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2020年 受賞者発表! 第1回 SDGs「誰一人取り残さない」小論文コンテスト

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本コンテスト関連が朝日新聞2020年12月28日朝刊で1面、2面で大きく取り上げられました。大賞を受賞した加賀明音さんの小論文も掲載されています。

https://www.asahi.com/articles/ASNDV3Q60NDQUHBI00Q.html
(購読には朝日新聞デジタル申し込みが必要です。月額980円からですが、1か月無料です(申し込みして1か月以内のキャンセルした場合は無料)

2020年第1回小論文募集要項:https://nogezaka-glocal.com/project/sa/

32名もの方の応募をいただきました。野毛坂グローカル理事7名による厳正な審査の結果、下記の方々が入賞しました。
本当に難しい審査でした。極めて高いレベルであり、大賞候補だけで12名もの人が推されました。
一人審査員が別の人であったならば、全く別の結果になったと思われます。

大賞(3名): 副賞 2万円
◆エバデ・ダン 愛琳 (University of Freiburg)
◆木俣 莉子 (東京女子大学)
◆加賀 明音 (進学準備中)

特別賞(ANR賞):副賞 1万円
◆黒羽 菜々子 (東京女子大学)

特別賞(武井啓子賞):副賞 1万円
◆神谷 優大 (進学準備中)

入賞(15名):副賞 5000円
◆鎌田 彩音 (東京女子大学)
高木超賞も合わせて受賞(副賞 書籍:SDGs×自治体 実践ガイドブック)
◆野田 怜弥 (横浜市立大学)
◆加藤 路瑛 (角川ドワンゴ学園N中等部)
◆渡邊 果歩 (岩手大学)
◆住山 智洋 (横浜国立大学)
◆古川 遼  (京都大学卒/来年10月よりUCLに進学予定)
◆宮本 浩揮 (法政大学)
◆岡本 卓哲 (名古屋大学大学院 博士後期課程)
◆鵜飼 孝行 (神奈川大学)
◆山本 晃生 (国際基督教大学)
◆一瀬 美羽 (東京女子大学)
◆加納 舞  (東京女子大学)
◆山﨑 一葉 (東京女子大学)
◆岸田 和香 (英国大学院に進学予定)
◆篠原 彩音 (茨城県立竹園高等学校)

【講評】野津隆志 兵庫県立大学 教授

今回のSDGs「誰一人取り残さない」をテーマにしたオンライン会議を題材にして、32人の若者が論文を寄せてくれました。論文はそれぞれが会議から得られた経験をもとに、「誰一人取り残さない」というテーマについて正面から捉え、誠実に思考したことが分かる力作ばかりでした。その中で3人が大賞に選ばれました。どこがよかったのか順番に講評したいと思います。

はじめにエバディ・ダン愛琳さんは、アフリカにルーツを持つ父と日本ルーツの母親の元に育ち、少女時代から孤独や疎外を経験したことを書いています。しかし、彼女はその孤独感を自分の中に閉じ込めるのではなく、逆にアフリカにルーツを持つ子ども達のためにコミュニティを運営しました。SDGsの「誰一人取り残さない」という理念を実現するために自ら行動を起こしたのです。また、エバディさんは「彼が何者であるかを決める権利は、彼以外の誰にもありません」と主張しています。弱者とか少数者というカテゴリーに括られることを拒否し、自分の選択によって自分のアイデンティティと社会への参加を決めていこうという強い意思が感じられます。エバディさんが運営するコミュニティの個性的な発展が楽しみです。

次に木俣莉子さんは、コロナ禍での社会状況をバランスよく理解した上で、今回のセミナー参加から学んだことを広い視野から整理しています。木俣さんは「コロナ禍で取り残された人々との差が刻々と開いている」ことにまず着目しました。われわれはコロナ禍で、自分以上に危機にある人々への想像力は欠如しがちです。WEB会議ツールが効果を発揮する状況は、同時にツールを使えない人たちとの格差を拡大する危険と隣合わせだと木俣さんは問題を指摘します。そして、誰一人取り残さない社会の実現には「知識」「想像力」「当事者との関わる経験」の三つが重要と主張しています。「知識」と「想像力」は机の前の勉強で身につくかもしれません。しかし、「当事者との関わる経験」には行動が必要です。行動があってはじめて「知識」と「想像力」は意味を持ってきます。そのことを木俣さん今回のセミナーでの障害当事者の参加の仕方から学び、それを深く考察しています。

最後に加賀明音さんは、視覚と聴覚に障害のある盲ろうの当事者として誰一人取り残されないことを論じています。「朝起きても、周りは真っ暗。鳥もなきません」「世の中にはラインなんていう便利なものがあるらしい」といった日常から記述がはじまります。さらに、コロナウイルス感染の危険から人が距離をとるようになり、手で触れる点字によってはじめて人とのコミュニケーションが可能だった日常が失われ、「私の周りから人が消えました」と記述が続きます。しかしそれでも加賀さんは車椅子に伝わる振動や顔に当たる風の感覚、キンモクセイの香りから世界とつながろうとしています。さらに、自分の置かれた状況をかつては「あきらめるしかないと思っていた」にも関わらず、「助けてください」と声を上げる勇気を持ち、夢と可能性を開いていこうと決意を表明しています。加賀さんが力強く決意表明できるようになるまでに経験した多くの困難に読者は共感し、当事者ならではのことばの力に圧倒されます。コロナ禍で最も困難を抱えている当事者の声がこれから広がっていくことを願わずにはいられません。

3人の大賞以外にもたくさんの優秀な論文が寄せられました。その中で入賞した最も若い二人の論文を簡単に講評します。

篠原彩音さんは高校生16歳です。篠原さんは途上国と先進国の関係を論じました。先進国は自ら施しを与えるように振る舞い、途上国との上下関係を作っていると批判します。日本などの先進国は、実は途上国の低賃金、児童労働などの労働搾取の結果安い製品を手に入れていることを問題視しています。篠原さんは結論としてお互いが対等な立場で助け合い、すべての人の命が尊重される社会の実現が重要だと主張しています。自分の主張を広い視野から論拠を挙げて説明しており、論旨の明確な論文になりました。

加藤路瑛くんは、応募者の中の最年少14歳の中学生です。加藤君の論文には、社会通念であってもそれを一歩引き下がったところから疑い、その疑問をほったらかしにせず、自分で調べて追求しようとする姿勢が描かれています。加藤君は「誰一人取り残さない」というスローガンに違和感を持ち、その違和感に向き合い、SNSを使い多くの人に問いかけ、自分の疑問への回答を探そうと努力しました。そして、SNSから得られた意見を吟味し、さらに深い理解を得ようと真剣に考えていることが読者に伝わる論文となりました。

【講評】高木超
SDGs-SWY共同代表
慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科 特任助教

今回の小論文コンテストに応募されたすべての作品を拝読しましたが、どれも素晴らしいものばかりでした。

コンテストの主題でもある「誰一人取り残さない」という考え方は、国連が推進する持続可能な開発目標(以下、SDGs)の理念であり、その達成期限である2030年に向けて、私たちが向き合うべき視点と言えます。とはいえ、実際に「誰が取り残されてしまうのか」という問いを考える機会は、思ったより少ないのではないでしょうか。応募作品の中でも、何らかの障がいを抱える人、貧困に苦しむ人、高齢者、若者、女性、子どもといった様々な対象が「取り残されてしまう人」として提起されています。同時に、「誰も取り残さないために、自分にはどのような行動ができるのか」という問いの答えも、応募者一人ひとりが考え、様々なアイデアが寄せられています。

応募者の皆様におかれましては、受賞の有無に関わらず、このコンテストをきっかけに、「誰一人取り残さない」とは一体何か、自分には何ができるのか、家族や友達とも引き続き一緒に考えていただくことで、「誰一人取り残さない」社会の実現に近づくのではないでしょうか。

◆エバデ・ダン 愛琳 (University of Freiburg)

田んぼに囲まれて生まれ育った少女時代、わたしは言葉にできない疎外感を感じていました。友達よりも茶色い肌、くるくるした髪、父の作るナイジェリア料理と母の作る日本食との両方が楽しめる食卓。日本人だといえば「嘘だ」と否定され、「日本人平均」という言葉には自分が当てはまるのかどうか違和感を覚え、「あなたは普通じゃないね」と言われるたびに、孤独を感じていました。24歳になった今、孤独感を感じていた子ども時代の自分が求めていた居場所をつくろうと思い、自分と同じくアフリカにルーツをもつ子ども達のためのコミュニティを運営しています。このコミュニティには、私自身も日々の生活で気をつけている、二つルールがあります。この二つは、SDGsの理念「誰一人取り残さない」の基本でもあると言えます。  一つめは、違いを受け入れることです。これまで、自分は「普通」であると思い込んでいるたくさんの人々が、彼らの物差しでわたしを「普通ではない異常な存在」とみなし、線引きしてきました。「普通」とはあくまで主観であり、十人十色のさまざまな違いがあります。背の高い人もいれば、足の速い人もいれば、車椅子の人もいれば、私のように様々な国にルーツのある人も。このような違いは個性であり、個性はより社会を豊かにする基礎であると思います。「人種なんて関係ないよ」「障がいなんて気にしないで」と言ってその人のもつ違いを無視するのではなく、「わたしとあなたは違うけれど、そこがいいよね」と違いを受け入れられる発言をするよう心がけています。  二つめは、すべての人が自分らしくいることを求めること、そして尊重される権利があることを再認識することです。吃音症の親友が、「吃音症は僕の一部であり僕の全てではない。それだけでかわいそうな人だとレッテルを貼られると一番腹が立つ」と言っていたことを鮮明に覚えています。わたし自身も同様な経験をしてきました。彼の一部だけを切り取り、「かわいそうな人だ」と決めつけてしまう行為は、彼のもつ可能性を殺してしまいます。個を殺して集団に引き込むことでも、表面上は誰も取り残されていないかもしれません。しかし、本質的な包括性・多様性の享受ができている社会こそが、持続可能な社会であると思います。「誰一人取り残さない」社会は、大前提として、すべての人がのびのびと暮らせるような社会である必要があるのではないでしょうか。彼が何者であるかを決める権利は、彼以外の誰にもありません。それはすべての人が有する基本的人権であり、尊重されるべき権利です。  「誰一人取り残さない」ためには、日々絶え間ない努力が必要です。わたしは、この二点を常に念頭において、毎日人と接しています。そして、自分のコミュニティにやってくる子ども達にも、常にこれらのことを話し、彼らのもつ違いは無限の可能性であるということ、そして彼ら全員に尊重される権利があり、彼らが接するすべての人にも同様にあるのだ、と言い聞かせています。自分が子どもの頃そうであってほしかった社会、「誰一人取り残さない」社会を目指して。

◆木俣 莉子 (東京女子大学)

私は今回のセミナーを通して、新たに2点の気付きを得ることができた。  1点目は、世の中がコロナウイルスの蔓延との付き合い方を少しずつ獲得し、新しい生活様式へと前向きにシフトチェンジしていく一方、取り残された人々との差が刻々と開いていっていることだ。  そして2点目は、“誰一人取り残さない社会”は知識、想像力、そして実際に当事者と関わる経験の3要素が揃うことで、初めて実現が可能になるのではないかということだ。  以下、このような気付きに至った経緯について述べていく。  新型コロナウイルスの蔓延が日本でも本格的に始まった2月初頭は、実態のつかめない未知のウイルスに怯え、各々が“自分が生き延びること”に必死だった。  しかしながら今日では、人々は長期的にウイルスと付き合っていかねばならないことを覚悟し、ライフスタイルを前向きに変更していく姿勢が主流になってきた。数か月前までのおよそ30倍の人々が、zoom等を活用し、リモートワークやオンライン飲み会などを行うようになった。メディアでも「普段会えない人と繋がれた」「家族との時間が増えた」などの明るい声が取り上げられ、自身も人間の適応能力に驚かされ、前向きな変化に感心するばかりであった。    そのため、このセミナーを視聴した際、私ははっとさせられた。  web会議ツールを自宅で不自由なく使えるのは、「目が見える」「耳が聞こえる」「話すことが出来る」「自宅のインターネット環境が整っている」「機器の操作ができる」「デジタル機器を用意できる」等、様々な要素をみたした「限られた人」のみであることに、初めて気づかされたからだ。今後Web会議ツールなどが、益々人々の生活から切り離せないものとなると予想されるが、それに伴いこのままでは「使える人と使えない人の差」は開くばかりだ。  けれどもこれはあくまで“このままでは”の話である。福田さんが述べられていたように、どんな状況でも取り残される人は出てきてしまうが、それを防ぐための工夫は出来る。    それではその“工夫”はどのようにしてなされるのだろうか。  そのことを考えた際、今回のセミナーを視聴する以前の私であったら、「知識」と「想像力」の2つを必要要素として挙げただろう。これまでも、様々な立場の人に起こりうる問題を知り、それを踏まえて想像力を働かせれば、日常場面でも適切な配慮や援助ができると考え、知識を深めようと努力していた。  しかしながら、セミナー内のある場面で、その2つだけでは不十分だと悟らされた。 今回のセミナーでは、盲ろう者への配慮として“要約筆記”が行われていた。スピーカー1人ひとりが、普段よりゆっくり喋ることを十分に意識されていたが、セミナー内では「もう少しゆっくりお願いします」「区切りで間を取ってください」といった要請が、何度も、何度も、繰り返された。   全員の間に「ゆっくり話さなければいけない」という共通認識があった中で、このようなことが起きたのは、要約筆記に必要とされる「ゆっくりさ加減」「間の取り加減」が、 参加者の想定以上であったことが原因なのではないかと推測する。参加者同士がそれらの加減を前向きに探りながら、ちょうどいい加減を見つけていく過程には心が温まった。  この過程を見ていた私たちは、今後そのような方とお話をする際、自分が思うより更にゆっくりと、十分な間を取って話すことが出来るようになるだろう。たった数時間の経験を通して、私たちは「誰一人取り残さない社会」に向けて確実に一歩前進することが出来たのだ。  私はこのことから、本当の意味での適切な配慮や援助を実現するためには、「知識」「想像力」に加え、「実際に当事者と関わる経験」が必要なのではないかと考えた。  知識、想像力、そして実際に当事者と関わる経験の3つが揃うことで初めて、それぞれの要素が相互に影響を及ぼし合い、“取り残し”を防ぎ共に生きるための対策を検討することが出来るのではないだろうか。  今回のような場は、様々な人に気づきを与えられるという点で、共生社会実現のために非常に意味があると考える。  これまで分断に気づいていなかった人は、分断に気づき、知識や想像力の獲得のきっかけを得ることができる。一方で分断に気づき、知識や想像力を持ちあわせている人は、実際に当事者と関わる経験を通して、更に適切な配慮を見つけることが出来る。  人間社会は複雑な要素が絡み合って成立しているため、社会状況を一度に根本から覆すことは不可能だ。しかしながらだからこそ、一人でも多くの人が分断に気付き、共生のための小さな前進を積み重ねていくことが重要になってくるのではないか。  今後は積極的にこのような交流の場に参加することで自身の気づきを増やし、行く行くはその気づきを周囲に伝播させられる存在になりたい。それが、「誰一人取り残さない社会」実現のために自身が貢献する、一番の方法なのではないかと考えている。

◆加賀 明音 (進学準備中)

人に助けを求めることができるようになるまでに、長い時間がかかりました。できないことがあるのは、私の努力がたりないからだと思っていました。私が悪いんだって思っていたから。あきらめなければならなかったこと、たくさんありました。でも…。  朝起きても、周りは真っ暗。鳥もなきません。ぴぴぴとならないめざましどけい。でもカーテンを開けたら、ちゃんと暖かなおひさまがあるんです。  車椅子に伝わるがたがたという振動。顔に当たる風。夏の夕方の風、秋のきんもくせいの香り。春のさくら、そして屋台の食べ物の匂いが大好きです。  世の中には、ラインなんていう便利なものがあるらしい。最近はどうぶつの森というゲームがはやっているらしい、とか。  私には、周りの様子がまったく見えなくて、そして人も声もきこえません。視覚と聴覚の両方に障害のある盲ろう者です。毎日、手からの情報で世界を確かめています。  コロナウイルスのかんせんの拡大を防止するために、人と人とが距離をとるようになりました。私は見えなくて聞こえないから、触れていなければ人がいることがわからない。だから、私の周りから人が消えました。  みんなは今なにしてるのかな、そんなことを考えながら続けるステイホーム生活。少し気をぬくと、朝なのか夜なのかわからなくなってしまって大変です。  最近増えた、オンラインでのイベント。興味があっても、一人では内容を知ることができません。コロナじゃなかったら誰かに来てもらうことができる、そうしたらいろんなことがわかるのに…イベントの情報を知るたび悲しくなることばかりでした。  5月1日のイベントでは、今やっていることがわかりました。これが、参加できてるって言うことなんですね。久しぶりに人とつながれている気がして、じわしわ、嬉しくなりました。  今までに、しかたがないとあきらめたことは何度もあります。あきらめるしかないと思っていたから。  助けてくださいと言えるようになってら、気持ちがらくになりました。私も誰かのためにできることがあるのだろうか、考えられるようにもなってきました。  最初からなにもかもをかんぺきにするのは難しいです。けれど、みなさんと同じように買い物にいきたい。みなさんとお話がしたい。学校へ行きたい、学びたい。興味のあるイベントにきがねなく参加できるようになったらいいのになとか。やりたいことはそんなことです。私も頑張って、たくさんの人から少しずつ力を借りることができたら…あきらめなければ、夢と可能性はきっと広がります。  だから毎日、声をあげ続けています。  『私たちは今、取り残されています。あなたの力をほんの少しだけ、かしてもらえませんか?』

◆黒羽 菜々子 (東京女子大学)

私は今まで、「SDGs」という取り組みがあることを知らなかった。掲げている目標である「誰一人取り残さない」という言葉を知った時、とても感情的で、気持ちが込められた、その言葉から、私の心に何かを訴えかけられたように思えた。今回のセミナーの動画を視聴し、「誰一人取り残さない」ことの難しさや、様々な立場の方々がそれぞれの理由によって「取り残されがち」である現状を知る機会になった。ここからは、セミナーの議題となったコロナ禍で生じている四つの問題について、それぞれ感じたことや考えたことについて、記述していく。  まず、秋山さんと福田さんのお話にあった、「三密」の問題だ。新型コロナウイルスが猛威を振るっている今、ソーシャルディスタンスこそが、人々の健康を守るものだと信じ、その為の取り組みが日本全国で行われている。そんな中で、障がいのある方や、盲ろう者の方、介助が必要な方にとっては、ソーシャルディスタンスが命に関わる大変な問題であることに、気が付かなかった。自分自身のことにいっぱいいっぱいで、私は、知らず知らずのうちに多くの方を取り残していたのだと、痛感した。また、盲ろう者の方の中にも格差があることを知り、「誰一人取り残さない」という言葉の実現が、とても難しい事なのだと改めて感じた。しかし、福田さんのお話にあったように、「どんな状況でも取り残される人はいる、でも工夫はできる」という言葉に、少し希望を見出すことが出来た。皆が置かれている状況を知り、何が必要なのかを考えて、少しずつ改善させていくことが出来るのではないかと思った。  また、ソンポンさんのお話の中で、タイの外国人労働者の現状を知った。日本を含め、このような事態は、世界中で起こっていることなのかもしれないと思った。外国人労働者は、国籍が違うということだけで、いざという時、救われる対象にならないということに、疑問を持った。都合のいい時だけ使い、不要になったら突き放す、というやり方はとても卑劣である。また、国の立場になって考えると、ひどい対応により、その国で働いていた外国人労働者が離れていくことは、国にとっても不利益であることが考えられるため、その二つの面から、改善すべきだと感じた。  次に、米岡さんと小林さんのお話にあった、「高齢者への対応」についての問題だ。これまでは、高齢者の顔が見える環境作りをする為に、外に出ることを奨励してきた。しかし、コロナウイルスによって、これまで行ってきた地域と高齢者を結びつける活動をすること自体が、避けなければならない対象になった。お二人の話から、長い時間を掛け、地域に少しずつ根付いてきた方法が断たれたことへの悔しさを強く感じた。また、そのような現場の声が、方針を決める側に伝わっていないのだろうな、ともどかしく思った。  最後に、富樫さんのお話の中にあった、「若者は取り残されるのか」という問題だ。まず、「若者」という定義の広さと曖昧さに驚いた。45歳までを若者と定義すると、若者が取り残されているならば、人類の殆どが取り残されているのではないかと不思議に思った。また、私は「必要な制度にアクセスするための情報が届かない」という話に、とても共感した。それは、私が大学生活を送る上で、友人から様々なことを得られる情報網を少しでも持っていないと、取り残されていると感じてしまう気持ちを理解できるからだ。情報が伝わってこないことにより、閉ざされた空間に居ることは、地域やコミュニティとの隔たりの始まりなのではないだろうか。情報格差によって、拾われにくい声となってしまうことは、遠い話ではなく、身近に起きていることなのだと再認識できた。富樫さんが終止訴えていた、「当事者が意思決定の場に参画し、意見を反映することが大切」という言葉から、様々な立場からの意見や、今まで声を上げられなかった立場の人にとって、生きやすい世の中を目指せるのではないか、と明るい未来を感じた。  私にとって、様々な立場の現状や、抱えている問題、他の人に求めることなどを聞くことは、多方面からの「誰一人取り残さない」について考える機会になった。今まで、大学では様々な困難な立場に置かれた方について学んできたが、「取り残される」という考え方の概念自体が、自分の中で変わった。  SDGsの基本的精神である「誰一人取り残さない」ということを実現していくためには、何事も、起こっている事柄の裏では、他の誰かが困難な状況にあるかもしれない、と視野を広げて見つめることが大切であると考える。また、当たり前だと思うことや、偏った考え方、自分以外の他者への関心が無いことは、誰かを取り残してしまう第一歩なのではないかと感じている。知らないうちに、排除してしまっているのは私かもしれない、という自覚を持つことも重要である。  無関心が一番怖い。まずは、自分の周りで起きていることを把握し、知ることから始めようと思う。それが、「誰一人取り残さない」に繋がることを信じて。

◆神谷 優大 (進学準備中)

要約筆記や参加者の話すペースの調整などの助け合いがあって、参加できる人が増えた今回のイベント。当事者同士の助け合いが誰一人取り残さない社会を作っていく上で最も基本的なことなのではないかと改めて再認識しました。そこで、「会話」という視点から、「誰一人取り残さない社会」について考えました。  会話のペースを合わせるという経験は、状況次第で誰もが取り残される立場にあることを感じました。参加した当時、このようなゆっくりした会話を経験するのは初めての経験だと感じました。しかし、その後、動画を見返し、自身の経験を振り返ってみると、重なる部分がありました。  比べるのもおこがましいですが、海外で現地語でネイティブが話す会話に参加するときは取り残されている気持ちを抱いた経験がありました。気を使ってもらい会話のペースを落としてもらっているのを感じる度に、ありがたい気持ちと共に、申し訳ない気持ちを思い出しました。日本語ならば、うまく話せるのにという気持ちも持ちました。また、会話に入れていないと、取り残されていると感じていました。  正しい表現ではありませんが、今回のイベントでは会話のペースを合わせる側、海外では合わせられる側の両方を経験しました。それらの経験から、当事者同士が会話のペースを掴むことで、取り残される人がいなくなるならば、それこそが誰一人取り残さない会話の形であると思います。  例えば、自分の場合、お年寄りと話す時は同世代と話す時とは会話のペースが変わりますが、何度も話していると、会話のキャッチボールができているだろうと感じることがあります。一方で、これまでそのほかの取り残されやすい方々である盲ろう者や視覚障害者、日本語を話せない外国人の方々と話す機会は多くはありませんでした。しかし、当事者間で話しやすい環境を探り合う過程は同じだろうと思います。  当事者間の探り合いの過程では、どのような人なのかをお互い知ることをまず心がけたいと思います。例えば、ソトコトの記事を読むまで、盲ろう者の方が会話中に飲み物を飲むことができないことを考えたことがなく、初めて知り、ハッとさせられました。次回以降、お話する機会が会った時に休憩を挟みながら会話するなど、お互いを知り、助け合うことができるだろうと思います。少しずつ、お互いを知る過程が重要だと実感しました。また、今後、取り残されやすい状況にある人の意思決定や気持ちを気付くことができる人でありたいと感じました。「できることやできないこと」、「得意や不得意」、「助けが欲しい時と自分で頑張りたい時」など、人や状況によって、異なるだろうと感じます。障害や話せる言葉で一括りにして判断せずに、人それぞれが持つ特徴や違いを汲み取れる感覚を持ちたいと思います。

◆鎌田 彩音 (東京女子大学)

私はオンラインセミナーを通して感じた「最も取り残されがちな人」とコロナウイルスによる社会変化の関連について論じる。 セミナーには盲ろう者の方が参加されていたので要約筆記が行われていた。筆記の速さに合わせるために健常者の発言者は普段の二分の一以下の速度で発言する必要があったが、慣れていないために度々「話す速度を遅くしてください。」や「単語と単語の間に間隔を開けて発言してください。」等の注意がなされた。発言が途切れ途切れになるので、視聴している側としてももどかしく感じてしまう時があった。しかし、耳で発言を聴き、眼で話者の様子や資料を見ることができるのであればたとえ発言の速度が遅くてもその内容を理解することは可能である。実際にセミナーが進むにつれ発言者も視聴者もこの速度に慣れてきて、発言者自ら「今の速度では速かったですよね。」と発言するようになり、セミナーに参加した約150人の、「盲ろう者もいる発言の場」における常識、ルールが2時間ほどで変わっていったことを感じ取れた。 これは昨今のコロナウイルスによる社会の急激な変化においても当てはまることだが、必要さえあれば社会の常識やルールは簡単に変化していく。飛沫の拡散を防ぐためにマスクをする、ソーシャルディスタンスをこころがける、3密空間を避ける、これらはコロナウイルスから少しでも多くの人を守るために生まれた新しい常識・ルールだ。多少の不便さは感じるが、これ以上の感染拡大を防ぐためにはやむをえない。では、これだけの新たな考え方を生み出したコロナウイルスの脅威とはどれほどのものなのだろうか。実際の日本の感染者の数は日本国民全体の1パーセントにも及ばない。つまり1パーセント以下の人達のために日本全体で新たな社会を作り出そうとしているのだ。 数字だけをみると日本の人口に対するコロナウイルスの感染者はごく少数であるといえる。しかし、彼らに合わせて社会は確実に変化してきている。これは盲ろう者に合わせた形式のオンラインセミナーを行ったこと状況が等しい。コロナウイルスには貧富や老若男女問わずどのような人間であれ感染する確率を持っているが、障碍に関しても誰もが持つ可能性を持っているというところも似ている。 ではなぜコロナウイルスによる社会変化だけがここまで急激なのだろうか。それは、感染者だけでなく日本に住むすべての人に対して自粛生活をおくることが推奨されているため、全ての人が社会から取り残されている状態であるからである。しかし、中には私のように自粛生活を快適と考えている人もいれば、学費にあてていたバイト代のシフトが無くなり困窮する学生や人との接触によりコミュニケーションを行わなければならない盲ろう者、オンライン環境が整っていないために様々な機会を失っている人も存在する。 そこでSDGsの基本方針である「誰一人取り残さない」からより焦点を絞った、野毛坂グローカルの活動の基本方針である「最も取り残されがちな人」に着目することが重要となってくる。ここで大切なことは「最も取り残されている人」ではなく「最も取り残されがちな人」という表現を使用している点だと私は考えている。セミナーにおいて、要約筆記のための発言方法に慣れていないために不便を被った非盲ろう者の方を取り残されていると捉えることも可能ではある。しかし、彼らは普段のオンラインセミナーもしくは日常生活のコミュニケーションにおいて取り残されることはない。それは多くのオンラインセミナーやコミュニケーションがマジョリティである非障碍者向けに設定されており、彼らはそれらにおいては特別な対応を行う必要が無いからだ。しかし、盲ろう者はそうではない。日々の生活の中で取り残される機会は珍しいことではなく、筆談や手話、要約筆記等の非障碍者は行う必要が無い対応をしなければ取り残されてしまう。つまり先述したようなコロナウイルスによる障壁に苦しんでいる人もセミナーに参加した盲ろう者も実際は以前から普段の生活において「取り残されがちな人」、または「これから取り残される可能性がある人」であり、コロナウイルスによってその状態が悪化したということなのである。 このように、誰もが取り残されている状況だからこそ、「最も取り残されがちな人」に目を向けることができるようになっているのではないだろうか。以前の生活の中であれば声すら上げることが出来ない、または上げたとしてもその声は「取り残されない人」には届かなかった。それが今は誰もが取り残されており、「取り残されない人」と「取り残されている人」の立場が逆転している。その中で「最も取り残されがちな人」に着目した社会を形成していくことで「誰一人取り残さない」ことを目指した社会が見えてくるのではないかと考える。そのために私自身もSDGsについて深く学んでいき、誰もが暮らしやすい社会の形成を担っていきたい。

◆野田 怜弥 (横浜市立大学)

誰一人取り残さない政策を毎回行う、そういった社会やシステムを作ることははっきり言ってしまえば私は無理だと思います。それは一人ひとりみんな違って個性があり、特徴があるからです。誰一人同じ人はいないのでそれぞれが抱えている問題や悩みも違います。一部は誰かと共通しているけど一部は違って他の人と共通していたりする。例えば両親はコンビニを経営していて経営は続けられるものの売り上げは大幅に減り大打撃でした。しかし自営業の分類に入るためコロナの支援金の条件に当てはまらないこと(もしくは低い支援)が多く大変でした。友達にも、留学予定で大金を支払っていたのに戻ってこない、休学してしまったため卒業が伸びたなど様々な問題を抱えた子がたくさんいます。このコロナ下での政策はもちろん、様々な仕組みはより多くの人に関わる部分を表面的にすくい出して形にしているようなものだと思います。そのため現実で発生する一部の問題まですくうことができず“一般的に”考えられる範囲までのものとなってしまうのはしょうがないことです。障がい者の方、在日外国人の方など社会的マイノリティのことも想像出来得る最低限の範囲の補償には国も動いてくれましたが、やはりもれは避けられません。このように多様な環境、性質を持った人々を誰一人残さない仕組みを誰かが生み出すことは不可能です。だからといって私はあきらめるべきと言いたいわけではありません。私は自らが助けを求める必要があると思います。どんなことに困っているからこんなサポートをしてほしいと請求してそれに応えていくことで初めて取り残される人は減っていくのではないかと思います。自分のことは自分でしか分からないのだから、自分で分析して求めることは出来ます。確かにこれまで述べてきたように多様な問題に一つ一つ政府が応えていくのは出来ません。しかし国、市区町村、地域コミュニティ、NGO、Facebookグループ、個人で、様々な規模のアクターがあります。助けを求める声を上げれば必ず応えてくれる人はいるはずです。私はいつもNGOや国際機関の援助は素敵だし自分も参加したいと思っています。でもやはり企画を持ちかけるのは“援助する側”で無駄も出るし漏れも出る。そうではなくて困っている人が求めてそれに応えていくことが理想ではないでしょうか?恐らく今の日本では政府に直接請求することや意見することが難しいです。まずはみんなが意見を出せる場を設け言いやすい雰囲気を作りだすことが大事だと思います。その上で自ら求めることで援助の手はすべての人に行き渡るのではないでしょうか。もちろん本格的にやるには国の制度にも関わってくるため簡単なことではありません。しかし、上述したようにアクターは身近にもいるため私たちも小規模でも助けを求める、また助けることも出来ます。私はこの輪が広がっていって国際協力の在り方も変わることを願うとともに自分も出来ることを地道にやろうと思います。

◆加藤 路瑛 (角川ドワンゴ学園N中等部)

SDGsの「誰一人取り残さない」と言う言葉にずっと違和感を感じていました。「誰目線なのだろう?自分は取り残されない立ち位置にいる人の考え方なのだろうか?」と少なからず不快感も持っていました。とは言ってもSDGsの考え方自体は良いと思っていたので、この違和感に向き合うことは避けてきました。 しかし、小さな違和感は放っておかないほうがいい。SDGsの取り組みを見ても、素直に支持できず斜めな感想を持つようになりました。だから、この違和感について向き合おうとSNSで思っていることを投げかけてみました。 https://twitter.com/crystalroad2006/status/1274004667551191040?s=20 『SDGsの「誰も置き去りにしない社会」って言葉に違和感がある。「誰目線?置き去りにならない立場の視点なのか?」と感じていた。考えれば究極はこの概念にたどり着く。とは言え、もっとスッキリする表現はないのだろうか。置き去りにされたい人はいないし、置き去りにできる権限の人もいないはずだ。』 何人かの方からコメントをいただきました。一部を紹介します。 ・国連決議や国際規約はそのまま訳すのが通例だったりするので分かりづらい。日本では「国民一人一人に対し」みたいな表現は英語ではeverybody ではなく「no one will be left behind」とか使うので、そのまま訳されてる感じですかね。 ・確かに置き去りにする、しないって権限をもった上から目線に聞こえますね…「私達ひとりひとりが置いてきぼりにならない社会」という表現の方がしっくりきます。 ・「誰も置き去りにしようとしない社会」っていう表現だったら、どうかなって思いました。「平等」などを掲げて「誰も置き去りにしない」という事実を突きつけるのは無理難題ですが、「出来るだけ誰も置き去りにしない様にしよう」と心の上で決断することは、不平等に苦しむ社会にも届くのでは…と。 ・誰も置き去りにならない社会、でいいのにと思いますよね。 などです。翻訳によって少し伝わりか方が変わってしまっている可能性もあります。僕が、頂いた意見の中で参考になったのは、「誰も置き去りにならない社会」「誰も取り残されない社会」というような表現です。これは主語が変わったのです。 「取り残さない」という主語は、決して自分は取り残されることのない立場の人間です。しかし、「取り残されない」という主語は「私たち全ての人間」です。この表現なら、僕は違和感を感じません。そして、主語が変わることで、僕たちは自分ごとになったのです。それまでのSDGsは、やはり他人事に感じられる部分がありました。 SNSでのやりとりを深めて行くと、ある考えが浮かぶようになりました。それは「本当に取り残されないことが幸せなのか」です。世の中には変化を好まない人もいます。文明を受け入れずに昔ながらの暮らしをする部族もいるようです。誰かが考える幸せは、他人も同じように幸せに感じるかは分からないのです。なので、自ら好んで取り残されたいと願う人がいるという前提で、自分の価値観で誰かを救おうとは思わない方がいいのではないかとも思います。 それとも、SDGsの考える「取り残さない(取り残されない)」は、自分が思い描く理想的な世界を全員が叶えられるようにということなのでしょうか?人々が全く別の価値観で望んだ、それぞれの幸せを、それぞれが達成できない世界をなくす。それを「取り残さない(取り残されない)」と表現するならば、心から納得できるのです。

◆渡邊 果歩 (岩手大学)

SDGSの基本精神について、私は、自分の状況を俯瞰しながら、あらゆる他者と自分の関係を同じ立場で見つめ直すために、様々な情報に触れることが必要であると考える。なぜなら、情報なしでは問題の実態や何が必要であるのかといった問題提起から解決まで全く把握できないからである。  私は、今回のセミナーの議事録を見て、恥ずかしながらそもそも初めて盲ろう者の方の存在を知った。それに加えて、健常者でさえ生活スタイルが大きく変えざるを得なくなってしまったコロナウイルス対策のための自粛期間、現在でさえ、外出への負荷、リスクというのは盲ろう者の方々にとってこれほどまでに大きいのかと衝撃を受けた。私たちは皆で自粛してコロナウイルスの感染拡大を食い止めようと国民一丸となって自粛をしてきたが、その国民みんなの中に果たして盲ろう者の方は、私たちの十分な意識としてそこに組み込まれていたのか、無意識的にみんなという枠の中に入れていなかったのではないのかと思う。その最大の原因は「存在を知らない」ということだ。盲ろう者の存在を知らないと、彼らにとって触ることがどれほど生活を送る上で必要不可欠なものかということも分からないし、状況によれば彼らの触るという行為が誤解を生み、誤った非難を浴びせられる事態を招くこともあり得る。私は今回の小論文企画を通じ、盲ろう者の存在を知ることができて本当に良かったと思っている。取り残してしまっていたことに注意が向き、それに対する危機感を抱く好機となったからだ。それと共に、無知が生み出す怖さは、今回の非常事態において顕著に表れてくるものだと痛感した。  「誰一人取り残されない」のその一人が一体どのような人が考えられるのか、その実態像をイメージできなければ取り残さないための手立てを考えるというのは難しい。だからこそ、取り残してしまったことに意図的であったか否かの前に、存在を知ることがSDGSの基本精神を実現していくうえでまず私たちが意識をして取り組まねばならないと考えるのである。

◆住山 智洋 (横浜国立大学)

SDGsを推進する。誰一人取り残さない社会にする。それならば、国に、あるいは自分に何が出来るだろうか。 僕は大学で、国際協力やジャーナリズムを学ぶゼミに所属していることもあり、社会の様々な問題に触れることが多い。南米のスラム地域や経済、ジェンダー格差などの海外の話から、ハンセン病、インドシナ難民や無国籍といった日本国内の話まで。幅広く触れている。どれも「取り残される人々」が生まれてしまう問題だ。これらの実態を、実際に問題に直面している人々の講演を聴いたり、現場に足を運びインタビューをしたりして学んできた。 その中で特に印象に残っている場所がある。福島県だ。ジャーナリズムゼミの活動で、福島の原発被災地に取材に行った。僕はそこで、初めて「社会から取り残されている人々」の存在を知る。福島県では、少しずつ除染が進んでいるとは言え、今もまだ第1原発付近の市町村では帰還が困難な区域が存在している。放射線量が高く、通行を防ぐために道路には門が立てられている。帰還が可能になった町を歩いてみても、人気は殆ど無い。放置されたこれらの地域は、あの日から時は止まったままであった。 そんな所を見て回りながら僕たちは、それでも福島で、自分の街で暮らし続ける人々を訪ね、取材をした。あるおばあさんは「いつかまた家に戻って、大きなお花畑をつくりたい」と目を輝かせて言った。人気の無い町で唯一出会ったおじいさんは、僕の「何故街に戻ったのか」の問いに「生まれた場所だもの」と、畑を耕しながら迷い無く答えた。難しい状況にあっても、希望を持って日々を生きる人達の話に僕は心を打たれた。 しかし彼等は、国の取り組みや支援の話になると寂しそうに語った。「国は復興だとかいうけれど、福島はまだ全然復興していない」「オリンピックどころじゃない」「福島のことを、皆忘れてしまうのではないか」。その彼等の思いを聴いたときに、僕は国が隠している人々が存在していることに気づいた。 東日本大震災が起こってからもう8年以上の時が経過した。津波の被害を受けた東北の街は、大分元の姿を取り戻した。しかし福島にはまだ、我々が当たり前のように過ごしている普通の日常さえ遠い夢である人々がいる。国は東京オリンピックを前に、世界に東北の復興をアピールしている。聖火リレーを福島県からスタートさせ、東北全てが復興したかのように。しかし、内実はどうか。福島で取り残されている人々の訴えや思いに、耳を傾けているのか。彼等の声を直に聴いた僕にはそうは思えなかった。住宅などの支援も次々打ち切られている。国は取り残されている人々を隠そうとしてはいまいか。彼等の悩みを知った僕にはそう思えてしまう。 国が主体となってSDGsを推進する。それはすごく素晴らしいなことだと思う。しかしそれを推進し、「誰一人取り残さない社会にする」と宣言するなら、自身の手で取り残してしまっている人たちを救う責任があるはずだ。どうか自分たちが過去のこととして隠してしまっている問題にも、もう一度向き合って欲しいと思う。 そして僕自身も国任せにするのではなく、出来ることからやっていきたいと思っている。夏に取材を終えてから、秋に僕はもう一度福島に行った。取材で訪問させてもらった小中学校の運動会のボランティアに誘われたからだ。しかし僕は、ボランティアのみならず、なんと翌日の本番の徒競走やリレーに選手として出場した。大学に入ってから全く運動をしていない僕。一方で相手は警察官や消防士といったそうそうたるメンツばかりだった。しかし僕は、必死に走り何とか全て一番で走りきることができた。すると走り終わった後、周りを見ると運動会を観に来ていた町の人々はすごく盛り上がって笑顔で喜んでいた。学校の先生方が「盛り上げてくれてありがとう。来年もまた走ってくれ」と声をかけて下さった。 そういえば人が少なくなったこの町では、学校はここしか再開していない。この運動会は町民たちにとってかなりの楽しみであり、多くの人が集まると聞いていた。それもあって走るまでは、「町民たちのコミュニティにお邪魔する自分が出しゃばるのもどうなのだろう」と心配していた。しかし何の苦しみも彼等と共有できない部外者の僕が一生懸命走ることで、この人たちを、イベントを盛り上げることができた。それに気づいた時、「自分の努力でも、この人たちの力になれるかもしれない」と思った。 人間一人では、社会の問題を解決することなど出来ない。しかしきっと取り残されそうになっている人々に、肩を貸すくらいのことは出来るかも知れない。自分は福島の運動会から、そう思うようになった。そして福島のみならず、貧困や差別といった、他の分野での問題だって、同じ事が言えると思う。だとすればSDGsは、一人ひとりの心がけでも十分実現できることがあるはずだ。少なくとも自分は、そう信じたい。

◆古川 遼  (京都大学卒/来年10月よりUCLに進学予定)

私がSDGsの基本精神に関して思うことは、誰一人取り残さないために自分たちが一人でも多くの周りの人に目を向ける必要があるということである。SDGsは政府や企業だけでなく、個人で取り組む必要がある。そう考えた時に私がSDGsの基本精神を達成するためにできる事を考えてみたので書いていきたいと思う。 私は基本精神を達成するために取り残したくないと思う人は、目に見えない障害を持った方々である。ここでいう目に見えない障害とは、筆者の造語で、一見健常者に見えるような者が抱えている障害のことを指す。例えば、吃音、ADHD、感覚過敏症など多岐に渡る。このような目に見えない障害者を取り残したくないと何故思うようになったのか、具体的に何をしていくのかを述べていく。 まず私は吃音である。吃音とは、話し言葉が滑らかに出ない発話障害のひとつであり、精神障害の一つに位置付けられる。連発、難発、伸発の三つの症状があり、成人の全人口の1%が持つ障害で多くの人が障害を持つにも関わらず、原因、解決策はいまだ解明されていない。そんな吃音であるが、私自身小学校の頃から今まで様々に苦しめられている。吃音の症状として、普段はスラスラ話せるのに、一定の緊張状態に置かれた時に全く話せなくなったり、また時期によって言葉が出ないということがある。筆者も同様に普段はスラスラ話すことができるが、プレゼンや知らない人との会話になると言葉が本当に出なくなる。現在は某大手通信会社で働いているのが、重要なプレゼンの際に吃音が出てしまい、何度も練習をしたにも関わらず、ほとんど話すことができなかった。その際に上司からかけられた言葉として、もっと練習頑張ろう、ハキハキと話しなさい、というものであった。この時に私は自分が吃音であると打ち明けていなかったことへの後悔と、吃音というものが世に知られていないという事を改めて感じた。もし、上司が吃音という存在を少しでも知っていれば、かける言葉の内容は変わっていただろう。このような自分の体験を通して、このような悩みを持った障害者はとても多いように感じる。最近で言うと、感覚過敏症の方がマスクをつけることができず、周りから白い目で見られると言うニュースがあった。これもそもそも感覚過敏症という障害がある事を周りが知っていれば、もう少し違う対応、反応ができたように感じる。 このような目に見えない障害に対する社会の反応を私は変えたい。そのためにも先ほどから伝えているように、まずは知ってもらうということが大切である。私はこの文章でもそうであるが、様々なメディアを通して自他ともに目に見えない障害に対しての知識をつけていく必要があるし、障害の存在の普及に貢献していきたい。そのような普及活動と並行して、社会側が異質と感じたものをどのように受け入れていくのか?のステップを来年の10月からイギリスのUCLにて研究する予定である。 最後にまとめとして、私がこの文章を通して、伝えたかったことは二つある。一つ目はSDGsの基本精神を達成するためには、目に見える課題だけでなく、目に見えない課題を解決する必要があるという事。2つ目はそのために私ができることは、まずはこのような文章等を通して目に見えない障害の存在を知ってもらう事だ。個々人が自分の中で様々な知識をつけ、課題や周囲の人に相対することこそが、SDGsの基本精神に必要不可欠な事である。

◆宮本 浩揮 (法政大学)

コロナ禍における社会では取り残される存在がより一層明らかになってきた。例えば、現在多くの学校でオンラインでの授業が実施されているが、自宅に十分な通信環境が整っていない家庭の児童や障害を持っている児童、様々な事情で家庭内に問題がある児童などは十分にオンラインで勉強をできているとは思えない。このようにコロナウイルスの感染拡大に伴う外出自粛によって取り残される人たちが顕在化し、分断は広がっているのではないか。このコロナ禍に生きる私たちは誰もが希望を持てる社会を実現するために、「誰一人取り残さない」とはどういうことかを考え、どうしたらそれが実現できるかを模索していく必要があるだろう。  まず、私たちが「誰一人取り残さない社会」の実現のためにしなければいけないことは取り残されている人たちを知ることだ。どのような立場や環境に置かれている人が社会の中で取り残されているのか知ることなしには「誰一人取り残さない社会」の実現は不可能だ。しかし、ここで問題となってくるのは取り残されている人たちを一人では絶対に知り得ないということだ。例えば、私の小学校の同級生で知覚障害をもつ友人がいた。クラスの授業の中で知覚障害について正しい知識を知ったことで、知覚障害をもったその友人とも他の子と変わりなく接することができた。そのこと自体は非常に良い機会だったと思うが、今振り返ってみると知覚障害の級友がいることでそのことに関しては知ることができたが、他の障害のことなどを知る機会はなかった。この私の経験から言えるのは私たちが取り残されている人の存在に気づけたとしても無意識のうちにその他の取り残された存在を排除してしまったり、分断を生んでしまっているのではないかということだ。つまり、ある一定の環境の中で生活をする私たち個人の中には何らかのステレオタイプが存在する。それゆえに、自分だけで取り残されている様々な人たちを知り、「誰一人取り残さない社会」を実現するのは難しいことは明らかだ。そこで重要になってくるのが「場」と「媒体」だ。  ここで言う「場」とは様々な取り残されている存在を知り、その人たちに関する正しい知識を理解し、共有する場所や機会のことである。現在では、遠くにいる人や外出して会うことができない人ともオンラインで繋がることができる。オンライン環境の整備のための支援や障害者でもzoomなどのオンラインでの会話を気軽にできるサービスの普及が進むことによって直接会わずともオンライン上で取り残される人たちについて知る「場」ができることは重要だ。また、それと同様に教育現場も若い世代に取り残されている人たちについて知る重要な「場」である。将来社会を中心的に支えていく子どもたちが彼らの存在をしっかり認識することは「誰一人取り残さない社会」の実現に不可欠だ。  そして、「媒体」とは私たちと取り残されている人たちの中間に立ち、彼らの声なき声を届ける役割を担う存在である。例えば、そのような存在の例としてNPOやNGO、メディアが挙げられるだろう。「媒体」が取材や調査によって得た正確な情報や取り残されている人たちの現状を私たちに伝えることによって、私たちは様々な彼らの存在、現状を知ることができるだろう。「媒体」の存在によって新しい視点が生まれたり、情報の共有が円滑になる。ゆえに「媒体」の役割も「場」の存在と同様に重要だ。  つまり、私たちが「誰一人取り残さない社会」を実現するためには取り残されている存在に常に目を向けていく必要があり、そのためにはそれを知る「場」の提供と私たちと取り残されている存在の橋渡し役となる「媒体」の存在が重要になってくる。そして、この社会に暮らす全員が「誰一人取り残さない社会」の実現に向けて能動的にならなければいけない。取り残されている人たちを知ろうとし、問題解決を目指す姿勢やそのための環境を整えていくことと社会のなかで取り残されている自らの現状を何とかして伝えようとする双方向のアクションが重要なのではないだろうか。

◆岡本 卓哲 (名古屋大学大学院 博士後期課程)

私は農学を専攻する博士後期課程1年生であり、農学の立場から、どのようにしたらSDGsの基本精神「誰一人取り残さない」社会が実現できるか考え、日頃イネの研究を行っている。  先日行われたオンラインイベント「新型コロナで取り残されそうな人」での話題は、障碍者の方々の状況など、普段意識していないことばかりだった。特に、福田さんの「盲ろう者は、そもそも三密民族なのである。」との発言がとても衝撃的だった。常に様々な立場の方々の状況を考え、このようなイベントに参加するなどして積極的に情報を手に入れる大切さを改めて強く感じた。  イベントでコロナ前から問題であったと秋山さんが触れられていた「飢えの拡大」に関しても、新型コロナで取り残されそうな人として該当するのではないかと考える。例えば、アフリカは、コメの需要に対してコメ生産が追い付かず、40%程度を輸入に頼っている。そう言った食料を輸入に頼る地域において、コロナ禍で物流が滞ったために、十分に食料が手に入らない場所が出てきているようだ。この作文では、そんな「食べ物の供給」に関して、私の研究と絡めて考えていきたい。  「食べることは生きること」であり、食べ物がなくては、人は生きていけない。人々が豊かに暮らす為には、食べ物が満足にあることが必要条件だと言える。人々が豊かに暮らす為の十分条件ではないが、最も大切な基盤の一つであろう。世界には食料不足による飢餓や貧困によって、普通に享受できるはずの社会経済活動の選択肢を持てない“取り残された”人々がまだまだ多くいる。「開発」を進めることには賛否両論があり、資本主義的成長を目指すかは個人の自由である。ただ、食べ物を十分に持たない飢餓・貧困に直面している人は、選択する権利や、その権利を得るために挑戦をする機会すらも与えられない。そのような状況が現在世界の至る所で存在しているのではないか。日本でも貧困は存在するが、先進国と途上国の間の不公平さは自明だ。もし、SDGsのゴール2「飢餓をゼロに」が達成でき、みんながお腹いっぱいにご飯を食べられるようになれば、挑戦へのスタートラインを引くことが出来る。そのスタートラインに立つことができれば、他のSDGsのゴールの達成にも向かうことが可能になると信じる。  私が専攻する農学は、人類と地球の存続をはかるための学問、すなわち平和を実現するための学問と言われることもあり、この農学分野からSDGs、特にゴール2に貢献できればと考えている。私自身、幼き頃に世界の貧困問題を知り、自分に出来ることがないかを考えてきた。その中で、お米はアジア・アフリカ地域の主食であり、その安定供給の重要さを意識した。大学生になり、「イネを主食とし、食糧問題を抱えていると言われるアジア・アフリカを自分の目で見たい」との想いから、国際協力機構(JICA)主催のプログラム等で東南アジア諸国や中央アフリカに位置するカメルーンへ渡航して現場の稲作現場に訪問したり、フィリピンの国際イネ研究所(IRRI)で研究を行うなどしてきた。  これまでの海外渡航から、熱帯地域での稲作の状況を知ることができ、「現場で何が起こっているのか知り、理解する努力をし、現場の課題を解決するような研究者」になろうと志した。海外の現場訪問で学んだことの一つとして、熱帯途上国農家にとって肥料の購入費用は家計の負担となることである。特に、交通網の発達していないような地域では、肥料を手にすることさえ不可能なことも学んだ。プラネタリー・バウンダリーの視点からも、化学肥料の農業利用は、既に人間活動が持続的に使用できる限界値を超えていることが指摘されているため、化学肥料の使用量の削減は全世界で求められる。このため、現在少ない施肥または無施肥でも生産できる作物生産を達成できるような研究に取り組んでいる。  この研究により、資源投入力に乏しいアフリカなどでのイネ生産改善に貢献するのみならず、地球規模で求められる過度の資源利用から脱却した持続的農業の実現に近づくことができるだろう。そして、今回のコロナ禍のような状況が将来的にまた起こったときに、必要な食料を現地で生産することのできるような、フードセキュリティにも貢献できると考える。もちろん、いくら現地の方が必要と感じるような技術ができたとしても、普及できないと意味がないため、普及を達成するための取り組みも今後行いたい。最後になるが、SDGsの基本精神「誰一人取り残さない」社会の実現に向けて、自分自身の研究を頑張ると共に、将来それを生かすことができるように、特に普及活動に携わるような方々とのつながりを大切にしていきたい。

◆鵜飼 孝行 (神奈川大学)

このオンラインイベントでは、多種多様な方が登壇者として登場し、SDGsの観点から「取り残されている人たち」に関してのプレゼンテーションがzoomを介して行われました。自分が印象に残っているのは、国連アジア太平洋経済社会委員会(UNESCAP)社会問題担当官であり、国際的に障害インクルージョンや障がい者人権推進に関わる専門家の秋山愛子さんの話です。特に印象に残っているのは3点あります。  1点目はSDGsの意義についてです。自分は2019年の2月から約1年間、インターンでタンザニアに滞在しました。帰国後、国際協力などに対する関心が高まり、現在も大学に通いながら、上智大学の国際協力人材育成センター、公開学習センター共催の緊急人道支援講座を受講するなど、自分の知識や能力の向上に努めています。SDGsという言葉の意味などは承知していたつもりでしたが、秋山さんの「SDGsは発展途上国と先進国の両方が対象である」という話は自分にとって目から鱗でした。さらに、それぞれの登壇者が、社会的弱者を取り残さない、具体的には障がい者の人たちにフォーカスし、彼らを取り残さないというメッセージを発信していました。自分はタンザニアで村落開発や貧困問題に関わり、国際協力という分野に関心を深めてきました。その中で、自分は、日本にも障がい者をはじめ、差別を受けている人やあらゆる問題に翻弄されている人がいる、ということから意識が離れてしまっていたことに気づかされました。  2点目は、コロナ渦での外出自粛によって被害を受けている障がい者についてです。アジアでは、ロックダウンでジェンダーベースの暴力の被害者となっている女性が多くいるとのことでした。さらに、日本でも、緊急事態宣言などの影響により、介護者不在、介護必需品不足、失業、家庭内暴力などの問題が挙げられていました。自分は学生で、大学のキャンパスは閉鎖されており、zoomミーティングで大学の講義を受講しています。リモートによる話し合いの場やコミュニケーションの場も増え、さまざまなイベントに効率的に参加できるメリットもあります。しかし、こうした変化は障がい者の人たちにとって、特に視覚や聴覚が不自由な人たちにとっては、さらに壁が増えたとのことでした。緊急事態宣言や外出自粛要請は人の生命を守るために政府や自治体が行ったものですが、時としてそれ自体、そしてそれによってもたらされる変化が弊害となって、さらに困難に陥る人がいるのです。国民のための施策でありながら、そこから取り残されている人たちがいるということを忘れてはならないと感じました。  3点目は、弱者が少数派というイメージについてです。弱者というのは障がい者だけでなく、女性、高齢者、外国人、貧困を抱える人たちなども含まれ、日本において、弱者は決して少数派ではなく、多数派であるとのことでした。日本においては多数派への同調圧力があり、その多数派が正義とみなされる風潮があります。授業で先生に質問をする、先生の質問に対して人前で答えを間違えるといったことは、白い目で見られたり、嘲笑を買って肩身の狭い気持ちになったりします。こういった風潮から、「多数派は正義で強者。少数派は肩身の狭い弱者。」というイメージが根付き、多くの日本人がこうした間違った思考に陥っていると思います。恥ずかしながら、自分もこの話を聞くまでは、そのうちの一人で、自分の思考回路が、他者への配慮が欠如した固定観念にとらわれていたのだと反省させられました。  zoomミーティングで開催されたこのイベントは、取り残される人が出ないように、発話者が話したことに加え、動画に映っている人の様子や雰囲気についても要約筆記ボランティアの方々が文字化して伝えるという形式で行われました。すべての参加者が平等に参加できるための素晴らしい取り組みだといえる一方で、時間がかかりすぎてしまう、スムーズにいかない部分があったようにも感じています。それは、要約筆記がまだ一般的ではなく、登壇者の方もその対応に慣れていないという点も影響していたのではないかと思います。とはいえ、こうした課題は、イベントを重ねていく中で経験値が積まれ、さらなる成功に向かって解決されていくでしょう。こうしたトライアンドエラーや試行錯誤の中でアイデアを出し合い、前を向いて皆で進んでいくことが、「誰一人残さない」社会の実現につながっていくのだと感じています。  本イベントを通して、「誰一人残さない」とはどういうことなのか、どう対策すれば良いのか、自分たちはどうするべきなのかについて考えさせられました。自分は将来、国際協力の分野で従事したいと考えている学生です。人を助けようとするとき、自分が何をするのかではなく、何をするべきかをよく考えたうえで、実行にうつすことが重要なのだと強く感じることができた貴重な機会でした。  ありがとうございました。

◆山本 晃生 (国際基督教大学)

「社会とつながるために、生きるために、触ってなんぼ。」盲ろうの福田さんの言葉に、私はハッとさせられた。新型コロナウイルスの感染拡大により、多くの人がドアノブや電車のつり革、更にはお金などの、他人が触ったものを極力触らないようにしていると耳にする。しかし、福田さんのお話を聞き、目の見えない人々にとって、「触る」というのは、情報を得る大切な手段の一つであると学んだ。にもかかわらず、コロナ禍において、モノや人に「触る」ことは、世間から決して良いイメージを持たれていない。また、ウイルスに感染するのを避けるために呼びかけられている「ソーシャル・ディスタンス」も、盲ろうの人々には実践が難しいだろう。このようなことから考えると、現代社会はSDGsで謳われている「誰一人取り残さない」社会には程遠いと言えるのではないだろうか。  では、どのようにすれば「誰一人取り残さない」社会に近づくことができるだろうか。一つの方法は、取り残されている少数派の人々の声を政策に反映させることであると思う。最近では、確かに、社会から取り残されがちな、少数派の人々への配慮は進んでいる。例えば、新型コロナウイルス関連の各都道府県知事の会見では、手話通訳を目にすることが増えた。また、アルバイトの収入を失って生活に困窮する学生への物資の支援や金銭的な支援も行われている。このような政策は、社会から取り残される恐れがある人々に、ある程度寄り添った政策であると言えるのかもしれない。しかし、これらの政策は、政府や都道府県といった、いわば「上からのフィルター」を通して行われている政策だと言うこともできるのではないか。そこに、社会から取り残されている人々の声が本当に反映されているかには疑問が残る。また、政府や都道府県などの「上」が決めた政策で、社会的弱者の人々の声を反映していないものは、本当に大切なことを見落とす可能性があるのではないか。例えば、前述のように、目の見えない人々にとって触覚は、大切な情報源の一つであるということである。外出の際に、みんなに「できるだけモノに触らないで」と呼びかけるのではなく、目の見えない人々がモノを「触る」ことによって情報を得るということに配慮する必要があるのではないだろうか。社会的に取り残された人々にしかわからない視点や物の見方があるのではないか。そのため、「誰一人取り残さない」社会の実現には、盲ろう者や外国人労働者などの社会的に弱い立場に置かれる人々を巻き込み、彼ら、彼女らの声を直接、政策に反映させて行くことが必要となるのではないだろうか。国内のみならず、国際社会においても、迫害される少数民族や難民、貧困に苦しむ人々などの弱い立場に置かれる人々を巻き込んで政策を作っていくことが必要なのではないだろうか。  最後に、私自身のこととして、取り残される人々の苦しみを理解できる人になりたい。私は今のところ、不自由なく暮らすことができている。想像力を働かせることで、ある程度は、社会的に取り残されている人々の苦しみを想像することはできるかもしれない。しかし、私に「取り残された」という経験がない限り、取り残された人々の苦しみを完全に理解することはできないだろう。それでも、社会から取り残された人々に寄り添い、優しくし、苦しみを理解しようと努めることならできるのではないか。今後は、私にできる小さいことから始めていきたいと思う。

◆一瀬 美羽 (東京女子大学)

子ども、若者、大人、高齢者、女性、男性、健常者、障がい者、貧困層、富裕層。この世界はいくつものカテゴリで人間を分けることができる。そんな多様な社会で、「誰一人取り残さない」ことなど果たして実現可能なのだろうか。以下、今回のセミナーで実感したことを参考に、誰一人取り残さない社会を実現するための手立てを具体例を用いながら考察していこうと思う。  まず、セミナーを拝聴し、自分が普通であるのかわからなくなったというのが率直な感想である。こんなにも神経を集中させて参加するセミナーは初めてだったかも知れない。それと同時に、極めて貴重な経験をさせていただいたようにも思える。発言する際はスピードを落としたり、文節との間に間を入れたりするなど、障害者にはノーマルとされている話し方が、私にとってここまで聞き取りづらいものかと非常に驚いた。普段の生活の中でマイノリティと感じたことは殆どなかったが、自分がその立場になった途端、「取り残される」気持ちが少々わかったような気がした。「困惑、不安、孤独」といったところだろうか。たった3時間弱のセミナーでさえもこのようなネガティブな感情に陥るのだから、日々取り残されていると感じている人々がどのような状況に置かれているのか、想像に難くない。  これらの経験をふまえ、誰一人取り残されない社会とはつまり、皆が自分のことを「普通」だと思えることができる社会であると考えた。普通とは、ごくありふれたもの、それがあたりまえのことであること。それは相対的に感じられるため、周囲の人々の態度が重要になってくると考える。これを実現するには、他者に対する「当たり前」という見方をなくすことが必要となってくるのではないだろうか。「これができて当たり前」という概念は私たちがこの世に生まれついた時から存在しており、人間のカテゴライズや、また最悪の場合には差別のものさしとして利用されてきた。  そもそも、個人の能力は多様であり、得意なものもあれば当然不得意なものもある。それらを互いに理解し、補完し合うことができれば、均等に社会で活躍する機会を得ることができるのではないだろうか。先に述べた今回のセミナーの様に不都合を感じた場合、それを解消するために工夫を施せば良いのだ。福田さんの言葉をお借りすれば、「人間は工夫できる生き物」である。何も弱者が、そうでない者に合わせようと焦りを感じる必要はない。”できる者”が可能な範囲で工夫を凝らせば、互いに対等な関係で共存することができると考える。反対に、できない者ができる者に気兼ねなく助けを求めることができる社会システムを構築することも重要になってくる。  インターネットの利用を例に挙げてみよう。現在、新型コロナウイルスによって対面でのコミュニケーションが制限され、インターネットが人々の生活において大きな役割を担っているのは確かだが、従来の「人と人」のネットワークの重要性を看過してはならないと考える。身体的な理由からデジタル機器を使いこなすことができない障害者や、そもそも所持していない高齢者は多く存在しており、現に私の祖父母も一度も利用したことがないほどインターネットとは縁遠い。  世界中でNewNormalへのシフトチェンジが求められている今、デジタル化への適応が強いられているのは確かである。そのような状況下で弱者を救うためには、安心して依存できる支援の数を増やすことが必要となってくるのではないだろうか。例えば、電話等での無償のサポートや、簡易化したデジタルデバイスの配布などが挙げられるが、これらを施策として確立するには予算の確保や専門的な話し合い、そして賛同を得ることが必要となってくる。そのためには皆が弱者に対して興味を持ち、当事者意識を持つこと。そして、それぞれが可能な範囲で機会や能力を分け与えることで、相互に良い影響を及ぼしながら共に生きることができると考える。  「コロナ禍によって皆が不便と感じるようになり、全員が障害者となった今が連帯のチャンスである」と脳性まひの当事者である熊谷晋一郎さんは話す。彼が言うように、自らを少数派として捉え、弱者の置かれている状況が体験できる格好の機会が訪れたのかもしれない。今が社会的弱者への理解進化を促す時なのではないだろうか。どんな人間も「同じ地球に住む同質の集団」として認知し、社会的弱者の小さな声に耳を傾けることで、「誰一人取り残されない社会」の実現へと一歩踏み出すことができるのではないだろうか。

◆加納 舞  (東京女子大学)

「誰一人取り残さない」とは、SDGsの基本理念である。全ての人が平等に人権が保障され、豊かな生活を平和に送ることができる世界を目指している。今回、セミナーのビデオを視聴して、誰一人残さない社会を実現するために、必要なことや今後私たちができることを三つ考えた。  まず、「誰一人残さない」ための第一歩として「知る」ことが必要だと考える。当たり前のことだが、取り残されている人がいるという現状を知り、問題意識を持たなければいけない。恥ずかしながら私は、このセミナーのビデオを視聴するまで、SDGsという言葉は馴染みがなかった。ましてや、コロナ禍においてどのような人が困っているかなど考えたことがなかった。SDGsの言葉を知っていても、コロナ禍で普段と変わらず生活できている人は、そうでない人に気づく機会はほとんどない。「密を避ける」ことが当たり前だと思い、「密が必要」な人がいるということに気が付かなかった。Zoomのような遠隔コミュニケーションを新しい日常として取り入れることはメリットばかりで、何かに参加することの障壁になるなど思ってもみなかった。今回は新型コロナに関して気が付いたことだが、普段の生活の中でも、自分が当たり前だと思っていたことが誰かを取り残しているのだろう。  次に、考えて発信することだ。問題に気が付いたからと言って、突然何かを変えることはできない。しかし、自分が知ったこと、行動したことなど発信することはできる。富樫さんのように、学生でも活動している方がいることに驚き、感銘を受けた。自分が何か成し遂げたことを発信することはできなくても、自分の考えに近い情報を共有することはできる。すぐに形にならなくても、少しずつ広がって、同じ思いを持った人が大人数になれば、実現できることがあるかもしれない。 最後に、心がけること。今回、セミナーに入れない方がいたように、要約筆記に合わせてゆっくり話すことに慣れるのに時間がかかるように、意識していてもできない、その煩わしさや時間こそが今まで取り残してしまっていたという実状なのだと思う。障がい者の方だけでなく、高齢者、こども、外国人、貧困など取り残されやすい人はなにを求めているのか考え、知る努力をしていきたい。今まで当たり前だと思っていたことは当たり前ではないのかもしれないと、心に留めておくことが「誰一人取り残さない社会」へ近づくためのキーになるだろう。 このように、今回、新しいことを学び、考えることができた。「取り残される人」といっても一概に同じではない。多様性があり、求められる支援もさまざまである。よって、個人一人が何かをしたからと言って全ては解決はしない。一朝一夕にできるような簡単なことではない。しかし、意識すること、行動することで確実に「誰一人取り残さない社会」に近づいているだろう。周りを見渡す視野を持ち、今までの常識にとらわれずに積極的に行動していきたい。

◆山﨑 一葉 (東京女子大学)

zoomで行われた勉強会で取り上げられた「取り残されそうな人」について印象に残ったテーマを以下に記述する。  一つ目は地域による物資的な孤立である。物資の輸送や大規模工場での感染リスクが問題視され、その結果世界的な物資不足が起こった。  特に、医療従事者や普通の人が必要とする衛生用品に需要が集中した。その結果、アジア内では医療アクセスが40%減少し、マスクや食料までもが不足した。取り残される人の中には、新型コロナウイルスへの警戒が必要な免疫疾患を持つ人もいるだろう。これはSDGsの三つ目の目標「すべての人に健康と福祉を」が達成されていない状態である。健康を保証されない人たちは、健康の問題だけでなく、不安な気持ちを抱えているのではないか。  同じ三つ目の目標を達成していない状況は他にもある。普段、生きるために必要な支援を受けている人が介助を受けられない問題である。呼吸器が必須なのにもかかわらず手に入らない、介助なしでは動けない人々が、感染症予防のために取り残されている。どちらも健康への不安からおこる問題であり、簡単に解決することが困難であることが今回浮き彫りになったといえる。  二つ目は、失業により貧困に苦しむ問題であり、これはSDGsの一つ目の目標「貧困をなくそう」が達成されていない状況である。外国人労働者や日雇い労働者に多く、今回失業した中には貯蓄が満足にない人々が多いことも問題である。タイでは社会保険が外国人労働者に適用されず、次の仕事を見つけるまで安全に暮らすことができないかもしれない。こうした社会制度から取り残されてしまった人や、国ごとに受けられる保障が異なることが問題なのではないかと感じる。  三つ目は、アルバイトが減らされたことにより経済的に困窮する学生の問題である。これはSDGsの四つ目の目標である「質の高い教育をみんなに」が達成されていない現状である。また、収入が減ったことにより、生活費をアルバイトによって賄っていた学生、留学生は貧困に苦しんでいる。各々の経済状況によって教育をあきらめなければならない不平等さに問題があるだろう。加えて、感染拡大を防ぐため、ロックダウン下や休校により自宅学習を決定した小中学校にも、家庭環境によって教育に差が出てしまう問題がある。  この状況で取り残されている人とは、以前から不安定な生活を強いられていた人に限らない。普段なら取り残されない人々のなかにも、生活が困窮したり、教育が受けられなかったりする人が起こっている。その面で、取り残される人が増加したとはっきり言えるだろう。  勉強会を見て、SDGsの精神を調べることで、自分自身のある経験が思い起こされた。  健康と教育を不自由なく過ごすことができた自分にも「取り残される」かもしれないと感じる瞬間がある。それは、女性であるために不利益や不自由を強いられる時である。日本にいまだ残る家父長制や、給与格差は女性の経済的自立を妨げ、一般的な女性の地位をも低めている。各国と比較しても日本の男女格差は開いており、2020年のジェンダーギャップ指数において日本の順位は153か国中121位である。  とはいえ現在、大学に通うことができている自分がジェンダーギャップを感じることはないのかもしれない。しかし、例えば、就職活動をしていると、女性と男性のキャリアがいびつな形をしていたり、平均給与が異なっていたりする事実があり、まるで女性である自分の価値が低くなったように感じる。  ユネスコが公表した2012年の調査によると、世界で中等教育を受けている男子の割合は65%、女子は55%である。高等教育では、高等教育のなかで男子が多数派である場合が59%であるのに対して、女子が多数派である場合は29%と大きく差が開いているのがわかる。女性であることは、生まれながらにして決まっていて、変更できるものではないにもかかわらず、である。  このように、生まれながらにして同じスタートに立てない人を支援することは、選択できる余地を作ることであると考えた。加えて、人として生きていくうえで健康を保証されていることは、いわばスタートラインである。生活の保障なしにすべての人が活躍する社会を作ることはできないため、取り残されている人を支援することは、多くの人が平等に暮らす社会につながるだろう。  New Normalな社会を広めていくために将来取り組んでいきたいことは、取り残されているかもしれない人々を知ることである。そのためにニュースを読み、大学の授業から知識を広げ、世間の会話に耳を澄ませてみるなど手段は多い。  声が届かないほど少数派の「取り残されるかもしれない人」を見つけた時には、自分の意見を発信する勇気も必要だろう。そのために、今見えている世界をもっと広める意識を持ち続けていこうと思う。

◆岸田 和香 (英国大学院に進学予定)

私は「誰一人取り残さない社会」を実現する為には、「関心を持ち続けること」が重要であると考える。  この地球では、様々な立場・考えをもつ人々が様々に異なる国や地域で暮らしており、一筋縄では解決出来ない大きな問題が山積している。 この複雑な世界で、誰もが尊厳を保ち、それぞれの人生を自由意志で謳歌出来るようにする為には「常に弱い立場にいる人々に関心を持ち続けること」が必要なのではないだろうか。 国際協力に直接関わる少数の人々では、世界規模の問題を解決することは出来ない。しかし、私たち一人一人がもう少し視野を広げ、自分たちの周りで起きている小さなことに関心をもち、社会から取り残されやすい立場にある人々に寄り添うことで、少しずつ世界を良い方向に変えていくことが出来ると思う。 多様化・グローバル化が進んだ現代において、自分の世界以外に対して「無関心」を貫くことはもはや出来ない。日々、自分たちの生活に忙殺されてしまうが、一人一人が少しずつ他者への思いやりをもち、周りで起きていることへの興味を持ち続けることで、社会で取り残されている人々を救うことが出来るのではないか。  また、今回のコロナ感染症に伴う一連の社会現象から私が考えたことは、「全員で足並みを揃えて少しずつ前進していければ良い」ということである。コロナ感染症によって、世界規模で経済活動が停止し、それまで活発だった開発活動や近代化への急速な成長にも歯止めがかかった。コロナ感染症は私たちに甚大な影響をもたらしたが、それと同時に、社会に取り残されない人と取り残される人の分断を加速させる経済活動などの速度が急激に落ちたことで、それまでの社会の在り方を改めて見つめ直す機会に恵まれたとも言える。これを機に、「一部の人々に恩恵が偏る急速に発展する世界」から「すべての人々が共に少しずつ前に進む世界」に変えていければと考える。  最後に、私の好きな言葉に、’Everyone has a role to play in their lives (世界に生きるすべての人に役割がある)’というものがある。直接、社会に取り残される人々に寄り添う仕事をしていなくても、私たち全員が世界を構成する一員として、より良い社会のために貢献することが出来るし、それぞれに異なる役割を担っている。常にこの言葉を心に留め、弱い立場に置かれた人々に対しての関心を失わず、自分に何が出来るのかを考え続けていきたい。

◆篠原 彩音 (茨城県立竹園高等学校)

「誰一人取り残さない」というスローガンのもと、社会は、今まで目を背けていた問題にも取り組んでいます。家庭、自治体、国、地球のどの規模の問題でも、大切なのは、私たち一人一人が解決するために一丸となって努力することです。しかし、私たちは、一人一人が対等だと思っているのでしょうか。例えば、私たちは、発展途上国や貧困に苦しんでいるような立場の弱い人について話す時に、「かわいそうだから、みんなで助けないといけない」そんな意識を持っているということは全くないのでしょうか。私はその発言者が、自らを施しを与える人のように振る舞い、相手と上下関係を作ろうとしているように感じます。 日本においての大きな問題は、人々の持っているステレオタイプと理解の不足だと思います。 まず1つ目のステレオタイプとは、日本人が政府開発援助を受けているような発展途上国をどのように捉えているのかということです。「カンボジア」「アルゼンチン」など、発展途上国の名前を聞いた時に、多くの人が思いつくのは、「危ない」「こわい」などで、これらのマイナスイメージは、外国にルーツを持つ子供たちが日本で受ける陰湿ないじめや陰口などにも現れています。また、日本人は、日本語などに代表される日本文化や産業の分野での技術は独自に育まれた素晴らしいもので、他の国とは全く違うという認識を持つ人が多いと思います。しかし、自らの国をすごいと思いすぎるあまり、結果的かつ相対的に、他の国が自分たちよりも劣っているという思考まで至っている人もいます。 2つ目の人々の理解の不足とは、人々が「貧困」「大気汚染」など、大きな問題に目を向けるあまり、そ今までの自分の行動を棚に上げて、相手の問題を解決しようとすることです。 Black Lives Matterのスローガンのもと、ソーシャルネットワーク上での人種差別問題に対する盛り上がりが今なお高まっている中、先日、キンバリー・ジョーンズさんのある投稿が世界的に大きな注目を集めました。彼女はその投稿に添付した動画内で、なぜ今こんな状態になっているのかに目を向けるべきだと声を荒らげていました。彼女は、黒人は長年、白人の元で働かされ、ようやく黒人が自ら築こうとしてた富や街は白人に壊され、それでいて、彼らはいまだに機会は均等であるなどと言うなんておかしいと主張していました。全くその通りだと思います。つまり、黒人の経済的、社会的立場が弱い現状を作ったのは黒人ではなく、白人からの差別や暴力であるということです。 しかし、このような強者から弱者への物理的・心理的暴力は、人種差別問題に限るような話ではなく、世界での他の多くの問題に当てはめることができます。 例えば、コンゴ共和国でのレアメタルであるコバルトの採掘の現場では、人々がヘルメットやグローブをつけず、低賃金や児童労働、長時間の放射性物質へ身体をさらすことでの腫瘍など、劣悪な労働環境が横行しています。それを日本人や他の国が「君たちはそんな問題を抱えているんだね。」と言います。しかし、その採掘されたコバルトは、私たちの使っているスマートフォンやこれから更に市場が拡大する電気自動車に使われるリチウムイオン電池となります。結局のところ、私たちは知らずに彼らの健康を害し、時には他者を殺めながらも、彼らと接する時には、可哀想だなんだと同情したり、味方になろうとしたりしているのです。 「難民ってなんだか可哀想。」 では、その原因は誰が作ったのか。 「チョコレートを作る過程で児童虐待が起こっているなんて。」 しかし、できる限り安い値段でチョコレートを買おうと、間接的に、労働者を搾取してきたのは誰なのか。 本質的な問題の原因への理解がなくては、人々が一体となって問題の解決へと結びつけることはできません。そして、問題への理解を深め、互いに協力できる関係、つまり対等さなしにはSDGsは達成できません。そして、SDGsの17のゴールが全て達成されて初めて「誰1人取り残さない」社会が作られるでしょう。 近年、中国が途上国支援においてアフリカやアジアの国々での影響力を強め、現代の帝国主義的であると言われることがあります。しかし、本来私たちは、「先進国が発展途上国を助けてあげる」という構図を作って、新たな国同士、民族同士の上下関係や優劣を作りたいのではありません。互いに対等な関係での助け合いから、全ての人の命が尊重され、笑顔で生きれるような社会を作りたいのです。ステレオタイプや差別はその善し悪しに関わらず、全ての人の心に存在しうるものです。世界中で起こっているたくさんの問題への理解も簡単なものではありません。しかし、だからこそ、自分の中にある問題に目を向け、外の世界に飛び出すだけではなく、自分の中からも、「誰一人取り残さない」ための手助けができるのであれば、とても素敵だと思います。

残念ながら入賞とならなかった応募作品

非常に高いレベルの応募作品が多く選考が難航しました。
7名の審査員が一人でも入れ替わったら、また違う結果になったであろう僅差の審査でした。今回の審査員による選考では残念ながら入賞となりませんでしたが、その価値を判断いただきたく、許可が得られた入賞作品を掲載します。

◆上田 千寛 (東京都立町田高校)

一概に「取り残される人」と言っても、その人が取り残されてしまう原因や背景、状況は様々だ。様々であるが故に、「誰一人取り残さない」というのは本当に難しい事のように感じる。誰かを救うために何かを変えてしまえば、それによって困る誰かが生まれてしまうからだ。しかし、だからこそ私たちはこの課題にしっかり向かい合い、考え工夫し続ける意味があるのだろう。「誰一人取り残さない」を実現するためにはまず、私たち一人一人の意識から変えていく必要があると考える。私自身は今現在、取り残される人だとは感じていないが、取り残される人の気持ちになってみた事があるかと自分に問うと、あまり無かったというのが正直な答えだ。普段何気なく日常生活を送っていると、考えさせる機会はそこまで多くないのが現状である。だが、私が普段当たり前だと感じている事に対して、それが当たり前でないと感じている人も山ほどいるはずだ。例えば、私は毎日当たり前のように高校に通っている。私にとっては当たり前な日常であり、むしろ面倒臭くて行きたくないと思うことすらある。しかし、世界をみれば、学校に通いたくても通えない子供は3億300万人いると言われている。たとえ私にとって当たり前だとしても、視野を広げればそれは当たり前で無いのかもしれないと、自分を見つめ直す事も大切だ。  「学校に通いたくても通えない子供たち」について述べると、私は発展途上国における経済格差によって取り残されている、ストリートチルドレンに興味がある。3年前に趣味の海外旅行でタイの首都バンコクを訪れた事がきっかけとなった。まるで東京の都市部のように、大きなタワーマンションやショッピングモールが立ち並び、キラキラした街並みの中で、一歩路地に足を踏み入れると、そこには路上生活を送るストリートチルドレンがいたのだ。私はこの光景を目の当たりにし、発展途上国の影の部分を見たようで衝撃を受けた。私はその時から、彼らを取り残したくないと思い始めた。私は、持続的に彼らを取り残さないためには、募金などの一時的な金銭的支援のみではダメだと考える。むろん、募金や支援によって彼らのもとに少しでもお金が届けば、彼らは喜ぶだろう。しかし、それではあくまでも一時的な課題解決にしか成り得ない。彼らがストリートチルドレンから脱却し、不自由ない生活を遅れるようになるためには彼ら自身が自立出来る環境づくりが重要だ。そのためには、彼らに教育を行う必要があると考える。もちろんその上で初めは金銭的な支援も必要とされる。ストリートチルドレンは、教育にかける費用面にも問題はあるが、そもそも親も教育を受けてこなかった人が多く、教育の大切さがわかっていない。日々生き延びることに必死である為、健康状態も良くない上、生きる楽しさを知らない。そんな彼らにまず私たちは、生活の知恵や健康に関する知識、教養を教える必要があるのではないか。それこそが彼らをもう取り残さない、持続的な解決方法につながると考える。そう簡単な事ではないというのは事実だが、私はいつか実現したい。  私の経験を踏まえても、SDGs「誰一人取り残さない」を達成するためには、やはりまず個人それぞれが関心を持ち理解することが必要不可欠だ。つまり、この世界で生活をする個人一人一人が主体的に取り組み、行動する必要があると考える。その中で私が今できることとして、資源や食料を無駄にしないことや、S N S等を利用して、解決すべき問題を発信し広めていくことを、これからさらに心がけていきたい。

◆黒田 優斗 (進学準備中)

SDGsの基本精神である「誰一人取り残さない」に関して、今回の新型コロナにより見えてきた問題から今後私達が心掛けることや思った事を「情報の無認知」「既存への執着」をテーマに述べていく。  私は、今回の新型コロナ流行から見えた問題が2つある。  1つ目は、「情報の無認知」である。  新型コロナによる影響で仕事を失い家を失う人が出て来たが、家を失う事を回避するための情報の無認知がここで浮き彫りになったと考える。  なぜならば、国の制度には「住居確保給付金」という制度が元々あり、各自治体の社会福祉協議会が窓口になっている。対象になれば自治体が原則3ヶ月(最長9ヶ月)分の家賃を支払ってくれる。今回この情報の無認知により、仕事も家も失い路頭に迷うものが増え、社会から取り残される人が増えたからである。  この問題により、現在の情報社会の中で必要であるべき情報が広く広まっていない事が判明した。これを改善していくために私は、若者からお年寄りまでの幅広い年齢層に対して情報公開している、ニュース・新聞・LIEN・INSTAGRAMU・TWITTER・YUOTUBE での情報発信ツールをもっと活用し情報を得ていく事を心がけるべきだと考える。  2つ目は、「既存への執着」である。  今回の既存の定義は、働き方・学び方を指す事とする。  新型コロナの流行により、働き方が在宅勤務のリモートワークに、学び方がオンライン授業へと変化した。だが緊急事態宣言解除後全国的に既存の働き方・学び方に戻りつつある。ここが既存に執着する我々の悪いところだと考える。  なぜならば、リモートワーク・オンライン授業に慣れてきたことで、便利さや効率・生活様式に合わせた働き方・学び方が考え直されていたのに、緊急事態宣言解除後すぐに既存の働き方・学び方に戻るのはおかしいと考えたからである。  だが、既存というのは便利であり、長くその型にはまった考え方や捉え方をしていれば楽だからである。これに慣れてきてしまっているからだと考えられる。  このことから、私は既存に執着しない、考え方・捉え方をテーマに今後の生活を行う上で心掛けていくべきだと考える。  以上の2つの問題点に対する私の考え・心掛けに関して述べたが、SDGsの基本精神である「誰一人取り残さない」という考えも大切にしていき、今後日本や世界の問題に対しての捉え方を自分視点ではなく相手視点で捉える事を心掛けていきたいと考える。

◆匿名 (一橋大学)

今回ZOOM上でのイベントの様子を拝見して、誰一人取り残さない社会の難しさを知った。内容以上に、イベントの進行の様子から多くのことを学んだ。そのような社会の在り方について強い関心を持ち、普段活動されているはずの登壇者の方々でさえ、盲ろう者の方への配慮を旨としたZOOMの進行に、かなり手間取っている様子だった。具体的には、話すスピードが速すぎることが多々あったようだ。しかし、皮肉なことに、要約筆記者の方から再三指摘されたそのような「速すぎるスピード」でさえ、日本語のネイティブで視力・聴力その他に困難を抱えていない自分にとっては遅すぎた。再生速度を2倍にしてもまだ物足りないくらいであった。結果的にイベントは2時間の予定が、内容を圧縮しても3時間半もかかっていた。 これまで自分が触れてきた「社会的弱者との共生の場」は、たいてい社会的弱者側が相当の努力を重ねてマジョリティの基準に合わせていたからこそ、マジョリティの側はあまり大きな困難を感じずに「誰一人取り残さない」という理想を偉そうに掲げられていただけなのではないか、という気がしてしまった。しかし、マジョリティである側は大抵の場合、社会的弱者に対して「合わせてあげる」という態度を持ち続けるように感じる。このような状態が続く限り、誰一人取り残さない社会の実現は難しいのではないだろうか。「そろそろ盲ろう者のスピードに慣れてきましたか?」という福田さんの言葉が、重く響いた。いかに普段自分がマジョリティ側であることの利点を享受してきたか。 ここで視点を変えて、「取り残されている人をどうするか」、ではなく、「誰かを取り残している社会をどうするか」、という発想の転換をすべきではないだろうか。秋山さんの「人間社会全体がコロナから取り残されている」という見方はまさに正鵠を射ていて、今の社会の在り方を見直す契機になっているのではないか。 しかしその際に、マジョリティ側がマイノリティの状況を理解できている、という思い上がりをしてはならない。この数か月続いたステイ・ホーム状態の中で、「普段引きこもりの人が体験しているのはこういう状態で、今はマジョリティ側も彼らの日常を体験している」という論調が見られた。自粛期間が明けたらしたいことなど、「何とか楽しいことを思い描いてこの日々を乗り切りましょう」という呼びかけがなされた。しかし、引きこもりの人たちは期待を抱いて何とか明るく毎日を過ごすことはできていないかもしれない。また、この状況下において従来苦しい立場に置かれていた人が一層厳しい立場に置かれている、という現実もある。 究極的には自分以外の他者にはなれないことを十分に自覚しつつ、何とか他者の状況を理解しようと想像力を働かせる努力が求められているのではないか。 さらに、社会的弱者が案外多いことも印象的で、自分自身も若者世代という意味では社会から取り残されがちな立場にある、ということに初めて気づかされた。ある意味、何かしらの視点に基づけば全ての人は多かれ少なかれ、マイノリティ、社会的弱者に該当するのではないだろうか。そのような弱者同士が手を取り合って、それぞれの困難を共有しつつ社会の変革を志向すれば、誰一人取り残さない社会の実現は案外そう遠くないのかもしれない、と感じさせられた。 秋山さんから日本社会には「権利の主張よりまずは義務を果たすことが先」という風潮が見られるという指摘があった。自分自身は日本以外の社会に属したことがほとんどないので、これが日本特有のものであるのかはよくわからないが、そのようなマインドセットは日本の若者には根強くあるように思う。実際、意見を発しようとしても「若者が偉そうに何だ」という反発が大人社会の側から出てくる気がして、ためらう部分もある。SNS上では、様々な話題について日々激しい論争が行われていて、ほんの些細な呟きさえ時には数万の人から総バッシングを食らう。今回のイベントでも一般参加者からのフリーな意見があまり出なかったのは、そういうところに原因があるのかもしれない。 個々人を尊重し、意見を発することができるように見守ること、そして出た意見をマジョリティの圧力で叩き潰すのではなく社会全体で真剣に向き合って育てていくこと、そのようなことが今の日本には求められているのではないだろうか。 誰一人取り残さないことの実現の困難とそれを乗り越えるヒント、これらを同時に学ぶことのできるイベントであった。

◆ゼン ガリン (明治学院大学)

コロナの大騒ぎで、以前と違う生活方式に変わった。この中で、いつも弱い立場に立つ女性はどのような苦境に陥っているのか。 まず、家庭からみれば、コロナ禍で、たくさんの企業が在宅勤務を行っているので、夫と子供が家にいる時間が増えた。日本では、性別分業役割が強いので、女性は常に家事の担い手になって、今の状況で女性の負担がより重くなる。子供がうるさくすると仕事している夫の機嫌が悪くなったり、夫が当たり前のことをいうように指示を出したりすることに我慢ならない女性が少なくない。  さらに言えば、家庭はいつも安心な場所ではなくて、DV、性暴力の危険性もさえもある。コロナによって緊張が高まり、爆発することを思うと(筆者には)、このあとに離婚ラッシュが予感される。また、コロナに対する支援として、十万円の給付金が支給されるが、世帯を単位にして給付するので、世帯主からDV暴力被害を受ける女性は受け取れない恐れがある。この政策にはジェンダー不平等性が見られる。多くの学者が指摘するように政府や市場を通じた福祉サービスを充実すると同時に、「家庭に対する福祉」ではなく、個人を単位にした福祉サービスの充実が考えられる。  次は仕事の視点に立って考えれば、日本では、女性の仕事がM字型曲線であると言われている。日本の女性には大学などを卒業した直後の20代は仕事に就き、出産・育児期には辞め、子育て後に再び働く、「中断再就職型」が多いことを反映している。結婚した女性は再就職の時、非正規雇用として勤める人がたくさんいる。なぜなら、日本の職場では年功序列によって昇進を決めるのが主流だからである。コロナのせいで、非正規雇用どころか、正規雇用で勤めている人々も職を失う可能性が出てくる。この中で、独身の女性やシングルマザーという弱者がより生活しにくくなる。  また、ウイルスと闘う現場の医療従事者の7割が女性であるので、リスクに晒される可能性が高い。もちろん、医師の場合は2割と少ないが、看護師、保健師などは9割が女性である。なぜなら、女性が介護やケアのような感情労働に合う社会通念が強いからである。 中国のウイルスと闘う医療現場では、女性医療従事者が防護服を着たまま長時間の勤務をしていた。月経期間に、生理用品を頻繁に変えられないので、とても辛い状態だと想像できる。そんなことから、あるボランティア団体が彼女たちの生理健康のために、便利な生理用品を募集するイベントを実施した。このように女性の隠蔽されやすい困難を正視し、解決する必要がある。  国連女性機関は各国政府に対して、「コロナ対策が女性を取り残していないか」と問いかけ、「ジェンダーの視点に立った対策は女性のみならず社会の全ての構成員に良い結果をもたらす」と強調した。筆者はコロナ危機のもとで、とりわけ女性や子供に矛盾や困難が集中することから、日本におけるジェンダー平等意識の遅れを改めて認識した。この危機を通じて、ジェンダー不平等という問題を真剣に解決すれば、より生活しやすい日本になれる。

◆結城 由羽 (敬和学園大学)

今回のお話を聞いて、取り残される人という枠の大きさに少し驚きました。私が知っているものはごく一部であり、私の知らない多くの人を知ろうともしなかったことに悔しさを覚えています。ですので今回は、知らなかった取り残される人を知って得た想い。私自身の経験から思う「誰一人取り残さない」について記述していきたいと思います。  コロナ化の状況でまず私自身は、取り残されている人ではないと考えます。大学の始業の遅れはありつつも、Zoom等で一年生や多くの友達と画面上で繋がれていました。家に引きこもり状態ではありつつも、適度に散歩をするなど、今までの普通の生活という意味は変容してはいるものの、ある程度は普通の生活を送っていたと思います。ですが、その普通が大きく変容している人たちがいることを知り、もっとなにかできないのかと思いました。福田さんの常に3密の生活然り、海外の貧困地域などでのコロナ対策の不十分さ、多くの問題がこの時期に発生していたのだと実感しています。もちろんそれは、他人事ではなく自分事の問題であり、誰一人取り残さないために考えるべき重い問題です。  私自身の話をすれば、自然災害で被災した現場で現地活動をさせてもらっている関係などで、このコロナの状況で自然災害が起きた場合どう避難するかに関心があります。起きてほしいものではないですが、もし災害が起きた場合3密を避けながらどこにどう逃げるか、どのように避難生活を清潔に健康に過ごすかなども考えるべき問題だと思います。また、避難した後、コロナやそのストレスで亡くなってしまう二次災害も避けなければいけません。私の大学の体育館などは避難所には指定されていません。ですが、学生のいる平日に災害が起きれば、帰ることもままならないですし、多くの市民も避難してくるのではないのでしょうか。そのなかで我々は誰一人も取り残さないことはできるのでしょうか。それだけの技術や行動力はあるのでしょうか。悲しいかな、できるとは思いません。熊本学園大学がすべての人を受け入れたように、私の大学もそうでありたいのです。  もう一つお話をすれば、このコロナ化の状況で多くのものを得ることもできました。先に書いたZoom等でのつながりは、相当な精神的な助けになったと同時に、多くの出会いをもたらしました。直接に会うことはできずとも多くの方とお話をする機会がありました。大学においては、仲の良い教授の1年生、2年生のゼミなどを中心に、春休みにZoomでのコミュニケーションの機会をいただき、自粛中は会えなかった人たちに会った時の感動はとてつもないものでした。そして多くの大人にもリモートでのイベントで出会えました。うれしい限りです。  また、新潟県内大学生にお米と手紙を贈るプロジェクト(イナカレッジ)にも助けてもらい、家の中でも楽しくおいしく生活ができていました。その後も、コロナで作業ができず影響を受けたルレクチェ農家さんのお手伝いに参加したり、そこでできた他大学生とのつながりで、ほたる鑑賞などもさせていただきました。そこには1年生と一緒に行くなど、コロナで途絶えた友達づくりに少しは手助けできたかなと思います。  もとにもどり大きな話をすれば、福田さんや海外での状況を変えようとしたら、多くの意思がなければ動きません。だからといって必ずしもできないとは限りませんが、私一人にできること、助けられることは、両手を広げて届く範囲でしかないのです。 簡単にまとめてしまいすが、政府にはできない、助けられない小さな枠を、一人ひとりが手助けし、それをつないでいくことで、取り残される人が少なくなるのではないのでしょうか。私たちの多くは、リモートで交流ができることをどこかでは知ってはいましたが、しようとはしてきませんでした。コロナで直接の接触が厳しくなった中ではありますが、リモートでの交流は大いに活躍すると思います。たとえば、不登校(この言葉は嫌いではありますが)の子たちに大人や大学生と関わる機会を提供できるのではないのでしょうか。新しい普通を受け入れ、使いこなすことができれば、コロナ関係なしに誰一人取り残さない世界に一歩近づけると思います。 最後に不粋ではありますが、賞をもらえた際には、現在、大学で友達や友達の友達に手伝ってもらいながら、サツマイモなどを育てていますので、それを使った大学芋や焼き芋を食べる場をつくり、コロナで友達づくりが大変だった1年生に出会いの場をつくるとともに、「学年」「他大学」関係なく、つながることができるための場づくりの資金にさせていただきたいと思います。 長くはなりましたが、貴重な情報を知れたことに感謝申し上げます。ありがとうございました。みんなで頑張りましょう。

◆三宅 佑 (横浜国立大学大学院)

私が心がけていることは誰かに何かをする時に何か「してあげる」という気持ちを持たないことだ。こう心がけているのも、これまでに出会ってきた人たちへ感じた部分が大きい。私は現在大学院で途上国における移動制約者に関する研究をしている。途上国と聞けば一般的には途上の国であり比較すると相対的に先進国よりも“劣っている”と表現される、ないしそういった感情を持つ人も少なくないだろう。言葉には出さないものの内側の根源たる感情には何かを何かと比較してそれよりも下、それよりも上、と決めつけている。一方で、途上国と呼ばれる国に対して支援の輪やODAなど援助などが今や国際的に広がっている。この広がりは私自身、何も否定するつもりもなければ活動にご尽力されている人には敬意を払いたい。今まではネットもつながらなかったような国でみんなの生活が豊かになるような活動というのはとても素晴らしいことであると感じる。しかしながら、私はこの上述した生活の豊かさについて、研究でも、また、旅行で様々な国に訪れたときにでさえ、疑問に感じることがある。 この疑問の例として私の研究対象地でもあるラオスという国を取り上げたい。ラオスも国連の定義に従うと後発発展途上国に分類され、様々な国が支援を行っている。私が研究している移動制約者に対する支援に関してもラオスの首都ビエンチャンという都市において既存の公共交通の不便さから脱却するために先進国が先進的な乗り物(専門的にはBRTと呼ばれる連節バスで専用道路があり定時性/速達性に優れる乗り物)が導入されようとしている。このような動きは東南アジアを中心としていくつかの都市でもあり、現在はラオスで、という流れになっている。 この点に関して聞こえはものすごく良い。ビエンチャンに住んでいる人たちの移動を先進的な乗り物で置き換えることで人々の動きが変わって豊かさが向上する、ということだ。しかしこの一連の説明を聞けばなるほど、いい乗り物を入れようとしている、となるわけだが、本当にそうなのだろうかと思い、今まさに研究で明らかにしようとしている。なぜならこういった議論が「これからのことや将来のビジョン」しか考えられていないからだ。あらゆるプロジェクトを見ても現状の問題点から起点を起こしており、それより以前の何故このような状態になっているのか、今ここに住んでいる人たちは現状を見てどう評価しているのだろうか、という部分について考えられていないと感じることが多い。 支援が進んでいることももしかしたら、「先進国の眼」から見ているからこそ直さなくてはいけないところ、いわゆる無駄なところとなってしまう部分がたくさんある。これは最初に書いた「してあげる」精神に近いと感じる。心のどこかで「きっと自分たちよりも不便に感じている。感じているに違いない。」と思っているから、先進的なものを導入してあげることが、現地の人の生活が豊かになることになり、さらにそれは素晴らしいこと、と考えているのではないだろうか。でも本当にそうなのだろうか? 事実、ラオスにおいてトゥクトゥクと呼ばれる地域に根付いた乗り物があるが、これはこれまでの支援の話を踏襲すると無駄な公共交通であり、なくすもの、となっている。しかしながら利用者である市民はそれを生活の足として利用していて、実際の現地を歩いてみると決して無駄な公共交通ではなく、なくすものでもない。 今一度書くが、これは現在ODAなどで様々な国でご尽力されている方々に対し否定するものでは一切ない。 これはマインドの問題である。我々先進国と呼ばれる国の人たちが歩んできたもの、そして今ある産物がすべて正解であり、それを途上国と呼ばれる国に導入することが100%現地の生活を豊かにするという気持ちが少なからずあることに対する警鐘である。 一概には言えないが、取り残さないと感じている時点で何か「してあげる」という気持ちになっているのではないだろうか。 今回の感想文の核でもある、「誰一人残さない」、これは本当に大事だと思う。しかしながらこれまで述べてきたようにこの気持ちを同義で「だから〇〇してあげる」としてはいけないと思う。一人一人のマインドの中にそういった細かくも大事な側面をしっかりと議論し考えることがこれからは大事なのではないだろうか。 以上が今回誰一人残さないという文章を見て、私が動画を見て思った感想であり、常日頃気を付けていることである。

◆中林 優梨 (立教大学)

「誰一人取り残さない社会」の実現はとても重要だと考える。 普通に学校に通い、普通に就職して働く。普通に遊び、普通にオンラインツールを使用する。私は今までこれらのことは当たり前だと思っていた。しかし、障害者や貧困に苦しむ人々、高齢者など弱者とされる人々にとってはどうなのか。きっと私が想像もしないような不便さを抱えることだろう。自分にとっての当たり前は他人には通用しないのだ。「障害をもっているから」とか「お金がないから」などという理由で仕方ないと片付けてしまうのはとても危険だ。問題を棚上げして、見えにくくするだけなのではないか。「自己責任」という言葉で処理すると、物事の本質を見落とす可能性があると思う。  オンラインイベント「新型コロナで取り残されそうな人」の動画を視聴して印象に残った言葉がある。それは「弱者は少数でない」という言葉だ。心に深く突き刺さった。弱者というと少数だというイメージが私の中にはあった。しかし、そうではないことに気付かされた。そして弱者は世の中に多く存在して、誰でもそうなる可能性をもっていると感じた。彼らが生きやすい社会をつくることはすべての人に良い影響を与えるはずだ。  社会的弱者と呼ばれる人々の中にも様々な人がいて、階層がある。例えば障害者では身体障害か知的障害か精神障害に分かれており、また軽度か重度かという違いもある。人によってそれぞれ状況は違い、一括りにはできない。世の中には非常に多種多様な人々が存在しているということを念頭におくことが大事だ。  自分なりに考えてみた結果、まず知るということが大事だと思う。知らなければ何も始まらない。コロナ禍でオンライン化が進んでも、オンラインツールを使用するのが困難な人がいる。多くの人がマスクをすることで、耳の不自由な方が相手の唇の動きを読み取れない。このような問題は新型コロナウイルスの感染拡大とともに顕在化した。今までもあったはずだが、影に隠れて見えなかった。現在はコロナ禍で大変苦しいが、様々な問題に目を向けるきっかけになったのではないか。これまで私は気に留めたことはなかったが、コロナ禍によって物事の一面しか捉えていなかったことに気づき、反省した。見落としてしまうのがあるので多面的な物の見方をできるように心がけていく。  「誰一人取り残さない社会」の実現に向けて自身にできることは何だろうか。自分が不便さや生きづらさを感じなくても他の人にとってはどうなのか。そしてそそのような問題に直面して困っている方々が自分の周りにいないか。これらのことを考えていきたい。もしかしたら自分の隣に弱い立場の人はいるかもしれない。またテレビやインターネット、新聞を通して知った社会の問題や自分が思うことについて家族や友人と共有していきたい。他人と話すことでより視野を広げることができ、また人の意見を聞く機会にもなる。新たな発見があったり、自分の言葉が相手に何かを与えたりすることができるかもしれない。身近な人に話してみるということが、社会問題に焦点を当てることにつながると思う。実際に自分の頭で考えてみることから始めていきたい。私はそれが、「誰一人取り残さない社会」の実現の第一歩になると信じている。

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