じような教育を受ける環境が整いつつあるように感じます。しかし、オンライン教育でつながっていてもやはり、田舎にいる方が都市で授業を受けるよりも、取り残されてるように感じます。

私は、1回目はサークルの旅行で、2回目はバイトで、休暇村に行きました。そこで感じたことは、日本人は自然と触れ合える場所に行くことが好きなのではないかということです。田舎の子どもたちが少ない人数でしか教育を受けられないという問題を解決できるのではないかと思いました。キャンプ場などの施設を利用して、そこの地域に住む子どもたちと都市から合宿で来る子どもたちが一緒に勉強をしたり、スポーツをしたりすることで、大勢で教育を受けるという環境を生み出せるのではないかと思います。コロナ化で、授業がオンラインで受けられるようになり、いくらオンライン上で友達と会話してみんなで授業が受けられるといっても、やはり教室にいる人数によって雰囲気は変わってくると思います。

世界に目を向けると、十分な教育を受けられない国や地域に住んでいる子どもたちがたくさんいます。このような地域では子どもが多くいるため、先生も多くいなければならないかもしれませんが、確実に生徒の数が多いほど多くの意見を出し合い、高めていけるように思います。子どもたちが人とつながる機会を提供するというのも学校という教育現場の役割の一つであると思うので、オンラインが発達したからと言って学校で集団教育を受ける機会を減らさず、むしろ増やせるような努力をしていく方が、教育の質を高めることにつながるのではないかと思います。

・藤川奨大      梅光学院大学    インクルーシブ教育の実現を目指して

皆さんは教育的ニーズのある子という言葉を知っているだろうか。これは教育現場での活動・勉強をする上でなにかしらの問題を抱えている子を指す言葉である。これは単に障がいを抱えている子どもだけを指すのではない。教育的ニーズはすべての児童がもつ可能性を秘めており、何がきっかけで出現するか分からないものである。そのため、全ての児童が不自由なく学ぶことの出来る環境を整えることが必要であり、この教育的ニーズを抱える子どもたちが、学校という学びの場で取り残されないようにするための取り組みが必要になってくる。では、今の教育現場で必要な取り組みとは何だろうか。

私は日本が行うべき取り組みの一つとして、インクルーシブ教育を挙げる。インクルーシブ教育とは障がいの有無に関わらず共に学び合う場を作り、平等かつ包括的に学ぶという教育の姿を指す。また、一人一人が自分にあった教育を受けられる、学習方法を選択できるという特色を持った教育方法の事である。このインクルーシブ教育を日本全国で一般化させることで誰一人取り残すことなく、全員が平等に学べる環境を作り出すことが出来る。

日本は今、このシステムを整えている段階にあり、いまだに確立されているとは言えない。現在の日本の教育現場では「分離教育」といった特別な支援が必要な児童は地域の学校ではなく、特別支援学校に行かせるという手段がとられている。しかしこれでは、通常の小学校に通っている児童と差が生まれてしまい、人生の選択肢が狭まることなどが懸念される。特別支援学校という聞こえはいいが、その後の人生を考えると、ふさわしいとは言えない。

そこで、現在の日本の教育現場において、インクルーシブ教育を行う上で足りない部分を諸外国のインクルーシブ教育と比較する事で明らかにしていき、改善するために出来る事は何があるのかを考えていきたい。

まず、イタリアで行われているインクルーシブ教育の事例を紹介する。イタリアでは、障がいがあっても幼稚園から大学までの一般の学校で教育・指導を受ける権利が保障されている。また、イタリアの学校では、公立の特殊教育学校及び通常の学校内にも特殊学級が存在しておらず、99.6%の学校でインクルーシブ教育が成り立っている。これらの取り組みを支える秘密は法律にある。イタリアでは、学校の自主独立性保証に関する法律により、教育方針、カリキュラム、規定範囲内の授業時間等を独自に決定することが出来る。つまり、法律の整備を通じて、学校が教育に専念できる仕組みや環境が整えられているのだ。

次にイギリスの事例を紹介する。イギリスでは障害のある子どもの教育は、それまでの障害カテゴリーを基にしたものから、学習における困難さから考えられる特別な教育的なニーズを基にしたものに変更された。つまり、障がいの有無で判断するのでは無く、学習の困難さの有無が基本となっている。また障がいのある子ども、という表現ではなく特別な教育的ニーズを有する子ども、という表現を用いており、全ての児童が通常学級でともに学ぶことの出来る状態となっている。

これら二つの国の事例を挙げたが、この内容を通し私が、この二つの国に共通し、日本と異なる点は、きちんと法整備がされているかどうかであると考える。どちらの国も学校だけが支援しようとしているのではなく、国が総力を挙げて障がいを抱える子、つまり教育的ニーズを抱える子の支援を行っているのだ。確かに日本でも教育的ニーズを抱える子の支援を行おうとしている団体はあるが、あくまでも団体である。国としての活動ではなく、法律といった後ろ盾も存在していない。このような政府の協力姿勢の差が日本とは明白である。

日本の宝である子どもたちを誰一人取り残さないために、教育・学習環境を整えていくためには、学校という組織だけの問題とせず、国自体が動くこと、法整備を整えていくことが日本にとって先決である。

・Tolle Muhammad Dustin Hazeldo Tolle   私立ブラウィジャヤ・スマート・スクール高等部3年

学校組織内のインナー・スクール       

皆様、「学校組織」、ご存知でしょう、生徒会、部活動など。其(そ)の「学校組織」に携わった事があった皆様へ、此(こ)れを感じた事がありますか、「或(あ)る会員達が自分のサークルがあって、其のサークル外の会員を無視にして、貴方が取り残されている気持ちをする」。何人かは此れはあるあるだと思う。其れに、サークル内の会員は、サークル外の会員を「贖罪の山羊」にする事も良くある事だと思う。例えば、サークル内のAさんが会長から「今日の業績どうだった?皆なちゃんと協力して働いた?」と訊かれたら、サークル外のBさんとCさんへ指を指して出任せに咎めるだろうが、実際はインナー・サークルの会員が働き中他のサークル内の会員のみで働いて、サークル外の会員が「私何する?」とサークル内の会員へ訊いたら、返事は大抵「分からん」だと思う。其れ故に、サークル外の会員が、何しようか分からないので、「用無し」の会員になった。特に、其の「用無し」の会員がサークル内の会員を手伝おうと思って彼等を手伝ったら、彼等の反応は大抵「おい何やってんだお前、俺を邪魔するな!」と返事するかもしれない。此の習慣が止まらないと悪化すると思います。組織、学校、交遊などに、悪い影響があります。此の悪い習慣を無くさないと、社会は進化出来ません。彼等の行動を許すと、未来はどうなるのか。彼等が成人になったらどうなるのか。政治や会社内の依怙贔屓(えこひいき)、エリート主義が流行っているかもしれません。前述の原因は、此の「サークル主義」から生まれました。社会には迷惑です。見舞われた事があった皆様は、勿論つらいと思うでしょう。だからこそ、各学校は、此の行動を重視して関心を高めた方が良いと思います。此れから、「サークル主義」の無い学校組織を作りましょう。

・村上夏七海    梅光学院大学2年        本当に誰ひとり残さないために、

SDGsでは国連に加盟する全ての国が、2030年までに持続可能でより良い世界を目指すという国際目標をたてている。持続可能な世界を実現するため、「貧困」「飢餓」「健康と福祉」などをテーマにした17の目標と169の国で構成しており、基本理念としては、地球上の「誰一人取り残さない(leave no one behind)」を誓っている。

私は大学で「比較教育学」という授業を受講したが、その授業では諸外国の教育制度に着目し、日本と比較することで新たな知見や今後の方針等を見出していくという目的を持って受講している。様々な国を比較し得た知識とSDGsを関連させて考えると、誰一人取り残さないという理念は全くもって保障されていないのだと実感した。どのような政策を行えばよりよい世界になるのか、具体案を考えてみることにした。

授業では様々な国の教育事情を学習していく中で、学習意欲があってもできない状況・環境にある子どもたちが多くいることを知ったとともに、学校に通えていない子どもたちが1億人以上いるという現状に驚きを隠せなかった。主な原因としては貧困により生活が安定していないため学校に通う時間がない、学校や物資が足りていないなどが挙げられる。そのような子どもたちに私たちができることはなにがあるだろうか。日本人は不必要になった物があれば捨てることが多いが、それらを寄付するだけで困っている子どもたちの手助けになる。寄付と言っても金銭だけではない。着られなくなった衣類、使わなくなった鉛筆やノートなどの文具、小説や参考書などの書籍など意外にも多くの物を寄付することができる。以上の活動はユニセフや難民を助ける会などが実施しているそうだが、私は更に発展させるべきだと考えた。何不自由なく生活している日本人にとって“学習できない環境”というのが想像できないというのが本心ではないだろうか、また支援してほしいと願っている人たち全員に物資を届けることができていないのではないだろうか、という疑問を持っているからだ。そのため困っている子どもたちの声を直接聞きたいと感じた。そのための1つ目の手立てとして手紙が一番有効的だと考える。その際、お金のかかる切手を用いることなく、封筒に入れなければという常識にもとらわれることなく届く手段を用いるべきである。手紙を用いることで今必要なものを知ることができ、少しでも国の支援に貢献できるのではないだろうか。

国際的な現状としては、ロシアがウクライナに攻め込み、今もなお被害を受けている人々がいる。私がニュースで見たのは大阪府がそのような避難民を受け入れるといった記事だった。日本は良い国だと抽象的に感じていたが、授業を受けていく中で避難民を受け入れることの大変さに気づいた。それが言葉の壁である。日本で過ごしていくために日本語を覚えるか、母国に戻るために日本で母国語を学ぶか、母国語がままならない子どもたちにどちらの言葉を学ばせるか、1人ひとりの考え方によって事情はさまざまである。他国で暮らすことを余儀なくされたというストレスに加え、言葉の壁という更なるストレスを与える状況をつくってはならないと思う。その解決策として2つ目の手立てである翻訳機の導入を考える。日本語から英語だけではなく、中国語からロシア語、スペイン語からフランス語など聞き取る言葉を相手の理解できる言葉に全て直すことができたら、日本のような支援をする立場の国で起きている指導者不足という問題も解決するのではないだろうか。翻訳機の製作方法としては金銭的に困っていて仕事を探している人々に協力してもらうとお互いによい影響があるのではないかと考えている。

以上の2つの案は現実的ではあるが、3つ目の案は非現実的にかもしれない。だがどうしても提案しておきたい具体案がある。それは「なにがあっても絶対に戦争に発展させない」という条約をつくることである。そもそも私には戦争で問題を解決させようとしたり、言うことを聞かせたりするという心理が分からない。なぜ国の代表である大人が話し合うという基本的なことをしないのだろうか。人の心と体を傷つけることを良しとしているこの世界自体、持続可能な世界、SDGsを達成することは不可能だ。授業内で世界の国々を比較してきたが、そのような事態を生んでいる原因として私が感じたのは、国ごとのルールがあまりにも違い過ぎるという点である。教育方法や日常生活、法律、国柄、似ている国はあってもまったく同じ国はないという事実に驚きを覚えた。今の世界はバラバラである。根本的に考えて持続可能なよい世界にしたいのであれば、すべての国が同じ目標を掲げ、同じ条件を呑み、同じ問題の解決に向かって進んでいくべきではないだろうか。そのためにも、社会的なルールや権利を全世界が同じにすることで権力争いや戦争が起きず、SDGsに則った世界になっていくのではないだろうか。     (1995文字)

・星涼介 宮城県名取高等学校 2年      差別のない社会を目指すために

現代社会は常に進化し続けている。それは私たちが想像もしないくらい早いスピードで進化していることもあるのではないか?それに比べて、時間をかけてゆっくりと進化していることもあるのではないか?だが、全てが進化をし続けているとは限らない。進化していないことがあるかもしれない。私はその一部に人間を挙げる。人間が成長しているからその他のことも進化しているとも考えられるが、表面的な部分が進化していても根本的な部分が止まっていれば人間は何も変わらない。その理由の一つとして今回は「差別」という点について考えて「一人一人が意識しなければ解決には至らない」ということがどれほど大事なものなのかという点について取り上げていこうと思う。みなさんは「差別」という言葉を聞いたことがあると思う。聞いたことがないという人がいないほどこの世に浸透しているよくない言葉のひとつだ。差別にはどのようなことがあるのか。人種を否定したり、肌の色が違うだけで暴力的な言動や行動をする「人種差別」や、働く女性の賃金が男性に比べて安かったり、やりたい仕事があるのに男性しかできなく女性にはできないなどといった「性差別」といったものが主と言われている。実際に差別は日常のさまざまなところで起こっている。サッカーの試合の中で肌の黒い黒人の選手に対して人種差別を意味する横断幕や言葉を浴びせる行為があり、それに対して選手は試合を放棄したりすることもあった。人種差別に対してサッカー全体として否定しているのが現状だ。試合前に膝をつく人種差別を無くそうと表す行為や、オランダ代表の選手がゴールパフォーマンスで肌が黒い人と肌が白い人の腕を見せ合って人種差別を否定する行為があったりする。サッカー以外のことでは、アメリカで、普通の日常生活を送っていただけの黒人の男性が白人の警察官に取り押さえられ、だが、それは大きく捉えたもので「差別」と呼べるものは私たちの身近に多く存在していると思う。「私たちの周りに差別なんてないよ」「俺たちには関係ないことじゃない?」という声があるかもしれない。いいや、それは違う。とても深く関係があると思う。差別を大きく捉えれば人種差別や性差別といったものがあるが、細かく捉えたらどういったものがあるのか。全ての人の身近にあるものでいえば、「仲間はずれ」などのことではないか。私たちの周りではこのようなことを「いじめ」と表される。そう考えると、「差別」と「いじめ」は同じなのではないかと思う人もいるだろう。これについて私は現代の人たちが「差別」の言い方を変えたものが「いじめ」だと思う。この2つには共通点がいくつかある。まずはどちらもある一定の人に対して行われる行為であること。そしてもう一つは、正しい裁きを受けていないということです。いじめは人が亡くなったにも関わらず、隠蔽に動こうとしたり、何かが動かない限り組織として穏便に済ませようとする行動が見受けられる。自分の身の回りでいじめは聞いたことも見たこともありませんが、ニュースやインターネットでそのような情報が回ってくるのが事実です。人種差別は知らない人でも見た目だけで差別をする悪質な行為です。人種差別禁止法という法律は日本であるものの、それが世界に通用するかといえば通用しません。各地で差別は起こっています。国際問題として取り上げていてもそれが0になっていないのが現状です。すべてのことに言えることだが、「差別」「いじめ」には1番大事だと思うことがある。それは、

「一人一人が意識しなければ解決には至らない」

ということです。何事も当事者が意識しなければ法律になったとしても起こってしまうことがあるのだ。これからの課題は起こった後にどうするかではなく、起こる前に止めれることがあるのではないかということを考えていかなければならないと思う。討論するだけではなにも解決しない。行動しなければならない。ということを伝えていく社会にしていきたい。

・十川世怜      新番丁小学校5年        読み書きができない女性たちの気持ち

SDGSがきっかけで話ができる友達が増えて、環境問題について休み時間に話すことがとても多くなりました。SDGSに関心を持っていない人はたくさんいたのでどうしたら持ってもらえるか考えました。クラスでは漫画が人気があったのでSDGSに関する漫画を作ることになりました。その作品にはオリジナルのキャラクターを作ってみんなが興味を持ってもらえるように工夫しました。

学校の授業でネパールやガーナなどの国に関するお話を聞きました。国の中でも大きな貧富の差があって生まれた国が違うだけで暮らしの中での必要な情報や日常で使うものなどが変わってきて、生活で色々と不便なことが出てきて毎日に影響していきます。そんな中で、字の読み書きができない女性がたくさんいます。読み書きができないとひとつひとつのことを理解するのに時間がかかり困ります。たとえば日常でよくある新聞や本、手紙、買い物、医者にクスリを渡されても詳しいことがわからないなどです。さらに、頼れる人がいないとイライラした気持ちや心配な気持ちがだんだん増えて、心細くなって絶望的な気持ちになっていくと思います。

読み書きができないと気持ちの面でも疲れてきて周りの人との人間関係が悪くなると思いました。

そういう女性が普段の生活の中で困っていると思うと涙が海になるほど辛い気持ちになります。

普段の日常生活の中で、もし読み書きがここでできなかったらと考えることで、女性のことがもっと理解できると思いました。

生活の中で読み書きのできない女性たちのことを思い返しながらもっと知識を深めて伝えていきたいです。

・Maghfira Nora Berlianda      ブラウィジャヤ大学、3年生 今の若者は家を買うのは難しい 

SGDsにはいい将来のための17のゴールがあります。そのゴールの中に11点のゴールは「住み続けられるまちづくりを」と言います。私の国、インドネシアに今年7月インドネシアの財務省のスリムリアニさんはニュースで「現在、インドネシアの若者は家を買うのはむずかしそうです」と言いました。これは人材の質の問題に関係があります。発展途上国と先進国にもこの問題があります。なぜこの問題が起こるか、どうすればいいか考えています。

問題の原因がなければ問題がありません。どうして若者は家を買うのが難しいのですか。人間からと人間以外の原因があります。最初は人間からのです。インドネシアでは生産年齢人口は70,74%(15歳から64歳まで)がいます。若い人が多いですが、プロの仕事の世界ではまだスキルが足りない人もいるそうです。そのため(Demographic Bonus)という現象があります。このため、若者が就職が難しくて、まともな給料を得ることができません。そして、人間以外の原因はいろいろあります。例えば、過去も現在も家の価格だけではなくて家賃も高いです。標準以下のあげた給料の会社もあります。ですから、家を買うのに比べて、家族の費用も大変だそうです。

その原因から何かできるでしょうか。将来の資格を取るために一番目は自分のスキルを向上させることです。現在、スキルを向上させる方法はたくさんあります。 しかし、まず自分が好きなこと、将来やりたいことを知る必要があります。現在、スキルを向上させる方法はたくさんあります。 しかし、まず自分が好きなこと、将来やりたいことを知る必要があります。 次に、信頼できるソースを探します。今もオンラインスキルクラスがたくさんあります。スキルクラスだけではなくて、安価で無料のセミナーやワークショップもあります。財布も「Pra Kerja」と言うプログラムで職業訓練にも資金を提供しました。そして、自分以外に、私の国の財布は政府は住宅補助プログラムを開始しました。

家を買うのは難しいことだと思います。しかし、そのために頑張ることがあります。前は将来にどんな仕事をすることを決めて、スキルを向上させ続け、自分のバリューを高めます。そこから、自分の財政をうまく管理し、優先順位を考えて、貯蓄をしていることがいいと思います。これは、家を買うできるようにするためだけでなく、いい未来のためでもあります。将来に自分と誰もがまともな居場所を持てるように一緒に頑張りましょう。

・HASANAH DHIVA MUSLIKHATUL BRAWIJAYA大学日本語教育学校3年生        ゴミを減らす

皆さん3R、知っていますか?聞いたことがありますか?3Rはゴミの問題の解決です。 その3Rは「

Reduce」発生抑制、「Reuse」再利用、「Recycle」再循環。 つまりこの3Rのプログラムの目的はゴミを発

生抑制して、再利用して、再循環することです。このプログラムが成功したらゴミが下がってということ

を期待されます。

でなぜ社会は3Rプログラムが必要なんですか?インドネシアの環境省のデータについて、インドネ

シアのゴミは一年間に1,820万トンあります。しかし手がけられるゴミは一年間に1320 万トンまたは

72.95%だけです。そこから3Rプのログラムは一人一人にスタートして、最も小さなステップからするこ

とができます。

まず「REDUCE」の部部分はビニール袋の使うのを少しずつ下がって、再使用型を使うの方

がいいです。 なぜなら買い物するとき、きっとビニール袋を使われます。 毎日人々買い物

をしたら、必ずビニール袋のゴミが増はます。次の方法はペットボトルを使うより、再使用

型ボトルを使うの方がいいです。 外に出ると、水を買うより自分で家から再使用型ボトルで

水を持ってるのは便利だと思います。 わざわざ販売機とかコンビニとか探すのが必要ない

し、お金を節約こともできます。

そして「REUSE」の部分は新しい服を買うより、古着を買うの方がいいです。 最近古着売っている店

が増えるようですから、まだ良いな服うを安い値段で買うことができるになります。 これはいいチャン

じゃありませんか。 ほかの方法は再使用型カトラリーを使うことです。 外に出かけるとき、自分で使

用型カトラリーを使って、食べ物買うと食品用ラップが必要なくなります。 そうすれば、わざわざゴミ箱を探さなくて、自分が持っていたはカトラリーはそともっと食品用ラップ衛生的でもあります。洗剤がなくなったら、洗剤のボトルを買わないで、プラスチックのせん洗剤を買って、洗剤を洗剤ボトルに移し替えることができます。 この方法は、食器用洗剤、シャンプー、ボディソープなど、他の製品にも応用できます。

「RECYCLE」の部分は再循環の製品を集まって、粉砕した後、別の新しいものに再加工することで

す。 その製品のなかにはスキンケアジャー、段ボール、ペットボトルなどができます。 「RECYCLE」は「REUSE」と REDUCE」よりめんどくさいんですが、少しずつ始まったら、慣れているになると思います。

ごみうをゴミの量を減らす

は政府の義務だけじゃなくて、一人一人の義務です。 自分から始めないのであれば、 かなかか大

きな変化は期待刷れません。

・関根望未      細田学園高等学校        教育格差

現在の日本では、生まれ育った環境により学力の格差が出来てしまうことが問題となっている。そのなかで、私達は評価されながら生きている。これについて私は、世の中は平等ではないと考える。

大学生まで子供を育てるのに最低でも1人1000万円以上かかると言われている。塾に通える人もいれば家庭の状態で通えない人もいる。塾に行けば勉強ができるようになって通ってないほうが勉強ができないとは一概に言えない。だが、塾に通っているほうが周りに教えてくれる人がいるし、環境も整っているところが多い。そこで学習の差が出てしまう。本人の努力次第では、塾に通ってなくても学力向上は十分可能だ。だが、いくら学力が上がっても家庭環境により、進学が困難な可能性がある。なぜなら、日本では教育により得るものが多いのは教育を受けた本人であることから、教育費は本人負担であることが多い。奨学金を借りて大学へ進学することもできる。だか、将来奨学金の返済をするのは自分自身になる。仮に、将来子供を授かったとしよう。そしたら子供の教育費を払いながら自分の奨学金を払うことになる。それでは、経済的に厳しくなっていってしまう人は少なくないと考える。実際に、親戚でも自分の奨学金の返済をしながら3人の子供の教育費などを払っていてとても大変だと聞いた。また、奨学金の種類は色々あるが、所得が多いからと言って生活が安定していると感じない。所得が多い分税金が多かったりして出ていくお金も多いので所得制限などといったものは不平等に感じる人もいる。最近、教育費無償化を訴えている。そこでは、所得制限をはらって、そして再分配をもう一回きちんと考えて整備しなおすことが必要だと考えられている。このようなことを実際に実現できたらみんな平等な教育を受けられるようになるだろう。

みんなが平等な教育を受けられるように、経済的に恵まれない家庭の子どもにも進学などのための公的な援助について見直し、少しでも進学しやすくなるようにし、目標や意欲を持って勉強に取り組めるようにしなければならないと考える。

・篠原世蘭      細田学園高等学校2年    いじめはなぜ起こるのか 

なぜいじめは起きるのか、私はすごく疑問に思う。いじめは悪いことで、絶対にしてはいけないことで、何よりこれ以上増やしてはいけない。いじめが原因で人が亡くなってしまう事件が起こることも十分にありえる。だからこそいじめ問題を考えることが大切であると思い、私なりに考えてみた。

考えてみた結果、まず先生の教育について問題があると思った。幼稚園生や小学校低学年の子供が、気に入らない子に悪口を言ったり、叩いたりしたら、先生はしっかりその子たちを叱り、謝るんだよと教育してくれるところを見たり聞いたりしたことが1度はあるだろう。またそのように先生から叱られるという経験をしたことがある人だっていっぱいいるだろう。人間性は小さい頃から構築されるもので、大人になったら変えることができる訳ではないし、その人の人間性の基盤は幼少期からつくられると思うから小さい頃の教育はすごく大事である。それと同時にいじめをする人は、幼少期の教育があまり良くなかったのかなとも思う。しかし、幼少期の教育が良かった・悪かっただけで決めつけることは出来ない。だが私はこの前、YouTubeで保育士が集団いじめを誘導しているという動画を見た。保育士から園児へという立場からするといじめではなく虐待になるが、ほかの園児が保育士を真似して園児へという状況になったらいじめになる。このような現状が信じられないし、浮き彫りになっていないだけで同じようなことは別の場所でも行われていると思う。まずそのような教育をなくしていくことが大事だからこそ、YouTubeを使って現状を伝えるというのはすごくいい事だし、世の中に発信していくことが重要だ。

2つ目、なぜいじめてしまうのか、いじめる人の気持ちになって考えてみた。その人のことをいい意味で素直に認めることができないからだという考えに至った。なぜこの考えに至ったのか、例を出して考えてみよう。

1つ目の例として、要領が悪い人(Aさん)がいるとしよう。Aさんは慣れるまでは何度やっても同じことで失敗したり、初めてのことは時間がかかったりと、要領の良い人からしたらストレスの原因になってしまうことがある。それは私も共感できて、なんで出来ないのだろうと感じることがある。だが、いじめをしたからといってその問題が解決することはなく、いじめをして残るのは自分が相手を傷つけたという事実と、それについての罪悪感だ。だから要領が悪い人には、しっかり自覚をさせることが大事で、自覚をすることで解決策を見つける近道にもなるだろう。そして、要領の悪い人も出来るようになるまで時間はかかるが、失敗は成功のもと、という言葉もあるように、その人自身の成長に繋がるだろう。いじめという方法でその人の個性を否定するのではなく、個性を認めた上で本人に自覚させるように優しく伝えることが大事だと思う。

2つ目の例として、気弱で人の面倒事を受け入れてやってしまうような人(Bくん)がいじめの対象だとする。きっといじめる側は、なんでもやってくれる、自分の手下に置きやすい、自分のおもちゃにできる、などと思っているだろう。だが、Bくんの気弱というのは繊細で人の気持ちがよく分かり気遣いができる、面倒事を受け入れるというのは人のためにやってあげれる優しい心があるという、視点を変えればすごく魅力的な個性になる。その個性をいい意味で素直に認められていたら、いじめるどころか友達にだってなれるし、利用しようなんて思わないはずだ。このように認めることによりいじめはなくなると思う。ただ、いじめる側も心に余裕があれば素直に他人を認められるし、いじめることはないだろう。その余裕をいじめる側がつくる努力をすることも大事だと思う。

いじめ問題はニュースなどでも報道されており、現在増加傾向にある。問題視されているにも関わらず増加しているということは対策が不十分であるということだろう。日本人のほぼ大半はいじめは良くないと思っている。思っているだけでは何も変わらない。いじめを無くすためになにか働きかけなければならないのではないか。

・紺野栄理香    宮城県名取高等学校 2学年       私たちにできることは? 

取り残された人たち(社会的弱者)を救うために何をするべきか。私は、飢餓を救うために農業の生産性を向上させる取り組みをすることがよいと考える。

なぜなら、自分たちで自給自足ができ、農作業するための機械提供などの支援があれば作業効率が上がり生産性を向上できると思ったからだ。

だけど、こんなことするよりも食糧の提供をした方が早いのではないかと思う人もいるだろう。

確かに、その方が確実に食べることができるかもしれない。

しかし、そんなのは一時的な救いにしかならない。そもそも飢餓は大きく2つに分けることができる。突発的な飢餓と慢性的な飢餓の2つだ。突発的な飢餓は自然災害や紛争など突然の出来事で食糧が急激不足し飢餓になる。慢性的な飢餓は農業の生産性が低い、雇用される賃金が安いという課題、不公平な貿易の仕組みなど政府、環境、教育などの様々な要因が絡むことで起こる飢餓である。突発的な飢餓は食糧不足になり餓死してしまうこともあるので食糧支援をすることに納得だ。

だが、慢性的な飢餓はそうとはいかない。慢性的な飢餓は餓死するわけではなく栄養不足から引き起こされる病死が多いのだ。餓死ではないので緊急性に乏しいとみなされ後回しにされているのだ。

栄養不足だから栄養のあるものを食べなければいけない、だけど栄養のある食物を作れないという現状だ。

作ることができれば救えるかもしれない問題だと思ったのだ。

だから、私は生産性を向上させるための取り組みをするべきだと考えたのだ。

しかし、支援するといっても無料で支援はできない。支援するためにはお金が必要だ。支援するお金は募金で集めることができるのではないかと私は考えた。安直すぎな考えじゃないかと思われるかもしれない。でも、支援するための募金を始めてみたらかなり集まるのではないかと思う。募金箱は時間や場所をとられないので支援がしやすい。自然災害が起きた時に支援するために設置された募金箱を見るとかなり集まってるように見える。

こうみると農業の生産性を向上させる取り組みへの支援金も集まるのではないかと思った。これなら私たちもほんの少しだが彼らを救う力になれるのではないだろうか。

他にも私たちができることはある。それは食品ロスを減らすことだ。食糧廃棄物は勝手に消えることは無い。ちゃんと処理するためにかなりの費用がかかっている。これにかかる費用を少しでも減らせるように食べ残しなどを減らすように取り組むべきだと思う。

これらのことから私は飢餓を救うために農業の生産性を向上させる取り組みをすることがよいと考えられる。

・武田結香      宮城県名取高等学校2年  差し伸べてくれる手を増やすために

私は虐待を受ける子供たちを救うために、教育者の学習をする学科を高校にもつくるべきだと考える。

虐待を受ける子供たちを救いたいと思ったきっかけは最近ニュースで見た保育園児の虐待である。保育園児の虐待問題は先生や園長たちも傍観したとして問題になっていた。身の回りにいる親や先生が誰もたすけてくれないとしたら、誰が味方になってくれるのだろうと考えた。そんな時、親と先生の立場関係について考えた。そこで親の権力に負けないような先生をもっと増やすべきだと考えた。

一つ目の理由として、先生という立場は子供より強く、親より弱いという難しい立場にあるとわたしは考える。そんな時、親から虐待を受ける子供という弱者を救える立場に限りなく近いところにいるのは先生だ。わたしは弱者を救ってくれる先生をもっと増やすために、教育学科を増やすべきだと考えている。

二つ目の理由は子供たちの数に対し、教育者の数が少ないことが虐待を見つけられないきっかけにもなっていると考えるからである。現状、教育現場は教育者の数が少ないため、ひっ迫している。しかし、教育者を増やすにも大学に通い、さらに教員試験に受からなければならないという山があるため、実際難しく、目指す人も少なく感じる。そこでわたしは高校にも教育者を目指す者を専攻とする教育学科をつくることがよいと考えた。教育学科を作ることで早い段階で教育者の成り方について考え、さらに専攻のため、教員試験に受かる確率も確実に上がるだろうと考えるからだ。そして結果的に教育者も増えるというわけだ。

三つ目の理由は互いに先生を見張る関係を作るために、もっと専門的に教育を考える場を設けるべきだと考えたからだ。互いに見張るという均衡を保つことが大切だということだ。虐待を見つけても親という大きな山がある。そのため、学校の立場も弱くなるだろう。そんな時、互いに見張る関係を作ることで大きな山でも先生は無視はできないだろう。先生というものをもっと専門的に考える場を作ることで、先生を確立させることができるだろうと考えた。

なかには教育学科に通うには多くの費用がかかってしまうのではないかという意見もあるだろう。たしかに費用が多くかかってしまうかもしれない。しかし、そもそも教育学科も専門的に学ぶ場所なのだ。そのため、専門学校に通うという意識に転換させれば高い塾や家庭教師を3年つけるよりは安価だと考える。

上記の3つの理由で虐待を受ける子供たちを救うために、教育者の学習をする学科を高校にも作るべきだと考えた。私は虐待を受ける子供たちを救うために、教育者の学習をする学科を高校にもつくるべきだと考える。

わたしはこの考えを実施して虐待を受け、困っている助けを求めている弱者が少しの数も多く救われることを願っている。

・橘想太郎      佼成学園高校2年B組    先進国と発展途上国のSDGsの取り組み方の違い

私は誰一人取り残さないという社会は現状は難しいと考える。私は小学2年生から中学1年生にかけて6年間ベトナムに住んでいた。ベトナムは発展途上国であり道路に走っているのも9割バイクとハードインフラ面で日本とは大きな違いがある。そんな全く様相の変わった2国に住んだ経験から全ての目標を同時に解決(誰一人取り残さない)する社会の実現は難しいと考える。なぜならば、発展途上国にとってSDGsのテーマに取り組みつつ国力を上げるための「優先順位」が存在するからだ。発展途上国の優先順位を理解することがグローバルレベルでの取り組みの加速につながると思う。日本では全体的な取り組みはできているものの「健康と福祉」、「住み続けられる街作り」に課題がある。一方で福祉大国と呼ばれている北欧諸国では上記2つのテーマでの取り組みが進んでいる。

私の考える日本の優先順位は「健康と福祉」、「住み続けられる街作り」であると考えている。そのために、日本と北欧諸国との取り組みの違いを以下の通りに考えた。世界においての日本のSDGsの達成度の立ち位置を確認する。世界のSDGs達成度ランキングの中で日本は163ヵ国中19位であった。この順位を見た時私は妥当な順位だと感じたと同時に残念だなとも感じた。日本には解決できるポテンシャルはあるのに課題を正確に認識していないことが日本の達成度上昇に繋がっていないからだ。「健康と福祉」、「住み続けられる街作り」のテーマにおいてフィンランド・デンマーク・スウェーデン・ノルウェーなど北欧の国が先進的な取り組みとして名前が挙げられている。これらの国における共通点として税金は高いが平等に質の高い社会保障を受けられることだ。そのため北欧諸国はSDGsの主要テーマでもある「健康と福祉」、「住み続けられる街作り」の目標を北欧の国は国家で守っていると言える。つまり北欧の国の高い達成度は質の良い社会保障の上で成り立っていると考える。日本も同様に払う税金に国民が納得できる社会保障制度を確立すべきだ。それが日本が優先的に解決すべき課題の達成に直結する方法だと考える。日本が優先的に解決できていない課題があるが故に私は一国民として将来北欧の国に移住したいと考えている。私達高校生は日本にいると将来「健康と福祉」、「住み続けられる街作り」の観点から取り残されてしまうのではないかという懸念があるからだ。2024年の10月に消費税15%に値上げ、2025年に道路利用税の値上げ、2024年に炭素税の値上げなど合計で8項目の検討中の増税がある。私は税金の値上げが行われるごとに国民は税金が使われているという実感が湧かないのではないかと疑問を持っている。しかし、北欧の人達は税金は投資と考えている人が多い。そのため、税金を払うことを不満に思っている人が少ない。一方で、日本は税金が上がるごとに不満の声が上がっている。しかも、私たちの世代が将来負担する額が多くなっていくことは間違いない。このままでは日本は今よりも「健康と福祉」、「住み続けられる街作り」の観点で取り残される人が増えると考えている。これらの事が予想されるため私は将来北欧で暮らしたいと考えている。私のような考えを持つ若者は少なくないと思う。日本が住みやすい国になるためにも今一度社会保障制度を見直すべきだ。日本は私が住んでいたベトナムとは違い先進国でありこれ以上の急激な経済成長は見込めないと考える。そのため、日本には今の抱えている課題を解決し成長ではなく安定した社会が維持ができるようにするべきだ。

したがって、日本は上記のような世界各国の国力の差、福祉の取り組みの差を理解するためのSDGsに関する教育活動をするべきだ。私の通学している高校も多くの生徒がSDGsに関する探求活動をしているが9割の人が環境問題についての探求活動を行なっている。環境問題に取り組むことが悪いとは思わない。しかし、それ以外にも取り組むべき目標はあるのになぜ多くの人が探求課題に環境をテーマとして選定するのか。それは日本の義務教育の間にSDGsといえば環境という刷り込みが行われているからである。日本はさらに世界各国での取り組みや抱えている課題(世界各国の国力の差、福祉の取り組みの差)を相互理解するための教育プログラムを組むべきだ。具体的には、日本に留学に来ている大学生に自国の抱えている課題を話してもらいグループワークを通して諸外国の実情を理解するというものだ。日本はSDGsへの理解の偏りをなくすことが将来的に解決できる課題数が増えることにつながると考える。

世界各国での取り組みや抱えている課題(世界各国の国力の差、福祉の取り組みの差)があるため短期的には私は誰一人取り残さないという社会は現状は難しいと考える。最後に日本に存在する取り残される人が今より少なくなり、循環型社会が実現できるようにすることが私たち若者の役割である。

・金子菜々美    細田学園中学校・高等学校 誰もが夢見る社会へ

皆さんは、子供の頃どのような夢を持っていましたか?

またその夢は叶いましたか?それとも諦めましたか?

諦めてしまう人がほとんどだと思います。大きくなるに連れ、現実を知り自分の夢が壮大過ぎたことに気づいた、親や学校の先生に理解されず反対された、家庭環境、経済的に厳しいなど理由は様々でしょう。私は、皆が持つ夢を経済的な理由で諦めてしまう人をなくしたいと考えます。現代の日本では、年々教育格差の深刻さが増しています。世界から見ると先進国である日本ですが、その陰には貧困問題が横たわっています。日本は先進国でありながら2018年の相対的貧困率は15.4%と、G7の中でもアメリカについでワースト2位となっており、7人に1人の子どもが貧困状態に陥っているほど深刻な状態にあります。また学校だけではなく、塾や習い事など学校外での教育を受ける機会も増加しておりお金が必要です。貧困層の家庭の子どもたちは、学校外の習い事に通うことができず、教育機会が減少してしまいます。それにより、教育に差が生まれているのが現状です。そして、貧困による経済格差が顕著に現れるのが、進学率です。全世帯の大学進学率が73.2%なのに対して、生活保護世帯の進学率は半分程度の33%まで減少します。大学進学では入学金・授業料、教材代など様々な費用が必要となります。国立の大学でも標準額は入学金でおよそ30万円前後、授業料が50万円前後とされており、文系学部・理系学部においても違いがあります。国立大学の卒業までには、およそ250万円、私立大学はおよそ500万円が必要となるのです。日本には奨学金制度がありますが、学校卒業後に支払いが重くのしかかるのも事実です。このような理由から、金銭的な都合によって学ぶ機会が奪われてしまいます。

では、もしも自分が経済的に厳しい家庭環境にいて医者になりたいという夢を持っていたとしたら、諦めますか?叶えようとしますか?

医師になるためには、医師法の定める医師国家試験を受け、合格する必要があります。 受験資格は、6年制の医学部医学科を卒業(もしくは卒業見込み)した者・外国の医学校を卒業し、厚生労働大臣が適当と認めた者、医師国家試験予備試験に合格し、1年以上臨床研修を経ている者などです。いずれかも大学を卒業する必要があります。文部科学省の教育費調査によれば、医学部を6年で卒業した場合、両者の学費(授業料他、各種費用を含む)は、国公立大学では平均で約350万円なのに対し、私立大だと約3300万円にもなります。 私立大学の中でも、学費の格差はありますが、概ね2000万円以上はかかるのが一般的です。厚生労働省によると、2018年に貧困線を公表しており、単身者世帯では約124 万円、2 人世帯では約175 万円、3 人世帯では約215 万円、4 人世帯では約248 万円となっている。貧困家庭の人は、お金が足りず医者になることは難しくなってしまいます。このことから私は、大学までの教育費用を無償化にすべきだと考えます。そしたら教育に格差が生まれず叶えたい夢を叶えられる人が増えると思います。既にスウェーデン、ノルウェー、アイルランドなどの7カ国では、無料で教育が受けられるようになっています。スウェーデンでは、公立大学も私立大学も学費がかかりません。大学進学率は68%と高く高等教育における学生1人当たり公的支出額は約225万円です。このように、教育格差が起こらないような対策がされています。これに比べて日本はどうでしょう。全く対策がされていないわけではありません。あるNPO法人では、経済的な困難を抱える子どもたちに対して、塾や習い事、体験活動などで利用できる学校外教育バウチャーを提供しています。バウチャーには有効期限があり、習い事などを受けるためだけに使えます。この結果、親の経済状態によらず、希望する子どもが習字、そろばん、スポーツ教室などの習い事を体験できるようになりました。その他にも、大学生ボランディアが月に1度、電話や面談を通じて学習や進路の相談にのる制度を導入しています。そのほか、公民館や空き教室に無償の「学習支援拠点」なども設置されています。あるNPOでは質の高さと継続性に徹底的こだわっており、厳しい研修を受けた大学生教師たちが、学習遅延を抱えた子どもたちに勉強を教えます。居住確保支援では、就職活動中の家賃を給付しています。しかし、現状はほとんど変わっていないと思います。

取り残されないとは何でしょう。文中にも表しましたが、日本の現状として7人に1人の子どもが貧困状態にあります。つまり日本には7人に1人取り残されていると思います。したがって大学までの学費を無償化にし、日本の教育格差を減らし経済的な理由で夢を諦めない社会にすべきだと考えます。

・松浦憲        関西学院大学 法学部    ~誰一人取り残さない社会をCreateするためには~

私は大学で公共政策学を専攻している。簡単に言うと、まちづくりに関する政策・施策立案がお仕事だ。その私が全国各地の自治体の行政課題と実際に触れ合っていると、昨今の新型コロナウィルス感染症の流行に伴う、人と人の繋がりの分断によって、社会から取り残された人々の姿が浮かびあがってくる。

「マスクの着用、咳エチケットにご協力を」というアナウンス、パーティションで仕切られた食事処、2mのソーシャルディスタンス。これらは皆、感染予防を予防する効果があったとされる一方で、他者との関係までをも分断した。

高齢の方々が公民館で行うお料理教室が姿を消したり、私が所属する消防団の集会の頻度もめっぽう減ったりしたように、地域活動は縮小を余儀なくされた。それに伴って、助け合いの「地域力」はみるみるうちに低下している。道端で顔を合わせて、こんにちはと挨拶を交わす場面も見かけなくなった。どこか内向き志向の様相を呈しているのが「今の時代」なのである。

この「今の時代」において、取り残されている人は大勢いるのではないか。街行く人をぐるりと見渡してほしい。― 杖をついている人、車椅子に乗っている人、目の見えない人、ヘルプマークを付けている人、貧困の状況にある人、高齢の方、海外にルーツを持つ方 ― 皆、ハンディキャップを抱えているが、支援が必要な場面でも、自分から「助けて下さい」とは言い出しにくい。そして、新型コロナウィルス感染症による他者との関係性の分断は、ますます、こうした人たちに対する支援を行き届きにくくしている。

誰一人取り残さないという言葉には、こうした方々への積極的な配慮が含まれている。私たちは、日常でそうした方々に思いを馳せる機会を持つべきなのではないだろうか。彼ら・彼女らを「障がい者」として区別したり、困っている様子が見えていないふりをしたりするのではなく、助け合いの精神を遺憾なく発揮し、積極的に関わっていく姿勢を貫くことで、社会的包摂が実現された優しい社会を、私たち自らの手で創る必要がある。

「お手伝いしましょうか?」その言葉を発することは簡単に思える。しかし、そのとてつもない重みを持つ一言を発するには、大きな勇気が必要である。人の繋がりが希薄化した現代だからこそ、あなたの何気ない一言が大きな意味を持つ。人は皆、社会の一員であり、たった一人の小さな努力の積み重ねは、何十、何百、何千になり、それが伝播していくことで社会全体を変えることができるのである。

決して、決して、決して、皆さんに忘れてほしくないことは、我々は、ディスアドバンテージを抱えた人を社会から分断してはいけない、誰かが取り残される素地を作ってはならない、ということである。

「障がい者」と区分し、「害」という語が有するネガティブなイメージによって、彼らを可哀想な存在であると見下し、差別することは、いとも容易い。しかし、あなた自身、ある日突然、ハンディキャップを抱えた存在になることもあり得る。そうした時、あなたが「障がい者」として区別され、社会から切り離されたとしたら、どう思うだろうか。

私自身、高校生の時に大病を患い、卒業式に出席することは叶わなかった。それまでは不自由なく生活していたのに、次第に歩くことすら困難になった。外に出ることが出来なくなった私は、毎日を病院か自宅で過ごす日々を送っていた。家族以外とは対面で会話も出来ない中、友人からの応援のメッセージが心の支えだった。日常生活を送るには多くの障壁が立ちはだかっていた。学校の先生や受験先の大学の試験官、病院の先生など多くの人に支えられた。

「害」という字は、ディスアドバンテージを抱えた人が日常生活で行動する際に、それを妨げる「バリア」が社会に存在するという意味を示している。我々は、誰一人取り残さない、社会的包摂の実現に向けて、人によって異なる、様々な「バリア」を取り去る努力を継続していく責務があるのではないか。

誰一人取り残さない、社会的包摂が実現された社会をCreateする際に最も重要なのは、「Well-being」の視点である。個人の幸福が最大限実現されるだけではなく、社会全体が幸福である状態を創り出す。そのためには、多様性(ダイバーシティ)や包括性(インクルージョン)が重要視され、一人一人がそれぞれの違いを認め合い、相互に関わろうという姿勢を持つことが必要だ。

今年、勤務先の小学校では、「ありがとうの花」という楽曲を歌っていた。社会的に弱い立場にあるとされる人を排除するのではなく、何かできることはないかと問いかけることで、誰一人取り残さない助け合いの街を創りあげ、その人たちからの「ありがとうの花」を街いっぱいに咲かせることこそが、「新しい時代」に求められているのではないだろうか。

・相川昌宏      埼玉大学 二年  取り残されていく人

2015年にMDGsの後継として新しくSDGsが達成すべき目標が定められた。これらの違いとして、MDGsが発展途上国だけに設定されていたが、SDGsは先進国も対象になっている。これを踏まえると、世界的に見て後進国に多く取り残されているだけでなく、先進国にもそういった人々が、さしては自分も時には該当することもあるだろう。SDGsの17の目標と併せて考えていきたい。

SDGsの1つ目の目標は「貧困をなくそう」である。一見発展途上国に向けた目標に見える。しかしその中身を見ると、1.3、1.4に見られるように絶対的貧困だけでなく相対的にみた貧困層の話がある。日本では平均年収が約550万に対し、その中央値は約440万であり、若干の乖離が見られる。今の世の中、個人主義が転じて自己責任論で片付けられてしまう。その考えだと、取り残される人がいるどころか、ますます増えていく。貧困を作る要因として教育がものを言うのは間違いない。家庭環境を選べない子どもに対してもその姿勢で負のスパイラルを作っているのが現状である。令和の日本においても学校にいけない人がいる。そういったわかりやすい人たちはもちろん、ミドルクラスの層に目を向けたい。ここでは「取り残される人」よりも「取り残されていく人」に該当するかもしれない。日本は超が付くほどの学歴社会である。その中でエリートになるために

いい大学に入り大企業に入ることが最も王道で、そのための受験戦争が毎年繰り広げられる。いい学校に入るために、早くから塾に行かせて中学受験をさせる家庭もある。大人になるまでの過程で、家庭の財力の差から結局「再生産」がされるのが現状である。学習指導要領が改訂され、コロナ禍もあり激しい社会の変化に対応するための「生きる力」がより一層強調されている。河野真太郎が生きる力を労働のやりがい搾取と関連付けて批判したように、一見主体性を強調しながら、労働における格差を作るような教育が実態であろう。

この学歴社会ではすでにある場所においては取り残される人がいなくなることも特徴にある。東井義雄の『村を育てる』にあるように進学するためだけの知識である「村を捨てる学力」がより顕著にある。村を捨てるのであるから、その村の発展は見込めず衰退する一方で、増加していく限界集落のようにそもそもの人間がいなくなる。再生産から逃れても結局は悪い方向で作用してしまう。

戦後、教育史において常に様々な議論がなされている。SDGsが生まれる前から教育における取り残される人は存在し、特別支援学校の制定など解決することもあった。それでも高校授業料の有償、義務教育による不完全な無償制などの現行制度における課題点は多い。子どもは社会を持続可能にするために必要不可欠な存在である。SDGsがトレンドになっている今、日本も今一度持続可能な社会の実現のため、そのすべての根幹となる教育の在り方について考えていく必要があると思う。

・櫂(仮名)      種智院大学 4年 自殺者をなくす

私には、この世が自殺する人をなくすことです。理由は、私の友達が去年の夏に自殺をしました。自殺した原因は、アルバイトでいじめにあった。いじめは、からかい、暴力、恐喝、差別、無理やり在宅に向かわせ家族ごといじめるなどの行為であった。いじめに悩んでいたため、店長に相談したがお前に原因があると言われた。それでも、毎日いじめにあっているのも関わらずお前に原因があると言われたのである。私も協力したが、全然対応力もなかった。いったい、なぜお前に原因があると言うのか。私には、信じられずこの世は加害者より被害者が犯罪と感じた。仮に原因があっても、反省するだけの話である。反省しても、周りからきつく当たられてもどこかで誰かが見てくれている人がいることを信じ続けなければならない。加害者は、本当の犯罪者だからどこかでいじめにあう。これは、本当の話である。

だから今、もしいじめにあっているのなら信頼できる人又はカウンセリングといったクリニックをおすすめする。少しでも、行動できたら何も怖くない。自分を信じ続けることも怖くない。約束としては、まず被害者にたいして原因扱いをしない。加害者と被害者の両方の意見を聴きお互いを尊重することである。もう、ひとりじゃないから。ここにいるよ。

繰り返しの話だが、自殺者が増えるのは原因を扱いされることにより自殺者が増えることである。これを世の中の人達は、知らないのであるからこの事を世に広まりたい。

広まれば、世界が変わるかも知れない。

最後に、なかなかこれを読んで理解する人もいれば分からないという人もいるだろう。

しかし、もし目の前にこの人は苦しんでいるのなら寄り添ってあげてほしい。

これさえできれば、本人も安心感が与えられるからである。

健闘を祈る。

・馬越春莉      東京薬科大学1年 小児医療におけるコミュニケーション

子どもたちが治療を受ける際、子ども自身の意見を置き去りにしてはいないだろうか。現在は患者の意見の尊重や自己決定が求められているが、子どもに関してはその意識が薄いように思う。子どもには判断が難しいと決めつけず、一度しっかりと向き合ってみてほしい。

私は過去に、手術を行った中学生の女の子の話を間接的に聞いたことがある。その女の子は、手術をすることにより排卵することが厳しくなってしまうため、卵子凍結をすべきかどうか決断する必要があった。しかし、その話を患者である女の子にするべきかどうかの判断を医師は親に求めたという。つまり、親のみの判断でその子の将来を決められるということである。私はこの話を聞いたとき、親が勝手に娘の妊娠の可能性を断つことができるという事実に驚きを隠せなかった。過去の話であるため、現在このような事例があるのか確認することはできなかったが、患者の意見の尊重や自己決定をするべきだとしている社会には反している行動である。思春期であり、少々難しい年齢ではあるが、言葉を選びながら現状を伝え、親と共にしっかり考えていくべきではないかと感じた。

次に、もう少し下の年齢の子どもに目を向けてみようと思う。言葉を習得して間もない年齢の子どもたちは、自分の意思を、言語を用いて表現することが十分ではない場合がある。しかし、そのような子どもたちにも意思が存在するため、それをできる限りくみ取るべきであろう。私は、これを実現するために、子どもの発達に関しての知識が必要だと考えた。医薬品を服用する際に、1歳から2歳の子どもは医薬品の必要性の説明を受けてもひどく嫌がるが、4歳ごろになると服用する意味を理解することができれば、自ら飲むという。このように子どもは年齢によって理解できる範囲が全く異なる。これは当たり前だと考えるかもしれないが、意外と発達段階を理解している医療従事者は少ないのではないかと考えている。例えば薬剤師が服薬指導を行う際に、発達段階を考慮したうえで小児に対する声かけを行っているだろうか。国家試験には、小児に対するコミュニケーションについての問題は出題されない。そのため、薬剤師の資格に加えて保育士免許などの資格を持っていない薬剤師は、子どもの発達段階について詳しく知らない可能性がある。子どもの意見を引き出すためにはまず、子どもを知ることから始めるべきだ。

さらに、私が子どもをよく知るべきだと考える理由として、大人には想像し難い世界観を子どもたちが持っていることが挙げられる。私は大学の講義でサリーとアンの誤信念課題というものについて学んだ。これの内容をまとめると、「サリーとアンが部屋におり、サリーは人形をかごの中に入れて部屋を出た。その後、アンはかごの中にある人形を自分の箱に隠してしまう。サリーが部屋に帰ってきた際に、人形を探すのはかごと箱のどちらであるか。」というものである。大人はかごと答えるが、3歳児の過半数は箱と答えるという。つまり、3歳児にもなると、かなり会話能力は上達しているため、人の立場に立って考えることなどもできるようになっていると思うかもしれないが、決してそこまで発達してはいないということである。では、3歳児に「このお薬を飲むと、お母さんが喜ぶよ」という言葉をかけたとする。母が喜ぶという言葉によって薬を飲む可能性はあるが、なぜ自分がしたことに対して喜ぶのか、その意味を理解することは難しいのかもしれない。先ほど、4歳児は理解することができれば薬を自ら飲むと述べたが、それからもわかるように、理解することは大変重要である。つまり、医療従事者は子どもの年齢に合わせた声かけを行う必要があるといえる。

以上のことを踏まえて、子どもの治療についてもう一度考えてみてほしい。たとえ、難しい年齢だとしても、伝える能力が不十分だとしても、子どもはしっかりと意思を持った1人の人間であり、親の一部ではない。そのような子どもたちの意見を、子どもについて学び、子ども自身と向き合い、コミュニケーションをとることで引き出すことができるのではないかと私は考える。そのため、私は薬剤師の資格取得を目標とすると同時に、大学在学中に保育士免許を取得したい。そして、まっすぐに子どもと向き合い、密にコミュニケーションをとれる薬剤師を目指す。

・進藤あおい    玉川大学2年    ジェンダーバイアスについての私の考え

私はジェンダー問題について「誰ひとり取り残さない」の視点で考えたいと思います。

ジェンダーについての問題で有名なのは同性愛者の結婚の賛否両論などについてですが、私は人間の持つ無意識のジェンダーバイアス(性に基づく偏見)も問題であると考えています。「女性は家事をするべき」、「仕事は男性のするべきこと」などのように法律で決められていることではないのに人間の無意識や固定概念による差別のことで、無意識な問題を意識的に改善するのは難しいですが、ジェンダーバイアスという問題がありその差別によって苦しんでいる人がいるということを多くの人に認識してもらうことが大切であると思います。

ジェンダーバイアスに関する心理学の問題で「ドクター・スミス問題」というものがあります。この問題はドクター・スミスは有名な腕利きの外科医で勤務中に緊急外来の電話がありその電話の内容は少年とその父親が事故に遭ったというものでした。搬送された子供を見てみるとドクター・スミスの子供でした。という問いです。これはドクター・スミスが女性の腕利きの医者であるという問題なのですが多くの人はドクター・スミスを勝手に男性だと解釈して父親が医者なのに息子には別の父親がいるなど考えてしまうという思い込みによって正解が分からなくなってしまうのが特徴の問題です。

このように無意識のうちに医者ならば男性だという固定概念が生まれてしまうのがジェンダーバイアスというものです。

このような無意識によるジェンダーバイアスによって苦しむ人がいます。

この問題を解決するには会社での管理職に女性を増やすことや男性の育児休暇を取りやすい環境づくり、また育児休暇後に復帰しやすい環境づくりなどが大切であると思います。また、会社だけでなく保育施設を増やし子供を預けやすいように改善するべきであると思います。しかしどれも簡単に改善できる問題ではないと思っています。

そこで改善策として私が考えるのはこの問題を広めていろいろな人に知ってもらうことが一番の策であると思います

そのためには、学生には学校の授業で講義をしたりテレビやSNSでの拡散したりしてこの問題を広めることが良いと考えます。

今年のドラマで「silent」というドラマが流行して主人公が耳の聞こえない聴覚障碍者であったため聴覚障碍者についての認識が広がりました。このようにテレビやSNSを使うことによって多くの人に認識してもらうことができます。これが私のジェンダー問題について「誰ひとり取り残さない」という視点での考えです。

・廣田悠介      芝高校三年      僕らはみんな外国人

【取り残し①】

ある日、道端で一人の外国人が困っていた。スマホを見ながら右往左往していて、誰の目から見ても迷子なんだということが完全に明らかだった。けれど、周囲の日本人はちっとも助けようとしなかった。確実にその外国人が見えていて、迷っていることも明らかなのに、誰も自分から声をかけなかった。そしてそれは、僕も同じ。

【取り残し②】

しばらく様子を見ているとふと、その外国人と目が合った。そして、彼は僕の方へと歩いてきてこう言った「excuse me」。

僕は困った。というのも、僕は英語が苦手だった。日本語ならスラスラと出てくる言葉が、英語になるとちっとも出てこない。学校で嫌になる程勉強している筈なのに、いざ他の人と英語で話すとなると何も話せない。そう、僕は典型的な「日本人」なのだ。文法は分かる。単語も知ってる。けれど実践英会話が出来ない。

その外国人は僕に向かって何やら道順を聞いていた。どうやら東京タワーに行きたいらしかった。「Tokyo tower」という単語が何度も聞こえた。僕は自分のスマホで東京タワーへの道順を検索して、それを彼に見せながら説明した。一通り片言の英語で説明を終えると、彼は満足そうに笑って「thank you」そう言って去っていった。外国人が去った後、僕はどうしようもなく恥ずかしかった。周りの人々から遅れている気がした。僕はその場に居ながら、何故か途方もない疎外感を感じた。

【上記2つの取り残しについて】

日本で道が分からず迷っている外国人。英会話力が低く、英語でのコミュニケーションがうまく出来ない僕。彼らはそれぞれが取り残されている存在だ。だが、同時に誰かを「取り残している」存在でもある。どういうことか?

取り残し①においては、外国人は取り残される存在だった。だが、逆に僕が外国に行った場合を考えたらどうだろう。その場合、僕は確実に取り残される(英語をまともに話せない僕を助けてくれる人がいれば話は別だが、、、)。

取り残し②においては、僕は取り残される存在だった(正確には、取り残されていると思い込んでいる存在だった)。しかし、きっとこの疎外感は僕だけが感じているものではないだろう。日本人の多くが一度は経験したことがある筈だ。英語の授業は真面目に受けているのに、何故か実践英語が話せない。つまり、取り残し②の状況においては、恐らく僕の周りにいた大半の人々が自分の英語力に自信が無く、取り残されているという感覚を味わっていたのである。

【最後に】

誰もが皆、取り残されながら生きている。そして同時に、誰もが皆、誰かしらを取り残して生きている。僕らはそうやって生きている。そのようにしか、生きることが出来ないから。

だからこそ僕らが目指すべきなのは、「取り残されたらどうしよう」 という不安を胸に抱きながら生きなければならない社会ではなくて、「取り残されても大丈夫」と安心して生きられる社会を作るということ。そういう社会こそが、僕らを豊かにして、幸せにしてくれるはずだから。

そして、「取り残されても大丈夫」と安心して生きられる社会を作るために必要なのは、互いを認め合う心だ。国や人種、性別や世代が違えば、もちろんお互いに理解できないことがあるだろう。でも、だからと言って理解し合えない人々を理解しないままでは、お互いに「取り残し」「取り残され」ながら不安を感じて生きてゆくことしかできない。だから我々は、寛容な心を持ってお互いを理解しながら生きてゆくべきなのだ。互いの違いを埋めることはできなくても、理解するというやり方で違いを認めることはできるはずだ。

もしも外国人が道端で困っていたら、僕らは自信を持って助けてあげよう。不恰好な片言英語でも構わない。まずは助けようとすること、それが一番大切だから。

・服部珠利      大阪府立工芸高等学校3年 人間が生み出したものについていけない人間

十八歳となり車の免許を取るため教習所に通い始めた。そこで習った時速50kmで安全に飛行するツバメと、事故を起こしてしまう自動車の話がある。ツバメは自分が飛ぶ速度に合わせて目の機能や反射神経などを何万年もかけて進化させてきたのに対して、250年ほど前に自動車が誕生して運転している人間の反射神経などは時速18km程度にしか発達していないため、事故を起こしてしまうというものだった。路上で教習を受けているとき、車を操っている人たちの中に仮免許の操れていない人が入ってしまえば、渋滞になったり、クラクションを鳴らされてしまったりして乗るのが嫌になり目を背けたくなる。しかし、このようなことは日常的に起こっている。

近所のおばあちゃんにスマホの使い方を聞かれる。私は丁寧に教えたつもりでも、次会った時にまた同じことを聞かれることがあったり、セルフレジを導入し始めたお店でおじいさんが使い方を店員に尋ねていたが、セルフレジに店員が一人しかいなかったため、「お待ちください。」と待たされていた。このような場面を最近よく体験したり目にすることが多くなった。他にも、電車に乗るとき外食や買い物、ほぼ全てが電子マネーで決済できるようになり、美容院や航空券、ホテルなどもネット予約できるようになった。タクシーもネットで予約でき、予約せずに道で止めようとしてもなかなか止まらなくなったなと感じる。

近年、スーパーやショッピングモールでのセルフレジの導入、電子マネーでの決済、コロナによるオンライン化、ネット環境の充実やデジタル化により、社会はどんどん便利になっている。そのためスマホ所持率は高くスマホ依存が問題視されるほどである。しかし、スマホを持っていない世代やデジタル化についていけない人、スマホに対応できていない人は取り残される。なので、スマホを使いこなしている人は時間を有効的に使い、使いこなせていない人は時間を要してしまう。人間の寿命は長くてもたったの100年前後で、ツバメのように何万年も進化するのを待っていたら一つの命があちこちで消えてしまう。だから、進化を待つのではなくサポートできる社会に変えていく必要がある。

サポートとしてスマホ講座を開いたり、セルフレジにおいての手順を示しているのをみるが、操作に時間がかかってしまう人や高齢者の方など操作が苦手で覚えれないなどサポートしたとしても対応しきれない場合はいくらでもある。だからどのようなサポートをするかを考えるのも大切だが、私たちにできることはサポートしても対応しきれない部分を理解し、手助けをすることが本当のサポートだと私は思う。

・福永歩果      梅光学院大学2年 言語の壁を越えた支援

先月の大学の講義で、様々な国の教育について学ぶ機会があった。その講義では、主に日本と諸外国の教育を算数科の視点から比較するものだったが、私は当初、世界の教育、特に算数や数学教育においては万国共通であり、言語を越えたユニバーサルなものであると思っていたため、学習進度や答えを導く手順の違い、国によっては筆算というもの自体が存在しないという事実に驚いた。

そのこともあってか、「誰一人取り残さない」というSDGsの基本理念であるこの言葉を聞いた時、私の中で真っ先に浮かんだのは、日本語が通じない外国籍の子どもたちの教育だった。特にウクライナでは、日本でも度々ニュースに取り上げられているように、ロシア連邦による軍事行動が開始されてから約9カ月経過し、今こうしている間にも犠牲者は増え続けている。戦争が激化する中で、ミサイル攻撃や空爆から身を守るため1,500万人以上もの人々が国外への避難を余儀なくされ、200万人の子どもたちが国を追われている。その中には日本の小学校に通い始めているウクライナの子どもたちがいるのだ。もし私がこのような外国籍の児童がいるクラスの担任を受け持っていたら、その児童と保護者を取り残さないためにどのような授業を行い、クラス全体としてどのような働きかけをするだろうか。

まず授業の面では、京都大学が制作・公開している、日本語翻訳が可能なウクライナの方々が翻訳したウクライナ語版算数・数学動画コンテンツを活用することにより、母国語で他の日本の児童と同じ手順の学びを提供することができる。さらに、物を動かすなどの視覚的な情報を上手く使って説明することで、その児童はもちろんすべての児童が理解のしやすさにつながる。また、それぞれの母語を専門とする教師や支援員の配置をすることにより、母国語を話す機会があることで安心感を与えたり、保護者とのコミュニケーションもとりやすくなる。日本語を完璧に勉強した上で算数などの勉強をしなくてはいけないわけではなく、母国語も大切にし、母国に戻ったときの事も考慮したサポートが必要であると思った。

しかし、中でも私が一番大切だと感じるのは、やはり児童と保護者に寄り添おうとする姿勢だろう。日本に避難することで、命の保障はされるかもしれないが、母国に対する不安を常に抱きながら生活していることや新しい環境に飛び込むということがどれだけ大変かということ、言語の違いによって不安が高まっていることを十分に理解しようとすることで、言語の壁を越えた支援をすることが何よりも大切であると感じる。

私の生まれ育った町には米軍基地があり、日常的に外国人を見かけ、協働のイベントなどが頻繁に行われていた。実際に私が小学生の時も、年々父母のどちらかが外国籍である子が増え、クラスに外国から転校してきた人がいたことも覚えている。このような経験や、近年、多様化社会になり国際化やグローバル化が進み、日本の学校には外国人の児童・生徒が増えてきているという事実から、日本に来た理由や背景は人それぞれ様々であるものの、「言語の壁を越えた教育」は来日した子どもたちとその保護者だけの問題ではなく、教員や学校、世界中の人が考えていくべき問題であると思った。そのため、SDGsは世界全体での約束事であるものの、「誰一人取り残さない」の一人とは、その国の児童、日本人の「一人」に限らず、外国籍の児童や保護者に対してもその「一人」に当てはめ同様の配慮が必要である。将来教職を目指す立場から、これからもウクライナの教育事情をもとに「誰一人取り残さない教育」の実現について積極的に考えていきたい。

・杉本未来      高津看護専門学校1年    考えることをやめないで 

私は、人はみな根底に幸福になることを望んで生きていると思っている。だからこそ自分が傷ついたり、誰かが傷ついたときに心が痛む。そして、誰かを傷つけてしまった時にも心を痛める。

心とは何か、その答えは人それぞれだと思う。しかし、傷ついた時・美しいものに出会った時の、鼓動が強く・激しく動くあの瞬間、自分の身体のどこかがどうしようもなくぎゅーっと締め付けられるあの瞬間、虚無感や憤り・憎しみあるいは安心感・喜び・充実感を抱くあの瞬間、誰もが感じたことのあるあの瞬間こそ、心の存在を全身で感じている。

きっと誰もがその心を抉られる経験をしたことがあるだろう。

理解して欲しいのに理解してもらえないこと苦しいさ、そもそも理解する気がないという圧倒的な無関心も心を抉る1つの道具となる。

しかし、その無関心は悪なのか。

身近な問題や人に興味を持つことは自然なことだ。なぜなら目につきやすいからである。世界には自分とは関わりが少なく、想像もつかない問題で溢れている。だからきっと私も無関心という道具を持つ1人の人間にすぎない。

無関心が悪いと決めつけるのは簡単だが、それでは何も解決しない。重要なのはなぜ無関心なのか考えることだ。先程心について前述したが、この心を持つ私たちは、誰かの不幸や幸福に直面した時、何かを感じることができる。だとすれば、無関心であるのではなく、その人がその問題に対して無知であるということではないだろうか。きっと私たちは知らぬ間に都合の良い解釈をし、無関心と無知を混同させてしまっている。その結果、無関心とそれている人を批判・否定し、誰かの心を引き裂いている。これは結局取り残しているということになるのでは無いだろうか。

多くの人が過ごす世界で、どうすれば世の中が良くなるか、どうすれば誰も取り残されなくなるのか、その答えはその人が持つ価値観によって大きく変わるため、明確に決めることは難しい。だからこそ考えることが重要なのだ。考えるということは、どんな不条理にも不幸にも邪魔できない。だから、考えることをやめないで欲しい。

これからもきっと世界は変わり続ける。しかし、絶対に変えてはならない日常もある。私はその日常を大事に抱えて、考えることを続けていきたい。

・佐藤勇樹      東北福祉大学4年 SDGSと「制度の狭間の人」

皆さんは「制度の狭間の人」という言葉を知っていますか?

制度の狭間とは、ひきこもりやごみ屋敷、高齢や障害などによる問題を抱えているにも関わらず、必要な支援を受けることができていない状態のことです。

私は、SDGSの理念である、誰一人取り残さない社会の実現のために、社会から取り残されがちである、「制度の狭間の人」の存在をたくさんの人に知ってもらい、自分ごととして、問題意識をもってもらいたいと考えます。

私は、大学4年時に、社会福祉協議会で実習を行いました。その実習の経験からは、誰もが安心して住み慣れた地域で暮らし続けていくために、社会福祉協議会のコミュニティソーシャルワーカーが住民の主体的な地域づくり活動を支援し、包括的な見守り・支えあいのネットワークづくりを行っていることがわかりました。

また、その実習中に、職員の方から、住民の「気づきの目」を養うことが、住民主体の地域づくりにおいては大切であるということを学びました。気づきの目を養うとは、住民同士が、これまでとは違った様子であることに気づいたり、お互いに支えあえる関係づくりをつくることです。そうすることで、日常生活での困りごとが起きた時や災害が起こった時や、サロン活動などで、他の参加者の方の異変に気付いたりすることができ、住民の力によって課題を解決することができます。ここでは、社会福祉協議会や行政の指導によってではなく、住民の主体的な地域づくりをサポートすることが、大切であると考えます。

私は、地域のまちづくりの中心的な機能を果たす、社会福祉協議会のコミュニティーソーシャルワーカーの視点から、SDGSの課題とそれを解決するための取り組みを提案します。地域には、ひきこもりやごみ屋敷、生活困窮など様々な生活上の生きづらさを抱えた人がいます。一人暮らしの高齢者の中には、長い期間誰とも会ったり話したりする機会がなく、社会とのつながりが途切れてしまい、孤独を感じながら生活している人もいます。私はそのような人々が少しでもいきがいを感じながら生活を送れるようにするために、「人と人が繋がれるコミュニティづくり」が重要であると考えます。生活上のちょっとした困りごとや違和感でも、時間が経つと、大きな問題に発展していく可能性もあります。そのため、気になることがあったら相談できる環境をつくったり、人と、適切な社会資源をつなぐ役割が必要です。

普段の生活で気づきにくいことは、無関心でいいのでしょうか。今、生きずらさを抱えた人を支える環境づくりは、障害の有無、性別、年齢、国籍関係なく、誰もが安心して暮らせる地域づくりにつながります。私は現在、社会福祉士国家資格の取得のために勉強をしています。将来は、その資格を生かし、一人でも多くの人が暮らしやすい地域づくりに貢献したいです。そして、誰一人取り残さない社会の実現のために、自分にできることを考え実行していきたいと考えています。

・石島亜利寿    大学を卒業し、現在は院浪しています。    目に見えない孤立

私は、孤立している人がいたら隣で支えたい。小学生の頃に県外に引っ越した友達や、故郷に帰国した友達と離ればなれになり、友達の気持ちになぜもっと早く気づかなかったのだろうといった後悔を経験しました。そして寂しかった子ども時代を支えてくれた友達との記憶が、大学生になり、孤立している人を救いたい気持ちを行動に変えてくれます。

小学生の頃、孤立感を抱えていました。私は、学校の教室では孤立しており友達はほとんどおらず、周りの子たちと比べて勉強は苦手だったので遅れがちでした。そして、家は片親で、一人っ子なので悩みがあっても誰かに頼ることが苦手でした。そんな中、小学5年生の時に転入してきた子が明るく話しかけてくれました。初めて出会った時からフレンドリーで、一緒に遊ぶ機会が多くあった友達でした。そして、挨拶のハグは体だけでなく心も温まりました。しかし、一年経った時に県外へ引っ越すことになり、お別れしてしまいました。その時はとても寂しく、もっと思い出をつくれば良かったと思いました。さらに過去を振り返ると、小学1年生の時の友達が他国へ帰郷してしまったことがありました。その友達は積極的な明るい子で、よく話しかけてくれました。しかしある日、友達が私に冷たく当たってきました。この時は気づくことができませんでしたが、きっと離ればなれになるのが寂しかったのではないかと思いました。思えば学校生活を一年経たないほどで帰郷してしまっていました。私は、友達がどうして冷たく当たってきたのか、何に悩んでいてどんな気持ちだったのかを考えれば良かったと後悔しています。

私は大学生になり、異文化について学び始めました。そして分かったことがありました。2021年の朝日新聞の調査によると、全国の児童養護施設と乳児院で暮らす子どものうち、両親、またはどちらかの親が外国人の子どもが少なくとも637人(全体の3.8%)いるということです。これまでは日系のブラジル人やペルー人が多く、ポルトガル語やスペイン語で対応が必要だったが、最近は中国語やベトナム語なども加わったそうです。今まで仲良くしてくれた子はほとんど外国にルーツをもつ友達だったので、637人という数字を見るだけでも悲しい気持ちです。他方で、外国にルーツをもつ子どもに関する情報が少ないことが分かりました。中には、上手く言葉が話せなくて学校で孤立していたり、犯罪に手を染めざるを得ないほど生活が困難であったり、家や食べ物がなかったりする子どもがたくさんいるかもしれません。実際に、小学生の頃は児童養護施設に行き来していた友達や、外国人という理由でいじめに遭い孤立を経験した友達がいます。そして私自身も、いじめもあったし、家は全壊になるし、祖父を失うし、悩みを相談できる人はいなかったので孤立感がありました。なので、友達の子ども時代の話を聞いて、私は心が痛みました。同時に、小学生の頃、友達に恩返しができずにお別れしてしまったことを思い出し、何か自分にできることはないのかと考えました。そして、何も返してあげられなかった分を、傾聴ボランティア、児童支援のアルバイトに注ぎ込みました。そして、子どもたちの側に居るとき、小学生の頃いつも遊んでくれていたことを思い出します。今、こうして笑顔でいられることや、楽しめていることは友達の支えがあったからだと感じています。今でも疎外感や寂寥感があるけれど、友達が側にいる時はとても安心します。このことから、友達が側にいてくれたように私も他者に寄り添いたい気持ちが強くなりました。小学生の頃は、友達から精神的に支えられていた部分は大きく、孤立感から救われたような気持ちでした。なので、寂しかった子ども時代を乗り越えられたのは友達のお陰です。私は、孤立している人や外国のルーツをもつ人の悩みに寄り添い、誰ひとり取り残すことなく笑顔の絶えない暮らしを支える臨床心理士を目指します。

・野崎愛深      Northbridge International School Cambodia Grade9       

『誰一人残さない』を実現するためには 

『ミャンマーでクーデター』。

下校途中に電車のモニターを眺めていたら衝撃的なニュースが流れた。ミャンマーは私が五年以上住んでいた第二の母国ともいえる国で、当時は多くの友達もまだ住んでいた。自分が長年住んでいた平和な国でまたクーデター が起こるとは思っていなかったため、最寄駅に着くまで気が気ではなかった。

その日からニュースの内容はその日の死者数や、起こった事件などに変わった。ニュースで流れる映像では、見慣れた道に人々が倒れていて、その中にはまだ私と年がそう変わらない子もいた。しかし、発生から一カ月も経つと、ニュースの内容は芸能人のゴシップなどに変わっていた。

もちろん、クーデター の被害が収まったわけではなかった。ミャンマー国民が危険を犯しながらインターネットで発信していた情報の中には、『ミャンマー軍は家庭の貯水槽に毒を入れる』といった目を疑うような物もあった。ミャンマー軍によって奪われてしまった市民の命は現在五千六百人を超えているという。にも関わらず、この残虐な殺害方法も、失われわれてしまった多くの人々の命も、世界に注目してもらえたことは少ないのであろう。

一年半以上たった今でも、クーデター の影響に苦しんでいるミャンマー国民は多い。仕事の減少により職を失い貧困に陥ってしまった人や、食糧の値段の高騰により飢餓に面し寄付される食糧に頼っている人々。また、住む場所も失いジャングルに住む人もいる。多くの私の友達もずっと住んでいたミャンマーを離れ、母国への帰国を余儀なくされた。そのなかでも一番多く影響を受けたイギリス人の友達の両親は、娘を守るためにとった行動を理由に投獄させられてしまった。

ミャンマーの人々が直面しているこれらの影響に、世界は目を背けているように見える。もちろん、他国との戦争ではなく、ミャンマーの政府が行ったことであるため、国として捉えるとミャンマーに好印象を抱けないことは理解できる。だが、ミャンマー国民は軍政に反対しているし、未来のために命をかけて抗議をしている。

私はSDGの信念、『誰一人残さない』を実現するためには、人々が現状を知ることが第一ステップであると考えている。恩恵を受けている人々が世界の現状から目を背けず、問題を理解することなくして、困っている人々は助けられないからだ。私たちが日本ほど素晴らしい国に生まれることができたのなら、その恩恵を社会に返すことを、できないとしても考えることが大事であると思う。

そのためには、個々が意識を変え、世界の現状を身近に感じることが大事であると私は思う。私が通っている海外の学校では、ほとんどの生徒が自分の興味のある分野を理解した上で、その力をどのように社会貢献できるか考えている。このように、一人一人の意識の向上と、自分のできる社会貢献を考えることが『誰1人残さない』を実現するのにつながるのではないかと思う。

私たちがこれから担わなけらならない未来を少しでも明るくし、現在残されてしまっている人々が将来少しでも少なくするには、目を背けないようにすることが必要であると思う。これを意識しながら、将来自分が興味がある医療という分野を通して、『誰一人残さない』を実現したい。私はミャンマーで起こったこと、また、ミャンマーの人たちのことを忘れないでいたい。

・吉田  瑚都    筑陽学園高等学校 2年生       私の役割

ウクライナ侵攻や台湾問題、紛争や内戦。なぜ世界平和は実現されないのだろうか。国連で採択されたSDGsでも、「誰一人取り残さない」という理念や、「パートナーシップで目標を実現しよう」という多様性の尊重があるにも関わらず、なぜこの世の中は争いが絶えないのだろうか。私は世界中の国の言語や文化を学ぶことが好きである。しかし、これらの問題が解決されなければ、自分一人が世界の多様性を尊重しても意味がない。これらの問題を解決するためにまずは世界中の人が世界中の多様性を尊重しなければならない。現在のウクライナ侵攻下、キエフにいらっゃる方は、「キエフは、毎日最大9時間の空襲があり、ミサイルやドローンがロシアからキエフに向けて発射されている。あまりにも多くのことが起こっており、ウクライナはあらゆる手段で国民を守り、ウクライナの領土を守ろうとしているので、絶対に非人道的である。」と語っている。しかし、多様性は、人権が侵害され、選択肢が制限されたときに終わる。検閲やプロパガンダのもとでは、多様性は失われる。私は多様性は、多様な個人や集団が互いに受け入れ、敬意をもって接することができる自由な社会でのみ存在しうるものであるということを知った。この方は、ウクライナ侵攻を止めるためには、ロシア人の多様性が必要であるとおっしゃっていた。国の表面の多様性ばかりにとらわれるのではなく、国の中の国民の多様性も必要であることを学んだ。

そしてもう一つは報道されていない戦争や紛争をなくすということだ。世界には世界人口の6人に1人が紛争に影響されている地域に暮らしていて、100人に1人は難民もしくは国内避難民となっている。アフガニスタン、イエメン、シリア、イラク、メキシコ、ナイジェリア、ソマリア、コンゴ民主共和国、ブラジル、ミャンマー、南スーダン。あなたはこの中でいくつの国の状況について把握しているだろうか。これらの全ての国について詳しく知っている人はおそらく少ないだろう。なぜなら、これらの国々の紛争や難民の様子は「報道されない」  からだ。テレビでは視聴者やその国の興味や関心から報道されるニュースが決まる。そのため逆に言えば、興味や関心のない出来事は取り上げられないのだ。今やウクライナ侵攻の報道ばかりで、それ以外の紛争や難民に対する事柄をメディアは取り上げていない。例えば、現在のシリアでは11年間にも及ぶ内戦がおこっており多くの難民が生まれ、今も支援を必要としている人で溢れている。罪のない人々の命が失われている。そこに住んでいる子供たちは不発弾や爆弾によって体に障害を負い、一生自分のその障害と闘わなければならない。またカンボジアでは1970年から1990年代までに続いた内戦で多く使われた地雷の影響によって苦しんでいる人がたくさんいる。成人男性は仕事や農業で行動範囲が広いため、誤って地雷を踏み足や手を失う人も多くいる。私はこれらの報道されにくい国々のニュースから学ぶことは数多くある。仮にこれらの内戦や紛争が終わったと紙の上で条約が結ばれたとしても、被害を受けた人々にとって戦争は一生続く。

私は、これらの状況を発信していかなければならない。なぜなら、私は高校生平和大使の一員として世界平和の実現に向けて核兵器の廃絶と言う最大目標に向かって署名を集めたりこのような情報の発信を行っているからだ。今回このように書き尽くしたことによって私たち高校生平和大使の思いが伝わって欲しい。

・Kharisma Febriyanti リスマ ブラウィジャヤ大学3年 インドネシアの人口ボーナス、利益か脅威か

インドネシアの人口ボーナス、利益か脅威か

人口ボーナスは、生産年齢の人々の数が多い状況です。生産年齢人口は15〜60歳の人口です。インドネシアは2045年に経済の発展が高くなる予想されます。経済的な観点から見ると、人口ボーナスには多くの利点があります。一つ目は生産年齢の人口はより大きな投資に貢献するでしょう。人口ボーナスは窓の機会と言われる。なぜかというと労働者が豊かになりますから、経済状態を改善することができます。ただし、国が人的資本投資を欠いている場合、人口ボーナスは大きな影響を及ぼさないです。だとすると、人口ボーナスはまた、大量失業の波に変わって、国家予算の負担をさらに増加させる可能性があります。

現在国勢調査をもとにして、2022年にインドネシアには生産年齢人口の数は69,9%を達しています。その現実を知るとき、今後の計画をするか、どんな準備をするか、よく考えなければなりません。たとえば大きい会社と小さい会社は雇用を作って、その現象を深く判断しなければなりません。経済学者に人口ボーナスに関して聞くとき、いろいろ意見を出てきます。この意見は二つに分けられて、楽観的と悲観的な意見があります。楽観的な意見を聞くと、人口ボーナスは生で好ましい状態になる可能性があります。なぜかというと、生産の面で工業化を支えるために、ほとんど若者は工場で働く決定が大きくなります。だとすれば、工業化の対象がもっと高く成ります。工業化の成功は、注意して点があってたとえばす生産されるときには作る製品の数だけでなく、労働者の福祉が必要です。労働者が必要な福祉を得るとき、会社は非常に生産的になります。しかし実際には、厳しすぎる生産して、多くの労働者は悪く労働文化を感じています。大企業では、対象を達するために、労働者は夜中まで働かせます。それは良くない制度だと思って、起いて続けると生産の結果に影響を与えます。だから、お互いに利益のために、バランス制度を考えらなければなりません。

また一方は悲観的な意見を聞くと、労働者の数高く成って、人口の増加が多くなってきますから、経済の状態が過熱になります。それだけではなく土地面積の増加は伴いません。その結果は工業地域やその他の経済はスラム地域に発展しました。会社は労働が余剰になりますから、もっと多くの人々を収容することはできません。人口の急増の結果は、社会保障と多額の年金を保証するために、投資が従業員と国の賃金に転用されるため、経済のイノベーションが弱くなりました。人口の増加は、実際には生産要素の欠如のために最適化できない大規模な失業による負担です。これは、次のような条件によってつのらして、インドネシアの中産階級は、輸入品の消費を含め、喜んで消費する傾向がありますが、生産性は比較的低く、生産性によって相殺されず、国の補助金への依存度が高いことと相まって、消費率の大きさは潜在的な人口ボーナスを弱くなります。

人口ボーナスは利点になる可能性がありますが、悲惨なこともあります。2045年まで生産年齢人口が多い国として、国は先見の明のある解決策や努力を考えなければなりません。判断に入れることができるいくつかの解決

①一人当たりの所得を増やすための大きな労働供給

② 女性の役割、すなわち子供の数が少ないことは、女性が雇用市場に参入することを可能にし、収入を増やすのに役立ちます。

③ 生産的に投資される公的貯蓄があります。

④ いろいろ分野で上手な人材が必要です。

経済成長と人口増加の現状により、政府がより意識し、発生するリスクに備えることができることが期待されています

・三谷若菜      N高等学校 2年 発展途上国のかげに隠れた貧困者 

私は小さいころからホームレスの人達に興味があります。それは、「なぜ家がなくなる状態になるまで働かないのか」、「寒くないのか」、「周りの人の目は気にならないのか」、などなどの疑問を保育園のときホームレスの人を見たときから持っていたからです。そこから、小学校、中学校、高校と過ごしていくうち世間からホームレスはいい目で見られていないと分かりました。

確かに、普通に今の日本の生活水準の中で暮らしていれば、周りの人と同じように人並みに過ごして人並みに行動にうつしていれば、住む家が確保できないレベルまで財産がなくなることはないと、私もこの件について調べるまでは考えていました。また、他にホームレスの人達と私達の違いを考えてみると、ホームレスの人達は恐らくその現状からなんとか抜け出そうという意思が弱いと考えました。勿論一人一人抱えている事情があると思うので、一概には言えませんが、住む場所を確保することはそんなに難しい事ではないと考えられます。今時、人手不足の職場が多く、日払いの簡単な業務内容の仕事はたくさんあります。それら等を活用すれば、すぐに生活水準は上げられると考えられます。また、生活する環境の違いのせいか、その様子からホームレスの人達を少し異様に感じてしまう人も多いようです。このように、ホームレスの人達に対して世間の目が厳しいのは、「努力せずにその状態に陥っている」という認識が強いからだと考えました。しかし、私はこのことを踏まえたうえで、どうしても率直に「かわいそう」という思いが勝ってしまいます。

そこで気になったのが、SGGsの17の目標のなかに「働きがいも経済成長も」という目標があることです。私は、この社会活動の中でホームレスの人達は取り残されているのではないかと思いました。私がSDGsについて調べたところでは、発展途上国と、AIにとって代わられるであろう職種の人々に焦点が当てられていると感じました。

私は上記に示したように、ホームレスになってしまった原因は、「働きたくない」や「犯罪を犯してしまって雇ってくれるところがない」などの個人のせいであり、個人の問題だと思っていました。しかし調べたところ日本全国のホームレス数3992人のうち、倒産や失業が37パーセント、人間関係が原因と家庭内の問題が原因が25.9パーセントで同じ値で、家賃が払えなくなったが14.8パーセントと私が以前思っていたような自業自得で自分勝手な理由は見当たりませんでした。この調べた結果から、私は「かわいそう」という認識から「助けるべき」という認識に変わりました。なので、SDGsの社会目標であまり言及されていないことがひっかかりました。

日本はホームレス問題は改善されてきていると思いますが、アメリカなどでは増加してしまっているようです。確かに発展途上国には飢餓で苦しんでいるひとたちがたくさんいて、その問題もとても重大で解決を急ぐべきだと思いますが、先進国のなかにも取り残されている人々がいることを忘れてはいけないと思います。社会問題について深く考える人が増え、とても重要視されるようになった現代社会だからこそ飢餓や環境汚染などの代表的な社会問題から少し外れた「ホームレス問題」に注目するべきだと思います。

解決するには、働く場所や家などの環境を提供することはもちろん必要だと思いますが、ホームレスの人達の年齢の割合は65歳以上が42.8パーセントと高い事やその中で「このままでいい」とする人が41.1パーセントもいるという事実を理解し、精神面でのケアも行う必要があると考えます。そして、日本だけでなく世界の国々、とくに先進国で取り組んでいって欲しいと思います。

障がい者の人達のように明らかに社会から取り残されているわけではなく、街中にいると白い目で見られるホームレスの人達なので、その問題について深く考える機会は少ないと思いまが、そんな現状だからこそ今一度悪い先入観を捨て、ホームレスの人たちの立場になって考え。このホームレス問題についてよく考え、社会全体の取り組みとして解決に向かっていくべきだと思います。

参考文献

ホームレス状態の人がなくならない原因とは?生活保護の問題点や支援方法について (gooddo.jp)

https://gooddo.jp/magazine/poverty/homeless/

・大立目来夢    宮城県名取高等学校2年  取り残さないために

私は障がい者を救うために、障がい者が社会で直面しているバリアを取り除き、障がい者への理解をするべきだと思います。

なぜなら、障がい者の人たちが安心して暮らしやすい社会になると思ったからです。障がいがある人が社会の中で直面しているバリアには、大きく分けて4つあり、物理的なバリア、制度的なバリア、文化・情報面でのバリア、意識上のバリアがあります。そして、この4つそれぞれに問題があります。物理的なバリアには、公共交通機関、道路、建物などにおいて、利用者に移動面で困難をもたらす問題、制度的バリアには、障がい者だからと行動を制限されてしまう問題、文化・情報面でのバリアは、情報の伝え方が不十分であるために、必要な情報が平等に得られない問題、意識上のバリアは、差別や偏見、無関心によって障がいのある人たちを受け入れなかったり、行動を妨げるという問題があります。物理的なバリアフリーの問題を解決するには、さまざまな人の立場に立って何が必要なのかを考える必要があります。たとえば、狭い通路は通りやすいように広くする。高い位置にあるボタンは、車椅子に乗っている人には押せないので、車椅子の人でも押せるように車椅子に乗っている人の高さに合わせてボタンの位置を低くするべきだと思います。制度的バリアは、障がい者だからといって行動を制限せずに受け入れるべきだと思います。文化・情報面でのバリアは、タッチパネルは視覚が不自由な人には使えず、聴覚が不自由な人は音声の案内が聞こえないという問題があり、点字・手話を使って情報を伝えればいいと思います。意識上のバリアは、点字ブロックの上に無意識に立ったり、物を置いてしまってりして妨げてしまうなどあります。こういったことが起こるのはバリアフリーについて無関心で、障害者に対しての理解ができていないから起きてしまうことだと思います。こういうのをなくすためにも、いろんな人に理解してもらう必要があると思います。こういう問題を一つでも多く解決することで、障がい者の人たちが暮らしやすくなると思いました。

また、障がい者について理解することで、私たち一人ひとりの考え方や行動が変わると思ったからです。自分に悪気がなかったとしても、無意識に避けてしまったり、見て見ぬふりをしてしまうことがあると思います。だから、相手の立場に立って経験することが重要だと思います。たとえば、視覚が不自由な人の体験をするなら目を隠して歩いてみたり、聴覚が不自由な人の体験をするなら耳を塞いだみたり、体が不自由なら車椅子に乗って動いてみたりなど、体験することで障がい者の大変さがわかると思います。実際私も、小学校の頃に体験して、障がい者の大変さを知りました。こういった経験をするからこそ、相手のことを理解することができ、困っていたら助けようと行動できると思いました。確かに、バリアフリーの問題を解決して改善したとしても、すぐに人は変わらないし、実際に、障がい者の人が利用して使いやすい、暮らしやすいものになっているかというと、必ずしもそうだとは言い切れません。しかし、障がい者に対しての理解や思いやりがあるだけでも障がい者の人たちが暮らしやすい社会近づいていくと思います。

以上の理由で、障がい者を救うために、障がい者が社会で直面しているバリアを取り除き、障がい者への理解をしていくべきだと思います。

・小野芽愛      三田国際学園高等学校1年 よりよい世界に向けて

空飛ぶ車、完全自動式、本当にそんなものは未来にあるだろうか。というかそもそも、人間はそんなものを望んでいいのだろうか。ゴミは分別しない、無意識で人を差別をするそんな人間にそんな高度なものを与える必要はあるのだろうか。

燃えるゴミと燃えないゴミは分別する、人間はみんな平等である。

そうやって考えるだけで簡単に未来を循環型社会へと繋げる事ができるのに。

SDGS、循環型社会を目指す。最近はこの取り組みについて注目される場面が多いと思う。

実際に私の学校でもSDGSについて考える機会が増えた。そこで私が理想とする未来とはどんなものだろうと考えた事がある。

私は、全ての人がお互いにそして環境に気を遣えるようになってほしい。きっとそうすれば、誰かのために、環境汚染などへの対策ができるようになって、多くの人が環境と人に対しての関わり方が良いものになり、循環型社会へと繋げられると思う。

しかし、恐らく人は、自分1人がSDGSに貢献したところで何も変わらないと考えている。

確かにそうかもしれない。1人が節水したところで、世界の水使用量のグラフは変わらない。だけど、このコロナ禍のなかで感じなかっただろうか。家にいる事がどれだけ自分の身を守り、そして他人の命を守るこどかできるのかを。自粛期間で気持ちが落ち気味になってしまった人も多くいるだろう。だけど少なからず、なるべく家にいようという、人への、そして国への配慮は、未来を変えたのだ。

私は実際にそのようなことをとても感じた。感染が拡大して、オンライン授業となり、最初はすごく嬉しかった。だけど、友達も部活もなく、1人で外にも出れず授業を受けるというのはなかなか辛いものだ。わからない問題を聞くことはできないし、友達とお昼ご飯を食べることも、授業が終わったら部活仲間と練習をすることができなかった。でも、私は自分の身を守るためにも他人にうつさないためにも外に出るのを控えていたから、感染者のグラフが減っていくのには安心した。

学校が再開し、友達と会えた時は会うのが久しぶりで少し緊張したけど、やっぱり友達と話したり笑いあったりすることは幸せだなと思った。

この経験を通して私は、自分の意思が誰かを救ったのかもしれないと感じた。きっと、SDGSの取り組みだって同じだと思う。

このようにコロナ禍で感じた気持ちを生かして、世界全体で協力し合って循環型社会を築き合いたいと思った。

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